Issue 20 Sept. 2016

タイ北部都市で記憶と歴史を彫り、鋳造する

記念建造物や彫像は、集合的記憶の定義を試みる国家の間で久しく普及している。そのような彫像記念物に対する執念は、一部の者たちによって、ある種の「彫像狂」とさえも表現される。これは西洋だけでなく、タイのような場所でも国家のエリートや都市プランナーたちの病なのである。タイでは新たな記念建造物が20世紀初頭からバンコクの都市景観に点在するようになった。この熱狂は様々な方法で拡大を続けており、最近ではタイのホアヒンのラチャパクディ公園の建設が「軍事政権によって安置された7人の王の記念像があるテーマパーク」と表現されている。 この彫像記念物に対する執心は、現在を超え、中央を超え、国家を超えて広がっている。軍事政権のラチャパクディという歴史テーマパークは、王族を記念建造物によって顕彰するタイの長い歴史の最新の現れであるに過ぎない。同様に、絶対君主制の黄昏時におけるバンコクの都市変容は、彫像狂の一背景に過ぎぬものであった。例えば北部都市のチェンマイでは、歴史記念建造物はこの都市及び地方の歴史上の重要期のみを示すばかりか、何よりも、国家が地域の記憶に主流の王党派・国家主義者の歴史テーマを押し付けんとする試みの地域的バリエーションをも示しているのだ。最後に、彫像狂は画一的な国家主体のみが患う病ではなく、むしろ、様々な主体や利害関係によって共有される疾患である。個々の芸術家たちがこれらの彫像を自分たち自身で彫り、鋳造する一方、国家や地方のエリートたちもまた、これらの「不動の記憶」によって表された国民的記憶の形成に取り組んでいるのだ。 クルバ・スリウィチャイ(Khruba Sriwichai) チェンマイに建設された最初期の近代的彫像記念物の一つはクルバ・スリウィチャイ(1878-1938)に捧げられたものである。彼はカリスマ的な僧侶であり、タイ政府の徴兵制度の方針に対する抵抗や、意欲的な寺院再建の経歴、街はずれからドイ・ステープ山頂寺院への道路の建設によって最もよく知られており、これら全てのことのために彼はタイ政府当局側にとって、ちょっとした目の上のこぶとなっていた。  クルバ・スリウィチャイのための記念碑建設を押す動きは、地元から、特にチェンマイ初の議員Luang Sri Prakadによって始められた。記録資料は、彼の記念碑に対する熱意や、政府内でこれを推進し、ドイ・ステープ麓にこれを設置しようとした努力を十分に実証している。一見、このようにタイ政府にとって厄介な人物の記念碑が中央国家によって、これ程強く支持された事を知ると意外に思うかもしれない。この彫像が地方の多様性の認識に向けたより大きな動きの一環だと提言することはあまりにも単純であろう。だが、この記念碑は確かに「地元に、あるいは地域に根差したディスコース」の焦点となったのである。地元のイニシアティブに応じて、タイ政府はこのカリスマ的で厄介な僧侶の遺産を統合せんと試みていたのである。この点において、これは初の試みではなかった。例えば1946年には、タイ王国が援助した公式火葬の後、彼の遺骨は六分割され、北部各県に分配された。1938年に亡くなった時、彼は依然として北部地方のアイデンティティーの象徴であったが、これはタイ政府が牛耳るシャム・タイ国民のアイデンティティーとは、せいぜい異なったものであって、下手をすると正反対のものであった。ようやく18年後の1956年にこの記念碑が設置された時、個人の記憶はなお、この製作と受け入れにとって重要であった。スリウィチャイの記念碑は、彼のカリスマ性の一部を中央国家に移転する事で、この厄介な僧侶の記憶を「手懐け」ようとするものであったかもしれないが、また地元の記憶のディスコースに開かれたままとなっていたのである。 タイ国家はこの記憶の形成を、彫刻家シルパ・ビラスリ(Silpa Bhirasri)の作品を通じて行った。元はイタリアのフィレンツェ出身で、帰化してタイ市民となったシルパは、後に近代タイ美術の父、そしてピブーンソンクラーム首相の主な彫像プロパガンディストと見なされるようになった。Maurizio Peleggiは、ピブーン時代に彫像記念物が「政治的プロパガンダの媒体として配置された」と記している。シルパはバンコクで特筆すべき彫像、例えばタクシン騎馬像の記念建造物などを製作したが、彼がデザインしたバンコクで最も有名な記念建造物は民主記念塔である。彼は他の彫刻家たちも養成したが、その中には彼のスリウィチャイ像の彫刻と鋳造を補佐したKhiem Yimsiriや、チェンマイで最も有名な記念建造物である三人の王の記念碑を27年後に製作する事となったKhaimuk Chutoなどがいる。 三人の王 最も有名で広く複製されるチェンマイの記念碑は中心地に位置し、三人の王族の肖像によって構成されている。それらはパヤー・マンラーイ(Phya Mangrai)、パヤー・ンガムムアン(Phya Ngam Muang)と、通常はラームカムヘーン(Ramkhamhaeng)として知られる13世紀のスコータイ王で、タイ史に慈愛に満ちた王権の概念を打ち立てたパヤー・ルアン(Phya Ruang)である。この記念碑は1296年にこの都市が建設された時、この三人が会ってマンラーイの新たな都市の位置や設計、規模を定め、これが彼の新たなラーンナー王国の首都となったという物語を伝えるものだ。 この記念碑の発端は複雑で、実際にはマンラーイだけの記念碑を建てようとする地元の動きとして始まった。1969年には地方委員会が組織され、マンラーイ記念の取り組みに便宜が図られたが、この委員会が芸術局(FAD)と接触し、この記念碑のデザインを依頼した。彼らはさらにSukit Nimmanhemin教育大臣にも接触し、土地とFADの支持を確保した。1969年の夏にはこの大臣の提案によって、FADはマンラーイの記念碑という概念を、三人の王の記念碑へと変えてしまった。それはなぜか?政府が一年後に行った説明によると、彫像記念物の増殖には「混乱」を招く可能性があったためということで、つまりは、タイ政府によって認可されない歴史の記憶を作り出す事になる、という意味である。1970年3月に政府は新たな政策を発表した。それは、重要人物の記念建造物や記念碑の計画はいかなるものであれ、政府に提出し、政府が検討する必要があるというものだ。地方の彫像狂の問題が、政府の最高レベルの懸念となったのである。それでもなお、一人の王から三人の王への変更問題は、引き続き人々の関心を集めた。6月5日の地元紙は次のように問いかけた。「マンラーイの記念碑:一人の王か三人の王か、どっちが良い?」チェンマイ知事は、他の王たちを入れるとマンラーイの重要性が薄れること、また、特に若い世代向けの説明を追加する必要が出てくるとの不満を述べた。地元の旧チェンマイ王国の子孫たちもまた、マンラーイだけの記念碑の方が良かったようである。 一度、ンガムムアンとラームカムヘーンが加えられると、この記念碑の構成の問題がさらなる論争を生んだ。マンラーイは中央に立っているが、威厳たっぷりに中心となった人物はラームカムヘーンであり、他の者たちは彼の話を聞いているのである。地元民たちの中には、マンラーイを中心から外すというナラティブに不満を表明する者たちもいたが、他の者たちは、なぜラームカムヘーンがもっと中心とならないのかと尋ねた。国家的な見地から見ると、彼は当然、より重要であると考えられるためだ。ラームカムヘーンとマンラーイの主役争いは様々な方法で行われた。例えば、記念碑落成にちなんだ記念のお守りが発行された時、ラームカムヘーンの名前はマンラーイの名前よりも先に、最初に記載されていた。これらの人物のデザインも、また意味ありげである。彫刻家でタイ王妃の親族であるKhaimuk Chutoは、王たちの顔つきを彼らの人柄を反映したものとして思い描いた。マンラーイは美形で、ラームカムヘーンは支配者らしく、ンガムムアンは「ハンサムで気が多い」といった具合だ。 おそらくタイ政府の観点から見れば、マンラーイとラームカムヘーンを二つの中心とする事は妥協であっただろう。だが、チェンマイの観点から見ると、これは国家の歴史を地方の記憶の上に押し付ける事であった。一人の王の姿を三人に増やす事で、この記念碑は歴史的ディスコースをタイ国家の指示通りに再び中央化し、チェンマイの歴史をバンコクの歴史と結びつける事となったのだ。 彫像が体現するもの これらの彫像は世俗的な記念建造物として存在するだけでなく、信仰や儀礼の対象でもある。事実、世俗彫像と宗教彫像との境界線は、大部分の東南アジアにおいては不明瞭である。バンコクの王たちやその他の人物の彫像記念物は、容易に崇拝や儀礼の中心となり得るものであり、多くの本物そっくりの僧侶の彫像が地域の博物館や寺院に設置されている。完成した後の三人の王の彫像がチェンマイに入る様子は、古代の王たちさながらで、市内北部のチャンプアック門を通った後に市内中央の聖域に進んで行った。彫像はまるでそれらが王たちであるかのように動かされ、今日では代々の王権を体現するものとしてあがめられている。この記念碑はタイ政府による支配をよそに、市内中心部の呪力・霊験を主張する競合集団によって再解釈され続けている。 同様に、クルバ・スリウィチャイ記念碑もまた、宗教的、世俗的、両方の記憶を体現している。例えば1972年には、スリウィチャイとその弟子が山麓に建設した道路の基点近くに位置するWat Sri Sodaという寺院が、この彫像の寺院敷地内への移動を要求した。実際、彼らはこの彫像を宗教的彫像として要求し、彼らの方がこの彫像をより良く保護する事が可能であり、功徳を積むための儀式にも便宜が良くなると主張したのである。地元Khon Muang紙に発表された論説はこの計画に強く反論し、それをただの金儲けとして、元々の場所が選ばれたのは、この彫像を広い範囲から見えるようにするためであり、それによって人々がこの高僧の善行を記憶しておく(ramlukthung)役に立つからであると主張した。現在、この記念建造物は元の位置に留まり、記憶と崇拝の焦点となっている。 結論 全ての記念建造物は集合的記憶を幾分、歪めるものである。上で検討した記念碑は、今日のチェンマイに数多くある、歴史的記憶が姿形を与えられた場所のうち、ほんの二つの場所である。三人の王、あるいはクルバ・スリウィチャイ記念碑移動の簡易計画をめぐる論争は忘れられるべきではない。なお、一度は議論の的となった彫像を、地域のアイデンティティーの象徴として再配置する事も可能である。三人の王たちのシルエットを用いて、何でも北部、ラーンナー、あるいはチェンマイの標識とする事ができる。ニューヨークに自由の女神があるのなら、チェンマイには三人の王があるのだ。芸術家たちがこれらの彫像を刻むのと同様に、社会的、政治的諸勢力は記憶の風景を形成する。だが、「彫像狂」を地域的観点から検討することで明らかとなるのは、地域の記憶を体現するものに対する細かい政治的制限が、どのようにラチャパクディ公園にあるような彫像、つまりは、軍部の認めた超王党派、超国家主義者版タイ人のアイデンティティーと歴史のぶしつけな道具を作り出すことができるのかという点である。 Taylor M. Easum […]

Issue 20 Sept. 2016

ความทรงจำทวนกระแส: การฉายซ้ำความรุนแรงทางการเมืองในภาพยนตร์ยุคดิจิทัลของไทย

ในภาษาไทย คำว่า ความทรงจำ คำที่อยู่ตรงกลางคือคำว่า ทรง ซึ่งแปลตรงตัวหมายถึงรูปทรงหรือสื่อกลาง คำว่า ความทรงจำ ในตัวมันเองจึงหล่อหลอมความมีตัวตนของอดีต (ถึงแม้ผ่านการตีความเสมอก็ตาม) และเป็นสัญญาณบ่งบอกถึงศักยภาพที่จะแปรเปลี่ยนความทรงจำผ่านรูปทรงและสื่อกลางต่างๆ รวมทั้งการปฏิบัติในสังคมและวัฒนธรรมวัตถุด้วย คนเราทุ่มเทให้การสร้างตัวตนแก่ความทรงจำก็เพราะกลัวว่าจะลืม ประเทศไทยผ่านการรัฐประหารโดยกองทัพมาแล้ว 12 ครั้งนับตั้งแต่เปลี่ยนผ่านจากระบอบสมบูรณาญาสิทธิราชย์ใน พ.ศ. 2475 การที่กองทัพหวนกลับมาปกครองประเทศครั้งนี้ ทำให้เกิดประสบการณ์แบบย้อนอดีต (déjà-vu) ซึ่งน่าเสียดายที่ไม่จุดชนวนให้เกิดแรงต่อต้านในวงสังคมกระฎุมพีชาวกรุงเทพฯ เรากลับเห็นแต่การตอกย้ำเรื่องเล่าแม่บทที่ล้นเกินด้วยแนวคิดความมั่นคงของชาติและการรักษาความเป็นระเบียบของสังคม “กลิ่นอาย” ของเผด็จการอำนาจนิยมแบบกองทัพสร้างความรู้สึกคุ้นเคยถึงขนาดที่การรัฐประหารของกองทัพทำให้เกิดการเฉลิมฉลองในปี 2549 และยอมรับได้ในปี 2557 ในหมู่กระฎุมพีเสียงข้างน้อย—หรือมิใช่? ในขณะที่ข่าวพาดหัวของสื่อกระแสหลักอาจบอกเป็นนัยๆ ว่า คนไทยยอมรับการปกครองของกองทัพและการธำรงสถานภาพเดิมไว้ แต่เราขอแย้งว่า ภาพยนตร์อิสระทำหน้าที่สวนกระแสโดยนำเสนอเสียงคัดค้านผ่านความคลุมเครือทางการเมือง วัฒนธรรมของพื้นที่สาธารณะทางเลือกในภาพยนตร์ไทย […]

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対抗的記憶:タイのデジタル映画における政治的暴力の再考

タイ語の記憶にあたる言葉、khwamsongcham = ความทรงจำの中心はsongであり、これは文字通り形式、あるいは媒体と訳される。khwamsongchamという語は、それ自体の中に具体的な(常に解釈されたものではあるが)過去を作り出し、社会的慣習や物質的文化などを含んだ様々な形式や媒体を通じた記憶の変容能力を示唆している。人が具体的な記憶に努めるのは、忘却への恐れがあるためだ。タイが12回連続で軍事クーデターを経験したのは、絶対君主制から移行した1932年以降の事である。今回の軍事政権の出現は既視体験を呼び起こしたものの、残念な事にバンコク中産階級の公共圏に抵抗運動を引き起こす事はなかった。そこに見られるものは、国家安全保障や社会的秩序の維持などに溢れたグランド・ナラティブの強化である。この軍事独裁主義の「感じと匂い」は、軍事クーデターが2006年に讃えられ、2014年には中産階級の少数派から許容可能なものとして容認され得るよう、親近感を作り出した(のであろうか?)。主流メディアの報道は、タイの人々が軍事政権と現状を受け入れているかのように仄めかすであろうが、我々が論じる自主映画は、対抗的公共圏として機能し、巧みな多義的表現を通じた抵抗を提供する。 タイ映画における対抗的公共圏の文化 現代のタイにおける独裁主義的状況の中、報道機関やオンラインのソーシャルネットワーク、ウェブ2.0の公共圏は縮小してしまった。ところが、ミクロの対抗的公共空間や反体制的社会運動は増えている。道徳的秩序が国家安全保障と混同されるようになり、この秩序を乱すと思しき思想や表現の罪には法廷での訴訟や罰金、パスポートの取り消し、国外追放、実刑判決などによる処罰が可能となった。国家検閲の強化は反対意見を抑圧するよりもむしろ、新たな政治色の強い自主製作のタイ映画を生み出すこととなった。製作やキュレーターシップにおける新技術、またソーシャルメディアを通じた新たな配給回路などがこれを可能にしたのである。 マイケル・ワーナー(Michael Warner)が示唆するように、「オルタナティブな公共圏が社会運動として位置づけられる場合、それらは国家に対する働きかけとなる。それらは政治の一時性に加わり、自身を合理的で批判的な言説の遂行文(performatives)に適応させる。多くの対抗的公共空間にとっては、そうすることは政策のみならず公共生活空間そのものをも変化させようとしたもともとの願いからの譲歩となっている。」タイの有識者や映画製作者たちが、彼らの反対意見を私圏に止めておくことを拒否することが、ミクロ・オルタナティブ・アート・スペース(カフェやギャラリー)の出現や、YouTubeやウェブ2.0などへのオープン・アクセスでのオンライン参加をもたらすことになった。これらの新たなミクロ対抗的公共空間は、多義的な風刺や両義的な語句を用いることで逮捕を回避している。 タイ(当時はシャム)映画の最初の国家検閲は1930年の映画法令であった。過去10年の間に新たな検閲法が出現し、刑法(1956, 2007)112条のコンピューター関連犯罪法(2007)と国内治安法(2008)の改正によって不敬罪法が拡大された。同じ10年間に、20作以上の自主映画が製作され、国内外の主要映画祭で公開上映されてきた。タイでインディーズ映画の拠り所となっているのは都市部のカフェや本屋、ギャラリー、領事館、それに大学などの場である。映画評論家のKong Rithdeeによると、タイ映画財団は「短編や自主映画を製作するタイの映画作家たちのための公共圏の創出にとりわけ重要な役割を果たし...映画およびデジタル映画の民主化」を、ワークショップや番組制作、映画祭などを通じて行っている。このような形で、インディーズ映画は政治的暴力の再考と記憶のための領域を切り開いてきたのである。 対抗的公共空間としての自主映画が細心の注意を払ってきたのは、記憶・歴史、そしてスローな映画美学であった。以下に論じる諸作品は、これら全ての特質を備えたものである。ここで取り上げる作品は、タイで繰り返される政治的暴力との対話、公開上映の機会が一回以上のものであること、また作品がオープンソースの中道左派のオンライン・ニュース・メディア、たとえばprachataiなどで再流通しているものであることを選択基準としている。 実験的ドキュメンタリーは記憶する:テロリスト(2011) タンスカ・パンジッティヴォラクル(Thunska Pansittivorakul)の映画「テロリスト(Terrorist)」は対照的なプラットフォームを備え、国家の政治的暴力の様々なシーンが親密な家族の記憶と並行して再現される。この映画は作品それ自体として見つけることが難しく、DVDやVCDの市場に流通もしていなければ、YouTubeなどのプラットフォームでその全編を入手できるものでもない。予告編は明らかに衝撃的で、男性のマターベーションのシーンが最近の2010年のバンコク路上の政治的暴力のシーンと並置される。この鑑賞体験は、同時に起こる性的、肉体的な暴力と喜びを直感的に具現化したものである。オンラインのニュースソースprachataiの抜粋では、ヌードシーンを避けて、政治的暴力のシーンのみが表示されている。 [youtube id=”bxwS3WN1NTA” align=”center” maxwidth=”800″] 映画の特別な見どころは、タンスカの母親がタイ共産党に加わった経緯についてのオーラル・ヒストリーを、母親と一緒にいる子供のタンスカの写真や、1976年10月6日の虐殺の写真と並置していることである。写真は我々の最も私的な記憶についてさえ、その証左として残す。写真はまた、1976年10月の虐殺の残虐性と衝撃的要素の紛うこと無き証言を提供する事もできるのだ。その残虐行為を暴力シーンの再現によって記録するにあたり、写真はまた、殺された者たちと暴力の関係者であった「国家主義的市民や国家当局」の両者を非人間化させる事も可能なのだ。 「空低く大地高し(バウンダリー タイの主要な劇場で商業上映され、Vimeoで18+の評価を受けた「空低く大地高し(2013)」は、南部の弾圧-2008年プレアヴィヒアにおけるタイ・カンボジア間の銃撃戦-に加わるよう召集され、その後、2010年5月に赤シャツ隊の鎮圧に送られた一人の若者の生涯を追う。この映画の原題“Fatum Paendin Soong”「空低く大地高し」が物議をかもしたのは、これがタイの社会的不公正や社会的階層化に異議を唱えるものと思われたためであった。タイ語での境界は“khet daen”として周知されている。ノンタワット・ナムベンジャポン(Nontawat Numbenchapol)監督によると、「境界の一つ目の意味は、貧しい農村の人々と搾取的なバンコクの中産階級とを分けるものである。二つ目の境界は、カンボジアの人々を国境によってタイから隔てるものである...私はプレアヴィヒアの山の国境に立っていた事を思い出した。その場所で、空と大地がつながり、共に存在していると感じていたのです。そのメタファーは、タイがいつの日か和睦する事を願ったものでありました。」要するに、この映画が具現化しているものは、国家がつくり出す領土や境界を通じた、現在にとっての過去、あるいは過去にとっての現在である。 [youtube id=”ONvbctIqjso” align=”center” maxwidth=”800″] ディレクターズ・カットでは、バンコクのラチャプラソン交差点での王の83歳の誕生日祝いのシーンが、ほんの数か月前に同じ場所で起きた赤シャツ隊の虐殺のシーンに入れ替わり、王族の賛辞や歓声、祝祭と共に映し出される。この並置は、場所が持つ複数の意味あいについて内省を促し、祝祭がどのように虐殺という汚点を置き換え得るかという設問を提起する。この多義的な表現ゆえに、タイの検閲委員会はこのシーンの削除を要求し、監督はこれに応じることとなった。2007年の112条の導入以来、国家当局は君主制に関するあらゆる発言の監視を余念なく集中的に行うようになり、不敬罪の違反者たちを政府の脅威である危険人物として標的にしている。 同様に、複雑な過去から構築されたタイ・カンボジア国境は、国内の政治問題を通じた敵の国家的記憶を具現化したものである。Pavin Chachavalpongpun、Charnvit Kasetsiri、Pou Suthirakの研究が示唆するように、タイ・カンボジアの国境は、歴史、記憶、政治や経済関係によって構築されている。境界はここでは字義通りの意味では用いられず、むしろ過激な国家主義や国内の政治問題の温度によって決められる敵か味方かの要素の狭間の動きを示している。 「ブリーフ・ヒストリー・オブ・メモリー(A […]

Book Reviews

REVIEW— Basagan ng Trip: Complaints About Philippine Culture and Politics

Basagan ng Trip makes theorizing and “discourse” chic. In the Preface, Lisandro E. Claudio notes that “Walang basagan ng trip” mirrors an “anti-critic tradition in Philippine arts” (p. ix). Through this lens, the Filipino psyche encourages creation and discourages criticism as this ruins the vibe of the imaginative process that produces something new. […]

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REVIEW— Mata Hati Kita, The Eyes of Our Hearts

Mata Hati Kita, The Eyes of Our HeartsCompiled by: Angela M. Kuga Thas and Jac SM Kee Petaling Jaya: Gerakbudaya Enterprise, 2016, 142 pages The recent widespread impression that religion, especially Islam, is to blame […]

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REVIEW— Muhammadiyah Jawa

Muhammadiyah JawaAuthor: Ahmad Najib BurhaniYogyakarta: Suara Muhammadiyah, 2016. 184 pages   A Muslim organization in Javanese culture Muhammadiyah Jawa is an important work written on historical development of Muhammadiyah, an Islamic organization established in 1912. […]

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REVIEW— 从文化视角看大湄公河次区域合作《评大湄公河次区域五国文化发展的体制机制研究》

从文化视角看大湄公河次区域合作《评大湄公河次区域五国文化发展的体制机制研究》 (Viewing GMS Economic Cooperation from Cultural Horizon: Review on Study on Mechanism of Cultural Development of 5 Countries in the Greater Mekong Sub-region) 王士录 (Shilu Wang) Publisher: Yunnan Publishing Group and Yunnan People’s Publishing […]

Issue 20 Sept. 2016

Memory Thickness: Presenting Southeast Asian Pasts

The research featured in this issue of Kyoto Review of Southeast Asia offers fresh insights into the places and tactile traces of memory in Cambodia, Laos, Vietnam and diaspora. Versed in distinct vocabularies of remembrance, our contributors destabilize official discourses and political constructs through innovative analyses of diverse vehicles of memory. Their discrete vistas on Southeast Asian memory disrupt homogenizing discourses – whether theoretical or official – with innovative analyses grounded in specific vocabularies, whether linguistic or aesthetic. […]

Issue 20 Sept. 2016

REVIEW— On Five Short Films by Wregas Bhanuteja

EVERYONE IS AN ISLAND Wregas Bhanuteja became (social)-media sensation in Indonesia this year because of winning a Cannes 2016 award with his Prenjak (2016). His 12 minute story about a young woman sold overpriced matches […]

Issue 19 Mar. 2016

Nonviolent Action: The Ultimate Sacrifice

I have long been awed by the level of commitment required for any idealist to make the ultimate sacrifice for their cause, the offering of one’s very life. Where does one acquire such steadfast, unbending […]

Issue 19 Mar. 2016

Rethinking “Religion” from the Margins

We have long been hearing about the degeneration of Buddhism in Thailand, most often accompanying scandals involving monks who deal with money, magic, or sex. Such realities are inevitably attributed to modernity or globalization. However, […]

Bahasa Indonesia

Menimbang-ulang “Agama” dari sudut pinggiran

Berita tentang kematian Buddhisme di Thailand telah lama terdengar, paling sering diikuti dengan skandal yang melibatkan sejumlah biksu yang berurusan dengan uang, sihir, atau seks. Beragam kenyataan tersebut pastinya terkait dengan modernitas atau globalisasi. Namun, […]

Issue 19 Mar. 2016

ทบทวน “ศาสนา” จากชายขอบ

เราได้ยินเรื่องความเสื่อมของพุทธศาสนาในประเทศไทยมานาน ส่วนใหญ่มักมาพร้อมกับข่าวอื้อฉาวของพระที่พัวพันกับเงิน ไสยศาสตร์หรือเพศสัมพันธ์ มันเรื่องหลีกเลี่ยงไม่ได้ที่ความเป็นจริงเหล่านี้มักถูกซัดทอดว่าเกิดจากความเป็นสมัยใหม่หรือโลกาภิวัตน์ อย่างไรก็ตาม ความเสื่อมของพระในฐานะคณะสงฆ์ที่รัฐรับรองอย่างเป็นทางการไม่จำเป็นต้องหมายถึงความเสื่อมของศาสนาโดยรวม อันที่จริงมันมีความหมายว่า ในส่วนของนักวิชาการมีความจำเป็นที่จะต้องทำความเข้าใจศาสนาต่างๆ ในเอเชียตะวันออกเฉียงใต้อย่างใส่ใจในรายละเอียดมากกว่าเดิม โดยย้อนกลับมาพิจารณาทบทวนการที่รัฐสร้างความเป็นสถาบันให้ศาสนาในช่วงกำลังเข้าสู่ความเป็นสมัยใหม่ ตลอดจนมโนทัศน์เกี่ยวกับศาสนาเอง ศาสนา รัฐและมุมมองแบบศูนย์กลาง  ความเข้าใจที่เรามีต่อพุทธศาสนานิกายเถรวาท รวมทั้งต่อศาสนาโดยทั่วไปในเอเชียตะวันออกเฉียงใต้ มักถูกจำกัดด้วยม่านบังตาสองชั้นด้วยกัน ชั้นแรกคือคำว่า “ศาสนา” ที่มาจากตะวันตก คำคำนี้มีปัญหาตั้งแต่เริ่มแรกแล้ว โดยเฉพาะในสังคมที่ไม่ใช่ตะวันตก การใช้คำคำนี้สร้างปัญหาขึ้นมาอย่างกว้างขวางเพราะการที่มีต้นกำเนิดจากตะวันตกและมาพร้อมกับอคติของศาสนาคริสต์ยุคใหม่ (cf. Asad 1993) เอเชียตะวันออกเฉียงใต้ก็มิใช่ข้อยกเว้น คำถามข้างต้นนำไปสู่การศึกษาเชิงวิพากษ์ทั้งในแง่ที่เอเชียนำมโนทัศน์ศาสนาของตะวันตกมาใช้และการเปลี่ยนแปลงของศาสนาในเอเชียภายใต้แรงกดดันจากตะวันตก ตรงกันข้ามกับการสร้างความมีเหตุมีผลและการเปลี่ยนไปสู่ฆราวาสนิยมในประวัติศาสตร์ของศาสนาคริสต์ อันเป็นกระบวนการที่เกิดขึ้นเองดังที่นักสังคมวิทยาศาสนาอย่างเวเบอร์และแบร์เกอร์อภิปรายถึงหลายครั้ง สังคมเอเชียมีลักษณะเฉพาะตรงที่ระบอบอาณานิคมหรืออำนาจรัฐที่กำลังก้าวสู่ความเป็นสมัยใหม่ในยุคหลังอาณานิคมเป็นฝ่ายบังคับให้ศาสนาต้องเปลี่ยนไปสู่ความมีเหตุมีผล ความมีมาตรฐานและความเป็นสถาบัน ด้วยเหตุนี้ อำนาจรัฐจึงเป็นปัจจัยที่หลีกเลี่ยงไม่ได้และมีความสำคัญอย่างยิ่งในการทำความเข้าใจศาสนาในภูมิภาคนี้ ม่านบังตาชั้นที่สองคือกรอบกระบวนทัศน์และมุมมองหลักในการเข้าใจพุทธศาสนานิกายเถรวาทมักได้มาจากประเทศไทยในระหว่างกระบวนการสร้างชาติ มันชี้นำวิธีการที่เราเข้าใจพุทธศาสนานิกายเถรวาทในหลายๆ […]

Issue 19 Mar. 2016

周縁からの「宗教」再考

随分と前からタイでの仏教の衰退を嘆く言説を耳にしてきたが、そのほとんどは金銭や呪術、セックスなどに関与した僧侶たちの醜聞を伴ったものだった。このような現実は必ず、近代やグローバル化のせいにされてきた。しかし、国家に認可された僧侶組織としてのサンガ(僧伽)の相対的な衰退が、必ずしも宗教全般の衰退を意味するわけではない。そこで求められているのはむしろ、研究者が近代国民国家の形成過程で促された宗教の制度化や、宗教自体の概念を再考する事で、東南アジアの諸宗教に対する、より細やかな理解を提供することである。 宗教、国家、中心からの視点 我々の上座部仏教や、より広い東南アジアの宗教全般に対する理解は、二重の目隠しによって視野を狭められてきた。一つは、西洋に由来する「宗教(religion)」という言葉そのものである。非西洋社会でこの言葉の用法が広く問題とされてきたのは、それが西洋を起源とするものである事と、近代キリスト教徒的バイアスがかかっているためである(Asad 1993参照)。東南アジアも例外ではない。これらの問題は、アジアにおける西洋的宗教概念の適用や、西洋の圧力下でのアジア諸宗教の変遷の双方に対する批判的なアプローチに道を開いてきた。キリスト教の歴史の過程で発生した合理化や、それに続く世俗化が、ウェーバー(Weber)やバーガー(Berger)といった宗教社会学者たちによって繰り返し論じられてきたのとは対照的に、この地域では、植民地国家、あるいは植民地独立後の近代化途上の国家権力によって、合理化や標準化、制度化が進められてきた。したがって、この地域の宗教を理解する上で国家権力は不可避の重要な要素となっている。 今一つは、上座部仏教を理解するための主要なパラダイムや観点の多くが、国民国家形成時のタイに由来しているということである。このことは我々の上座部仏教や、おそらくはこの地域の他の諸宗教に対する理解の仕方を様々に形作り、また我々の知識形成の方向性をも定めてきた。村落仏教にしても、仏教と精霊崇拝、森林の僧たちと僧院組織との関係、あるいは王権と国家にしても、これらの研究主題は主にタイから発せられたものであり、そこでの理解のパラダイムは、仏教と国民統合に焦点を置いたものとなっている。このことはまた、少数民族を仏教研究の考慮外に置いてきたことにも影響している。このように、この地域の仏教研究の焦点は、僧院組織と国家との関係、そして国民国家建設における仏教の役割の考察に当てられてきたのである(Ishii 1986; Tambiah 1976)。 これらの理由から、タイ仏教研究はエリートの僧院仏教を優先してきたのだが、実際にはそうしたエリート仏教は、McDaniel (2008)の指摘どおり、過去一世紀の仏教実践を標準化する上では、ごく限られた効果しかもたらしていない。一方、仏教は国民国家建設の営みにおいて一つの重要な「タイ人たる」指標となってきた。少数民族が仏教以外の宗教を選択すれば、それは彼らが自分達を非タイ人としてのアイデンティティを明示するための選択と見なされる。あるいは逆に、少数民族が仏教を実践すれば、それは何がしかの意味で異端の仏教と見なされてきた。 これまで仏教は、二重の意味で中心からの視点で論じられてきたといえる。第一に、仏教はその組織と国家の関係を理解する上で僧院の中心、またしばしば国家、王室の中心からの視点で、考察されて来たのである。また第二に、仏教は、「仏教的」、あるいは「非仏教的」と分類される多様な要素によって構成される、習合的な複合全体の階層の中心点とも目されてきた。 以上のようなサンガ中心のエリート主義的観点を相対化する試みは、これまでも繰り返されてきたのだが、この中心-周縁の構図が前提とされる限り、周縁の宗教要素は中心に対する抵抗と見られる傾向にあり、結局は中心‐周縁の理解モデルを強化してきたのである。少数民族の仏教実践を、多数派の仏教に対する何らかの抵抗として、あるいはアンチテーゼとして見なす限り、我々は国家を中心とする制度仏教とその他の少数民族の宗教という二分論、対立という従来の見方を上書きする事になる。 宗教と三つの境界 以上の見方では、民族カテゴリーを、宗教実践理解のための自明で自己完結した単位とみなすことになり、仏教徒・非仏教徒、多数派・少数派、中心・周縁などの二分化を前提としこれらの明確な区分とされるものを横断するような、それ以外の視点を排除してきた。このようなアプローチは、宗教実践と伝統が混ざり合い、複雑な重層を成す東南アジアの諸宗教の現実を、見えなくしてしまい、説明不可能にしてしまう。むしろ、少数民族の仏教を考察するのであれば、仏教への中心主義的な視点を根本から問い、民族と国家の区分を当然のものとする事に疑問を投じることから始めるべきである。 近年、日本の我々のグループは、境界や周縁で実践される宗教に目を向けてきたが、我々の確信は、周縁に生じる宗教動態を考察する事で、国家中心の制度宗教のパラダイムを問う事ができるだろうというところにある。ここで言う「境界」には、三重の意味あいがある。第一に、地政学的な国家間の国境、第二に、エスニシティ(あるいは山地と低地の間)の境界、そして第三に、出家と在家の境界である。さらに、隠された局面として、これらの周縁を深く探究する事によって「宗教」自体の縁辺や輪郭を問うに至ることが期待される。 エスニシティと宗教実践 この地域では少数民族が国境域に居住しているため、地政学的、民族的境界は多くの場合交差しあっている。従って、このような少数民族を理解することは、彼らが境界を跨ぐ存在であるがゆえに、国家中心の視点を問う出発点となり得る。この点から実感される事は、少数民族と宗教、多数派国家との間には複雑な関係のパターンがあり、それらをいかなる単純な公式に還元するのも不可能だという事である。 フィールドワークに基づく議論が提示する複雑な現実は、周縁の中心に対する抵抗、国家の認めた民族区分、制度宗教などを想定した既存の見解を問い直すものである。上ミャンマーのパラウン(Palaung)とパオ(Pao)の両者の間では、これまで多民族が共有する複合的宗教空間であったものが、民族別に、それぞれに独自の言語に音訳、翻訳された経典を備えた小規模僧院組織に分割され始めている(小島 2015; Murakami 2012; 村上2015)。これらはパラウン語を仏典に用いる試みを通じ、あるいは、パオの僧院組織の設立を通じて実現されてきた。皮肉なことに、このような動きを引き起こしたものは、少数民族の地域外を旅する機会を得た彼らの宗教的指導者や知識人たちの移動性の向上であった。別言すれば、境界を超え、自分達の民族の区域外の地域に行く経験が、逆説的に、民族的境界の確立を促したわけであるが、これは宗教実践における自身のエスニシティや言語の画一化という、多数派仏教徒たちの間で行われる制度化と並行した現象といえるだろう。 過去には、少数民族と低地国家との関係は「模倣か抵抗」のいずれかとされてきた。しかし、これらのパラウンとパオの事例が示しているのは、多数派、あるいは国家を中心とする低地社会の経験が、少数民族自身の仏教実践にフィードバックされ得るという事である。現実は単純な服従か抵抗かという二者択一よりも、遥かにダイナミックなものである。一見すると宗教的な境界の横断、あるいは少数民族の民族区分への囲い込みに見える現象は、実践者の観点からすれば、単なる宗教環境の改善方法なのである。この事例は、当事者自身の宗教実践がもつ意味に顧慮することなく、国境を行き来する移動性によって民族の区分が解き放たれるかのように無批判に想定することへの警鐘となっている。 民族カテゴリーの確立を分析する上で、宗教は重要な問題となり得る。20世紀ビルマのカレン族の民族意識が、宗教と仏教の再定義の過程から生じて来たものである事が解明された(Ikeda 2012)。「カレン族らしさ」の出現をめぐる仏教徒の語りは、少数民族とキリスト教その他の非仏教宗教との一般的な関連付けを改めるものであった。一方で、タイにおける中国寺廟の調査は、国家の宗教に対する規制の縁辺を解明するものであった(Kataoka 2012)。中国寺廟の信者たちは、公式の統計において自分達を仏教徒だと主張するが、習合的な神仏を祀る彼らの寺は、公式には「非宗教」と位置付けられている。国家の宗教行政から無視されてきた中国寺廟は、仏教の公式的定義と宗教自体とのギャップを提示するものである。 ここで明らかな事は、第一に、公式に定義された宗教や公認されたエスニシティの関係は、決して予想可能でもなければ、厳密に対応するものでもないという事だ。民族・宗教の関係は、一つの民族が一つの信仰を奉じているような場合でも、特に宗教と近代国家建設の再定義のプロセスの中では、決して単純なものではない。さらに、少数民族の宗教の研究は、「宗教」自体の境界の再検討につながり得るものである。 宗教的境界 宗教実践を周縁から検討する事は、制度に基づく諸制約から距離を置き、より現地や個々の実践者たちの視点から、仏教を理解する事につながってゆく。クルーバー・ブンチュム(Khruba Bunchum)や、ウ・トゥザナ(U Thuzana)など、カリスマ僧侶の国境の少数民族地域での足跡をたどる上で、我々は、少数民族の宗教運動にすぐに抵抗を読み取る既存の見解を疑問視する事から始めた(Hayami 2011; 速水2015; 片岡2015)。結局、これらの探求が明らかにするのは、現場の実践者たちにとっては、国家支持か反国家かという争点は、えてして二義的な価値しかもたないという点である。むしろ、実践者たちにとってより重要なのは、彼らの帰依するカリスマ的な力が、実際に彼らを守護し、彼らが自分達の生活状況の中で求める力を与えてくれるかどうかということなのである。 タイ・ミャンマー国境沿いでは、多くのカリスマ僧侶たちが少数民族から熱烈に崇拝されている。これらの僧侶たちは国家権力の狭間で活動し、これらの少数民族の者達にオルタナティブを提供している。だが大抵同時に、この同じ僧侶たちは、国境のいずれかの側で権力の座にあるエリートとも接触している。このように様々な帰依者たちを無差別に受け入れる事によって、彼らは境域での自由な往来を認められているのである。このような事例をもって、彼らカリスマ僧侶たちが国家を相対化しているのか、それとも国家の辺境統治に奉仕しているのか、と問うことは、そもそも的外れであるか、あるいは誤解を招くものでさえある。少数民族の多数派支配に対する、服従か抵抗か、という単純な二者択一自体が問われなくてはならないだろう。帰依者達自身にしてみれば、このような疑問はおそらく全くどうでもよいことである。したがって、周縁における宗教実践は、単なる「弱者の武器」なのではなく、完全に異なった筋から検討されるべきものである。 […]

Issue 19 Mar. 2016

The Curious Case of Buddhist Activism in Singapore

Buddhist activism has been a subject of considerable discussion among academics, policy makers, and practitioners in recent years. Buddhist activists, consist of both the Sangha and laity, have sought to promote social justice, campaign for political […]

Bahasa Indonesia

Keanehan Kegiatan Para Penggiat Buddhis di Singapura

Kegiatan para penggiat Buddhis telah menjadi topik bahasan yang luas di antara akademisi, pembuat kebijakan, dan praktisi dalam beberapa tahun terakhir. Para penggiat Buddhis, terdiri dari Sangha dan kelompok awam, berusaha mendukung keadilan sosial, kampanye […]

Issue 19 Mar. 2016

กรณีน่าสนใจเกี่ยวกับกิจกรรมทางสังคมของขบวนการพุทธศาสนาในสิงคโปร์

กิจกรรมทางสังคมของขบวนการพุทธศาสนาเป็นหัวข้อที่มีการอภิปรายกันมากพอสมควรในหมู่นักวิชาการ นักวางนโยบายและพุทธศาสนิกชนในช่วงไม่กี่ปีที่ผ่านมา นักกิจกรรมชาวพุทธที่มีทั้งพระสงฆ์และฆราวาส ต่างก็พยายามสนับสนุนให้เกิดความยุติธรรมทางสังคม การรณรงค์เพื่อการปฏิรูปทางการเมือง ส่งเสริมการอนุรักษ์สิ่งแวดล้อม และปกป้องความศรัทธาของตนจากภัยคุกคามและคำสอนที่แตกต่างไปจากความเชื่อดั้งเดิม ในบริบทของภูมิภาคเอเชียตะวันออกเฉียงใต้ เมื่อเอ่ยถึงกิจกรรมทางสังคมของชาวพุทธ เรามักนึกถึงภาพการเคลื่อนไหวเพื่อสันติภาพของพระมหาโฆษนันทะและติช นัท ฮันห์ การเคลื่อนไหวทางการเมืองและสังคมของสุลักษณ์ ศิวรักษ์ และที่ขาดเสียไม่ได้ก็คือ “การปฏิวัติผ้ากาสาวพัสตร์” (Saffron Revolution) ที่เกิดขึ้นในพม่าเมื่อ ค.ศ. 2007 อย่างไรก็ตาม กิจกรรมเหล่านี้ไม่ใช่เรื่องแปลกประหลาดสำหรับประเทศในแผ่นดินใหญ่ของเอเชียตะวันออกเฉียงใต้ที่มีประชากรส่วนใหญ่นับถือพุทธศาสนา กระนั้นก็ตาม ชุมชนชาวพุทธในประเทศเอเชียตะวันออกเฉียงใต้ที่แวดล้อมด้วยทะเลก็มีกิจกรรมทางสังคมไม่น้อยหน้าเช่นกัน เมื่อเอ่ยถึงประเทศในเอเชียตะวันออกเฉียงใต้ที่แวดล้อมด้วยทะเล เรามักนึกถึงโลกมลายูอิสลามที่ในปัจจุบันประกอบด้วยประเทศบรูไน อินโดนีเซียและมาเลเซีย รวมทั้งประเทศฟิลิปปินส์ที่ประชากรส่วนใหญ่นับถือศาสนาคริสต์นิกายโรมันคาทอลิก ส่วนสิงคโปร์ค่อนข้างแปลกแยกแตกต่างออกไปเพราะการมีประชากรส่วนใหญ่เป็นชาวจีน (ประมาณ 75%) และสิ่งที่คนจำนวนมากไม่ค่อยรู้ก็คือประชากรส่วนใหญ่เป็นชาวพุทธด้วย จากการสำรวจสำมะโนประชากรของสิงคโปร์ในปี 2010 […]

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シンガポールにおける仏教運動の興味深い事例

近年、仏教運動は研究者や政策担当者、実践家の間で相当な議論の的となっている。 サンガ(僧伽、出家者集団)と在家から成る仏教徒活動家は、社会的公正と政治改革運動の促進や、環境保護主義の普及、そして自身の信仰への脅迫や異端教義からの擁護を目指してきた。東南アジアという文脈で仏教運動が想起させるものには、ゴーサナンダ(Ghosananda)やティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh)らの平和運動や、スラック・シワラック(Sulak Sivaraksa)の政治・社会運動、それからもちろん、2007年ビルマで起きたサフラン革命がある。だが、このような運動は、東南アジア大陸部の仏教諸国に特有のものではない。東南アジア島嶼部の仏教徒コミュニティもまた、相応に運動を担ってきたのである。 東南アジア島嶼部と言ってしばしば思い浮かぶのは、今日のブルネイ、インドネシアやマレーシアを含むイスラームのマレー世界、そして、カトリックのフィリピンである。島嶼部の中でシンガポールが異彩を放っている理由は、圧倒的な華人人口の多さ(約75パーセント)と、あまり多くの人には知られていないが、その多くを仏教徒人口が占めることである。シンガポールで行われた2010年の人口調査によると、33.3パーセントの人々が、仏教徒を自認している。筆者は最近の研究で、シンガポールのポスト植民地期における仏教運動に焦点を当ててきた。そこで明らかになってきたのは、東南アジア大陸部の仏教徒活動家とは異なり、シンガポールの仏教徒活動家は、政治改革や環境保護主義、あるいは世界平和にはあまり関心を抱いていないということである。むしろ、彼らは、教義の誤った解釈や「異端」から仏教を擁護し、社会福祉活動を推進することに携わっている。 シンガポール仏教総会(The Singapore Buddhist Federation/ SBF, Xinjiapo fojiao zonghui 新加坡佛教總會)は、仏教コミュニティを代表する包括的な全国組織であり、英国植民地政府とシンガポール国内の様々な仏教団体との橋渡しを務めるべく、1949年に設立された。設立当初から、SBFは仏教コミュニティの利益促進に積極的な役割を果たし、1955年には、ヴェ(Vesak)が祝日として官報に告知されるよう求める植民地政府への働きかけにおいても重要な役割を果たした。また、植民地政府に対して、仏教徒用の墓地建設の承認を求める働きかけも行った。1955年9月と1959年2月には、SBFは当局に仏教徒用の墓地の設立と、その周辺での橋や下水設備、道路、仏教寺院や食堂の建設許可を与えるよう嘆願をした。墓地設立当初SBFが主導した運動は、主に仏教コミュニティに実用的かつ具体的な利益をもたらす運動に限られていた。SBFの関心は明らかに、政府を説き伏せ、自分達の要求を承諾させる事にあったのであり、仏教徒を結集させてその信仰を擁護したり、誤った教義解釈や実践を正したりすることではなかった。 ダルマ(仏法)を擁護する 1970年代初頭から、SBFは宏船尊師(Hong Chuan, 1907-1990)の指導の下、「仏法擁護運動」(hufa xingdong 護法行動)の推進に、より積極的に取り組むようになった。SBFは、仏教を冒涜する内容や間違った教義解釈を含む外国映画の検閲を求めて、政府に働きかける上で重要な役割を果たした。SBFが主導した最初の運動は1970年8月に行われた韓国映画「Dream (夢)」に対する抗議である。SBF側の言葉を引用すると、この映画は「仏教を侮辱し、道徳規範を堕落させ、人々の心を毒する」ものである。仏教コミュニティの「品格」を守るべく、宏船は映画検閲委員会に嘆願書を提出し、上映の一時停止と、SBFによる映画の検閲許可を求めた。その後、この映画はシンガポールでの上映が禁止となった。その後の数年間に、SBFはシンガポール映画検閲委員会に働きかけ、いくつかの他の映画、例えば「出家者(Monks/Chujia ren)」や「四大皆空(The Four Great Elements are Empty (Sida jiekong)」、「露乳女尼(Breasts Revealing Nun /Louru nüni)」、「肉蒲団(The Carnal Prayer […]

Issue 19 Mar. 2016

การศึกษาศาสนาพุทธในเวียดนาม: ข้อคิดเห็นบางประการเกี่ยวกับแนวโน้มในปัจจุบันและอนาคต

ภายในสาขาการศึกษาเกี่ยวกับพุทธศาสนานั้น ศาสนาพุทธในเวียดนามได้รับความสนใจน้อยเกินไปจากแวดวงนักวิชาการยุโรป-อเมริกัน ส่วนหนึ่งเกิดมาจากอคติทางวิชาการที่นิยมศึกษาศาสนาพุทธโดยรวมศูนย์อยู่ที่ตัวบทพระคัมภีร์มากกว่าการแสดงออกด้านวัตรปฏิบัติของพุทธศาสนาในชีวิตประจำวันจริงๆ อคติดังกล่าวนี้มีพื้นฐานมาจากวิธีการศึกษาทางวิชาการแบบเก่าที่ให้ความสำคัญแก่ตัวบทบางอย่างมากกว่า แล้วสร้างภาพของศาสนาขึ้นมาจากทัศนะดังกล่าว โดยมักละเลยการตีความและการแสดงออกของปัจเจกบุคคลและวัฒนธรรมของศาสนิกชน วัฒนธรรมเชิงตัวบทของศาสนาพุทธในเวียดนามมิได้พัฒนาไปถึงระดับเดียวกับประเทศพุทธศาสนาอื่นๆ และได้รับความสนใจจากวงวิชาการค่อนข้างน้อย นอกเหนือจากนี้ ยังมีอุปสรรคหลายประการสำหรับผู้ที่ต้องการศึกษาวิจัยศาสนาในเวียดนาม ซึ่งยังถือเป็นหัวข้อที่อ่อนไหวภายใต้ระบอบการปกครองในปัจจุบัน ยกตัวอย่างเช่น การกำหนดสถานที่และการเข้าถึงบุคคลที่ต้องการสัมภาษณ์ การติดต่อกับระบบราชการที่ล่าช้าจุกจิกมากเพื่อเข้าถึงแหล่งเก็บเอกสารสำคัญ ปัญหาเหล่านี้อาจมีความยากลำบากมากกว่าในประเทศอื่นที่ประชากรส่วนใหญ่นับถือศาสนาพุทธ ถึงแม้มีข้อจำกัดดังกล่าว แต่ก็มีผลงานชั้นเยี่ยมที่ศึกษาเกี่ยวกับเวียดนามและสร้างความกระจ่างแก่ประเด็นหลายอย่างในประวัติศาสตร์พุทธศาสนาและการปฏิบัติในปัจจุบัน กระนั้นก็ตาม ถึงแม้มีงานวิจัยที่โดดเด่นอยู่บ้าง แต่ก็ยังมีช่องว่างไม่น้อยในประเด็นสำคัญๆ หลายประการภายในงานวิชาการที่ศึกษาศาสนาพุทธในเวียดนาม ประเด็นหนึ่งคือการเปรียบเทียบกับศาสนาพุทธในที่อื่นๆ การวิจัยหัวข้อหนึ่งในหลายหัวข้อที่น่าศึกษาเกี่ยวกับศาสนาพุทธในเวียดนามก็คือการสำรวจตรวจสอบ “ความเป็นมหายาน” ของศาสนาพุทธในเวียดนามโดยเปรียบเทียบกับศาสนาพุทธนิกาย “มหายาน” ในประเทศอื่นๆ รวมถึงเปรียบเทียบกับรูปแบบของพุทธศาสนาที่เรียกกันทั่วไปว่า “เถรวาท” ด้วย แนวคิดที่มีมายาวนานเกี่ยวกับคุณลักษณะที่ใช้ในการจัดแบ่งนิยามนิกายและใช้กันซ้ำๆ ในพุทธศาสนานี้ยังคงใช้ได้หรือไม่? การนิยามศาสนาพุทธในเวียดนามว่าเป็นนิกาย “มหายาน” มีความเหมาะสมหรือเปล่า? […]

Issue 19 Mar. 2016

ベトナムにおける仏教研究:現在と今後の方向性についての考察

仏教研究の分野において、ベトナム仏教は欧米圏の研究者の十分な関心を集めて来なかった。これはある程度、学問が文献を中心とする仏教研究を偏重し、暮らしに即した日々の仏教実践の表現を軽んじる傾向があることに起因する。こうした偏見は古い学問的方法論に基づいており、そこでは特定の文献を特別扱いし、その観点から宗教概念を組み立てる一方で、個人や個別文化の描写や記述を大幅に無視する。そしてベトナム仏教に関する経典文化は、他の仏教圏の経典文化と同程度には発展してこなかったため、結果として学問的な関心が向けられる事があまりなかったのである。加えて、ベトナムの現政権下で宗教は扱いに慎重を要するトピックであるため、宗教研究を成し遂げようとする研究者にはこれも障害となっている。例えば、インタビューの対象者を探し出して接触することや、ひどくお役所的な公文書類を扱うことは、他の仏教諸国で同じことをするよりも、はるかに骨の折れる仕事となろう。しかしこういった制限にもかかわらず、卓越したベトナム研究が行われ、それが仏教史と現代における仏教実践に関する特定分野に光をあててきた。けれども、一部の非常に優れた研究はあるものの、ベトナム仏教研究の多くの重要な分野には未だ大きな空白が残っている。そういった分野の一つが、他の仏教との比較という領域である。ベトナム仏教をめぐって立ち現れる数多くの研究課題候補の一つに、ベトナム仏教の「大乗性」を他の「大乗」仏教や、一般に「上座仏教」とみなされる仏教形態と比較調査する仕事がある。このような仏教の多様なあり方について、特徴を定義するために用いられてきた従来の比喩はもはや精査に耐えるだろうか。「大乗」という呼称はベトナム仏教にふさわしいものであろうか。 「上座仏教」と「大乗仏教」という二項対立は、長年、仏教の分類として太鼓判を押されたかのように用いられてきたものであるが、近年、これを疑問視し、反論する研究が急速に進んできた。数ある論考の中でも重要な編書、”How Theravāda is Theravāda? Exploring Buddhist Identities”(『上座仏教が上座仏教である所以:仏教アイデンティティの研究』は、この一般的な枠組を用い続けることから生じる諸問題を検討し、明確に示している。比較研究に富んだ、同書と対を成すような必携の編著 ”How Mahāyāna is Mahāyāna?”(『大乗仏教が大乗仏教である所以』のようなものがあったならば、他の仏教圏においてもみられるあまりに単純な二項対立的な枠組みに関する理解と認識を深める上でも有効であり、また、ベトナムの現代仏教の本質を理解するためにも有効であろう。 英語圏での仏教に関する知識や理解は、何よりも、このような乗り物(大乗・小乗といった)の分類で捉え、その中で地域仏教を描写するという立場を、大体において採り続けてきた。研究者が目指すべき意味ある方向性というのは、このような分類を越えて、地域仏教の独自性を描写し、より精緻な枠組みを用いて表現し分析することであろう。この可能性ある研究領域は、仏教の何たるかについて、これをエリートの経典中心の禁欲的な宗教として描き、信徒の目標を涅槃への到達だとするような見解から、学術界が距離をおくことの一助となるだろう。 説得力のある文献としてSwearer (1995)や McDaniel (2011)、 Kitiarsa (2012)、Soucy (2012)のものがある。これらは仏教研究を、古く、理想化された正典中心型のものから、生き生きとした民衆による宗教実践の領域へと押しあげてきた。ベトナムとそこで実践される宗教について理解を深めるために必要なのは、この方向性に沿ったさらなる研究が、特にベトナムの政治における仏教の役割や仏教のポリティクスに重点を置いて行われることである。 仏教と、ベトナム史における仏教の役割に関する一つの際立ったサブテーマに目を転じると、Woodside (1976)とMcHale (2004) 、 DeVido (2007, 2009)が、20世紀ベトナムの仏教復興運動について貴重な研究を提示している。だがこの運動の遺産については、まだ多くの研究が待たれる。手短に言えば、この復興運動が目指したのは、ベトナムにおける仏教の強化と変容であり、仏教が全盛を極めたと想像される黄金時代に引き戻すことであった。アジアの他の復興運動と同様に、ベトナムで生じたこの運動も、より強固な民族アイデンティティを構築し、それを活気ある近代的革新的仏教に組み込もうとするものであった。あらゆる場所の近代仏教に見られるように、この復興運動も仏教実践を合理化し、カルトや金銭を燃やすこと、シャーマン的実践など、異端的要素を取り除こうとした。さらに、新旧の仏教経典を翻訳し、それに重要な救済論上の位置づけを与えた。同時に信徒は、これらを読み学んで理解する方が、その内容も分からずに丸暗記して唱える事を頼みにするよりも良いと助言された。ベトナムの復興論者たちが重視したことは、社会参加であり、学校や診療所、組織、その他の社会奉仕手段の設立であったが、これらの多くは現在でも存在している。その結果、近代化し、政治にも積極的に参加する仏教という型式が、この復興運動から生じる事となったが、これは後にティク・ナット・ハン(Thích Nhất Hạnh)が「社会参加仏教(engaged Buddhism)」と呼んだものである。ナット・ハンの言葉によると、「仏教学者たちは1930年代には既に、仏教の近代社会への参加を論じていた」。社会参加仏教という型式は、1960年代から70年代の間にナット・ハンが密接に関わったものであるが、これは新たな現象ではなく、古くからある仏教実践を取り組んだもので、その理論的起源は中国に存在する。この流れに沿うさらなる研究が望まれる。それは、ベトナムの社会参加仏教が、どの程度、仏教界において社会参加仏教という現代的言説や実践に影響を及ぼし、形作ってきたのかということについて理解を促す。さらに、ベトナムでの思想や実践、集団の形成における中国以外の他の地域の仏教の役割については、ほとんど知られていない。いずれにせよ、仏教研究において地域や国境を超えた取り組みは、仏教が国境というしがらみから離れ、仏教運動の展開と発展についてのより明確で幅広い視野に到達する上で、役立つものである。 南ベトナムにおける仏教徒の平和運動は、一つの重要な歴史的要素であり、近年研究者の注目の的となっている復興運動と密接に関わっている。Topmiller (2002)や Moyar (2004), McCallister […]