環境運動と道徳政策 ——タイ軍事政権下(後?)の環境運動を振り返る

Bencharat Sae Chua

我々の運動は政治的なものではない」。

公開討論会であれ、私的な会合であれ、タイの環境保護活動家が、これと似たような主張をするのを著者は何度も耳にした。特にこの主張が目に付くのが、最近のタイの三大環境運動だ。具体的には、メーウォン(Mae Wong)・ダム反対デモ、タイ人実業家による野生の黒ヒョウ殺しの事件に端を発する反密猟デモ、そして、ドイ・ステープ(Doi Suthep)国立公園内に予定されていた裁判官宿舎の建設計画反対デモだ。なぜ、タイの環境運動は、これほど声高に政治性の否定に熱弁をふるうのか?そして、このように政治的要素が抜かれた環境保護主義は一体、何をもたらすのか?また、環境保護の主張は、タイで益々議論が生じる状況の中で、どのように変化していくのか?本論では、これらの疑問点を検討する事で、環境運動の非政治化の影響を考えると共に、タイ民主主義の目的と、これらの運動とを合致させる、より政治色の濃い環境運動をもたらすには、どのような手段があるのかを考察する。

環境運動の非政治化

環境運動の非政治化が一般的となった背景には、2014年5月のクーデター以来、2019年7月まで、タイを支配した軍政の国家平和秩序協議会(the National Council for Peace and Order, 以下NCPO)の存在があった。つまり、全ての活動家が軍政の下で、自分とコミュニティを相当な危険にさらして政治運動に取り組む事になったのだ。そのような抑圧的な状況の中で、彼らが各自の運動の重要な主張と、より大きな政治的主張との間に距離を設け、安全を確保しようとした事は理解できる。だが、疑わしい接戦の選挙を経て、NCPOに代わって支配を続ける現政府の下でも、環境保護主義者はなお、非政治化宣言を続けているのだ。この一貫した態度から明らかとなるのは、戦略的な駆け引きだけではない。それ以上に、環境保護主義者のより大きな政策形成の根本を成す信念が浮かび上がってくる。それは、イデオロギーでないにせよ、信念であり、これが明らかになる事で、彼らの運動形成の方法も見えてくる。

タイの環境運動の大半は、環境保護を中心としたものではない。むしろ、これらの運動は、生計に対する権利や、天然資源へのアクセス権の問題を、環境保護をめぐる問題に結びつける運動なのだ。なぜこのような事になったかと言うと、環境保護と(あるいは)天然資源の保全を目的とした運動の方が、生計や資源に対する権利の問題に取り組む運動よりも、一般的な認知度を高めやすく、支持を集めやすいからだ。

このような運動の好例として、ナコーンサワン(Nakhon Sawan)県のメーウォン・ダム計画に対する反対運動がある。以前、タイの環境政治は2000年代半ばのより重大な政治紛争の下で一括りにされていたが、2013年には、この反対運動がタイの環境政治を再び活気付ける事となった。かつての反ダム運動は、現地の地域社会の生計に対する潜在的な影響を重視していた(また、それ故に中産階級の支持を多く集められなかった)。だが、これとは違って、メーウォン・ダム反対運動の主張の軸に据えられたのは、タイで最後の野生のトラ個体群の一部が生息する原生林の保護であった。この運動は、都市部の中産階級から幅広い注目を集めた。さらに、この運動は一部の人々にとって、過去10年間の環境運動を象徴するものとなった。

また、2018年の初頭に、これとは別の二つの非政治化された環境関連の事例が、大ニュースとなった。一つ目の事例は、トゥンヤイ・ナレースワン(Thungyai Naresuan)野生動物保護区内で、タイ人大物実業家が行った野生動物の密猟に対して起きた運動だ。当時、密猟者と、彼らが殺した希少な黒ヒョウの皮のグロテスクな写真に対し、この運動は説明責任を求めた。多くの人々は、猟を行った有力者が起訴を逃れるだろうと思っていた。このようにして、このデモは訴訟手続きの腐敗や、野生動物の保護に対する関心を呼び起こした。また、チェンマイ県、ドイ・ステープの保護林に侵出する裁判官宿舎計画をめぐっても、抗議者は同様の懸念を表明した。この二つの事例は、厳格な森林保護を要求する市民のデモや運動を引き起こすと同時に、汚職と権力の乱用が、環境破壊とどのように関わっているかも浮き彫りにした。

確かに、この二つの事例は声高に不正を非難していたが、これらが重点的に取り組んだのは、さらに大きな制度上の問題ではなく、森林の保護であった。そもそも、これらの運動と、類似する他の「地球に優しい」環境運動は、天然資源へのアクセスや、その供給と保護、開発の権利を規定する、政治と社会の構造に盾突くような運動ではない。つまり、これらの環境運動は、天然資源に対する平等なアクセス権の擁護や、環境悪化による影響からの平等な保護、天然資源に関する政策決定のプロセスに関与する権利よりも、環境保護を重視しているのだ。この点において、これらの運動は、タイの環境保護主義に特有な分裂を映し出している。例えば、この30年間の地域社会の森林管理では、団体間の論争が多発している。一方の団体が、森林の保護には人間活動を一切認めない事が必要だと考えれば、他方の団体は、地域が森林の管理や手入れを行う権利を主張して活動する、といった具合だ(例として、Forsyth & Walker 2008を参照)。

さらに、これらの環境運動は多種多様な道徳的主張を展開し、タイの政治紛争に10年以上、はびこっている汚職への反対感情を増幅させた。道徳的な視座から見ると、社会問題は、物議を醸す政治判断や政策決定、不平等な力関係の結果というより、個人の道徳が衰微した結果のように思われる。このように、中産階級の環境保護主義における道徳政策は、国民の関心を引き、これが様々な環境正義の問題に向かないようにしているのだ。例えば、鉱山計画の反対運動には、環境正義の枠組みが使われる傾向がある。だが、これらの運動は、環境悪化の直接的な影響を受けた地域社会がある地元では活気を帯びているが、より広い世間の注目を集められていない。この意味で、環境問題とタイの環境運動の非政治化は、さらに多様な政治的影響をもたらす。

道徳主義、地域主義と環境保護主義

環境問題の非政治化は、タイの環境運動のイデオロギーとレパートリーを再検討する事で説明できるだろう。まず、「地球に優しい」環境運動も、環境正義系の運動も、タイの民主化の中で、常に環境保護主義や環境保護の構想を取り入れてきた。この理由の一つに、環境保護主義の方が比較的、中産階級の支持を多く集められるという事がある。他の団体、特に草の根運動は、その問題を環境問題として提示するものの、実際にはグーハ(Guha)とマルチネス-アリエ(Martinez-Alier)が「貧困層の環境保護主義(‘environmentalism of the poor’)」と呼ぶもの(Guha and Martinez Alier 1997, 12)を用いている。それによって、自分たちが真の環境保護者だと主張する事で、彼らは天然資源に対する権利を強く主張しているのだ。だが、民主化時代の環境保護主義が階層を超えた協力関係を作り上げ、両者の違いは曖昧となった(Hirsch 1997, 192)。しかし、この状況の中で、活動家が貧困層寄りの環境保護主義の政治的主張をそれ程重視しなかったのは、中産階級の支持を失う恐れがあったからだ。

また、貧困層の環境保護主義には、地域主義の言説や地域文化のアプローチの影響もある。これらはタイ政治の展望が開き始めた1980年代以来、タイの市民社会組織と草の根運動の中心であった。この地域主義と地域文化は、大半のNGOによって採用されたアプローチであり、農村部の生活と地域の智慧を理想化するものである。また、これらのアプローチからは、現代資本家の暮らしぶりや、代議制政治に対する憤りも読み取れる。それに、これらの構想の中では、選挙制民主主義は西洋的概念と見なされ、道徳的根拠を欠くばかりか、不徳な政治家が貧者を操作して私腹を肥やす機会になったと考えられているのだ。この汚れた政治言説は、民主主義をタイ人仏教徒社会には不相応なものと述べ、道徳的により優れた指導者が、これに代わってタイを統治するべきだと論じる。さらに、この道徳言説は、一部の市民社会を、彼らと同じ道徳政策を支持する保守派エリートの支配層と結び付けている(Thorn 2016, 530)。つまり、これらの集団はいずれも「善き人」の「正しさ」を強調し、そのような者が、国民の大多数によって選挙で選ばれた政治家よりも、善良性ゆえに、統治者に相応しいと考えるのだ。しかも、この両当事者は、政治家を選出する大多数の国民には、道徳的に優れた人物を見極める能力が無いと考えている。したがって、とりわけ、民主主義の名の下で行われる政治闘争や、その種のデモは、私的な政治的利益をめぐる無秩序な暴力的闘争手段として認識される事になる。

現代の環境運動は、このような言説と機構を背景として、政治との関わり方を定義しなければならないのである。2000年代半ばには、タクシン・チナワット政権追放デモが起き、その後、2013年の終わりから2014年の初頭には、タクシンと同盟関係にあった政府の追放デモが起きた。当時、環境運動に携わっていた者も含め、多くの市民社会組織と活動家が、軍部による代議制民主主義の停止を求める動きに加わった。彼らがこのような行動に出たのは、政治家よりも軍人の方が、高い道徳性を備えていると信じていたためだ。そのため、2006年9月19日と2014年5月22日のいずれのクーデターの際にも、多くの環境活動家は、これらのクーデターに対する反意を表明しなかった。事実、市民社会の一部の有力者は、軍政による「政治改革」のプロセスに関与し、これを不徳な政治を一掃する好機と見なしていたのだ。そのような文脈において、環境保護は、軍事政府が推進できる正しい道徳的行為と考えられている。

また、ある有力な環境活動家は、軍政が環境ではなく、開発をより重視している事を知りつつも、次のような希望を表明した。曰く、NCPOが「この機会を捉え、反対する者のいないうちに、確かな基盤を迅速に築き」、環境悪化や森林破壊を解決し、環境に優しい法律を発布すればよい、というものだ。つまり、これは明らかに環境保護の道徳政策が、軍部の独裁支配と完全に両立可能になったと言っているのだ。

Bangkok’s smog cloaking the Chao Praya River

環境政策を再び政治化する事は可能か?

このように、環境保護主義者が軍事政権を歓迎するとは、何とも皮肉な話であろう。もっとも、国家平和秩序評議会(NCPO)率いる軍事政府は、2014年5月のクーデター後に、環境問題と非民主的な政治機構との関係性が何を意味するのかを明確に示している。この際、NCPOは2016年の暫定憲法第44条の下で、数多くの命令を発したが、それらは市民の関与が制限される中で、軍政が開発計画を実施する事を認めたものであった。

しかも、これらの計画の多くは、人々の生計と天然資源の双方に対する大きな環境的影響を伴うものだった。例えば、経済特区(Special Economic Zones, 以下SEZ)や、エネルギー生産関連施設、廃棄物管理施設を、後述の都市計画法や建築規制法の対象外とする旨の布告があった(NCPO議長命令2559年第3号および2559年第4号/The Head of NCPO’s Orders No. 3/2559 and No. 4/2559。また別の特例では、政府が公有地や公有林を開墾し、SEZとして利用する事を可能にしている。しかも、これに関しては、ずっとその土地の住民や使用者だった者たち、あるいは、土地を所有する関連行政機関にも、異議の申し立ては認められていない(NCPO議長命令2558年第17号/(The Head of NCPOs Order 17/2558)。また、NCPO議長命令2559年第9号(The Head of NCPO’s Order No. 9/2559)では、輸送や灌漑、公共の危険の回避、病院、住宅計画などの事業が「最も緊急を要する」と判断されれば、環境影響評価(Environmental Impact Assessment, EIA)の調査完了前でも、国家が事業の出資者を募る事が認められている。そして、これらの命令は現政府の下でも、改変されずに残っている。このNCPOと後続政府による抑圧的な支配の結果、政治活動家、特に環境活動家に対する逮捕や嫌がらせ、脅迫が多発する事態も生じている。

タイ市民社会アクターの多くは、政治紛争が勃発する前は、生計に対する権利や政策の変更を求め、その他の社会問題に取り組もうと活発に活動していたが、軍部による抑圧の中では、比較的、大人しくしていた。また、中には特定の政策に疑問を抱く者もあるが、大抵は、民主主義を要求するには至らず、むしろ、自らの非政治的な立場を主張している。それに、環境関連問題に取り組む市民運動のネットワークが、問題のあるNPCO命令を批判した時でさえ、彼らは暫定憲法の権威を認め、この憲法の非民主的な成り立ちは勿論、その違法性も疑問視しなかった。

著者はタイの全ての環境運動が非政治化されていると主張するつもりはない。事実、環境正義(例えば鉱山事業、あるいは砂糖農園やバイオマス発電所の影響を受けたコミュニティなど)に関する理念を掲げた一部の運動は、環境保護の要請のみを自らの運動の根拠とはしていない。むしろ、彼らは反軍事政権として計画への反対を表明し、具体的な主張によって計画に反対しながら、民主主義を要求しているのだ。また、彼らの主張に影響を与えているのは道徳的な環境保護主義ではなく、人権にまつわる言説や民主主義の原則だ。これらのアクターは通常、自分たちの理念が政治的と見られる事に、全く恐れを示さない。事実、中にはこれを歓迎する者もおり、2019年選挙では、彼らが手を組み、平民党(the Commoners Party)を結成したほどだ。

これらの運動は、本質上、厳密には環境運動に分類するべきではないかもしれない。だが、彼らの環境保護の理念は力強いものであり、長い目で見れば、これらの運動がタイの環境運動を様変わりさせる可能性もある。タイの環境政策を理解するには、環境保護主義を再び政治化しようとする、これらの取り組みの影響を、既存の道徳環境保護の言説と並べて追跡する必要がある。

Bencharat Sae Chua
Lecturer, Institute of Human Rights and Peace Studies, Mahidol University

Banner: Protesters hold an anti-Mae Wong Dam rally on September 22,2013 in Bangkok, Thailand. The protesters known as Stop EHIA Mae wong Dam by walking 388 Km. from Mae wong to Bangkok. Photo: jirawatfoto / Shutterstock.com

Reference:

Forsyth, T & Walker, A 2008, Forest Guardians, Forest Destroyers: The politics of environmental knowledge in northern Thailand, University of Washington Press, Seattle.
Guha, R & Martinez Alier, J 1997, Varieties of Environmentalism: Essays North and South, Earthscan Publications, London.
Hirsch, P 1997, ‘The Politics of Environment: Opposition and legitimacy’, in Hewison, KJ (Ed.) Political change in Thailand: Democracy and participation, Routledge, New York, pp. 179-194.
Thorn P 2016, Redefining Democratic Discourse in Thailand’s Civil Society. Journal of Contemporary Asia. Vol 46, No. 3, 520-537.