クリスマスの服喪:プミポン亡き後のタイにおけるカトリック信仰

Giuseppe Bolotta

バンコク中心街のHoly Mercy教区における先日のクリスマスは、タイ・カトリック教徒達がかつて祝った、どのクリスマスにも似つかぬものであった。 1至る所に出ていた沢山のクリスマス飾りの代わりに教会を覆っていたのは、厳粛な白黒弔旗であった。通常なら、人目に付く教会の正面玄関に飾られ、燦々たる喜びの象徴となるクリスマスツリーは、ひっそりとした庭の片隅に押しやられ、外から見える様子もなかった。クリスマスイブには黒装束の人々が、伝統的な真夜中のミサへ無言でやって来て、妙に用心深い様子で喜びと悲しみの間をとったような表情をしていた。それは喪中のクリスマスなのであった。

人々に敬愛されたタイのプミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ九世)が、2016年10月13日に亡くなった事は、この教会の敬虔で、ほとんどが王党派である都市中産階級のタイ華人(Sino-Thai)会員達をショック状態と悲しみ、困惑に陥れた。これはあまりにも甚だしく、多くの者達はキリスト生誕祭を宗教として、神格化された国王の死のための国家的集団服喪に優先させるべきなのかどうかという深刻な疑念を抱く事となった。ポール(Paul)神父という米国人宣教師の教区長にとり、これは極めてデリケートな問題であった。神父に言わせてみれば、プミポン国王は全宗教の慈悲深き擁護者であり、また一立憲君主に「過ぎなかった」のである。彼の名がタイ・カトリック典礼中に、現地文化の「世俗的」要素(watthanatham Thai)として含められているのは、他の国々におけるカトリックのミサの際に、祈りの中で国家元首らへの言及が行われるのと同じ事である。だが、このHoly Mercyの敬虔な信者達にしてみれば、国王は単なるタイの傑出した象徴をはるかに上回る存在なのであった。ほとんどのタイ人達と同じように、バンコクのカトリック教徒達までもが、ラーマ九世をほぼ宗教的ともいえる程に崇拝していたのだ。陛下は長らく、それとなく、あるいは目に見える形で、国家の父(pho)として、(転輪聖王、ダルマラージャ、あるいは菩薩のいずれかの)ダルマ(Dharma:仏法)の最高の権化として、あるいはヒンドゥ教のヴィシュヌ神(デーヴァラージャ)の化身として、また東南アジアのインド仏教王権の前近代における諸概念の現代的重要性を鑑みて(Tambiah, 1976)、宇宙論上、天と地を結び、階層的に構成された社会・道徳的宇宙の頂点から、その王国を正しい方向に導く(Jackson, 2010の例を参照)仏教王として示されて来たのである。Holy Mercyのタイ・カトリック教徒達にしてみれば、プミポン国王は実際、この地ではほとんど無名に近いローマ司祭のフランシスコ法王をも凌ぐ尊敬を集めた精神的指導者なのであった。

バンコクで知り合いになったカトリック教徒たちの中には、自宅に祭壇を設ける者たちもいたが、彼らはそこでイエスや聖人たちの聖像と一緒に、他にも多くのタイ民間信仰のインド仏教パンテオンに属する存在を拝んでいたのである(Pattana, 2005の例を参照)。それらはすなわち、中国やインドの神々、仏教僧侶、タイ国王、中でもプミポン(ラーマ九世)とチュラーロンコーン(ラーマ五世)などであった。教会から離れた場所の常として、多くの者達が十字架や聖像画、聖像を仏教徒のお守りさながらの呪力ある魔除けとして商っていた。この習慣は、カトリックの品々やシンボルまでもが、混交的で分散的な超自然信仰のアマルガムに、経済に、あるいは数名の学者たちが「自由市場化された宗教性」、あるいは「商品化された宗教」と呼ぶものに似た表象の中に吸収されてしまった事を示している(Jackson, 1999; Suwanna, 1994; Pattana, 2005)。より重要な事に、著者はしばしば、タイ・カトリック教徒達がイエス・キリストとラーマ九世を、神聖な道徳規範(khunatham)や犠牲(siasala)、カリスマ的な力(bun-barami)の等しきシンボルと紹介しているのを耳にした。

ポール神父は、タイの西洋人宣教師たちの大多数と同じように、この仏教王が彼の教区民の心の中で神聖な存在であった事を承知していた。だが、彼がカトリックの正統主義から偶像崇拝と捉えられかねない信仰や実践に対し、見て見ぬふりをしていたのは、キリスト教の神とタイ王室との「宇宙論的争い」を助長させる事を避けるためであった。彼が理解していた事は、そのような無用の争いが困難な闘いであり、これがタイ教会にただでさえ少数極まりない信者を失わせる原因ともなりかねず 2、また、配慮の足りぬ神父たちがタイの不敬罪法という危険な綱を渡る事となるやもしれず、用心せねば、その法は世界でもっとも厳しいものの一つとしてそのように命じる。

国王が亡くなる以前は、教会の壁を越えた(あるいはこの米国人神父の「軽い」監視の届かぬ)ところで、タイ・カトリック教徒たちは王室を神聖化し、異端的な「現地化した」カトリックを実践していたのである。しかし、ラーマ九世の死によって引き起こされた集合的な感情反応により、国王の(文化的というよりもむしろ)宗教的な重要性が、タイ・カトリック教徒たちの礼拝体験の中に浮かび上がった。そのような事から、ポール神父はタイ・カトリックの神学的、政治的な曖昧さとの対峙を、よりにもよってクリスマスというカトリック典礼の暦上、一つの最も重要な日に迫られる事となったのだ。

写真: バンコクのカトリック系学校におけるカトリックの「タイ化」
提供:著者

国王の肖像と教会の聖櫃

ラーマ九世が亡くなった後、軍事政府は一年間の公式服喪期間を宣言したが、この間、市民たちには黒服の着用が、娯楽場には閉鎖、あるいは少なくとも、電気や音楽を消す、扉を閉じる等の自粛が求められた。この宣言は、皆が敬虔な気持ちと悲しみを感じ、国王の死を悼むべき事を命じたものであった。既に計画されていた幾つかの祭りが中止となった。クリスマスが祝われるかどうかは判然とせず、タイ・カトリック司教協議会(the Catholic Bishops’ Conference of Thailand:CBFC)によって発表された公式声明が、ついにカトリック教徒たちにクリスマスを祝うよう、ただしこの時節のタイ人の心情を慮り、慎重に節度をもって祝うよう呼びかけたのである。この声明はまた、神父達に追悼の祈りを伝統的なクリスマス典礼に盛り込む方法を指示するものでもあった。政治的に公正な口調で、原則としては暫定軍事政権の指示である「よろしい、ただし、度を越さぬよう!」をそのまま繰り返すようにとの事だ。換言すると、喜びは悲しみの中に収めよという事である。

Holy Mercy教会でのクリスマス前の月を特徴づけたものは、宇宙論、典礼、そして政治にまつわる駆け引きであり、これはイエスの誕生とプミポン国王の死の融合を首尾一貫したものとするためのものであった。ポール神父は牧師審議会を開き、タイ人教区民たちに、クリスマスの祝祭をどのように企画するのが最適であるかという事について助言を求めた。活発な議論の間、この米国人宣教師はやや困惑しながらも、彼の教区民たちの緊急要請に応じなければならなかった。それはクリスマスの典礼中に、亡くなった国王のための適切な祭祀の場を設けて欲しいという要請であった。神父は国王の巨大なモノクロ写真を教会の外壁に飾る事、最もカラフルなクリスマス飾りを見えないところへ片付ける事、そして、説教の中で国王の追悼を行う事に同意した。だが、彼が神経質な様子で反対したのは、金色の光で神秘的に照らされた若きラーマ九世の肖像を、聖櫃の前の教会の祭壇上に置くという事であった。カトリック教徒にとり、最も神聖な空間である聖櫃は、固定され、鍵のかかった戸棚であり、その中には聖体が収められ、これがキリストと神の臨在の場であると信じられている。

人類学者として、Pattana Kitiarsaは以下の所見を述べた。「祭壇は、その象徴的、物理的な意味において、多様な背景や起源の神々を統合する。祭壇とは神聖な場であり、民間信仰の宗教的混交が、実際に具体的で集合的な形を帯びる場なのである」(Pattana, 2005:484)。祭壇は、物理的・霊的宇宙の正確な宇宙論の構造を反映している。それは神聖な境界を示し、儀礼行為に特別な様式を要求する。宗教的な聖像画や、神像、その他の礼拝対象は、都市部の精霊神殿や仏教寺院の諸堂の祭壇上に、序列通りに配置されている。ブッダは、ダルマラージャである国王の深い帰依を受け、通常はこのような序列の最高位を占めており、この二人の人物がタイ宇宙論の中で至高の神々と認識されている理由は、仏教と王室の両方が現代タイのエスノナショナリズムの最も肝心な側面であるためだ。祭壇上の礼拝物の位置はこのように、宇宙論と政治の両側面を反映しているのである。

キリスト教の聖書正典の宇宙論において、神は宇宙の創造者であったが、この事は彼の子、キリストの到来によって永久に変えられる事となった。カトリックのミサ典礼における神の子との邂逅は、キリストの血と肉という聖体エレメントによって象徴され、これらは聖櫃の中にパンとワイン(祝福された聖餐)の形で収められている。祭壇と聖櫃はそのような事から、カトリックのミサの間に儀式が集中する最も重要な中枢を成すものである。このような理由から、ポール神父は国王の肖像画を聖櫃の前に置く事を拒んだのであった。彼は後に私に次のように語った。「一線を越えるところでした。我々は国王を神の前にすら置けないのですからね!」。だが、彼の教区民たちのこの要求は、宇宙論と政治の両レベルにおいて、極めて啓発的なものであった。この肖像画は最終的には祭壇の裏に滑り込む事となったが、神父の決断がイエスの誕生をプミポン国王の死から解き放つ事は不可能であった。Holy Mercy教会の典礼計画における国王の肖像画の置き場をめぐるこの論争は、単なる一事例の詳細にとどまらず、ラーマ九世の死の結果、タイ・カトリックの一部の内に生じた神学的、政治的葛藤の極めて有意義な事例でもあるのだ。

‘Thai-fication’ of Catholicism. Photo: Giuseppe Bolotta

カトリックのタイ化

タイ・カトリックの宇宙論、典礼、宗教性における国王の神聖な地位と、歴史的に関連付けられるものは、カトリック教会がタイでその存在を正当化するために展開してきた「世俗的」経済・政治の戦略である。実のところ、仏教徒が主体となる状況の中で、カトリック教会は非常に小規模な宗教団体に相当する。だが、世俗的アクターとしての教会は、王政支持の準資本主義機関であり、教会が経営する一流病院や私立校に通うのは、上流中産階級である都市部の仏教徒である。子供の頃はプミポン国王でさえ、タイの政界エリートのメンバーの大多数と同じ様に、Ursuline Sistersの経営するバンコクのカトリック校、Mater Dei校に通っていた。

タイ王室のカトリック「崇拝」は実に、カトリック宣教師達とタイ王室との間の歴史上の交流の結果なのである。他所で著者は、このプロセスを「カトリックのタイ化」(Bolotta,近刊予定)と表現したが、これはつまり、国家、仏教、王室の三つの面における、「タイらしさ(qwham pen thai)」という現代的な国民文化に準じた福音の漸進的な現地化、適応、「文化化」の事である。特にチュラーロンコーン王(ラーマ五世)やワチラーウット王(ラーマ六世)の御代には、タイ王室のエリートとカトリック宣教師達との協力関係が幅広く記されており、このような関係が科学、芸術、建築、医学、印刷技術などの分野を越えて広がっていた(Bressan 2005; Bressan 及びSmithies 2006)。上記以外にも、カトリック教会とタイ国家との結びつきは教育分野に多く見られ、現代タイの学校制度は、特に宣教師たちによって経営されたカトリック系の学校を手本としている程である(Wyatt, 1969; Watson, 1980)。

宣教師たちにカトリックの「タイ化」が公認されたのは、第二バチカン公会議(the Second Vatican Council (1962-65)の後であり、これは布教活動を、改宗に基づくアプローチから、現地の諸状況に合わせて福音を「文化化させる」必要を認める方向への重大な転換を示していた。タイでは、カトリックが自らを適応させていた「現地文化」は、戦略的に「タイらしさ」の覇権的国家モデルの中に認められるのであった(Bolotta, 近刊予定)。仏教と王室は教会によって公式的には宗教的、政治的要素というよりも、文化的要素と形容されるものであるが、両者はこのような幾つかの方法によってタイ・カトリックの一部と化したのである。例えば、カトリック系の学校では、イエスやブッダ、それに国王の肖像が、しばしば一緒に見受けられる。タイ国旗と十字架、国王の写真もまた同様であり、これらは全教室の黒板の上に飾られている(図1及び2)。

タイ・カトリック教徒達のプミポン国王の死に対する反応は、タイ・カトリックの政治的、神学的な曖昧さを浮き彫にし、現地教会が後戻りできぬ地点を画す事となった。これがカトリックの聖職者たちが新治世の中で見過ごす事のできぬ先例となったためである。プミポン国王の神聖化は許容され、カトリックの宗教性に組織的に統合される程であったが、ポール神父のような司祭たちの多くは、議論の的となっている新君主でプミポンの息子であるワチラロンコン国王がキリストのように描かれる事を、より受け入れ難く感じているようである。

新たな御代の下、タイ・カトリックの未来は未だ判然としないが、確実な事は、プミポン国王の死が宇宙論的危機をもたらし、これがタイ社会の文化的、政治的秩序に影響を及ぼしているという事だ。ここでの一つの重要な要因は、国を挙げた服喪と軍事政権とが組み合わさって生じた政治的こう着状態の動向である。これら両方の理由から、先日のクリスマスは一つの服喪であったし、また、次のクリスマスがどのようなものになるのかという懸念を禁じ得ない。

シンガポール国立大学
アジア研究所 博士研究員

Giuseppe Bolotta

Issue 22, Kyoto Review of Southeast Asia, September 2017

REFERENCES

 Bolotta G. (Forthcoming), ‘Development missionaries in the slums of Bangkok: From the Thaification to the de-Thaification of Catholicism’, in Scheer, C., Fountain, P. and Feener, M. (eds), The Mission of Development: Techno-Politics of Religion in Asia. Leiden: Brill.
Bressan, L. (2005), A meeting of Worlds: The interaction of Christian Missionaries and Thai Culture. Bangkok: Assumption University Press.
Bressan, L. and Smithies, M. (2006), Thai-Vatican Relations in the Twentieth Century. Bangkok: Amarin.
Jackson, P.A. (1999), ‘The enchanting spirit of Thai capitalism: The cult of Luang Phor Khoon and the post-modernization of Thai Buddhism’. South East Asia Research (SEAR), 7, 1: 5-60.
____________ (2010) ‘Virtual Divinity: A 21st-Century Discourse of Thai Royal Influence’ In Ivarsson, S. and Isager, L. (eds), Saying the Unsayable: Monarchy and Democracy in Thailand, 29-60. Copenhagen: Nordic Institute of Asian Studies.
Pattana Kitiarsa (2005), ‘Beyond Syncretism: Hybridization of Popular Religion in Contemporary Thailand’. Journal of Southeast Asian Studies, 36, 3: 461-487.
Suwanna Satha-anand, (1994), Ngoen kap satsana [Money and religion]. Bangkok: Komon Keemthong Foundation.
Tambiah, S. J. (1976), World Conqueror & World Renouncer. A Study of Buddhism and Polity in Thailand against a Historical Background. Cambridge: Cambridge University Press.
Watson, D.K. (1980), Educational Development in Thailand. London: Heinemann Educational Books Limited.
Wyatt, D.K. (1969), The Politics of Reform in Thailand: Education in the Reign of King Chulalongkorn. New Haven: Yale University Press.

Notes:

  1. 本論で使用された名前は匿名であり、ここに記された幾つかの場所やその他の詳細は、情報提供者の匿名性保護のために変更されている。
  2. Bressan and Smitihies (2006:1)の統計の合計では、カトリック教徒は約300,000人、タイ人神父は400人、主に西洋人の宣教師が約250人、シスター1,500人、聖別された一般信徒が120人である。タイ・カトリック教会の組織は10の教区と500の小教区に分かれ、国土全域に分布している。