Issue 20 Sept. 2016

タイ北部都市で記憶と歴史を彫り、鋳造する

記念建造物や彫像は、集合的記憶の定義を試みる国家の間で久しく普及している。そのような彫像記念物に対する執念は、一部の者たちによって、ある種の「彫像狂」とさえも表現される。これは西洋だけでなく、タイのような場所でも国家のエリートや都市プランナーたちの病なのである。タイでは新たな記念建造物が20世紀初頭からバンコクの都市景観に点在するようになった。この熱狂は様々な方法で拡大を続けており、最近ではタイのホアヒンのラチャパクディ公園の建設が「軍事政権によって安置された7人の王の記念像があるテーマパーク」と表現されている。 この彫像記念物に対する執心は、現在を超え、中央を超え、国家を超えて広がっている。軍事政権のラチャパクディという歴史テーマパークは、王族を記念建造物によって顕彰するタイの長い歴史の最新の現れであるに過ぎない。同様に、絶対君主制の黄昏時におけるバンコクの都市変容は、彫像狂の一背景に過ぎぬものであった。例えば北部都市のチェンマイでは、歴史記念建造物はこの都市及び地方の歴史上の重要期のみを示すばかりか、何よりも、国家が地域の記憶に主流の王党派・国家主義者の歴史テーマを押し付けんとする試みの地域的バリエーションをも示しているのだ。最後に、彫像狂は画一的な国家主体のみが患う病ではなく、むしろ、様々な主体や利害関係によって共有される疾患である。個々の芸術家たちがこれらの彫像を自分たち自身で彫り、鋳造する一方、国家や地方のエリートたちもまた、これらの「不動の記憶」によって表された国民的記憶の形成に取り組んでいるのだ。 クルバ・スリウィチャイ(Khruba Sriwichai) チェンマイに建設された最初期の近代的彫像記念物の一つはクルバ・スリウィチャイ(1878-1938)に捧げられたものである。彼はカリスマ的な僧侶であり、タイ政府の徴兵制度の方針に対する抵抗や、意欲的な寺院再建の経歴、街はずれからドイ・ステープ山頂寺院への道路の建設によって最もよく知られており、これら全てのことのために彼はタイ政府当局側にとって、ちょっとした目の上のこぶとなっていた。  クルバ・スリウィチャイのための記念碑建設を押す動きは、地元から、特にチェンマイ初の議員Luang Sri Prakadによって始められた。記録資料は、彼の記念碑に対する熱意や、政府内でこれを推進し、ドイ・ステープ麓にこれを設置しようとした努力を十分に実証している。一見、このようにタイ政府にとって厄介な人物の記念碑が中央国家によって、これ程強く支持された事を知ると意外に思うかもしれない。この彫像が地方の多様性の認識に向けたより大きな動きの一環だと提言することはあまりにも単純であろう。だが、この記念碑は確かに「地元に、あるいは地域に根差したディスコース」の焦点となったのである。地元のイニシアティブに応じて、タイ政府はこのカリスマ的で厄介な僧侶の遺産を統合せんと試みていたのである。この点において、これは初の試みではなかった。例えば1946年には、タイ王国が援助した公式火葬の後、彼の遺骨は六分割され、北部各県に分配された。1938年に亡くなった時、彼は依然として北部地方のアイデンティティーの象徴であったが、これはタイ政府が牛耳るシャム・タイ国民のアイデンティティーとは、せいぜい異なったものであって、下手をすると正反対のものであった。ようやく18年後の1956年にこの記念碑が設置された時、個人の記憶はなお、この製作と受け入れにとって重要であった。スリウィチャイの記念碑は、彼のカリスマ性の一部を中央国家に移転する事で、この厄介な僧侶の記憶を「手懐け」ようとするものであったかもしれないが、また地元の記憶のディスコースに開かれたままとなっていたのである。 タイ国家はこの記憶の形成を、彫刻家シルパ・ビラスリ(Silpa Bhirasri)の作品を通じて行った。元はイタリアのフィレンツェ出身で、帰化してタイ市民となったシルパは、後に近代タイ美術の父、そしてピブーンソンクラーム首相の主な彫像プロパガンディストと見なされるようになった。Maurizio Peleggiは、ピブーン時代に彫像記念物が「政治的プロパガンダの媒体として配置された」と記している。シルパはバンコクで特筆すべき彫像、例えばタクシン騎馬像の記念建造物などを製作したが、彼がデザインしたバンコクで最も有名な記念建造物は民主記念塔である。彼は他の彫刻家たちも養成したが、その中には彼のスリウィチャイ像の彫刻と鋳造を補佐したKhiem Yimsiriや、チェンマイで最も有名な記念建造物である三人の王の記念碑を27年後に製作する事となったKhaimuk Chutoなどがいる。 三人の王 最も有名で広く複製されるチェンマイの記念碑は中心地に位置し、三人の王族の肖像によって構成されている。それらはパヤー・マンラーイ(Phya Mangrai)、パヤー・ンガムムアン(Phya Ngam Muang)と、通常はラームカムヘーン(Ramkhamhaeng)として知られる13世紀のスコータイ王で、タイ史に慈愛に満ちた王権の概念を打ち立てたパヤー・ルアン(Phya Ruang)である。この記念碑は1296年にこの都市が建設された時、この三人が会ってマンラーイの新たな都市の位置や設計、規模を定め、これが彼の新たなラーンナー王国の首都となったという物語を伝えるものだ。 この記念碑の発端は複雑で、実際にはマンラーイだけの記念碑を建てようとする地元の動きとして始まった。1969年には地方委員会が組織され、マンラーイ記念の取り組みに便宜が図られたが、この委員会が芸術局(FAD)と接触し、この記念碑のデザインを依頼した。彼らはさらにSukit Nimmanhemin教育大臣にも接触し、土地とFADの支持を確保した。1969年の夏にはこの大臣の提案によって、FADはマンラーイの記念碑という概念を、三人の王の記念碑へと変えてしまった。それはなぜか?政府が一年後に行った説明によると、彫像記念物の増殖には「混乱」を招く可能性があったためということで、つまりは、タイ政府によって認可されない歴史の記憶を作り出す事になる、という意味である。1970年3月に政府は新たな政策を発表した。それは、重要人物の記念建造物や記念碑の計画はいかなるものであれ、政府に提出し、政府が検討する必要があるというものだ。地方の彫像狂の問題が、政府の最高レベルの懸念となったのである。それでもなお、一人の王から三人の王への変更問題は、引き続き人々の関心を集めた。6月5日の地元紙は次のように問いかけた。「マンラーイの記念碑:一人の王か三人の王か、どっちが良い?」チェンマイ知事は、他の王たちを入れるとマンラーイの重要性が薄れること、また、特に若い世代向けの説明を追加する必要が出てくるとの不満を述べた。地元の旧チェンマイ王国の子孫たちもまた、マンラーイだけの記念碑の方が良かったようである。 一度、ンガムムアンとラームカムヘーンが加えられると、この記念碑の構成の問題がさらなる論争を生んだ。マンラーイは中央に立っているが、威厳たっぷりに中心となった人物はラームカムヘーンであり、他の者たちは彼の話を聞いているのである。地元民たちの中には、マンラーイを中心から外すというナラティブに不満を表明する者たちもいたが、他の者たちは、なぜラームカムヘーンがもっと中心とならないのかと尋ねた。国家的な見地から見ると、彼は当然、より重要であると考えられるためだ。ラームカムヘーンとマンラーイの主役争いは様々な方法で行われた。例えば、記念碑落成にちなんだ記念のお守りが発行された時、ラームカムヘーンの名前はマンラーイの名前よりも先に、最初に記載されていた。これらの人物のデザインも、また意味ありげである。彫刻家でタイ王妃の親族であるKhaimuk Chutoは、王たちの顔つきを彼らの人柄を反映したものとして思い描いた。マンラーイは美形で、ラームカムヘーンは支配者らしく、ンガムムアンは「ハンサムで気が多い」といった具合だ。 おそらくタイ政府の観点から見れば、マンラーイとラームカムヘーンを二つの中心とする事は妥協であっただろう。だが、チェンマイの観点から見ると、これは国家の歴史を地方の記憶の上に押し付ける事であった。一人の王の姿を三人に増やす事で、この記念碑は歴史的ディスコースをタイ国家の指示通りに再び中央化し、チェンマイの歴史をバンコクの歴史と結びつける事となったのだ。 彫像が体現するもの これらの彫像は世俗的な記念建造物として存在するだけでなく、信仰や儀礼の対象でもある。事実、世俗彫像と宗教彫像との境界線は、大部分の東南アジアにおいては不明瞭である。バンコクの王たちやその他の人物の彫像記念物は、容易に崇拝や儀礼の中心となり得るものであり、多くの本物そっくりの僧侶の彫像が地域の博物館や寺院に設置されている。完成した後の三人の王の彫像がチェンマイに入る様子は、古代の王たちさながらで、市内北部のチャンプアック門を通った後に市内中央の聖域に進んで行った。彫像はまるでそれらが王たちであるかのように動かされ、今日では代々の王権を体現するものとしてあがめられている。この記念碑はタイ政府による支配をよそに、市内中心部の呪力・霊験を主張する競合集団によって再解釈され続けている。 同様に、クルバ・スリウィチャイ記念碑もまた、宗教的、世俗的、両方の記憶を体現している。例えば1972年には、スリウィチャイとその弟子が山麓に建設した道路の基点近くに位置するWat Sri Sodaという寺院が、この彫像の寺院敷地内への移動を要求した。実際、彼らはこの彫像を宗教的彫像として要求し、彼らの方がこの彫像をより良く保護する事が可能であり、功徳を積むための儀式にも便宜が良くなると主張したのである。地元Khon Muang紙に発表された論説はこの計画に強く反論し、それをただの金儲けとして、元々の場所が選ばれたのは、この彫像を広い範囲から見えるようにするためであり、それによって人々がこの高僧の善行を記憶しておく(ramlukthung)役に立つからであると主張した。現在、この記念建造物は元の位置に留まり、記憶と崇拝の焦点となっている。 結論 全ての記念建造物は集合的記憶を幾分、歪めるものである。上で検討した記念碑は、今日のチェンマイに数多くある、歴史的記憶が姿形を与えられた場所のうち、ほんの二つの場所である。三人の王、あるいはクルバ・スリウィチャイ記念碑移動の簡易計画をめぐる論争は忘れられるべきではない。なお、一度は議論の的となった彫像を、地域のアイデンティティーの象徴として再配置する事も可能である。三人の王たちのシルエットを用いて、何でも北部、ラーンナー、あるいはチェンマイの標識とする事ができる。ニューヨークに自由の女神があるのなら、チェンマイには三人の王があるのだ。芸術家たちがこれらの彫像を刻むのと同様に、社会的、政治的諸勢力は記憶の風景を形成する。だが、「彫像狂」を地域的観点から検討することで明らかとなるのは、地域の記憶を体現するものに対する細かい政治的制限が、どのようにラチャパクディ公園にあるような彫像、つまりは、軍部の認めた超王党派、超国家主義者版タイ人のアイデンティティーと歴史のぶしつけな道具を作り出すことができるのかという点である。 Taylor M. Easum […]

Issue 20 Sept. 2016

ความทรงจำทวนกระแส: การฉายซ้ำความรุนแรงทางการเมืองในภาพยนตร์ยุคดิจิทัลของไทย

ในภาษาไทย คำว่า ความทรงจำ คำที่อยู่ตรงกลางคือคำว่า ทรง ซึ่งแปลตรงตัวหมายถึงรูปทรงหรือสื่อกลาง คำว่า ความทรงจำ ในตัวมันเองจึงหล่อหลอมความมีตัวตนของอดีต (ถึงแม้ผ่านการตีความเสมอก็ตาม) และเป็นสัญญาณบ่งบอกถึงศักยภาพที่จะแปรเปลี่ยนความทรงจำผ่านรูปทรงและสื่อกลางต่างๆ รวมทั้งการปฏิบัติในสังคมและวัฒนธรรมวัตถุด้วย คนเราทุ่มเทให้การสร้างตัวตนแก่ความทรงจำก็เพราะกลัวว่าจะลืม ประเทศไทยผ่านการรัฐประหารโดยกองทัพมาแล้ว 12 ครั้งนับตั้งแต่เปลี่ยนผ่านจากระบอบสมบูรณาญาสิทธิราชย์ใน พ.ศ. 2475 การที่กองทัพหวนกลับมาปกครองประเทศครั้งนี้ ทำให้เกิดประสบการณ์แบบย้อนอดีต (déjà-vu) ซึ่งน่าเสียดายที่ไม่จุดชนวนให้เกิดแรงต่อต้านในวงสังคมกระฎุมพีชาวกรุงเทพฯ เรากลับเห็นแต่การตอกย้ำเรื่องเล่าแม่บทที่ล้นเกินด้วยแนวคิดความมั่นคงของชาติและการรักษาความเป็นระเบียบของสังคม “กลิ่นอาย” ของเผด็จการอำนาจนิยมแบบกองทัพสร้างความรู้สึกคุ้นเคยถึงขนาดที่การรัฐประหารของกองทัพทำให้เกิดการเฉลิมฉลองในปี 2549 และยอมรับได้ในปี 2557 ในหมู่กระฎุมพีเสียงข้างน้อย—หรือมิใช่? ในขณะที่ข่าวพาดหัวของสื่อกระแสหลักอาจบอกเป็นนัยๆ ว่า คนไทยยอมรับการปกครองของกองทัพและการธำรงสถานภาพเดิมไว้ แต่เราขอแย้งว่า ภาพยนตร์อิสระทำหน้าที่สวนกระแสโดยนำเสนอเสียงคัดค้านผ่านความคลุมเครือทางการเมือง วัฒนธรรมของพื้นที่สาธารณะทางเลือกในภาพยนตร์ไทย […]

Issue 20 Sept. 2016

対抗的記憶:タイのデジタル映画における政治的暴力の再考

タイ語の記憶にあたる言葉、khwamsongcham = ความทรงจำの中心はsongであり、これは文字通り形式、あるいは媒体と訳される。khwamsongchamという語は、それ自体の中に具体的な(常に解釈されたものではあるが)過去を作り出し、社会的慣習や物質的文化などを含んだ様々な形式や媒体を通じた記憶の変容能力を示唆している。人が具体的な記憶に努めるのは、忘却への恐れがあるためだ。タイが12回連続で軍事クーデターを経験したのは、絶対君主制から移行した1932年以降の事である。今回の軍事政権の出現は既視体験を呼び起こしたものの、残念な事にバンコク中産階級の公共圏に抵抗運動を引き起こす事はなかった。そこに見られるものは、国家安全保障や社会的秩序の維持などに溢れたグランド・ナラティブの強化である。この軍事独裁主義の「感じと匂い」は、軍事クーデターが2006年に讃えられ、2014年には中産階級の少数派から許容可能なものとして容認され得るよう、親近感を作り出した(のであろうか?)。主流メディアの報道は、タイの人々が軍事政権と現状を受け入れているかのように仄めかすであろうが、我々が論じる自主映画は、対抗的公共圏として機能し、巧みな多義的表現を通じた抵抗を提供する。 タイ映画における対抗的公共圏の文化 現代のタイにおける独裁主義的状況の中、報道機関やオンラインのソーシャルネットワーク、ウェブ2.0の公共圏は縮小してしまった。ところが、ミクロの対抗的公共空間や反体制的社会運動は増えている。道徳的秩序が国家安全保障と混同されるようになり、この秩序を乱すと思しき思想や表現の罪には法廷での訴訟や罰金、パスポートの取り消し、国外追放、実刑判決などによる処罰が可能となった。国家検閲の強化は反対意見を抑圧するよりもむしろ、新たな政治色の強い自主製作のタイ映画を生み出すこととなった。製作やキュレーターシップにおける新技術、またソーシャルメディアを通じた新たな配給回路などがこれを可能にしたのである。 マイケル・ワーナー(Michael Warner)が示唆するように、「オルタナティブな公共圏が社会運動として位置づけられる場合、それらは国家に対する働きかけとなる。それらは政治の一時性に加わり、自身を合理的で批判的な言説の遂行文(performatives)に適応させる。多くの対抗的公共空間にとっては、そうすることは政策のみならず公共生活空間そのものをも変化させようとしたもともとの願いからの譲歩となっている。」タイの有識者や映画製作者たちが、彼らの反対意見を私圏に止めておくことを拒否することが、ミクロ・オルタナティブ・アート・スペース(カフェやギャラリー)の出現や、YouTubeやウェブ2.0などへのオープン・アクセスでのオンライン参加をもたらすことになった。これらの新たなミクロ対抗的公共空間は、多義的な風刺や両義的な語句を用いることで逮捕を回避している。 タイ(当時はシャム)映画の最初の国家検閲は1930年の映画法令であった。過去10年の間に新たな検閲法が出現し、刑法(1956, 2007)112条のコンピューター関連犯罪法(2007)と国内治安法(2008)の改正によって不敬罪法が拡大された。同じ10年間に、20作以上の自主映画が製作され、国内外の主要映画祭で公開上映されてきた。タイでインディーズ映画の拠り所となっているのは都市部のカフェや本屋、ギャラリー、領事館、それに大学などの場である。映画評論家のKong Rithdeeによると、タイ映画財団は「短編や自主映画を製作するタイの映画作家たちのための公共圏の創出にとりわけ重要な役割を果たし...映画およびデジタル映画の民主化」を、ワークショップや番組制作、映画祭などを通じて行っている。このような形で、インディーズ映画は政治的暴力の再考と記憶のための領域を切り開いてきたのである。 対抗的公共空間としての自主映画が細心の注意を払ってきたのは、記憶・歴史、そしてスローな映画美学であった。以下に論じる諸作品は、これら全ての特質を備えたものである。ここで取り上げる作品は、タイで繰り返される政治的暴力との対話、公開上映の機会が一回以上のものであること、また作品がオープンソースの中道左派のオンライン・ニュース・メディア、たとえばprachataiなどで再流通しているものであることを選択基準としている。 実験的ドキュメンタリーは記憶する:テロリスト(2011) タンスカ・パンジッティヴォラクル(Thunska Pansittivorakul)の映画「テロリスト(Terrorist)」は対照的なプラットフォームを備え、国家の政治的暴力の様々なシーンが親密な家族の記憶と並行して再現される。この映画は作品それ自体として見つけることが難しく、DVDやVCDの市場に流通もしていなければ、YouTubeなどのプラットフォームでその全編を入手できるものでもない。予告編は明らかに衝撃的で、男性のマターベーションのシーンが最近の2010年のバンコク路上の政治的暴力のシーンと並置される。この鑑賞体験は、同時に起こる性的、肉体的な暴力と喜びを直感的に具現化したものである。オンラインのニュースソースprachataiの抜粋では、ヌードシーンを避けて、政治的暴力のシーンのみが表示されている。 [youtube id=”bxwS3WN1NTA” align=”center” maxwidth=”800″] 映画の特別な見どころは、タンスカの母親がタイ共産党に加わった経緯についてのオーラル・ヒストリーを、母親と一緒にいる子供のタンスカの写真や、1976年10月6日の虐殺の写真と並置していることである。写真は我々の最も私的な記憶についてさえ、その証左として残す。写真はまた、1976年10月の虐殺の残虐性と衝撃的要素の紛うこと無き証言を提供する事もできるのだ。その残虐行為を暴力シーンの再現によって記録するにあたり、写真はまた、殺された者たちと暴力の関係者であった「国家主義的市民や国家当局」の両者を非人間化させる事も可能なのだ。 「空低く大地高し(バウンダリー タイの主要な劇場で商業上映され、Vimeoで18+の評価を受けた「空低く大地高し(2013)」は、南部の弾圧-2008年プレアヴィヒアにおけるタイ・カンボジア間の銃撃戦-に加わるよう召集され、その後、2010年5月に赤シャツ隊の鎮圧に送られた一人の若者の生涯を追う。この映画の原題“Fatum Paendin Soong”「空低く大地高し」が物議をかもしたのは、これがタイの社会的不公正や社会的階層化に異議を唱えるものと思われたためであった。タイ語での境界は“khet daen”として周知されている。ノンタワット・ナムベンジャポン(Nontawat Numbenchapol)監督によると、「境界の一つ目の意味は、貧しい農村の人々と搾取的なバンコクの中産階級とを分けるものである。二つ目の境界は、カンボジアの人々を国境によってタイから隔てるものである...私はプレアヴィヒアの山の国境に立っていた事を思い出した。その場所で、空と大地がつながり、共に存在していると感じていたのです。そのメタファーは、タイがいつの日か和睦する事を願ったものでありました。」要するに、この映画が具現化しているものは、国家がつくり出す領土や境界を通じた、現在にとっての過去、あるいは過去にとっての現在である。 [youtube id=”ONvbctIqjso” align=”center” maxwidth=”800″] ディレクターズ・カットでは、バンコクのラチャプラソン交差点での王の83歳の誕生日祝いのシーンが、ほんの数か月前に同じ場所で起きた赤シャツ隊の虐殺のシーンに入れ替わり、王族の賛辞や歓声、祝祭と共に映し出される。この並置は、場所が持つ複数の意味あいについて内省を促し、祝祭がどのように虐殺という汚点を置き換え得るかという設問を提起する。この多義的な表現ゆえに、タイの検閲委員会はこのシーンの削除を要求し、監督はこれに応じることとなった。2007年の112条の導入以来、国家当局は君主制に関するあらゆる発言の監視を余念なく集中的に行うようになり、不敬罪の違反者たちを政府の脅威である危険人物として標的にしている。 同様に、複雑な過去から構築されたタイ・カンボジア国境は、国内の政治問題を通じた敵の国家的記憶を具現化したものである。Pavin Chachavalpongpun、Charnvit Kasetsiri、Pou Suthirakの研究が示唆するように、タイ・カンボジアの国境は、歴史、記憶、政治や経済関係によって構築されている。境界はここでは字義通りの意味では用いられず、むしろ過激な国家主義や国内の政治問題の温度によって決められる敵か味方かの要素の狭間の動きを示している。 「ブリーフ・ヒストリー・オブ・メモリー(A […]

Issue 19 Mar. 2016

Rethinking “Religion” from the Margins

We have long been hearing about the degeneration of Buddhism in Thailand, most often accompanying scandals involving monks who deal with money, magic, or sex. Such realities are inevitably attributed to modernity or globalization. However, […]

Bahasa Indonesia

Menimbang-ulang “Agama” dari sudut pinggiran

Berita tentang kematian Buddhisme di Thailand telah lama terdengar, paling sering diikuti dengan skandal yang melibatkan sejumlah biksu yang berurusan dengan uang, sihir, atau seks. Beragam kenyataan tersebut pastinya terkait dengan modernitas atau globalisasi. Namun, […]

Issue 18 Sept. 2015

“Family” making in Sino-Thai Relations

This article is to set a broad proposition about examining the Sino-Thai relations through cultural linguistic aspects. In this regard, today it is common to hear leaders from China and Thailand frequently express their close […]

Book Reviews

REVIEW: Rueng Lao Mueng Tai: Pholawat Khong Mueng Chai Dan Thai Phama

 Niti Pawakapan. เรื่องเล่าเมืองไต: พลวัตของเมืองชายแดนไทย-พม่า Rueng Lao Mueng Tai: Pholawat Khong Mueng Chai Dan Thai Phama (Story of Tai Town: Dynamics of the Town within Borderline between Thailand and Myanmar)Chiang Mai: Center for ASEAN Studies, 2015. […]

Issue 17 Mar. 2015

Ugly Americans, Ugly Thais

On January 26, 2015, the assistant secretary of state for East Asian and Pacific affairs, Daniel R. Russel, delivered a speech at Chulalongkorn University, urging the end of martial law throughout the country and the […]

Issue 17 Mar. 2015

Inequality and Politics in Thailand

Writing in Democracy in America, Alexis de Tocqueville famously declared the ‘general equality of conditions’ the foundation of American democracy. For Thailand, it is different, for it is the general inequality of condition that defines […]

Book Reviews

REVIEW: A new religious cult for Thai middle-class?

Kamin Kamani (คามิน คมนีย์). เย็นวันเสาร์-เช้าวันอาทิตย์ (The Sunday Morning Club)Bangkok: Amarin Publishing, 2004 (1st edition); Banbook Publishing, 2014 (2nd edition). Kamin Kamani (คามิน คมนีย์). หัว*ใจ*เท้า (Head, Heart and Feet)Bangkok: Banbook Publishing, 2014. As symptoms of determination, […]

Issue 14 Sept. 2014

Tamnan Krasue – Constructing a Khmer Ghost for a Thai Film

German scholar, Benjamin Baumann, writes about Phi Krasue, one of the most well-known and most frightening uncanny beings of Thai folklore. Like most uncanny beings classified with the pre-fix Phi, Phi Krasue had no singular origin myth that reached beyond the local discourse, but that changed in 2002 with the release of the Film “Tamnan Krasue” which locates the origin of this uncanny being in 13th century Angkorian Khmer culture. This article offers interpretations as to why this idiosyncratic origin myth appeared in the aftermath of the Asian Financial Crisis and how it may contribute to our understanding of contemporary Thai-Cambodian relations. […]