Issue 21 Mar. 2017

Political Assassinations in Southeast Asia

Southeast Asia as a region has enjoyed a period of relative peace for the last 40 years. Despite a number of minor skirmishes between neighboring countries, there has been no war. This peace has allowed […]

Issue 21 Mar. 2017

ฆาตกรรมกับความถดถอยในสยาม: จากมือปืนรับจ้างถึงคนในเครื่องแบบ

การลอบสังหารทางการเมืองไม่ใช่เรื่องแปลกสำหรับประเทศไทย นับตั้งแต่มีการรื้อฟื้นระบบรัฐสภาและการเลือกตั้งในช่วงปลายทศวรรษ 1970 สังคมไทยพบว่าปรากฏการณ์ที่มือปืนอาชีพลอบสังหารสมาชิกรัฐสภา นักธุรกิจใหญ่ที่เพิ่งร่ำรวยขึ้นมา เจ้าพ่อผู้มีอิทธิพลตามต่างจังหวัดและหัวคะแนน กลายเป็นข่าวที่เกิดขึ้นถี่กว่าเดิม การลอบสังหารทางการเมืองเป็นธุรกิจฆาตกรรมเอกชนที่เกี่ยวโยงกับการแข่งขันในการเลือกตั้งระดับชาติและท้องถิ่น คู่แข่งทางการเมืองและธุรกิจมักว่าจ้างมือปืนไปเก็บฝ่ายตรงข้าม มือปืนส่วนใหญ่เป็นนักลอบสังหารอาชีพ อดีตยามรักษาความปลอดภัย นักเลงชั้นต่ำ เจ้าหน้าที่ตำรวจและทหารที่แอบรับงานพิเศษ ความรุนแรงมักเกิดขึ้นทั้งก่อนและหลังการเลือกตั้ง ผู้สมัครรับเลือกตั้งที่มีแนวโน้มจะชนะถูกคู่แข่งข่มขู่ว่าจะใช้ความรุนแรง ลักพาตัวหรือฆ่าทิ้งในระหว่างการรณรงค์หาเสียง หัวคะแนนแปรพักตร์ถูกเจ้านายตัวเองฆ่าทิ้ง และหัวคะแนนของฝ่ายชนะถูกปรปักษ์จากฝ่ายตรงข้ามกำจัด  เบเนดิกท์ แอนเดอร์สันให้เหตุผลว่า การที่ฆาตกรรมจากแรงจูงใจทางการเมืองเกิดขึ้นแพร่หลายมากกว่าเดิมในช่วงปลายทศวรรษ 1980 สะท้อนให้เห็นว่า สมาชิกรัฐสภามี “มูลค่าการตลาด” สูงขึ้นในประเทศไทย นี่เป็นสัญญาณบ่งบอกว่าการเลือกตั้งมีความสำคัญมากขึ้นในการกำหนดว่าใครจะได้อำนาจทางการเมือง การฆาตกรรมผู้สมัครรับเลือกตั้งและหัวคะแนนที่เกิดขึ้นถี่ๆ จึงเป็นดัชนีชี้วัด “ความก้าวหน้า” ของระบอบประชาธิปไตยรัฐสภาในประเทศไทย (Anderson 1990) มันเป็น “ความก้าวหน้า” […]

Issue 21 Mar. 2017

タイにおける進歩なき殺人:殺し屋から制服組の男たちまで

タイにとって、政治的暗殺は珍しい事ではない。議会制度と選挙が復活した1970年代後期以来、タイ社会は国会議員や新興成金、地方の有力者や選挙運動人達に対する、プロの暗殺者による殺害がますます頻発するさま目撃してきた。これらの政治的殺害はインフォーマルな企業によるものであり、国や地方の選挙競争にからんで政治上、ビジネス上の競争者が、競争相手を討つべく暗殺者を雇うのである。これらの暗殺者たちは主にプロであり、元警備員やチンピラ、副業をしている警官や軍人である。暴力行為は選挙前後のいずれにも起き、有力な候補達が選挙運動期間の最中に、競争者によって暴力で脅されたり、誘拐されたり、殺害されたりした。誠実でない選挙運動人も、自らの上役たちに殺害されるし、成果を出した選挙運動人の方はライバル陣営によって抹殺されもした。ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)は、1980年代後期に政治的動機に基づく殺人が増々横行したことについて、これがタイにおける国会議員の高い「市場価値」を反映したもので、誰が権力を獲得するかを決める選挙の重要さを示すものであると論じている。候補者やその選挙運動人たちの殺害が横行していることは、すなわち、タイにおける議会制民主主義の「進歩」を示していたのである(Anderson 1990)。当然、この「進歩」には代償が伴う。 著者が調査したところ、選挙がらみの暴力行為に、殺し屋の関与が初めて報告されたのは、1976年の選挙であった。1976年11月16日のサムットソンクラームの元国会議員殺害によって、私的暴力の発生が告げられた。警察によると、この元国会議員の死は、競争相手との選挙運動中の政治的対立に由来するものである。選挙から数か月後に、殺し屋の一団が、彼を至近距離で重火器を使って射殺した。警察は二週間後に、犯人の一人を逮捕し、かれらの自白によると、彼はこの仕事の請負で3万バーツを受け取り、仲間は3人、そのリーダーは不正行為のために部隊から追放された勤務外の兵士であった。警察の捜査によると、これらの「殺し屋連中」は、その他の政治家の殺害も請け負っていた。 タイではどんな殺し屋も、支払う金を十分に持つ者のために働く。彼らは便利で、非情で、有能で、起業家精神に溢れ…真の意味でプロの事業者である。殺し屋の仕事は、1950年代のバンコク市街地での組織犯罪や裏ビジネスの拡大と結びついている。殺し屋たちは、非合法の経済部門(ギャンブル、ドラッグ、売春)を保護するため、ライバルや厄介者、あるいは予想外の困難を抹消してきた(Suriyan 1989)。1970年代後期には、殺し屋を使った殺人が選挙競争に拡大し、これと結びつくようになった。増加する需要に伴い、この事業は途方もない利益をもたらすものとなり、多くの者達を引き寄せた。殺し屋市場が徐々に構築、確立され、競争力を持ち始めたのである。 殺し屋の仕事は、失業者や不良の若者、地域のチンピラ、農業従事者、未熟練労働者、タクシーやオートバイの運転手、便利屋、それにスポーツ選手など、幅広い層を引き寄せてきた。またこの仕事は、腐敗した警官や将校たちにも機会を提供している。国家のある部門は、殺し屋の仕事を容認して利益を得ている。たくさんのスタッフが殺し屋を副業とする中、そうした部門はその専門訓練を活用し、私利私欲のための強要を行う。顧客たちが「公式暴力の専門家」の仕事を好む理由は、彼らが最も穏当で、最も良く訓練されているだけでなく、刑事司法の手続きや機関についての内部情報を持っているためでもある。彼らの多くが保護を受ける、より高位の役人たちは、違法ビジネスに携わる、いわゆる「マフィア警官/将校」である。政府にしてみれば、この「制服姿の殺し屋たち」は、最も危険かつ、捉え難い存在である。最もスキャンダラスな事例は、「T」(あだ名)中佐で、彼は1980年代に残忍で腐敗した将校として有名になった。彼とその部下たちは、金をゆすり取り、借金を取り立て、禁制品を密輸した。1990年代に建設業が好況となると、彼は請負業者を保護し、悪徳土地開発業者による住民の強制退去に手を貸した。住民たちが抵抗すれば、暴力を行使して追い出し、その所有地を燃やしたのである。彼はついに、自ら殺し屋業を立ち上げ、業者と殺し屋の役割を同時に担った。彼の組は5、6人の下級政府職員から成り、請け負った事件は目立ったものばかりであった。彼の名を全国に広め、その残忍な長い経歴に終止符を打った仕事は、2001年のヤソートーン県知事暗殺であった。「T」中佐は、公務員から転身した数多くの(個人業の)殺し屋の一例に過ぎない。データによると、現役、非番の多くの政府の暴力専門家達が、今も暴力業に密接に携わっている。国家の治安部隊と暴力業との癒着には、非常に根深いものがある。 1980年代以降、選挙は権力を掌握、維持するための仕組みとして、あるいはタイにおける政治的変化に対処するための仕組みとして、ますます重要性を帯びてきた。1980年代と1990年代の数十年間には、「軍-官独裁体制」から議会制の政治制度へ、タイ政治の急激な構造変化が見られた。要するに、権力が官僚と軍部指導者の旧集団から、徐々に国家や地方のビジネス・エリートの新連合へと移行して行ったのだ。利益の調整と集約とが、官僚外勢力から発生し、政策決定の過程に一定の影響力を生み出したのである。同時に、この時期はいわゆる金権政治という、腐敗や無秩序な選挙運動につながる活動の起点でもあった。金権政治のマイナス面が広く認識されたことで、1990年代初頭の政治改革運動が形成され、これが金権政治の抑制と、親分肌の政治家の影響力低下を最終目標とする1997年憲法をもたらしたのである。新憲法発布以後は、観測筋は選挙がらみの暴力も含め、あらゆる種類の選挙上の不正行為が消滅、あるいは劇的に減少すると予測された。ところが、暴力や脅迫は依然として、候補者や政党が権力の獲得のために用いられたのである。 タイ政治の軌道と、政治的暗殺のパターンが劇的に変化したのは、2006年の軍事クーデター後の事であった。2006年以降、従来のエリートたちが、軍による干渉や司法積極主義、保守的社会運動を通じて議会や選挙制民主主義を弱めてしまった。選挙で選ばれなかったエリートの少数派が、政治制度に対する超憲法的権力を行使したのである。社会運動と軍部との間の暴力的な衝突が、タイ社会を袋小路へ、暴力の堂々めぐりへと導いたのだ。多くの評論家やクーデター支持者たちが、2006年のクーデターを、その無血性ゆえに称賛した。だが、政治的な出来事が展開して行くにつれ、このクーデターがその後にもたらした影響という点で、タイ史上、最も暴力的であった事が判明した。このクーデターが高い死傷者数をもたらした訳は、これが対立を激化させ、政治的な両極化を深め、治安部隊とデモ参加者、対立する抗議者グループ間の、広範囲にわたる対立を生み出したためである。クーデター以来、タイ社会が目撃した政治的現象に目を向ければ、様々な形の暴力が出現した事が分かるだろう。それは、好戦的な社会運動の増加(黄シャツ、赤シャツ両隊)、ギャングや殺し屋を利用した政治的対立、抗議における自警武装集団(運動と関連したもの、独自に活動するものの両者)の存在や関与、異なる運動に属する抗議者同士の暴力的衝突、政治化した軍部の復活と、その市民に対する暴力的弾圧、抗議者への対応での治安集団の選択的な武力行使、軍の狙撃者による抗議者の殺害、緊急命令の下での白昼堂々たる大衆運動指導者の暗殺、首都での政府庁舎やデモ現場を狙った爆撃、対立のあらゆる側面における広範囲な兵器の使用、などである。 2010年4-5月の軍事弾圧は、反独裁民主同盟(UDD)に率いられ、バンコク中心部の幾つかの地域を2010年の3月から5月にかけて占拠した赤シャツ隊デモを、政府が軍に命じて鎮圧させる際に起きたものであるが、これは政治的暴力の極致を示していた。デモ現場周辺における軍部と赤シャツ隊との対立は、2010年5月19日の暴力的弾圧によって、94人が殺害され、数千人が負傷する結果に終わった。2006年クーデター後の時代の暴力事件は、タイにおける新たな暴力のパターンを示している。軍は政治劇の主人公として復活を遂げ、この上なき暴力行為を犯し、死亡者数の相当な割合に対する責任を負う立場にある。2010年4-5月の弾圧は、タイ近代史上、最も暴力的な政治弾圧に相当し、その正式な死者数は、それより前の3度の政治危機、すなわち、1973年の学生主導の暴動、1976年の大虐殺と1992年の民主化要求デモの死者数を上回っている(People’s Information Center 2012)。2006年クーデター以降の国家的暴力の復活が、政治の前進に有害であるのは、これが民主主義の崩壊をもたらすものであるためだ。ベネディクト・アンダーソンの言葉を引用すれば、それは「進歩無き暴力」なのであった。 2006年クーデター後の暴力の根源は、1997年憲法以降に展開したポピュリスト・デモクラシーと大衆政治の時代における、従来のエリートたちの脆弱性とその権力の衰微にある。選挙で選ばれなかったエリートたちは、暴力に訴えることで、選挙で選ばれた政府を転覆させ、民主主義のプロセスを頓挫させ、再び自らの権力を確立させようとしたのだ。歴史は2014年に繰り返され、プラユット・チャンオチャ(Prayuth Chan-o-cha)司令官率いる軍事政府が、国家平和秩序評議会(NCPO: National Council for Peace and Order)の名の下、タクシン元首相の妹、インラック・シナワトラの選挙で選ばれた政府を転覆させるクーデターを仕掛けた後、2014年5月に政権に就いた。2014年のクーデターは、事実上、タイを圧政的な軍事独裁支配に引き戻し、その様子は官僚組織や軍部が王政の下で政治を牛耳った1950年代の独裁者、サリット・タナラット元帥(Marshall Sarit Thanarat)の政権さながらであった(Thak 1979)。圧政的な軍事支配の下で市民の自由は制限され、言論の自由は検閲を受け、批判は罰せられ、政治活動は禁止された。クーデター以降、軍司令官たちは自らを新たな支配層エリートとして確立させようと、自らの地位や権限、予算や人的資源の強化を行った。彼らはまた、自らの優位を維持するべく憲法を策定し、多数者優位の民主主義を弱め、政党や市民社会の力を損ねたのである(Prajak 2016)。またしても、クーデターや暴力のはびこる、この不安定な王国では、制服を着て銃を持った男たちが表舞台へと戻ってきた。それに、彼等が兵舎へ引っ込む見込みは、当面ところ無い。 Prajak Kongkirati タマサート大学 政治学科 REFERENCES Anderson, Benedict (1990), “Murder and Progress […]

Issue 21 Mar. 2017

การลอบสังหารในการเมืองท้องถิ่นไทย: ทศวรรษแห่งการการกระจายอำนาจ (พ.ศ. 2543-2552)

การกระจายอำนาจที่ก่อให้เกิดความเปลี่ยนแปลงครั้งใหญ่ที่สุดในประเทศไทยเกิดขึ้นเมื่อ พ.ศ. 2540 พร้อมกับการนำรัฐธรรมนูญฉบับใหม่มาใช้ ซึ่งได้รับการยกย่องอย่างกว้างขวางว่าเป็น “รัฐธรรมนูญฉบับประชาชน” อย่างไรก็ตาม มีความวิตกกังวลว่าการเร่งรีบเปลี่ยนผ่านอาจนำมาซึ่งความขัดแย้งทางการเมืองอย่างรุนแรงหรือเกิดปัญหาผลประโยชน์ทับซ้อนที่เป็นผลเสียต่อประเทศ บ้างเกรงว่าประชาชนยังไม่พร้อมและกลุ่มผู้มีอิทธิพลจะชนะการเลือกตั้งท้องถิ่น นอกจากนี้ ยังมีข่าวคราวเกี่ยวกับการลอบสังหารทางการเมืองที่มุ่งเป้านักการเมืองท้องถิ่นกับคนในครอบครัวปรากฏให้เห็นตามหน้าหนังสือพิมพ์รายวันเนืองๆ ทั้งหมดนี้ส่งผลให้การเมืองท้องถิ่นถูกมองว่ามีลักษณะ “โชกเลือด” มีรายงานข่าวเกี่ยวกับอาชญากรรมที่เกี่ยวข้องกับการเมืองเช่นนี้ลงในหนังสือพิมพ์จำนวนมากกระทั่งก่อให้เกิดความรู้สึกหวาดกลัวในสังคมขึ้นมา การลอบสังหารทางการเมืองแบบนี้เกิดขึ้นทั่วประเทศหรือแค่ในบางพื้นที่? ตัวเลขที่แท้จริงของคดีประเภทนี้ที่เกิดขึ้นในแต่ละปีมีจำนวนเท่าไรกันแน่? มันเพิ่มขึ้นหรือลดลงหลังมีการกระจายอำนาจ? การเมืองท้องถิ่นของไทยมีแต่การฆ่ากันตายดังเช่นที่ประชาชนเชื่อ (และกลัว) จริงหรือ? การสำรวจข้อมูลระดับชาติบอกอะไรแก่เรา  ระหว่างปี 2543 จนถึง 2552 มีความพยายามลอบสังหารนักการเมืองท้องถิ่น (ทั้งฝ่ายบริหารและสมาชิกสภา ตลอดจนผู้ลงสมัครรับเลือกตั้งและปลัดท้องถิ่น) รวมทั้งสิ้น 481 ครั้ง (100%) หรือ 459 คดี […]

Issue 21 Mar. 2017

タイ チェンライ メーファールアン大学 法科大学院 講師

タイにおける地方分権化の最大の変化は、1997年に「人民憲章」として広く称賛された新憲法の可決と共に起きた。しかしそのときにも、この急激な変化が、この国に深刻な政治、あるいは利害上の対立をもたらすのではないか、という深い懸念があった。有権者たちの準備がまだ整っておらず、マフィアが地方選挙に当選するのではないかと危惧する者もあった。さらには、地方政治家やその家族を標的とした政治的暗殺も日刊新聞で報じられていた。こうして地方政治は「血なまぐさいもの」と考えられるようになった。 このような政治犯罪のニュースが新聞などで無数に報じられ、社会に恐怖感を生み出した。このような政治的暗殺は、全国で起きているものなのか、それとも、特定の地域に限定されたものなのか?このような事件は、正確には毎年何回起きているのか?その回数は地方分権化後に増加しているのか、減少しているのか?タイの地方政治は、本当に人々が思う(恐れる)ほど、危険なものなのであろうか? 全国調査が示すもの 2000年から2009年の間に、481件(100%)の地方政治家(行政職員、地方議会議員の両者、候補者および事務官を含む)の暗殺未遂、あるいは459件の訴訟があった。中には、同一事件内で一人以上の被害者が襲撃された事件もあった。この数の中で、死亡事件は362件(75.3%)である。実に悲しいことにこれは相当高い数字であるが、全国的な計画殺人事件(ほぼ4,700件)や、地方政治家の総数(地方政治家は約16万人)と比較すると、この数字は相当低いものである(1%未満)。 殺人未遂の被害者481人のうち、467人(97%)は男性であった。大部分の被害者が、41歳から59歳(54.1%)であった。最も一般的な殺害方法としては、狙撃(93.1%)、爆弾の設置(3.1%)、その他の手段(3.7%)である。 一つ明らかな事は、自治体長の立場が、最も暗殺のリスクが高いという事だ。記録を見ると、139人(ほぼ30%)の被害者がいる。これは自治体内で、長官が有する特に人材管理と予算配分に関する権能と権限のためであろう。また、より小規模な地方行政機関では、大規模ではなく、ただし数多くの政治的暴力が存在してきた。349人(72.6%)の被害者は、行政区自治体(SAO: Sub-district Administrative Organization)で働いていた者たちである。   興味深い事に、この種の暴力は全国で広く発生しているが、特にタイ南部(42.2%)やタイ中部(26.4%)には、幾つかの危機的地域が存在した。上記11県のうち、4県が「深南部」に位置するナラティワート、パタニー、ヤラー、ソンクラー(の幾つかの郡)であり、これらは非常に長い間、困難な状況を経験してきた(図2の濃赤色の地域を参照)。これに対して5つの県でだけは、殺人未遂の記録が存在しない。これら5県のうち、3県は東北地方に位置している(図2の白色点を参照)。 2000年から2009年の間の政治的暗殺の傾向は、予測が不可能で不規則であるという事だ。2003年(13.3%)と2005年(14.1%)には、この数字が高い。一方、2008年から2009年には、この数字がタイの全地域において徐々に減少する傾向にあった。 これらの数字を見ながら、全国レベルでの政治情勢も考慮するべきである。2003年の始めに、タイ政府は麻薬撲滅運動を発表した。多くの研究の指摘によると、この壊滅的な運動の結果、約2,500人の人々が殺害された。2004年初頭のナラティワートにおける、タイ陸軍武器庫の強制捜査の後、南部国境沿い3県の政治情勢は最悪であった。暴力事件(殺人、暗殺、爆弾の設置など)の数が増加し、政情不安を引き起こしたのである。この地域では、暴力事件の数が2004年から2005年の間に大幅に上昇した。 チャーンチャイ・シラパーアウチャイ(Charnchai Silapauaychai, นายแพทย์ชาญชัย ศิลปอวยชัย)の暗殺 2007年10月24日、プレー県自治体長のチャーンチャイ・シラパーアウチャイ(Charnchai Silapauaychai, นายแพทย์ชาญชัย ศิลปอวยชัย)博士(53歳)が射殺された。プレーは政治的暴力で知られる北部県の一つである。彼はタイの上北部全8県の県自治体長の中で、唯一暗殺された人物であった。 この殺人の前に、チャーンチャイ博士は彼の政敵、シラワン・プラッサチャクサツー(Siriwan Prassachaksattru)女史と反目していたという事だ。彼女は政治的影響力がある名の知れた家の跡取りで、プレーに昔からある政党の党首の一人であった。チャーンチャイ博士は、S氏(シラワン女史のいとこ)をプレー県自治体副長に指名しなかった。プレー県自治体議会の議長であるポンサワット・スパシリー氏(Pongsawat Supasiri, シラワン女史の弟)は、チャーンチャイ博士のプロジェクトの一つ、クルンタイ銀行(Krung Thai Bank)からの1億2千万融資計画を妨害した。 特筆に値する事は、チャーンチャイ博士が古参政党から寝返り、タイ愛国党(TRT: Thai Rak Thai /พรรคไทยรักไทย)を前身とする国民の力党(PPP: People Power Party/พรรคพลังประชาชน)への支持を表明していた事である。事実、彼は首尾よく議会の野党議員の全票を集め、自身の政治団体‘Hug […]

Bahasa Indonesia

Perang Pemunahan: Pembunuhan Lumad di Mindanao, Filipina

Pada dini hari tanggal 1 September 2015, ratusan pria, wanita, dan anak-anak dari Sitio han-ayan, Diatagon, terbangun dari tidur oleh sekelompok orang bersenjata dari kelompok paramiliter Magahat Bagani. Mereka kemudian dikumpulkan untuk menyaksikan pelaksanaan hukuman […]

Issue 21 Mar. 2017

สงครามล้างเผ่าพันธุ์: การสังหารหมู่ชาวลูมาดในเกาะมินดาเนา ประเทศฟิลิปปินส์

เช้าตรู่วันที่ 1 กันยายน 2015 ชายหญิงและเด็กหลายร้อยคนที่ชุมชนซิตีโออานายาน (Sitio Han-ayan) อำเภอเดียตากอน (Diatagon) ถูกกลุ่มชายติดอาวุธจากกองกำลังกึ่งทหาร Magahat Bagani ปลุกขึ้นมา พวกเขาถูกไล่ต้อนบังคับให้มาล้อมวงฝืนใจดูการสังหารผู้นำชุมชนของตนอย่างโหดเหี้ยม ดิโอเนล กัมโปส (Dionel Campos) และฮูเวโญ ซินโซ (Juvello Sinzo) ถูกยิงที่ศีรษะคนละนัด ต่อมาเด็กนักเรียนและครูยังเจอซากร่างของเอเมริโต ซามาร์กา (Emerito Samarca) ที่ถูกเชือดคอด้วย เขาเป็นผู้อำนวยการบริหารของโรงเรียนมัธยมทางเลือกชื่อ Alternative Learning Center for Agricultural and […]

Issue 21 Mar. 2017

絶滅戦争:フィリピン、ミンダナオにおけるルマド族の殺害

2015年9月1日の明け方、ディアトゴン村シティオ・ハンアヤンの何百人もの男女や子供たちが、準軍事組織マガハット・バガ二(Magahat Bagani)の武装した男たちの一団によって眠りから覚まされた。その後、彼らは一か所に集められ、コミュニティの指導者であったディオネル・カンポス(Dionel Campos)とジョビロ・シンゾ(Juvello Sinzo)の残酷な処刑を目撃させられる。二人はいずれも頭に銃弾を撃ち込まれたのであった。学童や教師たちは、後にエメリト・サマカラ(Emerito Samarca)の遺体を発見する事になるが、それは内臓をえぐられ、喉を切り裂かれた遺体であった。彼がその事務局長として慕われていた、中等教育のためのオルタナティブ・スクールは、先住民マノボ族の子供たちのためのもので、農業と生計の発展のためのオルタナティブ・ラーニング・センター(Alternative Learning Center for Agricultural and Livelihood Development, Inc.)、ALCADEVと呼ばれ、このコミュニティ内に拠点がある。ちょうどこれと同じ日、ハンアヤンやその他の近隣コミュニティから、約3,000人の住民たちが、自らの家や農場を退去して、街の中心地、リアンガ町の体育館に押し掛けた(Interaksyon.com, 2015)。 これは痛ましい事件であったが、先住民の指導者やオルタナティブ・スクール、そしてコミュニティ全体に残忍な攻撃が仕掛けられた事は、今回が初めてではない。だが、この事件の特異性は、フィリピン南部ミンダナオ島での一事件の中に、特定の被害者層を狙った準軍事組織の暴力の組織性がいかに現れていたかという点にある。  強制退去の物語 前アキノ政権下(2010-2015)では、合計71人の先住民指導者が殺害されている。また、先住民の子供達のためのオルタナティブ・スクール87校に対する攻撃は95件も記録されている。コミュニティ全体で、4万人以上の先住民の人々が、その社会的、政治的、経済的生活を破壊され、無数の避難所へと逃れて来た。これは彼らが指導者達を殺害、あるいは投獄され、学校が襲撃されたためである。反乱対策を装い、これらのコミュニティに駐留し、恐怖の種をまき散らしているのが政府軍でないなら、その汚れた仕事を代行するのは政府の準軍事組織なのである(Manilakbayan, 2015)。 準軍事組織による恐怖と暴力の所業は、「ルマド」というミンダナオ先住民族を指す語を、フィリピンの人々に認識させ、2015年には#stoplumadkillings(ルマド殺しを止めろ)キャンペーンが、内外の人々の支持を幅広く集める事となった。彼らが開催した2015年の歴史的なManilakbayanの抗議隊は、指導者たちや学校、コミュニティへの攻撃を被ったミンダナオの様々な先住民コミュニティから、数百の先住民代表団が、その苦境を切実に伝えるために首都へやって来るものとなった。 これらの強制退去に共通の物語を分かち合い、様々な事例の記録を見てみると、先住民の指導者や学校、コミュニティに対する攻撃の組織的パターンの中に、一つの目的がある事が露わとなる。どうやらその目的は、先住民の指導者たちを殺害し、これらのオルタナティブ・スクールを中心としたコミュニティの連帯を弱め、最終的にはコミュニティを、彼らの家や農場から追い払う事を意図しているようだ。テロは意図的で、周到な準備によって、先住民コミュニティを先祖伝来の土地から強制退去させるために仕掛けられたものだ。ルマド族がその土地から追い出される事によって、誰が得をする事になるのだろうか。 絶滅戦争 フィリピン南部のこの島は、この国の大部分の先住民人口の故郷であり、全体ではフィリピンの総人口約1億人の中の15%を占めると推定される(Journal of Philippine Statistics, 2008: 92)。 世界中の他の先住民族(IP)と同様に、フィリピン先住民族もまた、国の最貧層に相当し、保健や教育、人権などの機会において理不尽なまでに苦しんでいる(UNDP, 2013:1)。国連などの多国籍機関には、世界中の先住民族を、歴史的で体系的な差別と排斥の犠牲者とする認識がある。政治的、経済的支配力を持つ多数派と共に発展した国家が背景となる場合、これは殊のほかあてはまり、またより深刻である。フィリピン国家の少数民族であるミンダナオのルマド族やモロ族などが住む地域の貧困は、最も深刻で厳しい(ADB, 2002: 33)。 だが、先住民族やその他の周縁化された集団に不利な制度の設定以上に、ルマド族のコミュニティに対する暴力的攻撃は、「組織的差別」という言葉の意味をはるかに上回る厄介な現実を示している。実際に起きている事は、ミンダナオ先住民族に対する、軍と準軍事組織によって仕掛けられた絶滅戦争なのである。これらの暴力と強制退去の物語は、「ルマド」という、自らを規定したアイデンティティを持つミンダナオ先住民の人々にとり、新しいものではない。事実、この言葉の所産は、ミンダナオ、あるいはフィリピン先住民族周縁化の歴史だけでなく、彼らをその土地から追い出し、そのアイデンティティや文化の抹消を試みた勢力に対する彼らの勇敢な抵抗をも示している。 「ルマド」は政治用語であり、これが最初に一般語彙に加わったのは、マルコスの独裁政権時代であった。当時、活動家たちはこの語を用いる事で、モロ族以外の先住民族で、国家主導の伐採や採鉱、農業プランテーションの拡大などの開発侵略が、先祖伝来の土地にまで及んだ被害者達を指した。1986年の6月26日、ミンダナオ先住民族18部族の中の15部族の集会が、この語を自ら規した集団的アイデンティティとして正式採用したのは、ルマド・ミンダナオ国民連合(Lumad Mindanao People’s […]

Issue 21 Mar. 2017

ฆ่าเพื่อใคร? คดีวิสามัญฆาตกรรมในฟิลิปปินส์

นับตั้งแต่โรดริโก ดูแตร์เตรับตำแหน่งประธานาธิบดีในเดือนมิถุนายน 2016 การวิสามัญฆาตกรรมคร่าชีวิตผู้คนไปมากกว่า 5000 ชีวิต เป้าหมายและแบบแผนของวิสามัญฆาตกรรมในยุคสมัยที่ดูแตร์เตเป็นประธานาธิบดีอาจแตกต่างจากสิ่งที่เคยเกิดขึ้นในสมัยเผด็จการมาร์กอส ประเด็นสำคัญที่ควรบันทึกไว้ก็คือ ในช่วงปี 2001-2010 ซึ่งประเทศฟิลิปปินส์มีระบอบประชาธิปไตยที่ค่อนข้างเสถียรภาพ เรากลับพบเห็นการวิสามัญฆาตกรรมจำนวนไม่น้อยในชีวิตประจำวันของประเทศนี้ สื่อมวลชน เจ้าหน้าที่รัฐบาลที่มาจากการเลือกตั้ง และผู้นำกลุ่มเกษตรกร ถูกยิงตายกลางถนนกลางวันแสกๆ ด้วยฝีมือของมือปืนขี่มอเตอร์ไซค์ การนับจำนวนวิสามัญฆาตกรรมที่ถูกต้องแน่นอนยังทำไม่ได้ เพราะการสู้รบด้วยอาวุธที่เกี่ยวข้องกับขบวนการคอมมิวนิสต์และขบวนการปลดปล่อยของศาสนาอิสลามยังเป็นปัญหาที่ดำเนินสืบเนื่องมา ถึงแม้การรวบรวมจำนวนคดีวิสามัญฆาตกรรมอาจมีตัวเลขแตกต่างกัน แต่ยอดรวมที่ประเมินขั้นต่ำที่สุดก็ยังชี้ให้เห็นว่า ระหว่างปี 2001-2010 มีการวิสามัญฆาตกรรมเกิดขึ้น 305 ครั้งและมีเหยื่อถึง 390 ราย ในขณะที่ Karapatan กลุ่มเฝ้าระวังด้านสิทธิมนุษยชน ประเมินว่ามีมากกว่า 1000 ครั้งสำหรับช่วงเวลาเดียวกัน ในจำนวนนี้มีเพียง 161 […]

Issue 21 Mar. 2017

誰のための殺人か?フィリピンにおける超法規的殺人の事例

ロドリゴ・ドゥテルテが政権に就いた2016年6月以来、超法規的殺人は5千人以上の命を奪ってきた。超法規的殺人の標的やパターンは、彼の在職中とマルコス独裁政権時代とでは異なったものであろう。また、特筆すべき重要な事は、フィリピンの民主主義が比較的安定していた2001年から2010年の時代にも、フィリピンの日常生活の中では、多くの超法規的殺人が目撃されたという事である。 多数のジャーナリストや、選挙で選ばれた政府高官、農民団体の指導者たちが、日中であっても、バイクに乗った正体不明の者によって路上で射殺された。超法規的殺人を正確に数え上げる事は不可能であるが、その訳は、共産主義運動やイスラム解放運動と関連した武力衝突が、進行中の問題であるからだ。事件数はまちまちで、幾分控えめな集計によると、2001年から2010年の間に305件の超法規的殺人があり、その被害者は390人であった。一方、ヒューマン・ライツ・ウォッチ団体のカラパタン(Karapatan)では、これと同期間に1,000件以上を集計している。これらの事件の中で合計161件のみが提訴されている。最終的に処罰された犯人がごく少数であった事には、愕然とさせられる。 フィリピンにおける超法規的殺人 最高裁判所行政命令によると、超法規的殺人は、被害者の政治的属性、殺人の手段、殺人の遂行時における国家のエージェントの関与あるいは黙認によって定義される。 市民社会やフィリピン国民は、これを軍隊に対する国家の機能不全、あるいは不処罰の文化と解釈する事ができる。フィリピン国民や世界の市民社会は、これらの超法規的殺人の膨大な犠牲者の数に驚かされたが、フィリピン国軍がこの件にそれ程懸念を抱いているとは思われない。 事件の数が多いため、また、様々な人が標的とされたため、事件の原因を割り出す事は難しい。これに加え、さらに困難な事に、特定の非戦闘員である指導者たち、例えば農民の指導者や、コミュニティ開発を志向するNGOの職員、環境保護主義者たちが惨殺された理由を突き止める事である。これまで、ほとんど気にかけられて来なかった事は、彼らがなぜ、地域コミュニティの何者かにとって、あるいは国家の政治経済にとっての脅威になるのか、という事である。 地域指導者殺害の事例に則し、これらの地域指導者殺害の事例を、国際開発計画との関係の中で分析してみたい。国際開発は、これらの計画にまつわる論争の舞台を、さらに複雑化させる原因である。フィリピンにおいて、国際開発計画はしばしば、政治家と地域のエリートたちとの腐敗した関係によって汚されてきた。加えて、経済が優先の開発事業団はしばしば、被援助国が適切な実施プロセスを迅速に進めるよう圧力をかけ、コミュニティの地域住民に対する悪影響は顧みないものだ。 ホセ・ドトン(Jose Doton)事件 ホセ・ドトン氏は、バヤンムナ(Bayan Muna)のパンガシナン支部の元事務局長であり、ティマワ(TIMMAWA:Tignayan dagti Mannalon A Mangwayawaya Ti Agno:アグノ川の自由な流れを取り戻す小農民運動)の代表でもあったが、2006年5月16日に射殺された。62歳であった。目撃者の話では、その日の午前10時30分から10時45分頃に、一台のオートバイが、ドトンとその弟の乗ったオートバイの背後で速度を上げ、3発の銃声があった。その直後、ナンバープレート番号が無い、その赤いオートバイ(ヤマハXRM)が、ドトン兄弟のオートバイに追いつき、さらに二発の銃声があった。ホセとその弟が路上に転倒すると、男たちの一人で20歳から25歳ぐらいの者がオートバイから降り、ホセの頭を撃って逃げた。 殺害された日まで、彼はサンロケダムの反対闘争を指揮し、人々の生活と資源に対する巨大ダムの悪影響の問題を提起していた。サンロケダムの建設が、彼の町の660世帯を強制退去させたのである。ベンゲット州イトゴンでは、約2万人の先住民が、この事業により悪影響を被った。2006年6月15日の記者会見で、日本が出資する事業の監視を献身的に行ってきたFoE Japan (Friends of the Earth-Japan)の波多江秀枝(はたえ ほづえ)氏は、「日本の政府や金融機関が出資した事業の中で、我々の団体は常に地域レベルにおけるHRV(人権侵害)に注意を払ってきた」と述べた。これらの事業に反対する者たちは、大抵、当局から左翼や共産主義テロリストの烙印を押される事になるそうだ。ティマワは、当局からこの地域の共産主義テロリスト戦線と目されていた。 サンロケ多目的事業(SRMP: The San Roque Multi-purpose Project)は、ルソン島北部、パンガシナン州のアグノ川下流に築かれ、多様な経済活動のための電力発電と、下流の堆泥や洪水を減らす事で水質改善を行うためのものである(Perez, 2004; SRPC, 2006, cited in Kim […]