
都市を取り戻す:インドネシア左派の都市政治を振り返る
「左派の市議会進出は成功と考えてよいだろう。Dekker(デッカー)や、Wiwoho(ウィウォホ)、Malaka(マラカ/Tan?/タン?)、Soekindar(ソエキンダル)など、Ra’jat(市民)に寄り添った同志全員が議員の地位を確保した。これにより、gemeenteraad(市議会)内での左派の立場は確実に強化されるだろう。これはSemarang(スマラン)市当局にとって重要な出来事で、この議会構成の変化により、同市のkampongs(カンポン/村落)に影響する諸条件の悪化や、不当な規制に関心が集まる可能性がある。今日まで、市議会は、国民の発言の場とはとても呼べなかったが、ようやく、下層階級の利害をおろそかにしない議会となる事が期待される」(Soeara-Ra’jat, 16 October 1921)。 1921年10月16日のSoeara Ra’jat(インドネシア共産党の隔週会報)に掲載されたこの記事には、1920年代の植民地都市、スマラン市の政界に穏やかながら、重大な変化を与えた出来事が綴られていた。インドネシア左派は、ストライキや暴動など、従来の記述から連想される一時的で、劇的な事件だけに限らず、市町村の日常の統治機構に深く入り込んでいた。この時代の意義は、即効的な法律上の成果より、その象徴的、制度的な影響にある。左派の市政政策は、普通選挙権やkapitan(カピタン)制度(民族ごとに住み分けられた地域で、民族の代理人を介した間接的植民地支配)などの人種的特徴を持った行政機構の解体、住宅や公共衛生への投資などの要求を基軸としていた。これらの政策には、日常の具体的な懸念に基づく進歩的な都市の市民性(citizenship)に関する構想がまとめられていた。 それは、都市における不平等の構造基盤に配慮しながらも、正規の植民地支配機構と真っ向から対立せず、その機構内部から作用する政策だった。この出来事から、インドネシア政治のモダニティ(political modernity)に対する別の角度からの解釈が浮かび上がる。事実上、市議会は、この植民地都市に仕組まれた、相反する構想(imaginaries)を戦わせる場となった。この「現実的政治(practical politics)」は、この当時のオランダ植民地都市で、左派が同盟を形成し、社会主義のより大きな政治計画の土台を築く幅広い支持基盤をもたらした。ここで、左派は、単に帝国の権威に抵抗しただけでなく、その内部に入り込み、内部からの再構築を試みた。この記事では、20世紀初頭のSurabaya(スラバヤ)の事例を取り上げ、進歩的な政治実践出現の実質的な拠り所となったスラバヤに注目し、インドネシア左派の歴史を振り返る。[1] 対立した(植民地の)都市ガバナンス 19世紀末の数十年間に、スラバヤは、帝国資本の循環とそのインフラによって作り替えられた。スエズ運河の開通(1869年)と、オランダ自由主義政策(Dutch Liberal Policy/1870)を契機とする変化は、スラバヤを小さな守衛体駐屯都市から、活気に満ちた世界経済の中心地へと生まれ変わらせた。こうして、港や鉄道路線、倉庫などが街の主要な景観を作り替える中、欧州からの資本と移民は、社会階層を再規定した。さらに、人口構成にも変化が見られ、1870年から1890年には、西欧人の人口が2倍以上となり、植民地資本主義による支配の強化が数値となって現れた。 このような変化からは、経済成長だけでなく、植民地の官僚主義と無関係な西欧人の中間層、orang particulier sadjaという新たな社会階層が生じた。それらの医師や技術者、ジャーナリスト、秘書などは都市公共圏の擁護者となり、組合活動や報道文化、改革派政治を通じ、都市のモダニティを主張した。ところが、植民地国家官僚、ambtenarenとの間に高まる反目が、この中間層の出現に影を差した。だが、このような官僚の権威は、次第に、スラバヤ市の発展と対極的なものと見られるようになった。例えば、高名な弁護士で、スラバヤ市議会議員のAdriaan Paets tot Gonsayen(アドリアン・パエツ・ト・ゴンサイェン)などのリベラル派は、インド諸島の官僚主義を都市の機能障害への対応より、手順順守に関心のある愚鈍な組織と非難した。 そして、ついに、このような反目から市政刷新への推進力が生じた。市議会や町議会と似た行政単位のgemeenteと、公選された機関で市政を担うgemeenteraadは、市民の有権者としての権利を体現した自由民主主義機関とされた。まず、1903年のDecentralisatie Wet(地方分権法)により、部分的な正当性が付与され、1906年には、スラバヤ市議会が正式に発足した。だが、この市議会の構造に反映されていたのは、自由主義の勝利よりも、植民地主義に対する譲歩だった。実際、西欧人議席15議席中、8議席は官僚の管理下にとどまり、残る6議席は非西欧人のエリートに割り当てられ、多人種の代表が確保されながらも、民主的な平等性に欠けていた。つまり、これは参政権が不完全に付与された地方分権化で、植民地帝国の覇権を維持するべく入念に計画された譲歩だった。 とはいえ、gemeenteraadは、都市権力に関する様々な構想が衝突し、融合する実験場の役割を果たした。また、インフラや公衆衛生、土地利用に関する議論から、階級間の緊張関係だけでなく、都市の帰属をめぐる人種ごとの主張の対立も明らかになった。こうして、スラバヤ市は、単なる経済の集積地ではなく、植民地の市民権や、公権力、社会正義の輪郭が形成される坩堝となった。このようなスラバヤの政治的混乱には、植民地支配の構造によって形成されながら、それに抗う都市のモダニティの胎動が認められる。 社会主義の都市政治 オランダ領東インドでの社会主義アクターの市政参加に反映されていたのは、植民地支配の制約を前にした政治戦略の意図的な再構築だ。東インド社会民主主義同盟(ISDV: the Indische Sociaal-Democratische Vereeniging)の初期メンバーは、扇動や革命論に終始せず、gemeenteraadを都市モダニティを議論する重要な機関領域と認識していた。例えば、Semarang(スマラン)市議会議員のWesterveld(ヴェステルフェルト)などの人物は、資本家階級の主導権や、投機的土地所有権に異を唱える都市ガバナンス構想を明確に打ち出した。また、ヴェステルフェルトは、西欧社会民主主義の伝統に基づき、利益ではなく、再配分を目的とした、自治体による住宅用地買収を提唱し、植民地主義を背景とした公営住宅の概念の土台を築いた。 一方、スラバヤ市では、この構想がより大きな制度の力によって具体化された。まず、1906年の市議会設立後、L.D.J. Reeser(L.D.J.リーザー)とMr. van Ravensteyn(ファン・ラーフェンステイン)は、西欧人の商業エリート以外にも政治参加の領域を拡げようとした。Verkiezingscomitéの議長と事務局長を務めていた2人は、(象徴的にせよ、)女性を関与させる取り組みに着手し、先住民や、華人・アラブ系住民にも民間議論への参加を呼びかけた。結局、初期の選挙戦では、保守派の実業家に敗れて失敗したが、都市の代表を多層化する試みは、後に、より具体的な成果をもたらした、その後の同盟の前触れとなった。 さらに、ISDVが1914年にHenk Sneevliet(ヘンク・スネーフリート)主導の下で行った「現実的政治(“practical politics)」の導入は一つの転換点となった。同党は、抽象的イデオロギーの純粋主義を退け、植民地国家機構そのものの内部から権力闘争を試みた。スラバヤでは、この変化が、ナショナリスト組織のInsulinde(インスリンデ)との同盟に結実した。彼らの共同綱領、Sociale […]