イスラーム的近代性を歌う:マレーシアにおけるナシッドの再創造

Tan Sooi Beng

       

野党「汎マレーシア・イスラーム党」(Islam Se Malaysia、略称PAS)は1990年にクランタン州の政権を握って以来、wayang kulit(影絵芝居)やmakyong(マレー演劇の一つ)といった伝統的な演劇やロック・コンサートは非イスラーム的とみなし、それらの公演を禁止した。伝統的な演劇は、治療を含む精神的な場において実施されるため、正統派ムスリムはこれらをharam(禁止)している。精霊は、このような演劇やイスラーム的でない舞台(インドの叙事詩ラーマーヤナ、マハーバーラタなど)にて呼び出されると信じられているためだ。さらに悪いことに、ワヤン・クランタンの道化師であるPak Dogolは、影絵芝居の英雄であるSeri Ramaの使用人となっているだけでなく、彼自身がヒンドゥの半神半人となっている。また、女性の声は、隠されなくてはならない身体の部分(aurat)とみなされるため、2002年以来、クランタン州で行われるコンサートやライブ・ショーにおいて女性は参加を禁じられている(Star, 19 September 2002)。

これまでメディアは、こうした保守的なムスリムの行動に焦点を当ててきた。しかしながら、ムスリム世界の他の地域と同様、ムスリムの間には、イスラームの実践や文化に関し、多様な解釈を受け入れる人々が存在する(Hefner 1997, p. 6-7)。マレーシアでは過去約20年間に、違いには気に留めながらも、近代性の挑戦を受け入れるイスラーム近代主義者の中間層が増加した。Gole (2002) が示唆するように、これらのムスリムは、近代的で、なおかつイスラーム的でもある文化を提示している。彼らにとって、音楽は、イスラームの言葉を広げるだけでなく、イスラームが近代世界に適応できる宗教だと示すための重要な役目を持っているのである。

本論文は、マレーシアにおいて、演奏者と聴衆をイスラーム的近代性に関する対話に引き込むイスラームのポピュラー音楽の一種、ポップ・ナシッド(pop nasyid)の展開を検討する。ポップ・ナシッドは、ポピュラー音楽における世界的な流行を取り入れ、新しい技術、メディア、マーケティング戦略を用いながらも、非西洋的なマレーシアの近代性を投影することで若者世代のムスリムを魅了している。ポップ・ナシッドのミュージシャンたちも、歌詞、音楽的要素、ビデオ・イメージ、衣装などを通し、自らを世界的なイスラーム運動の一端と結びつける。同時に、彼らはイスラームの近代的なローカルの解釈を再創造し、彼らの歌の中にローカルなマレーシアの音楽的要素を取り入れている。

マレーシアにおけるナシッドの展開

ナシッドという語は、「詩の朗誦」を意味するansyada から来ている。預言者ムハンマドがメッカからメディナへ行ったとき、彼は、メディナの人々からTola’al Badru’Alaina (ついに月が我々のところに昇った、multimedia section のwww.rabbani.com.myで参照可能)というナシッドの歌で迎えられたと信じられている。今日、ナシッド は、アッラーの賛美または他の宗教的なテーマ(普遍的な愛、良い道徳、イスラームにおける同胞愛など)についての歌詞を含むイスラームの宗教的歌謡を指す 1

 マレーシアにおけるナシッドの始まりは、第二次世界大戦前に、クルアン読誦の合間にイスラームの教師と学生がインフォーマルに歌ったときだった。ナシッドの曲は、イスラームの教義や預言者ムハンマドについての教えを広めるのに重要な役割を果たした。ナシッドの歌はまた、イスラームに基づく道徳や行動も奨励した。ナシッドはアカペラで歌われたり、あるいはrebana や kompang といったフレームドラムが用いられたりした。当初、歌詞はアラビア語だったが、次第にマレー語に変わっていった。1950~60年代になると、ナシッドは学校でも奨励され、州や国レベルの宗教省が組織するクルアン読誦の競技大会においても歌われるようになった。これらの競技大会においてナシッド歌手は、厳しい規則に従わねばならなかった。グループは、男性か女性かのいずれかで構成しなければならず、男女混成は許されなかった。女性は身体を覆い(tutup aurat)、男性は 頭にsongkokまたはkopiahをかぶらねばならなかった。上演中、すべての歌手は起立し、手は握るか身体の横に置いた。アラビア語とマレー語以外は使用できず、また、フレームドラムを除いた楽器の演奏は許可されなかった。また当時、ナシッドは、Awwal MuharramやAidil Fitri などの宗教儀礼でも歌われた(Matusky and Tan 2004, p. 263-264)。

イスラーム復興運動とナシッド・エラ・バルの展開

マレーシアでは1970年代になると、ダッワ(dakwah)運動 として知られる、イスラーム復興運動が始まった。ダッワは「召す」あるいは「お召しに応える」を意味し、伝道はこの運動の主たる目的の1つであった。イスラーム復興運動の背景には、国家による西洋志向の開発政策への反動、社会的不均衡に関心を持つ新マレー中間層の台頭、民族意識の深化(特に中国人とマレー人との間)があると分析されている(Shamsul A.B. 1997) 2。さらに、イラン革命、中東諸国の経済力の強まり、ムスリムの間における世俗的ナショナリズムに対する幻滅も、マレーシアのイスラーム復興運動に影響を与えた。また、中東を含む海外に留学した学生は、新しいイスラームの理想をマレーシアに持ち帰った。

 ダッワ組織の間では、各々の目的にこそ違いはみられたものの、イスラームを再生させるという意味では共通の認識があった。これらの組織は、クルアンやハディス(預言者ムハンマドの言葉)の教えにより忠実に従うことを奨励し、よりいっそうイスラーム的な生活様式を実現させることを目指した 3

 マレーシアのイスラーム復興運動は、主として、都市中間層をベースとしたものだった。特に地元の大学の学生は熱心なダッワの支持者だった。他のムスリム世界と同じく、公の場でも、ムスリム女性が着用するベール(hijab、マレーシアではtudungあるいは mini-telekungと呼ばれる) 4、イスラーム関係の本・雑誌・カセットテープなどを通じて、イスラームは人目を引くようになった (Gole 2002)。教養の高いムスリム中間層は、貧困の撲滅、市場経済の功罪、社会における女性の役割、社会的多元主義、社会的不均衡といった近代的な問題を議論し始めた。彼らは、近代世界における需要にイスラームがよりいっそう適応できるようにとイスラームを再解釈しようとした、先代のイスラーム改革主義者の考え方に影響を受けていた(Hefner 1997, p. 5) 5

 その一方で、ナシッドはダッワの媒体となった。1980年代、Darul Arqamのようなダッワ組織は、Nada MurniやThe Zikrといった、彼らに関係する音楽系グループのライブ・コンサートを通してナシッドを広く一般に広めた。これらのグループは、打楽器を取り入れてナシッドを近代化したが、彼らの活動は非商業的なものだった。公演はDarul Arqamの文化ショーで行われ、運動の拡大ためにカセットテープが配られた(Ahmad Fauzi 2005, p. 17, n46)。

マレーシアにおいて、イスラーム復興運動は特にマレー語で「布教、伝道」を意味する宗教用語ダッワ (dakwah/da’wah)を用いて、ダッワ運動(gerakan dakwah)と一般に呼ばれている。この運動の主体は、主として大学生、都市中間層といったマレーシアの国家政策、開発政策が施行される過程で形成されてきた新しい階層の人々であると指摘されている(e.g. Chandra 1987, 1988; Nagata 1984)。都市部を中心とする新興マレー人社会の宗教活動の一部がダッワ運動なのであり、これは極めて今日的な現象といえる。

イスラームが文化政策の重要な柱となるにつれ、国家もナシッドを奨励し始めた 6。学校や大学ではナシッドの大会が開催され、その様子はテレビで全国的に放映された。大会参加者は、アッラーを賛辞し、アッラーに使え、クルアンを守り続ける助言を与え、イスラームを通した国家開発を強調する内容のマレー語の詞を歌った (Tan 1989/90, p. 143)。このようにして、ナシッドは、穏健派の人々の間にもイスラームを浸透させる役目を果たした。ただし、この時代においても、男女混成グループを組むこと、身体を動かすこと、近代的な楽器の使用はまだ許されていなかった。

1990年代になると、首相府により、ナシッド・エラ・バル(nasyid era baru、新時代のナシッド)を創設しようとするプロジェクトが始まった。これは、当時のマハティール首相が提唱した、新たな近代性の言説、Wawasan 2020 (ヴィジョン2020)に沿ったものだった (Mahathir 1991)。ヴィジョン2020によると、マレーシアの近代化への道は、精神的、宗教的、道徳的な意識によって導かれるべきであり、その実現に向けて、イスラームは 重要な役割を果たすものとされた。

 ナシッド・エラ・バル構想は、1994年にテレビ生放送された全国ナシッド大会で現実のものとなった。ナシッド・エラ・バルは、1995年のクルアン読誦大会の最終日でも上演された。マラ工科大学(UiTM)の地元講師やエジプトからのコンサルタントがこのプロジェクトに取り組んだ。ナシッド・エラ・バルは、ナシッドの歌、踊り、詩、詠唱に加え、衣装や小道具の使用も含むトータルなパフォーマンスだった。この上演のためのナシッドのプロデュースに加わった一人、UiTM の講師Fakhariah bt. Datuk Hj. Lokmanによれば、「新しいメディアのほか、デジタル照明やサウンドシステム、現代的な芸能のスタイルの使用は、『イスラームが、ダイナミックかつ適応性があり、近代社会の中でも生き残れることを示した。この新しい形態は、普遍的であり、イスラームの理想を伝え、一つの世界観としてのイスラームの理解を奨励し、世界の国々の間の調和を創り出すものだった』」 (2005年2月5日、個人的なインタビュー)。

 エジプトのAbdel-Hamid Mash’aal 教授によって作曲されたオープニング曲Ahlan(歓迎)は、イスラームが世代、人種、ジェンダーを超えることを示すものだった。アラビア語、マレー語、英語、中国語、タミール語で歌われ、特に「歓迎」(Ahlan / Selamat Datang/ Welcome/ Huan Ying/ Vanekem)という言葉は、これらの言語を使用することで強調された。また、様々な人種を代表する歌手たちは、各々の民族衣装をまとった。さらに、公的な場では初めて、女性が男性と一緒にステージに立って歌った。

 他の歌は、麻薬、エイズ、戦争といった近代にかかわるテーマや社会問題について取り上げ、正しくない方向にいってしまったムスリムたちに彼らの信条とイスラームの理想に戻るようにと促した(performance booklet, 11 January 1995)。同じくAbdel-Hamid Mash’aal 教授によって作曲された「ボスニアの叫び」(The Cry of Bosnia)は、戦争反対を訴えるナシッドであり、英語、アラビア語、マレー語で歌われた。

ボスニアとヘゼルゴビナのムスリムの血が流れ出る…イスラーム世界への信頼よ…(息子たちを亡くし)泣く母の涙…レイプされた少女たちの血…幼い赤ちゃんの泣き声…ショックを受けた老人たちの痛々しい嘆きの声…モスクの破壊…イスラーム世界への信頼よ…

 上演は、Fakhariah Lokman作曲の英語の歌Wawasan 2020で締めくくられた。ここでもまた、あらゆる世代や人種の代表、さらに女性も加わり、全員でヴィジョン2020の目標を歌った。

 共通の分かち合う運命を持つ、統一されたマレーシア国民…心理的に自由で、安心でき、発展したマレーシア社会…成熟し、民主的な社会…完全に道徳的・倫理的な社会…成熟し、自由主義で、寛容な社会…科学的かつ進歩的な社会…完全に思いやりのある社会、思いやりのある文化…経済的に公正な社会…そして繁栄する社会

 新聞の評論家たちは、ナシッド・エラ・バルについて、「歌手をバックアップする楽器が使われ、oud (中東のリュート)演奏者が美しいアラビア語の歌を奏で、Fauziah Latiff、Sharifah Aini、Ning Baizura といったポップス歌手たちが流行のイスラーム服を身にまとう」この新しいタイプの歌謡を「現代的かつ楽しめる」として賞賛した (New Straits Times, 12 February 1994)。 また、この歌謡はイスラームを広める有効な手段だと書いた者もいた(Utusan Malaysia, 13 January 1995)。

 ポップ・ナシッドの誕生:グローバル、イスラーム、ローカル

 Darul ArqamのNada Murniやナシッド・エラ・バルを手がかりにして、1990年代のマレーシアにおいて、ポップ・ナシッド(pop nasyid)として知られる、商業的な新しいナシッドの形態が現れた。アッラーを賛美し、イスラーム的価値観や預言者の教えを絶賛する歌詞は維持しながら、商業的なポップ・ナシッドは、アカペラ(2、3のパートを調和させる形で)や楽器の伴奏を用いて歌われた。ポップ・ナシッドの曲は、レコード会社がプロデュースし、大衆に広めた。この新しいジャンルは、ワールド・ビートやローカル・リズムを取り入れる一方、英米のポピュラー音楽(例えばWestlifeやBackstreet Boys など)にみられる多様な音楽タイプにも順応していった。また、マレーシアの打楽器だけでなく世界各地の打楽器も用いた。

 商業的ポップ・ナシッドのパイオニアといえば、Raihan (「天国の香り」)だろう。Raihanのファースト・アルバム「Puji-Pujian」(賞賛、1997年、オーディオクリップはwww.raihan.com.my)をプロデュースした Farihin Abdul Fattahによれば, レコード会社のワーナーは、新しいサウンド感の創出を目的に、歌に打楽器を加え、ナシッド音楽の魅力を高めようとした。Farihinの説明では、打楽器をアレンジし、他のマレー系音楽やポップスの演奏を行うアメリカの打楽器奏者Steve Hassan Thorntonが「ラテン系の打楽器を扱い、自分はもっぱらNusantara 打楽器を演奏した」という (NST 17 March, 19 July 1997)。

 Raihan (Warner)を追う形で、マレーシアでは他のポップ・ナシッドのグループが続々と誕生した。有名なグループとしてはHijjaz (Hijjaz Records、前BMG)、Rabbani (KRU Music-EMI)、Brothers (Ambang Klasik)、In-Team (Hijjaz Records)を挙げることができる。また、女性グループではHAWA (Juara Records)、Solehah (Polygram)、Mawaddah (Mawaddah Productions)などがいる。学生たちでさえも自分たちのグループを作っているという (Star, 1 August 1997)。さらに、ポップス歌手のWaheeda、Mawi、Ramli Saripらもこの時流に乗っている。

 次節では、ポップ・ナシッドが現代的、イスラーム的、マレーシア的な側面を持つことから、若い世代のムスリムの間で人気がある点について述べたい。また、このダッワ音楽の新形態は、ムスリムの演奏者や聴衆の間で、非西洋的な近代性とは何かについて問う議論の的にもなっている。

 世界的なポップスの潮流とともに

 ポップ・ナシッドは常時、ポピュラー音楽のグローバルな流行に敏感である。英米の若い男性バンドの場合と同様、ポップ・ナシッドの全体的な音楽的構成はソロ、コーラス、楽器演奏の各部分が交互に出てくる形態をとっている。コーラス部分は2つないしは3つのパートのハーモニーになっている。Devotees、Firdaus、Mesticaなどのグループはそれぞれ、ヒップホップ、ロック、ワールドビートの音楽形態とリズムを実験的に取り入れている。コンガドラム、カウベル、シェーカー、キーボードまたはシンセサイザーといった外国の楽器が地元のフレームや樽型ドラムとともに演奏される。また、ライブコンサートは最新のデジタルサウンドや照明装置を持つホールで開かれている。

ポップ・ナシッドは、Warner、EMI、BMGなどの多国籍企業の子会社を含む、レコード会社を介して販売するように、商業化・パッケージ化されており、CD、VCD、カセットとして売られている。多国籍企業のマーケティング戦略は、ライブコンサート、ビデオクリップ、ウェブサイト、ファン雑誌、サイン会、ポスター、Tシャツ、その他の製品というように、さまざまな物を用いる。こうした戦略の結果、Raihanのファーストアルバム「Puji-Pujian」 (1997) は65万枚以上売れ、当時のマレーシアで最高の売り上げを記録した(NST, 24 March 2000)。2000年になると、Raihanは初の映画「Syukur 21」(ありがとう21)をリリースした。これは、彼らのナシッドの歌やダッワのメッセージを市場に送り出す、新しい効果的方法だったといえよう。

ポップ・ナシッドのビデオクリップもまた、世界のミュージックビデオの形式に従っている。これらのビデオはカラーと白黒の部分を並置している。ナシッドのミュージックビデオにおいて最も幅をきかせているのは、山や川や砂漠――すべてアッラーが創ったもの――やモスクでムスリムが祈りをささげる場面が続けて映し出されるセッティングの中で、歌手がリップシンク(録音した音に合わせて口を動かすこと)するシーンである。世界のポピュラー音楽と同じように、ミュージックビデオはテレビの全国放送で流れ、また、個人用にはカラオケ用VCDが簡単に手に入る。

さらに、世界的なポピュラー音楽の潮流に乗って、コンピューターやインターネットといった新技術も生産やマーケティングの過程に用いられている。大人気のポップ・ナシッドのグループは自分たちのウェブサイトを持ち、ファンはログインして、気に入った曲や歌詞をダウンロードしたり、他のファンたちとチャットしたり、グループの写真やビデオクリップを楽しみ、グループメンバーの日記を読んだりする(例えば、www.raihan.com.my, www.rabbani.com.my, www.hijjaz.com.my, www.mawaddah.com.myを参照)。個々のグループのサイトだけでなく、ナシッド全般に関係するサイト(Nasyid e-zone、portal、web log、discussion forum等)もある(www.nasyeed.com.my や www.liriknasyid.comなど) 7。ナシッドの曲を着信メロディとしてダウンロードすることもできる。Sarkissian (2005, p. 145) がまさに指摘するように、「インターネットは、ナシッドの普及だけでなく、グループとファンのコミュニティ創生のための重要なツールとなった」わけである。

collage

 近代的なグローバル・イスラーム

 世界的なポピュラー音楽の流行を取り入れることに加えて、ナシッドの歌手や聴衆は、普遍的なイスラームのテーマを歌詞に含めたり、アラビア語を使用したり、歌い方に中東の音楽スタイルや音色を用いたりすることを通じて、自分たちが世界中の近代的ムスリムの一部だとする。彼らのビデオは、世界各地のモスクでムスリムたちが祈っているシーンや、メッカに巡礼するムスリムの姿を背景として映し出す。多くの男性歌手は、パステルカラーか暗めの色のコピア(イスラム帽)をかぶり、ズボンの上にbaju Melayu(マレーの長袖シャツ)と呼ばれる、世界中のムスリムが着るシャツを着用する。さらに最近になると、Dirwana、Nowseeheart、In-Teamなどのグループは、普段着のシャツあるいはポロシャツ の上に西洋風のジャケットという服装をするようにもなった。

女性の参加や服装に関する規定も、世界のムスリムたちとの一体感をかもし出す。女性のナシッド・グループはあるものの、男性のグループと比較すれば、それらは少数派である。ナシッド・エラ・バルと違い、男女混成のグループは存在しない。世界の多くの地域でムスリムの若い女性が公の場に出るときにするように、女性歌手は頭部をベールで覆っている。しかし、baju kurung(マレーのロングドレス)という色とりどりのドレスをまとい、ベールは創作的かつおしゃれに着こなしている。Gole (2002, p. 177, 180) が指摘するように、ベールは「新しい世代の女性たちにが…非西洋的文脈における近代の文化的シンボルとする」ものなのである。ムスリムの文脈で言えば、女性が公演に加わることやtelekung をかぶること自体が近代的となる。このように、女性の参加には制限があるものの、ナシッドは、公的な場で自分たちを表現する新たな方法を女性に提供している。

世界各地のムスリム同胞への関心を示すため、Raihan、Rabbani、Brothers、Saujana、Hijjaz、Nowseeheartなどのナシッド・グループは、1999年、 コソボ難民への基金を集めるためのアルバムを出した。同様に、Rabbaniのアルバム「Aman 」(平和)の収入の一部は、アフガニスタン難民に寄付された (NST 16 November 2001)。また、メンバー全員が女性のグループであるMawaddahは、アチェの津波災害に関する歌を作曲した(www.mawaddah.com.myを参照)。

新しいポップ・ナシッドは、様々な国籍のムスリムたちと非ムスリムたちが共生できるのだとする。ナシッド・エラ・バルと同じく、ポップ・ナシッドも、様々な国民や人種の人たちに聞いてもらおうと、マレー語、アラビア語、中国語、ウルドゥー語などの多様な言語を用いる。Raihanのアルバム「Syukur」(感謝、1997)には、Yusuf Islam(元Cat Stevens)の歌声が含まれ、またさらに、いくつかの英語の曲も入っている。Yusuf Islamが英語で作曲し、Yusuf IslamとRaihanが歌う「God is Light」という曲は、kompangやrebanaといったマレーの打楽器が伴奏に用いられている。その歌詞はアッラーを次のように賛美する。

 天の奇跡の素晴らしさ…そして時間を超える夜の美しさ…創造主の偉大さ、なんと偉大なことか…そして貴重な宝石のような星たちよ、王たちは手が届かない…

 Raihanの2003年のアルバム「Gema Alam」(世界のこだま)には中国語の曲「Cing Ai Cing Ai」(神の愛)が入っている。「中国南部のムスリム・コミュニティの間にはRaihanのファンがいる。彼らはマレー語の歌詞を理解しないにもかかわらず、Raihanの音楽が気に入っている」と知り、Raihan は中国語の曲を作ることを思いついたという (Star, 5 February 2003)。Raihanの最新のヒット曲「Allahu」(私のアッラー)はウルドゥー語とマレー語で歌われている。これは、qawalliというインドやパキスタンのスーフィー信仰音楽をアレンジした曲を、歌手のNusrat Fateh Ali Khanが神を賛美して歌うものである (Star, 11 June 2004)。

ナシッド歌手たちは、共同の作業やパフォーマンスを通じ、東南アジアや他の地域のムスリムたちとの連帯を強めている。例えばRaihanは、先に述べたYusuf Islamとの共演だけでなく、インドネシアのポップ・グループのSheila on 7やインドネシアのナシッド・グループのSnadaとも共演している。様々な言語で歌うRaihanは世界中のムスリムたちを魅了し、クウェートをはじめとする中東、南アフリカ、イギリス、タイ、インドネシア、シンガポール、カナダなどに招かれ、各国のムスリム・コミュニティのために歌った。また、Mawaddahはドイツ、フランス、イギリス、オーストラリアでツアー公演を行った (NST, November 6, 2004)。RaihanやRabbaniのようなマレーシアのグループとSnadaやHaddad Alwiのようなインドネシアのグループは両国で人気があり、彼らのCDやVCDはどちらの国でも手に入る (Barendregt 2003)。こうした状況から、世界に広がるムスリム・コミュニティが出現していることは間違いないといえよう。

ローカル・アイデンティティ

ポップ・ナシッドは、曲の中で、マレーシアというローカルなアイデンティティも打ち出そうとしている。Raihanの「Puji-Pujian」は、kompangやrebanaのようなマレーのフレームドラムの使用をその特徴としている。これらの楽器は、従来から、イスラーム音楽の伴奏に用いられてきたものである。フレームドラムは、マレーシアでは社交ダンスときの伴奏となる、masriと呼ばれる ベーシックなリズムに組み合わされるが、このリズムは中東のベリーダンスのリズムに似ている。国際的な文脈におけるイスラームのイメージに加えて、Raihanのビデオクリップの多くは、クアラルンプールの近代的な高層ビル群やマレーシアの町々にあるモスクといったローカルな風景を映し出している。

 Rabbani も新しいサウンドを作り出そうとしている。レパートリーの中にはLagu Ulik Mayang(Ulik Mayang劇場からの歌)やWau Bulan(月の凧)のような、伝統的なマレー・フォークソングが入っている(www.utusan.com.my, 29 February 2000)。Rabbaniはまた、アルバム「Intifada」(Uprising, EMI 2001)の中で、Bong (Amukのプロデューサー)、Pak Ngah (伝統的音楽分野での著名人)、KRU (ポップ・ラッパー)といった作曲家たち起用している。その結果、ポップス、伝統音楽、世界音楽の混成が出来上がった。タイトル曲の歌詞は、Rabbaniが音楽界に現れて、いかに現在の地位に達したのかということについてである。このアルバムのテンポは、他のポップ・ナシッドよりもアップビートで、最後はマレーのガムラン、serunai、ドラムの演奏によって終わる。Rabbaniのアルバム「MTV Qiblat」 (2004) は、inangというマレーの社交ダンスのリズムやポップ・ジャンルのdangdutを取り入れている。また、インドのタブラのような楽器が、マレーのkompang、rebana、conga drumsと組み合わされている。

 マレーシアのナシッド歌手たちは、イスラームの近代性についての様々な語りを表現している。ローカルな解釈が読み取れるのは、イスラームの普遍的なメッセージがマレーシア国家の開発や近代化の語りと関連付けられている箇所においてである。ヴィジョン 2020のメッセージや、精神的・文化的アイデンティティとともに近代的技術国家を創設することが、Metrowealth Moviesが180万リンギットを投じて製作した映画「Syukur 21」の中で描かれている。この映画は、21世紀のRaudahという、架空のハイテク都市を舞台にしている。ここには、住宅地、娯楽街、商業施設、学術的機関、官庁施設がある。(この映画の舞台が2021年、つまりヴィジョン 2020が達成されるはずの年の翌年になっており、映画自体の撮影が新行政首都プトゥラジャで行われたことは単なる偶然ではない。)Raudahはハイテク化が進み、都市機能は高度に洗練されたコンピューター技術によって維持されている。Kamalは、ニューヨークのNASAに30年間勤務するマレーシア人のエンジニアだが、ある日、交換プログラムでRaudahに派遣された。ところが、Azmiが率いる地元民のグループがKamalの努力を妨害しようとしたとき、災害が起こった。嵐、洪水、死である。最終的にAzmiのグループが後悔し、Kamalに許しを請い、アッラーに助けを求めたとき、すべて収まった。Raihanのメッセージは最後の曲の中ではっきりと述べられている:

 おお神よ、私はあなたの愛に値しない…私を許し、私の悔悟を受け入れたまえ…あなたは最も慈悲深い…我々はあなたに仕えるもの…神の許し…どんなに科学のために尽そうとも、神より偉大になることはない…科学の法則はアッラーの法則…

 Metrowealth Movieの専務取締役Mohd. Aliff Najmiは、「映画の中で、私たちは、人間性と愛に関しては妥協しない近代世界に生きている」と語っている (NST, 24 March 2000, www.movies.mwig.comも参照)。

 さらに最近では、MawaddahがIslam Hadhari(文明化したイスラーム)というタイトルのアルバムをリリースしたが、これはAbdullah Ahmad Badawi現首相による同名の10原則の導入と合わせたものである。Islam Hadhariの10原則は「マレーシアのムスリムが世界的な競争力を持つように力づけることを目的に、アッラーに対する信頼と畏敬、正当な信頼できる政府、自由で独立した国民、知識の把握、バランスがとれた包括的な経済開発、質の高い生活、少数民族や女性の権利の保護、健全な文化や道徳、環境保護、強固な防衛」を含む (Star, 24 September 2004)。Mawaddahのアルバムには、Masyarakat Harmoni(調和した社会)、Malaysia Indah(美しいマレーシア)、Islam Yang Telah Kembang(繁栄したイスラーム)といった曲が入っている。タイトル曲は、若いムスリムたちに寛容の精神、他者との協力、神への信頼、そして勤勉の新しい文化を創るように求めている(歌詞はwww.mawaddah.com.myを参照)。

 芸術的な緊張

 商業的ながらイスラーム的でもあるがゆえに、新しいナシッドは緊張状態を生み、新聞、インターネット上、ファン雑誌などで活発な議論の対象となっている。批評家たちがイスラームのダッワ音楽の商業化に反対する一方、演奏者たちはイスラームのメッセージが明示されている限り問題ないとする。Raihanは「成功は我々をこれまで以上に謙虚にした。我々は成功が単に一時的であることをいつも忘れずにいる」と語る (Star, 11 June 2004)。

 演奏者たちと批評家たちは、ポップ・ナシッドの形式に関しても意見を異にする (Malay Mail, April 6, 2004)。Rabbaniは「逸脱し、本来のナシッドから遠ざかってしまった」と批判されている。一部の人にとって、RabbaniのIntifadaは「イスラームのメッセージを伝えるには、あまりにポップス調になりすぎ」 だという (Star, 9 April 2001)。他方、ミュージシャンたちは、メッセージ性がある限り、様々な音楽の形態があってよいと述べる。Rabbaniらは、「ナシッドの商業化や普遍化は、イスラームのメッセージが広まるという夢の実現を助けるのだ」としている (NST, 13 January 2001)。

 加えて、女性の声はaurat(隠すべき部分)だとして、女性が公の場で歌うことは許されるべきでないと主張する保守派もいる。これに対して、MawaddahのプロデューサーであるDzulkifli Abdul Razakは、「それ(女性が歌うこと)によって、歌手への妄想を起こさせたり、惑わしたりしないのならば、許容可能だ」と反対する。彼はさらに、Mawaddahの歌手一人ひとりが「イスラーム的な生活スタイルを送らなくてはならない。彼女たちは、名声を求めたりせずに、イスラームのメッセージを広めることに専念するように教えられている」と明言している。また、Mawaddahのマネージャー、Murshidah Mustaphaは次のように述べる。Darul Arqamの前指導者Ashaari Muhamadの娘である、18歳のKhaulah Ashaariを中心としたMawaddahの少女たちは「かつてDarul Arqam の女性の特徴とされた顔を覆うベールや暗い色の衣装を捨ててしまった。古風な服装はもはや適当ではないのだ…私たちはイスラームが美しい宗教であることを示したい。そのため、魅力的な外見は重要だ。しかし、自分たちの歌手が身体の線が出るような衣装や露出度の高い衣装を着ないようには気をつけている」 (NST, 6 November, 2004, Mawaddahの衣装についてはwww.mawaddah.com.myを参照)。

 ポピュラー音楽は人々に宗教的義務を忘れさせるかもしれない、と多くが考える正統派ムスリムの間では、ライブコンサートが許されるべきかどうかについての議論が続いている。伝統的公演もロック公演も禁止されているクランタン州で、PAS政権はポピュラー音楽のコンサートに対する姿勢を和らげ、2004年の総選挙で与党UMNOに移ってしまった支持を取り戻そうとしているようだ。内部では対立意見があったものの、Mawi の愛称で知られるFantasiaのポップ・アイドルAsmaawi Ani、ベテラン歌手M. Nasir、ポップ・ナシッドのRabbani、ロック歌手からダッワ歌手へと転向したAkil Hayyを目玉としたライブコンサートが、2005年10月1日、クランタンをイスラームの市と宣言する式典の大フィナーレで開かれた。しかし、そのコンサートには、踊りや身体の動きが過剰でないこと、女性歌手を入れないこと、イスラームを主題とする種類の曲のみ演奏すること、聴衆の席は男女別々とすること、といった厳しい条件がついた(Sunday Star, 18 September 2005)。

 この論考を通して、私は、過去20年間にナシッドが多様化し、グローバル化したことを示そうとした。ポップ・ナシッドは、自分の宗教的な信条と近代性やポピュラー音楽の魅力とのうまい折り合いを求める、ムスリムの若い世代の心をつかんだ。ポップ・ナシッドは、近代的なムスリムの創造過程で重要な役目を果たし、ムスリムたちをマレーシアのイスラーム的近代性に関しての活発な議論に巻き込んでいる。ミュージシャンたちは、ポップ・ナシッドを通して穏健かつ近代的なイスラームを打ち出そうとしている。その一方で、PASなどの政党は、若い有権者からの支持を得るために、そしてまた、ムスリム以外の人たちに対しては、批評家の主張のようにPASが厳格で時代遅れではないことを示すために、ポップ・ナシッドを利用している。

タン・ソオイ・ベン(マレーシア理科大学教養学部音楽学科教授

Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 8-9 (March 2007). Culture and Literature

 参考文献

Ahmad Fauzi Abdul Hamid. 2005. “Contestations and Peace Building between the State and Autonomous Islam in Malaysia.” Paper presented at the Regional Workshop, “Peace Building in Multi-Ethnic, Multi-Religious Southeast Asia,” School of Social Sciences, Universiti Sains Malaysia, in collaboration with The Ford Foundation, Jakarta, 29 April-1 May 2005, City Bayview Hotel, Penang.
Al Faruqi, Lois Ibsen Lamya. 1985. “Music, Musicians and Muslim Law.” Asian Music 17(1): 2-36.
Barendregt, Bart. 2003. “Nasyid in the Making: Transnational Soundscapes for Muslim Southeast Asia.” Paper presented at the KITLV International Workshop on Southeast-East Asian Studies, South-East Asian Pop Music in a Comparative Perspective, 8-12 December 2003, Leiden.
Barendregt, Bart, and Wim van Zanten. 2002. “Popular Music in Indonesia; Mass-mediated Fusion, Indie and Islamic Music since 1998.” Yearbook for Traditional Music 34: 67-113.
Gole, Nilufer. 2002. “Islam in Public: New Visibilities and New Imaginaries.” Public Culture 14(1): 173-190.
Hefner, Robert. W. 1997. “Islam in an Era of Nation-States: Politics and Religious Renewal in Muslim Southeast Asia.” In Hefner, Robert W., and Patricia Horvatich (1997: 3-42).
Hefner, Robert W., and Patricia Horvatich. 1997. Islam in an Era of Nation-States: Politics and Religious Renewal in Muslim Southeast Asia, Honolulu: University of Hawaii Press.
Kahn, Joel. 2003. “Islam, Modernity, and the Popular in Malaysia.” In Virginia Hooker and Noraini Othman, ed., Islam, Society and Politics. Singapore: Institute of Southeast Asian Studies.
KKBS (Kementerian Kebudayaan, Belia dan Sukan Malaysia or Ministry of Culture, Youth and Sports Malaysia). 1973. Asas Kebudayaan Kebangsaan [Basis of National Culture], Kuala Lumpur.
Mahathir Mohamad. 1991. Malaysia: The Way Forward. Vision 2020. Kuala Lumpur: Centre for Economic Research and Services, Malaysian Business Council.
Performance Booklet. 1995. Special Performance Presentation (Closing Night), An Islamic Performance, Mashaaliman Concept, With the Cooperation of Institut Teknologi Mara, 11 January, PWTC, Kuala Lumpur.
Roff, William. 1967. The Origins of Malay Nationalism. Kuala Lumpur: University of Malaya Press.
Sarkissian, Margaret. 2005. “Religion Never Had It So Good: Contemporary Nasyid and the Growth of Islamic Popular Music in Malaysia.” Yearbook for Traditional Music 37: 124-152.
Shamsul A. B. 1997. “Identity Construction, Nation Formation, and Islamic Revivalism in Malaysia.” In Hefner, Robert W., and Patricia Horvatich (1997: 207-231).
Matusky, Patricia, and Tan Sooi Beng. 2004. The Music of Malaysia: The Classical, Folk and Syncretic Traditions. Aldershot: Ashgate Press.
Tan Sooi Beng. 1990. “The Performing Arts in Malaysia: State and Society,” Asian Music, XXI(1), pp. 137-171.

 Newspapers

New Straits Times, Star, Utusan Malaysia, Malay Mail.

 Websites (last accessed 26 January 2014)

 www.hijjaz.com.mywww.mawaddah,com.my,  www.nasyeed.com.my, www.liriknasyid.com

Notes:

  1. Al Faruqi (1985)によると、イスラームの音楽表現には3種類ある:(i) 正当なるもの (halal、許されるもの)で、non-musiqa(非音楽)として知られる、クルアン詠唱に似た特徴を多く持つジャンルから成る;(ii) 論争となっているもの (halal – 許されるもの、mubaah –無関係, makruuh –好ましくないもの、haram – 禁止)で、musiqa(音楽)とみなされる; (iii) 違法なもの (haram)で、イスラームの勅令に合わない違法行為との関連で用いられるmusiqaとみなされる。高貴なテーマを歌う詩だとして、ナシッドはhalal non-musiqa(許される非音楽)に分類される。
  2. 1974年、大学内のダッワのメンバーを含む何千人もの学生が、農民の飢餓と貧困を訴えるデモを行った。
  3. 主なダッワ組織としては、(1)経済的な自給自足を目指した、共有地ベースの組織で、1994年に禁止されたDarul Arqam、(2)大学生の間で人気があり、政党政治に参加したメンバーもいるABIM(Angkatan Belia Islam Malaysia、マレーシア・イスラーム青年組織、1971年結成)がある。詳しくは Shamsul (1997) を参照。
  4. Telekungとは、ムスリム女性が祈りのときに着用する長いベール。Mini-telekungまたはtudungは、telekungの短いタイプで、世界的流行のローカル化を示す。
  5. イスラーム近代化改革の動きは、1920~30年代にかけても展開された。当時はKaum Muda (「青年団」) がその先頭に立った(Roff 1967)。彼らは、マレー世界に進歩をもたらすとする、近代的ながらもイスラームである社会のヴィジョンを明示した。
  6. 1971年、国会において、マレーシア国民文化は「地域に固有の人々の文化に基づく」ものにすべきで、「他の文化の要素は適当かつ妥当ならば取り入れてもよい」し、また「イスラームは、重要な要素とする」と位置づけられた(KKBS 1973: vii)。
  7. インドネシアにおけるナシッドのデジタル雑誌、ポータル、フォーラムのリストはBarendregt and van Zanten (2002)を参照。