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Issue 25

ラオスでの土地認識の変化 国家主権から資本動員へ

2013年8月23日、フランスのパリでKhamtanh Souridaray Sayarath夫人と面会した。ラオス南部の町、チャンパサック(Champassak)生まれの彼女は、1950年代にビエンチャンにある法科大学院を卒業した最初のラオス女性の一人だった。卒業後は工業省(Ministry of Industry)や文化省(Ministry of Culture)、貿易局(the Department of Trade)で様々な地位に就いた。1962年には経済省(the Ministry of Economics)局長となり、ラオス王国政府(the Royal Lao Government (RLG))の土地コンセッション(利用許可)や伐採権、鉱業権を認可する責任を負った。彼女がこの地位にあったのは、1975年に共産党のパテート・ラーオ(Pathet Lao)が国を掌握するまでの事だった。他の多くの人々と同様に、彼女はタイの難民キャンプに逃れた後、最終的にはパリに腰を据えた。 筆者のKhamtanh夫人との議論は、国民の土地の概念化がラオスでどのように変化したかという考察に関するもので、その対象は非共産主義時代から共産主義時代の間だけでなく、ラオスで経済改革が施行された1980年代半ば以降、特に2003年の土地法(Land Law)可決以降の変化だ。土地法可決は海外の投資家たちが広大な農園コンセッションを受ける事を認める法的枠組みをもたらしたが、このような事はKhamtanh夫人の時代には起こり得ぬものだった。本論ではラオスでの土地と国家主権に関する認識に過去数十年間で重大な変化があったことについて論じる。今や、土地は増々金融化され、むしろ海外の民間投資を呼び込む資源と見られるようになり、外国人に管理される事が認められない主権領土とは見なされなくなってきた。 Khamtanh夫人へのインタビュー Khamthanh夫人との議論で筆者が特に興味深く感じたのは、ラオス王国政府時代の彼女の土地コンセッションに対する認識の知る事だった。彼女が言うには、1962年から1975年の間の土地コンセッションは5ヘクタール丁度までで、それ以上はありえなかった。確かに、1958年5月の土地法を改正した、1959年12月21日付けの法律第59/10号は、外国人による財産取得を1975年のラオス人民民主共和国(Lao PDR)設立に至るまで規制していた。 2000年代になり、これとは全く異なる事態が生じ始め、外国企業は農業用地のコンセッションを1万ヘクタールまで獲得ができるようになった。 Khamtanh夫人によると、企業がさらに土地を必要とした場合は、村人かその他の土地所有者から土地を買う必要があったが、重要な点は、外国人が工場展開のための投資を奨励されていたとしても、ラオス市民だけが土地を所有できたということだ。王国政府の政策はその他の多くの初期ポスト・コロニアル政府の政策と同様に、国家主権の概念を天然資源と密接に結び付け、土地その他の資源の利権を外国企業に供与することには慎重であった。例えば、1961年にタンザニアがヨーロッパ列強からの独立を獲得した際には、初代大統領のムワリム・ジュリウス・ニエレレ(Mwalimu Julius Nyerere)が、「タンザニア人が自分たちで資源を開発するための地質学及び工学の優れた技術を手にするまでは、鉱物資源を未開発で放置する事を提唱した」。この時代とラオスにおける状況をよく示した1971年の論文で、Khamchong Luangpraseutは次のように述べている。「(ラオスには)グレーンジ型の大規模農場は存在しない」。彼はまた次のように記す。「ラオス王国では、国家が土地の名義上の所有者である。ラオスの法律によると、耕作者はその利用者であって所有者ではない。」 王国政府内の多くの者たちが特に関心を寄せていたことが国土の保護であったのは、国土と国家主権との関連性が認識されていたためだ。とはいえ、Khamtanh夫人が認めたように、王国政府内には腐敗して国家資源を犠牲にして私利を得ようとする者達もいた。当時、物事がどう認識されていたかを示すべく、Khamtanh夫人は1960年代と1970年代の初頭にラオスで稼働していた鉱山がわずかであったこと、鉱業権供与の要求が何件かあったにせよ、政府がこれに慎重であったことを説明した。例えば、カムアン(Khammouane)県ヒンブン(Hinboun)郡のPhon Tiou地域の錫鉱業には二、三の企業が関与していた。ところがKhamtanh夫人の話では、その地域の全ての鉱業権は表向きにはチャンパサック王家(Champassak Royal House)の当主、Chao Boun Oumの所有となっていた。ただし、彼は明らかに鉱業権をフランス企業にリースしていたという。Khamtanh夫人は口を極めて、王国政府が将来の世代や国家のために自然を保護し、資源を手つかずのままで置いておくことを望み、そのためにあまり多くの鉱業権を供与したがらなかったと強調した。彼らは基本的に農村部の土地を商品や資本の一形態とは考えていなかったのだ。 Khamtanh夫人はまた、国内の全ての製材所の監視を行っていた。多少の木材輸出は認可されていたが、相対的には少量の木材のみ輸出可能であったのは、政府が森林資源の枯渇を懸念していたためだと彼女は説明した。林業局(The […]

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Issue 25

安全保障の地理学:現代ラオスにおける抑圧、比較優位と住民管理業務

1988年の初頭にラオス閣僚評議会は、各省庁や国家委員会、大衆組織、各県ならびに各市町村に向けて訓令を発した。「住民管理業務の強化(“stepping up population management work”)」と題されたこの文書は、経済発展と国家安全保障の密接なつながりを強調したラオス農村部のビジョンを明記したものだ。これによると、住民管理業務には「人口統計の把握、出産および死亡統計の記録、身分証明書の発行、人口移動の計画、居住パターンの分類、そして生計を立てる土地を持たない多民族の国民のために新たな職を探す、あるいは創出する事」が含まれていた。またその「基本原理」について、訓令には「ラオスの多民族の国民に正当かつ等しい権利を生活のあらゆる領域で享受させ、彼らの集団的主体性と独創心をより強化して、国家防衛と社会主義構築の達成という二つの戦略的課題に当たらせる」と記されていた。 この住民管理の手法の一部は、フーコー(Foucault)の近代政治の手法に関する講義の記述、またそのより大筋の支配理論にとても似ている。というのも,住民(the population)を把握する上で人口や地理、生計に関する統計を用い、政治・経済政策を通じてこれらを行政能力とガバナンスに昇華させようとしたものだからだ。いずれにおいても、「住民」は単に人々の集団を指すだけでなく、より大きな集団の必要に応じて行動しようとする集団、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)の言う「為すべきことを為す(“do as they ought”)」人々を意味する。フーコーが主張したのは、ここでいう住民が,手に負えぬ群集、すなわち「人民(“the people”)」とは正反対のものとして理解すべきということである。人民とは、その権利や利益が満たされる事が社会的に不都合であると判明してもこれを要求し、住民の構成員となる事を拒むことでシステム全体の機能を妨害するものたちである。一方で住民の一部となれば一定の自己利益が得られるが、ただし,厳しい制約が伴う。すなわち、国家の利益のための犠牲も要求されるという事だ。 この20年越しの評議会の住民管理業務に関する訓令は、一見するよりも時代錯誤なものではない。1980年代後期はラオス人民共和国(Lao PDR)の歴史の変革期であり、一方では自由化と外国投資(いわゆる新経済メカニズム/ New Economic Mechanism)の名の下で経済に全面的な変化を引き起こそうとするポスト冷戦期の幕開けだった。他方で第二次インドシナ戦争終結後から遥かに長引いた戦後10年プラスアルファの時代でもあった。1988年の後半にタイの首相が「戦場を市場に変える」ために地域全体の協力を呼びかけると、ラオスの党首たちは「銃声のしない新たな戦場での…高度の警戒」の必要性を強め、幹部たちに「敵」(の過去、及び現在の試み)が他国でもそうしたように、相互疑惑や反目、上下階層間の不信感をもたらし、内紛を引き起こして暴動や反乱を生む」と喚起した。住民管理業務に関する訓令が発されたのはそのほんの数か月前の事だが、この訓令にもやはり、外国による密かな干渉が明白に述べられていた。訓令は住民管理業務について、「大がかりで包括的な作業」であり、「適切な態度、強い責任感と十分な能力を以て政治、社会、経済、国家防衛と公安上の任務を遂行し、住民の民主的権利を尊重しつつ、巧妙かつ慎重に備える事で、敵の策略を回避する」必要があると論じていた。 こうした安全保障論はやや時代錯誤と思われるかもしれないが、その基本的な論理は今も存在する。このエッセイは、開発と防衛についての国家によるあけすけな理論化の初期についての考察が、現代ラオスの土地と資源のガバナンスに対する我々の批判的分析の試みに有益な2つの方法を示すものである。この2つの方法は、いずれも安全保障の言説を真剣に受け止めながら、他方で、外国による介入という悪しき過去のイメージを維持することで批判をそらしたり、排除したりする試みとは根本的に距離をとるものでもある。第一に、筆者はラオス高地の現代の住民管理業務をアイワ・オン(Aihwa Ong)が段階的主権(graduated sovereignty)と呼んだものの一形態として理解するべきだと考える。段階的主権とは、強国とは言い難い国々が、その領土と国民をグローバル経済の制約と機会に適応させるために行う政治的作業のことである。ラオスの場合、規制への反発に対する一時しのぎの手段として国家による抑圧が採用されており、農村コミュニティと、コミュニティの人々と土地の両方を開発や保護政策に参加/登録させようと試みる様々なアクターとの緊張関係を管理するための手段になっている。第二に、この主権として行使される抑圧は、確かに道徳的に批判されるべきものではあるものの、歴史的に複数の要因が引き起こしたものであり、ラオス国家だけでなく,海外の公的アクター(政府と多国間アクターの両者)を視野に入れる必要性があることを示唆しておきたい。これらのアクターの決定が今日のグローバル経済のなかでラオスが生き延びていく手段に重大な影響を及ぼすからだ。この分析は土地や森林管理の様々な分野にまたがる問題に関連すると思われるが、簡潔を期すため、ここでの議論は一つの事例に限定する。 ラオス北西部における管理された囲い込みと政治的無力化 戦争の暴力と、抑圧手段の管理は今日、ポストコロニアル社会の組織では圧倒的に重要である。戦争が起こったところでは、領土と国民の統治される方法が再構成され、事実、全国民が政治的に無力化される。 – Achille Mbembe, On the Postcolony(アキーユ・ンベンベ『旧植民地について』) ラオスは2000年代の後半に国際土地取引のにわか景気の第一線に急浮上したが、振り返ってみれば、これは世界的なランド・ラッシュ(土地獲得競争)と呼ばれるものだった。東南アジアの学問とジャーナリズムが一体となって示したように、2008年後期から2009年に全世界の注目が急上昇したにもかかわらず、2000年代の大半を通じて、多国籍アグリビジネスのための様々なかたちでの土地の囲い込みが生じ、金利の安いクレジットや投機的な需要、新興経済国による積極的対外投資が重なり、これが西洋の開発支援を受けた「土地の豊かな」国々の不満の蓄積を招いた。ラオス北西部の新たな天然ゴム農園に対する中国の投資はこの隙間を突いた。大半が民間投資でありながら二国間開発協力の名の下で進行し、中国政府の対外投資奨励政策によって促進された。このような政策には、天然ゴム等の正当な換金作物がアヘン栽培の代替になるというレトリックでなされるアグリビジネスへの寛大な助成金も含まれていた。 「メゾ(中)」規模においては、雲南省南部とラオス北西部の間のアクセシビリティと連結性の向上にともなって新たな天然ゴム農場への投資が進んだ。中国企業はシン郡(Sing District)や県都ルアン・ナムター(Luang Namtha)などの国境地帯で成功をある程度収めていたが、この地域の農民の多くが既に中国と関係していた事から、新たな土地へのアクセス(また契約農家か契約労働者のいずれかの形によるラオス村民へのアクセス)の大半は「北部経済回廊(Northern Economic Corridor)」(西部ルアン・ナムターとボケオ県を通って北部タイと雲南省を結ぶもの道路の拡張で,2003年から2007年にかけて建設)周辺に新たに開かれた後背地で起きた。「大メコン圏(“Greater Mekong […]

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Issue 25

21世紀ラオスの林地コモンズ: 農業資本主義と「商品化されない最低限の生活保障」

過去20年にわたり、ラオス人民民主共和国(Lao PDR)の国内外のアクターによる幅広い同盟は、「慣習的所有権強化(‘strengthening customary tenure’)」の問題に政策介入を講じてきた。その目的は林地コモンズに対する農村コミュニティの権利に法的保護を確立させることで、その背景には大規模な土地買収による広範囲な囲い込みがあった。所有権の確立は、共有地あるいは集団的な土地の登録と利用権交付の普及を最終目的として土地利用計画のための住民参加型手続きを強化することや、公式化の手続きを整備する事で促進されるだろう。試験的な改革にもかかわらず、この目的に向けた歩みは良くても断続的なものだ。 村落規模では、農業の市場化に関連した現地のプロセスが展開を続けている。ラオスの農地改革の変遷の結果には広範囲に及ぶ土地の囲い込みがあるが、これには(国有企業のアグリビジネスやインフラ計画のための用地買収による)「上から」の囲い込みと(小規模農家の流行作物の契約や村の土地のリースと販売による)「下から」の土地私有化による囲い込みの双方がある。商業投資は農村部の多くの人々の生活収入の重大な支えとなっているが、この構造はラオス全土の環境コモンズを広く圧迫する原因にもなっている。この文脈で、農村の慣習的な林地コモンズの権利保護は、土地政策の重要な領域であると同時に、一般的な契約表現では解決し得ない複雑な実証的問題である。 この介入において、ラオスの土地権公式化をめぐる重要な問題に関する言説が、単に慣習的な森林地がいかに農村部の暮らしの日常基盤となり得るか、あるいは(おそらくは)貧困層の緊急時の「セーフティネット」となり得るか、というものだけではないという所へ話を進めよう。セーフティネットの喩えはラオス農民をあまりにも単純な生存水準という理解に押し下げるだけで、農村部の生計と農業資本主義との関連性を定義する上ではさほど役立ってはいない。Haroon Akram-LodhiとCristóbal Kayの言う「商品化されない最低限の生活保障/“non-commodified subsistence guarantee”(以下、“NCSG”と略)」の考えを踏まえた上で、我々が狙いとするのは、慣習地や共有地がいかに農業資本主義の立ち退きを迫る勢力に対する緩衝装置となり、ラオス農村部における自活の供給源にもなり得るかという点に注意を向けることだ。だが、研究者たちの土地の慣習的、共同体的な所有権は変化しており、農民たち自身が新たなアグリビジネスのバリュー・チェーン(価値連鎖)や土地市場に大幅に関与するようになってきた。課題は慣習地に対する保護の構築だけでなく、地域に適し、共同体の集団的な希望や生計上の要求に基づく(慣習地の部分的な脱商品化としての)「共有化」の概念に取り組む事だ。 資本主義の囲い込みと小規模農家の生産 農地改革の重要研究における主要概念を手短に論じておく事は、我々の主張を構築する上で役に立つだろう。土地所有権の問題はAkram-Lodhiが要約する通り、基本的には「誰が(土地を)管理するのか、その管理方法はどのようなものか、管理する目的は何か」ということと関連がある。 囲い込みは「場所に特有な資源の私有化」と定義され、Akram-Lodhiによって囲い込みと資本主義の出現はいずれも社会的な所有関係の内容と意味の変化に基づくもの」と理解される。資本の限界の一つの形式にはフロンティアがあるが、これは地理上の周辺空間だけではなく、「資本主義的な生産関係がそれほど定着していない社会生活のあらゆる空間」も示唆する。二つ目に、資本の貨幣化についての論理の外にある社会的支援源の解体があり、これには非市場的な生活手段が含まれる。 農業資本主義の関係性の下で土地は容赦なく資本に転換され、蓄積だけでなく立ち退きも生じさせる。貧困家庭が彼らの土地所有権と労働力を売って最低限の生活の足しにすることができる一方、技術や土地への新規投資のための資本蓄積に失敗した者や、この死活的な変化の犠牲となる者達は、蓄積か再投資か滅亡かの理論によって土地所有権を売ることを余儀なくされる。あるいは、(例えば慣習的な土地や資源にアクセスする事で)非市場的な生産分野に足場を確保しておけるのであれば、小規模農家の生計に重大な利益をもたらすことも可能だ。Akram-LodhiとKayは以下のように記す。 土地管理には直接使用のための生産の可能性が伴うことがある。これは商品化されない最低限の生活保障であり、農民たちに資本に対する一定の自立性を与え、生計の確保を可能とするが、蓄積を可能とするものではない。 このような‘NCSGs’は(必ずしも緊急時のセーフティネットでないとしても)、少なくとも小規模農家に基礎的な支援を提供すること事ができる。その他の事例では、村の林地や共有資源の一部を商品化されない空間として維持することで、賃金労働市場での経験不足に直面する者達を支えられている。例えば土地の囲い込みが行われても、相応の賃金雇用の選択肢が提供されないなどの場合だ。このような意味で、NCSGsは分散投資の一形態に相当するが、市場の論理や原則からは外れた、あるいは少なくとも隔たりのあるものだ。 ラオスにおける慣習地や共有地の土地所有権の問題には、労働者への影響もある。若者たちは農業や農業以外で割のいい現金収入をもたらす賃金雇用に惹かれるが、これらの職の多くには一定のリスクや脆弱性が伴う。すなわち、労働移住の社会的、経済的条件はきわどいものとなる。その他の全ての条件が同じである中、豊かな土地へのアクセスを保有する農家は、労働市場において自身をより強い交渉上の立場に置くことができる。NCSGsは国家や企業が支援する商業プロジェクトに対して、部分的に自活のための供給源を提供することもできる。これらのプロジェクトは不始末や失敗に陥りがちで、新たな形式の監視や政治的支配をもたらす傾向があり、農民たちが村の土地や資源を彼らの伝統に沿って思い通りに管理する自由に制約を課す。 ラオス農村部での「商品化されない最低限の生活保障」 その他の場所と同様に、ラオスにおける農地改革の変遷過程は小規模農家の運命と慣習地や共有地の土地権の今後を浮かび上がらせる。ジョナサン・リッグ(Jonathan Rigg)らは近年、これらの問題を東南アジアの「小規模農家の持続性」との関連から調査した。しかし、「小規模農家の農業」や「小作農家」の定義はしばしば、相当に広大な所有地や重複する資源保有権の設定が特徴的なラオスの多くの村々には容易に当てはまらない。これらの村の領域は2,000か3,000ヘクタール(あるいはそれ以上)に及ぶこともあるのだ。ラオスでは、そのような慣習地はしばしば、世帯をベースとして共同的なアクセスと利用の権利が季節別に重なる、パッチワークの如く編成されている。このような状況の中では、現金的あるいは非現金的な「環境的収入」が生計にとってとりわけ重要となり得る。 二人目の著者によるラオス中央部での最近の研究は、慣習地や共有地に由来する多くの天然資源生産物の自給利用と現金収入価値を詳しく報告している。彼は無作為に選ばれた四つのコミュニティを取り上げたが、これらは企業や小規模農家による農園計画の本拠地でもあった。彼の2016年から2017年のフィールドワーク(各村25世帯が調査対象となった)によって、一世帯の年間平均で1,272米ドル(現金等価額)に値する食品生産物が周辺の慣習地から収穫されていたことが判明した。van der Meer Simoの計算では、現金および非現金による「環境的収入」の合計は、世帯ごとの年間平均で2,316米ドル、あるいは調査対象の4村全体の平均世帯収入の44%に相当した。完全に「非市場的な」環境収入(つまり、消費されただけで販売によって換金されなかった資源)は、世帯ごとの年間平均で1,355米ドル、あるいは世帯収入合計の22%に相当した。これらの数字は調査対象の村落における‘NCSG’の価値を示している。様々な土地管理戦略の利益は、関連地域の状況や必要な労働投入量の状況に準じて説明されるべきだが、重要な事は、慣習地へのアクセスがなお世帯生産の礎となり、生計に柔軟性を与えると共に農場や移住労働の脆弱性や冴えない強制力に代わる二次的な手段となっていた事だ。 ラオスにおける社会財産関係と農地改革 上記に示した議論はラオスの慣習的、あるいは共有の林地について、「セーフティネット」議論よりも、農村部の人々が農地開発の圧倒的な影響力を切り抜ける上でNCSGsがいかに有用かという点から考察したものだ。本項では、それ自体が重大な変化を経つつある社会に根付いた制度としての慣習地の理解を基に、これにさらなる複雑さを加味しよう。 ドレスラー(Dressler)らがフィリピンのパラワン高地(upland Palawan)について指摘した通り、東南アジアの焼き畑システムにおける非市場的な最低限の社会保障の基盤は慣習的な社会財産関係であり、これが自前工夫主義的(ブリコラージュ的)な生計手法によって多機能的な状況を作り出している。これは「社会に根付いた」土地という概念の核心に迫るものだ。ラオス農村部で村の林地コモンズの囲い込みが行われる一因には、小規模農家による非公式的な土地の確保(しばしば、ラオ語でchap chongと呼ばれる)が加速した事もある。Chap chongの権利は世帯間や男女間、そして世代間において、必ずしも公平であるとは限らない。従来、Chap chongは子孫のために土地を確保する際に用いられたが、今日では商業生産用に土地を私有化する際にも用いられる。慣習的な林地を商業利益のためにリースしたり売ったりすれば、コミュニティにも重大な利益があるだろう。このような傾向は、「共有地保護」のための包括的アプローチを脅かし、共有地登録(communal land titling /CLT)促進の努力にも影響を及ぼす。 ラオスにおける林地政策改革に向けた地道な取り組み […]

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Issue 25

不可能から可能性を作り出す: ラオスにおける農村部の出稼ぎ労働者たちの裏口経済とその落とし穴

若者たちがラオス農村部の集落を離れ、賃金労働のために国内の都市空間や、タイのその他の場所に行くことは、現代ラオスではありふれた現象となった。国の過渡期にある経済において、この傾向はしばしば、構造的経済のレンズ(視点)を通じて理解される(Dwyer 2007など)。物質主義的解釈は、ラオス農村部の人々が農業を重視し、土地に固着するという神秘化されたステレオタイプとの相乗において、それなりに評価されるべきものだが、これは必然的に地方の出稼ぎ労働者を「発展の犠牲者」と見なす、ありがちな言説も生み出す(Barney 2012)。この言説では、政策から生じた貧困によって地方を出ることを余儀なくされ、非熟練の低賃金労働者にされて、職場での様々な搾取に苦しめられる人々の話が語られる。この全体論的な言説が、出稼ぎ労働者個々の主体性を十分に説明し得るものではないという点が、知識人たちの批判の的となっている。地方の故郷を出る、という若者たちの進路決定を支える「自発性」、特に現代的なものや自立に対する欲求について詳述する試みは、このような人々の受動的な「犠牲者イメージ」を崩す上で一定の効果を上げてきた(Riggs 2007; Portilla 2017)。だが、出稼ぎ労働者の実際の職場での経験になると、なおこのイメージが付きまとう。出稼ぎ労働者に関する国内外の様々な職場における考察は、強圧的な賃金体制やミクロ・レベルでの酷使、社会的差別の記述が中心である(Phouxay and Tollefsen 2011; Huijsmans and Bake 2012;)。このような記述が集まって「不可能」の条件を構成し、出稼ぎ労働者のあらゆる形をした社会的上昇志向に悪影響を及ぼす事となる。このような記述をラオス農村部での送金経済の題目に該当する文献と併読すると、一体、故郷を去る若者たちがどのようにして他所の土地で何とか生き残り、成功するのだろうかと考えさせられる(Riggs 2007; Barney 2012)。本論はラオス人出稼ぎ労働者が出先で直面している搾取的な状況の存在そのものを否定する事も、軽視する事も意図しない。むしろ本論は、彼らが不可能からいくらかの可能を作り出す手段に光を当てる事にささげる。これに際して、著者はこの社会集団に貼られた「犠牲者」という、それ自体が社会的疎外力を持つ唯一のレッテルに、さらに立ち向かって行く事を目指そう。 本論の焦点は生存戦略であり、これは今日、若いラオス人出稼ぎ労働者が職場の苦難を乗り切るために広く用いるものだ。それは日々の仕事からわずかな収入のための裏口手段を開拓する行為である。「仕事」に独自の意義を見い出そうとする出稼ぎ労働者の継続的で不従順な試みの根底には、彼らの搾取に対する秘かな抵抗がある。出稼ぎ労働者の裏口経済は、彼らが一息つくための空間をまかなう一方で、彼らを落とし穴へと導くものでもあり、そもそも、そのような行為自体が疎外された立場を彼らにもたらす経済論理を強化している。本論以下では、特定の戦略の内容とその両義的影響について、ラオス国内の地方からの出稼ぎ先として最も人気の高いビエンチャン市における二、三の個々の生活体験の断片から解説する(Phouxay 2010)。 ビエンチャンのように公共交通機関が不足した都市では、日々の通勤の多くがバイクや車などの自家用車によって行われている。車上生活の流れが絶えず寸断の危機にさらされるのは、地元のガソリンスタンドの営業時間の終了後、ナイトライフが活気を帯びてくる時間帯だ。最も慎重なドライバーであっても、時には帰宅途中の夜中にガス欠で立ち往生に見舞われる事がある。多くの者達にとって、このような状況は単に生活の中で避けるべき些細な問題でしかないが、起業家精神を持つ少数の者達はむしろ、これに金儲けのチャンスを嗅ぎつける。彼らは交通量の多いいくつかの道沿いに腰掛けを置き、その上に燃料瓶を置いて売っている。ビエンチャンで、このようなほとんど人目につかない商売をしている者達の中に、トゥ(Tu)という19歳のサワンナケート(Savannakhet)地方出身の男がいた。彼はドンパラン(Dongpalane)通り沿いの歩道上の定位置に時々姿を見せるのであった。彼の不定期と思しき商売計画を実際に左右していた一つの主な要因は、彼が職場から十分なガソリンをくすねて来られるかどうか、という事だった。ビエンチャンにある中国系旅行会社でミニバンのドライバーをしているトゥは、常に空っぽの飲料水の330mlボトルを職場に持参していた。チャンスが到来すれば、ミニバンのオイルタンクの底のドレンボルトを外し、このボトルを充填しようというのだ。ひとたび、職場からタイガーヘッド社の水の1.5ℓボトルを満たすだけの量を抜き取れば、彼のドンパラン通りでの裏口商売が開業する。 詳しく調べてみると、トゥのささやかなガソリン計画にまつわる、計算された策略作りと着実な実行には訳も無く感心させられてしまう。彼が日課として職場からガソリンを失敬するようになったのは、一年前に現在の会社でドライバーとして採用されて間もなくの事だった。上司に見つからないように、彼は毎回タンクから抜くガソリンの量を慎重に制限し、その量がその日の走行距離に見合うものとなるようにしていた。このため、上司は燃料費がわずかに増えた事を、新しいドライバーの無駄の多い運転癖のせいにするようになった。時々、トゥは上司を乗せて走る時、わざと彼の癖だと思われているような事をしてみせることもあった。たとえば、突然停車したり、発進したり、車内のエアコンを過剰に使ったりしてみせて、彼の上司が持論を確信できるようにしたのだ。また彼はわずかな収入のためにドンパラン通りで待つ、退屈な幾夜かを過ごすために外出する事をいとわなかった。ある晩、筆者が午後9時から午後11時までの彼の仮設商店に同行したところ、彼の儲けは合計45,000キープ(大体5米ドル)だった。それでも彼はこれをついてる日だ、と評価した。この現金にどういう価値があるのかは、トゥの月収が1,300,000キープ(大体150米ドル)である事と照らし合わせて理解する必要がある。 上記の話に描かれた抜け目がなくて計算高い人物は、ラオス人労働者が無能で怠慢だという従来のイメージとの著しい対照を示す。トゥの雇い主のヂョウ(Zhou)自身も、トゥに割り当てられた仕事に秘かな拡張業務がある事にはほとんど気が付かぬまま、そのようなステレオタイプで彼を見ていた。1990年代の初頭にラオスにやって来たこの広東人実業家は、トゥと彼の前にいた全てのラオス人従業員を一緒にして、著者に次のような愚痴をこぼし続けた。「彼は目の前のごみを拾おうともしない、ただその辺に座って何にもしないでいる時にですよ。怠け者のラオス人労働者ってやつでね、毎回むちで打たなきゃ、ちょっとも前に進みませんから」。彼はまたトゥの「極めて低い知能指数(IQ)」について、事務所の本棚事件によって確たる結論に至っていた。これはある時、彼がトゥに事務所内の家具の模様替えを言いつけた時に起きた事件だ。彼の極めて詳細で具体的な指示にも関わらず、トゥは本棚の正面を壁側に押して散らかすという事をやってのけたのだ。「明らかにこの田舎者の頭には脳みそなんか入ってませんね」とヂョウは言った。 上司ヂョウの面前で無能を装うトゥの複合戦術に通じるものは、ジェームズ・スコット(James Scott (1985))がいみじくも概念化した「弱者の武器(‘weapons of the weak’)」である。すなわち、階級闘争に対するサバルタンの非対立的な日々の抵抗である。ぐずぐずしたり、愚か者のふりをしたりする事で、彼はヂョウが自由裁量で彼に「ドライバー」以上の仕事をさせようとする搾取的な試みや、仕事を与える際に用いる暴言に対抗したのだ。さらに、トゥが自身を典型的なラオス人労働者として卑下した事は、ヂョウの監督上の警戒心を効果的に下げ、それによって彼は仕事の意義や業務を自分の利益となるように改める隙をより多く確保する事となった。ラオスのような発展途上のポスト・コロニアル的状況下では、先住民を怠慢などの前近代的特性と結びつける慣例がよくある。批判的な介入は、この現象をとりとめの無い植民地的遺産で、ポスト・コロニアル国家が新政権正当化のために時折用いる事もあるものと解釈する傾向がある(Li 2011など)。場所に限定的な歴史的条件も、頻繁にこの説明として用いられる。ラオスでの事例のように、ごく最近まで生計を自給自足・半自給自足の農業に圧倒的に依存していたため、資本主義の労働倫理にあまり触れた事がない住民などがその例だ(Evans 2002)。それでも、トゥの物語はミクロ・レベルの階級政治と東洋的な主体に再び焦点を当て、先住民である事と劣等性との根源的な結びつけを解読する努力が必要な事を指摘している。 トゥのような地方の若い出稼ぎ労働者にとって、日常業務内容の拡大による収入増加戦略は、生存のためということが明確率直に強調される。教育と訓練不足のために、この社会集団は高い技術を必要としない建設業やサービス業、家庭内労働、製造業などの部門に限定され、これらの部門は大抵、「どうにかやっていくだけ」の給料を保証する(Phouxay 2010)。出稼ぎ先で自らの厳しい生活を維持するというプレッシャーに加え、遠方の家族を養う義務と現代消費主義の誘惑もまた、消える事のない金欠感の一因である(Riggs 2007; Phouxay and Tollefsen […]

Issue 23

イスラム教の名における穏健派と過激派の連合 :インドネシアとマレーシアにおける保守的イスラム教

東南アジア一帯で高まる宗教的保守主義と不寛容の傾向は、2000年代後半以降、幅広くメディアや学者たちの注目を集めてきた。インドネシアの首都ジャカルタで行われた大規模な街頭デモは、20万人もの人々を巻き込み、知事選を控えた華人キリスト教徒の大物政治家であるバスキ・チャハヤ・プルナマ(Basuki Tjahaja Purnama)氏(通称「アホック/Ahok」)の起訴を要求、これが悪意に満ちた展開となり、彼は選挙に敗北したばかりか、冒涜罪によって禁固二年を言い渡される結果となった。現地で「Aksi Bela Islam(イスラム擁護運動)」と呼ばれた、この人気政治家に対するムスリム動員の成功とその結果は、彼の宗教的、民族的アイデンティティに基づくものであり、学者や評論家が「保守的な動き」あるいは「宗教的不寛容」と表現する広範な傾向の一部として一般に受け取られた。この傾向は、過去十年の間にインドネシア全域に生じたものである。 著者の主張は、少数派コミュニティに対する宗教的不寛容が、政治の民主化と政治化された宗教的アイデンティティを背景とした、保守主義の宗教エリートと宗教的過激派の間で結ばれた非公式の連合の結果であるという事だ。従来の見解が宗教を世俗エリートの国家権力追求のための政治の道具と見る傾向と対照的に、著者の相対的な見解は、社会運動理論の研究者によって宗教的な権威やエリートの「認証」と呼ばれるものが、小規模で非主流の過激派集団にとっては、ムスリム国民を上手く動員しつつ、世俗派の政治家や国家機構に集団的不寛容(Tilly and Tarrow 2007)を許容させる上で不可欠である事を論証する。従来の宗教エリートの観点から見れば、イスラム教の名において、彼らが「イスラム教とウンマ(umma:イスラム教徒の共同体)」の敵」と見なすものに対抗して形成された「神聖」ムスリム連合は、自由主義者や世俗派勢力の人気(と脅威)の高まりに直面した彼らの、宗教的権威と政治権力を増大させ、確立させようとする試みとして解釈されるべきである。 ムスリム主流の東南アジアにおける宗教的不寛容 宗教的不寛容の傾向、特にムスリム主流派による宗教的少数派に対する攻撃は、2000年度半ば以降、劇的に増加してきた。インドネシアでは、ムスリムの小宗派も含む宗教的少数派に対する過激派による攻撃が民主的統治の確立と共に増加した。フリーダム・ハウス(Freedom House)によると、インドネシアの自由度は2016年に3まで急落した(「最も不自由」は7)。以前は「大いに自由」という地位でより良い点数であったが、政権移行後に市民の権利と自由が低下した結果である。さらに、多くの不寛容行為や暴力行為が「穏健派」とされる集団によって実行されている。例えば、アフマディア派とシーア派に対する暴力行為が目立って多かったコミュニティは、伝統主義のムスリム組織で長く寛容と受容の典型とされていたナフダトゥル・ウラマー(Nahdlahtul Ulama /NU)と結びついていた。 マレーシアで同様の宗教的不寛容が顕著となったのは、2008年にこの国の政党優位の権威主義的政権がかつてない程に強力な野党に直面して以来の事であった。インドネシアでは、宗教的不寛容がアフマディア派やシーア派に対する数多くの攻撃に見られるような暴力行為となって現れる傾向があるが、これと対照的に、マレーシアでの不寛容は法廷や街頭、メディアに表出する傾向がある。とはいえ、小規模な暴力行為は周期的に生じている。 逆説的ではあるが、宗教的不寛容の事件がインドネシアとマレーシアで増加するのは、支配層の世俗派エリートが宗教的改革主義と闘い、国家のイメージと平和な宗教間関係を守るために「穏健なイスラム教」に向けて献身する事を誓う時である(Hoesterey 2017)。だが、世俗派支配層のエリートや主流派ムスリム組織によって立てられた誓いは、実際には注目されず、より強引で不当に目立った過激派や保守主義のイスラム教が市民社会や政策決定に見られる事となる。 インドネシアとマレーシアの両国において、従来の宗教エリートは、2000年代を通じて、概ね世俗的な国家構造の中で国家権力や国家当局に参入する機会をより多く獲得して来た。保守派エリートは、このような機会や世俗派エリートからの支援を、自分たちのイスラム教支配とイスラム社会の構想を促進し実施するために役立てたのである(Bush 2015, Ichwan 2005, 2013, Hamayotsu 2006, Salim 2007)。保守派エリートの中には、国家及び準国家の宗教官僚組織や諸機関に進出して権勢を振るいながら、類似する保守的な指針や目標を共有する過激派集団と連携する者たちもあった。彼らが国家構造や政策決定に進出した事で、国家の指導者や主流派イスラム教組織によって作られた穏健的で自由主義的なイスラム教を促進する諸制度や取り組みが損なわれる事となった。 地方政治、ムスリム「神聖」連合と反少数派の動員 インドネシアにおいて宗教的少数派に対する宗教的不寛容が劇的に増加したのは2000年代半ば以降の事である。そのような暴力行為の標的となった少数派集団の中でもアフマディア派は最たる被害者であり、これらの事件のおよそ65%が、この構成員や資産、象徴を対象に、主に西ジャワで発生したものだ。もう一つの標的としてよく知られるシーア派への暴力行為は、東ジャワのマドゥラ島のサンパン(Sampang)という小さなコミュニティに限定されていたものの、結果的に最も壊滅的な物理的損害と強制退去とをコミュニティの構成員165人にもたらした。 国家レベルにおいて、保守派の宗教エリート、特にMUI(インドネシア・ウラマー評議会)や宗教省を牛耳るウラマーたちは、主流派ムスリムと少数派コミュニティの間の敵対心を増長させる上で決定的な役割を果たした。MUIの高官たちは、スシロ・バンバン・ユドヨノ(Susilo Bambang Yudhoyono)大統領(2004-2014)によって新たに与えられた権力や権威を利用し、公式宣言や宗教的見解(ファトワ/fatwa)を出した。彼らの見解がインドネシア全土の主流派ムスリム・コミュニティに発信したのは、インドネシア社会に非イスラム分子や反イスラム分子が拡大し、進出したため、彼らの宗教的優位や結束が脅威にさらされているという事であった。これらの不安感を構成しているものは、超自由主義の聖職者アブドゥルラフマン・ワヒド(Abdurrahman Wahid /1999-2001)や、非ムスリム寄りとして広く知られる与党PDI-P(インドネシア闘争民主党)の女性議長メガワティ・スカルノプトリ(Megawati Sukarnoputri /2001-2004)らが大統領職に就いた事で、インドネシアでのムスリムの指針が損なわれてしまったとする認識である。現大統領のジョコ・ウィドド(Joko […]

Issue 23

インドネシアにおけるイスラム主義者の動員

イスラム主義運動はインドネシア史において目新しいものではないが、イスラム主義者の動員がこの国の政治舞台で一層目立つようになったのは、故スハルト大統領が辞任した1998年以降の事である。イスラム主義者たちにとって、スハルトの権威主義的政権の終焉は、彼らの宗教、文化、イデオロギー、政治、経済上の利益を表明する推進力となった。 新秩序後のインドネシアにおけるイスラム主義運動の高まりには常に複数の要因が寄与しており、スハルト政権の崩壊は重大であった。スハルトの失墜は、市民の自由や民主主義、市民の多元的共存に門戸を開放したものの、この副作用として、不寛容や急進主義、イスラム教の好戦性を高める事となった。 社会、政治、経済の著しい発展にもかかわらず、ポスト・スハルトのインドネシアは、地方や国境を越えたイスラム主義集団の流入によっても悩まされる事となった。これらの集団は、インドネシアの揺籃期にある民主主義や、脆弱な多元主義、そして、インドネシアのムスリムが中央アジアやインド亜大陸、中東の同宗信者に比べて寛容で穏健であるとのイメージを脅かすものだ。これらのイスラム主義集団が成長した結果、穏健で進歩主義的なムスリムの現代的でリベラルなものの見方が益々脅かされ、また排斥さえされるようになった。 インドネシアの民主主義は斯くしてイスラム主義者に蔓延る余地を与えている。自由と民主主義の名の下で、様々なイスラム主義集団がインドネシア全土にイスラム主義のセンターや組織、学校、それに政党までをも設立している。彼らはイスラム主義の本やその他の出版物を自由に出版し(さらにはこれを自分たちの広範なネットワークを通じて社会に流通させ)ており、そのような出版物は、彼らのイスラム主義の理念や解釈、見解、そして社会政治的計画に沿ったものとなっている。このような集団は民主主義制度の中で成長しており、彼らは自分たちのイスラム主義の諸機関を逆説的に利用して、不寛容や自民族中心主義、反多元主義を発信し、また彼らが西洋世俗主義の産物と批判する民主主義にも反対している。 多様なイスラム主義集団の様式 明確にしておく必要があるのだが、全てのイスラム主義集団が物理的な暴力を振るうわけではないし、イスラム主義者の動員が常に暴力的で過激な形をとると断じる事も間違いである。ユダヤ教やキリスト教の特定宗派がその信奉者たちに個人的な信仰心の向上を強要するのと同様に、多くのイスラム教復興運動がムスリムたちに戒律のさらなる遵守を促している。 平和的、あるいはより暴力性の低いイスラム主義者の動員には以下の活動がある。すなわち、政党の結成、選挙への出馬、同盟関係の構築、国家と市民社会の協力関係の確立、そして市民社会組織の立ち上げである。これには政府諸機関と連携してシャリーアに基づく政策を支持する事も含まれるだろう。暴力的あるいは過激なイスラム主義者の動員としては、資産に対する攻撃、脅迫行為、イスラム主義者の目的や戦略的選択に反対する個人や集団、少数宗派、少数民族集団、特定の住民層を標的化する事、それに暴動や社会不安、対立住民間の暴力、反乱がある。 非暴力のイスラム教主義の例として、タブリーグ・ジャマート(Tablighi Jamaat)、ヒズブット・タフリール・インドネシア(Hizbut Tahrir Indonesia)、あるいは一部のサラフィ派(またはネオ・サラフィ派)集団がある一方、イスラム防衛戦線(Front Pembela Islam)、ラスカル・ジハード(Laskar Jihad:聖戦軍)、インドネシア・ムジャヒディン評議会(Majelis Mujahidin Indonesia)、イスラム信徒フォーラム(Forum Umat Islam)、インドネシア・ムスリム同胞団協会(Jamaah Ikhwanul Muslimin Indonesia/Association of Indonesian Muslim Brotherhood)、反シーア派国民連合(Koalisi Nasional Anti-Syiah/Anti-Shia National Alliance)などの組織は暴力的な過激派イスラム主義集団に分類する事ができる。 ジャカルタ州知事選挙期間中のイスラム主義者の動員 ジャカルタの2017年の州知事選挙は、ポスト・スハルト時代に最も物議を醸した選挙の一つであった。この原因は、この選挙に先行して一連の暴力や緊張関係、騒動、テロ、憎悪、脅迫、人種差別、自民族中心主義や宗派間感情の動員が複数のイスラム主義集団によって行われた事である。 第1回投票でのイスラム主義者の支持は、ハドラマウト地方出身(Hadrami)のアラブ系のアニス・バスウェダン(Anies Baswedan/アニス)と、元インドネシア大統領のスシロ・バンバン・ユドヨノ(Soesilo Bambang Yudhoyono)の息子アグス・ハリムルティ・ユドヨノ(Agus […]

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東南アジアにおけるサラフィー主義のトランスナショナリズムの諸相

政策文書やジャーナリズムの記述は、東南アジアにおけるサラフィー主義を過激思想の旗手あるいはサウジ「帝国主義」のトロイの木馬と捉えている事が多々ある。それらの記述は大抵、サラフィー主義の諸集団がこの地域に存在するのはひとえにサウジアラビア政府の財政支援があるためだとの印象を与えている。本論では、この地域のサラフィー主義者たちが外部世界、とりわけアラビア半島と結びついている状況について、より微妙な差異を示す全体像を描いて示したい。インドネシアとマレーシアにおけるサラフィー主義の二つの事例研究を紹介しよう。社会政治的状況がこの運動の国境を越えたネットワーク形成の諸相をどのように形成し得るのかを示す。 本論におけるサラフィー主義は、それ以外のムスリムの宗教上のアイデンティティを変える事を意図する布教活動と理解される。サラフィー主義者は、イスラム教の最初の三世代(al-salaf al-salih/高潔な先祖達)の宗教的慣習や道徳規範を模倣する事を志し、聖典の字義通りの解釈を実践している。サラフィー主義の究極の目的は、それ以外のムスリムに自分たちのイスラム教が正統であり、その見地から見ればその他の解釈は純粋な形の宗教の曲解であると認めさせる事なのだ。概念上、これらの諸集団は、同じくサラフィー主義の名を公言するイスラム教改革主義で東南アジアに深く根付いたものとは別のものである。 インドネシア ペルシア湾岸からの資金の流れと国境を越えたイスラム教の慈善活動は、インドネシアにサラフィー主義が出現する上で決定的な役割を果たした。この運動がインドネシアに足掛かりを得たのは1980年代初期、インドネシアがイスラム教復興を経ていた最中の時代であった。当初のサラフィー主義集団は、マディナ・イスラム大学(the Islamic University of Madinah /IUM)の卒業生を中心に展開し、この大学では宗教研究の追求を志す者に惜しみのない奨学金を提供していた。 1980年代には、イマーム・ムハンマド・ビン・サウード・イスラム大学(the Saudi University of Imam Muhammad bin Sa‘ud)の分校が、ジャカルタでアラブ・イスラム学研究所(Lembaga Ilmu Pengetahuan Islam dan Arab /LIPIA)の名で設立された。この大学はインドネシアでのサラフィー主義思想の普及に重要な手段となった。インドネシアのサラフィー主義者でIUMの奨学金を獲得できなかった者の多くが学んで卒業するLIPIAでは、教授言語をアラビア語とし、宗教学の授業は主にサラフィー主義思想に基づいて行われる。 IUM卒業生の多くはサウジアラビア留学中に貴重な社会資本を蓄え、様々な慈善団体や資金提供機関との関係を構築した。この結果、1990年代初頭には数多くの湾岸慈善団体がインドネシアに出現し、主にサラフィー主義集団への資金援助を行った。これらの中で最も重要と思われるものはクウェートのイスラム教伝統復興協会(Jama‘iyyat Ihya’ al-Turath al-Islami/Society for the Revival of Islamic Heritage – […]

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現代マレーシアにおける宗教の憲法化と政治化

2016年に野党汎マレーシア・イスラム党(Pan-Malaysian Islamic Party /PAS)の党首によって提出された法案は、マレーシアでシャリーア法廷の力を拡大させ、より厳重な懲罰を科す事を目指すものであった。この提案はマレーシアの市民社会や反対団体から激しい反論を招いたが、その他の社会層からは支持された。その証拠に、これに賛同する大規模集会がクアラルンプールで2017年2月に開催された。与党連合の国民戦線(Barisan Nasional)は、この法案に関する国会審議を先送りとしたものの、当初はこの提案への支持を表明していたし、また、大臣の一人は最近、政府が国内でイスラム教の振興を強化してゆく決意である事を表明している。 過去20年間でマレーシアの政治的、法的言説に増大しつつあるイスラム化は、世俗かイスラム教かというこの国のアイデンティティをめぐる二極化した議論に油を注いできた。イスラム教の地位向上は、マレーシア国家が当初の世俗的根幹からますます宗教色を強める憲法秩序へと着実に、しかし徹底的に移行してきた結果なのである。 憲法作成と国家の誕生 建国時におけるマレーシアの憲法草案策定は、主に人口の大半を占めるマレー人、それに華人やインド系の少数民族から成る多民族社会マレーシアの競合する需要を反映している。独立憲法が施行されたのは、マラヤ連邦がイギリス植民地でなくなり、独立国家となった1957年8月31日の事である。 建国時に協議された社会契約の一つの現れが以下の第3条1項の憲法宣言である。「イスラム教は本連邦の宗教である。ただし他の諸宗教も平和と調和のうちに実践する事ができる」。歴史記録の証言によると、憲法の起草過程に関与した者たちは、第3条1項を含める事で憲法の世俗的根幹を損ねる事はないと述べていた。アブドゥル・ハミド(Abdul Hamid)裁判官は、憲法委員会のメンバーで唯一第3条1項の採択を支持し、イスラム的な憲法条項を「無害」と評し、これが「本国家の世俗国家たる事を妨げるものではない」と述べた。事実、憲法第3条4項は次のように述べている。「本条の条項はいずれも、本憲法の他のいかなる条項によっても損なわれない」。また、第11条1項は次のように保証する。「何人も」自らの宗教の「信仰を告白し、実践する権利を有する」。 イスラム教の政治化 当初に確立されたこの第3条1項のイスラム的憲法条項の解釈は、その後大きく変化してきた。過去四半世紀の間、第3条1項の規定は、政治や司法の当事者たちによって、社会秩序の中で宗教の存在を拡大させる根拠として注目されてきたのである。 イスラム教の政治化は、国民戦線の一員である統一マレー人国民組織(United Malays National Organization /UMNO)とPASの戦場の最前線である。主に半島部マレーシアの北部諸州に保守的な選挙基盤を有するPASは、長い間イスラム国家建設の公約を掲げてきた。この野党は1990年に掌握したクランタン(Kelantan)州で現在も政権の座を保ち、クダ(Kedah )州(2008-2013)とトレンガヌ(Terengganu)州(1999-2004)も治めている。 野党でイスラム主義政党のPASの台頭がPASとUMNOの間の政治的競争のきっかけとなった。この競争は1980年代に始まり、マレー系ムスリムが有権者の大半を占める地方で1990年代に激化した。この事を背景として、2001年9月、当時のマハティール・モハマド(Mahathir Mohamad)首相は次のような宣言を行った。「UMNOの願いは、マレーシアがイスラム教国家である事を公言する事である」。後にマハティール・モハマドの宣言を繰り返したのが当時の副首相で現首相であるナジブ・ラザク(Najib Razak)で、彼はマレーシアを世俗国家とする見解を否定し、「イスラム教は我々の国教であり、我々はイスラム教国家である」と述べた。2017年10月、首相府の副大臣は国民戦線政府が今後もマレーシアをイスラム国家としてゆく決意であると断言した。 マレーシアにおけるイスラム化の議論により、イスラム教の憲法上の位置付けが公共討議の注目をあびる事となった。このイスラム教の憲法上の位置付けをめぐる緊張状態をさらに悪化させたのがマレー人の憲法上の定義で、とりわけ彼らを「イスラム教を信仰する者」とした定義である。マレーシア社会では、宗教的アイデンティティと民族的アイデンティティが密接に絡み合ったものとして認識されている事に加え、イスラム教の位置付けはマレー人の特別な地位と密接に関わっていると考えられている。過去数十年の間には、マレー人の優位がマレー・イスラム的国家主義と密接に関わっているとする、マレーシア社会の一部の人々の観念に固定化が見受けられた。 現代マレーシアで宗教を裁く 裁判所はマレーシアにおける宗教の司法化に極めて重要な役割を果たしてきた。第3条1項はマレーシア国家の憲法上のアイデンティティをめぐる二極化した闘いの争点となっており、今日ではこれを「無害」と評する事もほぼ不可能である。世俗派は、イスラム教の位置付けは形ばかりのものであったはずで、マレーシア憲法の根幹は宗教とは無縁であると主張する。マレーシアがイスラム教国家として認識される事を強く求める者たちは、第3条1項が公共領域におけるイスラム教の役割の向上を定めたものであると主張する。この第3条1項の拡大的な解釈は、1988年のチェ・オマール裁判の名判決で最高裁判所の宣告によって是認されたイスラム的憲法条項の解釈とは完全に食い違ったものである。最高裁判所はその際、第3条によるイスラム教の位置付けが「儀式や祭式に関する行為など」のみに限定されたものであり、この国の法律が世俗法である事を言明している。二年後、最高裁判所は憲法の世俗的原理を再度主張し、イスラム教を国教と認める事が「いかなる手段によっても、非ムスリムの人々の公民権を損ねることはない」という起草者の発言を引き合いに出した。 この解釈は間もなく変わる事になるだろう。過去20年の間にマレーシアの司法言説は劇的に変化し、憲法秩序におけるイスラム教の地位向上に好意的となった。民事裁判所は、憲法によって保障された宗教の自由や平等などの諸権利に関する重要分野において司法権の行使を避けている。一般裁判所の裁判官たちは極めて慇懃な様子でシャリーア法廷に司法権を譲っている。その結果、宗教裁判所の権威や機関としての力が大いに拡大される事となった。 例えばリナ・ジョイ(Lina Joy)の話を考えてみて欲しい。マレー系ムスリムの家庭に生まれたリナ・ジョイは、キリスト教に改宗してキリスト教徒の婚約者と結婚しようとした。しかし、彼女が公的にはまだムスリムと認識され、シャリーア法の司法権の下にあった事から、彼女はそのようにする事ができなかった。ムスリムの結婚は1984年イスラム家族法(連邦直轄領)の下で契約されねばならず、この法律が非ムスリムとの結婚を禁じているためである。国民登録管理局は、彼女の身分証に記された宗教の記載をシャリーア法廷の棄教証明無しで変更する事を拒否した。 リナ・ジョイは民事裁判所に違憲の申し立てを行い、彼女の改宗が第11条の宗教の自由によって保護される事をその根拠とした。マレーシアの最高上訴裁判所は2007年に彼女に不利となる判決を下し、リナ・ジョイのイスラム教からの改宗を、憲法の保証する宗教の「信仰を告白し実践する」権利によって保護されるものではなく、シャリーア法廷が決定する宗教上の問題と見なした。連邦裁判所の大多数が背教行為をイスラム法に関する問題と見なしたため、これはシャリーア法廷の司法権下にある問題とされた。リナ・ジョイ裁判の厳しい判決が裁判長によって明確に述べられ、多数派の意見として次のように記された。「何人も気まぐれに信仰を捨てたり入信したりする事はできない」。議論が分かれるもう一つの法的領域は、イスラム教に改宗した人とその非ムスリムの配偶者との間の親権と改宗をめぐる闘いである。このような事例が生じるのは、一方の親(大抵は父親)がイスラム教に改宗し、その後にもう一人の親の知らぬ間に子供たちを改宗させる場合である。ムスリムとなった父親は、そこでシャリーア法廷に離婚と親権を申請する。何が問題かというと、シャリーア法廷によって与えられた改宗や親権の命令に非ムスリムの母親が異議を唱える事ができなくなる事だ。非ムスリムはシャリーア法廷を利用する事ができないためである。 インディラ・ガンディの苦境はこの司法権に関するジレンマの好例である。彼女とその夫が民法の下で結婚した時、彼女らは共にヒンドゥ教徒だった。後にイスラム教に改宗した際、彼女の元夫は密かに彼らの三人の子供たちをシャリーア法廷でイスラム教に改宗させた。控訴裁判所はシャリーア法廷での子供たちの改宗を無効とする下級裁判所の判決を覆した。下級裁判所は、イスラム教への改宗が全くの宗教上の問題であり、シャリーア法廷のみが判決を下せる問題である事に疑念の余地は無いと宣言した。インディラ・ガンディの事案は、目下、連邦裁判所を控えて審議中であるが、この件もまた、マレーシアの一般裁判所と宗教裁判所の二重法制度を貫く司法権の断層線を示す好例である。 民事裁判所による第3条1項のイスラム的憲法条項の拡大的な解釈はまた、イスラム教の社会秩序内での地位も向上させた。民事裁判所の裁判官は、イスラム教の位置付けを憲法のその他の部分を評価するための解釈上のレンズであると是認したのである。 2009年に、内務省はカトリックのクアラルンプール司教区の名義大司教がマレー語のカトリック週刊会報紙『Herald』の中で「アッラー」の語の使用を禁じる命令を発令した。カトリック教会はこの省令に異議を唱え、これが教会の信仰を告白し実践する権利に反するものであると主張した。2013年に控訴裁判所は全会一致で政府の禁令を支持し、「アッラー」という語はキリスト教の信仰と実践に不可欠な要素ではないため教会の宗教的自由は侵害されていないとの判決を下した。裁判所によると、第3条1項の目的は「国教たるイスラム教の尊厳を守り、また、これが直面するあらゆる脅威や脅威の可能性からイスラム教を保護する事である」とされた。 現代マレーシアにおける憲法上の政治と宗教 宗教の位置付けをめぐる論争は、その後も現代マレーシアで大きな注目を浴びた。近年の政治的な出来事は、マレーシアの与党連合が国内のイスラム教保守主義の高まりによってもたらされた諸問題に取り組む事に乗り気ではない事を示すものだ。シャリーア法廷の量刑権限拡大の提言に関する議論が先延ばしになっている上、政府は、ムスリム改宗者と非ムスリムの配偶者の子供の改宗をめぐる対立の解決を目指す法案を2017年8月に取り下げた。この法案は両親の同意を得ずに子供を改宗させる事を禁止するはずのものであった 裁判所は、マレーシアの社会秩序内での宗教の位置付けをめぐる議論の利害関係の定義に極めて重要な役割を果たしている。多大な関心が政治や公共の領域での緊張に向けられてきたが、司法はこれらの対立の場として極めて重要であった。過去20年におよぶ法廷闘争が浮き彫りにしているものは、自らのアイデンティティの岐路に立った国家の宗教と世俗主義をめぐる問いの重要性である。憲法秩序の中のイスラム教の位置付けをめぐる論争は、現代マレーシアにおける憲法の精神を懸けた、深刻な、そして現在進行中の闘いを反映するものである。 Yvonne […]

Issue 23

ブルネイ・ダルサラームにおけるイスラム教の権威と国家

東南アジアに類例が無いほどに、ブルネイ・ダルサラームにおける政治のイスラム化は国家の独擅場となっている。ブルネイの宗教官僚制度は、イスラム教関連の公共通信に対する絶対的な独占を保持している。かつて、世俗主義やイスラム主義の何らかの組織的な反対勢力が、独立後の政府の宗教的態勢に公然と挑んだ事は無かった。イスラム的な政策決定は、国家の当事者間だけで、しかも秘密裏に行われる。イスラム教の非国家組織や独立した立場の宗教学者(ウラマー/ulama)、あるいは「規制されない」イスラム教関連の出版物は、公には存在しない。ブルネイ人のウラマーは当然のことながら公務員である。 1984年の独立宣言で、スルタン・ハサナル・ボルキア(Sultan Hassanal Bolkiah)が、ブルネイは「永遠に(スンニ派)イスラム教の教えに基づいた、主権、民主・独立のマレー・ムスリム王国となろう」と宣言した。彼はブルネイを「非世俗」国家と見なしている。「民主的」という観念には議論の余地がある。なぜなら、これまでにブルネイで総選挙が行われた事は無く、国会も組織的な野党も存在せず、スルタンの任命した内閣によって国が治められているためだ。彼は完全な行政権を有し、憲法上「何をしても正しく」(第84B条)、首相で、防衛大臣、財政大臣、外務通商大臣であり、警察と軍の司令官で、「国教(イスラム教)の長」(第三条(2))であり、「地上におけるアッラーの代理人」(ハリーファ/khalifah)で「信徒の指導者」(ウリルアムリ/ulil amri)であると考えられている。 立法評議会(Legislative Council)は、その前身が1983年に解散された後、2004年に再開された。これを「見せかけ」とする見方もある。これは概ね任命制という評議会の性質と権力の欠如に鑑みた見解である。他の者たちは、これを国民参加型の新たな政治風土に向けた限定付きの一歩と見なしている。数十年に及ぶ非常事態宣言を招いた1962年の短命な反乱以降、そのような風土が存在した事はなかった。国民は今や、年一回召集される立法評議会の議員に懸念事項を持ちかける事ができる。この評議会は政府予算の「承認」も行う。 ブルネイの公式な国是、「マレー主義に立つ、イスラム的王政」(Melayu Islam Beraja, MIB)は、政治上、最も重要なものである。それは、マレー民族(M)、イスラム教(I)、そして王政(B)を国家のアイデンティティの中核として特権的に扱うものだ。MIBが「作られた伝統」であるとの批判に対し、ブルネイ人の(MIB推進の義務を負う)学者たちは、この頭字語が作られたものである事を認めつつも、これが数世紀に及ぶ「ブルネイ文化」の本質を反映していると主張する(Mohd Zain 1996:45; Müller 2015:315)。 MIBは益々制度化されつつある。MIB概念委員会(MIB Concept Committee)がその仕事に着手したのは1986年で、これは後にMIB最高議会(MIB Supreme Council)に形を変えた。1990年には政府がブルネイ研究アカデミー(the Academy of Brunei Studies/APB)を設立し、これはMIB最高議会の事務局を置くブルネイ・ダルサラーム大学を拠点とした。APBはMIBの知識生産の原動力である。APBはMIBを三つの段階で普及している。すなわち、学校、大学、そして国民である。学校や大学でMIBの授業は必須科目であり、いかなる国民もMIBの単位履修を経ずに卒業する事はできない。報道機関は絶えずMIBに言及しており、公共イベントは、通常、MIBに適うものとなるように考案される。例えば、芸術や詩のコンテストはMIBの愛国的表現を模範としており、留学生たちは「MIBの価値観を守る」よう指示される良き市民にとってのMIBの重要性と公的表現の諸規範が社会に深く定着し、何であれ、MIBに対する個々の意見は「隠された記録(“hidden transcripts”)」(Scott 1990)に隠れたままとなっている。ところが、MIBの幹部でさえ、この頭字語をもじった日常的な冗談を交わしている。この概念に対するより真摯な問いはサイバー空間に生じているが(Müller 2010:157)、これは極めて稀な事である。 MIB・イスラム行政の法的、制度的手段 ブルネイのイスラム化政策の歴史は、イスラム教の教義および習慣の内容や、越えてはならない一線を定める際の、国家の独占性を強化する歴史である。組織的な「イスラム主義者の動員」は(この特別号のテーマであるが)、少なくとも、反抗的あるいは非国家的なコンテキストにおいては滅多に存在しない。だが、過去に、海外の民兵組織(例えばジェマ・イスラミア/Jamaah Islamiyah)や非暴力だが違法なムスリム集団(例えばマレーシアのアル・アルカム/al-Arqam)のメンバーを支持する人が逮捕された事はあった。もし「イスラム主義」の意味が、教育努力と並んで社会をトップ・ダウン式にイスラム化するべく、国家とその諸機関を利用する事を志向した政治的イデオロギーや社会計画であるとすれば、ブルネイ国家そのものが1980年以降熱心に「イスラム主義者」の動員に携わって来た事になる。 歴史的に見れば、イスラム教の影響を受けた法典は、慣習的規範と共に、植民地時代以前のブルネイに存在した。英国総督府時代(1906–1959。1888年以降は保護領だった)、植民地の役人たちはスルタンに宗教行政の「近代化」を提言した。これは、英国の国家形成や法律尊重主義的思考の認識を踏まえ、体系的な制度化と成文化を目指すものであった。この結果が1912年のイスラム法制定に始まる一連の法典や新機関の設立だった。この多様化にもかかわらずイスラム教の法的領域は家族法や身分関係法に限定されたが、宗教によって規定された犯罪の幾つかも処罰の対象であった。スルタンの権力は宗教的、慣習的な事柄に縮小されたが、彼らはこれらの領域を利用する事で自らの地位と象徴的権力を確立させた。ブルネイは1959年に内政をほぼ自治によって行うようになった。1959年憲法は国家の「イスラム的」、「マレー的」性質を強調したものである。この憲法は、個人の諸権利については、宗教的「平和と調和の…実践」(第3条)以外は触れていない。 植民地時代の宗教行政の基盤は、幾分逆説的ではあるが、解放的な植民地独立後のイスラム化政策に「制度的言語」をもたらした。これらには、新たなイスラム法や宗教官僚の影響力のさらなる拡大、そしてその職能分化が含まれていた。1990年には作業部会が現行法の見直しを始め、これを「イスラム教に準拠したもの」とした(Müller 2015:321)。この対象となったのが、二重体制の中でシャリーア法と併存する英国由来の諸法である。1991年と1992年にはアルコール飲料と豚肉の販売が禁止された。官僚たちは増々(特に国家ムフティ(Mufti/イスラム法官)によって)「真のイスラム」からの「逸脱」と見なされる事柄を非合法化する事に心を砕くようになり、バハーイー教の禁止を皮切りに(Müller 2015:328)、「逸脱した教義」のリストは増え続けた。非国家的なイスラム教の言説空間が確実に存在できないようにする事と平行し、官僚たちはムスリム・マレー文化からの「迷信的」要素(Müller 2015:327ff.)の浄化を志したのである。そのような、何らかの「逸脱」を定義し、これに異議を唱える事が、役所の重要な活動として、社会慈善活動や布教、モスクの建設および維持管理、金曜礼拝の説教の執筆や巡礼諸務などと並んでいる。有力機関としては、国家ムフティ省(the […]

Issue 22

国民の名において:タイにおけるヘルス・ガバナンスの魔術と謎

2014年の9月、近年の軍事クーデターの頭首であるプラユット(Prayuth)司令官は、政府のハイレベル会合において、彼が軍事支配の反対勢力による呪術攻撃の犠牲者であった事を公表した。地元紙の報道によると、彼は喉と首の痛みを「黒魔術」、sayasaatのせいにしたものの、会合の出席者たちは心配無用、彼の政権を呪った者達には呪いのお返しをしてあるのだという。 著者はタイの国家機関で、2011年から民族学のフィールドワークを行ってきたが、これらの機関の保険専門家達が示唆したところによると、メディアが取り上げるプラユット司令官の呪いと呪い返しは疑わしいものであり、政治における呪詛がタイのメディアで頻繁に取り沙汰されようとも、政治的領域内にsayasaatが実際に存在する場はないという事だ。だが、これは全ての呪術が一様に否定された事を意味するのではなかった。この機関の専門家の一人、キム(Kim)は、次のように述べた。「sayasaatとは、暴力や貪欲の事です。騙されやすい者(ngom-ngai)と無学な者だけが、これによって惑わされるのです」。だが、また同時に彼女は、本当に「超常的な力を備えた者たちも中にはいる」と打ち明けた。もう一つのバーラミー(barami)という言葉に言及し、キムは王族や神々、僧侶やブッダは皆、あらゆる知の源泉にある者たちの力、バーラミーの宝庫なのだと主張した。 タイ学の研究者たちは大抵、バーラミーを名声、カリスマ、あるいは宇宙的力と翻訳する(Gray 1986, Johnson 2013, Jory 2002,参照)が、キムは単にこれを英語で「偉大さ」と表現した。それは超人的な力であり、宇宙の法たるダルマ(dharma)に適った行為を行う者、あるいは、これを制定する者たちが備えた力である。上座部仏教の伝統では、相当な量のバーラミーを持ち合わせた国王は、人民のみならず、病気や降雨、農業生産にまで影響を及ぼすのであるが、これは彼から放たれた神授の力が、その周囲の存在へと降り注ぐためである(Gray 1986:236)。偉大さとはすなわち、人間たちの作った法律とダルマとの間を縫合する神聖王たちの能力を指すのである。彼らは政治的に考案された善と、絶対的な「天来の」善とを、正当な統治という世俗の為政権の下で結びつけるのだ。 ここでは、タイ政治における魔術的思考の局面に目を向ける事で、これをオカルト染みたものとして非難するのではなく、超越的真理の源に立脚したタイ国家機関の政治否定が、タイを越えた諸状況といかに関連しているかを示す事にする。 キムはしばしば、日常生活の中にいかに国王の偉大さが窺われるかという事を説明してくれた。彼女は西洋諸国、特にアメリカにおける進行した資本主義の破壊的影響を指摘しつつ、タイが比較的健闘している事を、国王が介在しているためであると主張した。 「我が王は、知足の観念を我々に与えて下さった。陛下の足るを知るという哲学は、西洋人の尻を追う事を(tam kon farang)やめるよう教えて下さった。それは私たちに、自らの仏教的伝統を敬う事、そして、新しいiPhoneを欲しがる事、都会の人々の暮らしを、隣人の持ち物を欲しがる事が、苦しみしかもたらさぬ事を覚えておくよう教えています。彼は西洋社会を侵す社会悪の苦しみから我々を救って下さったのです。ファランたち(Farangs)は、物事を経済的な合理性の観点からしか考えておらず、何が道徳や自然、精神的な理に適うかという事は気にかけていないのです」と彼女は言った。 西洋人の事をファランと呼ぶキムが繰り返す、王政主義者に共通の見解は、しばしば単に「父」と呼ばれるプミポン国王が、国内外の諸勢力と闘い、この国を破壊的な資本主義の行き過ぎから遠ざけるべく、マインドフルな消費主義の価値観を教えてくれたというものだ。彼女が誇らしげに支持したタイ保健当局高官達の主張は、国王の「足るを知る経済哲学(Sufficiency Economy Philosophy:SEP)」を、WHOの健康志向ガバナンスのモデルに着想を与えたオリジナル概念と位置付けるものだ。 WHOのヘルス・ガバナンスの認識が、同概念に対するタイ人の認識の仏教的枠組みから袂を分かつ一方、両者はいずれも、経済的・政治的利益を、根本的には環境や生物学上のプロセスによって制限されるものとして考え直すことを促している。この二つのモデルは、経済的・政治的権力をめぐる国際競争にけん引される諸政府が、幸福や福利に立ちはだかる諸状況に、遅かれ早かれ、答えを出さねばならぬ事を論じている。両者が提示する「正しい」ガバナンスの形は、政策決定のプロセスにおいて、自然や生物学上の結果をも考慮する事のできるテクノクラートたちを中心としたものである。 実に、WHOの言う「健全な政策(healthy policy)」を策定するというSEPとWHOの観念の類似性は、先の2006年のタイにおけるクーデターの礎となっていた。当時のタイ暫定軍事政権の首相、スラユット・チュラーノン(Surayud Chulanot)は、キムのような保健専門家たちをその政治改革の最前線、あるいは中心に配し、WHOのヘルス・ガバナンス構想を国王のSEPと共に新憲法の中に記すまでとなった。 キムの機関のような国家機関の台頭は、スラユット軍事政府が導入した、いわゆる「モラル転換(moral turn)」に伴って生じたものである。選出され、自身を国家のCEOと称したタクシン・チナワット首相に対し、スラユット暫定軍事政権は、環境や社会、健康に対するタクシン統治の負の成果を強調し、これを利益第一の統治が人間の貪欲のあるべき限界を踏み超えた証とした。国王の承認を以て、自らを国家の健康の守護者に任じた後、暫定軍事政権はクーデターをこの貪欲に対する「必要悪」として正当化した。彼らは、タクシンが経済を優先させ、物事の本質や真理であるダルマを無視したために、宇宙の法や秩序の礎となるこの真理に対する彼の無知のために、国家を環境悪化や病気、社会的不和から守る事ができなかったと論じている。 国家保健当局のもう一人の専門家であるトム(Tom)は、スラユットの見解の支持と、2011年に国が民政回帰した後のタイ民主主義に対する疑念を表明した。彼は「タイはまだ準備ができていない」と言い、民主主義は西洋では機能しても、タイの現状においては幻想でしかなかったと述べた。トムによると、民衆は「知」を欠き、利己的な政治家達が人々を騙し、自分たちに投票させる事に無防備なのであった。唯一「真っ当な人々」、ここでは知を備えた人と解釈される健全な人々、宇宙の法に適う「真っ当で」、健全な結果を導く決断を下せる人々だけが、タイ国家の自信を回復させられるのだ。「真っ当な人々」とは、つまり、彼らのような保健専門家たちの事である。 WHOが「権能や権限がもはや政府内に集中する事のない知識社会」を標榜したことを受け(Kickbusch and Gleicher 2012: vi)、ここに紹介したトムやキムのような国家の保健職員達は、政治的利益の獲得に直接関与せぬ者達だけが、公益のための政策作りを行うことができると主張している。国王のSEPとWHOのヘルス・ガバナンスの両概念が、保健専門家達に自らが中立的で客観的な個人であり、国民の名において介入する能力を持つ者との幻想を抱かせているのだ。 ここで、我々が手にしている、初めはテクノクラシーの典型的なモデルとも思えたポスト政治的な環境は、ふさわしい政治空間を、健康測定基準や健康管理に置きかえるものである。だが、冒頭で示唆したように、キムの統治概念にはもう一つの側面、バーラミーの神秘的な力に依存した側面が存在する。バーラミーは専門知識とは違って、習得したり、学習したりする事のできぬものである。それは特定の人々が生まれつき備えたダルマを定める能力の事である。いわば、専門家達とは、バーラミーを識別できると主張する者達、あるいは、バーラミーによって識別された者達という事になる。すなわち、これらの専門家達によって想定されたテクノクラシーとは、それぞれの様々なレベルの専門家たちが、前国王の宇宙的な力と交信するというものであり、その国王自身は、最高位の専門家の頭首と位置づけられる。教養あるタイ人たちとって、彼らの知識とバーラミーとの最も顕著な結びつきの縮図は、彼らの壁にかけられた写真である。 国王が全ての高等学位の授与を行っていた事から(この任務は後に王族メンバーに委譲された)、学位授与式は、専門分野課程の修了証明と、関係者達から非常に由々しく受け止められる各学位取得者への王命授与という、二重の機能を果たしている。この写真の中に永劫に記録されているのは、手を伸ばし、高座の人物から学位を受ける彼ら自身の姿である。この臣下と高壇上の君主との間に興味深い絆が生じる。卒業証書が両者をつなぐこの瞬間、知識を求める者と真理の源にある者との隔たりを縫合する絆が生じるのだ。 バーラミーの神秘的な力が、政治をタイに適応させるメカニズムの潤滑剤となっている点について、ポスト政治思想家たちに倣い(cf. Badiou 2008; Rancière […]

Issue 22

土地と王権:国王崇拝、精霊信仰と地理的身体

メコン川の河岸で、焼き豚をつまみながら、カイ(Kai)と私はナーガ(phaya nak…神話上の水龍)や、その他の守護精霊の話をしていた。夕食に同席していた数人が、おかわりの肉をよそおうと席を立つと、カイは熱を発するバーベキューの焼き網越しにこちらへ身を乗り出してきた。「一つ、(タイの)(プーミポン・アドゥンヤデート)国王が一度も訪れたことのない県があります。それがどこだか、なぜ彼がそこに一度も行った事がないのか、当ててみてください」。 私は一瞬考えた。彼女が何を言わんとしているのか、なぜまた急にそのような事を言い出したのか、不思議に思った。反体制的な南部諸県の事を言っているのだろうか?そこでの長期にわたる反乱や、反感を抱いたムスリムの多数派が、国王の訪問を危険にしているというのだろうか?あるいは、東北の国境県での1970年代の共産党の反乱が、国王の訪問を取りやめさせたのであろうか?だがそもそも、なぜナーガについて話していた時に、国王の話を持ち出してきたのだろう?「ヤラー(Yala)」、と私はあてずっぽうに一つの南部の県名を挙げた。 カイは微笑んだ。「ムックダーハーン(Mukdahan)」と彼女は言った。メコン川沿いの近隣県である。「彼は訪問できないのです。守護精霊がそれを許さないからです。精霊は、ただ一人の君主(chao)のみが、ムックダーハーンに存在できると言い、その他のどのような王であれ、その地に立ち入る事を禁じているのです。」 カイがここで言っているのは、Mungmeuang王という、ムックダーハーンの街(ひいては県)の守護精霊の事である。ここでは、Mungmeuangの称号の「chao fa」を「王」と訳しておくが、これはシャンやラーンナーの歴史上の指導者達によくみられる称号で、「王子」と訳される事もある。彼がその一部を成すこの県の守護精霊信仰には、高貴なニ姉妹(the Two Noble Sisters /chao mae song nang)も含まれ、メコン地域全域の中心都市には、これと同様の存在がある(このような守護精霊信仰について、より詳しくはHolt 2009, Rhum 1994, Tambiah 1975を参照)。 私はカイの「ただ一人の君主のみが存在できる」という発言に興味をそそられた。これは東北部のタイ王権に対する挑戦とも受け取れるが、ここではこれがそれ以外の事、すなわち、王と精霊の権限の捉え方の違いを示すものである事を論じる。カイの精霊信仰とタイ王室との関連付けを見てみれば、タイにおける王権が、王位にまつわる民間の宗教的実践の延長として、また政治的支配の一体制として見られている事に間違いはないだろう(cf. McCargo 2005)。私の主張は、守護精霊の崇拝が、君主主義の実践に影響を及ぼし、またこれが転じて、王室崇拝の新たな形が地域の精霊崇拝に影響を与えているという事だ。この議論はこの場で論じ尽くせるものではないが、ここで(当時の)現国王プミポンと守護精霊Mungmeuangとの対立による例を一つ挙げておこう。 どの程度の神話が、あるいは、どの程度の現実的政治が、タイの君主制度を動かしているのかという事は、長年、どっちつかずの議論となっている(McCargo 2005, Jackson 2010, Gray 1986)。カイの発言は決然と前者に落ち着くものであり、彼女が王室の権威をchaoであると難詰するのも、全く同じ理論による。タイの国王崇拝がラーマ9世を菩薩と掲げる(Gray 1992:452)のに対し、カイは国王を別の形で、アニミストの君主として示し、その権限を全宇宙には及ばぬものの、地理的境界で定められた領域には及ぶとした。 私とカイが論じていた意味での、chaoとは、秘められた力を示す言葉である。もし、私がある特定の物のchaoであると言うなら、それはその物が私の意思に従うという意味であり、それは私が車(chao khong rot)や、政体(chao meuang-守護精霊)、あるいは天のもの(chao fa-王子)と言おうが同じである。それは一度に超自然的な神々やブッダ、国王、あるいは、より日常的には所有権を示す言葉である。すなわちchaoは、主権を明確に述べるものなのだ。配下の人間や物の所有を通じ、彼らはそれを繁栄と幸運に導き、確実に行動や存在を発展させる(charoen)(Johnson 2014参照)。 この発展の呪法は、長らく東南アジア諸国の国家儀礼の一部となってきた。結局のところ、ここは「劇場国家」の地(Geertz […]

Issue 22

クリスマスの服喪:プミポン亡き後のタイにおけるカトリック信仰

バンコク中心街のHoly Mercy教区における先日のクリスマスは、タイ・カトリック教徒達がかつて祝った、どのクリスマスにも似つかぬものであった。至る所に出ていた沢山のクリスマス飾りの代わりに教会を覆っていたのは、厳粛な白黒弔旗であった。通常なら、人目に付く教会の正面玄関に飾られ、燦々たる喜びの象徴となるクリスマスツリーは、ひっそりとした庭の片隅に押しやられ、外から見える様子もなかった。クリスマスイブには黒装束の人々が、伝統的な真夜中のミサへ無言でやって来て、妙に用心深い様子で喜びと悲しみの間をとったような表情をしていた。それは喪中のクリスマスなのであった。 人々に敬愛されたタイのプミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ九世)が、2016年10月13日に亡くなった事は、この教会の敬虔で、ほとんどが王党派である都市中産階級のタイ華人(Sino-Thai)会員達をショック状態と悲しみ、困惑に陥れた。これはあまりにも甚だしく、多くの者達はキリスト生誕祭を宗教として、神格化された国王の死のための国家的集団服喪に優先させるべきなのかどうかという深刻な疑念を抱く事となった。ポール(Paul)神父という米国人宣教師の教区長にとり、これは極めてデリケートな問題であった。神父に言わせてみれば、プミポン国王は全宗教の慈悲深き擁護者であり、また一立憲君主に「過ぎなかった」のである。彼の名がタイ・カトリック典礼中に、現地文化の「世俗的」要素(watthanatham Thai)として含められているのは、他の国々におけるカトリックのミサの際に、祈りの中で国家元首らへの言及が行われるのと同じ事である。だが、このHoly Mercyの敬虔な信者達にしてみれば、国王は単なるタイの傑出した象徴をはるかに上回る存在なのであった。ほとんどのタイ人達と同じように、バンコクのカトリック教徒達までもが、ラーマ九世をほぼ宗教的ともいえる程に崇拝していたのだ。陛下は長らく、それとなく、あるいは目に見える形で、国家の父(pho)として、(転輪聖王、ダルマラージャ、あるいは菩薩のいずれかの)ダルマ(Dharma:仏法)の最高の権化として、あるいはヒンドゥ教のヴィシュヌ神(デーヴァラージャ)の化身として、また東南アジアのインド仏教王権の前近代における諸概念の現代的重要性を鑑みて(Tambiah, 1976)、宇宙論上、天と地を結び、階層的に構成された社会・道徳的宇宙の頂点から、その王国を正しい方向に導く(Jackson, 2010の例を参照)仏教王として示されて来たのである。Holy Mercyのタイ・カトリック教徒達にしてみれば、プミポン国王は実際、この地ではほとんど無名に近いローマ司祭のフランシスコ法王をも凌ぐ尊敬を集めた精神的指導者なのであった。 バンコクで知り合いになったカトリック教徒たちの中には、自宅に祭壇を設ける者たちもいたが、彼らはそこでイエスや聖人たちの聖像と一緒に、他にも多くのタイ民間信仰のインド仏教パンテオンに属する存在を拝んでいたのである(Pattana, 2005の例を参照)。それらはすなわち、中国やインドの神々、仏教僧侶、タイ国王、中でもプミポン(ラーマ九世)とチュラーロンコーン(ラーマ五世)などであった。教会から離れた場所の常として、多くの者達が十字架や聖像画、聖像を仏教徒のお守りさながらの呪力ある魔除けとして商っていた。この習慣は、カトリックの品々やシンボルまでもが、混交的で分散的な超自然信仰のアマルガムに、経済に、あるいは数名の学者たちが「自由市場化された宗教性」、あるいは「商品化された宗教」と呼ぶものに似た表象の中に吸収されてしまった事を示している(Jackson, 1999; Suwanna, 1994; Pattana, 2005)。より重要な事に、著者はしばしば、タイ・カトリック教徒達がイエス・キリストとラーマ九世を、神聖な道徳規範(khunatham)や犠牲(siasala)、カリスマ的な力(bun-barami)の等しきシンボルと紹介しているのを耳にした。 ポール神父は、タイの西洋人宣教師たちの大多数と同じように、この仏教王が彼の教区民の心の中で神聖な存在であった事を承知していた。だが、彼がカトリックの正統主義から偶像崇拝と捉えられかねない信仰や実践に対し、見て見ぬふりをしていたのは、キリスト教の神とタイ王室との「宇宙論的争い」を助長させる事を避けるためであった。彼が理解していた事は、そのような無用の争いが困難な闘いであり、これがタイ教会にただでさえ少数極まりない信者を失わせる原因ともなりかねず、また、配慮の足りぬ神父たちがタイの不敬罪法という危険な綱を渡る事となるやもしれず、用心せねば、その法は世界でもっとも厳しいものの一つとしてそのように命じる。 国王が亡くなる以前は、教会の壁を越えた(あるいはこの米国人神父の「軽い」監視の届かぬ)ところで、タイ・カトリック教徒たちは王室を神聖化し、異端的な「現地化した」カトリックを実践していたのである。しかし、ラーマ九世の死によって引き起こされた集合的な感情反応により、国王の(文化的というよりもむしろ)宗教的な重要性が、タイ・カトリック教徒たちの礼拝体験の中に浮かび上がった。そのような事から、ポール神父はタイ・カトリックの神学的、政治的な曖昧さとの対峙を、よりにもよってクリスマスというカトリック典礼の暦上、一つの最も重要な日に迫られる事となったのだ。 国王の肖像と教会の聖櫃 ラーマ九世が亡くなった後、軍事政府は一年間の公式服喪期間を宣言したが、この間、市民たちには黒服の着用が、娯楽場には閉鎖、あるいは少なくとも、電気や音楽を消す、扉を閉じる等の自粛が求められた。この宣言は、皆が敬虔な気持ちと悲しみを感じ、国王の死を悼むべき事を命じたものであった。既に計画されていた幾つかの祭りが中止となった。クリスマスが祝われるかどうかは判然とせず、タイ・カトリック司教協議会(the Catholic Bishops’ Conference of Thailand:CBFC)によって発表された公式声明が、ついにカトリック教徒たちにクリスマスを祝うよう、ただしこの時節のタイ人の心情を慮り、慎重に節度をもって祝うよう呼びかけたのである。この声明はまた、神父達に追悼の祈りを伝統的なクリスマス典礼に盛り込む方法を指示するものでもあった。政治的に公正な口調で、原則としては暫定軍事政権の指示である「よろしい、ただし、度を越さぬよう!」をそのまま繰り返すようにとの事だ。換言すると、喜びは悲しみの中に収めよという事である。 Holy Mercy教会でのクリスマス前の月を特徴づけたものは、宇宙論、典礼、そして政治にまつわる駆け引きであり、これはイエスの誕生とプミポン国王の死の融合を首尾一貫したものとするためのものであった。ポール神父は牧師審議会を開き、タイ人教区民たちに、クリスマスの祝祭をどのように企画するのが最適であるかという事について助言を求めた。活発な議論の間、この米国人宣教師はやや困惑しながらも、彼の教区民たちの緊急要請に応じなければならなかった。それはクリスマスの典礼中に、亡くなった国王のための適切な祭祀の場を設けて欲しいという要請であった。神父は国王の巨大なモノクロ写真を教会の外壁に飾る事、最もカラフルなクリスマス飾りを見えないところへ片付ける事、そして、説教の中で国王の追悼を行う事に同意した。だが、彼が神経質な様子で反対したのは、金色の光で神秘的に照らされた若きラーマ九世の肖像を、聖櫃の前の教会の祭壇上に置くという事であった。カトリック教徒にとり、最も神聖な空間である聖櫃は、固定され、鍵のかかった戸棚であり、その中には聖体が収められ、これがキリストと神の臨在の場であると信じられている。 人類学者として、Pattana Kitiarsaは以下の所見を述べた。「祭壇は、その象徴的、物理的な意味において、多様な背景や起源の神々を統合する。祭壇とは神聖な場であり、民間信仰の宗教的混交が、実際に具体的で集合的な形を帯びる場なのである」(Pattana, 2005:484)。祭壇は、物理的・霊的宇宙の正確な宇宙論の構造を反映している。それは神聖な境界を示し、儀礼行為に特別な様式を要求する。宗教的な聖像画や、神像、その他の礼拝対象は、都市部の精霊神殿や仏教寺院の諸堂の祭壇上に、序列通りに配置されている。ブッダは、ダルマラージャである国王の深い帰依を受け、通常はこのような序列の最高位を占めており、この二人の人物がタイ宇宙論の中で至高の神々と認識されている理由は、仏教と王室の両方が現代タイのエスノナショナリズムの最も肝心な側面であるためだ。祭壇上の礼拝物の位置はこのように、宇宙論と政治の両側面を反映しているのである。 キリスト教の聖書正典の宇宙論において、神は宇宙の創造者であったが、この事は彼の子、キリストの到来によって永久に変えられる事となった。カトリックのミサ典礼における神の子との邂逅は、キリストの血と肉という聖体エレメントによって象徴され、これらは聖櫃の中にパンとワイン(祝福された聖餐)の形で収められている。祭壇と聖櫃はそのような事から、カトリックのミサの間に儀式が集中する最も重要な中枢を成すものである。このような理由から、ポール神父は国王の肖像画を聖櫃の前に置く事を拒んだのであった。彼は後に私に次のように語った。「一線を越えるところでした。我々は国王を神の前にすら置けないのですからね!」。だが、彼の教区民たちのこの要求は、宇宙論と政治の両レベルにおいて、極めて啓発的なものであった。この肖像画は最終的には祭壇の裏に滑り込む事となったが、神父の決断がイエスの誕生をプミポン国王の死から解き放つ事は不可能であった。Holy Mercy教会の典礼計画における国王の肖像画の置き場をめぐるこの論争は、単なる一事例の詳細にとどまらず、ラーマ九世の死の結果、タイ・カトリックの一部の内に生じた神学的、政治的葛藤の極めて有意義な事例でもあるのだ。 カトリックのタイ化 タイ・カトリックの宇宙論、典礼、宗教性における国王の神聖な地位と、歴史的に関連付けられるものは、カトリック教会がタイでその存在を正当化するために展開してきた「世俗的」経済・政治の戦略である。実のところ、仏教徒が主体となる状況の中で、カトリック教会は非常に小規模な宗教団体に相当する。だが、世俗的アクターとしての教会は、王政支持の準資本主義機関であり、教会が経営する一流病院や私立校に通うのは、上流中産階級である都市部の仏教徒である。子供の頃はプミポン国王でさえ、タイの政界エリートのメンバーの大多数と同じ様に、Ursuline Sistersの経営するバンコクのカトリック校、Mater Dei校に通っていた。 […]

Issue 22

タイのコスモポリタンな領域における上等で清潔な服喪

2016年9月22日から26日の間、ある展示会がバンコクの繁華街のパラゴン・デパートとディスカバリー・センターの間にある商業スペースの小区画で開催された。その展示の目玉はロイヤル・プロジェクトの商品で、この開発プロジェクトはプミポン国王によって、その70年間の御代を通じて推進されたものであった。大きな白いテントの中は可動式の空調で冷やされ、袋を抱えた買い物客らが、茸ソテーのグリルドチーズ、ラズベリーケチャップ添え等のごちそうを味わいつつ、豪勢な空間を見物できるようになっていた。再現された山荘は、みずみずしく植えられた花々や木製のテーブル、田舎の家屋を模した建物を完備し、世俗的快楽を求める買い物客を迎えていた。前国王の大きな4枚の写真が天井から吊られていたが、あまりにも至るところにあったため、これと言って目立つ様子もなかった。 それらは最も精悍な頃のプミポンを描いたものであった。それらの写真の中で、プミポンは簡素な平服、あるいは軍服をまとい、一人で、あるいは女王か娘と並び、周囲には常に大勢の群衆が平伏していた。これらが撮影された頃のロイヤル・プロジェクトは、王室に広まった小規模な開発計画であった。それらの主な拠点となったタイ山岳民族のコミュニティのある地域は、大抵が共産主義の反政府活動に取り囲まれた地域であった。またこれらの計画は、しばしば国王直々の訪問を伴うものであった。一つのレベルにおいて、このような王国の辺境訪問は、開発の約束と相まり、プミポンを国家の建設者、冷戦主義者として示すものであった。この対極にありながら、これに匹敵する存在として、彼と同時代に地球の裏側にいたフィデル・カストロの例が挙げられる。また別のレベルにおいては、これらは世界の、またひいては宇宙の刹那と自己とを呼応させる事ができた完璧な仏教王を連想させた。 では、これらのイメージが現代の都会の消費者たちと何の関係があるのだろう? 適時性 良いプロパガンダは、時宜を得たものでなくてはならない。かつてJacques Ellul (1973, 43)が明らかにしたように、プロパガンダは現在を形作る「基本潮流」との和(ラポール)を突くものでなければならず、また「移ろいやすい臨場性」と結び着く事によってのみ扇動的となる。基本的事実が速やかに歴史や中立、無関心の領域に移行するような世界の中で、プロパガンダが語るべきは「神話と、定められた時間と場所の前提」のみなのだ。 冷戦期を通じて、二つの極めて重要な要素がタイに歴史的臨場感を生んだ。それらは共産主義の脅威とアメリカ指向の開発主義である。当時のプミポンの地方訪問は、この両者に物申すものであった。それらは想定された反政府活動の脅威を浮き彫りにしただけでなく、当時進行しつつあった資本主義の急速な拡大に対する懸念も和らげたのである。 重要な事は、これが単独的な覇権主義のプロジェクトではなかった事だ。それは多角的なものであり、目覚ましい献身行為を王家の図像の様々なレベルでの利用権によって報いるという、一連の複雑な相互関係を通じて運営されていた。当面の間、この最大の恩恵はアメリカ人にあった。彼らのプロパガンダ作戦におけるタイ王政支持は、王家のイメージ保護に役立ち、これによって共産主義を打倒せんとするものであった。タイを訪問するアメリカ人の大多数にとって、彼らの戦争を行うために尽力した国王への忠誠は至極当然なものであった。さらに、西洋の白人に対する深い懐疑のわだかまっていた地域では、アメリカ人に特権的地位が与えられた事が、タイ的秩序を志向する義務感を植え付け、これが大いに文化統治の「伝統的」形式の尊重へと注がれたのである。このポストコロニアル的な道徳秩序は、タイのアメリカ主導の資本主義への急速な統合を支える上で役に立った。 冷戦主義者プミポンは、久しくその精彩を失っている。だが、新たに生じる動向を読み取る事に長けた王室は、その相互関係が新たな社会的、政治的現実を反映するよう、これを作り替えた。冷戦期のアメリカ人たちと同様に、タイの日常生活における王室の重要性を進んで主張してきた者達には、その報いに国王の道徳的権威と認められるものの一定の利用権が与えられてきた。代わりに、この事がタイ王権の拠り所となる既存の宇宙論に、変わり続ける世界の中で新たな効力を吹き込む事を助けてきたのである。 清新、清潔で健康的 今日の時代思潮は清潔さである。清潔な食事とスローフードは、バンコクの最もクールな場を席巻している。身体の毒素排出と現代生活の不安を和らげる事を約束した清潔な食事は、かつて、石鹸や衛生学によって規定された差異の、古い植民地時代の比喩(トロープ)を複製している。Anne Mcclintock (1995, 226)が、イギリスのインペリアルレザー(the British imperial lather)との関連で述べたように、「清めの儀式は、身体を意味の土壌として整え、自己と社会にまたがる価値の流れを秩序付け、一つの社会と別の社会との境界を定めるのである」。 「清潔な」(sa-ad)一皿の食事の値段が一般人の購買能力をはるかに超えているタイでは、世界的な流行である「スロー」、「オーガニック」、「クラフト」は、身体的な差異と純粋性を得る新たな手段を、数々の魅惑的な食料品によって提供している。またこれは新たな空間も生み出し、それらの清浄かつ清新な場は、一部の流行に敏感でコスモポリタンな顧客たちを楽しませんとするものである。アーリヤ・オーガニック・プレイス(Ariya Organic Place :Ariyaはパーリー語で純粋、貴重、あるいは高貴を意味する)などの名前がついたレストランは、したがって、海外の最新の手法を用いて都会人の身体に滋養を与える事を謳ってはいるが、国内のタイ仏教の世界観と結びついた、より長い歴史を踏まえたものでもあるのだ。 同じ事はパラゴン横の展示会についても言え、その宣伝用資材は「高原風にするべく木で飾られ」ながらも、「都市住民や新世代の需要と流行りのライフスタイルに応じる」「現代的なファーマーズマーケット」を基調としたものであった。すなわちそれは、世界的な通用性と文化的特性との融合であり、有名シェフの魅惑的な新レシピが、田舎風の小粋にタイ風のひねりを利かせ、高額な値札と共に供されたというわけだ。 ここで、前時代に撮影されたプミポン国王の不鮮明な肖像が、現代の新奇のスペクタクルの中で、極めて重要な要素を成していた。彼の肉体が今生の終わりに近づくにつれ、これらの肖像からは、冷戦の背景が取り去られる事となった。今、若かりし頃の国王の御霊が据えられているのは、清められた(borisut)文化的世界の中心であり、小規模ながらも活気に満ちた、贅沢な消費行為を通じた多様な参入の機会が横溢する場である。 ロイヤル・イメージの買収 九代目の御代を通じ、富と購買能力は、かつての外国人たちが王室との相互関係を築くための基本的手段となってきた。Christine Gray (1991)は、冷戦の真っただ中に、タイ華人の資本主義者たちが王家の慈善事業やイニシアティブに貢献する事で、いかに王家の威徳を「手にする」事ができたかを述べている。彼女はまた、タイ華人が所有するバンコク銀行が、1967年にロイヤル・ガルーダ紋章の使用権を認められ、その商標を王家と関連付ける手立とした手法も明らかにした。 一方、Kasian Tejapira (2003)は、1980年代後期からのタイにおける「急成長」時代に伴う急速な消費主義の拡大が、より均一な都会のアイデンティティ感覚を生み出す上で役立ったと主張した。増々、タイ人である事は、お金で手に入れられる事、あるいは、価値交換によって体験し得る事となっていった。一回の休暇、一着の服、一個の宝石、これらの全てをより魅力あるものとするには、それを「タイ的」な何かと関連付ければよいのであった。これとは別に、Somsak Jeamteerasakul (2013)は、この新たな消費文化の出現が、都会の消費者たちに王室勢力圏への進出を、より容易かつ魅力的なものとした事を主張する。単に王家お墨付きの、あるいはロイヤル・ブランドの商品を買う事は、より伝統的で儀礼化された献身の表明とは対照的であったが、国家への献身を示す明快な手段となったのである。 だが、時の経過と共に、これらの購入はまた、道徳的な複雑性から比較的自由であり続けるには、コスモポリタンな生活がプミポン国王の肖像を介したものである必要があるとの考えを裏付ける上で役に立った。1997年の危機で、タイの資本主義体制の根本的不平等が、かくも容赦無くさらけ出された後、王家の威徳はより一層貴重な商品となった。とりわけ2006年以降の時代、君主制への献身は、タクシン・チナワットに関連した様々な統治機関に反対であったタイの都会人たちを安堵させる事となった。すなわち、それは彼らに道徳的に高潔であり続けたという自信を与えたのである。 […]

Issue 21

タイにおける進歩なき殺人:殺し屋から制服組の男たちまで

タイにとって、政治的暗殺は珍しい事ではない。議会制度と選挙が復活した1970年代後期以来、タイ社会は国会議員や新興成金、地方の有力者や選挙運動人達に対する、プロの暗殺者による殺害がますます頻発するさま目撃してきた。これらの政治的殺害はインフォーマルな企業によるものであり、国や地方の選挙競争にからんで政治上、ビジネス上の競争者が、競争相手を討つべく暗殺者を雇うのである。これらの暗殺者たちは主にプロであり、元警備員やチンピラ、副業をしている警官や軍人である。暴力行為は選挙前後のいずれにも起き、有力な候補達が選挙運動期間の最中に、競争者によって暴力で脅されたり、誘拐されたり、殺害されたりした。誠実でない選挙運動人も、自らの上役たちに殺害されるし、成果を出した選挙運動人の方はライバル陣営によって抹殺されもした。ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)は、1980年代後期に政治的動機に基づく殺人が増々横行したことについて、これがタイにおける国会議員の高い「市場価値」を反映したもので、誰が権力を獲得するかを決める選挙の重要さを示すものであると論じている。候補者やその選挙運動人たちの殺害が横行していることは、すなわち、タイにおける議会制民主主義の「進歩」を示していたのである(Anderson 1990)。当然、この「進歩」には代償が伴う。 著者が調査したところ、選挙がらみの暴力行為に、殺し屋の関与が初めて報告されたのは、1976年の選挙であった。1976年11月16日のサムットソンクラームの元国会議員殺害によって、私的暴力の発生が告げられた。警察によると、この元国会議員の死は、競争相手との選挙運動中の政治的対立に由来するものである。選挙から数か月後に、殺し屋の一団が、彼を至近距離で重火器を使って射殺した。警察は二週間後に、犯人の一人を逮捕し、かれらの自白によると、彼はこの仕事の請負で3万バーツを受け取り、仲間は3人、そのリーダーは不正行為のために部隊から追放された勤務外の兵士であった。警察の捜査によると、これらの「殺し屋連中」は、その他の政治家の殺害も請け負っていた。 タイではどんな殺し屋も、支払う金を十分に持つ者のために働く。彼らは便利で、非情で、有能で、起業家精神に溢れ…真の意味でプロの事業者である。殺し屋の仕事は、1950年代のバンコク市街地での組織犯罪や裏ビジネスの拡大と結びついている。殺し屋たちは、非合法の経済部門(ギャンブル、ドラッグ、売春)を保護するため、ライバルや厄介者、あるいは予想外の困難を抹消してきた(Suriyan 1989)。1970年代後期には、殺し屋を使った殺人が選挙競争に拡大し、これと結びつくようになった。増加する需要に伴い、この事業は途方もない利益をもたらすものとなり、多くの者達を引き寄せた。殺し屋市場が徐々に構築、確立され、競争力を持ち始めたのである。 殺し屋の仕事は、失業者や不良の若者、地域のチンピラ、農業従事者、未熟練労働者、タクシーやオートバイの運転手、便利屋、それにスポーツ選手など、幅広い層を引き寄せてきた。またこの仕事は、腐敗した警官や将校たちにも機会を提供している。国家のある部門は、殺し屋の仕事を容認して利益を得ている。たくさんのスタッフが殺し屋を副業とする中、そうした部門はその専門訓練を活用し、私利私欲のための強要を行う。顧客たちが「公式暴力の専門家」の仕事を好む理由は、彼らが最も穏当で、最も良く訓練されているだけでなく、刑事司法の手続きや機関についての内部情報を持っているためでもある。彼らの多くが保護を受ける、より高位の役人たちは、違法ビジネスに携わる、いわゆる「マフィア警官/将校」である。政府にしてみれば、この「制服姿の殺し屋たち」は、最も危険かつ、捉え難い存在である。最もスキャンダラスな事例は、「T」(あだ名)中佐で、彼は1980年代に残忍で腐敗した将校として有名になった。彼とその部下たちは、金をゆすり取り、借金を取り立て、禁制品を密輸した。1990年代に建設業が好況となると、彼は請負業者を保護し、悪徳土地開発業者による住民の強制退去に手を貸した。住民たちが抵抗すれば、暴力を行使して追い出し、その所有地を燃やしたのである。彼はついに、自ら殺し屋業を立ち上げ、業者と殺し屋の役割を同時に担った。彼の組は5、6人の下級政府職員から成り、請け負った事件は目立ったものばかりであった。彼の名を全国に広め、その残忍な長い経歴に終止符を打った仕事は、2001年のヤソートーン県知事暗殺であった。「T」中佐は、公務員から転身した数多くの(個人業の)殺し屋の一例に過ぎない。データによると、現役、非番の多くの政府の暴力専門家達が、今も暴力業に密接に携わっている。国家の治安部隊と暴力業との癒着には、非常に根深いものがある。 1980年代以降、選挙は権力を掌握、維持するための仕組みとして、あるいはタイにおける政治的変化に対処するための仕組みとして、ますます重要性を帯びてきた。1980年代と1990年代の数十年間には、「軍-官独裁体制」から議会制の政治制度へ、タイ政治の急激な構造変化が見られた。要するに、権力が官僚と軍部指導者の旧集団から、徐々に国家や地方のビジネス・エリートの新連合へと移行して行ったのだ。利益の調整と集約とが、官僚外勢力から発生し、政策決定の過程に一定の影響力を生み出したのである。同時に、この時期はいわゆる金権政治という、腐敗や無秩序な選挙運動につながる活動の起点でもあった。金権政治のマイナス面が広く認識されたことで、1990年代初頭の政治改革運動が形成され、これが金権政治の抑制と、親分肌の政治家の影響力低下を最終目標とする1997年憲法をもたらしたのである。新憲法発布以後は、観測筋は選挙がらみの暴力も含め、あらゆる種類の選挙上の不正行為が消滅、あるいは劇的に減少すると予測された。ところが、暴力や脅迫は依然として、候補者や政党が権力の獲得のために用いられたのである。 タイ政治の軌道と、政治的暗殺のパターンが劇的に変化したのは、2006年の軍事クーデター後の事であった。2006年以降、従来のエリートたちが、軍による干渉や司法積極主義、保守的社会運動を通じて議会や選挙制民主主義を弱めてしまった。選挙で選ばれなかったエリートの少数派が、政治制度に対する超憲法的権力を行使したのである。社会運動と軍部との間の暴力的な衝突が、タイ社会を袋小路へ、暴力の堂々めぐりへと導いたのだ。多くの評論家やクーデター支持者たちが、2006年のクーデターを、その無血性ゆえに称賛した。だが、政治的な出来事が展開して行くにつれ、このクーデターがその後にもたらした影響という点で、タイ史上、最も暴力的であった事が判明した。このクーデターが高い死傷者数をもたらした訳は、これが対立を激化させ、政治的な両極化を深め、治安部隊とデモ参加者、対立する抗議者グループ間の、広範囲にわたる対立を生み出したためである。クーデター以来、タイ社会が目撃した政治的現象に目を向ければ、様々な形の暴力が出現した事が分かるだろう。それは、好戦的な社会運動の増加(黄シャツ、赤シャツ両隊)、ギャングや殺し屋を利用した政治的対立、抗議における自警武装集団(運動と関連したもの、独自に活動するものの両者)の存在や関与、異なる運動に属する抗議者同士の暴力的衝突、政治化した軍部の復活と、その市民に対する暴力的弾圧、抗議者への対応での治安集団の選択的な武力行使、軍の狙撃者による抗議者の殺害、緊急命令の下での白昼堂々たる大衆運動指導者の暗殺、首都での政府庁舎やデモ現場を狙った爆撃、対立のあらゆる側面における広範囲な兵器の使用、などである。 2010年4-5月の軍事弾圧は、反独裁民主同盟(UDD)に率いられ、バンコク中心部の幾つかの地域を2010年の3月から5月にかけて占拠した赤シャツ隊デモを、政府が軍に命じて鎮圧させる際に起きたものであるが、これは政治的暴力の極致を示していた。デモ現場周辺における軍部と赤シャツ隊との対立は、2010年5月19日の暴力的弾圧によって、94人が殺害され、数千人が負傷する結果に終わった。2006年クーデター後の時代の暴力事件は、タイにおける新たな暴力のパターンを示している。軍は政治劇の主人公として復活を遂げ、この上なき暴力行為を犯し、死亡者数の相当な割合に対する責任を負う立場にある。2010年4-5月の弾圧は、タイ近代史上、最も暴力的な政治弾圧に相当し、その正式な死者数は、それより前の3度の政治危機、すなわち、1973年の学生主導の暴動、1976年の大虐殺と1992年の民主化要求デモの死者数を上回っている(People’s Information Center 2012)。2006年クーデター以降の国家的暴力の復活が、政治の前進に有害であるのは、これが民主主義の崩壊をもたらすものであるためだ。ベネディクト・アンダーソンの言葉を引用すれば、それは「進歩無き暴力」なのであった。 2006年クーデター後の暴力の根源は、1997年憲法以降に展開したポピュリスト・デモクラシーと大衆政治の時代における、従来のエリートたちの脆弱性とその権力の衰微にある。選挙で選ばれなかったエリートたちは、暴力に訴えることで、選挙で選ばれた政府を転覆させ、民主主義のプロセスを頓挫させ、再び自らの権力を確立させようとしたのだ。歴史は2014年に繰り返され、プラユット・チャンオチャ(Prayuth Chan-o-cha)司令官率いる軍事政府が、国家平和秩序評議会(NCPO: National Council for Peace and Order)の名の下、タクシン元首相の妹、インラック・シナワトラの選挙で選ばれた政府を転覆させるクーデターを仕掛けた後、2014年5月に政権に就いた。2014年のクーデターは、事実上、タイを圧政的な軍事独裁支配に引き戻し、その様子は官僚組織や軍部が王政の下で政治を牛耳った1950年代の独裁者、サリット・タナラット元帥(Marshall Sarit Thanarat)の政権さながらであった(Thak 1979)。圧政的な軍事支配の下で市民の自由は制限され、言論の自由は検閲を受け、批判は罰せられ、政治活動は禁止された。クーデター以降、軍司令官たちは自らを新たな支配層エリートとして確立させようと、自らの地位や権限、予算や人的資源の強化を行った。彼らはまた、自らの優位を維持するべく憲法を策定し、多数者優位の民主主義を弱め、政党や市民社会の力を損ねたのである(Prajak 2016)。またしても、クーデターや暴力のはびこる、この不安定な王国では、制服を着て銃を持った男たちが表舞台へと戻ってきた。それに、彼等が兵舎へ引っ込む見込みは、当面ところ無い。 Prajak Kongkirati タマサート大学 政治学科 REFERENCES Anderson, Benedict (1990), “Murder and Progress […]

Issue 21

インドネシアはなぜ我々を殺すのか?パプアにおけるKNPB活動家たちの政治的殺害

インドネシアのレフォルマシ(改革)後、国際監視団の情報を受けた世界は、インドネシアが世界で3番目に大きな民主主義社会として生まれ変わったと考える傾向にある。この十把一絡げの認識が、重大な人権侵害の疑惑を有耶無耶にしてしまった。2001年の11月、パプア人指導者のテイス・ヒヨ・エルアイ(Theys Hiyo Elluay)が、インドネシア陸軍特殊部隊司令官とのジャヤプラにおける公式夕食会の後に誘拐された。数日後、彼の遺体がジャヤプラ近辺で発見された。当時のメガワティ大統領によって設立された捜査チームは、ジャヤプラに拠点を置く陸軍特殊部隊コパスス(Kopassus)が関与した証拠を発見し、4人の兵士が有罪宣告を受け、懲役3年及び、3年半の判決が下された。エルアイの運転手、アリストテレス・マソカ(Aristoteles Masoka)が依然として行方不明である一方、ハルトモ(Hartomo)司令官は、最近、軍の戦略情報局に昇進する事となった(BAIS)。 現場へ 2012年の6月には、パプア人の若き活動家、ムサ・マコ・タブニ(Musa Mako Tabuni)が、ジャヤプラの私服警官集団によって、同市付近で射殺された。彼はジャヤプラ警察病院に運ばれた時にはまだ生きていたが、数人の目撃者たちが認めた所では、警察が医師たちを妨害し、彼に適切な治療を施させず、彼は死ぬまで放置されたのだという(International Crisis Group 2010: 7; Koalisi Masyarakat Sipil untuk Penegakan Hukum dan HAM 2012)。だが、これまでに責任を問われた警官は、誰一人存在しない。警察の見解では、タブニはドイツ人旅行者にも怪我を負わせたジャヤプラでの発砲事件に関与していた。 それから程ない2014年のスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領のパプア訪問前夜には、Komite Nasional Papua Barat (KNPB/西パプア国家委員会)の若きパプア人指導者、マルティヌス・ヨハメ(Martinus Yohame)の遺体が、ソロン市沖合に浮かんでいる所が発見された。遺体は手足を縛られた状態で、米を包装するビニール袋に入れられ、彼を沈めておくための錘に重い石が付けられていた。その数日前に、彼は記者会見を開いて大統領訪問に対する拒否表明をしていた。KNPBは、インドネシア国家治安部隊がこの殺人に関与していたと見ている。この結果、インドネシア国家人権委員会(Komnas HAM: the Indonesian National Commission on Human Rights)は、警察による捜査の実施を強く主張した。だが、この捜査は、被害者の遺族らが検視解剖を拒否したため、Komnas […]

Issue 21

タイ チェンライ メーファールアン大学 法科大学院 講師

タイにおける地方分権化の最大の変化は、1997年に「人民憲章」として広く称賛された新憲法の可決と共に起きた。しかしそのときにも、この急激な変化が、この国に深刻な政治、あるいは利害上の対立をもたらすのではないか、という深い懸念があった。有権者たちの準備がまだ整っておらず、マフィアが地方選挙に当選するのではないかと危惧する者もあった。さらには、地方政治家やその家族を標的とした政治的暗殺も日刊新聞で報じられていた。こうして地方政治は「血なまぐさいもの」と考えられるようになった。 このような政治犯罪のニュースが新聞などで無数に報じられ、社会に恐怖感を生み出した。このような政治的暗殺は、全国で起きているものなのか、それとも、特定の地域に限定されたものなのか?このような事件は、正確には毎年何回起きているのか?その回数は地方分権化後に増加しているのか、減少しているのか?タイの地方政治は、本当に人々が思う(恐れる)ほど、危険なものなのであろうか? 全国調査が示すもの 2000年から2009年の間に、481件(100%)の地方政治家(行政職員、地方議会議員の両者、候補者および事務官を含む)の暗殺未遂、あるいは459件の訴訟があった。中には、同一事件内で一人以上の被害者が襲撃された事件もあった。この数の中で、死亡事件は362件(75.3%)である。実に悲しいことにこれは相当高い数字であるが、全国的な計画殺人事件(ほぼ4,700件)や、地方政治家の総数(地方政治家は約16万人)と比較すると、この数字は相当低いものである(1%未満)。 殺人未遂の被害者481人のうち、467人(97%)は男性であった。大部分の被害者が、41歳から59歳(54.1%)であった。最も一般的な殺害方法としては、狙撃(93.1%)、爆弾の設置(3.1%)、その他の手段(3.7%)である。 一つ明らかな事は、自治体長の立場が、最も暗殺のリスクが高いという事だ。記録を見ると、139人(ほぼ30%)の被害者がいる。これは自治体内で、長官が有する特に人材管理と予算配分に関する権能と権限のためであろう。また、より小規模な地方行政機関では、大規模ではなく、ただし数多くの政治的暴力が存在してきた。349人(72.6%)の被害者は、行政区自治体(SAO: Sub-district Administrative Organization)で働いていた者たちである。   興味深い事に、この種の暴力は全国で広く発生しているが、特にタイ南部(42.2%)やタイ中部(26.4%)には、幾つかの危機的地域が存在した。上記11県のうち、4県が「深南部」に位置するナラティワート、パタニー、ヤラー、ソンクラー(の幾つかの郡)であり、これらは非常に長い間、困難な状況を経験してきた(図2の濃赤色の地域を参照)。これに対して5つの県でだけは、殺人未遂の記録が存在しない。これら5県のうち、3県は東北地方に位置している(図2の白色点を参照)。 2000年から2009年の間の政治的暗殺の傾向は、予測が不可能で不規則であるという事だ。2003年(13.3%)と2005年(14.1%)には、この数字が高い。一方、2008年から2009年には、この数字がタイの全地域において徐々に減少する傾向にあった。 これらの数字を見ながら、全国レベルでの政治情勢も考慮するべきである。2003年の始めに、タイ政府は麻薬撲滅運動を発表した。多くの研究の指摘によると、この壊滅的な運動の結果、約2,500人の人々が殺害された。2004年初頭のナラティワートにおける、タイ陸軍武器庫の強制捜査の後、南部国境沿い3県の政治情勢は最悪であった。暴力事件(殺人、暗殺、爆弾の設置など)の数が増加し、政情不安を引き起こしたのである。この地域では、暴力事件の数が2004年から2005年の間に大幅に上昇した。 チャーンチャイ・シラパーアウチャイ(Charnchai Silapauaychai, นายแพทย์ชาญชัย ศิลปอวยชัย)の暗殺 2007年10月24日、プレー県自治体長のチャーンチャイ・シラパーアウチャイ(Charnchai Silapauaychai, นายแพทย์ชาญชัย ศิลปอวยชัย)博士(53歳)が射殺された。プレーは政治的暴力で知られる北部県の一つである。彼はタイの上北部全8県の県自治体長の中で、唯一暗殺された人物であった。 この殺人の前に、チャーンチャイ博士は彼の政敵、シラワン・プラッサチャクサツー(Siriwan Prassachaksattru)女史と反目していたという事だ。彼女は政治的影響力がある名の知れた家の跡取りで、プレーに昔からある政党の党首の一人であった。チャーンチャイ博士は、S氏(シラワン女史のいとこ)をプレー県自治体副長に指名しなかった。プレー県自治体議会の議長であるポンサワット・スパシリー氏(Pongsawat Supasiri, シラワン女史の弟)は、チャーンチャイ博士のプロジェクトの一つ、クルンタイ銀行(Krung Thai Bank)からの1億2千万融資計画を妨害した。 特筆に値する事は、チャーンチャイ博士が古参政党から寝返り、タイ愛国党(TRT: Thai Rak Thai /พรรคไทยรักไทย)を前身とする国民の力党(PPP: People Power Party/พรรคพลังประชาชน)への支持を表明していた事である。事実、彼は首尾よく議会の野党議員の全票を集め、自身の政治団体‘Hug […]

Issue 21

絶滅戦争:フィリピン、ミンダナオにおけるルマド族の殺害

2015年9月1日の明け方、ディアトゴン村シティオ・ハンアヤンの何百人もの男女や子供たちが、準軍事組織マガハット・バガ二(Magahat Bagani)の武装した男たちの一団によって眠りから覚まされた。その後、彼らは一か所に集められ、コミュニティの指導者であったディオネル・カンポス(Dionel Campos)とジョビロ・シンゾ(Juvello Sinzo)の残酷な処刑を目撃させられる。二人はいずれも頭に銃弾を撃ち込まれたのであった。学童や教師たちは、後にエメリト・サマカラ(Emerito Samarca)の遺体を発見する事になるが、それは内臓をえぐられ、喉を切り裂かれた遺体であった。彼がその事務局長として慕われていた、中等教育のためのオルタナティブ・スクールは、先住民マノボ族の子供たちのためのもので、農業と生計の発展のためのオルタナティブ・ラーニング・センター(Alternative Learning Center for Agricultural and Livelihood Development, Inc.)、ALCADEVと呼ばれ、このコミュニティ内に拠点がある。ちょうどこれと同じ日、ハンアヤンやその他の近隣コミュニティから、約3,000人の住民たちが、自らの家や農場を退去して、街の中心地、リアンガ町の体育館に押し掛けた(Interaksyon.com, 2015)。 これは痛ましい事件であったが、先住民の指導者やオルタナティブ・スクール、そしてコミュニティ全体に残忍な攻撃が仕掛けられた事は、今回が初めてではない。だが、この事件の特異性は、フィリピン南部ミンダナオ島での一事件の中に、特定の被害者層を狙った準軍事組織の暴力の組織性がいかに現れていたかという点にある。  強制退去の物語 前アキノ政権下(2010-2015)では、合計71人の先住民指導者が殺害されている。また、先住民の子供達のためのオルタナティブ・スクール87校に対する攻撃は95件も記録されている。コミュニティ全体で、4万人以上の先住民の人々が、その社会的、政治的、経済的生活を破壊され、無数の避難所へと逃れて来た。これは彼らが指導者達を殺害、あるいは投獄され、学校が襲撃されたためである。反乱対策を装い、これらのコミュニティに駐留し、恐怖の種をまき散らしているのが政府軍でないなら、その汚れた仕事を代行するのは政府の準軍事組織なのである(Manilakbayan, 2015)。 準軍事組織による恐怖と暴力の所業は、「ルマド」というミンダナオ先住民族を指す語を、フィリピンの人々に認識させ、2015年には#stoplumadkillings(ルマド殺しを止めろ)キャンペーンが、内外の人々の支持を幅広く集める事となった。彼らが開催した2015年の歴史的なManilakbayanの抗議隊は、指導者たちや学校、コミュニティへの攻撃を被ったミンダナオの様々な先住民コミュニティから、数百の先住民代表団が、その苦境を切実に伝えるために首都へやって来るものとなった。 これらの強制退去に共通の物語を分かち合い、様々な事例の記録を見てみると、先住民の指導者や学校、コミュニティに対する攻撃の組織的パターンの中に、一つの目的がある事が露わとなる。どうやらその目的は、先住民の指導者たちを殺害し、これらのオルタナティブ・スクールを中心としたコミュニティの連帯を弱め、最終的にはコミュニティを、彼らの家や農場から追い払う事を意図しているようだ。テロは意図的で、周到な準備によって、先住民コミュニティを先祖伝来の土地から強制退去させるために仕掛けられたものだ。ルマド族がその土地から追い出される事によって、誰が得をする事になるのだろうか。 絶滅戦争 フィリピン南部のこの島は、この国の大部分の先住民人口の故郷であり、全体ではフィリピンの総人口約1億人の中の15%を占めると推定される(Journal of Philippine Statistics, 2008: 92)。 世界中の他の先住民族(IP)と同様に、フィリピン先住民族もまた、国の最貧層に相当し、保健や教育、人権などの機会において理不尽なまでに苦しんでいる(UNDP, 2013:1)。国連などの多国籍機関には、世界中の先住民族を、歴史的で体系的な差別と排斥の犠牲者とする認識がある。政治的、経済的支配力を持つ多数派と共に発展した国家が背景となる場合、これは殊のほかあてはまり、またより深刻である。フィリピン国家の少数民族であるミンダナオのルマド族やモロ族などが住む地域の貧困は、最も深刻で厳しい(ADB, 2002: 33)。 だが、先住民族やその他の周縁化された集団に不利な制度の設定以上に、ルマド族のコミュニティに対する暴力的攻撃は、「組織的差別」という言葉の意味をはるかに上回る厄介な現実を示している。実際に起きている事は、ミンダナオ先住民族に対する、軍と準軍事組織によって仕掛けられた絶滅戦争なのである。これらの暴力と強制退去の物語は、「ルマド」という、自らを規定したアイデンティティを持つミンダナオ先住民の人々にとり、新しいものではない。事実、この言葉の所産は、ミンダナオ、あるいはフィリピン先住民族周縁化の歴史だけでなく、彼らをその土地から追い出し、そのアイデンティティや文化の抹消を試みた勢力に対する彼らの勇敢な抵抗をも示している。 「ルマド」は政治用語であり、これが最初に一般語彙に加わったのは、マルコスの独裁政権時代であった。当時、活動家たちはこの語を用いる事で、モロ族以外の先住民族で、国家主導の伐採や採鉱、農業プランテーションの拡大などの開発侵略が、先祖伝来の土地にまで及んだ被害者達を指した。1986年の6月26日、ミンダナオ先住民族18部族の中の15部族の集会が、この語を自ら規した集団的アイデンティティとして正式採用したのは、ルマド・ミンダナオ国民連合(Lumad Mindanao People’s […]

Issue 21

誰のための殺人か?フィリピンにおける超法規的殺人の事例

ロドリゴ・ドゥテルテが政権に就いた2016年6月以来、超法規的殺人は5千人以上の命を奪ってきた。超法規的殺人の標的やパターンは、彼の在職中とマルコス独裁政権時代とでは異なったものであろう。また、特筆すべき重要な事は、フィリピンの民主主義が比較的安定していた2001年から2010年の時代にも、フィリピンの日常生活の中では、多くの超法規的殺人が目撃されたという事である。 多数のジャーナリストや、選挙で選ばれた政府高官、農民団体の指導者たちが、日中であっても、バイクに乗った正体不明の者によって路上で射殺された。超法規的殺人を正確に数え上げる事は不可能であるが、その訳は、共産主義運動やイスラム解放運動と関連した武力衝突が、進行中の問題であるからだ。事件数はまちまちで、幾分控えめな集計によると、2001年から2010年の間に305件の超法規的殺人があり、その被害者は390人であった。一方、ヒューマン・ライツ・ウォッチ団体のカラパタン(Karapatan)では、これと同期間に1,000件以上を集計している。これらの事件の中で合計161件のみが提訴されている。最終的に処罰された犯人がごく少数であった事には、愕然とさせられる。 フィリピンにおける超法規的殺人 最高裁判所行政命令によると、超法規的殺人は、被害者の政治的属性、殺人の手段、殺人の遂行時における国家のエージェントの関与あるいは黙認によって定義される。 市民社会やフィリピン国民は、これを軍隊に対する国家の機能不全、あるいは不処罰の文化と解釈する事ができる。フィリピン国民や世界の市民社会は、これらの超法規的殺人の膨大な犠牲者の数に驚かされたが、フィリピン国軍がこの件にそれ程懸念を抱いているとは思われない。 事件の数が多いため、また、様々な人が標的とされたため、事件の原因を割り出す事は難しい。これに加え、さらに困難な事に、特定の非戦闘員である指導者たち、例えば農民の指導者や、コミュニティ開発を志向するNGOの職員、環境保護主義者たちが惨殺された理由を突き止める事である。これまで、ほとんど気にかけられて来なかった事は、彼らがなぜ、地域コミュニティの何者かにとって、あるいは国家の政治経済にとっての脅威になるのか、という事である。 地域指導者殺害の事例に則し、これらの地域指導者殺害の事例を、国際開発計画との関係の中で分析してみたい。国際開発は、これらの計画にまつわる論争の舞台を、さらに複雑化させる原因である。フィリピンにおいて、国際開発計画はしばしば、政治家と地域のエリートたちとの腐敗した関係によって汚されてきた。加えて、経済が優先の開発事業団はしばしば、被援助国が適切な実施プロセスを迅速に進めるよう圧力をかけ、コミュニティの地域住民に対する悪影響は顧みないものだ。 ホセ・ドトン(Jose Doton)事件 ホセ・ドトン氏は、バヤンムナ(Bayan Muna)のパンガシナン支部の元事務局長であり、ティマワ(TIMMAWA:Tignayan dagti Mannalon A Mangwayawaya Ti Agno:アグノ川の自由な流れを取り戻す小農民運動)の代表でもあったが、2006年5月16日に射殺された。62歳であった。目撃者の話では、その日の午前10時30分から10時45分頃に、一台のオートバイが、ドトンとその弟の乗ったオートバイの背後で速度を上げ、3発の銃声があった。その直後、ナンバープレート番号が無い、その赤いオートバイ(ヤマハXRM)が、ドトン兄弟のオートバイに追いつき、さらに二発の銃声があった。ホセとその弟が路上に転倒すると、男たちの一人で20歳から25歳ぐらいの者がオートバイから降り、ホセの頭を撃って逃げた。 殺害された日まで、彼はサンロケダムの反対闘争を指揮し、人々の生活と資源に対する巨大ダムの悪影響の問題を提起していた。サンロケダムの建設が、彼の町の660世帯を強制退去させたのである。ベンゲット州イトゴンでは、約2万人の先住民が、この事業により悪影響を被った。2006年6月15日の記者会見で、日本が出資する事業の監視を献身的に行ってきたFoE Japan (Friends of the Earth-Japan)の波多江秀枝(はたえ ほづえ)氏は、「日本の政府や金融機関が出資した事業の中で、我々の団体は常に地域レベルにおけるHRV(人権侵害)に注意を払ってきた」と述べた。これらの事業に反対する者たちは、大抵、当局から左翼や共産主義テロリストの烙印を押される事になるそうだ。ティマワは、当局からこの地域の共産主義テロリスト戦線と目されていた。 サンロケ多目的事業(SRMP: The San Roque Multi-purpose Project)は、ルソン島北部、パンガシナン州のアグノ川下流に築かれ、多様な経済活動のための電力発電と、下流の堆泥や洪水を減らす事で水質改善を行うためのものである(Perez, 2004; SRPC, 2006, cited in Kim […]

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可動の身・不動の身:激動の時代に成長した記憶

国際報道機関の伝える「難民危機」に関する報道や映像、とりわけ、シリア人の男女、子供達が母国の過去数か月におよぶ内戦を避け、大移動する様は、もう一つの大規模な逃亡の記憶を呼び起こす。それは40年程前に何十万人ものカンボジアやラオス、ベトナムの人々が、1975年の共産主義の勝利の結果、国を後にした記憶である。この二つの大移動の類似点は見過ごし難く、最も顕著なものは、彼らがすさまじい海路の旅でヨーロッパやアジアの海岸へ辿り着こうとする点である。あらゆる強制移住には、それなりの原動力や発端、結果がある。すなわち、類似点を引き出す事は可能であっても、それらは同一ではない。だが、いずれの逃亡にも顕著な二重のナラティブの特徴は、一方に無力な「第三世界」の犠牲者たちがいて、もう一方には「第一世界」による人道救助活動(計画)があることだ。ベトナム人難民に関して言えば、Yen Le Espirituが酷評した先行学術論文は「(彼らを)救助の対象」と位置づけ、「彼らを悲嘆のために無能力状態に陥った保護が必要な者として描き、その保護はアメリカで、またアメリカによって最良のものが提供されるという事だ」(Espiritu 2006: 410)。このナラティブはおそらく、多くの新聞やテレビの「ボート難民」の苦難や難民キャンプでの人道問題の報道に影響されたもので、これが転じて「インドシナ難民」に関する集合的記憶を形成した。 事実、後者に付随する言説やイメージがあまりにも揺るぎないものであるために、彼らを「人工記憶」保有者と呼んでも見当違いにはならないだろう。Alison Landsbergの概念は、これらの出来事を生き抜いた経験を持たない人々の心を動かす「新たな形をした公的文化的記憶」に関連している。これらの記憶は「実体験の産物」ではなく、Landsbergが述べるように、「媒介表現に接する(映画を見る、博物館を訪れる、テレビの連続ドラマを見る)事から生じた」記憶なのである(Landsberg 2004: 20)。2015年に賞を獲得した双方向的なグラフィック・ノベル、『ボート(The Boat)』は、Nam Leのアンソロジーのタイトルとなった短編作を脚色したもので、このような記憶のテクノロジーと大衆文化の一例である。この作品はオンライン読者のみを対象に制作され、心を揺さぶるよう、本文と画像、音声と動きを融合させ、一人のベトナム人の少女が両親によって難民ボートに乗せられ、オーストラリアへ送り出された物語を伝える。 この「捨て身で救助される」というナラティブは、戦争と暴力の犠牲者としてのインドシナ人難民のイメージを具体化している。難民として、歴史の犠牲者としての立場が認識されているため、当然、難民達には何の術もなく、その亡命生活は彼らが救助されてホスト社会に入るその日に始まるかのように思われている。逆に、彼らが母国を発った時の状況や事情がつぶさに調べられる事は希である。だが彼らの人生の決定的瞬間は、彼らが桁外れに困難な状況を抜け出す事を決意した際の、彼ら自身のイニシアティブの結果なのである。筆者は2015年にシドニー郊外で、1975年以降にラオスを去ったラオス系オーストラリア人達にインタビューを行った。推測では、約40万人のラオス人が1975年から1980年代の後期までに(主に)フランスやカナダ、アメリカ合衆国、オーストラリアに逃げ込んで亡命した。ラオス国民の大移動は、ベトナム人やカンボジア人の大移動のようには知られていない。この理由はおそらく、これが前者の規模に相当するものでもなければ(約175万人のベトナム人が1975年から1990年代半ばまでの間に国から逃亡した)、カンボジア人生存者たちのような極度のトラウマを特徴とするわけでもなかったという事だ。 ラオス人難民の逃亡理由を述べる際、報道は通説を繰り返す。「一部のラオス人たちは再教育収容所に入れられる事を恐れて逃亡した。他の者達が出て行った理由は、政治的、経済的、宗教的な自由を喪失した事である」というものだ(UNHCR 2000: 99)。これらの要因や事情は、概ね正しいのであるが、これらの説明には亡命者達のプロフィールや体験を均質化する傾向があり、まるで彼らが年齢や性別、あるいはエスニシティに関わらず、同一の必要に迫られて一様な集団を形成したかのようなのだ。筆者がインタビューの対象としたのは、ラオス系オーストラリア人で、1960年代初頭から1970年代後期に生まれた人々である。筆者が調査を試みた集団が、歴史的な出来事、すなわち、政治体制の崩壊と社会主義者の支配の出現、そして大量脱出を、人生のほぼ同時期、子供時代から成人期にかけて生き抜いた人々であったからだ。若いラオス人難民たちは重要であるにもかかわらず、見過ごされた集団であったのだ。1975年以降にラオスから逃げ、1975年から1987年の間にタイのキャンプを通過した人々の約40%は13歳から29歳であった(Chantavanich and Reynolds 1988: 25)。 共産主義の勝利に続く時代の記憶は、ラオスにおける厳しい生活環境を描く。設立当初から、新政権は存続を懸けた戦いを行っていた。彼らはアメリカの空爆によって破壊された国家の再建という、途方もない課題に直面していたのである。1975年以降、西洋諸国の大半は支援をやめるか、その援助を大幅に削減した。隣接するタイが通商を禁じた事が、経済を苦境に陥れた。さらに、一連の自然災害(1976年の干ばつ、1977年と1978年の洪水)は、農業生産を著しく妨げた。日常生活は一層束縛され、国内の移動が制限されて、日常的な監視は強化された。SomchitとVilayvanhは当時、十代後半であった。二人共、ビエンチャンに住んでいた。Somchitは数年前に学校を卒業し、運転手として働いていた。Vilayvanhは大学生であった。Somchitは首都ビエンチャン近郊の村に育ち、1975年には19歳であった。彼はその頃結婚したてで、妻と共に彼の雇い主がビエンチャン郊外に用意した家に引っ越したばかりだった。Somchitは成人期を目前に、彼の周囲で世界が崩壊していく様を目にしたのである。彼が記憶していたのは、「物事が不安定(voun)になり」、「混沌(voun vai)としてきた」事であった。同じ時期、彼の妻は二人の赤ん坊を死産させている。「私の人生は行き詰ってしまった(bor mi sivit lort)」。彼が出て行ったのは1978年で、メコン川を泳いでタイに渡った。彼の妻は彼女の両親と共に留まる事を選んだ。Vilayvanhは南部のチャンパサック県の村で育ち、彼女がビエンチャンのロースクールの二年生であった1974年は、Somchitと同じ言葉を用いれば、「事態が混沌としてきた(voun vai)時代であった。彼女は学位を取得する事ができず、1975年以降は医学の道に転じた。彼女は1990年まで国を出なかった。 SomchitとVilayvanhの話は、両者が「混沌とした」、「不安定な」と表現したこの時代の記憶について、同様の圧倒的な不安感を伝えていた。彼らのナラティブは、特定の歴史的時期の中で、個人的な体験や彼らの周囲の人間、つまり家族や仲間たちの体験を介して形成されたものである。SomchitとVilayvanhは、歴史的出来事の主観的体験の共有によって定義される世代コホートに属している。これはカール・マンハイムが「連関世代(generation as actuality)」と名付けたもので、特定の生涯の一時期における「歴史的問題」の集団的体験が、解釈や内省によって結び付けられる方法である((Mannheim 1952: 303)。Thomas Burgessの社会変動の時代における青年期の定義も、これが安定した「伝統的」社会からの決裂の重要性を強調するために有用である。彼の言葉によると、「断絶がより決定的である場合、(…)青年期はライフサイクルの中の一時期としてよりもむしろ、歴史的コホートとして出現し」、それは「その世代を前後の別世代から隔て、一段と多くの交渉や変動、創作の余地がある特有の歴史的背景やナラティブ」によって定義されている(Burgess 2005: x)。言い変えると、破壊の時代(例えば戦争、自然災害、社会的危機など)における青年期は、より自律的な範疇になるという事だ。急激な社会的、政治的変化の過程を生きた若者として、SomchitとVilayvanhは、それぞれに違ったやり方でその状況に対処したのである。 成人期に入る寸前に、Somchitの人生は痛ましい個人的出来事に押しつぶされ、威圧的な政治・社会経済環境に捕らわれてしまった。相応の人生を送る可能性の欠如が、彼の移住の決心を支えていたのである。Somchitの境遇は、彼に全てを捨てさせる事を余儀なくした。メコン川を泳いで渡りながら、彼が「携えていたのは自分の身一つであった」(aw tae […]

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寄生者達の楽園:ダン・ニャット・ミン『グァバの季節(The House of Guava (Mùa ỏ̂i)』における記憶の消去

記憶、哀悼、そしてメランコリーは、ベトナムの国民的映画監督で脚本家でもあるダン・ニャット・ミン(Dang Nhat Minh)の映画の中で、一際重要な位置を占めている。1938年にフエに生まれたダンは、ソビエト共和国で学び、そこで映画製作に出会った(Cohen, 2001)。国が出資した彼の作品群、『十月になれば(When the Tenth Month Comes (1984)』、『ニャム(Nostalgia for the Countryside (1995)』、『河の女(The Girl of the River (1987)』そして『きのう、平和の夢を見た(Don’t Burn (2009)』などは、概して国家の共産主義的イデオロギーを宣伝し、戦争の英雄たちを称え、国民の福祉のための集団的な社会闘争を謳ったものである。本稿の焦点となるダンの1999年の作品『グァバの季節』は、この作品群(とその出資者たち)とは相容れぬもので、党路線から外れている(Bradley, 2001: 201-216)。『Mùa ỏ̂i(文字通り、「グァバの季節」)』と題された本作は、ダン自身の短編小説『昔の家』を映画化したものである(Lam 2013: 155)。この作品は、二年がかりのお役所仕事を片付けた後にようやく撮影開始が可能となり、1999年の封切以来、ベトナム国内では上映された事がない(Cohen, 2000)。 『グァバの季節』はフランスで教育を受けたベトナム人弁護士と、彼の親仏的な中流家庭の物語で、背景は1954年から1980年代後期の歴史的大断絶の時代である。弁護士は自ら設計した現代的な屋敷をハノイに建てさせる。物語の中心はこの弁護士の三人の子供たちである。真ん中の子、ホアは、家族が庭に植えたグァバの木の実を採る最中に木から落ちて頭に怪我をする。物語はホアが50歳のところから始まる。彼の一番上の兄のハンはドイツへ移民し、ホアの妹のトゥイが彼の面倒を見ている。現在と過去が静止したままぶつかり合う。頭に怪我をした事によって、ホアの記憶と知能は時間の中に凍結され、1959年から1960年に北部を席巻した土地改革で一家が追い出され、家財を没収された後も没落を拒む(Cohen, 2000)。 筆者の主張は共産主義の神話、共同所有権に対するダンの大胆不敵なカウンター・ナラティブと、個人の記憶の映画的表現が相まって、国家と個人の記憶の間に数多く存在する亀裂を浮彫にしている事である。もう一つの記憶の舞台を設ける事で、『グァバの季節』は個人の記憶の大規模な消去に光を当て、国家の集合的な歴史と記憶の二段階での正当化や、さらにはその「記憶」の背後にある新旧の政治体制にも疑問を投じる。さらには『グァバの季節』が共産主義体制の非情さを拡大してみせるため、中流家庭の家財没収だけでなく、記憶の諒奪の試みによって、等しく腐敗し、矛盾した社会的平等と集団性という共産主義のイデオロギーに余地を作ろうとした事に焦点を合わせる手法も示す。記憶にまつわる政治体制の変化という複雑な物語に対するダンの語り口と視覚表現の想像力に富んだ映画的言語を、三つの主要な局面を通じて分析する。それらは忘却、消去、そして隔絶である。最後に、ダン映画の中で記憶がどのように経験として具現化されるかを示す。 『グァバの季節』は、サンダルを履いた一組の足が、ハノイの現代的な屋敷のフェンスに沿って忍び歩きをする35ミリのクローズアップから始まる(図 1)。このシーンに続くのは屋敷の中から見たフェンスのロングショットである。ホアの顔と目がフェンスの穴から覗き、彼の父親がかつての自宅に植えた一本の背の高いグァバの木を見ようとしている。現在の住人は政府高官と彼の甘やかされた大学生の娘のロアン、そして彼らのために料理や掃除をする年配の女中である。残りの家族は皆、ホーチミン市(サイゴン)にいる。50歳のホアはフェンスをよじ登り、再び自分のグァバの木を訪れようとするのだが、不法侵入で捕まり、警察署へ行くはめとなる。彼の妹のトゥイは、彼を助け出すためにホアが精神障害者であるという確認書に署名をする。 心の痛むようなシーンが繰り広げられ、我々は程なく、ホアが自分の思い出の中に生きている理由を理解する事になる。トゥイは警察署からホアを自転車の後ろに乗せて自宅に連れ帰る。彼女はまるで彼が小さな子供であるかのように服を脱がせるのを手伝い、シャワーを浴びるように言いきかせる。彼の汚れたズボンのポケットの中身を出している時、彼女は彼が父親の植えた木からもいできた一つの緑色のグァバの実を見つける。彼女がそれを手の平に乗せていると、グァバの重みと手触りがトゥイの記憶を呼び覚ます。彼女の家族に何が起きたのか、とりわけ、何がホアの精神を危機的状態に追いやったのか(図2と3)。トゥイはそこで、自分たちの家族の歴史とホアの人生の物語をナレーションで語り、背後には家具がある、彼らの暮らしていた30年前の家の回想シーンの映像が流れる。 『グァバの季節』は、サンダルを履いた一組の足が、ハノイの現代的な屋敷のフェンスに沿って忍び歩きをする35ミリのクローズアップから始まる(図 1)。このシーンに続くのは屋敷の中から見たフェンスのロングショットである。ホアの顔と目がフェンスの穴から覗き、彼の父親がかつての自宅に植えた一本の背の高いグァバの木を見ようとしている。現在の住人は政府高官と彼の甘やかされた大学生の娘のロアン、そして彼らのために料理や掃除をする年配の女中である。残りの家族は皆、ホーチミン市(サイゴン)にいる。50歳のホアはフェンスをよじ登り、再び自分のグァバの木を訪れようとするのだが、不法侵入で捕まり、警察署へ行くはめとなる。彼の妹のトゥイは、彼を助け出すためにホアが精神障害者であるという確認書に署名をする。 心の痛むようなシーンが繰り広げられ、我々は程なく、ホアが自分の思い出の中に生きている理由を理解する事になる。トゥイは警察署からホアを自転車の後ろに乗せて自宅に連れ帰る。彼女はまるで彼が小さな子供であるかのように服を脱がせるのを手伝い、シャワーを浴びるように言いきかせる。彼の汚れたズボンのポケットの中身を出している時、彼女は彼が父親の植えた木からもいできた一つの緑色のグァバの実を見つける。彼女がそれを手の平に乗せていると、グァバの重みと手触りがトゥイの記憶を呼び覚ます。彼女の家族に何が起きたのか、とりわけ、何がホアの精神を危機的状態に追いやったのか(図2と3)。トゥイはそこで、自分たちの家族の歴史とホアの人生の物語をナレーションで語り、背後には家具がある、彼らの暮らしていた30年前の家の回想シーンの映像が流れる。 […]

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カンボジアの記憶が現れた効験のある場所

社会学者であるモーリス・アルヴァックス(Maurice Halbwach (1925))の記憶にまつわる有力な論文の出版に際し、ポール・コナトン(Paul Connerton)はこれを評して「集合的記憶」を論じ続ける上で、この語には「極単純に、個人間のコミュニケーションの現実」が包含されているとの認識が必要だと言明した(Connerton 2010: 38)。アルヴァックスの根本的な教えに倣い、筆者は本論における集合的記憶の意味を、社会集団によって生み出された過去の出来事のナラティブとし、また常に現状を考慮して再考され、語り直されるものとする。この論文では、9年間に及んだカンボジア西部のポーサット州でのフィールドワークに基づき、集合的記憶を生成し、伝達する個人的活動であるコミュニケーションが、場所を介在して行われている状況を説明する。カンボジアにおけるクメール民族の集合的記憶は、土地に関する認識や慣習と密接に結び付いたものであると考えられる。この結びつきは、社会生活の多くの側面における土地の決定的な重要性を反映するものだ。つまり、集合的記憶は必ずしも国家的なものとは限らず、地域的なものでもあるという事だ。 宗教体系における重要要素としての土地  カンボジアでの土地は、80%の人々が今でも田園地方に暮らす中で生活の中心となっている。また、土地は国民の宗教体系にとっても重要なものである。大地は今なおクメールの宗教体系の中で重要要素であり、その最も明白な例は土地の守護精霊(anak tā)と彼らの住処との深い結びつき(Ang 2000)や、視覚文化に頻繁に引用される大地の女神Braḥ Dharaṇī (Guthrie 2004)である。このような信仰は、古代東南アジアの諸宗教における「大地の力の神格化」という、より大きな概念に支えられたものであり(Mus 1933: 374)、この概念の中で、大地と大地の精霊たち、あるいはヒンドゥ化過程の後にはヒンドゥの神々が融合され、固有の実在となっている。この土地に付された大地の力を神と融合させ得る力は、カンボジアではサンスクリットでデーヴァ・ラージャ(神のような王)信仰として知られるkamrateṅ jagat ta rājyaというアンコール朝の宗教以来、馴染みの深いものとなっている。古典的な解釈では、これを王と(特に)シヴァ神(Coedes 1961)との結合を祝するものと見なすが、別の学者達(Jacques 1985など)は、これがaN anak tāや王の守護精霊の性質の一部を具えた神と見なしている((Estève 2009)。 カンボジアでは、東南アジアの大部分と同様で(Allerton 2013)、そのような信仰が特定の場所にそれ独自の介在者を与える。この介在者はカンボジアでは、主にmcās’ dịk mcās’ ṭī,、「水と大地の支配者」の姿をとって現れる。彼らの主な懸念は、自分たちの土地を不適切な行いをする訪問者や、許しを請わずに木を伐り果物を取る欲深い土地の利用者たちから守る事である。 上の要約はPaul MusやAng Chouleanなどの優れた人類学者達によって詳述されたカンボジアでの土地のオントロジーの基本原理を紹介するものである。筆者は自身のフィールドワークから、カンボジアでは大地と時が異なるオントロジーとしては認識されておらず、むしろ一つの範疇内で括られたものであるとの判断に至った。これを可能にしているのが、クメール人のparamī (boromeyと発音される)の力の認識である。(国あるいは地方レベルで考えられる)カンボジアの領土は、「paramīが充満した」、効験があると認められた場所のネットワークによって構成されている。そのような場所は、特別な古い僧院をはじめ、立派な形をした特定の古木や、樹木が茂り、壊れた像の転がった丘など、様々である。どのような形にせよ、そのような効験あらたかな場所の大半には、宗教や王権にちなんだ歴史上の出来事との関連性が共通して存在している。Judith Bovensiepen (2009)が述べたティモール・レステの事例と同様で、カンボジアの土地は所定の場所で起きた過去の出来事を、いわば「吸収する」事ができるのだ。 上述の大地の性質は、効験のある場所を記憶の場として機能させ得るもので、そのような場所で過去の出来事が記憶され、(とりとめもない事もあるが、大抵は祭祀の根拠についての)解釈を与えられる事で、現代の社会生活や個人生活と関わり合っている。ここで紹介する事例研究の主題は、クレアン・ムアン(Khleang […]

Issue 20

タイ北部都市で記憶と歴史を彫り、鋳造する

記念建造物や彫像は、集合的記憶の定義を試みる国家の間で久しく普及している。そのような彫像記念物に対する執念は、一部の者たちによって、ある種の「彫像狂」とさえも表現される。これは西洋だけでなく、タイのような場所でも国家のエリートや都市プランナーたちの病なのである。タイでは新たな記念建造物が20世紀初頭からバンコクの都市景観に点在するようになった。この熱狂は様々な方法で拡大を続けており、最近ではタイのホアヒンのラチャパクディ公園の建設が「軍事政権によって安置された7人の王の記念像があるテーマパーク」と表現されている。 この彫像記念物に対する執心は、現在を超え、中央を超え、国家を超えて広がっている。軍事政権のラチャパクディという歴史テーマパークは、王族を記念建造物によって顕彰するタイの長い歴史の最新の現れであるに過ぎない。同様に、絶対君主制の黄昏時におけるバンコクの都市変容は、彫像狂の一背景に過ぎぬものであった。例えば北部都市のチェンマイでは、歴史記念建造物はこの都市及び地方の歴史上の重要期のみを示すばかりか、何よりも、国家が地域の記憶に主流の王党派・国家主義者の歴史テーマを押し付けんとする試みの地域的バリエーションをも示しているのだ。最後に、彫像狂は画一的な国家主体のみが患う病ではなく、むしろ、様々な主体や利害関係によって共有される疾患である。個々の芸術家たちがこれらの彫像を自分たち自身で彫り、鋳造する一方、国家や地方のエリートたちもまた、これらの「不動の記憶」によって表された国民的記憶の形成に取り組んでいるのだ。 クルバ・スリウィチャイ(Khruba Sriwichai) チェンマイに建設された最初期の近代的彫像記念物の一つはクルバ・スリウィチャイ(1878-1938)に捧げられたものである。彼はカリスマ的な僧侶であり、タイ政府の徴兵制度の方針に対する抵抗や、意欲的な寺院再建の経歴、街はずれからドイ・ステープ山頂寺院への道路の建設によって最もよく知られており、これら全てのことのために彼はタイ政府当局側にとって、ちょっとした目の上のこぶとなっていた。  クルバ・スリウィチャイのための記念碑建設を押す動きは、地元から、特にチェンマイ初の議員Luang Sri Prakadによって始められた。記録資料は、彼の記念碑に対する熱意や、政府内でこれを推進し、ドイ・ステープ麓にこれを設置しようとした努力を十分に実証している。一見、このようにタイ政府にとって厄介な人物の記念碑が中央国家によって、これ程強く支持された事を知ると意外に思うかもしれない。この彫像が地方の多様性の認識に向けたより大きな動きの一環だと提言することはあまりにも単純であろう。だが、この記念碑は確かに「地元に、あるいは地域に根差したディスコース」の焦点となったのである。地元のイニシアティブに応じて、タイ政府はこのカリスマ的で厄介な僧侶の遺産を統合せんと試みていたのである。この点において、これは初の試みではなかった。例えば1946年には、タイ王国が援助した公式火葬の後、彼の遺骨は六分割され、北部各県に分配された。1938年に亡くなった時、彼は依然として北部地方のアイデンティティーの象徴であったが、これはタイ政府が牛耳るシャム・タイ国民のアイデンティティーとは、せいぜい異なったものであって、下手をすると正反対のものであった。ようやく18年後の1956年にこの記念碑が設置された時、個人の記憶はなお、この製作と受け入れにとって重要であった。スリウィチャイの記念碑は、彼のカリスマ性の一部を中央国家に移転する事で、この厄介な僧侶の記憶を「手懐け」ようとするものであったかもしれないが、また地元の記憶のディスコースに開かれたままとなっていたのである。 タイ国家はこの記憶の形成を、彫刻家シルパ・ビラスリ(Silpa Bhirasri)の作品を通じて行った。元はイタリアのフィレンツェ出身で、帰化してタイ市民となったシルパは、後に近代タイ美術の父、そしてピブーンソンクラーム首相の主な彫像プロパガンディストと見なされるようになった。Maurizio Peleggiは、ピブーン時代に彫像記念物が「政治的プロパガンダの媒体として配置された」と記している。シルパはバンコクで特筆すべき彫像、例えばタクシン騎馬像の記念建造物などを製作したが、彼がデザインしたバンコクで最も有名な記念建造物は民主記念塔である。彼は他の彫刻家たちも養成したが、その中には彼のスリウィチャイ像の彫刻と鋳造を補佐したKhiem Yimsiriや、チェンマイで最も有名な記念建造物である三人の王の記念碑を27年後に製作する事となったKhaimuk Chutoなどがいる。 三人の王 最も有名で広く複製されるチェンマイの記念碑は中心地に位置し、三人の王族の肖像によって構成されている。それらはパヤー・マンラーイ(Phya Mangrai)、パヤー・ンガムムアン(Phya Ngam Muang)と、通常はラームカムヘーン(Ramkhamhaeng)として知られる13世紀のスコータイ王で、タイ史に慈愛に満ちた王権の概念を打ち立てたパヤー・ルアン(Phya Ruang)である。この記念碑は1296年にこの都市が建設された時、この三人が会ってマンラーイの新たな都市の位置や設計、規模を定め、これが彼の新たなラーンナー王国の首都となったという物語を伝えるものだ。 この記念碑の発端は複雑で、実際にはマンラーイだけの記念碑を建てようとする地元の動きとして始まった。1969年には地方委員会が組織され、マンラーイ記念の取り組みに便宜が図られたが、この委員会が芸術局(FAD)と接触し、この記念碑のデザインを依頼した。彼らはさらにSukit Nimmanhemin教育大臣にも接触し、土地とFADの支持を確保した。1969年の夏にはこの大臣の提案によって、FADはマンラーイの記念碑という概念を、三人の王の記念碑へと変えてしまった。それはなぜか?政府が一年後に行った説明によると、彫像記念物の増殖には「混乱」を招く可能性があったためということで、つまりは、タイ政府によって認可されない歴史の記憶を作り出す事になる、という意味である。1970年3月に政府は新たな政策を発表した。それは、重要人物の記念建造物や記念碑の計画はいかなるものであれ、政府に提出し、政府が検討する必要があるというものだ。地方の彫像狂の問題が、政府の最高レベルの懸念となったのである。それでもなお、一人の王から三人の王への変更問題は、引き続き人々の関心を集めた。6月5日の地元紙は次のように問いかけた。「マンラーイの記念碑:一人の王か三人の王か、どっちが良い?」チェンマイ知事は、他の王たちを入れるとマンラーイの重要性が薄れること、また、特に若い世代向けの説明を追加する必要が出てくるとの不満を述べた。地元の旧チェンマイ王国の子孫たちもまた、マンラーイだけの記念碑の方が良かったようである。 一度、ンガムムアンとラームカムヘーンが加えられると、この記念碑の構成の問題がさらなる論争を生んだ。マンラーイは中央に立っているが、威厳たっぷりに中心となった人物はラームカムヘーンであり、他の者たちは彼の話を聞いているのである。地元民たちの中には、マンラーイを中心から外すというナラティブに不満を表明する者たちもいたが、他の者たちは、なぜラームカムヘーンがもっと中心とならないのかと尋ねた。国家的な見地から見ると、彼は当然、より重要であると考えられるためだ。ラームカムヘーンとマンラーイの主役争いは様々な方法で行われた。例えば、記念碑落成にちなんだ記念のお守りが発行された時、ラームカムヘーンの名前はマンラーイの名前よりも先に、最初に記載されていた。これらの人物のデザインも、また意味ありげである。彫刻家でタイ王妃の親族であるKhaimuk Chutoは、王たちの顔つきを彼らの人柄を反映したものとして思い描いた。マンラーイは美形で、ラームカムヘーンは支配者らしく、ンガムムアンは「ハンサムで気が多い」といった具合だ。 おそらくタイ政府の観点から見れば、マンラーイとラームカムヘーンを二つの中心とする事は妥協であっただろう。だが、チェンマイの観点から見ると、これは国家の歴史を地方の記憶の上に押し付ける事であった。一人の王の姿を三人に増やす事で、この記念碑は歴史的ディスコースをタイ国家の指示通りに再び中央化し、チェンマイの歴史をバンコクの歴史と結びつける事となったのだ。 彫像が体現するもの これらの彫像は世俗的な記念建造物として存在するだけでなく、信仰や儀礼の対象でもある。事実、世俗彫像と宗教彫像との境界線は、大部分の東南アジアにおいては不明瞭である。バンコクの王たちやその他の人物の彫像記念物は、容易に崇拝や儀礼の中心となり得るものであり、多くの本物そっくりの僧侶の彫像が地域の博物館や寺院に設置されている。完成した後の三人の王の彫像がチェンマイに入る様子は、古代の王たちさながらで、市内北部のチャンプアック門を通った後に市内中央の聖域に進んで行った。彫像はまるでそれらが王たちであるかのように動かされ、今日では代々の王権を体現するものとしてあがめられている。この記念碑はタイ政府による支配をよそに、市内中心部の呪力・霊験を主張する競合集団によって再解釈され続けている。 同様に、クルバ・スリウィチャイ記念碑もまた、宗教的、世俗的、両方の記憶を体現している。例えば1972年には、スリウィチャイとその弟子が山麓に建設した道路の基点近くに位置するWat Sri Sodaという寺院が、この彫像の寺院敷地内への移動を要求した。実際、彼らはこの彫像を宗教的彫像として要求し、彼らの方がこの彫像をより良く保護する事が可能であり、功徳を積むための儀式にも便宜が良くなると主張したのである。地元Khon Muang紙に発表された論説はこの計画に強く反論し、それをただの金儲けとして、元々の場所が選ばれたのは、この彫像を広い範囲から見えるようにするためであり、それによって人々がこの高僧の善行を記憶しておく(ramlukthung)役に立つからであると主張した。現在、この記念建造物は元の位置に留まり、記憶と崇拝の焦点となっている。 結論 全ての記念建造物は集合的記憶を幾分、歪めるものである。上で検討した記念碑は、今日のチェンマイに数多くある、歴史的記憶が姿形を与えられた場所のうち、ほんの二つの場所である。三人の王、あるいはクルバ・スリウィチャイ記念碑移動の簡易計画をめぐる論争は忘れられるべきではない。なお、一度は議論の的となった彫像を、地域のアイデンティティーの象徴として再配置する事も可能である。三人の王たちのシルエットを用いて、何でも北部、ラーンナー、あるいはチェンマイの標識とする事ができる。ニューヨークに自由の女神があるのなら、チェンマイには三人の王があるのだ。芸術家たちがこれらの彫像を刻むのと同様に、社会的、政治的諸勢力は記憶の風景を形成する。だが、「彫像狂」を地域的観点から検討することで明らかとなるのは、地域の記憶を体現するものに対する細かい政治的制限が、どのようにラチャパクディ公園にあるような彫像、つまりは、軍部の認めた超王党派、超国家主義者版タイ人のアイデンティティーと歴史のぶしつけな道具を作り出すことができるのかという点である。 Taylor M. Easum […]

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対抗的記憶:タイのデジタル映画における政治的暴力の再考

タイ語の記憶にあたる言葉、khwamsongcham = ความทรงจำの中心はsongであり、これは文字通り形式、あるいは媒体と訳される。khwamsongchamという語は、それ自体の中に具体的な(常に解釈されたものではあるが)過去を作り出し、社会的慣習や物質的文化などを含んだ様々な形式や媒体を通じた記憶の変容能力を示唆している。人が具体的な記憶に努めるのは、忘却への恐れがあるためだ。タイが12回連続で軍事クーデターを経験したのは、絶対君主制から移行した1932年以降の事である。今回の軍事政権の出現は既視体験を呼び起こしたものの、残念な事にバンコク中産階級の公共圏に抵抗運動を引き起こす事はなかった。そこに見られるものは、国家安全保障や社会的秩序の維持などに溢れたグランド・ナラティブの強化である。この軍事独裁主義の「感じと匂い」は、軍事クーデターが2006年に讃えられ、2014年には中産階級の少数派から許容可能なものとして容認され得るよう、親近感を作り出した(のであろうか?)。主流メディアの報道は、タイの人々が軍事政権と現状を受け入れているかのように仄めかすであろうが、我々が論じる自主映画は、対抗的公共圏として機能し、巧みな多義的表現を通じた抵抗を提供する。 タイ映画における対抗的公共圏の文化 現代のタイにおける独裁主義的状況の中、報道機関やオンラインのソーシャルネットワーク、ウェブ2.0の公共圏は縮小してしまった。ところが、ミクロの対抗的公共空間や反体制的社会運動は増えている。道徳的秩序が国家安全保障と混同されるようになり、この秩序を乱すと思しき思想や表現の罪には法廷での訴訟や罰金、パスポートの取り消し、国外追放、実刑判決などによる処罰が可能となった。国家検閲の強化は反対意見を抑圧するよりもむしろ、新たな政治色の強い自主製作のタイ映画を生み出すこととなった。製作やキュレーターシップにおける新技術、またソーシャルメディアを通じた新たな配給回路などがこれを可能にしたのである。 マイケル・ワーナー(Michael Warner)が示唆するように、「オルタナティブな公共圏が社会運動として位置づけられる場合、それらは国家に対する働きかけとなる。それらは政治の一時性に加わり、自身を合理的で批判的な言説の遂行文(performatives)に適応させる。多くの対抗的公共空間にとっては、そうすることは政策のみならず公共生活空間そのものをも変化させようとしたもともとの願いからの譲歩となっている。」タイの有識者や映画製作者たちが、彼らの反対意見を私圏に止めておくことを拒否することが、ミクロ・オルタナティブ・アート・スペース(カフェやギャラリー)の出現や、YouTubeやウェブ2.0などへのオープン・アクセスでのオンライン参加をもたらすことになった。これらの新たなミクロ対抗的公共空間は、多義的な風刺や両義的な語句を用いることで逮捕を回避している。 タイ(当時はシャム)映画の最初の国家検閲は1930年の映画法令であった。過去10年の間に新たな検閲法が出現し、刑法(1956, 2007)112条のコンピューター関連犯罪法(2007)と国内治安法(2008)の改正によって不敬罪法が拡大された。同じ10年間に、20作以上の自主映画が製作され、国内外の主要映画祭で公開上映されてきた。タイでインディーズ映画の拠り所となっているのは都市部のカフェや本屋、ギャラリー、領事館、それに大学などの場である。映画評論家のKong Rithdeeによると、タイ映画財団は「短編や自主映画を製作するタイの映画作家たちのための公共圏の創出にとりわけ重要な役割を果たし...映画およびデジタル映画の民主化」を、ワークショップや番組制作、映画祭などを通じて行っている。このような形で、インディーズ映画は政治的暴力の再考と記憶のための領域を切り開いてきたのである。 対抗的公共空間としての自主映画が細心の注意を払ってきたのは、記憶・歴史、そしてスローな映画美学であった。以下に論じる諸作品は、これら全ての特質を備えたものである。ここで取り上げる作品は、タイで繰り返される政治的暴力との対話、公開上映の機会が一回以上のものであること、また作品がオープンソースの中道左派のオンライン・ニュース・メディア、たとえばprachataiなどで再流通しているものであることを選択基準としている。 実験的ドキュメンタリーは記憶する:テロリスト(2011) タンスカ・パンジッティヴォラクル(Thunska Pansittivorakul)の映画「テロリスト(Terrorist)」は対照的なプラットフォームを備え、国家の政治的暴力の様々なシーンが親密な家族の記憶と並行して再現される。この映画は作品それ自体として見つけることが難しく、DVDやVCDの市場に流通もしていなければ、YouTubeなどのプラットフォームでその全編を入手できるものでもない。予告編は明らかに衝撃的で、男性のマターベーションのシーンが最近の2010年のバンコク路上の政治的暴力のシーンと並置される。この鑑賞体験は、同時に起こる性的、肉体的な暴力と喜びを直感的に具現化したものである。オンラインのニュースソースprachataiの抜粋では、ヌードシーンを避けて、政治的暴力のシーンのみが表示されている。 [youtube id=”bxwS3WN1NTA” align=”center” maxwidth=”800″] 映画の特別な見どころは、タンスカの母親がタイ共産党に加わった経緯についてのオーラル・ヒストリーを、母親と一緒にいる子供のタンスカの写真や、1976年10月6日の虐殺の写真と並置していることである。写真は我々の最も私的な記憶についてさえ、その証左として残す。写真はまた、1976年10月の虐殺の残虐性と衝撃的要素の紛うこと無き証言を提供する事もできるのだ。その残虐行為を暴力シーンの再現によって記録するにあたり、写真はまた、殺された者たちと暴力の関係者であった「国家主義的市民や国家当局」の両者を非人間化させる事も可能なのだ。 「空低く大地高し(バウンダリー タイの主要な劇場で商業上映され、Vimeoで18+の評価を受けた「空低く大地高し(2013)」は、南部の弾圧-2008年プレアヴィヒアにおけるタイ・カンボジア間の銃撃戦-に加わるよう召集され、その後、2010年5月に赤シャツ隊の鎮圧に送られた一人の若者の生涯を追う。この映画の原題“Fatum Paendin Soong”「空低く大地高し」が物議をかもしたのは、これがタイの社会的不公正や社会的階層化に異議を唱えるものと思われたためであった。タイ語での境界は“khet daen”として周知されている。ノンタワット・ナムベンジャポン(Nontawat Numbenchapol)監督によると、「境界の一つ目の意味は、貧しい農村の人々と搾取的なバンコクの中産階級とを分けるものである。二つ目の境界は、カンボジアの人々を国境によってタイから隔てるものである...私はプレアヴィヒアの山の国境に立っていた事を思い出した。その場所で、空と大地がつながり、共に存在していると感じていたのです。そのメタファーは、タイがいつの日か和睦する事を願ったものでありました。」要するに、この映画が具現化しているものは、国家がつくり出す領土や境界を通じた、現在にとっての過去、あるいは過去にとっての現在である。 [youtube id=”ONvbctIqjso” align=”center” maxwidth=”800″] ディレクターズ・カットでは、バンコクのラチャプラソン交差点での王の83歳の誕生日祝いのシーンが、ほんの数か月前に同じ場所で起きた赤シャツ隊の虐殺のシーンに入れ替わり、王族の賛辞や歓声、祝祭と共に映し出される。この並置は、場所が持つ複数の意味あいについて内省を促し、祝祭がどのように虐殺という汚点を置き換え得るかという設問を提起する。この多義的な表現ゆえに、タイの検閲委員会はこのシーンの削除を要求し、監督はこれに応じることとなった。2007年の112条の導入以来、国家当局は君主制に関するあらゆる発言の監視を余念なく集中的に行うようになり、不敬罪の違反者たちを政府の脅威である危険人物として標的にしている。 同様に、複雑な過去から構築されたタイ・カンボジア国境は、国内の政治問題を通じた敵の国家的記憶を具現化したものである。Pavin Chachavalpongpun、Charnvit Kasetsiri、Pou Suthirakの研究が示唆するように、タイ・カンボジアの国境は、歴史、記憶、政治や経済関係によって構築されている。境界はここでは字義通りの意味では用いられず、むしろ過激な国家主義や国内の政治問題の温度によって決められる敵か味方かの要素の狭間の動きを示している。 「ブリーフ・ヒストリー・オブ・メモリー(A […]