KRSEA-Laos-sticky-rice
Issue 25 Mar. 2019

ที่ดิน-ป่าส่วนรวมของลาวในศตวรรษที่ 21: ระบบทุนนิยมกสิกรรมและ “หลักประกันการยังชีพที่ไม่ถูกทำให้เป็นสินค้า”

ในช่วงสองทศวรรษที่ผ่านมา เครือข่ายของนักเคลื่อนไหวที่ประสานกันอย่างกว้างขวางทั้งใน สปป.ลาวและต่างประเทศช่วยกันผลักดันให้มีการแทรกแซงเชิงนโยบายเพื่อส่งเสริม “การสร้างความเข้มแข็งแก่การถือครองที่ดินเชิงจารีตประเพณี”  เป้าหมายคือการวางรากฐานความคุ้มครองทางกฎหมายแก่สิทธิของชุมชนชนบทต่อที่ดิน-ป่าส่วนรวม (forest-land commons) ในบริบทที่การล้อมเขตที่ดินกำลังแพร่สะพัดสืบเนื่องจากการยึดครองที่ดินขนาดใหญ่  การสร้างหลักประกันแก่สิทธิถือครองที่ดินควรได้รับการส่งเสริมจากกระบวนการวางแผนการใช้ที่ดินโดยประชาชนมีส่วนร่วมมากขึ้น รวมทั้งการพัฒนากระบวนการที่ทำให้เกิดสถานะทางกฎหมาย โดยมีเป้าหมายสูงสุดคือการจดทะเบียนและให้เอกสารสิทธิ์แก่ที่ดินชุมชนหรือคณะบุคคลให้มากที่สุดเท่าที่ทำได้  ถึงแม้มีการริเริ่มนำร่องบ้างแล้ว  แต่ความคืบหน้าสู่เป้าหมายก็ยังไม่ต่อเนื่อง ในระดับหมู่บ้าน กระบวนการในท้องถิ่นที่ทำให้ภาคเกษตรกรรมกลายเป็นการพาณิชย์ยังคงเดินหน้าต่อไป  การเปลี่ยนผ่านในภาคกสิกรรมของลาวมีผลตามมาคือการล้อมเขตที่ดินระบาดไปทั่ว ทั้งในแบบ “จากเบื้องบน” (กล่าวคือ การยึดครองที่ดินของรัฐ-บรรษัทเพื่อโครงการด้านธุรกิจเกษตรและโครงสร้างพื้นฐาน) และการแปรรูปที่ดิน “จากเบื้องล่าง” (กล่าวคือ ผู้ถือครองที่ดินรายย่อยหันมาปลูกพืชผลเพื่อการค้า รวมทั้งการให้เช่าและการขายที่ดินในหมู่บ้าน)  ในขณะที่การลงทุนด้านการค้าช่วยเกื้อหนุนรายได้ยังชีพส่วนสำคัญแก่ชาวชนบทจำนวนมาก  แต่สภาพการณ์ทั้งหมดนี้ก่อให้เกิดผลกระทบด้านลบต่อสมบัติส่วนรวมด้านสิ่งแวดล้อมทั่วทั้งประเทศลาว  ในบริบทเช่นนี้ การคุ้มครองสิทธิถือครองที่ดิน-ป่าส่วนรวมตามจารีตประเพณีของหมู่บ้านจึงเป็นประเด็นสำคัญทั้งต่อนโยบายที่ดินและเป็นปัญหาเชิงประจักษ์ที่ซับซ้อน ซึ่งท้าทายต่อการแก้ไขเชิงนโยบายแบบสูตรสำเร็จ ในการเข้ามามีส่วนร่วมครั้งนี้ เราเสนอว่าประเด็นหัวใจสำคัญเกี่ยวกับการสร้างสถานะทางกฎหมายแก่สิทธิที่ดินในลาวไม่ใช่แค่เรื่องเล่าแม่บทว่า ที่ดิน-ป่าตามจารีตประเพณีสามารถใช้เป็นพื้นฐานการยังชีพประจำวันในชนบท อีกทั้ง (อาจ) […]

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Issue 25 Mar. 2019

21世紀ラオスの林地コモンズ: 農業資本主義と「商品化されない最低限の生活保障」

過去20年にわたり、ラオス人民民主共和国(Lao PDR)の国内外のアクターによる幅広い同盟は、「慣習的所有権強化(‘strengthening customary tenure’)」の問題に政策介入を講じてきた。その目的は林地コモンズに対する農村コミュニティの権利に法的保護を確立させることで、その背景には大規模な土地買収による広範囲な囲い込みがあった。所有権の確立は、共有地あるいは集団的な土地の登録と利用権交付の普及を最終目的として土地利用計画のための住民参加型手続きを強化することや、公式化の手続きを整備する事で促進されるだろう。試験的な改革にもかかわらず、この目的に向けた歩みは良くても断続的なものだ。 村落規模では、農業の市場化に関連した現地のプロセスが展開を続けている。ラオスの農地改革の変遷の結果には広範囲に及ぶ土地の囲い込みがあるが、これには(国有企業のアグリビジネスやインフラ計画のための用地買収による)「上から」の囲い込みと(小規模農家の流行作物の契約や村の土地のリースと販売による)「下から」の土地私有化による囲い込みの双方がある。商業投資は農村部の多くの人々の生活収入の重大な支えとなっているが、この構造はラオス全土の環境コモンズを広く圧迫する原因にもなっている。この文脈で、農村の慣習的な林地コモンズの権利保護は、土地政策の重要な領域であると同時に、一般的な契約表現では解決し得ない複雑な実証的問題である。 この介入において、ラオスの土地権公式化をめぐる重要な問題に関する言説が、単に慣習的な森林地がいかに農村部の暮らしの日常基盤となり得るか、あるいは(おそらくは)貧困層の緊急時の「セーフティネット」となり得るか、というものだけではないという所へ話を進めよう。セーフティネットの喩えはラオス農民をあまりにも単純な生存水準という理解に押し下げるだけで、農村部の生計と農業資本主義との関連性を定義する上ではさほど役立ってはいない。Haroon Akram-LodhiとCristóbal Kayの言う「商品化されない最低限の生活保障/“non-commodified subsistence guarantee”(以下、“NCSG”と略)」の考えを踏まえた上で、我々が狙いとするのは、慣習地や共有地がいかに農業資本主義の立ち退きを迫る勢力に対する緩衝装置となり、ラオス農村部における自活の供給源にもなり得るかという点に注意を向けることだ。だが、研究者たちの土地の慣習的、共同体的な所有権は変化しており、農民たち自身が新たなアグリビジネスのバリュー・チェーン(価値連鎖)や土地市場に大幅に関与するようになってきた。課題は慣習地に対する保護の構築だけでなく、地域に適し、共同体の集団的な希望や生計上の要求に基づく(慣習地の部分的な脱商品化としての)「共有化」の概念に取り組む事だ。 資本主義の囲い込みと小規模農家の生産 農地改革の重要研究における主要概念を手短に論じておく事は、我々の主張を構築する上で役に立つだろう。土地所有権の問題はAkram-Lodhiが要約する通り、基本的には「誰が(土地を)管理するのか、その管理方法はどのようなものか、管理する目的は何か」ということと関連がある。 囲い込みは「場所に特有な資源の私有化」と定義され、Akram-Lodhiによって囲い込みと資本主義の出現はいずれも社会的な所有関係の内容と意味の変化に基づくもの」と理解される。資本の限界の一つの形式にはフロンティアがあるが、これは地理上の周辺空間だけではなく、「資本主義的な生産関係がそれほど定着していない社会生活のあらゆる空間」も示唆する。二つ目に、資本の貨幣化についての論理の外にある社会的支援源の解体があり、これには非市場的な生活手段が含まれる。 農業資本主義の関係性の下で土地は容赦なく資本に転換され、蓄積だけでなく立ち退きも生じさせる。貧困家庭が彼らの土地所有権と労働力を売って最低限の生活の足しにすることができる一方、技術や土地への新規投資のための資本蓄積に失敗した者や、この死活的な変化の犠牲となる者達は、蓄積か再投資か滅亡かの理論によって土地所有権を売ることを余儀なくされる。あるいは、(例えば慣習的な土地や資源にアクセスする事で)非市場的な生産分野に足場を確保しておけるのであれば、小規模農家の生計に重大な利益をもたらすことも可能だ。Akram-LodhiとKayは以下のように記す。 土地管理には直接使用のための生産の可能性が伴うことがある。これは商品化されない最低限の生活保障であり、農民たちに資本に対する一定の自立性を与え、生計の確保を可能とするが、蓄積を可能とするものではない。 このような‘NCSGs’は(必ずしも緊急時のセーフティネットでないとしても)、少なくとも小規模農家に基礎的な支援を提供すること事ができる。その他の事例では、村の林地や共有資源の一部を商品化されない空間として維持することで、賃金労働市場での経験不足に直面する者達を支えられている。例えば土地の囲い込みが行われても、相応の賃金雇用の選択肢が提供されないなどの場合だ。このような意味で、NCSGsは分散投資の一形態に相当するが、市場の論理や原則からは外れた、あるいは少なくとも隔たりのあるものだ。 ラオスにおける慣習地や共有地の土地所有権の問題には、労働者への影響もある。若者たちは農業や農業以外で割のいい現金収入をもたらす賃金雇用に惹かれるが、これらの職の多くには一定のリスクや脆弱性が伴う。すなわち、労働移住の社会的、経済的条件はきわどいものとなる。その他の全ての条件が同じである中、豊かな土地へのアクセスを保有する農家は、労働市場において自身をより強い交渉上の立場に置くことができる。NCSGsは国家や企業が支援する商業プロジェクトに対して、部分的に自活のための供給源を提供することもできる。これらのプロジェクトは不始末や失敗に陥りがちで、新たな形式の監視や政治的支配をもたらす傾向があり、農民たちが村の土地や資源を彼らの伝統に沿って思い通りに管理する自由に制約を課す。 ラオス農村部での「商品化されない最低限の生活保障」 その他の場所と同様に、ラオスにおける農地改革の変遷過程は小規模農家の運命と慣習地や共有地の土地権の今後を浮かび上がらせる。ジョナサン・リッグ(Jonathan Rigg)らは近年、これらの問題を東南アジアの「小規模農家の持続性」との関連から調査した。しかし、「小規模農家の農業」や「小作農家」の定義はしばしば、相当に広大な所有地や重複する資源保有権の設定が特徴的なラオスの多くの村々には容易に当てはまらない。これらの村の領域は2,000か3,000ヘクタール(あるいはそれ以上)に及ぶこともあるのだ。ラオスでは、そのような慣習地はしばしば、世帯をベースとして共同的なアクセスと利用の権利が季節別に重なる、パッチワークの如く編成されている。このような状況の中では、現金的あるいは非現金的な「環境的収入」が生計にとってとりわけ重要となり得る。 二人目の著者によるラオス中央部での最近の研究は、慣習地や共有地に由来する多くの天然資源生産物の自給利用と現金収入価値を詳しく報告している。彼は無作為に選ばれた四つのコミュニティを取り上げたが、これらは企業や小規模農家による農園計画の本拠地でもあった。彼の2016年から2017年のフィールドワーク(各村25世帯が調査対象となった)によって、一世帯の年間平均で1,272米ドル(現金等価額)に値する食品生産物が周辺の慣習地から収穫されていたことが判明した。van der Meer Simoの計算では、現金および非現金による「環境的収入」の合計は、世帯ごとの年間平均で2,316米ドル、あるいは調査対象の4村全体の平均世帯収入の44%に相当した。完全に「非市場的な」環境収入(つまり、消費されただけで販売によって換金されなかった資源)は、世帯ごとの年間平均で1,355米ドル、あるいは世帯収入合計の22%に相当した。これらの数字は調査対象の村落における‘NCSG’の価値を示している。様々な土地管理戦略の利益は、関連地域の状況や必要な労働投入量の状況に準じて説明されるべきだが、重要な事は、慣習地へのアクセスがなお世帯生産の礎となり、生計に柔軟性を与えると共に農場や移住労働の脆弱性や冴えない強制力に代わる二次的な手段となっていた事だ。 ラオスにおける社会財産関係と農地改革 上記に示した議論はラオスの慣習的、あるいは共有の林地について、「セーフティネット」議論よりも、農村部の人々が農地開発の圧倒的な影響力を切り抜ける上でNCSGsがいかに有用かという点から考察したものだ。本項では、それ自体が重大な変化を経つつある社会に根付いた制度としての慣習地の理解を基に、これにさらなる複雑さを加味しよう。 ドレスラー(Dressler)らがフィリピンのパラワン高地(upland Palawan)について指摘した通り、東南アジアの焼き畑システムにおける非市場的な最低限の社会保障の基盤は慣習的な社会財産関係であり、これが自前工夫主義的(ブリコラージュ的)な生計手法によって多機能的な状況を作り出している。これは「社会に根付いた」土地という概念の核心に迫るものだ。ラオス農村部で村の林地コモンズの囲い込みが行われる一因には、小規模農家による非公式的な土地の確保(しばしば、ラオ語でchap chongと呼ばれる)が加速した事もある。Chap chongの権利は世帯間や男女間、そして世代間において、必ずしも公平であるとは限らない。従来、Chap chongは子孫のために土地を確保する際に用いられたが、今日では商業生産用に土地を私有化する際にも用いられる。慣習的な林地を商業利益のためにリースしたり売ったりすれば、コミュニティにも重大な利益があるだろう。このような傾向は、「共有地保護」のための包括的アプローチを脅かし、共有地登録(communal land titling /CLT)促進の努力にも影響を及ぼす。 ラオスにおける林地政策改革に向けた地道な取り組み […]

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Issue 25 Mar. 2019

สร้างโอกาสจากทางตัน: เศรษฐกิจตลาดมืดของแรงงานย้ายถิ่นจากชนบทและหลุมพรางใน สปป.ลาว

ปรากฏการณ์ที่คนหนุ่มสาวต้องพรากจากหมู่บ้านชนบทในลาวเพื่อมาทำงานรับใช้ตามบ้านในเมืองหรือตามสถานที่อื่นๆ ในประเทศไทยกลายเป็นเรื่องที่พบเห็นทั่วไปในประเทศลาวยุคปัจจุบัน  ภายในระบบเศรษฐกิจระยะเปลี่ยนผ่านของประเทศลาว วงวิชาการมักทำความเข้าใจแนวโน้มนี้ผ่านเลนส์เศรษฐศาสตร์เชิงโครงสร้าง (เช่น Dwyer 2007)   ถึงแม้การตีความเชิงวัตถุวิสัยย่อมมีคุณประโยชน์ในตัวมันเอง แต่เมื่อผสมปนเปกับการเหมารวมด้วยความเชื่อฝังหัวว่าชาวลาวในชนบทมีบุคลิกลักษณะแบบเกษตรกรและยึดติดกับสถานที่ จึงหลีกเลี่ยงไม่ได้ที่จะเกิดวาทกรรมที่นิยมมองแรงงานย้ายถิ่นจากชนบทเป็น “เหยื่อของการพัฒนา” (Barney 2012)  เรื่องเล่าแม่บทมักถ่ายทอดเรื่องราวของผู้คนที่ถูกความยากจนจากนโยบายเศรษฐกิจบีบให้ละทิ้งถิ่นฐานชนบท จนต้องผันตัวเป็นแรงงานไร้ทักษะราคาถูกและทนทุกข์จากการขูดรีดกดขี่สารพัดรูปแบบ  เรื่องเล่าแม่บทแบบเหมารวมนี้ตกเป็นข้อวิพากษ์วิจารณ์ในวงวิชาการว่าไม่เพียงพอต่อการอธิบายอัตลักษณ์ของปัจเจกบุคคลที่เป็นแรงงานย้ายถิ่น  ความพยายามที่จะเล่าเรื่องใหม่จากมุมมองของ “ความสมัครใจ” ที่อยู่เบื้องหลังการตัดสินใจลาจากภูมิลำเนาในชนบทเพื่อไปหางานทำในเมือง โดยเฉพาะแรงปรารถนาต่อความทันสมัยและความอิสระ สามารถสั่นคลอน “ภาพพจน์ความเป็นเหยื่อ” ที่ถูกกระทำฝ่ายเดียวของแรงงานเหล่านี้อย่างได้ผลในระดับหนึ่ง (Riggs 2007; Portilla 2017)  อย่างไรก็ตาม เมื่อมีการพรรณนาถึงประสบการณ์ของแรงงานย้ายถิ่นในขั้นตอนของการทำงานจริง ภาพพจน์แบบเดิมก็ยังตกค้าง  ข้อสังเกตเกี่ยวกับแรงงานย้ายถิ่นในสถานประกอบการต่างๆ ทั้งในประเทศและต่างประเทศถูกครอบงำด้วยคำพรรณนาถึงระบบค่าแรงที่กดขี่ การถูกละเมิดทำร้ายในระดับบุคคลและการถูกกีดกันทางสังคม (Phouxay and […]

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Issue 25 Mar. 2019

不可能から可能性を作り出す: ラオスにおける農村部の出稼ぎ労働者たちの裏口経済とその落とし穴

若者たちがラオス農村部の集落を離れ、賃金労働のために国内の都市空間や、タイのその他の場所に行くことは、現代ラオスではありふれた現象となった。国の過渡期にある経済において、この傾向はしばしば、構造的経済のレンズ(視点)を通じて理解される(Dwyer 2007など)。物質主義的解釈は、ラオス農村部の人々が農業を重視し、土地に固着するという神秘化されたステレオタイプとの相乗において、それなりに評価されるべきものだが、これは必然的に地方の出稼ぎ労働者を「発展の犠牲者」と見なす、ありがちな言説も生み出す(Barney 2012)。この言説では、政策から生じた貧困によって地方を出ることを余儀なくされ、非熟練の低賃金労働者にされて、職場での様々な搾取に苦しめられる人々の話が語られる。この全体論的な言説が、出稼ぎ労働者個々の主体性を十分に説明し得るものではないという点が、知識人たちの批判の的となっている。地方の故郷を出る、という若者たちの進路決定を支える「自発性」、特に現代的なものや自立に対する欲求について詳述する試みは、このような人々の受動的な「犠牲者イメージ」を崩す上で一定の効果を上げてきた(Riggs 2007; Portilla 2017)。だが、出稼ぎ労働者の実際の職場での経験になると、なおこのイメージが付きまとう。出稼ぎ労働者に関する国内外の様々な職場における考察は、強圧的な賃金体制やミクロ・レベルでの酷使、社会的差別の記述が中心である(Phouxay and Tollefsen 2011; Huijsmans and Bake 2012;)。このような記述が集まって「不可能」の条件を構成し、出稼ぎ労働者のあらゆる形をした社会的上昇志向に悪影響を及ぼす事となる。このような記述をラオス農村部での送金経済の題目に該当する文献と併読すると、一体、故郷を去る若者たちがどのようにして他所の土地で何とか生き残り、成功するのだろうかと考えさせられる(Riggs 2007; Barney 2012)。本論はラオス人出稼ぎ労働者が出先で直面している搾取的な状況の存在そのものを否定する事も、軽視する事も意図しない。むしろ本論は、彼らが不可能からいくらかの可能を作り出す手段に光を当てる事にささげる。これに際して、著者はこの社会集団に貼られた「犠牲者」という、それ自体が社会的疎外力を持つ唯一のレッテルに、さらに立ち向かって行く事を目指そう。 本論の焦点は生存戦略であり、これは今日、若いラオス人出稼ぎ労働者が職場の苦難を乗り切るために広く用いるものだ。それは日々の仕事からわずかな収入のための裏口手段を開拓する行為である。「仕事」に独自の意義を見い出そうとする出稼ぎ労働者の継続的で不従順な試みの根底には、彼らの搾取に対する秘かな抵抗がある。出稼ぎ労働者の裏口経済は、彼らが一息つくための空間をまかなう一方で、彼らを落とし穴へと導くものでもあり、そもそも、そのような行為自体が疎外された立場を彼らにもたらす経済論理を強化している。本論以下では、特定の戦略の内容とその両義的影響について、ラオス国内の地方からの出稼ぎ先として最も人気の高いビエンチャン市における二、三の個々の生活体験の断片から解説する(Phouxay 2010)。 ビエンチャンのように公共交通機関が不足した都市では、日々の通勤の多くがバイクや車などの自家用車によって行われている。車上生活の流れが絶えず寸断の危機にさらされるのは、地元のガソリンスタンドの営業時間の終了後、ナイトライフが活気を帯びてくる時間帯だ。最も慎重なドライバーであっても、時には帰宅途中の夜中にガス欠で立ち往生に見舞われる事がある。多くの者達にとって、このような状況は単に生活の中で避けるべき些細な問題でしかないが、起業家精神を持つ少数の者達はむしろ、これに金儲けのチャンスを嗅ぎつける。彼らは交通量の多いいくつかの道沿いに腰掛けを置き、その上に燃料瓶を置いて売っている。ビエンチャンで、このようなほとんど人目につかない商売をしている者達の中に、トゥ(Tu)という19歳のサワンナケート(Savannakhet)地方出身の男がいた。彼はドンパラン(Dongpalane)通り沿いの歩道上の定位置に時々姿を見せるのであった。彼の不定期と思しき商売計画を実際に左右していた一つの主な要因は、彼が職場から十分なガソリンをくすねて来られるかどうか、という事だった。ビエンチャンにある中国系旅行会社でミニバンのドライバーをしているトゥは、常に空っぽの飲料水の330mlボトルを職場に持参していた。チャンスが到来すれば、ミニバンのオイルタンクの底のドレンボルトを外し、このボトルを充填しようというのだ。ひとたび、職場からタイガーヘッド社の水の1.5ℓボトルを満たすだけの量を抜き取れば、彼のドンパラン通りでの裏口商売が開業する。 詳しく調べてみると、トゥのささやかなガソリン計画にまつわる、計算された策略作りと着実な実行には訳も無く感心させられてしまう。彼が日課として職場からガソリンを失敬するようになったのは、一年前に現在の会社でドライバーとして採用されて間もなくの事だった。上司に見つからないように、彼は毎回タンクから抜くガソリンの量を慎重に制限し、その量がその日の走行距離に見合うものとなるようにしていた。このため、上司は燃料費がわずかに増えた事を、新しいドライバーの無駄の多い運転癖のせいにするようになった。時々、トゥは上司を乗せて走る時、わざと彼の癖だと思われているような事をしてみせることもあった。たとえば、突然停車したり、発進したり、車内のエアコンを過剰に使ったりしてみせて、彼の上司が持論を確信できるようにしたのだ。また彼はわずかな収入のためにドンパラン通りで待つ、退屈な幾夜かを過ごすために外出する事をいとわなかった。ある晩、筆者が午後9時から午後11時までの彼の仮設商店に同行したところ、彼の儲けは合計45,000キープ(大体5米ドル)だった。それでも彼はこれをついてる日だ、と評価した。この現金にどういう価値があるのかは、トゥの月収が1,300,000キープ(大体150米ドル)である事と照らし合わせて理解する必要がある。 上記の話に描かれた抜け目がなくて計算高い人物は、ラオス人労働者が無能で怠慢だという従来のイメージとの著しい対照を示す。トゥの雇い主のヂョウ(Zhou)自身も、トゥに割り当てられた仕事に秘かな拡張業務がある事にはほとんど気が付かぬまま、そのようなステレオタイプで彼を見ていた。1990年代の初頭にラオスにやって来たこの広東人実業家は、トゥと彼の前にいた全てのラオス人従業員を一緒にして、著者に次のような愚痴をこぼし続けた。「彼は目の前のごみを拾おうともしない、ただその辺に座って何にもしないでいる時にですよ。怠け者のラオス人労働者ってやつでね、毎回むちで打たなきゃ、ちょっとも前に進みませんから」。彼はまたトゥの「極めて低い知能指数(IQ)」について、事務所の本棚事件によって確たる結論に至っていた。これはある時、彼がトゥに事務所内の家具の模様替えを言いつけた時に起きた事件だ。彼の極めて詳細で具体的な指示にも関わらず、トゥは本棚の正面を壁側に押して散らかすという事をやってのけたのだ。「明らかにこの田舎者の頭には脳みそなんか入ってませんね」とヂョウは言った。 上司ヂョウの面前で無能を装うトゥの複合戦術に通じるものは、ジェームズ・スコット(James Scott (1985))がいみじくも概念化した「弱者の武器(‘weapons of the weak’)」である。すなわち、階級闘争に対するサバルタンの非対立的な日々の抵抗である。ぐずぐずしたり、愚か者のふりをしたりする事で、彼はヂョウが自由裁量で彼に「ドライバー」以上の仕事をさせようとする搾取的な試みや、仕事を与える際に用いる暴言に対抗したのだ。さらに、トゥが自身を典型的なラオス人労働者として卑下した事は、ヂョウの監督上の警戒心を効果的に下げ、それによって彼は仕事の意義や業務を自分の利益となるように改める隙をより多く確保する事となった。ラオスのような発展途上のポスト・コロニアル的状況下では、先住民を怠慢などの前近代的特性と結びつける慣例がよくある。批判的な介入は、この現象をとりとめの無い植民地的遺産で、ポスト・コロニアル国家が新政権正当化のために時折用いる事もあるものと解釈する傾向がある(Li 2011など)。場所に限定的な歴史的条件も、頻繁にこの説明として用いられる。ラオスでの事例のように、ごく最近まで生計を自給自足・半自給自足の農業に圧倒的に依存していたため、資本主義の労働倫理にあまり触れた事がない住民などがその例だ(Evans 2002)。それでも、トゥの物語はミクロ・レベルの階級政治と東洋的な主体に再び焦点を当て、先住民である事と劣等性との根源的な結びつけを解読する努力が必要な事を指摘している。 トゥのような地方の若い出稼ぎ労働者にとって、日常業務内容の拡大による収入増加戦略は、生存のためということが明確率直に強調される。教育と訓練不足のために、この社会集団は高い技術を必要としない建設業やサービス業、家庭内労働、製造業などの部門に限定され、これらの部門は大抵、「どうにかやっていくだけ」の給料を保証する(Phouxay 2010)。出稼ぎ先で自らの厳しい生活を維持するというプレッシャーに加え、遠方の家族を養う義務と現代消費主義の誘惑もまた、消える事のない金欠感の一因である(Riggs 2007; Phouxay and Tollefsen […]

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Issue 25 Mar. 2019

Land Governance in Laos

In recent years there has been considerable controversy in the Lao People’s Democratic Republic (Lao PDR or Laos) regarding decisions by the government to issue long-term land concessions to foreign companies for large-scale plantation development, […]

Book Reviews

Review– 베네딕트 앤더슨 (Benedict Anderson)

Title: 베네딕트 앤더슨(Benedict Anderson) Author: Suh Jiwon Publisher: Seoul: CommunicationBooks Inc, 2018. http://commbooks.com/도서/베네딕트-앤더슨/ This is the first book in Korean that exclusively introduces the academic life of Benedict Anderson. As we know, Anderson “was born […]

Indonesia--Twenty-Years-of-Democracy-Review
Book Reviews

Review– Indonesia: Twenty Years of Democracy

Title: “Indonesia: Twenty Years of Democracy” Author: James S. Davidson Publisher: Cambridge University Press, 2018 “Indonesia: Twenty Years of Democracy” (Cambridge University Press, 2018) by Jamie Davidson provides an in-depth analysis of Indonesia’s politics two […]

Mythbusting-Vietnam-Review-KRSEA
Book Reviews

Review– Mythbusting Vietnam: Facts, Fictions, Fantasies

Title: Mythbusting Vietnam: Facts, Fictions, Fantasies Edited by: Catherine Earl Publisher: Nordic Institute of Asian Studies, 2018 Based on its title, Mythbusting Vietnam: Facts, Fiction, Fantasies, would appear to be a revisionist attempt to correct […]

Paige-Johnson-Tan-Suharto-20-years
Issue 24 Sept. 2018

Normal Baru: Demokrasi Indonesia Duapuluh Tahun setelah Suharto

Ketika Suharto mengundurkan diri dari kepresidenan pada Mei 1998, jalan di depan masih tidak pasti. Akankah demokratisasi dibiarkan berlanjut? Akankah kekerasan digunakan untuk menyelesaikan pertentangan-pertentangan yang pernah terjadi dalam sejarah bangsa, dengan efek gelimang darah? […]

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Issue 24 Sept. 2018

ภาวะปกติใหม่: ยี่สิบปีของระบอบประชาธิปไตยในอินโดนีเซียยุคหลังซูฮาร์โต

เมื่อซูฮาร์โตลาออกจากตำแหน่งประธานาธิบดีของอินโดนีเซียในเดือนพฤษภาคม 1998 เส้นทางของประเทศยังไม่มีความแน่นอน  การเปลี่ยนระบอบสู่ประชาธิปไตยจะเดินหน้าได้หรือไม่?  จะมีการใช้ความรุนแรงเพื่อแก้ปัญหาความแตกต่างจนกลายเป็นการนองเลือดดังที่เคยเกิดขึ้นในประวัติศาสตร์ของอินโดนีเซียหรือไม่?  ยี่สิบปีให้หลัง อินโดนีเซียยังอยู่ในระบอบประชาธิปไตยที่ผันผวนและรอดจากภาวะหน้าสิ่วหน้าขวานอย่างหวุดหวิดหลายครั้ง  บทความนี้จะใช้มรรควิธีศึกษาของ Juan Linz และ Alfred Stepan ในการทำความเข้าใจการเสริมสร้างความแข็งแกร่งให้ระบอบประชาธิปไตย (Democratic Consolidation) เพื่อประเมินระบอบประชาธิปไตยของอินโดนีเซียในช่วงยี่สิบปีหลังการโค่นล้มระบอบซูฮาร์โต  บทความนี้ชี้ให้เห็นว่า ถึงแม้อินโดนีเซียก้าวไปในทิศทางของการเสริมสร้างความแข็งแกร่งให้ระบอบประชาธิปไตยในหลายๆ ด้าน กระทั่งระบอบประชาธิปไตยกลายเป็นภาวะปกติใหม่ไปแล้ว แต่ก็ยังมีปัญหาท้าทายสาหัสสากรรจ์อีกหลายประการ เช่น องค์กรภาคประชาสังคมที่ไม่สนับสนุนประชาธิปไตย สื่อมวลชนที่ทำตัวเป็นภัยคุกคามและขาดความเป็นมืออาชีพ พรรคการเมืองที่ใส่ร้ายป้ายสีกัน ความอ่อนแอในหลักนิติธรรม การคอร์รัปชั่นในระบบราชการและความไม่เท่าเทียมทางเศรษฐกิจ เงื่อนไขเบื้องต้น: ความเป็นรัฐ สำหรับ Linz และ Stepan การเสริมสร้างความแข็งแกร่งให้ระบอบประชาธิปไตยมีเงื่อนไขเบื้องต้นประการหนึ่ง […]

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Issue 24 Sept. 2018

新たな常態:スハルトから20年後のインドネシア民主主義

スハルトが1998年5月にインドネシア大統領を辞任した時、道のりは定まっていなかった。民主化を進める事はできるのか?相違を解消するために、以前のインドネシア史のような血みどろの暴力が用いられるのか?20年後、インドネシアは幾度か危うい瀬戸際をさまよった後、騒々しい民主主義に戻って来た。この論文ではジュアン・リンス(Juan Linz)とアルフレッド・ステパン(Alfred Stepan)の手法を用いて民主主義の定着を理解し、スハルト転覆から20年後のインドネシア民主主義を検討する。本論はインドネシアが多くの分野において民主主義の定着に向かって進んできた事、つまりは民主主義が新たな常態となった事、しかし、それでもなお深刻な問題、例えば非民主的な市民社会団体や、脅かされた、あるいは一部のプロ意識に欠けた報道機関、非難を浴びる政党、法の支配の脆弱性、官僚汚職や経済的不平等などが存在する事を示す。 前提条件:国家性 リンスとステパンの民主化定着のための前提条件に国家性(stateness)がある。国家が民主主義を経験するのであるから、国家でないなら民主主義はそもそも成立しない。そのような事から、著しい分離主義問題に苦しむ国々は民主化定着のために苦闘する。インドネシアが1998年に民主化されると、多くの者達は地方をけん制する権威主義的独裁者も無しに、この国がまとまるのだろうかと訝った。アンボン(Ambon)とポソ(Poso)では、キリスト教徒とムスリムとの間のコミュニティ間の暴力が権威主義的統治からの移行期の初めに、より広範囲に及ぶ混乱の可能性を強めた。長年に及ぶアチェ(Aceh)の分離独立を求める争いにしても同様であった。民主化は東ティモールに国連監視下での独立をめぐる国民投票の機会をもたらした。だが結局、おぞましい暴力にも関わらず、これらはインドネシアの国家性に対するさらなる試練の到来を告げるものではなかった。東ティモールは分離したが、この地域の独特な政治史のため(東ティモールが侵攻されたのは1975年の事に過ぎない)、これがインドネシアの実存を脅かす事は無かった。アンボンとポソ、そしてアチェでさえ、和平協定がこれらの地域の紛争を鎮静化した。領土の一体性に対する深刻な試練にもかかわらず、インドネシアはその国家性を維持してきたのだ。 市民社会 市民社会は国家から独立したアリーナで、その中で人々は団体や組合を組織する。インドネシアの市民社会、特に大学生は数か月間の抗議を通じて1998年のスハルト大統領失脚に一役買っていた。この独裁者が失脚した後、インドネシア市民はこの国の若い民主主義を支えるために組織を作って関与を続けて来た。新たな集団が出現し、古くからの組織は新たな空間を獲得した。インドネシア人は団結して投票者教育を実施し、選挙を監視し、人権を推進し、汚職と闘った。これらの集団が新たな民主主義の規範を支えていたのだ。 他にも集団が形成されたが、それらは発展するインドネシアの民主主義を支持せずに、新たな団結の自由にだけ便乗した。イスラム防衛戦線(The Islamic Defenders’ Front /Front Pembela Islam, FPI)はイスラム教の取締り強化役を自任して、武力や脅迫によってクリスマスの祝祭や飲酒、LGBT市民、逸脱者とみなされるムスリムを標的とした。自国民から成るテロリスト集団で、アルカイダやISISと関わりのある集団もまた、ホテルや証券取引所、聖地や夜市などを標的に攻撃を実行してきた。イスラム防衛戦線が政治進出への成功を経験した事は、華人でキリスト教徒のジャカルタ知事、バスキ・チャハヤ・プルナマ(Basuki Tjahaja Purnama/通称アホック/ Ahok)の2017年の再選阻止に役立った。FPIやその他の団体はソーシャルメディア・キャンペーンや抗議を指揮したが、その意図は先住民でない非ムスリムがインドネシアの多数派であるムスリムを率いるような事が許されてはならないというメッセージを拡散する事であった。FPIはさらに冒涜罪によるアホックの起訴を要求し、彼はこれによってついには禁固2年の判決を言い渡される事となった。多くの者達がアホックの歯に衣を着せぬやり方や、新自由主義的な政策には反対だったかもしれないが、FPIが民族性と宗教だけを理由にインドネシア市民の被選挙権を攻撃した事は、インドネシアの民主主義を損ねたのである。 インドネシアの報道機関が改革時代に激増した事で、新たな意見が大いに聞かれるようになった。しかし、この国では報道の自由が今なお脅かされている。インドネシアは2018年の国境なき記者団の報道の自由度ランキング(the Reporters without Borders Press Freedom Index)で180ヵ国中124位であった。ジャーナリストはこの国のいくつかの地域、特にパプア(Papua)、西パプア(West Papua)、アチェでの報道に骨を折って来た。また記者たちは自らの報道、特に紛争地域や宗教的過激派、汚職に関わる報道の結果としての暴力を経験し、これを危惧している。報道陣の中にはこの問題の一端となっている者もあるが、これは彼らが話題を肯定的に報じるために代価を請求したり、事実検証を怠ったり、あるいは党派性を示したりする(多くのインドネシアの政治家が独自の報道機関を持っている)事が理由である。「フェイク・ニュース」が次期地方選挙と国政選挙で重要な役割を果たすと見られている。 政治社会 市民社会の他に、民主主義の定着は政治社会のアリーナでも生じる。これは市民が組織化して国家権力を争う場である。スハルト体制崩壊後、何百という新政党が形成された。政党法や選挙法は徐々に改善され、一定の国民参加と支持率を要求する事で政党数が絞られてきた。2019年選挙への参戦を認められているのは16党のみで、アチェだけはこれに併せて4党が認められている。有効政党数(The effective number of parties)は政治機構内での政党の重要性を測る指標だが、これは1999年には5.1、2014年には8.9だった。つまり、全体的な党数は減少していても、重要な数は実際のところ増加しているという事だ。各党の支持率は選挙毎に異なる。闘争民主党(Partai Demokrasi Indonesia-Perjuangan)、ゴルカル党(Golkar)、民主党(Partai Demokrat)の三つの政党がスハルト体制崩壊後の4度の選挙で議会の得票数首位を占めてきた。インドネシアの強権を備えた大統領の地位は、今や直接選挙によって選出されるものであり、一定の支持率を持った連立のみが候補者を指名できる。2004年からの大統領直接選挙は、組織や政党を基準とするよりも、むしろ人格主義的であるかどうかを基準に候補者を権力の座に就けるようになった。 […]

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Issue 24 Sept. 2018

จากเอกาธิปไตยถึง “ระบบเครือข่ายประธานาธิบดี”: ความเปลี่ยนแปลงของตำแหน่งประธานาธิบดีอินโดนีเซียหลังยุคเผด็จการ

ข้อถกเถียงจำนวนมากเกี่ยวกับอินโดนีเซียหลังยุคซูฮาร์โตเน้นไปที่คำถามว่า มีความเปลี่ยนแปลงจริงๆ เกิดขึ้นมากน้อยแค่ไหนในช่วงสองทศวรรษหลังจากระบอบเผด็จการสิ้นสุดลงในปี 1998  ในขณะที่นักวิชาการบางคนวิจารณ์ว่า ชนชั้นนำที่มีอิทธิพลอำนาจมาตั้งแต่สมัยซูฮาร์โตฉวยโอกาสปล้นเอาสถาบันประชาธิปไตยเกิดใหม่ของอินโดนีเซียไปไว้ในกำมือของตน (Hadiz 2010)  แต่ก็มีบ้างที่ชี้ให้เห็นว่าสถาบันและการเมืองของอินโดนีเซียมีความซับซ้อนมากขึ้นกว่าเดิม (Tomsa 2017)  ในหลายๆ แง่ สาระสำคัญของข้อถกเถียงนี้สะท้อนอยู่ในการวิเคราะห์วิจารณ์ว่าบทบาทของตำแหน่งประธานาธิบดีเปลี่ยนแปลงไปอย่างไรบ้าง  มีความเห็นพ้องต้องกันโดยทั่วไปว่า ผู้ดำรงตำแหน่งประธานาธิบดีหลังปี 1998 มีความแตกต่างจากซูฮาร์โตอย่างยิ่ง แต่ความเห็นพ้องต้องกันก็หยุดแค่ตรงนั้น  ถ้าเช่นนั้น ประธานาธิบดีอินโดนีเซียที่ดำรงตำแหน่งหลังจากการโค่นล้มซูฮาร์โตได้ใช้อำนาจตามบทบาทของตนอย่างไรกันแน่ และนั่นบอกอะไรเราบ้างเกี่ยวกับคุณภาพของระบอบประชาธิปไตยในอินโดนีเซียหลังจากถือกำเนิดเมื่อยี่สิบปีที่แล้ว?  ในบทความนี้ ผู้เขียนต้องการชี้ให้เห็นว่า ระบอบเอกาธิปไตยของซูฮาร์โตได้เปลี่ยนร่างแปลงโฉมในช่วงสองทศวรรษที่ผ่านมาจนกลายเป็น “ระบบเครือข่ายประธานาธิบดี” (coalitional presidentialism) อันเป็นระบบที่ประมุขของรัฐคอยรักษาสมดุลระหว่างกลุ่มสังคมการเมืองที่มีบทบาทสำคัญภายในประเทศโดยอาศัยการผูกพันธมิตรที่มีเครือข่ายกว้างขวางและเกี่ยวโยงภายในอย่างซับซ้อน  ตรงกันข้ามกับข้อเขียนเกี่ยวกับระบบเครือข่ายประธานาธิบดีที่มีอยู่  ผู้เขียนเห็นว่าไม่ได้มีเพียงพรรคการเมืองในรัฐสภาที่เป็นส่วนหนึ่งของความโยงใยนี้ แต่เครือข่ายประธานาธิบดีของอินโดนีเซียยังครอบคลุมถึงกลุ่มอื่นๆ ที่มีอิทธิพล เช่น ข้ารัฐการ […]

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Issue 24 Sept. 2018

独裁政治から連合型大統領制へ :インドネシア大統領職のポスト権威主義的変容

ポスト・スハルトのインドネシアに関する多くの議論は、1998年の権威主義が終わってからの20年間に実際、どれ程の変化があったのかという疑問に焦点が置かれている。ある者達は単にスハルトの下で育った有力エリートが、インドネシアの新たな民主主義機構を乗っ取ったまでだと示唆し(Hadiz 2010)、また別の者達はインドネシアの制度的、政治的な複雑さが増加したと指摘する(Tomsa 2017)。この論争の核心は、様々な形で大統領の役割がどう変化したかという議論に反映されている。幅広い意見の一致が見られるのは、1998年以降の大統領がスハルトとは随分異なるという点だが、意見の一致はここで尽きる。では具体的に、スハルト体制崩壊以来、インドネシアの大統領はどのように統治してきたのか、そしてこの事から、開始後20年経ったインドネシア民主主義の質について何が言えるのだろうか? 本論での著者の主張は、スハルト独裁体制が過去20年間のうちに連合型大統領制に変化したというものであり、このシステムでは広範で内部が複雑な連合の中で国家元首が国の主要な社会的・政治的アクターのバランスをとっている。連合型大統領制に関する既存文献とは異なり、著者は議会の政党のみがこの連合の一部ではないと示唆する。むしろ、インドネシアの大統領連合には官僚や軍部、警察、イスラム教団体、オリガークや地方自治体などの有力なアクターが含まれている。とりわけ2002年の改憲以降に政権に就いたインドネシアの大統領は、これらの諸勢力をポスト権威主義とは言え、不完全な民主主義の既存の枠組内に何とか収め、注意深くアクター同士のバランスを取りつつ、忠義には報い、異を唱える者には罰を与えてきた。著者はこの事がこれらの連合をスハルト政権下にまん延していた、ある種の頭でっかちで専制的に強いられた政権連合と異なるものにしているばかりか、スレーター(Slater)の大統領カルテル(presidential cartels)の概念(2018)や、トムサ(Tomsa)(2017)の大統領が外部の「戦略グループ」集会に敏感だとする指摘とも対照的なものにしていると提起する。 連合型大統領制とスハルトの世襲的「連合」 政治学の議論では、連合型大統領制の概念は複数政党の状況下で営まれる大統領制の安定性を説明するために発達してきた。複数政党での大統領制は本来不安定だとする従来の前提に反し、チャイスティ、チーズマン、パワー(Chaisty, Cheeseman and Power/2014)は大統領が連合型大統領制のある手法を用いる事で、卓越した政権の安定が達成される事を見い出した。具体的に言えば、大統領はこれについて5つの主な手法を用いる。すなわち、内閣の権限、予算上の権限、自党に対する党派的権力(partisan power)、立法権、それに好意の応酬である。この概念において大統領の庇護を受ける主な者達は、議会に議席を持った政党である。 大統領の連合主義は複数政党制民主主義のために想定されたものであるが、ヘゲモニー政党制(hegemonic party systems)の独裁政治においても、大統領が統治を効果的に行うためにはしばしば、連合を構築、維持する必要があると指摘しておかねばならない。スハルトの場合、彼が統轄していた連合には軍部や官僚(彼らの与党ゴルカル党内の議員はそれぞれ「トラックA」「トラックB」と分類されていた)、テクノクラート、その他のゴルカル党の文官(トラックG)、そして後にはイスラム教団体も含まれていた。明らかにスハルト連合と民主主義的な大統領同盟には根本的な違いがあった。例えば、スハルトのヘゲモニー政党政権内における支配的立場には疑念の余地が無く、彼の圧倒的で威圧的な力は政権連合のメンバーを効果的に怯えさせ、屈服させていた。 スハルト「連合」はまた、彼の国家基金や資源へのアクセスが個人的でとめどないものであった点でも異なっていた。彼は世襲的ピラミッドの頂点に座し、自身の政権連合のメンバーに贈り物を配る事で、彼らが確実に自分に直接の借りがあるように感じさせようとした。スハルトはこのシステムを30年近くも長らえさせたが、政権連合はこれを可能にしていた状況が消滅するや否や瓦解した。1997年の金融危機はスハルトの利益誘導機構を枯渇させ、高まる懸念が彼の威圧力を上回り、また彼の年齢と健康状態のすぐれぬ事が、誰もが認めるインドネシアの指導者という彼の評判を傷つけた。1998年の5月、スハルトは去った。 移行期の大統領制:ハビビ、ワヒド、メガワティ スハルト政権崩壊から2004年までの間、インドネシアの大統領制は移行期にあった。スハルトの強制的世襲連合は過去のものであったが、彼の後継者はこれに代わる有効な民主主義的連合を見い出そうと苦戦した。この理由の一つに憲法改正のプロセスに時間がかかった事がある。これは1998年から2002年まで協議され、完全に機能し得るようになったのは、ようやく2004年になってからの事であった。これはB.J.ハビビ(B.J. Habibie /1998-99)、アブドゥルラフマン・ワヒド(Abdurrahman Wahid /1999-2001)、メガワティ・スカルノプトリ(Megawati Sukarnoputri /2001-2004)が、非常におぼつかない雰囲気の中で統治していた事を意味する。また彼らは皆、自身の統治を安定させるために連合の構築が必要である事を理解していたが、彼らはこれを非常に異なった状況の下で行った。 例えば、ハビビが大統領の座に躍り出た唯一の理由は、彼がスハルトの副大統領であったという事だ。彼には主要勢力からの長期的な政治的支援が欠けていたし、彼が権力にしがみついていられたのは当初、彼が自分を暫定的大統領と定義していたために他ならない。この理解があったからこそ、軍部や政党、イスラム教団体や官僚たちはハビビとの限定的な暫定連合を結び、彼が急速な民主化計画を断行できるようにしていたのだ。しかし、彼が1999年に大統領に再立候補する意向を表明すると、この暫定連合は解体され、ハビビは権力の座から引きずり降ろされた。 ハビビに代わったのがワヒドで、彼は国民協議会(the People’s Consultative Assembly)によって間接的に選出された。彼は新たな民主主義的状況がより現代的な連合構築の形を必要としていた事に一定の理解を示した最初の大統領で、また少なくともある程度は連合型大統領制の手法に取り掛かった。彼は自身を選出させるため、広範な政党(および軍事)連合を形成し、このために報酬やパワーシェアリングの約束も活用した。しかし、ワヒドにとっての大統領連合の必要性は協力体制の構築までで、その維持には及ばなかった。一度選出されると、ワヒドは自分の仲間に背を向け、最終的には彼らによって2001年7月に弾劾された。インドネシアの大統領型政治におけるワヒド解任のレガシーは、言い尽くせぬ程に重要だ。これが彼の後継者に確信させたのは、弾劾の脅威を回避したければ、政権にある間は絶えず幅広い連合を育む必要があるという事だ。 メガワティはワヒドの弾劾を受けてその後任に着き、これらの教訓から何がしかを学んだ事を示して見せた。彼女は連合型大統領制の概念を大いに是認し、複数政党の連合を構築して自らの内閣の顔ぶれをその任期中、終始維持した。だが、二つの問題がメガワティの連合型大統領制の要件の完全な理解と実行を妨げていた。まず一つには、当時副大統領であったメガワティにワヒドの後任となるよう説得する上で、大部分の政党や政治的指導者が彼女の任期終了までは異議を申し立てないと誓っていた事がある。つまり、これが弾劾の脅威を未然に計画的に防ぐという、細心の注意を要する仕事からメガワティを解放した。 さらに彼女は自身の内閣のメンバーである事が、彼女の任期が終わった後までも彼女に対する個人的な忠義を義務付けると確信していた。彼女の閣僚であったユドヨノが2004年に彼女に対抗する形で出馬を決めた際、彼女はこれを個人的な攻撃と捉えたのだ。この出来事は彼女の長期的な権利意識を示すものであったが、彼女が連合型大統領制に絶え間ないバランス調整と管理が必要な事を完全に理解していなかった事も浮き彫りにした。 連合型大統領制の拡大:ユドヨノとジョコウィ 2004年という年は大統領権限行使のあり方も含め、インドネシア政治の重要な転換点であった。2002年に成立した多くの憲法改正案が年内に施行されたが、それには大統領直接選挙を左右する法令も含まれていた。これに付随する新たな規定は大統領弾劾のハードルを、ワヒド政権下よりもかなり高くに設定していた。議会にもさらなる権限が付与されたが、この改正の全体的な結果は大統領権限の純益となった。 だが、幾分直感に反するものの、この認識は2004年以降の大統領の捉え方とは異なっている。事実、ユドヨノとジョコウィの両者は連合型大統領制の全面的な実施を始めるにあたり、各党に報酬や地位を差し出し、自らを(その時には随分と低くなっていた)弾劾の脅威から守るだけに終始しなかった。彼らはさらに連合型大統領制の範囲を広げ、様々な(トムサの表現を用いると)「戦略グループ(“strategic groups”)」をも自分たちの同盟に必要不可欠なメンバーとして位置付けたのだ。別の言い方をすれば、軍部や警察、イスラム教団体、オリガーク、地方自治体などのアクターは、もはやスハルト政権下での単なる政権の手先でもなければ、ポスト・スハルト暫定政権下での有力利益団体でもなくなったという事だ。むしろ、彼らは政党と同等の地位を獲得し、現職大統領の連立相手となったのだ。 ユドヨノは、この連合型大統領制の広範な定義を公然と概念化した。インタビューでも著作でも、彼は自分の大統領権限の限界について大きな不満を表明した。インドネシアに大統領制度がある事を否定して、彼はこの国の政治形態を半大統領制と半議会制の中間辺りに位置付けた(Aspinall, […]