
ミャンマーにおける選挙の清廉性の崩壊:ポスト・クーデター再考
2021年2月1日、ミャンマー国軍(the Tatmadaw/タトマドー)はクーデターを起こし、この国の政治的実権を掌握した。この時、国軍は自らの行為を正当化しようと、2020年11月の総選挙で広範な不正行為が行われたと主張した。[1] なお、この選挙では、アウン・サン・スー・チーの国民民主連盟(National League for Democracy: NLD)が計1,117議席中、920議席(82%)を獲得して圧勝、これに対し、国軍が支持する連邦団結発展党(Union Solidarity and Development Part y: USDP)は、71議席、6.4%しか獲得できなかった。[2] このクーデターの後、国軍は、当初は一年間とされた非常事態を宣言した。[3]だが、この期間が2022年2月に終わると、非常事態は各期間6か月、6回延長され、2024年7月31日までこのパターンが続いた。そして、軍事クーデターから6ヶ月後の2021年8月1日、自らをミャンマー首相に任命したミン・アウン・フライン総司令官(Min Aung Hlaing)の下で暫定政権が樹立された。[4] その後、2024年7月22日には、アウン・フラインが大統領代行に就任し、非常事態は2025年1月31日まで延長された。[5]これについて、国軍は、進行中の騒乱と情勢不安が選挙の実施をあまりにも危険にしたためとして、非常事態の延長を正当化した。[6] 当初、ミン・アウン・フラインは国家統治評議会(SAC)の議長として、クーデター後の多党制選挙の実施を約束していた。[7]ところが、SACは、2003年以降、クーデター前まで、目ざましく発達していた多党制選挙の枠組みを非常事態の延長により、体系的に解体してしまった。 2021年クーデター後の出来事には、民主化改革によって影響力を失った国軍が権力を取り戻そうとする試みが表れる。[8]このような権力奪回の過程には、国家の選挙の枠組みに対する主導権の再確立や、民主化勢力の立場の弱体化、法的枠組みの操作による国軍の権力強化、反対意見の抑圧、野党の周縁化などがあった。 ミャンマー民主化へのロードマップ 2003年、国軍は「規律栄える民主主義へのロードマップ(Roadmap to Discipline-flourishing Democracy)」と呼ばれる新たな政治改革構想を発表した。この7段階のプロセスには[9]、数十年に及んだ軍事政権による厳しい支配の後、同政権の正統性を国内外に向けて強調する狙いがあった。[10]このロードマップには、国民会議(the National Convention)の再招集による憲法原則の規定を筆頭に、民主的な統治機構確立への段階的アプローチの概要が述べられていた。なお、このプロセスは、その後、新憲法の起草から、最終的には自由で公正な選挙の実施へと進んで行くというものである。 ところが、国軍の7段階のロードマップのプロセスからは主要な政党やステークホルダーが除外されており、国連[11]は、これに参加者と透明性が不足しているとして懸念を表明した。それでも、国軍はこれらの批判を顧みず、ロードマップを推進し、2008年憲法の制定により、事実上、権力を確立した。[12] さらに、この憲法では、選挙で選ばれていない国軍の代表に国会議席の25%が割り当てられ、これにより、国軍は憲法改正の拒否権を確保した。こうして、名ばかりの民主化改革により、軍部は統治上の優位を堅持した。[13] 2010年11月、ミャンマーの軍事政権、国家平和発展評議会(the State Peace and Development Council: SPDC)は総選挙を行ったが、NLDなど、複数の民主派政党がこれをボイコットした。当時、民主派政党は、SPDCが自由で公正な選挙の必須条件を満たしていないと指摘した。例えば、2008年憲法は、国会での強力な主導権を国軍に与えたが、この確立された国軍権力の削減も必須条件とされていた。さらに、各政党は、選挙参加の前提条件として、国際社会による選挙の監視と、アウン・サン・スー・チーを含む全政治犯の解放も要求していた。[14] […]