Lotus Monthly (Liên Hoa Nguyệt San)で読む1963年仏教徒危機の影響

Wynn Gadkar-Wilcox

1963年5月4日、ベトナム共和国全土のカトリック教徒は、初のベトナム代牧司教に任命されたゴ・ディン・トゥック(Ngô Đình Thục)の在位25周年を祝うため、カトリック旗を掲揚した。そして、2日後、トゥックの弟で、ベトナム共和国大統領のゴ・ディン・ジェムが宗教旗の掲揚を禁止するという電報を打った。ところが、5月8日には、ゴータマ・ブッダ生誕祭の祝賀が開催され、フエでは、人目に付く場所に仏教旗が掲揚された。そして、ついに、これらの旗をベトナム共和国陸軍(ARVN)が引きずりおろす事態となった。その後、3千人以上の仏教徒がフエの地元ラジオ局に向かって行進を行った。当初、ARVNは催涙ガスを使ったが、その後、デモ参加者に向かって発砲し、8名が命を奪われた。 1

このため、ジェムは5月に仏教界の指導者と会い、旗問題について和解を申し出、宗教の自由に対する自身の決意を改めて示した。だが、このような意思表示は、2つの理由から、仏教徒の目には不十分なものと映った。一つ目の理由は、政府がこの殺害に対し、全面的な責任を認めなかった事、2つ目は、政府が約束していた改革をなかなか実施しようとしなかった事だ。こうして、1963年の夏には、僧侶や、その支持者の一般人(主に大学生)のハンガー・ストライキ、デモなどの政治活動が長期化し、これがフエだけでなく、ベトナム全土での常態となった。この相次ぐ抗議の中で、最も有名な事件が6月11日のサイゴンの主要な交差点でのティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức)の焼身自殺だ。9月1日には、次第にデモの顔となったティック・チ・クアン(Thích Trí Quang)ら、仏教界の指導者数名が、サイゴンの米国大使館内に亡命を求め、受け入れられた。やがて、9月半ばには戒厳令が解かれ、ジェム政権は仏教徒と、苛立ちを募らせる米国の支援者を宥めるべく、同月下旬に比較的自由な国民議会選挙を開催した。だがしかし、運命はすでに決まっていた。11月1日には、米国から暗黙の支持を受け、仏教界の指導者との関係も良好な将校の一団が、クーデターによりジェム政権を転覆、11月4日には、ティック・チ・クアンが意気揚々と米国大使館を後にした。これを受け、仏教界の指導者は自分たちの新たな政治的権威を認識し、今後の国内での出来事がさらなる仏教徒迫害をもたらすのではと危惧した。そこで、彼らは、1963年の仏教徒危機から生じた結束を正式なものにしようと、1964年に統一仏教僧伽教会(UBC: the United Buddhist Sangha)を設立した。これにより、昔から地域や信条ごとに分裂し、いがみ合っていた大部分の宗派が一つにまとまった。 2

著者の最近の研究の第一次報告として、この記事では、1963年の仏教徒危機の直後に、主にフエの指導者たちが自身の立場への継続的支援を育み、仏教徒間の結束を維持し、政治力の継続を主張した手法を検討する。そこで、1960年代の初頭に、ベトナム中部だけでなく共和国全土の在家仏教徒の意見の主な起爆剤となったLiên Hoa Nguyệt San (Lotus Monthly)の記事を分析する。同誌はUBCを代弁するメディアと位置付けられ、仏教徒運動による政治的扇動の維持継続をティック・チ・クアンが提唱する実質的な根拠となった。これにより、同誌が市民を触発し、ティック・チ・クアンの構想への賛同を促し、1965年~66年と、それ以降の共和国時代を通じた仏教徒運動の事件に端緒を開いた事を論じる。

写真 2.1 1963年11月、サイゴンでの仏教徒によるジェム政権反対デモ  
Photo: Douglas Pike Photograph Collection, Vietnam Center and Sam Johnson Vietnam Archive, Texas Tech University

UBCを代弁するLiên Hoa Nguyệt San

1955年に、中越仏教僧伽教会(Giáo hội Tăng già Trung Việt/ the Buddhist Sangha of Central Vietnam)は、“Lotus Series”という連載記事の出版を決定した。この連載には、仏教をより身近にするという目的があった。この出版事業の中心となったのが、ティック・ヌー・ディウ・コーン尼(the Nun Thích nữ Diệu Không/1905-1997)だ。 3 1955年11月に開催された中越僧伽教会の特別会合において、ディウ・コーンは数点の短編記事を提出した。そして、これらの記事が、後に月刊誌となる出版物に掲載される事になり、その創刊号が申年(1956年)の旧正月、テト(Tết)に出版された。中越僧伽教会は、リン・ムー・パゴダ(Linh Mụ pagoda)のティック・ドン・ハウ(Thích Đôn Hậu/1905-1992)を議長に、ティック・ドック・タム師(Venerable Thích Đức Tâm)を編集長に任命した。また、ディウ・コーンも引き続き、マネージャーとして出版に携わった。

やがて、Lotus Monthlyは、本拠地、ベトナム中部だけでなく、共和国全土の仏教徒の意見を代弁する主要メディアへと成長していく。1960年代初頭には、広く読まれ、共有された同誌の内容が「北緯17度線以南全域の僧伽の意見」となった。 4 したがって、同誌が1963年の仏教徒危機や、統一ベトナム仏教教会の設立に関する情報の伝達手段として、影響力を持つのは当然の成り行きだった。そもそも、1963年の事件はフエが中心で、これらの事件に関与したティック・チ・クアンや、ティック・ドン・ハウなど数名の主要人物は、同誌の関係者か常連寄稿者だった。このため、仏教徒危機の事件によって、Lotus Monthlyは1963年の春から秋にかけ、休刊に追い込まれた。だが、人々は、1963年末から1964年の間、この月刊誌を中心に、仏教徒危機の事件や、1963年のジェム政権反対デモが1965年~1966年の民主化デモや、米軍撤退へと続く道筋を理解した。

Lotus Monthly、仏教徒危機と統一仏教教会(USB)1963-64

1963年の仏教徒危機に伴う検閲や弾圧はLotus Monthlyを一時休刊に追い込んだが、同年11月のクーデターは出版再開に好ましい状況を生んだ。1963年11月号は大急ぎで出版されたらしく、世界各地で入手が可能な数冊には、甚だしい誤植や落丁がある。同号は、ティック・ドン・ハウと、ティック・ドック・タムが書いたと思われる論説で始まり、1963年の事件を受け、Lotus Monthlyの適切な役割に対する彼らの見解が示される。二人の説明では、4月から9月までの間、ベトナムの仏教徒は「恐怖の嵐に引きずり込まれた」。だが、クーデターが終わると、「仏教徒も、その他の人々も、全てのベトナム人のために、国内の雨は止み、風も弱まった。誰もが安堵し、こころを落ち着けた」。大勢の仏教徒や一般人が「殴られたり、投獄されたりした」が、「誰もが、安心できる時代がやって来たと感じている」。軍部は、この半年間の危機を終結させようと行動したが、「正義のため、陰に陽に、自らを犠牲にした多くの僧侶や尼僧、在家仏教徒、教授、大学生、高校生がいた事」を忘れてはならない。「7名の僧侶や尼僧が、己の身を闇との闘いの道を照らす松明にくべ」、「多くの学僧が手りゅう弾に砕け散り、戦車の車輪に踏み潰され」、「多くの教授や学生」が投獄されて命を失った事を、ベトナム人は忘れられなかった。そのため、これらの人々の追悼は仏教徒の意志であり、Lotus Monthlyのようなジャーナルの使命だった。

ティック・ドン・ハウ Photo: Douglas Pike Collection: Vietnam Center and Sam Johnson Vietnam Archive, Texas Tech University

Lotus Monthlyは、過去にも政治的態度を明確に示したことがあった。例えば、1959年に、ダライラマをはじめとする、チベット人の仏教徒がインドへの亡命を迫られた際、同誌は、彼らに対する中国共産党の仕打ちを痛烈に批判した。 5 だが、1963年の衝撃的な事件の後、このような露骨な政治解説が、以前にも増して当然のものとなった。そして、1964年1月にUBCが設立されると、Lotus MonthlyはUBCの重要なメッセージを発信する主要な伝達手段の一つとなった。

また、1964年1月号の巻頭記事からは、UBCとVin Hóa ĐoLotus Monthlyというメディアを通じ、統一仏教戦線(a united Buddhist front)の約束の実現を具体的に意図している事が明らかとなった。さらに、この記事の著者たちは、Lotus MonthlyがUBCの伝達手段として読者に利用されるべきだと明確に示した。 6 また、同号の2つ目の記事には、Viện Hóa Đạoの主席、ティック・タム・チャウ(Thích Tâm Châu)の年頭の挨拶が寄せられ、同誌はますます注目を集めるばかりとなった。なお、タム・チャウのメッセージは次のようなものだった。1963年の大虐殺を乗り越え、ベトナムの仏教徒は、「仏教の真理を発信する」プラットフォームを手に入れた。この歴史ある道を歩み続けるため、仏教徒は、「全ての仏教徒と全ての人々に対し、忍耐と慈悲、善意を持って」行動し、「闇を追い払う」必要がある。また、今後も仏教徒は結束し、次のように決意を持ち続けなければならない。「たとえ、餓鬼が道にバリケードを築き、行く手を遮り、発砲し、投獄し、命を奪おうと、我々はひるまない」。 7 これからも、権威主義的な行為への警戒を緩めぬよう、ベトナムの仏教徒はVin Hóa ĐoとUBCの計画を支持していく。

ティック・チ・クアンの計画の重要性

その他、1964年のLotus Monthly 1月号の最も重要な記事に、1963年デモの指導者、ティック・チ・クアンの長期連載がある。これは1964年の間、ほぼずっとLotus Monthly各号に連載された。この“Cuộc Vận Động của Phật Giáo Việt Nam”(ベトナム仏教徒運動)というタイトルの記事には、1963年に起きた事件の経緯と、その先の運動計画が記されていた。

ティック・チ・クアンは次のように論じた。今や、僧伽と在家者が集団行動を取り、重大、かつ前向きな政治的変化を世界にもたらす用意が整った。1963年には、突如、ベトナムの苦境に世界からの注目が集まったが、これを機に、我々は世界中の人々の同情を集める事ができた。このような状況の中、ベトナム仏教徒運動が自ら獲得した政治的資本を無駄にしてはならない、ティック・チ・クアンはこのように訴えた。「我々はこの力を用いて自らの権威を世界に知らせ、自らの苦しみを利用して政治的変化を起すのだ」。彼はさらに呼びかけた。だからこそ、仏教徒はこの政治活動を続け、二度と「不正な政策」が実施されぬようにし、「我々が活動を通じて切望した政策変更が、人々の志に大きな影響を与える」のを忘れてはならない。1963年に仏教徒が手に入れたものを維持していくには、警戒する必要があり、将来には、もっと多くの事を成し得ると理解すれば、「決意はいよいよ強まる」ばかりとなる。 8

Riot police break up Buddhist demonstration, Saigon, 22 May 1966. Photo: Wikipedia Commons

結論

1964年1月には、Lotus Monthly 史に、二つの出来事が生じた。一つ目は、同誌がベトナム中部だけでなく、ベトナム共和国全土において、UBCに関する情報を発信する事実上の代弁者となった事だ。そして、二つ目は、同誌がUBCの政治的主張の代弁者となった事だ。Lotus Monthly は、以前から、現代政治に関する話題を避けなかったが、1964年には、同誌の政治的主張が新たなレベルの重要性と緊急性を帯びるようになった。

また、Lotus Monthlyは、次第にティック・チ・クアンの意見を多く掲載するようになり、彼の仏教徒運動に関する長編エッセーの掲載は、1963年11月に始まり、1964年を通して、ほぼずっと連載されていた。以前のLotus Monthlyは、より多様な集団の意見を掲載していたが、1963年のフエでの事件により、同誌の編集者が急進派に傾いたと見え、1964年には、チ・クアン流の政治活動に焦点が当てられる事となった。Lotus Monthlyは共和国全土で堅調に発行部数を伸ばし、この政治的メッセージを積極的に発信し続けたが、1963年から1965年には、多くの政治的変化もあり、米国のベトナム関与も強まった。これらの出来事と、平和的解決を求めるLotus Monthlyの1966年1月の論説は、一直線で結びつけられる関係にある。当然、1966年春の仏教徒危機には、他にも多くのきっかけがあったが、これもまた、その一つだったのだ。 9 結局、Lotus Monthlyは、この政治的危機を乗り越えることができず、廃刊に追い込まれた。しかし、同誌は、1963年と1966年の事件の間、ティック・チ・クアンの政治活動の特別な意義を主張する重要な役割を果たしていた。

Wynn Gadkar-Wilcox
Western Connecticut State University

Notes:

  1. この事件の詳細については、以下を参照.。Edward Miller, “Religious Revival and Nation Building: Reinterpreting the 1963 ‘Buddhist crisis’ in South Vietnam,” Modern Asian Studies 49:6 (November 2015): 1926; and Charles A. A. Joiner, “South Vietnam’s Buddhist Crisis: Organization for Charity, Dissidence, and Unity,” Asian Survey 4, no. 7 (July 1964): 915-16.
  2. Robert Topmiller, The Lotus Unleashed: The Buddhist Peace Movement in South Vietnam, 1964-66 (Lexington, KY: University Press of Kentucky, 2002), 4-6.
  3. Vũ Trung Kiên, “Ni Trưởng Thích Nữ Diệu Không: Một kỳ nữ của Việt Nam trong thế kỷ XX,” Thư viện hoa sen (July 9, 2020). Accessed December 21, 2021. https://thuvienhoasen.org/a34224/ni-truong-thich-nu-dieu-khong-mot-ky-nu-cua-viet-nam-trong-the-ky-20
  4. Phi-Vân Nguyen, “A Secular State for a Religious Nation: The Republic of Vietnam and Religious Nationalism, 1946-1963,” Journal of Asian Studies 77:3 (August 2018): 758.
  5. Phi-Vân Nguyen, “A Secular State for a Religious Nation,” 759-760.
  6. Ibid, 2.
  7. Thích Tâm Châu, “Thông bạch đầu xuân của thượng tọa Viện Trưởng Viện Hóa Đạo Giáo hội Phật Giáo Việt Nam Thống Nhất,” [Early spring message of the Venerable Principal of the Vien Hoa Dao of the Unified Buddhist Sangha of Vietnam], Liên-hoa Nguyệt San 10:1 (January 1964): 3.
  8. Ibid, 12.
  9. Liên Hoa, “Vắn đề hòa bình,” [The Issue of Peace], Liên Hoa Nguyệt San 11:12 (January 1966): 6.