Issue 36

ソーシャルメディアによる日本の若者たちの政治参加

日本政府の調査によると、スマートフォンの利用率は、年代を問わず、2019年に90%を超え、日本で最も普及しているソーシャルメディア・アプリのLINE利用率も、2020年に90%を超えた (情報通信政策研究所/ Institute for Information and Communications Policy; IICP, 2022)。現在、ソーシャルメディアは、この国の社会インフラの一部となり、これを使って誰もが時と場所を選ばず連絡を取り、様々な情報にアクセスしている。この記事では、「デジタルネイティブ」と呼ばれる若者世代を中心に、日本の政治参加におけるソーシャルメディアの役割を論じる。まず、日本の若者たちの政治参加の現状を論じ、その後、ソーシャルメディアと関連した二つの注目すべき政治行動の事例を紹介する。そして、最後に、ソーシャルメディアによる日本の若者たちの政治参加の課題を検討したい。 日本の若者たちの政治参加の状況 日本の若者たちの政治参加の特徴は、中程度の問題意識と、政治的有効性感覚(political efficacy)の低さにある。まず、この特徴は、政治参加の一般的な指標である投票率に見られる。日本政府の公式統計によると(総務省/ Ministry of Internal Affairs and Communications; MIC, 2022)、この国の2度の国政選挙の直近の投票率は52%(参議院2022年7月)と、56%(衆議院2021年10月)だった。また、他の民主主義国家と同様、日本の若い有権者たちも、それほど選挙に積極的ではなかった。中でも、総選挙(衆議院選挙)の際の20代の投票率は、1969年以降の18回の選挙中でも最低となった。直近の結果は約37%で、これは60代の投票率(71%で投票率が最も高い集団)の約半分にあたる。また、2016年には、18歳と19歳の市民に選挙権が認められたが、彼らの国政選挙の投票率は2番目に低く、例外は、投票が初めて可能になった2016年だけだ。おそらく、この理由の一つは、大学に通うため、他府県に引っ越す際の住民票の手続きの煩雑さにあると思われるが(MIC, 2016)、その統計上の影響は限られているようだ。 次に、常に高い棄権率の理由とされる、日本の若者たちの政治参加に対する姿勢は国際調査にも表れている。日本政府は、日本・韓国・米国・英国・ドイツ・フランス・スウェーデンの7カ国の13歳から29歳の市民を対象に、国際調査を実施した(内閣府/ Cabinet Office; CAO, 2014)。その結果、日本人回答者のうち、国内政治に関心があったのは約50%で、これは他国の回答者とほぼ同じ割合だった。さらに、日本人の参加者で自国社会に満足していると答えた人は三分の一しかいなかった。ところが、このような不満にもかかわらず、政治的有効性感覚と政治参加への意欲を示した日本人回答者は三分の一にとどまり、これは各国の中でも最低となった。 また、日本など、5~8カ国での17歳から19歳を対象とした他の国際調査にも、このような傾向が頻繁に認められた(日本財団/ Nippon Foundation, 2019; 2022)。これらの調査では、自国や自分たちの将来に対し、常に日本の若者たちが参加国中で最も否定的な見方を示し、その政治的有効性感覚や、政治参加への意欲も最低だった。ただし、これは主体性の欠如が原因ではない。現に、日本人回答者の半数が社会・政治問題に関心を示し、半数以上が、自分たちの人生の方向性について、友人やパートナー、仕事などの選択に主体性を持っていた。このような日本の若者たちの政治的会話に対する姿勢の特徴について、ある定性的研究は、「政治に関心はあるが、話題にはしない、寡黙な注意深さ(the quiet attentive)」(Kligler-Vilenchik et […]

Issue 36

弱い紐帯の強み:インドネシアの若者とデジタル政治

エコーチェンバー:「LOE LAGI LOE LAGI (4L)」現象 インドネシアの複雑で、常に変化を続ける政治情勢の下、多くの政治・圧力団体が様々な問題に積極的に取り組んでいる。この国の政治的動向、特に政治的変化を形作る若者の役割を十分理解するには、様々な政治・圧力団体のオンライン・オフラインでの交流を理解する必要がある。ここでは、政治・圧力団体の定義を、政党や非政府組織、青年組織、市民団体など、様々な機関を通じて社会・環境・政治上の多様な問題に取り組む団体とする。 オンライン・ソーシャルメディアは、一部の政界人にとって有益なものであると判明した。例えば、最年少でインドネシアの国会議員に選出された北スラウェシ州出身のヒラリー・ブリジッタ・ラスト(Hillary Brigitta Lasut)は次のように語る。「選挙活動期間中、オンライン・ソーシャルメディアは費用効率も高く、若い有権者層により幅広く接触できる場となった」。実際、彼女は、様々なオンライン・ソーシャルメディア・プラットフォームを活用し、より効果的な選挙区民との交流をはかった。また、彼女の所属する政党はデジタル技術を活用し、インドネシア全土の業務を維持・管理している(Kemenkominfo, 2021)。このように、民主主義を支え、この国の政治機構に寄与する様々な活動に積極的に参加するインドネシアの若者たちの様子から、ソーシャルメディアの果たす重要な役割が浮かび上がる(Saud & Margono, 2021)。   ソーシャルメディアを通じた活動の高まりは、政治活動に機会と課題をもたらした。一方で、ソーシャルメディアは、国民が意見を述べ、単純明快なナラティブで民衆の支持を集めるプラットフォームとなる。しかし、特に、現代文化の価値観であるナショナリズムや宗教性などがここに重なると、これがポピュリスト的な政治活動に変化する可能性もある(Lim, 2013)。だが、また、ソーシャルメディアは、憎悪の自由という課題も提示する。ここでは、個人が公然と意見を述べる権利を行使すると同時に、他者の意見を封じる事にもなるからだ(Lim, 2017)。 さらに、ユーザーとアルゴリズムの相互作用によって、「アルゴリズム集団(algorithmic enclaves)」が形成され、これがトライバル・ナショナリズムを育む可能性もある。また、これらのオンライン・コミュニティ内で、ソーシャルメディアユーザーが正当化する独自のナショナリズムには、他者への平等や正義が欠如している可能性もある(Lim, 2017)。ここから、ソーシャルメディアが政治活動の形成に果たす役割と、社会に対する潜在的な影響を厳密に検討する必要性が浮かび上がる。 さて、“Wah. 4L nih!” とは、政治活動家や、市民活動家が会合や連携の際によく用いる表現で、同じ個人や集団、ネットワークのメンバーに繰り返し遭遇する気持ちを表した言葉だ。なお、”4L”とは、”loe lagi, loe lagi“の略で、日本語(原文は英語:訳者註)では、「また君か、また君か」という意味になる。この皮肉の込もった表現は、国内で広く用いられ、繰り返される状況に対する不満を表す。度々、大勢の活動家やソーシャルワーカー、コミュニティワーカーらは、彼らが自分たちだけの「バブル」に閉じ込められ、常に同じ問題を、同じ面々で議論していると感じている。やがて、この繰り返しは現状に対する退屈と幻滅をもたらす。この記事では、多くの政治活動家や、ソーシャルワーカー、コミュニティワーカーが認識する、インドネシアの「バブル政治(bubble politics)」現象の検討を試みる。 自覚の有無に関わらず、政治活動家や市民活動家は「バブル」、あるいは、エコーチェンバーに閉じ込められている。そして、彼らは、この中で、もっぱら自分たちの信念やイデオロギーと一致した情報や、ものの見方に触れる。このような現象は、オンラインでも、オフラインでも起こり得るが、ソーシャルメディアなどのデジタル・プラットフォームの過度の利用により、オンラインで生じるケースが多い。これらのプラットフォームでは、個人が自らの意志で選択した集団に分かれ、その集団内で各自のものの見方が強化される。また、政治的文脈において、エコーチェンバー現象は、個々の政治問題へのアプローチや、意見形成に重大な影響を及ぼす可能性がある。例えば、自分たちの信念を強める情報にしか触れない人々は、正反対の意見や、その他の考え方を顧みないことがある。これにより、偏見が強化され、多様な考え方に触れる機会が無くなり、二極化や、政治的な過激思想が増長され、物事をより広い視野から考えられなくなり、他の集団や問題とのつながりも失われる。 では、インドネシアの様々な政治・圧力団体の若者たちの間で、デジタル技術が政治的動向を強化したり、あるいはその障害となったりする可能性はどの程度あるか? この記事には、政治団体と支援団体を結び、現実と仮想の場において、両者間に力強く、革新的な政治的対話を促す可能性を探る目的がある。また、これらの団体の若者世代に注目するのは、彼らが、しばしば、変化の促進と、政界の形成に重要な役割を果たすからだ。それに、若者たちは高いデジタル・スキルを備えており、重大な影響を及ぼす貴重な存在となる。ここでは、政治団体と支援団体を結ぶ手段を見極め、生産的で進歩的な対話と意見交換の場を設け、社会や政治に良い影響を与える事を目指す。 弱い紐帯の強み 弱い紐帯の強み(The strength of […]

Issue 36

マレーシアにおける政治改革の手段 ソーシャルメディアの可能性と課題

マレーシアは長い間、民主化のプロセスをたどって来たが、この20年間で最大の二大社会運動は1998年のレフォルマシ運動と、自由と公正な選挙を求める闘いであるBERSIH (2007-2016)の一連のデモだった。2018年の第14回総選挙(GE-14)では、これらの運動により、世界の選挙民主主義史上、最長となったバリサン・ナショナル(BN、国民戦線、1973年以前は連盟党/the Allianceと呼ばれた)の一党独裁国家に終止符が打たれた。ただし、選挙を通じた政権交代の一因には、同様の競争的権威主義政権を抱える、その他の国々と共通の要因もあった(Croissant, 2022; Levitsky & Way, 2010)。また、中産階級の形成や、ソーシャルメディアによる情報民主化の一因となる産業化や都市化などの社会的変化も、このような政治改革を可能にする主な要因とされる。実際、マレーシアでは、このような民主化を可能にした主な要因の一つがソーシャルメディアだと言われている(Haris Zuan, 2020b, 2020a)。 ところが、2018年のBNの敗北以来、FacebookやTik Tokなどのソーシャルメディア上で人種主義的な運動が拡大した結果、マレー系イスラム教徒の保守派の率いる大規模な街頭デモが発生した。やがて、ソーシャルメディア上の一連の運動は、第15回総選挙(G-15)で、マレー系イスラム教徒の一般投票の89%が国民連盟(PN/ Perikatan Nasional)の支持票となる結果をもたらした。ちなみに、PNは、汎マレーシア・イスラーム党(PAS)と、マレーシア統一プリブミ党(BERSATU/The Malaysian United Indigenous Party)を中心とする右派保守連立政権である。実に、レフォルマシ運動の開始から24年後、希望連盟(Pakatan Harapan)とレフォルマシの主導者であるアンワル・イブラヒム(Anwar Ibrahim)が、ついに首相に就任した。それでも、特にTik Tokなど、若者を中心とするソーシャルメディアには、人種主義的な動機に基づく動画があふれている。 ここで、次のような疑問が生じる。なぜ、当初は、政治改革の一手段とされていたソーシャルメディアが、今になって、退行的な保守派右翼の人種差別的運動と結びついたのか?そして、マレーシアのソーシャルメディアは、様々な人口集団、特に若年層に対し、異なる影響を与えるのか?また、マレーシアのような体制移行中の国における、政治改革の手段としてのソーシャルメディアの役割と限界については、どう理解するべきだろうか? ソーシャルメディアとマレーシアの民主化 マレーシアは、東南アジアでは、インターネット普及率が最も高い国の一つで、人口3,298万人の89.6%がインターネットに接続されている。ちなみに、1999年には、わずか12%だったインターネットの普及率は、後に、56%(2008)、66% (2012)、81% (2018)と上昇した。また、ソーシャルメディアの利用者数も急増し、2022年発表の各種統計によると、マレーシア人合計3,025万人(91.7%)が、ソーシャルメディアのアクティブ・ユーザーだという。ちなみに、主に利用されているソーシャルメディア・アプリは、Facebook (88.7%)、Instagram (79.3%)、Tik Tok(53.8%)だ。通信ソフトに関しては、WhatsApp (93.2%)、Telegram (66.3%)とFacebook Messenger (61.6%)が、他の類似プラットフォームをしのぐ。 この20年間、特に2008年以降、マレーシアのソーシャルメディアは、この国の政治改革を可能にする重要なメディアの一つとされてきた。また、進歩的な反体制派や野党支持派は、ソーシャルメディアを拠り所とし、これによって、主要メディアが国民の主な情報源としては徐々に影響力を失いつつある。特に、ソーシャルメディアの最大の利用者層である若者たちの間で、主要メディアの影響力が弱まっている(Azizuddin […]

Issue 36

動員と二極化をもたらすソーシャルメディア フィリピン2022年選挙への若者の参加

フィリピン人は、世界でも極めて熱心なオンライン・コンテンツの消費者とされる。2022年のWe are Socialの報告書によると、フィリピンは、一日にネット上で過ごす平均時間が世界一長い(10.5時間)国だ。また、同じ団体の報告では、全フィリピン国民の82.4%がソーシャルメディア・プラットフォームを活発に利用している。 なお、当然ながら、これらの数字は2.000万人以上にもなる15歳から24歳の若者たちの間に集中している。また、ある研究の指摘では、フィリピンの若者の94%がインターネットを利用しているか、スマートフォンを所有している。 このため、フィリピンが情報・通信技術の利用と、市民の政治的関与の関係を示す明らかな例だとしても不思議はない。少なくとも、選挙を通じたフィリピン人の政治参加率はかなり高く、過去数十年の間の平均的投票率は80%だった。 現在、ソーシャルメディアは、人とつながる手段というだけでなく、致命的な二極化の状況において、政治的党派性に強い影響を及ぼすツールとしても利用されている。ここにも情報・通信技術の利用と、市民の政治的関与の相互作用が明らかに見られる。 すでに、2016年の大統領選挙は、フィリピンで最初の主要な「ソーシャルメディア選挙」として広く認識されていた。この選挙では、ソーシャルメディアの熱烈なフォロワー「集団」と見られる存在の助けを得たロドリゴ・ドゥテルテが圧勝し、政権に就いた。また、ソーシャルメディアは急速に進歩し、古い規制の枠組を回避し、セキュリティ対策を潜り抜けることもできる。このため、ターゲット・オーディエンス側が規制するには困難な規模で、偽情報の獲得に最適な環境が生じた。 こうして、フィリピンは、選挙を目的とするフェイクニュースの拡散が大きな影響を及ぼす場となった。あるソーシャルメディア・プラットフォームの上級幹部は、国内のインターネット普及率や、フィリピン人が英語に堪能な事、二極化の著しい政治を考慮し、この国を「選挙期間中のデジタルプラットフォームの武器化に関しては、患者第一号」と評した。 では、フィリピンの若者たちの2022年国政選挙への関与と、あるいは、フェルディナンド・「ボンボン」・マルコスJr.(Ferdinand “Bongbong” Marcos Jr.)の選挙の勝利には、ソーシャルメディアはどのような役割を果たしたのか?この記事では、ソーシャルメディアが二つの重要な政治上の役割を果たしたと主張する。一方で、選挙キャンペーンの(偽)情報源となったソーシャルメディアは、ネット上の若いフィリピン人有権者を動かした。つまり、ソーシャルメディアは、オンラインとオフラインの政治的関与の形態の橋渡しをし、有権者を投票所に向かわせた。だが、他方では、2022年選挙のキャンペーン中に出現した偽情報のナラティブが、若い有権者たちを二極化させた。こうして、若者たちは、この国のかつての独裁者と同名で、その息子である大統領候補、フェルディナンド・マルコスJr.をめぐり激しく対立する二陣営に分裂した。この際、「権威主義への郷愁と、民主主義への失望」という相乗的なナラティブが、デジタルネットワークで結ばれた国民の共感を呼んだ。また、このナラティブは、マルコスJr.の支持に重大な影響を与え、その他の候補者の立場には悪影響を及ぼした。 こうして、マルコスJr.は、選挙人票の59%にあたる3,100万人以上もの票を獲得し、ここにソーシャルメディアのとてつもない影響力が示された。これは2022年選挙と、おそらくは、今後の選挙運動にも影響を及ぼすと見られる。ソーシャルメディアは、主に、規模の拡大や、マイクロターゲティング、偽情報拡散の場となり、動員と二極化をもたらすが、これがフィリピン民主主義の状況や健全性に広範な影響を与えている。 ネチズンの若者たちの動員 2022年国政選挙キャンペーンの背景には、ソーシャルメディア環境のさらなる定着があったが、これにはまだ、ポリシー規制体制が伴っていなかった。今日のフィリピン人は、これまで以上に、ソーシャルメディア・アプリによって結ばれており、これらに以前よりも長い時間を費やしている。また、彼らは、アプリで政治情報を収集し、誰に投票するかを決めるヒントも、ここから得ていると思われる。 2021年のYoung Adult Fertility and Sexuality Surveyによると、フィリピンの若者の93%が、スマートフォンを所有し、ほぼ10人中9人の回答者が、インターネットを利用できる環境にある。この模範的ともいえる数字は、10年前に比べて30%増加している。 さらに、フィリピンは、「ネチズン」がネット上の大半の時間をソーシャルメディアに費やすことにかけて、世界でも有数の国の一つだ。2021年に、フィリピン人がネット上で過ごした時間のうち、ソーシャルメディアに費やした平均時間は38.7%で、これは世界平均の36.1%をわずかに上回る。 2021年のWe Are Socialの報告書では、フィリピンの主要なソーシャルメディア・アプリはFacebookだったが、同年にはYouTubeがこれに取って代わった(表1参照)。 表1。2021年にフィリピンで最も利用されたソーシャルメディア・プラットフォーム Data: Simon Kemp, “Digital 2021: The Philippines,” 11 February […]

Issue 36

取り残される不安(FOMO)とオンラインの政治的関与: シンガポールの事例

政治離れ問題 ソーシャルメディアの発達により、市民の政治的関与が促進され、何百万人もの市民の政治参加にかかるコストも軽減された(Ahmed & Madrid-Morales, 2020; Gil de Zúñiga et al., 2012; 2014)。それでもなお、多くの市民は政治に無関心なまま、関与に積極的ではない(Ahmed & Gil-Lopez, 2022; Zhelnina, 2020)。政治的無関心とは、政治に興味がなく、公共行事への参加や、選挙での投票など、政治に関する情報や活動に関心のない事で、政治学者はこれを社会問題と考える(Dean, 1965; Rosenberg, 1954)。そもそも、政治制度が正常に機能するには、政治に対して積極的な市民の存在が不可欠で、市民が日常の政治や選挙にどれだけ関与するかが、民主主義発展の決め手となる。そして、「関与が偏れば、政府の行為も偏る」(Griffin & Newman, 2005; p. 1206)。だが、近年の多くの研究では、数々の民主主義国家での政治的無関心の風潮が報告されている(Manning & Holmes, 2013; Henn et al., 2007; Pontes et al., […]

Issue 36

「OppStruction(機会障害)」:機会構造とタイ民主化運動への影響

数十年前、世界にインターネットが出現すると、人々は、これが好ましい社会的変化をもたらす手段になると熱狂した。そして、この期待をさらに高めたのが、2000年代初頭のソーシャルメディアの出現で、これによって社会運動が促進され、集合行為問題も解決しやすくなり、全面的に強化された公共圏が生じると予想された。 現に、タイでは、国民が情報通信技術(ICT)の発達や、安定したオンライン空間を活用し、アクティヴィズムを充実させてきた。最近の、DataReportal (2022)のオンライン統計の報告で、タイは、アジア社会で最も社会的つながりと、ネット上でのつながりが強い社会の一つとされる。さらに、2022年の第一四半期現在、タイ国民の約78%がインターネットを利用できる環境にあり、その全員が活発なソーシャルメディアユーザーだという。また、タイ人がオンラインで過ごす時間も注目に価し、ネット上の一日の平均時間は9時間で、ソーシャルメディア上では3時間強とされる(Leesa-nguansuk 2019)。さて、この国は、過去10年間に、様々な社会経済・政治上の問題に対する一連の抗議・デモを経験してきた。これらの運動の目的は様々だが、ソーシャルメディアのプラットフォームやアプリを活動戦略に導入する点が共通していたとしても、意外ではない。 ところが、2020年以来、タイの政治的議論の焦点となった民主化運動は、ICTによる革新的で、創造的な戦略にもかかわらず、三項目の要求を何一つ実現できていないようだ。そこで、この記事では、合理的選択の手法という観点から、民主化運動を分析する。まず、民主化運動は、そのレパートリーの一つとして、ソーシャルメディアを利用するものの、これらの要求を実現できる推進力を得られていない。そこで、具体的に、これを実現する力を妨げる三つの主な課題を提示する。後に論じるが、これらの課題は、タイにおける「解放の技術(liberation technology /Diamond 2012, ix)」としてのソーシャルメディアや、インターネットの有効性の最終的な条件となる機会構造の変化に関するものだ。 さて、合理的選択という観点から見ると、人がある運動に参加するかどうかを決める際、いくつか考慮すると思われる事柄がある。そもそも、人間とは利己的な存在で、ある運動が目標を達成する可能性が、想定されたリスクより低いと考えられる場合、つまり、運動の代償が利益を上回る場合、運動に参加しない事を合理性という。また、合理的選択理論では、人間が情報の不確実性の下で行動する事を想定しているため、機会構造の認識面にも注目する必要がある。結局、運動に参加するかどうかの判断は、状況に対する各自の主観的な評価にかかっており、これには一定の不確実性が伴う。また、機会構造を評価する際、よく持ち上がるのが、「政府に弾圧される可能性に対し、運動の成功率はどのくらいあるか?」、「この運動に参加したら何が得られるのか?」という疑問だ。これまで、ティリー(Tilly)や、タロウ(Tarrow)、マクアダムス(McAdams/ 2004; 2007)など、数多くの研究者は、活動家が戦略的計画によって成功の可能性を高める方法を示してきた。だが、その一方で、彼らは、オンライン化された新たな運動も含む、全ての社会運動を悩ませる集合行為問題のため、機会構造が国民に対し、ほとんど用をなさない事も認めている。 1.  強い運動、強い政府 民主化運動に最も勢いがあった2020年初頭は、政府の権力と統制力も、その絶頂期にあった。そして、若者世代の代表で、自由主義的価値観の代表とも見られた新未来党(the Future Forward Party)の解党後、若者たちの心の底にわだかまる政府への不満が表面化した。こうして、最高裁判所の判決が下った直後、民主化運動はデモ行進を行い、初期の集会では、何千もの人々を動員する事に成功した。また、チャールズ・ティリー(Charles Tilly)のWUNCの概念 (意義/ worthiness・統一/ unity、人数/numbers、コミットメント/ commitment)のうち、この運動は少なくとも、統一と人数の点で、この条件を満たしていた。つまり、民主化運動には、政府に対する一定の影響力があったはずだ。ではなぜ、民主化は実現しなかったか?その答えは、機会構造が政府側に味方する、規定の状態にとどまっていた事実にある。当時、1年前に選出されたばかりのプラユット・チャンオチャ将軍(General Prayuth Chan-ocha)と、彼が所属する国民国家の力党(Palang Pracharat)は、まだ連立内の安定を維持していた。このため、協力者や、国家機構からの支持を得た政府は、民主化運動の要求に聞く耳を持たず、むしろ、暴力と合法的手段の両方によって抗議者を弾圧しようと決意していた。 ここで、連立与党に内部から亀裂が広がる中、当初の機会構造が知らず知らずのうちに、幾分か変化していた事も指摘しておかねばならない。2022年1月中旬、国民国家の力党は、タンマナット・プロムパオ(Thammanat Phrompow)ら、20名の国会議員の解任を決定した。この決議は、政府内部に新たに出現した政治的亀裂を示し、これが政府の統制力と、協力者からの支持を徐々に蝕んで行ったものと見られる。だが、それにもかかわらず、民主化運動は、この変化に乗り損なった。理由としては、例えば、新型コロナウィルス感染症の急増により、やむを得ず行われた全国的なロックダウンや、多くの有力な活動家の逮捕などがあった。この結果、連立与党が弱体化すると同時に、民主化運動も失速していった。また、著者が実施したiLawによる抗議事件データ記録の分析結果にも、この好機の逸失を顕著に認める。 この分析によると、2020年1月12日から2022年10月3日までに、バンコクだけで、559件ものデモが発生している。特に、2021年は民主化運動が最も活発で、抗議活動全体のほぼ55%にあたる、合計307回の集会が報告されている。下図1は、機会構造の軌跡を図示したものだ。政府が権力の絶頂にあった(つまり、譲歩より弾圧に傾いていた)時期が民主化運動の最盛期でもあり、政府の影響力が徐々に弱まると、残念ながら、民主化運動も衰退して行った様子が分かる。 このデータを見ると、2020年以降に法執行機関がデモを強制的に終了させた事例は34件あった。当然、弾圧が最も多く生じたのは、民主化運動が世間から注目され、政府にも主導権があった2021年だ。だが、2022年は、弾圧が2度しか行われておらず、ここに連立政権内の大きな傷口と呼ばれるものが機会構造に与えた影響が読み取れる。 2. 「迷走する指導者不在の」活動戦略 これまで、オンラインの活動家は、度々、民主化運動を水平的な運動と喧伝し、誰も真の指導者ではないとする見方を強調してきた。彼らの信念では、この水平性こそが、2011年に中東各地の専制国家に燃え広がった「アラブの春」のような国家的弾圧に負けない民主化運動を可能にする。だが、「アラブの春」の成功崇拝は、可能性ある多くの民主化運動を誤った方向へと導いた。これは、彼らが長期的な構造改革に向けて組織力を整えるより、短期的な大衆動員計画に力を入れるようになったためだ。特に、「アラブの春」から10年後の中東を例にすると、チュニジア以外の全ての国が、何らかの形の独裁主義国家に逆戻りしている。これはなぜなのか?以前、トゥフェックチー(Tufekci/2022)は、自身の有名な著作で、社会運動の手段としてのソーシャルメディアに対する期待を表明していた。しかし、彼女は、the New York […]

Issue 35

死から生へ ティック・クアン・ドックの生涯と焼身自殺…伝記、宗教的背景と追想

1963年6月11日、サイゴンの、交通量の多い交差点で、ベトナム仏教の老僧、ティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức)が焼身自殺を行った。後に、この行為がベトナム戦争の忘れ難いイメージとなった訳の一つに、AP通信社の記者、マルコム・ブラウン(Malcolm Browne)が撮影した象徴的な写真がある。それらの写真は、死をつぶさに記録しているものの、かの仏教僧の身体を包む炎の輪郭をなぞる以上のものではない。翌日、これらの写真が世界各地に広まった時でさえ、この僧侶に関する記憶の全ては注目されぬまま、事件は警察調書を読むかのように伝えられた。例えば、ディヴィッド・ハルバースタム(David Halberstam)は次のように記した。「73歳の仏教僧が自殺をして、政府の宗教政策に対する仏教徒の抗議を浮き彫りにした」。 伝記 ベトナム統一仏教教会(The Vietnamese Unified Buddhist Church)は、ティック・クアン・ドックの伝記を彼の死の直後に出版した。この伝記には、ティック・クアン・ドックの生涯が、一僧侶のありふれた人生として描かれる。 伝記によると、ティック・クアン・ドックは7歳の時に修行僧となり、20歳で受戒した。 そして、受戒後は南部を中心に、ベトナム全土を旅して仏教の布教に当たった。実際、この伝記は彼の生涯にはあまり触れず、世界を動かした彼の死と、その影響を中心的に描く事で、最終的に彼の人生を鮮やかに描き出している。 ところが、伝記は、ティック・クアン・ドックの死が計画的なものであった事には言及していない。つまり、彼の死は、マルコム・ブラウンの写真が伝えると思われる、自発的な殉教行為ではなかったのだ。ある意味、ティック・クアン・ドックの死により、彼の生涯よりも、当時のアメリカ人記者と、ベトナム仏教僧との複雑な関係が明らかになったと言える。ただし、この関係を単なる一方的な搾取として単純化すれば、ティック・クアン・ドックの焼身自殺を引き起こした背景を完全に見逃してしまう。 当時、ディヴィッド・ハルバースタムや、ニール・シーハン(Neil Sheehan)、マルコム・ブラウンら、アメリカ人記者は、何か月もの間、足繁くサーロイ寺(Xá Lợi pagoda)に通っていた。なぜなら、ベトナム人僧侶が、公衆の面前で腹切か焼身自殺によって、ジェム政権の宗教弾圧に抗議するとの噂があったからだ。当然、そのような事件の写真があれば、新聞が売れるため、アメリカ人記者は事件の写真を撮ろうとしていたのだ。これについて、ハルバースタムは、「そういう商売だったのだ」と説明する。 かくして、ベトナムでシーハンの「ピンチヒッター」を務めていたレイ・ハーンドン(Ray Herndon)は、1963年6月11日にカメラを自宅に忘れたがために「ピュリッツァー賞を逃した」と悟った。 実際、彼はピュリッツァー賞を逃し、ブラウンが、ティック・クアン・ドックの焼身自殺を撮影した写真で1964年にピュリッツァー賞を受賞した。 当時、ベトナム仏教の僧侶は、アメリカ人記者との関係を利用して自分たちの運動を推進しようとしていた。例えば、アメリカ人記者を使って秘密警察を寺院から遠ざけるため、僧侶たちは、デモ現場から遠く離れた場所の偽情報を記者に伝えた。また、彼らは記者を利用し、自分たちの抗議も発表した。例えば、焼身自殺の前夜には、統一仏教教会の広報主任、ティック・ドック・ニェップ(Thích Đức Nghiệp)が、マルコム・ブラウンに電話をかけ、ティック・クアン・ドックの焼身自殺を告知した。さらに、ティック・ドック・ニェップをはじめとする僧侶数名は、この計画全体を指揮していた。つまり、車や運転手、ガソリン、さらには、ティック・クアン・ドックの身体を焼く炎を消し止めようとする警官を阻止する人垣も、彼らが手配したのだ。 このように、アメリカ人記者と、ベトナム人僧侶が手筈を整えたところで、ティック・クアン・ドックは自身の役割を完璧に果たした。なのに、「彼はゲームの駒に過ぎなかったのか?彼は何のために死んだのか?」と問う者は一人もなかった。だが、ティック・クアン・ドックは、弟子に残した一遍の詩の中で、自分の焼身自殺の意図を、ベトナム仏教徒のためと説明している。彼は、自分の身体が燃える様子を、寄る辺なくさまよう者たちを導く「闇に差し込む灯火の光」として描いた 身体が燃え尽きると、その煙は火がついた線香の香りのように静けさをもたらし、ジェム政権の仏教弾圧に「無知」であった人々に、これを知らせる。 やがて炎が消えると、灰が、仏教とカトリック教の「(宗教的)格差を埋める」、ティック・クアン・ドックは、このように想像した。 彼は、自分の霊魂が人々を覚醒させ、仏教徒を救済し続けることを願っていたのだ。 経典 アメリカ国民は、ティック・クアン・ドックの焼身自殺に感銘を受けたが、中には、この行為を受け入れられない者もいた。例えば、ニューヨークからストックホルムに向かうフライトで、あるアメリカ人女性は、ティク・ナット・ハン(Thích Nhất Hạnh)にこう言った。ティック・クアン・ドックの焼身自殺は、「(彼女には)異常者の行為のように思われた」。 つまり、彼女は「焼身自殺を野蛮で、暴力的で、狂信的な行為で、精神的に不安定でなければ成し得ない行為だと考えていた」。 これに対し、ティク・ナット・ハンは、女性に説明を試み、次のように語った。かつて自分がティック・クアン・ドックと共に暮らした時、「彼が非常に親切で、明晰な人物だと分かり、焼身自殺を行った際も冷静だったし、頭もしっかりしていた」。 だが、女性は彼の話を信じなかった。 […]

Issue 35

Lotus Monthly (Liên Hoa Nguyệt San)で読む1963年仏教徒危機の影響

1963年5月4日、ベトナム共和国全土のカトリック教徒は、初のベトナム代牧司教に任命されたゴ・ディン・トゥック(Ngô Đình Thục)の在位25周年を祝うため、カトリック旗を掲揚した。そして、2日後、トゥックの弟で、ベトナム共和国大統領のゴ・ディン・ジェムが宗教旗の掲揚を禁止するという電報を打った。ところが、5月8日には、ゴータマ・ブッダ生誕祭の祝賀が開催され、フエでは、人目に付く場所に仏教旗が掲揚された。そして、ついに、これらの旗をベトナム共和国陸軍(ARVN)が引きずりおろす事態となった。その後、3千人以上の仏教徒がフエの地元ラジオ局に向かって行進を行った。当初、ARVNは催涙ガスを使ったが、その後、デモ参加者に向かって発砲し、8名が命を奪われた。 このため、ジェムは5月に仏教界の指導者と会い、旗問題について和解を申し出、宗教の自由に対する自身の決意を改めて示した。だが、このような意思表示は、2つの理由から、仏教徒の目には不十分なものと映った。一つ目の理由は、政府がこの殺害に対し、全面的な責任を認めなかった事、2つ目は、政府が約束していた改革をなかなか実施しようとしなかった事だ。こうして、1963年の夏には、僧侶や、その支持者の一般人(主に大学生)のハンガー・ストライキ、デモなどの政治活動が長期化し、これがフエだけでなく、ベトナム全土での常態となった。この相次ぐ抗議の中で、最も有名な事件が6月11日のサイゴンの主要な交差点でのティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức)の焼身自殺だ。9月1日には、次第にデモの顔となったティック・チ・クアン(Thích Trí Quang)ら、仏教界の指導者数名が、サイゴンの米国大使館内に亡命を求め、受け入れられた。やがて、9月半ばには戒厳令が解かれ、ジェム政権は仏教徒と、苛立ちを募らせる米国の支援者を宥めるべく、同月下旬に比較的自由な国民議会選挙を開催した。だがしかし、運命はすでに決まっていた。11月1日には、米国から暗黙の支持を受け、仏教界の指導者との関係も良好な将校の一団が、クーデターによりジェム政権を転覆、11月4日には、ティック・チ・クアンが意気揚々と米国大使館を後にした。これを受け、仏教界の指導者は自分たちの新たな政治的権威を認識し、今後の国内での出来事がさらなる仏教徒迫害をもたらすのではと危惧した。そこで、彼らは、1963年の仏教徒危機から生じた結束を正式なものにしようと、1964年に統一仏教僧伽教会(UBC: the United Buddhist Sangha)を設立した。これにより、昔から地域や信条ごとに分裂し、いがみ合っていた大部分の宗派が一つにまとまった。 著者の最近の研究の第一次報告として、この記事では、1963年の仏教徒危機の直後に、主にフエの指導者たちが自身の立場への継続的支援を育み、仏教徒間の結束を維持し、政治力の継続を主張した手法を検討する。そこで、1960年代の初頭に、ベトナム中部だけでなく共和国全土の在家仏教徒の意見の主な起爆剤となったLiên Hoa Nguyệt San (Lotus Monthly)の記事を分析する。同誌はUBCを代弁するメディアと位置付けられ、仏教徒運動による政治的扇動の維持継続をティック・チ・クアンが提唱する実質的な根拠となった。これにより、同誌が市民を触発し、ティック・チ・クアンの構想への賛同を促し、1965年~66年と、それ以降の共和国時代を通じた仏教徒運動の事件に端緒を開いた事を論じる。 UBCを代弁するLiên Hoa Nguyệt San 1955年に、中越仏教僧伽教会(Giáo hội Tăng già Trung Việt/ the Buddhist Sangha of Central Vietnam)は、“Lotus Series”という連載記事の出版を決定した。この連載には、仏教をより身近にするという目的があった。この出版事業の中心となったのが、ティック・ヌー・ディウ・コーン尼(the […]

Issue 35

ティック・チ・クアンを理解する 仏教的政治論のマキャベリズム

「仏教的政治論」(Buddhist Political Theory/以後はBPT)とは、新たに出現した研究領域で、英語で政治理論を研究する北米の大学の研究者が関心を寄せる領域だ。この記事では、ティック・チ・クアン(Thich Tri Quang /1923-2019)の政治思想に対する欧米人の誤解を解く上で、BPTがいかに役立つかを示したい。ティック・チ・クアンという人物は、「ベトナム戦争」中に米国の主要メディアの注目を集めたベトナム仏教の僧侶だ。 ニューヨーク・タイムズのデジタル・アーカイブで、ティック・チ・クアンの名前を検索すると、1960年代初頭以降の記事が少なくとも300件は表示される。また、1966年には、ティック・チ・クアンがタイム誌の表紙を飾り、彼の特集記事も掲載された。タイム誌は、彼が「仏教徒の抗議活動の首謀者」で、「戦争で荒廃した1960年代に、米国に支援された南ベトナム政府の転覆を助け、宗教の自由を持つ民主国家を推進したカリスマ的仏教僧」と説明した。このため、読者は彼をそのように理解し、南ベトナムでの自国政府の取組みを挫いたこの実力者について、より深く知りたいと望んだ。 また、チ・クアンの政治思想をめぐる議論も、彼が注目されるきっかけとなった。一見すると、チ・クアンは捉えどころがなく、謎めいた、奇妙な政治思想家と思われる。当時のベトナムとアメリカの評論家や、後の欧米の学者たちは、彼に「共産主義者」、「反共産主義者」、「平和愛好家」、「タカ派」など、正反対のレッテルを貼り、彼の政治的立場を特定しようとした。 また、タイム誌は、チ・クアンが「権力を熱望」していたと主張し、彼を「ベトナムのマキャベリ」と呼んだ。 だが、ジェームス・マカリスター(James McAllister)は、チ・クアンが、左派の言うような「民主主義と戦争の早期終結に尽力する平和的宗教指導者」でもなければ、右派の言う「共産主義の手先」でもないと論じた。 むしろ、クアンは、米軍の北ベトナムに対する軍事力の行使に理解を示す反共産主義者だと、マカリスターは言う。さらに、ニューヨーク・タイムズは、チ・クアンを「エゴイスト」と呼び、「印象的だが、謎めいた人物だ」と評した。だが、チ・クアンの政治的動機が何であったのかは、今も解明されていない。 Embed from Getty Imagesところが、チ・クアンの政治思想の解説を試みる上述の欧米メディアは、彼に関する最も明白な事実を見逃しているように思われる。つまり、チ・クアンが仏教徒であり、彼の仏教信仰が政治思想に影響を及ぼしている、あるいは、それが彼の政治思想を説明できるかも知れないという事実だ。チ・クアンに対する従来の欧米の解釈は、彼の政治思想が明らかに仏教的な点を考察できていないのだ。とはいえ、彼に影響を与えたと考えられる仏教思想が、具体的にどのようなものだったかを特定する事は困難だ。ただし、彼は最も一般的な意味での「仏教徒」であり、仏教思想の違いに注目が集まるのを望まなかった人物だと考えられる。チ・クアンは、ベトナム国内の多様な仏教宗派の統一を目指す、統一仏教徒教会(the Unified Buddhist Church)の政治部門、Viện Hóa Đạoの中心人物だったのだ。 したがって、チ・クアンの政治思想をBPTという観点から検討すれば、先に述べた解釈の矛盾も説明できるだろう。彼の政治はBPTに沿い、これをよく表している。BPTの基本理念は、政治が全ての人々に悟りをもたらす目的の手段となるなら、これを戦略的、実用的に行う必要があるというものだ。この基本理念を十分理解すれば、チ・クアンの政治思想も、より深く理解できるだろう。 仏教的政治論 政治理論という学術領域の新たなサブ・フィールド、「比較政治理論」の研究者は、近年、政治に対する「仏教的」アプローチの研究を行ってきた。ただし、「仏教」の伝統は広大で多様なものだ。だが、例えば、「キリスト教」が政治的リベラリズムの伝統を生んだ、と言えるように、仏教の政治へのアプローチに対する一般的な見解なら述べられるはずだ。政治理論学者のマシュー・ムーア(Matthew Moore)が言うには、仏教は、実質的には無政府主義の立場を取らないが、明らかに反政治的だ。 彼によると、仏教徒は、政治が自我を増長させる誘因であり、時間と労力の浪費であり、最終的には些細なものと見なす傾向にある。つまり、政治への関与は、仏教徒にとっては悟りに向かう道とは相容れない道なのだ(対照的に、西洋哲学の伝統では通常、政治への関与は有徳な生活の一環と捉えられている)。ティック・チ・クアンの弟子、カオ・フィ・トゥアン(Cao Huy Thuần)は、これについて簡潔に説明する。「寺院は政治を行わない。この仏教徒の態度は、壁に打たれた釘のように確かなものであり、…政治とは、我々(仏教徒)が嫌悪する「穢れた手」の領域だ」。 だが、ムーアによると、政治は、有徳な生活にとっては些細なものでも、避けて通れるものではなく、社会生活に必要な場合もある、仏教徒はそのように理解している。BPTの主張では、政治への関与が個人の精神性を深め、悟りをもたらす社会的・政治的条件を改善できる場合のみ、政治に関与するべきだとされる。また、仏教徒は、「ある種の政府が、他の政府より低いレベルの社会紛争や、個人の精神的廃退をもたらす」と考える。 西洋自由主義の伝統とは異なり、仏教徒にとって政治に正当性を与えるのは、「合理的な自己の自律性を十分尊重する事ではなく、人間を精神的に成長させられる条件を生み出す事」なのだ。 つまり、BPTにおいて、政治とは、全ての人間の精神的成長という目的の手段となるべき存在なのだ。ブッダ自身の平等主義的なものの見方や、ヒンドゥのカースト制度に対して仏教が示した課題が反映して、精神性向上の平等な機会が協調されている。また、この点を考慮すれば、ティック・チ・クアンが反共産主義だったことも分かるだろう。彼は、共産主義政権下では個人の精神性の涵養が妨げられると考え、共産主義に反対していた。実際、1963年に、チ・クアンは次のように語った。「私も、教育を受けた全ての仏教徒と同じく、共産主義を好まない。これは共産主義が無神論であるからだ。」 Embed from Getty Images […]

Issue 35

ティク・ナット・ハンの初期著作における 社会参加仏教とベトナムの国造り

横断幕を掲げて行進する人々や、市街地の路上で焼身自殺を行う僧侶など、1960年代の南ベトナムにおける仏教徒運動は、デモのイメージを通して思い出される事が多い。仏教徒は、ベトナム共和国(RVN)最大の組織的な反体制派集団なのだ。中でも、1963年の「仏教徒危機」は最も有名で、何千人もの仏教徒が街頭に繰り出し、当局の方針に抗議して、代議制を要求した。 また、米国政府の顧問にとり、この危機は、ゴ・ディン・ジェム(Ngô Đình Diệm)による統治不能を示す証拠となった。その結果、ジェムは、CIAが支持した軍事クーデターによって同年暮れに追放された。これまで、歴史家のロバート・トップミラー(Robert Topmiller)や、ジェームス・マカリスター(James McAllister)、エドワード・ミラー(Edward Miller)、ソフィー・クィン=ジャッジ(Sophie Quinn-Judge)らが、仏教徒運動の勢力や影響力について記してきた。 だが、仏教徒運動の歴史的・知的基盤、あるいは、内部の力学や構想に関する研究はほとんど行われていない。 そこで、仏教徒運動の背景となる思想にさらに光を当てるため、この論文では、影響力のある一人の僧侶、ティク・ナット・ハン(Thích Nhất Hạnh /1926-2022)の著作を取り上げる。彼は、非暴力による愛国主義と国造りの一つの手法として、社会参加仏教(socially engaged Buddhism)を提唱した人物だ。ベトナム中・南部での若年期を通じ、ティク・ナット・ハンは、外の世界から隔絶された寺院内での伝統的仏教が、俗世の問題に対処していない事に気が付いた。 内戦中に存在意義を保ち、奉仕を続けるには、仏教界の指導者が社会の苦しみと向き合う必要があった。1950年代末から1960年代半ばにかけ、ティク・ナット・ハンは伝統的な仏教組織の改革を試みたが、これを断念し、代わって、社会改革の担い手である若者に目を向けた。そして、次世代に事態の成り行きを変える力を授けようと、彼は、サイゴンに仏教教育と社会事業のための学校を設立した。これにより、戦争によるのではなく、社会奉仕と、非暴力の和解による国造りが可能となる事を願ったのだ。当時、反体制派の仏教徒は、反政府デモや、反戦デモに関心を抱いていた。その中で、ベトナムの仏教と愛国主義に対する、建設的で長期的なビジョンを備えた青年運動を組織した唯一の僧侶がティク・ナット・ハンだった。 ベトナムの結束した社会参加仏教を説く 社会参加仏教という概念は、20世紀初頭にアジア全土で展開された仏教復興運動の一環として生じた概念だ。ティク・ナット・ハンも、同世代の他の人々と同様に、この復興運動の強い影響を受けた。 彼は、1950年代に社会参加仏教の事を書き始め、制度改革を提唱し、後に、社会奉仕の精神に基づく青年運動を引き起こした。 ティク・ナット・ハンは、仏教組織が戦争で荒廃した自国に奉仕し、平和で独立したベトナムの建設に貢献する事を望んでいた。また、彼は、改革が全国的な仏教徒の協調行動を可能にすると信じ、これを熱心に主導した。この時の彼の希望を捉えたのが会報、Vietnamese Buddhism(ベトナム仏教/Phật Giáo Việt Nam)だ。同誌はベトナム仏教総会(the General Buddhist Association /Tổng Hội Phật Giáo Việt Nam)の公式会報で、ティク・ナット・ハンは、1956年から1958年にかけ、この会報の編集長を務めていた。なお、仏教総会は1951年に設立され、ベトナム中・南部の6つの仏教団体を統合した組織だ。 ティク・ナット・ハンは、ダー・タオ(Dã Thảo)というペンネームで、編集長の権限によって執筆し、仏教界の指導者が社会のために本気で結束して行動を起こそうとしない様子を批判した。また彼は、自分が必要だと考えた改革を明確に述べた。例えば、ベトナム仏教総会に全仏教団体を喜んで受け入れる事、僧院での教育・計画・服装を地域ごとに統一する事、指導力と資金管理を中央に集中させる事などだ。また、これを執筆する際、彼は公式的な編集長としての慎重な言葉遣いではなく、活動家の言葉で、こう述べた。全ての仏教徒は、「真の調和こそ、現代における最も喫緊の課題であると認めねばならない。仏教は平和のための勢力であり、仏教総会は我らの共同戦線だ」。 […]

Issue 35

魔法と記憶 ベトナム共和国時代を仏教徒として生きた旅医者の物語の考察

ベトナム共和国時代の仏教史の記録を作成する際、個人の実体験は、人々がより大きな物語の輪郭をどのように歩んだかという洞察に光を投じる。この論文では、そのような物語の一つを考察する。これは、旅する癒術師で、仏教指導者でもある、グエン・ヴァン・クアン(Nguyễn Văn Quảng/ 1950年頃~現在)の物語だ。この物語は、アメリカ人ゴーストライター、マージョリー・ピヴァー(Margorie Pivar)の協力の下、“Fourth Uncle in the Mountain: A Memoir of a Barefoot Doctor in Vietnam (2004)”に綴られている。これはクアンが南ベトナム(Nam Bộ)での生活を振り返る回想録で、物語はチョラック県(Chợ Lách/ベンチェ省/Bến Tre)周辺での青年時代から始まる。その後、南ベトナム西部デルタの七山(the Seven Mountains)で修行した十代、第二ベトナム共和国時代(the Second Republic of Vietnam/1967–1975)末に仏教僧院長となった成熟期、共産主義体制に順応しようと医療従事者になった1975年以降、そしてついに、1987年にベトナム脱出を敢行するまでが描かれる。 このクアンの人生の、四つの波乱に満ちた時代を描く一連の物語は、地に根ざした人間の視点を我々に提示する。ここから、南ベトナムで「仏教徒」である事の意味や、南部デルタという土地での暮らしや旅の経験、そして、現地の人々の地域における関係性が検討できる。また、全編を通じ、クアンと彼の共著者は、青年時代や記憶、喪失にまつわる教訓を与えてくれる。 グエン・ヴァン・クアンとは、果たしてどのような人物だったのか?それは古参の医者たちにもよく分からない。1950年、乳児だったクアンは、チョラック県の市場に捨てられていた。どうやら、彼の両親は偏狭な仏教徒だったらしく、フランス人ともめていた。だが、クアンが旗ざおの下で見つかって間もなく、両親は射殺されて発見された。こうして、実の両親を失ったクアンは、喪失によって心に傷を負ったのだろう。彼にとって、医者であり僧侶でもある「ベトナム最強の魔術師」グエン・ヴァン・タゥ(Nguyễn Văn Thâu/1886-1983)が養父である一方で、「南洋桜」(Roe Tree / cây trứng […]

Issue 33

ミャンマー軍事支配下のデジタル・クーデター 弾圧のための新たなオンラインの手法

ミャンマーにとって、軍事独裁支配や、それに伴うメディア規制は何も目新しいものではない。ただし、2011年から2021年の間は別で、このわずか10年間に、ミャンマーは50年におよぶ暗黒時代から抜け出そうとしていた。当時、ミャンマーは、検閲済みの厳めしい国営放送や国営新聞が幅を利かせた時代から、携帯電話やソーシャルメディアが普及する21世紀の世界へと向かっていた。例えば、2000年代の軍政下では数千ドルもした携帯電話のSIMカードは、国内で最初の外国企業が操業を開始した2014年後半に1.5米ドルまで値下がりした。また、携帯電話のフェイスブック(FB: Facebook)は、電子メールや固定電話回線ネットワークを一足飛びに飛び越し、事実上、国内の連絡手段や主な情報源となった(Simpson 2019)。 この解放的でありながら、無法状態のメディア環境は、社会・経済面で多大な恩恵があった反面、主にロヒンギャなどの少数民族に対するヘイトスピーチの拡散も引き起こした(Simpson and Farrelly 2021b)。それでも、これらの技術が利用可能となり、さらに10年間の政治・経済改革もあり、たとえ非常に低い基準からにせよ、より開かれた民主的で透明性の高い社会への道筋が開かれた。 ところが、2021年2月1日、前年11月に圧倒的多数で再選された国民民主連盟(NLD: the National League for Democracy)率いる政府を国軍が追放し、この進歩が打ち砕かれた。この日の朝、国軍は、アウン・サン・スー・チー国家顧問や、大統領などのNLD議員、活動家を逮捕して政治機構を乗っ取った。そして、全国的な大規模デモの後、インターネットやソーシャルメディアの使用が禁止、制限され、戦争犯罪や人道に対する罪にも等しい弾圧が広まった(Andrews 2022; Fortify Rights 2022; Human Rights Watch 2021; Simpson 2021a)。 また、NLD政権下では、新サイバー・セキュリティ法の準備が進められていたが、軍政、国家行政評議会(SAC: the State Administration Council)は、クーデター直後に意見聴取のための草案を発表した。これに対し、企業団体やNGOからは厳しい批判があったが、2022年の初めに配布された最新の草案は、以前にも増してひどいものだった(Free Expression Myanmar 2022)。この新法案には国内外から強い反対があったが、この記事の執筆時点(2022年6月)では、まだSACのサイバー・セキュリティ委員会がその反響を検討していた。この記事では、ミャンマーにおける検閲とメディア規制の歴史を手短に紹介し、新たなサイバー・セキュリティ草案の人権に対する影響を分析する。 2021年クーデター以前の検閲 1962年の軍事クーデターから2011年まで、ミャンマーは軍事独裁支配を様々な形で経験してきた。例えば、民間の日刊紙は存在せず、民間のメディア事業者や出版社、ミュージシャンやアーティストは、誰もが事前に報道審査委員会(Press Scrutiny Board)に作品を提出しなければならなかった。この発表前の検閲により、国軍や政府に対する批判が含まれていないかどうかを確認する必要があったのだ。このように、発表してよいものには厳しい制限があった。例えば、1988年の全国的なデモで、アウン・サン・スー・チーが有名になった後、彼女について一言でも触れた出版物は、破られるか、黒く塗りつぶされる事となった。また、当時はテレビやマスコミの多くが国家の機関だった。 […]

Issue 33

カンボジアのナショナル・インターネット・ゲートウェーとデジタル権威主義の行方

カンボジア憲法では表現の自由が保障されているが、ナショナル・インターネット・ゲートウェー(NIG: National Internet Gateway)の出現により、この国のデジタル領域は完全に権威主義に乗っ取られようとしている。国営のインターネット・ゲートウェーは、国内での自己検閲を一斉に引き起こし、カンボジアの一党制国家確立を支えるものとなるだろう。当初、NIGの運用は2022年初頭に予定され、延期されていたが、この開始が、わずかに残る表現の自由や、政治活動のための市民社会空間を危機にさらしている。 カンボジアのインターネット利用者数は、2009年には人口の0.53%だったが、2021年には人口の52.6%(886万人)にまで増加した。 2021年時点で、国内でインターネット・サービスを地上ベースとモバイルの両方で提供する通信大手には次の5社がある。それらはViettelSmart Axiata、CamGSM、Xinwei TelecomとSoutheast Asia Telecomだが、いずれも権威主義的傾向のある国(中国、シンガポール、ベトナム)で誕生した企業だ。 また、これらの企業は皆、カンボジア政府や政府高官と密接な関係にある。これにより、ISP各社と政府高官の協力による、インターネット利用状況の監視や、オンラインコンテンツのブロック、インターネットの「調整(スロットル)」が容易となった。 デジタル権威主義の法的ツールキット これまで、インターネット上の反対意見の対処に様々な法律が利用されてきた。目前に迫るNIG導入の目的は、全てのインターネット・トラフィックを政府が管理する単一ゲートウェーの下でまとめる事だ。また、この導入には、カンボジア憲法や刑法、テレコミュニケーション法、共同省令第170号(Inter-Ministerial Prakas No.170)、サイバー犯罪法法案など、様々な現行法が付随する。 アジアセンターの最近の報告書が詳述するように、これらの法律条項の多くが国際人権基準や、カンボジアの批准した諸条約に違反している。ここで、これらの法律の極めて重要な特徴を挙げておこう。それらは、「国益」擁護を求める憲法第49条の改正、「人、又は機関の名誉、もしくは評判」を守る刑法の名誉棄損条項、「フェイクニュース」を伝達する罪(第425条)、犯罪実行に向けた一人、あるいは数人での「共謀」罪、または「陰謀」罪、そして、重大犯罪や社会の安全を阻害する行為の扇動(第495条)だ。 一方、通信はテレコミュニケーション法(2015)の下で監視されており、この法律には次のような定めがある。すなわち、当事者の監視(第70条および第71条)、データ保護の緩和(第97条および第6条)、ラジオ・テレビ・オンライン、および、プライベートメッセージ上での言論の自由の有罪化(第80条)だ。さらに、「カンボジア王国におけるインターネット上のウェブサイトとソーシャルメディアによる発信の統制(Publication Controls of Website and Social Media Processing via Internet in the Kingdom of Cambodia)」に関する共同省令(第170号)(2018)は、情報省と内務省、郵便・電気通信省(MPCT)の連携を緊密にした。この法律により、これらの各省の連携による全ソーシャルメディアの利用状況の監視が可能となった。2020年2月には、この共同省令の法的承認を受けたソーシャルメディア対策委員会(social media task force)が、ソーシャルメディア・サイトを含む国内の全メディアの監視を委託された。 この一連の法律を補完するサイバー犯罪法法案は、2012年に最初に提起されてから、2022年の今も審議が続いている。同法案は、サイバー犯罪の防止を目的とし、全てのトラフィック・データを最長180日間保存するよう規定している。これにより、カンボジア王室政府(RGC)による人権団体へのデータ請求が容易となるが、このようなデータの悪用により、諸団体の活動が制限される可能性もある。また、この新法案の下では内部告発者も脅威にさらされている。事実、新型コロナ規制法(The […]

Issue 33

シンガポール一党独裁を維持するデジタル権威主義の手法

シンガポールは事実上の一党独裁国家で、独立後初の1968年議会選挙以来、国民行動党(PAP: the People’s Action Party)が国政を担ってきた。フリーダム・ハウス(Freedom House)は、1973年の最初の状況報告以来、一貫して都市国家、シンガポールを「ある程度自由」と評価している。 これに対し、エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(the Economist’s Intelligence Unit)は、2006年から2013年まで、この国を「ハイブリッド体制(hybrid regime)」と呼んでいた。だが後に、(2014年から2021年にかけて)、これを「欠陥のある民主主義(flawed democracy)」と説明するようになった。 さらに、シンガポールでは報道の自由も厳しく制限されている。このため、シンガポールは国境なき記者団(RSF)の2021年世界報道自由度ランキング(World Press Freedom Index)において、180位中160位という世界でも最悪レベルの評価を受けた。 1990年代後半から2010年にかけ、インターネット接続が普及すると、主要メディアの力、あるいは影響力が弱まり、PAP政権や政府関係者による政治的なナラティブの形成が次第に困難となった。そこで、オンライン・コンテンツを規制する法律を導入し、ネット上の代替的なナラティブに対処する事に焦点が移った。この結果、近年ではインターネットの自由や、デジタル権が衰退し、デジタル権威主義が高まりつつある。このような状況悪化を示す定量的な指標の一つに、フリーダム・ハウスの「インターネットの自由度(Freedom on the Net)」指数がある。この中で、シンガポールは2016年には100位中59位、2021年には100位中54位と評価された。 この論文では、シンガポールの「デジタル権威主義」の現状分析に際し、法律の利用や、国家による監視、そして国内のデジタル領域の議論を独占し、国民に向けた情報の流れを操作しようとするPAP支持派の荒らし行為(トローリング)を検討する。たとえ、この状況が短期的には政治的挑戦者をけん制しても、PAPの厳しい措置に苦しむ集団も増えている。そして、このような集団が築き始めた礎の上に、いつの日か政権交代が生じる可能性もあるだろう。 デジタル権威主義の発展 PAP政権のデジタル領域に関する新たな法律の制定は、ネット上の表現の規制を目的としている。このような表現は、空前のソーシャルメディア・ブームが生じた2000年代後半から2010年代にかけて発達した。また、これと同じ時代にPAPの選挙結果も過去最悪となったが、その2011年総選挙 の後に、このような検閲や情報の流れに関する措置が強化された。 表1:シンガポールの主なデジタル関連法 ここで、都市国家、シンガポールのデジタル・コンテンツ対策の中核を担うのが、2015年選挙後に設置された情報通信メディア開発庁(IMDA: the Infocomm Media Development Authority)だ。 IMDAは、メディアや情報発信に関する新たな法律や規制の集大成として存在する。このため、IMDAには次のような包括的権限が付与されている。すなわち、放送ライセンスの付与条件を規定する権限、(インターネットやソーシャルメディア上で)放送中、あるいは放送予定のコンテンツや番組に措置を講じる権限 、どのようなコンテンツが公的秩序や社会の調和、国家安全保障の脅威と見なされるかを裁定する権限だ。 また、2020年総選挙に先立ち、PAP政権はオンライン虚偽情報・情報操作防止法(POFMA: the […]

Issue 33

新型コロナ期のフィリピンにおけるデジタル権威主義の武器化

東南アジアは過去の危機に対し、強権的な対策を講じてきた地域として知られるが、この地域では新型コロナウィルスの世界的流行の結果、次の事態が生じた。すなわち、「緊急事態法や臨時法の制定、民主主義的活動の停止、政治批判の封じ込め、行動追跡・データ収集などの干渉的なアプリの導入」が行われた。 また、東南アジアの多くの国では、パンデミック対策において人権が最優先されず、健康危機に乗じた政権の強化や、政府批判者の取り締まりが行われている。 さらに、新型コロナウィルスの世界的流行が始まって2年以上が経ち、明らかになった事がある。つまり、エスノ・ナショナリストやポピュリスト、独裁者の手により、健康危機が、「パンデミックと関係ない目的を持つ抑圧的政策を講じる口実」に利用される可能性があるのだ。 フィリピンは、東南アジア地域でも、「厳重な厳戒態勢」と呼べるような新型コロナ対策を行う国の一つだ。 事実、この国は東南アジア一厳しいと思われるロックダウンを実施したが、感染率や、コロナを原因とした死亡率が最も高い国の一つでもあった。2022年3月現在、フィリピンは感染者数において26位、コロナを原因とした死亡者数においては21位にランキングされている。 さらに、厳しいロックダウンと、ウィルス蔓延の抑制に失敗した結果、2020年には経済が9.5%収縮した。 これは第二次世界大戦以来、最悪の状況で、フィリピンはASEAN加盟国中で最も景気が悪化した国となった。 経済への影響に加え、政府により監視された「有害なロックダウン文化」の結果、高度に厳戒態勢が敷かれ、新型コロナウィルス感染症が健康危機というより、平和と秩序の問題として扱われた。さらに、政府はインターネットやソーシャルメディアを自分たちのイニシアティブの正当性を主張し反対意見を封じ込める手段として用いた。こうして、人権遵守に悪影響を及ぼす不安定な状況が生じた。 この論文の目的は、フィリピンの厳戒態勢での新型コロナウィルス対策と、国内のデジタル権威主義、人権侵害の相互関係を説明することである。具体的に言うと、「新型コロナのパンデミック中に、デジタル権威主義が支えるフィリピンの厳戒態勢での対策が、人権侵害にどの程度影響したか」という問いに答えたい。 ドゥテルテの厳戒態勢での新型コロナウィルス対策 当初より、政府がコロナ禍を一種の戦争と定義した事が、戒厳令まがいの条件の押し付けや厳しい罰則の脅しに、より受け入れ易い印象を与えた。 例えば、ある街頭演説では、大統領が軍部と警察にゼロ・トレランス政策を採るよう指示したほどだ。さらに、大統領は違反者への警告で、新型コロナの規制違反で捕まれば射殺される可能性もあると言った。だが、新型コロナ対策タスクフォース(the COVID-19 task force)の主導者が軍人や元警官である事を思えば、このような健康危機対策も驚くものではない。 しかし、この厳戒態勢下の対策に、大きな望ましい成果は見られない。それでもドゥテルテ政権は、主力となるデジタル権威主義を武器に、このような対策の正当性を主張した。 まず、パンデミックの最初の数か月間で、フィリピンは共和国法第11469号、「バヤニハン法(Bayanihan to Heal as One Act)」を制定した。この法律には、フェイクニュースの有罪化に関する物議を醸す条項が含まれる。これによると、「根拠のない、あるいは国民に悪影響を与える」誤情報を広め、「パニックや混沌、無秩序、不安や混乱を明らかに助長しようとする」人物は、「2か月以下の拘禁、または100万ペソ(約2万米ドル)以下の罰金に処せられる」。 タラマヤン(Talamayan)の指摘によると、フィリピン政府は新型コロナ情報を規制し、パンデミック対策の不備を隠ぺいしている模様だ。この指摘を支持したラップラー(Rappler)は、ドゥテルテ政権がソーシャルメディアを利用して、コロナ対策でフィリピンが健闘しているとのナラティブを広めたと論じた。同ニュースサイトによると、「ネット上のソーシャルメディア・ユーザーは、外国の人物、あるいは刊行物とされるものが、新型コロナ対策でのドゥテルテの指導力を称賛、評価したと虚偽の主張をしている。だが、そのようなコメントは、でっち上げか曲解のいずれかだ」という。 一方、コンデ(Conde)の観測では、新型コロナ緊急事態法に支えられたフィリピンの中央・地方当局が権力を行使し、評論家を取り締まった。この際、当局はこれらの評論家について、「新型コロナの誤情報の売人」の追随者に過ぎないと論じていたという。 基本的に、反体制派と見なされた人物は、当局の格好の標的となった。 近年、フィリピンの政治家や候補者が大量の荒らし(トロール)部隊を雇って政敵を中傷し、自分たちのてこ入れを行う事が一般化した。さらに言うと、ドゥテルテが政権に就いた原因をデジタル権威主義とし、ストラテジック・コミュニケーション・ラボラトリーズ(Strategic Communications Laboratories)のおかげだと論じる事もできる。ちなみに、同社は悪名高い政治コンサルタント会社、ケンブリッジ・アナリティカ(Cambridge Analytica)の親会社だ。 元宣伝担当幹部のニック・ガブナダ(Nic Gabunada)の話では、ドゥテルテには主要メディアに政治広告を出す資金がなく、彼の選挙運動チームが「ソーシャルメディア集団の起用を」決めた。 なお、この集団は現在もそのまま存続し、ドゥテルテが大統領になった後に拡大さえしている。このソーシャルメディア集団が定期的に利用され、大統領の批判者を悪者にしてきたのだ。そのような批判者には、副大統領のレ二―・ロブレド(Leni Robredo)や、レイラ・デリマ(Leila de Lima)上院議員、ラップラーのCEOで、2021年ノーベル賞受賞者のマリア・レッサ(Maria […]

Issue 33

インドネシアにおける新型コロナのパンデミックとデジタル権威主義の展開

フリーダム・ハウス(Freedom House)やIDEA、国境なき記者団(Reporters Without Borders)の最近の報告を見れば、インドネシアのデジタル領域で市民社会スペースの縮小が問題となっている事が分かる。また、インドネシア国家人権機関(Indonesian National Human Rights Institution)の政府報告書や、2020年のコンパス・デイリー世論調査(the Kompas daily survey)も、この報告と一致している。ここから、インドネシア人の36%が、ソーシャルメディア上での意見表明に不安を抱いている事が明らかとなった。 インドネシアには2億470万人(2022年1月)、あるいは、少なくとも総人口の73.7%のインターネット・ユーザーがいる。そのような国で、新型コロナのパンデミックが始まって以来、権威主義が着実に高まりつつある。事実、政府は「国家の安全を守る」、「安定を生む」などの言葉を使い、この国のデジタル領域に対する抑圧的な新法の実施を正当化している。 また、SAFEnet(東南アジア表現の自由ネットワーク)の2020年報告によると、インドネシアでは、デジタル権威主義と関連した3つの重要項目で懸念すべき展開があった。それらの項目とは、監視・検閲と弾圧・そしてインターネット遮断だ。 国家によるデジタル領域の監視 2020年3月、インドネシアでパンデミックが始まった後、ジョコウィ大統領は国家の情報機関に対し、厳重な治安維持を指示した。同時に、大統領とその政府は、引き続き国の観光事業を推進し、インドネシアは安全に訪問できる国で、熱帯気候のため、コロナウィルスが国内で蔓延する事は無いだろうと言っていた。だが、一か月後には、主にソーシャルメディア上のパンデミック関連のナラティブを警察が積極的に取り締まるようになった。さらに、2020年4月4日付の警察指令ST/1100/IV/HUK.7.1.2020号により、警察官には「サイバー・パトロール」を行い、インターネット上の議論を監視する非常権限が与えられた。そして、新型コロナや政府のパンデミック対策に関する誤情報、危機対応に当たる大統領や政府高官への批判を広めたとされる者までもが、この標的になった。2020年10月2日には、新たな指令が出て、2020年末の雇用創出法(the Job Creation Law)に反対する市民団体のデジタル抗議や運動に対抗的ナラティブを提示して立ち向かうよう指示が行われた。 さらに、2021年2月には「バーチャル警察」が設置された。この新たな部署には、ネット市民に対する逮捕前警告として、オンライン・アラートを送信する権限が与えられた。このバーチャル・アラートの内容は、警察に通報されたものはどんな投稿であれ削除せよという警告と命令だ。実際、2021年2月23日から3月11日までに、バーチャル警察は125通のオンライン・アラートを送信し、3人を拘束している。このバーチャル警察の出現により、国内では自己検閲が一層広く行われるようになった。例えば、誰かが不適切な発言をしたと通報があれば、警察はその投稿を削除するよう即座に指導を行う。このような状況が、インドネシアのデジタル領域をとりまく不安感を作り出しているのだ。 2020年3月末、新型コロナのパンデミック中に、インドネシア通信情報省(MCIT: Ministry of Communication and Information Technology)と国営企業省(MSOE: the Ministry of State-Owned Enterprises)は接触者追跡アプリを発表した。これはPeduliLindungi(ペドリリンドンギ)という名のアプリで、新型コロナウィルスへの曝露を追跡するものだ。ところが、DigitalReach とCitizenLab が発表したプライバシー監査報告書から、同アプリのバージョン2.2.2.には(Bluetooth使用の場合)、ユーザーのWi-Fi情報やMACアドレス、さらにはローカルIPアドレスまで送信する可能性がある事が判明した。つまり、このアプリは、個人の行動について当局に高度な情報を提供していたことになる。その後、ペドリリンドンギの新バージョンも発表されたが、ユーザー側にはなお、データ保護の問題があった。この他にも、政府は接触者追跡アプリや、新型コロナ・パンデミック関連のアプリを発表したが、それらのデータ収集活動は後に厳しい調査の対象となった。 デジタル領域の抑圧と検閲 インドネシアのインターネット関連の既存法(EIT法: […]

Issue 32

カンボジア・米国関係の修復:カンボジアの視点

2020年に、カンボジアと米国は国交70周年記念を迎えたが、その祝典は両国間に不信や疑念が募る中で行われた。長年にわたり、カンボジアと米国の関係は様々な問題によって揺り動かされてきた。例えば、地政学的・戦略的利益や人権、民主主義、さらに最近では中国ファクター(China factor/中国の影響力)などの問題がある。 だが、近年の両国関係は、とりわけ非難や対立、不信に満ちている。まず、2017年にカンボジアが、米国がカンボジア救国党(the Cambodia National Rescue Party: CNRP)と癒着してカンボジア政府に対抗したと非難した。ちなみに、CNRPはカンボジア最大の野党だが、現在は解党されている。また2019年には米国が、カンボジアが中国と密約を結んだと非難した。この密約により、カンボジアのプレア・シアヌーク(Preah Sihanouk)州のリアム海軍基地(Ream Naval Base)の中国軍による使用が可能になったという。だが、両国は互いの非難を認めず、和解の実現を目指してはいるが、両国の関係は悪循環に陥った様子だ。 この記事では、近年のカンボジア・米国間の緊張関係を分析し、中国の台頭と米中対立の激化の中、両国関係を改善するために何をするべきなのかを提言したい。 カンボジアと米国の緊迫した関係 2017年以降、カンボジアと米国の関係は、これまでにない最悪の状況に至った。まず、2017年1月に、カンボジアは「アンコール・センチネル(Angkor Sentinel)」と呼ばれる米国との共同軍事演習を中止した。これについて、カンボジアは、地方・国政選挙に専念するためとの理由を挙げた。その後、2017年の2月には、プノンペンに駐在していた当時のウィリアム・ハイト(William Heidt)米国大使が、カンボジアは5億ドルの戦債を返済するべきだと発言した。この新たな要求は、戦債を「汚いもの」、「血に染まったもの」と考える政治指導者を中心に、カンボジア人の間で激しい抗議を引き起こした。 2017年の末に、裁判所命令によりCNRPが解党されると、これは独立メディアや市民社会、野党に対するカンボジア政府の弾圧の一環であるとの認識が広まった。また、この弾圧により、2018年選挙では、与党カンボジア人民党(Cambodian People’s Party)の対抗勢力が無くなり、同党は国会全125議席を獲得した。この2018年選挙とその後の弾圧は、カンボジア民主主義の後退と人権状況の悪化を示す兆となった。これを受け、米国は汚職を理由に、フン・セン首相と緊密な関係にある数名のカンボジア政府高官や大物実業家に制裁を課し、ビザ発給制限や資産凍結を行った。アメリカ財務省がグローバル・マグニツキー法(the Global Magnitsky Act)の下で制裁を課した人物には、フン・センの親衛隊長、ヒン・ブン・ヒエン(Hing Bun Hieng)や、カンボジア王国軍のクン・キム(Kun Kim)元統合参謀長がいる。また、米国は、中国企業、ユニオン・デベロップメント・グループ(UDG/優聯集団)による、現地カンボジア人の土地の強制収用および破壊行為に対しても制裁を課した。ちなみに、UDGが進める38億ドル規模のダラサコール(Dara Sakor)プロジェクトでは、ボーイング747や軍用機の着陸に十分な距離の滑走路を備えた国際空港も建設されている。 また、2020年12月には、アメリカの一般特恵関税制度(Generalised System of Preferences: GSP)に対するカンボジアの適用期限が到来したが、この期限の更新は保留されたままになっている。これに対し、近年のカンボジアでの民主主義や人権状況の悪化のため、カンボジアがGSPから除外される可能性を警告する者もいた。これと関連して、米国下院は、カンボジア民主主義法(Cambodia Democracy Act)を2019年と、2021年9月にも再び可決した。もし、同法案が法制化されると、カンボジア政府高官は、同国の民主主義を損ねた責任で、さらなる制裁を課される事になる。 また、2021年6月に米国は、カンボジアのプレイロング野生生物保護区(Prey Lang […]

Issue 32

変化と継続が衝突する時代:過去4年間のマレーシア外交政策

2018年5月のマレーシア第14回総選挙から2021年12月までの間に、マレーシア政府は3人の首相の交代と、2つの与党連合の崩壊を経験した。その結果、外務大臣は2度の任用期間中に3回入れ替わり、マレーシア国防相も、3人の大臣が代わる代わる率いる事となった。さらに、この背後ではCOVID-19による健康・経済の危機が生じ、国内情勢を悪化させた。 これと同じ頃、マレーシアは、初の国防白書と二つの外交政策の枠組を発表し、同国が外交を実施する際の国家の優先事項と姿勢を明確に示した。この論文で論じるのは、国内の政治情勢が激変し、過去4年間のマレーシアの外交関係で時折、失敗があったとしても、この国の外交政策の構造の大筋は実質的に変わっていないという事だ。確かに、人間性を全面にだした(personality-driven)外交の実施は、政策の一貫性のなさを助長したかもしれないが、マレーシア外交の基本的な指針は一貫している。だが、今後、保健外交やサイバー・セキュリティー、文化外交など、新たな重点分野を維持する力は、マレーシア国内の安定や、リーダーシップ、資源の優先順位付けなどによって大きく左右されるだろう。 一歩前進:指針と政策 マレーシアでは、2018年までの60年近く、国民戦線(the Barisan Nasional/バリサン・ナショナル)政府が連綿と国政の実権を握ってきた。そのようなマレーシアにとり、今回の政治的混乱は前代未聞の出来事だった。まず、党の裏工作の波紋は、2018年に選挙で選ばれた連立与党、希望連盟(Pakatan Harapan/パカタン・ハラパン)を政権の座から追放し、その後、相次いで党の内部分裂を引き起こした。しかも、この影響は今もなお、水面下で渦巻いている。 ここで、連邦政府と野党連合の間に結ばれた改革と政治的安定に関する覚書(MOC on transformation and political stability)は、党派間の平和を維持するための唯一の手段だ。これによって、2023年7月の第14回議会の解散に伴う次期総選挙までは平和が保たれるだろう。ところが、この停戦協定にもかかわらず、第15回総選挙の呼び水と見られる国政選挙が2021年の末に控えているため、マレーシアの国内情勢は今なお濃厚な政治色に包まれており、マレーシアの政策の存続について不透明感が広がっている。 「新しいマレーシア(Malaysia Baharu)」を公約に掲げた希望連盟政権が選挙に当選してから1年余り経った2019年9月、マレーシア外務省は「新しいマレーシアの外交政策枠組み(Foreign Policy Framework of the New Malaysia)」(2019年枠組み)を発表した。これには、「継続性の中の変化」という題が付いていた。その三か月後、国防省はマレーシア初の包括的な国防白書(DWP)を国会に提出し、承認を求めた。これらの文書には、マレーシアの外交・防衛態勢の概要がまとめられ、その中で、包摂的な国際主義、非同盟、不干渉、紛争の平和的解決、法の支配など従来の原則が確認されている。また、いずれの文書にも、東南アジア諸国連合(ASEAN)が、マレーシアの外交政策の要である事に変わりはないことが明記されている。 これらの文書は、明らかに時代の産物であり、マレーシアの変わりゆく戦略環境の実態に、より良く対処するという目的の下に作成されたものであった。そのため、この2019年枠組みと国防白書には、政権交代によって方向転換するかに見えた、当時の国家の楽観主義が反映されている。また、両文書は、民間のステークホルダーを交えた協議プロセスの成果でもあった。まず、2019年枠組みでは、国際社会におけるマレーシアの積極性と卓越性が約束されている。また、同枠組みは、人権・主権の擁護を論じ、移民やサイバー・セキュリティー、テロなどの非伝統的な安全保障上の課題に対する認識も示していた。一方、国防白書には、「大陸的ルーツを持つ海洋国家(maritime nation with continental roots)」、マレーシアの地位をより効果的に守るための、一元化されて機動的で集中的な未来の軍隊の計画概要が記されていた。さらに、この白書は、防衛にまつわる科学・技術、産業に対する国内での新たな取り組みも提示した。このように、国防白書は、「マレーシアの地政学面を強化する新たな要素」として構想された。 二歩後退:継続性の中の矛盾 2020年2月には、希望連盟政権が瓦解し、ムヒディン・ヤシン(Muhyiddin Yassin)率いる国民連盟(ペリカタン・ナショナル/the Perikatan Nasional)の与党連合が政権に就いた。そして同じ頃、COVID-19が全世界を一変させた。これによって、2019年枠組みと国防白書は、事実上、効力を失う事となった。マレーシアの外交政策の実践が時折、協調性や一貫性を欠くように見えたとしても、これらの文書の根底を成す原理に変わりはない。だが、マレーシアの南シナ海での領有権の主張に対する中国の挑発や、豪英米3カ国(AUKUS)協定の発表への対応では、この矛盾性がひと際目立って見えた。 2020年の前半に、パンデミックの第一波と戦っていたマレーシアは、同時に中国からの威嚇にも対応しなければならなかった。当時、南シナ海では、自国が業務を委託した石油掘削船、ウエストカペラ号(West Capella)に対し、中国の調査船、海洋地質8号(Haiyang Dizhi 8)が脅し行為を行っていた。これに対し、アメリカとオーストラリアは同海域に戦艦を派遣し、そのプレゼンスと力を示した。おそらく、この行為には、東南アジア地域のパートナー諸国に対する助力の意思表示を行う目的もあっただろう。だが、当時のマレーシアのヒシャムディン・フセイン(Hishammuddin […]

Issue 32

ドゥテルテ後のフィリピン外交政策:次期大統領が考慮するべき重要課題

ロドリゴ・ドゥテルテ大統領の任期終了に伴い、フィリピンは、次期大統領がどのような外交政策を推進するかという不透明感を抱えている。おおよその傾向として、フィリピンの外交政策や対外行動には、新政権が誕生する度に何らかの調整が加えられる。これは、大統領となる人が、それぞれに独自の方向性を持って大統領の座に就くからだ。まず、外交政策や国際情勢への対応の基本には、各大統領の国益に対する認識や推進方法があり、それに基づいて各種の調整が行われる。だが、次期大統領は国益を推進するにあたり、地政学上の課題と向き合い、ドゥテルテの物議を醸す政策にも対処する必要がある。これが、今後のフィリピンの外交政策に重大な影響をもたらすだろう。 フィリピンの大統領と外交政策 しばしば、フィリピンの大統領は外交政策の立案者の長と呼ばれる。憲法が定める権限を持つ大統領には、幅広い政治的自由裁量があり、他国や国際組織との関係の中で国益を守るため、決然とした行動をとる事ができる。また、大統領は優先事項を見直し、「ある程度の構造的制約を受けつつも、国際社会での論調や方針について指図し、望みとあらば、一部の国と個人的な外交を行うこともできる」(Baviera 2015)。つまり、フィリピンの大統領は、国家の外交政策にその人個人の独自色を活かす事ができるのだ。実際、フィリピンの国際情勢や対外関係に関する判断は、その多くが大統領府の評価に基づいている。この例として、アロヨ外交政策(2001-2010)や、アキノ外交政策(2010-2016)などがある。 このように、フィリピンの政治文化がパーソナリティを基調としている事から、この国の外交政策は大統領個人の独自性を際立たせる傾向がある。これが特に明らかなのは、指導者が交代する時期(一人の大統領の任期にあたる6年ごと)だ。というのも、大統領となる人には、それぞれに独自の方向性があり、これに従って国家の外交政策が調整されるからだ。それに、前任者と全く違う政策変更を実施すれば、大統領の個性はさらに明白となる。連続する二人の大統領の個性や、ものの見方が大きく違えば違うほど、フィリピンの外交政策の変化も極端なものになるし、その逆も同じだ。例えば、アキノの協調的な性格や倫理的な世界観は、リベラルで制度主義的(institutionalist)な外交政策を促進した。これに対し、全く対照的なドゥテルテの強引な性格と社会主義的な世界観は、フィリピンに現実主義的で独立的な外交政策をもたらした。 外交政策における国益  だが、指導者の交代を前に、次期政権の性格や、これがどのような外交政策を推進するかを予測するのは困難だ。なぜならば、2022年5月の選挙で誰が勝利するのか、まだ分からないからだ。しかし、この予測を行うには、まずドゥテルテの外交政策を評価し、彼の後任者の政策に違い(や類似点)が生じるかどうかを見極める必要がある。そうすれば、これが新旧大統領の外交政策を比較するためのコンテキストを示す背景となり、出発点となるだろう。 また、次期大統領が国益推進のために外交政策で考慮するべき、今後の様々な取り組みや課題を見極める事も重要だ。これには、中国が洋上の脅威となる中で米国との連携を育み、フィリピンの安全保障上の利益を守ることや、中国や米国との経済的利益の推進、そして両大国の対立の中で両国との二国間関係のバランスを保つことなどがある。また、次期政権のもう一つの重要課題として、ドゥテルテの外交政策上の言動がもたらした影響への対応もある。前大統領の言動は、フィリピンにおける民主主義の原則や人権擁護を損ねたのだ。 米・中とフィリピンの関係 フィリピンの領有権や海洋上の権利は、西フィリピン海(訳注:南シナ海)での中国海軍による執拗な脅しにより、危機にさらされている。近年、中国の「九段線」内での海洋進出活動は、ますます挑戦的になり、止まるところを知らない。これに対し、2016年にフィリピンの仲裁裁定は違法を宣言したが、中国はお構いなしだ。ところが、ドゥテルテ政権は中国に対して宥和政策を推進し、法廷でのフィリピンの勝利を顧みず、中国の違法な海洋活動の重大性を軽視した。だが、それと引き換えに、大統領は中国から240億米ドルの融資やクレジット、投資の約束を取り付け、自身の「ビルド・ビルド・ビルド(Build, Build, Build)」計画の資金とした。しかし、約束された投資は、まだほとんど実現しておらず、計画は滞るか、棚上げされたまま、西フィリピン海では中国による侵犯行為や不法行為が続いていた。こうした動きを踏まえると、次期政権の外交政策は、中国の海洋の脅威から戦略的に国を守りつつ、中国との依存関係に起因したフィリピンの経済的利益が大きく損なわれる事態を回避すると見られる。 また、ドゥテルテ政権期には、フィリピンと米国の軍事同盟も政治的混乱に見舞われた。つまり、喧伝された、ドゥテルテの「独立」外交政策が、フィリピンを米国頼みの安全保障から脱却する方向へ向かわせたのだ。この基になったのが、アメリカによる植民地支配への従属という、ドゥテルテが長年抱いていた認識だ。この結果、ドゥテルテは共同軍事演習の規模を縮小させ、2020年2月には訪問軍地位協定(the Visiting Forces Agreement: VFA)を廃止すると脅した。ただし、最終的に、ドゥテルテはこの協定を2021年7月に復活させている。したがって、この次のフィリピンの政権交代は、米国との同盟関係を回復する良い機会でもある。まず、懸念される中国の海洋活動に対しては、次期政権は、1951年米比相互防衛条約(the 1951 Mutual Defense Treaty)に基づく米国の防衛義務を活用できるだろう。また、米国の支援については、自国の許容できる範囲を定めればよい。そうすれば、これが均衡をもたらす力となり、フィリピンの中国に対する軍事的脆弱性が緩和される可能性がある。 また、安全保障上の協力関係以外でも、フィリピンは米国との経済関係を深める事ができる。2021年に、米国はフィリピンにとって(中国に次ぐ)世界第二の輸出市場であり、(中国、日本に次ぐ)世界第六の輸入先でもあった。 このように、政治・経済の両面で長年の関係があるにもかかわらず、フィリピンは未だに米国とFTAを結んでいない。これまで、ドゥテルテは、米国よりも中国の貿易と投資を優先してきたが、次期大統領はこれを考え直す必要がある。 さらに、フィリピンは今後、米中間の大国対立の高まりにも対処しなければならない。このためには、両国のうち一方を他方より優遇するのではなく、両国と等しい距離を保った関係を促進していく必要がある。 フィリピンの元外交官、レティシア・ラモス‐シャハニ(Leticia Ramos-Shahani)は、この方法について次のように語る。「これは一見すると貧しい、我が国のような国が、米国のような強大な大国に乞食のように依存する状況を終わらせ、中国のような超大国の横暴に対する、身のすくむ恐怖を軽減する唯一の方法だ」。 フィリピンは新たな大統領の下で、米中両国との安全保障上・経済上の利益を巧みに推進して行かなければならない。米国と中国は等しく重要な国であり、互いに排除し合う関係ではないのだ。要するに、「それぞれの大国から得られる最大の利益を得ると同時に、長期的リスクの相殺に努める」ということだ。 President-elect Duterte (left) and outgoing President Benigno Aquino […]

Issue 31

ミャンマーの革命の焦点、連邦主義

独立以来、ミャンマーが模索してきたのは、自国の豊かな文化や言語、民族、宗教のアイデンティティーを包摂できる政治機構だ。これまで、少数民族は連邦主義を、全ての民族集団の平等や権利を確保する手段と主張してきた。だが、1962年から2010年までミャンマーを統治した軍事独裁政権は、極めて中央集権的な政治体制を敷いた。そのため、このような体制下で、連邦主義の議論をする事は一切不可能だった。その後、2008年憲法の下で行われた民政移管は、中央集権型の連邦主義を生み出した。ところが、ビルマ政府の実態や構想は、国民民主連盟(National League for Democracy: NLD)政権(2016-2021)の下でさえ、中央政権的なものに止まっていた。 これについて、この記事では歴史的概要を述べた後、2021年のクーデターが連邦主義をめぐる政治論争をどのように根底から変えたかという事に焦点を当てる。まず、少数民族の若手指導者が、いかに連邦主義を反クーデター運動の中心的要望としているかを考察した上で、エスニシティに関するディスコースの変化にも言及する。このディスコースについては、以前の民族系統モデル(ethnic-genealogical models)から、包摂的な行政区域モデル(civil-territorial model)の連邦主義へと焦点が移りつつある。次に、連邦議会代表委員会(the Committee Representing the Pyidaungsu Hluttaw: CRPH)が2008年憲法を廃止し、連邦民主憲章(Federal Democracy Charter)を採択した事の重大性を考察する。ちなみに、同憲章の第一部では、幅広い視野の連邦制の原則が謳われている。これらの展開や、連邦主義がミャンマー政治の未来として認められた事は、連邦主義の実現に向けた過去数十年間の取り組みの成功を示している。だが、エスニシティや地理的環境、市民権、宗教などをめぐる、根深く、多角的で重層的な社会の格差は今も残されている。つまり現在の状況は、これらの格差を解消しておらず、国民を一夜にして団結させるものでもない。さらに、不信感も根強く残っている。その上、連邦民主憲章の第一部に提示された価値観を実践し、連邦制を樹立するには、特に同憲章第二部に関する現実的な交渉が必要となるだろう。 ミャンマーにおける連邦制のジレンマ ミャンマーは民族、宗教、言語、文化に関して、極めて多様な国であるが、数の上では仏教徒のビルマ族が大多数を占め、彼らが昔から政府を牛耳ってきた。一方、少数民族の(各種政党や少数民族武装勢力: Ethnic Armed Organizations: EAOsの)指導者は長年、連邦主義をビルマ族による搾取や抑圧などから自民族の権利や利益を護り、中央政府から州レベルに権力を移行させる手段と考えてきた。そのため、このような地方分権化や連邦主義を求める声が、国家の指導者から歓迎された事は滅多になかった。早くも1959年には、Silversteinが「連邦制のジレンマ(federal dilemma)」という新たな言葉を編み出している。この言葉は、指導者が多数派優位型の民主主義を望みつつも、政治的な理由から、少数民族のためにある程度、連邦主義の要素を認めざるを得ない状況を表している。 1962年から2010年にかけ、ミャンマーを支配した軍事政権は極めて中央集権的な体制を築いた。当時、軍事支配の正当化の理由の一つに、国家崩壊を回避する必要性が挙げられ、連邦主義は(少数民族州による分離への第一歩となる可能性があるとして)問題視された。その後、2010年に始まった政権移行と共に、連邦主義の話題はタブーではなくなったが、2008年憲法下でも、権力は依然として中央に集中し続けた。 また、NLD政権下でも、前政権と同様に、いずれの政治機構が少数民族の求める自治を実現しつつ、その他の問題を生み出さない、あるいは悪化させないかという点で、政治的エリートの意見が割れたままとなった。だが一方では、大きな歩み寄りも生じ、ミャンマーの未来が連邦国家にあるという意見の一致で、和平プロセスをめぐる交渉が収束した。それでもなお、特に「連邦制民主主義(federal democracy)」と「民主主義連邦国家(democratic federal state)」の違いなど、用語をめぐる激しい意見の対立が残った。この対立は、ステークホルダー間の信頼欠如を反映すると共に、NLDが連邦主義より民主化を優先しているという認識を少数民族の指導者に抱かせる一因ともなった。 一方、市民社会団体は、民政移管後に開放された市民空間がもたらした機会を捉え、市役所で開催されるような集会から、より個別の需要に即した専門講座まで、連邦主義に関する幅広い教育活動を実施した。このような活動によって問題意識が広まり、連邦制はまぎれもなく開発のディスコースの一部となり、新たな連邦制支持者も確保された。 反クーデター運動とゼネスト民族委員会(GSC-N)における連邦主義 そもそも、2021年2月1日のクーデター直後には、連邦主義は政治的要望の焦点ではなかった。初期の反対運動の要望は、政治的指導者の釈放と民選政府の復元であり、連邦主義には言及していなかった。つまり、当初のデモ隊はクーデターの撤回を要求していたものの、2008年憲法によって規定された概念的枠組を越える事はなかった。むしろ、今回の反クーデター運動に、連邦制民主主義という政治的要望を持ち込んだのは、ゼネスト民族委員会(the General Strike Committee of […]

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ミャンマーの和平プロセス —2010-2021

1957年から2010年までのミャンマーの歴史は、現在も続く国軍(現地ではタトマドー: the Tatmadaw: と呼ばれる)と、様々な少数民族武装勢力(EAOs)との武力衝突を特徴とする。この間、国軍は、時として一部の組織と停戦に至る事もあったが、2010年に開始された政権移行には、より包括的な和平合意の達成という明確な目標があった。この全国停戦合意(The Nationwide Ceasefire Agreement: NCA)は、2011年に政権を取った軍政寄りの連邦団結発展党(Union Solidarity and Development Party: USDP)政権が提案したもので、これが変化のきっかけとなった。この記事では、停戦交渉に向けてUSPDが用いる新たなアプローチから、国民民主連盟(the National League for Democracy: NLD)政権(2016-2021)の下で進行した、政治交渉の官僚主義化まで、和平プロセスの展開を分析する。その後、2021年2月のクーデターが和平プロセスのステークホルダーの立場や認識、関係に、どのような影響を与えたかを検討する。だが、これらの考察によって、当事者全員に自分たちが「勝つ」という思いがあるうちは、和平交渉は再開されそうにない、という残念な結論が導かれる。何より、たとえ和平交渉が再開されたとしても、もはやNCAは平和を実現する有効な手段とはならないだろう。 社会契約が無い国の中央集権化 ミャンマーには、実に多様な民族集団があり、話される言語には、ビルマ語や、シナ・チベット語、タイ語、モン語やサンスクリット語由来の言語などがある。そのせいか、英国植民地支配の下では、ビルマ中心部が直轄統治を受けた一方で、山間の国境地帯は、現地の少数民族の指導者との一連の曖昧な取り決めを通じて支配された。 1947年には、ビルマから植民地の支配者を追放するため、多数派ビルマ族とカチン族、シャン族、チン族の指導者間に緩やかな同盟関係が結ばれた。ただし、この協定の規定では、10年後に連邦国家の設立に関する国民投票の実施が求められていたが、これが履行される事はついになかった。その後、1962年には国軍が権力を掌握し、国軍によるミャンマー支配は、2010年に政治、経済、和平をめぐる移行期が開始するまで続いた。だが、国軍はその後も、文民政権との臨時的な権力分担の取り決めを通じて自身の影響力を保った。 1957年から2010年までは、軍事支配に対する、武装した少数民族の抵抗運動が広範囲で行われていた時代だ。この運動の主な目的は、少数民族の自治、あるいは独立を達成し、少数民族の地域から国軍を追い出す事だった。確かに、一部のEAOsはイデオロギー上の信念のもとで結成されていたが、大半の組織に、その政治的思想の指針となる「世界像(Weltbild)」があったとは言い難い。 国軍はその統治期間を通じ、様々な武装組織と停戦交渉を行うことで、そのような組織の鎮静化を試みた。これらの交渉の成果は様々で、中には何十年も停戦が続いているもの(例えば、モン州やチン州、ワ州など)もあれば、(カチン州など)不安定で、紛争が繰り返される例もある。だが、これらの停戦協定は単なる紳士協定に過ぎず、紛争を煽る不満を和らげるための、政治体制の変化に向けたさらなる交渉にはつながらなかった。しかも、国民アイデンティティや、少数民族の包摂という概念についての議論も行われず、多数派ビルマ族の象徴的な中心性がそのままとなった。これと同時に、少数民族は(認識上、事実上の)「ビルマ化」政策を、自分たちが必死に闘って守ろうとしているアイデンティティの存続を脅かすものと理解した。 和平プロセスの第一段階(2010—2015) 2010年に政治的自由化(political opening)が開始された後、軍政寄りの連邦団結発展党(USPD)が当選を果たし、1962年以来の準文民政権として権力を握った。当時、USDPが実行した多くの改革には、少数民族地域の鎮静化という新たな試みがあったが、同党はこれに全く新たな手法で取り組んだ。すなわち、以前の和平交渉の多くが臨時的で、現地の国軍司令官とEAOsの個人的な会談だったのに対し、新たな交渉は閣僚級の担当者を中心とした、はるかに組織的な会談だったのだ。 さらに、政府の交渉責任者(ウー・アウン・ミン元中将: U Aung Min, a former Lieutenant General)は、誠意を持って会談に臨む気があるなら、どのような武装勢力とも無条件で会うつもりだと表明した。また、彼が自分の善意の証として、交渉に備えて設立したミャンマー平和センター(Myanmar Peace […]

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ミャンマーの民主化運動

ミャンマー(当時はビルマといった)には、1948年の独立から1962年のクーデターまでの短期間、民主主義の時代があった。以来、50年近くにわたり、国軍(現地ではタトマドー: Tatmadawという)は、ほぼ絶対的な権力を手にした。だが、2010年には予想外に政治的・経済的自由化が始まり、これが10年間、軍事政権と後続する文民政権との間に権力分担の時代をもたらした。まず2011年から2015年までは、軍政寄りの連邦団結発展党(Union Solidarity and Development Party: USDP)が、次に国民民主連盟(the National League for Democracy /NLD)が政権を取った。この民主改革のペースは、よく言っても控えめだったが、この比較的開放的な10年間は、政治規範を大幅に改革し、より良い未来への期待を国民、特に若年層の間で高めた。 ところが、この改革は、2021年2月1日に突如として終わりを迎える。2020年11月選挙でNLDが圧勝してから3カ月も経たない内に、国軍がクーデターを起こし、国家行政評議会(the State Administration Council: SAC)を介した軍事支配を完全に復活させたのだ。これに続く数週間には、広い範囲で民主化運動が展開されたが、国軍はこれを暴力的な弾圧によって迎えた。このため、ついに民主化運動の要望は、クーデター前の原状回復から、国軍のミャンマー政界からの完全な追放に変わってしまった。 この記事では、ミャンマーの民主化運動について簡単な分析を行う上で、この運動を三つの中心的な要素から成るものと捉える。つまり、この三大要素とは、大規模デモ、市民不服従運動(the Civil Disobedience Movement: CDM)、そして連邦議会代表委員会(the Committee Representing the Pyidaungsu Hluttaw: CPRH)および国民統一政府(National Unity Government: NUG)だ。また、少数民族の特殊な役割についても検討しよう。なお、今回の運動を以前の運動と全く異なるものとしながら、以前の対立と変わらない点は、軍部の圧倒的優位が民主化運動の力を削ぎ、決め手となる成果を出せなくしている事だ。このため、対立が長引き、多大な損害をもたらして、最終的には無残な膠着状態に陥る結果となる可能性が最も高い。 歴史的背景 民主化を要求する様々な形の圧力をものともせず、国軍は、2011年までの半世紀に国家をほぼ完全に支配した。この軍政の息の長さには、いくつかの要因がある。そもそも、国軍は、その存在の初めから現在まで、絶えず進行中の紛争に関与してきた世界で唯一の近代的軍隊だ。しかも国軍は、ミャンマーの建国に中心的な役割を担った事から、自らを国家の体現者と見なし、敵対者を反逆者と見なすようになった。また、教育から医療までの様々な分野にはパラレルな機構が幅広く存在し、これが軍事関係者と一般市民の交流を制限している。つまり、これらの事情が、国内の脅威と見なされる民主化運動や少数民族などに対し、国軍に過激な手段を取らせているのだ。 その後、2010年には政権移行が開始されたが、国軍の影響力はしっかりと護られ続けていた。2008年憲法は国軍の自律性を保証し、国軍に国会の4分の1の議席を割り当て、内務省や国防省、国境省などの主要閣僚の支配権も付与した。しかも、国軍は事実上、臨時的な権力分担の取り決めを確立させたものの、これには意図的に曖昧な条件が付けられていた。 そうだとしても、USDP […]

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アイデンティティと社会的包摂

アイデンティティと社会的包摂をめぐる問題は、ミャンマー社会における長年の争点だ。ミャンマーは民族言語学的に世界で最も多様な国の一つで、公式に認められた少数民族は135、その言語は約107種ある。それに、ミャンマー国境内では数多くの宗教団体が共存し、仏教徒(87.9%)や、キリスト教徒(6.2%)、イスラーム教徒(4.3%)、ヒンドゥ教徒(0.5%)、および精霊崇拝者(0.8%)などがいる。このような状況の中、対立をもたらす植民地支配の遺産と、多数派ビルマ族優位の歴史が民族や宗教の断層線(fault lines)を形成し、今日も社会を分断し続けている この記事では、準民主主義的統治の行われた2011年から2021年までの10年間に、アイデンティと社会的包摂がどのように展開したかについての概要を述べる。まずは、軍寄りの連邦団結発展党(Union Solidarity and Development Party: USDP)下での状況を述べ、次に、国民に選挙で選ばれた2016年以降の国民民主連盟(National League for Democracy: NLD)政権下での状況を述べる。ここでは、エスニシティ、宗教、ジェンダーおよび性的志向という三つの面に沿って社会的包摂性の概念を構築する。また、慎重な楽観論では、準民主政権がミャンマーに一段と高い社会的包摂性をもたらすとしているが、そのような進展はまだ限られたままだ。だが、2021年2月1日の軍事クーデターには、新たな転換点となる可能性がある。というのは、このクーデターによって、以前なら乗り越えられなかった分裂を超え、新たな連帯が構築されたからだ。だとしても、複数のステークホルダーが次第に緊迫感を増す状況の舵取りをする上は、当初の連帯が持続するものとなるかどうか、今はまだ分からない。 ミャンマーの歴史背景におけるアイデンティティと社会的包摂 植民地支配(1824-1948)の下では、英国による分割統治政策が、多数派のビルマ族と少数民族を対立させた。それに、独立後の激動の時代には、人々を結束させる国民アイデンティティも無いまま、複数の少数民族が自治権拡大を求める闘いの中で、少数民族武装勢力(Ethnic Armed Organizations: EAOs)を結成した。さらに、1962年の軍事クーデター後には、民族的・宗教的マイノリティに対する国家的な抑圧が強まった。その後、軍事政権は1982年ビルマ国籍法(the 1982 Burma Citizenship Law)を採択し、これが現在も改正されずに、ムスリムやヒンドゥ教徒、華人などの集団を差別している。事実、これらの集団は、ミャンマーの原住民(Taing Yin Thar)ではないとの理由により、完全な市民権を認められていない。特にムスリムは、殊さら差別の標的とされ、政府や軍の職を追われた。また、1990年代の大規模な軍事攻撃の際には、軍部が特定の少数民族の集団を優遇する一方、その他の集団を厳しく弾圧した。さらに、軍政支配下での差別はジェンダー差別にも及んだ。そもそも、タトマドー(Tatmadaw :いわゆるビルマ軍)は昔から、女性指導者をタブー視してきた。例えば、国軍の最高幹部が重んじる、「雌鶏ではなく、雄鶏の鳴き声のみが夜明けをもたらす」というビルマの格言には、国家は男性が統治する場合のみ強くなれるという意味がある。また国軍は、スパヤーラット(Suphayarlat)女王の無分別な統治が、英国によるビルマ帝国の植民地化をもたらしたという話を捏造し、無能な女性指導者のナラティブを広めた。このような事情から、軍が公布した2008年憲法では、一部の重要な閣僚ポストが男性のみに割り当てられている。また、女性が兵役に就く事は、ごく最近になって、ようやく認められたが、軍部にも政府にも、地位のある女性はごく僅かしかいない。 USDP(2010-2015)とNLD(2016-2021)政権下での準民主的統治への移行  —社会的包摂性に向けた、わずかな進歩 民族の包摂 2011年の民政移管後、連邦団結発展党(USDP)政権は、少数民族の異なる集団間に分割統治的な手法を用い、包括的な和平交渉の前段階である全国停戦合意(the Nationwide Ceasefire Agreement: NCA)から一部の少数民族武装勢力(EAOs)を排除した。しかし、2015年選挙でNLDが政権を獲得すると、民族のさらなる包摂と平等な待遇への新たな期待が高まった。なぜなら、NLDの選挙公約では、政治対話を行って民族紛争の根本原因に取り組む事、平等な権利と民族自決、資源共有の原則に基づく真の連邦制国家に向けて努力する事が誓われていたからだ。ところが、NLDは政権の座にあった5年間に、この公約を大して実現できなかった。後に、NLDはこの失敗を正当化し、2008年憲法による制約のせいだと主張した。 だが、少数民族の視点から見ると、常にビルマ族の多数派が国家統治機構の中心となるべきとするNLDの民族至上主義的な信念に、この失敗の原因があった。他にも、NLD政権と国軍の緊密な関係、両者が早急な憲法改正に乗り気でない事や、少数民族との平等な権力分担に関する憲法条項の改正に反対している事なども、少数民族の指導者から批判されている。 宗教の包摂 1962年以降、仏教は、もはや国教ではなくなったが、2008年憲法361条は、仏教がミャンマー社会における「特別な信仰である事」を認めている。その結果、歴代ミャンマー政府は他の宗教集団を顧みず、仏教を優遇し続けてきた。この政府による仏教の優遇には、宗教的共生を地域社会や個人のレベルで妨げる政策や法律、実践が含まれる。その分かりやすい例の一つに、礼拝施設の建設をめぐる、様々な宗教集団への不公平な待遇がある。例えば、仏教徒なら、仏塔や寺院など、どんな宗教施設でも、気に入った場所に自由に建てる事ができる。だがこれに対し、キリスト教やヒンドゥ教、イスラーム教の団体は、既存の礼拝施設を改修するにも、新たな建物を建てるにも、許可を得るのを困難に感じている。 これまで、USDP政権(と国軍)は、右翼活動家のネットワークや団体を動員し、自ら仏教ナショナリズムを扇動してきた。この例には、仏教徒ナショナリストの969運動(the […]

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世界における2020年以降のミャンマー —争われる正当性と改革

近年、ビルマ(ミャンマー)の外交政策と、その世界におけるポジションが世間の高い関心を集めている。長年、ミャンマーの外交政策は、正当性を主張し、争い、否定し、あるいは授ける手段となってきた。特にこれが当てはまるのは、1962年と1988年のクーデター後の状況だ。当時、並立した政権が軍事政権に対し、自らの正当性を主張したが、軍政によって退陣させられるか、国民から寄せられた信任を無効にされるかのどちらかとなった。だとしても、外交政策に変化が生じた複雑な10年間(2010年~2020年)で、ミャンマーと国際社会の関係の正常化には、ある程度の成果が上がった。だが、2021年2月1日に軍事クーデターが起きた今となっては、先行きの見通しが立たない。ただ、軍部の容赦ないデモ弾圧の後に生じた反クーデター運動の反響から、外交政策の重要性が明らかになった。しかも、外交政策は、軍政にとっても、クーデターや軍事支配に反対する民主派勢力にとっても等しく重要だ。 この記事では、国家行政評議会(the State Administration Council: SAC)による軍政と、国民統一政府(the National Unity Government: NUG)が幅広く代表するミャンマーの様々な反軍政勢力が、外交政策を用い、国民の認める正当性や(あるいは)、政治的な正当性を主張する動向を論じる。そのために、まずは正当性をめぐる過去の外交政策の類似した動向を分析し、次に、ポスト2020年選挙のシナリオにおける文民政権の新たな選択肢について分析する。そして最後に、2021年2月のミャンマー軍事クーデター後の不確定要素を分析し、締めくくりとしたい。 外交政策の過去と現在 独立、積極、中立を旨とした外交政策は、ミャンマーがこれまで国際社会との交流に用いてきた一つの常套手段で、この政策は一貫して変わらなかった。また、1962年以降の歴代軍事(独裁)政権下では、外交政策の駆け引きをする機会も限られていた。これらの理由から、ミャンマーの多くの国民は、自国とその他の世界の国々との関わり方について、おおむね(よく言えば)中立的で、(悪く言えば)無関心なままとなった。 最初に軍事支配を敷いた1962年のクーデターを、外国勢力は、冷戦時代の地政学的懸念から生じたものと考えた。そこで、彼らは当時、軍政からの外交政策の申し出を割り切って受け入れた。だが、これと対照的に、1988年から2011年に権力を握った国家平和発展評議会(the State Peace and Development Council: SPDC)はパーリア国家となり孤立した。このため、SPDCは外交政策やパブリック・ディプロマシーに取り組み、正当性を獲得しようと努めたが、これは失敗に終わった。 そこでSPDC政権は、対外経済関係を拡大させ、欧米諸国によって課された制裁に対抗しようと、アジア全域、特に東南アジア諸国連合(ASEAN)の域内で、二国間関係の強化を目指した。 ところで、2008年にSPCDが軍部の起草した憲法の施行を見届けた時期は、平和的なデモの容赦ない弾圧から、わずか6カ月後、あるいは、壊滅的な被害をもたらしたサイクロン・ナルギスが、国内の米作デルタ地帯を襲った直後にあたる。当時、災害および人道支援の調整には、ASEANが中心的役割を担っていたため、軍の将校たちは、国際人道支援団体の活動の余地を設ける事を承諾した。また、これはミャンマー政府の高官にとって、改革に向けた能力を高める新たな手法を学ぶ機会ともなった。 同様に、軍政の「改革」に向けた取り組みに対し、国際社会からのさらなる譲歩を引き出す努力の一環として、軍部は当時の野党党首、アウンサン・スー・チー女史(以後、スー・チー氏)の断続的な自宅軟禁を解除した。これは2010年11月に、10年余年ぶりの投票が行われた数日後の出来事だった。さらに、軍の影響下にある準文民政権、連邦団結発展党(the Union Solidarity and Development Party: USDP)が選挙に当選し、広範囲にわたる政治・経済改革のプロセスが開始され、国内外を驚かせた。この出来事は、比較的自由で公正な2015年選挙の礎となり、その選挙では、スー・チー氏率いる国民民主連盟(National League for Democracy: NLD)が圧勝し、同氏を代表とする与党が、ミャンマーで半世紀以上ぶりとなる民選政府を樹立した。 以降、スー・チー氏は、過去に利益をもたらした国際社会への復帰政策を進めていった。2016年9月には、同氏がこの政策をさらに色付けし、民間人を中心とした外交の焦点を強調し、労働移住など、人間の安全保障の問題を提起して、さらなる人的交流を推進した。この民間人を中心としたアプローチの主な動機は、在外ミャンマー国民を巻き込み、彼らの協力を得る事にあった。つまり、NLD支持者が大半を占める海外在住のミャンマー市民からの支持を確認した上で、ミャンマーの国際的な「イメージと尊厳」を回復しようとしたのだ。 この展開は、ミャンマーが自国の殻を破り、思うままに世界と関わりを持つ用意が整っていた事を示していた。だが、この好調な出だしは長続きせず、2016年と2017年のアラカン・ロヒンギャ救世軍(the Arakan […]

Issue 30

環境に未来はない?タイにおける最近の学生主導デモと環境政策(の不在)

2020年8月16日の夜、ラチャダムヌン(Rajadumneon)通りの民主記念塔周辺の路上に様々な人々が集まり、軍部主導のタイ政府に対する抗議が行われた。このデモを主導していたのは、大学生や中高生などの学生だ。これにアーティストやラッパー、コメディアン、作家、漫画家、歌手、そして会社員や若手フリーランサー、工場労働者、小規模事業者、研究者、さらにはイサーン地方各県の元赤シャツ隊員までもが、このデモに加わった。デモのメインステージでは、青年活動家の活発なパフォーマンスやスピーチが行われていた。また、デモ隊が占拠する路上では、さらに多様でクリエイティブな活動が行われ、民主主義の要求以外にも、社会問題や日常生活、この国の将来に関する政治的な要求が示された。 「人民解放団(フリー・ピープル/“Free People” /ประชาชนปลดแอก)」の同盟団体による最近の民主化要求デモは、タイの現代政治を理解する指標として重要な出来事だと思われる。このように、街頭デモが政治の表舞台を占拠する様子は、1990年代を彷彿とさせた。これらのデモは、バンコク中心部の民主記念塔をはじめ、全国各地の多くの県の、さまざまな大学や学校、公共施設でも生じている。これは、この数十年の間にタイ民主主義が後退する中で、社会運動が再び、漸進的な変化を要求する役割を担う可能性を示している。 1990年代には、農民団体やスラム地区の活動家、反開発運動の活動家、労働者支援の活動家、それに環境保護主義者などの様々な運動があった。これらの運動は、新たにタイの政治的空間を切り開く事を促し、また、この空間に立脚した運動でもあった。特に、これらの運動と環境政策との密接な関連は、これらの運動が、単に特定の環境被害の軽減を目指しただけでなく、民主主義の深化も促していた事を示す。 ここで、市民の活動、運動、活動家や参加者の多様性を考えると、現在のデモで、環境政策がこれ程までに重視されていない事には興味を覚える。ことに、若手活動家に関してはこれがあてはまり、彼らの環境政策や開発関連の問題に対する取り組みは限られている。それに、以前の民主主義デモの時代に、開発と環境がいずれも中心的な問題であった事を思うと、さらに驚きを感じる。一体、環境運動に何が起きたのだろうか?そして、今後、タイの民主主義を形成していく上で、この運動はどのような位置を占めるのだろうか? 青年解放団(Free Youth)から人民解放団へ 人民解放団は、主に民主主義や人権、透明性、その他の社会問題の改善と推進に取り組む反政府的な政治運動だ。この運動は、プラユット・チャンオチャ将軍率いる現政府に対して、真正面から批判を加えた。プラユットによる釈然としない選挙や国会操作、非効率的な政権運営、それに透明性の欠如は、どう見ても、現政権の正当性が疑わしい事を示している。 この運動は、学生たちの小規模な団体から始まり、2019年の後半には「青年解放団」と呼ばれるようになった。この青年解放団の指導者は、権利や自由を求めて運動を行っていた。やがて、同運動はツイッターやFacebookなどのソーシャルメディアを通じ、より広い注目と支持を集めるようになった。当初は学生を中心とした運動だったが、後に様々な分野の人々が加わった事で、運動の裾野と目標の範囲が広がった。その後、青年解放団は人民解放団となり、いわゆる「3項目の要求、2つの原則、1つの夢(”3 Demands 2 Standpoints and 1 Dream”)」を活動の中心に据えた融和的な協力団体のさまざまな運動を包括する事となった。 ここでいう、「3項目の要求」とは、以下を指す。 政府は民主的な権利と自由を行使する国民に対する嫌がらせを止めなければならない。 政府は民意に基づく新憲法の作成プロセスを容認しなければならない。 政府は「国会を解散させ」、自由で公正な選挙を通じ、国民が再び意思表明を行う事を認めなければならない。 また、「2つの原則」とは、(1)いかなるクーデターの試みにも反対する事、(2)政治的な閉塞状況を打開し、政府の正当性の欠如を正す中央政府を形成する事。 最後の「一つの夢」は、真の立憲君主制の実現だ。同団体によると、国民が絶対的な主権を有する民主主義体制の憲法プロセスの下で、このような夢が実現されるという。 人民解放団は政治的変化を重視するが、その活動は制度政策のみを求めるものではない。むしろ、彼らは活発な運動によって、様々な社会的ミッションを一つの公共空間の下で、まとめてきたのだ。そのため、デモ現場を歩けば、LGBTQの権利や同性婚、女性が中絶を行い、性的同意を表明する権利、教育改革など、人々が様々な社会・政治問題に関する運動を行っている事に気が付く。例えば、ムスリムの若者は、この機に乗じて、タイ最南部県の安全保障政策に透明性と文化的相違の尊重を盛り込む事を要求し、労働組合は不平等な労働条件を指摘し、社会保障を要求している。また、人民解放団のメンバーは、民主主義社会における自由で独立したマスコミの重要性も強調している。 このように多様な立場がある中で、環境政策の果たす役割が限られている事は衝撃的だ。この環境運動の欠落から、今後の民主主義国タイで環境政策が果たす役割について、何が分かるだろうか?   民主主義と環境保護をめぐる緊張感 現代の若者世代の間に、有意義で積極的な環境保護運動への取り組みが欠けている事を理解するには、いくつかの周辺事情に目を向ければよい。 1990年代には、開発の影響下にある村人と手を組んだNGOが、環境政策を主導していた。大半の環境政策は地元主導型で、「地域文化」を保護する目的の下で形成されたものだった。また、タクシン・チナワット政権は、数々の政策を通じて、これらの団体の中核を担う有権者を、自身の中央政府との建設的関係に持ち込んだ。タクシン政権は、全国的な経済機会の改善や、教育改革、村民生活の改善、農村部での天然資源の管理などに力を入れていたのだ。この政策に惹かれた村人たちが、以前に手を組んでいたNGO活動家の元を去ったため、一部のNGOの間で不満が生じ、都市部の中産階級とこれらのNGOが結びつく事となった。結果、この中産階級が反タクシン政治運動の一翼を担い、2006年の軍事クーデターを引き起こしたのだ。 タクシン政権が2000年代初頭にもたらした変化によって、新世代の人々は民主主義の政治や政策が提供しうる機会に気が付く事となった。この事態は、教育や技術、創造的経済(creative economy)、その他の社会福祉などの分野で見られる。また、この変化はタイの政治構造の脆弱性も浮き彫りにした。このため、多くのタイ人、特に若者世代にとって、民主主義は次第に、現地の状況に即した環境運動や地域文化に取って代わる存在となっていった。 また、環境NGOや農村部の村人が展開する主張と、若者たちの関心や状況との間には、隔たりがあったように思われる。これは何もバンコクの若者に限らず、デモの一部が行われた、チェンマイ県やコーンケーン(Khon Kaen)県、ウボンラーチャターニー(Ubon Ratchathani)県などの若者についても言える。それに、タイの環境NGOの活動は、農村部に拠点が置かれ、これに携わるのは排他的なメンバーや同盟者であった。1990年代以降、農村部の村人の動員は、これらの運動の中核戦略の一つとされてきた。確かに、彼らの環境に関する知識の生産や主張は、進取の気概に富んでいる。だが、これらは既存の政府を対象とし、地域運動を支えるものではあるが、より多くの人々に環境問題を伝えたり、民主化と環境保護を結び付けたりする、より大きな構造の問題に取り組むものではない。要するに、環境保護運動の大きな失敗は、この運動の政治的主張を、バンコクの人々の目に見える形にできなかった事、そして、これをより若い世代の活動家にとって、現実味ある問題とする事ができなかった点にある。そもそも、デモを行った若者は、1995年から2005年の間に生まれた人々なのだ。彼らが育った時代といえば、民主主義に対する憧れや、街頭デモ、軍事クーデターが挙げられる。つまり、今回のデモに参加した若者の大半は、現在の軍事政権の下で成人を迎えた者たちなのだ。 タイで生き残っている環境NGOは、この10年間、困難な状況に陥っている。どうやら、彼らの環境保護の使命を継ぎ、支持する事に関心を抱く若者の数が限られているようなのだ。そうだとしても、この世代の人々が環境問題を気にかけていないという事ではない。ただ、この政治の新時代に、環境運動をより現実の政治に直結した運動とするには、より幅広い同盟関係の構築と、より大きな政治的分野との関わりという点で、戦略の立て直しが必要となる。おそらく、今号のベンチャラット・セー・チュア(Bencharat Sae […]

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環境運動と道徳政策 ——タイ軍事政権下(後?)の環境運動を振り返る

我々の運動は政治的なものではない」。 公開討論会であれ、私的な会合であれ、タイの環境保護活動家が、これと似たような主張をするのを著者は何度も耳にした。特にこの主張が目に付くのが、最近のタイの三大環境運動だ。具体的には、メーウォン(Mae Wong)・ダム反対デモ、タイ人実業家による野生の黒ヒョウ殺しの事件に端を発する反密猟デモ、そして、ドイ・ステープ(Doi Suthep)国立公園内に予定されていた裁判官宿舎の建設計画反対デモだ。なぜ、タイの環境運動は、これほど声高に政治性の否定に熱弁をふるうのか?そして、このように政治的要素が抜かれた環境保護主義は一体、何をもたらすのか?また、環境保護の主張は、タイで益々議論が生じる状況の中で、どのように変化していくのか?本論では、これらの疑問点を検討する事で、環境運動の非政治化の影響を考えると共に、タイ民主主義の目的と、これらの運動とを合致させる、より政治色の濃い環境運動をもたらすには、どのような手段があるのかを考察する。 環境運動の非政治化 環境運動の非政治化が一般的となった背景には、2014年5月のクーデター以来、2019年7月まで、タイを支配した軍政の国家平和秩序協議会(the National Council for Peace and Order, 以下NCPO)の存在があった。つまり、全ての活動家が軍政の下で、自分とコミュニティを相当な危険にさらして政治運動に取り組む事になったのだ。そのような抑圧的な状況の中で、彼らが各自の運動の重要な主張と、より大きな政治的主張との間に距離を設け、安全を確保しようとした事は理解できる。だが、疑わしい接戦の選挙を経て、NCPOに代わって支配を続ける現政府の下でも、環境保護主義者はなお、非政治化宣言を続けているのだ。この一貫した態度から明らかとなるのは、戦略的な駆け引きだけではない。それ以上に、環境保護主義者のより大きな政策形成の根本を成す信念が浮かび上がってくる。それは、イデオロギーでないにせよ、信念であり、これが明らかになる事で、彼らの運動形成の方法も見えてくる。 タイの環境運動の大半は、環境保護を中心としたものではない。むしろ、これらの運動は、生計に対する権利や、天然資源へのアクセス権の問題を、環境保護をめぐる問題に結びつける運動なのだ。なぜこのような事になったかと言うと、環境保護と(あるいは)天然資源の保全を目的とした運動の方が、生計や資源に対する権利の問題に取り組む運動よりも、一般的な認知度を高めやすく、支持を集めやすいからだ。 このような運動の好例として、ナコーンサワン(Nakhon Sawan)県のメーウォン・ダム計画に対する反対運動がある。以前、タイの環境政治は2000年代半ばのより重大な政治紛争の下で一括りにされていたが、2013年には、この反対運動がタイの環境政治を再び活気付ける事となった。かつての反ダム運動は、現地の地域社会の生計に対する潜在的な影響を重視していた(また、それ故に中産階級の支持を多く集められなかった)。だが、これとは違って、メーウォン・ダム反対運動の主張の軸に据えられたのは、タイで最後の野生のトラ個体群の一部が生息する原生林の保護であった。この運動は、都市部の中産階級から幅広い注目を集めた。さらに、この運動は一部の人々にとって、過去10年間の環境運動を象徴するものとなった。 また、2018年の初頭に、これとは別の二つの非政治化された環境関連の事例が、大ニュースとなった。一つ目の事例は、トゥンヤイ・ナレースワン(Thungyai Naresuan)野生動物保護区内で、タイ人大物実業家が行った野生動物の密猟に対して起きた運動だ。当時、密猟者と、彼らが殺した希少な黒ヒョウの皮のグロテスクな写真に対し、この運動は説明責任を求めた。多くの人々は、猟を行った有力者が起訴を逃れるだろうと思っていた。このようにして、このデモは訴訟手続きの腐敗や、野生動物の保護に対する関心を呼び起こした。また、チェンマイ県、ドイ・ステープの保護林に侵出する裁判官宿舎計画をめぐっても、抗議者は同様の懸念を表明した。この二つの事例は、厳格な森林保護を要求する市民のデモや運動を引き起こすと同時に、汚職と権力の乱用が、環境破壊とどのように関わっているかも浮き彫りにした。 [Update]: Prosecutors said on Wednesday they are seeking to indict the president of #Thailand’s largest construction company, […]

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環境のジェントリフィケーションと環境独裁主義 ——軍部主導政府下のタイにおける運河の改修

洪水はタイに重大な環境課題を突き付けている。複数の県では、ほぼ毎年、洪水による影響が出ている。例えば、ほんの一時間、普通の雨が降っただけで、バンコクとその郊外には洪水が生じかねない。また、タイ政府による洪水防止事業の多くには、運河沿いで暮らす地域住民の立ち退きが伴う。たとえ、洪水には複雑な原因があったとしても、これらの集落は多くの場合、水の流れをせき止める存在として非難されている。本論では、ポリティカル・エコロジー(political ecology)の観点に立ち、運河と洪水、都市貧困層の対立的関係の分析を行う。ここには、2014年のクーデター以降、軍部主導の政府が運河沿いに暮らす地域住民の立ち退きにポスト災害理論を適用し、これを徹底的に実施してきた様子を示す。これらの対策を支持しているのが、バンコクの中産階級の住民で、彼らは自宅周辺にある都市貧困層集落の存在を快く思っていない。つまり、軍事政権の下で運河沿い集落の立ち退きが生じたのは、いわゆる環境のジェントリフィケーションと、環境独裁主義という二つのプロセスが重なった結果なのである。この「環境のジェントリフィケーション」という言葉は、環境を改善させるという理由によって、都市貧困層を退去させる過程を指す。 また、後者の「環境独裁主義」という言葉は、貧困層による権利主張を無視し、環境事業に着手できる独裁主義政権の環境保護への取り組み方が、民主主義政権のやり方と異なる点を、問題として提起するものだ。 運河沿いの地域住民をめぐる長年の交渉 バンコクが洪水を回避する事は困難だ。なぜなら、この街はチャオプラヤ川の河口に位置し、市域の大部分が海抜以下の低地なのだ。かつて、バンコクと近隣他県が洪水をしのげたのは、河川や運河のシステムが、雨季の間の排水に役立っていたからだ。だが、急速な都市化のせいで、このシステムが破壊されている。都市化によって、一般道や高速道路、ビルが建設され、運河の数や規模が縮小されているのだ。これに加え、バンコクの公式な人口は、1960年の215万人から、2020年には1,053万9千人にまで増加した。つまり、バンコクの全体的な排水機能が低下した原因を、運河沿い住民が水の流れをせき止めている事のせいだけには出来ないのだ。むしろ、より大きな社会的・環境的変化の一連のプロセスの一環として、この排水機能の低下を捉える必要がある。 洪水防止の目的で、運河沿いのスラム地区住民を退去させる事が正当化可能か否かをめぐり、タイでは長年、交渉が行われてきた。確かに、運河システムを自然のままに保とうとする環境保護の視点で見れば、運河沿いに人間が定住する事は禁止されるべきである。また、一部の政府機関、中でも、バンコク首都圏庁灌漑下水局(Department of Drainage and Sewerage of the Bangkok Metropolitan Administration、以後BMA)は、技術的な観点から、運河を拡張すれば水の流れを早める事が可能だと主張する。そのため、水路を塞ぎ、バンコクの洪水を引き起こす運河沿いのスラム地区を移転させるべきだと、これらの機関は主張している。 この見解の結果、バンコクで1983年に大洪水が発生した後で、バーン・オー(Bang Oo)集落の強制退去という行動が生じた。このバーン・オー集落は、バンコク、プラ・カノン(Phra Khanong)地区のバーン・オー運河沿いに位置し、チャオプラヤ川へ流れ込む水をせき止め、バンコク全域に大洪水を引き起こしたと非難された。この問題認識を受け、200名の武装した警察特殊部隊が、バーン・オー集落80世帯の家屋を乱暴に破壊し、これに対処した。その後も、洪水は常にバンコクの問題であり続けたが、1983年のような深刻な事態には至らなかったため、BMAは次に露店商や交通渋滞に注意を向けた。このため、運河沿い集落の立ち退き計画は棚上げとなった。 ところが、この運河沿い集落の強制退去の問題は、ピチット・ラッタグン(Bhichit Rattakul)知事の政権期(1996-2003)に再燃する事となった。同知事は、バンコク中産階級の間で人気があった。これは、バンコクを住みやすい都市にしようとする知事のキャンペーンと、彼に環境汚染を懸念する人物とのイメージがあったおかげだ。ピチットは、バンコクに緑地を増やし、運河の水質を回復させると公約していた。この彼のキャンペーンが、中産階級の人々の想像力をかき立てた。人々が思い描いたのは、日本の京都のような先進国のイメージで、その運河はきれいな水をたたえ、両側にはスラム地区ではなく、木影のある遊歩道がある…そんなイメージだった。そこで、ピチット知事がこの公約を実行に移そうとしたところ、運河沿いに暮らすスラム地区の住民を、地区職員の一部が強制退去させる事態が生じたのだ。 これを受けて、スラム地区の住民と彼らの協力者である非政府組織(NGO)や研究者などは、スラム地区の住民が運河を汚し、洪水を引き起こしたとする非難に反論した。また、1998年9月1日には、スラム地区の全国ネットワークで、タイの4地域全てを網羅した「4地域スラム・ネットワーク(Four Regions Slum Network、以後FRSN)」の率いるスラム地区住民、約1,000人がBMA事務局前でデモを行った。このデモ隊は、運河沿いに暮らすスラム地区の住民が、水路にゴミを捨て、洪水を引き起こしたのではない事を主張した。それどころか、ゴミは他所から流れてきたものであり、スラム地区の住民が一丸となって行動し、運河のゴミ掃除をしたと、彼らは強く主張した。つまり、彼らの主張は、スラム地区の住民が実際には運河の改善に力を貸したという事、そしてBMAは洪水を地域住民のせいにするのを止めるべきだという点だ。さらに、FRSNは「集落の住民は運河沿いで生活してもよい」という重要な言説を持ち出し、タイの村人が何世紀にもわたって運河沿いで生活してきた事情を指摘した。この運動の結果、ピチット知事は地域住民の要求を受け入れ、住民が運河沿いで暮らせるようになる事、「立ち退き」という言葉が辞書から削除される必要があると告げた。以降、ピチットの在任期間に、さらなる「立ち退き」が行われる事はなかった。 このピチット知事の対応は重要なものであった。さらに、FRSNは同知事の写真と公約を載せたポスターを制作し、これを地域住民に配布して、地区職員に立ち退きを迫られないよう手を打った。この地域住民の反論と、ピチット知事の決断が示している事は、技術的知識のみに依拠した環境管理は不可能であり、人間の居住地と環境との社会的関係も考慮する必要があるという事だ。また、この出来事は、人間の居住地と環境との関係性を調整する際に、民主的な政治が重要である事を浮き彫りにしている。つまり、ピチット知事は選挙で選ばれた議員であり、中産階級と都市貧困層の両者と折り合いを付けなくてはならなかったのだ。ところが独裁主義の時代に、この状況が劇的に変化する事となった。 軍事政府下での運河の改修 この運河沿い住民の移住計画は、1998年に中止された。ところが、2011年に大洪水がタイを襲い、815人が死亡、1,360万人がこの影響を受けた。この後、BMA灌漑下水局は、バンコクにある9つの主要な運河沿いの住民を退去させる新計画を提案し、これが12,307世帯に影響を及ぼした。ただし、この計画は、民主的に選ばれたインラック・シナワトラ政権に代わり、2014年5月22日に、プラユット・チャンオチャ将軍が権力を掌握するまでは実施されなかった。 この軍政の指導者は、民主的に選ばれた政府が、政治紛争を抑えられなかったために、やむを得ず政府を転覆させたと主張した。プラユット将軍が強調したのは、このクーデターが、秩序の回復を通じて、タイに治安をもたらすものだったという点だ。そこで、政府はこの目的を果たすため、18の緊急政策を発表した。この政策には、歩道の秩序回復や、バンを使った輸送の整備、森林再生、それに運河の改修が含まれていた。つまり、洪水防止目的での運河沿い集落の立ち退きは、軍部が政治的秩序を回復しようとする、様々な取り組みの中で分析する必要があるのだ。また、「運河沿い集落の秩序化」という表現には、運河に侵入した集落が、環境にも政治にも悪影響を及ぼすという含みがあった。 当時、政府高官は、ラードプラオ(Lad Phrao)運河の場合と同じように、同政策の肯定的な見解しか説明しなかった。このラードプラオ運河の事例では、多くの地域住民が政府の計画に協力し、運河上から運河脇の土地へと自宅を移動させていた。だが、この運河の例は、住民が元々家のあった場所の近くに自宅を再建する事が認められた唯一の事例である。また、ラードプラオ運河沿いの住民は、政府に協力した事で、退去させられた家屋一軒あたり8万バーツという、比較的手厚い補償も受けている。しかも、彼らは政府の後援する住宅環境改善事業(Secure Housing (Ban Mankhong/バーン・マンコン) Project)に参加できたため、この恩恵にもあずかっていた。 だが、その他の運河沿いの住民は退去に際し、政府の特別な施策の恩恵を得る事がなかった。例えば、クローンサームワー(Khlong […]

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イサーンにおける灌漑——東北部のアイデンティティと水政策

本論では、タイ東北部(イサーン)の水政策が、この地域の地理条件や人々をどのように結び付け、イサーン人の従属的政治アイデンティティを生み出し、助長し、時には、挑戦しているのかを考察する。灌漑とダム建設は、タイ東北部とタイ中央政府との不均等な関係を維持する上で、絶対不可欠な存在だ。そもそも、水政策は社会的に中立的な政策ではない。むしろ、これは暑くて乾燥したイサーンの地理的特性を、イサーン人が後進的で劣った反体制派だ(ゆえに、より厳しく統治する必要がある)とするイメージに結び付ける政策なのだ。 タイ東北地方のイサーンには、20の県が存在する。この地方は、タイ最大の地域であり、その約2,200万人の住民は全国の総人口の33%を占める。この地域の人々、コーン・イサーン(khon Isan/イサーン人)は、主にラオ語の話者である。だが、タイ史のどの時代にも、イサーン人は無教養で後進的な人々との烙印を押されてきた。その原因は、民族主義的な社会のヒエラルキー構造にある。また、イサーンはタイで最も貧しい地域であり、1人当たりの国民所得は最低レベルだ。それにイサーンの大地は、砂で覆われ、酸性、不毛を特徴とし、これが農業経営を困難にしている。このため、同地域からバンコクに送られる出稼ぎ労働者は、タイの他の地域よりも多い。 大規模な水インフラは、干ばつに強いという口実でこの地域に売却され、二毛作を促進してきた。これらの政策は、100年近くの間、イサーンにおける政府の重要政策となっている。東北地方の政治家は、しばしば、このような政策がコーン・イサーンに水を供給し、生活と収入を向上させると言っている。だが大抵、中央政府と全国の政治家は、水政策を貧困からコーン・イサーンを「救う」手段であり、イサーン政治を支配する方法と位置付けている。とはいえ、後述するように、コーン・イサーンは受け身のアクターではない。むしろ、彼らは常に水管理をめぐって政府と闘ってきたし、そのような闘いを通じて、しばしば、自分たちの従属性に異議を申し立ててきた。この地域の水にまつわる歴史を分析する事で、どのように水政策が、コーン・イサーンを後進的とするイメージを生み出しているかが分かる。さらには、この分析によって、水政策がコーン・イサーンの新たな政治的実践を生み出す場となった事も明らかになるだろう。   水とイサーン支配 過去70年のうちに、イサーン地方は森林地帯から水田地帯へと、急速な環境の変化を経験してきた。また、これとほぼ同時期に、中央政府は様々な種類と規模の灌漑事業、6,000件以上に出資してきた。これらの事業は、この地域の約120万ヘクタールの土地に水を供給するために計画されたものだ。これらの事業では、同地域を乾燥した不毛の土地であり、これを開発し、住み良くするには、インフラが必要だとされている。 だが、これらの地理的特性にも、政策が関係している。というのも、タイで共産主義の反乱が起きた時代に、イサーンは、その地理条件や貧困、そしてラオスやカンボジアに国境を接する立地から、特に共産主義の影響を受けやすい地域と認識されていたのだ。これらの不安材料の重なりは、一連の政治的で開発主義的な傾向のある国家主導型の開発事業を開始させる動機を政府に与えた。そのようなわけで、米国の支援もあり、イサーンが経済・インフラ開発の優先対象とされた事で、近隣諸国の「共産主義の脅威」を抑制する緩衝地帯が生じる事が望まれていた。 1958年にサリット・タナラット(Sarit Dhanarajata)陸軍元帥がタイの主導権を握ると、彼はイサーンにおける幾つかの事業に着手した。この地域の出身者であるサリットは、米国から資金援助を受け、5年間の開発計画(1961年に発表)を推進した。この計画の一部であった緊急農村開発計画(Accelerated Rural Development Programs)は、県知事の管掌の下で反乱対策を講じ、経済改革を促進させる一つの手段であった。 当時、政府はコーン・イサーンの生業として、大規模な工業型農業を奨励していた。これに伴い、イサーン農民は、コメの生産高を上げるため、「緑の改革(Green Revolution)」の一環として導入されたハイブリッド種や、化学肥料、殺虫剤の使用を勧められた。このように、農業が変わってゆく状況の中で、新たな農法はコメの生産高向上に役立ち、農民は需要の増加に応じるべく、新たな土地区画を開墾した。この新たな手法は、土着農法よりも多くの水を必要とするものであった。 現在、イサーンには17基の水力発電ダムがあるが、最新のものは、ウボン・ラチャタニ(Ubon Ratchathani)県のパクムン(Pak Mun)・ダムだ。イサーンにおける農業の重要性を考えると、バンコクで権力を握った全ての政権が、この地域の開発ニーズに対する解決策の第一として、水資源を大いに重視してきたのは当然の事だと言える。だが、たとえ政府が、この地域の経済成長の促進のために巨大ダムの提案をしたのだとしても、これらは、バンコク向けに電力を発電するダムとされたのだ。このようにして、ダム建設はバンコクとイサーンの非対称的な関係性を助長する事になった。それに、コーン・イサーンは、ダムがもたらした結果に苦しみはしたが、これらの事業から、ほとんど何の恩恵も受けなかったのである。 また、論争の的となったパクムン・ダムの状況も、これと似たようなものだった。このダムが1994年に完成した後、多くの急流は水底に沈み、ムン川とその支流からは、150種類以上の魚種が姿を消した。これに対し、パクムン・ダムがもたらす灌漑と電力の恩恵には限りがあった。このため、貧民連合(Assembly of the Poor, 以下AoP)と世界ダム委員会(The World Commission on Dams , WCD)は、この事業を大いに批判した。また、このダムが建設される前には、適切な環境アセスメントが行われていなかった。しかも、商業と自給自足の両方の目的で、小規模な漁業活動を営む地域の村人は、川や河川資源に対するダムの悪影響に比べると、灌漑用水にどのような利点があるのか分からないと述べた。地元住民は漁業収入を失い、多くの者がAoPに代わってデモに参加した。これらの運動には、イサーン各地から人々が集まり、中にはシリントン・ダムなど、過去の事業の影響を受けた人々もいた。このようにして、人々は新たな方法で運動に加わる事となった。これらの運動は「タイ・バーン(Thai Baan)研究」を通じて、新たな知識を生産し、反覇権主義的な政策決定の可能性を提示した。そうする事により、彼らはイサーンの環境政策と政治的アクターの改革を行ったのである。 また同時に、政府は水力発電事業にも着手し、経済発展を促そうとした。この水関連のインフラ計画は、貧困を撲滅し、食糧の安全保障をもたらし、アグリビジネスに水を供給する手段として、具体的レベルで様々に正当化された。また、これらの計画には、重要な政治的意義もあった。というのも、これらは共産主義の反乱と闘い、政治的支援を得るために計画されていたからだ。この地域で最初の水力発電事業は、1971年に完成したラムドムノイ(シリントン・ダムLam Dom Noi/ Sirinthorn Dam)で、このダムの建設により、2,526世帯が強制的に彼らの土地を追われる事となった。その後、不毛な土地に再定住させられた彼らには、なけなしの補償が与えられたばかりである。 […]