Vietnam Eve Hanson KRSEA
Issue 26

冷戦の遺産:ベトナムにおける体制の安全保障と暴力機構

現代ベトナムの政治情勢は、超大国がハノイとホーチミン市の指導者を通じて衝突した結果である。この衝突には非常に残念な結末が伴った (Dr Nguyễn Đan Quế, interview, August 11, 2015) 戦争終結から40年、現代のベトナムで民主化運動の活動家として注目されるDr. Quếは、自国の権威主義とその反対派の展開について自身の見解を述べた。彼が人権と民主化のための活動を始めたのは、1970年代初頭のベトナム統一前の事で、当時、彼は他の知識人たちと共に南部の旧ベトナム共和国での拘禁の状況について非難した。現代の民主主義や人権問題の活動家には、その活動の起源を統一前の時代に見る者や、自らを南部の独裁主義に対して組織された初期の運動や集団の系統と考える者がいる。 ベトナムでは、植民地化されたその他の社会と同様に、国家独立のための闘争がほぼ途切れることなく国際関与を伴った冷戦の対立へと移行して行った。この国際関与は決定的に重要な要因となった。また、これもアジアの他の地域と同様に、大量殺戮や政治的迫害、大量残虐行為が想像を絶する規模で行われ、1955年~75年までには300万人以上が死亡、そのうち200万人以上は民間人だった(Bellamy 2018)。社会科学の理論、イデオロギー、資金と銃で身を固めた二つの冷戦ブロックは、国内政権と連携して独裁政権を形成し、これが双方で展開された事から、幾世代にもまたがる政治的遺産が残った。一方ではアメリカ合衆国とその同盟国の、他方ではソビエト圏と中国の直接関与が、その設立の手助けをした排他的政権は市民の支持を必要とせず、外部からの多大な資金的、戦略的支援によって保護されていた。双方で政治的浄化計画、すなわち、対立する思想に同調する恐れのある反対派を排除する試みが実行にうつされた。彼らは国内の政治的支配のための暴力機構の設立とその近代化を支援した。これらの動きが重なった事で、この時代に出現し、政治的権利や公民権を要求し始めていた市民社会の団体や組織、運動など、あらゆるタイプの政治的アクターが活動する政治空間が大幅に制限された。 民主化や権威主義、体制構築(regime-development)に関する政治学的研究が悩まされてきたのはひとつのバイアスである。そのバイアスは、権威主義的な政治体制に回復力(レジリエンス)が存在することや、そこから民主化に至るまでのあらゆる事柄を国内的要因で説明しようとするバイアスである。実際には、海外のアクターが大規模な直接関与によって独裁体制をつくりあげ、その後、反対する市民からその体制を護ってきたにもかかわらず、である。国際的な影響力に関する研究は、西側とのつながりや西側の影響力を民主主義体制の建設に貢献するものと見て、ポスト冷戦の権威主義の一因とは考えない傾向にある(se e.g. Levitsky and Way 2002; 2010)。ベトナムでは、アメリカとその同盟国が連携と影響力の両方を行使したが、これらを用いる事で、南ベトナム共和国の反共産体制を確実なものに強化しようとした事は明らかだ。ベトナムの例が示唆するのは、冷戦の政治的遺産が複雑な事、これに国家と市民社会の間のひどく偏った力関係が含まれ、それが政治的権利や被選挙権を要求する市民や団体を損ねるほどのものだという事だ。暴力機構は、政治体制や政府をそれ自身の市民から守る事を目的としたもので、海外のアクターの積極的な支援から利益を得ていた。だが、Dr. Quếが上で示唆する通り、外国の支援を受けた独裁政権は、自らの反対勢力も育む事となった。 ベトナムの分断、政治的浄化と暴力 1949年に共産勢力が国民党に勝利を宣言し、毛沢東が中華人民共和国設立を宣言した後、アメリカは東南アジアに調査団を派遣した。東南アジアの他の地域から「反乱鎮圧」のテクニックと経験をもつCIA職員が関与させられるようになったのは、ベトナムが世界規模の冷戦の一部で、世界的な共産主義拡大に対する闘いの要地と見なされるようになってからだ。第一次インドシナ戦争を終結させたジュネーブ合意(Geneva Agreement)は6年後、現在、ベトナム社会主義共和国として知られている領土を17度線のところで二つの暫定的な「再編成区域(re-grouping zones)」に分割した。これはイデオロギー上の分断を地理化したもので、間もなく双方はこれを国境として認識するようになった(Devillers 1962)。この境界線の両側の政府には、いずれもその領土に対する主導権が無く、両者はむしろ、自らを対立する政治勢力の列島の中の小島と考え、何とかしてこの支配権を握る必要があると考えていた。 ジュネーブ合意が国政選挙を約束したのに、これが一度も実行されなかった訳は、アメリカもゴ・ディン・ジェム(Ngô Đình Diệm)首相のアメリカによって設置された政府も、自分たちに勝ち目が無いと思っていたからだ。その代わり1956年3月4日には、南ベトナム共和国の憲法制定議会が選出され、CIAの協力の下で憲法が作成され、ジェムに「事実上の絶大な権力」が付与された(Boot 2018)。北部のベトナム民主共和国がソビエト連邦や中国に支援とインスピレーションを求める一方、アメリカはCIAその他の組織を通じた独裁的な南ベトナム政府の創設に大いに携わっていた(Boot 2018; Chapman 2013)。領土の支配権も、当てにできる国民の支持も無い両政府とその国外の同盟国は、敵対勢力の一掃を図ろうと、急進的な計画に着手した。17度線の両側で行われた政治的浄化の取り組みは、ついに明白なポリティサイド(政治的自殺)に至った。. 南部では通常の戦争と並行して、CIAが1967年にPhượng hoàng、フェニックス・プログラムに着手した(CIA […]

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Issue 26

マレーシアにおける冷戦遺産

冷戦はマレーシアの政治と社会に大きな痕跡を残した。1948年から60年の反共産主義非常事態は、初めは英国植民統治エリートの、後には現地エリートの共産主義の国内進出との闘いに向けた構えの程を示していた。だが、なおも充満する共産主義の脅威、そしてあまりにも都合の良過ぎる共産主義の敵の亡霊は、マラヤ共産党(the Malayan Communist Party: MCP)の排斥とその後の敗退のはるか後にまで政治全体にこだましていた。冷戦はマレーシアの公式政治(formal politics)と市民社会に、複雑で永続的な遺産を残した。これらの影響は今もなお、政治的イデオロギーや居住形態(settlement patterns)、制約的法律、地政学的な位置づけにおいて見る事ができる。総じて、マレーシアは真の共産主義、すなわち真に攻撃的な共産主義運動を経験したのであり、その人心掌握戦略(hearts-and-minds strategy)と軍事的弾圧とを組み合わせた反乱鎮圧対策は、今でも暴力的な過激派対策における今日の治安部隊の指標となっている。だが、より深い傷を残したのは、マラヤ共産党そのものよりも、これらの戦いがイデオロギーや人口統計、法律、安全保障の状況を形作った方法にある。つまり、マレーシアの社会政治的発達の形成期における、華人を中心とし、国際社会に非難された反資本主義運動は、イデオロギーの選択肢を非合法化し、著しく非政治化された社会に内包される強力で中央集権的な、具体的には民族共同体的で資本主義的な国家の強化を促したのだ。 マレーシアは、とりわけ興味深い検討事例を与えてくれる。一方において、マレーシアの2018年の総選挙では、おしなべて計画的な連立政権が61年間政権の座にあった、よりパトロネージ志向が明らかな政権を追い落したものの、イスラム主義の第三政党も良い成果を挙げており、単なる取引的(transactional)、テクノクラート的な政治よりも、イデオロギー的な政治に今なお重大な強みがある事を示唆している。また他方において、その政治的マッピング(political mapping)は左翼運動弾圧の長期的な歴史も反映している。つまり、活発で人気があった左翼政治の初期の歴史にもかかわらず、マレーシアには数十年もの間、強力に(あるいは少なくとも、あからさまに)階級に基づいた政治的な選択肢が、小さな、窮地に陥った社会主義政党の外には存在しなかった。MCPがその武装集団(マラヤ人民抗日軍(the Malayan People’s Anti-Japanese Army、MPAJA、それに戦後のマラヤ人民解放軍、MPLA)を巻き込んで、トラウマ的な反共産主義のゲリラ戦の口火を切ったのは、現在のマレーシア国家が形をとり始めるのと同時の事だったが、これは(特に左派の)社会政治団体の規制から、マレーシアの政治的展開における華人の役割の軽視、そして一般的には合法とされるイデオロギー的見解の範疇の制限に至るまで、この国家のあり方や特性にとって極めて重要であった事が示された。 冷戦の名残 マレーシア国家は非常事態が鎮静化した後、もはや目立った共産主義の脅威に直面しているようには見えなかったが、MCPが完全に降伏したのは、ようやく1989年になってからの事だ。だが、殊に冷戦については(とりわけ、ベトナム戦争がまだ熾烈であった東南アジア内では)、1960年代後半から1970年代初頭の民族共同体的で資本主義を支持する国家が、当時の主な対戦相手である異民族から成った社会主義戦線(Socialist Front)の鎮圧に際し、直面した抵抗が最小限だったのは、それが左派であるとともに華人主体だった事による…この「華人」とは「共産主義者」の事だ。事実、共産主義は亡霊として、強力な国家と組織的に非政治化された社会とを正当化する上で、今も都合の良い引き立て役を提供している。冷戦の遺産はこのようにマレーシアで生き続け、国内の対立関係を効果的に明確化している。その持続的な名残が一層明らかな点が、政治的イデオロギーや集落形態、制約的な法律、それにマレーシアの地政学的な位置づけである。 イデオロギー的空間 反共産主義のイデオロギーは、急進的な労働組合や階級に基づく同盟を抑圧するイギリスとマラヤの取り組みに寄与した代わりに、民族の柱状化(ethnic pillarization)と共同体的政治(communal politics)の定着を促した。この結果は特にUMNOと、そのアライアンス(連盟党)および後に国民戦線(National Front: Barisan Nasional/BN)における連盟相手である華人やインド人のエリートたちの利益を反映していた。彼らの政治的所属や行政のモデルを左右したのは、有権者たちの階級ではなくエスニシティに沿った帰属意識の主軸だったし、また当初から、このアライアンス/BNが支持していた資本主義経済のモデルは、ブミプトラ(Bumiputera:マレー人と他の先住諸族)への再分配政策の支持によって補われるものだった。 冷戦理論はイギリスやマラヤのエリートが、資本主義のイデオロギー的受容を自分たちの利益のためではなく、実存的脅威によって裏付けられたためと主張する事を可能にした。当初はマレー人の多くが小規模米農家だったが、彼らがその役割を担っていたのは英国の政策のためであり、どう見ても、彼らは資本主義に無関心だったと思われる。しかし、民族共同体の有力エリートたちは英国の作り上げた秩序で身を固めていた。英国の政策がマレー農家の中産(および資本家)階級の確立を目指す一方で、マレー人の行政サービスの設立や、その他の民族を対象とした取り組みは、彼らの英国の政策への統合を拡大した。 ほとんどの華人経済エリートも同様に、資本主義の追求に巻き込まれていた。だが、華人(やインド系)の労働階級の多くは、小規模農家というよりも、工場やゴム農園、スズ鉱山、あるいは、港湾労働などの有給労働に従事する新興の産業プロレタリアートに相当した。このマラヤとシンガポールの基盤から左傾した労働組合が出現し、(西洋優位の)資本主義に対する批判的見解が提示されたのだ。労働組合は重大で党派的な政治的関与の潜在的ないし実際の発射台となり、民族よりも階級に基づく帰属意識だけでなく、集団行動をも促進した。早期にイデオロギーを中傷され、あるいは単に抑圧された事から、労働組合は今ではほとんど沈黙したままとなっている。また独立後、間もない時代には、特に地方政府のレベルで左派政党の大躍進が見られたが、初期の弾圧と阻害要因によって、広く認められる労働者政党として機能する党は一つも残らなかった。 重要な事は、公式政治が極めて重要な関与に対して、わずかに寛容性を保っている事だ。そうだとしても、MCP崩壊から長い時を経た今も、一網打尽で合法性を否定するのに「共産主義者」のレッテルが貼られる可能性はあるし、広範な優遇政策を含む新自由主義に対する国家の自民族中心主義的な独自の解釈が「イデオロギー的なもの」として示される事は無く、むしろ主要な政治言説は、マレー人優位を人口統計学的、社会学的に必然と定義し、その他の経済的枠組みを真剣に検討する事がほぼ無い。結局、冷戦は階級よりも民族共同体的な結びつき、社会主義的あるいは、社会民主主義的モデルの検討の回避、華人住民を本質的に要注意人物と見なす傾向を確立させ、これらがポスト冷戦期のイデオロギーの可能性と実践に持続的な影響を及ぼしてきた。   住民の再定住 マレーシアでの第二の重要な冷戦遺産は人的景観(the human landscape)そのものと関係がある。非常事態期の反共産主義の取り組みは、当時の人口の約10分の1にあたる50万人以上の華人を婉曲的に「新村(New Villages)」と呼ばれた地域へ強制的に再定住させ、MCPの流通経路を断つ(制裁的)予防努力とする事にまで及んだ。 都市部や鉱山周辺に集中してはいたものの、一定数の華人は長らく自給自足の農地に居住していた。1940年代の日本による占領は、この農村の分散化を促進させ、1945年には50万人もの華人スクオッター(squatters:無断居住者)たちがジャングルの周辺集落にいた。これらのコミュニティは、MPAJA部隊に食料その他の物資、情報ルートや補充兵を、好むと好まざるとに関わらず提供していた (Tilman […]

Issue 26

ブラック・サイト、タイ:冷戦の政治的遺産

タイにおける中央情報局(CIA)の「ブラック・サイト」に関する報告の衝撃的な局面の一つは、ヒューマン・ライツ・ウォッチ(Human Rights Watch)の研究者、Sunai Phasukのコメントである。これによるとタイの国軍と警察は、ブラック・サイトの拷問技術を導入していた。「水責めは前代未聞だった…2004年か2005年以降に初めて、これがここで用いられるようになった」(Los Angeles Times, April 22, 2018)。米国の軍事行動がタイにとって重大な「遺産」となったのは、これが初めての事ではない。米国とタイの冷戦同盟は、タイの政治とその政治制度に広範な影響を及ぼしてきた。 この冷戦同盟が確立された背景に、冷戦対立の高まりを反映した複数の政治紛争があった。タイでは、米国との深い関わり合いに、1932年革命の推進者とその反対派である王政主義者との間の国内の政治闘争が絡み合っていた。 第二次世界大戦後の米国タイ大使が、全て熱心な反共産主義者であったことを見極めたのはDarling (1965, 104-105)だが、彼は、大使たちが「自分の政府と国民を助け、この国の安全保障上の深刻な脅威だと感じている問題を重視する、という善意しかもっていなかった」とも断言している。CIAと国務省の当時の記録文書が示すところによると、「善意」を定義するのは「共産主義の侵略」に対する闘いの中で、タイが確実な冷戦同盟国となることだった。 米国・タイの冷戦関係における3つの相関点は、いかに「善意」が軍事的権威主義を支持するために用いられたかを示している。軍事政権へのこの安定した支持は、プリディ・パノムヨン(Pridi Phanomyong)との以前の同盟の撤回と、彼の自由タイ運動(Free Thai)支持者の政治的な壊滅を、基礎としていた。この過程で、米国とバンコクの軍事政権は、プリディと自由タイ運動の拠点である東北地方が、共産主義者のイレデンティスト(irredentist:領土回復主義者)の危険な温床であると見なした。こうした干渉のいずれもが、タイ政治に深い影響を及ぼしてきた。 プリディ:同盟者から敵へ 第二次世界大戦中、高名な法学者にして、1932年の絶対王政打倒の立案者、自由タイ運動地下組織の指導者、そして摂政でもあったプリディは、タイで米国が最も信頼を置く同盟者だった。米国は1946年に彼の協力の見返りとして自由勲章(the Medal of Freedom)を与えている。しかし、彼には、社会主義と経済ナショナリズム、急進的な反植民地主義についての疑問が浮上してくる(Thanet 1987; Goscha 1999)。 タイの王政主義者たちはそのような疑念をしきりに煽り立てた。プリディに対する積年の不満から、彼らはプリディが共和制主義者で「ボルシェビキ(共産党員)」であると、繰り返し言い立てた。米国は当初、王政主義者の策略を退けたが、戦略諜報局(OSS)そして後のCIAの報告書は、次第にプリディの思想に疑念を抱かせるような王政主義者の談話や「機密情報」を描いていく。1946年のアーナンダ・マヒドン(Ananda Mahidol)国王の謎の死をめぐって政治が混乱する中で、1947年にプリディ政権を失脚させたクーデターの直前に、自由タイ運動と共産主義を結びつける情報機関の報告書が拡散される。Fineman(1997, 36)が明らかにした通り、アメリカはクーデター実行者が「罰を受けずに選挙によるプリディの政府を転覆させること」を事実上認めた。王政主義者から国王の死に関与したと非難され、また1949年の反クーデターの失敗から政府と米国の敵と非難されたプリディは、生涯にわたる亡命生活に入った。 1947年のクーデターの後、タイの新たな軍首脳はこのクーデターが共和制主義者と共産主義者、すなわち、プリディと自由タイ運動に対するものであったとアメリカ大使館に正式に発表した。CIAの報告書(1948a)は、プリディが「共産主義者で、現政府の転覆を謀っている」と非難している。この米国のクーデター支持は、米国がタイの政治的安定を強く望んでいたこと、そして米国がタイや東南アジアでの共産主義の進出に対する民主的な対抗手段が無いと判断したことを反映していた。このような見解が暴力的な軍事政権との同盟を許容させたのだ。 1949年の末にプリディが中国に亡命する中で、CIAの報告書は繰り返し、プリディを中国共産党やピブーン(Phibun)政権打倒の動きと関連付けた。一つの報告書はプリディを侵略計画と破壊工作、東北部の共産主義本部、さらには中国政府の支援を受けたピブーン政権攪乱と結び付けている(CIA 1950)。 同盟者から共産主義の脅威となるまでのプリディの米国にとっての遍歴は、タイ政治にとって何を意味するのだろうか?当然、プリディ自身の政治活動が彼の失脚の一因ではある。彼の政敵は彼より上手だったということだ。それでも、米国がプリディに見切りをつけたことは、王政主義者にとって大きな政治的勝利を意味した。ピブーンは、反王政主義者であるにもかかわらず王政主義者と結託し、プリディの政治運動による非軍事的で民主的な体制という選択肢を根絶する。 プリディの政治的破綻は、タイの軍事支配に対する主な反対勢力が、1940年代の末には相当弱体化されていたことを意味した。これが米国にとっては好都合だった。戦時中の同盟者を見限ることで、王政主義の政治家と、強力な政治機構としての王室の政治的基盤の再活性化の準備となった。米国が手に入れたものは、同盟者としての安定した軍事政権と、冷戦工作のための東南アジア本土の基地であった。 東北部からの脅威 プリディの自由タイ運動支持者を追放するため、政府と米国は彼らを共産主義に関連付けたが、この結び付けは米国受けするものだった。米国の公式な文書や政策において、プリディと自由タイ運動、野党の政治家をベトミンや東北部のベトナム人政治難民の共産主義に関連付けたものが積み上がることになる。 戦後、武器貿易などのタイのベトミンへの支援が広く知られることとなった。実際、反植民地主義とフランス人への蔑視によって、この支援は政治的分裂を越えるものとなったのである。Goscha […]

UP Philippines statue KRSEA
Issue 26

冷戦を通じたフィリピン人テクノクラートの台頭をたどる

フィリピン人テクノクラートの台頭は通常、フィリピンの戒厳令時代(1972~1986年)に関連付けられる。だが、米国にとってのテクノクラシーの重要性は、この時代よりも前に生じた。早くも1950年代には、米国は既に研鑽を積んだ経済学者やエンジニア、経営管理の専門家などを東南アジアのような開発途上地域に擁しておく事の重要性を認識していた。これらの専門家たちは、それぞれの社会で開発プロセスの先頭に立ち、これらの社会が共産主義の手に落ちるのを防ぐ事ができた。本論ではフィリピンのテクノクラシーの台頭を、冷戦というコンテキストの中でたどり、その上で、フェルディナンド・E.マルコス大統領の戒厳令前の初期政権(1965~1972年)時代に採用され、後の戒厳令体制では引き続き、この独裁者の経済政策の重要な立案者となったテクノクラートたちにとりわけ注目する。 冷戦とテクノクラシーの出現 「標準的な政治用語」における「テクノクラシー」とは、「技術的な訓練を受けた専門家が、彼らの専門知識と主要な政治・経済機構内での地位に基づいて支配する統治制度を指す」(Fischer 1990, 17)。これは新たな中産階級の出現と重なる。C. Wright Millsによると、この階級は「第二次世界大戦後に、新たな技術系官僚(technocratic-bureaucrat)の産業資本主義経済と共に出現した」(Glassman 1997, 161)。つまりテクノクラシーの台頭は、冷戦の到来とも、米国からのフィリピン独立の達成とも一致していたのだ。その後、米国その他の「先進国」では工業化が進んだが、開発途上社会では依然としてこれが進まなかった。この遅れがアメリカの悩みの種となった。この非植民地化と冷戦の緊張という背景があったからこそ、アメリカ大統領ハリー・トゥル―マンは、1949年1月20日に「ポイント・フォー」計画(“Point Four” program)を発表し、その中で貧困を戦略上の脅威と定義して、開発と安全保障とを結びつけた(Latham 2011, 10-11)。トゥルーマン政権(1945-1953)最大の懸念は、アジアにあるような後進的な農村社会が共産化する事だった(Cullather 2010, 79)。 近代化の理論がこれに解決策をもたらした。冷戦の状況下で「理論家や政府高官は非植民地化の時代に、近代化の思想を用いて拡大する国力の好ましい印象を打ち出そうとした」(Latham 2000, 16)。この国力の拡大を端的に示すものが教育制度の確立であり、これが開発途上社会にテクノクラートを輩出し、近代化という米国の冷戦イデオロギーを存続させようとした。これらのテクノクラートは、あらゆる開発途上社会が必要とした「近代化するエリート」の一員と見なされた(Gilman 2003, 101)。 教育制度によるテクノクラートの再生産 テクノクラートを主に輩出したのは、この国の国家的エリート大学で、1908年にアメリカが設立したフィリピン大学(the University of the Philippines :UP)だった。UPはマルコスの初期政権とその後の戒厳令体制にとって極めて重要なテクノクラートたちを養成した。これには1970年から86年にマルコスの財政秘書官(finance secretary)を務めたCesar E. A. Virataや、1970年から79年までマルコスの投資委員会(the Board of Investments)の委員長だったVicente T. […]

KRSEA How Long is Now: Indonesia
Issue 26

現状はいつまで続くのか? インドネシアのレフォルマシと遅れた冷戦史の捉え直しについて

提題の「現状はいつまで続くのか?(How Long is Now?)」は、ベルリン・ミッテ(Berlin-Mitte)のオラニエンブルガー・シュトラーセ(Oranienburger Strasse)沿いの壁画をほのめかすものだが、これが描かれているのは、かつてのSSセンターでナチスの監獄だったものが、後に東ドイツの公共施設となり、ベルリンの壁崩壊後は活動的な芸術家たちのための施設となり、今では廃墟となった建物だ。この壁画は、ベルリンの近年の独創的な過去の出来事を、未来を待ち続ける時が長引く中で振り返るものだ。著者にとっては、この壁画は1998年の秋に深夜まで延々と自分に講義と議論を行わせたジャカルタのインドネシア人学生の力強さと悲運とを封じ込めたものでもある。彼らは当時、世界最大であった改革派の大衆運動をなぜ払しょくする事ができたのか、またなぜ約50万人もの人々が、1965年から66年の間に軍部や「民」兵たちによって殺されたのかなど、1940年代後半以降に出現した出来事の、極めて重要な歴史を捉え直す手段を模索していた。つかの間の透明性は立ち消えてしまった。先行きはまだ見えてこない。なぜなのか? 国際社会に支持された合意が、自由と選挙のためにスハルトを見捨てる一方で、エリートを保護していた事は、公的な場での議論に委ねるには秘密が多すぎた事を意味する。すでにジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領(Joko ‘Jokowi’ Widodo)が、彼の前任者たちよりも有力集団への依存が少ないとする望みは薄れてしまった。有力者、プラボウォ・スビアント(Prabowo Subianto)は保守的なムスリムのポピュリズムを喧伝しているにもかかわらず、全面的な後退が生じている。国際的にもてはやされているのは、自由民主化が確固たる国家建設によって進められるべきだという主張だ。民主的左派も、1950年代末と1960年代初頭の出来事を検討する事に熱心ではない。ネル―やスカルノのような指導者や非同盟運動(the non-aligned movement)は過去に属するものなのだ。さらに、毛沢東主義者たちは改革主義のインドネシア人共産党員やスカルノ派の人間が十分革命的でなかったとさえ主張した。後になって同調した事を悔やんだ者達は、それを思い起こさせられる事を望まず、それとは違う何か、アナキズムや市民社会、新しい運動や言説の分析などを試みる。民主主義を支持するインドネシア人たちが専念した汚職や人権、生活などの差し迫った問題は、過去に目を向けて対処する事がより困難なように思われた。 また、インドネシアの大虐殺に関する研究のほとんどが、1965年末に大虐殺の犠牲者となったエリートの苦しみに焦点を当てている。この事が人権を強調している点は称賛に値するが、徹底的な歴史分析の入門としては不十分だ(Törnquist 2019)。3つの謎が残る。1つ目は、どのような政治的経済と政治機関が、この共謀と弾圧を可能にしたのか。2つ目は、何が軍部の促進した暴力と民兵や自警団の参加を結び付ける事ができたのか。3つ目は、何が政治の新たな左派志向の運動の失敗と、これに代わる権威主義的特徴の政治の再来を説明するのかということだ。 幅のある歴史分析が必要な事を示すものの一つが、Geoffrey Robinson (2018)の研究だ。入手できる最も包括的な研究の中で、Robinsonが受け入れ難いと感じているのが、John Roosa (2006)の革新的な主張で、これは運動全般ではなくてインドネシア共産党(the Indonesian Communist Party:PKI)の一部の指導者たちが、虐殺に先行した9・30運動(the 30 September Movement)において、重要な秘密の役割を果たしたとしている。Robinsonが躊躇する理由は、主流研究の結論が、当時PKIが極めて順調で、確実に地歩を築きつつあったとしている点だ(Anderson and McVey 1971; Mortimer 1974; Crouch 1978)。そうだとすると、向こう見ずな秘密工作には何の理由もなかった事になる。だが、より批判的な分析は、1950年代末から1960年代初頭に共産主義者が直面していた課題について、これとは違った見方を示す。PKIは民主主義を望んでいたが、1959年にスカルノ大統領と陸軍の「指導される民主主義(“Guided Democracy”)」の導入と選挙の先送りを支持していた。つまり、PKIは、まず大衆政治を通過する必要があったという事だ。 大衆政治とは、スカルノの反帝国主義運動や外国企業の国有化に協力し、彼の基礎的農地改革や、ナショナリスト、宗教者および共産主義者の社会・政治的中心人物による共同公共統治(joint public governance)の手法を支持する活動に協力する事であり、これには軍部への協力も含まれた。これは共産主義者に組織化と圧力政治の余地をもたらしたが、この事が改革派の政敵を弱体化させる事はなかった。軍部は(戒厳令という手段によっても)国有化された企業や国家機構の大部分を掌握し、1960年から61年の共産主義者による労働争議(labour […]

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Issue 25

ラオスでの土地認識の変化 国家主権から資本動員へ

2013年8月23日、フランスのパリでKhamtanh Souridaray Sayarath夫人と面会した。ラオス南部の町、チャンパサック(Champassak)生まれの彼女は、1950年代にビエンチャンにある法科大学院を卒業した最初のラオス女性の一人だった。卒業後は工業省(Ministry of Industry)や文化省(Ministry of Culture)、貿易局(the Department of Trade)で様々な地位に就いた。1962年には経済省(the Ministry of Economics)局長となり、ラオス王国政府(the Royal Lao Government (RLG))の土地コンセッション(利用許可)や伐採権、鉱業権を認可する責任を負った。彼女がこの地位にあったのは、1975年に共産党のパテート・ラーオ(Pathet Lao)が国を掌握するまでの事だった。他の多くの人々と同様に、彼女はタイの難民キャンプに逃れた後、最終的にはパリに腰を据えた。 筆者のKhamtanh夫人との議論は、国民の土地の概念化がラオスでどのように変化したかという考察に関するもので、その対象は非共産主義時代から共産主義時代の間だけでなく、ラオスで経済改革が施行された1980年代半ば以降、特に2003年の土地法(Land Law)可決以降の変化だ。土地法可決は海外の投資家たちが広大な農園コンセッションを受ける事を認める法的枠組みをもたらしたが、このような事はKhamtanh夫人の時代には起こり得ぬものだった。本論ではラオスでの土地と国家主権に関する認識に過去数十年間で重大な変化があったことについて論じる。今や、土地は増々金融化され、むしろ海外の民間投資を呼び込む資源と見られるようになり、外国人に管理される事が認められない主権領土とは見なされなくなってきた。 Khamtanh夫人へのインタビュー Khamthanh夫人との議論で筆者が特に興味深く感じたのは、ラオス王国政府時代の彼女の土地コンセッションに対する認識の知る事だった。彼女が言うには、1962年から1975年の間の土地コンセッションは5ヘクタール丁度までで、それ以上はありえなかった。確かに、1958年5月の土地法を改正した、1959年12月21日付けの法律第59/10号は、外国人による財産取得を1975年のラオス人民民主共和国(Lao PDR)設立に至るまで規制していた。 2000年代になり、これとは全く異なる事態が生じ始め、外国企業は農業用地のコンセッションを1万ヘクタールまで獲得ができるようになった。 Khamtanh夫人によると、企業がさらに土地を必要とした場合は、村人かその他の土地所有者から土地を買う必要があったが、重要な点は、外国人が工場展開のための投資を奨励されていたとしても、ラオス市民だけが土地を所有できたということだ。王国政府の政策はその他の多くの初期ポスト・コロニアル政府の政策と同様に、国家主権の概念を天然資源と密接に結び付け、土地その他の資源の利権を外国企業に供与することには慎重であった。例えば、1961年にタンザニアがヨーロッパ列強からの独立を獲得した際には、初代大統領のムワリム・ジュリウス・ニエレレ(Mwalimu Julius Nyerere)が、「タンザニア人が自分たちで資源を開発するための地質学及び工学の優れた技術を手にするまでは、鉱物資源を未開発で放置する事を提唱した」。この時代とラオスにおける状況をよく示した1971年の論文で、Khamchong Luangpraseutは次のように述べている。「(ラオスには)グレーンジ型の大規模農場は存在しない」。彼はまた次のように記す。「ラオス王国では、国家が土地の名義上の所有者である。ラオスの法律によると、耕作者はその利用者であって所有者ではない。」 王国政府内の多くの者たちが特に関心を寄せていたことが国土の保護であったのは、国土と国家主権との関連性が認識されていたためだ。とはいえ、Khamtanh夫人が認めたように、王国政府内には腐敗して国家資源を犠牲にして私利を得ようとする者達もいた。当時、物事がどう認識されていたかを示すべく、Khamtanh夫人は1960年代と1970年代の初頭にラオスで稼働していた鉱山がわずかであったこと、鉱業権供与の要求が何件かあったにせよ、政府がこれに慎重であったことを説明した。例えば、カムアン(Khammouane)県ヒンブン(Hinboun)郡のPhon Tiou地域の錫鉱業には二、三の企業が関与していた。ところがKhamtanh夫人の話では、その地域の全ての鉱業権は表向きにはチャンパサック王家(Champassak Royal House)の当主、Chao Boun Oumの所有となっていた。ただし、彼は明らかに鉱業権をフランス企業にリースしていたという。Khamtanh夫人は口を極めて、王国政府が将来の世代や国家のために自然を保護し、資源を手つかずのままで置いておくことを望み、そのためにあまり多くの鉱業権を供与したがらなかったと強調した。彼らは基本的に農村部の土地を商品や資本の一形態とは考えていなかったのだ。 Khamtanh夫人はまた、国内の全ての製材所の監視を行っていた。多少の木材輸出は認可されていたが、相対的には少量の木材のみ輸出可能であったのは、政府が森林資源の枯渇を懸念していたためだと彼女は説明した。林業局(The […]

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誰のための土地資本化か? ラオスにおける土地商品化の問題と代替案

2017年8月3日、ラオスで唯一法的に認められた政党で、支配的な政治制度でもあるラオス人民革命党(the Lao People’s Revolutionary Party以降は党)の中央委員会は、土地管理と開発の強化に関する決議を発表した。この決議(ラオス語でmati)が驚くほど批判的であったのは、政府の過去の土地管理政策、とりわけ、土地の投資や商品化の計画に関する政策で、政府が2006年以降「土地資本化(“Turning Land Into Capital” (kan han thi din pen theun,以降はTLIC)」と名付けて来た政策だ。TLICに関しては多くの問題が認められたが、特に、TLICに「まだ包括的な法的枠組みが無いため、政府と国民がしかるべき利益を得られずにいる」事、また、「開発計画のための土地収用が重荷であるだけでなく、センシティブな問題でもあり、社会秩序に影響を及ぼしている」事がある。 この決議は党と国家の懸念を反映したものであり(しばしば、これがラオスで「党国家(“Party-State”)」、phak-latと呼ばれるのは、両者の活動が密接に重複するためだ)、というのも、彼らの国民に対する正統性を脅かす可能性を土地紛争が持っているからだ。そこで党はトーンルン・シースリット(Thongloun Sisoulith)首相を筆頭に、新たな指導者たちを選出し、政府を2016年時点とは異なる方法で運営しようとした。彼らにはラオス国民最大の懸念と認識された問題に対して、より厳格な政府の統制を主張する権限が与えられた。それらの問題とは、まん延する腐敗や麻薬取引、不法伐採の横行、そして土地問題である。ラオスは度々、党国家が実質上、国内の政治生活のあらゆる側面を支配する手法から、その反民主的慣行を批判されている。だが、ラオスがレーニン主義的な民主集中制(democratic centralism)の原理を公式的に守ろうとする態度は、時として、市民の懸念を(特に国民議会(NA)に提出される苦情という形で)不規則的に上層部に吸い上げ、トップダウン式の政策決定に影響を及ぼす事を可能としている。 この決議はまた、内外の投資家への国有地のリースやコンセッションの供与(TLICの中心的構成要素で、1992年以降承認され、2000年度の初頭から激化した(Bairdの本号参照)が限界に達した事を実証している。土地コンセッションが社会環境に壊滅的な影響をもたらす割には、わずかな公益しか生み出さない事が認識され、政府は2007年以降、ある種のコンセッションに猶予を設けてきたが、この付随条件は時と共に弱まって来た。影響を被ったコミュニティは増々、土地の収用に不満を募らせることになったし、農地や林地の大部分の土地の譲渡を拒むようにもなった。郡や県の高官たちは、中央政府から企業に供与された土地の大部分が利用不可能である事に気が付き、これを上に報告した。その結果、投資家たちは特に農業部門において土地を入手するために、コミュニティや各世帯から土地を借り入れる、契約農業を行うなどといった、その他の手段を模索しはじめた。 こうして、TLIC政策は岐路にあり、政府はこれがどう改定されるべきかを検討している。殊に草案が修正された土地法については、作成時に国民議会による再検討のため、2018年10月にいったん保留となった程である。TLICが土地に関する党決議に卓越した役割を果たしている事を考えれば、これが定着する事は明らかだ。しかし、党国家とラオス社会全体が取り組むべき懸案がある。誰のために土地が資本化されるのか?そして誰が土地資本化の方法を決めるのか?あるいは、どの土地区画が転用対象となるのか?といった事だ。現在まで、TLICの利益は土地投資家と国家が享受してきたが、その外部性の大半はラオス人の土地利用者や国民全般が負担してきた。本論では、党国家がTLICの「善」と「悪」をより公平にいかに分配するかという問題を深刻に受け止めつつも、同時にそのような目的の達成に必要となる実質的な政策や政治・経済改革に取り組む準備ができていないと主張する。かくして、ラオスのTLICを背景とする土地のガバナンス問題は、「古きものは死し、新しきものは生まれ得ぬ(“the old is dying and the new cannot be born”)」というように、今後も続いて行くと思われる。 土地資本化の曖昧な誓約 2017年8月に、著者はTLICが過去10年の間にいかに運営されてきたかを評価する研究プロジェクトに参加した。行われた33件のインタビュー(これが本論の基本的な証拠となっている)は、国際非政府組織(INGOs)や国内非営利団体(NPAs)、ラオスのコンサルタント会社など、政府の外部で働く人々も含むラオス国民が、全体としてTLIC政策に対して広く似たような感情を抱いている事を示した。一人の回答者の答えはこの展望を明確に反映していた。「この政策は原則的には良いが、実施上には多くの問題がある。その実施方法には透明性や説明責任も無く、良いガバナンスも無い。全てがトップダウン方式で行われている。」政策内容よりも実施に焦点を当てる事は、ラオス国民が政府の政策に軽い批判を表現する際に用いる典型的な策だ。それでも回答者たちは、この政策の意図については、特にラオス人の発展願望に重なる点を考慮して、これを純粋に評価すると表明した。 TLICが理論上はラオス国民の心に訴えるものである理由の一つが、具体的な適用形態が無数にある事に比べ、その定義が曖昧な事だ。多くのラオス人回答者が、この政策の意図を最大限に拡大解釈していた。例えば、様々な形の投資によって国土の経済的な生産性を高め、国家と国民のために幅広い利益を生み出す、という具合だ。TLICに具体的な定義が欠如している理由は、これが実際に公的政策として明文化された事も、公表された事も無かったためであり、伝えられるところによると、その正確な意義をめぐって起草委員会の意見が割れていたためだという!回答者たちはこの政策の意図について様々な解釈を口にした。(1)幅広い経済価値を生み出すため、(2)政府のプロジェクトに資金を調達するため、(3)国土の私有化および商品化のため、(4)国家資産あるいは公共資産としての土地に対するラオスの管理権を維持するため。さらに、彼らは様々なプロジェクトをTLICの枠組みに当てはまるものと見なしたが、どのタイプのものが「真の」TLICの例であるかについては、時に意見が分かれた。それらには(1)インフラ、特に政府庁舎のために民間投資家と国土の取引をする事、(2)国土を売り、450年道路(the 450 Year Road)の事例のような道路施設の資金を調達する 、(3)国土を投資家にリースやコンセッションとして供与する事、(4)土地市場の創出と発展を目的に土地を登録する事が含まれていた。 […]

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安全保障の地理学:現代ラオスにおける抑圧、比較優位と住民管理業務

1988年の初頭にラオス閣僚評議会は、各省庁や国家委員会、大衆組織、各県ならびに各市町村に向けて訓令を発した。「住民管理業務の強化(“stepping up population management work”)」と題されたこの文書は、経済発展と国家安全保障の密接なつながりを強調したラオス農村部のビジョンを明記したものだ。これによると、住民管理業務には「人口統計の把握、出産および死亡統計の記録、身分証明書の発行、人口移動の計画、居住パターンの分類、そして生計を立てる土地を持たない多民族の国民のために新たな職を探す、あるいは創出する事」が含まれていた。またその「基本原理」について、訓令には「ラオスの多民族の国民に正当かつ等しい権利を生活のあらゆる領域で享受させ、彼らの集団的主体性と独創心をより強化して、国家防衛と社会主義構築の達成という二つの戦略的課題に当たらせる」と記されていた。 この住民管理の手法の一部は、フーコー(Foucault)の近代政治の手法に関する講義の記述、またそのより大筋の支配理論にとても似ている。というのも,住民(the population)を把握する上で人口や地理、生計に関する統計を用い、政治・経済政策を通じてこれらを行政能力とガバナンスに昇華させようとしたものだからだ。いずれにおいても、「住民」は単に人々の集団を指すだけでなく、より大きな集団の必要に応じて行動しようとする集団、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)の言う「為すべきことを為す(“do as they ought”)」人々を意味する。フーコーが主張したのは、ここでいう住民が,手に負えぬ群集、すなわち「人民(“the people”)」とは正反対のものとして理解すべきということである。人民とは、その権利や利益が満たされる事が社会的に不都合であると判明してもこれを要求し、住民の構成員となる事を拒むことでシステム全体の機能を妨害するものたちである。一方で住民の一部となれば一定の自己利益が得られるが、ただし,厳しい制約が伴う。すなわち、国家の利益のための犠牲も要求されるという事だ。 この20年越しの評議会の住民管理業務に関する訓令は、一見するよりも時代錯誤なものではない。1980年代後期はラオス人民共和国(Lao PDR)の歴史の変革期であり、一方では自由化と外国投資(いわゆる新経済メカニズム/ New Economic Mechanism)の名の下で経済に全面的な変化を引き起こそうとするポスト冷戦期の幕開けだった。他方で第二次インドシナ戦争終結後から遥かに長引いた戦後10年プラスアルファの時代でもあった。1988年の後半にタイの首相が「戦場を市場に変える」ために地域全体の協力を呼びかけると、ラオスの党首たちは「銃声のしない新たな戦場での…高度の警戒」の必要性を強め、幹部たちに「敵」(の過去、及び現在の試み)が他国でもそうしたように、相互疑惑や反目、上下階層間の不信感をもたらし、内紛を引き起こして暴動や反乱を生む」と喚起した。住民管理業務に関する訓令が発されたのはそのほんの数か月前の事だが、この訓令にもやはり、外国による密かな干渉が明白に述べられていた。訓令は住民管理業務について、「大がかりで包括的な作業」であり、「適切な態度、強い責任感と十分な能力を以て政治、社会、経済、国家防衛と公安上の任務を遂行し、住民の民主的権利を尊重しつつ、巧妙かつ慎重に備える事で、敵の策略を回避する」必要があると論じていた。 こうした安全保障論はやや時代錯誤と思われるかもしれないが、その基本的な論理は今も存在する。このエッセイは、開発と防衛についての国家によるあけすけな理論化の初期についての考察が、現代ラオスの土地と資源のガバナンスに対する我々の批判的分析の試みに有益な2つの方法を示すものである。この2つの方法は、いずれも安全保障の言説を真剣に受け止めながら、他方で、外国による介入という悪しき過去のイメージを維持することで批判をそらしたり、排除したりする試みとは根本的に距離をとるものでもある。第一に、筆者はラオス高地の現代の住民管理業務をアイワ・オン(Aihwa Ong)が段階的主権(graduated sovereignty)と呼んだものの一形態として理解するべきだと考える。段階的主権とは、強国とは言い難い国々が、その領土と国民をグローバル経済の制約と機会に適応させるために行う政治的作業のことである。ラオスの場合、規制への反発に対する一時しのぎの手段として国家による抑圧が採用されており、農村コミュニティと、コミュニティの人々と土地の両方を開発や保護政策に参加/登録させようと試みる様々なアクターとの緊張関係を管理するための手段になっている。第二に、この主権として行使される抑圧は、確かに道徳的に批判されるべきものではあるものの、歴史的に複数の要因が引き起こしたものであり、ラオス国家だけでなく,海外の公的アクター(政府と多国間アクターの両者)を視野に入れる必要性があることを示唆しておきたい。これらのアクターの決定が今日のグローバル経済のなかでラオスが生き延びていく手段に重大な影響を及ぼすからだ。この分析は土地や森林管理の様々な分野にまたがる問題に関連すると思われるが、簡潔を期すため、ここでの議論は一つの事例に限定する。 ラオス北西部における管理された囲い込みと政治的無力化 戦争の暴力と、抑圧手段の管理は今日、ポストコロニアル社会の組織では圧倒的に重要である。戦争が起こったところでは、領土と国民の統治される方法が再構成され、事実、全国民が政治的に無力化される。 – Achille Mbembe, On the Postcolony(アキーユ・ンベンベ『旧植民地について』) ラオスは2000年代の後半に国際土地取引のにわか景気の第一線に急浮上したが、振り返ってみれば、これは世界的なランド・ラッシュ(土地獲得競争)と呼ばれるものだった。東南アジアの学問とジャーナリズムが一体となって示したように、2008年後期から2009年に全世界の注目が急上昇したにもかかわらず、2000年代の大半を通じて、多国籍アグリビジネスのための様々なかたちでの土地の囲い込みが生じ、金利の安いクレジットや投機的な需要、新興経済国による積極的対外投資が重なり、これが西洋の開発支援を受けた「土地の豊かな」国々の不満の蓄積を招いた。ラオス北西部の新たな天然ゴム農園に対する中国の投資はこの隙間を突いた。大半が民間投資でありながら二国間開発協力の名の下で進行し、中国政府の対外投資奨励政策によって促進された。このような政策には、天然ゴム等の正当な換金作物がアヘン栽培の代替になるというレトリックでなされるアグリビジネスへの寛大な助成金も含まれていた。 「メゾ(中)」規模においては、雲南省南部とラオス北西部の間のアクセシビリティと連結性の向上にともなって新たな天然ゴム農場への投資が進んだ。中国企業はシン郡(Sing District)や県都ルアン・ナムター(Luang Namtha)などの国境地帯で成功をある程度収めていたが、この地域の農民の多くが既に中国と関係していた事から、新たな土地へのアクセス(また契約農家か契約労働者のいずれかの形によるラオス村民へのアクセス)の大半は「北部経済回廊(Northern Economic Corridor)」(西部ルアン・ナムターとボケオ県を通って北部タイと雲南省を結ぶもの道路の拡張で,2003年から2007年にかけて建設)周辺に新たに開かれた後背地で起きた。「大メコン圏(“Greater Mekong […]

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21世紀ラオスの林地コモンズ: 農業資本主義と「商品化されない最低限の生活保障」

過去20年にわたり、ラオス人民民主共和国(Lao PDR)の国内外のアクターによる幅広い同盟は、「慣習的所有権強化(‘strengthening customary tenure’)」の問題に政策介入を講じてきた。その目的は林地コモンズに対する農村コミュニティの権利に法的保護を確立させることで、その背景には大規模な土地買収による広範囲な囲い込みがあった。所有権の確立は、共有地あるいは集団的な土地の登録と利用権交付の普及を最終目的として土地利用計画のための住民参加型手続きを強化することや、公式化の手続きを整備する事で促進されるだろう。試験的な改革にもかかわらず、この目的に向けた歩みは良くても断続的なものだ。 村落規模では、農業の市場化に関連した現地のプロセスが展開を続けている。ラオスの農地改革の変遷の結果には広範囲に及ぶ土地の囲い込みがあるが、これには(国有企業のアグリビジネスやインフラ計画のための用地買収による)「上から」の囲い込みと(小規模農家の流行作物の契約や村の土地のリースと販売による)「下から」の土地私有化による囲い込みの双方がある。商業投資は農村部の多くの人々の生活収入の重大な支えとなっているが、この構造はラオス全土の環境コモンズを広く圧迫する原因にもなっている。この文脈で、農村の慣習的な林地コモンズの権利保護は、土地政策の重要な領域であると同時に、一般的な契約表現では解決し得ない複雑な実証的問題である。 この介入において、ラオスの土地権公式化をめぐる重要な問題に関する言説が、単に慣習的な森林地がいかに農村部の暮らしの日常基盤となり得るか、あるいは(おそらくは)貧困層の緊急時の「セーフティネット」となり得るか、というものだけではないという所へ話を進めよう。セーフティネットの喩えはラオス農民をあまりにも単純な生存水準という理解に押し下げるだけで、農村部の生計と農業資本主義との関連性を定義する上ではさほど役立ってはいない。Haroon Akram-LodhiとCristóbal Kayの言う「商品化されない最低限の生活保障/“non-commodified subsistence guarantee”(以下、“NCSG”と略)」の考えを踏まえた上で、我々が狙いとするのは、慣習地や共有地がいかに農業資本主義の立ち退きを迫る勢力に対する緩衝装置となり、ラオス農村部における自活の供給源にもなり得るかという点に注意を向けることだ。だが、研究者たちの土地の慣習的、共同体的な所有権は変化しており、農民たち自身が新たなアグリビジネスのバリュー・チェーン(価値連鎖)や土地市場に大幅に関与するようになってきた。課題は慣習地に対する保護の構築だけでなく、地域に適し、共同体の集団的な希望や生計上の要求に基づく(慣習地の部分的な脱商品化としての)「共有化」の概念に取り組む事だ。 資本主義の囲い込みと小規模農家の生産 農地改革の重要研究における主要概念を手短に論じておく事は、我々の主張を構築する上で役に立つだろう。土地所有権の問題はAkram-Lodhiが要約する通り、基本的には「誰が(土地を)管理するのか、その管理方法はどのようなものか、管理する目的は何か」ということと関連がある。 囲い込みは「場所に特有な資源の私有化」と定義され、Akram-Lodhiによって囲い込みと資本主義の出現はいずれも社会的な所有関係の内容と意味の変化に基づくもの」と理解される。資本の限界の一つの形式にはフロンティアがあるが、これは地理上の周辺空間だけではなく、「資本主義的な生産関係がそれほど定着していない社会生活のあらゆる空間」も示唆する。二つ目に、資本の貨幣化についての論理の外にある社会的支援源の解体があり、これには非市場的な生活手段が含まれる。 農業資本主義の関係性の下で土地は容赦なく資本に転換され、蓄積だけでなく立ち退きも生じさせる。貧困家庭が彼らの土地所有権と労働力を売って最低限の生活の足しにすることができる一方、技術や土地への新規投資のための資本蓄積に失敗した者や、この死活的な変化の犠牲となる者達は、蓄積か再投資か滅亡かの理論によって土地所有権を売ることを余儀なくされる。あるいは、(例えば慣習的な土地や資源にアクセスする事で)非市場的な生産分野に足場を確保しておけるのであれば、小規模農家の生計に重大な利益をもたらすことも可能だ。Akram-LodhiとKayは以下のように記す。 土地管理には直接使用のための生産の可能性が伴うことがある。これは商品化されない最低限の生活保障であり、農民たちに資本に対する一定の自立性を与え、生計の確保を可能とするが、蓄積を可能とするものではない。 このような‘NCSGs’は(必ずしも緊急時のセーフティネットでないとしても)、少なくとも小規模農家に基礎的な支援を提供すること事ができる。その他の事例では、村の林地や共有資源の一部を商品化されない空間として維持することで、賃金労働市場での経験不足に直面する者達を支えられている。例えば土地の囲い込みが行われても、相応の賃金雇用の選択肢が提供されないなどの場合だ。このような意味で、NCSGsは分散投資の一形態に相当するが、市場の論理や原則からは外れた、あるいは少なくとも隔たりのあるものだ。 ラオスにおける慣習地や共有地の土地所有権の問題には、労働者への影響もある。若者たちは農業や農業以外で割のいい現金収入をもたらす賃金雇用に惹かれるが、これらの職の多くには一定のリスクや脆弱性が伴う。すなわち、労働移住の社会的、経済的条件はきわどいものとなる。その他の全ての条件が同じである中、豊かな土地へのアクセスを保有する農家は、労働市場において自身をより強い交渉上の立場に置くことができる。NCSGsは国家や企業が支援する商業プロジェクトに対して、部分的に自活のための供給源を提供することもできる。これらのプロジェクトは不始末や失敗に陥りがちで、新たな形式の監視や政治的支配をもたらす傾向があり、農民たちが村の土地や資源を彼らの伝統に沿って思い通りに管理する自由に制約を課す。 ラオス農村部での「商品化されない最低限の生活保障」 その他の場所と同様に、ラオスにおける農地改革の変遷過程は小規模農家の運命と慣習地や共有地の土地権の今後を浮かび上がらせる。ジョナサン・リッグ(Jonathan Rigg)らは近年、これらの問題を東南アジアの「小規模農家の持続性」との関連から調査した。しかし、「小規模農家の農業」や「小作農家」の定義はしばしば、相当に広大な所有地や重複する資源保有権の設定が特徴的なラオスの多くの村々には容易に当てはまらない。これらの村の領域は2,000か3,000ヘクタール(あるいはそれ以上)に及ぶこともあるのだ。ラオスでは、そのような慣習地はしばしば、世帯をベースとして共同的なアクセスと利用の権利が季節別に重なる、パッチワークの如く編成されている。このような状況の中では、現金的あるいは非現金的な「環境的収入」が生計にとってとりわけ重要となり得る。 二人目の著者によるラオス中央部での最近の研究は、慣習地や共有地に由来する多くの天然資源生産物の自給利用と現金収入価値を詳しく報告している。彼は無作為に選ばれた四つのコミュニティを取り上げたが、これらは企業や小規模農家による農園計画の本拠地でもあった。彼の2016年から2017年のフィールドワーク(各村25世帯が調査対象となった)によって、一世帯の年間平均で1,272米ドル(現金等価額)に値する食品生産物が周辺の慣習地から収穫されていたことが判明した。van der Meer Simoの計算では、現金および非現金による「環境的収入」の合計は、世帯ごとの年間平均で2,316米ドル、あるいは調査対象の4村全体の平均世帯収入の44%に相当した。完全に「非市場的な」環境収入(つまり、消費されただけで販売によって換金されなかった資源)は、世帯ごとの年間平均で1,355米ドル、あるいは世帯収入合計の22%に相当した。これらの数字は調査対象の村落における‘NCSG’の価値を示している。様々な土地管理戦略の利益は、関連地域の状況や必要な労働投入量の状況に準じて説明されるべきだが、重要な事は、慣習地へのアクセスがなお世帯生産の礎となり、生計に柔軟性を与えると共に農場や移住労働の脆弱性や冴えない強制力に代わる二次的な手段となっていた事だ。 ラオスにおける社会財産関係と農地改革 上記に示した議論はラオスの慣習的、あるいは共有の林地について、「セーフティネット」議論よりも、農村部の人々が農地開発の圧倒的な影響力を切り抜ける上でNCSGsがいかに有用かという点から考察したものだ。本項では、それ自体が重大な変化を経つつある社会に根付いた制度としての慣習地の理解を基に、これにさらなる複雑さを加味しよう。 ドレスラー(Dressler)らがフィリピンのパラワン高地(upland Palawan)について指摘した通り、東南アジアの焼き畑システムにおける非市場的な最低限の社会保障の基盤は慣習的な社会財産関係であり、これが自前工夫主義的(ブリコラージュ的)な生計手法によって多機能的な状況を作り出している。これは「社会に根付いた」土地という概念の核心に迫るものだ。ラオス農村部で村の林地コモンズの囲い込みが行われる一因には、小規模農家による非公式的な土地の確保(しばしば、ラオ語でchap chongと呼ばれる)が加速した事もある。Chap chongの権利は世帯間や男女間、そして世代間において、必ずしも公平であるとは限らない。従来、Chap chongは子孫のために土地を確保する際に用いられたが、今日では商業生産用に土地を私有化する際にも用いられる。慣習的な林地を商業利益のためにリースしたり売ったりすれば、コミュニティにも重大な利益があるだろう。このような傾向は、「共有地保護」のための包括的アプローチを脅かし、共有地登録(communal land titling /CLT)促進の努力にも影響を及ぼす。 ラオスにおける林地政策改革に向けた地道な取り組み […]

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Issue 25

不可能から可能性を作り出す: ラオスにおける農村部の出稼ぎ労働者たちの裏口経済とその落とし穴

若者たちがラオス農村部の集落を離れ、賃金労働のために国内の都市空間や、タイのその他の場所に行くことは、現代ラオスではありふれた現象となった。国の過渡期にある経済において、この傾向はしばしば、構造的経済のレンズ(視点)を通じて理解される(Dwyer 2007など)。物質主義的解釈は、ラオス農村部の人々が農業を重視し、土地に固着するという神秘化されたステレオタイプとの相乗において、それなりに評価されるべきものだが、これは必然的に地方の出稼ぎ労働者を「発展の犠牲者」と見なす、ありがちな言説も生み出す(Barney 2012)。この言説では、政策から生じた貧困によって地方を出ることを余儀なくされ、非熟練の低賃金労働者にされて、職場での様々な搾取に苦しめられる人々の話が語られる。この全体論的な言説が、出稼ぎ労働者個々の主体性を十分に説明し得るものではないという点が、知識人たちの批判の的となっている。地方の故郷を出る、という若者たちの進路決定を支える「自発性」、特に現代的なものや自立に対する欲求について詳述する試みは、このような人々の受動的な「犠牲者イメージ」を崩す上で一定の効果を上げてきた(Riggs 2007; Portilla 2017)。だが、出稼ぎ労働者の実際の職場での経験になると、なおこのイメージが付きまとう。出稼ぎ労働者に関する国内外の様々な職場における考察は、強圧的な賃金体制やミクロ・レベルでの酷使、社会的差別の記述が中心である(Phouxay and Tollefsen 2011; Huijsmans and Bake 2012;)。このような記述が集まって「不可能」の条件を構成し、出稼ぎ労働者のあらゆる形をした社会的上昇志向に悪影響を及ぼす事となる。このような記述をラオス農村部での送金経済の題目に該当する文献と併読すると、一体、故郷を去る若者たちがどのようにして他所の土地で何とか生き残り、成功するのだろうかと考えさせられる(Riggs 2007; Barney 2012)。本論はラオス人出稼ぎ労働者が出先で直面している搾取的な状況の存在そのものを否定する事も、軽視する事も意図しない。むしろ本論は、彼らが不可能からいくらかの可能を作り出す手段に光を当てる事にささげる。これに際して、著者はこの社会集団に貼られた「犠牲者」という、それ自体が社会的疎外力を持つ唯一のレッテルに、さらに立ち向かって行く事を目指そう。 本論の焦点は生存戦略であり、これは今日、若いラオス人出稼ぎ労働者が職場の苦難を乗り切るために広く用いるものだ。それは日々の仕事からわずかな収入のための裏口手段を開拓する行為である。「仕事」に独自の意義を見い出そうとする出稼ぎ労働者の継続的で不従順な試みの根底には、彼らの搾取に対する秘かな抵抗がある。出稼ぎ労働者の裏口経済は、彼らが一息つくための空間をまかなう一方で、彼らを落とし穴へと導くものでもあり、そもそも、そのような行為自体が疎外された立場を彼らにもたらす経済論理を強化している。本論以下では、特定の戦略の内容とその両義的影響について、ラオス国内の地方からの出稼ぎ先として最も人気の高いビエンチャン市における二、三の個々の生活体験の断片から解説する(Phouxay 2010)。 ビエンチャンのように公共交通機関が不足した都市では、日々の通勤の多くがバイクや車などの自家用車によって行われている。車上生活の流れが絶えず寸断の危機にさらされるのは、地元のガソリンスタンドの営業時間の終了後、ナイトライフが活気を帯びてくる時間帯だ。最も慎重なドライバーであっても、時には帰宅途中の夜中にガス欠で立ち往生に見舞われる事がある。多くの者達にとって、このような状況は単に生活の中で避けるべき些細な問題でしかないが、起業家精神を持つ少数の者達はむしろ、これに金儲けのチャンスを嗅ぎつける。彼らは交通量の多いいくつかの道沿いに腰掛けを置き、その上に燃料瓶を置いて売っている。ビエンチャンで、このようなほとんど人目につかない商売をしている者達の中に、トゥ(Tu)という19歳のサワンナケート(Savannakhet)地方出身の男がいた。彼はドンパラン(Dongpalane)通り沿いの歩道上の定位置に時々姿を見せるのであった。彼の不定期と思しき商売計画を実際に左右していた一つの主な要因は、彼が職場から十分なガソリンをくすねて来られるかどうか、という事だった。ビエンチャンにある中国系旅行会社でミニバンのドライバーをしているトゥは、常に空っぽの飲料水の330mlボトルを職場に持参していた。チャンスが到来すれば、ミニバンのオイルタンクの底のドレンボルトを外し、このボトルを充填しようというのだ。ひとたび、職場からタイガーヘッド社の水の1.5ℓボトルを満たすだけの量を抜き取れば、彼のドンパラン通りでの裏口商売が開業する。 詳しく調べてみると、トゥのささやかなガソリン計画にまつわる、計算された策略作りと着実な実行には訳も無く感心させられてしまう。彼が日課として職場からガソリンを失敬するようになったのは、一年前に現在の会社でドライバーとして採用されて間もなくの事だった。上司に見つからないように、彼は毎回タンクから抜くガソリンの量を慎重に制限し、その量がその日の走行距離に見合うものとなるようにしていた。このため、上司は燃料費がわずかに増えた事を、新しいドライバーの無駄の多い運転癖のせいにするようになった。時々、トゥは上司を乗せて走る時、わざと彼の癖だと思われているような事をしてみせることもあった。たとえば、突然停車したり、発進したり、車内のエアコンを過剰に使ったりしてみせて、彼の上司が持論を確信できるようにしたのだ。また彼はわずかな収入のためにドンパラン通りで待つ、退屈な幾夜かを過ごすために外出する事をいとわなかった。ある晩、筆者が午後9時から午後11時までの彼の仮設商店に同行したところ、彼の儲けは合計45,000キープ(大体5米ドル)だった。それでも彼はこれをついてる日だ、と評価した。この現金にどういう価値があるのかは、トゥの月収が1,300,000キープ(大体150米ドル)である事と照らし合わせて理解する必要がある。 上記の話に描かれた抜け目がなくて計算高い人物は、ラオス人労働者が無能で怠慢だという従来のイメージとの著しい対照を示す。トゥの雇い主のヂョウ(Zhou)自身も、トゥに割り当てられた仕事に秘かな拡張業務がある事にはほとんど気が付かぬまま、そのようなステレオタイプで彼を見ていた。1990年代の初頭にラオスにやって来たこの広東人実業家は、トゥと彼の前にいた全てのラオス人従業員を一緒にして、著者に次のような愚痴をこぼし続けた。「彼は目の前のごみを拾おうともしない、ただその辺に座って何にもしないでいる時にですよ。怠け者のラオス人労働者ってやつでね、毎回むちで打たなきゃ、ちょっとも前に進みませんから」。彼はまたトゥの「極めて低い知能指数(IQ)」について、事務所の本棚事件によって確たる結論に至っていた。これはある時、彼がトゥに事務所内の家具の模様替えを言いつけた時に起きた事件だ。彼の極めて詳細で具体的な指示にも関わらず、トゥは本棚の正面を壁側に押して散らかすという事をやってのけたのだ。「明らかにこの田舎者の頭には脳みそなんか入ってませんね」とヂョウは言った。 上司ヂョウの面前で無能を装うトゥの複合戦術に通じるものは、ジェームズ・スコット(James Scott (1985))がいみじくも概念化した「弱者の武器(‘weapons of the weak’)」である。すなわち、階級闘争に対するサバルタンの非対立的な日々の抵抗である。ぐずぐずしたり、愚か者のふりをしたりする事で、彼はヂョウが自由裁量で彼に「ドライバー」以上の仕事をさせようとする搾取的な試みや、仕事を与える際に用いる暴言に対抗したのだ。さらに、トゥが自身を典型的なラオス人労働者として卑下した事は、ヂョウの監督上の警戒心を効果的に下げ、それによって彼は仕事の意義や業務を自分の利益となるように改める隙をより多く確保する事となった。ラオスのような発展途上のポスト・コロニアル的状況下では、先住民を怠慢などの前近代的特性と結びつける慣例がよくある。批判的な介入は、この現象をとりとめの無い植民地的遺産で、ポスト・コロニアル国家が新政権正当化のために時折用いる事もあるものと解釈する傾向がある(Li 2011など)。場所に限定的な歴史的条件も、頻繁にこの説明として用いられる。ラオスでの事例のように、ごく最近まで生計を自給自足・半自給自足の農業に圧倒的に依存していたため、資本主義の労働倫理にあまり触れた事がない住民などがその例だ(Evans 2002)。それでも、トゥの物語はミクロ・レベルの階級政治と東洋的な主体に再び焦点を当て、先住民である事と劣等性との根源的な結びつけを解読する努力が必要な事を指摘している。 トゥのような地方の若い出稼ぎ労働者にとって、日常業務内容の拡大による収入増加戦略は、生存のためということが明確率直に強調される。教育と訓練不足のために、この社会集団は高い技術を必要としない建設業やサービス業、家庭内労働、製造業などの部門に限定され、これらの部門は大抵、「どうにかやっていくだけ」の給料を保証する(Phouxay 2010)。出稼ぎ先で自らの厳しい生活を維持するというプレッシャーに加え、遠方の家族を養う義務と現代消費主義の誘惑もまた、消える事のない金欠感の一因である(Riggs 2007; Phouxay and Tollefsen […]

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Issue 24

新たな常態:スハルトから20年後のインドネシア民主主義

スハルトが1998年5月にインドネシア大統領を辞任した時、道のりは定まっていなかった。民主化を進める事はできるのか?相違を解消するために、以前のインドネシア史のような血みどろの暴力が用いられるのか?20年後、インドネシアは幾度か危うい瀬戸際をさまよった後、騒々しい民主主義に戻って来た。この論文ではジュアン・リンス(Juan Linz)とアルフレッド・ステパン(Alfred Stepan)の手法を用いて民主主義の定着を理解し、スハルト転覆から20年後のインドネシア民主主義を検討する。本論はインドネシアが多くの分野において民主主義の定着に向かって進んできた事、つまりは民主主義が新たな常態となった事、しかし、それでもなお深刻な問題、例えば非民主的な市民社会団体や、脅かされた、あるいは一部のプロ意識に欠けた報道機関、非難を浴びる政党、法の支配の脆弱性、官僚汚職や経済的不平等などが存在する事を示す。 前提条件:国家性 リンスとステパンの民主化定着のための前提条件に国家性(stateness)がある。国家が民主主義を経験するのであるから、国家でないなら民主主義はそもそも成立しない。そのような事から、著しい分離主義問題に苦しむ国々は民主化定着のために苦闘する。インドネシアが1998年に民主化されると、多くの者達は地方をけん制する権威主義的独裁者も無しに、この国がまとまるのだろうかと訝った。アンボン(Ambon)とポソ(Poso)では、キリスト教徒とムスリムとの間のコミュニティ間の暴力が権威主義的統治からの移行期の初めに、より広範囲に及ぶ混乱の可能性を強めた。長年に及ぶアチェ(Aceh)の分離独立を求める争いにしても同様であった。民主化は東ティモールに国連監視下での独立をめぐる国民投票の機会をもたらした。だが結局、おぞましい暴力にも関わらず、これらはインドネシアの国家性に対するさらなる試練の到来を告げるものではなかった。東ティモールは分離したが、この地域の独特な政治史のため(東ティモールが侵攻されたのは1975年の事に過ぎない)、これがインドネシアの実存を脅かす事は無かった。アンボンとポソ、そしてアチェでさえ、和平協定がこれらの地域の紛争を鎮静化した。領土の一体性に対する深刻な試練にもかかわらず、インドネシアはその国家性を維持してきたのだ。 市民社会 市民社会は国家から独立したアリーナで、その中で人々は団体や組合を組織する。インドネシアの市民社会、特に大学生は数か月間の抗議を通じて1998年のスハルト大統領失脚に一役買っていた。この独裁者が失脚した後、インドネシア市民はこの国の若い民主主義を支えるために組織を作って関与を続けて来た。新たな集団が出現し、古くからの組織は新たな空間を獲得した。インドネシア人は団結して投票者教育を実施し、選挙を監視し、人権を推進し、汚職と闘った。これらの集団が新たな民主主義の規範を支えていたのだ。 他にも集団が形成されたが、それらは発展するインドネシアの民主主義を支持せずに、新たな団結の自由にだけ便乗した。イスラム防衛戦線(The Islamic Defenders’ Front /Front Pembela Islam, FPI)はイスラム教の取締り強化役を自任して、武力や脅迫によってクリスマスの祝祭や飲酒、LGBT市民、逸脱者とみなされるムスリムを標的とした。自国民から成るテロリスト集団で、アルカイダやISISと関わりのある集団もまた、ホテルや証券取引所、聖地や夜市などを標的に攻撃を実行してきた。イスラム防衛戦線が政治進出への成功を経験した事は、華人でキリスト教徒のジャカルタ知事、バスキ・チャハヤ・プルナマ(Basuki Tjahaja Purnama/通称アホック/ Ahok)の2017年の再選阻止に役立った。FPIやその他の団体はソーシャルメディア・キャンペーンや抗議を指揮したが、その意図は先住民でない非ムスリムがインドネシアの多数派であるムスリムを率いるような事が許されてはならないというメッセージを拡散する事であった。FPIはさらに冒涜罪によるアホックの起訴を要求し、彼はこれによってついには禁固2年の判決を言い渡される事となった。多くの者達がアホックの歯に衣を着せぬやり方や、新自由主義的な政策には反対だったかもしれないが、FPIが民族性と宗教だけを理由にインドネシア市民の被選挙権を攻撃した事は、インドネシアの民主主義を損ねたのである。 インドネシアの報道機関が改革時代に激増した事で、新たな意見が大いに聞かれるようになった。しかし、この国では報道の自由が今なお脅かされている。インドネシアは2018年の国境なき記者団の報道の自由度ランキング(the Reporters without Borders Press Freedom Index)で180ヵ国中124位であった。ジャーナリストはこの国のいくつかの地域、特にパプア(Papua)、西パプア(West Papua)、アチェでの報道に骨を折って来た。また記者たちは自らの報道、特に紛争地域や宗教的過激派、汚職に関わる報道の結果としての暴力を経験し、これを危惧している。報道陣の中にはこの問題の一端となっている者もあるが、これは彼らが話題を肯定的に報じるために代価を請求したり、事実検証を怠ったり、あるいは党派性を示したりする(多くのインドネシアの政治家が独自の報道機関を持っている)事が理由である。「フェイク・ニュース」が次期地方選挙と国政選挙で重要な役割を果たすと見られている。 政治社会 市民社会の他に、民主主義の定着は政治社会のアリーナでも生じる。これは市民が組織化して国家権力を争う場である。スハルト体制崩壊後、何百という新政党が形成された。政党法や選挙法は徐々に改善され、一定の国民参加と支持率を要求する事で政党数が絞られてきた。2019年選挙への参戦を認められているのは16党のみで、アチェだけはこれに併せて4党が認められている。有効政党数(The effective number of parties)は政治機構内での政党の重要性を測る指標だが、これは1999年には5.1、2014年には8.9だった。つまり、全体的な党数は減少していても、重要な数は実際のところ増加しているという事だ。各党の支持率は選挙毎に異なる。闘争民主党(Partai Demokrasi Indonesia-Perjuangan)、ゴルカル党(Golkar)、民主党(Partai Demokrat)の三つの政党がスハルト体制崩壊後の4度の選挙で議会の得票数首位を占めてきた。インドネシアの強権を備えた大統領の地位は、今や直接選挙によって選出されるものであり、一定の支持率を持った連立のみが候補者を指名できる。2004年からの大統領直接選挙は、組織や政党を基準とするよりも、むしろ人格主義的であるかどうかを基準に候補者を権力の座に就けるようになった。 […]

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Issue 24

独裁政治から連合型大統領制へ :インドネシア大統領職のポスト権威主義的変容

ポスト・スハルトのインドネシアに関する多くの議論は、1998年の権威主義が終わってからの20年間に実際、どれ程の変化があったのかという疑問に焦点が置かれている。ある者達は単にスハルトの下で育った有力エリートが、インドネシアの新たな民主主義機構を乗っ取ったまでだと示唆し(Hadiz 2010)、また別の者達はインドネシアの制度的、政治的な複雑さが増加したと指摘する(Tomsa 2017)。この論争の核心は、様々な形で大統領の役割がどう変化したかという議論に反映されている。幅広い意見の一致が見られるのは、1998年以降の大統領がスハルトとは随分異なるという点だが、意見の一致はここで尽きる。では具体的に、スハルト体制崩壊以来、インドネシアの大統領はどのように統治してきたのか、そしてこの事から、開始後20年経ったインドネシア民主主義の質について何が言えるのだろうか? 本論での著者の主張は、スハルト独裁体制が過去20年間のうちに連合型大統領制に変化したというものであり、このシステムでは広範で内部が複雑な連合の中で国家元首が国の主要な社会的・政治的アクターのバランスをとっている。連合型大統領制に関する既存文献とは異なり、著者は議会の政党のみがこの連合の一部ではないと示唆する。むしろ、インドネシアの大統領連合には官僚や軍部、警察、イスラム教団体、オリガークや地方自治体などの有力なアクターが含まれている。とりわけ2002年の改憲以降に政権に就いたインドネシアの大統領は、これらの諸勢力をポスト権威主義とは言え、不完全な民主主義の既存の枠組内に何とか収め、注意深くアクター同士のバランスを取りつつ、忠義には報い、異を唱える者には罰を与えてきた。著者はこの事がこれらの連合をスハルト政権下にまん延していた、ある種の頭でっかちで専制的に強いられた政権連合と異なるものにしているばかりか、スレーター(Slater)の大統領カルテル(presidential cartels)の概念(2018)や、トムサ(Tomsa)(2017)の大統領が外部の「戦略グループ」集会に敏感だとする指摘とも対照的なものにしていると提起する。 連合型大統領制とスハルトの世襲的「連合」 政治学の議論では、連合型大統領制の概念は複数政党の状況下で営まれる大統領制の安定性を説明するために発達してきた。複数政党での大統領制は本来不安定だとする従来の前提に反し、チャイスティ、チーズマン、パワー(Chaisty, Cheeseman and Power/2014)は大統領が連合型大統領制のある手法を用いる事で、卓越した政権の安定が達成される事を見い出した。具体的に言えば、大統領はこれについて5つの主な手法を用いる。すなわち、内閣の権限、予算上の権限、自党に対する党派的権力(partisan power)、立法権、それに好意の応酬である。この概念において大統領の庇護を受ける主な者達は、議会に議席を持った政党である。 大統領の連合主義は複数政党制民主主義のために想定されたものであるが、ヘゲモニー政党制(hegemonic party systems)の独裁政治においても、大統領が統治を効果的に行うためにはしばしば、連合を構築、維持する必要があると指摘しておかねばならない。スハルトの場合、彼が統轄していた連合には軍部や官僚(彼らの与党ゴルカル党内の議員はそれぞれ「トラックA」「トラックB」と分類されていた)、テクノクラート、その他のゴルカル党の文官(トラックG)、そして後にはイスラム教団体も含まれていた。明らかにスハルト連合と民主主義的な大統領同盟には根本的な違いがあった。例えば、スハルトのヘゲモニー政党政権内における支配的立場には疑念の余地が無く、彼の圧倒的で威圧的な力は政権連合のメンバーを効果的に怯えさせ、屈服させていた。 スハルト「連合」はまた、彼の国家基金や資源へのアクセスが個人的でとめどないものであった点でも異なっていた。彼は世襲的ピラミッドの頂点に座し、自身の政権連合のメンバーに贈り物を配る事で、彼らが確実に自分に直接の借りがあるように感じさせようとした。スハルトはこのシステムを30年近くも長らえさせたが、政権連合はこれを可能にしていた状況が消滅するや否や瓦解した。1997年の金融危機はスハルトの利益誘導機構を枯渇させ、高まる懸念が彼の威圧力を上回り、また彼の年齢と健康状態のすぐれぬ事が、誰もが認めるインドネシアの指導者という彼の評判を傷つけた。1998年の5月、スハルトは去った。 移行期の大統領制:ハビビ、ワヒド、メガワティ スハルト政権崩壊から2004年までの間、インドネシアの大統領制は移行期にあった。スハルトの強制的世襲連合は過去のものであったが、彼の後継者はこれに代わる有効な民主主義的連合を見い出そうと苦戦した。この理由の一つに憲法改正のプロセスに時間がかかった事がある。これは1998年から2002年まで協議され、完全に機能し得るようになったのは、ようやく2004年になってからの事であった。これはB.J.ハビビ(B.J. Habibie /1998-99)、アブドゥルラフマン・ワヒド(Abdurrahman Wahid /1999-2001)、メガワティ・スカルノプトリ(Megawati Sukarnoputri /2001-2004)が、非常におぼつかない雰囲気の中で統治していた事を意味する。また彼らは皆、自身の統治を安定させるために連合の構築が必要である事を理解していたが、彼らはこれを非常に異なった状況の下で行った。 例えば、ハビビが大統領の座に躍り出た唯一の理由は、彼がスハルトの副大統領であったという事だ。彼には主要勢力からの長期的な政治的支援が欠けていたし、彼が権力にしがみついていられたのは当初、彼が自分を暫定的大統領と定義していたために他ならない。この理解があったからこそ、軍部や政党、イスラム教団体や官僚たちはハビビとの限定的な暫定連合を結び、彼が急速な民主化計画を断行できるようにしていたのだ。しかし、彼が1999年に大統領に再立候補する意向を表明すると、この暫定連合は解体され、ハビビは権力の座から引きずり降ろされた。 ハビビに代わったのがワヒドで、彼は国民協議会(the People’s Consultative Assembly)によって間接的に選出された。彼は新たな民主主義的状況がより現代的な連合構築の形を必要としていた事に一定の理解を示した最初の大統領で、また少なくともある程度は連合型大統領制の手法に取り掛かった。彼は自身を選出させるため、広範な政党(および軍事)連合を形成し、このために報酬やパワーシェアリングの約束も活用した。しかし、ワヒドにとっての大統領連合の必要性は協力体制の構築までで、その維持には及ばなかった。一度選出されると、ワヒドは自分の仲間に背を向け、最終的には彼らによって2001年7月に弾劾された。インドネシアの大統領型政治におけるワヒド解任のレガシーは、言い尽くせぬ程に重要だ。これが彼の後継者に確信させたのは、弾劾の脅威を回避したければ、政権にある間は絶えず幅広い連合を育む必要があるという事だ。 メガワティはワヒドの弾劾を受けてその後任に着き、これらの教訓から何がしかを学んだ事を示して見せた。彼女は連合型大統領制の概念を大いに是認し、複数政党の連合を構築して自らの内閣の顔ぶれをその任期中、終始維持した。だが、二つの問題がメガワティの連合型大統領制の要件の完全な理解と実行を妨げていた。まず一つには、当時副大統領であったメガワティにワヒドの後任となるよう説得する上で、大部分の政党や政治的指導者が彼女の任期終了までは異議を申し立てないと誓っていた事がある。つまり、これが弾劾の脅威を未然に計画的に防ぐという、細心の注意を要する仕事からメガワティを解放した。 さらに彼女は自身の内閣のメンバーである事が、彼女の任期が終わった後までも彼女に対する個人的な忠義を義務付けると確信していた。彼女の閣僚であったユドヨノが2004年に彼女に対抗する形で出馬を決めた際、彼女はこれを個人的な攻撃と捉えたのだ。この出来事は彼女の長期的な権利意識を示すものであったが、彼女が連合型大統領制に絶え間ないバランス調整と管理が必要な事を完全に理解していなかった事も浮き彫りにした。 連合型大統領制の拡大:ユドヨノとジョコウィ 2004年という年は大統領権限行使のあり方も含め、インドネシア政治の重要な転換点であった。2002年に成立した多くの憲法改正案が年内に施行されたが、それには大統領直接選挙を左右する法令も含まれていた。これに付随する新たな規定は大統領弾劾のハードルを、ワヒド政権下よりもかなり高くに設定していた。議会にもさらなる権限が付与されたが、この改正の全体的な結果は大統領権限の純益となった。 だが、幾分直感に反するものの、この認識は2004年以降の大統領の捉え方とは異なっている。事実、ユドヨノとジョコウィの両者は連合型大統領制の全面的な実施を始めるにあたり、各党に報酬や地位を差し出し、自らを(その時には随分と低くなっていた)弾劾の脅威から守るだけに終始しなかった。彼らはさらに連合型大統領制の範囲を広げ、様々な(トムサの表現を用いると)「戦略グループ(“strategic groups”)」をも自分たちの同盟に必要不可欠なメンバーとして位置付けたのだ。別の言い方をすれば、軍部や警察、イスラム教団体、オリガーク、地方自治体などのアクターは、もはやスハルト政権下での単なる政権の手先でもなければ、ポスト・スハルト暫定政権下での有力利益団体でもなくなったという事だ。むしろ、彼らは政党と同等の地位を獲得し、現職大統領の連立相手となったのだ。 ユドヨノは、この連合型大統領制の広範な定義を公然と概念化した。インタビューでも著作でも、彼は自分の大統領権限の限界について大きな不満を表明した。インドネシアに大統領制度がある事を否定して、彼はこの国の政治形態を半大統領制と半議会制の中間辺りに位置付けた(Aspinall, […]

Issue 24

シビル・イスラムはどこへ向かうのか? ポスト・レフォルマシのインドネシアにおけるイスラム主義の高まりについて

前ジャカルタ知事のバスキ・チャハヤ・プルナマ(Basuki Tjahaja Purnama、あるいはアホック/‘Ahok’)に対するイスラム擁護運動の成功は、イスラム主義がポスト・レフォルマシのインドネシアで強まっている明白な証拠だ。だが残念な事に、近年のインドネシアのイスラム教研究ではこの事が適切に説明されていない。インドネシアでイスラム主義の高まりが20年間の民主主義への移行をよそに生じた事から察せられるのは、多くの学者や観測筋がポスト・レフォルマシのインドネシアにおける保守派・強硬派のイスラム主義運動の影響について意表を突かれる形となった事だ。本論ではこの原因がシビル・イスラム(Civil Islam/民間のイスラム教)論の普及にあると思われる事を論じる。これはロバート・ヘフナー(Robert Hefner)がその代表的文献で1998年にインドネシアでレフォルマシが始まって間もなく刊行されたCivil Islam (2000)に発表したものである。この論文は間もなくポスト・レフォルマシ時代のインドネシアにおけるイスラム教分析の主要な枠組みとして、学者からも政治家からも採用される事になった。 ヘフナーはシビル・イスラムを定義して「ムスリムの思想家や活動家、団体によってインドネシアやムスリムが多数派であるその他の国々で推進される様々な公共倫理で、イスラム教の価値観や実践を民主主義のそれに重ね合わせようとするもの」(Hefner 2017, p. 7)とした。これはインドネシア人のイスラム教有識者、ヌルホリス・マジッド(Nurcholish Madjid)やダワム・ラハルジョ(Dawam Rahardjo)、アブドゥルラフマン・ワヒド(Abdurrahman Wahid)らによって明確に示された。これらの思想家たちは伝統的イスラム教神学と西洋社会理論とを巧みに結び合わせて新秩序時代のインドネシア社会の解説を提示した。これらの解説はインドネシアのイスラム教を改革し、これを保守的な先人たちによって示されたイスラム国家インドネシアの概念から遠ざけ、伝統的イスラム思想を更新し、これが民主主義や多元主義、寛容などの現代的思想と両立可能である事を示そうとしたものであった。 ところがリフォルマシから20年後、シビル・イスラム論の提唱者が予見していた、インドネシアのイスラム教が概ね穏健で自由民主主義の価値観である人権や多元主義、宗教的寛容の尊重などと両立可能だとする見通しが一層心許ないものになってきた。研究者たちの指摘通り、インドネシアのイスラム教はより保守的なものとなり(van Bruinessen 2013)、主流派イスラムの信念に相容れぬ宗教的表現に対して増々不寛容となっている。(Menchik 2016)。さらに厄介な事に、そのような発言はイスラム防衛戦線(Islamic Defenders Front /FPI)やヒズブット・タフリール・インドネシア(Hizb-ut Tahrir Indonesia /HTI)などの新興イスラム団体だけでなく、NU(ナフダトゥル・ウラマー)やムハマディヤ(Muhammadiyah)内の多数の聖職者や活動家たちによっても表明されている。ここで詳しく述べておくべき事は、本論で「政治行動に身を投じる事で、自らがイスラム教の実践すべき義務と見なすものを実行するムスリム(Piscatori 2000, p. 2)と定義されたイスラム主義者が、過去20年の間に増々インドネシアの社会と政治を席巻してきた事だ。 著者はシビル・イスラム論の提唱者がポスト・レフォルマシのインドネシアにおけるイスラム教に関して、4つの事態を予期し損ねた事を主張する。第一に、シビル・イスラム論の提唱者はエリート・ムスリムのインドネシア人有識者で、西洋の社会理論にも精通していた。いかにイスラム教が自由主義の価値観である多元主義や寛容性に統合可能かという彼らの解釈は、西洋の学者や観測筋には理解しやすいものである。ヘフナー以外にも多くの学者たちがネオ・モダニスト的、あるいは穏健的なインドネシアのイスラム教の美徳をスハルト時代後期やリフォルマシ時代初期に称賛していた(例、Barton and Fealy 1996, Liddle 1996)。 だが、そのような解釈が主流派NUやムハマディヤの聖職者や活動家で、これらの組織の指導的地位を草の根レベルで占める者たちの間で共有される事は滅多に無い。大多数のイスラム教聖職者は今なお伝統的なイスラム学校(pesantren salaf/プサントレン・サラフ)を卒業しており、これらの学校のカリキュラムではイスラム教のより直解的な解釈が助長されている。さらにこれらの卒業生たちには、地元社会の中でイスラム教の聖職者(kyai […]

Issue 24

スハルト後の20年: 世襲政治とサブナショナル権威主義の兆し

スハルトが失脚した1998年から20年後、世襲政治(dynastic politics)がインドネシアのサブナショナル(地域)政治に目立つ特徴となった。 2013年にインドネシア内務省は、少なくとも60の政治王朝(political dynasty)がインドネシア全土に存在する事を発見した。この数字はこの国の県や市、州の合計数に比べて少なく思われるかもしれないが、サブナショナル政治王朝のまん延は時と共に拡大している(Djohan 2017)。世襲政治を考慮した上で、我々は新秩序の終わりから20年後のインドネシアのサブナショナル政治をどのように理解するべきであろうか? 著者の主張は、目下我々が目にしているものが「サブナショナル権威主義(“subnational authoritarianism”)」(Gibson 2013)の何らかの兆しであり、世襲政治がこの種の体制の創造と維持に重要な役割を担っているという事だ。インドネシアのサブナショナル権威主義の兆しと度合いには、ラテンアメリカの数か国に見られる様な勢いは無いが、世襲が多発する地域でのサブナショナル権威主義の兆しを全面的に否定してしまっては、ポスト新秩序時代のインドネシア政治の完全な理解を誤らせる事となる。 従って、我々はインドネシア政治の理解をさらに深め、インドネシアが確固たる民主主義国だと主張する者に対し、少数のオリガークが自らをゲームの新たなルールに適応させる事で政治経済上の利益を追求する事のできる選挙民主主義国だと主張する者との単純な二分法を越えて行く必要がある。 分析の目を国家からサブナショナルに移す事で、我々はギブソン(Gibson (2013)が、「体制併存(“regime juxtaposition”)」と呼ぶもののいくつかの兆しを見る事ができる。体制併存とは、国家レベルでの選挙競争が熾烈で、どのようなものであれ、大規模操作が社会、政治、法的な反発を確実に生じさせる一方、サブナショナルレベルでは、特に世襲政治がまん延する地域で競争的権威主義(competitive authoritarianism)の兆しが明白な状況を言う。 スハルト政権時代のサブナショナル・エリート  スハルト政権時代、世襲政治は村落レベルを除くサブナショナルレベルには存在しなかった。新秩序のインドネシアの国家機関は、「地域の有力者」がサブナショナルレベルで公式に権力を独占する機会を制限していた(Sidel 2005)。地域に自分たちの地域の首長を選出する重要な権限が無かったのは、その多くが現役、あるいは退官した軍人であった州知事や市長、県知事が、実質的にはジャカルタ中央政府によって任命されていたためである。法律上は地方議会(DPRD)に地域執行部の候補者を指名する権限があったが、実際にこれを決定するには中央政府による「諮問」と「承認」が必要であった。これらの公式、非公式の制度上の取り決めによって、サブナショナルレベルの政治家は誰一人、政治王朝を築く事ができなかったのだ。 公式的にはサブナショナル・エリートに政治王朝を築く機会は無かった、とは言え、新秩序の国家機関はある程度、地方エリートが権力基盤を築く機会を提供していた。シデル(Sidel (2005)とハディズ(Hadiz (2011)が指摘したように、様々な経歴を持つエリート、例えば下級・中級の軍人や地方高級官僚、地方のギャングや起業家などで、政府や軍部のプロジェクトから利益を得ていた者たちは、スハルトの中央集権的で権威主義的な国家権力機構の真っただ中で非公式の政治経済的基盤を築く事ができた。したがって、これらの地域の有力者は新秩序時代に正式な政治王朝を築く事は出来なかったが、その政治経済基盤は、彼らが正式の政治活動を開始させ、ひいては世襲政治を通じた支配も含め、地域の政治的アリーナを支配する(Hadiz 2011)事を促したのである。 ポスト・スハルトのインドネシアにおけるサブナショナル世襲政治の出現と持続 1998年のスハルトの失脚は政治的プロセスの連鎖を引き起こし、インドネシア政治に重大な節目をもたらした。この重大な時に主な政治的アクターは新たな制度を作り出したが、これらはサブナショナルレベルでの行政のあり方に長期的影響を及ぼすものであった。三つの制度がサブナショナル世襲政治の出現と持続に道を開く上で極めて重要であった。それらは(1)地方分権化、(2)サブナショナルレベルにおける民主化、特に地方直接選挙制度(Pemilukada)、そして(3)国民の政治的権利、法の前の平等、いかなる差別も受けない権利の保証である。 最初の2つの制度がサブナショナル世襲政治の出現に道を開いた。ハディズによって論じられたように(2011)、地方分権化とサブナショナルの民主化は、他者を食い物にする地方政治家に権力や物質的な富を蓄積させ得るものだ。政党と政治家、有権者の間のイデオロギー的な結びつきが弱まる中(Mujani and Liddle 2010)、そのような蓄積を維持する一つの手段が政治王朝の形成だ(Buehler 2007)。 世襲政治は地方政治への支配を長引かせ、これを強化しようと望む政治家にとっては合理的な選択肢だ。世襲政治はサブナショナルレベルの現職議員が任期制限の問題に対処する事を可能としている。世襲政治には、一族全体の単位で公職を失うリスクに対する保険のような作用もあるだろう(Chandra 2016)。これに加え、世襲政治は地域の政治家が権力を自分たちの地域地盤の外へと拡大させて行く上でも役立つ。現職の世襲政治家が勢力を同州・同県・同市の地方議会に拡大させる選択をした場合、この政治形態は彼らが計画を議会に承認させる上でも役立つであろう。地方議会に議席を占める事はまた、現職議員の家族(たち)がさらなる出世のための実績作りをする上でも役に立つだろう。 最初の2つの制度と共に、3番目の国民の政治的権利、法の前の平等、いかなる差別も受けない権利の保証は、サブナショナル世襲政治を、1998年に始まったリフォルマシの20年後にもインドネシア政治の中に長らえさせるものとなった。2015年には世襲政治家によって請求された司法審査に応じ、インドネシア憲法裁判所(the Indonesian Constitutional Court /MK)が、サブナショナル選挙に関する2014年法律第一号(Law 1/2014 […]

Issue 24

インドネシアにおける移行期正義とその不満の軌跡

スハルト体制崩壊から20年、この国はどのように権威主義的な新秩序の抑圧的な政策や行為の遺産と向き合ってきたのか?移行期正義の物語、あるいは過去の清算は無残な失敗の一つであり、過去の人権侵害に対して意義ある有罪判決も、十分なアカウンタビリティも一切存在しない。また同時に、それは断固たる忍耐の物語でもあり、正義に向かう公式手段が頓挫したことで、活動家や市民社会団体は国家よりも社会を当てにした新たな道を開く事となった。別の言い方をすれば、インドネシアの過去の政治は消えて無くなったわけではなく、その弧がトップダウンからボトムアップに、公式から非公式に、補償から承認へと切り替わったのだ。 公式的な進歩の欠如は、過去20年にわたって提示され、議論されてきた目覚ましい数字や、過去に向き合うために発案された様々な取り組み…刑事告発や実情調査、真実委員会、法改正、補償、ドキュメンテーション、記念化に矛盾する(ICTJ-Kontras 2011)。この多様性は幾分、インドネシアの権威主義時代に生じた人権侵害の数と種類が反映したものであるが、それには大量殺人や反乱鎮圧、大量投獄、強制労働、強制抑留、誘拐、街頭での暴力、拷問や処刑が含まれる。 同時にこの多様性には移行期正義の三大分野である応報の道、修復の道、賠償の道に沿った類型と軌道がある。これらの一つ一つにもまた、頓挫した公式の制度的構想や、これに続いたインフォーマルな非公式の道が含まれ、移行期正義の公的手段と社会的手段との間に再帰的な関係を生み出している。 軌道1:司法の道 移行期正義の活動家や推進者にとって、裁判所における加害者の起訴は通常、過去の人権侵害に取り組む上での至高目標と考えられる。ポスト・スハルト時代の応報的正義の公的措置は憲法その他の法制改革に始まった。具体的に言えば、新法は次のように規定している。「あらゆる重大な人権侵害は人権裁判所において審議される」(1999年法律39号/Law 39)。ところが同法はまた、次のようにも断言する。「遡及法の下で起訴されない権利」は「基本的人権であり、これはいかなる状況下でも損なわれる事があってはならない」(1999年法律39号/Law 39)。この不遡及の原則として知られた条項は移行期正義をその出端から挫き、加害者を過去の人権侵害によって裁く事に反論するために用いられてきた。 これに続く諸法は、特別人権法廷が遡及事例を審議する事を許可してはいるものの、その制限的記述のために実際に裁判にかけられた事例は少なく、あったとしても大した正義が実現されたためしは無い。例えば、東ティモール問題に関するジャカルタの特別人権法廷は、決定的な証拠があったにも関わらず、18人中6人の被告だけを有罪判決とし、さらに6人全員の有罪判決は後に控訴審で覆されてしまった(Cohen 2003)。タンジュンプリオク(Tanjung Priok)に関する特別人権法廷の事例では、検察官が1984年にジャカルタ北部でデモ参加者に発砲した軍と治安部隊を裁判にかけた。裁判所は14人中12人の被告を有罪判決としたが、その後、控訴裁判所はこの有罪判決を全て無効とした(New York Times 2005)。インドネシア国内の裁判所や審判機関に失望した活動家と推進者は、被疑者を審議するために海外の国際法廷や、いくつかの事例では外国の裁判所にも目を向ける事となった。 東ティモールの国連特別委員会が一つの代表例であるが、活動家は米国やオーストラリアの裁判所などへも出て行った(Center 1992; ABC News 2007)。これらの裁判は幾つかの事例を有罪に導いたものの、いずれも上層部の加害者をインドネシアで正式に起訴するための管轄権や実施機構を欠いていた。 これらの制約を受け、活動家たちはごく最近になって第三の道を探っている。それは象徴的な意味合いに過ぎないものの、法律尊重主義を掲げた道である。1965年の大量虐殺の50周年にあたる2015年に、インドネシアの活動家たちは国際民衆法廷(the International People’s Tribunal)IPTを立ち上げ、この手段によって1965年の生存者の実体験を浮き彫りにし、国際社会に示したのだ(Palatino 2015)。IPTの企画によって生存者や目撃者、専門家や歴史家が1965年の事件について証言する一方で、判事や弁護士も含む人権団体の国際的著名人らが裁判官を務めた。証言の数日後、法廷は大量殺人、奴隷化、拷問、強制的失踪、性的暴力、国外追放やプロパガンダなどを含む9つの公判で原告らに好意的な判決を下した(IPT 1965)。 軌道2:和解 インドネシアの移行期正義の枠組みの二つ目は、和解を重視する方式である。大まかに言うと、和解の概念は紛争での異なる立場の人間を引き合わせ、過去の不和を認め、これを解決するというものだ。 インドネシアで政府が公式的和解策の導入に最接近したのは2012年であった。当時、スシロ・バンバン・ユドヨノ(Susilo Bambang Yudhoyono)元大統領の政権が、新秩序時代に起きたこの国で最大の人権侵害に対する大統領の大々的な国家的謝罪表明の意思を示唆した(Jakarta Post 2012)。だがこれが報じられるや否や、反対派も動員を始め、謝罪に対する公式宣言や脅迫を行い、効果的にこの取り組みをくじいてしまった。ジョコウィ(Jokowi)大統領も公式謝罪の意図に手を伸ばしかけたが、後に反対に遭ってこれを断念してしまった。 再び、公式手順の失敗を不満に感じた諸団体は、独自の方法でも和解を模索した。この一例がインドネシア元PKI(共産党)のメンバーと1965年に殺害された陸軍大将の家族、その他の紛争被害者の組織であり、彼らが形成した組織の名は国民会合フォーラムの子供たち(であった。定期的な会合を通じて、この団体は1965年の出来事の異なる派閥間の対話と和解の促進に努めている(Lowry 2014)。 もう一つ、シャリカット(Syarikat)という組織にまつわる一連の取り組みでは、イスラム教団体NU(ナフダトゥル・ウラマー)の進歩主義的な若いメンバーが、1965年をめぐる和解の促進を図ろうと、対話のための会合を行ったり、元PKIメンバーとNUコミュニティのメンバーとの共同プロジェクトに携わったり、女性被害者のための支援団体や協会を創設したり、共同で議会にロビー活動を行う事で、元政治犯とその家族に対する差別を無くし、彼らの権利を回復させるための措置を進めたりしている(McGregor […]

Issue 23

イスラム教の名における穏健派と過激派の連合 :インドネシアとマレーシアにおける保守的イスラム教

東南アジア一帯で高まる宗教的保守主義と不寛容の傾向は、2000年代後半以降、幅広くメディアや学者たちの注目を集めてきた。インドネシアの首都ジャカルタで行われた大規模な街頭デモは、20万人もの人々を巻き込み、知事選を控えた華人キリスト教徒の大物政治家であるバスキ・チャハヤ・プルナマ(Basuki Tjahaja Purnama)氏(通称「アホック/Ahok」)の起訴を要求、これが悪意に満ちた展開となり、彼は選挙に敗北したばかりか、冒涜罪によって禁固二年を言い渡される結果となった。現地で「Aksi Bela Islam(イスラム擁護運動)」と呼ばれた、この人気政治家に対するムスリム動員の成功とその結果は、彼の宗教的、民族的アイデンティティに基づくものであり、学者や評論家が「保守的な動き」あるいは「宗教的不寛容」と表現する広範な傾向の一部として一般に受け取られた。この傾向は、過去十年の間にインドネシア全域に生じたものである。 著者の主張は、少数派コミュニティに対する宗教的不寛容が、政治の民主化と政治化された宗教的アイデンティティを背景とした、保守主義の宗教エリートと宗教的過激派の間で結ばれた非公式の連合の結果であるという事だ。従来の見解が宗教を世俗エリートの国家権力追求のための政治の道具と見る傾向と対照的に、著者の相対的な見解は、社会運動理論の研究者によって宗教的な権威やエリートの「認証」と呼ばれるものが、小規模で非主流の過激派集団にとっては、ムスリム国民を上手く動員しつつ、世俗派の政治家や国家機構に集団的不寛容(Tilly and Tarrow 2007)を許容させる上で不可欠である事を論証する。従来の宗教エリートの観点から見れば、イスラム教の名において、彼らが「イスラム教とウンマ(umma:イスラム教徒の共同体)」の敵」と見なすものに対抗して形成された「神聖」ムスリム連合は、自由主義者や世俗派勢力の人気(と脅威)の高まりに直面した彼らの、宗教的権威と政治権力を増大させ、確立させようとする試みとして解釈されるべきである。 ムスリム主流の東南アジアにおける宗教的不寛容 宗教的不寛容の傾向、特にムスリム主流派による宗教的少数派に対する攻撃は、2000年度半ば以降、劇的に増加してきた。インドネシアでは、ムスリムの小宗派も含む宗教的少数派に対する過激派による攻撃が民主的統治の確立と共に増加した。フリーダム・ハウス(Freedom House)によると、インドネシアの自由度は2016年に3まで急落した(「最も不自由」は7)。以前は「大いに自由」という地位でより良い点数であったが、政権移行後に市民の権利と自由が低下した結果である。さらに、多くの不寛容行為や暴力行為が「穏健派」とされる集団によって実行されている。例えば、アフマディア派とシーア派に対する暴力行為が目立って多かったコミュニティは、伝統主義のムスリム組織で長く寛容と受容の典型とされていたナフダトゥル・ウラマー(Nahdlahtul Ulama /NU)と結びついていた。 マレーシアで同様の宗教的不寛容が顕著となったのは、2008年にこの国の政党優位の権威主義的政権がかつてない程に強力な野党に直面して以来の事であった。インドネシアでは、宗教的不寛容がアフマディア派やシーア派に対する数多くの攻撃に見られるような暴力行為となって現れる傾向があるが、これと対照的に、マレーシアでの不寛容は法廷や街頭、メディアに表出する傾向がある。とはいえ、小規模な暴力行為は周期的に生じている。 逆説的ではあるが、宗教的不寛容の事件がインドネシアとマレーシアで増加するのは、支配層の世俗派エリートが宗教的改革主義と闘い、国家のイメージと平和な宗教間関係を守るために「穏健なイスラム教」に向けて献身する事を誓う時である(Hoesterey 2017)。だが、世俗派支配層のエリートや主流派ムスリム組織によって立てられた誓いは、実際には注目されず、より強引で不当に目立った過激派や保守主義のイスラム教が市民社会や政策決定に見られる事となる。 インドネシアとマレーシアの両国において、従来の宗教エリートは、2000年代を通じて、概ね世俗的な国家構造の中で国家権力や国家当局に参入する機会をより多く獲得して来た。保守派エリートは、このような機会や世俗派エリートからの支援を、自分たちのイスラム教支配とイスラム社会の構想を促進し実施するために役立てたのである(Bush 2015, Ichwan 2005, 2013, Hamayotsu 2006, Salim 2007)。保守派エリートの中には、国家及び準国家の宗教官僚組織や諸機関に進出して権勢を振るいながら、類似する保守的な指針や目標を共有する過激派集団と連携する者たちもあった。彼らが国家構造や政策決定に進出した事で、国家の指導者や主流派イスラム教組織によって作られた穏健的で自由主義的なイスラム教を促進する諸制度や取り組みが損なわれる事となった。 地方政治、ムスリム「神聖」連合と反少数派の動員 インドネシアにおいて宗教的少数派に対する宗教的不寛容が劇的に増加したのは2000年代半ば以降の事である。そのような暴力行為の標的となった少数派集団の中でもアフマディア派は最たる被害者であり、これらの事件のおよそ65%が、この構成員や資産、象徴を対象に、主に西ジャワで発生したものだ。もう一つの標的としてよく知られるシーア派への暴力行為は、東ジャワのマドゥラ島のサンパン(Sampang)という小さなコミュニティに限定されていたものの、結果的に最も壊滅的な物理的損害と強制退去とをコミュニティの構成員165人にもたらした。 国家レベルにおいて、保守派の宗教エリート、特にMUI(インドネシア・ウラマー評議会)や宗教省を牛耳るウラマーたちは、主流派ムスリムと少数派コミュニティの間の敵対心を増長させる上で決定的な役割を果たした。MUIの高官たちは、スシロ・バンバン・ユドヨノ(Susilo Bambang Yudhoyono)大統領(2004-2014)によって新たに与えられた権力や権威を利用し、公式宣言や宗教的見解(ファトワ/fatwa)を出した。彼らの見解がインドネシア全土の主流派ムスリム・コミュニティに発信したのは、インドネシア社会に非イスラム分子や反イスラム分子が拡大し、進出したため、彼らの宗教的優位や結束が脅威にさらされているという事であった。これらの不安感を構成しているものは、超自由主義の聖職者アブドゥルラフマン・ワヒド(Abdurrahman Wahid /1999-2001)や、非ムスリム寄りとして広く知られる与党PDI-P(インドネシア闘争民主党)の女性議長メガワティ・スカルノプトリ(Megawati Sukarnoputri /2001-2004)らが大統領職に就いた事で、インドネシアでのムスリムの指針が損なわれてしまったとする認識である。現大統領のジョコ・ウィドド(Joko […]

Issue 23

インドネシアにおけるイスラム主義者の動員

イスラム主義運動はインドネシア史において目新しいものではないが、イスラム主義者の動員がこの国の政治舞台で一層目立つようになったのは、故スハルト大統領が辞任した1998年以降の事である。イスラム主義者たちにとって、スハルトの権威主義的政権の終焉は、彼らの宗教、文化、イデオロギー、政治、経済上の利益を表明する推進力となった。 新秩序後のインドネシアにおけるイスラム主義運動の高まりには常に複数の要因が寄与しており、スハルト政権の崩壊は重大であった。スハルトの失墜は、市民の自由や民主主義、市民の多元的共存に門戸を開放したものの、この副作用として、不寛容や急進主義、イスラム教の好戦性を高める事となった。 社会、政治、経済の著しい発展にもかかわらず、ポスト・スハルトのインドネシアは、地方や国境を越えたイスラム主義集団の流入によっても悩まされる事となった。これらの集団は、インドネシアの揺籃期にある民主主義や、脆弱な多元主義、そして、インドネシアのムスリムが中央アジアやインド亜大陸、中東の同宗信者に比べて寛容で穏健であるとのイメージを脅かすものだ。これらのイスラム主義集団が成長した結果、穏健で進歩主義的なムスリムの現代的でリベラルなものの見方が益々脅かされ、また排斥さえされるようになった。 インドネシアの民主主義は斯くしてイスラム主義者に蔓延る余地を与えている。自由と民主主義の名の下で、様々なイスラム主義集団がインドネシア全土にイスラム主義のセンターや組織、学校、それに政党までをも設立している。彼らはイスラム主義の本やその他の出版物を自由に出版し(さらにはこれを自分たちの広範なネットワークを通じて社会に流通させ)ており、そのような出版物は、彼らのイスラム主義の理念や解釈、見解、そして社会政治的計画に沿ったものとなっている。このような集団は民主主義制度の中で成長しており、彼らは自分たちのイスラム主義の諸機関を逆説的に利用して、不寛容や自民族中心主義、反多元主義を発信し、また彼らが西洋世俗主義の産物と批判する民主主義にも反対している。 多様なイスラム主義集団の様式 明確にしておく必要があるのだが、全てのイスラム主義集団が物理的な暴力を振るうわけではないし、イスラム主義者の動員が常に暴力的で過激な形をとると断じる事も間違いである。ユダヤ教やキリスト教の特定宗派がその信奉者たちに個人的な信仰心の向上を強要するのと同様に、多くのイスラム教復興運動がムスリムたちに戒律のさらなる遵守を促している。 平和的、あるいはより暴力性の低いイスラム主義者の動員には以下の活動がある。すなわち、政党の結成、選挙への出馬、同盟関係の構築、国家と市民社会の協力関係の確立、そして市民社会組織の立ち上げである。これには政府諸機関と連携してシャリーアに基づく政策を支持する事も含まれるだろう。暴力的あるいは過激なイスラム主義者の動員としては、資産に対する攻撃、脅迫行為、イスラム主義者の目的や戦略的選択に反対する個人や集団、少数宗派、少数民族集団、特定の住民層を標的化する事、それに暴動や社会不安、対立住民間の暴力、反乱がある。 非暴力のイスラム教主義の例として、タブリーグ・ジャマート(Tablighi Jamaat)、ヒズブット・タフリール・インドネシア(Hizbut Tahrir Indonesia)、あるいは一部のサラフィ派(またはネオ・サラフィ派)集団がある一方、イスラム防衛戦線(Front Pembela Islam)、ラスカル・ジハード(Laskar Jihad:聖戦軍)、インドネシア・ムジャヒディン評議会(Majelis Mujahidin Indonesia)、イスラム信徒フォーラム(Forum Umat Islam)、インドネシア・ムスリム同胞団協会(Jamaah Ikhwanul Muslimin Indonesia/Association of Indonesian Muslim Brotherhood)、反シーア派国民連合(Koalisi Nasional Anti-Syiah/Anti-Shia National Alliance)などの組織は暴力的な過激派イスラム主義集団に分類する事ができる。 ジャカルタ州知事選挙期間中のイスラム主義者の動員 ジャカルタの2017年の州知事選挙は、ポスト・スハルト時代に最も物議を醸した選挙の一つであった。この原因は、この選挙に先行して一連の暴力や緊張関係、騒動、テロ、憎悪、脅迫、人種差別、自民族中心主義や宗派間感情の動員が複数のイスラム主義集団によって行われた事である。 第1回投票でのイスラム主義者の支持は、ハドラマウト地方出身(Hadrami)のアラブ系のアニス・バスウェダン(Anies Baswedan/アニス)と、元インドネシア大統領のスシロ・バンバン・ユドヨノ(Soesilo Bambang Yudhoyono)の息子アグス・ハリムルティ・ユドヨノ(Agus […]

Issue 23

東南アジアにおけるサラフィー主義のトランスナショナリズムの諸相

政策文書やジャーナリズムの記述は、東南アジアにおけるサラフィー主義を過激思想の旗手あるいはサウジ「帝国主義」のトロイの木馬と捉えている事が多々ある。それらの記述は大抵、サラフィー主義の諸集団がこの地域に存在するのはひとえにサウジアラビア政府の財政支援があるためだとの印象を与えている。本論では、この地域のサラフィー主義者たちが外部世界、とりわけアラビア半島と結びついている状況について、より微妙な差異を示す全体像を描いて示したい。インドネシアとマレーシアにおけるサラフィー主義の二つの事例研究を紹介しよう。社会政治的状況がこの運動の国境を越えたネットワーク形成の諸相をどのように形成し得るのかを示す。 本論におけるサラフィー主義は、それ以外のムスリムの宗教上のアイデンティティを変える事を意図する布教活動と理解される。サラフィー主義者は、イスラム教の最初の三世代(al-salaf al-salih/高潔な先祖達)の宗教的慣習や道徳規範を模倣する事を志し、聖典の字義通りの解釈を実践している。サラフィー主義の究極の目的は、それ以外のムスリムに自分たちのイスラム教が正統であり、その見地から見ればその他の解釈は純粋な形の宗教の曲解であると認めさせる事なのだ。概念上、これらの諸集団は、同じくサラフィー主義の名を公言するイスラム教改革主義で東南アジアに深く根付いたものとは別のものである。 インドネシア ペルシア湾岸からの資金の流れと国境を越えたイスラム教の慈善活動は、インドネシアにサラフィー主義が出現する上で決定的な役割を果たした。この運動がインドネシアに足掛かりを得たのは1980年代初期、インドネシアがイスラム教復興を経ていた最中の時代であった。当初のサラフィー主義集団は、マディナ・イスラム大学(the Islamic University of Madinah /IUM)の卒業生を中心に展開し、この大学では宗教研究の追求を志す者に惜しみのない奨学金を提供していた。 1980年代には、イマーム・ムハンマド・ビン・サウード・イスラム大学(the Saudi University of Imam Muhammad bin Sa‘ud)の分校が、ジャカルタでアラブ・イスラム学研究所(Lembaga Ilmu Pengetahuan Islam dan Arab /LIPIA)の名で設立された。この大学はインドネシアでのサラフィー主義思想の普及に重要な手段となった。インドネシアのサラフィー主義者でIUMの奨学金を獲得できなかった者の多くが学んで卒業するLIPIAでは、教授言語をアラビア語とし、宗教学の授業は主にサラフィー主義思想に基づいて行われる。 IUM卒業生の多くはサウジアラビア留学中に貴重な社会資本を蓄え、様々な慈善団体や資金提供機関との関係を構築した。この結果、1990年代初頭には数多くの湾岸慈善団体がインドネシアに出現し、主にサラフィー主義集団への資金援助を行った。これらの中で最も重要と思われるものはクウェートのイスラム教伝統復興協会(Jama‘iyyat Ihya’ al-Turath al-Islami/Society for the Revival of Islamic Heritage – […]

Issue 23

現代マレーシアにおける宗教の憲法化と政治化

2016年に野党汎マレーシア・イスラム党(Pan-Malaysian Islamic Party /PAS)の党首によって提出された法案は、マレーシアでシャリーア法廷の力を拡大させ、より厳重な懲罰を科す事を目指すものであった。この提案はマレーシアの市民社会や反対団体から激しい反論を招いたが、その他の社会層からは支持された。その証拠に、これに賛同する大規模集会がクアラルンプールで2017年2月に開催された。与党連合の国民戦線(Barisan Nasional)は、この法案に関する国会審議を先送りとしたものの、当初はこの提案への支持を表明していたし、また、大臣の一人は最近、政府が国内でイスラム教の振興を強化してゆく決意である事を表明している。 過去20年間でマレーシアの政治的、法的言説に増大しつつあるイスラム化は、世俗かイスラム教かというこの国のアイデンティティをめぐる二極化した議論に油を注いできた。イスラム教の地位向上は、マレーシア国家が当初の世俗的根幹からますます宗教色を強める憲法秩序へと着実に、しかし徹底的に移行してきた結果なのである。 憲法作成と国家の誕生 建国時におけるマレーシアの憲法草案策定は、主に人口の大半を占めるマレー人、それに華人やインド系の少数民族から成る多民族社会マレーシアの競合する需要を反映している。独立憲法が施行されたのは、マラヤ連邦がイギリス植民地でなくなり、独立国家となった1957年8月31日の事である。 建国時に協議された社会契約の一つの現れが以下の第3条1項の憲法宣言である。「イスラム教は本連邦の宗教である。ただし他の諸宗教も平和と調和のうちに実践する事ができる」。歴史記録の証言によると、憲法の起草過程に関与した者たちは、第3条1項を含める事で憲法の世俗的根幹を損ねる事はないと述べていた。アブドゥル・ハミド(Abdul Hamid)裁判官は、憲法委員会のメンバーで唯一第3条1項の採択を支持し、イスラム的な憲法条項を「無害」と評し、これが「本国家の世俗国家たる事を妨げるものではない」と述べた。事実、憲法第3条4項は次のように述べている。「本条の条項はいずれも、本憲法の他のいかなる条項によっても損なわれない」。また、第11条1項は次のように保証する。「何人も」自らの宗教の「信仰を告白し、実践する権利を有する」。 イスラム教の政治化 当初に確立されたこの第3条1項のイスラム的憲法条項の解釈は、その後大きく変化してきた。過去四半世紀の間、第3条1項の規定は、政治や司法の当事者たちによって、社会秩序の中で宗教の存在を拡大させる根拠として注目されてきたのである。 イスラム教の政治化は、国民戦線の一員である統一マレー人国民組織(United Malays National Organization /UMNO)とPASの戦場の最前線である。主に半島部マレーシアの北部諸州に保守的な選挙基盤を有するPASは、長い間イスラム国家建設の公約を掲げてきた。この野党は1990年に掌握したクランタン(Kelantan)州で現在も政権の座を保ち、クダ(Kedah )州(2008-2013)とトレンガヌ(Terengganu)州(1999-2004)も治めている。 野党でイスラム主義政党のPASの台頭がPASとUMNOの間の政治的競争のきっかけとなった。この競争は1980年代に始まり、マレー系ムスリムが有権者の大半を占める地方で1990年代に激化した。この事を背景として、2001年9月、当時のマハティール・モハマド(Mahathir Mohamad)首相は次のような宣言を行った。「UMNOの願いは、マレーシアがイスラム教国家である事を公言する事である」。後にマハティール・モハマドの宣言を繰り返したのが当時の副首相で現首相であるナジブ・ラザク(Najib Razak)で、彼はマレーシアを世俗国家とする見解を否定し、「イスラム教は我々の国教であり、我々はイスラム教国家である」と述べた。2017年10月、首相府の副大臣は国民戦線政府が今後もマレーシアをイスラム国家としてゆく決意であると断言した。 マレーシアにおけるイスラム化の議論により、イスラム教の憲法上の位置付けが公共討議の注目をあびる事となった。このイスラム教の憲法上の位置付けをめぐる緊張状態をさらに悪化させたのがマレー人の憲法上の定義で、とりわけ彼らを「イスラム教を信仰する者」とした定義である。マレーシア社会では、宗教的アイデンティティと民族的アイデンティティが密接に絡み合ったものとして認識されている事に加え、イスラム教の位置付けはマレー人の特別な地位と密接に関わっていると考えられている。過去数十年の間には、マレー人の優位がマレー・イスラム的国家主義と密接に関わっているとする、マレーシア社会の一部の人々の観念に固定化が見受けられた。 現代マレーシアで宗教を裁く 裁判所はマレーシアにおける宗教の司法化に極めて重要な役割を果たしてきた。第3条1項はマレーシア国家の憲法上のアイデンティティをめぐる二極化した闘いの争点となっており、今日ではこれを「無害」と評する事もほぼ不可能である。世俗派は、イスラム教の位置付けは形ばかりのものであったはずで、マレーシア憲法の根幹は宗教とは無縁であると主張する。マレーシアがイスラム教国家として認識される事を強く求める者たちは、第3条1項が公共領域におけるイスラム教の役割の向上を定めたものであると主張する。この第3条1項の拡大的な解釈は、1988年のチェ・オマール裁判の名判決で最高裁判所の宣告によって是認されたイスラム的憲法条項の解釈とは完全に食い違ったものである。最高裁判所はその際、第3条によるイスラム教の位置付けが「儀式や祭式に関する行為など」のみに限定されたものであり、この国の法律が世俗法である事を言明している。二年後、最高裁判所は憲法の世俗的原理を再度主張し、イスラム教を国教と認める事が「いかなる手段によっても、非ムスリムの人々の公民権を損ねることはない」という起草者の発言を引き合いに出した。 この解釈は間もなく変わる事になるだろう。過去20年の間にマレーシアの司法言説は劇的に変化し、憲法秩序におけるイスラム教の地位向上に好意的となった。民事裁判所は、憲法によって保障された宗教の自由や平等などの諸権利に関する重要分野において司法権の行使を避けている。一般裁判所の裁判官たちは極めて慇懃な様子でシャリーア法廷に司法権を譲っている。その結果、宗教裁判所の権威や機関としての力が大いに拡大される事となった。 例えばリナ・ジョイ(Lina Joy)の話を考えてみて欲しい。マレー系ムスリムの家庭に生まれたリナ・ジョイは、キリスト教に改宗してキリスト教徒の婚約者と結婚しようとした。しかし、彼女が公的にはまだムスリムと認識され、シャリーア法の司法権の下にあった事から、彼女はそのようにする事ができなかった。ムスリムの結婚は1984年イスラム家族法(連邦直轄領)の下で契約されねばならず、この法律が非ムスリムとの結婚を禁じているためである。国民登録管理局は、彼女の身分証に記された宗教の記載をシャリーア法廷の棄教証明無しで変更する事を拒否した。 リナ・ジョイは民事裁判所に違憲の申し立てを行い、彼女の改宗が第11条の宗教の自由によって保護される事をその根拠とした。マレーシアの最高上訴裁判所は2007年に彼女に不利となる判決を下し、リナ・ジョイのイスラム教からの改宗を、憲法の保証する宗教の「信仰を告白し実践する」権利によって保護されるものではなく、シャリーア法廷が決定する宗教上の問題と見なした。連邦裁判所の大多数が背教行為をイスラム法に関する問題と見なしたため、これはシャリーア法廷の司法権下にある問題とされた。リナ・ジョイ裁判の厳しい判決が裁判長によって明確に述べられ、多数派の意見として次のように記された。「何人も気まぐれに信仰を捨てたり入信したりする事はできない」。議論が分かれるもう一つの法的領域は、イスラム教に改宗した人とその非ムスリムの配偶者との間の親権と改宗をめぐる闘いである。このような事例が生じるのは、一方の親(大抵は父親)がイスラム教に改宗し、その後にもう一人の親の知らぬ間に子供たちを改宗させる場合である。ムスリムとなった父親は、そこでシャリーア法廷に離婚と親権を申請する。何が問題かというと、シャリーア法廷によって与えられた改宗や親権の命令に非ムスリムの母親が異議を唱える事ができなくなる事だ。非ムスリムはシャリーア法廷を利用する事ができないためである。 インディラ・ガンディの苦境はこの司法権に関するジレンマの好例である。彼女とその夫が民法の下で結婚した時、彼女らは共にヒンドゥ教徒だった。後にイスラム教に改宗した際、彼女の元夫は密かに彼らの三人の子供たちをシャリーア法廷でイスラム教に改宗させた。控訴裁判所はシャリーア法廷での子供たちの改宗を無効とする下級裁判所の判決を覆した。下級裁判所は、イスラム教への改宗が全くの宗教上の問題であり、シャリーア法廷のみが判決を下せる問題である事に疑念の余地は無いと宣言した。インディラ・ガンディの事案は、目下、連邦裁判所を控えて審議中であるが、この件もまた、マレーシアの一般裁判所と宗教裁判所の二重法制度を貫く司法権の断層線を示す好例である。 民事裁判所による第3条1項のイスラム的憲法条項の拡大的な解釈はまた、イスラム教の社会秩序内での地位も向上させた。民事裁判所の裁判官は、イスラム教の位置付けを憲法のその他の部分を評価するための解釈上のレンズであると是認したのである。 2009年に、内務省はカトリックのクアラルンプール司教区の名義大司教がマレー語のカトリック週刊会報紙『Herald』の中で「アッラー」の語の使用を禁じる命令を発令した。カトリック教会はこの省令に異議を唱え、これが教会の信仰を告白し実践する権利に反するものであると主張した。2013年に控訴裁判所は全会一致で政府の禁令を支持し、「アッラー」という語はキリスト教の信仰と実践に不可欠な要素ではないため教会の宗教的自由は侵害されていないとの判決を下した。裁判所によると、第3条1項の目的は「国教たるイスラム教の尊厳を守り、また、これが直面するあらゆる脅威や脅威の可能性からイスラム教を保護する事である」とされた。 現代マレーシアにおける憲法上の政治と宗教 宗教の位置付けをめぐる論争は、その後も現代マレーシアで大きな注目を浴びた。近年の政治的な出来事は、マレーシアの与党連合が国内のイスラム教保守主義の高まりによってもたらされた諸問題に取り組む事に乗り気ではない事を示すものだ。シャリーア法廷の量刑権限拡大の提言に関する議論が先延ばしになっている上、政府は、ムスリム改宗者と非ムスリムの配偶者の子供の改宗をめぐる対立の解決を目指す法案を2017年8月に取り下げた。この法案は両親の同意を得ずに子供を改宗させる事を禁止するはずのものであった 裁判所は、マレーシアの社会秩序内での宗教の位置付けをめぐる議論の利害関係の定義に極めて重要な役割を果たしている。多大な関心が政治や公共の領域での緊張に向けられてきたが、司法はこれらの対立の場として極めて重要であった。過去20年におよぶ法廷闘争が浮き彫りにしているものは、自らのアイデンティティの岐路に立った国家の宗教と世俗主義をめぐる問いの重要性である。憲法秩序の中のイスラム教の位置付けをめぐる論争は、現代マレーシアにおける憲法の精神を懸けた、深刻な、そして現在進行中の闘いを反映するものである。 Yvonne […]

Issue 23

ブルネイ・ダルサラームにおけるイスラム教の権威と国家

東南アジアに類例が無いほどに、ブルネイ・ダルサラームにおける政治のイスラム化は国家の独擅場となっている。ブルネイの宗教官僚制度は、イスラム教関連の公共通信に対する絶対的な独占を保持している。かつて、世俗主義やイスラム主義の何らかの組織的な反対勢力が、独立後の政府の宗教的態勢に公然と挑んだ事は無かった。イスラム的な政策決定は、国家の当事者間だけで、しかも秘密裏に行われる。イスラム教の非国家組織や独立した立場の宗教学者(ウラマー/ulama)、あるいは「規制されない」イスラム教関連の出版物は、公には存在しない。ブルネイ人のウラマーは当然のことながら公務員である。 1984年の独立宣言で、スルタン・ハサナル・ボルキア(Sultan Hassanal Bolkiah)が、ブルネイは「永遠に(スンニ派)イスラム教の教えに基づいた、主権、民主・独立のマレー・ムスリム王国となろう」と宣言した。彼はブルネイを「非世俗」国家と見なしている。「民主的」という観念には議論の余地がある。なぜなら、これまでにブルネイで総選挙が行われた事は無く、国会も組織的な野党も存在せず、スルタンの任命した内閣によって国が治められているためだ。彼は完全な行政権を有し、憲法上「何をしても正しく」(第84B条)、首相で、防衛大臣、財政大臣、外務通商大臣であり、警察と軍の司令官で、「国教(イスラム教)の長」(第三条(2))であり、「地上におけるアッラーの代理人」(ハリーファ/khalifah)で「信徒の指導者」(ウリルアムリ/ulil amri)であると考えられている。 立法評議会(Legislative Council)は、その前身が1983年に解散された後、2004年に再開された。これを「見せかけ」とする見方もある。これは概ね任命制という評議会の性質と権力の欠如に鑑みた見解である。他の者たちは、これを国民参加型の新たな政治風土に向けた限定付きの一歩と見なしている。数十年に及ぶ非常事態宣言を招いた1962年の短命な反乱以降、そのような風土が存在した事はなかった。国民は今や、年一回召集される立法評議会の議員に懸念事項を持ちかける事ができる。この評議会は政府予算の「承認」も行う。 ブルネイの公式な国是、「マレー主義に立つ、イスラム的王政」(Melayu Islam Beraja, MIB)は、政治上、最も重要なものである。それは、マレー民族(M)、イスラム教(I)、そして王政(B)を国家のアイデンティティの中核として特権的に扱うものだ。MIBが「作られた伝統」であるとの批判に対し、ブルネイ人の(MIB推進の義務を負う)学者たちは、この頭字語が作られたものである事を認めつつも、これが数世紀に及ぶ「ブルネイ文化」の本質を反映していると主張する(Mohd Zain 1996:45; Müller 2015:315)。 MIBは益々制度化されつつある。MIB概念委員会(MIB Concept Committee)がその仕事に着手したのは1986年で、これは後にMIB最高議会(MIB Supreme Council)に形を変えた。1990年には政府がブルネイ研究アカデミー(the Academy of Brunei Studies/APB)を設立し、これはMIB最高議会の事務局を置くブルネイ・ダルサラーム大学を拠点とした。APBはMIBの知識生産の原動力である。APBはMIBを三つの段階で普及している。すなわち、学校、大学、そして国民である。学校や大学でMIBの授業は必須科目であり、いかなる国民もMIBの単位履修を経ずに卒業する事はできない。報道機関は絶えずMIBに言及しており、公共イベントは、通常、MIBに適うものとなるように考案される。例えば、芸術や詩のコンテストはMIBの愛国的表現を模範としており、留学生たちは「MIBの価値観を守る」よう指示される良き市民にとってのMIBの重要性と公的表現の諸規範が社会に深く定着し、何であれ、MIBに対する個々の意見は「隠された記録(“hidden transcripts”)」(Scott 1990)に隠れたままとなっている。ところが、MIBの幹部でさえ、この頭字語をもじった日常的な冗談を交わしている。この概念に対するより真摯な問いはサイバー空間に生じているが(Müller 2010:157)、これは極めて稀な事である。 MIB・イスラム行政の法的、制度的手段 ブルネイのイスラム化政策の歴史は、イスラム教の教義および習慣の内容や、越えてはならない一線を定める際の、国家の独占性を強化する歴史である。組織的な「イスラム主義者の動員」は(この特別号のテーマであるが)、少なくとも、反抗的あるいは非国家的なコンテキストにおいては滅多に存在しない。だが、過去に、海外の民兵組織(例えばジェマ・イスラミア/Jamaah Islamiyah)や非暴力だが違法なムスリム集団(例えばマレーシアのアル・アルカム/al-Arqam)のメンバーを支持する人が逮捕された事はあった。もし「イスラム主義」の意味が、教育努力と並んで社会をトップ・ダウン式にイスラム化するべく、国家とその諸機関を利用する事を志向した政治的イデオロギーや社会計画であるとすれば、ブルネイ国家そのものが1980年以降熱心に「イスラム主義者」の動員に携わって来た事になる。 歴史的に見れば、イスラム教の影響を受けた法典は、慣習的規範と共に、植民地時代以前のブルネイに存在した。英国総督府時代(1906–1959。1888年以降は保護領だった)、植民地の役人たちはスルタンに宗教行政の「近代化」を提言した。これは、英国の国家形成や法律尊重主義的思考の認識を踏まえ、体系的な制度化と成文化を目指すものであった。この結果が1912年のイスラム法制定に始まる一連の法典や新機関の設立だった。この多様化にもかかわらずイスラム教の法的領域は家族法や身分関係法に限定されたが、宗教によって規定された犯罪の幾つかも処罰の対象であった。スルタンの権力は宗教的、慣習的な事柄に縮小されたが、彼らはこれらの領域を利用する事で自らの地位と象徴的権力を確立させた。ブルネイは1959年に内政をほぼ自治によって行うようになった。1959年憲法は国家の「イスラム的」、「マレー的」性質を強調したものである。この憲法は、個人の諸権利については、宗教的「平和と調和の…実践」(第3条)以外は触れていない。 植民地時代の宗教行政の基盤は、幾分逆説的ではあるが、解放的な植民地独立後のイスラム化政策に「制度的言語」をもたらした。これらには、新たなイスラム法や宗教官僚の影響力のさらなる拡大、そしてその職能分化が含まれていた。1990年には作業部会が現行法の見直しを始め、これを「イスラム教に準拠したもの」とした(Müller 2015:321)。この対象となったのが、二重体制の中でシャリーア法と併存する英国由来の諸法である。1991年と1992年にはアルコール飲料と豚肉の販売が禁止された。官僚たちは増々(特に国家ムフティ(Mufti/イスラム法官)によって)「真のイスラム」からの「逸脱」と見なされる事柄を非合法化する事に心を砕くようになり、バハーイー教の禁止を皮切りに(Müller 2015:328)、「逸脱した教義」のリストは増え続けた。非国家的なイスラム教の言説空間が確実に存在できないようにする事と平行し、官僚たちはムスリム・マレー文化からの「迷信的」要素(Müller 2015:327ff.)の浄化を志したのである。そのような、何らかの「逸脱」を定義し、これに異議を唱える事が、役所の重要な活動として、社会慈善活動や布教、モスクの建設および維持管理、金曜礼拝の説教の執筆や巡礼諸務などと並んでいる。有力機関としては、国家ムフティ省(the […]

Issue 22

国民の名において:タイにおけるヘルス・ガバナンスの魔術と謎

2014年の9月、近年の軍事クーデターの頭首であるプラユット(Prayuth)司令官は、政府のハイレベル会合において、彼が軍事支配の反対勢力による呪術攻撃の犠牲者であった事を公表した。地元紙の報道によると、彼は喉と首の痛みを「黒魔術」、sayasaatのせいにしたものの、会合の出席者たちは心配無用、彼の政権を呪った者達には呪いのお返しをしてあるのだという。 著者はタイの国家機関で、2011年から民族学のフィールドワークを行ってきたが、これらの機関の保険専門家達が示唆したところによると、メディアが取り上げるプラユット司令官の呪いと呪い返しは疑わしいものであり、政治における呪詛がタイのメディアで頻繁に取り沙汰されようとも、政治的領域内にsayasaatが実際に存在する場はないという事だ。だが、これは全ての呪術が一様に否定された事を意味するのではなかった。この機関の専門家の一人、キム(Kim)は、次のように述べた。「sayasaatとは、暴力や貪欲の事です。騙されやすい者(ngom-ngai)と無学な者だけが、これによって惑わされるのです」。だが、また同時に彼女は、本当に「超常的な力を備えた者たちも中にはいる」と打ち明けた。もう一つのバーラミー(barami)という言葉に言及し、キムは王族や神々、僧侶やブッダは皆、あらゆる知の源泉にある者たちの力、バーラミーの宝庫なのだと主張した。 タイ学の研究者たちは大抵、バーラミーを名声、カリスマ、あるいは宇宙的力と翻訳する(Gray 1986, Johnson 2013, Jory 2002,参照)が、キムは単にこれを英語で「偉大さ」と表現した。それは超人的な力であり、宇宙の法たるダルマ(dharma)に適った行為を行う者、あるいは、これを制定する者たちが備えた力である。上座部仏教の伝統では、相当な量のバーラミーを持ち合わせた国王は、人民のみならず、病気や降雨、農業生産にまで影響を及ぼすのであるが、これは彼から放たれた神授の力が、その周囲の存在へと降り注ぐためである(Gray 1986:236)。偉大さとはすなわち、人間たちの作った法律とダルマとの間を縫合する神聖王たちの能力を指すのである。彼らは政治的に考案された善と、絶対的な「天来の」善とを、正当な統治という世俗の為政権の下で結びつけるのだ。 ここでは、タイ政治における魔術的思考の局面に目を向ける事で、これをオカルト染みたものとして非難するのではなく、超越的真理の源に立脚したタイ国家機関の政治否定が、タイを越えた諸状況といかに関連しているかを示す事にする。 キムはしばしば、日常生活の中にいかに国王の偉大さが窺われるかという事を説明してくれた。彼女は西洋諸国、特にアメリカにおける進行した資本主義の破壊的影響を指摘しつつ、タイが比較的健闘している事を、国王が介在しているためであると主張した。 「我が王は、知足の観念を我々に与えて下さった。陛下の足るを知るという哲学は、西洋人の尻を追う事を(tam kon farang)やめるよう教えて下さった。それは私たちに、自らの仏教的伝統を敬う事、そして、新しいiPhoneを欲しがる事、都会の人々の暮らしを、隣人の持ち物を欲しがる事が、苦しみしかもたらさぬ事を覚えておくよう教えています。彼は西洋社会を侵す社会悪の苦しみから我々を救って下さったのです。ファランたち(Farangs)は、物事を経済的な合理性の観点からしか考えておらず、何が道徳や自然、精神的な理に適うかという事は気にかけていないのです」と彼女は言った。 西洋人の事をファランと呼ぶキムが繰り返す、王政主義者に共通の見解は、しばしば単に「父」と呼ばれるプミポン国王が、国内外の諸勢力と闘い、この国を破壊的な資本主義の行き過ぎから遠ざけるべく、マインドフルな消費主義の価値観を教えてくれたというものだ。彼女が誇らしげに支持したタイ保健当局高官達の主張は、国王の「足るを知る経済哲学(Sufficiency Economy Philosophy:SEP)」を、WHOの健康志向ガバナンスのモデルに着想を与えたオリジナル概念と位置付けるものだ。 WHOのヘルス・ガバナンスの認識が、同概念に対するタイ人の認識の仏教的枠組みから袂を分かつ一方、両者はいずれも、経済的・政治的利益を、根本的には環境や生物学上のプロセスによって制限されるものとして考え直すことを促している。この二つのモデルは、経済的・政治的権力をめぐる国際競争にけん引される諸政府が、幸福や福利に立ちはだかる諸状況に、遅かれ早かれ、答えを出さねばならぬ事を論じている。両者が提示する「正しい」ガバナンスの形は、政策決定のプロセスにおいて、自然や生物学上の結果をも考慮する事のできるテクノクラートたちを中心としたものである。 実に、WHOの言う「健全な政策(healthy policy)」を策定するというSEPとWHOの観念の類似性は、先の2006年のタイにおけるクーデターの礎となっていた。当時のタイ暫定軍事政権の首相、スラユット・チュラーノン(Surayud Chulanot)は、キムのような保健専門家たちをその政治改革の最前線、あるいは中心に配し、WHOのヘルス・ガバナンス構想を国王のSEPと共に新憲法の中に記すまでとなった。 キムの機関のような国家機関の台頭は、スラユット軍事政府が導入した、いわゆる「モラル転換(moral turn)」に伴って生じたものである。選出され、自身を国家のCEOと称したタクシン・チナワット首相に対し、スラユット暫定軍事政権は、環境や社会、健康に対するタクシン統治の負の成果を強調し、これを利益第一の統治が人間の貪欲のあるべき限界を踏み超えた証とした。国王の承認を以て、自らを国家の健康の守護者に任じた後、暫定軍事政権はクーデターをこの貪欲に対する「必要悪」として正当化した。彼らは、タクシンが経済を優先させ、物事の本質や真理であるダルマを無視したために、宇宙の法や秩序の礎となるこの真理に対する彼の無知のために、国家を環境悪化や病気、社会的不和から守る事ができなかったと論じている。 国家保健当局のもう一人の専門家であるトム(Tom)は、スラユットの見解の支持と、2011年に国が民政回帰した後のタイ民主主義に対する疑念を表明した。彼は「タイはまだ準備ができていない」と言い、民主主義は西洋では機能しても、タイの現状においては幻想でしかなかったと述べた。トムによると、民衆は「知」を欠き、利己的な政治家達が人々を騙し、自分たちに投票させる事に無防備なのであった。唯一「真っ当な人々」、ここでは知を備えた人と解釈される健全な人々、宇宙の法に適う「真っ当で」、健全な結果を導く決断を下せる人々だけが、タイ国家の自信を回復させられるのだ。「真っ当な人々」とは、つまり、彼らのような保健専門家たちの事である。 WHOが「権能や権限がもはや政府内に集中する事のない知識社会」を標榜したことを受け(Kickbusch and Gleicher 2012: vi)、ここに紹介したトムやキムのような国家の保健職員達は、政治的利益の獲得に直接関与せぬ者達だけが、公益のための政策作りを行うことができると主張している。国王のSEPとWHOのヘルス・ガバナンスの両概念が、保健専門家達に自らが中立的で客観的な個人であり、国民の名において介入する能力を持つ者との幻想を抱かせているのだ。 ここで、我々が手にしている、初めはテクノクラシーの典型的なモデルとも思えたポスト政治的な環境は、ふさわしい政治空間を、健康測定基準や健康管理に置きかえるものである。だが、冒頭で示唆したように、キムの統治概念にはもう一つの側面、バーラミーの神秘的な力に依存した側面が存在する。バーラミーは専門知識とは違って、習得したり、学習したりする事のできぬものである。それは特定の人々が生まれつき備えたダルマを定める能力の事である。いわば、専門家達とは、バーラミーを識別できると主張する者達、あるいは、バーラミーによって識別された者達という事になる。すなわち、これらの専門家達によって想定されたテクノクラシーとは、それぞれの様々なレベルの専門家たちが、前国王の宇宙的な力と交信するというものであり、その国王自身は、最高位の専門家の頭首と位置づけられる。教養あるタイ人たちとって、彼らの知識とバーラミーとの最も顕著な結びつきの縮図は、彼らの壁にかけられた写真である。 国王が全ての高等学位の授与を行っていた事から(この任務は後に王族メンバーに委譲された)、学位授与式は、専門分野課程の修了証明と、関係者達から非常に由々しく受け止められる各学位取得者への王命授与という、二重の機能を果たしている。この写真の中に永劫に記録されているのは、手を伸ばし、高座の人物から学位を受ける彼ら自身の姿である。この臣下と高壇上の君主との間に興味深い絆が生じる。卒業証書が両者をつなぐこの瞬間、知識を求める者と真理の源にある者との隔たりを縫合する絆が生じるのだ。 バーラミーの神秘的な力が、政治をタイに適応させるメカニズムの潤滑剤となっている点について、ポスト政治思想家たちに倣い(cf. Badiou 2008; Rancière […]

Issue 22

土地と王権:国王崇拝、精霊信仰と地理的身体

メコン川の河岸で、焼き豚をつまみながら、カイ(Kai)と私はナーガ(phaya nak…神話上の水龍)や、その他の守護精霊の話をしていた。夕食に同席していた数人が、おかわりの肉をよそおうと席を立つと、カイは熱を発するバーベキューの焼き網越しにこちらへ身を乗り出してきた。「一つ、(タイの)(プーミポン・アドゥンヤデート)国王が一度も訪れたことのない県があります。それがどこだか、なぜ彼がそこに一度も行った事がないのか、当ててみてください」。 私は一瞬考えた。彼女が何を言わんとしているのか、なぜまた急にそのような事を言い出したのか、不思議に思った。反体制的な南部諸県の事を言っているのだろうか?そこでの長期にわたる反乱や、反感を抱いたムスリムの多数派が、国王の訪問を危険にしているというのだろうか?あるいは、東北の国境県での1970年代の共産党の反乱が、国王の訪問を取りやめさせたのであろうか?だがそもそも、なぜナーガについて話していた時に、国王の話を持ち出してきたのだろう?「ヤラー(Yala)」、と私はあてずっぽうに一つの南部の県名を挙げた。 カイは微笑んだ。「ムックダーハーン(Mukdahan)」と彼女は言った。メコン川沿いの近隣県である。「彼は訪問できないのです。守護精霊がそれを許さないからです。精霊は、ただ一人の君主(chao)のみが、ムックダーハーンに存在できると言い、その他のどのような王であれ、その地に立ち入る事を禁じているのです。」 カイがここで言っているのは、Mungmeuang王という、ムックダーハーンの街(ひいては県)の守護精霊の事である。ここでは、Mungmeuangの称号の「chao fa」を「王」と訳しておくが、これはシャンやラーンナーの歴史上の指導者達によくみられる称号で、「王子」と訳される事もある。彼がその一部を成すこの県の守護精霊信仰には、高貴なニ姉妹(the Two Noble Sisters /chao mae song nang)も含まれ、メコン地域全域の中心都市には、これと同様の存在がある(このような守護精霊信仰について、より詳しくはHolt 2009, Rhum 1994, Tambiah 1975を参照)。 私はカイの「ただ一人の君主のみが存在できる」という発言に興味をそそられた。これは東北部のタイ王権に対する挑戦とも受け取れるが、ここではこれがそれ以外の事、すなわち、王と精霊の権限の捉え方の違いを示すものである事を論じる。カイの精霊信仰とタイ王室との関連付けを見てみれば、タイにおける王権が、王位にまつわる民間の宗教的実践の延長として、また政治的支配の一体制として見られている事に間違いはないだろう(cf. McCargo 2005)。私の主張は、守護精霊の崇拝が、君主主義の実践に影響を及ぼし、またこれが転じて、王室崇拝の新たな形が地域の精霊崇拝に影響を与えているという事だ。この議論はこの場で論じ尽くせるものではないが、ここで(当時の)現国王プミポンと守護精霊Mungmeuangとの対立による例を一つ挙げておこう。 どの程度の神話が、あるいは、どの程度の現実的政治が、タイの君主制度を動かしているのかという事は、長年、どっちつかずの議論となっている(McCargo 2005, Jackson 2010, Gray 1986)。カイの発言は決然と前者に落ち着くものであり、彼女が王室の権威をchaoであると難詰するのも、全く同じ理論による。タイの国王崇拝がラーマ9世を菩薩と掲げる(Gray 1992:452)のに対し、カイは国王を別の形で、アニミストの君主として示し、その権限を全宇宙には及ばぬものの、地理的境界で定められた領域には及ぶとした。 私とカイが論じていた意味での、chaoとは、秘められた力を示す言葉である。もし、私がある特定の物のchaoであると言うなら、それはその物が私の意思に従うという意味であり、それは私が車(chao khong rot)や、政体(chao meuang-守護精霊)、あるいは天のもの(chao fa-王子)と言おうが同じである。それは一度に超自然的な神々やブッダ、国王、あるいは、より日常的には所有権を示す言葉である。すなわちchaoは、主権を明確に述べるものなのだ。配下の人間や物の所有を通じ、彼らはそれを繁栄と幸運に導き、確実に行動や存在を発展させる(charoen)(Johnson 2014参照)。 この発展の呪法は、長らく東南アジア諸国の国家儀礼の一部となってきた。結局のところ、ここは「劇場国家」の地(Geertz […]

Issue 22

“Raya Kita”:タイ南部のマレー系ムスリムと国王

2011年に子供の日のお祭りが、ヤラー県ラーマン郡(the Raman district)のLa Meng校で開催された。このお祭りの様々な催しには、ゲームや出しもの、くじ引き、屋台、景品や表彰式などがあった。いくつかの国家機関や軍部から送られた「山のような贈り物」に加え、その年のお祭りを特別にしていたのは、生徒たちの“Rayo Kito”(あるいは、マレー語の標準語では“Raya Kita”、意味は「我らが王」)の合唱会であった。この歌は、国王が臣下たちのために、いかに献身的にたゆまぬ努力を行ってきたか、またそれに応じて、臣下たちがいかに彼を敬愛してきたかという事を歌ったものである。この歌を子供の日のお祭りに歌う事で伝えようとしているメッセージは、マレー系ムスリムの生徒たちも、この国の他の者達と同じように国王に感謝し、彼を愛しており、その事に彼らの民族や宗教の違いは関係ないという事だ。 Busaという5年生の子供の父親は次のように述べた。子供の日のお祭りは、今なお続く騒乱が2004年に勃発して以来、国家機関から多くの支援を受けるようになったが、国家から厳重に監視されるようにもなった。兵士たちがAPC(装甲車)や軍のピックアップトラックでやって来たのは、単にプレゼントやアイスクリームを渡すためだけではなく、その催しが防衛方針に沿うものであるかどうかを確認するためでもある。生徒たちがお返しに“Rayo Kito”を歌ったのは、彼らが国王と国を愛し、これに忠実である事を、国家の要請通りに示すためであった。そこで彼が続けて言うには、この出しものは額面通りに受け止められぬものであり、学生たちの中には、国王の事を歌の通りに尊敬する者たちがいたとしても、他の者たちは歌詞など全く意識しておらず、歌えと言われたから歌ったまでなのであった。 マレー人ラジャ La Mengの住民たちは、マレー人ラジャ(あるいはRaya)を、カリスマを持った無敵の人物と見ている。彼らの間に膾炙する一つの物語では、あるラジャが森の中を従者と共に旅していた時、一頭の象に出くわし、これに攻撃を仕掛けられた。ラジャは力を籠め、素手のままでこの象を打ち倒したのである。この物語が広く流布し、ラジャを手強い人物と印象付けた。また、ラジャたちは超自然的な存在と関係している事から、守らなくてはならない幾つかの食事規定がある。彼らが食べられないものは、筍と数種類の魚であり、これらを口にすると彼らの力は消えてしまう。また、彼らがカリスマ性を持つと同時に無敵である事は、臣下たちに愛と恐れを抱かせる。 マレー文化専門家のMengは、住民たちがラジャに対して相反する感情を抱いていると言う。村人たちが好感を抱いているのはRamanの支配者たち、中でもTok Niであり、彼は村の設立に重要な役割を果たした事で知られている。村人たちが祖霊やその他の精霊の儀式を行う際は、必ずRamanの支配者達に敬意が表される。だが、彼らの先祖は数名のRamanの支配者達を、その残忍さゆえに恐れていたのである。一つの物語によると、Raya Sueyongという、ケダ州を逃れ、Ramanの支配者の娘と結婚した者は、常に料理人たちに命じ、料理を作る際に彼の何人かの臣下の肉を入れさせていたという事だ。また別の物語によると、あるRamanの支配者は、彼に贈られたジャックフルーツの一部が欠けている事に気が付き、兵士たちに誰がそれを取ったのかと尋ねた。ある妊婦が、つわりのためにそれを食べた事を知った後、彼は兵士達に彼女の腹を裂いてジャックフルーツを取り出すよう命じた。また同じ様に、彼はある側室が王宮からこっそりと抜け出していた事を知ると、彼女の脚を切断させたのであった。 Mengは、マレー人臣民達のマレー人支配者に対する恐れが、シャム人の国王達にまで拡大されたのだと付け加えた。彼は次のように言った。「マレー人臣民達がシャム人の国王達を恐れた理由は、これらの王達が遠方に住み、彼らが一度も王達を見た事が無かったためでもある。彼らは王がどのような者達であるのかを知らなかったのだ。さらには、あるシャム人の王が、以前この地域にKhun Phanを送ってマレー人盗賊の成敗に当たらせた事があり、この事が地元のマレー人達にシャム人の国王をより一層恐れさせる事となった」。Mengの話が正しいとすると、疑問は、なぜ現代のマレー人達が、タイ国王、とりわけプミポン国王を愛しているのか、という事だ。 タイ国王 シャム国境が定められるや否や、その支配層エリートたちが没頭した事は、領内の異なる民族や宗教の人々を結びつける方法を見い出す事であった。これが極めて重要であったのは、フランス人達が民族を口実に、ラオ族やクメール族を仏領インドシナに属すると主張し、その支配を拡大させていたためである。そのような民族理論に直面し、ラーマ五世とその顧問達は、シャム国内に住む人間は、一定の基準、とりわけ、国王に忠実であるという基準を満たす限り、タイ国家に属するものとの考えを示した。ラーマ五世の「包括的」国家建設計画は、ラーマ六世から、ラーマ七世、ラーマ八世の治世の間、国の政変によって中断される事となったが、ラーマ九世、すなわちプミポン国王の治世に再開される事となった。 プミポン国王は、あらゆる民族・宗教の違いを超越した存在と称されていた。彼は一仏教徒でありながら、憲法上はイスラム教をも含む諸宗教の擁護者なのであった。この結果、イスラム教徒が国家イデオロギーの「宗教的」範疇への適合を、後者が仏教と強く結びついている事から困難に感じていても、「国王」の範疇においては、支持と保護を見い出すのである。同様に、彼は一タイ民族でありながらも憲法上は国家元首であったし、ごく最近は祖国の父として知られ、その慈悲は民族によらず、全市民に注がれるものとされていた。マレー民族は、国家イデオロギーの「国民」の範疇への適合を、後者のタイ民族との結びつき上、困難に感じていても、「国王」の範疇には、同じく支持と保護を見い出すのである。したがってこの範疇は、マレー系ムスリムの人々がLa Meng住民の事例のような民族的・宗教的差別で悪評高い仏教国家、タイの領内に住む事を可能としているものである。 Mengは、マレー人ラジャに馴染みがあった事に加え、住民達がプミポン国王を難無く尊敬する事ができた理由には、彼に対する住民達の認識の仕方が関係していたはずだと言った。一概に、住民たちはプミポン国王に対して無関心であったが、彼の支配下で虐げられているとは感じていなかった。彼らは国家当局、特に公安当局を嫌っていたかもしれないが、彼らがそのような当局、あるいは政府を、国王に結びつける事はなかった。Kak Dahは、国家支援を受ける数多くの団体の一員であるが、彼女は国王が民族や宗教に関して差別的であるとは思わなかったが、特定の国家当局は差別的だと感じていたと主張した。彼女はこれに加え、次のように言った。「タイ人だけが国王を愛しているのではありません。マレー人も国王を愛しています」。6年生のAsrohは、彼が国王に対して全く問題を感じていない理由を次のように主張した。「国王は僕らマレー人に良くして下さる。イスラム教徒にも良くして下さる」。また住民たちの中には、数名の王族メンバーに関する批評やうわさ話をした者はいても、プミポン国王に対する嫌悪を私の前、あるいは人前で口にした者は一人もいなかった。彼らの愛はさておき、プミポン国王を神のような人物として神秘化する事は、住民たちが答えるべき神学的、宇宙論的疑問を投げかけている。 「我々はミスター・キングを愛している」 ある日、我々が道端の東屋に腰をかけてお喋りをしていた時、私はKak Dahに、式典用の大皿に刻まれた“เรารักนายหลวง”(Rao Rak Nay Luang、我々は国王を愛している」)の文中の“เรา” (Rao、我々)という語が何を意味するものであるかと尋ねた。「マレー人の事です」と彼女は言った。そこで私は彼女に、一見したところ、主にタイ民族のために考案されたような文章を用いる事に不快感はなかったのかと尋ねてみた。すると、彼女は「いいえ、マレー人が国王を愛したって問題はありません」と言った。そこで、式典用の大皿準備を手伝ったKak Mohという人にKak Dahと同意見かと尋ねてみると、彼女はそうだと答えた。彼女は「タイに住んでいるのだから、私たちもタイ人です」、と付け加えた。この姿勢は、その東屋にいた他の人々にも分かち合われた。 “เรา” (Rao)という語の意味は明快であるが、“นายหลวง” (Nay Luang)という言葉は違う。“นายหลวง” […]

Issue 22

クリスマスの服喪:プミポン亡き後のタイにおけるカトリック信仰

バンコク中心街のHoly Mercy教区における先日のクリスマスは、タイ・カトリック教徒達がかつて祝った、どのクリスマスにも似つかぬものであった。至る所に出ていた沢山のクリスマス飾りの代わりに教会を覆っていたのは、厳粛な白黒弔旗であった。通常なら、人目に付く教会の正面玄関に飾られ、燦々たる喜びの象徴となるクリスマスツリーは、ひっそりとした庭の片隅に押しやられ、外から見える様子もなかった。クリスマスイブには黒装束の人々が、伝統的な真夜中のミサへ無言でやって来て、妙に用心深い様子で喜びと悲しみの間をとったような表情をしていた。それは喪中のクリスマスなのであった。 人々に敬愛されたタイのプミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ九世)が、2016年10月13日に亡くなった事は、この教会の敬虔で、ほとんどが王党派である都市中産階級のタイ華人(Sino-Thai)会員達をショック状態と悲しみ、困惑に陥れた。これはあまりにも甚だしく、多くの者達はキリスト生誕祭を宗教として、神格化された国王の死のための国家的集団服喪に優先させるべきなのかどうかという深刻な疑念を抱く事となった。ポール(Paul)神父という米国人宣教師の教区長にとり、これは極めてデリケートな問題であった。神父に言わせてみれば、プミポン国王は全宗教の慈悲深き擁護者であり、また一立憲君主に「過ぎなかった」のである。彼の名がタイ・カトリック典礼中に、現地文化の「世俗的」要素(watthanatham Thai)として含められているのは、他の国々におけるカトリックのミサの際に、祈りの中で国家元首らへの言及が行われるのと同じ事である。だが、このHoly Mercyの敬虔な信者達にしてみれば、国王は単なるタイの傑出した象徴をはるかに上回る存在なのであった。ほとんどのタイ人達と同じように、バンコクのカトリック教徒達までもが、ラーマ九世をほぼ宗教的ともいえる程に崇拝していたのだ。陛下は長らく、それとなく、あるいは目に見える形で、国家の父(pho)として、(転輪聖王、ダルマラージャ、あるいは菩薩のいずれかの)ダルマ(Dharma:仏法)の最高の権化として、あるいはヒンドゥ教のヴィシュヌ神(デーヴァラージャ)の化身として、また東南アジアのインド仏教王権の前近代における諸概念の現代的重要性を鑑みて(Tambiah, 1976)、宇宙論上、天と地を結び、階層的に構成された社会・道徳的宇宙の頂点から、その王国を正しい方向に導く(Jackson, 2010の例を参照)仏教王として示されて来たのである。Holy Mercyのタイ・カトリック教徒達にしてみれば、プミポン国王は実際、この地ではほとんど無名に近いローマ司祭のフランシスコ法王をも凌ぐ尊敬を集めた精神的指導者なのであった。 バンコクで知り合いになったカトリック教徒たちの中には、自宅に祭壇を設ける者たちもいたが、彼らはそこでイエスや聖人たちの聖像と一緒に、他にも多くのタイ民間信仰のインド仏教パンテオンに属する存在を拝んでいたのである(Pattana, 2005の例を参照)。それらはすなわち、中国やインドの神々、仏教僧侶、タイ国王、中でもプミポン(ラーマ九世)とチュラーロンコーン(ラーマ五世)などであった。教会から離れた場所の常として、多くの者達が十字架や聖像画、聖像を仏教徒のお守りさながらの呪力ある魔除けとして商っていた。この習慣は、カトリックの品々やシンボルまでもが、混交的で分散的な超自然信仰のアマルガムに、経済に、あるいは数名の学者たちが「自由市場化された宗教性」、あるいは「商品化された宗教」と呼ぶものに似た表象の中に吸収されてしまった事を示している(Jackson, 1999; Suwanna, 1994; Pattana, 2005)。より重要な事に、著者はしばしば、タイ・カトリック教徒達がイエス・キリストとラーマ九世を、神聖な道徳規範(khunatham)や犠牲(siasala)、カリスマ的な力(bun-barami)の等しきシンボルと紹介しているのを耳にした。 ポール神父は、タイの西洋人宣教師たちの大多数と同じように、この仏教王が彼の教区民の心の中で神聖な存在であった事を承知していた。だが、彼がカトリックの正統主義から偶像崇拝と捉えられかねない信仰や実践に対し、見て見ぬふりをしていたのは、キリスト教の神とタイ王室との「宇宙論的争い」を助長させる事を避けるためであった。彼が理解していた事は、そのような無用の争いが困難な闘いであり、これがタイ教会にただでさえ少数極まりない信者を失わせる原因ともなりかねず、また、配慮の足りぬ神父たちがタイの不敬罪法という危険な綱を渡る事となるやもしれず、用心せねば、その法は世界でもっとも厳しいものの一つとしてそのように命じる。 国王が亡くなる以前は、教会の壁を越えた(あるいはこの米国人神父の「軽い」監視の届かぬ)ところで、タイ・カトリック教徒たちは王室を神聖化し、異端的な「現地化した」カトリックを実践していたのである。しかし、ラーマ九世の死によって引き起こされた集合的な感情反応により、国王の(文化的というよりもむしろ)宗教的な重要性が、タイ・カトリック教徒たちの礼拝体験の中に浮かび上がった。そのような事から、ポール神父はタイ・カトリックの神学的、政治的な曖昧さとの対峙を、よりにもよってクリスマスというカトリック典礼の暦上、一つの最も重要な日に迫られる事となったのだ。 国王の肖像と教会の聖櫃 ラーマ九世が亡くなった後、軍事政府は一年間の公式服喪期間を宣言したが、この間、市民たちには黒服の着用が、娯楽場には閉鎖、あるいは少なくとも、電気や音楽を消す、扉を閉じる等の自粛が求められた。この宣言は、皆が敬虔な気持ちと悲しみを感じ、国王の死を悼むべき事を命じたものであった。既に計画されていた幾つかの祭りが中止となった。クリスマスが祝われるかどうかは判然とせず、タイ・カトリック司教協議会(the Catholic Bishops’ Conference of Thailand:CBFC)によって発表された公式声明が、ついにカトリック教徒たちにクリスマスを祝うよう、ただしこの時節のタイ人の心情を慮り、慎重に節度をもって祝うよう呼びかけたのである。この声明はまた、神父達に追悼の祈りを伝統的なクリスマス典礼に盛り込む方法を指示するものでもあった。政治的に公正な口調で、原則としては暫定軍事政権の指示である「よろしい、ただし、度を越さぬよう!」をそのまま繰り返すようにとの事だ。換言すると、喜びは悲しみの中に収めよという事である。 Holy Mercy教会でのクリスマス前の月を特徴づけたものは、宇宙論、典礼、そして政治にまつわる駆け引きであり、これはイエスの誕生とプミポン国王の死の融合を首尾一貫したものとするためのものであった。ポール神父は牧師審議会を開き、タイ人教区民たちに、クリスマスの祝祭をどのように企画するのが最適であるかという事について助言を求めた。活発な議論の間、この米国人宣教師はやや困惑しながらも、彼の教区民たちの緊急要請に応じなければならなかった。それはクリスマスの典礼中に、亡くなった国王のための適切な祭祀の場を設けて欲しいという要請であった。神父は国王の巨大なモノクロ写真を教会の外壁に飾る事、最もカラフルなクリスマス飾りを見えないところへ片付ける事、そして、説教の中で国王の追悼を行う事に同意した。だが、彼が神経質な様子で反対したのは、金色の光で神秘的に照らされた若きラーマ九世の肖像を、聖櫃の前の教会の祭壇上に置くという事であった。カトリック教徒にとり、最も神聖な空間である聖櫃は、固定され、鍵のかかった戸棚であり、その中には聖体が収められ、これがキリストと神の臨在の場であると信じられている。 人類学者として、Pattana Kitiarsaは以下の所見を述べた。「祭壇は、その象徴的、物理的な意味において、多様な背景や起源の神々を統合する。祭壇とは神聖な場であり、民間信仰の宗教的混交が、実際に具体的で集合的な形を帯びる場なのである」(Pattana, 2005:484)。祭壇は、物理的・霊的宇宙の正確な宇宙論の構造を反映している。それは神聖な境界を示し、儀礼行為に特別な様式を要求する。宗教的な聖像画や、神像、その他の礼拝対象は、都市部の精霊神殿や仏教寺院の諸堂の祭壇上に、序列通りに配置されている。ブッダは、ダルマラージャである国王の深い帰依を受け、通常はこのような序列の最高位を占めており、この二人の人物がタイ宇宙論の中で至高の神々と認識されている理由は、仏教と王室の両方が現代タイのエスノナショナリズムの最も肝心な側面であるためだ。祭壇上の礼拝物の位置はこのように、宇宙論と政治の両側面を反映しているのである。 キリスト教の聖書正典の宇宙論において、神は宇宙の創造者であったが、この事は彼の子、キリストの到来によって永久に変えられる事となった。カトリックのミサ典礼における神の子との邂逅は、キリストの血と肉という聖体エレメントによって象徴され、これらは聖櫃の中にパンとワイン(祝福された聖餐)の形で収められている。祭壇と聖櫃はそのような事から、カトリックのミサの間に儀式が集中する最も重要な中枢を成すものである。このような理由から、ポール神父は国王の肖像画を聖櫃の前に置く事を拒んだのであった。彼は後に私に次のように語った。「一線を越えるところでした。我々は国王を神の前にすら置けないのですからね!」。だが、彼の教区民たちのこの要求は、宇宙論と政治の両レベルにおいて、極めて啓発的なものであった。この肖像画は最終的には祭壇の裏に滑り込む事となったが、神父の決断がイエスの誕生をプミポン国王の死から解き放つ事は不可能であった。Holy Mercy教会の典礼計画における国王の肖像画の置き場をめぐるこの論争は、単なる一事例の詳細にとどまらず、ラーマ九世の死の結果、タイ・カトリックの一部の内に生じた神学的、政治的葛藤の極めて有意義な事例でもあるのだ。 カトリックのタイ化 タイ・カトリックの宇宙論、典礼、宗教性における国王の神聖な地位と、歴史的に関連付けられるものは、カトリック教会がタイでその存在を正当化するために展開してきた「世俗的」経済・政治の戦略である。実のところ、仏教徒が主体となる状況の中で、カトリック教会は非常に小規模な宗教団体に相当する。だが、世俗的アクターとしての教会は、王政支持の準資本主義機関であり、教会が経営する一流病院や私立校に通うのは、上流中産階級である都市部の仏教徒である。子供の頃はプミポン国王でさえ、タイの政界エリートのメンバーの大多数と同じ様に、Ursuline Sistersの経営するバンコクのカトリック校、Mater Dei校に通っていた。 […]

Issue 22

タイのコスモポリタンな領域における上等で清潔な服喪

2016年9月22日から26日の間、ある展示会がバンコクの繁華街のパラゴン・デパートとディスカバリー・センターの間にある商業スペースの小区画で開催された。その展示の目玉はロイヤル・プロジェクトの商品で、この開発プロジェクトはプミポン国王によって、その70年間の御代を通じて推進されたものであった。大きな白いテントの中は可動式の空調で冷やされ、袋を抱えた買い物客らが、茸ソテーのグリルドチーズ、ラズベリーケチャップ添え等のごちそうを味わいつつ、豪勢な空間を見物できるようになっていた。再現された山荘は、みずみずしく植えられた花々や木製のテーブル、田舎の家屋を模した建物を完備し、世俗的快楽を求める買い物客を迎えていた。前国王の大きな4枚の写真が天井から吊られていたが、あまりにも至るところにあったため、これと言って目立つ様子もなかった。 それらは最も精悍な頃のプミポンを描いたものであった。それらの写真の中で、プミポンは簡素な平服、あるいは軍服をまとい、一人で、あるいは女王か娘と並び、周囲には常に大勢の群衆が平伏していた。これらが撮影された頃のロイヤル・プロジェクトは、王室に広まった小規模な開発計画であった。それらの主な拠点となったタイ山岳民族のコミュニティのある地域は、大抵が共産主義の反政府活動に取り囲まれた地域であった。またこれらの計画は、しばしば国王直々の訪問を伴うものであった。一つのレベルにおいて、このような王国の辺境訪問は、開発の約束と相まり、プミポンを国家の建設者、冷戦主義者として示すものであった。この対極にありながら、これに匹敵する存在として、彼と同時代に地球の裏側にいたフィデル・カストロの例が挙げられる。また別のレベルにおいては、これらは世界の、またひいては宇宙の刹那と自己とを呼応させる事ができた完璧な仏教王を連想させた。 では、これらのイメージが現代の都会の消費者たちと何の関係があるのだろう? 適時性 良いプロパガンダは、時宜を得たものでなくてはならない。かつてJacques Ellul (1973, 43)が明らかにしたように、プロパガンダは現在を形作る「基本潮流」との和(ラポール)を突くものでなければならず、また「移ろいやすい臨場性」と結び着く事によってのみ扇動的となる。基本的事実が速やかに歴史や中立、無関心の領域に移行するような世界の中で、プロパガンダが語るべきは「神話と、定められた時間と場所の前提」のみなのだ。 冷戦期を通じて、二つの極めて重要な要素がタイに歴史的臨場感を生んだ。それらは共産主義の脅威とアメリカ指向の開発主義である。当時のプミポンの地方訪問は、この両者に物申すものであった。それらは想定された反政府活動の脅威を浮き彫りにしただけでなく、当時進行しつつあった資本主義の急速な拡大に対する懸念も和らげたのである。 重要な事は、これが単独的な覇権主義のプロジェクトではなかった事だ。それは多角的なものであり、目覚ましい献身行為を王家の図像の様々なレベルでの利用権によって報いるという、一連の複雑な相互関係を通じて運営されていた。当面の間、この最大の恩恵はアメリカ人にあった。彼らのプロパガンダ作戦におけるタイ王政支持は、王家のイメージ保護に役立ち、これによって共産主義を打倒せんとするものであった。タイを訪問するアメリカ人の大多数にとって、彼らの戦争を行うために尽力した国王への忠誠は至極当然なものであった。さらに、西洋の白人に対する深い懐疑のわだかまっていた地域では、アメリカ人に特権的地位が与えられた事が、タイ的秩序を志向する義務感を植え付け、これが大いに文化統治の「伝統的」形式の尊重へと注がれたのである。このポストコロニアル的な道徳秩序は、タイのアメリカ主導の資本主義への急速な統合を支える上で役に立った。 冷戦主義者プミポンは、久しくその精彩を失っている。だが、新たに生じる動向を読み取る事に長けた王室は、その相互関係が新たな社会的、政治的現実を反映するよう、これを作り替えた。冷戦期のアメリカ人たちと同様に、タイの日常生活における王室の重要性を進んで主張してきた者達には、その報いに国王の道徳的権威と認められるものの一定の利用権が与えられてきた。代わりに、この事がタイ王権の拠り所となる既存の宇宙論に、変わり続ける世界の中で新たな効力を吹き込む事を助けてきたのである。 清新、清潔で健康的 今日の時代思潮は清潔さである。清潔な食事とスローフードは、バンコクの最もクールな場を席巻している。身体の毒素排出と現代生活の不安を和らげる事を約束した清潔な食事は、かつて、石鹸や衛生学によって規定された差異の、古い植民地時代の比喩(トロープ)を複製している。Anne Mcclintock (1995, 226)が、イギリスのインペリアルレザー(the British imperial lather)との関連で述べたように、「清めの儀式は、身体を意味の土壌として整え、自己と社会にまたがる価値の流れを秩序付け、一つの社会と別の社会との境界を定めるのである」。 「清潔な」(sa-ad)一皿の食事の値段が一般人の購買能力をはるかに超えているタイでは、世界的な流行である「スロー」、「オーガニック」、「クラフト」は、身体的な差異と純粋性を得る新たな手段を、数々の魅惑的な食料品によって提供している。またこれは新たな空間も生み出し、それらの清浄かつ清新な場は、一部の流行に敏感でコスモポリタンな顧客たちを楽しませんとするものである。アーリヤ・オーガニック・プレイス(Ariya Organic Place :Ariyaはパーリー語で純粋、貴重、あるいは高貴を意味する)などの名前がついたレストランは、したがって、海外の最新の手法を用いて都会人の身体に滋養を与える事を謳ってはいるが、国内のタイ仏教の世界観と結びついた、より長い歴史を踏まえたものでもあるのだ。 同じ事はパラゴン横の展示会についても言え、その宣伝用資材は「高原風にするべく木で飾られ」ながらも、「都市住民や新世代の需要と流行りのライフスタイルに応じる」「現代的なファーマーズマーケット」を基調としたものであった。すなわちそれは、世界的な通用性と文化的特性との融合であり、有名シェフの魅惑的な新レシピが、田舎風の小粋にタイ風のひねりを利かせ、高額な値札と共に供されたというわけだ。 ここで、前時代に撮影されたプミポン国王の不鮮明な肖像が、現代の新奇のスペクタクルの中で、極めて重要な要素を成していた。彼の肉体が今生の終わりに近づくにつれ、これらの肖像からは、冷戦の背景が取り去られる事となった。今、若かりし頃の国王の御霊が据えられているのは、清められた(borisut)文化的世界の中心であり、小規模ながらも活気に満ちた、贅沢な消費行為を通じた多様な参入の機会が横溢する場である。 ロイヤル・イメージの買収 九代目の御代を通じ、富と購買能力は、かつての外国人たちが王室との相互関係を築くための基本的手段となってきた。Christine Gray (1991)は、冷戦の真っただ中に、タイ華人の資本主義者たちが王家の慈善事業やイニシアティブに貢献する事で、いかに王家の威徳を「手にする」事ができたかを述べている。彼女はまた、タイ華人が所有するバンコク銀行が、1967年にロイヤル・ガルーダ紋章の使用権を認められ、その商標を王家と関連付ける手立とした手法も明らかにした。 一方、Kasian Tejapira (2003)は、1980年代後期からのタイにおける「急成長」時代に伴う急速な消費主義の拡大が、より均一な都会のアイデンティティ感覚を生み出す上で役立ったと主張した。増々、タイ人である事は、お金で手に入れられる事、あるいは、価値交換によって体験し得る事となっていった。一回の休暇、一着の服、一個の宝石、これらの全てをより魅力あるものとするには、それを「タイ的」な何かと関連付ければよいのであった。これとは別に、Somsak Jeamteerasakul (2013)は、この新たな消費文化の出現が、都会の消費者たちに王室勢力圏への進出を、より容易かつ魅力的なものとした事を主張する。単に王家お墨付きの、あるいはロイヤル・ブランドの商品を買う事は、より伝統的で儀礼化された献身の表明とは対照的であったが、国家への献身を示す明快な手段となったのである。 だが、時の経過と共に、これらの購入はまた、道徳的な複雑性から比較的自由であり続けるには、コスモポリタンな生活がプミポン国王の肖像を介したものである必要があるとの考えを裏付ける上で役に立った。1997年の危機で、タイの資本主義体制の根本的不平等が、かくも容赦無くさらけ出された後、王家の威徳はより一層貴重な商品となった。とりわけ2006年以降の時代、君主制への献身は、タクシン・チナワットに関連した様々な統治機関に反対であったタイの都会人たちを安堵させる事となった。すなわち、それは彼らに道徳的に高潔であり続けたという自信を与えたのである。 […]

Issue 21

タイにおける進歩なき殺人:殺し屋から制服組の男たちまで

タイにとって、政治的暗殺は珍しい事ではない。議会制度と選挙が復活した1970年代後期以来、タイ社会は国会議員や新興成金、地方の有力者や選挙運動人達に対する、プロの暗殺者による殺害がますます頻発するさま目撃してきた。これらの政治的殺害はインフォーマルな企業によるものであり、国や地方の選挙競争にからんで政治上、ビジネス上の競争者が、競争相手を討つべく暗殺者を雇うのである。これらの暗殺者たちは主にプロであり、元警備員やチンピラ、副業をしている警官や軍人である。暴力行為は選挙前後のいずれにも起き、有力な候補達が選挙運動期間の最中に、競争者によって暴力で脅されたり、誘拐されたり、殺害されたりした。誠実でない選挙運動人も、自らの上役たちに殺害されるし、成果を出した選挙運動人の方はライバル陣営によって抹殺されもした。ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)は、1980年代後期に政治的動機に基づく殺人が増々横行したことについて、これがタイにおける国会議員の高い「市場価値」を反映したもので、誰が権力を獲得するかを決める選挙の重要さを示すものであると論じている。候補者やその選挙運動人たちの殺害が横行していることは、すなわち、タイにおける議会制民主主義の「進歩」を示していたのである(Anderson 1990)。当然、この「進歩」には代償が伴う。 著者が調査したところ、選挙がらみの暴力行為に、殺し屋の関与が初めて報告されたのは、1976年の選挙であった。1976年11月16日のサムットソンクラームの元国会議員殺害によって、私的暴力の発生が告げられた。警察によると、この元国会議員の死は、競争相手との選挙運動中の政治的対立に由来するものである。選挙から数か月後に、殺し屋の一団が、彼を至近距離で重火器を使って射殺した。警察は二週間後に、犯人の一人を逮捕し、かれらの自白によると、彼はこの仕事の請負で3万バーツを受け取り、仲間は3人、そのリーダーは不正行為のために部隊から追放された勤務外の兵士であった。警察の捜査によると、これらの「殺し屋連中」は、その他の政治家の殺害も請け負っていた。 タイではどんな殺し屋も、支払う金を十分に持つ者のために働く。彼らは便利で、非情で、有能で、起業家精神に溢れ…真の意味でプロの事業者である。殺し屋の仕事は、1950年代のバンコク市街地での組織犯罪や裏ビジネスの拡大と結びついている。殺し屋たちは、非合法の経済部門(ギャンブル、ドラッグ、売春)を保護するため、ライバルや厄介者、あるいは予想外の困難を抹消してきた(Suriyan 1989)。1970年代後期には、殺し屋を使った殺人が選挙競争に拡大し、これと結びつくようになった。増加する需要に伴い、この事業は途方もない利益をもたらすものとなり、多くの者達を引き寄せた。殺し屋市場が徐々に構築、確立され、競争力を持ち始めたのである。 殺し屋の仕事は、失業者や不良の若者、地域のチンピラ、農業従事者、未熟練労働者、タクシーやオートバイの運転手、便利屋、それにスポーツ選手など、幅広い層を引き寄せてきた。またこの仕事は、腐敗した警官や将校たちにも機会を提供している。国家のある部門は、殺し屋の仕事を容認して利益を得ている。たくさんのスタッフが殺し屋を副業とする中、そうした部門はその専門訓練を活用し、私利私欲のための強要を行う。顧客たちが「公式暴力の専門家」の仕事を好む理由は、彼らが最も穏当で、最も良く訓練されているだけでなく、刑事司法の手続きや機関についての内部情報を持っているためでもある。彼らの多くが保護を受ける、より高位の役人たちは、違法ビジネスに携わる、いわゆる「マフィア警官/将校」である。政府にしてみれば、この「制服姿の殺し屋たち」は、最も危険かつ、捉え難い存在である。最もスキャンダラスな事例は、「T」(あだ名)中佐で、彼は1980年代に残忍で腐敗した将校として有名になった。彼とその部下たちは、金をゆすり取り、借金を取り立て、禁制品を密輸した。1990年代に建設業が好況となると、彼は請負業者を保護し、悪徳土地開発業者による住民の強制退去に手を貸した。住民たちが抵抗すれば、暴力を行使して追い出し、その所有地を燃やしたのである。彼はついに、自ら殺し屋業を立ち上げ、業者と殺し屋の役割を同時に担った。彼の組は5、6人の下級政府職員から成り、請け負った事件は目立ったものばかりであった。彼の名を全国に広め、その残忍な長い経歴に終止符を打った仕事は、2001年のヤソートーン県知事暗殺であった。「T」中佐は、公務員から転身した数多くの(個人業の)殺し屋の一例に過ぎない。データによると、現役、非番の多くの政府の暴力専門家達が、今も暴力業に密接に携わっている。国家の治安部隊と暴力業との癒着には、非常に根深いものがある。 1980年代以降、選挙は権力を掌握、維持するための仕組みとして、あるいはタイにおける政治的変化に対処するための仕組みとして、ますます重要性を帯びてきた。1980年代と1990年代の数十年間には、「軍-官独裁体制」から議会制の政治制度へ、タイ政治の急激な構造変化が見られた。要するに、権力が官僚と軍部指導者の旧集団から、徐々に国家や地方のビジネス・エリートの新連合へと移行して行ったのだ。利益の調整と集約とが、官僚外勢力から発生し、政策決定の過程に一定の影響力を生み出したのである。同時に、この時期はいわゆる金権政治という、腐敗や無秩序な選挙運動につながる活動の起点でもあった。金権政治のマイナス面が広く認識されたことで、1990年代初頭の政治改革運動が形成され、これが金権政治の抑制と、親分肌の政治家の影響力低下を最終目標とする1997年憲法をもたらしたのである。新憲法発布以後は、観測筋は選挙がらみの暴力も含め、あらゆる種類の選挙上の不正行為が消滅、あるいは劇的に減少すると予測された。ところが、暴力や脅迫は依然として、候補者や政党が権力の獲得のために用いられたのである。 タイ政治の軌道と、政治的暗殺のパターンが劇的に変化したのは、2006年の軍事クーデター後の事であった。2006年以降、従来のエリートたちが、軍による干渉や司法積極主義、保守的社会運動を通じて議会や選挙制民主主義を弱めてしまった。選挙で選ばれなかったエリートの少数派が、政治制度に対する超憲法的権力を行使したのである。社会運動と軍部との間の暴力的な衝突が、タイ社会を袋小路へ、暴力の堂々めぐりへと導いたのだ。多くの評論家やクーデター支持者たちが、2006年のクーデターを、その無血性ゆえに称賛した。だが、政治的な出来事が展開して行くにつれ、このクーデターがその後にもたらした影響という点で、タイ史上、最も暴力的であった事が判明した。このクーデターが高い死傷者数をもたらした訳は、これが対立を激化させ、政治的な両極化を深め、治安部隊とデモ参加者、対立する抗議者グループ間の、広範囲にわたる対立を生み出したためである。クーデター以来、タイ社会が目撃した政治的現象に目を向ければ、様々な形の暴力が出現した事が分かるだろう。それは、好戦的な社会運動の増加(黄シャツ、赤シャツ両隊)、ギャングや殺し屋を利用した政治的対立、抗議における自警武装集団(運動と関連したもの、独自に活動するものの両者)の存在や関与、異なる運動に属する抗議者同士の暴力的衝突、政治化した軍部の復活と、その市民に対する暴力的弾圧、抗議者への対応での治安集団の選択的な武力行使、軍の狙撃者による抗議者の殺害、緊急命令の下での白昼堂々たる大衆運動指導者の暗殺、首都での政府庁舎やデモ現場を狙った爆撃、対立のあらゆる側面における広範囲な兵器の使用、などである。 2010年4-5月の軍事弾圧は、反独裁民主同盟(UDD)に率いられ、バンコク中心部の幾つかの地域を2010年の3月から5月にかけて占拠した赤シャツ隊デモを、政府が軍に命じて鎮圧させる際に起きたものであるが、これは政治的暴力の極致を示していた。デモ現場周辺における軍部と赤シャツ隊との対立は、2010年5月19日の暴力的弾圧によって、94人が殺害され、数千人が負傷する結果に終わった。2006年クーデター後の時代の暴力事件は、タイにおける新たな暴力のパターンを示している。軍は政治劇の主人公として復活を遂げ、この上なき暴力行為を犯し、死亡者数の相当な割合に対する責任を負う立場にある。2010年4-5月の弾圧は、タイ近代史上、最も暴力的な政治弾圧に相当し、その正式な死者数は、それより前の3度の政治危機、すなわち、1973年の学生主導の暴動、1976年の大虐殺と1992年の民主化要求デモの死者数を上回っている(People’s Information Center 2012)。2006年クーデター以降の国家的暴力の復活が、政治の前進に有害であるのは、これが民主主義の崩壊をもたらすものであるためだ。ベネディクト・アンダーソンの言葉を引用すれば、それは「進歩無き暴力」なのであった。 2006年クーデター後の暴力の根源は、1997年憲法以降に展開したポピュリスト・デモクラシーと大衆政治の時代における、従来のエリートたちの脆弱性とその権力の衰微にある。選挙で選ばれなかったエリートたちは、暴力に訴えることで、選挙で選ばれた政府を転覆させ、民主主義のプロセスを頓挫させ、再び自らの権力を確立させようとしたのだ。歴史は2014年に繰り返され、プラユット・チャンオチャ(Prayuth Chan-o-cha)司令官率いる軍事政府が、国家平和秩序評議会(NCPO: National Council for Peace and Order)の名の下、タクシン元首相の妹、インラック・シナワトラの選挙で選ばれた政府を転覆させるクーデターを仕掛けた後、2014年5月に政権に就いた。2014年のクーデターは、事実上、タイを圧政的な軍事独裁支配に引き戻し、その様子は官僚組織や軍部が王政の下で政治を牛耳った1950年代の独裁者、サリット・タナラット元帥(Marshall Sarit Thanarat)の政権さながらであった(Thak 1979)。圧政的な軍事支配の下で市民の自由は制限され、言論の自由は検閲を受け、批判は罰せられ、政治活動は禁止された。クーデター以降、軍司令官たちは自らを新たな支配層エリートとして確立させようと、自らの地位や権限、予算や人的資源の強化を行った。彼らはまた、自らの優位を維持するべく憲法を策定し、多数者優位の民主主義を弱め、政党や市民社会の力を損ねたのである(Prajak 2016)。またしても、クーデターや暴力のはびこる、この不安定な王国では、制服を着て銃を持った男たちが表舞台へと戻ってきた。それに、彼等が兵舎へ引っ込む見込みは、当面ところ無い。 Prajak Kongkirati タマサート大学 政治学科 REFERENCES Anderson, Benedict (1990), “Murder and Progress […]

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インドネシアはなぜ我々を殺すのか?パプアにおけるKNPB活動家たちの政治的殺害

インドネシアのレフォルマシ(改革)後、国際監視団の情報を受けた世界は、インドネシアが世界で3番目に大きな民主主義社会として生まれ変わったと考える傾向にある。この十把一絡げの認識が、重大な人権侵害の疑惑を有耶無耶にしてしまった。2001年の11月、パプア人指導者のテイス・ヒヨ・エルアイ(Theys Hiyo Elluay)が、インドネシア陸軍特殊部隊司令官とのジャヤプラにおける公式夕食会の後に誘拐された。数日後、彼の遺体がジャヤプラ近辺で発見された。当時のメガワティ大統領によって設立された捜査チームは、ジャヤプラに拠点を置く陸軍特殊部隊コパスス(Kopassus)が関与した証拠を発見し、4人の兵士が有罪宣告を受け、懲役3年及び、3年半の判決が下された。エルアイの運転手、アリストテレス・マソカ(Aristoteles Masoka)が依然として行方不明である一方、ハルトモ(Hartomo)司令官は、最近、軍の戦略情報局に昇進する事となった(BAIS)。 現場へ 2012年の6月には、パプア人の若き活動家、ムサ・マコ・タブニ(Musa Mako Tabuni)が、ジャヤプラの私服警官集団によって、同市付近で射殺された。彼はジャヤプラ警察病院に運ばれた時にはまだ生きていたが、数人の目撃者たちが認めた所では、警察が医師たちを妨害し、彼に適切な治療を施させず、彼は死ぬまで放置されたのだという(International Crisis Group 2010: 7; Koalisi Masyarakat Sipil untuk Penegakan Hukum dan HAM 2012)。だが、これまでに責任を問われた警官は、誰一人存在しない。警察の見解では、タブニはドイツ人旅行者にも怪我を負わせたジャヤプラでの発砲事件に関与していた。 それから程ない2014年のスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領のパプア訪問前夜には、Komite Nasional Papua Barat (KNPB/西パプア国家委員会)の若きパプア人指導者、マルティヌス・ヨハメ(Martinus Yohame)の遺体が、ソロン市沖合に浮かんでいる所が発見された。遺体は手足を縛られた状態で、米を包装するビニール袋に入れられ、彼を沈めておくための錘に重い石が付けられていた。その数日前に、彼は記者会見を開いて大統領訪問に対する拒否表明をしていた。KNPBは、インドネシア国家治安部隊がこの殺人に関与していたと見ている。この結果、インドネシア国家人権委員会(Komnas HAM: the Indonesian National Commission on Human Rights)は、警察による捜査の実施を強く主張した。だが、この捜査は、被害者の遺族らが検視解剖を拒否したため、Komnas […]

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タイ チェンライ メーファールアン大学 法科大学院 講師

タイにおける地方分権化の最大の変化は、1997年に「人民憲章」として広く称賛された新憲法の可決と共に起きた。しかしそのときにも、この急激な変化が、この国に深刻な政治、あるいは利害上の対立をもたらすのではないか、という深い懸念があった。有権者たちの準備がまだ整っておらず、マフィアが地方選挙に当選するのではないかと危惧する者もあった。さらには、地方政治家やその家族を標的とした政治的暗殺も日刊新聞で報じられていた。こうして地方政治は「血なまぐさいもの」と考えられるようになった。 このような政治犯罪のニュースが新聞などで無数に報じられ、社会に恐怖感を生み出した。このような政治的暗殺は、全国で起きているものなのか、それとも、特定の地域に限定されたものなのか?このような事件は、正確には毎年何回起きているのか?その回数は地方分権化後に増加しているのか、減少しているのか?タイの地方政治は、本当に人々が思う(恐れる)ほど、危険なものなのであろうか? 全国調査が示すもの 2000年から2009年の間に、481件(100%)の地方政治家(行政職員、地方議会議員の両者、候補者および事務官を含む)の暗殺未遂、あるいは459件の訴訟があった。中には、同一事件内で一人以上の被害者が襲撃された事件もあった。この数の中で、死亡事件は362件(75.3%)である。実に悲しいことにこれは相当高い数字であるが、全国的な計画殺人事件(ほぼ4,700件)や、地方政治家の総数(地方政治家は約16万人)と比較すると、この数字は相当低いものである(1%未満)。 殺人未遂の被害者481人のうち、467人(97%)は男性であった。大部分の被害者が、41歳から59歳(54.1%)であった。最も一般的な殺害方法としては、狙撃(93.1%)、爆弾の設置(3.1%)、その他の手段(3.7%)である。 一つ明らかな事は、自治体長の立場が、最も暗殺のリスクが高いという事だ。記録を見ると、139人(ほぼ30%)の被害者がいる。これは自治体内で、長官が有する特に人材管理と予算配分に関する権能と権限のためであろう。また、より小規模な地方行政機関では、大規模ではなく、ただし数多くの政治的暴力が存在してきた。349人(72.6%)の被害者は、行政区自治体(SAO: Sub-district Administrative Organization)で働いていた者たちである。   興味深い事に、この種の暴力は全国で広く発生しているが、特にタイ南部(42.2%)やタイ中部(26.4%)には、幾つかの危機的地域が存在した。上記11県のうち、4県が「深南部」に位置するナラティワート、パタニー、ヤラー、ソンクラー(の幾つかの郡)であり、これらは非常に長い間、困難な状況を経験してきた(図2の濃赤色の地域を参照)。これに対して5つの県でだけは、殺人未遂の記録が存在しない。これら5県のうち、3県は東北地方に位置している(図2の白色点を参照)。 2000年から2009年の間の政治的暗殺の傾向は、予測が不可能で不規則であるという事だ。2003年(13.3%)と2005年(14.1%)には、この数字が高い。一方、2008年から2009年には、この数字がタイの全地域において徐々に減少する傾向にあった。 これらの数字を見ながら、全国レベルでの政治情勢も考慮するべきである。2003年の始めに、タイ政府は麻薬撲滅運動を発表した。多くの研究の指摘によると、この壊滅的な運動の結果、約2,500人の人々が殺害された。2004年初頭のナラティワートにおける、タイ陸軍武器庫の強制捜査の後、南部国境沿い3県の政治情勢は最悪であった。暴力事件(殺人、暗殺、爆弾の設置など)の数が増加し、政情不安を引き起こしたのである。この地域では、暴力事件の数が2004年から2005年の間に大幅に上昇した。 チャーンチャイ・シラパーアウチャイ(Charnchai Silapauaychai, นายแพทย์ชาญชัย ศิลปอวยชัย)の暗殺 2007年10月24日、プレー県自治体長のチャーンチャイ・シラパーアウチャイ(Charnchai Silapauaychai, นายแพทย์ชาญชัย ศิลปอวยชัย)博士(53歳)が射殺された。プレーは政治的暴力で知られる北部県の一つである。彼はタイの上北部全8県の県自治体長の中で、唯一暗殺された人物であった。 この殺人の前に、チャーンチャイ博士は彼の政敵、シラワン・プラッサチャクサツー(Siriwan Prassachaksattru)女史と反目していたという事だ。彼女は政治的影響力がある名の知れた家の跡取りで、プレーに昔からある政党の党首の一人であった。チャーンチャイ博士は、S氏(シラワン女史のいとこ)をプレー県自治体副長に指名しなかった。プレー県自治体議会の議長であるポンサワット・スパシリー氏(Pongsawat Supasiri, シラワン女史の弟)は、チャーンチャイ博士のプロジェクトの一つ、クルンタイ銀行(Krung Thai Bank)からの1億2千万融資計画を妨害した。 特筆に値する事は、チャーンチャイ博士が古参政党から寝返り、タイ愛国党(TRT: Thai Rak Thai /พรรคไทยรักไทย)を前身とする国民の力党(PPP: People Power Party/พรรคพลังประชาชน)への支持を表明していた事である。事実、彼は首尾よく議会の野党議員の全票を集め、自身の政治団体‘Hug […]