旅行警告-インドネシア、合衆国国務省、2003年4月10日。当旅行警告は合衆国市民に対し、インドネシアにおいて進行中の治安悪化を知らしめることを目的に発されたものである。… 合衆国公的機関の防衛対策を受けて、テロリストは民間の標的を探索中である。特にホテル、クラブ、レストラン、宗教施設、屋外で行なわれる娯楽イベント等の、アメリカ人が居住、集合、訪問を行なうような施設がそれらに含まれているといってよいだろう。… この旅行警告を知ってなおインドネシアに旅行または、居住するアメリカ人は低姿勢を保つこと。必要な旅行の時間と路線に変化を持たせ、自らが置かれている周囲の環境に厳しく注意を払うこと。… ほぼ何の前触れもなく暴力と不穏な情勢が巻き起こる可能性がある。テロ行為を含む脅威は、ジャカルタ、ジョクジャカルタ、スラバヤ、カリマンタン、スラウェシなどの広範な地域に存在している。 国務省によるこの旅行警告にもかかわらず、夫と私はジャワへと飛んだ。それは、バリのクタビーチにおける二〇〇二年十月の爆破事件の二,三ヵ月後であり、アメリカ軍のイラク侵攻の二、三ヵ月前のことであった。ジョクジャカルタにおいて、彼は教鞭をとり、私は編集作業を行なう予定であった。前述の勧告は情勢の不穏、背後に控える脅威、また何らかの事件の勃発にまで言及していた。しかし、「アメリカ人が居住、集合、訪問を行なうような」場所を探すテロリストは、ジョクジャでは困難を味わうだろうということがすぐにわかった。というのも、お目当てのアメリカ人は、ごく僅かしかみつからないのである。土産物、銀製品、バティックの店、ペーパーバック古書店、旅行代理店、欧米の旅行者向けのレストランは殆ど空の状態だった。プラウィロタマンやソスロウィジャヤンの近郊にある旅行者向けの店には活気がなかった。しかし旅行産業が活気を失っている一方で、インドネシア人の輸入品に対する嗜好に応える欧米系の店舗は賑わいをみせていた。カリウラン通りの豪華でガラス張りのケンタッキーフライドチキンやその向かいのダンキンドーナツ、記念碑脇にあるピザハット、喧騒に包まれたマリオボロモールのウェンディーズ、マクドナルド、テキサスチキンに爆弾を仕掛けたとしても、犠牲者は十代二十代のジャワ人中産階級であるのに違いない。 ジョクジャカルタの私たちは、丸い地球の上で出来得る限り故郷を遠く離れていた。ニューヨークの午前八時はジャワの午後八時だ。私たちにとってここはエキゾチックな場所であり、果物や自然環境は一見したところ学部時代に読んだ海洋小説の中に見覚えがあった。ジョクジャ北部には活火山のグヌンムラピがそびえ立っていた。標高は約三〇〇〇メートルの孤高の山は、常に白い雲を頂上にたなびかせていた。その輪郭は、子供の描く山の絵のように簡略で、周りに従える者もなく、山陰は空の青より濃かった。ムラピは殆どいつも全く姿を隠しているのだが、これは火山の習いとして雲に包まれているのに過ぎない。ジャワを越えてバリやロンボクへ飛ぶ旅行者は、雲間から、また晴れていれば大地からそびえる火山をそこここに見つけることが出来る。 私たちは青い火山に魅せられたが、押さえ込まれた脅威の象徴としてではなく、まるでその山がおとぎ話そのもののように見えたからである。そこである日私たちはバイクを北に走らせ、ムラピの裾野にあたるカリウランに向かった。カリウランは緑が濃く、標高の高い比較的気候の涼しい場所であった。その街は貧しく、週末旅行者(ウィスマス)用の柱がむき出しの住居が点在していた。そのうちのいくつかは、アイルルパナス(温水)使用可の部屋があることを宣伝していた。私たちは国立公園の入り口を見つけ、森の中にある展望台に向かって登っていったが、そこでもまだ雲しか眺めることができなかった。火山はまだ私達の眼前に現れず、頭上高くにあるようだった。 展望台で、私たちは三人の人間に出会った。上着を着ていない二人の男性と、もう一人の女性はインドネシア人で、英語を話す者はいなかった。私たちが姿を現すと、二人の男性のうち背の高い方が、何事か叫びながらやって来て、ダリマナ?と訊ねた。私達がカミ ダリアメリカ、私たちはアメリカ人だと答えると、彼は何かペラン、「戦争」に関することを大声で語った。この単語については、私は週の初めに辞書の中から既に拾い出してあった。この日は三月二十六日、アメリカ合衆国がイラクへの爆撃を開始した六日後であった。 たどたどしい言葉での会話が続いたが、夫も私も「戦争は良くない」ペランティダクバグスという私たちにとっての決まり文句を申し出た。そしてアール・ゴアがどんな人物か説明しようと試み、私たちは彼に投票したのだと語った。しかしこれらの言葉は、あるいはアルゴアという単語は、私達の耳にすら薄っぺらなものに響いた。私達はニューヨーク州にある小さな街からやって来て、そこはニューヨーク市とは違う場所であることを説明するため、ここがカリフォルニア、ここがテキサスと、そう役に立つとは思えない地図を地面に描いた。男性は、自分は貧しい人間(ミスキン)で三十八歳だが家は無い、アメリカに行きたいので連れて行ってくれないか、と言って笑った。 私達は女性から二本のソフトドリンクを買った。彼女は売り子で、細い筋肉質の脚をしてゴムサンダルを履いていた。ソーダ水と水の壜を並べた箱を布製の紐で背中に吊り下げて、険しい山道を運んできていた。男たちが笑ったので、私達は彼女が高値を吹っかけたことに気づいた。が、私達は喜んで高値を吹っかけられるという基本方針を立てていた。もちろん限度はあるが、これは国際交易に対するささやかな私達の良心だった。 山上の三人に別れを告げると、私達はカリウランの街を散策した。百日草に似た花、間違いなくバラだと言える花、彩色された家々、雄鶏、不思議なほど性質の良い犬、有刺鉄線に囲まれ、夢の中で見かけるような古びた地元の運動場、しっかりした門扉の背後に建っている、見るからに宿泊客のいなそうなタイル張りの屋根をした公共宿泊施設などが目に入った。宿泊するホテルの裏手近くで、子供たちが私達のピンク色の顔、黒くない髪を見ながら「ハロー、ハロー!」と英語で叫んだ。車に乗った一人の母親がクラクションを鳴らしたので、私達は彼女の子供に向かって手を振り、「ハロー!」と叫んだが、自分達がいかにもアメリカ人らしい行動をとっているように感じていた。翌朝になっても、まだムラピを見ることはできなかった。 合衆国国防長官のポール・ウォルフォヴィッツは、レーガン政権下においてインドネシア大使を三年間務めた。彼はムラピ山にガイド付で登山し、下山後、この山に関する気の効いたスピーチを行なった。ウォルフォヴィッツが大使だった時、インドネシア人は彼を大変に好いていたが、国防長官となってからは、彼とその同僚たちがインドネシアをテロリストの横行する国と決め付けているため、裏切られたように感じているとパク・ドゥジョコというインドネシア人の教授が語ってくれた。そこで旅行警告の登場である。また、一方では、観光産業と海外投資の著しい低落ぶりが起った。このことは一九九七年のアジア経済危機で既に打撃を蒙っていたインドネシアの経済に追い討ちをかけた。 インドネシアを理解しようとする私達の試みは、今や私たちが遠く離れ、ポール・ウォルフォヴィッツとその同僚たちが影響力の頂点の上に立っているアメリカ合衆国を理解しようとする努力と絡み合っていた。群島のインドネシアと巨大なアメリカ、この巨大な国家という存在は、ある時ははっきりと、またある時はぼんやりと見え隠れしながら聳え立っていた。 初めてジョクジャカルタに上陸した時、私達はプリアルサホテルを訪れ、通りを南に進んだ場所にあるプリバハサでインドネシア語を習う申し込みをした。ホテルは殆どがら空きだったので、朝食の時私達を取り囲んでいたのは、赤色でどぎつく飾り立てた薄暗がりの中、籠に入ったさえずる鳥、小さな水槽の中で果ても無く泳いでいる大きな魚だった。朝食を済ませると私達は部屋に戻り、エディー・バウアーのバッグに本、筆記用具、持ち運び可能な貴重品を詰めてインドネシア語の授業に向かった。 本通と平行したジャランセンドゥラワシは長い道ではないのだが、私には長く感じられた。騒がしく、暑く狭いこの道にはバイクの音が響き、露天がひしめき合っていた。私達はこれらに押しやられたような感じで一列になって歩いた。路上で行なわれている生業が何事であるのか私にはまだわからず、看板を読むこともできなかった。ジョクジャの最も一般的な食堂は、柱に防水シートの屋根をかぶせたワルンという売店であることも知らなかったし、街角のテントの下に腰掛けた男達が、バイクの修理やパンクしたタイヤの継ぎ合わせを手がけていることも目に付かなかった。ある店の前に水の壜が毎朝ピラミッド型に積み上げられていることに私達は気づいており、それを一つの目印にしていた。だが、そのワロンステーキアンドシェイクの暖簾をくぐり、メニューを見ながら夕食を注文する勇気が出るまでには、しばらくの時間がかかった。殆ど気づいていなかったのだが、幸いなことに英語はジャワの都会においてかなりの権威を得ていた。近隣の看板に書かれていることの多くは、私たちにとって自明で理解可能な印刷文字だった。例えば、ドライクリーン、レディースアンドジェント、サウンドシステム、フェイシャル、インターネットなど。またステーキアンドシェイクのメニューの中には、フレンチフライ、サーロイン、ブラックペッパーステーキ等の語があった。 毎朝、徒歩旅行を済ませると、私達はプリバハサの門に到着し、語学教師の下に投降した。プリの狭くて屋外にある教室は、それぞれにインドネシアの島の名前がつけられており、それぞれの島の写真と物産で飾られていた。がたがた音を立てている扇風機と白板が取り付けてあり、屋根の張り出しと粘土製タイルのひさしが灼熱を遮っていた。私達はここにバハサ、この国の公用語を学習しに来ていた。この言語は、もともとマレー半島とスマトラ島から発し、広く交易に用いられた国際語に由来している。 バハサは分類的には混生語である。容易に学べて、港とそこを訪れる舟の間で使用することを目的に作られた言語である。名詞、動詞には格、性、語形変化、活用が無いため、学習者は早い段階から簡単な文章を組み立てられるようになる。バハサのうちの単語の一部は、様々な意味範囲を持っている。例えば、パカイという語は、使う、着る、・・・と、などの意味で使うことができる。ハンマーをパカイすることもできるし、ブラウスをパカイすることもできるし、お茶を「パカイ砂糖」で飲むこともできる。バハサはまた、他の言語から単語をすぐに取り入れていく言語でもある。そこで、パスポル, スタトゥス, フレクスィベル,エフェクティヴ,エクスルスィブ,ノルマル,デモクラスィ,コンフィルマスィ,レヴォルスィ,トラディスィ, コルスィ,コルプスィ,ネポティスメなどの言葉がある。 (二〇〇三年三-四月の新聞にはレコンストラクスィ, トランスィスィ, アグレスィの語も見られた。) 私は迅速に言葉が上達するさまを思い描いて、授業を受けることを心待ちにしていた。もちろん幻滅を感じるではあろうことも予測はしていたが。新しい単語を覚えようとして長い時間を費やした。友達を空港に迎えに行く時は、メンジャムプトだっけ、メンジェムプトだったっけ、それともメンジェムパト……. ジャムがあってそれからパトかプト?それにどうして皆飛行機をペサワットと言うの? 授業を受けてみて再び私が気づいたのは、単語は物体ではないということであった。林檎という語を齧ったり投げたりすることはできない。何度も繰り返して使ってみるうちに、林檎という単語は次第に架空の香りと形を持つようになっていくのだ。 プリでは、ふとしたことから教えられることがあった。世界中のかなり多くの人々が複数の言語を話し、我々アメリカ人は鈍感な単一言語主義で知られることを思い知らされた。教師たちはジャワ語(あるいはバリ語)とバハサの両方を話し、英語もかなりうまかった。私達の出合ったヨーロッパ人は英語を流暢に話した。オランダ人は私達と話す時だけでなく、ドイツ人の少女と話す時、また教師に質問する時にも英語を使っていた。この点に関して一番お粗末なのは私達だった。イラクの非武装化に期限を設けるか否かという点に関し、イギリスとアメリカ合衆国側、フランス、ドイツ、ロシア側の国連安全保障理事会での対立が激しくなってきた時、ヒューと私は休み時間には教室にとどまって、旅行警告の勧める「低姿勢」を保ちながら 他の人々と低い声でおしゃべりをした。 個人的、また国家的な様々な意味において、謙遜と誇りが思いもかけずどっと襲ってくるのを私は感じた。私が注目したのは、表面下に湿った暑い空気を、背後に骨折りを隠して語られている言葉だった。明らかな嘘を録音放送に撒き散らすイラクの情報相ムハンマド・サイード・アル-サハフをテレビで見るのが私は嫌だった。カメラの前でスローガンを叫ぶジョージ・W・ブッシュやドナルド・ラムズフェルドを見るのは多分それ以上に不愉快だった。ブッシュは大衆の前で喋るために大した努力をしていたが、その努力とは、練習済みのフレーズに頼り切ることであった。これらの丸暗記の言葉は、呼び出しがかかるともつれながらから飛び出してくるようで、外国語で自分について語ろうとする生徒のような印象を与えた。「国連の役割は重要だ。」大統領、重要な役割とは、具体的には何を意味しますか?「だから言ったとおりだよ。重要な役割さ。」こういった発言がどのように感じられるか、私はまざまざと知った。彼を眺めることは実に堪らなかった。 が、大学に在学中か、既に卒業した息子を持つような年齢のアメリカ人旅行者がいつも謙虚でばかりいられるわけはない。授業に出、二十代でありながら母親じみたやさしさを持つ二人の教師に向かって子供のように(あるいは子供より下手くそに)話すことを思うと、時折ふと、私達のどちらか一人は気が重くなるのだった。実際、四月の初めに「抵抗地域」ウム・カスルとバスラにおける醜悪な驚きと、自軍への悲惨な誤爆事故が「昨日のイラク関連ニュース」となった後、プリバハサの教室で、私は疑い深く、暗く、弁解がましくなっていた。ジョクジャの通りを歩いている誰もが「ハロー、メエースター!」と挨拶するので訂正しながら「私はアメリカから来たんじゃない。フランスから来たんだ!」サヤティダクダリアメリカ、サヤダリプランシス!と叫び返すのだとフランス人が(早口のバハサで)説明するのに再び耳を傾けることができなかった。 「この間抜け!」と私は考えていたが、その言葉をバハサでなんと言おうかとは考えてみなかった。この時の私は、自分が反イラク戦争派のフランスとその個人的体現者を支持していることを忘れていた。 私がこの反駁の言葉を口にすることはなく、心中に飲み込んだ。そこで胡椒と煙の味がする自国語の味はなかなか消えることはなかった。 ジョクジャカルタは、ハムンク・ブウォノ十世という名のスルタンを戴くにふさわしく壮麗で、また大学街でもある人口四十五万人の都市である。周囲は水田で囲まれ、雄牛や水牛と働いている者もまだいる。路上では馬が簡単なつくりの乗り物を引いていたり、人がベチャ(輪タク)をこぐ姿を目にすることができる。こういった乗り物は、スピードを上げてとばすバイクの中を静かに進んでいく。バイクの運転はジョクジャでは特に荒っぽい。これは、皆大学生が運転しているからなのだと説明された。 気候があまり変化しないため、多くのインドネシア人は一年を通じ、車よりバイクに乗っていることが多い。それは、住居やレストランが、しっかりと壁で覆われていなくとも構わないのと同じである。私たちが結局借りることになった大学関係者用住宅は、広々としていて、もともとノルウェーの交換留学生のために建てられたものだった。この建物には壁がないのだが、それと気づくのに何日かかかった。主室には重たげな勉強机と、七人のノルウェー人がついたとしても充分に大きい丸い木製の食卓が置かれていた。この部屋は、背の高い窓の広々とした空間から明かりを採り入れており、窓は白くて蜂の巣状の格子と蚊避けのネットで覆われていた。が、家の背面の窓にはガラスが入っていなかった。 このような様子なので、ジョクジャを訪れたアメリカ人らは、室内にいても何だか屋外にいるように感じ、屋外にいれば、さらにもっと外にいるのだという印象を受けている。仕事をするにせよ、食事をするにせよ、あるいは人との交流を持つにせよ、人目に、またアスファルトに晒されているような感じが強い。路上では、曲芸並みの運転は何も珍しいものではない。すんでのところで事故を起こさない様子にははらはらさせられた。コンピューターを膝の上に載せた者、長い巻いた絨毯を腕に抱えた者、沢山の鳩を入れた木箱を背中にしっかり括りつけた者、細い手足でまるで騎手のようにしっかりと捉まっている天真爛漫な子供を運ぶ者などがいる。幼子の母親は夫に身を寄せてバイクに乗り、首から肩へと吊るしたスルダンと言われる布製の紐で子供を支えている。合流地点にたどり着くまでに止まろうとする者はいない。合流は多分大丈夫だろうと信じることによって成り立っている円滑な動きである。事故は起っている。東南アジア地域のバイク関連の事故は、この地域の経済発展に対する障害物の一つであるとジャカルタポストは報じている。 私は人類学の教授にこう訊ねたことがある。儀礼におけるマナーの素晴らしさで知られるジャワ人が、向こう見ずなバイク運転者で溢れた都市を作り出してしまうことがどうして可能なんでしょう?彼は答えた。「ああ、それは簡単ですよ。道というのは国境地域ですからね。」 中産階級のアメリカ人を危害から守るために作られた、物理的な防御のための法的、規制的なネットワークは、インドネシアには再現されなかった。通常は費用が嵩みすぎ、輸入した場合、あまりにも奇妙なものになってしまうからである。ジョクジャから見る限り、アメリカ人は国内外からの脅威に危険な状態で晒されているようには思えない。それどころか、シートベルトをし、チャイルドシートを設け、安全なヘルメットをかぶり、塩素で消毒され、保険を掛け、厳重に武装し、海上を防衛し、恐ろしく安全だ。 私達がインドネシアを訪れることで蒙る危険は、インドネシア人たちがうまく出し抜いている日常的な危険に比べれば小さなものである。私たち自身は、インドネシアの論理、熱気、活気、実情に自らを充分晒すことができるということだ。毎朝、ジョクジャの街並みがいつもの賑わいをみせる中で外出すると、合衆国国務省の撮ったインドネシア群島のスナップ写真は国務省特製のレンズでかなりの高所から撮ったものだということがわかる。テロリストの脅威、地獄、それでは十番バスは? このように感じていたので、路上を歩く時、私はほんの小さなことでも観察することを喜んだ。これは多分、一時的な滞在者としての適応能力が向上し、その結果安全性も高まっていると感じさせてくれるからだったのかもしれない。ジャランコロンボの路上では、ベンジン(ガソリン)の蓋付壜が売られていた。キャンパス内で手押し車の上で売られているそれと同じような形の壜は琥珀色の液体で満たされ、バナナの葉の小片で栓をされていた。この違いを見分けられるようになったが、このことが私は妙に嬉しかった。そこで私はキャンパスに出向くと顔に傷のある男からこの濃い色の液体を買い、ビニール袋にあけてストローで飲んだ。いったい何を飲み干しているのか見当がつかなかったが(砂糖味のタマリンドジュースかココナツの花のシロップから作ったグラジャワだろう)、「これはガソリンじゃないわ!」と言うことはできた。 夫と私は、ジョクジャにおいていつも安心ばかり求めているわけではなかった。時折、非常に慎重にではあるが、私達はトラブルを求めた。四月十日の旅行警告は、インドネシアのアメリカ人に「暴力行為に発展する恐れのある政治的なデモを避けよ。」と命じていた。私達の家からは、ガジャマダ大学のキャンパスの音が耳に入った。同大学内のロータリーは抗議行動を起こす人々の恰好の舞台だと聞かされていたため、私達は耳を澄ましていた。ある朝早く、私達は拡声器から流れる怒った声を聞いたが、その意味はわからなかった。ヒューは警告を重んじて大学内のオフィスまで迂回した道を通っていった。後になって、この時の群集は、北部における茶農園に対する大学の所有権に抗議するためにバスで訪れたスマランの住民であることを知った。彼らは土地の返還を要求していた。これは国内の紛争であり、アメリカの対外政策とは関わりがなかった。それからまた二、三週間の後、私達は再び拡声器の声を聞いた。その日は三月二十三日、日曜日の朝で、アメリカのイラク爆撃が開始されてからわずか後であった。私達は見に行くことに決めた。ドアから一歩を踏み出した時、その日は特に長くて白く見える自分の脚を見て動揺を感じた。前方に進んで行くと、キャンパスの芝生の傍に人と駐車された乗り物の一群があった。空には風船が漂っていた。 私達は人ごみに向かってジャランカリウランを横切った。歩を進めていくと、ロータリーに向かう大通りにワルンやCD、木製パズル、ヘラとフォーク、棘の立った果物の売り子が列をなしているのが見えた。子供が沢山おり、芝生の上では曲芸が演じられていた。シャボン玉売りは、私達に二組のセットを売ったが、それは、1)液状石鹸を入れた使用済み三十五ミリフィルム入れ、2)端の部分を糸で巻いてカーブさせ、ループ状にしたストローで成り立っていた。これは、ガジャマダ大学の日曜早朝蚤の市だったのである。拡声器は、ブーム!という口中清涼ミントを売る会社をスポンサーとしているロックバンドのものだった。お揃いのTシャツを着たインドネシア人の若い女性がただのミントを差し出した。私はミントを差し出した二人目の少女からそれを受け取った。一人目の少女は私に手を差し出すと目を見開いたので、私は脇に飛び跳ねてしまった。これは「(私が)置かれている周囲の環境に厳しく注意を払うこと。」という警告を意識した結果なのである。 次の週になると、インドネシア人たちは、イラク人死傷者のぞっとするような写真をテレビ放送で眼にするようになった。こういった写真は、バグダッドへのミサイル攻撃が終了した後も、四月、五月を通じて放映されていた。メトロTVは、スハルト政権の崩壊後に認可を受けた民間の二十四時間ジャカルタニュース放送局である。この局が繰り返し放映していたフィルムモンタージュは、負傷したイラク市民の映像に、インドネシア人の少女がインドネシア語で、四肢を失ってどうやって生きていくのかと、手足を失った若いイラク人に向かって歌いかける映像が重ね合わされたものであった。 こういったメッセージには聞き手がついた。空港の雑誌販売店で、イスラム教徒の女性(頭にかぶっていたジルバブでわかる)は私を見つけると、どこからきたのかと訪ねた。私が「アメリカ」と答えると、彼女はジェスチャーを交えながら、アメリカの爆弾で腕を吹き飛ばされた小さなイラク人の少年を見た時、自分は泣いてしまったのだと、バハサで強く訴えた。涙が止まらなかったのよ、と彼女は指で涙が頬を伝う様を示し、私をじっと見つめた。私の国に対するこういった批判者に対して、対峙し、評価し、その存在を認めようとするつもりでいた。が、この正々堂々たる出会いに出くわすや、私は弁解的な反駁をバハサで創り出していた。イブ、アンダセディジュハウントゥクオランーオランマティディアチェ、ティモール、ダンパプアダリTNI? メンガパ?オランーオランイトゥティダクディTVクマリン?「イブ、あなたはインドネシア軍に攻撃されたアチェー、東ティモール、パプアニューギニアの死者についても悲しんでいるの?どうして?この人たちは昨日のテレビには出てこなかったから?」 インドネシア人の抱いていた(そしてもちろん抱き続けていくであろう)一般的な感情は、アメリカのイラク侵攻に対して強く反対するというものであった。ジャワ人の礼儀正しい語学教師の一人は、彼女もまたジルバブをかぶっていたが、当時広まっていたジョークで、ヒトラーの魂がジョージ・W・ブッシュに入ったのではないか、と言ったような類のものを説明しようとしてくれた。ジョクジャカルタのイスラム原理主義者にインタビューを行なったガジャマダ大学の宗教学専攻の大学院生は、以下のように語った。原理主義者たちは、イラクにおける行動を、彼等の宗教的同胞に対する世界的な陰謀の一つに数えられる侵略行為のリストに付け加えようとしている。そこで、パキスタン、チェチェン、アフガニスタン、ボスニア、パレスティナ、また近い所ではインドネシア人同士のキリスト教徒とイスラム教徒の衝突が致命的に激しいスラウェシ島中央部、モルッカ諸島(特にアンボン島)に関する記録と共に、イラクにおけるイスラム教徒の犠牲者についての記録が残され、インターネット上に記事として掲載される。 […]