Issue 22

国民の名において:タイにおけるヘルス・ガバナンスの魔術と謎

2014年の9月、近年の軍事クーデターの頭首であるプラユット(Prayuth)司令官は、政府のハイレベル会合において、彼が軍事支配の反対勢力による呪術攻撃の犠牲者であった事を公表した。地元紙の報道によると、彼は喉と首の痛みを「黒魔術」、sayasaatのせいにしたものの、会合の出席者たちは心配無用、彼の政権を呪った者達には呪いのお返しをしてあるのだという。 著者はタイの国家機関で、2011年から民族学のフィールドワークを行ってきたが、これらの機関の保険専門家達が示唆したところによると、メディアが取り上げるプラユット司令官の呪いと呪い返しは疑わしいものであり、政治における呪詛がタイのメディアで頻繁に取り沙汰されようとも、政治的領域内にsayasaatが実際に存在する場はないという事だ。だが、これは全ての呪術が一様に否定された事を意味するのではなかった。この機関の専門家の一人、キム(Kim)は、次のように述べた。「sayasaatとは、暴力や貪欲の事です。騙されやすい者(ngom-ngai)と無学な者だけが、これによって惑わされるのです」。だが、また同時に彼女は、本当に「超常的な力を備えた者たちも中にはいる」と打ち明けた。もう一つのバーラミー(barami)という言葉に言及し、キムは王族や神々、僧侶やブッダは皆、あらゆる知の源泉にある者たちの力、バーラミーの宝庫なのだと主張した。 タイ学の研究者たちは大抵、バーラミーを名声、カリスマ、あるいは宇宙的力と翻訳する(Gray 1986, Johnson 2013, Jory 2002,参照)が、キムは単にこれを英語で「偉大さ」と表現した。それは超人的な力であり、宇宙の法たるダルマ(dharma)に適った行為を行う者、あるいは、これを制定する者たちが備えた力である。上座部仏教の伝統では、相当な量のバーラミーを持ち合わせた国王は、人民のみならず、病気や降雨、農業生産にまで影響を及ぼすのであるが、これは彼から放たれた神授の力が、その周囲の存在へと降り注ぐためである(Gray 1986:236)。偉大さとはすなわち、人間たちの作った法律とダルマとの間を縫合する神聖王たちの能力を指すのである。彼らは政治的に考案された善と、絶対的な「天来の」善とを、正当な統治という世俗の為政権の下で結びつけるのだ。 ここでは、タイ政治における魔術的思考の局面に目を向ける事で、これをオカルト染みたものとして非難するのではなく、超越的真理の源に立脚したタイ国家機関の政治否定が、タイを越えた諸状況といかに関連しているかを示す事にする。 キムはしばしば、日常生活の中にいかに国王の偉大さが窺われるかという事を説明してくれた。彼女は西洋諸国、特にアメリカにおける進行した資本主義の破壊的影響を指摘しつつ、タイが比較的健闘している事を、国王が介在しているためであると主張した。 「我が王は、知足の観念を我々に与えて下さった。陛下の足るを知るという哲学は、西洋人の尻を追う事を(tam kon farang)やめるよう教えて下さった。それは私たちに、自らの仏教的伝統を敬う事、そして、新しいiPhoneを欲しがる事、都会の人々の暮らしを、隣人の持ち物を欲しがる事が、苦しみしかもたらさぬ事を覚えておくよう教えています。彼は西洋社会を侵す社会悪の苦しみから我々を救って下さったのです。ファランたち(Farangs)は、物事を経済的な合理性の観点からしか考えておらず、何が道徳や自然、精神的な理に適うかという事は気にかけていないのです」と彼女は言った。 西洋人の事をファランと呼ぶキムが繰り返す、王政主義者に共通の見解は、しばしば単に「父」と呼ばれるプミポン国王が、国内外の諸勢力と闘い、この国を破壊的な資本主義の行き過ぎから遠ざけるべく、マインドフルな消費主義の価値観を教えてくれたというものだ。彼女が誇らしげに支持したタイ保健当局高官達の主張は、国王の「足るを知る経済哲学(Sufficiency Economy Philosophy:SEP)」を、WHOの健康志向ガバナンスのモデルに着想を与えたオリジナル概念と位置付けるものだ。 WHOのヘルス・ガバナンスの認識が、同概念に対するタイ人の認識の仏教的枠組みから袂を分かつ一方、両者はいずれも、経済的・政治的利益を、根本的には環境や生物学上のプロセスによって制限されるものとして考え直すことを促している。この二つのモデルは、経済的・政治的権力をめぐる国際競争にけん引される諸政府が、幸福や福利に立ちはだかる諸状況に、遅かれ早かれ、答えを出さねばならぬ事を論じている。両者が提示する「正しい」ガバナンスの形は、政策決定のプロセスにおいて、自然や生物学上の結果をも考慮する事のできるテクノクラートたちを中心としたものである。 実に、WHOの言う「健全な政策(healthy policy)」を策定するというSEPとWHOの観念の類似性は、先の2006年のタイにおけるクーデターの礎となっていた。当時のタイ暫定軍事政権の首相、スラユット・チュラーノン(Surayud Chulanot)は、キムのような保健専門家たちをその政治改革の最前線、あるいは中心に配し、WHOのヘルス・ガバナンス構想を国王のSEPと共に新憲法の中に記すまでとなった。 キムの機関のような国家機関の台頭は、スラユット軍事政府が導入した、いわゆる「モラル転換(moral turn)」に伴って生じたものである。選出され、自身を国家のCEOと称したタクシン・チナワット首相に対し、スラユット暫定軍事政権は、環境や社会、健康に対するタクシン統治の負の成果を強調し、これを利益第一の統治が人間の貪欲のあるべき限界を踏み超えた証とした。国王の承認を以て、自らを国家の健康の守護者に任じた後、暫定軍事政権はクーデターをこの貪欲に対する「必要悪」として正当化した。彼らは、タクシンが経済を優先させ、物事の本質や真理であるダルマを無視したために、宇宙の法や秩序の礎となるこの真理に対する彼の無知のために、国家を環境悪化や病気、社会的不和から守る事ができなかったと論じている。 国家保健当局のもう一人の専門家であるトム(Tom)は、スラユットの見解の支持と、2011年に国が民政回帰した後のタイ民主主義に対する疑念を表明した。彼は「タイはまだ準備ができていない」と言い、民主主義は西洋では機能しても、タイの現状においては幻想でしかなかったと述べた。トムによると、民衆は「知」を欠き、利己的な政治家達が人々を騙し、自分たちに投票させる事に無防備なのであった。唯一「真っ当な人々」、ここでは知を備えた人と解釈される健全な人々、宇宙の法に適う「真っ当で」、健全な結果を導く決断を下せる人々だけが、タイ国家の自信を回復させられるのだ。「真っ当な人々」とは、つまり、彼らのような保健専門家たちの事である。 WHOが「権能や権限がもはや政府内に集中する事のない知識社会」を標榜したことを受け(Kickbusch and Gleicher 2012: vi)、ここに紹介したトムやキムのような国家の保健職員達は、政治的利益の獲得に直接関与せぬ者達だけが、公益のための政策作りを行うことができると主張している。国王のSEPとWHOのヘルス・ガバナンスの両概念が、保健専門家達に自らが中立的で客観的な個人であり、国民の名において介入する能力を持つ者との幻想を抱かせているのだ。 ここで、我々が手にしている、初めはテクノクラシーの典型的なモデルとも思えたポスト政治的な環境は、ふさわしい政治空間を、健康測定基準や健康管理に置きかえるものである。だが、冒頭で示唆したように、キムの統治概念にはもう一つの側面、バーラミーの神秘的な力に依存した側面が存在する。バーラミーは専門知識とは違って、習得したり、学習したりする事のできぬものである。それは特定の人々が生まれつき備えたダルマを定める能力の事である。いわば、専門家達とは、バーラミーを識別できると主張する者達、あるいは、バーラミーによって識別された者達という事になる。すなわち、これらの専門家達によって想定されたテクノクラシーとは、それぞれの様々なレベルの専門家たちが、前国王の宇宙的な力と交信するというものであり、その国王自身は、最高位の専門家の頭首と位置づけられる。教養あるタイ人たちとって、彼らの知識とバーラミーとの最も顕著な結びつきの縮図は、彼らの壁にかけられた写真である。 国王が全ての高等学位の授与を行っていた事から(この任務は後に王族メンバーに委譲された)、学位授与式は、専門分野課程の修了証明と、関係者達から非常に由々しく受け止められる各学位取得者への王命授与という、二重の機能を果たしている。この写真の中に永劫に記録されているのは、手を伸ばし、高座の人物から学位を受ける彼ら自身の姿である。この臣下と高壇上の君主との間に興味深い絆が生じる。卒業証書が両者をつなぐこの瞬間、知識を求める者と真理の源にある者との隔たりを縫合する絆が生じるのだ。 バーラミーの神秘的な力が、政治をタイに適応させるメカニズムの潤滑剤となっている点について、ポスト政治思想家たちに倣い(cf. Badiou 2008; Rancière […]

Issue 22

土地と王権:国王崇拝、精霊信仰と地理的身体

メコン川の河岸で、焼き豚をつまみながら、カイ(Kai)と私はナーガ(phaya nak…神話上の水龍)や、その他の守護精霊の話をしていた。夕食に同席していた数人が、おかわりの肉をよそおうと席を立つと、カイは熱を発するバーベキューの焼き網越しにこちらへ身を乗り出してきた。「一つ、(タイの)(プーミポン・アドゥンヤデート)国王が一度も訪れたことのない県があります。それがどこだか、なぜ彼がそこに一度も行った事がないのか、当ててみてください」。 私は一瞬考えた。彼女が何を言わんとしているのか、なぜまた急にそのような事を言い出したのか、不思議に思った。反体制的な南部諸県の事を言っているのだろうか?そこでの長期にわたる反乱や、反感を抱いたムスリムの多数派が、国王の訪問を危険にしているというのだろうか?あるいは、東北の国境県での1970年代の共産党の反乱が、国王の訪問を取りやめさせたのであろうか?だがそもそも、なぜナーガについて話していた時に、国王の話を持ち出してきたのだろう?「ヤラー(Yala)」、と私はあてずっぽうに一つの南部の県名を挙げた。 カイは微笑んだ。「ムックダーハーン(Mukdahan)」と彼女は言った。メコン川沿いの近隣県である。「彼は訪問できないのです。守護精霊がそれを許さないからです。精霊は、ただ一人の君主(chao)のみが、ムックダーハーンに存在できると言い、その他のどのような王であれ、その地に立ち入る事を禁じているのです。」 カイがここで言っているのは、Mungmeuang王という、ムックダーハーンの街(ひいては県)の守護精霊の事である。ここでは、Mungmeuangの称号の「chao fa」を「王」と訳しておくが、これはシャンやラーンナーの歴史上の指導者達によくみられる称号で、「王子」と訳される事もある。彼がその一部を成すこの県の守護精霊信仰には、高貴なニ姉妹(the Two Noble Sisters /chao mae song nang)も含まれ、メコン地域全域の中心都市には、これと同様の存在がある(このような守護精霊信仰について、より詳しくはHolt 2009, Rhum 1994, Tambiah 1975を参照)。 私はカイの「ただ一人の君主のみが存在できる」という発言に興味をそそられた。これは東北部のタイ王権に対する挑戦とも受け取れるが、ここではこれがそれ以外の事、すなわち、王と精霊の権限の捉え方の違いを示すものである事を論じる。カイの精霊信仰とタイ王室との関連付けを見てみれば、タイにおける王権が、王位にまつわる民間の宗教的実践の延長として、また政治的支配の一体制として見られている事に間違いはないだろう(cf. McCargo 2005)。私の主張は、守護精霊の崇拝が、君主主義の実践に影響を及ぼし、またこれが転じて、王室崇拝の新たな形が地域の精霊崇拝に影響を与えているという事だ。この議論はこの場で論じ尽くせるものではないが、ここで(当時の)現国王プミポンと守護精霊Mungmeuangとの対立による例を一つ挙げておこう。 どの程度の神話が、あるいは、どの程度の現実的政治が、タイの君主制度を動かしているのかという事は、長年、どっちつかずの議論となっている(McCargo 2005, Jackson 2010, Gray 1986)。カイの発言は決然と前者に落ち着くものであり、彼女が王室の権威をchaoであると難詰するのも、全く同じ理論による。タイの国王崇拝がラーマ9世を菩薩と掲げる(Gray 1992:452)のに対し、カイは国王を別の形で、アニミストの君主として示し、その権限を全宇宙には及ばぬものの、地理的境界で定められた領域には及ぶとした。 私とカイが論じていた意味での、chaoとは、秘められた力を示す言葉である。もし、私がある特定の物のchaoであると言うなら、それはその物が私の意思に従うという意味であり、それは私が車(chao khong rot)や、政体(chao meuang-守護精霊)、あるいは天のもの(chao fa-王子)と言おうが同じである。それは一度に超自然的な神々やブッダ、国王、あるいは、より日常的には所有権を示す言葉である。すなわちchaoは、主権を明確に述べるものなのだ。配下の人間や物の所有を通じ、彼らはそれを繁栄と幸運に導き、確実に行動や存在を発展させる(charoen)(Johnson 2014参照)。 この発展の呪法は、長らく東南アジア諸国の国家儀礼の一部となってきた。結局のところ、ここは「劇場国家」の地(Geertz […]

Issue 22

“Raya Kita”:タイ南部のマレー系ムスリムと国王

2011年に子供の日のお祭りが、ヤラー県ラーマン郡(the Raman district)のLa Meng校で開催された。このお祭りの様々な催しには、ゲームや出しもの、くじ引き、屋台、景品や表彰式などがあった。いくつかの国家機関や軍部から送られた「山のような贈り物」に加え、その年のお祭りを特別にしていたのは、生徒たちの“Rayo Kito”(あるいは、マレー語の標準語では“Raya Kita”、意味は「我らが王」)の合唱会であった。この歌は、国王が臣下たちのために、いかに献身的にたゆまぬ努力を行ってきたか、またそれに応じて、臣下たちがいかに彼を敬愛してきたかという事を歌ったものである。この歌を子供の日のお祭りに歌う事で伝えようとしているメッセージは、マレー系ムスリムの生徒たちも、この国の他の者達と同じように国王に感謝し、彼を愛しており、その事に彼らの民族や宗教の違いは関係ないという事だ。 Busaという5年生の子供の父親は次のように述べた。子供の日のお祭りは、今なお続く騒乱が2004年に勃発して以来、国家機関から多くの支援を受けるようになったが、国家から厳重に監視されるようにもなった。兵士たちがAPC(装甲車)や軍のピックアップトラックでやって来たのは、単にプレゼントやアイスクリームを渡すためだけではなく、その催しが防衛方針に沿うものであるかどうかを確認するためでもある。生徒たちがお返しに“Rayo Kito”を歌ったのは、彼らが国王と国を愛し、これに忠実である事を、国家の要請通りに示すためであった。そこで彼が続けて言うには、この出しものは額面通りに受け止められぬものであり、学生たちの中には、国王の事を歌の通りに尊敬する者たちがいたとしても、他の者たちは歌詞など全く意識しておらず、歌えと言われたから歌ったまでなのであった。 マレー人ラジャ La Mengの住民たちは、マレー人ラジャ(あるいはRaya)を、カリスマを持った無敵の人物と見ている。彼らの間に膾炙する一つの物語では、あるラジャが森の中を従者と共に旅していた時、一頭の象に出くわし、これに攻撃を仕掛けられた。ラジャは力を籠め、素手のままでこの象を打ち倒したのである。この物語が広く流布し、ラジャを手強い人物と印象付けた。また、ラジャたちは超自然的な存在と関係している事から、守らなくてはならない幾つかの食事規定がある。彼らが食べられないものは、筍と数種類の魚であり、これらを口にすると彼らの力は消えてしまう。また、彼らがカリスマ性を持つと同時に無敵である事は、臣下たちに愛と恐れを抱かせる。 マレー文化専門家のMengは、住民たちがラジャに対して相反する感情を抱いていると言う。村人たちが好感を抱いているのはRamanの支配者たち、中でもTok Niであり、彼は村の設立に重要な役割を果たした事で知られている。村人たちが祖霊やその他の精霊の儀式を行う際は、必ずRamanの支配者達に敬意が表される。だが、彼らの先祖は数名のRamanの支配者達を、その残忍さゆえに恐れていたのである。一つの物語によると、Raya Sueyongという、ケダ州を逃れ、Ramanの支配者の娘と結婚した者は、常に料理人たちに命じ、料理を作る際に彼の何人かの臣下の肉を入れさせていたという事だ。また別の物語によると、あるRamanの支配者は、彼に贈られたジャックフルーツの一部が欠けている事に気が付き、兵士たちに誰がそれを取ったのかと尋ねた。ある妊婦が、つわりのためにそれを食べた事を知った後、彼は兵士達に彼女の腹を裂いてジャックフルーツを取り出すよう命じた。また同じ様に、彼はある側室が王宮からこっそりと抜け出していた事を知ると、彼女の脚を切断させたのであった。 Mengは、マレー人臣民達のマレー人支配者に対する恐れが、シャム人の国王達にまで拡大されたのだと付け加えた。彼は次のように言った。「マレー人臣民達がシャム人の国王達を恐れた理由は、これらの王達が遠方に住み、彼らが一度も王達を見た事が無かったためでもある。彼らは王がどのような者達であるのかを知らなかったのだ。さらには、あるシャム人の王が、以前この地域にKhun Phanを送ってマレー人盗賊の成敗に当たらせた事があり、この事が地元のマレー人達にシャム人の国王をより一層恐れさせる事となった」。Mengの話が正しいとすると、疑問は、なぜ現代のマレー人達が、タイ国王、とりわけプミポン国王を愛しているのか、という事だ。 タイ国王 シャム国境が定められるや否や、その支配層エリートたちが没頭した事は、領内の異なる民族や宗教の人々を結びつける方法を見い出す事であった。これが極めて重要であったのは、フランス人達が民族を口実に、ラオ族やクメール族を仏領インドシナに属すると主張し、その支配を拡大させていたためである。そのような民族理論に直面し、ラーマ五世とその顧問達は、シャム国内に住む人間は、一定の基準、とりわけ、国王に忠実であるという基準を満たす限り、タイ国家に属するものとの考えを示した。ラーマ五世の「包括的」国家建設計画は、ラーマ六世から、ラーマ七世、ラーマ八世の治世の間、国の政変によって中断される事となったが、ラーマ九世、すなわちプミポン国王の治世に再開される事となった。 プミポン国王は、あらゆる民族・宗教の違いを超越した存在と称されていた。彼は一仏教徒でありながら、憲法上はイスラム教をも含む諸宗教の擁護者なのであった。この結果、イスラム教徒が国家イデオロギーの「宗教的」範疇への適合を、後者が仏教と強く結びついている事から困難に感じていても、「国王」の範疇においては、支持と保護を見い出すのである。同様に、彼は一タイ民族でありながらも憲法上は国家元首であったし、ごく最近は祖国の父として知られ、その慈悲は民族によらず、全市民に注がれるものとされていた。マレー民族は、国家イデオロギーの「国民」の範疇への適合を、後者のタイ民族との結びつき上、困難に感じていても、「国王」の範疇には、同じく支持と保護を見い出すのである。したがってこの範疇は、マレー系ムスリムの人々がLa Meng住民の事例のような民族的・宗教的差別で悪評高い仏教国家、タイの領内に住む事を可能としているものである。 Mengは、マレー人ラジャに馴染みがあった事に加え、住民達がプミポン国王を難無く尊敬する事ができた理由には、彼に対する住民達の認識の仕方が関係していたはずだと言った。一概に、住民たちはプミポン国王に対して無関心であったが、彼の支配下で虐げられているとは感じていなかった。彼らは国家当局、特に公安当局を嫌っていたかもしれないが、彼らがそのような当局、あるいは政府を、国王に結びつける事はなかった。Kak Dahは、国家支援を受ける数多くの団体の一員であるが、彼女は国王が民族や宗教に関して差別的であるとは思わなかったが、特定の国家当局は差別的だと感じていたと主張した。彼女はこれに加え、次のように言った。「タイ人だけが国王を愛しているのではありません。マレー人も国王を愛しています」。6年生のAsrohは、彼が国王に対して全く問題を感じていない理由を次のように主張した。「国王は僕らマレー人に良くして下さる。イスラム教徒にも良くして下さる」。また住民たちの中には、数名の王族メンバーに関する批評やうわさ話をした者はいても、プミポン国王に対する嫌悪を私の前、あるいは人前で口にした者は一人もいなかった。彼らの愛はさておき、プミポン国王を神のような人物として神秘化する事は、住民たちが答えるべき神学的、宇宙論的疑問を投げかけている。 「我々はミスター・キングを愛している」 ある日、我々が道端の東屋に腰をかけてお喋りをしていた時、私はKak Dahに、式典用の大皿に刻まれた“เรารักนายหลวง”(Rao Rak Nay Luang、我々は国王を愛している」)の文中の“เรา” (Rao、我々)という語が何を意味するものであるかと尋ねた。「マレー人の事です」と彼女は言った。そこで私は彼女に、一見したところ、主にタイ民族のために考案されたような文章を用いる事に不快感はなかったのかと尋ねてみた。すると、彼女は「いいえ、マレー人が国王を愛したって問題はありません」と言った。そこで、式典用の大皿準備を手伝ったKak Mohという人にKak Dahと同意見かと尋ねてみると、彼女はそうだと答えた。彼女は「タイに住んでいるのだから、私たちもタイ人です」、と付け加えた。この姿勢は、その東屋にいた他の人々にも分かち合われた。 “เรา” (Rao)という語の意味は明快であるが、“นายหลวง” (Nay Luang)という言葉は違う。“นายหลวง” […]

Issue 22

クリスマスの服喪:プミポン亡き後のタイにおけるカトリック信仰

バンコク中心街のHoly Mercy教区における先日のクリスマスは、タイ・カトリック教徒達がかつて祝った、どのクリスマスにも似つかぬものであった。至る所に出ていた沢山のクリスマス飾りの代わりに教会を覆っていたのは、厳粛な白黒弔旗であった。通常なら、人目に付く教会の正面玄関に飾られ、燦々たる喜びの象徴となるクリスマスツリーは、ひっそりとした庭の片隅に押しやられ、外から見える様子もなかった。クリスマスイブには黒装束の人々が、伝統的な真夜中のミサへ無言でやって来て、妙に用心深い様子で喜びと悲しみの間をとったような表情をしていた。それは喪中のクリスマスなのであった。 人々に敬愛されたタイのプミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ九世)が、2016年10月13日に亡くなった事は、この教会の敬虔で、ほとんどが王党派である都市中産階級のタイ華人(Sino-Thai)会員達をショック状態と悲しみ、困惑に陥れた。これはあまりにも甚だしく、多くの者達はキリスト生誕祭を宗教として、神格化された国王の死のための国家的集団服喪に優先させるべきなのかどうかという深刻な疑念を抱く事となった。ポール(Paul)神父という米国人宣教師の教区長にとり、これは極めてデリケートな問題であった。神父に言わせてみれば、プミポン国王は全宗教の慈悲深き擁護者であり、また一立憲君主に「過ぎなかった」のである。彼の名がタイ・カトリック典礼中に、現地文化の「世俗的」要素(watthanatham Thai)として含められているのは、他の国々におけるカトリックのミサの際に、祈りの中で国家元首らへの言及が行われるのと同じ事である。だが、このHoly Mercyの敬虔な信者達にしてみれば、国王は単なるタイの傑出した象徴をはるかに上回る存在なのであった。ほとんどのタイ人達と同じように、バンコクのカトリック教徒達までもが、ラーマ九世をほぼ宗教的ともいえる程に崇拝していたのだ。陛下は長らく、それとなく、あるいは目に見える形で、国家の父(pho)として、(転輪聖王、ダルマラージャ、あるいは菩薩のいずれかの)ダルマ(Dharma:仏法)の最高の権化として、あるいはヒンドゥ教のヴィシュヌ神(デーヴァラージャ)の化身として、また東南アジアのインド仏教王権の前近代における諸概念の現代的重要性を鑑みて(Tambiah, 1976)、宇宙論上、天と地を結び、階層的に構成された社会・道徳的宇宙の頂点から、その王国を正しい方向に導く(Jackson, 2010の例を参照)仏教王として示されて来たのである。Holy Mercyのタイ・カトリック教徒達にしてみれば、プミポン国王は実際、この地ではほとんど無名に近いローマ司祭のフランシスコ法王をも凌ぐ尊敬を集めた精神的指導者なのであった。 バンコクで知り合いになったカトリック教徒たちの中には、自宅に祭壇を設ける者たちもいたが、彼らはそこでイエスや聖人たちの聖像と一緒に、他にも多くのタイ民間信仰のインド仏教パンテオンに属する存在を拝んでいたのである(Pattana, 2005の例を参照)。それらはすなわち、中国やインドの神々、仏教僧侶、タイ国王、中でもプミポン(ラーマ九世)とチュラーロンコーン(ラーマ五世)などであった。教会から離れた場所の常として、多くの者達が十字架や聖像画、聖像を仏教徒のお守りさながらの呪力ある魔除けとして商っていた。この習慣は、カトリックの品々やシンボルまでもが、混交的で分散的な超自然信仰のアマルガムに、経済に、あるいは数名の学者たちが「自由市場化された宗教性」、あるいは「商品化された宗教」と呼ぶものに似た表象の中に吸収されてしまった事を示している(Jackson, 1999; Suwanna, 1994; Pattana, 2005)。より重要な事に、著者はしばしば、タイ・カトリック教徒達がイエス・キリストとラーマ九世を、神聖な道徳規範(khunatham)や犠牲(siasala)、カリスマ的な力(bun-barami)の等しきシンボルと紹介しているのを耳にした。 ポール神父は、タイの西洋人宣教師たちの大多数と同じように、この仏教王が彼の教区民の心の中で神聖な存在であった事を承知していた。だが、彼がカトリックの正統主義から偶像崇拝と捉えられかねない信仰や実践に対し、見て見ぬふりをしていたのは、キリスト教の神とタイ王室との「宇宙論的争い」を助長させる事を避けるためであった。彼が理解していた事は、そのような無用の争いが困難な闘いであり、これがタイ教会にただでさえ少数極まりない信者を失わせる原因ともなりかねず、また、配慮の足りぬ神父たちがタイの不敬罪法という危険な綱を渡る事となるやもしれず、用心せねば、その法は世界でもっとも厳しいものの一つとしてそのように命じる。 国王が亡くなる以前は、教会の壁を越えた(あるいはこの米国人神父の「軽い」監視の届かぬ)ところで、タイ・カトリック教徒たちは王室を神聖化し、異端的な「現地化した」カトリックを実践していたのである。しかし、ラーマ九世の死によって引き起こされた集合的な感情反応により、国王の(文化的というよりもむしろ)宗教的な重要性が、タイ・カトリック教徒たちの礼拝体験の中に浮かび上がった。そのような事から、ポール神父はタイ・カトリックの神学的、政治的な曖昧さとの対峙を、よりにもよってクリスマスというカトリック典礼の暦上、一つの最も重要な日に迫られる事となったのだ。 国王の肖像と教会の聖櫃 ラーマ九世が亡くなった後、軍事政府は一年間の公式服喪期間を宣言したが、この間、市民たちには黒服の着用が、娯楽場には閉鎖、あるいは少なくとも、電気や音楽を消す、扉を閉じる等の自粛が求められた。この宣言は、皆が敬虔な気持ちと悲しみを感じ、国王の死を悼むべき事を命じたものであった。既に計画されていた幾つかの祭りが中止となった。クリスマスが祝われるかどうかは判然とせず、タイ・カトリック司教協議会(the Catholic Bishops’ Conference of Thailand:CBFC)によって発表された公式声明が、ついにカトリック教徒たちにクリスマスを祝うよう、ただしこの時節のタイ人の心情を慮り、慎重に節度をもって祝うよう呼びかけたのである。この声明はまた、神父達に追悼の祈りを伝統的なクリスマス典礼に盛り込む方法を指示するものでもあった。政治的に公正な口調で、原則としては暫定軍事政権の指示である「よろしい、ただし、度を越さぬよう!」をそのまま繰り返すようにとの事だ。換言すると、喜びは悲しみの中に収めよという事である。 Holy Mercy教会でのクリスマス前の月を特徴づけたものは、宇宙論、典礼、そして政治にまつわる駆け引きであり、これはイエスの誕生とプミポン国王の死の融合を首尾一貫したものとするためのものであった。ポール神父は牧師審議会を開き、タイ人教区民たちに、クリスマスの祝祭をどのように企画するのが最適であるかという事について助言を求めた。活発な議論の間、この米国人宣教師はやや困惑しながらも、彼の教区民たちの緊急要請に応じなければならなかった。それはクリスマスの典礼中に、亡くなった国王のための適切な祭祀の場を設けて欲しいという要請であった。神父は国王の巨大なモノクロ写真を教会の外壁に飾る事、最もカラフルなクリスマス飾りを見えないところへ片付ける事、そして、説教の中で国王の追悼を行う事に同意した。だが、彼が神経質な様子で反対したのは、金色の光で神秘的に照らされた若きラーマ九世の肖像を、聖櫃の前の教会の祭壇上に置くという事であった。カトリック教徒にとり、最も神聖な空間である聖櫃は、固定され、鍵のかかった戸棚であり、その中には聖体が収められ、これがキリストと神の臨在の場であると信じられている。 人類学者として、Pattana Kitiarsaは以下の所見を述べた。「祭壇は、その象徴的、物理的な意味において、多様な背景や起源の神々を統合する。祭壇とは神聖な場であり、民間信仰の宗教的混交が、実際に具体的で集合的な形を帯びる場なのである」(Pattana, 2005:484)。祭壇は、物理的・霊的宇宙の正確な宇宙論の構造を反映している。それは神聖な境界を示し、儀礼行為に特別な様式を要求する。宗教的な聖像画や、神像、その他の礼拝対象は、都市部の精霊神殿や仏教寺院の諸堂の祭壇上に、序列通りに配置されている。ブッダは、ダルマラージャである国王の深い帰依を受け、通常はこのような序列の最高位を占めており、この二人の人物がタイ宇宙論の中で至高の神々と認識されている理由は、仏教と王室の両方が現代タイのエスノナショナリズムの最も肝心な側面であるためだ。祭壇上の礼拝物の位置はこのように、宇宙論と政治の両側面を反映しているのである。 キリスト教の聖書正典の宇宙論において、神は宇宙の創造者であったが、この事は彼の子、キリストの到来によって永久に変えられる事となった。カトリックのミサ典礼における神の子との邂逅は、キリストの血と肉という聖体エレメントによって象徴され、これらは聖櫃の中にパンとワイン(祝福された聖餐)の形で収められている。祭壇と聖櫃はそのような事から、カトリックのミサの間に儀式が集中する最も重要な中枢を成すものである。このような理由から、ポール神父は国王の肖像画を聖櫃の前に置く事を拒んだのであった。彼は後に私に次のように語った。「一線を越えるところでした。我々は国王を神の前にすら置けないのですからね!」。だが、彼の教区民たちのこの要求は、宇宙論と政治の両レベルにおいて、極めて啓発的なものであった。この肖像画は最終的には祭壇の裏に滑り込む事となったが、神父の決断がイエスの誕生をプミポン国王の死から解き放つ事は不可能であった。Holy Mercy教会の典礼計画における国王の肖像画の置き場をめぐるこの論争は、単なる一事例の詳細にとどまらず、ラーマ九世の死の結果、タイ・カトリックの一部の内に生じた神学的、政治的葛藤の極めて有意義な事例でもあるのだ。 カトリックのタイ化 タイ・カトリックの宇宙論、典礼、宗教性における国王の神聖な地位と、歴史的に関連付けられるものは、カトリック教会がタイでその存在を正当化するために展開してきた「世俗的」経済・政治の戦略である。実のところ、仏教徒が主体となる状況の中で、カトリック教会は非常に小規模な宗教団体に相当する。だが、世俗的アクターとしての教会は、王政支持の準資本主義機関であり、教会が経営する一流病院や私立校に通うのは、上流中産階級である都市部の仏教徒である。子供の頃はプミポン国王でさえ、タイの政界エリートのメンバーの大多数と同じ様に、Ursuline Sistersの経営するバンコクのカトリック校、Mater Dei校に通っていた。 […]

Issue 22

タイのコスモポリタンな領域における上等で清潔な服喪

2016年9月22日から26日の間、ある展示会がバンコクの繁華街のパラゴン・デパートとディスカバリー・センターの間にある商業スペースの小区画で開催された。その展示の目玉はロイヤル・プロジェクトの商品で、この開発プロジェクトはプミポン国王によって、その70年間の御代を通じて推進されたものであった。大きな白いテントの中は可動式の空調で冷やされ、袋を抱えた買い物客らが、茸ソテーのグリルドチーズ、ラズベリーケチャップ添え等のごちそうを味わいつつ、豪勢な空間を見物できるようになっていた。再現された山荘は、みずみずしく植えられた花々や木製のテーブル、田舎の家屋を模した建物を完備し、世俗的快楽を求める買い物客を迎えていた。前国王の大きな4枚の写真が天井から吊られていたが、あまりにも至るところにあったため、これと言って目立つ様子もなかった。 それらは最も精悍な頃のプミポンを描いたものであった。それらの写真の中で、プミポンは簡素な平服、あるいは軍服をまとい、一人で、あるいは女王か娘と並び、周囲には常に大勢の群衆が平伏していた。これらが撮影された頃のロイヤル・プロジェクトは、王室に広まった小規模な開発計画であった。それらの主な拠点となったタイ山岳民族のコミュニティのある地域は、大抵が共産主義の反政府活動に取り囲まれた地域であった。またこれらの計画は、しばしば国王直々の訪問を伴うものであった。一つのレベルにおいて、このような王国の辺境訪問は、開発の約束と相まり、プミポンを国家の建設者、冷戦主義者として示すものであった。この対極にありながら、これに匹敵する存在として、彼と同時代に地球の裏側にいたフィデル・カストロの例が挙げられる。また別のレベルにおいては、これらは世界の、またひいては宇宙の刹那と自己とを呼応させる事ができた完璧な仏教王を連想させた。 では、これらのイメージが現代の都会の消費者たちと何の関係があるのだろう? 適時性 良いプロパガンダは、時宜を得たものでなくてはならない。かつてJacques Ellul (1973, 43)が明らかにしたように、プロパガンダは現在を形作る「基本潮流」との和(ラポール)を突くものでなければならず、また「移ろいやすい臨場性」と結び着く事によってのみ扇動的となる。基本的事実が速やかに歴史や中立、無関心の領域に移行するような世界の中で、プロパガンダが語るべきは「神話と、定められた時間と場所の前提」のみなのだ。 冷戦期を通じて、二つの極めて重要な要素がタイに歴史的臨場感を生んだ。それらは共産主義の脅威とアメリカ指向の開発主義である。当時のプミポンの地方訪問は、この両者に物申すものであった。それらは想定された反政府活動の脅威を浮き彫りにしただけでなく、当時進行しつつあった資本主義の急速な拡大に対する懸念も和らげたのである。 重要な事は、これが単独的な覇権主義のプロジェクトではなかった事だ。それは多角的なものであり、目覚ましい献身行為を王家の図像の様々なレベルでの利用権によって報いるという、一連の複雑な相互関係を通じて運営されていた。当面の間、この最大の恩恵はアメリカ人にあった。彼らのプロパガンダ作戦におけるタイ王政支持は、王家のイメージ保護に役立ち、これによって共産主義を打倒せんとするものであった。タイを訪問するアメリカ人の大多数にとって、彼らの戦争を行うために尽力した国王への忠誠は至極当然なものであった。さらに、西洋の白人に対する深い懐疑のわだかまっていた地域では、アメリカ人に特権的地位が与えられた事が、タイ的秩序を志向する義務感を植え付け、これが大いに文化統治の「伝統的」形式の尊重へと注がれたのである。このポストコロニアル的な道徳秩序は、タイのアメリカ主導の資本主義への急速な統合を支える上で役に立った。 冷戦主義者プミポンは、久しくその精彩を失っている。だが、新たに生じる動向を読み取る事に長けた王室は、その相互関係が新たな社会的、政治的現実を反映するよう、これを作り替えた。冷戦期のアメリカ人たちと同様に、タイの日常生活における王室の重要性を進んで主張してきた者達には、その報いに国王の道徳的権威と認められるものの一定の利用権が与えられてきた。代わりに、この事がタイ王権の拠り所となる既存の宇宙論に、変わり続ける世界の中で新たな効力を吹き込む事を助けてきたのである。 清新、清潔で健康的 今日の時代思潮は清潔さである。清潔な食事とスローフードは、バンコクの最もクールな場を席巻している。身体の毒素排出と現代生活の不安を和らげる事を約束した清潔な食事は、かつて、石鹸や衛生学によって規定された差異の、古い植民地時代の比喩(トロープ)を複製している。Anne Mcclintock (1995, 226)が、イギリスのインペリアルレザー(the British imperial lather)との関連で述べたように、「清めの儀式は、身体を意味の土壌として整え、自己と社会にまたがる価値の流れを秩序付け、一つの社会と別の社会との境界を定めるのである」。 「清潔な」(sa-ad)一皿の食事の値段が一般人の購買能力をはるかに超えているタイでは、世界的な流行である「スロー」、「オーガニック」、「クラフト」は、身体的な差異と純粋性を得る新たな手段を、数々の魅惑的な食料品によって提供している。またこれは新たな空間も生み出し、それらの清浄かつ清新な場は、一部の流行に敏感でコスモポリタンな顧客たちを楽しませんとするものである。アーリヤ・オーガニック・プレイス(Ariya Organic Place :Ariyaはパーリー語で純粋、貴重、あるいは高貴を意味する)などの名前がついたレストランは、したがって、海外の最新の手法を用いて都会人の身体に滋養を与える事を謳ってはいるが、国内のタイ仏教の世界観と結びついた、より長い歴史を踏まえたものでもあるのだ。 同じ事はパラゴン横の展示会についても言え、その宣伝用資材は「高原風にするべく木で飾られ」ながらも、「都市住民や新世代の需要と流行りのライフスタイルに応じる」「現代的なファーマーズマーケット」を基調としたものであった。すなわちそれは、世界的な通用性と文化的特性との融合であり、有名シェフの魅惑的な新レシピが、田舎風の小粋にタイ風のひねりを利かせ、高額な値札と共に供されたというわけだ。 ここで、前時代に撮影されたプミポン国王の不鮮明な肖像が、現代の新奇のスペクタクルの中で、極めて重要な要素を成していた。彼の肉体が今生の終わりに近づくにつれ、これらの肖像からは、冷戦の背景が取り去られる事となった。今、若かりし頃の国王の御霊が据えられているのは、清められた(borisut)文化的世界の中心であり、小規模ながらも活気に満ちた、贅沢な消費行為を通じた多様な参入の機会が横溢する場である。 ロイヤル・イメージの買収 九代目の御代を通じ、富と購買能力は、かつての外国人たちが王室との相互関係を築くための基本的手段となってきた。Christine Gray (1991)は、冷戦の真っただ中に、タイ華人の資本主義者たちが王家の慈善事業やイニシアティブに貢献する事で、いかに王家の威徳を「手にする」事ができたかを述べている。彼女はまた、タイ華人が所有するバンコク銀行が、1967年にロイヤル・ガルーダ紋章の使用権を認められ、その商標を王家と関連付ける手立とした手法も明らかにした。 一方、Kasian Tejapira (2003)は、1980年代後期からのタイにおける「急成長」時代に伴う急速な消費主義の拡大が、より均一な都会のアイデンティティ感覚を生み出す上で役立ったと主張した。増々、タイ人である事は、お金で手に入れられる事、あるいは、価値交換によって体験し得る事となっていった。一回の休暇、一着の服、一個の宝石、これらの全てをより魅力あるものとするには、それを「タイ的」な何かと関連付ければよいのであった。これとは別に、Somsak Jeamteerasakul (2013)は、この新たな消費文化の出現が、都会の消費者たちに王室勢力圏への進出を、より容易かつ魅力的なものとした事を主張する。単に王家お墨付きの、あるいはロイヤル・ブランドの商品を買う事は、より伝統的で儀礼化された献身の表明とは対照的であったが、国家への献身を示す明快な手段となったのである。 だが、時の経過と共に、これらの購入はまた、道徳的な複雑性から比較的自由であり続けるには、コスモポリタンな生活がプミポン国王の肖像を介したものである必要があるとの考えを裏付ける上で役に立った。1997年の危機で、タイの資本主義体制の根本的不平等が、かくも容赦無くさらけ出された後、王家の威徳はより一層貴重な商品となった。とりわけ2006年以降の時代、君主制への献身は、タクシン・チナワットに関連した様々な統治機関に反対であったタイの都会人たちを安堵させる事となった。すなわち、それは彼らに道徳的に高潔であり続けたという自信を与えたのである。 […]

Issue 21

タイにおける進歩なき殺人:殺し屋から制服組の男たちまで

タイにとって、政治的暗殺は珍しい事ではない。議会制度と選挙が復活した1970年代後期以来、タイ社会は国会議員や新興成金、地方の有力者や選挙運動人達に対する、プロの暗殺者による殺害がますます頻発するさま目撃してきた。これらの政治的殺害はインフォーマルな企業によるものであり、国や地方の選挙競争にからんで政治上、ビジネス上の競争者が、競争相手を討つべく暗殺者を雇うのである。これらの暗殺者たちは主にプロであり、元警備員やチンピラ、副業をしている警官や軍人である。暴力行為は選挙前後のいずれにも起き、有力な候補達が選挙運動期間の最中に、競争者によって暴力で脅されたり、誘拐されたり、殺害されたりした。誠実でない選挙運動人も、自らの上役たちに殺害されるし、成果を出した選挙運動人の方はライバル陣営によって抹殺されもした。ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)は、1980年代後期に政治的動機に基づく殺人が増々横行したことについて、これがタイにおける国会議員の高い「市場価値」を反映したもので、誰が権力を獲得するかを決める選挙の重要さを示すものであると論じている。候補者やその選挙運動人たちの殺害が横行していることは、すなわち、タイにおける議会制民主主義の「進歩」を示していたのである(Anderson 1990)。当然、この「進歩」には代償が伴う。 著者が調査したところ、選挙がらみの暴力行為に、殺し屋の関与が初めて報告されたのは、1976年の選挙であった。1976年11月16日のサムットソンクラームの元国会議員殺害によって、私的暴力の発生が告げられた。警察によると、この元国会議員の死は、競争相手との選挙運動中の政治的対立に由来するものである。選挙から数か月後に、殺し屋の一団が、彼を至近距離で重火器を使って射殺した。警察は二週間後に、犯人の一人を逮捕し、かれらの自白によると、彼はこの仕事の請負で3万バーツを受け取り、仲間は3人、そのリーダーは不正行為のために部隊から追放された勤務外の兵士であった。警察の捜査によると、これらの「殺し屋連中」は、その他の政治家の殺害も請け負っていた。 タイではどんな殺し屋も、支払う金を十分に持つ者のために働く。彼らは便利で、非情で、有能で、起業家精神に溢れ…真の意味でプロの事業者である。殺し屋の仕事は、1950年代のバンコク市街地での組織犯罪や裏ビジネスの拡大と結びついている。殺し屋たちは、非合法の経済部門(ギャンブル、ドラッグ、売春)を保護するため、ライバルや厄介者、あるいは予想外の困難を抹消してきた(Suriyan 1989)。1970年代後期には、殺し屋を使った殺人が選挙競争に拡大し、これと結びつくようになった。増加する需要に伴い、この事業は途方もない利益をもたらすものとなり、多くの者達を引き寄せた。殺し屋市場が徐々に構築、確立され、競争力を持ち始めたのである。 殺し屋の仕事は、失業者や不良の若者、地域のチンピラ、農業従事者、未熟練労働者、タクシーやオートバイの運転手、便利屋、それにスポーツ選手など、幅広い層を引き寄せてきた。またこの仕事は、腐敗した警官や将校たちにも機会を提供している。国家のある部門は、殺し屋の仕事を容認して利益を得ている。たくさんのスタッフが殺し屋を副業とする中、そうした部門はその専門訓練を活用し、私利私欲のための強要を行う。顧客たちが「公式暴力の専門家」の仕事を好む理由は、彼らが最も穏当で、最も良く訓練されているだけでなく、刑事司法の手続きや機関についての内部情報を持っているためでもある。彼らの多くが保護を受ける、より高位の役人たちは、違法ビジネスに携わる、いわゆる「マフィア警官/将校」である。政府にしてみれば、この「制服姿の殺し屋たち」は、最も危険かつ、捉え難い存在である。最もスキャンダラスな事例は、「T」(あだ名)中佐で、彼は1980年代に残忍で腐敗した将校として有名になった。彼とその部下たちは、金をゆすり取り、借金を取り立て、禁制品を密輸した。1990年代に建設業が好況となると、彼は請負業者を保護し、悪徳土地開発業者による住民の強制退去に手を貸した。住民たちが抵抗すれば、暴力を行使して追い出し、その所有地を燃やしたのである。彼はついに、自ら殺し屋業を立ち上げ、業者と殺し屋の役割を同時に担った。彼の組は5、6人の下級政府職員から成り、請け負った事件は目立ったものばかりであった。彼の名を全国に広め、その残忍な長い経歴に終止符を打った仕事は、2001年のヤソートーン県知事暗殺であった。「T」中佐は、公務員から転身した数多くの(個人業の)殺し屋の一例に過ぎない。データによると、現役、非番の多くの政府の暴力専門家達が、今も暴力業に密接に携わっている。国家の治安部隊と暴力業との癒着には、非常に根深いものがある。 1980年代以降、選挙は権力を掌握、維持するための仕組みとして、あるいはタイにおける政治的変化に対処するための仕組みとして、ますます重要性を帯びてきた。1980年代と1990年代の数十年間には、「軍-官独裁体制」から議会制の政治制度へ、タイ政治の急激な構造変化が見られた。要するに、権力が官僚と軍部指導者の旧集団から、徐々に国家や地方のビジネス・エリートの新連合へと移行して行ったのだ。利益の調整と集約とが、官僚外勢力から発生し、政策決定の過程に一定の影響力を生み出したのである。同時に、この時期はいわゆる金権政治という、腐敗や無秩序な選挙運動につながる活動の起点でもあった。金権政治のマイナス面が広く認識されたことで、1990年代初頭の政治改革運動が形成され、これが金権政治の抑制と、親分肌の政治家の影響力低下を最終目標とする1997年憲法をもたらしたのである。新憲法発布以後は、観測筋は選挙がらみの暴力も含め、あらゆる種類の選挙上の不正行為が消滅、あるいは劇的に減少すると予測された。ところが、暴力や脅迫は依然として、候補者や政党が権力の獲得のために用いられたのである。 タイ政治の軌道と、政治的暗殺のパターンが劇的に変化したのは、2006年の軍事クーデター後の事であった。2006年以降、従来のエリートたちが、軍による干渉や司法積極主義、保守的社会運動を通じて議会や選挙制民主主義を弱めてしまった。選挙で選ばれなかったエリートの少数派が、政治制度に対する超憲法的権力を行使したのである。社会運動と軍部との間の暴力的な衝突が、タイ社会を袋小路へ、暴力の堂々めぐりへと導いたのだ。多くの評論家やクーデター支持者たちが、2006年のクーデターを、その無血性ゆえに称賛した。だが、政治的な出来事が展開して行くにつれ、このクーデターがその後にもたらした影響という点で、タイ史上、最も暴力的であった事が判明した。このクーデターが高い死傷者数をもたらした訳は、これが対立を激化させ、政治的な両極化を深め、治安部隊とデモ参加者、対立する抗議者グループ間の、広範囲にわたる対立を生み出したためである。クーデター以来、タイ社会が目撃した政治的現象に目を向ければ、様々な形の暴力が出現した事が分かるだろう。それは、好戦的な社会運動の増加(黄シャツ、赤シャツ両隊)、ギャングや殺し屋を利用した政治的対立、抗議における自警武装集団(運動と関連したもの、独自に活動するものの両者)の存在や関与、異なる運動に属する抗議者同士の暴力的衝突、政治化した軍部の復活と、その市民に対する暴力的弾圧、抗議者への対応での治安集団の選択的な武力行使、軍の狙撃者による抗議者の殺害、緊急命令の下での白昼堂々たる大衆運動指導者の暗殺、首都での政府庁舎やデモ現場を狙った爆撃、対立のあらゆる側面における広範囲な兵器の使用、などである。 2010年4-5月の軍事弾圧は、反独裁民主同盟(UDD)に率いられ、バンコク中心部の幾つかの地域を2010年の3月から5月にかけて占拠した赤シャツ隊デモを、政府が軍に命じて鎮圧させる際に起きたものであるが、これは政治的暴力の極致を示していた。デモ現場周辺における軍部と赤シャツ隊との対立は、2010年5月19日の暴力的弾圧によって、94人が殺害され、数千人が負傷する結果に終わった。2006年クーデター後の時代の暴力事件は、タイにおける新たな暴力のパターンを示している。軍は政治劇の主人公として復活を遂げ、この上なき暴力行為を犯し、死亡者数の相当な割合に対する責任を負う立場にある。2010年4-5月の弾圧は、タイ近代史上、最も暴力的な政治弾圧に相当し、その正式な死者数は、それより前の3度の政治危機、すなわち、1973年の学生主導の暴動、1976年の大虐殺と1992年の民主化要求デモの死者数を上回っている(People’s Information Center 2012)。2006年クーデター以降の国家的暴力の復活が、政治の前進に有害であるのは、これが民主主義の崩壊をもたらすものであるためだ。ベネディクト・アンダーソンの言葉を引用すれば、それは「進歩無き暴力」なのであった。 2006年クーデター後の暴力の根源は、1997年憲法以降に展開したポピュリスト・デモクラシーと大衆政治の時代における、従来のエリートたちの脆弱性とその権力の衰微にある。選挙で選ばれなかったエリートたちは、暴力に訴えることで、選挙で選ばれた政府を転覆させ、民主主義のプロセスを頓挫させ、再び自らの権力を確立させようとしたのだ。歴史は2014年に繰り返され、プラユット・チャンオチャ(Prayuth Chan-o-cha)司令官率いる軍事政府が、国家平和秩序評議会(NCPO: National Council for Peace and Order)の名の下、タクシン元首相の妹、インラック・シナワトラの選挙で選ばれた政府を転覆させるクーデターを仕掛けた後、2014年5月に政権に就いた。2014年のクーデターは、事実上、タイを圧政的な軍事独裁支配に引き戻し、その様子は官僚組織や軍部が王政の下で政治を牛耳った1950年代の独裁者、サリット・タナラット元帥(Marshall Sarit Thanarat)の政権さながらであった(Thak 1979)。圧政的な軍事支配の下で市民の自由は制限され、言論の自由は検閲を受け、批判は罰せられ、政治活動は禁止された。クーデター以降、軍司令官たちは自らを新たな支配層エリートとして確立させようと、自らの地位や権限、予算や人的資源の強化を行った。彼らはまた、自らの優位を維持するべく憲法を策定し、多数者優位の民主主義を弱め、政党や市民社会の力を損ねたのである(Prajak 2016)。またしても、クーデターや暴力のはびこる、この不安定な王国では、制服を着て銃を持った男たちが表舞台へと戻ってきた。それに、彼等が兵舎へ引っ込む見込みは、当面ところ無い。 Prajak Kongkirati タマサート大学 政治学科 REFERENCES Anderson, Benedict (1990), “Murder and Progress […]

Issue 21

インドネシアはなぜ我々を殺すのか?パプアにおけるKNPB活動家たちの政治的殺害

インドネシアのレフォルマシ(改革)後、国際監視団の情報を受けた世界は、インドネシアが世界で3番目に大きな民主主義社会として生まれ変わったと考える傾向にある。この十把一絡げの認識が、重大な人権侵害の疑惑を有耶無耶にしてしまった。2001年の11月、パプア人指導者のテイス・ヒヨ・エルアイ(Theys Hiyo Elluay)が、インドネシア陸軍特殊部隊司令官とのジャヤプラにおける公式夕食会の後に誘拐された。数日後、彼の遺体がジャヤプラ近辺で発見された。当時のメガワティ大統領によって設立された捜査チームは、ジャヤプラに拠点を置く陸軍特殊部隊コパスス(Kopassus)が関与した証拠を発見し、4人の兵士が有罪宣告を受け、懲役3年及び、3年半の判決が下された。エルアイの運転手、アリストテレス・マソカ(Aristoteles Masoka)が依然として行方不明である一方、ハルトモ(Hartomo)司令官は、最近、軍の戦略情報局に昇進する事となった(BAIS)。 現場へ 2012年の6月には、パプア人の若き活動家、ムサ・マコ・タブニ(Musa Mako Tabuni)が、ジャヤプラの私服警官集団によって、同市付近で射殺された。彼はジャヤプラ警察病院に運ばれた時にはまだ生きていたが、数人の目撃者たちが認めた所では、警察が医師たちを妨害し、彼に適切な治療を施させず、彼は死ぬまで放置されたのだという(International Crisis Group 2010: 7; Koalisi Masyarakat Sipil untuk Penegakan Hukum dan HAM 2012)。だが、これまでに責任を問われた警官は、誰一人存在しない。警察の見解では、タブニはドイツ人旅行者にも怪我を負わせたジャヤプラでの発砲事件に関与していた。 それから程ない2014年のスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領のパプア訪問前夜には、Komite Nasional Papua Barat (KNPB/西パプア国家委員会)の若きパプア人指導者、マルティヌス・ヨハメ(Martinus Yohame)の遺体が、ソロン市沖合に浮かんでいる所が発見された。遺体は手足を縛られた状態で、米を包装するビニール袋に入れられ、彼を沈めておくための錘に重い石が付けられていた。その数日前に、彼は記者会見を開いて大統領訪問に対する拒否表明をしていた。KNPBは、インドネシア国家治安部隊がこの殺人に関与していたと見ている。この結果、インドネシア国家人権委員会(Komnas HAM: the Indonesian National Commission on Human Rights)は、警察による捜査の実施を強く主張した。だが、この捜査は、被害者の遺族らが検視解剖を拒否したため、Komnas […]

Issue 21

タイ チェンライ メーファールアン大学 法科大学院 講師

タイにおける地方分権化の最大の変化は、1997年に「人民憲章」として広く称賛された新憲法の可決と共に起きた。しかしそのときにも、この急激な変化が、この国に深刻な政治、あるいは利害上の対立をもたらすのではないか、という深い懸念があった。有権者たちの準備がまだ整っておらず、マフィアが地方選挙に当選するのではないかと危惧する者もあった。さらには、地方政治家やその家族を標的とした政治的暗殺も日刊新聞で報じられていた。こうして地方政治は「血なまぐさいもの」と考えられるようになった。 このような政治犯罪のニュースが新聞などで無数に報じられ、社会に恐怖感を生み出した。このような政治的暗殺は、全国で起きているものなのか、それとも、特定の地域に限定されたものなのか?このような事件は、正確には毎年何回起きているのか?その回数は地方分権化後に増加しているのか、減少しているのか?タイの地方政治は、本当に人々が思う(恐れる)ほど、危険なものなのであろうか? 全国調査が示すもの 2000年から2009年の間に、481件(100%)の地方政治家(行政職員、地方議会議員の両者、候補者および事務官を含む)の暗殺未遂、あるいは459件の訴訟があった。中には、同一事件内で一人以上の被害者が襲撃された事件もあった。この数の中で、死亡事件は362件(75.3%)である。実に悲しいことにこれは相当高い数字であるが、全国的な計画殺人事件(ほぼ4,700件)や、地方政治家の総数(地方政治家は約16万人)と比較すると、この数字は相当低いものである(1%未満)。 殺人未遂の被害者481人のうち、467人(97%)は男性であった。大部分の被害者が、41歳から59歳(54.1%)であった。最も一般的な殺害方法としては、狙撃(93.1%)、爆弾の設置(3.1%)、その他の手段(3.7%)である。 一つ明らかな事は、自治体長の立場が、最も暗殺のリスクが高いという事だ。記録を見ると、139人(ほぼ30%)の被害者がいる。これは自治体内で、長官が有する特に人材管理と予算配分に関する権能と権限のためであろう。また、より小規模な地方行政機関では、大規模ではなく、ただし数多くの政治的暴力が存在してきた。349人(72.6%)の被害者は、行政区自治体(SAO: Sub-district Administrative Organization)で働いていた者たちである。   興味深い事に、この種の暴力は全国で広く発生しているが、特にタイ南部(42.2%)やタイ中部(26.4%)には、幾つかの危機的地域が存在した。上記11県のうち、4県が「深南部」に位置するナラティワート、パタニー、ヤラー、ソンクラー(の幾つかの郡)であり、これらは非常に長い間、困難な状況を経験してきた(図2の濃赤色の地域を参照)。これに対して5つの県でだけは、殺人未遂の記録が存在しない。これら5県のうち、3県は東北地方に位置している(図2の白色点を参照)。 2000年から2009年の間の政治的暗殺の傾向は、予測が不可能で不規則であるという事だ。2003年(13.3%)と2005年(14.1%)には、この数字が高い。一方、2008年から2009年には、この数字がタイの全地域において徐々に減少する傾向にあった。 これらの数字を見ながら、全国レベルでの政治情勢も考慮するべきである。2003年の始めに、タイ政府は麻薬撲滅運動を発表した。多くの研究の指摘によると、この壊滅的な運動の結果、約2,500人の人々が殺害された。2004年初頭のナラティワートにおける、タイ陸軍武器庫の強制捜査の後、南部国境沿い3県の政治情勢は最悪であった。暴力事件(殺人、暗殺、爆弾の設置など)の数が増加し、政情不安を引き起こしたのである。この地域では、暴力事件の数が2004年から2005年の間に大幅に上昇した。 チャーンチャイ・シラパーアウチャイ(Charnchai Silapauaychai, นายแพทย์ชาญชัย ศิลปอวยชัย)の暗殺 2007年10月24日、プレー県自治体長のチャーンチャイ・シラパーアウチャイ(Charnchai Silapauaychai, นายแพทย์ชาญชัย ศิลปอวยชัย)博士(53歳)が射殺された。プレーは政治的暴力で知られる北部県の一つである。彼はタイの上北部全8県の県自治体長の中で、唯一暗殺された人物であった。 この殺人の前に、チャーンチャイ博士は彼の政敵、シラワン・プラッサチャクサツー(Siriwan Prassachaksattru)女史と反目していたという事だ。彼女は政治的影響力がある名の知れた家の跡取りで、プレーに昔からある政党の党首の一人であった。チャーンチャイ博士は、S氏(シラワン女史のいとこ)をプレー県自治体副長に指名しなかった。プレー県自治体議会の議長であるポンサワット・スパシリー氏(Pongsawat Supasiri, シラワン女史の弟)は、チャーンチャイ博士のプロジェクトの一つ、クルンタイ銀行(Krung Thai Bank)からの1億2千万融資計画を妨害した。 特筆に値する事は、チャーンチャイ博士が古参政党から寝返り、タイ愛国党(TRT: Thai Rak Thai /พรรคไทยรักไทย)を前身とする国民の力党(PPP: People Power Party/พรรคพลังประชาชน)への支持を表明していた事である。事実、彼は首尾よく議会の野党議員の全票を集め、自身の政治団体‘Hug […]

Issue 21

絶滅戦争:フィリピン、ミンダナオにおけるルマド族の殺害

2015年9月1日の明け方、ディアトゴン村シティオ・ハンアヤンの何百人もの男女や子供たちが、準軍事組織マガハット・バガ二(Magahat Bagani)の武装した男たちの一団によって眠りから覚まされた。その後、彼らは一か所に集められ、コミュニティの指導者であったディオネル・カンポス(Dionel Campos)とジョビロ・シンゾ(Juvello Sinzo)の残酷な処刑を目撃させられる。二人はいずれも頭に銃弾を撃ち込まれたのであった。学童や教師たちは、後にエメリト・サマカラ(Emerito Samarca)の遺体を発見する事になるが、それは内臓をえぐられ、喉を切り裂かれた遺体であった。彼がその事務局長として慕われていた、中等教育のためのオルタナティブ・スクールは、先住民マノボ族の子供たちのためのもので、農業と生計の発展のためのオルタナティブ・ラーニング・センター(Alternative Learning Center for Agricultural and Livelihood Development, Inc.)、ALCADEVと呼ばれ、このコミュニティ内に拠点がある。ちょうどこれと同じ日、ハンアヤンやその他の近隣コミュニティから、約3,000人の住民たちが、自らの家や農場を退去して、街の中心地、リアンガ町の体育館に押し掛けた(Interaksyon.com, 2015)。 これは痛ましい事件であったが、先住民の指導者やオルタナティブ・スクール、そしてコミュニティ全体に残忍な攻撃が仕掛けられた事は、今回が初めてではない。だが、この事件の特異性は、フィリピン南部ミンダナオ島での一事件の中に、特定の被害者層を狙った準軍事組織の暴力の組織性がいかに現れていたかという点にある。  強制退去の物語 前アキノ政権下(2010-2015)では、合計71人の先住民指導者が殺害されている。また、先住民の子供達のためのオルタナティブ・スクール87校に対する攻撃は95件も記録されている。コミュニティ全体で、4万人以上の先住民の人々が、その社会的、政治的、経済的生活を破壊され、無数の避難所へと逃れて来た。これは彼らが指導者達を殺害、あるいは投獄され、学校が襲撃されたためである。反乱対策を装い、これらのコミュニティに駐留し、恐怖の種をまき散らしているのが政府軍でないなら、その汚れた仕事を代行するのは政府の準軍事組織なのである(Manilakbayan, 2015)。 準軍事組織による恐怖と暴力の所業は、「ルマド」というミンダナオ先住民族を指す語を、フィリピンの人々に認識させ、2015年には#stoplumadkillings(ルマド殺しを止めろ)キャンペーンが、内外の人々の支持を幅広く集める事となった。彼らが開催した2015年の歴史的なManilakbayanの抗議隊は、指導者たちや学校、コミュニティへの攻撃を被ったミンダナオの様々な先住民コミュニティから、数百の先住民代表団が、その苦境を切実に伝えるために首都へやって来るものとなった。 これらの強制退去に共通の物語を分かち合い、様々な事例の記録を見てみると、先住民の指導者や学校、コミュニティに対する攻撃の組織的パターンの中に、一つの目的がある事が露わとなる。どうやらその目的は、先住民の指導者たちを殺害し、これらのオルタナティブ・スクールを中心としたコミュニティの連帯を弱め、最終的にはコミュニティを、彼らの家や農場から追い払う事を意図しているようだ。テロは意図的で、周到な準備によって、先住民コミュニティを先祖伝来の土地から強制退去させるために仕掛けられたものだ。ルマド族がその土地から追い出される事によって、誰が得をする事になるのだろうか。 絶滅戦争 フィリピン南部のこの島は、この国の大部分の先住民人口の故郷であり、全体ではフィリピンの総人口約1億人の中の15%を占めると推定される(Journal of Philippine Statistics, 2008: 92)。 世界中の他の先住民族(IP)と同様に、フィリピン先住民族もまた、国の最貧層に相当し、保健や教育、人権などの機会において理不尽なまでに苦しんでいる(UNDP, 2013:1)。国連などの多国籍機関には、世界中の先住民族を、歴史的で体系的な差別と排斥の犠牲者とする認識がある。政治的、経済的支配力を持つ多数派と共に発展した国家が背景となる場合、これは殊のほかあてはまり、またより深刻である。フィリピン国家の少数民族であるミンダナオのルマド族やモロ族などが住む地域の貧困は、最も深刻で厳しい(ADB, 2002: 33)。 だが、先住民族やその他の周縁化された集団に不利な制度の設定以上に、ルマド族のコミュニティに対する暴力的攻撃は、「組織的差別」という言葉の意味をはるかに上回る厄介な現実を示している。実際に起きている事は、ミンダナオ先住民族に対する、軍と準軍事組織によって仕掛けられた絶滅戦争なのである。これらの暴力と強制退去の物語は、「ルマド」という、自らを規定したアイデンティティを持つミンダナオ先住民の人々にとり、新しいものではない。事実、この言葉の所産は、ミンダナオ、あるいはフィリピン先住民族周縁化の歴史だけでなく、彼らをその土地から追い出し、そのアイデンティティや文化の抹消を試みた勢力に対する彼らの勇敢な抵抗をも示している。 「ルマド」は政治用語であり、これが最初に一般語彙に加わったのは、マルコスの独裁政権時代であった。当時、活動家たちはこの語を用いる事で、モロ族以外の先住民族で、国家主導の伐採や採鉱、農業プランテーションの拡大などの開発侵略が、先祖伝来の土地にまで及んだ被害者達を指した。1986年の6月26日、ミンダナオ先住民族18部族の中の15部族の集会が、この語を自ら規した集団的アイデンティティとして正式採用したのは、ルマド・ミンダナオ国民連合(Lumad Mindanao People’s […]

Issue 21

誰のための殺人か?フィリピンにおける超法規的殺人の事例

ロドリゴ・ドゥテルテが政権に就いた2016年6月以来、超法規的殺人は5千人以上の命を奪ってきた。超法規的殺人の標的やパターンは、彼の在職中とマルコス独裁政権時代とでは異なったものであろう。また、特筆すべき重要な事は、フィリピンの民主主義が比較的安定していた2001年から2010年の時代にも、フィリピンの日常生活の中では、多くの超法規的殺人が目撃されたという事である。 多数のジャーナリストや、選挙で選ばれた政府高官、農民団体の指導者たちが、日中であっても、バイクに乗った正体不明の者によって路上で射殺された。超法規的殺人を正確に数え上げる事は不可能であるが、その訳は、共産主義運動やイスラム解放運動と関連した武力衝突が、進行中の問題であるからだ。事件数はまちまちで、幾分控えめな集計によると、2001年から2010年の間に305件の超法規的殺人があり、その被害者は390人であった。一方、ヒューマン・ライツ・ウォッチ団体のカラパタン(Karapatan)では、これと同期間に1,000件以上を集計している。これらの事件の中で合計161件のみが提訴されている。最終的に処罰された犯人がごく少数であった事には、愕然とさせられる。 フィリピンにおける超法規的殺人 最高裁判所行政命令によると、超法規的殺人は、被害者の政治的属性、殺人の手段、殺人の遂行時における国家のエージェントの関与あるいは黙認によって定義される。 市民社会やフィリピン国民は、これを軍隊に対する国家の機能不全、あるいは不処罰の文化と解釈する事ができる。フィリピン国民や世界の市民社会は、これらの超法規的殺人の膨大な犠牲者の数に驚かされたが、フィリピン国軍がこの件にそれ程懸念を抱いているとは思われない。 事件の数が多いため、また、様々な人が標的とされたため、事件の原因を割り出す事は難しい。これに加え、さらに困難な事に、特定の非戦闘員である指導者たち、例えば農民の指導者や、コミュニティ開発を志向するNGOの職員、環境保護主義者たちが惨殺された理由を突き止める事である。これまで、ほとんど気にかけられて来なかった事は、彼らがなぜ、地域コミュニティの何者かにとって、あるいは国家の政治経済にとっての脅威になるのか、という事である。 地域指導者殺害の事例に則し、これらの地域指導者殺害の事例を、国際開発計画との関係の中で分析してみたい。国際開発は、これらの計画にまつわる論争の舞台を、さらに複雑化させる原因である。フィリピンにおいて、国際開発計画はしばしば、政治家と地域のエリートたちとの腐敗した関係によって汚されてきた。加えて、経済が優先の開発事業団はしばしば、被援助国が適切な実施プロセスを迅速に進めるよう圧力をかけ、コミュニティの地域住民に対する悪影響は顧みないものだ。 ホセ・ドトン(Jose Doton)事件 ホセ・ドトン氏は、バヤンムナ(Bayan Muna)のパンガシナン支部の元事務局長であり、ティマワ(TIMMAWA:Tignayan dagti Mannalon A Mangwayawaya Ti Agno:アグノ川の自由な流れを取り戻す小農民運動)の代表でもあったが、2006年5月16日に射殺された。62歳であった。目撃者の話では、その日の午前10時30分から10時45分頃に、一台のオートバイが、ドトンとその弟の乗ったオートバイの背後で速度を上げ、3発の銃声があった。その直後、ナンバープレート番号が無い、その赤いオートバイ(ヤマハXRM)が、ドトン兄弟のオートバイに追いつき、さらに二発の銃声があった。ホセとその弟が路上に転倒すると、男たちの一人で20歳から25歳ぐらいの者がオートバイから降り、ホセの頭を撃って逃げた。 殺害された日まで、彼はサンロケダムの反対闘争を指揮し、人々の生活と資源に対する巨大ダムの悪影響の問題を提起していた。サンロケダムの建設が、彼の町の660世帯を強制退去させたのである。ベンゲット州イトゴンでは、約2万人の先住民が、この事業により悪影響を被った。2006年6月15日の記者会見で、日本が出資する事業の監視を献身的に行ってきたFoE Japan (Friends of the Earth-Japan)の波多江秀枝(はたえ ほづえ)氏は、「日本の政府や金融機関が出資した事業の中で、我々の団体は常に地域レベルにおけるHRV(人権侵害)に注意を払ってきた」と述べた。これらの事業に反対する者たちは、大抵、当局から左翼や共産主義テロリストの烙印を押される事になるそうだ。ティマワは、当局からこの地域の共産主義テロリスト戦線と目されていた。 サンロケ多目的事業(SRMP: The San Roque Multi-purpose Project)は、ルソン島北部、パンガシナン州のアグノ川下流に築かれ、多様な経済活動のための電力発電と、下流の堆泥や洪水を減らす事で水質改善を行うためのものである(Perez, 2004; SRPC, 2006, cited in Kim […]

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可動の身・不動の身:激動の時代に成長した記憶

国際報道機関の伝える「難民危機」に関する報道や映像、とりわけ、シリア人の男女、子供達が母国の過去数か月におよぶ内戦を避け、大移動する様は、もう一つの大規模な逃亡の記憶を呼び起こす。それは40年程前に何十万人ものカンボジアやラオス、ベトナムの人々が、1975年の共産主義の勝利の結果、国を後にした記憶である。この二つの大移動の類似点は見過ごし難く、最も顕著なものは、彼らがすさまじい海路の旅でヨーロッパやアジアの海岸へ辿り着こうとする点である。あらゆる強制移住には、それなりの原動力や発端、結果がある。すなわち、類似点を引き出す事は可能であっても、それらは同一ではない。だが、いずれの逃亡にも顕著な二重のナラティブの特徴は、一方に無力な「第三世界」の犠牲者たちがいて、もう一方には「第一世界」による人道救助活動(計画)があることだ。ベトナム人難民に関して言えば、Yen Le Espirituが酷評した先行学術論文は「(彼らを)救助の対象」と位置づけ、「彼らを悲嘆のために無能力状態に陥った保護が必要な者として描き、その保護はアメリカで、またアメリカによって最良のものが提供されるという事だ」(Espiritu 2006: 410)。このナラティブはおそらく、多くの新聞やテレビの「ボート難民」の苦難や難民キャンプでの人道問題の報道に影響されたもので、これが転じて「インドシナ難民」に関する集合的記憶を形成した。 事実、後者に付随する言説やイメージがあまりにも揺るぎないものであるために、彼らを「人工記憶」保有者と呼んでも見当違いにはならないだろう。Alison Landsbergの概念は、これらの出来事を生き抜いた経験を持たない人々の心を動かす「新たな形をした公的文化的記憶」に関連している。これらの記憶は「実体験の産物」ではなく、Landsbergが述べるように、「媒介表現に接する(映画を見る、博物館を訪れる、テレビの連続ドラマを見る)事から生じた」記憶なのである(Landsberg 2004: 20)。2015年に賞を獲得した双方向的なグラフィック・ノベル、『ボート(The Boat)』は、Nam Leのアンソロジーのタイトルとなった短編作を脚色したもので、このような記憶のテクノロジーと大衆文化の一例である。この作品はオンライン読者のみを対象に制作され、心を揺さぶるよう、本文と画像、音声と動きを融合させ、一人のベトナム人の少女が両親によって難民ボートに乗せられ、オーストラリアへ送り出された物語を伝える。 この「捨て身で救助される」というナラティブは、戦争と暴力の犠牲者としてのインドシナ人難民のイメージを具体化している。難民として、歴史の犠牲者としての立場が認識されているため、当然、難民達には何の術もなく、その亡命生活は彼らが救助されてホスト社会に入るその日に始まるかのように思われている。逆に、彼らが母国を発った時の状況や事情がつぶさに調べられる事は希である。だが彼らの人生の決定的瞬間は、彼らが桁外れに困難な状況を抜け出す事を決意した際の、彼ら自身のイニシアティブの結果なのである。筆者は2015年にシドニー郊外で、1975年以降にラオスを去ったラオス系オーストラリア人達にインタビューを行った。推測では、約40万人のラオス人が1975年から1980年代の後期までに(主に)フランスやカナダ、アメリカ合衆国、オーストラリアに逃げ込んで亡命した。ラオス国民の大移動は、ベトナム人やカンボジア人の大移動のようには知られていない。この理由はおそらく、これが前者の規模に相当するものでもなければ(約175万人のベトナム人が1975年から1990年代半ばまでの間に国から逃亡した)、カンボジア人生存者たちのような極度のトラウマを特徴とするわけでもなかったという事だ。 ラオス人難民の逃亡理由を述べる際、報道は通説を繰り返す。「一部のラオス人たちは再教育収容所に入れられる事を恐れて逃亡した。他の者達が出て行った理由は、政治的、経済的、宗教的な自由を喪失した事である」というものだ(UNHCR 2000: 99)。これらの要因や事情は、概ね正しいのであるが、これらの説明には亡命者達のプロフィールや体験を均質化する傾向があり、まるで彼らが年齢や性別、あるいはエスニシティに関わらず、同一の必要に迫られて一様な集団を形成したかのようなのだ。筆者がインタビューの対象としたのは、ラオス系オーストラリア人で、1960年代初頭から1970年代後期に生まれた人々である。筆者が調査を試みた集団が、歴史的な出来事、すなわち、政治体制の崩壊と社会主義者の支配の出現、そして大量脱出を、人生のほぼ同時期、子供時代から成人期にかけて生き抜いた人々であったからだ。若いラオス人難民たちは重要であるにもかかわらず、見過ごされた集団であったのだ。1975年以降にラオスから逃げ、1975年から1987年の間にタイのキャンプを通過した人々の約40%は13歳から29歳であった(Chantavanich and Reynolds 1988: 25)。 共産主義の勝利に続く時代の記憶は、ラオスにおける厳しい生活環境を描く。設立当初から、新政権は存続を懸けた戦いを行っていた。彼らはアメリカの空爆によって破壊された国家の再建という、途方もない課題に直面していたのである。1975年以降、西洋諸国の大半は支援をやめるか、その援助を大幅に削減した。隣接するタイが通商を禁じた事が、経済を苦境に陥れた。さらに、一連の自然災害(1976年の干ばつ、1977年と1978年の洪水)は、農業生産を著しく妨げた。日常生活は一層束縛され、国内の移動が制限されて、日常的な監視は強化された。SomchitとVilayvanhは当時、十代後半であった。二人共、ビエンチャンに住んでいた。Somchitは数年前に学校を卒業し、運転手として働いていた。Vilayvanhは大学生であった。Somchitは首都ビエンチャン近郊の村に育ち、1975年には19歳であった。彼はその頃結婚したてで、妻と共に彼の雇い主がビエンチャン郊外に用意した家に引っ越したばかりだった。Somchitは成人期を目前に、彼の周囲で世界が崩壊していく様を目にしたのである。彼が記憶していたのは、「物事が不安定(voun)になり」、「混沌(voun vai)としてきた」事であった。同じ時期、彼の妻は二人の赤ん坊を死産させている。「私の人生は行き詰ってしまった(bor mi sivit lort)」。彼が出て行ったのは1978年で、メコン川を泳いでタイに渡った。彼の妻は彼女の両親と共に留まる事を選んだ。Vilayvanhは南部のチャンパサック県の村で育ち、彼女がビエンチャンのロースクールの二年生であった1974年は、Somchitと同じ言葉を用いれば、「事態が混沌としてきた(voun vai)時代であった。彼女は学位を取得する事ができず、1975年以降は医学の道に転じた。彼女は1990年まで国を出なかった。 SomchitとVilayvanhの話は、両者が「混沌とした」、「不安定な」と表現したこの時代の記憶について、同様の圧倒的な不安感を伝えていた。彼らのナラティブは、特定の歴史的時期の中で、個人的な体験や彼らの周囲の人間、つまり家族や仲間たちの体験を介して形成されたものである。SomchitとVilayvanhは、歴史的出来事の主観的体験の共有によって定義される世代コホートに属している。これはカール・マンハイムが「連関世代(generation as actuality)」と名付けたもので、特定の生涯の一時期における「歴史的問題」の集団的体験が、解釈や内省によって結び付けられる方法である((Mannheim 1952: 303)。Thomas Burgessの社会変動の時代における青年期の定義も、これが安定した「伝統的」社会からの決裂の重要性を強調するために有用である。彼の言葉によると、「断絶がより決定的である場合、(…)青年期はライフサイクルの中の一時期としてよりもむしろ、歴史的コホートとして出現し」、それは「その世代を前後の別世代から隔て、一段と多くの交渉や変動、創作の余地がある特有の歴史的背景やナラティブ」によって定義されている(Burgess 2005: x)。言い変えると、破壊の時代(例えば戦争、自然災害、社会的危機など)における青年期は、より自律的な範疇になるという事だ。急激な社会的、政治的変化の過程を生きた若者として、SomchitとVilayvanhは、それぞれに違ったやり方でその状況に対処したのである。 成人期に入る寸前に、Somchitの人生は痛ましい個人的出来事に押しつぶされ、威圧的な政治・社会経済環境に捕らわれてしまった。相応の人生を送る可能性の欠如が、彼の移住の決心を支えていたのである。Somchitの境遇は、彼に全てを捨てさせる事を余儀なくした。メコン川を泳いで渡りながら、彼が「携えていたのは自分の身一つであった」(aw tae […]

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寄生者達の楽園:ダン・ニャット・ミン『グァバの季節(The House of Guava (Mùa ỏ̂i)』における記憶の消去

記憶、哀悼、そしてメランコリーは、ベトナムの国民的映画監督で脚本家でもあるダン・ニャット・ミン(Dang Nhat Minh)の映画の中で、一際重要な位置を占めている。1938年にフエに生まれたダンは、ソビエト共和国で学び、そこで映画製作に出会った(Cohen, 2001)。国が出資した彼の作品群、『十月になれば(When the Tenth Month Comes (1984)』、『ニャム(Nostalgia for the Countryside (1995)』、『河の女(The Girl of the River (1987)』そして『きのう、平和の夢を見た(Don’t Burn (2009)』などは、概して国家の共産主義的イデオロギーを宣伝し、戦争の英雄たちを称え、国民の福祉のための集団的な社会闘争を謳ったものである。本稿の焦点となるダンの1999年の作品『グァバの季節』は、この作品群(とその出資者たち)とは相容れぬもので、党路線から外れている(Bradley, 2001: 201-216)。『Mùa ỏ̂i(文字通り、「グァバの季節」)』と題された本作は、ダン自身の短編小説『昔の家』を映画化したものである(Lam 2013: 155)。この作品は、二年がかりのお役所仕事を片付けた後にようやく撮影開始が可能となり、1999年の封切以来、ベトナム国内では上映された事がない(Cohen, 2000)。 『グァバの季節』はフランスで教育を受けたベトナム人弁護士と、彼の親仏的な中流家庭の物語で、背景は1954年から1980年代後期の歴史的大断絶の時代である。弁護士は自ら設計した現代的な屋敷をハノイに建てさせる。物語の中心はこの弁護士の三人の子供たちである。真ん中の子、ホアは、家族が庭に植えたグァバの木の実を採る最中に木から落ちて頭に怪我をする。物語はホアが50歳のところから始まる。彼の一番上の兄のハンはドイツへ移民し、ホアの妹のトゥイが彼の面倒を見ている。現在と過去が静止したままぶつかり合う。頭に怪我をした事によって、ホアの記憶と知能は時間の中に凍結され、1959年から1960年に北部を席巻した土地改革で一家が追い出され、家財を没収された後も没落を拒む(Cohen, 2000)。 筆者の主張は共産主義の神話、共同所有権に対するダンの大胆不敵なカウンター・ナラティブと、個人の記憶の映画的表現が相まって、国家と個人の記憶の間に数多く存在する亀裂を浮彫にしている事である。もう一つの記憶の舞台を設ける事で、『グァバの季節』は個人の記憶の大規模な消去に光を当て、国家の集合的な歴史と記憶の二段階での正当化や、さらにはその「記憶」の背後にある新旧の政治体制にも疑問を投じる。さらには『グァバの季節』が共産主義体制の非情さを拡大してみせるため、中流家庭の家財没収だけでなく、記憶の諒奪の試みによって、等しく腐敗し、矛盾した社会的平等と集団性という共産主義のイデオロギーに余地を作ろうとした事に焦点を合わせる手法も示す。記憶にまつわる政治体制の変化という複雑な物語に対するダンの語り口と視覚表現の想像力に富んだ映画的言語を、三つの主要な局面を通じて分析する。それらは忘却、消去、そして隔絶である。最後に、ダン映画の中で記憶がどのように経験として具現化されるかを示す。 『グァバの季節』は、サンダルを履いた一組の足が、ハノイの現代的な屋敷のフェンスに沿って忍び歩きをする35ミリのクローズアップから始まる(図 1)。このシーンに続くのは屋敷の中から見たフェンスのロングショットである。ホアの顔と目がフェンスの穴から覗き、彼の父親がかつての自宅に植えた一本の背の高いグァバの木を見ようとしている。現在の住人は政府高官と彼の甘やかされた大学生の娘のロアン、そして彼らのために料理や掃除をする年配の女中である。残りの家族は皆、ホーチミン市(サイゴン)にいる。50歳のホアはフェンスをよじ登り、再び自分のグァバの木を訪れようとするのだが、不法侵入で捕まり、警察署へ行くはめとなる。彼の妹のトゥイは、彼を助け出すためにホアが精神障害者であるという確認書に署名をする。 心の痛むようなシーンが繰り広げられ、我々は程なく、ホアが自分の思い出の中に生きている理由を理解する事になる。トゥイは警察署からホアを自転車の後ろに乗せて自宅に連れ帰る。彼女はまるで彼が小さな子供であるかのように服を脱がせるのを手伝い、シャワーを浴びるように言いきかせる。彼の汚れたズボンのポケットの中身を出している時、彼女は彼が父親の植えた木からもいできた一つの緑色のグァバの実を見つける。彼女がそれを手の平に乗せていると、グァバの重みと手触りがトゥイの記憶を呼び覚ます。彼女の家族に何が起きたのか、とりわけ、何がホアの精神を危機的状態に追いやったのか(図2と3)。トゥイはそこで、自分たちの家族の歴史とホアの人生の物語をナレーションで語り、背後には家具がある、彼らの暮らしていた30年前の家の回想シーンの映像が流れる。 『グァバの季節』は、サンダルを履いた一組の足が、ハノイの現代的な屋敷のフェンスに沿って忍び歩きをする35ミリのクローズアップから始まる(図 1)。このシーンに続くのは屋敷の中から見たフェンスのロングショットである。ホアの顔と目がフェンスの穴から覗き、彼の父親がかつての自宅に植えた一本の背の高いグァバの木を見ようとしている。現在の住人は政府高官と彼の甘やかされた大学生の娘のロアン、そして彼らのために料理や掃除をする年配の女中である。残りの家族は皆、ホーチミン市(サイゴン)にいる。50歳のホアはフェンスをよじ登り、再び自分のグァバの木を訪れようとするのだが、不法侵入で捕まり、警察署へ行くはめとなる。彼の妹のトゥイは、彼を助け出すためにホアが精神障害者であるという確認書に署名をする。 心の痛むようなシーンが繰り広げられ、我々は程なく、ホアが自分の思い出の中に生きている理由を理解する事になる。トゥイは警察署からホアを自転車の後ろに乗せて自宅に連れ帰る。彼女はまるで彼が小さな子供であるかのように服を脱がせるのを手伝い、シャワーを浴びるように言いきかせる。彼の汚れたズボンのポケットの中身を出している時、彼女は彼が父親の植えた木からもいできた一つの緑色のグァバの実を見つける。彼女がそれを手の平に乗せていると、グァバの重みと手触りがトゥイの記憶を呼び覚ます。彼女の家族に何が起きたのか、とりわけ、何がホアの精神を危機的状態に追いやったのか(図2と3)。トゥイはそこで、自分たちの家族の歴史とホアの人生の物語をナレーションで語り、背後には家具がある、彼らの暮らしていた30年前の家の回想シーンの映像が流れる。 […]

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カンボジアの記憶が現れた効験のある場所

社会学者であるモーリス・アルヴァックス(Maurice Halbwach (1925))の記憶にまつわる有力な論文の出版に際し、ポール・コナトン(Paul Connerton)はこれを評して「集合的記憶」を論じ続ける上で、この語には「極単純に、個人間のコミュニケーションの現実」が包含されているとの認識が必要だと言明した(Connerton 2010: 38)。アルヴァックスの根本的な教えに倣い、筆者は本論における集合的記憶の意味を、社会集団によって生み出された過去の出来事のナラティブとし、また常に現状を考慮して再考され、語り直されるものとする。この論文では、9年間に及んだカンボジア西部のポーサット州でのフィールドワークに基づき、集合的記憶を生成し、伝達する個人的活動であるコミュニケーションが、場所を介在して行われている状況を説明する。カンボジアにおけるクメール民族の集合的記憶は、土地に関する認識や慣習と密接に結び付いたものであると考えられる。この結びつきは、社会生活の多くの側面における土地の決定的な重要性を反映するものだ。つまり、集合的記憶は必ずしも国家的なものとは限らず、地域的なものでもあるという事だ。 宗教体系における重要要素としての土地  カンボジアでの土地は、80%の人々が今でも田園地方に暮らす中で生活の中心となっている。また、土地は国民の宗教体系にとっても重要なものである。大地は今なおクメールの宗教体系の中で重要要素であり、その最も明白な例は土地の守護精霊(anak tā)と彼らの住処との深い結びつき(Ang 2000)や、視覚文化に頻繁に引用される大地の女神Braḥ Dharaṇī (Guthrie 2004)である。このような信仰は、古代東南アジアの諸宗教における「大地の力の神格化」という、より大きな概念に支えられたものであり(Mus 1933: 374)、この概念の中で、大地と大地の精霊たち、あるいはヒンドゥ化過程の後にはヒンドゥの神々が融合され、固有の実在となっている。この土地に付された大地の力を神と融合させ得る力は、カンボジアではサンスクリットでデーヴァ・ラージャ(神のような王)信仰として知られるkamrateṅ jagat ta rājyaというアンコール朝の宗教以来、馴染みの深いものとなっている。古典的な解釈では、これを王と(特に)シヴァ神(Coedes 1961)との結合を祝するものと見なすが、別の学者達(Jacques 1985など)は、これがaN anak tāや王の守護精霊の性質の一部を具えた神と見なしている((Estève 2009)。 カンボジアでは、東南アジアの大部分と同様で(Allerton 2013)、そのような信仰が特定の場所にそれ独自の介在者を与える。この介在者はカンボジアでは、主にmcās’ dịk mcās’ ṭī,、「水と大地の支配者」の姿をとって現れる。彼らの主な懸念は、自分たちの土地を不適切な行いをする訪問者や、許しを請わずに木を伐り果物を取る欲深い土地の利用者たちから守る事である。 上の要約はPaul MusやAng Chouleanなどの優れた人類学者達によって詳述されたカンボジアでの土地のオントロジーの基本原理を紹介するものである。筆者は自身のフィールドワークから、カンボジアでは大地と時が異なるオントロジーとしては認識されておらず、むしろ一つの範疇内で括られたものであるとの判断に至った。これを可能にしているのが、クメール人のparamī (boromeyと発音される)の力の認識である。(国あるいは地方レベルで考えられる)カンボジアの領土は、「paramīが充満した」、効験があると認められた場所のネットワークによって構成されている。そのような場所は、特別な古い僧院をはじめ、立派な形をした特定の古木や、樹木が茂り、壊れた像の転がった丘など、様々である。どのような形にせよ、そのような効験あらたかな場所の大半には、宗教や王権にちなんだ歴史上の出来事との関連性が共通して存在している。Judith Bovensiepen (2009)が述べたティモール・レステの事例と同様で、カンボジアの土地は所定の場所で起きた過去の出来事を、いわば「吸収する」事ができるのだ。 上述の大地の性質は、効験のある場所を記憶の場として機能させ得るもので、そのような場所で過去の出来事が記憶され、(とりとめもない事もあるが、大抵は祭祀の根拠についての)解釈を与えられる事で、現代の社会生活や個人生活と関わり合っている。ここで紹介する事例研究の主題は、クレアン・ムアン(Khleang […]

Issue 20

タイ北部都市で記憶と歴史を彫り、鋳造する

記念建造物や彫像は、集合的記憶の定義を試みる国家の間で久しく普及している。そのような彫像記念物に対する執念は、一部の者たちによって、ある種の「彫像狂」とさえも表現される。これは西洋だけでなく、タイのような場所でも国家のエリートや都市プランナーたちの病なのである。タイでは新たな記念建造物が20世紀初頭からバンコクの都市景観に点在するようになった。この熱狂は様々な方法で拡大を続けており、最近ではタイのホアヒンのラチャパクディ公園の建設が「軍事政権によって安置された7人の王の記念像があるテーマパーク」と表現されている。 この彫像記念物に対する執心は、現在を超え、中央を超え、国家を超えて広がっている。軍事政権のラチャパクディという歴史テーマパークは、王族を記念建造物によって顕彰するタイの長い歴史の最新の現れであるに過ぎない。同様に、絶対君主制の黄昏時におけるバンコクの都市変容は、彫像狂の一背景に過ぎぬものであった。例えば北部都市のチェンマイでは、歴史記念建造物はこの都市及び地方の歴史上の重要期のみを示すばかりか、何よりも、国家が地域の記憶に主流の王党派・国家主義者の歴史テーマを押し付けんとする試みの地域的バリエーションをも示しているのだ。最後に、彫像狂は画一的な国家主体のみが患う病ではなく、むしろ、様々な主体や利害関係によって共有される疾患である。個々の芸術家たちがこれらの彫像を自分たち自身で彫り、鋳造する一方、国家や地方のエリートたちもまた、これらの「不動の記憶」によって表された国民的記憶の形成に取り組んでいるのだ。 クルバ・スリウィチャイ(Khruba Sriwichai) チェンマイに建設された最初期の近代的彫像記念物の一つはクルバ・スリウィチャイ(1878-1938)に捧げられたものである。彼はカリスマ的な僧侶であり、タイ政府の徴兵制度の方針に対する抵抗や、意欲的な寺院再建の経歴、街はずれからドイ・ステープ山頂寺院への道路の建設によって最もよく知られており、これら全てのことのために彼はタイ政府当局側にとって、ちょっとした目の上のこぶとなっていた。  クルバ・スリウィチャイのための記念碑建設を押す動きは、地元から、特にチェンマイ初の議員Luang Sri Prakadによって始められた。記録資料は、彼の記念碑に対する熱意や、政府内でこれを推進し、ドイ・ステープ麓にこれを設置しようとした努力を十分に実証している。一見、このようにタイ政府にとって厄介な人物の記念碑が中央国家によって、これ程強く支持された事を知ると意外に思うかもしれない。この彫像が地方の多様性の認識に向けたより大きな動きの一環だと提言することはあまりにも単純であろう。だが、この記念碑は確かに「地元に、あるいは地域に根差したディスコース」の焦点となったのである。地元のイニシアティブに応じて、タイ政府はこのカリスマ的で厄介な僧侶の遺産を統合せんと試みていたのである。この点において、これは初の試みではなかった。例えば1946年には、タイ王国が援助した公式火葬の後、彼の遺骨は六分割され、北部各県に分配された。1938年に亡くなった時、彼は依然として北部地方のアイデンティティーの象徴であったが、これはタイ政府が牛耳るシャム・タイ国民のアイデンティティーとは、せいぜい異なったものであって、下手をすると正反対のものであった。ようやく18年後の1956年にこの記念碑が設置された時、個人の記憶はなお、この製作と受け入れにとって重要であった。スリウィチャイの記念碑は、彼のカリスマ性の一部を中央国家に移転する事で、この厄介な僧侶の記憶を「手懐け」ようとするものであったかもしれないが、また地元の記憶のディスコースに開かれたままとなっていたのである。 タイ国家はこの記憶の形成を、彫刻家シルパ・ビラスリ(Silpa Bhirasri)の作品を通じて行った。元はイタリアのフィレンツェ出身で、帰化してタイ市民となったシルパは、後に近代タイ美術の父、そしてピブーンソンクラーム首相の主な彫像プロパガンディストと見なされるようになった。Maurizio Peleggiは、ピブーン時代に彫像記念物が「政治的プロパガンダの媒体として配置された」と記している。シルパはバンコクで特筆すべき彫像、例えばタクシン騎馬像の記念建造物などを製作したが、彼がデザインしたバンコクで最も有名な記念建造物は民主記念塔である。彼は他の彫刻家たちも養成したが、その中には彼のスリウィチャイ像の彫刻と鋳造を補佐したKhiem Yimsiriや、チェンマイで最も有名な記念建造物である三人の王の記念碑を27年後に製作する事となったKhaimuk Chutoなどがいる。 三人の王 最も有名で広く複製されるチェンマイの記念碑は中心地に位置し、三人の王族の肖像によって構成されている。それらはパヤー・マンラーイ(Phya Mangrai)、パヤー・ンガムムアン(Phya Ngam Muang)と、通常はラームカムヘーン(Ramkhamhaeng)として知られる13世紀のスコータイ王で、タイ史に慈愛に満ちた王権の概念を打ち立てたパヤー・ルアン(Phya Ruang)である。この記念碑は1296年にこの都市が建設された時、この三人が会ってマンラーイの新たな都市の位置や設計、規模を定め、これが彼の新たなラーンナー王国の首都となったという物語を伝えるものだ。 この記念碑の発端は複雑で、実際にはマンラーイだけの記念碑を建てようとする地元の動きとして始まった。1969年には地方委員会が組織され、マンラーイ記念の取り組みに便宜が図られたが、この委員会が芸術局(FAD)と接触し、この記念碑のデザインを依頼した。彼らはさらにSukit Nimmanhemin教育大臣にも接触し、土地とFADの支持を確保した。1969年の夏にはこの大臣の提案によって、FADはマンラーイの記念碑という概念を、三人の王の記念碑へと変えてしまった。それはなぜか?政府が一年後に行った説明によると、彫像記念物の増殖には「混乱」を招く可能性があったためということで、つまりは、タイ政府によって認可されない歴史の記憶を作り出す事になる、という意味である。1970年3月に政府は新たな政策を発表した。それは、重要人物の記念建造物や記念碑の計画はいかなるものであれ、政府に提出し、政府が検討する必要があるというものだ。地方の彫像狂の問題が、政府の最高レベルの懸念となったのである。それでもなお、一人の王から三人の王への変更問題は、引き続き人々の関心を集めた。6月5日の地元紙は次のように問いかけた。「マンラーイの記念碑:一人の王か三人の王か、どっちが良い?」チェンマイ知事は、他の王たちを入れるとマンラーイの重要性が薄れること、また、特に若い世代向けの説明を追加する必要が出てくるとの不満を述べた。地元の旧チェンマイ王国の子孫たちもまた、マンラーイだけの記念碑の方が良かったようである。 一度、ンガムムアンとラームカムヘーンが加えられると、この記念碑の構成の問題がさらなる論争を生んだ。マンラーイは中央に立っているが、威厳たっぷりに中心となった人物はラームカムヘーンであり、他の者たちは彼の話を聞いているのである。地元民たちの中には、マンラーイを中心から外すというナラティブに不満を表明する者たちもいたが、他の者たちは、なぜラームカムヘーンがもっと中心とならないのかと尋ねた。国家的な見地から見ると、彼は当然、より重要であると考えられるためだ。ラームカムヘーンとマンラーイの主役争いは様々な方法で行われた。例えば、記念碑落成にちなんだ記念のお守りが発行された時、ラームカムヘーンの名前はマンラーイの名前よりも先に、最初に記載されていた。これらの人物のデザインも、また意味ありげである。彫刻家でタイ王妃の親族であるKhaimuk Chutoは、王たちの顔つきを彼らの人柄を反映したものとして思い描いた。マンラーイは美形で、ラームカムヘーンは支配者らしく、ンガムムアンは「ハンサムで気が多い」といった具合だ。 おそらくタイ政府の観点から見れば、マンラーイとラームカムヘーンを二つの中心とする事は妥協であっただろう。だが、チェンマイの観点から見ると、これは国家の歴史を地方の記憶の上に押し付ける事であった。一人の王の姿を三人に増やす事で、この記念碑は歴史的ディスコースをタイ国家の指示通りに再び中央化し、チェンマイの歴史をバンコクの歴史と結びつける事となったのだ。 彫像が体現するもの これらの彫像は世俗的な記念建造物として存在するだけでなく、信仰や儀礼の対象でもある。事実、世俗彫像と宗教彫像との境界線は、大部分の東南アジアにおいては不明瞭である。バンコクの王たちやその他の人物の彫像記念物は、容易に崇拝や儀礼の中心となり得るものであり、多くの本物そっくりの僧侶の彫像が地域の博物館や寺院に設置されている。完成した後の三人の王の彫像がチェンマイに入る様子は、古代の王たちさながらで、市内北部のチャンプアック門を通った後に市内中央の聖域に進んで行った。彫像はまるでそれらが王たちであるかのように動かされ、今日では代々の王権を体現するものとしてあがめられている。この記念碑はタイ政府による支配をよそに、市内中心部の呪力・霊験を主張する競合集団によって再解釈され続けている。 同様に、クルバ・スリウィチャイ記念碑もまた、宗教的、世俗的、両方の記憶を体現している。例えば1972年には、スリウィチャイとその弟子が山麓に建設した道路の基点近くに位置するWat Sri Sodaという寺院が、この彫像の寺院敷地内への移動を要求した。実際、彼らはこの彫像を宗教的彫像として要求し、彼らの方がこの彫像をより良く保護する事が可能であり、功徳を積むための儀式にも便宜が良くなると主張したのである。地元Khon Muang紙に発表された論説はこの計画に強く反論し、それをただの金儲けとして、元々の場所が選ばれたのは、この彫像を広い範囲から見えるようにするためであり、それによって人々がこの高僧の善行を記憶しておく(ramlukthung)役に立つからであると主張した。現在、この記念建造物は元の位置に留まり、記憶と崇拝の焦点となっている。 結論 全ての記念建造物は集合的記憶を幾分、歪めるものである。上で検討した記念碑は、今日のチェンマイに数多くある、歴史的記憶が姿形を与えられた場所のうち、ほんの二つの場所である。三人の王、あるいはクルバ・スリウィチャイ記念碑移動の簡易計画をめぐる論争は忘れられるべきではない。なお、一度は議論の的となった彫像を、地域のアイデンティティーの象徴として再配置する事も可能である。三人の王たちのシルエットを用いて、何でも北部、ラーンナー、あるいはチェンマイの標識とする事ができる。ニューヨークに自由の女神があるのなら、チェンマイには三人の王があるのだ。芸術家たちがこれらの彫像を刻むのと同様に、社会的、政治的諸勢力は記憶の風景を形成する。だが、「彫像狂」を地域的観点から検討することで明らかとなるのは、地域の記憶を体現するものに対する細かい政治的制限が、どのようにラチャパクディ公園にあるような彫像、つまりは、軍部の認めた超王党派、超国家主義者版タイ人のアイデンティティーと歴史のぶしつけな道具を作り出すことができるのかという点である。 Taylor M. Easum […]

Issue 20

対抗的記憶:タイのデジタル映画における政治的暴力の再考

タイ語の記憶にあたる言葉、khwamsongcham = ความทรงจำの中心はsongであり、これは文字通り形式、あるいは媒体と訳される。khwamsongchamという語は、それ自体の中に具体的な(常に解釈されたものではあるが)過去を作り出し、社会的慣習や物質的文化などを含んだ様々な形式や媒体を通じた記憶の変容能力を示唆している。人が具体的な記憶に努めるのは、忘却への恐れがあるためだ。タイが12回連続で軍事クーデターを経験したのは、絶対君主制から移行した1932年以降の事である。今回の軍事政権の出現は既視体験を呼び起こしたものの、残念な事にバンコク中産階級の公共圏に抵抗運動を引き起こす事はなかった。そこに見られるものは、国家安全保障や社会的秩序の維持などに溢れたグランド・ナラティブの強化である。この軍事独裁主義の「感じと匂い」は、軍事クーデターが2006年に讃えられ、2014年には中産階級の少数派から許容可能なものとして容認され得るよう、親近感を作り出した(のであろうか?)。主流メディアの報道は、タイの人々が軍事政権と現状を受け入れているかのように仄めかすであろうが、我々が論じる自主映画は、対抗的公共圏として機能し、巧みな多義的表現を通じた抵抗を提供する。 タイ映画における対抗的公共圏の文化 現代のタイにおける独裁主義的状況の中、報道機関やオンラインのソーシャルネットワーク、ウェブ2.0の公共圏は縮小してしまった。ところが、ミクロの対抗的公共空間や反体制的社会運動は増えている。道徳的秩序が国家安全保障と混同されるようになり、この秩序を乱すと思しき思想や表現の罪には法廷での訴訟や罰金、パスポートの取り消し、国外追放、実刑判決などによる処罰が可能となった。国家検閲の強化は反対意見を抑圧するよりもむしろ、新たな政治色の強い自主製作のタイ映画を生み出すこととなった。製作やキュレーターシップにおける新技術、またソーシャルメディアを通じた新たな配給回路などがこれを可能にしたのである。 マイケル・ワーナー(Michael Warner)が示唆するように、「オルタナティブな公共圏が社会運動として位置づけられる場合、それらは国家に対する働きかけとなる。それらは政治の一時性に加わり、自身を合理的で批判的な言説の遂行文(performatives)に適応させる。多くの対抗的公共空間にとっては、そうすることは政策のみならず公共生活空間そのものをも変化させようとしたもともとの願いからの譲歩となっている。」タイの有識者や映画製作者たちが、彼らの反対意見を私圏に止めておくことを拒否することが、ミクロ・オルタナティブ・アート・スペース(カフェやギャラリー)の出現や、YouTubeやウェブ2.0などへのオープン・アクセスでのオンライン参加をもたらすことになった。これらの新たなミクロ対抗的公共空間は、多義的な風刺や両義的な語句を用いることで逮捕を回避している。 タイ(当時はシャム)映画の最初の国家検閲は1930年の映画法令であった。過去10年の間に新たな検閲法が出現し、刑法(1956, 2007)112条のコンピューター関連犯罪法(2007)と国内治安法(2008)の改正によって不敬罪法が拡大された。同じ10年間に、20作以上の自主映画が製作され、国内外の主要映画祭で公開上映されてきた。タイでインディーズ映画の拠り所となっているのは都市部のカフェや本屋、ギャラリー、領事館、それに大学などの場である。映画評論家のKong Rithdeeによると、タイ映画財団は「短編や自主映画を製作するタイの映画作家たちのための公共圏の創出にとりわけ重要な役割を果たし...映画およびデジタル映画の民主化」を、ワークショップや番組制作、映画祭などを通じて行っている。このような形で、インディーズ映画は政治的暴力の再考と記憶のための領域を切り開いてきたのである。 対抗的公共空間としての自主映画が細心の注意を払ってきたのは、記憶・歴史、そしてスローな映画美学であった。以下に論じる諸作品は、これら全ての特質を備えたものである。ここで取り上げる作品は、タイで繰り返される政治的暴力との対話、公開上映の機会が一回以上のものであること、また作品がオープンソースの中道左派のオンライン・ニュース・メディア、たとえばprachataiなどで再流通しているものであることを選択基準としている。 実験的ドキュメンタリーは記憶する:テロリスト(2011) タンスカ・パンジッティヴォラクル(Thunska Pansittivorakul)の映画「テロリスト(Terrorist)」は対照的なプラットフォームを備え、国家の政治的暴力の様々なシーンが親密な家族の記憶と並行して再現される。この映画は作品それ自体として見つけることが難しく、DVDやVCDの市場に流通もしていなければ、YouTubeなどのプラットフォームでその全編を入手できるものでもない。予告編は明らかに衝撃的で、男性のマターベーションのシーンが最近の2010年のバンコク路上の政治的暴力のシーンと並置される。この鑑賞体験は、同時に起こる性的、肉体的な暴力と喜びを直感的に具現化したものである。オンラインのニュースソースprachataiの抜粋では、ヌードシーンを避けて、政治的暴力のシーンのみが表示されている。 映画の特別な見どころは、タンスカの母親がタイ共産党に加わった経緯についてのオーラル・ヒストリーを、母親と一緒にいる子供のタンスカの写真や、1976年10月6日の虐殺の写真と並置していることである。写真は我々の最も私的な記憶についてさえ、その証左として残す。写真はまた、1976年10月の虐殺の残虐性と衝撃的要素の紛うこと無き証言を提供する事もできるのだ。その残虐行為を暴力シーンの再現によって記録するにあたり、写真はまた、殺された者たちと暴力の関係者であった「国家主義的市民や国家当局」の両者を非人間化させる事も可能なのだ。 「空低く大地高し(バウンダリー タイの主要な劇場で商業上映され、Vimeoで18+の評価を受けた「空低く大地高し(2013)」は、南部の弾圧-2008年プレアヴィヒアにおけるタイ・カンボジア間の銃撃戦-に加わるよう召集され、その後、2010年5月に赤シャツ隊の鎮圧に送られた一人の若者の生涯を追う。この映画の原題“Fatum Paendin Soong”「空低く大地高し」が物議をかもしたのは、これがタイの社会的不公正や社会的階層化に異議を唱えるものと思われたためであった。タイ語での境界は“khet daen”として周知されている。ノンタワット・ナムベンジャポン(Nontawat Numbenchapol)監督によると、「境界の一つ目の意味は、貧しい農村の人々と搾取的なバンコクの中産階級とを分けるものである。二つ目の境界は、カンボジアの人々を国境によってタイから隔てるものである...私はプレアヴィヒアの山の国境に立っていた事を思い出した。その場所で、空と大地がつながり、共に存在していると感じていたのです。そのメタファーは、タイがいつの日か和睦する事を願ったものでありました。」要するに、この映画が具現化しているものは、国家がつくり出す領土や境界を通じた、現在にとっての過去、あるいは過去にとっての現在である。 ディレクターズ・カットでは、バンコクのラチャプラソン交差点での王の83歳の誕生日祝いのシーンが、ほんの数か月前に同じ場所で起きた赤シャツ隊の虐殺のシーンに入れ替わり、王族の賛辞や歓声、祝祭と共に映し出される。この並置は、場所が持つ複数の意味あいについて内省を促し、祝祭がどのように虐殺という汚点を置き換え得るかという設問を提起する。この多義的な表現ゆえに、タイの検閲委員会はこのシーンの削除を要求し、監督はこれに応じることとなった。2007年の112条の導入以来、国家当局は君主制に関するあらゆる発言の監視を余念なく集中的に行うようになり、不敬罪の違反者たちを政府の脅威である危険人物として標的にしている。 同様に、複雑な過去から構築されたタイ・カンボジア国境は、国内の政治問題を通じた敵の国家的記憶を具現化したものである。Pavin Chachavalpongpun、Charnvit Kasetsiri、Pou Suthirakの研究が示唆するように、タイ・カンボジアの国境は、歴史、記憶、政治や経済関係によって構築されている。境界はここでは字義通りの意味では用いられず、むしろ過激な国家主義や国内の政治問題の温度によって決められる敵か味方かの要素の狭間の動きを示している。 「ブリーフ・ヒストリー・オブ・メモリー(A Brief History of Memory (2010)」 「ブリーフ・ヒストリー・オブ・メモリー」はチュラヤーンノン・シリポン(Chulayarnnon Siriphol)によって製作され、何度も上映された作品で、バンコク国際短編映画祭(the Bangkok […]

Issue 19

周縁からの「宗教」再考

随分と前からタイでの仏教の衰退を嘆く言説を耳にしてきたが、そのほとんどは金銭や呪術、セックスなどに関与した僧侶たちの醜聞を伴ったものだった。このような現実は必ず、近代やグローバル化のせいにされてきた。しかし、国家に認可された僧侶組織としてのサンガ(僧伽)の相対的な衰退が、必ずしも宗教全般の衰退を意味するわけではない。そこで求められているのはむしろ、研究者が近代国民国家の形成過程で促された宗教の制度化や、宗教自体の概念を再考する事で、東南アジアの諸宗教に対する、より細やかな理解を提供することである。 宗教、国家、中心からの視点 我々の上座部仏教や、より広い東南アジアの宗教全般に対する理解は、二重の目隠しによって視野を狭められてきた。一つは、西洋に由来する「宗教(religion)」という言葉そのものである。非西洋社会でこの言葉の用法が広く問題とされてきたのは、それが西洋を起源とするものである事と、近代キリスト教徒的バイアスがかかっているためである(Asad 1993参照)。東南アジアも例外ではない。これらの問題は、アジアにおける西洋的宗教概念の適用や、西洋の圧力下でのアジア諸宗教の変遷の双方に対する批判的なアプローチに道を開いてきた。キリスト教の歴史の過程で発生した合理化や、それに続く世俗化が、ウェーバー(Weber)やバーガー(Berger)といった宗教社会学者たちによって繰り返し論じられてきたのとは対照的に、この地域では、植民地国家、あるいは植民地独立後の近代化途上の国家権力によって、合理化や標準化、制度化が進められてきた。したがって、この地域の宗教を理解する上で国家権力は不可避の重要な要素となっている。 今一つは、上座部仏教を理解するための主要なパラダイムや観点の多くが、国民国家形成時のタイに由来しているということである。このことは我々の上座部仏教や、おそらくはこの地域の他の諸宗教に対する理解の仕方を様々に形作り、また我々の知識形成の方向性をも定めてきた。村落仏教にしても、仏教と精霊崇拝、森林の僧たちと僧院組織との関係、あるいは王権と国家にしても、これらの研究主題は主にタイから発せられたものであり、そこでの理解のパラダイムは、仏教と国民統合に焦点を置いたものとなっている。このことはまた、少数民族を仏教研究の考慮外に置いてきたことにも影響している。このように、この地域の仏教研究の焦点は、僧院組織と国家との関係、そして国民国家建設における仏教の役割の考察に当てられてきたのである(Ishii 1986; Tambiah 1976)。 これらの理由から、タイ仏教研究はエリートの僧院仏教を優先してきたのだが、実際にはそうしたエリート仏教は、McDaniel (2008)の指摘どおり、過去一世紀の仏教実践を標準化する上では、ごく限られた効果しかもたらしていない。一方、仏教は国民国家建設の営みにおいて一つの重要な「タイ人たる」指標となってきた。少数民族が仏教以外の宗教を選択すれば、それは彼らが自分達を非タイ人としてのアイデンティティを明示するための選択と見なされる。あるいは逆に、少数民族が仏教を実践すれば、それは何がしかの意味で異端の仏教と見なされてきた。 これまで仏教は、二重の意味で中心からの視点で論じられてきたといえる。第一に、仏教はその組織と国家の関係を理解する上で僧院の中心、またしばしば国家、王室の中心からの視点で、考察されて来たのである。また第二に、仏教は、「仏教的」、あるいは「非仏教的」と分類される多様な要素によって構成される、習合的な複合全体の階層の中心点とも目されてきた。 以上のようなサンガ中心のエリート主義的観点を相対化する試みは、これまでも繰り返されてきたのだが、この中心-周縁の構図が前提とされる限り、周縁の宗教要素は中心に対する抵抗と見られる傾向にあり、結局は中心‐周縁の理解モデルを強化してきたのである。少数民族の仏教実践を、多数派の仏教に対する何らかの抵抗として、あるいはアンチテーゼとして見なす限り、我々は国家を中心とする制度仏教とその他の少数民族の宗教という二分論、対立という従来の見方を上書きする事になる。 宗教と三つの境界 以上の見方では、民族カテゴリーを、宗教実践理解のための自明で自己完結した単位とみなすことになり、仏教徒・非仏教徒、多数派・少数派、中心・周縁などの二分化を前提としこれらの明確な区分とされるものを横断するような、それ以外の視点を排除してきた。このようなアプローチは、宗教実践と伝統が混ざり合い、複雑な重層を成す東南アジアの諸宗教の現実を、見えなくしてしまい、説明不可能にしてしまう。むしろ、少数民族の仏教を考察するのであれば、仏教への中心主義的な視点を根本から問い、民族と国家の区分を当然のものとする事に疑問を投じることから始めるべきである。 近年、日本の我々のグループは、境界や周縁で実践される宗教に目を向けてきたが、我々の確信は、周縁に生じる宗教動態を考察する事で、国家中心の制度宗教のパラダイムを問う事ができるだろうというところにある。ここで言う「境界」には、三重の意味あいがある。第一に、地政学的な国家間の国境、第二に、エスニシティ(あるいは山地と低地の間)の境界、そして第三に、出家と在家の境界である。さらに、隠された局面として、これらの周縁を深く探究する事によって「宗教」自体の縁辺や輪郭を問うに至ることが期待される。 エスニシティと宗教実践 この地域では少数民族が国境域に居住しているため、地政学的、民族的境界は多くの場合交差しあっている。従って、このような少数民族を理解することは、彼らが境界を跨ぐ存在であるがゆえに、国家中心の視点を問う出発点となり得る。この点から実感される事は、少数民族と宗教、多数派国家との間には複雑な関係のパターンがあり、それらをいかなる単純な公式に還元するのも不可能だという事である。 フィールドワークに基づく議論が提示する複雑な現実は、周縁の中心に対する抵抗、国家の認めた民族区分、制度宗教などを想定した既存の見解を問い直すものである。上ミャンマーのパラウン(Palaung)とパオ(Pao)の両者の間では、これまで多民族が共有する複合的宗教空間であったものが、民族別に、それぞれに独自の言語に音訳、翻訳された経典を備えた小規模僧院組織に分割され始めている(小島 2015; Murakami 2012; 村上2015)。これらはパラウン語を仏典に用いる試みを通じ、あるいは、パオの僧院組織の設立を通じて実現されてきた。皮肉なことに、このような動きを引き起こしたものは、少数民族の地域外を旅する機会を得た彼らの宗教的指導者や知識人たちの移動性の向上であった。別言すれば、境界を超え、自分達の民族の区域外の地域に行く経験が、逆説的に、民族的境界の確立を促したわけであるが、これは宗教実践における自身のエスニシティや言語の画一化という、多数派仏教徒たちの間で行われる制度化と並行した現象といえるだろう。 過去には、少数民族と低地国家との関係は「模倣か抵抗」のいずれかとされてきた。しかし、これらのパラウンとパオの事例が示しているのは、多数派、あるいは国家を中心とする低地社会の経験が、少数民族自身の仏教実践にフィードバックされ得るという事である。現実は単純な服従か抵抗かという二者択一よりも、遥かにダイナミックなものである。一見すると宗教的な境界の横断、あるいは少数民族の民族区分への囲い込みに見える現象は、実践者の観点からすれば、単なる宗教環境の改善方法なのである。この事例は、当事者自身の宗教実践がもつ意味に顧慮することなく、国境を行き来する移動性によって民族の区分が解き放たれるかのように無批判に想定することへの警鐘となっている。 民族カテゴリーの確立を分析する上で、宗教は重要な問題となり得る。20世紀ビルマのカレン族の民族意識が、宗教と仏教の再定義の過程から生じて来たものである事が解明された(Ikeda 2012)。「カレン族らしさ」の出現をめぐる仏教徒の語りは、少数民族とキリスト教その他の非仏教宗教との一般的な関連付けを改めるものであった。一方で、タイにおける中国寺廟の調査は、国家の宗教に対する規制の縁辺を解明するものであった(Kataoka 2012)。中国寺廟の信者たちは、公式の統計において自分達を仏教徒だと主張するが、習合的な神仏を祀る彼らの寺は、公式には「非宗教」と位置付けられている。国家の宗教行政から無視されてきた中国寺廟は、仏教の公式的定義と宗教自体とのギャップを提示するものである。 ここで明らかな事は、第一に、公式に定義された宗教や公認されたエスニシティの関係は、決して予想可能でもなければ、厳密に対応するものでもないという事だ。民族・宗教の関係は、一つの民族が一つの信仰を奉じているような場合でも、特に宗教と近代国家建設の再定義のプロセスの中では、決して単純なものではない。さらに、少数民族の宗教の研究は、「宗教」自体の境界の再検討につながり得るものである。 宗教的境界 宗教実践を周縁から検討する事は、制度に基づく諸制約から距離を置き、より現地や個々の実践者たちの視点から、仏教を理解する事につながってゆく。クルーバー・ブンチュム(Khruba Bunchum)や、ウ・トゥザナ(U Thuzana)など、カリスマ僧侶の国境の少数民族地域での足跡をたどる上で、我々は、少数民族の宗教運動にすぐに抵抗を読み取る既存の見解を疑問視する事から始めた(Hayami 2011; 速水2015; 片岡2015)。結局、これらの探求が明らかにするのは、現場の実践者たちにとっては、国家支持か反国家かという争点は、えてして二義的な価値しかもたないという点である。むしろ、実践者たちにとってより重要なのは、彼らの帰依するカリスマ的な力が、実際に彼らを守護し、彼らが自分達の生活状況の中で求める力を与えてくれるかどうかということなのである。 タイ・ミャンマー国境沿いでは、多くのカリスマ僧侶たちが少数民族から熱烈に崇拝されている。これらの僧侶たちは国家権力の狭間で活動し、これらの少数民族の者達にオルタナティブを提供している。だが大抵同時に、この同じ僧侶たちは、国境のいずれかの側で権力の座にあるエリートとも接触している。このように様々な帰依者たちを無差別に受け入れる事によって、彼らは境域での自由な往来を認められているのである。このような事例をもって、彼らカリスマ僧侶たちが国家を相対化しているのか、それとも国家の辺境統治に奉仕しているのか、と問うことは、そもそも的外れであるか、あるいは誤解を招くものでさえある。少数民族の多数派支配に対する、服従か抵抗か、という単純な二者択一自体が問われなくてはならないだろう。帰依者達自身にしてみれば、このような疑問はおそらく全くどうでもよいことである。したがって、周縁における宗教実践は、単なる「弱者の武器」なのではなく、完全に異なった筋から検討されるべきものである。 […]

Issue 19

シンガポールにおける仏教運動の興味深い事例

近年、仏教運動は研究者や政策担当者、実践家の間で相当な議論の的となっている。 サンガ(僧伽、出家者集団)と在家から成る仏教徒活動家は、社会的公正と政治改革運動の促進や、環境保護主義の普及、そして自身の信仰への脅迫や異端教義からの擁護を目指してきた。東南アジアという文脈で仏教運動が想起させるものには、ゴーサナンダ(Ghosananda)やティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh)らの平和運動や、スラック・シワラック(Sulak Sivaraksa)の政治・社会運動、それからもちろん、2007年ビルマで起きたサフラン革命がある。だが、このような運動は、東南アジア大陸部の仏教諸国に特有のものではない。東南アジア島嶼部の仏教徒コミュニティもまた、相応に運動を担ってきたのである。 東南アジア島嶼部と言ってしばしば思い浮かぶのは、今日のブルネイ、インドネシアやマレーシアを含むイスラームのマレー世界、そして、カトリックのフィリピンである。島嶼部の中でシンガポールが異彩を放っている理由は、圧倒的な華人人口の多さ(約75パーセント)と、あまり多くの人には知られていないが、その多くを仏教徒人口が占めることである。シンガポールで行われた2010年の人口調査によると、33.3パーセントの人々が、仏教徒を自認している。筆者は最近の研究で、シンガポールのポスト植民地期における仏教運動に焦点を当ててきた。そこで明らかになってきたのは、東南アジア大陸部の仏教徒活動家とは異なり、シンガポールの仏教徒活動家は、政治改革や環境保護主義、あるいは世界平和にはあまり関心を抱いていないということである。むしろ、彼らは、教義の誤った解釈や「異端」から仏教を擁護し、社会福祉活動を推進することに携わっている。 シンガポール仏教総会(The Singapore Buddhist Federation/ SBF, Xinjiapo fojiao zonghui 新加坡佛教總會)は、仏教コミュニティを代表する包括的な全国組織であり、英国植民地政府とシンガポール国内の様々な仏教団体との橋渡しを務めるべく、1949年に設立された。設立当初から、SBFは仏教コミュニティの利益促進に積極的な役割を果たし、1955年には、ヴェ(Vesak)が祝日として官報に告知されるよう求める植民地政府への働きかけにおいても重要な役割を果たした。また、植民地政府に対して、仏教徒用の墓地建設の承認を求める働きかけも行った。1955年9月と1959年2月には、SBFは当局に仏教徒用の墓地の設立と、その周辺での橋や下水設備、道路、仏教寺院や食堂の建設許可を与えるよう嘆願をした。墓地設立当初SBFが主導した運動は、主に仏教コミュニティに実用的かつ具体的な利益をもたらす運動に限られていた。SBFの関心は明らかに、政府を説き伏せ、自分達の要求を承諾させる事にあったのであり、仏教徒を結集させてその信仰を擁護したり、誤った教義解釈や実践を正したりすることではなかった。   ダルマ(仏法)を擁護する 1970年代初頭から、SBFは宏船尊師(Hong Chuan, 1907-1990)の指導の下、「仏法擁護運動」(hufa xingdong 護法行動)の推進に、より積極的に取り組むようになった。SBFは、仏教を冒涜する内容や間違った教義解釈を含む外国映画の検閲を求めて、政府に働きかける上で重要な役割を果たした。SBFが主導した最初の運動は1970年8月に行われた韓国映画「Dream (夢)」に対する抗議である。SBF側の言葉を引用すると、この映画は「仏教を侮辱し、道徳規範を堕落させ、人々の心を毒する」ものである。仏教コミュニティの「品格」を守るべく、宏船は映画検閲委員会に嘆願書を提出し、上映の一時停止と、SBFによる映画の検閲許可を求めた。その後、この映画はシンガポールでの上映が禁止となった。その後の数年間に、SBFはシンガポール映画検閲委員会に働きかけ、いくつかの他の映画、例えば「出家者(Monks/Chujia ren)」や「四大皆空(The Four Great Elements are Empty (Sida jiekong)」、「露乳女尼(Breasts Revealing Nun /Louru nüni)」、「肉蒲団(The Carnal […]

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ベトナムにおける仏教研究:現在と今後の方向性についての考察

仏教研究の分野において、ベトナム仏教は欧米圏の研究者の十分な関心を集めて来なかった。これはある程度、学問が文献を中心とする仏教研究を偏重し、暮らしに即した日々の仏教実践の表現を軽んじる傾向があることに起因する。こうした偏見は古い学問的方法論に基づいており、そこでは特定の文献を特別扱いし、その観点から宗教概念を組み立てる一方で、個人や個別文化の描写や記述を大幅に無視する。そしてベトナム仏教に関する経典文化は、他の仏教圏の経典文化と同程度には発展してこなかったため、結果として学問的な関心が向けられる事があまりなかったのである。加えて、ベトナムの現政権下で宗教は扱いに慎重を要するトピックであるため、宗教研究を成し遂げようとする研究者にはこれも障害となっている。例えば、インタビューの対象者を探し出して接触することや、ひどくお役所的な公文書類を扱うことは、他の仏教諸国で同じことをするよりも、はるかに骨の折れる仕事となろう。しかしこういった制限にもかかわらず、卓越したベトナム研究が行われ、それが仏教史と現代における仏教実践に関する特定分野に光をあててきた。けれども、一部の非常に優れた研究はあるものの、ベトナム仏教研究の多くの重要な分野には未だ大きな空白が残っている。そういった分野の一つが、他の仏教との比較という領域である。ベトナム仏教をめぐって立ち現れる数多くの研究課題候補の一つに、ベトナム仏教の「大乗性」を他の「大乗」仏教や、一般に「上座仏教」とみなされる仏教形態と比較調査する仕事がある。このような仏教の多様なあり方について、特徴を定義するために用いられてきた従来の比喩はもはや精査に耐えるだろうか。「大乗」という呼称はベトナム仏教にふさわしいものであろうか。 「上座仏教」と「大乗仏教」という二項対立は、長年、仏教の分類として太鼓判を押されたかのように用いられてきたものであるが、近年、これを疑問視し、反論する研究が急速に進んできた。数ある論考の中でも重要な編書、”How Theravāda is Theravāda? Exploring Buddhist Identities”(『上座仏教が上座仏教である所以:仏教アイデンティティの研究』は、この一般的な枠組を用い続けることから生じる諸問題を検討し、明確に示している。比較研究に富んだ、同書と対を成すような必携の編著 ”How Mahāyāna is Mahāyāna?”(『大乗仏教が大乗仏教である所以』のようなものがあったならば、他の仏教圏においてもみられるあまりに単純な二項対立的な枠組みに関する理解と認識を深める上でも有効であり、また、ベトナムの現代仏教の本質を理解するためにも有効であろう。 英語圏での仏教に関する知識や理解は、何よりも、このような乗り物(大乗・小乗といった)の分類で捉え、その中で地域仏教を描写するという立場を、大体において採り続けてきた。研究者が目指すべき意味ある方向性というのは、このような分類を越えて、地域仏教の独自性を描写し、より精緻な枠組みを用いて表現し分析することであろう。この可能性ある研究領域は、仏教の何たるかについて、これをエリートの経典中心の禁欲的な宗教として描き、信徒の目標を涅槃への到達だとするような見解から、学術界が距離をおくことの一助となるだろう。 説得力のある文献としてSwearer (1995)や McDaniel (2011)、 Kitiarsa (2012)、Soucy (2012)のものがある。これらは仏教研究を、古く、理想化された正典中心型のものから、生き生きとした民衆による宗教実践の領域へと押しあげてきた。ベトナムとそこで実践される宗教について理解を深めるために必要なのは、この方向性に沿ったさらなる研究が、特にベトナムの政治における仏教の役割や仏教のポリティクスに重点を置いて行われることである。 仏教と、ベトナム史における仏教の役割に関する一つの際立ったサブテーマに目を転じると、Woodside (1976)とMcHale (2004) 、 DeVido (2007, 2009)が、20世紀ベトナムの仏教復興運動について貴重な研究を提示している。だがこの運動の遺産については、まだ多くの研究が待たれる。手短に言えば、この復興運動が目指したのは、ベトナムにおける仏教の強化と変容であり、仏教が全盛を極めたと想像される黄金時代に引き戻すことであった。アジアの他の復興運動と同様に、ベトナムで生じたこの運動も、より強固な民族アイデンティティを構築し、それを活気ある近代的革新的仏教に組み込もうとするものであった。あらゆる場所の近代仏教に見られるように、この復興運動も仏教実践を合理化し、カルトや金銭を燃やすこと、シャーマン的実践など、異端的要素を取り除こうとした。さらに、新旧の仏教経典を翻訳し、それに重要な救済論上の位置づけを与えた。同時に信徒は、これらを読み学んで理解する方が、その内容も分からずに丸暗記して唱える事を頼みにするよりも良いと助言された。ベトナムの復興論者たちが重視したことは、社会参加であり、学校や診療所、組織、その他の社会奉仕手段の設立であったが、これらの多くは現在でも存在している。その結果、近代化し、政治にも積極的に参加する仏教という型式が、この復興運動から生じる事となったが、これは後にティク・ナット・ハン(Thích Nhất Hạnh)が「社会参加仏教(engaged Buddhism)」と呼んだものである。ナット・ハンの言葉によると、「仏教学者たちは1930年代には既に、仏教の近代社会への参加を論じていた」。社会参加仏教という型式は、1960年代から70年代の間にナット・ハンが密接に関わったものであるが、これは新たな現象ではなく、古くからある仏教実践を取り組んだもので、その理論的起源は中国に存在する。この流れに沿うさらなる研究が望まれる。それは、ベトナムの社会参加仏教が、どの程度、仏教界において社会参加仏教という現代的言説や実践に影響を及ぼし、形作ってきたのかということについて理解を促す。さらに、ベトナムでの思想や実践、集団の形成における中国以外の他の地域の仏教の役割については、ほとんど知られていない。いずれにせよ、仏教研究において地域や国境を超えた取り組みは、仏教が国境というしがらみから離れ、仏教運動の展開と発展についてのより明確で幅広い視野に到達する上で、役立つものである。 南ベトナムにおける仏教徒の平和運動は、一つの重要な歴史的要素であり、近年研究者の注目の的となっている復興運動と密接に関わっている。Topmiller (2002)や Moyar (2004), McCallister […]

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諸概念が拮抗する仏教のポリティクス

ミャンマーでの近年の仏教徒動員についての一般的、学問的な表象をみてみると、いかに理論的で分析的なアプローチが仏教、政治、社会に関する研究を形作っているかを考えさせてくれる。最近民主化されつつあるミャンマーにおいて、ナショナリストの僧院組織、マバタ(MaBaTha)が台頭し、彼らが規制をかける法律を作り、選挙政治に影響を及ぼそうと試みており、それは、仏教とナショナリズムのポリティクスの問題を再び、多くの東南アジアについての分析の中でも中心的な問題にした。マバタはその名を20世紀初頭の反植民地ナショナリストのスローガンで、人種、宗教・言語及びサーサナー(sāsana/仏の法や教え)を意味する「Amyo (マ), Batha(バ), Thathana(タ)」からとっている。この名前自体が現代の展開を100年以上も昔のビルマでの仏教の一般大衆動員と結びつけるものとなっている。 問題なのは、20世紀初頭の運動についての研究の大半と同様、ミャンマーにおけるマバタ、その他のナショナリストや反ムスリム感情の台頭に関する分析の多くが、仏教徒たちが宗教を政治目的に利用したことに台頭の原因を求めたり、ビルマ仏教の本質にはナショナリスト的感情、あるいは外国人嫌いの感情が根強く存在することに台頭の原因を求めたりしていることだ。これらはいずれも間違いであるが、その理由は、単にこれらが過度の単純化であるというだけでなく、むしろ、これらが仏教や宗教、アイデンティティを考察する上で問題含みのアプローチの典型であるためだ。そうした研究は、仏教に永劫不変の本質が有るとみなしており、また、人間の経験や行動において宗教と政治とは別個の領域として容易に識別できるとみなしてしまっている。これらの各状況をもう少し深く掘り下げてみれば、これらの運動についての研究の多くは、単に政治情勢やナショナリストのアイデンティティ、仏教実践に関するある特定の解釈や内容を助長しようとしているだけでなく、このような議論の拠り所となる概念的枠組みを積極的に形成し、それについて論じようとしていることが明らかとなる。 これらの運動にまつわる多くの現在の言説は、以前の運動と同様に、これらの運動もまた、仏教とビルマ人らしさを保とうとして、この両者を積極的に構築し、刷新していることをまったく見落としてしまっている。こうした試みにおいては、仏教も国民も流動的な(空っぽの)容器でしかなく、社会構造やヒエラルキーの創造と変容のメカニズムとして作用する。だが、仏教、ビルマ国民といったアイデアを意図せずして固定的で単一で識別可能なものとしてしまうのは、何も一般的な言説、ジャーナリスティックな言説、政策的な言説に限らない。往々にして、学者たる我々自身が研究を通じて、これらが固定的な知の対象であり、我々が記述し説明する専門的知識を持つと主張できる対象だとしてしまっている。その点を意識しなかった場合、我々は無意識のうちに自分達の研究する場の文化の政治に巻き込まれてしまい、国民、人種、あるいは排除という言葉で定義されない別の形での仏教が創造される可能性やアイデンティティと動員の諸形態が創造される可能性を排除してしまうという深刻な事態になりかねない。 20世紀の初頭には、植民地時代のビルマの多くの仏教徒たちが、植民地支配の到来に伴う絶え間ない変化を、仏の教えが失われつつあるという予感として経験した。彼らは仏教を守るための大規模な運動を起こし、これが社会や社会組織のさまざまな側面に影響を及ぼし、そして究極的には反植民地ナショナリストの政治に影響を与えたのである。現代のミャンマーにおける動きと極めて似ているようにみえる。この国は再び、社会的、政治的、経済的な激動の時代に直面している。多くのビルマ人たちが、変化が不安定を生むことに不安を感じ、そして、何か致命的なものが失われつつあるという懸念を表明している。仏教や仏の教え、ビルマ文化の保護を主張する運動が大衆動員を生み出してきた。仏教保護の取り組みに共感し、仏教への脅威が誰、あるいは何であるか(ムスリム、政党、外国のNGO、ライフスタイルの変化)についての言説に共感することが、明らかに多くのミャンマー人達にとってアイデンティティの一部をなしてきているように思われる。 しかし、これら2つの動きにつながりを認めて、仏教徒の言説やビルマ人のナショナリズムに共通する本質を説明しようするよりも、進むべき道は、この2つの動きがミャンマー(ビルマ)、仏教と宗教という本質的なカテゴリーをどのように構築、再構築してきたかを考察することである。こうしたカテゴリーは流動的で拮抗しており、そして、とりわけ影響力のあるものとして着目し、人々が自分達自身をどのように組織化するかに着目する研究であれば、我々は社会の中の権力の作用、すなわち、仏教のポリティクスを理解することができるのである。 我々にとってもっともやりやすいのは、東南アジア研究を形成する上で重要であり続けているベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)の批判的洞察に従うことである。つまり、これらの運動の言説における国民を脱国民化(解体)し、これらの言説がどのように排他主義的な宗教アイデンティティの観点からミャンマーを想像することになっているのかを分析することであろう。国民や国民アイデンティティを論じ、これらを構築する動きはどのようなものであれ往々にして表立っているし、容易に政治的言説に結び付く。しかし、排他的な運動に対抗して、よりリベラルにミャンマーを国民として想像しようとする運動の行われ方については、研究者たちは見過ごしがちである。国民を脱国民化(解体)することは、こうした運動を理解する上で何が重要であるかを分析するためには決定的に重要な第一歩であり、有用でもあるが、最初の一歩に過ぎない。次の段階は、おそらく宗教学者たちにとってはわかりやすいことだが、仏教を脱仏教化(解体)することであり、こうした運動がその言説やプロジェクトを通じ、どのようにミャンマーにおいて仏教がもつ意味の広がりを変えているかに着目することである。通俗的な分析や政策分析は、歴史を超越する仏教の本質があり、それが特定の歴史的な運動によってはっきりと示されているかのように、あるいは、歪められているかのように記述しており、仏教徒たちが仏教の解釈を変容させ続けてきていることを認識していない。ミャンマーにおける現代の運動は、たとえ仏教の擁護や保護をその使命の中心と主張しようとも、仏教の実際的な意味を積極的に作り変えていることが明らかなのにである。 さらに、ミャンマー人や仏教といったカテゴリーを論点としながら、再想像するこの作業は、ナショナリスティック、原理主義的、あるいは反ムスリム的とレッテルづけされている運動に限らず、多種多様の仏教運動や僧侶たちによって実行されている。このせめぎ合い、作り変えられて行く範疇に着目することで、我々は現代ミャンマーの様々な仏教運動の関係性を理解し、これらの運動がミャンマーの社会的、宗教的、政治的展望の中に生み出すより深い変化を、それらの単なるレトリック内容をはるかに超えて考察することが可能となる。 我々は、仏教やミャンマー人といったカテゴリーを解体していくこの分析をもう一歩進め、仏教運動において宗教と世俗それら自体がいかに論じられて、再構築されてきており、きわめて重要な政治的・社会的相互作用の一部になっているのかに着目する必要がある。このとき、我々が仏教と政治に関心があるのであれば、カテゴリーに着目することは極めて有用である。学者たちはしばしば、(宗教が何を意味するかを問うこともなく)仏教に宗教というレッテルを貼り、宗教と政治を考察することは、それぞれを分析し、その関係性と相互作用を分析するうえで有益な方法だとしている。だが、これは宗教を政治から切り離すことの出来る生活・行動・思想カテゴリーであることを前提としてしまっている。宗教は他の社会生活、世俗とレッテル貼りされている社会生活から切り離しうるという世界観と概念区分を前提としてしまっている。Talal Asadらが教えてくれたように、このような世界観は絶対でもなければ、当然のものでもなく、特殊なイデオロギー、世界観であり、我々はこの下で常に、あらゆる場所の全ての人々の営みが行われていると決めつけるべきではない。宗教を境界のあるカテゴリーだとするのは、特殊なヨーロッパ史の所産である。これは東南アジアに植民地主義とともにもたらされ、宗主国特有の様式として機能した。東南アジアの仏教徒たちは、植民地支配の下で宗教・世俗という世界観に適応するようになり、またこれを現地の概念的枠組み(lokiya/lokuttara, sāsana /ローキヤ・ロークッタラ、サーサナなど)と融合させたものの、このような枠組みは昔も今も、議論の続く、物議を醸すものなのだ。宗教の境界の明確な輪郭線と、そのカテゴリーと政治、経済などの世俗的カテゴリーとの相互作用は、積極的な解釈、翻訳、さらなる翻訳を生み出している。 植民地時代には、仏教徒たちも英国の行政官たちも同様に、「世俗」の意味するものを定義することに積極的であった。国家と宗教の完全な分離というレトリックにも関わらず、英国植民地時代の「世俗主義」には、政府が僧侶らに(律/Vinayaではなく、パーリー語仏典の内容に関する)試験を実施するという意味もあった。それは仏教が、教えの実践ではなく、仏典の内容に限定されたものである限り、僧院を政府の教育制度に取り込めたことを意味する。植民地時代のビルマ人たちにとって世俗とは、カルマやサーサナの概念は使える空間であるが、実践は別のロジックが作用していたようである。 現代の運動においては、国家と公的な政治的言説、そして宗教の役割の間の正しい関係についてかなりのやりとりが行われている。国家とは、法律によって制限を設けて仏教を外的脅威から保護するプロジェクトを実施する機構だと言う人は多い。あまり露骨に外国人嫌いを目論まない形で仏教団体が国民のアイデンティティや国家の発展、文化の保護を国家と同様に積極的に進めるべきだという人もいる。ミャンマーにいる欧米の大使たちが、開発計画や特定の僧侶や僧院派閥による仏教解釈を積極的に是認した後、選挙の直前に政教分離を表立って要請した。それはあたかも、先の是認だけでは、仏教、宗教、政治の構成要素を定義する作業が予定したようには進められていないからとでも言いたいかのようであった。 このような大使たちの行為は、仏教と世俗主義のカテゴリーが構成されていく過程ははるかに複雑であることを示している。僧院の開設や、仏教徒の社会奉仕事業に臨む大使たちの映像は、パーリー語の試験を監督し、僧院学校のカリキュラムを書き直す、19世紀の英国植民地の行政官たちのセピア色をした写真のテクニカラー版のようにしか見えない。仏教はそれ自体、これらの相互作用における権力をめぐる言説の産物なのである。このゲームの中で、このような大使たちの行動は、リベラルな解釈とナショナリスティックな解釈という両極の間で仏教解釈の幅を決めていくことを正当化してしまい、そうすることで、国民、人種、あるいは排他主義的アイデンティティによって定義されないような仏教実践、アイデンティティと動員の概念と態様の創出をきわめて積極的に阻止してしまう。さらに、こうした行動は、一部の意見を助長し、その他の意見を封じ込める過程の中で、ミャンマー特有の世俗の意味を規定していくことになる。 学者たる我々が、宗教、政治、あるいは世俗を普遍的で固定的な性質のカテゴリーと前提したまま仏教と政治を調査すると、諸概念を現地の文脈の中で再定義し、再形成しようとする人々が行っている多くの作業を見逃してしまう。自分たち自身の想定に基づいてこのようなカテゴリーを常識的で固定的なものと考えて、分析装置として使用することは容易である。だがそれでは、我々が研究せんとする運動のポリティクス、すなわち、文化と知の働きにある権力の作用を見落としてしまう。この点で、我々にとってより有意義なことは、仏教徒たちがビルマ人の生活を構成するカテゴリーを定義、再定義するポリティクスに着目することであろう。そうすると、植民地時代と現在の仏教徒の運動の両方が、諸概念をどのように作りなおしてきたのかを考えることができる。サーサナや宗教、政治、国家、仏教といったアイデアの変化を通じて、ビルマの人々が自己や自分達の行動、その未来と過去を認識するときの諸概念がどのように作りなおされてきたのかがわかるのである。  我々がミャンマー(ビルマ)とビルマ仏教を研究対象にすることで、我々はこれらの概念に真実味や信ぴょう性を添えることになるが、それは問題含みである。もし、我々がビルマ(ミャンマー)を知っていると主張することでキャリアを積むうち、「ビルマ(ミャンマー)」は一国民として無意識に当たり前の対象となり、知ることができ、一見不変なものとしてしまうと、我々はナショナリズム、ベネディクト・アンダーソンの言う国民の想像行為に寄与していることになる。もし、ビルマ仏教が我々の研究の中で絶対的で当然の何かとなり、我々が常に権力の作用を察知するような流動的な概念でなくなるのなら、我々は自らを現地の政治に関与し、暗黙のうちに現地で支配的な言説を、たとえその内容を批判していたとしても、支持することになる。だが、我々が学術研究や論文において、「仏教」、「宗教」あるいは「世俗」といった概念が、明らかに研究の余地を残すものであり、アイデンティティや排除の方法であり、相容れ難いさまざまな文化と表現の一部であると論じつづける限り、(自由主義的形式であれ、排他主義的な形式であれ)ナショナリストたちがアイデンティティと政治的現実を排他的に捉えて主張する試みというのは、ミャンマー、アイデンティティ、仏教に関するその他の意見や解釈を打ち消すためのメカニズムであることを認識することができる。 トロント、ヨーク大学 准教授 Alicia Turnerアリシア・ターナーはトロントのヨーク大学のHumanities and Religious Studies(人文宗教学)の准教授で、The Journal of Burma Studies(ビルマ研究ジャーナル)の編集者である。彼女の最新の著作はSaving Buddhism: The Impermanence of Religion in […]

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首都バンコクにおけるヒンドゥー教の舞台: 都市部タイ仏教徒空間の儀礼的スペクタクルと宗教多元主義

この数十年間でタイの仏教徒は増々、奇跡的な加護と親しみやすい信仰を兼ね備えた慈愛の源泉として、ヒンドゥーの神々を崇拝するようになってきた。現代バンコクの多くの公共の場には、ヒンドゥー教そのものではなくとも、ヒンドゥーの神々や信仰実践への興味をそそる場所がある。例えば、インド系移民が元々は移民コミュニティのために建てたヒンドゥーの諸寺院、シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院(Wat Khaek/インド寺院)、デーヴ寺院(Dev Mandir)、ドゥルガー寺院(Durga Mandir)、ヴィシュヌ寺院(Wat Wisanu)などが挙げられる。また、タイ族の仏教徒たちが、ヒンドゥーの神々に祈りを捧げようと建設した寺院には、チャクリー王朝初期に王宮のバラモン達のために建てられたデーヴァサターン(Bot Phram/バラモン寺院)や、より近年に建てられたラームイントラー通りの巨大なシヴァ寺院などがある。加えて、様々な個人や私立機関、政府機関などが、ヒンドゥーの神々の神像を単体で中心に据える公設の祠を建てることも増えてきている。エラワン廟のブラフマー神像は、おそらくこの最も有名な例であり、またインドラ神や那羅延天(ヴィシュヌ神)、ラクシュミー神、三神一体(トリムルティ)、ガネーシャ神の祠も、ラーチャプラソン交差点から徒歩圏内の近場にある。現在、様々なヒンドゥーの神々の神像や祠が、首都バンコクの至るところにある仏教寺院(wat)や汎宗派主義の神廟(thewasathan)の両方で容易に見られるようになった。  インド系移民がヒンドゥー教信仰を実践するための場であれ、タイ人仏教徒がヒンドゥーの神々への信仰を示すための場であれ、このような公共の礼拝所は、バンコクに居住する両者にとって、ヒンドゥー教全体としての社会的再生産と公的イメージ化の重要な中心となっている。そして、ヒンドゥーの諸寺院(あるいはヒンドゥー教団体と関連するラームイントラー通りのシヴァ寺院)が、ヒンドゥーの儀式を大規模な公共の祭りとして企画・推進する時、インド人ヒンドゥー教徒とタイ人仏教徒の宗教世界や儀礼的想像力、信仰の論理は、ほとんど必然のように密接に絡み合う。意図の有無にかかわらず、ヒンドゥーの儀礼サイクルの中で共同で作り出される神像を祀る儀礼の中で現出するのは、インド人コミュニティにとっての伝統的ヒンドゥーの宗教性を帯びた瞬間だけではなく、一般のタイ人仏教徒にとっての汎宗派的な信心や他者性を帯びた光景でもある。このような宗教的接触を通じて、仏教徒やヒンドゥー教徒、そのコミュニティや、当局は、根本的なところから互いを構築し合うようになる。そして、増々都市化と国際化の進むタイ社会というイメージの元で、宗教多元主義や多様性の受容、寛容、アイデンティティにまつわる興味深い問題を提起している。 ナヴラートリ祭 10日間に及ぶナヴラートリ祭は、シーロム通りにあるタミル・シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院において、毎年10月に執り行われる。この祭りは、タイ都市部の公共空間で、複数の宗教・宗派のコミュニティが、彼らのために大規模なヒンドゥー教儀礼を計画、運営、開催する際に生じる複雑な宗教の絡み合いの状態をよく示している。多面的な様相を示す祭りの期間中、ドゥルガー、ラクシュミー、ウマテウィー、サラスヴァティーといった女神像はその配偶者や従者らの像と共に、寺院の中に置かれ礼拝の対象となる。それぞれの日に以下のものを組み合わせる。すなわち①絶え間ない個々の一般参加者による伝統的な供犠と、②その寺のバラモンが行う朝、昼、晩の三度の特別な供犠である。最終日の夜に寺の外で行われる行列は、祭の儀礼とその実践のクライマックスである。行列の中心を成すのは、それぞれに異なる女神に憑依された三人のインド人霊媒師と、ガナパティ(ガネーシャ)、スブラマニアン、クリシュナ、カタラガマ(スカンダ)、ウマテウィーの神像を乗せた5台の山車である。大勢の楽師隊や踊り子、バラモンや信者の一行が、これらの霊媒師と山車を取り囲む中、行列は寺を抜け、一巡するのに7時間以上もかかる3㎞の環状の道路沿いを進んで行く。何万人ものタイ人仏教徒たちが、飾りを施した大きな祭壇を行列経路の両側に設置し、時には深夜の2時3時まで待ってようやく、彼らの脇を次々に通過してゆく霊媒師やバラモン、神々の全てから祝福を受けとるのだ。 この祭りの最初の9日間の一般参加者の90%以上は、タイ系の人々や中国系タイ人の仏教徒であるが、最終日の夜には、バンコク郊外や内陸部各県からの来訪があるため参加者数は天文学的な数字に膨れ上がり、インド系ヒンドゥー教徒の割合はより一層少なくなる。つまり、シュリー・マハーマリーアンマーン寺院のナヴラートリ祭は、本質的にはバンコクに居住するタミル系ヒンドゥー教徒コミュニティの重要な年中行事であり、祭祀を専門とするバラモンが主宰、運営するが、信徒や参加者、後援者の大部分はインド人でもなければ、ヒンドゥー教徒でもないのである。そして、この祭りの10日間を通して公衆に示される儀礼の供物、供犠、信仰は複雑に絡まり合い、模範的なヒンドゥー教行事でありながら、正統的仏教儀礼として共鳴している。さらに印象深いのは、ナヴラートリ祭が実際に、ヒンドゥー教徒と仏教徒の両コミュニティの内部から、参加者や信仰上の見解、儀礼の筋書の多元性を醸成し促進しているという事であり、それらが全て、祭りの期間中に満足のゆく形で表現され、実現されているという事だ。   儀礼参加者の多様性と儀礼の筋書の多元性 人口統計で見ると少数派でも、インド系ヒンドゥー教徒の多様な集団は、ナヴラートリ祭の開催に重要な役割を担っている。バラモン神官やインド人霊媒師、儀礼補佐役、それに古典音楽の奏者らは、この祭りの期間中祭祀を司る重要な人々である。これに加え、寺の管理者や出資者、ジャーナリストや映像監督も、シーロムに居住するローカルなインド人コミュニティの出身者であり、常連の、しばしば重要な参加者として、毎日早朝から深夜までかかる儀礼を計画し、運営する。ローカルなインド人コミュニティの信心深い個人や家族、商人たちが、ヒンドゥー教徒の参加者の大部分を占める一方で、インドから来るタミル州宗教省の官僚代表や、マレーシアとシンガポールから来る少数のヒンドゥー教徒たちも姿を見せる。プーケットで行われる華人のベジタリアン祭のような国境を越えた華人の巡礼と観光の対象には未だなっていないものの、現代のグローバル化したメディアと交通の時代の中、このナヴラートリ祭のヒンドゥー教徒の観衆たちは、明らかにバンコクだけでなくその外からも訪れるようになっている。 タイ人仏教徒をみても多様な集団がこの祭りに参加している。例えば、少数だかタイ人警官や軍人が警備をしていたり、露店商が儀礼用品を売ったり、メディアがこの行事を報道したりする。さらに重要なことは、大勢のローカルなタイ人と中国系タイ人の仏教徒たちが、シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院の日々の営みの中で重要な権限を持った地位を占めているという事だ。彼らは寺の管理人や出資者、儀礼補佐役を務めている。この寺の儀礼補佐役の多くはタイ人仏教徒であり、彼らは祭りの期間中に寺に押し寄せ、なだれ込む、大勢のタイ人仏教徒の一般参拝者たちをさばく上で不可欠なのである。寺に押し寄せるタイ人仏教徒の参拝者たちは、主にバンコク出身者であるが、明瞭に異なるいくつかの層に分けることができる。圧倒的多数は、この寺やヒンドゥーの神々には一過的にしか関わらず、祭りを神の加護と祝福を得るのに丁度よい、一度きりのチャンスと見ている個人や夫婦、家族などである。しかし、タイ人仏教徒の中には、祭りの期間中定期的にこの寺に戻り、日に三度行われる祭式に参加しようと居残るものたちが存在する。以前この寺に参拝したり供物を捧げたりして得た霊的加護に恩義を感じている者もいる。またヒンドゥーの神々全般に特別な信仰上の思い入れを募らせる者たちもあり、ナヴラートリ祭はこの信心を実践し、強める上でうってつけの機会となっている。また、中にはプロの霊媒師もおり、彼らは自分達に定期的に憑依するヒンドゥーの神々や女神たちとの深い一体感を感じ、業(カルマ)によって現世で神への奉仕者となったと恩義を感じている。 最終日の夜の行列では、これらタイ人仏教徒の多様な層は、数も増え、特徴もますます多様化する。大勢の警官やボランティア、露店商たちがやって来て大群衆をさばき、サービスを提供する。バンコク大都市圏に住み、日和見的に神の加護を求める事に興味を持つ何万人ものタイ人仏教徒が、この行列を目にしようとやって来るのだ。しかし、行列経路沿いに一時的な祭壇を設けている個人や集団の多くは、ヒンドゥーの神々を熱心に信奉する人々の小集団か、あるいは個人的な取り巻きに付き添われたプロの霊媒師たちのどちらかである。これらの信奉者や霊媒師たちのほぼ全員が、この祭りの期間以前にシュリ―・マハーマリーアンマーン寺院で行われたいかなる儀式にも参加した事がなく、また中にはピッサヌロークやコーンケーンなどの遠方からやって来る者もいる。一般のタイ人仏教徒市民にとっては、殺到する大群衆のために寺院へ近寄る事が困難となるために、これらの行列経路沿いの仮設祭壇が二次的で補助的な祭祀の供物や祭りの光景と共に、しばしば宗教的好奇心や関わりの主な対象となる。正規の行列の前後には、一般の人々が祭壇の前にたむろする様々な霊媒師たちに神の祝福や神との仲裁、神の助言を求める。この祭の行列経路は事実上、騒々しいタイ人仏教徒の帰依者にとって、補助的・自律的な舞台となる。ここでの信仰は、寺のバラモン権威の統制が直に及ばぬものとして、自然発生的に出来上がっていく。実際、正統派ヒンドゥー教から黙認された仏教徒の熱狂的信仰やトランス憑依、パフォーマンスの過剰、異教性といった大規模に展開する公衆の人々の光景は社会的可能性を切り開くものであり、多くの参拝者や参加者たちがこのナヴラートリ祭の劇的な山場に魅力を感じる所以ともなっている。   仏教徒の首都における多元主義、多様性の受容と寛容  シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院のナヴラートリ祭の開催において、バンコクのヒンドゥー教徒と仏教徒のコミュニティが密接に絡み合いながら役割を持っていることは、ある程度、近代タイの一連の大規模な社会発展に基づいたものである。インターネットや全国規模のマスコミ市場、そしてグローバルに行われる観光によって、インドとタイ両国におけるヒンドゥー教の信仰や実践は、タイ人仏教徒にとってさらに知られたものとなり、理解可能で近づきやすいものとなった。タイ人資本家や企業家は、ヒンドゥー教の芸術的、物質的、文学的文化の中で、隙間産業を生み出してきた。都市化と交通網の発達によって、増々多くのタイ人が仏教とヒンドゥー教の継続的接触を日常的に体験できるようになった。規制のない中で宗教という多様にまたがる領域で仕事をする企業家は、創造的・宗教的なブリコラージュを行い、二つの宗教コミュニティ間で文化を仲立ちする役割を果たしてきた。拡大を続ける宗派を超えたこの大衆的な宗教性は、奇跡や熱狂的信仰、秘教、恍惚状態を強調しながら、既存の秩序や正統派エリートの支配の及ばぬところで宗教の交流を促進してきた。こういった展開は、さらに新たな問題を提起している。 シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院のナヴラートリ祭は、明らかにヒンドゥー教の儀礼であるが、これを仏教徒の祭りと呼ぶ事も、今では可能なのではないか?祭りの主な神話や儀礼の筋書がある一つの宗教コミュニティに根差したものでありながら、圧倒的な数の参加者が別の宗教コミュニティの出身である場合、どのように宗派のラベルを用いるのか?祭りの最初の九日間に寺の内部で生じる儀礼サイクルは、儀礼の精神や信仰論理、宗教的権威が多様化し細分化する最終日の行列とは、記述上でも分析上でも異なったものとして扱うべきではないのか?何らかの意味があるとすれば、どのような意味において、この祭りがシンクレティズムやハイブリッド性、ブリコラージュ、トランス・カルチャーの事例となりうるのか? さらには、現代の仏教国タイにおける宗教の多元主義や多様性の受容、寛容といった特異な社会的現実をいかに説明するのか?祭祀への共同参加やその相互作用の事例が、仏教徒とヒンドゥー教徒、華人の宗教コミュニティの間で豊富な一方、仏教徒とキリスト教徒、ムスリムのコミュニティの間でそのような事例が見られる事は少ない。これらの宗派を超えた共同関係に見られる違いは、一体どの程度、宗教人口統計や宗教の土着化に関する戦略、純化への要求、宗教的共存の歴史的記憶、そして改宗や紛争をもたらすとされる外国人への恐怖心などが対照をなしていることの結果であるのか?祭祀への共同参加やその相互作用が、仏教徒とタイ国内の全ての宗教的マイノリティたちとの間でも、同じ様に上手く宗派間分裂の橋渡しとなる事を望めるだろうか?それともむしろ、全てを受け入れ続ける寛容性を追い求める上では、多様な代替戦略の醸成が必要なのだろうか? Erick White(Cornell University) Issue 19, Kyoto Review of Southeast Asia, March 2016

Issue 18

ミャンマーにおける家族の同性愛嫌悪と「オープン」の同族関係

ミャンマーでは、様々なミャンマー語の俗語や英語の借用表現によって、ジェンダーやセクシュアル・マイノリティの主体ポジションが示されている。主な男性の主体ポジションはapwint (「オープン」) 、apôn (「ハイダー」:隠す者)、homo (「ホモ」:同性愛者)や、thu nge (「ガイ」:男)である。オープンとは男性で、その言動や見た目が女性的な者を言う。オープン達が中国から輸入した女性ホルモンを服用する事は、一般的ではないにしろ、彼らがジェンダーの規範的集団を出て男性から女性に転換したトランス・コミュニティの一員になるための通過儀礼として、日常的に行われている。性別適合手術は、まだミャンマーの医療市場では受けることができないが、資金力のある、ごく少数のオープンたちは、海外でそのような手術を受けることができる。ハイダーやホモというのは、規範的な男として通用するような男性である。ガイは時に「ストレート」とビルマ人英語話者たちから呼ばれる者達で、やはりジェンダー適応者であり、ハイダーたちにとってはそれ程でもないが、オープン達にとっては第一の性的関心の対象となっている。ハイダーたちが言語学上、己の内なる女性的自己を「隠す」と位置づけられている一方、ホモのレッテルを貼られた者たちは、「女性的な」男性が、規範的男性であるガイとの関係を求める、という現地のジェンダーやセクシュアリティの文化を、様々に拒絶している。ホモは女性性、あるいは男性性と同定され得る人々であって、彼らはそれぞれに他のホモやガイに惹かれるのである。本論で筆者が特に焦点を当てるのは、女性的な男性、ビルマ語でapwintすなわちオープンと呼ばれる人々である。 オープン達は抑圧、特に警察による法体制の範囲内の嫌がらせや虐待の対象となっているが、この状態が、彼らの日常生活では滅多に重大な問題とはならない。 多くの場合、オープン達にとって、より差し迫った暴力や恥辱、苦悩の原因は、家庭の中で生じている。私が最近のミャンマーでのフィールドワークの際にインタビューした、非男性的な情報提供者の男性たちは、概して家庭内の事、幼少期に生じた事から自分達の身の上話を語り始めるが、多くの場合が自分達の経験した家族からの暴力的な反応についてである。これはミャンマーの文化制度内におけるジェンダーのヒエラルキーに幾分関係がある。オープン達にとって、女性性との関連は、男性としての社会的地位の喪失をもたらすものであるが、男性は「権力(awza)」や「カリスマ(hpoun)」に関し、女性よりも構造的に優位であるとされている。 awzaは政治的権力と関連付けられるが、hpounは道徳的、宗教的権威に関連付けられている。ミャンマーの仏教文化では、ある者のhpounの蓄積はカルマによって決まり、過去生で積まれた徳によるとされている。男性がより偉大なhpounを持つと考えられる事から、この象徴的な権威の観念が、女性よりも男性を優位とする仏教的宇宙観を支えている。ある男性が、男性から女性に主体ポジションを換える事は、hpounを弱める事と見なされ、その結果、人間性がおとしめられ、敬意が払われなくなる。また主体ポジションの変化は、家族の社会的地位にも問題をもたらす。なぜならば、この地位がanadeの法則によって規定されているためである。 Anadeは規定的な枠組みとして、ミャンマーでの対人関係を左右するものである。Anadeは敬意を意味し、これには他者に不快感や苦痛を与えると思しき言動を避けることも含まれる。Anade、あるいはこの慇懃な敬意の文化は、トランスのミャンマー人達にとっては問題である。なぜなら、これは基本的にジェンダーの規範に基づくもので、これによってオープン達はヘテロノーマティブ(異性愛規範を是とする)なミャンマー社会の中で、劣った存在と位置付けられることになるからだ。重要な文化伝達の機構として、ミャンマー人の家族単位は、Anadeの規範にトランスの子供たちを同化させる上で重要な役割を担っているが、その結果、子供達は苦しむことになる。子供達は幼少期から、両親に従うこと、彼らを支えることを教えられる。トランスの子が居る家庭にありがちな話の筋で、男性規範に適応し損ねた息子に直面した父親の最大の関心は、面目を保つことである。この赤恥の原因は、トランスの子を持つことで、その家族が人々の嘲笑を買うはめになることだ。だが、ミャンマー人の父親に更なる追い打ちを与えるのは、彼の息子がトランスであるために、彼のawzaには、つまりは男性としての「権威」で家族単位を取り仕切り、いかなる逸脱も退け、これを矯正する力には、大した影響力がないと見られることである。このスキーマにおいて、awzaは同意上の支配、anadeは強制力と関わっている。 例えば、Chit Chitという情報提供者は、両親と共にヤンゴンのとある衛星都市に住んでいたが、十代の頃にオープンとなり始めた、あるいは女性らしさを呈するようになった。彼女の父親は当初、父親の威力を駆使し、Chit Chitをジェンダーの規範内に追い込もうとしていた。だが、これが望ましい結果をもたらさなかったため、Chit Chitの父親は体罰を行使したが、それでも思うような効果がなかった。その後、Chit Chitが一家を去ったために、父親の男らしさの概念に関わるawzaの権威に、さらなる打撃が加わった。息子が女性としてオープンになる時に、父親が被る赤恥は、去勢さながらの経験となり得るものであり、トランスの子供たちに対する父親の、時として暴力的な反応はこれによって説明される。 抑圧的な家庭力学の例は、ヤンゴンのオープンであるLayの話にも見られる。13歳の時、Layはもはや家族との同居に耐えられなくなっていた。それは彼女の父親が、彼女がトランスであり続けるのであれば、もう家族としては歓迎しないと告げたてからである。Layは路上に放り出されたが、これは非常につらいことであった。なぜなら、それは彼女がオープンの主体ポジションとなって程無い頃の出来事で、親類関係の代わりに構築されるオープンのソーシャル・ネットワーク内に居場所が無かったためである。トランスの同族関係に加わるために必要な一定の知識や技術は、大抵、トランスの母親の養子となれば得られる。Layは路上をさまよい、とうとうヤンゴンの風俗業の中心地の一つにあるチャイナタウンの近くに行きついた。Layは語った。「そこで多くのオープン達に会ったけど、私に話しかけたり、私を助けたりする人はいませんでした。彼らは私を知らなかったのですから。ひたすら歩き続けました。どこへでも、こころのおもむくままにね」。Layは帰宅を決意し、家に帰ろうと試みた。それは耐え難かったが、路上生活よりもましであると思われた。両親は彼女が家に戻ると、彼女を金属棒で殴りはしたものの、彼女を家に住まわせた。しかし、Layの両親たちの苛立ちは増々募った。それは、彼女が近所で普通の男性として振る舞いたがらず、そしてオープンとなる、女性らしく振る舞うことを、彼らがコントロールできないことへの苛立ちであった。ついに彼らはLayに、オープンで居続けるなら、もう家に居ることを歓迎しないと告げ、彼女は再び路上へ追放された。 トラウマ的ではあるが、この家族の家を出る行為、そして同族関係の再構築も含め、新たにクィア同士の結びつきの在り方と折り合いをつけることで、多くのミャンマー人オープン達は帰属意識を得られる。トランスの人々は、実の家族から拒絶されると、他のトランスの人々との友情関係や家族的な「母-娘」関係のモデルに基づく、新たな関係形態を模索、創造する。再構築された同族関係の力学は、ミャンマーのトランスの人々の日常生活における重大な関心事となる。トランスの人々は、概して家庭内で様々な形の暴力や苦悩、疎外感を経験する。その結果、家庭を離れることが、しばしば、多くのトランスの個人たちの選び得る唯一の選択肢となる。結果的に、その人は実の家族と別離するものの、トランスの社会性は、彼らがクィアの同族関係の単位に加わることで生じる。このようなクィアの同族関係の諸形態は、主として特別なワーク・ラインを通じて形成される。そこでは年若いトランスの「娘たち」が、年上のトランス達と「母‐娘」の関係を結ぶのであるが、これは親密な関係と経済的安定、職業訓練を兼ねたものである。 トランス達は支援ネットワークの中で、通常の親族同士のように関わり合うが、これは実の家族に代わるものである。この二つの同族関係の様式の大きな違いは、そのメンバーとなるための基準にある。実の家族は縦型式の同族関係であり、これに加わるには、遺伝や共通の根本的属性、たとえば血縁関係などが基となる。対照的に、トランスの同族関係は、水平的かつ拡散的であり、これに加わるための基準は、ジェンダーや希望などの文化的範疇である。ここでいう水平的とは、トランスの同族関係が均一な権力構造であるという意味ではない。ミャンマーにおける主要な同族関係の構造は家族単位で、その中では祖父母たちが最年長者と見なされる。年長者たちが亡くなると、次世代の者達がこれに代わって家長となる。トランスの同族関係の様式も、ヒエラルキー的には同様のパターンに従うもので、若年メンバーは目上の者達からの恩義を受けている。 1960年代以降、ミャンマー人apwintすなわちオープン達が次第に経済的なニッチを生み出しており、重要な生計手段の機会や、様々な社会組織の形成につながっている。現在、ミャンマーでは二つの職業が、広くオープンと関連付けられている。即ち、それらは霊媒業と美容業である。これらの職業は俗に、英語のラインという言葉で呼ばれている。美容業界は、ミャンマー人トランス達が就ける主要なワーク・ラインであり、しばしば霊媒業や風俗業とも絡んでいる。美容院はトランス達の家やコミュニティセンターとして機能しているが、出会いの場でもあり、国際的なHIV教育と予防のネットワークの中核でもある。トランスのワーク・ラインは、トランスの人々の重要なセーフティ―ネットであり、最近家を出た若者達にとっても、年配の退職者で家を出て久しく、実の子供達からの支えが受けられない者達にとっても、同様である。これらのワーク・ラインは、トランス同士の時空を超えた結びつきを促進するものである。今日、メーク・アップのsaya (美容師)になるのは、ミャンマー人トランスジェンダーの人々の最もありふれた夢であり、この業界は他の業界よりも、トランスジェンダーの人々を多く取り込んでいる。この業界のトップの者達は、華やかな公的生活を送っており、これがミャンマーの同性愛者やトランスジェンダーのプライドにとって、第一の目標となっている。実家での体験が、多くの場合、ネガティブなものであることを考慮すると、ワーク・ラインを通じて形成された同族関係は、トランスの帰属にとって重要な社会構造なのである。 トランスの文化では、「娘」は「母親」を敬い、これに仕え、時には崇めることが義務付けられているが、これに対して、母親にはその娘を支援し、養い、彼女たちが独立して成功に満ちた幸せな人生を送れるようにしてやる義務がある。中でも、支援は若いトランス達にとって不可欠なものである。彼らは自分達が経済的に独立したトランスの母親となり、今度は自分達が養女を取れるようになるまでは、非常に不安定である。「母親」や「娘」のカテゴリーは、様々に分類できる。母親達の中には、その娘の人生にとって不可欠なまでに重要で、永続的で生涯にわたる関係を持つ者達もある。また別のトランスの母娘関係は一時的であって、中には一生のうちに二人以上のトランスの母親を持つ娘もある。トランス達の日々の会話の中で、ミャンマー語の「母親」と「娘」という言葉は、日常的な代名詞でもあり、年配のトランスが年若いトランスを呼ぶ際に、これを用いることもあれば、その逆もある。「養子をとる」という動詞は、「母親」と「娘」という言葉を、より正式な同族集団を形成するものとして区別する上で、また、これらの言葉の代名詞的用法を区別する上で重要である。 だが、ミャンマー社会における家族やジェンダー、ヘテロノーマティブなanadeの規範の重要性を思うと、なお、非常に多くのオープン達が両親に逆らって家を出る道を選んでいることは、注目に値する。anadeは、極めて重要な序列化の原理であり、個々がオープンのアイデンティティへ移行する上で、大きな障壁を作り出している。なぜなら、この文化制度の中で、家族というコンテキストにおいては、両親に対する義務の方が、己に忠実であるよりも優先されるためである。これは家庭的安定を個別化よりも名誉とする、ミャンマーの民族心理学を反映している。家を出ることで、オープン達は、単にジェンダーやセクシュアリティに関するだけではなく、anadeについても、基本的社会規範に背くことになるのだ。 しかし、ここ数十年の間に、若いオープン達が活気あるトランス支援ネットワークに加わる機会が増々増加している。これらのネットワークは、大抵、家族単位をモデルに組織されたものである。オープン達のワーク・ラインの発展は、オープンとなるための場を作り出し、経済的に独立する上で極めて重要なものである。トランス達はワーク・ラインを通じて、現代ミャンマーでオープンとなり、オープンとして生活するために必要な経済力を、実家に頼らずとも得られるのだ。これらトランスの同族ネットワークは、トランスの人間性に有利な社会的集団の形成を伴うが、ミャンマー文化の主流である年齢に関する序列をいくらか再現しており、ここではトランス流anadeがこれを律する。ミャンマーにおける近年の政治の自由化は、ミャンマーのトランス達に、国家的弾圧に挑む重要な機会を与えた。しかし、オープン達が家庭内で経験するような、日常的な形の社会的、文化的抑圧への対処は、おそらく今後も、ミャンマーのトランスの人々にとって、最も困難で長引く闘いとなるであろう。 オーストラリア国立大学 David GilbertAustralian National University Issue 18, Kyoto Review of Southeast Asia, September 2015

Issue 18

保留状態に生きる: イスラームの法的ディスコースにおけるインドネシア人クィアたち への規範に基づく暴力の感情的側面

インドネシアで同性愛と宗教に関する議論が脚光を浴びるようになったのは、最近、国内で規範から逸脱したセクシュアリティを罪に問う、二つのイスラームの法的提言が発表された後であった。この二つの展開のうち、最初のものはアチェ州におけるシャリーア法施行下での刑事条例の可決である(Gaystarnews.com, 29/09/2014)。同条例には、同性愛行為を行って捕まった者に対し、公開の場でむち打ちの罰を与えるという規定がある。2つ目は、インドネシア・ウラマー評議会(Majelis Ulama Islam:MUI)のメンバーによる布告(Gaystarnews.com, 15/03/2015)で、同性愛を「墜落した行為」とし、これが死罪に値すると明言したものである。これら二つの法的展開は、誰にも分かる立法過程を経ており、異なる地政学的状況下で起きたものである。しかし、私の分析では、これらを一括りに捉え、特に1998年以降のポスト・レフォルマシ(改革)時代のインドネシアでの、セクシュアリティの規範的秩序を構成しているイスラーム正統主義の一部とみなす。 2014年の9月後半に、アチェ州議会によって可決された刑事条例(Qanun Jinayat(アラビア語の「刑法」にあたる))で特記すべきは、同性愛行為(つまり、liwath:男性同士のアナルセックスや、musahaqqah:女性たちが性的快楽のために互いの身体を「ラビング」する事)によって捕まった者が、公開の場で最高100回のむち打ちに値すると定めていることである。現地の役人の話では、公開の場でのむち打ちは、単なる体刑というよりも、むしろ、これに携わった者たちに恥をかかせることが目的であるという。2009年には、当時の州知事イルワンディ・ユスフ(Irwandi Yusuf)は、当初のアチェでの刑事条例案が姦通に対する石打ちの刑を含んでいたため、同条例への署名を拒否した。このため、アチェ州議会は以後五年間にわたり、刑事条例を書き直してきた。アチェでは、2005年に長年に渡る軍事作戦地区指定が解除され、和平協定が締結された。その一環で中央政府はアチェがシャリーア法制度を新たに適用することを認め、この制度のもとで反同性愛条例が制定された。当初、シャリーア法は「価値観」の表現と称され、厳格な実施を伴わないと言われていたが、実際にはシャリーア法は厳格に施行されてきている。道徳警察部隊(Wahdatul Hisbah)が結成されたのはその証拠であり、この部隊がアチェ社会の監視を行い、シャリーア法のさらなる厳守を強要している。 一方、MUIはイスラーム組織で、彼らの法律上の見解(アラビア語ではファトワ(fatwa))は、しばしばインドネシア国家と社会により、イスラーム法、神学、倫理や道徳規範に関する知識の権威筋と見なされている。インドネシアの執行府も立法府も、MUIのファトワの内容を、国家の法案の法源一つと考えている。法的拘束力は無いものの、MUIの布告はしばしば、宗教的マイノリティやその他のマイノリティの人々に対する暴力行為を正当化するために用いられる。その例が、2011年のアフマディア派宗教運動のメンバーに対する暴力であった。私はこれら二つの正統派の法的布告を、西欧世界で同性愛についての市民権が発展し、差別禁止法が生まれていることへの反発の兆候と見ている。ただし、本論ではこの点について更に検討はしない。 予め言っておけば、私は、イスラーム正統主義は、イスラームを唯一の存在範疇とするという本質主義者的な解釈をすると考えている(Asad 1986)。西洋におけるクィアの諸権利のディスコースでは、こうした本質主義的な解釈が、しばしば、抑圧を生み、暴力的文化慣行の源((Dhawan 2013))となっているという烙印を押され、後進的なるイスラーム世界を象徴するものとしても用いられてきた(Massad 2002)。タラル・アサド(Talal Asad)(1986)に倣い、私は、イスラーム正統主義は、イスラームという主要な信仰への多面的理解のなかの一つの見方にすぎないと考えている(Schielke 2010)。イスラームというのは、「複数の意見の単なる集合ではなくて、明確な関係性、権力関係」を持っている。ムスリムたちが正しい実践が何かを規制し、正しい実践を支え、要求し、あるいは正しい実践を調整していく権力を持つようなところ、また、間違った実践を非難し、辞めさせ、その土台を掘り崩し、あるいは置き換える権力を持つようなところであれば、(イスラーム正統主義は)どこにでも存在する(Asad 1986: 15-16)。こうした権力がどれほどの意味を持ち、規範的秩序となっていくのかを明らかにしなければ、インドネシアだけでなく、より広く東南アジアのコンテキストにおいても、相互依存の進んだ世界において特有な形を持って現れる性的排除と不平等の姿を理解できないと考えている。 本論における分析の焦点は、インドネシアにおける法律上のイスラームの同性愛者観を明らかにし、そして、こうした見方がムスリムのクィアたちへの一般的な感情をどのように形成しているかを明らかにすることである。政治がインドネシアのムスリムのクィアたちの感情に与える影響を調査するという、私のより大きな研究プロジェクトの一環として、宗教と同性愛の力学における感情的側面に焦点を当てることで、支配的であるディスコースについての研究、つまり、伝統的に、フォーマルな法的意見や実践、イデオロギーの記述が支配的であった研究を一歩でも推し進めることができるはずである。 インドネシアのセクシュアリティの現代史における規範に基づく暴力 エブリン・ブラックウッド(2007)は、インドネシアでの同性愛に対する現代の統制が、三つの歴史的段階に分かれると述べている。まず1980年代には、スハルトの新秩序体制下の国家は、大多数が「信心深いイスラーム信者である」、「正常化された、再生産をする市民を創出すること」でセクシュアリティを統制した(Blackwood 2007:294)。ブラックウッドはさらに、国家とイスラーム指導者たちが一緒に作り上げてきたセクシュアリティにまつわるディスコースが、性的権利を支持する国際的圧力に応じて変化したのが1990年代の10年間であったとした。三つ目は1998年のスハルト政権崩壊以降の時代である。この時代は保守的なイスラームの指針が押し付けられた時代で、これには国家刑法典におけるより厳しい法律や、法的に正当な行為を明確にし制限するリストを作ることで異性愛結婚を法制化するといった直接的な試みも含まれている。その一方で、同意に基づく成人の同性愛行為への法的位置づけは曖昧なままである。この最後の時代に、ブラックウッドはまた、国家がどこまで規範的秩序を定めるのかについての国民的議論が巻き起こり、ある種の「モラル・パニック」を引き起こしたとも述べている (2007: 303)。不安定な社会経済状況に加え、政治の地方分権化、競合するエスノ・ローカルな政治的課題に基づく多党制の出現から生じた難題に直面し、国家は「道徳規範」に依って、反動的な立法を行うことで、一般生活では安定しているとの印象を作り上げざるを得なかったのである。 ポスト・レフォルマシのインドネシアではまた、日常生活において、規範から逸脱したセクシュアリティやジェンダーに対する、宗教的に動機づけられた敵意の増幅もみられた。物理的襲撃を含め、さまざまな暴力の行使が、ますます、LGBTQ(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、トランスセクシュアルやクィアたち)のパーティーや公開イベントを標的とするようになっている(参照Thajib, 2014)。トム・ブルストールフ(Tom Boellstorff)(2004)は、この新たに生まれつつある暴力の行使を「政治的同性愛嫌悪」の一種であるとし、誰が国民であるかについての支配的な男性優位主義的かつ、異性愛を規範だとする論理に対して、規範から逸脱した人々が脅威とみなされていることが原因だと述べている。次章では、インドネシアでのこの新たな状況への最近の対応について論じる。   根強い国民感情にどう対処するか 「モラル・パニック」という表現で使われる「パニック」、「政治的同性愛嫌悪」という表現で使われる「嫌悪」という言葉は、メタファーとしてよく使われるにすぎないとはいえ、そうした言葉が使われること自体が、感情を組み込んで規範的秩序が作り上げられていることを意味している。ジャニス・アーヴィン(Janice Irvine)(2009)は、アメリカにおける性教育をめぐるモラル・パニックの分析で、このことを明らかにしている。アメリカの性教育は、公的なディスコースにおいても、恐れや怒り、憎悪や反感といった嫌悪感を示す感情的な表記を含んでおり、そうすることで、最も重要と考えられる規範的道徳の形を強調している。実際、ディスコースの一種としての規範的秩序には、「感情を組織化してまとめ上げることで生み出される公共性を生み出す力を持っている」(Irvine 2009, 247)。 アーヴィンの記述を読むと、保守的な政府関係者や聖職者たちが、いかに感情的ディスコースを持ちだして、自分達自身に道徳的権威があることを示しつつ、同性愛の欲望や行為を非難するかがよく分かる。同様のことは、2014年の終わりに、刑法(Qanun Jinayat)が可決される前のアチェで起きた。バンダアチェの副市長イリザ・S・ジャマル(Illiza […]

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シンガポールにおける同性愛の非犯罪化運動

2014年10月28日にシンガポール最高裁判所の下した判決は、男性同士の性的関係を犯罪とする法律である刑法377A条を合憲とするものである。この判決は嘆かわしいとはいえ、その保守主義と社会的道徳観や市民的自由を法によって規制することで知られる東南アジアの一国家における同性愛の非犯罪化運動が活発であることを示すものであった。過去8年の間、シンガポールのクィアの活動家たちは、単独政党に牛耳られたこの国の議会に377A条の廃止を請願し、数々の訴訟を起こして、この法律の妥当性に疑問を投じてきたのである。 本論は、2007年から2015年にかけての司法分野での行動主義に焦点を当てている。この活動では非犯罪化を達成できなかったが、政府や司法の同性愛に対する立場を白日の下にさらすことには成功したし、これによってシンガポールでのクィア運動の行く手に控えた諸問題が明らかになった。377A条が「積極的に」実施されることはないとの政府声明があるものの、保守的な多数派の以降に沿うという想定に基づいて、現行法では同性愛の非犯罪化が実現していない。そのことは、全体として、政治的にはマイノリティの保護に消極的であることを示している。 法的背景 イギリス植民地政府が、刑法377A条をシンガポールに導入したのは1938年であり、英国の1885年の刑法改正法第11条がモデルとなっている(Lee 1995; Chua 2003)。この条項は英国の元植民地の中でも、一部の国々でのみ制定された。377条の「自然の秩序に反した肉体的交渉」については、英国の元植民地で、その刑罰法規がインド刑法に由来する国々では、より一般的に見受けられるものであるが、シンガポールの377A条は、これとは違って次のように書かれている。 公的、または私的に、他の男性といかなる甚だしいわいせつ行為を行う、そのような行為を教唆する、他の男性にそのような行為を斡旋する、または斡旋しようとする男性は、最長二年以下の禁固刑に処する。 この377A条の表現は、広範囲に及ぶ行為を捉えるものだ。この「甚だしいわいせつ行為」という表現は、この法律の中では定義されておらず、判例や研究者たちの意見によると、性行為やフェラチオ、アナルセックスに到らぬ、親密なスキンシップまでも含みかねない。377A条はまた、公的行為や意に反する行為に限定されることもなく、私的行為や同意上の男性同性愛者の関係にも適用されることを示している。 2007年のシンガポール刑法の改正(下記で論じる)まで、377A条は377条と並存していたが、377条では次のように述べている。 誰であれ、いかなる男性、女性、または動物との自然の秩序に反する肉体的交渉を持った者は、終身刑、あるいは10年以下の禁固刑、及び罰金刑に処する。 ここで留意すべきは、377条に述べられた犯罪に不可欠な肉体的交渉に、挿入が十分当てはまるということだ。377A条と同様、377条も私的な同意上の関係にまで適用される。だが、それは同時により狭くも広くもあって、性行為をオーラルセックスやアナルセックスなどの男性器の挿入に関わるものと限定してはいるが、男性同士、さらには異性同士の行為をも対象としている。 実際、両条項が最も頻繁に適用されたのは、非合意や強要、あるいは未成年に関する事例であった。1990年代半ば以来、同性愛の性的関係に対する積極的な取締りはほとんど行われて来なかったが、違法薬物使用の疑いが絡む場合は、今でも警察の強制捜査が同性愛者たちのたまり場で行われることがある。過去に、警察がゲイ男性をそのナンパ場所で罠にかけていた頃、警察は大抵、刑法354条のもと、覆面捜査官への「慎み(の)侮辱罪(outrage [of] modesty)」(わいせつ罪)で起訴したものだ。女性の同性愛者達に対しては、377条や377A条に相当するものは存在しない。 だが、377A条と(2007年までは)377条に基づく男性同性愛犯罪化の社会的、政治的な影響力は、法的制裁の域を超える。これらの条項は、クィアの権利団体の法的立場を否定することを正当化し、同性愛、レズビアン、バイセクシュアル、性転換(や)、服装倒錯のライフスタイルを「促進」したり、「正当化」したり、あるいは「美化」したりするマスコミの番組放送を禁止することを正当化し、公立学校の性教育プログラムで同性愛に肯定的な議論を禁ずることを正当化するために用いられている(Chua 2014)。政府もまた、377A条の目的が、シンガポール社会の「主流」から同性愛を排斥する象徴であると認めている。 2007年の議会に対する請願書 377A条の「象徴性」に関する政府声明が浮上したのは、2007年にシンガポール議会にこの法律廃止を請願する運動が起きている頃であった。シンガポールのクィア運動は、1990年代初頭にまで遡ることができるが、この2007年の運動では、活動家たちが初めて国民の支持を求め、公式に非犯罪化を要求した。これは377A条を対象とする司法分野での行動主義の始まりを示していたが、結果的に上述の2014年の判決に終わった。 この運動は、国家が刑法改正を始めたことがきっかけとなって生じた。2006年11月、シンガポール政府は刑法の包括的な見直しを発表し、公開協議の実施によってフィードバックを募った。修正案の中には、377条の廃止も含まれていた。しかし、377A条は堅持され、この修正案は男性同士の性的関係をより異常で重い犯罪とした。 クィアの活動家たちは当初、377A条を堅持することに対して、公式協議の手段を通じて異議申立てを行った。だが、協議期間終了後、政府はそれでもこの条項を堅持すると発表し、シンガポール人の大多数が現行法を支持しているからには、政府は「事態の展開に委ねる」べきであると説明した(Chua 2014)。 これに対し、あるクィアの活動家団体が、377A条廃止を議会に請願する決定をした。彼らは2ヵ月以内に2,519人の署名を集め、シンガポール独立史上、初めて国民の支持を受けて議会に請願書を提出したのである。彼らはこの請願書が政府の姿勢を変える見込みがほぼ無いことを承知の上で提出した。というのも、議会は377A条にいかなる改変も加えないまま、刑法改正法案を可決しようとしていたからである。そして、一党支配の議会において、この改正法案はあっけなく制定された。 それでも、クィアの活動家たちはこの運動によって、シンガポール政府と彼らが直面する敵への理解をさらに深めた。この請願書を受けて首相が行った議会演説は、国家の同性愛に対する姿勢を総括するものであった。「クィアの人々には、シンガポール社会の中に居場所があるのです。また377A条は同意に基づく私的な関係に対して執行されません。ですが、大多数の人々の意志は優先されるべきです。彼らは未だに同性愛を受け入れていない。だからこそ、この法律は象徴として残されるべきなのです」。この運動を通じて、クィア活動の最も頑強な敵がキリスト教原理主義者達からなることが明らかとなった。キリスト教保守主義が、シンガポールでは宗教的にマイノリティ中のマイノリティであるにもかかわらず、その見解を「大多数のシンガポール人」の代表的な意見らしきものとして、速やかにこれをまとめあげて主張を展開することがわかった。 タン・エンホンとリム・メンスアンの事例 2007年の議会への請願書が示唆したのは、現段階で、立法による法改正があり得ないということである。クィアの活動家たちの間では、377A条廃止のために司法的手段を追求すべきか否かという話し合いが断続的に行われていた。重要な問題は、誰が訴訟の当事者となるかということであった。当事者になれば、自分の私生活とセクシュアリティが表沙汰になってしまう。そして、当事者は、シンガポールの司法制度が憲法上の権利を擁護したことがないことを承知で訴訟することになる。というのも、憲法は、いかなる法律も憲法と矛盾すれば無効になると定めているが、憲法が保護する諸権利に反すると司法機関が判定した法律は一つも存在しないからである。 しかしこのような議論が予期せぬ出来事によって意味をなさなくなり、クィアの活動家たちは法廷へと急き立てられた。2010年9月2日、タン・エンホンという名の男性が、ショッピングモールのトイレで別の男性とオーラルセックスを行ったために、377A条の下に起訴された。首相の「執行せず」との発言を槍玉に挙げて、活動家たちはこの告発を非難した。法務長官は説明なしに、後になって337A条による起訴を、より軽微な公然わいせつ罪にすげ替えた。その頃には、タンの弁護士は、別の訴訟を起こして、377A条が法による平等な保護を受ける権利や、シンガポール憲法の生存権と自由に対する権利を侵害するとの異議申し立てを行っていた。すると、法務長官はこの訴訟を手続き上の観点から却下する動きに出た。タンがもはや377A条の下で起訴されていない以上、訴訟を起こす必須条件となる当事者適格を欠くというのだ。程なくして、タンはわいせつ罪に対する有罪を認め、下級裁判所が法務長官に賛同し、憲法の合憲性を問う異議を退けた。タンはこの異議の却下という判決についてはシンガポールの終審裁判所である上訴法廷に上訴した。上訴法廷は下級裁判所の判決に異を唱え、タンに有利な判決を下した。 2012年8月の上訴法廷の判決は、手続上の問題を取り上げ、同性愛者の市民が377A条の合憲性に異議を唱えることは十分に可能であり、それに先立ち、この条項の下で逮捕される必要も、起訴される必要もないとした。これは、タンが合憲性に対する異議を訴えることができ、他のシンガポールの同性愛者達もまた、同じことができることを意味した。2012年の11月には、同性愛カップルのリム・メンスアンとケネス・チー・ムンリョンが、タンの訴訟と並び、自分達自身の別件で訴訟を起こしている。 多くのクィアの活動家たちはリムとチーを支持したが、タンの事例については及び腰の活動家が多かった。彼らの戦略的見地からすると、タンは公衆トイレでの性行為とリンクしてしまっているために、クィア擁護の理想的な訴訟ではなかったのだ。タンとは対照的に、リムとチーは企業の幹部で、長期的で安定した関係にあり、犯罪歴もない。活動家たちはこのカップルに味方して宣伝活動を行い、クラウドソーシングのウェブサイトでのキャンペーンを企画して、裁判費用として10万米ドル以上を募った。 2013年2月14日と3月6日に、リム・メンスアンとタン・エンホンの事例について、それぞれの審理が高等法廷で行われた。この高等法廷は、法律の合憲性を問う第一審裁判所であった。クエンティン・ロウ裁判官は両訴訟に対し、共に不利な判決を下した。裁判所は倫理問題については議会に従うべきで、大多数の人々が同性愛に「反対」であることを理由に議会がこの法律を決めたのであれば、裁判所がこれに干渉することは不可能であるとの裁定を出した。コモンローの伝統に従えば、シンガポールの下級裁判所は、最高裁が先に出した判決に従う必要があり、最高裁は平等な保護を受ける権利や、生存権、自由に対する権利に関する憲法条項について、保守的アプローチをとっていたのである。 タンと、リムとチーは上訴法廷に上訴を行った。高等法廷とは違い、上訴法廷には先のアプローチとは異なるアプローチをとる力がある。だが、三名の裁判官から成るこの陪審団は、ロウ裁判官の判決を支持し、平等な保護を受ける権利に関する確立されたリーガル・テストに従った。つまり、377A条のもとで逮捕された同性愛関係を持つ男性たちというのは、「インテリジブル・ディファレンシア(intelligible differentia/明瞭な相違点)」を持ち、識別可能なカテゴリーであり、このようなカテゴリーの人々を特定することと、この法律の目的である男性同士の性行為の抑制とは「合理的な関係性」があると論じた。アンドリュー・パン裁判官の100ページに及ぶ判決理由によると、司法は法律の目的の裏を探って議会の意図を問うべきではなく、よって法廷は訴訟当事者らを救済する事はできないという事だ。 News report on […]

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マラテの消滅──フィリピンにおけるゲイの都の盛衰

マニラ首都圏のマラテ地区は、1970年代から2000年代初頭まで、マニラ首都圏の、そして事実上フィリピン諸島全体におけるゲイの都として栄えた。だが、今や閑静になったこの通りを少し歩くだけで、ゲイたちのマラテが消滅してしまったことを十分に知ることができる。いくつかの互いに関連する要素によって、ゲイ空間の栄えたマラテに終わりがもたらされたのだ。本論は、この現象についての覚書を提供するささやかな試みである。 フィリピンのゲイ文化が栄えたのは、1970年代のフェルディナンド・マルコス独裁政権の時代だった。同性愛についての大衆的な言説が立ち表れ、同性愛者の生活に関する探求がフィリピン映画のテーマになり、ココ・バナナ(Coco Banana)などのゲイバーがマラテ地区でブームとなった。だが、政治意識の高いゲイやレズビアンの運動がこの国で活発化したのは、ようやく1990年代になってからのことだった。マニラは、フィリピンにおけるレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスセクシャルたち(LGBT)が経験した歴史上の全ての節目を目撃した。 1990年代初頭から半ばには、マラテのアドリアティコ通りとナクピル通りの交差点が、ゲイとストレートの人びとの両者を対象とした賑やかな歓楽街となった 。ナクピル通りで最初にゲイのたまり場になった場所の一つがブルー・カフェ(Blue Café)で、ここでは毎週水曜の夜に女装パフォーマンスが披露された。ナクピル通りと交差するオロサ通りも活気づいて、多くのバー、レストラン、ショップが開店した。だが、今ではオロサ通りとナクピル通りの交差点沿いの全てのゲイ関係のお店は、チェルー・バー(Chelu Bar)を除いて消えてしまった。一体、何がゲイたちのマラテの消滅を招いたのだろうか。この現象は、テクノロジー、都会の立地、経済学、政治意識といった、いくつかの互いに関連した要因によって説明できるだろう   テクノロジーとリアルとバーチャルな世界における相手探し 現代のコミュニケーション・テクノロジーは、世界中のゲイ男性たちの相手探しの作法を変えてしまった。出会い系サイトやプラネット・ロメオ(Planet Romeo)、グリンダー(Grindr)などのアプリは、彼らの出会い市場を食い尽し、フィリピンではゲイたちがパートナーを見つけるための、より安全な方法を提供している。ソーシャル・ネットワーク・サイトが出現する前は、安っぽい映画館、公園、サウナなどが、マニラのゲイ男性たちが好んで行くパートナー探しの場所だった。だが、これらの場所にはいずれもリスクが付き物だった。映画館とサウナは、何度も警察によって強制捜査されたし、相手探しのために通りをうろつく男性は浮浪罪に問われる恐れがあった。フィリピンのサウナは、いとも容易に警察による強制捜査の対象となってきたのだ。他方、ゲイバーは他のゲイ男性に出会う場所としてより安全だったし、著者の知る限り、警察の強制捜査を受けたことは一度もない。 しかし、たとえゲイバーが社交場として安全な選択肢だったとしても、多くのゲイ男性たちは、このような場所に行くのを拒んでいた。彼らは「見破られる」、つまりゲイと特定されることを恐れていたのである。このような状況の中、バーチャル・コミュニケーションの技術は、たまり場に顔を出したがらないゲイたちを悩ませてきた現実の空間における物理的な危険や、自己受容の問題を解決する有効な手段となった。携帯電話の無料アプリが提供するゲイの出会い系サイトのなかで、フィリピンでもっとも登録者数の多いのはプラネット・ロオであろう。2011年の2月の時点で、プラネット・ロオには、既に約97,000人のフィリピン人会員がいた。このサイトのホーム画面の情報によれば、プラネット・ロオにログインしている世界中のユーザーのうち、いつでも4%から5%ほどがフィリピン人だった。オンラインでのパートナー探しは理想的かつ安上がりな選択肢であるため、ゲイバーの経営に深刻な悪影響を与え、その多くが倒産した。   新世代のゲイ、新たなゲイの都市空間  ゲイ空間としてのマラテの興亡に関して、次に考慮すべき要因は、ゲイバーに足しげく通う男性の人口動態の変化である。それぞれのバーは、それぞれ異なる社会経済的バックグラウンドを持つ客を引き付けようとする。マニラのゲイバーは社会階級ごとに階層化され、富裕層向けの店もあれば、下位中間層や労働者のゲイ男性のための店もある。 過去10年間に、フィリピンではビジネス・プロセス・アウトソーシング(BPO)産業の急速な成長が見られたが、ゲイ男性たちは、この急成長するサービス業の労働力として大きな割合を占めている。これらのBPOのゲイ男性たちは、主にコールセンターの電話対応係として働いており、ゲイバーとレストランの顧客としてもかなりの割合を占めている。BPO労働者たちは深夜勤務が多く。その不規則な仕事のスケジュールと、過酷な仕事生活が、とりわけ週末に彼らをバーでの交際へと向かわせる。これは理にかなったリクレエーションの形態だ。ところが、BPOのオフィスはマラテ地区にはなく、そのほとんどはマニラ市の域外、ケソン市のオフィス街オルティガスや、マカティ市にある。  悪名高いマラテ地区の交通渋滞は、ただでさえ余暇時間が限られたバーの常連客の不満の種となっている。BPO産業の活性化と、それに伴うゲイバーの顧客市場の変化に加えて、こうした混雑した立地条件が、ゲイのマラテを消滅へと追いやった要因なのである。   都会のゲイ空間のポリティクス 最後に、ゲイのマラテを消滅させたもうひとつの理由として、この国のゲイ男性の大多数に政治意識が欠如していることを論じたい。1990年代と2000年代の初頭には人気のあったマラテであるが、ここは問題のある空間でもあった。一方で、マラテはゲイたちのプライドの象徴であった。だが、例年マラテで行われた公開ゲイ・プライド・パレードの参加者数は、パレードの後にゲイたちのたまり場で行われたプライド・パーティーの参加者数と比べるとずっと少なかった。これは、マニラの比較的少数のクィアたちだけが、自らのセクシュアリティに対してオープンな構えをもっていたことを意味する。もしバーの常連たちが、例年の公開ゲイ・プライド・パレードに参加していれば、このイベントにはもっと多くの参加者がいたはずだ。ゲイバーが企画したプライド・パレード後のパーティーにしか行かなかった男性たちにとって、いったい「ゲイ・プライド」とは何の意味があったのだろうか。彼らは、マラテ地区の象徴的、政治的な重要性を自覚していたのだろうか。「ゲイ・プライド」には、自己のゲイ・アイデンティティの個人的肯定や、ゲイ・コミュニティの存在とそこへの帰属感の確認も含まれるだろう。だが私は、政治的意思と政治的行動という側面が、これらのゲイ・パーティや、マラテ全般において欠如していたと主張したい。マラテのゲイバー・シーンにおけるゲイ・プライドは、政治的内容と意味を欠いた単なる商業的事業に成り下がったのだった。 1990年代以降、マラテは事実、巨大な「クローゼット」になってしまった。それは状況に応じて選択的にはゲイであることをカミングアウトしたがりつつも、同時にクローゼットの中に留まろうとするゲイ男性たちのための場所だった。逆説的にも、ゲイ・プライド・パレードなどの機会にマラテでカミングアウトする誘因は、マラテ地区の商業的なゲイのたまり場であるクローゼットのプライバシーに戻れる可能性に支えられていた。ジュディス・バトラー(1991)によれば、カミングアウトを実行し成立させるには、いつでも出たり戻ったりできるクローゼットの存在が必要である。バトラーは次のように述べている。 「アウト」の状態であるためには、常にある程度「イン」の状態であることが必要であり、それはこの両極性のなかにおいてのみ意味を成す。したがって、「アウト」でいることは、その「アウト」の状態を維持するために、クローゼットを何度も何度も作り出さなくてはならない。この意味において、アウトの状態は、新たな不明瞭さを生むばかりである。クローゼットは公表の約束をもたらすものの、定義上、その約束は決して果たされない(1999: 16)。 マラテはまさに、そうしたクローゼットに他ならなかった。フィリピンで急進的なセクシュアル・ポリティクスが不可能だったのは、マラテのゲイバーのパトロンたちの大多数が、ゲイとレズビアンの大義に関心もなければ、LGBTの歴史にも気をかけていなかったためである。ゲイの都市空間に身を置くことが、必ずしもゲイのポリティクスや運動につながるわけではないのだ。 ゲイ空間の存続には政治的な連帯とプライドが必要である。だが、それは現在のフィリピンでは、まったくもって明白ではない。そのことは、LGBT団体の「アン・ラドラド」(Ang Ladlad、「カミングアウト」を意味する)が、2013年に(下院の2割を比例制で選出する)政党名簿選挙に立候補したが、議席の獲得に失敗したことからも明らかである。アン・ラドラドは、少なくとも一議席を得るために、投票総数の2パーセントを獲得する必要があった。だが予想どおり、この目標は達成できなかった。フィリピンのゲイ人口(レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダーのコミュニティはさておき)は、「慎重」対「アウト」、「男っぽい」対「女っぽい」、「筋骨隆々」対「ぽっちゃり」といった二項対立によって分断されている。ゲイ男性たちはまた階級格差によっても分断されており、彼らが政治的に連帯するのを極めて困難にしている。現代フィリピンのゲイ言説において、同性愛者自身が嫌悪しあう、とりわけ問題のある二項対立が、「慎重」対「アウト」である。「慎重」が男性的で、目立たず、好んで(必ずしもではないが)クローゼットの中にいることを示す一方、「アウト」は女性らしさと社会的体面の欠如を示す。階級格差とジェンダーの表し方は、依然としてフィリピンのゲイ文化を分裂させる力なのである。 フィリピンのゲイ文化が、ゲイ空間の存続を要求するには、ゲイバーに見られる政治的無関心の文化を変える必要がある。ゲイのマラテが消滅したのは、実際、フィリピンのゲイたちが、自分たちの歴史、そして何よりも自分たち自身について、充分な関心を持たないためだった。かつてマニラ首都圏、そしてフィリピン共和国におけるゲイのメッカだったマラテは、今や消滅してしまった。そして悲しい現実は、この国の多くのゲイ男性、特にゲイバーの常連の男性たちが、このことに配慮を示さず、まったく関心を寄せなかったことである。 デ・ラサール大学マニラ校 文学部Ronald Baytan博士 Issue 18, Kyoto Review of Southeast […]

Issue 18

同性愛:ベトナムとタイでの認可に向けた動き

同性愛を初めて認可する法律が制定されたのは、1979年のオランダで、これは家賃が設定されたアパートの借用権を、生き残っている同性パートナーにも拡大して認めるものであった。同性愛カップルの登録制度を設けた最初の法律は、1989年のデンマークで出現し、これは結婚と並行しつつも結婚を除く、一連の諸権利を許諾するものであった。結婚を同性愛カップルに解禁した最初の法律が制定されたのはオランダで、2001年のことであった。このオランダが先鋒となった同性結婚以降、アルゼンチン、ベルギー、ブラジル、カナダ、デンマーク、フィンランド、フランス、アイスランド、ルクセンブルグ、メキシコ、ニュージーランド、ノルウェイ、ポルトガル、スロベニア、南アフリカ、スペイン、スウェーデン、イギリス、ウルグアイ、それにアメリカ合衆国のほとんどの州がこれに倣った。アメリカが同性結婚の認可に、全国的に関与するかどうかの判決は、目下、アメリカ合衆国の最高裁判所で審議中である。 アジアでは、唯一、政府が同性愛を認可しているのは、現在のところ、香港、シンガポールとタイ(そしておそらく、その他のいくつかの区域)の入国業務においてであり、大使館や大学、あるいは企業に就労する外国人の同性パートナーたちが、この関係に基づく居住権を獲得できる。 世界の大部分では、同性結婚(あるいは同性愛の認可)の問題が、今や、レズビアンやゲイ、トランスジェンダーの人々の法的平等と人権にとって決定的な問題となっている。これは単純明快な要求であり、同性カップルへ肯定的イメージを与えるものであるが、今、メディアでは、同姓カップルが子育てをする親として度々描写されている。トランスジェンダーの人々も、今ではますます、性やジェンダーの問題を懸念することなく、自由に結婚ができるようになってきた。現在、西洋には同性結婚に関する幅広い文学作品が存在する。では、アジアでは何が起きているのだろうか。ここでは、ベトナムとタイにおける最近の動向を振り返ってみたい。   ベトナム 2012年にベトナム政府は、家族婚姻法の再検討プロセスに着手した。検討されていたのは、8つの個別の問題で、その中には異性同士の同棲、同性愛、代理母制度と別居も含まれていた。 2012年7月、法務大臣は、同性カップルたちの法的枠組みを検討すべき時であると述べ、このような改革に対する非常に実際的な理由を述べた。 法廷は、暮らしを共にする同性カップルの間の論争にどう対応するべきか分からずにいる。新法ができれば、同性カップルに資産や相続、養子縁組などの諸権利を与えることになるであろう。「思うに、人権に関する限り、我々は、これを期に現実を見るべきである」、司法大臣のHa Hung Cuongは、火曜日(2013年7月24日)に、国営のテレビとラジオのオンライン・トーク番組でこのように述べた。「同性愛者の数は何十万という数に上っている。 これは小さな数字ではない。彼らは一緒に暮らしながら、婚姻届を出していないのだ。彼らが資産を所有していることもあるだろう。我々は当然、これらの問題を法的に処理しなくてはならない」。 5月、同省(法務省)は関係機関に諮問文書を送り、彼らの同性愛に対する意見を求めた。この文書は同性結婚について、人権の原則に照らせば不可癖なものであると述べていた。だが、また次のようにも述べられている。「同性愛のデリケートさや、同性結婚によって文化的、伝統的な家族の価値観にもたらされ得る、予測不可能な影響を考えると、ベトナムが同性結婚を合法化するには時期尚早である」。 法務省の代表らは、ハノイとホーチミン市でLGBTコミュニティとの対話を行い、LGBT団体とベトナムその他の国々の同性愛の専門家たちとの会議を企画し、同性愛についての市民教育を行うことを希望していると表明した。 国会の社会問題委員会は、2012年10月8日にLGBTの活動家たちを招き、同性結婚に関する発表を行わせた。 キース・ワールダイク(Kees Waaldijk)教授は、オランダのライデン大学の性的志向に関わる法の研究者で、M・V・リー・バジェット(M. V. Lee Badgett)教授は、アメリカ、マサチューセッツ大学アマースト校の経済学者である。ふたりは、2012年12月にハノイに招待され、同性カップルの恋愛と、結婚の拡大適用に関する認識の国際的な態様を論じた。両者とも、この問題については広範に書き記しており、ベトナム政府と国連開発計画共催のワークショップで講演を行った。 2013年4月には、保健省副大臣が意見を述べたが、その発言はタン・ニン(Thanh Nien)通信社によって次のように報じられている。「同性愛者たちにも、その他の誰もと同じ権利がある。それは愛する権利、愛される権利、そして結婚する権利である」。この数日前、法務省は同性カップルが(非合法な)「結婚」イベントを開いても、もはや罰金を科せられることはないと発表していた。 政府の法律改正案が公表されたのは、2013年の半ばで、資産や子供に関する結婚の権利と義務の適用を、同棲中の異性カップル、また独立した章では、同棲中の同性カップルにも拡大することになっていた。2013年10月17日には、30以上の社会組織の代表たち、さらに多数のLGBT個人たちと彼らの支持者たちが、ハノイでのセミナーに参加して、あらかじめ国会議員たちに送っていた3件の文書を公表した。これをある情報筋が次のように報告している。 「この文書には、社会団体の文書、ベトナムのレズビアン・ゲイの家族と友人の会(PFLAG)の文書、そして同性結婚を支持する人々8,300名の署名を集めた嘆願書が含まれていた。」 何百人もの人々が、ハノイの公園に集まって二人の同性カップルの象徴的な結婚を見守った。その公開されたお祝いには、多くの虹色の旗や風船が使われ、このカップルのFacebookページには60,000件もの「いいね!」が押されていた。 2013年12月に提出された一連の憲法改正には、結婚する権利の項への書き直しも含まれていた。「男性と女性」は結婚する権利を有する(この表現が結婚を異性カップルに限定するものと解釈されてきた)、という文言の代わりに、新たに提案された文言は、単純に「男性、女性」は結婚する権利を有する、と述べていた。ここで合法的な同性結婚の障害となり得るものは、きっぱりと取り除かれ、これに対するいかなる議論も注目も特には見受けられなかった。しかし、同性結婚への障害が取り除かれたとはいえ、それだけでは、同性同士の人々の結婚を実際に法制度化することにはならなかった。 2014年6月19日、ベトナム国会が政府から提案された多くの改革案を却下したことにより、同性カップルの同棲の法的認可は取り消された。さらに、異性カップルの同棲の認可は、子供に関する案件(資産に関する案件は外された)に限定された。代理母制度は、血縁(姉妹やいとこなど)との非商業的な取り決めのみに厳しく制限された。(非合法の)同性同士の「結婚」イベントを禁じた条項が取り除かれた一方、新たな文言が加えられ、それは次のように言明している。「国家は同性結婚を認めていない」と。   タイ 2012年、タイの同性愛の活動家として長いキャリアを持つナテー・テラロジャナポン(Natee Teerarojjanapongs)が、パートナーとの結婚許可証の法的登録を申請した。この許可証が拒否されたため、彼はこの件をタイ国家人権委員会に持ち込み、同委員会に憲法裁判所での手続きを開始するよう要求した。人権委員でLGBT問題を扱うタイリン・シリパニッチ(Tairjing Siripanich)博士は、訴状を受理し、次のように述べた。 「人権という観点からみれば、暮らしを共にするという決断は、その人がどのような性別であれ、法によって許可されるべきである。」 だが、裁判を進めるどころか、この問題はタイ国民議会の法務、正義と人権に関する委員会(Committee on Legal Affairs, […]

Issue 17

インドネシアにおける不平等と民主主義

1998年のスハルト大統領失脚に至るまでの数年間、いわゆるkesenjangan sosial、ないし「社会格差」の高まりに関する国民的議論がインドネシアのマスコミで話題になった。1980年代に経済自由化政策が始まると、製造業と金融業が急成長し、中産階級の豊かさの兆しがインドネシアの諸都市において増々目につくようになった。また、超富裕層に属する実業家たちが増えていることも感じられるようになったが、そのような人々は大抵、トップレベルの政府高官の子弟や家族の一員であった。社会的公正を求める声がスハルト政権への不満を煽り、1998年の体制転換の前後には、ジャカルタやその他の大都市の路上でのデモや暴動となって激しく噴出した。多くのインドネシア人たちはreformasiの時代が、より開放的で民主的な政治だけでなく、さらなる社会的平等をもたらしてくれることも望んだ。 そのような望みは実現されていない。インドネシアが1998年に民主化を初めてから、富の不平等は大幅に拡大してきた。社会的格差が拡大してきたのは、とりわけ、超富裕層の財産が劇的に増加し、貧しい市民たちの所得が伸び悩んだためである。だが、不平等に対処する試みは、インドネシアの政治では目立たない。インドネシアの政治文化には平等主義の要素が濃厚にあり、貧しい市民を基盤とする社会運動が多くあるにもかかわらず、階級的亀裂にそった政党システムがあるわけでもないし、政府が体系だった再分配プログラムを提案したこともなければ、ましてや着手したこともなかった。かわりに、裕福なアクターたちが公的な政治を牛耳り、社会的弱者たちは主にパトロン・クライアント関係を通じて政治に関与してきた。この関係では、政治家たちは社会全体に再分配をするのではなく、的を絞った有権者に利益を供与するのである。しかし、再分配の政治はますます重要性を持ち始めており、それは、政治家たちが選挙において保険、教育、その他の社会福祉政策の拡充を訴える頻度が増えていることからも分かる。 インドネシアにおける不平等 歴史的に、インドネシアにおける不平等は、東南アジアの他の主要近隣諸国に比べると、若干低いものであった。ところが、官庁統計によると10年程前から不平等が悪化し始めており、しかも、その速度は加速度的であった。所得の不平等を測るジニ係数は2002年の0.32から、2013年には0.41にまで上昇した。だが、観測筋の大半は、この測定値が実際のインドネシアの不平等の度合いからかけ離れていると確信している。特に、この値は上層部への極度な富の集中を捉え損ねている。 経済学者やその他のアナリストたちが、この深まる不平等の原因を論じてきた。一つの要因として、貧しい層のインドネシア人たちの所得が伸び悩んでいる、あるいは、比較的緩慢にしか伸びていないという点があげられる。最近のある研究によると、貧困層および貧困層に近い層(near-poor)が経済成長によって受ける利益は、平均的な国民が受ける利益よりも大幅に少ないことが分かっている。 公的に貧者と分類される人が総人口に占める割合は、2002年の18.4%から2013年には11.2%に減少したものの、非常に多くの、いわゆる「貧困に近い層」と合わせると、彼らは未だに人口の約半分を占めている。世界銀行によると、2011年には、人口の43%が一日あたり2米ドル以下で生活していた。 これと対照的に、インドネシアの中産階級は確かに大幅に拡大しているのであるが、最も劇的な動きが起きたのは超富裕層である。過去十年程の間に、インドネシアの超富裕層に、圧倒的なまでに富が集中してきたのである。アメリカの政治学者ジェフリー・ウィンタース(Jeffrey Winters)が2011年に算定したところでは、人口の1%の100分の1以下に相当するインドネシアの最も裕福な43,000人の市民が所有する富は、インドネシアのGDPの25%に相当し、またわずか40人がGDPの10%をやや上回るほどの富を所有していた。 2012年には、インドネシアの億万長者の数が日本の億万長者の数を超え、また一人あたりで換算すると、インドネシアには中国とインドよりも億万長者の数が多い。 2014年の初めに、ウェルスインサイトという「世界の富裕層および超富裕層に属する人々」に関するデータを提供する機関は、インドネシアの大富豪の増加率は世界最速であり、億万長者の数が2013年の37,000人から2014年には45,000人を超え、増加率は22.6%に達すると予測した。 同様の企業であるウェルスXの一年前の計算では、インドネシアには785名の「超富裕層」の人々(各自少なくとも3,000万ドルの財産がある人々)がおり、その総資産は1,300億米ドルで、これは前年よりほぼ17%の上昇であった。クレディ・スイスも負けじと、インドネシアの億万長者の増加を予測しており、2014年の98,000人が2019年には161,000人となり、その増加率を64%とした。 ただし、このような予測は、多くの海外在住の富豪たちをおそらくカウントしていない。2006年にTempo誌が報じたところでは、シンガポールに住む億万長者の約3分の1がインドネシア人で、その多くが1997年から98年の金融危機の後に移住したということである。  このように富がますます集中する現象は、大きなグローバルな流れの一部であるが、インドネシアにおいて富の集中を加速させる一因は、2000年代に生じた商品産物(commodity)ブームであり、この時代には石炭やパーム油といった重要商品産物の価格と生産高が急上昇した。この好景気による利益はインドネシア社会の貧困層を利するよりもむしろ上層部にかなり集中したのであり、そのことは、インドネシアにおいて不平等が生み出され、維持されてきた要因が政治的であることを示している。概して、この商品産物景気の第一受益者となったのは政治的コネを持つ企業家たちであり、彼らはそのコネを利用して鉱山や農園の開発、運営に必要な許認可権を獲得することができた。その中にはジャカルタの主だったビジネス・アクターもいたし、さまざまな成り上がりの実業家、地方官僚や政治家もいた。彼らは、分権化によって地方自治体が獲得した裁量権を自分たちに都合よく利用できたのである。とてつもなく裕福なインドネシア人たちは今なおジャカルタとシンガポールに集中しているのは事実としても、大幅な富の急増は地方でも生じている。比較的辺鄙な場所に行ってみても、宮殿のような大邸宅や自家用ジェット機など、大いなる富の証拠を見出すことができる。 個人の富は政治権力と不可分であることが商品産物ブームから見て取れるが、そもそも、これは、長い間、インドネシアの政治経済の特徴であった。インドネシアの最も裕福な市民たちの大部分が、政治家の一族であるか、スハルト時代やそれ以後に政治的パトロンや政府の協力者たちに近づく事のできた家の者であるかのどちらかである。したがって、インドネシアの「オリガーキー(寡頭制)」政治は、ポスト・スハルト時代のインドネシア政治に関する多くの重要な分析において、主要な関心事となってきた。 寡頭制論の基本ポイントは、1990年代後半の経済的、政治的危機の後、オリガークたちがインドネシアにおける民主主義の主要機関である政党や議会を「略奪し」、またマスコミなどのような機関を統制下において市民社会をも支配したということである。こうしたことからすると、政治権力をめぐる争いというのは、基本的に国家権力の提供する経済資源へのアクセスをめぐるオリガーク間の争いといえる。そのような競争は、熾烈になり得る ―Jeffrey Wintersの印象的な表現によれば、インドネシアは「野放しの寡頭制(untamed oligarchy)」なのである。 不平等、政治と概念 極度の社会的不平等の存在は、当然、インドネシアや東南アジアだけに限らない。実際、トーマス・ピケティ(Thomas Piketty)の最近の有名な著作が明らかにしたように、それは先進資本主義諸国の不変の特徴であり、ここ数十年の間に、ますます明白となってきたことである。不平等が継続するには、それを支える思想的背景が必要である。ほとんどの社会では、2つの要素が多様に交じり合い、多様な形をとりつつ思想的背景を形成している。一つ目は、不平等を「正当化する」イデオロギーである。たとえば、社会のヒエラルキーは神やその他の超自然的な力が是認しているのだと主張をしたり、あるいは、貧者は個人的、集団的に自らの境遇に責任を負うと主張したり、裕福な者たちが富にふさわしいのは、その才能や勤労、世襲の原則、伝統、その他の要因によるのだと主張したりする。二つ目の一連の思想は、不平等を「飼いならそう」とする思想である。これは経済や社会生活に国家を介入させることで富を再配分するか、少なくとも、不平等の最悪の影響のいくつかを改善しようとすることを意味する。こうした思想はあらゆる社会に存在しており、特に前世紀あたりでは、福祉国家建設の試みと結び付けられてきた。しかし、福祉国家による干渉は、いくつかの国々では時に不平等を大幅に削減してきたものの、完全な不平等の撲滅を目指したことは一度もなかったのである。 インドネシアでは、どのような概念構造が不平等を促進しているのであろうか。ここで考察の一つの出発点となるものが、2014年6月に行われた全国調査である。これは二つの調査機関、「インドネシア・サーベイ研究所(Lembaga Survei Indonesia)」と「インドネシア政治インディケーター(Indikator Politik Indonesia)」によって行われたものである。 この調査によって、不平等に対する深い社会的懸念が明らかとなった。(他国の市民と同様に)回答者たちは、自国の実際の不平等の程度をかなり低く見積もってはいたものの、51.6%が現代インドネシアを若干不平等、40.1%が非常に不平等であるという意見であった(わずか6.6%がインドネシアを若干平等、0.5%が非常に平等であると見ていた)。ほぼ4分の1にあたる23.3%の人々は、所得格差について「どのような状況下でも」許容できないと述べた。さらに多い66.3%の人々は、所得格差を条件付きで許容できると述べたが、興味深い点は、これらの回答者のわずか18%しか、次のような社会的正当化を正しいと判断しなかったことである。「金持ちが金もちたる所以は、勤労の結果で、貧者が貧しいのは、彼らが怠惰なためである」という正当化の仕方である。不平等を条件付きなら許容できると述べた者たちの大半が適応派で、国家の働きかけが貧者の状況改善に必要であると示唆する条件を選ぶことによって、不平等を許容可能であるとしていた。不平等を許容するための条件とは、もし生活必需品が全ての人に無理なく買える価格であれば(23.6%)、もし貧困が減少しているのであれば(17.5%)、もし国家が全体として発展しているのであれば(17.5%)、もし裕福になるための競争が公正な状況下に生じたのであれば(16.3%)、というようなものであり、これらは国家の介入を示唆している。 これらの調査結果が示唆するのは、インドネシア社会における強い平等主義の精神と、社会的不平等と定義されるものに対する反感である。その起源は、経済ナショナリストや社会主義者たちの命題であるインドネシアの反植民地闘争に求めることができ、一般の政治論議は圧倒的に国家主義的かつ福祉国家的方向性を持ち続けたままである。「自由主義」という用語、そして「資本主義」という用語さえ、政治エリート階級に属する者同士の間でさえ事実上のタブーとなっており、全ての主要政党が賛同している意見は、国家が経済に介入し、貧者の運命を改善するべきであるというものだ。だが、そのような意見は広まってはいても、散漫である。keejahteraan(社会福祉)やpemerataan(平等)に対しておおまかにレトリックとしてコミットすることはあっても、それが、例えば、裕福なインドネシア人たちの税負担を引き上げ、本格的な再配分を行うという話になることはほとんどない。 障害と展望 平等へのこのような広範な人々の支持がありながら、それが不平等を抑制するための更なる努力につながらない理由は、フォーマルな政治の性質によるところが多い。一つの要因は、組織的に貧者を代弁する政党が存在しないことである。たとえば、労働組合とつながりのある社会民主党は存在しない。社会運動や動員が、より貧しい人々の間に存在しないと言うのではない ― むしろ、そのような運動は、随所に存在しており、(労働者の組織化のように)いくつかの分野では、これらの運動が過去10年の間にますます存在感を増してきている。しかし、こうした社会運動は断片的であり、部分的な政策変更に焦点を合わせ、選挙協力を通じて単発的な取引を成立させるのが関の山である。この要因と関連して、パトロン・クライアント関係が市民とその政治的代表者とをつないでいることも障害となっている。政治家は、社会福祉や平等のような普遍主義的な言葉を用いて市民にアプローチするが、彼らは概して、支持者へと厳密に絞った恩恵しか提供しない。それは、ある村での開発プロジェクトであったり、支援をしてくれている宗教組織を通じた社会支援プログラムであったり、選挙期間中の個人的な贈与や報酬であったりする。この種の恩顧主義は、大雑把ではあっても再分配ではある。しかし、低レベルで場当たり的である。また、こうした恩顧主義は、裕福なアクターに有利な一種の政治的実践でもあり、長期的には不平等の削減よりも、むしろこれを固定化する。 このような全ての障害にも関わらず、インドネシア政治における社会福祉、そしておそらく再配分も伴う新たなパラダイムの兆しがかすかに見え始めている。過去10年間で、とりわけ地方首長直接選挙の導入により、とりわけ医療部門で多くの地方自治体が新たな社会福祉政策を導入するようになった。新たに、国民皆保険制度も導入された。 2014年の大統領選挙で勝利した新大統領のジョコ・ウィドド氏は、貧しい有権者たちの支持を集め、彼は他候補と違って貧者の窮状を理解できる人物というイメージで売り込み、国民保険、教育その他の社会福祉サービスを拡充すると言った。就任早々の彼の政策のひとつは、貧困家庭への現金支給プログラムであり、最終的には人口の3分の1を対象とすることから、エコノミスト誌は、このプログラムは「その種の計画では世界最大のもの」と言っている。 要するに、国民の平等主義的な気質に適った具体的な政策が徐々に生まれつつある。富の不平等への直接的、抜本的取り組みは確かにありそうにないとしても、少なくとも、不平等を何とかするためのよちよち歩きが始まっている。 政治社会変動学科 Edward Aspinall教授 オーストラリア国立大学 アジア太平洋学部コーラル・ベル・スクール・オブ・アジア・パシフィック・アフェアーズ  Issue 17, Kyoto Review of Southeast Asia, […]

Issue 17

ベトナムにおける不平等の凝集と民主化に向けた圧力

東南アジアのほぼ全域において、社会的、政治的な対立が増加している。いくつかの国々は、経済的不平等と政治的不平等の両者を抱え、これが今日、民衆の抗議運動によって問われているが、そのような状況はベトナムのように、団結や抗議、集会の権利が制限された国でも同じである。不平等の政治力学、すなわち、実際の、あるいは認識された、様々な形をした不平等に対して、社会的な抗議運動がどのように生じ、いつ、どういう理由で、これらが民主化への要求、つまり、民主化の「ディマンド・サイド」に転換されるのかという事が、東南アジアのコンテキストでは、意外なほどに学者達に注目されてこなかった。最近の報告書の中で、アジア開発銀行(ADB)は、不平等の高まりが地域の政治的安定に対する、より大きな脅威の一つであるとしている。の推測では、「この地域の人々の大半、約5分の4の人々が、さらに不平等化する国々で暮らしている」。 ベトナムでは、ベトナム共産党(CPV)主導の、権威主義的な一党政権下での30年近い高度経済成長の後に、社会的抗議や民主化への要求が生じているわけだが、この国はしばしば、比較的「包括的な成長(inclusive growth)」を示す、所得格差水準が並の事例に挙げられ、中には1993年から2006年にかけての所得格差の低下を示唆する研究もある。この研究を踏まえれば、近年の大規模な抗議運動や、その他の形をした動員を通じて、不平等が政治問題化されている事が謎めいて見えるだろう。だが、不平等に対する許容度は、イデオロギーや、その他の異なるコンテキストによって変わり得るものだ。ある国では許容できる水準でも、イデオロギーや文化、その他の理由から、許容されない事もあるという事だ。ベトナム政治のコンテキストにおいて、党の公式レトリックは繰り返し、経済的平等と(レーニン主義版「中央集権的民主主義」とあだ名された)民主主義、さらには「国家」が中立国でなく、労働者や農民たちを支援する国である事を強調している。しかし、経済的平等や民主主義についての公式的な言説と、国民の暮らしの現実との間には、認知的不協和が拡大している。この不協和は、2006年以降の政治ブログやソーシャル・メディアの急増と関係がある。ソーシャル・メディアは、2013年の制限規定の導入により、議論やオンライン上でのニュースの共有、その他、政党国家に反する、あるいは国家安全と社会的秩序及び安全を脅かす、国家の結束を妨害すると思しき情報が全て禁止となった事、著名ブロガーたちの投獄が広く議論された事をよそに、今も発展を続けている。これらのブログでは、様々な物議をかもす問題、例えば、ベトナムと中国との関係や、民主化、多元主義、人権、汚職や不平等などが論じられている。中でも、党指導部による巨額財産の不正蓄財疑惑は、人々の大変な怒りを買っている。 不平等は、国家の空間に等しく広がったものではない。地方の中には、未だに人々が多かれ少なかれ同じ様に貧しい所もあれば、別の場所では、発展がかなり均一的であったり、また別の地域では、格差の急速な拡大が見られたりしている。つまり、不平等の全国統計水準では、不平等の政治に関わる地理的パターンがわからないのである。全国的な水準では不平等の推移が穏やかであっても、ベトナムの事例は、極めて高い水準の不平等の地理的な集中が発達している事、すなわち不平等の凝集を示している。これらの地域はまた、2005年から2006年にかけて、大規模な抗議運動の起きた地域とも一致する。また、これは多くの民主化運動の活動家たちの故郷でもあり、彼らが地ならしをした事によって、大衆が政治体制の民主化を求める、かなり主張の強い政治的市民社会が発展したのである。 不平等の凝集は、集中した「不同意の空間」(space of discontent)が発達する構造的な条件を形成したようだ。この「不同意の空間」では、異なる問題領域 (例えば労働問題や低賃金、人権侵害、社会保障制度の欠如、土地収奪、土地配分、環境破壊など)に関する抗議運動などを含む、様々な形をした動員が、互いに影響を及ぼし合いながら、権威主義的な政治の抑圧に対峙し、政治空間を広げている。インターネットを通じることによって、当初はむしろ地域的なものであった抗議が、政治への関心と地理的な広がりを持つ新たな支持者たちを得たのである。  経済改革と不平等の凝集 産業化は、海外直接投資(FDI)が主導する製造業の著しい集中を、ホーチミン市やドンナイ省、ビンズオン省などのいくつかの地方にもたらす事となったのであるが、これらは、市民団体らが国家に対して組織的自治や民主的権利を求める長い奮闘の歴史がある地域である。 経済改革が最初にもたらした結果は、地域化された経済的不平等であった。富が増々集中する国の南部では、ジニ係数の不平等水準が他の地域よりも高いものとなった。最近の国連人間居住計画(UN-HABITAT)の報告書は、諸都市におけるジニ係数を推定し、ホーチミン市を、アジアだけではなく、世界中でも最も不平等な街の一つと指摘し、そのジニ係数を0.53と推定した。これによって、ホーチミン市は「不平等の水準が非常に高い」というカテゴリーに当てはまることとなったが、UN-HABITATによると、これは「所得分配における制度上の欠陥を示す」もので、「市およびその他当局が、不平等を緊急を要する事柄として対処すべき(…)」状況であるということだ。この区分では「不平等の水準が危機的な高さに近づいている」。 所得ジニ係数0.4の定義は、「国際的な警戒ラインで、これを超えると不平等が政治的、社会的、経済的に、深刻な悪影響をもたらし得る」という事である。提示されたデータによると、ホーチミン市は「数値が全国平均を大きく上回る」、高度に不平等な都市として突出している。これに比べ、ハノイにおける不平等の水準はずっと低く、0.39と推定される。つまり、分配に対する経済成長の影響は、その結果が全国的に見られたものであるか、特定の地域を対象に推定されたものであるかによって異なるというわけだ。 また、不平等に対する認識も、これと同様のパターンのようだ。2014年に発表された調査は「不平等に対する重大な懸念」が、ベトナム市民の間に存在する事を示しているが、中でも、都市部の住民が最も強い懸念を示しており、都市部の住民10人のうち、8人が不平等の水準の上昇を不安と感じ、その大半の者達が同じ地域に住んでいるという事だ。  不平等の凝集と不満空間 この南部の産業的中心地のあたりこそは、改革時代に最初の大規模な労働者抗議の行われた場所であった。ストライキは違法であったが、改革時代を通じて拡大を続け、2005年と2006年、それ以降には爆発的に増加し、何十万もの抗議者たちを引きつけた。これが南部から全国へと拡大しはじめると、ベトナム共産党は次第に抗議運動を社会的、政治的秩序に対する潜在的脅威と見るようになった。国家の反応がさらに対立的となったのは、抗議者たちが他の民主主義擁護団体の支持を得る事となったためである。だが、これらの抗議運動は、既に土地の収奪や宗教上の権利、環境破壊反対、その他の問題に関する、他の形をした抗議行動のための政治的空間を開いていたのだ。幾つかの民主主義擁護団体が組織され、新たな政党や自主労働組合が公に発表されたが、中には「労働者の権利を保護し、これを増進させる。その権利には、政府の干渉を受けずに組合を組織し、これに加入する権利も含まれ、(また)土地を政府関係者らによって押収された人々の公正を期し、危険な労働環境をなくす」という明確な目標を持つものも存在した。 同年4月から10月にかけ、公に発表された民主主義擁護団体の中で、最も広く知られていたのが、ブロック8406であった。彼らはインターネット上に、「自由および民主主義に関するマニフェスト2006」を公表した。多くの著名な反体制活動家たちが、この労働者抗議を支持したが、その会報の中には「Tổ Quốc(祖国)」のように、不平等の高まりに触れ、より公正な社会の実現には、民主化を通じるより他の方法はないと論じるものもあった。Carlyle Thayerは、この時代を「民主主義擁護団体が明確な運動と融合しはじめた時代」と表現した。 戦後のベトナムで、このような最大規模の抗議運動が増加してから、わずか数か月後に一斉検挙が行われ、最も重要な指導者達が逮捕される事となった。 取締り強化の第二段階では、メディアやインターネット、それから社会科学の研究者たちまで、最も独立した意見の発信源が対象となった。抗議運動の指導者や、反体制活動家たちの裁判が開始された後は、公判で彼らを擁護した弁護士たちまでもが取締り対象となった。またYou Tubeに投稿された映像は、ジャーナリストたちが抗議運動の現場から報道、取材を行おうとした際、暴力的な襲撃を受けた様子であるとされる。 この暴力的な抑圧と、長期刑の判決が、抗議運動の若き指導者達に言い渡された事で、これが多くのブロガーたちから非難され、階層を超えた住民たちの怒りを招く事となった。より大規模な抗議運動が、2011年と2012年に再発し、このすさんだ歳月には、土地収奪をめぐる幾つかの対立が、国家側と自分達の土地を守ろうとする抗議者側の両側で暴力に発展していった。2012年の末には、新たに市民たちの民主化要求が生じ、2013年のはじめには、新憲法発布と同時に「嘆願書72」が、ジャーナリストの一団を前に、党執行部に手渡されたのであった。これは複数政党制による民主主義を主張したものであったが、わずか数週間後にはインターネット上に投稿され、12,000名の署名者を得たとされている。古参党員、たとえば憲法の専門家や、元司法大臣たちが、この嘆願書グループを率いていた。この新憲法には、民主的な方向に向けた変更点が何も含まれていなかったのである。 南部で生じた大規模な抗議運動は、政権交代を求めるものではなかったが、政権に充満した政治的不平等を疑問視する他の者達に、政治的空間を開くこととなった。多くの者たちが、ベトナムの政治体制の正当性と安定について、これが経済成長を生み出す限りは賛成だと主張した。だが、民主化のディマンド・サイドに着目すると、この期待には矛盾があるようだ。大規模な抗議行動への動員が急増したのは、むしろ高度経済成長期であったし、繁栄する南部では、貧困レベルが全国最下位であっても、非常に高い水準の不平等が存在する。2005年から2006年にかけての抗議運動の間とそれ以降に政治的市民社会が拡大したことの意義は、政治的代議制度や政治参加などの政治体制の諸局面についてベトナム共産党と切り離しては考えられないものだ、という支配的だった規範が変化しつつある事を示唆している。人々はたとえ政治的権利が保証されていなくとも、増々、そうした権利を有する国民として振舞い始めているのだ。 東南アジアの不平等の政治力学については、さらなる研究が必要であるが、このベトナムの事例は、全国レベルの下での動きが、不平等の空間的凝集、それが政治化される方法と政治体制の変革との関連性を探る上で重要である事を示している。 ストックホルム大学 政治学科Eva Hansson博士SE-106 91 Stockholm, Sweden eva.hansson@statsvet.su.se Issue 17, Kyoto Review of Southeast Asia, March 2015

Issue 17

マレーシアとシンガポールにおける不平等をめぐる動員

調査結果も評論家たちも、シンガポール(2011)とマレーシア(2013)での直近の選挙で、野党が重大な躍進を遂げた原因が経済にあるとしている。具体的には、生活費の増大や機会の減少、十分に裕福な人々とそうでない人々の間の格差拡大などである。両国における選挙結果は、この経済不安を反映したものであったが、選挙以外の政治参加がますます広がり、熱を帯びてくることで、政権の安定が脅かされていることも明白である。 マレーシアとシンガポールは2つの代表的な「ハイブリッド」体制、つまり、非自由主義的な政治体制と自由主義的な政治体制のタイプがもつ特性を組み合わせた体制である。マレーシアは競争的権威主義に当てはまり、シンガポールはヘゲモニック選挙権威主義である。どちらの国でも、独立以来、同一の政党か政党連合が権力を握り続け、歴代の選挙を勝ち抜いてきたが、これは(かなり実績に基づいている)もっともらしい正当性や、的の絞られた報奨金、都合よく歪められた競争区域等が組み合わさった結果である。近年では新たな課題が生じ、この平衝を揺るがしている。ニュース・サイトからソーシャル・ネットワークまで、新たなオンライン・メディアが政治論議を行う領域を広げ、国家干渉を比較的受けぬ政治的空間が開かれた。他方で、確たる成長の予想外の結果として所得と富の不平等の増大が起き、雇用のために大規模な海外からの移民と海外への移民が発生し、着実に社会的セーフティーネットが削られてきており、そうしたことへの議論が新たな議論空間で大いになされている。ハイブリッドな体制、シンガポールの国民行動党(PAP)と、マレーシアの統一マレーシア国民組織(UMNO)率いるバリサン・ナショナル(BN:国民戦線)は、「発展」の速度を緩めようとしておらず、これまでとは違う優先事項や枠組みに直面しても政治基盤を譲ろうしておらず、それがために、1950年代から1960年代にその支配を確立して以来、未曽有の困難に直面している。 不平等の証 シンガポールとマレーシアの両国が、経済的不平等の指標の上昇を経験し、その上昇についての議論が増え、また、ますます白熱するようになったのは、少なくとも1990年代以降のことである。シンガポールのリー・シェンロン首相でさえ、2011年の国会では「所得格差は以前よりも著しく…成功者の子供たちは首尾上々であるのに、大した成功を収めなかった者たちの子供らはあまりうまくいっていない」、そのために家族は「自分たちへの絶望や不安、心配を抱える」ようになっていることを認めている(Lee 2011)。それにもかかわらず、両国の政府指導者たちが、この諸変化を大いに容認してきたのは、これらが競争の原則によるものであるためだ。つまり、最高の教育を受け、高度の能力を有する労働力を育て質の向上をはかり、同時に、建築現場、プランテーション農業、製造業、その他の高い技術を要さぬ低賃金の働き口に十分な労働者を確保する上で、これが不可癖であるということだ。こうした取り組みには、市民の間の格差の深まりを容認すること、人口動態パターンを明白に変化させるような労働移住をより積極的に受け入れることを伴う。 実際の不平等以上に不平等は強く意識されているとはいえ、現に不平等の証拠はある。シンガポールとマレーシアは、1990年代後期から、経済的不平等の指数であるジニ係数の最高値という不名誉を東南アジアで競ってきた。ジニ係数には1(完全な平等)から100までの幅があり、OECD諸国のジニ係数平均値は2000年代の後期には32であった。シンガポール政府は寛大な所得移転をしていたにもかかわらず、ジニ係数は、2007年に46.7のピークに達し、2012年までに45.9に下がっただけである。 この格差の一部は大多数である華人内部のものであるが、民族間の格差は残る。所得と教育レベルは、インド系が華人系シンガポール人よりもやや低い一方、マレー系市民の平均月収は、華人系の人々の平均月収のわずか60%で、高等教育を受けた比率は6分の1である(Fetzer 2008, 147-8)。アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)による再分配があるにもかかわらず、マレーシアのジニ係数もやはり懸念すべき46.2である。 これは世帯レベルで測定した値であり、個人レベルで測定したほうがマレーシアでは困窮の度合いが高いであろう。 これと同時に生活費の上昇が続いている。インフレはシンガポールでは常に低く、1990年代の半ば以降、その年率は概して2%を超えていない。2008年にはインフレが6.5%に達した後、徐々に約4.5%にまで下がった。 マレーシアでも、2013年選挙の時の有権者たちの重大な懸念が生活費であったことが世論調査でわかっている。民族間の所得格差が徐々に減少してきたのは、ブミプトラ、つまり、マレー人と土着の少数民族を利する優先的政策が広範囲に実施されてきたおかげであった。しかし、民族内の格差は増大した。マレーシアの大半を占める農村地帯よりも都市部に恩恵が不均等に流れ込んでいるのはその一例である(Gomez, et al., 2012, 10)。ブミプトラたちの間でも、恩恵やパトロネージへのアクセスは平等ではなく、いわゆるUMNOプトラという与党とコネを持つものたちが特別扱いされて懸念と批判を生んだ。 生活費の上昇に伴って倹約をする必要があり、それが不安を生んでいる。とりわけシンガポールでは競争への不安がさらなる不安を呼んでいる。また、労働需要を満たすために、更に多くの海外からの労働者を受け入れることを政府がはっきりと表明しており、それが国民性に与える影響も不安を巻き起こしている。シンガポールへの移住は1990年代以降、急激に増加している。シンガポール国民及び永住者たちは、1970年には人口の97%を占めていたが、1980年には95%、1990年には90%、2000年には81%、そして現在ではたったの72%でしかない。つまり、シンガポールの現在の人口510万人のうち、約4分の1が非居住者の外国人で、そのほとんどが他のアジア諸国の出身者であるということだ。 このように人口構造が変わり始めると、普段はおとなしい「ハートランダ―たち」と、英語教育を受け、上昇志向、海外志向であるモバイルな「コスモポリタンな人たち」(Tan 2003, 758-9)も共に、不安げにオンラインの議論に参加することから野党支持に到る、様々な手段によって、はっきりと意見を述べるようになった。選挙調査や世論調査のデータによると、おそらくは国民行動党(PAP)の恩恵を最も受けた、若くて十分な教育を受けた中産階層の華人たちが今では同党に対して最も懐疑的である (Fetzer 2008, 136)。国家が腕の立つ「外国人技能労働者」を優遇しているために人々の反発を招いおり、その反発は映画、フィクションやブログなど、あらゆる場面で表面化している。つまり、これらの外国からの新参者たちは勤め口を奪い、シンガポール人男性に課された義務兵役を全うせず、ともすれば、特別な待遇や手当を享受していると思われているのだ(Ortmann 2009, 37-41)。さらには、外国籍住民の大部分が、民族的に現地のマイノリティと手を組んでいることも根深い偏見を生んでいる。 不平等をめぐる動員 経済的な不平等と不満が、国民たちの唯一の不満でないことは明らかである。例えばマレーシアでは、イスラーム化や共同体の権利を求める要求は物質的幸福に関する要求と重なるかもしれないが、異なった前提に立つために市民集団ごとにその重なり具合は同じではないかもしれない。だが経済的不平等は、両国においてますます目立ち、正当性を問う動員の根拠となっている。 これと同時に、インターネットが代替案を表明するための新たな公共空間を提供している。シンガポールは世界でも最たる「ネットワーク」社会である。全シンガポール人の4分の3近くがオンラインであるばかりか、15歳から19歳の97%の人たちがインターネットを日常的に使い、25歳から34歳の80%の人たちがFacebookアカウントを持っている(Kemp 2012b)。マレーシア人の約60%もまたオンラインであり、その90%がソーシャル・メディア・サイトにアクセスしている(Kemp 2012a)。両国の主要メディアは大変な曲がり角に来ている。両国では投資家たちに満足してもらうために、インターネットの検閲を制限しており、それゆえ、オンライン・メディアを通じて情報や議論、動員にアクセスする道が開かれているのである (Weiss 2014a)。 最近のシンガポール、マレーシア両国における抗議運動は、主にオンラインを通じて組織化された。シンガポール政府の公文書から、外国人労働者を急激に採用して、現地人口の減少を補完しようとする政府の計画が明らかになると、地元で仕事が減り、(例えば、シンガポールの非常に限られた空間が超過密状態になることで)生活の質が落ちるかもしれないことに脅威を感じた国民の怒りは、そのはけ口をオンラインに見出したのであった。ネットワーク上での痛烈な批判が現実世界での抗議活動を招いてもいる。2013年初め、移民排斥活動家たちがFacebookを利用して、シンガポールの過去数十年間でも最大規模の二つの抗議運動が行われたのである。これらの抗議があまりに激しかったことから、PAP政府は移民達ではなく、シンガポール国民だけに給付される特別手当(教育費など)の増額を余儀なくされた。また、野党各党にとってもメリットがあった。2011年の選挙活動期間中、野党の集会や政策がオンラインで報じられた事によって、メッセージ(そのほとんどは「生計に関する」不安にまつわるものであった)の届く範囲が広がったばかりか、より多くの人々が野党のイベントに直接足を運び、後には野党に投票するようになったと思われる。  同様に、マレーシアでも、前回の選挙と2013年選挙とでは、初めて投票する有権者の増加率が23%というこれまでにない高さとなった。そのほとんどが、若くインターネットに精通した野党寄りの人々であると思われる。この増加は、オンラインのニュースや議論、それに主にオンラインで企画された最近の大規模抗議と大きな関連があると思われる。そのような抗議の最大のものがブルシ(清廉で公正な選挙のための同盟)を支持する抗議であった。野党のイデオロギーの最重要点はブルシの中核的論題でもある、グッドガバナンスと汚職反対であるが、2013年の選挙活動で野党連合が重視した公約は、せまく経済的なものに限られていた。公約は不安を抱えた中産階層に向けたもので、無償の高等教育やWi-Fiアクセス、道路通行料やガソリン価格の値下げなどであった。こうしたメッセージと対照的に、BN(国民戦線)の人たち(特に、現首相とその夫人)が怪しいと思わざるを得ないほど裕福であり、BNの人たちは強欲な「取り巻き連中」であると、派手に書かれ、暴露された。 体制にとっての意味 筆者は別のところで(Weiss 2014b)このような展開が、これらのハイブリッドな体制の性質に重要な影響を及ぼし得ると述べた。マレーシアとシンガポールの選挙権威主義は、いずれも、積極的ではあるが狭く限定的な政治参加と制限された競争を前提としており、ロバート・ダール(Robert Dahl)の「ポリアーキー」の理想型からはほど遠い(Dahl 1971)。開発主義国家が、絶対的な意味であれ相対的な意味であれ、約束してきた恩恵を提供することをできなくなったために、政治への関心が増し、政治の要職に新たな参加者がつき、新たなテーマが政策アジェンダに登るようになった。政治体制がハイブリッドであるためには、現状維持への高いレベルのコンセンサスが必要である。つまり、「民主主義」がいかに限定的なものであれ、同意を強制するためにあからさまな強制を必要としないほどには十分に民主主義的であるということを皆が信じていることが必要である。政治参加の幅や範囲が拡大していき、新たな政治的発言をするものが生まれてくれば、すでに明らかな競争の激しさがさらに増すのかもしれない。あるいは、政府がこうした活発な動きを抑えこもうとするのかもしれない。ただし、貿易相手や投資家を困惑させ、ベスト・アンド・ブライテストたちを海外に移民させてしまう可能性があることを考えると、政府による鎮圧という後者の対応はおそらく考えにくい。しかし、いずれのシナリオになるにせよ、現体制を新たな停滞状態に陥らせて、体制転換の道へと進まざるをえない。人々が不満をますます抱くようになり、新たな政治空間のような動員手段が使われるようになったなかでの最近の選挙を見ると、どちらのハイブリッド国家においても、より深く、かつ幅広い変化が起きており、より参加型で、競争的な政治秩序へと移行しつつあることが分かる。 […]