Issue 21 Mar. 2017

誰のための殺人か?フィリピンにおける超法規的殺人の事例

ロドリゴ・ドゥテルテが政権に就いた2016年6月以来、超法規的殺人は5千人以上の命を奪ってきた。超法規的殺人の標的やパターンは、彼の在職中とマルコス独裁政権時代とでは異なったものであろう。また、特筆すべき重要な事は、フィリピンの民主主義が比較的安定していた2001年から2010年の時代にも、フィリピンの日常生活の中では、多くの超法規的殺人が目撃されたという事である。 多数のジャーナリストや、選挙で選ばれた政府高官、農民団体の指導者たちが、日中であっても、バイクに乗った正体不明の者によって路上で射殺された。超法規的殺人を正確に数え上げる事は不可能であるが、その訳は、共産主義運動やイスラム解放運動と関連した武力衝突が、進行中の問題であるからだ。事件数はまちまちで、幾分控えめな集計によると、2001年から2010年の間に305件の超法規的殺人があり、その被害者は390人であった。一方、ヒューマン・ライツ・ウォッチ団体のカラパタン(Karapatan)では、これと同期間に1,000件以上を集計している。これらの事件の中で合計161件のみが提訴されている。最終的に処罰された犯人がごく少数であった事には、愕然とさせられる。 フィリピンにおける超法規的殺人 最高裁判所行政命令によると、超法規的殺人は、被害者の政治的属性、殺人の手段、殺人の遂行時における国家のエージェントの関与あるいは黙認によって定義される。 市民社会やフィリピン国民は、これを軍隊に対する国家の機能不全、あるいは不処罰の文化と解釈する事ができる。フィリピン国民や世界の市民社会は、これらの超法規的殺人の膨大な犠牲者の数に驚かされたが、フィリピン国軍がこの件にそれ程懸念を抱いているとは思われない。 事件の数が多いため、また、様々な人が標的とされたため、事件の原因を割り出す事は難しい。これに加え、さらに困難な事に、特定の非戦闘員である指導者たち、例えば農民の指導者や、コミュニティ開発を志向するNGOの職員、環境保護主義者たちが惨殺された理由を突き止める事である。これまで、ほとんど気にかけられて来なかった事は、彼らがなぜ、地域コミュニティの何者かにとって、あるいは国家の政治経済にとっての脅威になるのか、という事である。 地域指導者殺害の事例に則し、これらの地域指導者殺害の事例を、国際開発計画との関係の中で分析してみたい。国際開発は、これらの計画にまつわる論争の舞台を、さらに複雑化させる原因である。フィリピンにおいて、国際開発計画はしばしば、政治家と地域のエリートたちとの腐敗した関係によって汚されてきた。加えて、経済が優先の開発事業団はしばしば、被援助国が適切な実施プロセスを迅速に進めるよう圧力をかけ、コミュニティの地域住民に対する悪影響は顧みないものだ。 ホセ・ドトン(Jose Doton)事件 ホセ・ドトン氏は、バヤンムナ(Bayan Muna)のパンガシナン支部の元事務局長であり、ティマワ(TIMMAWA:Tignayan dagti Mannalon A Mangwayawaya Ti Agno:アグノ川の自由な流れを取り戻す小農民運動)の代表でもあったが、2006年5月16日に射殺された。62歳であった。目撃者の話では、その日の午前10時30分から10時45分頃に、一台のオートバイが、ドトンとその弟の乗ったオートバイの背後で速度を上げ、3発の銃声があった。その直後、ナンバープレート番号が無い、その赤いオートバイ(ヤマハXRM)が、ドトン兄弟のオートバイに追いつき、さらに二発の銃声があった。ホセとその弟が路上に転倒すると、男たちの一人で20歳から25歳ぐらいの者がオートバイから降り、ホセの頭を撃って逃げた。 殺害された日まで、彼はサンロケダムの反対闘争を指揮し、人々の生活と資源に対する巨大ダムの悪影響の問題を提起していた。サンロケダムの建設が、彼の町の660世帯を強制退去させたのである。ベンゲット州イトゴンでは、約2万人の先住民が、この事業により悪影響を被った。2006年6月15日の記者会見で、日本が出資する事業の監視を献身的に行ってきたFoE Japan (Friends of the Earth-Japan)の波多江秀枝(はたえ ほづえ)氏は、「日本の政府や金融機関が出資した事業の中で、我々の団体は常に地域レベルにおけるHRV(人権侵害)に注意を払ってきた」と述べた。これらの事業に反対する者たちは、大抵、当局から左翼や共産主義テロリストの烙印を押される事になるそうだ。ティマワは、当局からこの地域の共産主義テロリスト戦線と目されていた。 サンロケ多目的事業(SRMP: The San Roque Multi-purpose Project)は、ルソン島北部、パンガシナン州のアグノ川下流に築かれ、多様な経済活動のための電力発電と、下流の堆泥や洪水を減らす事で水質改善を行うためのものである(Perez, 2004; SRPC, 2006, cited in Kim […]

Reviews

REVIEW— KABISERA (The Seat)

Film: Kabisera (The Seat) Directed by: Arturo San Agustin and Real Florido Release date: 25 December 2016 Language: Filipino When a Widow Takes the Helm When a family is forced to come to terms with […]

Book Reviews

REVIEW— ทาง: รวมเรื่องสั้นชุดซ ายผ านศึก The Path: Stories of the Veteran Leftists

Book title: ทาง: รวมเรื่องสั้นชุดซ ายผ านศึก (The Path: stories of the veteran leftists) Author: เสกสรรค์ ประเสริฐกุล (Seksan Prasetkul) Publisher: Samanchon Books, 2016 Stories of the Lost Generation Seksan Prasertkul is a well-known figure in Thailand for […]

Reviews

REVIEW— Two Indonesian Poetry Books

Title: Tempat Paling Liar Di Muka Bumi (The Wildest place on Earth) Authors: Theoresia Rumthe and Weslly Johannes  Publisher: Jakarta: Gramedia Pustaka Utama: 2016  and Title: Tidak ada New York Hari Ini / There is No New York […]

Issue 20 Sept. 2016

Legitimacy and Military Rule in Today’s Thailand

Amidst a wave of recent studies on the global decline of democracy and the concurrent resurgence of authoritarianism (Diamond 2008; Diamond 2015), the Thai case stands out because unlike authoritarian regimes elsewhere, Thailand since May […]

YAV

The rise of mass-mobilizing politics in Indonesia

Indonesia prepares for “war!” The glorious time of the “peace dividend” following the 2005 Aceh conflict settlement seems to be over (Honna 2008). The “enemy” has succeeded in weakening the country’s political, economic and social […]

Issue 20 Sept. 2016

ร่างกายที่เคลื่อนย้าย/ไม่เคลื่อนย้าย: ย้อนรำลึกถึงการเติบโตในช่วงความเปลี่ยนแปลงครั้งใหญ่

รายงานและภาพที่ถ่ายทอดในสำนักข่าวต่างประเทศเกี่ยวกับ “วิกฤตการณ์ผู้ลี้ภัย” โดยเฉพาะการอพยพครั้งใหญ่ของชายหญิงกับเด็กชาวซีเรียที่หนีจากสงครามกลางเมืองในประเทศของตนตลอดช่วงหลายเดือนที่ผ่านมา ทำให้หวนนึกถึงความทรงจำเกี่ยวกับการหนีออกนอกประเทศครั้งใหญ่อีกครั้งหนึ่งเมื่อประมาณสี่สิบปีที่แล้ว เมื่อชาวกัมพูชา ลาวและเวียดนามหลายแสนคนละทิ้งประเทศของตนภายหลังคอมมิวนิสต์ได้รับชัยชนะใน ค.ศ. 1975 ลักษณะคู่ขนานระหว่างการอพยพสองครั้งนี้เห็นได้อย่างเด่นชัด โดยเฉพาะการเดินทางอันน่าหวาดหวั่นที่ต้องลอยเรือกลางทะเลเพื่อขึ้นฝั่งในยุโรปหรือเอเชีย การอพยพย้ายถิ่นด้วยความจำใจทุกครั้งย่อมมีพลวัต ต้นตอและผลกระทบที่เป็นลักษณะเฉพาะของมันเอง มันอาจมีลักษณะคู่ขนาน แต่ไม่มีทางเหมือนกันโดยสิ้นเชิง กระนั้นก็ตาม มีเรื่องเล่าทับซ้อนกันสองชั้นที่ครอบทับการอพยพหนีออกจากประเทศทั้งสองระลอกข้างต้น ในด้านหนึ่ง เรื่องเล่านำเสนอภาพเหยื่อ “โลกที่สาม” ที่ช่วยตัวเองไม่ได้ ส่วนอีกด้านหนึ่งคือ (ความพยายาม) ปฏิบัติการช่วยเหลือด้านมนุษยธรรมจากประเทศ “โลกที่หนึ่ง” Yen Le Espiritu ตำหนิงานเขียนเชิงวิชาการก่อนหน้านี้ที่มองว่าผู้ลี้ภัยชาวเวียดนาม “เป็นแค่วัตถุของการช่วยเหลือ วาดภาพว่าพวกเขาโศกเศร้าจนช่วยตัวเองไม่ได้ ดังนั้น พวกเขาจึงจำเป็นต้องได้รับการดูแล โดยอ้างว่าการดูแลที่ดีที่สุดทำได้ในและโดยสหรัฐอเมริกาเท่านั้น” (Espiritu 2006: […]

Issue 20 Sept. 2016

可動の身・不動の身:激動の時代に成長した記憶

国際報道機関の伝える「難民危機」に関する報道や映像、とりわけ、シリア人の男女、子供達が母国の過去数か月におよぶ内戦を避け、大移動する様は、もう一つの大規模な逃亡の記憶を呼び起こす。それは40年程前に何十万人ものカンボジアやラオス、ベトナムの人々が、1975年の共産主義の勝利の結果、国を後にした記憶である。この二つの大移動の類似点は見過ごし難く、最も顕著なものは、彼らがすさまじい海路の旅でヨーロッパやアジアの海岸へ辿り着こうとする点である。あらゆる強制移住には、それなりの原動力や発端、結果がある。すなわち、類似点を引き出す事は可能であっても、それらは同一ではない。だが、いずれの逃亡にも顕著な二重のナラティブの特徴は、一方に無力な「第三世界」の犠牲者たちがいて、もう一方には「第一世界」による人道救助活動(計画)があることだ。ベトナム人難民に関して言えば、Yen Le Espirituが酷評した先行学術論文は「(彼らを)救助の対象」と位置づけ、「彼らを悲嘆のために無能力状態に陥った保護が必要な者として描き、その保護はアメリカで、またアメリカによって最良のものが提供されるという事だ」(Espiritu 2006: 410)。このナラティブはおそらく、多くの新聞やテレビの「ボート難民」の苦難や難民キャンプでの人道問題の報道に影響されたもので、これが転じて「インドシナ難民」に関する集合的記憶を形成した。 事実、後者に付随する言説やイメージがあまりにも揺るぎないものであるために、彼らを「人工記憶」保有者と呼んでも見当違いにはならないだろう。Alison Landsbergの概念は、これらの出来事を生き抜いた経験を持たない人々の心を動かす「新たな形をした公的文化的記憶」に関連している。これらの記憶は「実体験の産物」ではなく、Landsbergが述べるように、「媒介表現に接する(映画を見る、博物館を訪れる、テレビの連続ドラマを見る)事から生じた」記憶なのである(Landsberg 2004: 20)。2015年に賞を獲得した双方向的なグラフィック・ノベル、『ボート(The Boat)』は、Nam Leのアンソロジーのタイトルとなった短編作を脚色したもので、このような記憶のテクノロジーと大衆文化の一例である。この作品はオンライン読者のみを対象に制作され、心を揺さぶるよう、本文と画像、音声と動きを融合させ、一人のベトナム人の少女が両親によって難民ボートに乗せられ、オーストラリアへ送り出された物語を伝える。 この「捨て身で救助される」というナラティブは、戦争と暴力の犠牲者としてのインドシナ人難民のイメージを具体化している。難民として、歴史の犠牲者としての立場が認識されているため、当然、難民達には何の術もなく、その亡命生活は彼らが救助されてホスト社会に入るその日に始まるかのように思われている。逆に、彼らが母国を発った時の状況や事情がつぶさに調べられる事は希である。だが彼らの人生の決定的瞬間は、彼らが桁外れに困難な状況を抜け出す事を決意した際の、彼ら自身のイニシアティブの結果なのである。筆者は2015年にシドニー郊外で、1975年以降にラオスを去ったラオス系オーストラリア人達にインタビューを行った。推測では、約40万人のラオス人が1975年から1980年代の後期までに(主に)フランスやカナダ、アメリカ合衆国、オーストラリアに逃げ込んで亡命した。ラオス国民の大移動は、ベトナム人やカンボジア人の大移動のようには知られていない。この理由はおそらく、これが前者の規模に相当するものでもなければ(約175万人のベトナム人が1975年から1990年代半ばまでの間に国から逃亡した)、カンボジア人生存者たちのような極度のトラウマを特徴とするわけでもなかったという事だ。 ラオス人難民の逃亡理由を述べる際、報道は通説を繰り返す。「一部のラオス人たちは再教育収容所に入れられる事を恐れて逃亡した。他の者達が出て行った理由は、政治的、経済的、宗教的な自由を喪失した事である」というものだ(UNHCR 2000: 99)。これらの要因や事情は、概ね正しいのであるが、これらの説明には亡命者達のプロフィールや体験を均質化する傾向があり、まるで彼らが年齢や性別、あるいはエスニシティに関わらず、同一の必要に迫られて一様な集団を形成したかのようなのだ。筆者がインタビューの対象としたのは、ラオス系オーストラリア人で、1960年代初頭から1970年代後期に生まれた人々である。筆者が調査を試みた集団が、歴史的な出来事、すなわち、政治体制の崩壊と社会主義者の支配の出現、そして大量脱出を、人生のほぼ同時期、子供時代から成人期にかけて生き抜いた人々であったからだ。若いラオス人難民たちは重要であるにもかかわらず、見過ごされた集団であったのだ。1975年以降にラオスから逃げ、1975年から1987年の間にタイのキャンプを通過した人々の約40%は13歳から29歳であった(Chantavanich and Reynolds 1988: 25)。 共産主義の勝利に続く時代の記憶は、ラオスにおける厳しい生活環境を描く。設立当初から、新政権は存続を懸けた戦いを行っていた。彼らはアメリカの空爆によって破壊された国家の再建という、途方もない課題に直面していたのである。1975年以降、西洋諸国の大半は支援をやめるか、その援助を大幅に削減した。隣接するタイが通商を禁じた事が、経済を苦境に陥れた。さらに、一連の自然災害(1976年の干ばつ、1977年と1978年の洪水)は、農業生産を著しく妨げた。日常生活は一層束縛され、国内の移動が制限されて、日常的な監視は強化された。SomchitとVilayvanhは当時、十代後半であった。二人共、ビエンチャンに住んでいた。Somchitは数年前に学校を卒業し、運転手として働いていた。Vilayvanhは大学生であった。Somchitは首都ビエンチャン近郊の村に育ち、1975年には19歳であった。彼はその頃結婚したてで、妻と共に彼の雇い主がビエンチャン郊外に用意した家に引っ越したばかりだった。Somchitは成人期を目前に、彼の周囲で世界が崩壊していく様を目にしたのである。彼が記憶していたのは、「物事が不安定(voun)になり」、「混沌(voun vai)としてきた」事であった。同じ時期、彼の妻は二人の赤ん坊を死産させている。「私の人生は行き詰ってしまった(bor mi sivit lort)」。彼が出て行ったのは1978年で、メコン川を泳いでタイに渡った。彼の妻は彼女の両親と共に留まる事を選んだ。Vilayvanhは南部のチャンパサック県の村で育ち、彼女がビエンチャンのロースクールの二年生であった1974年は、Somchitと同じ言葉を用いれば、「事態が混沌としてきた(voun vai)時代であった。彼女は学位を取得する事ができず、1975年以降は医学の道に転じた。彼女は1990年まで国を出なかった。 SomchitとVilayvanhの話は、両者が「混沌とした」、「不安定な」と表現したこの時代の記憶について、同様の圧倒的な不安感を伝えていた。彼らのナラティブは、特定の歴史的時期の中で、個人的な体験や彼らの周囲の人間、つまり家族や仲間たちの体験を介して形成されたものである。SomchitとVilayvanhは、歴史的出来事の主観的体験の共有によって定義される世代コホートに属している。これはカール・マンハイムが「連関世代(generation as actuality)」と名付けたもので、特定の生涯の一時期における「歴史的問題」の集団的体験が、解釈や内省によって結び付けられる方法である((Mannheim 1952: 303)。Thomas Burgessの社会変動の時代における青年期の定義も、これが安定した「伝統的」社会からの決裂の重要性を強調するために有用である。彼の言葉によると、「断絶がより決定的である場合、(…)青年期はライフサイクルの中の一時期としてよりもむしろ、歴史的コホートとして出現し」、それは「その世代を前後の別世代から隔て、一段と多くの交渉や変動、創作の余地がある特有の歴史的背景やナラティブ」によって定義されている(Burgess 2005: x)。言い変えると、破壊の時代(例えば戦争、自然災害、社会的危機など)における青年期は、より自律的な範疇になるという事だ。急激な社会的、政治的変化の過程を生きた若者として、SomchitとVilayvanhは、それぞれに違ったやり方でその状況に対処したのである。 成人期に入る寸前に、Somchitの人生は痛ましい個人的出来事に押しつぶされ、威圧的な政治・社会経済環境に捕らわれてしまった。相応の人生を送る可能性の欠如が、彼の移住の決心を支えていたのである。Somchitの境遇は、彼に全てを捨てさせる事を余儀なくした。メコン川を泳いで渡りながら、彼が「携えていたのは自分の身一つであった」(aw tae […]

Issue 20 Sept. 2016

สวรรค์ของกาฝาก: การลบความทรงจำในภาพยนตร์เรื่อง The House of Guava (Mùa ỏ̂i) ของดางเญิตมินห์

ความทรงจำ ความอาลัยและความโศกเศร้าแสดงบทบาทเด่นชัดในภาพยนตร์ของดางเญิตมินห์ (Dang Nhat Minh) ผู้กำกับภาพยนตร์และนักเขียนบทภาพยนตร์ระดับชาติของเวียดนาม เขาเกิดในเมืองเว้เมื่อ ค.ศ. 1938 แล้วไปศึกษาต่อในสหภาพโซเวียต ซึ่งเป็นสถานที่ที่ทำให้เขาเรียนรู้การสร้างภาพยนตร์ (Cohen, 2001) ผลงานที่ได้รับทุนสนับสนุนจากรัฐมีอาทิ When the Tenth Month Comes (1984), Nostalgia for the Countryside (1995), The Girl of the River (1987) และ Don’t Burn (2009) […]

Issue 20 Sept. 2016

寄生者達の楽園:ダン・ニャット・ミン『グァバの季節(The House of Guava (Mùa ỏ̂i)』における記憶の消去

記憶、哀悼、そしてメランコリーは、ベトナムの国民的映画監督で脚本家でもあるダン・ニャット・ミン(Dang Nhat Minh)の映画の中で、一際重要な位置を占めている。1938年にフエに生まれたダンは、ソビエト共和国で学び、そこで映画製作に出会った(Cohen, 2001)。国が出資した彼の作品群、『十月になれば(When the Tenth Month Comes (1984)』、『ニャム(Nostalgia for the Countryside (1995)』、『河の女(The Girl of the River (1987)』そして『きのう、平和の夢を見た(Don’t Burn (2009)』などは、概して国家の共産主義的イデオロギーを宣伝し、戦争の英雄たちを称え、国民の福祉のための集団的な社会闘争を謳ったものである。本稿の焦点となるダンの1999年の作品『グァバの季節』は、この作品群(とその出資者たち)とは相容れぬもので、党路線から外れている(Bradley, 2001: 201-216)。『Mùa ỏ̂i(文字通り、「グァバの季節」)』と題された本作は、ダン自身の短編小説『昔の家』を映画化したものである(Lam 2013: 155)。この作品は、二年がかりのお役所仕事を片付けた後にようやく撮影開始が可能となり、1999年の封切以来、ベトナム国内では上映された事がない(Cohen, 2000)。 『グァバの季節』はフランスで教育を受けたベトナム人弁護士と、彼の親仏的な中流家庭の物語で、背景は1954年から1980年代後期の歴史的大断絶の時代である。弁護士は自ら設計した現代的な屋敷をハノイに建てさせる。物語の中心はこの弁護士の三人の子供たちである。真ん中の子、ホアは、家族が庭に植えたグァバの木の実を採る最中に木から落ちて頭に怪我をする。物語はホアが50歳のところから始まる。彼の一番上の兄のハンはドイツへ移民し、ホアの妹のトゥイが彼の面倒を見ている。現在と過去が静止したままぶつかり合う。頭に怪我をした事によって、ホアの記憶と知能は時間の中に凍結され、1959年から1960年に北部を席巻した土地改革で一家が追い出され、家財を没収された後も没落を拒む(Cohen, 2000)。 筆者の主張は共産主義の神話、共同所有権に対するダンの大胆不敵なカウンター・ナラティブと、個人の記憶の映画的表現が相まって、国家と個人の記憶の間に数多く存在する亀裂を浮彫にしている事である。もう一つの記憶の舞台を設ける事で、『グァバの季節』は個人の記憶の大規模な消去に光を当て、国家の集合的な歴史と記憶の二段階での正当化や、さらにはその「記憶」の背後にある新旧の政治体制にも疑問を投じる。さらには『グァバの季節』が共産主義体制の非情さを拡大してみせるため、中流家庭の家財没収だけでなく、記憶の諒奪の試みによって、等しく腐敗し、矛盾した社会的平等と集団性という共産主義のイデオロギーに余地を作ろうとした事に焦点を合わせる手法も示す。記憶にまつわる政治体制の変化という複雑な物語に対するダンの語り口と視覚表現の想像力に富んだ映画的言語を、三つの主要な局面を通じて分析する。それらは忘却、消去、そして隔絶である。最後に、ダン映画の中で記憶がどのように経験として具現化されるかを示す。 『グァバの季節』は、サンダルを履いた一組の足が、ハノイの現代的な屋敷のフェンスに沿って忍び歩きをする35ミリのクローズアップから始まる(図 1)。このシーンに続くのは屋敷の中から見たフェンスのロングショットである。ホアの顔と目がフェンスの穴から覗き、彼の父親がかつての自宅に植えた一本の背の高いグァバの木を見ようとしている。現在の住人は政府高官と彼の甘やかされた大学生の娘のロアン、そして彼らのために料理や掃除をする年配の女中である。残りの家族は皆、ホーチミン市(サイゴン)にいる。50歳のホアはフェンスをよじ登り、再び自分のグァバの木を訪れようとするのだが、不法侵入で捕まり、警察署へ行くはめとなる。彼の妹のトゥイは、彼を助け出すためにホアが精神障害者であるという確認書に署名をする。 心の痛むようなシーンが繰り広げられ、我々は程なく、ホアが自分の思い出の中に生きている理由を理解する事になる。トゥイは警察署からホアを自転車の後ろに乗せて自宅に連れ帰る。彼女はまるで彼が小さな子供であるかのように服を脱がせるのを手伝い、シャワーを浴びるように言いきかせる。彼の汚れたズボンのポケットの中身を出している時、彼女は彼が父親の植えた木からもいできた一つの緑色のグァバの実を見つける。彼女がそれを手の平に乗せていると、グァバの重みと手触りがトゥイの記憶を呼び覚ます。彼女の家族に何が起きたのか、とりわけ、何がホアの精神を危機的状態に追いやったのか(図2と3)。トゥイはそこで、自分たちの家族の歴史とホアの人生の物語をナレーションで語り、背後には家具がある、彼らの暮らしていた30年前の家の回想シーンの映像が流れる。 『グァバの季節』は、サンダルを履いた一組の足が、ハノイの現代的な屋敷のフェンスに沿って忍び歩きをする35ミリのクローズアップから始まる(図 1)。このシーンに続くのは屋敷の中から見たフェンスのロングショットである。ホアの顔と目がフェンスの穴から覗き、彼の父親がかつての自宅に植えた一本の背の高いグァバの木を見ようとしている。現在の住人は政府高官と彼の甘やかされた大学生の娘のロアン、そして彼らのために料理や掃除をする年配の女中である。残りの家族は皆、ホーチミン市(サイゴン)にいる。50歳のホアはフェンスをよじ登り、再び自分のグァバの木を訪れようとするのだが、不法侵入で捕まり、警察署へ行くはめとなる。彼の妹のトゥイは、彼を助け出すためにホアが精神障害者であるという確認書に署名をする。 心の痛むようなシーンが繰り広げられ、我々は程なく、ホアが自分の思い出の中に生きている理由を理解する事になる。トゥイは警察署からホアを自転車の後ろに乗せて自宅に連れ帰る。彼女はまるで彼が小さな子供であるかのように服を脱がせるのを手伝い、シャワーを浴びるように言いきかせる。彼の汚れたズボンのポケットの中身を出している時、彼女は彼が父親の植えた木からもいできた一つの緑色のグァバの実を見つける。彼女がそれを手の平に乗せていると、グァバの重みと手触りがトゥイの記憶を呼び覚ます。彼女の家族に何が起きたのか、とりわけ、何がホアの精神を危機的状態に追いやったのか(図2と3)。トゥイはそこで、自分たちの家族の歴史とホアの人生の物語をナレーションで語り、背後には家具がある、彼らの暮らしていた30年前の家の回想シーンの映像が流れる。 […]

Issue 20 Sept. 2016

Potent Places as Embodied Memory in Cambodia

Commenting on sociologist Maurice Halbwach’s (1925) influential theoretical essay on memory, Paul Connerton declared that continuing to speak of “collective memory” required recognition that the term subsumed “quite simply facts of communication between individuals.” (Connerton […]

Bahasa Indonesia

Tempat-tempat Potensial Sebagai Perwakilan Ingatan Di Kamboja

Ketika mengomentari esai teoritis berpengaruh karya sosiologis Maurice Halbwachs (1925) tentang memori/ingatan, Paul Connerton menyatakan bahwa untuk melanjutkan membicarakan ingatan kolektif memerlukan pengakuan bahwa istilah tersebut merupakan bagian dari “fakta cukup sederhana tentang komunikasi antar […]

Issue 20 Sept. 2016

สถานที่ขลังในฐานะความทรงจำที่จับต้องได้ในกัมพูชา

เมื่อความเรียงเชิงทฤษฎีเกี่ยวกับความทรงจำอันโด่งดังของมอริซ อัลบ์วาคส์ (Maurice Halbwachs) นักมานุษยวิทยา ได้รับการตีพิมพ์ออกมานั้น (1925) พอล คอนเนอร์ตัน (Paul Connerton) แสดงความคิดเห็นต่อผลงานชิ้นนี้โดยยืนยันว่า การพูดถึง “ความทรงจำรวมหมู่” (collective memory) ต่อแต่นี้ไปต้องตระหนักว่าคำคำนี้มีความหมายถึง “ข้อเท็จจริงพื้นฐานง่ายๆ เกี่ยวกับการสื่อสารระหว่างปัจเจกบุคคล” (Connerton 2010: 38) ผู้เขียนดำเนินรอยตามบทเรียนขั้นพื้นฐานของอัลบ์วาคส์โดยถือว่า ความทรงจำรวมหมู่ในที่นี้หมายถึงเรื่องเล่าเกี่ยวกับเหตุการณ์ในอดีตที่กลุ่มทางสังคมหนึ่งๆ ผลิตขึ้นมา และได้รับการจินตนาการซ้ำและเล่าซ้ำโดยเชื่อมโยงกับสถานการณ์ในปัจจุบันเสมอ ในบทความนี้ ผู้เขียนใช้ข้อมูลภาคสนามที่วิจัยมานานกว่าเก้าปีในจังหวัดโพธิสัตว์ (Pursat) ซึ่งตั้งอยู่ทางภาคตะวันตกของประเทศกัมพูชา เพื่อนำมาบรรยายถึงสถานการณ์ที่การสื่อสารของปัจเจกบุคคลได้สร้างและถ่ายทอดความทรงจำรวมหมู่ผ่านสื่อกลางที่เป็นสถานที่ ผู้เขียนต้องการชี้ให้เห็นว่า ความทรงจำรวมหมู่ของชาวเขมรในกัมพูชามีความเชื่อมโยงกับการประจักษ์และการปฏิบัติที่เกี่ยวข้องกับแผ่นดินอย่างแยกกันไม่ขาด ความเชื่อมโยงนี้สะท้อนถึงความสำคัญอย่างยิ่งของแผ่นดินในหลายแง่มุมของชีวิตทางสังคม นอกจากนี้ […]

Issue 20 Sept. 2016

カンボジアの記憶が現れた効験のある場所

社会学者であるモーリス・アルヴァックス(Maurice Halbwach (1925))の記憶にまつわる有力な論文の出版に際し、ポール・コナトン(Paul Connerton)はこれを評して「集合的記憶」を論じ続ける上で、この語には「極単純に、個人間のコミュニケーションの現実」が包含されているとの認識が必要だと言明した(Connerton 2010: 38)。アルヴァックスの根本的な教えに倣い、筆者は本論における集合的記憶の意味を、社会集団によって生み出された過去の出来事のナラティブとし、また常に現状を考慮して再考され、語り直されるものとする。この論文では、9年間に及んだカンボジア西部のポーサット州でのフィールドワークに基づき、集合的記憶を生成し、伝達する個人的活動であるコミュニケーションが、場所を介在して行われている状況を説明する。カンボジアにおけるクメール民族の集合的記憶は、土地に関する認識や慣習と密接に結び付いたものであると考えられる。この結びつきは、社会生活の多くの側面における土地の決定的な重要性を反映するものだ。つまり、集合的記憶は必ずしも国家的なものとは限らず、地域的なものでもあるという事だ。 宗教体系における重要要素としての土地  カンボジアでの土地は、80%の人々が今でも田園地方に暮らす中で生活の中心となっている。また、土地は国民の宗教体系にとっても重要なものである。大地は今なおクメールの宗教体系の中で重要要素であり、その最も明白な例は土地の守護精霊(anak tā)と彼らの住処との深い結びつき(Ang 2000)や、視覚文化に頻繁に引用される大地の女神Braḥ Dharaṇī (Guthrie 2004)である。このような信仰は、古代東南アジアの諸宗教における「大地の力の神格化」という、より大きな概念に支えられたものであり(Mus 1933: 374)、この概念の中で、大地と大地の精霊たち、あるいはヒンドゥ化過程の後にはヒンドゥの神々が融合され、固有の実在となっている。この土地に付された大地の力を神と融合させ得る力は、カンボジアではサンスクリットでデーヴァ・ラージャ(神のような王)信仰として知られるkamrateṅ jagat ta rājyaというアンコール朝の宗教以来、馴染みの深いものとなっている。古典的な解釈では、これを王と(特に)シヴァ神(Coedes 1961)との結合を祝するものと見なすが、別の学者達(Jacques 1985など)は、これがaN anak tāや王の守護精霊の性質の一部を具えた神と見なしている((Estève 2009)。 カンボジアでは、東南アジアの大部分と同様で(Allerton 2013)、そのような信仰が特定の場所にそれ独自の介在者を与える。この介在者はカンボジアでは、主にmcās’ dịk mcās’ ṭī,、「水と大地の支配者」の姿をとって現れる。彼らの主な懸念は、自分たちの土地を不適切な行いをする訪問者や、許しを請わずに木を伐り果物を取る欲深い土地の利用者たちから守る事である。 上の要約はPaul MusやAng Chouleanなどの優れた人類学者達によって詳述されたカンボジアでの土地のオントロジーの基本原理を紹介するものである。筆者は自身のフィールドワークから、カンボジアでは大地と時が異なるオントロジーとしては認識されておらず、むしろ一つの範疇内で括られたものであるとの判断に至った。これを可能にしているのが、クメール人のparamī (boromeyと発音される)の力の認識である。(国あるいは地方レベルで考えられる)カンボジアの領土は、「paramīが充満した」、効験があると認められた場所のネットワークによって構成されている。そのような場所は、特別な古い僧院をはじめ、立派な形をした特定の古木や、樹木が茂り、壊れた像の転がった丘など、様々である。どのような形にせよ、そのような効験あらたかな場所の大半には、宗教や王権にちなんだ歴史上の出来事との関連性が共通して存在している。Judith Bovensiepen (2009)が述べたティモール・レステの事例と同様で、カンボジアの土地は所定の場所で起きた過去の出来事を、いわば「吸収する」事ができるのだ。 上述の大地の性質は、効験のある場所を記憶の場として機能させ得るもので、そのような場所で過去の出来事が記憶され、(とりとめもない事もあるが、大抵は祭祀の根拠についての)解釈を与えられる事で、現代の社会生活や個人生活と関わり合っている。ここで紹介する事例研究の主題は、クレアン・ムアン(Khleang […]

Issue 20 Sept. 2016

แกะสลักปั้นหล่อความทรงจำและประวัติศาสตร์ในเมืองเหนือของประเทศไทย

อนุสาวรีย์และรูปปั้นเป็นที่นิยมมานานในรัฐที่พยายามกำหนดนิยามความทรงจำส่วนรวม (collective memory) บางคนถึงกับเรียกความหมกมุ่นที่มีต่อการสร้างอนุสรณ์สถานที่มีรูปปั้นว่า “ลัทธิคลั่งรูปปั้น” (statuemania) ซึ่งเป็นอาการป่วยทางจิตของชนชั้นนำระดับชาติและนักวางผังเมืองไม่เฉพาะในตะวันตกเท่านั้น แต่รวมถึงในหลายสถานที่อย่างประเทศไทยด้วย อนุสาวรีย์ใหม่ๆ เริ่มผุดขึ้นมาเป็นจุดหมายภูมิทัศน์ของเมืองกรุงเทพฯ ในช่วงต้นศตวรรษที่ 20 ในหลายๆ แง่ ความคลั่งไคล้นี้ยังคงแพร่กระจาย—และขยายตัว—พร้อมกับการก่อสร้างอุทยานราชภักดิ์ที่หัวหิน ซึ่งมีผู้บรรยายว่าเป็น “อุทยานประวัติศาสตร์พร้อมอนุสาวรีย์เจ็ดกษัตริย์ที่รัฐบาลทหารสร้างเพื่อสักการบูชา” ความหลงใหลในอนุสาวรีย์รูปปั้นเป็นสิ่งที่แผ่พ้นปัจจุบัน พ้นศูนย์กลางและพ้นรัฐ ดินแดนเทพนิยายประวัติศาสตร์ราชภักดิ์ของรัฐบาลเผด็จการทหารเป็นแค่การสำแดงครั้งล่าสุดของประวัติศาสตร์อันยาวนานในการสร้างอนุสาวรีย์ที่เกี่ยวข้องกษัตริย์ในประเทศไทย ในทำนองเดียวกัน โฉมหน้าเมืองที่เปลี่ยนไปของกรุงเทพฯ ในช่วงอัสดงของระบอบสมบูรณาญาสิทธิราชย์ก็เป็นแค่ฉากหลังฉากหนึ่งของลัทธิคลั่งรูปปั้น ยกตัวอย่างเช่น ในจังหวัดภาคเหนืออย่างเชียงใหม่ อนุสรณ์สถานทางประวัติศาสตร์ไม่เพียงชี้ให้เห็นชั่วขณะสำคัญในประวัติศาสตร์ของเมืองและของภูมิภาคเท่านั้น แต่ที่สำคัญกว่านั้นคือมันสะท้อนให้เห็นความพยายามของรัฐที่จะยัดเยียดแม่บททางประวัติศาสตร์ฉบับราชาชาตินิยมกระแสหลักครอบทับลงบนความทรงจำของท้องถิ่น ในประการสุดท้าย ลัทธิคลั่งรูปปั้นไม่ใช่แค่ความป่วยไข้ของชนชั้นนำในรัฐเดี่ยวเท่านั้น แต่ยังเป็นอาการร่วมที่แพร่ระบาดในกลุ่มคนกับกลุ่มผลประโยชน์ที่แตกต่างหลากหลายด้วย เฉกเช่นศิลปินที่แกะสลักปั้นหล่อรูปปั้นมากับมือ ชนชั้นนำระดับชาติและท้องถิ่นก็พยายามปั้นแต่งความทรงจำของมวลชนโดยแสดงออกผ่าน “ความทรงจำที่เคลื่อนย้ายไม่ได้” เช่นกัน ครูบาศรีวิชัย […]