フィリピン人テクノクラートの台頭は通常、フィリピンの戒厳令時代(1972~1986年)に関連付けられる。だが、米国にとってのテクノクラシーの重要性は、この時代よりも前に生じた。早くも1950年代には、米国は既に研鑽を積んだ経済学者やエンジニア、経営管理の専門家などを東南アジアのような開発途上地域に擁しておく事の重要性を認識していた。これらの専門家たちは、それぞれの社会で開発プロセスの先頭に立ち、これらの社会が共産主義の手に落ちるのを防ぐ事ができた。本論ではフィリピンのテクノクラシーの台頭を、冷戦というコンテキストの中でたどり、その上で、フェルディナンド・E.マルコス大統領の戒厳令前の初期政権(1965~1972年)時代に採用され、後の戒厳令体制では引き続き、この独裁者の経済政策の重要な立案者となったテクノクラートたちにとりわけ注目する。 冷戦とテクノクラシーの出現 「標準的な政治用語」における「テクノクラシー」とは、「技術的な訓練を受けた専門家が、彼らの専門知識と主要な政治・経済機構内での地位に基づいて支配する統治制度を指す」(Fischer 1990, 17)。これは新たな中産階級の出現と重なる。C. Wright Millsによると、この階級は「第二次世界大戦後に、新たな技術系官僚(technocratic-bureaucrat)の産業資本主義経済と共に出現した」(Glassman 1997, 161)。つまりテクノクラシーの台頭は、冷戦の到来とも、米国からのフィリピン独立の達成とも一致していたのだ。その後、米国その他の「先進国」では工業化が進んだが、開発途上社会では依然としてこれが進まなかった。この遅れがアメリカの悩みの種となった。この非植民地化と冷戦の緊張という背景があったからこそ、アメリカ大統領ハリー・トゥル―マンは、1949年1月20日に「ポイント・フォー」計画(“Point Four” program)を発表し、その中で貧困を戦略上の脅威と定義して、開発と安全保障とを結びつけた(Latham 2011, 10-11)。トゥルーマン政権(1945-1953)最大の懸念は、アジアにあるような後進的な農村社会が共産化する事だった(Cullather 2010, 79)。 近代化の理論がこれに解決策をもたらした。冷戦の状況下で「理論家や政府高官は非植民地化の時代に、近代化の思想を用いて拡大する国力の好ましい印象を打ち出そうとした」(Latham 2000, 16)。この国力の拡大を端的に示すものが教育制度の確立であり、これが開発途上社会にテクノクラートを輩出し、近代化という米国の冷戦イデオロギーを存続させようとした。これらのテクノクラートは、あらゆる開発途上社会が必要とした「近代化するエリート」の一員と見なされた(Gilman 2003, 101)。 教育制度によるテクノクラートの再生産 テクノクラートを主に輩出したのは、この国の国家的エリート大学で、1908年にアメリカが設立したフィリピン大学(the University of the Philippines :UP)だった。UPはマルコスの初期政権とその後の戒厳令体制にとって極めて重要なテクノクラートたちを養成した。これには1970年から86年にマルコスの財政秘書官(finance secretary)を務めたCesar E. A. Virataや、1970年から79年までマルコスの投資委員会(the Board of Investments)の委員長だったVicente T. […]