ภาษาไทย

“รายา กีตา” มลายูมุสลิมในภาคใต้ของประเทศไทยกับพระมหากษัตริย์

ใน พ.ศ. 2554 มีงานวันเด็กจัดที่โรงเรียนลาเม็ง ในอำเภอรามัน จังหวัดยะลา งานวันเด็กครั้งนี้มีกิจกรรมมากมาย ทั้งการละเล่น การแสดง การจับฉลากของขวัญ การแจกอาหารและขนม รวมทั้งพิธีมอบรางวัล นอกเหนือจาก “ของขวัญเป็นภูเขาเลากา” จากหน่วยงานรัฐหลายแห่งโดยเฉพาะกองทัพแล้ว กิจกรรมพิเศษของงานวันเด็กในปีนี้คือการร้องเพลง “รายอ กีตอ” (หรือ “รายา กีตา” ในภาษามลายูมาตรฐาน ซึ่งแปลว่า “กษัตริย์ของเรา”) เนื้อเพลงพรรณนาว่ากษัตริย์ทรงอุทิศพระองค์ทรงงานหนักอย่างไม่รู้เหน็ดเหนื่อยเพื่อราษฎรและราษฎรรักเทิดทูนพระองค์เพียงไร การแสดงขับร้องเพลงนี้ในงานวันเด็กเป็นการสื่อสารว่าเด็กนักเรียนชาวมลายูมุสลิมมีความจงรักภักดีและรักกษัตริย์ไทยเช่นเดียวกับประชาชนกลุ่มอื่นๆ ในประเทศนี้ ถึงแม้พวกเขาจะมีความแตกต่างด้านชาติพันธุ์และศาสนาก็ตาม บูซา บิดาของเด็กนักเรียน ป. 5 คนหนึ่ง กล่าวว่า ถึงแม้งานวันเด็กได้รับการสนับสนุนจากหน่วยงานรัฐอย่างมากนับตั้งแต่ปี […]

Issue 22 Sept. 2017

“Raya Kita”:タイ南部のマレー系ムスリムと国王

2011年に子供の日のお祭りが、ヤラー県ラーマン郡(the Raman district)のLa Meng校で開催された。このお祭りの様々な催しには、ゲームや出しもの、くじ引き、屋台、景品や表彰式などがあった。いくつかの国家機関や軍部から送られた「山のような贈り物」に加え、その年のお祭りを特別にしていたのは、生徒たちの“Rayo Kito”(あるいは、マレー語の標準語では“Raya Kita”、意味は「我らが王」)の合唱会であった。この歌は、国王が臣下たちのために、いかに献身的にたゆまぬ努力を行ってきたか、またそれに応じて、臣下たちがいかに彼を敬愛してきたかという事を歌ったものである。この歌を子供の日のお祭りに歌う事で伝えようとしているメッセージは、マレー系ムスリムの生徒たちも、この国の他の者達と同じように国王に感謝し、彼を愛しており、その事に彼らの民族や宗教の違いは関係ないという事だ。 Busaという5年生の子供の父親は次のように述べた。子供の日のお祭りは、今なお続く騒乱が2004年に勃発して以来、国家機関から多くの支援を受けるようになったが、国家から厳重に監視されるようにもなった。兵士たちがAPC(装甲車)や軍のピックアップトラックでやって来たのは、単にプレゼントやアイスクリームを渡すためだけではなく、その催しが防衛方針に沿うものであるかどうかを確認するためでもある。生徒たちがお返しに“Rayo Kito”を歌ったのは、彼らが国王と国を愛し、これに忠実である事を、国家の要請通りに示すためであった。そこで彼が続けて言うには、この出しものは額面通りに受け止められぬものであり、学生たちの中には、国王の事を歌の通りに尊敬する者たちがいたとしても、他の者たちは歌詞など全く意識しておらず、歌えと言われたから歌ったまでなのであった。 マレー人ラジャ La Mengの住民たちは、マレー人ラジャ(あるいはRaya)を、カリスマを持った無敵の人物と見ている。彼らの間に膾炙する一つの物語では、あるラジャが森の中を従者と共に旅していた時、一頭の象に出くわし、これに攻撃を仕掛けられた。ラジャは力を籠め、素手のままでこの象を打ち倒したのである。この物語が広く流布し、ラジャを手強い人物と印象付けた。また、ラジャたちは超自然的な存在と関係している事から、守らなくてはならない幾つかの食事規定がある。彼らが食べられないものは、筍と数種類の魚であり、これらを口にすると彼らの力は消えてしまう。また、彼らがカリスマ性を持つと同時に無敵である事は、臣下たちに愛と恐れを抱かせる。 マレー文化専門家のMengは、住民たちがラジャに対して相反する感情を抱いていると言う。村人たちが好感を抱いているのはRamanの支配者たち、中でもTok Niであり、彼は村の設立に重要な役割を果たした事で知られている。村人たちが祖霊やその他の精霊の儀式を行う際は、必ずRamanの支配者達に敬意が表される。だが、彼らの先祖は数名のRamanの支配者達を、その残忍さゆえに恐れていたのである。一つの物語によると、Raya Sueyongという、ケダ州を逃れ、Ramanの支配者の娘と結婚した者は、常に料理人たちに命じ、料理を作る際に彼の何人かの臣下の肉を入れさせていたという事だ。また別の物語によると、あるRamanの支配者は、彼に贈られたジャックフルーツの一部が欠けている事に気が付き、兵士たちに誰がそれを取ったのかと尋ねた。ある妊婦が、つわりのためにそれを食べた事を知った後、彼は兵士達に彼女の腹を裂いてジャックフルーツを取り出すよう命じた。また同じ様に、彼はある側室が王宮からこっそりと抜け出していた事を知ると、彼女の脚を切断させたのであった。 Mengは、マレー人臣民達のマレー人支配者に対する恐れが、シャム人の国王達にまで拡大されたのだと付け加えた。彼は次のように言った。「マレー人臣民達がシャム人の国王達を恐れた理由は、これらの王達が遠方に住み、彼らが一度も王達を見た事が無かったためでもある。彼らは王がどのような者達であるのかを知らなかったのだ。さらには、あるシャム人の王が、以前この地域にKhun Phanを送ってマレー人盗賊の成敗に当たらせた事があり、この事が地元のマレー人達にシャム人の国王をより一層恐れさせる事となった」。Mengの話が正しいとすると、疑問は、なぜ現代のマレー人達が、タイ国王、とりわけプミポン国王を愛しているのか、という事だ。 タイ国王 シャム国境が定められるや否や、その支配層エリートたちが没頭した事は、領内の異なる民族や宗教の人々を結びつける方法を見い出す事であった。これが極めて重要であったのは、フランス人達が民族を口実に、ラオ族やクメール族を仏領インドシナに属すると主張し、その支配を拡大させていたためである。そのような民族理論に直面し、ラーマ五世とその顧問達は、シャム国内に住む人間は、一定の基準、とりわけ、国王に忠実であるという基準を満たす限り、タイ国家に属するものとの考えを示した。ラーマ五世の「包括的」国家建設計画は、ラーマ六世から、ラーマ七世、ラーマ八世の治世の間、国の政変によって中断される事となったが、ラーマ九世、すなわちプミポン国王の治世に再開される事となった。 プミポン国王は、あらゆる民族・宗教の違いを超越した存在と称されていた。彼は一仏教徒でありながら、憲法上はイスラム教をも含む諸宗教の擁護者なのであった。この結果、イスラム教徒が国家イデオロギーの「宗教的」範疇への適合を、後者が仏教と強く結びついている事から困難に感じていても、「国王」の範疇においては、支持と保護を見い出すのである。同様に、彼は一タイ民族でありながらも憲法上は国家元首であったし、ごく最近は祖国の父として知られ、その慈悲は民族によらず、全市民に注がれるものとされていた。マレー民族は、国家イデオロギーの「国民」の範疇への適合を、後者のタイ民族との結びつき上、困難に感じていても、「国王」の範疇には、同じく支持と保護を見い出すのである。したがってこの範疇は、マレー系ムスリムの人々がLa Meng住民の事例のような民族的・宗教的差別で悪評高い仏教国家、タイの領内に住む事を可能としているものである。 Mengは、マレー人ラジャに馴染みがあった事に加え、住民達がプミポン国王を難無く尊敬する事ができた理由には、彼に対する住民達の認識の仕方が関係していたはずだと言った。一概に、住民たちはプミポン国王に対して無関心であったが、彼の支配下で虐げられているとは感じていなかった。彼らは国家当局、特に公安当局を嫌っていたかもしれないが、彼らがそのような当局、あるいは政府を、国王に結びつける事はなかった。Kak Dahは、国家支援を受ける数多くの団体の一員であるが、彼女は国王が民族や宗教に関して差別的であるとは思わなかったが、特定の国家当局は差別的だと感じていたと主張した。彼女はこれに加え、次のように言った。「タイ人だけが国王を愛しているのではありません。マレー人も国王を愛しています」。6年生のAsrohは、彼が国王に対して全く問題を感じていない理由を次のように主張した。「国王は僕らマレー人に良くして下さる。イスラム教徒にも良くして下さる」。また住民たちの中には、数名の王族メンバーに関する批評やうわさ話をした者はいても、プミポン国王に対する嫌悪を私の前、あるいは人前で口にした者は一人もいなかった。彼らの愛はさておき、プミポン国王を神のような人物として神秘化する事は、住民たちが答えるべき神学的、宇宙論的疑問を投げかけている。 「我々はミスター・キングを愛している」 ある日、我々が道端の東屋に腰をかけてお喋りをしていた時、私はKak Dahに、式典用の大皿に刻まれた“เรารักนายหลวง”(Rao Rak Nay Luang、我々は国王を愛している」)の文中の“เรา” (Rao、我々)という語が何を意味するものであるかと尋ねた。「マレー人の事です」と彼女は言った。そこで私は彼女に、一見したところ、主にタイ民族のために考案されたような文章を用いる事に不快感はなかったのかと尋ねてみた。すると、彼女は「いいえ、マレー人が国王を愛したって問題はありません」と言った。そこで、式典用の大皿準備を手伝ったKak Mohという人にKak Dahと同意見かと尋ねてみると、彼女はそうだと答えた。彼女は「タイに住んでいるのだから、私たちもタイ人です」、と付け加えた。この姿勢は、その東屋にいた他の人々にも分かち合われた。 “เรา” (Rao)という語の意味は明快であるが、“นายหลวง” (Nay Luang)という言葉は違う。“นายหลวง” […]

Thai

พิธีไว้อาลัยในวันคริสต์มาส: ศาสนาคริสต์นิกายโรมันคาทอลิกในประเทศไทยหลัง ร. 9

ณโบสถ์พระเมตตาธรรมอันศักดิ์สิทธิ์ประจำเขตศาสนาย่านธุรกิจในกรุงเทพฯ วันคริสต์มาสที่ผ่านมาช่างแตกต่างจากงานฉลองวันคริสต์มาสที่ชาวไทยคาทอลิกเคยจัดขึ้น แทนที่จะมีการประดับประดาเพื่อฉลองวันคริสต์มาสอย่างอลังการเหมือนดังที่เคยปรากฏให้เห็นทั่วไป ครั้งนี้โบสถ์กลับประดับด้วยริ้วผ้าไว้ทุกข์สีขาวดำเคร่งขรึม ต้นคริสต์มาสวิบวับแวววาวที่เคยตั้งตระหง่านหน้าประตูทางเข้าโบสถ์อันเป็นสัญลักษณ์ถึงความปีติยินดีถูกย้ายไปตั้งหลบมุมในลานสนาม มองจากภายนอกเข้ามาไม่เห็น ในวันคริสต์มาสอีฟ ผู้คนสวมชุดดำทยอยมาถึงอย่างเงียบเชียบเพื่อร่วมพิธีมิสซายามเที่ยงคืนตามประเพณีที่ถือปฏิบัติกันมา โดยพยายามรักษาสีหน้าสุขกับโศกให้สมดุลกันอย่างน่าประหลาด มันเป็นงานฉลองวันคริสต์มาสท่ามกลางการไว้อาลัย  การสวรรคตของพระบาทสมเด็จพระเจ้าอยู่หัวภูมิพลอดุลยเดช (รัชกาลที่ 9) อันทรงเป็นที่รักของชาวไทยเมื่อวันที่ 13 ตุลาคม 2559 ทำให้คริสชนของโบสถ์ ซึ่งส่วนใหญ่เป็นผู้นิยมเจ้าและเป็นชนชั้นกลางเชื้อสายจีนในเมือง ตกอยู่ในภาวะเสียขวัญ โศกเศร้าและว้าวุ่นใจ ถึงขนาดที่หลายคนตั้งข้อสงสัยอย่างเอาจริงเอาจังว่า การฉลองวันเกิดของพระเยซูคริสต์เป็นการให้ความสำคัญต่อศาสนาเหนือกว่าความโศกเศร้าของคนทั้งชาติที่มีต่อการสวรรคตของกษัตริย์ที่มีสถานะประดุจสมมติเทพหรือไม่ สำหรับบาทหลวงพอล มิชชันนารีชาวอเมริกันที่เป็นผู้ดูแลโบสถ์นี้ นี่เป็นคำถามที่อ่อนไหวอย่างยิ่ง ในสายตาของบาทหลวงคาทอลิกพระบาทสมเด็จพระเจ้าอยู่หัวภูมิพลทรงเป็นองค์อุปถัมภกที่เปิดกว้างต่อทุกศาสนา และเป็นพระมหากษัตริย์ภายใต้รัฐธรรมนูญ พระนามของพระองค์ได้รับการเอ่ยถึงในพิธีสวดของชาวไทยคาทอลิกโดยถือเป็นองค์ประกอบ “ทางโลกวิสัย” ของวัฒนธรรมไทย เช่นเดียวกับที่มีการเอ่ยชื่อผู้นำของรัฐในบทสวดระหว่างพิธีมิสซาในประเทศอื่นๆ   กระนั้นก็ตาม สำหรับสัตบุรุษชายหญิงของโบสถ์พระเมตตาธรรมอันศักดิ์สิทธิ์แห่งนี้ กษัตริย์ไม่ใช่แค่ตัวแทนคนสำคัญของประเทศไทยเท่านั้น […]

Issue 22 Sept. 2017

クリスマスの服喪:プミポン亡き後のタイにおけるカトリック信仰

バンコク中心街のHoly Mercy教区における先日のクリスマスは、タイ・カトリック教徒達がかつて祝った、どのクリスマスにも似つかぬものであった。至る所に出ていた沢山のクリスマス飾りの代わりに教会を覆っていたのは、厳粛な白黒弔旗であった。通常なら、人目に付く教会の正面玄関に飾られ、燦々たる喜びの象徴となるクリスマスツリーは、ひっそりとした庭の片隅に押しやられ、外から見える様子もなかった。クリスマスイブには黒装束の人々が、伝統的な真夜中のミサへ無言でやって来て、妙に用心深い様子で喜びと悲しみの間をとったような表情をしていた。それは喪中のクリスマスなのであった。 人々に敬愛されたタイのプミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ九世)が、2016年10月13日に亡くなった事は、この教会の敬虔で、ほとんどが王党派である都市中産階級のタイ華人(Sino-Thai)会員達をショック状態と悲しみ、困惑に陥れた。これはあまりにも甚だしく、多くの者達はキリスト生誕祭を宗教として、神格化された国王の死のための国家的集団服喪に優先させるべきなのかどうかという深刻な疑念を抱く事となった。ポール(Paul)神父という米国人宣教師の教区長にとり、これは極めてデリケートな問題であった。神父に言わせてみれば、プミポン国王は全宗教の慈悲深き擁護者であり、また一立憲君主に「過ぎなかった」のである。彼の名がタイ・カトリック典礼中に、現地文化の「世俗的」要素(watthanatham Thai)として含められているのは、他の国々におけるカトリックのミサの際に、祈りの中で国家元首らへの言及が行われるのと同じ事である。だが、このHoly Mercyの敬虔な信者達にしてみれば、国王は単なるタイの傑出した象徴をはるかに上回る存在なのであった。ほとんどのタイ人達と同じように、バンコクのカトリック教徒達までもが、ラーマ九世をほぼ宗教的ともいえる程に崇拝していたのだ。陛下は長らく、それとなく、あるいは目に見える形で、国家の父(pho)として、(転輪聖王、ダルマラージャ、あるいは菩薩のいずれかの)ダルマ(Dharma:仏法)の最高の権化として、あるいはヒンドゥ教のヴィシュヌ神(デーヴァラージャ)の化身として、また東南アジアのインド仏教王権の前近代における諸概念の現代的重要性を鑑みて(Tambiah, 1976)、宇宙論上、天と地を結び、階層的に構成された社会・道徳的宇宙の頂点から、その王国を正しい方向に導く(Jackson, 2010の例を参照)仏教王として示されて来たのである。Holy Mercyのタイ・カトリック教徒達にしてみれば、プミポン国王は実際、この地ではほとんど無名に近いローマ司祭のフランシスコ法王をも凌ぐ尊敬を集めた精神的指導者なのであった。 バンコクで知り合いになったカトリック教徒たちの中には、自宅に祭壇を設ける者たちもいたが、彼らはそこでイエスや聖人たちの聖像と一緒に、他にも多くのタイ民間信仰のインド仏教パンテオンに属する存在を拝んでいたのである(Pattana, 2005の例を参照)。それらはすなわち、中国やインドの神々、仏教僧侶、タイ国王、中でもプミポン(ラーマ九世)とチュラーロンコーン(ラーマ五世)などであった。教会から離れた場所の常として、多くの者達が十字架や聖像画、聖像を仏教徒のお守りさながらの呪力ある魔除けとして商っていた。この習慣は、カトリックの品々やシンボルまでもが、混交的で分散的な超自然信仰のアマルガムに、経済に、あるいは数名の学者たちが「自由市場化された宗教性」、あるいは「商品化された宗教」と呼ぶものに似た表象の中に吸収されてしまった事を示している(Jackson, 1999; Suwanna, 1994; Pattana, 2005)。より重要な事に、著者はしばしば、タイ・カトリック教徒達がイエス・キリストとラーマ九世を、神聖な道徳規範(khunatham)や犠牲(siasala)、カリスマ的な力(bun-barami)の等しきシンボルと紹介しているのを耳にした。 ポール神父は、タイの西洋人宣教師たちの大多数と同じように、この仏教王が彼の教区民の心の中で神聖な存在であった事を承知していた。だが、彼がカトリックの正統主義から偶像崇拝と捉えられかねない信仰や実践に対し、見て見ぬふりをしていたのは、キリスト教の神とタイ王室との「宇宙論的争い」を助長させる事を避けるためであった。彼が理解していた事は、そのような無用の争いが困難な闘いであり、これがタイ教会にただでさえ少数極まりない信者を失わせる原因ともなりかねず、また、配慮の足りぬ神父たちがタイの不敬罪法という危険な綱を渡る事となるやもしれず、用心せねば、その法は世界でもっとも厳しいものの一つとしてそのように命じる。 国王が亡くなる以前は、教会の壁を越えた(あるいはこの米国人神父の「軽い」監視の届かぬ)ところで、タイ・カトリック教徒たちは王室を神聖化し、異端的な「現地化した」カトリックを実践していたのである。しかし、ラーマ九世の死によって引き起こされた集合的な感情反応により、国王の(文化的というよりもむしろ)宗教的な重要性が、タイ・カトリック教徒たちの礼拝体験の中に浮かび上がった。そのような事から、ポール神父はタイ・カトリックの神学的、政治的な曖昧さとの対峙を、よりにもよってクリスマスというカトリック典礼の暦上、一つの最も重要な日に迫られる事となったのだ。 国王の肖像と教会の聖櫃 ラーマ九世が亡くなった後、軍事政府は一年間の公式服喪期間を宣言したが、この間、市民たちには黒服の着用が、娯楽場には閉鎖、あるいは少なくとも、電気や音楽を消す、扉を閉じる等の自粛が求められた。この宣言は、皆が敬虔な気持ちと悲しみを感じ、国王の死を悼むべき事を命じたものであった。既に計画されていた幾つかの祭りが中止となった。クリスマスが祝われるかどうかは判然とせず、タイ・カトリック司教協議会(the Catholic Bishops’ Conference of Thailand:CBFC)によって発表された公式声明が、ついにカトリック教徒たちにクリスマスを祝うよう、ただしこの時節のタイ人の心情を慮り、慎重に節度をもって祝うよう呼びかけたのである。この声明はまた、神父達に追悼の祈りを伝統的なクリスマス典礼に盛り込む方法を指示するものでもあった。政治的に公正な口調で、原則としては暫定軍事政権の指示である「よろしい、ただし、度を越さぬよう!」をそのまま繰り返すようにとの事だ。換言すると、喜びは悲しみの中に収めよという事である。 Holy Mercy教会でのクリスマス前の月を特徴づけたものは、宇宙論、典礼、そして政治にまつわる駆け引きであり、これはイエスの誕生とプミポン国王の死の融合を首尾一貫したものとするためのものであった。ポール神父は牧師審議会を開き、タイ人教区民たちに、クリスマスの祝祭をどのように企画するのが最適であるかという事について助言を求めた。活発な議論の間、この米国人宣教師はやや困惑しながらも、彼の教区民たちの緊急要請に応じなければならなかった。それはクリスマスの典礼中に、亡くなった国王のための適切な祭祀の場を設けて欲しいという要請であった。神父は国王の巨大なモノクロ写真を教会の外壁に飾る事、最もカラフルなクリスマス飾りを見えないところへ片付ける事、そして、説教の中で国王の追悼を行う事に同意した。だが、彼が神経質な様子で反対したのは、金色の光で神秘的に照らされた若きラーマ九世の肖像を、聖櫃の前の教会の祭壇上に置くという事であった。カトリック教徒にとり、最も神聖な空間である聖櫃は、固定され、鍵のかかった戸棚であり、その中には聖体が収められ、これがキリストと神の臨在の場であると信じられている。 人類学者として、Pattana Kitiarsaは以下の所見を述べた。「祭壇は、その象徴的、物理的な意味において、多様な背景や起源の神々を統合する。祭壇とは神聖な場であり、民間信仰の宗教的混交が、実際に具体的で集合的な形を帯びる場なのである」(Pattana, 2005:484)。祭壇は、物理的・霊的宇宙の正確な宇宙論の構造を反映している。それは神聖な境界を示し、儀礼行為に特別な様式を要求する。宗教的な聖像画や、神像、その他の礼拝対象は、都市部の精霊神殿や仏教寺院の諸堂の祭壇上に、序列通りに配置されている。ブッダは、ダルマラージャである国王の深い帰依を受け、通常はこのような序列の最高位を占めており、この二人の人物がタイ宇宙論の中で至高の神々と認識されている理由は、仏教と王室の両方が現代タイのエスノナショナリズムの最も肝心な側面であるためだ。祭壇上の礼拝物の位置はこのように、宇宙論と政治の両側面を反映しているのである。 キリスト教の聖書正典の宇宙論において、神は宇宙の創造者であったが、この事は彼の子、キリストの到来によって永久に変えられる事となった。カトリックのミサ典礼における神の子との邂逅は、キリストの血と肉という聖体エレメントによって象徴され、これらは聖櫃の中にパンとワイン(祝福された聖餐)の形で収められている。祭壇と聖櫃はそのような事から、カトリックのミサの間に儀式が集中する最も重要な中枢を成すものである。このような理由から、ポール神父は国王の肖像画を聖櫃の前に置く事を拒んだのであった。彼は後に私に次のように語った。「一線を越えるところでした。我々は国王を神の前にすら置けないのですからね!」。だが、彼の教区民たちのこの要求は、宇宙論と政治の両レベルにおいて、極めて啓発的なものであった。この肖像画は最終的には祭壇の裏に滑り込む事となったが、神父の決断がイエスの誕生をプミポン国王の死から解き放つ事は不可能であった。Holy Mercy教会の典礼計画における国王の肖像画の置き場をめぐるこの論争は、単なる一事例の詳細にとどまらず、ラーマ九世の死の結果、タイ・カトリックの一部の内に生じた神学的、政治的葛藤の極めて有意義な事例でもあるのだ。 カトリックのタイ化 タイ・カトリックの宇宙論、典礼、宗教性における国王の神聖な地位と、歴史的に関連付けられるものは、カトリック教会がタイでその存在を正当化するために展開してきた「世俗的」経済・政治の戦略である。実のところ、仏教徒が主体となる状況の中で、カトリック教会は非常に小規模な宗教団体に相当する。だが、世俗的アクターとしての教会は、王政支持の準資本主義機関であり、教会が経営する一流病院や私立校に通うのは、上流中産階級である都市部の仏教徒である。子供の頃はプミポン国王でさえ、タイの政界エリートのメンバーの大多数と同じ様に、Ursuline Sistersの経営するバンコクのカトリック校、Mater Dei校に通っていた。 […]

Issue 22 Sept. 2017

การไว้อาลัยอันประเสริฐและบริสุทธิ์ในจักรวาลสากลแบบไทย

ช่วงระหว่างวันที่ 22-26 กันยายน 2559 มีนิทรรศการหนึ่งถูกจัดขึ้นในพื้นที่การค้าเล็กๆ ระหว่างห้างสรรพสินค้าสยามพารากอนกับศูนย์การค้าสยามดิสคัฟเวอรี่ในย่านธุรกิจใจกลางกรุงเทพฯ นิทรรศการนี้เน้นการจัดแสดงสินค้าจากโครงการหลวง อันเป็นโครงการพัฒนาที่ริเริ่มโดยพระบาทสมเด็จพระเจ้าอยู่หัวภูมิพลฯ รัชกาลที่ 9 ในช่วงตลอดเจ็ดสิบปีแห่งการครองราชย์ ภายใต้เต็นท์สีขาวขนาดใหญ่ พร้อมกับไอเย็นจากเครื่องปรับอากาศแบบเคลื่อนที่ นักช้อปที่มีกำลังซื้อมาก สามารถลิ้มรสความอร่อยกับอาหารราคาแพง อย่างเช่น แซนวิชไส้เห็ดย่างผัดชีสราดซอสราสเบอร์รี่ พร้อมกับดื่มด่ำไปกับบรรยากาศอันหรูหรารอบตัว บรรยากาศแบบขุนเขาถูกจำลองขึ้นมาพร้อมด้วยมวลดอกไม้ที่ปลูกลงดิน โต๊ะไม้ และสภาพแวดล้อมแบบชนบทที่จำลองขึ้นมากลายเป็นสถานที่ต้อนรับนักช้อปที่มองหาความอภิรมย์ทางรสสัมผัส พระบรมฉายยาลักษณ์ขนาดใหญ่สี่ภาพของในหลวง รัชกาลที่ 9 แขวนห้อยลงมาจากเพดานเบื้องบน ดูเป็นภาพที่เห็นกันอยู่ชินตา พระบรมฉายาลักษณ์ทั้งสี่แสดงภาพในหลวง รัชกาลที่ 9 ในขณะทรงอยู่ในวัยหนุ่ม ในภาพเหล่านั้นพระองค์ทรงชุดอย่างพลเรือนสามัญธรรมดาหรือไม่ก็ทรงชุดทหาร บางภาพเป็นพระบรมฉายาลักษณ์เดี่ยว บางภาพฉายร่วมกับสมเด็จพระราชินีหรือเจ้าฟ้าหญิง โดยมีฝูงชนห้อมล้อมแทบพระบาทอยู่เสมอ ในสมัยที่พระบรมฉายาลักษณ์เหล่านี้ถูกถ่าย […]

Issue 22 Sept. 2017

タイのコスモポリタンな領域における上等で清潔な服喪

2016年9月22日から26日の間、ある展示会がバンコクの繁華街のパラゴン・デパートとディスカバリー・センターの間にある商業スペースの小区画で開催された。その展示の目玉はロイヤル・プロジェクトの商品で、この開発プロジェクトはプミポン国王によって、その70年間の御代を通じて推進されたものであった。大きな白いテントの中は可動式の空調で冷やされ、袋を抱えた買い物客らが、茸ソテーのグリルドチーズ、ラズベリーケチャップ添え等のごちそうを味わいつつ、豪勢な空間を見物できるようになっていた。再現された山荘は、みずみずしく植えられた花々や木製のテーブル、田舎の家屋を模した建物を完備し、世俗的快楽を求める買い物客を迎えていた。前国王の大きな4枚の写真が天井から吊られていたが、あまりにも至るところにあったため、これと言って目立つ様子もなかった。 それらは最も精悍な頃のプミポンを描いたものであった。それらの写真の中で、プミポンは簡素な平服、あるいは軍服をまとい、一人で、あるいは女王か娘と並び、周囲には常に大勢の群衆が平伏していた。これらが撮影された頃のロイヤル・プロジェクトは、王室に広まった小規模な開発計画であった。それらの主な拠点となったタイ山岳民族のコミュニティのある地域は、大抵が共産主義の反政府活動に取り囲まれた地域であった。またこれらの計画は、しばしば国王直々の訪問を伴うものであった。一つのレベルにおいて、このような王国の辺境訪問は、開発の約束と相まり、プミポンを国家の建設者、冷戦主義者として示すものであった。この対極にありながら、これに匹敵する存在として、彼と同時代に地球の裏側にいたフィデル・カストロの例が挙げられる。また別のレベルにおいては、これらは世界の、またひいては宇宙の刹那と自己とを呼応させる事ができた完璧な仏教王を連想させた。 では、これらのイメージが現代の都会の消費者たちと何の関係があるのだろう? 適時性 良いプロパガンダは、時宜を得たものでなくてはならない。かつてJacques Ellul (1973, 43)が明らかにしたように、プロパガンダは現在を形作る「基本潮流」との和(ラポール)を突くものでなければならず、また「移ろいやすい臨場性」と結び着く事によってのみ扇動的となる。基本的事実が速やかに歴史や中立、無関心の領域に移行するような世界の中で、プロパガンダが語るべきは「神話と、定められた時間と場所の前提」のみなのだ。 冷戦期を通じて、二つの極めて重要な要素がタイに歴史的臨場感を生んだ。それらは共産主義の脅威とアメリカ指向の開発主義である。当時のプミポンの地方訪問は、この両者に物申すものであった。それらは想定された反政府活動の脅威を浮き彫りにしただけでなく、当時進行しつつあった資本主義の急速な拡大に対する懸念も和らげたのである。 重要な事は、これが単独的な覇権主義のプロジェクトではなかった事だ。それは多角的なものであり、目覚ましい献身行為を王家の図像の様々なレベルでの利用権によって報いるという、一連の複雑な相互関係を通じて運営されていた。当面の間、この最大の恩恵はアメリカ人にあった。彼らのプロパガンダ作戦におけるタイ王政支持は、王家のイメージ保護に役立ち、これによって共産主義を打倒せんとするものであった。タイを訪問するアメリカ人の大多数にとって、彼らの戦争を行うために尽力した国王への忠誠は至極当然なものであった。さらに、西洋の白人に対する深い懐疑のわだかまっていた地域では、アメリカ人に特権的地位が与えられた事が、タイ的秩序を志向する義務感を植え付け、これが大いに文化統治の「伝統的」形式の尊重へと注がれたのである。このポストコロニアル的な道徳秩序は、タイのアメリカ主導の資本主義への急速な統合を支える上で役に立った。 冷戦主義者プミポンは、久しくその精彩を失っている。だが、新たに生じる動向を読み取る事に長けた王室は、その相互関係が新たな社会的、政治的現実を反映するよう、これを作り替えた。冷戦期のアメリカ人たちと同様に、タイの日常生活における王室の重要性を進んで主張してきた者達には、その報いに国王の道徳的権威と認められるものの一定の利用権が与えられてきた。代わりに、この事がタイ王権の拠り所となる既存の宇宙論に、変わり続ける世界の中で新たな効力を吹き込む事を助けてきたのである。 清新、清潔で健康的 今日の時代思潮は清潔さである。清潔な食事とスローフードは、バンコクの最もクールな場を席巻している。身体の毒素排出と現代生活の不安を和らげる事を約束した清潔な食事は、かつて、石鹸や衛生学によって規定された差異の、古い植民地時代の比喩(トロープ)を複製している。Anne Mcclintock (1995, 226)が、イギリスのインペリアルレザー(the British imperial lather)との関連で述べたように、「清めの儀式は、身体を意味の土壌として整え、自己と社会にまたがる価値の流れを秩序付け、一つの社会と別の社会との境界を定めるのである」。 「清潔な」(sa-ad)一皿の食事の値段が一般人の購買能力をはるかに超えているタイでは、世界的な流行である「スロー」、「オーガニック」、「クラフト」は、身体的な差異と純粋性を得る新たな手段を、数々の魅惑的な食料品によって提供している。またこれは新たな空間も生み出し、それらの清浄かつ清新な場は、一部の流行に敏感でコスモポリタンな顧客たちを楽しませんとするものである。アーリヤ・オーガニック・プレイス(Ariya Organic Place :Ariyaはパーリー語で純粋、貴重、あるいは高貴を意味する)などの名前がついたレストランは、したがって、海外の最新の手法を用いて都会人の身体に滋養を与える事を謳ってはいるが、国内のタイ仏教の世界観と結びついた、より長い歴史を踏まえたものでもあるのだ。 同じ事はパラゴン横の展示会についても言え、その宣伝用資材は「高原風にするべく木で飾られ」ながらも、「都市住民や新世代の需要と流行りのライフスタイルに応じる」「現代的なファーマーズマーケット」を基調としたものであった。すなわちそれは、世界的な通用性と文化的特性との融合であり、有名シェフの魅惑的な新レシピが、田舎風の小粋にタイ風のひねりを利かせ、高額な値札と共に供されたというわけだ。 ここで、前時代に撮影されたプミポン国王の不鮮明な肖像が、現代の新奇のスペクタクルの中で、極めて重要な要素を成していた。彼の肉体が今生の終わりに近づくにつれ、これらの肖像からは、冷戦の背景が取り去られる事となった。今、若かりし頃の国王の御霊が据えられているのは、清められた(borisut)文化的世界の中心であり、小規模ながらも活気に満ちた、贅沢な消費行為を通じた多様な参入の機会が横溢する場である。 ロイヤル・イメージの買収 九代目の御代を通じ、富と購買能力は、かつての外国人たちが王室との相互関係を築くための基本的手段となってきた。Christine Gray (1991)は、冷戦の真っただ中に、タイ華人の資本主義者たちが王家の慈善事業やイニシアティブに貢献する事で、いかに王家の威徳を「手にする」事ができたかを述べている。彼女はまた、タイ華人が所有するバンコク銀行が、1967年にロイヤル・ガルーダ紋章の使用権を認められ、その商標を王家と関連付ける手立とした手法も明らかにした。 一方、Kasian Tejapira (2003)は、1980年代後期からのタイにおける「急成長」時代に伴う急速な消費主義の拡大が、より均一な都会のアイデンティティ感覚を生み出す上で役立ったと主張した。増々、タイ人である事は、お金で手に入れられる事、あるいは、価値交換によって体験し得る事となっていった。一回の休暇、一着の服、一個の宝石、これらの全てをより魅力あるものとするには、それを「タイ的」な何かと関連付ければよいのであった。これとは別に、Somsak Jeamteerasakul (2013)は、この新たな消費文化の出現が、都会の消費者たちに王室勢力圏への進出を、より容易かつ魅力的なものとした事を主張する。単に王家お墨付きの、あるいはロイヤル・ブランドの商品を買う事は、より伝統的で儀礼化された献身の表明とは対照的であったが、国家への献身を示す明快な手段となったのである。 だが、時の経過と共に、これらの購入はまた、道徳的な複雑性から比較的自由であり続けるには、コスモポリタンな生活がプミポン国王の肖像を介したものである必要があるとの考えを裏付ける上で役に立った。1997年の危機で、タイの資本主義体制の根本的不平等が、かくも容赦無くさらけ出された後、王家の威徳はより一層貴重な商品となった。とりわけ2006年以降の時代、君主制への献身は、タクシン・チナワットに関連した様々な統治機関に反対であったタイの都会人たちを安堵させる事となった。すなわち、それは彼らに道徳的に高潔であり続けたという自信を与えたのである。 […]

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