東南アジアにおけるサラフィー主義のトランスナショナリズムの諸相

Zoltan Pall

政策文書やジャーナリズムの記述は、東南アジアにおけるサラフィー主義を過激思想の旗手あるいはサウジ「帝国主義」のトロイの木馬と捉えている事が多々ある。それらの記述は大抵、サラフィー主義の諸集団がこの地域に存在するのはひとえにサウジアラビア政府の財政支援があるためだとの印象を与えている。本論では、この地域のサラフィー主義者たちが外部世界、とりわけアラビア半島と結びついている状況について、より微妙な差異を示す全体像を描いて示したい。インドネシアとマレーシアにおけるサラフィー主義の二つの事例研究を紹介しよう。社会政治的状況がこの運動の国境を越えたネットワーク形成の諸相をどのように形成し得るのかを示す。

本論におけるサラフィー主義は、それ以外のムスリムの宗教上のアイデンティティを変える事を意図する布教活動と理解される。サラフィー主義者は、イスラム教の最初の三世代(al-salaf al-salih/高潔な先祖達)の宗教的慣習や道徳規範を模倣する事を志し、聖典の字義通りの解釈を実践している。サラフィー主義の究極の目的は、それ以外のムスリムに自分たちのイスラム教が正統であり、その見地から見ればその他の解釈は純粋な形の宗教の曲解であると認めさせる事なのだ。概念上、これらの諸集団は、同じくサラフィー主義の名を公言するイスラム教改革主義で東南アジアに深く根付いたものとは別のものである。

インドネシア

ペルシア湾岸からの資金の流れと国境を越えたイスラム教の慈善活動は、インドネシアにサラフィー主義が出現する上で決定的な役割を果たした。この運動がインドネシアに足掛かりを得たのは1980年代初期、インドネシアがイスラム教復興を経ていた最中の時代であった。 1当初のサラフィー主義集団は、マディナ・イスラム大学(the Islamic University of Madinah /IUM)の卒業生を中心に展開し、この大学では宗教研究の追求を志す者に惜しみのない奨学金を提供していた。

1980年代には、イマーム・ムハンマド・ビン・サウード・イスラム大学(the Saudi University of Imam Muhammad bin Sa‘ud)の分校が、ジャカルタでアラブ・イスラム学研究所(Lembaga Ilmu Pengetahuan Islam dan Arab /LIPIA)の名で設立された。この大学はインドネシアでのサラフィー主義思想の普及に重要な手段となった。インドネシアのサラフィー主義者でIUMの奨学金を獲得できなかった者の多くが学んで卒業するLIPIAでは、教授言語をアラビア語とし、宗教学の授業は主にサラフィー主義思想に基づいて行われる。

IUM卒業生の多くはサウジアラビア留学中に貴重な社会資本を蓄え、様々な慈善団体や資金提供機関との関係を構築した。この結果、1990年代初頭には数多くの湾岸慈善団体がインドネシアに出現し、主にサラフィー主義集団への資金援助を行った。これらの中で最も重要と思われるものはクウェートのイスラム教伝統復興協会(Jama‘iyyat Ihya’ al-Turath al-Islami/Society for the Revival of Islamic Heritage – SRIH)であった。この組織は地域本部をジャカルタに設立し、主にジャワ島で多くのイスラム寄宿学校(プサントレン/pesantren)の建設支援を行い、スマトラ島やロンボク(Lombok)島、カリマンタン島においても数件行っていた。これらのプサントレンの周辺で生じたサラフィー主義の巨大ネットワークは、資金提供を行うクウェートの組織との関連から通称「Turathi」ネットワークとして知られる。

このTurathiネットワークを決定付ける特徴の一つが実用主義と世俗国家に適応する意志である。プサントレンでは、宗教科目だけでなくインドネシアの国家カリキュラムも全て教えている。この事がTurathiネットワークを幅広い住民にとって魅力あるものとしている。多くの非サラフィー主義のインドネシア人が自分の子供をこれらのプサントレンに通わせているのは、彼らがサラフィー主義者をアラビア語やコーラン、ハディースの学習に秀でていると考えるためである。この結果、彼らの子供は優れた宗教教育を受けると同時に、国家カリキュラムの学習も行う事で、大学レベルの学習に進む機会も得る事となる。 2

Turathiのサラフィー主義者たちは、他の事柄においても、孤立するよりも国家と折り合いをつける事を選ぶ。例えば、彼らは自治体と協力して若者を対象としたテロ防止講習を定期的に企画したり、警察がジハーディスト(聖戦戦士)の小集団を発見する事を助けたりしている。Turathiネットワークの著名なメンバーでチルボン(Cirebon)出身のウスタズ・アリフ・シャリフッディン(Ustaz Arif Syarifuddin)の説明によると、サラフィー主義では国家の指導者がムスリムであれば彼に従って彼を助ける必要があると教えているという。インドネシアの大統領がムスリムである事から、ムスリムには彼を援助、支援する義務があるのだ。

Turathiネットワークの当局との良好な関係は、彼らがダアワ(da‘wa:布教)活動を遂行し、国境を越えた広範なネットワークを維持する上での相対的な自治を保証している。例えば、少なくとも毎年一回、サラフィー主義のシャイフ(shaykhs:長老)たちがクウェートやサウジアラビアからインドネシアにダアワ旅行でやって来て、バタム島(Batam)からロンボク島までのTurathiのプサントレンを訪問している。

サラフィー主義のもう一つのネットワークは、南スラウェシのマカッサル(Makassar)に出現したワーダー・イスラミア(Wahdah Islamiyah/Islamic Unity – WI)と呼ばれているものだ。これが近代主義のムハマディヤ(Muhammadiya)から派生したのは、1980年代の末にスハルト大統領が全てのイスラム教組織にパンチャシラを設立原則として導入する事を強要した時だった。大勢の若きムハマディヤのメンバーにとって、これは容認できない事だった。これが組織の分裂をもたらし、新たな集団であるヤヤサン・ファトゥル・ムイン(Yayasan Fathul Muin)(ファトゥル・ムイン基金/Fathul Muin Endowment)が生じ、これが後にWIとなった。

WIが次第にサラフィー主義に向かい始めたのは、そのメンバーの多くがサウジアラビアに留学した時だった。このネットワークは当初はSRIHから資金提供を受けていたが、後にはサウジの様々な資金提供者やカタールのシャイフ・イード慈善財団(Shaykh Eid Charity Foundation)(SACF)からの資金提供を受ける事となった。 3WIとTurathiネットワークとは幾つかの点において異なっていた。後者と違ってWIには正式な組織構造があり、指導者を頂点とした階層型で複雑な意思決定機構を備えていて、これがWIの慈善事業やインドネシア全土に設立された寄宿学校を管理している。WIは諸大学での協調活動も行い、学生向けの様々なプログラムや研究会を企画している。WIのもう一つの際立った特徴は議会政治への関与である。候補者を擁立する事はないが、WIはしばしば有力政治家からの物的支援と引き換えに有権者を集めている。

結束の固い組織構造を維持するものの、WIは依然としてサラフィー主義のに根を下ろしている。その行動主義を正当化するためにこの組織がいつも引き合いに出すのが、政治参加や組織設立をイスラム教と無縁ではないと見るサウド・サラフィ(Saud Salafi)の「ウラマー(ulama)」である。 4

ペルシア湾岸の資金援助はインドネシアのサラフィー主義の確立にとって不可欠であったが、現在ではこの運動の実質的な生命線がアラビア半島に由来するとは言い難い。例えば、TurathiネットワークのプサントレンはSRHIからの定期的な資金援助を受けず、授業料で自らを賄っている。WIは海外よりもインドネシア国内からより多くの資金を調達している。

インドネシアで三番目に重要なサラフィー主義のコミュニティは、原則として慈善団体からの寄付を一切受け付けていない。Din Wahidがこのネットワークを「拒否派(rejectionist)」と呼ぶのは、彼らがその他のイスラム教団体や慈善団体との提携を一切拒否している事による。拒否派は後者をムブタディウ(mubtadi:異端者)すなわち有害でイスラム教によって認可されない新奇な事(bida‘/ビドア:逸脱行為)を行う者と見なしている。彼らは政府のカリキュラムを自分たちの学校で教える事も拒否し、孤立したコミュニティを形成して、非サラフィー派の人々との接触を最小限に止めている。

拒否派と密接に結びついているのが中東である。彼らの多くがイエメンに留学し、故マクビル・アル=ワディ(Muqbil al-Wadi‘)の下で学んだか、シャイフ・マクビル(Shaykh Muqbil)の高弟子の教え子となった。だが、拒否派は海外からの奨学金を一切受け取らない。そればかりか、このコミュニティは学生たちがイエメンでの教育期間中に必要な費用を工面している(これによって授業料と家賃は無料となる)。国境を越えたもう一つの結びつきの兆しは、頻繁に行われるイエメン人学者のモスクにおけるスカイプ講義である。 5

マレーシア

マレーシアでも国境を越えたつながりがサラフィー主義の展開に極めて重要な役割を果たしたが、その様式は、社会政治的背景が異なるためにインドネシアと異なるものとなった。マレーシアでは慈善や救済事業はサラフィー主義思想の普及にほとんど何の役にも立たなかった。

マレーシアのサラフィー主義は、イスラム教改革主義のコミュニティ、すなわち20世紀初頭に海峡植民地や北部のプルリス(Perlis)州で地歩を確立させたカウム・ムダ(Kaum Muda)から生じたものである。イスラム教改革主義者の中には、サウジ人やヨルダン人のサラフィー主義から影響を受け、1980年代により逐語的な聖典解釈に乗り出す者もあった。現代サラフィー主義の先駆者たちの多くは、カウム・ムダの経歴を持つ一方、1980年代から1990年代にかけてサウジアラビアへ留学した後にサラフィー主義へと転じたのである。最も著名な者の中にはジョハリ・マット(Johari Mat)やフセイン・イー(Husain Yee)、そしてシンガポール人のラスル・ダーリ(Rasul Dhari)などがいる。マレーシアにおけるサラフィー主義の影響のもう一つの源はヨルダンだった。サウジアラビアとは異なり、ヨルダンのサラフィー主義は国家によって推進されたものではない。それにもかかわらずこの運動が注目を集めたのは、主にシャイフ・ナシル・アル=ディーン・アル=アルバニ(Shaykh Nasir al-Din al-Albani)とその学生たち、例えばシャイフ・アリ・アル=ハラビ(Shaykh ‘Ali al-Halabi)らの業績によるものである。ヨルダンにある大学の一つで宗教学やアラビア語を学んでいたマレーシア人学生がサラフィー主義に接する事となったのは数ある非公式勉強会に参加した後の事であり、そのような勉強会がアンマンやヨルダンのその他の主要都市のモスクやこの運動に参加する個人の自宅で開催されていた。

スライマン・ノルディン(Sulaiman Nordin)などの著名なマレーシア人サラフィー主義者には、この運動の思想をイギリス留学中に知るようになった者もいる。サラフィー主義がイギリスの主要都市にあるムスリム・コミュニティで大きな足掛かりを得たのは1980年代の事だった。マレーシア人学生の中には、イギリスのサラフィー主義集団に加わった後でこの運動に感化され、マレーシア帰国後にも宣教を続けた者もいる。マレーシア人のサラフィー主義者が国境を越えた慈善事業の主体となる事は滅多に無く、インドネシアにあるような学校や慈善事業の広範なネットワークが生じる事は無かった。おそらく、この主な理由は、国家の宗教官僚組織(Jabatan Kemajuaan Islam Malaysia – JAKIM:マレーシア・イスラム開発庁)とマレーシアの各州の王室の両方がサラフィー主義に敵対的であるためだ。JAKIMは国内のイスラム教の均一化を志し、シャーフィイー学派(Shafi‘i madhab)の絶対的優位の獲得を目論んでいる。王族はサラフィー主義と対立した流派の擁護者である事が多い。例えば、ペラ州スルタンはナクシュバンディ・ハッカニ・スーフィー(Naqshbandi-Haqqani Sufi)教団に傾倒している事で知られる。この結果、サラフィー主義の書籍は、マレーシアでは大抵が禁書となっている。同時に、ファトゥル・バリ・マット・ヤーヤ(Fathul Bari Mat Yahya)など、何人かの著名なサラフィー主義の学者は説教する事を禁じられている。

当局はペルシア湾岸の慈善団体がマレーシア国内で活動を行う事も阻止している。例えばSRIHはマレーシアにも事務所があるが、この慈善団体の従業員の話では、彼らがこの国での事業拡大を試みた際、数多くの行政的障壁と州政府関係者のあからさまな嫌悪に直面した。

この結果、マレーシア人サラフィー主義者の国境を越えたつながりは、密接ではあるが、主として非公式な個人間のネットワークによって特徴付ける事ができる。中東やヨーロッパの様々な国のサラフィー主義のシャイフたちは、しばしば旅行者としてマレーシアを訪問し、ダアワ旅行を行ったり講演や宗教講義を行ったりしている。ジョホール州ではインドネシアの拒否派と類似したネットワークも出現し、サウジアラビアやクウェートと学術上の密接な関連を持っている。著名なクウェート人のシャイフ・ムハンマド・アル=アンジャリ(shaykh Muhammad al-‘Anjari)はマレーシアを何度か訪問し、講話や宗教講義を行っている。フセイン・イーなどの著名なマレーシア人サラフィー主義者も西洋のサラフィー世界に広い人脈を持っている。彼らはその英語力によってPeace TVのような国際メディアに出演している。

上記から分かる事は、国境を越えたペルシア湾岸との結びつきがインドネシアとマレーシアの両国のサラフィー主義のダイナミクスに重要な役割を果たしている事、しかし、いずれの運動の兆候も、サウジアラビアその他の湾岸諸国によってお膳立てされた国家主導のプロジェクトであるとは考えられないという事だ。事実、マレーシアとインドネシアの両国では、非サラフィー主義者の方がGCC(湾岸アラブ諸国協力理事会)の諸政府や慈善団体からの資金の流れによって、おそらくより多くの恩恵を受けている。ムハマディヤなどの主流派集団や保守派のナフダトゥル・ウラマー(Nahdatul Ulama)などの方がサラフィー主義者よりもおそらく多くのサウジ援助を受けているのは、彼らがより広範な基盤を所有しており、それが少なくとも理論上はサウジやクウェートのソフト・パワーの強化にとってより効果的な手段となるためである。サラフィー主義者たちを支援するペルシャ湾岸の慈善団体は、同時に非サラフィー主義者により多額の寄付を行っている事が多い。例えばSACFは、ムハマディヤともう一つの改革主義組織であるPERSISとの協力で慈善事業を立ち上げている。同様に、マレーシアでも世界ムスリム青年団(the World Muslim Youth)などのサウジが出資する組織の資金がマレーシア・イスラム青年運動(Angkatan Belia Islam Malaysia /ABIM)など、サラフィー主義に関連付ける事のできないイスラム教運動に流れ着いているのである

シンガポール国立大学
中東研究所 研究員
Zoltan Pall

Reference

Hasan, Noorhaidi. Laskar Jihad: Islam, Militancy and the Quest for Identity in Post-New Order Indonesia. Ithaca, NY: Cornell Southeast Asia Program, 2006.
Wahid, Din. Nurturing the Salafi Manhaj: A Study of Salafi Pesantrens in Indonesia. Utrecht, PhD Thesis submitted to Utrecht University, 2014.

Notes:

  1. Hasan, pp. 31-62.
  2. Wahid, pp. 161-176.
  3. Wahid, p. 72
  4. これらはシャイフ・サファル・アル=ハワーリー(Shaykh Safar al-Hawali)など、サウジ・サフワ(Saudi Sahwa)運動の創始者数名である。
  5. 2014年11月、アンボン(Ambon)での個人的な観察による。

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