Issue 27

อัตลักษณ์ชาติไทยกับอัตลักษณ์ล้านนาในภาคเหนือของประเทศไทย

เว็บไซท์ CIA’s World Factbook บรรยายว่าประเทศไทยเป็นประเทศชาติพันธุ์เดียว โดยมีสัดส่วนคนไทยถึง 95% ของประชากรทั้งหมด  จินตภาพนี้สอดคล้องอย่างยิ่งกับการปั้นแต่งลักษณะเด่นของประเทศไทยฉบับทางการที่ย้อนกลับไปตั้งแต่สมัยยุคปลายอาณานิคม  เมื่ออังกฤษกับฝรั่งเศสโอบล้อมสยาม (ชื่อเดิมของประเทศไทยจนถึงปี 2482) จากทุกด้าน ชนชั้นนำของสยามเริ่มอ้างว่ากลุ่มชาติพันธุ์ไทกลุ่มใหญ่ๆ ภายในอาณาบริเวณที่ตนครองอำนาจนั้นเป็นสมาชิกของกลุ่มชาติพันธุ์ไทยตามภาคต่างๆ ซึ่งถือเป็นส่วนหนึ่งของชาวสยาม  ดังนั้น คนลาวในที่ราบสูงโคราช (ทุกวันนี้มีสัดส่วนประมาณ 30% ของประชากร) จึงกลายเป็นชาวไทยภาคตะวันออกเฉียงเหนือ และคนลาวดำตามเทือกเขาทางภาคเหนือ (ทุกวันนี้มีสัดส่วนประมาณ 12% ของประชากร) จึงกลายเป็นคนไทยภาคเหนือ  โครงการชาตินิยมไทยเริ่มต้นจากจุดนี้ โดยเลียนแบบรัฐชาติยุโรปที่กำลังคุกคามพรมแดนของตน  การศึกษาภาคบังคับของภาครัฐเป็นเครื่องมือสำคัญเคียงคู่ไปกับการทำแผนที่ การรวมศูนย์ศาสนาพุทธและการโฆษณาชวนเชื่อระดับชาติ  หากจะหยิบยืมข้อเขียนอันมีชื่อเสียงของยูจีน เวเบอร์เกี่ยวกับพัฒนาการของลัทธิชาตินิยมฝรั่งเศส  กระบวนการนี้ก็คือการเปลี่ยนชาวนาให้เป็น “คนไทย” […]

Issue 27

タイ北部におけるタイ国民のアイデンティティとラーンナー人アイデンティティ

CIAのワールド・ファクトブック(World Factbook)はタイについて、タイ人が人口の95%を占める民族的に均質な国と述べている。 このイメージは、植民地時代後期に遡るタイの公的特徴描写にぴったり沿ったものだ。イギリスとフランスがシャム(1939年以前のタイの呼称)を全面包囲すると、シャム人のエリートはその勢力範囲内の主要タイ系(Tai)民族集団を、シャム人の属するタイ人(Thai)民族集団の地方構成員と呼ぶようになった。こうして、コーラット(Khorat)高原のラーオ族(現在、人口の約30%を占める)はタイ東北人となり、北部山地のブラック・ラーオ族(Black Lao/現在、人口の約12%を占める)は北部タイ人となった。 以来、タイ・ナショナリズム計画は、タイ国境を脅かしたヨーロッパ国民国家諸国を模倣しながら進められる事となる。国家の道具たる普通教育と併せ、地図製作や仏教の中央集権化、そしてユージン・ウェーバー(Eugene Weber)のフランス・ナショナリズムの展開についての有名な研究論文の表現を借りると、農民をタイ人にするための国家的プロパガンダが行われた。 その120年後、タイ・ナショナリスト計画はどのくらい成功を収めたのだろうか? この疑問を北部タイのラーンナー人の民族集団において検討する。北部タイのラーンナー民族は約800万人、あるいはタイの人口の約12%を占める。 彼らが自分たちの呼称(ethnonym)として、より一般的に用いるのは、文字通り「ムアンの人々」を意味する「コム・ムアン(khonmueang)」だが、同集団はタイ・ユアン(Tai Yuan)、あるいは北部タイ人(Northern Thai)とも呼ばれる。各名称には具体的な歴史的起源と政治的な意味がある。事実、シャムがかつてのラーンナー王国領を1899年に初めて併合した時、シャム人エリートたちは彼らの事をラーオと呼んでいた。 ラーンナー民族のタイ国民のアイデンティティへの統合は、どのくらい成功しているのだろうか?彼らは自分たちの事をどの程度タイ人と見なし、また、その他のアイデンティティは、どの程度まで今も有効なのだろうか? この疑問への一つの答えは、ラーンナー人に対する一般的な考え方や認識から導くことができる。イサーン人の民族集団について、しばしばネガティブなステレオタイプがタイ社会に満ちているのとは異なり、ラーンナー人は穏やかで洗練された民族として描写される傾向にある。ラーンナー人には、イサーン人に対する近隣ラオスのラーオ族のような、国境地方で併存して暮らす民族がいない事も大きいだろう。これはおそらく、現在のタイ国境内にあった最初期のタイ族の諸王国が、ラーンナー領内に位置していた事と関係している。いずれにせよ、チェンマイはバンコク住民にとって理想の休暇先と考えられており、白く美しい肌や、穏やかな口調の方言、豊かな文化などが首都への土産話となっている。 本論はステレオタイプを超え、ラーンナー人のタイ人アイデンティティに関する疑問に答えを出そうとするものであり、そのために世界価値観調査(the World Values Survey /WVS))が実施した世論調査を参照している。また目下、著者が2015年から2019年の間に北部で行った3つの調査に関連したラーンナー文化プロジェクト(the Lanna Cultural Project /LCP)の結果も紹介する。 タイ国民のアイデンティティ タイで2007年と2013年の二度の周期で実施されたWVSの質問を用いる事にする。WVSでは、どの言語が家庭内で話されているかという、調査上、最良のエスニック・マーカー(ethnic marker)となる質問もされ、不完全とはいえ、優れた民族的アイデンティティの判断基準を提供している。この基準を用いる事で、タイにおける国民アイデンティティの強弱の差を分析する事ができる。図表1は「タイ人である事をどのくらい誇りに思いますか?」という質問に対する民族別の結果を示すものだ。回答は既定の4段階評価に沿って行われ、1は「全く誇りに思わない」、4は「非常に誇りに思う」を意味する。大半の回答者が3、あるいは4と答え、全集団の平均値は3.5以上であった。中部タイ人(ないしシャム人)は、この国の主要民族であるが、誇りについての平均値は最も低かった。ラーンナー人は、2007年と2013年の調査を平均して最高値を示し、これに僅差でイサーン人が続いた。 同様の結果が見られたのは、回答者が自身をどの程度タイ国民と考えているかを判断する、もう一つの質問への回答で、これも4段階評価に基づくものだ。図表2から分かるのは、全集団の平均値が(3)の「そう思う」と(4)の「強くそう思う」の中間辺りにあるという事だ。この質問においても、ラーンナー人の平均値は最も高かった。 では、ラーンナー人のタイ人意識が最も強いと結論付けるべきなのだろうか?これら二つの質問において不明な事は、回答者がどのような文脈上で回答したのかという事だ。具体的には、回答者が誰、あるいは何を自分たちの比較対象にしたのか、という事だ。タイ人である事に誇りを持っていないのであれば、他のどのアイデンティティに誇りを持っているのか?同様に、タイ国民の一員でないのならば、他のどの国民の一員なのか?エスニシティの文献が長年に渡り、立証してきた事は、個人には同時に数多くのアイデンティティがあり、それぞれのアイデンティティが全般、個別の二つの文脈の中で優位を巡って競合しているという事だ。ラーンナー人のタイ人意識が最も強いと単純に結論付ける事の複雑さを説明するため、WVSの質問をもう一つ紹介しよう。この質問は回答者がどの程度、自分たちを地域コミュニティの一員と考えているかを問うものだ。WVSでは、自分をタイ国民の一員だと思うか、という質問の直後にこの問いが来る。図表3はこれらの結果を示すものだが、ラーンナー人が再び最上位の結果となり、彼らが国民的、地域的アイデンティティの両方に最も強い意識を持つ事が示された。だが、これらの結果をどのように解釈するべきだろうか?この結果を不可解とする者もいる。タイ人アイデンティティの意識が最も強い集団なら、地域的アイデンティティの意識は最も弱いはずではないのか?これは何を意味するのだろうか? WVSは国民アイデンティティや民族的アイデンティティに関する疑問の分析を意図したものでは無く、ここからタイの諸民族集団がタイ人の国民アイデンティティ、あるいはラーンナー人のアイデンティティについて、どう感じているのかを読み取る事には限界がある。そこで、筆者はこれらの疑問をより深く掘り下げるべく、2015年から3つの調査を行ってきた。まず、「タイ人である事をどのくらい誇りに思いますか?」という質問を繰り返す事で、望ましさのバイアス(the desirability bias)とWVSの質問の段階評価の限界に対処した。まず回答者には、彼らの誇りのレベルをタイ人の平均値と比較するよう依頼し、タイ人の平均値が段階評価の中程であった事を伝えた。これは回答者が誇りのレベルに関して、低い絶対値をさらけ出す事なく、より低い相対値を示しやすくするためだ。タイには強い社会的プレッシャーがあり、高いレベルのナショナリズムを示す事が求められるが、相対値の低さは必ずしも絶対値の低さに結びつくものではない。こうする事で、望ましさのバイアスを最小限に抑えた。質問に対する二つ目の調整は、単純に回答幅を拡大する事で、ここでは4段階から10段階評価にまで拡げた。図表5はこの結果を示すものだ。11.82%の人々のみが、タイ人である事を誇りに思う気持ちが平均的な人と同じレベルだと考えていた。その他の約15%は、平均的な人よりも誇りに思うレベルが低いと考えている。低い事に変わりはないが、これらの結果から分かる事は、WVSの結果が示すよりも、はるかに大きなばらつきがあるという事だ。WVSの結果では、回答者の0.54%のみが「あまり誇りに思わない」、あるいは「全く誇りに思わない」と述べていた。残る73%はタイ人である事を誇りに思う気持ちが、平均的な人のレベルよりも高いと考え、自らを最高の段階評価に位置付けた者は、WVSの調査では95.70%であったのに対し、13.69%のみであった。この調査は、北部タイのラーンナー地方に限定されたものであったため、現段階でこれを他の民族集団と比較する事は出来ない。だが、質問に手を加えた事で、ラーンナー人のタイ人アイデンティティの強さに、より大きなばらつきがある事が分かった。   ラーンナー人のアイデンティティとラーンナー・ナショナリズム 次は、ラーンナー人がWVSにおいて最も強い国民的・地域的アイデンティティを有するという難題に目を向けよう。LCPの二つ目の質問は、回答者に自分たちのタイ人アイデンティティを地域的アイデンティティに比較するよう尋ねるものだ。回答者には6つの異なるアイデンティティを提示し、これに対して1から6までの順位をつけるよう頼んだ。1位は最も重要な位置づけを示す。表1は、それぞれのアイデンティティの平均順位を示す。タイ人アイデンティティは概して最も高い順位であり、41.88%がこれを1位とし、全体平均順位では2.37である事が分かる。回答者には、三つの異なる民族的・地域的アイデンティティの選択肢を与えた。それらは北部、ラーンナーとチェンマイだ。これら三つの地域的アイデンティティを合わせると、43.56%という割合で一位となった。 三つのアイデンティティを比較すると、北部は二番目に高い平均順位であるが、ラーンナーとチェンマイのアイデンティティは、いずれもより高い頻度で一位となった。また、この三つの民族的・地域的アイデンティティの平均は、どれもほぼ同じであった。この事が示していると考えられるのは、一つの民族名称を他の名称よりも好む者があったとしても、平均的に見ると、これらの名称は大いに置き換えが可能であるという事だ。 表1. […]

Issue 26

Black Site Thailand: Cold War Political Legacies

A striking aspect of reporting on the Central Intelligence Agency’s (CIA) “black site” in Thailand was Human Rights Watch researcher Sunai Phasuk’s comment that Thai military and police had adopted the black site’s torture techniques: […]

Issue 26

คุกลับประเทศไทย: มรดกทางการเมืองจากยุคสงครามเย็น

แง่มุมหนึ่งที่น่าสนใจในรายงานข่าวเกี่ยวกับ “คุกลับ” ของสำนักข่าวกรองกลาง (ซีไอเอ) ในประเทศไทยก็คือ นายสุณัย ผาสุก นักวิจัยองค์กร Human Rights Watch แสดงความคิดเห็นว่า กองทัพและตำรวจไทยรับเอาเทคนิคการทรมานของคุกลับมาใช้  “เราไม่เคยได้ยินวิธีการทรมานแบบวอเตอร์บอร์ดดิงมาก่อน….จนกระทั่งหลังจากปี 2547 หรือ 2548 ที่วิธีการนี้เพิ่งถูกนำมาใช้ที่นี่” (Los Angeles Times, April 22, 2018)  นี่ไม่ใช่ครั้งแรกที่ปฏิบัติการของสหรัฐอเมริกาทิ้ง “มรดก” สำคัญไว้ให้ประเทศไทย  การเป็นพันธมิตรกันระหว่างสหรัฐอเมริกากับไทยในช่วงสงครามเย็นสร้างผลกระทบกว้างไกลต่อการเมืองและสถาบันการเมืองของประเทศไทยมายาวนาน พันธมิตรในช่วงสงครามเย็นก่อตั้งขึ้นท่ามกลางบริบทของการต่อสู้ทางการเมืองหลากหลายฟากฝ่าย ซึ่งสะท้อนความขัดแย้งที่กำลังก่อตัวจนกลายเป็นสงครามเย็น  ในประเทศไทย ความพัวพันอย่างลึกซึ้งกับสหรัฐอเมริการ้อยรัดกับสงครามการเมืองภายในประเทศที่ต่อกรกันระหว่างฝ่ายสนับสนุนการปฏิวัติ 2475 กับฝ่ายนิยมกษัตริย์ Darling […]

Issue 26

ブラック・サイト、タイ:冷戦の政治的遺産

タイにおける中央情報局(CIA)の「ブラック・サイト」に関する報告の衝撃的な局面の一つは、ヒューマン・ライツ・ウォッチ(Human Rights Watch)の研究者、Sunai Phasukのコメントである。これによるとタイの国軍と警察は、ブラック・サイトの拷問技術を導入していた。「水責めは前代未聞だった…2004年か2005年以降に初めて、これがここで用いられるようになった」(Los Angeles Times, April 22, 2018)。米国の軍事行動がタイにとって重大な「遺産」となったのは、これが初めての事ではない。米国とタイの冷戦同盟は、タイの政治とその政治制度に広範な影響を及ぼしてきた。 この冷戦同盟が確立された背景に、冷戦対立の高まりを反映した複数の政治紛争があった。タイでは、米国との深い関わり合いに、1932年革命の推進者とその反対派である王政主義者との間の国内の政治闘争が絡み合っていた。 第二次世界大戦後の米国タイ大使が、全て熱心な反共産主義者であったことを見極めたのはDarling (1965, 104-105)だが、彼は、大使たちが「自分の政府と国民を助け、この国の安全保障上の深刻な脅威だと感じている問題を重視する、という善意しかもっていなかった」とも断言している。CIAと国務省の当時の記録文書が示すところによると、「善意」を定義するのは「共産主義の侵略」に対する闘いの中で、タイが確実な冷戦同盟国となることだった。 米国・タイの冷戦関係における3つの相関点は、いかに「善意」が軍事的権威主義を支持するために用いられたかを示している。軍事政権へのこの安定した支持は、プリディ・パノムヨン(Pridi Phanomyong)との以前の同盟の撤回と、彼の自由タイ運動(Free Thai)支持者の政治的な壊滅を、基礎としていた。この過程で、米国とバンコクの軍事政権は、プリディと自由タイ運動の拠点である東北地方が、共産主義者のイレデンティスト(irredentist:領土回復主義者)の危険な温床であると見なした。こうした干渉のいずれもが、タイ政治に深い影響を及ぼしてきた。 プリディ:同盟者から敵へ 第二次世界大戦中、高名な法学者にして、1932年の絶対王政打倒の立案者、自由タイ運動地下組織の指導者、そして摂政でもあったプリディは、タイで米国が最も信頼を置く同盟者だった。米国は1946年に彼の協力の見返りとして自由勲章(the Medal of Freedom)を与えている。しかし、彼には、社会主義と経済ナショナリズム、急進的な反植民地主義についての疑問が浮上してくる(Thanet 1987; Goscha 1999)。 タイの王政主義者たちはそのような疑念をしきりに煽り立てた。プリディに対する積年の不満から、彼らはプリディが共和制主義者で「ボルシェビキ(共産党員)」であると、繰り返し言い立てた。米国は当初、王政主義者の策略を退けたが、戦略諜報局(OSS)そして後のCIAの報告書は、次第にプリディの思想に疑念を抱かせるような王政主義者の談話や「機密情報」を描いていく。1946年のアーナンダ・マヒドン(Ananda Mahidol)国王の謎の死をめぐって政治が混乱する中で、1947年にプリディ政権を失脚させたクーデターの直前に、自由タイ運動と共産主義を結びつける情報機関の報告書が拡散される。Fineman(1997, 36)が明らかにした通り、アメリカはクーデター実行者が「罰を受けずに選挙によるプリディの政府を転覆させること」を事実上認めた。王政主義者から国王の死に関与したと非難され、また1949年の反クーデターの失敗から政府と米国の敵と非難されたプリディは、生涯にわたる亡命生活に入った。 1947年のクーデターの後、タイの新たな軍首脳はこのクーデターが共和制主義者と共産主義者、すなわち、プリディと自由タイ運動に対するものであったとアメリカ大使館に正式に発表した。CIAの報告書(1948a)は、プリディが「共産主義者で、現政府の転覆を謀っている」と非難している。この米国のクーデター支持は、米国がタイの政治的安定を強く望んでいたこと、そして米国がタイや東南アジアでの共産主義の進出に対する民主的な対抗手段が無いと判断したことを反映していた。このような見解が暴力的な軍事政権との同盟を許容させたのだ。 1949年の末にプリディが中国に亡命する中で、CIAの報告書は繰り返し、プリディを中国共産党やピブーン(Phibun)政権打倒の動きと関連付けた。一つの報告書はプリディを侵略計画と破壊工作、東北部の共産主義本部、さらには中国政府の支援を受けたピブーン政権攪乱と結び付けている(CIA 1950)。 同盟者から共産主義の脅威となるまでのプリディの米国にとっての遍歴は、タイ政治にとって何を意味するのだろうか?当然、プリディ自身の政治活動が彼の失脚の一因ではある。彼の政敵は彼より上手だったということだ。それでも、米国がプリディに見切りをつけたことは、王政主義者にとって大きな政治的勝利を意味した。ピブーンは、反王政主義者であるにもかかわらず王政主義者と結託し、プリディの政治運動による非軍事的で民主的な体制という選択肢を根絶する。 プリディの政治的破綻は、タイの軍事支配に対する主な反対勢力が、1940年代の末には相当弱体化されていたことを意味した。これが米国にとっては好都合だった。戦時中の同盟者を見限ることで、王政主義の政治家と、強力な政治機構としての王室の政治的基盤の再活性化の準備となった。米国が手に入れたものは、同盟者としての安定した軍事政権と、冷戦工作のための東南アジア本土の基地であった。 東北部からの脅威 プリディの自由タイ運動支持者を追放するため、政府と米国は彼らを共産主義に関連付けたが、この結び付けは米国受けするものだった。米国の公式な文書や政策において、プリディと自由タイ運動、野党の政治家をベトミンや東北部のベトナム人政治難民の共産主義に関連付けたものが積み上がることになる。 戦後、武器貿易などのタイのベトミンへの支援が広く知られることとなった。実際、反植民地主義とフランス人への蔑視によって、この支援は政治的分裂を越えるものとなったのである。Goscha […]