Issue 8-9 Mar. 2007

ติดเซ็กส์

“ดร. วัลลภ ปิยะมโนธรรม นักจิตวิทยาและ อาจารย์ประจำคณะศึกษาศาสตร์ มหาวิทยาลัยศรีนครินทรวิโรต เปิดเผยว่า ประเทศไทยเริ่มมีโรคติดเซ็กส์มาตั้งแต่เมื่อ 10 ปีที่แล้ว แต่นับวันยิ่งมีการระบาดของโรคนี้มากขึ้น โดยกลุ่มที่น่าเป็นห่วงขณะนี้ คือผู้หญิงและวัยรุ่นไทย โดยผู้ป่วยจะมีพฤติกรรม 4 ขั้นคือ มักสำเร็จความใคร่ด้วยตนเอง ชอบโชว์โป๊ แอบดู ซึ่งหมายรวมถึงการดูภาพโป๊ในอินเทอร์เน็ต วีซีดี และขั้นสุดท้ายคือการค้าประเวณีเพื่อหาความสุขทางเพศไม่ใช่เพื่อเงิน ทั้งนี้สาเหตุเกิดจากบุคคลเหล่านี้ในวัยเด็กได้รับสื่อลามก ซึ่งในอเมริกามีประชากรประมาณ 3-6% เป็นโรคดังกล่าว…ผู้ชายที่มีต้นทุนทางสังคมดีจะถูกผู้ป่วยเซ็กส์แอดดิคส์มาขอนอนด้วยบ่อยมาก ซ้ำบางคนมีอารมณ์รุนแรงสามารถร่วมได้ 5 คนต่อคืน หรือถึงแต่งงานแล้วก็ยังอดมีชู้ต่อไปเรื่อยๆไม่ได้ นางพรนิภา ลิปพยอม เลขาธิการคณะกรรมการการศึกษาขั้นพื้นฐาน(กพฐ.) เปิดเผยว่า นายอดิศัย […]

Issue 8-9 Mar. 2007

セックス中毒

  心理学者であり、シーナカリンウィロート大学教育学部常勤教授であるワンロップ・ピヤマノータム博士はこんな見解を披瀝している。「タイにおいて十年ほど前からセックス中毒とも言うべき病的な症状が観察されるようになり、この傾向性は日増しに強くなっている。とりわけ憂慮すべき層は女性と若年層である。患者の行動には以下の四段階がある。頻繁な自慰行為、露出行動、窃視(対象としてはインターネットやVCDのアダルト画像も対象として含まれる)、そして最終的な段階が、金銭目的ではなく、自己の性的欲求を満たすための売春。これらの行動の原因となっているのは、幼少時からのわいせつ媒体との接触であり、アメリカにおいては人口の3-6パーセントが患者であるとみなされる…社会的ステイタスの高い男性層は、しばしばこれらのセックス中毒患者のターゲットとされる。一晩5人と関係を持ったり、結婚後も浮気相手を常に探し続けるという重症患者も見られる。」   基本教育委員会のポーンニパー・リッパヨーム事務局長は以下のように表明した。アディサイ・ポーターラーミック教育相は、関係行政官を集め、若年層の性行動を指す語として、「愛をささやく」に代わるより適切な表現について検討させた。これらの話し合いにおいては、どのくらいの年齢の就学層が、公の場で性的な行為に及ぶべきではないかといったことも話題に上った。結論が下され次第、アディサイ氏は新しい表現の使用を宣言する予定であり、こういった行動をとる若年層の減少に寄与することを期待している。(日刊マティチョン、2004年9月7日火曜日号)   上に引用したニュースを既に目にされた方も多いだろう。私自身は一読して、何だこれは一体、とうなってしまった。記事の中には、「この病気は日増しに蔓延しつつある。」とあるが、セックス中毒病は、(記事掲載の翌日シータンヤー病院総裁ワチラ・ペンチャン医師は、セックス中毒は病気ではない、いい加減なことを言わないように、と反論した。)わたしの知らぬ間に鳥インフルエンザのように大流行していたのだろうか。その上この種の病(菌)に感染し易いリスク層は女性と若年層だとのことである。記事の展開にさらに付き合う気力があるならば、こんな見解に出くわすことになる。ワンロップ博士の見解(あるいは研究)によれば、この病気の流行の被害を受けているのは「社会的ステイタスの高い男性層」で、彼らは年齢を問わないセックス中毒の女性達に同衾を迫られているのだそうである。   「私自身、クリニックにおいて相談を受けたり治療にあたったりしていますが、30才の女性患者に騙されかかったことがあります。その患者は夫を前にして私と関係を持ちたい、と言ったのですが、夫に強要されているというのは実は嘘で、自分がそうしたかったのだということがわかりました…最近では16、7の女性が相談という口実でやってきて、私に関係を迫ったんですよ。」   記事から我々は以下のような知識を得ることができる。セックス中毒は「病気」であるばかりか、伝染病のようなものである。特に女性と若年層に大流行中しており、患者女性の性欲の犠牲となって、あの手この手でやり込められているのは、この情報の提供者である博士のような紳士方である。   一般的に言って、体が弱り抵抗力が低くなっている場合、流感にしろコレラにしろ伝染病に感染することがある。記事の内容から推測するに、女性と若年層は「脆弱」で「免疫システムに問題がある」人口であるということだろう。(そしてこの病気は肉体的なものというより精神的なものであるから、この場合の免疫システムの問題とは知的な欠陥を意味している。分かりやすく言えば、女性と若年層は愚かで頑迷なため、なんにでも簡単にひっかかりやすい。)感染しやすいこれらの性別と年齢層の人口は、しっかりと保護、観察の下に置かれるべきである。これに対し男性、特に「社会的ステータスの高い」層は堅固で優れた性であり、この病気の流行に巻き込まれるほど脆弱ではない。   おやおや、人生にさよならして、これからは生まれ変わるたびに「社会的ステータスの高い」男性に生まれたいものだわね。コギャルから熟女まで、寝る相手は引きもきらずというわけみたいだし。   記事中のセックス中毒の定義に従うなら、私も患者の一人なんだろうな。人生の中で文句なしに楽しいことは何か、と聞かれたら、その数少ない答えの中に入っているのがセックスだ。自分でするのを覚えたのは8才だったか9才だったか忘れたけれど、たまたま指が初めて「そこらへん」に当たってうっとりするくらい気持ちよかった時のことは覚えている。それからは今日に至るまで研究は欠かさないよ。隣で寝ている本物の男が眠り込んでしまおうものなら、私は自分でなんとかしますよ。年とともにテクニックは向上し、セクシーなねまきを選んで、音楽をかけ、キャンドルを灯し、香水を吹きかけて、どんな声を出すかって、これは超個人的なお楽しみ。   朝起きて隣に寝ている男を襲っちゃうのは当たり前として、夜とか明け方は…え?だってさー、その体でねまきのズボンだけで目の前で寝返りをうたれて、正気でいろっておっしゃるの?   お医者の先生さま…セックス中毒を治すにはどこへ行ったらいいんでしょう?だってそこまでおっしゃるのにまだ治療に駆けつけなかったら、この病気って周りの人にどんどんうつっちゃうんでしょう?このコラムに夢中の読者の皆さんがまるでアヘン中毒みたいにセックス中毒になっちゃう…考えてもみてくださいよ。立派な紳士の皆様方、例えばお医者様とか弁護士さん、エンジニアーさん、アピシットさま、アピラックさま、チャートゥロンさまみたいなイケメン政治家の方々がセックス中毒の女たちに追い掛け回されて仕事にならなくなっちゃうんじゃありません?   まあいいか、皮肉はここまでにして本題に戻りましょう。この記事を批判の槍玉に挙げて、私がここまでおちょくるのはなぜだろうか。「セックス中毒」は病気であるという決めつけに関しては、シータンヤー病院総裁が既に否定している。セックス依存というのは、アルコール、ギャンブル、ラグナロクゲーム、トーモーンさんのコラム、GMマガジン、週刊マティチョン、その他もろもろに対する依存症と同じようなものであり、社会問題として見ようと思えば見られなくもない。が、病気であると捉えることは間違っている。   この病気が10年来「流行している」とする見解も、何と比較を行っているのか不明であり、お話にならない。20年前に比べて今の人間がアダルト映像をよく見るようになったという事実も、セックス中毒患者の増加に単純に結びつけることは不適切ではないだろうか。アダルト映像産業の拡大、輸送システムの発達、VCDプレヤー価格の低下などの現象があり、また、エイズを恐れるあまり現実のセックスより自宅でアダルト映像をおかずにする人間が増えていることや、その他セックス中毒とは直接の関係がない無数の原因があるはずだ。   治療を受けようとする人間という観点から見た場合、精神科医にかかる患者の総数、精神科の患者数をとりあげてみれば、今のタイ人は昔に比べ精神の病を抱えている人間が増えているといえるのかもしれない。が、精神科の患者の増加から、精神を病むタイ人が増えていると単純に結論付けることはできるのだろうか。それよりは、精神科医や心理学に対する理解が変化し、精神科医にかかることイコール頭がおかしいというわけではない、という認識が生まれつつあることなども原因の一つとして考えてみる必要がある。また、最近のタイ人にとっての占い師や宗教の権威が低下し、精神科医は現代タイ人の心のよりどころとして、それらに代わる役割を果たしているのかもしれない。いってみれば、セックス中毒で治療を受ける患者数の増加が反映しているのは、昔なら自分に起こっていることが特に問題だとは感じず、治療の必要性など思いつきもしなかった、ということに過ぎないのではないだろうか。欲しくてたまらなかろうが、自分の手を使おうがそんなことはお前の勝手、亭主に一晩10回のしかかろうがこっちの知ったことか、それで嫌がる亭主なら新しいのを探せ、それと医者が何の関係がある、といったところである。   よく考えてみれば、セックス中毒というのはいかにもありそうなことで、性別、年齢を問わず全ての人間の身に起こっても不思議ではない。私自身もセックス中毒といえばいえるのかもしれないが、生きていく上でそれが問題だと感じない限り、治療が必要だとは思わないだろう。それどころか、一日のうちに何度もクオリティの高いセックスをしてリフレッシュできるなんて、とってもいいことじゃないかとすら思う。それなのにまた一体どうした大騒ぎだ。教育省が「愛をささやく」に代わる新語を探そうとするほどの大事なのか。男にとってのセックス中毒は憂慮の必要がないが、女にとってはそうはいかないというようなニュアンスが行間から感じられるのもひっかかる。そんなものの考えのせいで私たちが今さら振り戻されるのはこんなお決まりの思考パターンだ。セックスが好きな男は普通だけれど、女ならそれはどうかしている、セックスにおける女の役割は男の欲望を受け止めること、男にとって望ましい「ビーナス」とは、男に犯されるのを待っているような上品な女で、厚かましくも「ねえ、本当に欲しい。」と身をすり寄せてくるような女はヒステリー(タイ人の一般的な理解と用法に従った場合)だ。   また、経済的理由からではない少女売春を、セックス依存と結びつけることも短絡過ぎる解釈ではないだろうかと、そのお手軽ぶりに眉をひそめたくなる。女、男、ゲイ、またその他のセクシュアリティのうち誰がする場合にせよ、売春という行為には、様々な要因が絡み合っているものだ。愛、性、金銭、身体、資本、利益、商品化、宗教、リプロダクティブヘルスなどの意味に対する理解から始まり、苦しみや喜びをどう受け止めているか、セックスに何を求めているのか、国家の中における自身の位置づけに対する理解などもその中に含まれる。   「子供」の性行為に関するニュースが流れるや否や、社会や教育省が示す戦々恐々ぶりは、パニック状態の域に達している気がする。そう遠くない歴史を振り返ってみれば、チュラロンコーン王時代の刑法によれば、子供の年齢は12才を境に定めてあった。12才の女性をレイプした場合、それは女性に対する行為であって「子供」に対するものではなかったのである。王族の系譜を紐解いてみれば、宮中のやんごとなきお方たちが13才で子供を持っている例を見ることができる。13才で出産したということは、11,2才当時の妊娠ということになる。「子供」が性行為を行っている、という捉え方は単純に年齢によって判断されるものではなく、その時代の政治(国家、統治のあり方)、経済のあり方に影響されて変化する「子供」の定義づけや役割に左右されるものなのである。また、社会階層やその他の要素も関連してくる。   こういったパニック状態を見るにつけ、セックスを不潔でネガティブなものだと皮相的に捉えている限り、バスの中で性行為に及ぶ若者たちにあきれ返りののしり散らす(といっても実はこういう記事をかなりわくわくしながら読んでいる)ことを性懲りもなく繰り返すだけなのではないかと感じる。実のところセックスは、社会、経済、政治といった要因と結びつきながら歴史的に変遷を遂げてきた私たちの生き方の一部とすら言えるものなのに。 また明日にでもなれば、ティーンエージャーがショッピングセンター、道端、公園などでことに及んでいるというニュースを読むことができるだろう。具体的に、どんなやり方で、どんな風に服に手を突っ込んで愛撫し、女の子の方はどんな格好で色気づいているのか、まったく最近の子はなんて嘆かわしい、と騒ぎ立てるのはまるで、ネットでアダルトページの女の子を見ながら興奮しつつもあきれたと口にしている時と変わりがない。おーい一体こりゃあ、こういう子たちって恥ずかしくないのかね、こういうのと付き合うのはごめんだね、見ろよ、すげえ胸だなあ! […]

Book Reviews

Book Review: Ukkil: Visual Arts of the Sulu Archipelago

Ligaya F. Amilbangsa, Ukkil: Visual Arts of the Sulu Archipelago. Quezon City: Ateneo de Manila Press, 2006 Ukkil: Visual Arts of the Sulu Archipelago is a treatise on cultural practices inextricably linked to the political, economic, and social […]

Issue 8-9 Mar. 2007

“ความแตกสลายของอุดมการณ์เดือนตุลาฯ”

เช้านี้ ผมเพิ่งไปไหว้วีรชน ๑๔ ตุลาฯ และ ๖ ตุลาฯ มา….. ปกติ สัปดาห์หรือสองสัปดาห์ครั้ง ผมจะซื้อพวงมาลัย ๒ พวง ไปไหว้ประติมากรรมอนุสรณ์เหตุการณ์ประชาชนลุกขึ้นสู้เผด็จการ ๑๔ ตุลาคม พ.ศ. ๒๕๑๖ และเหตุการณ์ล้อมปราบฆ่าหมู่นักศึกษาประชาชน ๖ ตุลาคม พ.ศ. ๒๕๑๙ ที่หน้าหอประชุมใหญ่ มหาวิทยาลัยธรรมศาสตร์มาลัยพวงหนึ่ง ผมจะคล้องมือรูปจำลองวีรชน ๑๔ ตุลาฯ แล้วพนมมือไหว้พลางน้อมรำลึกถึง“สิทธิเสรีภาพ” อีกพวงหนึ่ง ผมจะวางบนกลางแท่นหินอ่อนรำลึกวีรชน ๖ ตุลาฯ แล้วพนมมือไหว้พลางน้อม รำลึกถึง “ความเป็นธรรมทางสังคม” […]

Issue 8-9 Mar. 2007

タイ現代文学の潮流 ―セーニー・サオワポンよりチャート・コープチッティへの流れを中心として―

はじめに   タイ現代文学においては、他の多くの分野においてと同様に、1973年のいわゆる「学生革命」前後が一つのturning pointとなるのであるが、本稿は、具体的な文学作品分析を通して1973年の前と後との傾向及び特徴の違いの一端を捉えることを、その狙いとしたものである。具体的には、1973以前の代表作としてセーニー・サオワポン『妖魔』を、以後の代表作としてはチャート・コープチッティ『裁き』を採り上げる。この二作品を採り上げる理由は、其々がいわゆるタイ文学の「純文学」系の評価としては、その頂点に立つものであると考えられるからである。   まず『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴を、「業からの解放」という視座から捉えてみた。管見によれば、セーニーは作品中で、文学にも長らく反映されてきたタイ社会に特有の通俗的仏教観念との対決・決別を示しているのである。即ち本来のものを離れ既に社会的に通俗化した運命の享受観や業への諦観(タイ語でいうプロム・リキット的側面)から離れ、運命或は業を改変できるものとして捉える「本来的な」業理解(カンマ・リキット的側面)へと我々を誘うものであると考えられるのである。   続いて『裁き(カム・ピパークサー)』の文学的特徴を「出家と実存のはざまで」といった視座から分析した。本作品はサルトル的な自己欺瞞の否定を謳っているといえよう。世界に寄る辺なく投げ出されている実存(人間存在)との対峙、およびその対極にある自己欺瞞(に生きる人々)の否定。あるいはタイ的自己欺瞞の一つである、苦は業に因るという観念或は苦は業の結果であるとする人々の批判(そうではなく苦は人間の実存の結果であるとしている)。さらには、タンブン(喜捨)をはじめとする一般の通俗仏教信仰への懐疑などである。しかし本作品に特徴的なのは、出家に「出口」を求めている点である。ここで出家という仏教的価値観については、文中の方丈の言葉がまさに暗示の如く通奏低音として作品中に流れている。そこでいう「仏法の世界」とは出家者としての仏法の世界であり、世俗と区別した出世間のことを指しているのはいうまでもない。それは他人との出会いにより自己の失墜を招く、実存と向き合わざるを得ない世間、即ち仏教的に云うならば、パーリ語で云うところのローキヤではなく、ロークッタラ、即ち出世間なのである。   それでは以下、具体的に両者の作品分析を行っていくこととする。 【1】セーニー・サオワポン『妖魔』-「業からの解放」   本論は、本邦に於いていまだ殆んど研究の手がつけられていないタイ文学をその素材としたものである。本論ではなかんずく、タイ現代文学においての、作家の社会に対する意識の位相を探っていきたい。我々とは文化的思想的背景を異にするかの地の文学は、自ずとその趣を別にするが、中でも顕著な特色の一つに、作家の社会に対する極めて鋭敏な意識・姿勢が挙げられよう。政治的社会的不安定は、その度重なる動揺を通し、近現代の文学者の社会意識をいやが上にも我々の考える以上に鮮明なものにしていった。その外からの眼としては、先づ、大きく東南アジア現代文学の特徴として、「東南アジア社会の文学は本質的にlittérature engagéeである」と指摘する者がある。東南アジアの作家たちは、いやが上にも政治や社会の現実と対峙し、そこから顔をそむけることが殆んど不可能であった過去があるであろう。その中には植民地化の問題に由来するものもあるだろうが、それを免れたとはいえ、タイにおいても社会の現実は非常に重く作家の肩にのしかかっており、逆に社会に対する作家の極めて鋭敏な意識・姿勢はタイ現代文学の色濃い特徴となっている。タイの文化文学にも造詣の深い文化人類学者のニールス・ムドラーは、インドネシア文学に比してタイ作家と社会の係わりを次の如く強調している。「タイの作家にとってその特徴をかたちづくる中心はsocial stage」であり、「ジャワ文学のself-centredな個に対してタイ文学の個はsocial settingの中に明瞭に規定されている」と。   加えて、内からの眼としては、長らくタイペンクラブ会長をも務めたニッタヤー・マーサウィスットは、タイ文学の特徴として、タイ作家の社会正義に対する意識は幾度の政治的動乱にも屈することなく、文学の責務として脈々と続いている旨の指摘を行っている。さらには、タイにはいまだトルストイやツルゲーネフや巴金、或はバルザックやゴーリキーや魯迅も生んではいないが、それでも良いところはある、それは政治に関して割と力強い思索をしてきた点である、といった面白い指摘をした者もいる   それでは内外のタイ研究者が共通して認めるタイ現代文学に顕著な特徴である社会意識とは一体いかなる位相であるのか。ここではビルマ大使も務めたことのある現代有数の作家セーニー・サオワポン เสนีย์ เสาวพงษ์์(1918~)およびその代表作『妖魔』ปีศาจ を中心に見ていきたい。   その為の手順として、本論考では、先ず、セーニーのタイ現代文学における文学史的位置・役割を概観し、次に『妖魔』の作品分析を通して、その位相の具体的な例を抽出していきたい。 【1.1】セーニー・サオワポンの文学史的位置   セーニー・サオワポンは、タイ現代文学史上において「純文学系」の一つの到達点であると捉えられ得る。チュラーロンコーン大学のトリーシン・ブンカチョーン博士は、セーニーの干支七順目(84歳)を記念するマティチョン主催のシンポジウムにおいて、セーニーは文学によりタイを動かし、タイ小説の歴史を変えた。さらには、先見性に富んだ著作によって未来をも予見することのできる、タイ社会のみならず人類全体の作家である、との指摘を行なった。   ここでセーニーの文学史上の意義を考える場合は、先ずタイ現代文学史上での〈人生の為の芸術〉วรรณกรรมเพื่อชีวิต の動きを顧みなければなるまい。タイにおいては現代文学は常に政治との係わりにおいて、或はその圧迫を受けながら或はその抑圧から脱しながら、歴史が流れていくのであるが、その流れの中から〈人生の為の芸術〉と呼ばれる処の動きが生起する。この〈人生の為の芸術〉はまたタイ現代文学を俯瞰した場合には、そのメイン・ストリームを為すといっても過言ではないものでもあるのだが、その中でもとりわけセーニー・サオワポンの果たした役割は大きい。   セーニーは1952年のタマサート大学での講演の中で、この〈人生の為の芸術〉の立場を表明する。とりわけ「著作と社会」การประพันธ์กัปสังคมでは明瞭に作家の社会に対する責務を打ち出し、また同年の評論「ロマン主義とリアリズム」อัตถนิยมแลจินตนิยมにおいてはリアリズム文学の意義を唱えた。こうした立場は、同時代の高名な文芸評論家たるバンチョン・バンチュートシンの次の言葉に集約されるであろう。 人が飢餓のために死んでいっている時、月の美しさはなんの役に立とう。芸術家の責務は悲惨な光景を直視するところにある。   […]

Issue 8-9 Mar. 2007

Literature and Contemporary Philippine Politics

      In December 1958, almost 57 years ago, about a hundred of the leading writers of the Philippines went up to the resort city of Baguio in the northern highlands to attend a conference sponsored […]

Issue 8-9 Mar. 2007

วรรณกรรมและการเมืองฟิลิปปินส์ร่วมสมัย

       ในเดือนธันวาคม ค.ศ.1958 เกือบ 57 ปีมาแล้ว นักเขียนฟิลิปปินส์ชั้นแนวหน้าจำนวนประมาณหนึ่งร้อยคนเดินทางไปที่เมืองบาเกียว ซึ่งเป็นเมืองตากอากาศบนที่ราบสูงทางตอนเหนือของประเทศ เพื่อเข้าร่วมในการประชุมที่จัดโดยสมาคมนักเขียนนานาชาติในประเทศฟิลิปปินส์ การประชุมครั้งนี้ให้ชื่อว่า การประชุมนักเขียนแห่งชาติ ผู้เข้าร่วมประชุมจึงเป็นนักเขียนเสียเป็นส่วนใหญ่ แต่ก็มีแขกผู้มีเกียรติจำนวนไม่น้อยทีเดียว เข้ามาพบปะสังสรรค์กับนักเขียน และร่วมบรรยายด้วย อาทิ การ์โลส พี การ์เซีย ประธานาธิบดีฟิลิปปินส์ ซึ่งท่านเองก็เป็นกวีที่ใช้ภาษาถิ่นที่มีชื่อเสียงด้วย กลาโร เอ็ม เร็กโต วุฒิสมาชิกแนวชาตินิยม ซึ่งเป็นกวีและนักเขียนบทละครเป็นภาษาสเปน บิเซ็นเต จี ซิงโก อธิการบดีมหาวิทยาลัยแห่งฟิลิปปินส์ และและมีชาวตะวันตกจากสถานทูตอเมริกา และสถานทูตอังกฤษอีกประปราย นอกจากนี้ ยังมีนักการเมือง นักธุรกิจ […]

Issue 8-9 Mar. 2007

文学と現代フィリピン政治

        凡例: 1)()は、原著者の使用したもので、()内の記述は原著者による説明。2)〔〕は、翻訳者の使用したもので、〔〕の言葉は、訳文を分かり易くするために翻訳者が追加したもので、原文には存在しない。    1958年の12月、〔つまり、〕ほぼ57年前、約100人のフィリピンの指導的なライター〔著述家〕たちが、国際ペンクラブのフィリピン支部によってスポンサー(後援)された会議に参加するためにルソン島北部高地のリゾート(保養地)都市であるバギオへと登って行った。結局のところ、この行事は、全国ライター会議として告知されていたので―ほとんどライター仲間の内輪の集まりではあったのだが、彼自身が著名なバナキュラーな〔日常語の/土着固有語での〕詩人であったフィリピン大統領カルロス・P・ガルシア閣下;民族主義者で、スペイン語で書く詩人で劇作家でもあったクラロ・M・レクト上院議員;フィリピン大学の総長ビンセンテ・G・シンコ;そしてアメリカ大使館とイギリス大使館からの少数のコーカサス人たち、といった人々を含む堂々たる来賓の一行も訪れて、話しに加わった。参加者の中には、重要な政治家、実業家、外交官、学者、出版業者、そして、最低一人ずつの聖職者と陸軍の将軍、といった面々もまた含まれていた。    私が言える限りでは、私が5歳になろうとしていた1958年の12月以前のフィリピンでは、この規模のライターの会議は、一度も行われたことがなく―これ以降、一度も開催されたことがないことは確かである。それでは、いったい何が、これらの文学的著名人を山の頂上へと一緒に向かわせることができたのであろうか。それは、ほぼ60年近い歳月の後に、わたしたちを、ここ、アジアのもう一つの都市へ一緒に連れてきた一般的主題とほぼ同じである:〔すなわち〕極めて重要で、逃れがたく、止むにやまれぬ、しかし、厄介でもあり、悩まされてもいる文学と政治の間の挑戦的な関係である。   1958年の会合では、この主題は、会議のテーマの題名、『フィリピン人作家と国民の成長』として課題となっていた。2、3週間前の暇な時間に、私のオフィスの書庫の掃除をしている過程で、私は、この会議の議事録を見る機会があったが、それは、(1959年の第1号)の雑誌、『コメント』〔季刊誌〕の特集号に収められており―私は、胸を打たれた、〔それというのも〕今回の会議に向けての準備をしながら、私の心中には全く別の書き出しがあったのだが、1958年のことを全て再び繰り返しているようで、私が何と取り組んでいるのかを示してくれたからである。(プラトンの2500年の後にとは言わないが)、半世紀以上の後に、文学と政治〔の関係を〕生み出すために文学精神の最良の部分を携えて、私たちフィリピン人作家は、古いものと新しいものと双方の、十分な理由があって消耗させられたままになっている。  小説家と〔政治〕パンフレット〔の〕ライター  1958年の会議の間に表明された見解の典型は、〔以下に引用する〕作家エディルベルト・ティエンポのものであろう:  小説家とパンフレットライターとは、和解できない、異なった二つの範疇に属している。文学は、社会問題に対する解答、それは即座に行動に組み込まれるであろうが、を発見することを、直接に気に病むことはあまりない、ということを私たちは認識しなければならない;さらに、小説家と詩人とは、政治または経済の指導者の代わりとなるための素養を身に付けた存在ではない。彼らの関心は、生活や事件の記録者として行動することではなく、それらに総合を与えること、首尾一貫した秩序をあたえることであり…成功した作家は、自らの時代の偶発的な事件を超越して、サガ〔英雄伝説〕や預言者〔先駆者〕となる…芸術的啓示が彼自身と彼の芸術に対する最終的責任である。   それは、今日では、まあまあ安全で口にするには分別のある言明のように聞こえるが、1958年の時点では、数十年にわたって続いてきた一連の激烈な論争、これは、第二次世界大戦前でさえも二つの党派、すなわち、一方では、詩人ホセ・ガルシア・ビリャの「芸術のための芸術」派と呼ばれたそれ、もう一方では、プロレタリア文学の旗を掲げたサルバドール・P・ロペスら、の両者間で行われていた、論争のただの最新版であった。1930年代のフィリピン人作家は、〔一方では、〕詩的モダニズムにまさに針路を変えようとしていたビリャとその仲間による、〔もう一方では〕フィリピンの革命的で反政府的な文学の長い伝統に立ち返ろうとするロペスの軍勢による、二つの敵対的な立場の間で引き裂かれていた。    『コメント』特集号の編集者の一人であった評論家のエルマー・オルドニェスは、ビリャの最も忠実な同盟者の一人で、内科医で短編作家であったアルトゥーロ・B・ロトールの皮肉を思い出した、なぜなら、彼は、これより早く、次のように書いていたからである:  フィリピン人のあいだで、芸術の中で扱うことに失敗した、現在、広がりを示して国内の注目を集めている出来事への重要な理解を示したものは誰もいない。例えば、中部ルソンの農民と、その生活状況を改善しようとする努力からはほど遠く、そういうわけで、重要な物語は何一つ書かれてはいない。国内の残りの人々がトンドのスラムについて語っているというのに、我が詩人たちは、有頂天でマニラ湾の夕日について詩作している。それで、新聞を一瞥さえしないくせに、散文の韻律と調和について学者ぶって討論している作家たちについてどう考えるべきだろうか。ひとつのフレーズ〔一句〕のために何週間もかけて仕事をするくせに、社会正義とは何かとか、ブラカンのある農民が金持ちの地主の貯えた薪を盗んで捕まったのは何故なのか、を理解しようと試みて5分間を費やこともしない作家について何を言うべきだろうか。    ロトール博士は1988年に死んだのだが、彼は、バギオの会議には出席していなかったので、我々は、ティエンポ博士(ついでだが、彼は、芸術のための芸術は「高潔な真剣さを欠いている」と考えていたのでそちらの方も信じていなかった)の好みについて、彼がどう言っただろうかについて確かなことを知ることはできないが、推測することはできる。なるほど、もし、今日、彼がまだ生きていたならば―〔そして、〕私が、この論考でやろうとしているように、私たちの、社会正義のような問題に対する理解は、土地所有権や儲かる仕事と単純に取り組んでいることよりも遥かに複雑になっていることを、もし彼が理解しなかったならば―彼は、現代のフィリピン文学の多くについて、特に英語で書かれたものについて、同じように辛らつな不満を述べていたであろう。それら〔の伝統的社会問題〕は、確かに主要な問題であり続けてはいるが、しかし、フィリピン人労働者の海外への大規模な輸出やそのフィリピン家族への影響、経済、文化的流行と慣行のグローバル化、社会内部のデジタル的な分裂の成長、といった最近の発展と混じり合う問題となってきている。    1958年から、政治と文学〔の関係について〕の経験と思索において、私たちフィリピン人はどれほど遠くへ来たのであろうか。    もし、最近の政治生活にたいする文学のインパクトが何かあるとすれば、私は、それを回顧し、再検討してみたい―私の暫定的な命題は、伝統的な文学表現形式は経済的・文化的要因によって猛烈に影響が小さくなっているが、非伝統的な表現形式が停滞に活を入れており、表現に富む文学的想像力が引き続き今日のフィリピン社会の重要な政治的な力となっているというものである。    フィリピンにおける政治と文学は、長きにわたり、容易ならざる関係を持ってきているのだが、そこでは、創造的なジャーナリストたちと作家たちは、ほとんど絶え間なく入れ替わっていった植民地支配者、専制者、独裁者、圧制者からの災厄を蒙り続けてきているのである。この国の捻じ曲がった政治史は、1800年代のフランシスコ・バルタザール の反専制的なFlorante at Lauraとホセ・リサールの小説から、1900年代早期の反帝国主義的演劇を〔経て〕、1980年代以降の反マルコス運動に至るまで、フィリピン人著作家たちによる政治的抵抗運動への直接参加が起こる多くの機会を与えてきている。より大きくもっと分かりやすい国民的な政治問題の下には、もちろん、ジェンダー、宗教、地域〔間〕の、さらに―私たちの経験の中で最も重要なのは―階級の政治が潜在しているのである。   しかし、それらについて議論する前に、歴史に若干言及する方が、私の命題の基礎をすえるための、もっと〔良い〕助けになるであろう。  言語の群島    今日のフィリピンは、7000以上の群島に、そのほとんどはローマン・カソリックと、人口規模は小さいが重要なムスリムの少数民族からなる8200万の人々が居住している国である。1946年に独立を達成する以前に、私たちは、1521年にスペインによって、1898年にアメリカによって、1941年には日本によって侵略された。私たちの種族的系統は、主としてマレー系、中国系、スペイン系の血統によって構成されており、相互の間の混交は猛烈に進んでいるが、数多くの、その土地固有の部族も残存している。    1972年から1986年の間に、私たちは戒厳令を布いた独裁者フェルディナンド・マルコスによって支配された。1986年にマルコスが追放されて以降には、3人の民主的に選出された大統領がいるが、経済と政治の深刻な問題は引き続いている。この国の金持ちはとても富裕で、貧困者は本当に貧しく、その数は実に多い。フィリピン人の10人に一人は海外で生活し、働いている。世界の船員の10人のうち三人はフィリピン人である。『アジア・ジャーナル・オンライン』によると、ここマレーシアには50万人にのぼるフィリピン人がおり、そのうち20万人は不法に滞在している。   […]

Issue 8-9 Mar. 2007

Literature dan Politik Kontemporer Filipina

       Pada bulan Desember 1958, hampir 78 tahun lalu, sekitar seratus penulis terkemuka dari Philipina datang ke kota pariwisata Baguio yang berada di pegunungan bagian utara Philipina untuk menghadiri sebuah konferensi yang diseponsori oleh Philippine […]

Issue 8-9 Mar. 2007

ขับร้องแสดงความเป็นสมัยใหม่แบบอิสลาม : สร้างสรรค์นัสยิดขึ้นใหม่ในมาเลเซีย

       ตั้งแต่พรรคฝ่ายค้าน “ปาร์ตี้อิสลามเซมาเลเซีย” (พรรคอิสลามแห่งมาเลเซียหรือ PAS) ได้เป็นรัฐบาลท้องถิ่นปกครองรัฐกลันตันในปี ค.ศ.1990 พรรคเห็นว่าการแสดงละครพื้นเมืองอย่าง “วายังกูลิต” (หนังตะลุง) และ “มักยง” (ละครมาเลย์ชนิดหนึ่ง) ในที่สาธารณะและการจัดคอนเสิร์ตเพลงร็อคไม่มีความเป็นอิสลามและสั่งห้ามจัดการแสดงดังกล่าว สำหรับชาวมุสลิมที่มีทรรศนะดั้งเดิม ละครพื้นเมืองเป็นเรื่อง “ฮารัม” (ต้องห้าม) เพราะเป็นการแสดงที่จัดขึ้นในโอกาสที่มีความสำคัญในเชิงจิตวิญญาณ อาทิเพื่อการรักษา เชื่อกันว่ามีการเรียกวิญญาณขณะแสดงและยังแสดงเรื่องราวที่ไม่ใช่อิสลามอีกด้วย (อย่างเช่นมหากาพย์รามายนะและมหาภารตะของอินเดีย) ยิ่งไปกว่านั้นปะก์ โดกล ตัวตลกของวายังกลันตันไม่เพียงแต่เป็นผู้รับใช้ของพระราม ตัวเอกของละครหุ่นในเรื่องนี้แต่ยังเป็นกึ่งคนกึ่งเทพตามความเชื่อของฮินดูอีกด้วย นอกจากนี้ยังมีการห้ามสตรีเข้าร่วมในการแสดงคอนเสิร์ตและการแสดงสดเพื่อความบันเทิงทุกชนิดในรัฐกลันตันตั้งแต่ปี ค.ศ. 2002 เนื่องจากถือว่าเสียงของสตรีนั้น “เอารัต” เป็นส่วนของร่างกายซึ่งต้องปกปิด (Star 19 กันยายน […]

Issue 8-9 Mar. 2007

イスラーム的近代性を歌う:マレーシアにおけるナシッドの再創造

        野党「汎マレーシア・イスラーム党」(Islam Se Malaysia、略称PAS)は1990年にクランタン州の政権を握って以来、wayang kulit(影絵芝居)やmakyong(マレー演劇の一つ)といった伝統的な演劇やロック・コンサートは非イスラーム的とみなし、それらの公演を禁止した。伝統的な演劇は、治療を含む精神的な場において実施されるため、正統派ムスリムはこれらをharam(禁止)している。精霊は、このような演劇やイスラーム的でない舞台(インドの叙事詩ラーマーヤナ、マハーバーラタなど)にて呼び出されると信じられているためだ。さらに悪いことに、ワヤン・クランタンの道化師であるPak Dogolは、影絵芝居の英雄であるSeri Ramaの使用人となっているだけでなく、彼自身がヒンドゥの半神半人となっている。また、女性の声は、隠されなくてはならない身体の部分(aurat)とみなされるため、2002年以来、クランタン州で行われるコンサートやライブ・ショーにおいて女性は参加を禁じられている(Star, 19 September 2002)。 これまでメディアは、こうした保守的なムスリムの行動に焦点を当ててきた。しかしながら、ムスリム世界の他の地域と同様、ムスリムの間には、イスラームの実践や文化に関し、多様な解釈を受け入れる人々が存在する(Hefner 1997, p. 6-7)。マレーシアでは過去約20年間に、違いには気に留めながらも、近代性の挑戦を受け入れるイスラーム近代主義者の中間層が増加した。Gole (2002) が示唆するように、これらのムスリムは、近代的で、なおかつイスラーム的でもある文化を提示している。彼らにとって、音楽は、イスラームの言葉を広げるだけでなく、イスラームが近代世界に適応できる宗教だと示すための重要な役目を持っているのである。 本論文は、マレーシアにおいて、演奏者と聴衆をイスラーム的近代性に関する対話に引き込むイスラームのポピュラー音楽の一種、ポップ・ナシッド(pop nasyid)の展開を検討する。ポップ・ナシッドは、ポピュラー音楽における世界的な流行を取り入れ、新しい技術、メディア、マーケティング戦略を用いながらも、非西洋的なマレーシアの近代性を投影することで若者世代のムスリムを魅了している。ポップ・ナシッドのミュージシャンたちも、歌詞、音楽的要素、ビデオ・イメージ、衣装などを通し、自らを世界的なイスラーム運動の一端と結びつける。同時に、彼らはイスラームの近代的なローカルの解釈を再創造し、彼らの歌の中にローカルなマレーシアの音楽的要素を取り入れている。 マレーシアにおけるナシッドの展開 ナシッドという語は、「詩の朗誦」を意味するansyada から来ている。預言者ムハンマドがメッカからメディナへ行ったとき、彼は、メディナの人々からTola’al Badru’Alaina (ついに月が我々のところに昇った、multimedia section のwww.rabbani.com.myで参照可能)というナシッドの歌で迎えられたと信じられている。今日、ナシッド は、アッラーの賛美または他の宗教的なテーマ(普遍的な愛、良い道徳、イスラームにおける同胞愛など)についての歌詞を含むイスラームの宗教的歌謡を指す。  マレーシアにおけるナシッドの始まりは、第二次世界大戦前に、クルアン読誦の合間にイスラームの教師と学生がインフォーマルに歌ったときだった。ナシッドの曲は、イスラームの教義や預言者ムハンマドについての教えを広めるのに重要な役割を果たした。ナシッドの歌はまた、イスラームに基づく道徳や行動も奨励した。ナシッドはアカペラで歌われたり、あるいはrebana や kompang といったフレームドラムが用いられたりした。当初、歌詞はアラビア語だったが、次第にマレー語に変わっていった。1950~60年代になると、ナシッドは学校でも奨励され、州や国レベルの宗教省が組織するクルアン読誦の競技大会においても歌われるようになった。これらの競技大会においてナシッド歌手は、厳しい規則に従わねばならなかった。グループは、男性か女性かのいずれかで構成しなければならず、男女混成は許されなかった。女性は身体を覆い(tutup aurat)、男性は 頭にsongkokまたはkopiahをかぶらねばならなかった。上演中、すべての歌手は起立し、手は握るか身体の横に置いた。アラビア語とマレー語以外は使用できず、また、フレームドラムを除いた楽器の演奏は許可されなかった。また当時、ナシッドは、Awwal MuharramやAidil Fitri などの宗教儀礼でも歌われた(Matusky […]

Issue 8-9 Mar. 2007

ทางเลือกที่จะเป็นนักวิจารณ์: พบกับกริเช็น จิตใน คุยเรื่องละครกับอูติห์

         การละครของเรานั้นมีสิ่งใหม่ ๆ เกิดขึ้นอย่างแล้วอย่างเล่า  แล้วอะไรอีกเล่ารอเราอยู่ข้างหน้ายากที่จะบอก เนื่องจากนักเขียนบทละครของเรา  ซึ่งทันทีที่มีอิสระจากกฎเกณฑ์มากมายหลาย   ประการที่มีมาก่อนยุคทศวรรษ 1970  กลายเป็นคนที่เราไม่อาจคาดเดาได้  มีเพียงกฎเดียวเท่านั้นที่ดูจะยังคงจริงอยู่ในปัจจุบัน  นั่นก็คือการละครนั้นไม่มีระเบียบแบบแผนตายตัว อย่างไรก็ตามอิสระนั้นก็มาพร้อมกับความรับผิดชอบอันใหญ่หลวง  โดยเฉพาะอย่างยิ่งความรับผิดชอบที่มีต่อผู้ชม  ซึ่งการเปิดใจให้ยอมรับสิ่งใหม่ ๆของพวกเขา ยังต้องการการฟูมฟักอยู่  (Jit 1979, 8 April) ในสภาวะทางสังคมอย่างเช่นในประเทศมาเลเซีย ซึ่งประกอบด้วยวัฒนธรรมที่แตกต่าง  (ทางเชื้อชาติ ศาสนา และภาษา) อยู่ร่วมกันโดยมีสัมพันธภาพทางอำนาจกับรัฐในลักษณะที่แตกต่างกันออกไป  หน้าที่ที่จะอภิปรายเรื่องการแสดงทำให้ผู้อภิปรายต้องพูดถึงนโยบายทางด้านเศรษฐกิจสังคมและวัฒนธรรมซึ่งก่อให้เกิดธรรมเนียมปฏิบัติที่ใช้กันอยู่กว้างขวางตลอดจนอคติต่าง ๆ อาทิ การยืนยันสิทธิผลประโยชน์ของคนบางกลุ่ม (affirmative action) ซึ่งได้รับความเห็นชอบจากรัฐบาล  (เป็นนโยบายซึ่งมุ่งที่จะลดความเหลื่อมล้ำในการกระจายรายได้ระหว่างกลุ่มเชื้อชาติ) […]

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批評するという選択:“Talking Drama with Utih” におけるKrishen Jit との出会い

      こうして、我々の演劇は、ある新しいものから別の新しいものへと移ろっていく。我々の前途には何が待ち受けているのだろうか?1970年代以前に存在していた、たくさんの規則から、我々の脚本家たちが一度は自由にしてもらって以来、予言はできなくなってきており、それを言うことは困難である。今日では、ただ一つだけの規則、すなわち、演劇は固定して動かない硬質なものではない、という規則だけが流布しているようである。しかし、自由と共に、重い責任が、特に広い心がまだ育っていない観客に対する責任が、やって来たのである。(1979年4月8日、Jit)   マレーシアのような社会環境、すなわち、(人種的、宗教的、加えて言語的に)異なった諸文化が、国家と共に、さまざまな権力関係の中で共存しているような場所では、パフォーマンスについて議論するという任務は、優越的な実践とその結果として生じる偏見を生み出すところの、社会‐経済的・文化的政策と絡み合うということをもまた、含意している。具体例を挙げれば、(民族集団別の不条理な所得格差を減少させることを目的とした)国家公認の差別是正措置と(マレー語のクレオール化による「不純化」を防止することを意図した)国家言語の使用と管理は、マレーシア人のディスコースを形作る、周期的に発生する論争点である。人種や宗教といった、文化の一定の側面が「センシティブである」と分類されて―すなわち、公共的な議論が公認されておらず、その限度を侵犯した時に重大な検閲がなされる―場合、アイデンティティや国民らしさに関する論争点とずる賢く取り組むパフォーマンスは、しばしば、網から滑り落ちるのである。   これらの場に対する慎重な注意は、批評と省察のための豊富な素材を提供する。しかしながら、批判的な分析が歴史への視点を提供し、芸術解読の技法を発展させるという思考の場を創出することへの挑戦が果たされることはめったにない。Krishen Jitの長く続いたNew Straits Times紙上の芸術批評コラムであるTalking Drama with Utihは、マレーシアの風土の中での、そんな場所の一つであった。それぞれのコラムは、パフォーマンス・イベントの批評のみならず、それに関連した論点を突く、巡り会いであった。これに肩を並べる関心と分析の深さを生み出している者が、もし他にいるとすれば、残念ながら、それは、ほんの二、三の例しかない。本稿は、Jitの批評するという選択の結果として―しばしば一つの記事の中で―伝統文化・現代的不安・同時代の切望との「出会い」を創り出した“Talking Drama with Utih”のいくつかを検討する。 “Talking Drama with Utih”(「Uthiと共にドラマを語りあう」) パフォーマンスの批評は、審美的な価値の評価を越えて、作品の背景となっている政治的コンテキスト(脈絡)と文化的歴史の探求へと及ぶものである。マレーシアのようなポストコロニアルな多元的社会においては、これは、選択肢を与え、反響を左右し、文化的容認の限界を決定するローカルとグローバルの双方の影響への意識的な自覚化を含むことになる。商品化されえないものとしてのライブ・パフォーマンスは、パフォーマンスの瞬間を越えた歴史的記録と反響については、批判的論評に依存する。これを実践することは、つかの間の一瞬を、洞察と出来事への感性とその意義を提供することになる、持続する記録へと置き換えるという、法外な努力を要求する。   “Talking Drama with Utih”は、マレーシアの英語新聞の中で、最も長く存続した芸術コラムであると認められている。世に認められた演劇界の長老であったKrishen Jit(1939~2005年)は、1972年から1994年に至るまで、毎週、Uthi―マレーシア文学における桂冠作家であるUsman AwangによるUda dan Dara(マレー語:UdaとDara)という劇の登場人物の一人―という筆名を用いて、マレーシアにおける演劇と芸術について書いた。劇中では、Uthi は、彼の人間のありかたに関する洞察が事態を紛糾させるのだが、それにもかかわらず、思考を刺激してくれる能力によって崇敬されている、賢明だが一風変わった村の年長者である。Uthiは、常に慣習やしきたりを信奉せず、そして、後でしばしば彼のラディカルな考え方や強力な批評のために誤った解釈に陥る。いくつもの点で、Jitのコラムは、彼に似た役割を演じていると言えよう。   30年間に及ぶマレーシア人の生活の、大きな変化の中にあって、Uthiの声は、アイデンティティ、モダニティ、教養、芸術における公正といった論争点を探求する間に、多元的で分裂した社会のダイナミズムと深く関わってきた。不条理劇、もしくは中国歌劇として―彼自身の限界を認める自由さをもって、それ故に権威主義的に見えることなく説得的に―Jitはローカルなものを国際的なものと関連させて、あるいは、その逆もまた同様に、解釈して提示した。彼は、自らの役割を、選択の贅沢さが、気まぐれな思いつきで選んだり拾い上げたりすることを可能にする、ブロードウエイやウェストエンドの評論家とは区別されるものだと理解していた。Jitは、マレーシア人の批評家は、時に、それが、進化しつつある一つ国民文化と特徴付けられるものとして、ローカルな実験を理解する困難な任務をやり遂げなければならならず、そして、それは作り手と観客の両方の利益のために議論されるに値するものだと信じていた(Jit、1986:5を見よ)。これは、なじみの無いものに注意を払い、自らの本能を信用し、客観性と絶対的な権威への誤った信頼に対してはっきりと挑戦することを意味する。 あなたがそこで使用されている言語が分からない時であっても、いかに多くのものを見たり聞いたりできるかということは驚くべきことである…まだ慣れていない人は、その場ですぐにコード化されたメッセージを解することはできない。また、舞台の袖でも続くようなジェスチャーの中に込められたニュアンスをきちんと理解することは不可能である…たとえ仮に、ため息の意味を知らなくとも各自の理由によってそれを楽しむことは可能である…だから、もし広東語を知らないとしても広東歌劇を見に出かけよう(Jit、1986年5月25日)。 “Talking Drama […]

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タイ現代文学の潮流 ―セーニー・サオワポンよりチャート・コープチッティへの流れを中心として―

はじめに   タイ現代文学においては、他の多くの分野においてと同様に、1973年のいわゆる「学生革命」前後が一つのturning pointとなるのであるが、本稿は、具体的な文学作品分析を通して1973年の前と後との傾向及び特徴の違いの一端を捉えることを、その狙いとしたものである。具体的には、1973以前の代表作としてセーニー・サオワポン『妖魔』を、以後の代表作としてはチャート・コープチッティ『裁き』を採り上げる。この二作品を採り上げる理由は、其々がいわゆるタイ文学の「純文学」系の評価としては、その頂点に立つものであると考えられるからである。   まず『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴を、「業からの解放」という視座から捉えてみた。管見によれば、セーニーは作品中で、文学にも長らく反映されてきたタイ社会に特有の通俗的仏教観念との対決・決別を示しているのである。即ち本来のものを離れ既に社会的に通俗化した運命の享受観や業への諦観(タイ語でいうプロム・リキット的側面)から離れ、運命或は業を改変できるものとして捉える「本来的な」業理解(カンマ・リキット的側面)へと我々を誘うものであると考えられるのである。   続いて『裁き(カム・ピパークサー)』の文学的特徴を「出家と実存のはざまで」といった視座から分析した。本作品はサルトル的な自己欺瞞の否定を謳っているといえよう。世界に寄る辺なく投げ出されている実存(人間存在)との対峙、およびその対極にある自己欺瞞(に生きる人々)の否定。あるいはタイ的自己欺瞞の一つである、苦は業に因るという観念或は苦は業の結果であるとする人々の批判(そうではなく苦は人間の実存の結果であるとしている)。さらには、タンブン(喜捨)をはじめとする一般の通俗仏教信仰への懐疑などである。しかし本作品に特徴的なのは、出家に「出口」を求めている点である。ここで出家という仏教的価値観については、文中の方丈の言葉がまさに暗示の如く通奏低音として作品中に流れている。そこでいう「仏法の世界」とは出家者としての仏法の世界であり、世俗と区別した出世間のことを指しているのはいうまでもない。それは他人との出会いにより自己の失墜を招く、実存と向き合わざるを得ない世間、即ち仏教的に云うならば、パーリ語で云うところのローキヤではなく、ロークッタラ、即ち出世間なのである。   それでは以下、具体的に両者の作品分析を行っていくこととする。  【1】セーニー・サオワポン『妖魔』-「業からの解放」    本論は、本邦に於いていまだ殆んど研究の手がつけられていないタイ文学をその素材としたものである。本論ではなかんずく、タイ現代文学においての、作家の社会に対する意識の位相を探っていきたい。我々とは文化的思想的背景を異にするかの地の文学は、自ずとその趣を別にするが、中でも顕著な特色の一つに、作家の社会に対する極めて鋭敏な意識・姿勢が挙げられよう。政治的社会的不安定は、その度重なる動揺を通し、近現代の文学者の社会意識をいやが上にも我々の考える以上に鮮明なものにしていった。その外からの眼としては、先づ、大きく東南アジア現代文学の特徴として、「東南アジア社会の文学は本質的にlittérature engagéeである」と指摘する者がある。東南アジアの作家たちは、いやが上にも政治や社会の現実と対峙し、そこから顔をそむけることが殆んど不可能であった過去があるであろう。その中には植民地化の問題に由来するものもあるだろうが、それを免れたとはいえ、タイにおいても社会の現実は非常に重く作家の肩にのしかかっており、逆に社会に対する作家の極めて鋭敏な意識・姿勢はタイ現代文学の色濃い特徴となっている。タイの文化文学にも造詣の深い文化人類学者のニールス・ムドラーは、インドネシア文学に比してタイ作家と社会の係わりを次の如く強調している。「タイの作家にとってその特徴をかたちづくる中心はsocial stage」であり、「ジャワ文学のself-centredな個に対してタイ文学の個はsocial settingの中に明瞭に規定されている」と。   加えて、内からの眼としては、長らくタイペンクラブ会長をも務めたニッタヤー・マーサウィスットは、タイ文学の特徴として、タイ作家の社会正義に対する意識は幾度の政治的動乱にも屈することなく、文学の責務として脈々と続いている旨の指摘を行っている。さらには、タイにはいまだトルストイやツルゲーネフや巴金、或はバルザックやゴーリキーや魯迅も生んではいないが、それでも良いところはある、それは政治に関して割と力強い思索をしてきた点である、といった面白い指摘をした者もいる。   それでは内外のタイ研究者が共通して認めるタイ現代文学に顕著な特徴である社会意識とは一体いかなる位相であるのか。ここではビルマ大使も務めたことのある現代有数の作家セーニー・サオワポン เสนีย์ เสาวพงษ์์(1918~)およびその代表作『妖魔』ปีศาจ を中心に見ていきたい。   その為の手順として、本論考では、先ず、セーニーのタイ現代文学における文学史的位置・役割を概観し、次に『妖魔』の作品分析を通して、その位相の具体的な例を抽出していきたい。  【1.1】セーニー・サオワポンの文学史的位置    セーニー・サオワポンは、タイ現代文学史上において「純文学系」の一つの到達点であると捉えられ得る。チュラーロンコーン大学のトリーシン・ブンカチョーン博士は、セーニーの干支七順目(84歳)を記念するマティチョン主催のシンポジウムにおいて、セーニーは文学によりタイを動かし、タイ小説の歴史を変えた。さらには、先見性に富んだ著作によって未来をも予見することのできる、タイ社会のみならず人類全体の作家である、との指摘を行なった。   ここでセーニーの文学史上の意義を考える場合は、先ずタイ現代文学史上での〈人生の為の芸術〉วรรณกรรมเพื่อชีวิต の動きを顧みなければなるまい。タイにおいては現代文学は常に政治との係わりにおいて、或はその圧迫を受けながら或はその抑圧から脱しながら、歴史が流れていくのであるが、その流れの中から〈人生の為の芸術〉と呼ばれる処の動きが生起する。この〈人生の為の芸術〉はまたタイ現代文学を俯瞰した場合には、そのメイン・ストリームを為すといっても過言ではないものでもあるのだが、その中でもとりわけセーニー・サオワポンの果たした役割は大きい。   セーニーは1952年のタマサート大学での講演の中で、この〈人生の為の芸術〉の立場を表明する。とりわけ「著作と社会」การประพันธ์กัปสังคมでは明瞭に作家の社会に対する責務を打ち出し、また同年の評論「ロマン主義とリアリズム」อัตถนิยมแลจินตนิยมにおいてはリアリズム文学の意義を唱えた。こうした立場は、同時代の高名な文芸評論家たるバンチョン・バンチュートシンの次の言葉に集約されるであろう。 人が飢餓のために死んでいっている時、月の美しさはなんの役に立とう。芸術家の責務は悲惨な光景を直視するところにある。   […]

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วิถีของวรรณกรรมร่วมสมัยของไทย กระแสวรรณกรรม จาก เสนีย์ เสาวพงศ์ จนถึง ชาติ กอบจิตติ

บทนำ สำหรับวงการวรรณกรรมร่วมสมัยของไทยแล้วนั้นปี2516หรือ“ช่วงของการปฎิวัตินักศึกษา” ถือได้ว่าเป็นจุดหักเหหนึ่ง(Turning point)เฉกเช่นเดียวกับในหลายๆแขนง งานวิจัยฉบับนี้จะทำการศึกษาถึงความแตกต่างของลักษณะพิเศษในผลงานวรรณกรรมและแนวโน้มของงานในช่วงก่อนและหลังระยะเวลาดังกล่าวผ่านทางการวิเคราะห์ผลงานวรรณกรรมในรายละเอียดของผลงานนวนิยายสองเรื่องนั่นก็คือ“ปีศาจ” ของเสนีย์ เสาวพงศ์ และ “คำพิพากษา” ของ ชาติ กอบจิตติ “ปีศาจ”เป็นตัวแทนของงานในช่วงก่อนปี2516 ส่วนเรื่อง “คำพิพากษา” นั้นเป็นตัวแทนของงานในช่วงหลังปี2516 เหตุผลที่หยิบยกผลงานทั้งสองเรื่องนี้มาทำการวิเคราะห์เนื่องจากผลงานทั้งสองเรื่องถือได้ว่าเป็นผลงานแถวหน้าในฐานะการวิจารณ์วรรณกรรมบริสุทธิ์ ของวรรณกรรมไทย อันดับแรกการวิจัยได้จับประเด็นของลักษณะพิเศษทางวรรณกรรมของเรื่อง “ปีศาจ” จากมุมมองในประเด็นที่เกี่ยวกับ “การหลุดพ้นจากบ่วงกรรม” เพราะเมื่อหากพิจารณาให้ดีแล้วจะพบว่าในผลงานวรรณกรรมของเสนีย์ เสาวพงศ์เรื่องนี้นั้นได้แสดงถึงการเป็นปฎิปักษ์กับแนวคิดเกี่ยวกับพุทธศาสนาโดยทั่วไปที่เป็นลักษณะพิเศษของสังคมไทยที่ได้สะท้อนออกมาเป็นระยะเวลายาวนานในวรรณกรรม กล่าวคือเป็นการถอยห่างออกจากเรื่องของพรหมลิขิต, โชคชะตาที่ได้กลายเป็นสิ่งธรรมดาสามัญของสังคมไปแล้ว, และเป็นสิ่งที่ชักชวนพวกเราให้เข้าไปสู่ความเข้าใจในเรื่องกรรม (กรรมลิขิต) ในความหมายดั้งเดิมซึ่งถือว่าโชคชะตาหรือกรรมนั้นเป็นสิ่งที่สามารถเปลี่ยนแปลงได้ หลังจากนั้นได้ทำการวิเคราะห์ลักษณะพิเศษทางวรรณกรรมของผลงานเรื่อง “คำพิพากษา”จากมุมมองเกี่ยวกับ“รอยต่อระหว่างการออกบวชกับการมีตัวตนอยู่จริง” สามารถกล่าวได้ว่าผลงานเรื่อง “คำพิพากษา” นี้นั้นได้ปฎิเสธถึงการหลอกตัวเองตามแนวคิดของนักปรัชญาชาวฝรั่งเศส ฌอง […]

Issue 8-9 Mar. 2007

タイ現代文学の潮流 ―セーニー・サオワポンよりチャート・コープチッティへの流れを中心として―

はじめに タイ現代文学においては、他の多くの分野においてと同様に、1973年のいわゆる「学生革命」前後が一つのturning pointとなるのであるが、本稿は、具体的な文学作品分析を通して1973年の前と後との傾向及び特徴の違いの一端を捉えることを、その狙いとしたものである。具体的には、1973以前の代表作としてセーニー・サオワポン『妖魔』を、以後の代表作としてはチャート・コープチッティ『裁き』を採り上げる。この二作品を採り上げる理由は、其々がいわゆるタイ文学の「純文学」系の評価としては、その頂点に立つものであると考えられるからである。 まず『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴を、「業からの解放」という視座から捉えてみた。管見によれば、セーニーは作品中で、文学にも長らく反映されてきたタイ社会に特有の通俗的仏教観念との対決・決別を示しているのである。即ち本来のものを離れ既に社会的に通俗化した運命の享受観や業への諦観(タイ語でいうプロム・リキット的側面)から離れ、運命或は業を改変できるものとして捉える「本来的な」業理解(カンマ・リキット的側面)へと我々を誘うものであると考えられるのである。 続いて『裁き(カム・ピパークサー)』の文学的特徴を「出家と実存のはざまで」といった視座から分析した。本作品はサルトル的な自己欺瞞の否定を謳っているといえよう。世界に寄る辺なく投げ出されている実存(人間存在)との対峙、およびその対極にある自己欺瞞(に生きる人々)の否定。あるいはタイ的自己欺瞞の一つである、苦は業に因るという観念或は苦は業の結果であるとする人々の批判(そうではなく苦は人間の実存の結果であるとしている)。さらには、タンブン(喜捨)をはじめとする一般の通俗仏教信仰への懐疑などである。しかし本作品に特徴的なのは、出家に「出口」を求めている点である。ここで出家という仏教的価値観については、文中の方丈の言葉がまさに暗示の如く通奏低音として作品中に流れている。そこでいう「仏法の世界」とは出家者としての仏法の世界であり、世俗と区別した出世間のことを指しているのはいうまでもない。それは他人との出会いにより自己の失墜を招く、実存と向き合わざるを得ない世間、即ち仏教的に云うならば、パーリ語で云うところのローキヤではなく、ロークッタラ、即ち出世間なのである。 それでは以下、具体的に両者の作品分析を行っていくこととする。 【1】セーニー・サオワポン『妖魔』-「業からの解放」  本論は、本邦に於いていまだ殆んど研究の手がつけられていないタイ文学をその素材としたものである。本論ではなかんずく、タイ現代文学においての、作家の社会に対する意識の位相を探っていきたい。我々とは文化的思想的背景を異にするかの地の文学は、自ずとその趣を別にするが、中でも顕著な特色の一つに、作家の社会に対する極めて鋭敏な意識・姿勢が挙げられよう。政治的社会的不安定は、その度重なる動揺を通し、近現代の文学者の社会意識をいやが上にも我々の考える以上に鮮明なものにしていった。その外からの眼としては、先づ、大きく東南アジア現代文学の特徴として、「東南アジア社会の文学は本質的にlittérature engagéeである」と指摘する者がある。東南アジアの作家たちは、いやが上にも政治や社会の現実と対峙し、そこから顔をそむけることが殆んど不可能であった過去があるであろう。その中には植民地化の問題に由来するものもあるだろうが、それを免れたとはいえ、タイにおいても社会の現実は非常に重く作家の肩にのしかかっており、逆に社会に対する作家の極めて鋭敏な意識・姿勢はタイ現代文学の色濃い特徴となっている。タイの文化文学にも造詣の深い文化人類学者のニールス・ムドラーは、インドネシア文学に比してタイ作家と社会の係わりを次の如く強調している。「タイの作家にとってその特徴をかたちづくる中心はsocial stage」であり、「ジャワ文学のself-centredな個に対してタイ文学の個はsocial settingの中に明瞭に規定されている」と。 加えて、内からの眼としては、長らくタイペンクラブ会長をも務めたニッタヤー・マーサウィスットは、タイ文学の特徴として、タイ作家の社会正義に対する意識は幾度の政治的動乱にも屈することなく、文学の責務として脈々と続いている旨の指摘を行っている。さらには、タイにはいまだトルストイやツルゲーネフや巴金、或はバルザックやゴーリキーや魯迅も生んではいないが、それでも良いところはある、それは政治に関して割と力強い思索をしてきた点である、といった面白い指摘をした者もいる。 それでは内外のタイ研究者が共通して認めるタイ現代文学に顕著な特徴である社会意識とは一体いかなる位相であるのか。ここではビルマ大使も務めたことのある現代有数の作家セーニー・サオワポン เสนีย์ เสาวพงษ์์(1918~)およびその代表作『妖魔』ปีศาจ を中心に見ていきたい。 その為の手順として、本論考では、先ず、セーニーのタイ現代文学における文学史的位置・役割を概観し、次に『妖魔』の作品分析を通して、その位相の具体的な例を抽出していきたい。 【1.1】セーニー・サオワポンの文学史的位置  セーニー・サオワポンは、タイ現代文学史上において「純文学系」の一つの到達点であると捉えられ得る。チュラーロンコーン大学のトリーシン・ブンカチョーン博士は、セーニーの干支七順目(84歳)を記念するマティチョン主催のシンポジウムにおいて、セーニーは文学によりタイを動かし、タイ小説の歴史を変えた。さらには、先見性に富んだ著作によって未来をも予見することのできる、タイ社会のみならず人類全体の作家である、との指摘を行なった。 ここでセーニーの文学史上の意義を考える場合は、先ずタイ現代文学史上での〈人生の為の芸術〉วรรณกรรมเพื่อชีวิต の動きを顧みなければなるまい。タイにおいては現代文学は常に政治との係わりにおいて、或はその圧迫を受けながら或はその抑圧から脱しながら、歴史が流れていくのであるが、その流れの中から〈人生の為の芸術〉と呼ばれる処の動きが生起する。この〈人生の為の芸術〉はまたタイ現代文学を俯瞰した場合には、そのメイン・ストリームを為すといっても過言ではないものでもあるのだが、その中でもとりわけセーニー・サオワポンの果たした役割は大きい。 セーニーは1952年のタマサート大学での講演の中で、この〈人生の為の芸術〉の立場を表明する。とりわけ「著作と社会」การประพันธ์กัปสังคมでは明瞭に作家の社会に対する責務を打ち出し、また同年の評論「ロマン主義とリアリズム」อัตถนิยมแลจินตนิยมにおいてはリアリズム文学の意義を唱えた。こうした立場は、同時代の高名な文芸評論家たるバンチョン・バンチュートシンの次の言葉に集約されるであろう。 人が飢餓のために死んでいっている時、月の美しさはなんの役に立とう。芸術家の責務は悲惨な光景を直視するところにある。 こうした立場が、その後に与えた影響は甚だ大きく、とりわけ1973年の学生革命前後の文学界の思潮に与えた影響は計り知れない。学生革命前後に台頭してくるいわゆる新世代(ルン・マイ)の作家・評論家たちの多くは、セーニーらの打ち出した作家の責務という立場を強烈に踏襲していく。例えば、ルン・マイの代表的な評論家たるウィッタヤーコーン・チェーンクーンは、「社会に対する責務を持たない作家」は、「読者に毒を盛る」のに「自己の商品に責任を取らぬ儲け家商人と同等である」と表現しているし、また文学者ではないが他の諸々の文化的活動で有名なスラック・シワラックは、「作家の社会に対する責任は、父親の家族に対する責任にも比される。作家は作品人物の生を繰るのにプロム(ブラフマー神)と同じくらい価値を有する」と述べている。その他1957年に『人生のための芸術 人民のための芸術』を残したチット・プミサックを忘れてはなるまい。 サティエン・チャンティマートーンは、こうしたタイ文学史上におけるセーニーの文学史的役割を次の如く表している。「旧社会の不正義、非民主的非科学的な考えと闘った、社会の弱き者の人生のための芸術の開拓者。」或は、「普通の人に視点の基礎を置く歴史の場を拓いた前衛であり、1973年学生革命前後の思想・社会に多大な影響をもたらした。」 このようにタイ現代文学史上、とりわけ〈人生の為の芸術〉を核とする流れにおいて、セーニーは、創作及び評論の双方にわたって中心になる役割を担ったのである。  【1.2】『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴 本作の初出は『サヤームサマイ』สยามสมัย 誌(1953-4)であり、その後受け入れる出版社がすぐになく、初刊はクヴィエントーン เกวียนทอง 版(1957)である。物語は、農村出身の青年弁護士サーイ・シーマーと上流階級の娘ラッチャニーとの出逢いから始まり、ラッチャニーの両親をはじめとする旧社会の人々と彼ら新世代との価値観の対立などを軸に展開し、最後に彼ら二人がそれぞれに、農村に入り自らの未来を社会的に虐げられた人々の役に立てようと暁の空の下決意するところで幕を閉じる。 この作品は発表当初は殆んど反響は見られなかったが、後の民主主義運動の高揚とともに復刊され、絶大な支持を集め、タイ現代文学史上の最高峰の一つとしての定評を得るに至った。 先に述べた新世代(ルン・マイ)の代表的評論家たるウィッタヤコーン・チェーンクーンは復刊されたミットナラー版(1971年)の序文の中で次のようにこの作品を評している。  タイ国のような王子王女の恋愛物語(チャクチャク・ウォンウォン)やメロドラマ風のものしか生み出してこなかった小国にとって実に偉大な小説である。  またついで先鋭的文芸評論家たるサティエン・チャンティマートーンは、「真摯に仕事に取り組む新世代(ルン・マイ)のバイブルとなった」と述べ、トリーシン・ブンカチョーンは〈人生の為の文学〉を画期的に発展させ、内容と技法の両面に亘ってほぼ完成へと至らしたことを指摘し、強調している。 […]

Issue 8-9 Mar. 2007

エスニシティ表象としてのミュージアム -ポスト・スハルト期インドネシアにおける華人アイデンティティの創成―

本稿の目的   本稿は,インドネシアにおける華人社会団体のひとつ,印華百家姓協会 (Paguyuban Sosial Marga Tionghoa Indonesia : PSMTI,以下PSMTIとする)による印華文化公園(Taman Budaya Tionghoa Indonesia)建設計画の検討を通して,エスニシティが可視化されるプロセスと手法を明らかにすることを目的とする。印華文化公園は,インドネシアにおける華人の文化・歴史の展示を主な目的とするミュージアムとして,ジャカルタ郊外にある「ミニチュア版『うるわしのインドネシア』公園」(Taman Mini “Indonesia Indah”,以下タマン・ミニとする)に建設が予定され,準備が進められている施設である。   印華文化公園建設計画の検討に際しては,クリフォードによる「『接触コンタクト・領域ゾーン』としてのミュージアム」の概念が有効である。クリフォードは,『ルーツ-20世紀後期の旅と翻訳-』において,北米の北西沿岸のマイノリティであるインディアンに関する展示を行う4つのミュージアムの検討を通し,ミュージアムはもともと支配集団による下位集団の文化の目録化の現場であったが,現在はマイノリティによるアイデンティティ形成の場としても利用され,両集団の「接触領域」として機能していることを指摘している。 本稿は,インドネシアにおいてマイノリティ集団に数えられる華人のミュージアム建設計画の計画概要,立案者,立地,現状と課題,を取り上げ,国家と民族の「接触領域」としてのミュージアムと,ミュージアムに表象されるエスニシティの創成と可視化のプロセスを描く。   他民族国家インドネシアにおいて,エスニシティの可視化は,ショッピング・モールの装飾に始まり,街頭の像や,選挙活動の際に配られる選挙グッズまでありとあらゆる場において行われている。商業や政治など,目的に応じてエスニシティの可視化は多様な形態をとり,メッセージとして使用される。その中で,本稿が取り上げる印華文化公園は,インドネシアの華人が国家に対して語りかける場であるといえる。   なお,本稿では中国系インドネシア人,すなわち印華もしくは「中華」の福建語読みティオンフォアに相当する語として「華人」を使用する。また,民族またはインドネシア語のスクおよびスク・バンサに相当する語は,エスニシティを使用する。各種の中国語の名称に関しては,中国語の簡体字に相当する日本語の漢字を使用する 背景   インドネシアの華人にとって,1998年5月は,解放と恐怖という明暗双方の意味を持つ。1998年5月に繰り広げられた全国的な暴動をきっかけに,32年間続いたスハルト体制の崩壊によって,同体制が行ってきた華人に対する法律上の規制からの解放へと続いた。同時に,自らが直接的な暴力の対象となったことによって,華人として存在することへの恐怖感が再び共有される契機となった。   1997年後半から通貨・経済危機に陥ったスハルト体制を批判する学生運動が各地で広がる中,1998年5月12日,西ジャカルタのトリサクティ大学で行われた政府批判集会に向けて何者かが発砲し,4人の学生が死亡した。この事件を引き金に,ジャカルタをはじめ,メダン,ソロ,パレンバンなど全国各地で大規模な暴動に起こり,1100人以上の死者を出した。スハルト体制批判として始まった暴動は,スハルト体制下で経済的利益を享受してきたとされる反華人暴動に転化し,特にジャカルタでは,グロドック(Glodok)と呼ばれる華人の多い商業地区を中心に,放火や華人女性に対する暴行が多数あった。   結果的にスハルトは,5月21日に退陣し,その後ハビビ,アブドゥルラフマン・ワヒド,メガワティ政権を経て現在のユドヨノ政権まで,目まぐるしく政権が変わった。このような体制の変化の中で,華人に関する法的規制の改正は,非常に早いスピードですすみつつある。華人に関する法律の歴史的変遷に関しては,スルヤディナタ[Suryadinata 2003]やリンジー[Lindsey 2005]が詳しく経緯を述べている。ここでは,特に1999年10月から2001年7月まで政権を担ったアブドゥルラフマン・ワヒド大統領期に改正が進められ,文化,宗教,言語に関する制約がなくなったことを指摘しておく。さより最近に行われた画期的な改正としては,2006年8月1日に成立した「2006年第12号法律:新国籍法」が挙げられる。   このように,インドネシア国家における一国民として法的平等化がすすみ,表現の制約から解放されることで,華人としてのエスニック・アイデンティティを自由に表現することのできる環境が整いつつある。本来であれば,表現の自由化は個人の活動に還元されればよく,集団としてのエスニック・アイデンティティ,すなわちエスニシティを形成する必然性はない。しかし,インドネシアの華人の場合は,多民族国家インドネシアに内包される一集団として「華人」エスニシティを確立する必要性が生じた。   1998年5月の経験により,それまで出身地や職業,家族的背景や,国籍変更の時期の違いなどに応じて,地域レベルや個人レベルで確立されていたアイデンティティが,他者から見ればとりもなおさず「華人」カテゴリー内のバリエーションでしかないことが判明した。そして,他者からみた「華人」は,極端な表現を用いれば,「インドネシア土着」のエスニック・グループでないにも関わらず,国内経済を牛耳る排他的な集団であり,攻撃の対象と見なされる。 […]