Issue 14 Sept. 2014

変動するミャンマー :軍事的栄光の行方

序  近代西洋の統治理論と実践は、良き政府を軍部が文民統制の下に置かれた政府と規定する。共産主義諸国でさえ、党が主導権を握り、軍部がこれに忠実に従って国家のイデオロギーを、たとえそれが現実よりも虚構に近い場合であっても順守する。  いくつかの非西洋諸国では、例えば日本がそうであったように、この信念がしばしば苦い経験の後に根付く事となった。1989年にはミャンマー国民民主連盟(NLD)までもが、党の網領の一環として、文民統制の下にビルマ軍を置く事を提言し、1962年以来の軍部上層から忌み嫌われる事となった。だが、民軍のスペクトルの二極間にある二元論的感覚は、常に複雑に絡み合う一連の関係性に対する単純化されたアプローチとなってきた。  ところが、ビルマ/ミャンマーでは、独立時や民政下(1948-1958, 1960-1962)の軍部の役割が、西洋でのそれよりも、はるかに文民統制に非従属的であった。独立運動におけるビルマ軍の役割の現実や作り話がどうであれ、軍部が国家をまとめ、短期間で国の大部分を巻き込み、ラングーン郊外にまで迫ったカレン族の反乱に対抗した事には疑問の余地がない。軍部は多くの政治的(二つの共産党の)反乱や、様々な民族的反乱と戦った。さらに軍部は、無力な反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が、同胞同士の相争う1958年の内戦に加わろうとするのを止め、1962年のクーデターによって国家をまとめたことを主張、軍部が構想、支配するビルマ社会主義計画党(BSPP)を設立した。国軍の長(ネ・ウィン将軍)は、防衛大臣でもあり、一時は副首相でもあった。文民政権は極めて無力であることが判明したのだ。1988年の軍事クーデターは、軍部の支配下にあって破綻したBSPP政権にてこ入れをするために講じられたものであったが、この政権はこのようにしてtatmadaw(ミャンマー軍)の指令と統率の下で約28年間、政権の座に着いていたのであった(1958-60, 1962-1988)。彼らはさらなる23年間(1988-2011)を、命令による統治に甘んじる事となった。その影響力は今なお、実質的に偏在している。ビルマ/ミャンマーは近代史上、軍事的支配が最長でなくとも、最も長かった国の一つである。 I 近代ミャンマーにおける軍部の役割  ビルマ/ミャンマーは1962年以降、直接及び間接的な軍事支配の下にあった。その当時から、軍部は明らかに権力を永続的に掌握しようと画策していた。ミャンマー軍はそれ以来35年間、政令による直接統治を行い(1962-1974, 1988-2011)、さらには軍部の指示、統率下にあるBSPPのもとで間接統治を14年間行った(1974-1988) 。軍部の影響力は深く、あらゆる社会区分にまで及んでいる。彼らは全ての社会的移動性の道筋を支配してきた。軍部による経済の実効支配は、はじめはBSPPのもとで、後にはその公共部門への権限、さらには軍部によって組織、運営されるミャンマー経済持ち株会社やミャンマー経済株式会社、あるいは防衛省調達室の下にある諸企業を通じて行われてきた。あらゆるマスコミや輸入書籍、輸入資材に課された検閲は、成功には満たぬとしても、国民を政治的に近代化させ得る外的影響から隔離するための包括的な試みであった。  ミャンマー軍は比較的効果的のあった市民のための教育制度や医療制度を実質的に破壊する一方で、軍人やその親族達の暮らし向きが、策定者たちのために特別に計らわれた制度によって、はるかに良きものとなるよう、確実を期したのである。軍部は1980年に僧侶の登録という、あらゆる政権の長年の目標であった事をこなし、1982年には市民権を自分達に望ましい形となるように定義した。ガラスの天井が築かれ、これが非仏教徒(クリスチャンやムスリムたち)を実権から退けた。反乱を起こしていた少数民族集団と停戦を結ぶことにはなったが、概して少数民族の地域は軍の占拠する敵対的な領地、あるいは敵地として扱われていた。ミャンマー社会では、権力が機関よりも個人に集中するため、ミャンマー軍の上層部は個人的なつながりを通じて社会全体の支配を達成する事が出来たのである。 II 規律にあふれた民主主義: ミャンマー軍の将来的な役割を考える  2003年には、首相で軍事情報局長でもあったキン・ニュン大将が「規律にあふれた民主主義」のための7段階のロードマップを公表し、国家元首として、タン・シュエ大将がこれを規定した。この「規律」は事実上、軍部によって用意される事となったが、これは彼らの主要な目標である挙国一致、国家主権、軍事的自治権、さらには軍事予算や(そしておそらくは)彼らの代行人が得る事になる経済利益に対する支配権を持続させるためのものであった。  1993年以降にも、政府が出資し、大いにその筋書を行った新憲法のガイドライン策定のための全国会議が開催された時に、ミャンマー軍を政治分野の中心的機関に据える事が決定された。この事は憲法に規定され、次のように述べられている。(第6条)「ミャンマー連邦の一貫した目標は…(f)「国軍が国家の政治の指導的役割に参画する事を可能とする事」。(第20条も同様)。これは2008年のスターリン主義的な選挙によって承認されたものであった (これを早めたのは、おそらく2007年の僧侶による反政府デモ、「サフラン革命」によって生じたトラウマであろう)。軍部は重要な政治的地位を占める事となった。国や地方など、全ての議会の25パーセントが現役軍人で構成される事になり、彼ら自身は国防大臣から指名されるが、この国防大臣もまた、現役将校でなければならず、さらには(警察を取り仕切る)内務大臣や少数民族の地域を担当する大臣もまた同様とされた。国軍司令官は非常事態の際には政権を担う事ができる。大統領候補や副大統領候補(彼らは全員、間接的に議会から選出される)の近親者達は誰ひとり、外国勢力への忠誠を尽くす事はできない。ミャンマー連邦共和国からの離脱があってはならないのだ。憲法改正には議会の75パーセントの賛成が必要なため、軍部は提案された改正案を全て直接コントロールする事ができるが、彼らの支配下にあり、国会で大多数を占める連邦団結発展党(USDP)を通じても同様の事が行える事は言うまでもない。まるで単一体であるかのように振る舞うミャンマー軍は、理論上は軍部の支配を存続させるような制度を編み出した。この計画は理論的には完全で、軍部の支配を当面の間は保証するかと思われる。しかし、軍部が単一体のように見えたとしても、また、文法的には単一体であったとしても、経験は、これが首尾一貫した統一体であり続ける可能性が低い事を示す。個人的対立による影響が生じるだろう。側近たちやパトロン‐クライアントの関係が形成され、この単一性を厳しく試す事になるだろう。また組織的にも、BSPPの時代がそうであったように、現役将校と退役将校は、彼らの要求や目的でさえもが対立する事に気が付くかもしれない。米国議会調査局は新政府を「準民主」と表現するが、これはその上層部が退役軍人であるからだ。 III ビルマからミャンマーへ:社会的移動性の対比  新政府が発足した2011年3月のミャンマーは、軍事クーデター前夜の1962年3月1日のビルマとは社会的に極めて異なるものであった。当時、この国の少数民族(人口の1/3にあたる)の諸地域を除いたビルマ族の地域は、おそらく東アジア社会の中で最も移動性の開かれた地域であった。政権は多様で、内閣でさえもが民族的に開放されていた。移動性は原則として4つの道筋に存在した。教育制度は広く普及し、最貧層の男女でさえ、ラングーンやマンダレーの無料の大学に通う事ができたのである。サンガ(仏教の僧職)は開かれ、男性はその教育制度や大学を通じて身を立て、偉大な名声を残す事ができた。民間の政治組織やNGOは権力に通じる道であった。全ビルマ農民協会、全ビルマ労働者協会、退役軍人、その他の集団が、権力や権威を得るための手段であった。軍人自体は名誉ある職業であったし、勤め口よりも志願者の数がはるかに上回っていた。しかし民間部門では、基本的に外国人が優位であった。女性たちは社会、特に教育や医療関係の職業に目立っていたし、彼女たちはその他の多くの社会には無い法的権利を手にしていた。  50年に及ぶ軍事支配の後の現在との対比は、これ以上ない程までに鮮烈である。あらゆる移動性の道筋が軍部の支配下に置かれてきた。ミャンマー軍が大学に行く人間を決め、サンガは登録され、その教育機関は知的、及び運営上の支配対象となった。民間組織や民間部門はBSPPによって禁じられる、あるいは国家支配の要素となるかのいずれかとなった。ムスリムやクリスチャンが官職及び軍隊の管理職に就く事を認められず、大多数の少数民族もまた同様である中、軍は唯一の権力への道となった。どちらも軍事政権である(1988-2011)国家法秩序回復評議会(SLORC)と後の国家平和発展評議会(SPDC)が、(おそらくは1987年の中国を模範とする)「市民社会」の発展を許可したにせよ、これらの諸集団は事実上、代替的な政治方針に関与する事も、これを支持する事も阻まれていたのである。  東アジアで最も開かれた社会から、ビルマ/ミャンマーは意図的な軍隊式の支配を通じ、ミャンマー軍とその諸機関を「国家内国家」、あるいは国家そのものとさえするような社会になってしまった。最高の教育は軍事組織内にあり、これに反対する者や移動が可能であった者達は、国を離れ、雇用や政治上の憩いを求めて各地へと去って行った。推定では、50万人の教育を受けた人材が去ったとされる。さらにおそらくは、200万人の労働者達がタイへ避難、あるいは単純労働を求める事で、戦争や極度の貧困を逃れたのである。 IV ミャンマーの社会的コンテキストにおける国軍の将来  2011年3月30日の新政府発足にあたり、テイン・セイン大統領は、東南アジアで最も裕福な国であるはずのミャンマーを襲った大きな不幸を公式に認めた。彼は国家を変え、実際に社会の背後に存在するあらゆる局面の改革を試みている。それは容易な事ではない。力が不足している。たとえ改革に貢献するため、亡命中のビルマ人たちが呼び戻されたとしても十分ではない。変革のための正当で自由な発言は、様々な議会や、今、新たに規制の取れたマスコミにも存在する。軍事支配を弱める事に対する外部からの要求は、しばしば単純な言葉で述べられる。それはすなわち、憲法改正によって現役軍人を排除し、大統領を間接選挙で選出する規則を変えよというものである。   軍部のより穏健な役割に関する問題は、そう簡単に解決され得るものではない。なぜなら、多くの人が不適切と感じている憲法条項が軍事的支配の原因なのではなく、それはむしろ、より基本的な問題を反映したものであり、もっと長期的に取り組む以外の方法がないからである。軍部のより穏健な役割に関しては、即席の解決策が存在しない。憲法改正は、もっと基本的な問題を改善するためのアプローチなのである。  多元的な社会秩序の再構築には時間がかかるだろう。それは移動性の道筋を開く事で、国家の性質を変え、さらには軍部が自ら抱く優越感を変える事をも意味している。   実質的には退役軍人によって構成された与党が優位であっても、今や政治は開かれている。市民社会はより自由で、大学は検閲を廃止し、たとえ暗記学習が未だに主流であっても、知的硬直は廃されたのだ。学究生活がよみがえったのである。軍人は今でも望ましい職業であり、これが変わる事はないだろうし、その栄光も挽回されるであろう。軍と民のより近い関係は、互いへの敬意を若干回復する結果になるかもしれない。ミャンマー国軍が民間の政治家達を卑しく、腐敗した、役立たずだと罵ってきたこの数年間には、このような敬意が失われていた。進歩はおそらく今後10年にまたがるであろう。  しかし、問題は残されている。民間部門には公式の金融制度を通じた公的資本が欠けており、中国に独占される結果に終わるかもしれない。中国には事業拡大のために必要な資金を得る別の手段が存在する。この問題に取り組まなくてはならない。なぜならば、もし経済成長が行き詰れば、裕福な少数民族が(再び)国民の不満のスケープゴートとなる可能性があるからだ。  いくつかの比較例がミャンマーに起こり得る変化の道筋を明らかにするだろう。韓国は固定的な階級社会で、1961年から1987年までは軍部に支配されていたが、この国では軍部の権力からの撤退が平和裏に行われ、不平一つ出ないという事態が観察された。これは多様な社会的移動性の道筋が開かれたためであった。タイでは社会にそれ程強い軍事的支配が見られなかったが、これはタイ軍が権力への道を地方での政治や事業に見出してきたためである。インドネシアも、同様の穏やかなプロセスを始動している。これらの各社会では、名声や権力、権威への入り口が、以前は基本的に軍部によって独占されていたが、これが変化して成功への多元的な道筋となったのである。時が経てば、これがミャンマーにも起こるであろう。  皮肉なことに、また、直観に反して、我々はミャンマーがタイよりもはるかに容易く進歩する事を期待してもよいだろう。タイは極めて階級的な社会であり、発達はしているが、成長は停滞気味である。だが、ミャンマーでは、軍人は一般人と同じ出自から出世した者であり、たとえ軍のエリートの息子たち(中国では「幼君」)が陸軍士官学校で一目置かれていようとも、これもまた変わって行く事だろう。つまり、ミャンマーにはタイよりも平等主義的なビルマの権力体系へ移行するための、より大きな機会が存在するのだ。  ミャンマー軍は自分達の権力と権威を持続させるためのシステムを作ってきたが、これは徐々に失われて行く事だろう。これによって大多数のビルマ人たちにはより多くの機会が開かれ、そこには女性のための機会も含まれている。しかし、(民族、宗教の両方の)少数派には多元的な共存がもたらされるべきである。これは発現段階にあるようだが、その実現には、我々がまだ見ぬ政府の意図的な努力が必要となるだろう。 David I. Steinberg 翻訳 吉田千春  Kyoto Review […]

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変貌するミャンマーの「三つの不安に関する展望」

変貌するミャンマーの「三つの不安に関する展望」  ミャンマーの過去三年間の変化は、実に目のくらむようなものであった。この三年間の事態の展開をざっと見れば、この国の変遷の真偽に疑念を抱く者を、誰でも説得する事ができるだろう。しかし問題は、この変遷がどこへ向かっているのか、そしてこの変遷をどのように理解する事が最良であるかという点だ。 ミャンマーへの訪問後、二人の世界のトップレベルの民主化研究者であるThomas CarothersとLarry Diamondは、似たような結論に至った。すなわち、ネピドーの「民主主義」の目標、定義と手段は、代議政治の本質と相容れぬものであるという事だ。Carothersはミャンマーの諸改革を、暴力に満ちたアラブの春の十年前に、アラブ指導部が行ったトップダウン式の諸改革に喩えている。彼自身の言葉によると、「アラブ諸政府が講じた手段は、民主化のための改革ではなく、むしろ慎重に制限された取り組みであり、国民の政権に対する不満を緩和させる事で、真の民主化の可能性を確実に阻止するために考え出されたものであった」。 Diamondはさらに率直であった。「思うに、この推移はまだ極めて初期の段階にあり、現時点で何をしても選挙制民主主義がこの結果として生じるのか、故意の結果なのかは判然としない」。 しかしなぜ国際社会は、退役・現役の将校たちに寄り添い、国民や改革、民主主義への移行という名目で、ネピドーに何億ドルにも相当する「包括的援助」を惜しみなく与えるのか。これら世界からの改革主義者たちへの称賛の言葉や支援が、同時にロヒンギャ族の民族浄化や人道犯罪、「ネオ・ナチ仏教運動」による反ムスリムの集団暴行、カチン紛争の難民急増、そして広く報じられるネピドーの共謀と罪を大きくしているのではないのだろうか。 率直な答えは「グローバル資本主義」である。ミャンマーの将校たちは、外部の援助で、国家の不振にあえぐ政治経済を自由市場路線に沿って変革する事を、新興の利潤性の高いフロンティア経済へのアクセスと引き換えに合意したのである。しかし特筆すべき事実は、自由主義西洋的ミャンマーの全面再起は、所々にわずかな譲歩がある事よりも、ネピドーの存続期間に大きく依存しているという事である。  事実、典型的なグローバル資本家たちの目から見たミャンマーは、何よりも「資源の売春宿」であり、最も活気ある「フロンティア市場」であり、興亡する大国の永遠に続くかのようなゲームにおける、銘々の「大戦略」の戦略基軸なのである。「市場」及び「資源と労働力の源」としての人間社会という見方は、地球上の土地と資源と労働力を有する全ての国にとって、何百年も前に科学技術によって大規模な資本主義的変革が引き起こされて以来、むしろ根強い見方となっている。 ネピドーでの2013年6月の世界経済フォーラムにまで話を進めよう。これはエリート主導の「民主主義」、巧みな「市民社会」、社会的責任のある企業が支える「自由市場」についてのものであった。だが基本的に、ミャンマーに対する国際政策は、世界にほとんど残されていない最後のフロンティア市場の一つから、最大の利益を引き出すために考えられたものである。ちなみに、もう一つのフロンティア市場は北朝鮮である。 今年6月には、マデレーン・オルブライト元米国務長官が、ヤンゴンの式典でコーラを直接大きなペットボトルから飲む姿が見られた。ヤンゴンは彼女のコンサルタント会社、オルブライト・ストーンブリッジの法人顧客の一つであるコカ・コーラが、ミャンマーで最初にボトリング工場を創業した場所である。全米民主研究所の議長であるオルブライトがミャンマーにいた事については、民主主義や異なる宗教の並立を推進し、さらには「これまで一口も飲んだことのない人」にコーラの正しい飲み方を伝えるためであったと報じられた。しかし、これはアメリカ人に限られた事ではない。 ロヒンギャ族やその他ムスリムたちに対するポグロムが展開され、さらには当局の上層部がこれに連座していた事が確認される中、イスラム国家のカタールは一切ためらいもせず、数十億ドル規模のミャンマーにおける電気通信契約をノルウェーと共同で獲得し、これに応じたのである。実にオスロの公式和平調停の関係者たちが、2012年ノーベル平和賞候補であったテイン・セイン大統領から、国営テレノールにかなり利潤の高い電話契約を取り付けたその一方では、カチン族、カレン族、シャン族、カレンニ族とモン族が、なおもオスロの和平調停の良き結果を待っていたのである。 平和の前に電話を!平和のためにテレノールを! もしカール・マルクスが生きていれば、彼はミャンマーが経験している一連の変化、即ち、蔓延する土地の争奪、その結果としての経済転換、ワーキングプア、ひどい労働条件、強制移住、暴力的対立、技術輸入、新様式や新たなラインの製品づくり、資本注入、巨大開発計画などについて、彼が「本源的蓄積」と呼んだ非情なプロセスを通じた収益性の低い現金主義経済と定義した事であろう。 ここで提案するのは、ミャンマーに対する新たな解釈の方法であり、ミャンマー研究が東洋学者たちになおざりにされてきた理由を批判的に考察するものである。また、東南アジア研究のためにVictor Liebermanが論じてきたブローデル的アプローチの再検討と更新を行う。 我々は唯一最も重大で進行中の世界的なプロセス、つまりはフロンティア市場としてのミャンマーの資本主義的変遷に焦点を絞る必要がある。なぜなら、このプロセスこそは、他のどの要素よりも、我々の研究対象となる国民や我々の研究そのものの両方に影響を及ぼすものであるからだ。この目のくらむような変化の数々を、最も経験的に検証、説明するのに相応しいと思われる展望は、ここで「三つの不安に関する展望」と名付けられた安全に関する展望であり、つまりは(従来的な)国家的不安、世界的不安、そして人間的不安の事である。 第一に国家的不安とは、単刀直入に言うと、国民国家に対する恒久的な危機感を指す。最もあからさまには「政権の存続」ついての不安である。第二に世界的不安とは、世界の経済や政治の秩序に対する一般的な不安感や無防備感と定義される。したがって、これは世界の政治経済を構成する国民国家の安全の上に成り立つものである。最後に第三の人間的不安とは、「国家や国境の安全とは対照的な、個人や人々の暮らす社会の安全」の欠如を指す。 一言で言うと、提案した「三つの不安に関する展望」は、冷戦終結以来、一般にグローバル化と呼ばれるプロセスの中で、グローバル資本主義が共同体や自然環境、国家政治経済を一つの全体的な総体と成した事について論じるものである。ここで、この安全に関する三つのディスコースが、政策の決定やその実践における優位をめぐって競合する。規定に基づく予測可能な国際秩序を語る一方で、全ての国民国家が戦争のような不測の事態に備えている。内外の大きな危機感に駆られ、アメリカまでもが同盟国や市民、ライバルたちを等しくスパイしている事が、最近のPRISMスキャンダルにも示されている。 これら三つの全てが必ずしも相互排他的であるとは限らないが、難民、国内避難民や失業者などの脆弱性問題は、概して政策の後回しとなる。人々やコミュニティの安全と福利は文字通り、そして比喩的にも、ないがしろにされている。特に、他の二つの国家と世界の不安政体が一丸となって戦略的打算や政治的便宜のために排他的共生関係を形成する場合はそうなる。国家、企業、多国籍機関や国際金融機関の政策や実践が、周辺社会や不特定個人および、その自然居住環境や生計手段へのアクセス、安全、移転や結社の自由などに対し、集合的に損害を与える一因となっているという話をしばしば目にする理由はこれである。 私は提案した「三つの不安に関する展望」が、ミャンマーの国務(やその他の類似した「国家」の事例)を最も良く説明し、この国の客観的に立証し得る現実を反映するものである事を確信している。これはまた、ミャンマーの研究とその内政の両方を、この国が「フロンティア市場」として経験している唯一最も重大なプロセスである資本主義的変遷のコンテキストの中に位置づけるものである。 この不安のプリズムを通して見ると、この国のトップダウン式の民主主義改革は、ミャンマーの民主化というよりも、主として、ミャンマーの国家支配層であるエリートが、グローバリストの資本家勢力とエリート協定を結ぶためのものであり、同時に彼らは独自の社会階級、つまりは軍部の縁故資本主義者へと変貌してゆく。この協定では、国民たちが熱望されたフロンティア市場を開放する事と引き換えに、資本や世界市場、技術に対するノーマライゼーションや受容、適法性やこれらへのアクセスが与えられる。ネピドーはこの国で最も有力な利害関係者である軍部や国家の不安政体にとって望ましく、有利な条件で国を開放している。このプロセスの中では、この国で最も有力な政治家であり、世界的象徴でもあるアウンサンスーチーでさえ、もはやその台本や背景、歌の旋律を操る事もできないグローバル資本主義の舞台に立たされている事に気が付くのである。 今なお進行中であるロヒンギャ族のムスリムに対する民族浄化の事例は、それ自体が三つの不安に関する展望の経験的テスト・ケースとして現れた。悲惨な貧困が広がるにもかかわらず、ラカイン州ではロヒンギャ族が仏教徒のラカイン族と共に暮らしていた。しかし最近では、相次ぐ集団暴行によってこの州が知られるようになった。この地域はミャンマーの新興資本主義経済にとって、戦略的で利潤性の高い地域となったのだ。ここには戦略上重要な深い湾港や農産業の可能性がある肥沃な農地、漁業、数十億ドル規模の経済特区や中国のガスと石油の二重パイプラインの起点がある。 1971年の東西パキスタンの内戦では、西パキスタンの将軍であるTikkaが、軍隊に冷淡な命令を下した。「私の狙いは土地であり、国民ではない」 。やはり冷淡な話で、今度はミャンマー西部であるが、ミャンマーの国家安全政体は、単に土地を再獲得しただけで、そこに(ロヒンギャ族の)国民は含まれていなかったのかもしれない。 ミャンマーの変遷を、この三つの不安に関する展望のもつれた網の中に正しく位置付けない限り、この改革や変化、そして民主化に対する我々の理解は、ネピドーの国家的不安政体や世界的不安政体の資本主義者たちに幇助された民主化に劣らず、生半可なままとなるだろう。 Maung Zarni博士 マラヤ大学 準研究員 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス 客員研究員 翻訳 吉田千春 Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 14 (September […]

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ミャンマー版グラスノスチの再評価

ミャンマー版グラスノスチの再評価  2011年にミャンマーのテイン・セイン大統領によって政治、経済の全面的な改革が導入された事は、2010年の総選挙後に、ミャンマー政府の公約した改革に疑念を抱いていた世界の多くの観測筋を驚かせた。当初、コメンテーターやアナリストたちの多くが懐疑的であったが、政権のイニシアティブの度合いや規模を無視する事は出来なかった。新たな国内法が社会生活や政治生活の特定分野で国家の存在を縮小させ始めていたからである。外交関係が新たな海外のパートナーとの間に結ばれ、投資関連の新たな法律によって海外の企業や資金提供機関がミャンマーに参入できるようになった。このミャンマー政府の全面的な変容は、しばしば、ミャンマーの開放と呼ばれ、多くの人々を仰天させる事となった。ほとんどの人が、このような変化が軍事当局によって構想、展開、施行された文民政権の内に生じる事を予期していなかったためである。中には、自分達がミャンマーで目の当たりにしているものが、冷戦末期のソビエト連邦のグラスノスチ(公開性)や、その変容を特徴づけたプロセスに類似しているのではないかと考える者たちもいた。 冷戦モデルとミャンマーの開放  冷戦後のパラダイムとそのミャンマーへの適用は、通常認識されているよりも、はるか以前に始まっていた。1980年代後期と1990年代前期に起きた民衆の民主主義蜂起が、以前のネ・ウィンの軍事社会主義政権を挿げ替えるだろうという予想は、間違いなく東欧での人民運動や、フィリピンや韓国での「ピープル・パワー」の表出などから生じたものである。冷戦期のドミノ理論のように、自由民主主義が有機的に権威主義的体制を置き換えるであろうという新たな予想が有力な喩えとなった。 ミャンマー国内での出来事は、民主主義の理想や人権、選挙、そして自由民主主義的制度などのコンテキストの中で解釈されてきた。これらのもたらした言葉と視座の両方によって、変化や連続性が判断されてきたのである。その結果、ミャンマーの過去26年間の政治史は、冷戦後の物語の枠組みを通じて理解され、SLORC/SPDC政府と、2011年から2013年にネピドーが着手した改革との間に歴史的な分断を生じる事となった。  テイン・セイン大統領の対内的、対外的な諸改革は、ミハイル・ゴルバチョフ政権下のソビエト連邦における「急激な」変革との比較を呼び起す。テイン・セインをゴルバチョフに結び付ける事は、彼の改革計画の成功が、大いに彼の人格や政治的意志に依るとの印象を生む事にもなった。この見方は我々の注意をテイン・セイン政権発足の素地となったより広範なプロセスよりも、特定個人の活動に止めるものである。特にマスコミは、ミャンマーの政変をアウンサンスーチーなど、政治的、社会的変革の思想そのものの象徴となった特定個人と結び付けてきた。テイン・セイン大統領を変革の大立者として印象付ける事で、観測筋はこの図式を少し複雑にしたかもしれないが、彼らはその他にもさまざまな利害関係者や勢力、派閥が国家をめぐって競合してきた事を見過ごしている。  より広範なプロセスにおける軍部の役割が、公の場で弱まり始めたのは、政府の文民的アイデンティティがさらに顕著となったためである。事実、現政権が以前の軍事政権と距離を置くことで、西洋諸国がミャンマーとの関係を再構築できるようにした事は極めて重要であった。2011年末には、西洋諸国の何カ国かがASEANやその他の地域提携に加わり、ミャンマー政府の政治構造の自由化、民族分離主義勢力との和平交渉、政治的和解の促進、世界市場に向けた経済再統合などの努力を公然と評価した。アウンサンスーチーが自宅軟禁から解放され、ついに2012年4月には選出されて議員となった事、さらにはバラク・オバマ大統領の画期的な訪問などといった出来事を受け、かつての誹謗者たちの多くは、テイン・セイン政権の改革を公に支持するようになった。ミャンマー当局を長年批判し続けていた国際メディアもこれに倣い、かつての「ならず者」軍事国家をより肯定的な観点から報じ、その文民政権や改革主義の大統領の努力を強調するようになったのである。  2013年初頭には、ミャンマーがその内部や上部から開かれる事は明らかであったが、忌まわしい制裁措置がこの変革の動機になったのではないかという事が、相変わらず囁かれ続けていた。ともあれ、1990年代初頭に西洋から課されていた経済制裁の大半が解除された事は、あらゆる異種分野の投資家たちが、次々とミャンマーの膨大な資源、熟練労働者や市場に進出して行く機会を生み出す事となった。「ミャンマー熱」を更に高めたものは、政府高官らの世界歴訪の旅であり、それにはテイン・セインやアウンサンスーチーの東アジアやヨーロッパ、アメリカへの訪問などがあった。アウンサンスーチーが(10年の自宅軟禁の後に)遂にノーベル平和賞を受賞し、また後にはワシントンD.C.で議会名誉勲章を受け取った映像は、彼女の経験を通じてのみ、ミャンマーを理解していた多くの者たちに、ミャンマー近代史の長い一章がようやく、ページをめくられた事を告げるのであった。  閉ざされた爪弾き国家から、新興のより開かれた民主主義へ、ミャンマーに対するこの認識の変化は、批判なしに実現するものではなかった。積年の敵対者である軍事政権や亡命政府、支援団体などは、依然として、これらの変革に表面的であるとのレッテルを貼っている。民主主義の活動家たちは、憲法が軍部に国会で25パーセントの議席保有を保証している事が、体制に内在する欠陥を示すと指摘する。政府高官は公共、民間の両部門に見られる派閥争いや個人的な利害関係が、これらの改革を実施する上での脅威である事をすんなりと認めている。貧弱なインフラは財務不正と経済制裁が組み合わさって生じたものであるが、これは政府に重要な変革の多くを、特に人口の70パーセントを占める農村で遂行できるだけの力量が不足している事を際立たせている。民族対立やコミュニティの暴力(これらはどちらも、ミャンマーの社会政治史の長年の特徴である)は、ネピドーによって始められた改革プロセスの背後にあるダイナミクスを複雑にし続けている。   海外の支援団体やマスコミ連中の中には、テイン・セインの全面的な改革計画や、政府の民主主義的な変革に対する公約全体の見通しを、ラカイン州における特定の移民問題、特に国内のムスリム・コミュニティや、いわゆるロヒンギャ族への暴力に関する問題への対応によって評価しようとする者達もいる。評論家たちは、政府の広範な改革案(これもまた、貧困緩和や経済投資、医療、教育やインフラ整備に重点的に取り組むためのものである)の実行可能性を、アイデンティティの政治に関する特殊で歴史的に複雑な問題に結びつけている(これを解決するには何世代もかかるだろう)。改革プロセスの成功を政府の民族/コミュニティの緊張関係の解決能力に結びつける事は、現地の複雑なダイナミクスをあまりに単純化しすぎるものであるが、活動家たちはラカイン州やカチン州、カレン州などの異なったコミュニティが、ミャンマーの行く末について、しばしば別の考えを持ち、それらがネピドーやヤンゴン、あるいはマンダレーの意向に一致するとは限らないという事実を浮き彫りにしている。世界企業が「新生ミャンマー」に大々的な投資を行う中、当局は慎重に物事を進め、これらの紛争地帯での秩序を回復する一方で、節度ある民主政治を維持する必要があった。  2011年以降、ミャンマー政府に対する一般的な認識は変わったかもしれないが、その内政の国際化は未だに進んでいない。国内のダイナミクスについては世界中で議論が続くが、それらは大抵が地域の状況にとって有利でもなく、意味もないものである。冷戦後のパースペクティブが影響を及ぼし続けているが故に、発展は地域の状況から切り離されたままとなり、かえって様々な疑問が提議される事となった。ミャンマー版グラスノスチの特徴である「衝撃的な」「突然の」変革は、往々にして1987年よりも、むしろ2010年のコンテキストで評価されている。これはネ・ウィンが初めてこの国の社会主義政策の失敗と、国家経済の国際市場に向けた再統合の必要性を認めた年であった。 近年の改革の素地となったパースペクティブを拡大し、我々の判断に今なお影響を与える冷戦期のパラダイムと距離を置く事によって、時事に対するより複雑な見解がもたらされるであろう。 長期改革 1987-2013  ミャンマーの現代史に対する標準的な理解は、しばしば次のような出来事やイメージを中心に構築されることが多い。すなわち、それらは1988年の学生暴動、1990年の選挙、アウンサンスーチーの役割、少数民族の強制移住、いわゆるサフラン革命、サイクロン「ナルギス」、そして2010年の「欠陥ある」選挙などである。主流メディアや活動家、政府や学者達の議論の大半が、このような談話的要素に基づき、過去数十年間を脆弱な民主主義運動と強大な軍事独裁政権の闘争として描いてきたのである。冷戦末期の状況や東欧その他のアジア地域での政治的変遷に当てはめると、ミャンマーの民主主義の経験は、できるだけ長く権力にしがみ付こうと努めた独裁政権のために行き詰ったかと思われていた。この過去数十年間の見解もあり、2011年に導入された諸改革が実に大変「衝撃的な」ものと見えたのは、国内の統合と再建のプロセスに対するなけなしの配慮が、改革主義政府の出現に向けられたためであった。  しかし、これと同じ期間を「長期改革」期と捉える事もできる。これは政府が憲法起草のための憲法制定会議を召集したこと、憲法を批准する国民投票を行い、総選挙を行い、ついには政権を発足させ、またその他の法定機関を組織したことによって裏付けられる。七段階から成る「規律ある民主主義のためのロードマップ」は、2003年に公式に発表されたものであるが、そこにはこの各段階がより大きな青写真の一部である事、この青写真が直接、2011年に現れた政府を形作った事が述べられていた。だが、これらの下準備を真に受けた者はほとんどいなかったのである。制裁がミャンマーを西洋の経済や市場から孤立させていた時期(これはちょうどミャンマーが経済の方向転換を望んでいた時にあたる)、軍事当局はむしろ、ASEANや東アジア、中東内での地域提携に頼っていた。 最も重要な事は、国内の状況の中で、この20年期が1948年以来、多角的かつ敵対的な内戦を戦い続けてきた民族分離主義者達との間に、17の停戦合意を確立した時期でもあった事だ。後の2012年には、カレン民族同盟やその軍事組織のいくつかとの間に重要な合意を通じた和解の区切りが打たれ、アジアにおける最古の反政府運動の一つが終結する事となった。この点で、1987年から2013年の時代を、50年近く続いた長い内戦の末に、和解と再建、改革がついに実った困難で起伏ある時代と捉えることができる。 結論  近年のミャンマーの改革に関する評価の多くは、直接間接を問わず、これを冷戦の終結を告げたグラスノスチに結び付けるものであった。このパースペクティブは、ミャンマーでの出来事を世界の別の地域のプロセスに結びつける上では有効であるが、そのために地域的なパターンや優先事項に対する理解が犠牲になっている。SLORC/SPDCのイニシアティブから概念的な断絶を図ってきたテイン・セイン政権の手法は、我々が現在目にしている喜ばしい改革が、かつての軍事政権の長期改革計画に端を発するという不愉快な事実を曖昧にしている。現に、しばしば批判された「民主主義へのロードマップ」がついに履行されたが、これが現在の変革を称賛している当の政権から疑問視されていた事はお構いなしであった。ミャンマーの開放に対する冷戦後のアプローチは、最近、中西嘉宏が論じたように、重要な連続性を見落としているのかもしれない。民と軍の混成政権の成立は、過去からの唐突な決別ではなく、軍部エリートの安定や地位確保のために講じられた体制の継続だったのではないか、と中西は語る。 強硬論者たちが改革プロセスを「覆す」恐れは、根拠のないものであろう‐‐‐軍部は最初からこの改革の一部であり、これに投資してきたのである。 准教授 Maitrii Aung-Thwin博士 シンガポール国立大学 史学科 翻訳 吉田千春 Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 14 (September 2013). Myanmar  

Issue 14 Sept. 2014

ミャンマーにおける農業改革の最優先化

 ミャンマーの農業部門を長い間抑えてきたものは、政府の貧弱で押し付けがましい政策決定や、慢性的な信用不足、不十分で老巧化したインフラ、確固とした土地所有権や財産権の欠如であった。これらの障害がミャンマーの豊富な天然資源や農業の計り知れぬ可能性の前に立ちはだかり、長年、この国の(大多数である)農村部の住民たちの生活を特徴づける極度の貧困をもたらしてきたのである。  テイン・セイン政権の下では、ミャンマーの農業部門改革に関する多くの対話が行われてきた。「国民ワークショップ」は、ミャンマーの経済改革譚の目玉であるが、この第一回は農業をテーマとするものであった。このワークショップでは多くの提案が出されたが、それらは主に農村部のインフラの改善、手頃な投入財の利用を可能にする事、信用枠の拡大(主として小規模金融)などを通じた生産性の向上に関する提案であった。その後に開催された他の農業関連の会合の多くが、多角的機関や開発庁、(特に)海外の潜在的投資家たちに支援されたものであったが、そこでもやはり似たようなテーマが取り上げられてきた。 停滞する改革  それにもかかわらず、またこのレトリックが人目を引くにもかかわらず、実際にミャンマーの農業部門で実施された改革の実績は、未だに微々たるものである。ミャンマーの農業を包括的に変革する事が急務であるが、まずは農業部門を悩ませ続ける市場の歪みを取り除く事から始めなくてはならない。このコンテキストに顕著な事は、数多の生産管理や輸出規制、調達規則などであり、これらは中央政府から公式的に自粛させられてはいるが、先の軍事政権の名残として相変わらず存在している。近年の豆類の輸出国としてのミャンマーの成功は(ミャンマーは現在、世界最大の豆類輸出国の一つである)、この国の農民や貿易業者たちがマーケットシグナルに積極的に反応する事ができる事を示している。豆類の貿易は10年前に自由化されたが、これとは対照的に、その他のほとんどの商品には常に国家干渉の影響が存在する。  貿易に関する規制や制限を撤廃する事は必要であるが、それだけではミャンマーの悪化した農業部門の再生には不十分であろう。 ミャンマーの旧軍事政権の下、農村地域は常になおざりにされてきた。その結果、地方のインフラは危機的な状況に置かれ、多くの村落には国営市場(地域の市場にさえ)につながる利用可能な道が存在しない。肥料も多くの場所では入手不可能で、灌漑システムは沈泥に塞がれ、種や農薬、ポンプやその他の器具もほとんど無く、大方の燃料類は大抵が予算的に手の届かぬものとなっている。市場開放はこのような弊害のいくつかを解決するであろう。しかし、短中期的にミャンマーの農業部門に必要なものは、十分な公共支出や投資であり、これらは特に道路や橋、灌漑、発電や流通、また環境・資源の管理システムなどに対するものである。 求められる一層の改革とイニシアティブ  以下に簡潔にまとめたのは、ミャンマーの農業変革に必要ないくつかの対策である。これらは、ミャンマー経済をより広く変革するのに必要な対策と一致し、かつ「国際的ベストプラクティス」と考えられるものとも同義である。現在、この国では多くの機関(世界銀行やアメリカ合衆国国際開発庁(USAID)、様々な国連機関も含む)がこれを推進している。  ・ミャンマーの輸出許可制の廃止。 目下、これがミャンマーの農民の生産市場を人為的に規制し、その販売オプションを制限して出荷価格を押し下げている。世界市場に向けた生産には、より高品質な米の生産に対するインセンティブの強化という効果もある。このような米の価格は、現在ミャンマーがアフリカやその他の限られた範囲の海外市場へ輸出している砕け米の類に比べると、相当高価なものである。  ・いまだに存在する国内の米の取引・販売に対する地理的制約を解除すること。これらの制約は、ミャンマーの農民が生産物を不足地域(価格が高い地域)へ出荷販売する事や、取引の利益を広く享受する事を否定するものである。つまり、これらがミャンマーをいくつもの小さな市場へと分割し、価格を上下させて食糧安保を不安定にしているのだ。ミャンマーの農作物に対するこれらの制約を国内取引において解除する事は、有意義な改革の「手の届く成果」の一つとしては十分なものとなろう。  ・ミャンマーの農民に完全な「生産権」を付与する事。何十年もの間、ミャンマーの農民は各地域の条件もかえりみず、特定の作物(主には米)を生産するように仕向けられてきた。これが影響して生産量は減少し、農民の収入が低下する事となった。自分達で自由に「何を、どのように、いつ」生産するかを決める事ができれば、ミャンマーの農民は収穫率の高い作物を生産し、地元の条件に合う作業(例えば、園芸、小規模畜産、漁業などに多様化する)に移行する事が可能となるだろう。ベトナム(ミャンマーに関連する一規範として挙げたに過ぎない)では、このような「生産権」の付与が、ベトナムが世界的に重要な食物生産国として立ち現れる背後にあった唯一最も重要な政策であった。  ・市場知識の普及。世界の農業に最大の変化を与えた革新の一つは、携帯電話の利用拡大によって生じ、また、これによって市場情報へのアクセスも可能となった。この変化を容易に見る事のできるアフリカでは、農民やその他の人々が、異なる商業地域の市場価格を比較し、それに合わせて商品を供給できる力に、この変化が単純ながらも強く現れた。ミャンマーの通信分野の改革は現在進行中であるが、その成果はいまだに不明なままである。  ・有利な為替レートと輸入政策の実施。「マクロ経済の」要因の一つで、ミャンマーの農民の収入に重大な影響を及ぼし得るものが為替レートである。 昨年の喜ばしい動きの中で、ミャンマー政府はミャンマーのチャットを「管理フロート」制に変更したが、堅調な資本移動や資源収益のため、このレートは大きく値上がりした(1米ドルに対して850チャットにまで上がった)。その結果、ミャンマーの農民のあらゆる外貨収入が二通りの方法で減らされる事となった。第一にこの事で、ミャンマーの第一次輸出の価格がさらに値上がりし、他の供給者たち(特にその他の東南アジアで積極的に為替レートを低く保つ国の供給者たち)に対する競争力が弱まってしまった。第二に商品が米ドルで値段を付けられ、支払われるために、輸出収入をひとたび持ち帰れば、農民のチャット収益は減る事になる。無論、一定の為替レートを注意深く管理して定める必要はあるが、少なくとも、幅広い政策を策定する事によって、ミャンマーの競争力を強化するような為替レートを支える事もできるだろう。  また、必要な改革を実施して、ミャンマーの輸入許可制の自由化を図らねばならない。そのような動きは「必然的に」チャットの価値を下げ、同時に、ミャンマーの生産者や消費者たちが、より安価で完成度の高い商品(資本財及び消費財)や生産的資材を利用する機会をさらにもたらす事であろう。  ・農業保険の奨励。他の多くの国々では、法外な価格や生産高の減少に(また自然災害に)備え、農業保険制度によって農民の収入が保護されている。 これに関して特に有用なものは、いわゆるインデックス・ベースの保険契約である。これらの制度では、ある特定地域の収穫高が、長期的平均によって定められた値(あるいは、その他の適切な基準)を下回る場合、農民たちに損害賠償が支払われる。このようなタイプの保険制度の実用性としては、シンプルさ(例えば、農場ごとの査定を必要としないこと)や透明性(データは公開され、直接届けられる)がある。このような制度は、アメリカやインド、カナダ、モンゴル、その他の一定の国々で実施されており、世界銀行が特に好む制度でもある。自ずと政策選択は、このような保険に課された保険料に政府がどの程度の助成金を出すかという点になる。このような保険を適用する多くの国は、実に十分な助成金を提供しているのだ(これらの助成金には、世界貿易機構(WTO)加盟国の定めた公約に違反しないという美点がある)。  ・当然のこと、ミャンマーの農民たちが直面する最大の出費の一つは、手頃な正規の農村金融が存在しない事に由来する。最大手の複合企業に属する者以外、ほぼ全てのミャンマーの農民たちが十分な量の正規信用を利用できないという事は、小規模貸金業者のみが、大半の人々の唯一の拠り所であるという事を意味している。このような貸金業者が課す金利は高く、ひと月10%が標準である。良心的な金利の信用が不足した結果、ミャンマーの農民の多くは、単にこれを利用せずに済ませ、もはや生産性を高める肥料などの資材も使用しなくなっている。同様に、彼らは作付けや収穫の方法にも出費を最小限に抑えるようなものを採用しているが、これが生産高までをも減少させている。また、未払負債を抱えた農民たちは、次第に債務/不履行の悪循環に陥り、これがしばしば、彼らの土地利用権の喪失や貧困化という結果をもたらしている。  ・したがって、ミャンマーに有効な農村金融制度を作り直す事は、第一の優先事項とされるべきであり、手始めには資本の流れを生むための緊急改革がいくつか行われるべきである。その中には、ミャンマーの個人銀行の農民への貸付制限の解除、銀行で適用される金利の上限および下限の解除、銀行が受け取る許容可能担保を拡大し、これに全ての農作物が含まれるようにすること、世界の一流銀行で、商品供給網の太いコネクションを有するものに参入を許可すること、引き続きミャンマーの小規模金融の(慎重な)成長を推進すること、現行のミャンマー農業開発銀行(MADB)の改革、および資本構成の変更などがある。 土地改革  ミャンマーの農業部門の改善にとって、最も頑強な障壁の一つは、全ての農地が正式には国家によって所有されているという事実である。2011年の下旬には、二つの新法案がミャンマーの国会で発表された。表向きには農民たちに住居保有権の保証や取引可能な土地の権利を与えるために考案された農地法案と空閑地、休閑地、および未開墾地に関する法案は、実際のところ、わずかながらも、より多くの土地「接収」の機会を縁故者や巨大アグリビジネスにもたらす事となった。また、農民自身が「何をいつ、どのように」栽培するかを決める権利を否定する規定も依然として含まれたままで、その最も重要な条項は単に(農業・灌漑相の率いる)新たな執行機関に「土地収用」の決定を下すための諸権利を保証しているだけのようである。この「土地収用」は、これまでにも小規模農家から土地を接収するために用いられてきた。  ミャンマーの農民たちに自分の土地に対する有益な権限を与えること、さらにはその住居保有権を保証することが政府の最優先事項とされるべきだ。短期的には、上記の法律を再検討する事が必要となるが、一方で、大規模な農地接収に関しては、短期的猶予のようなものを設ける必要があるだろう。これらの早急な対策に加え、ミャンマーは他国における経験を分析するべきである。変革のシナリオの中での土地所有権の問題全体は、過去20年に渡って多くの国が取り組まなくてはならなかったものであり、その過程で多くの革新的な方法論も現れてきた(保護され、ほぼ普遍的な「マイクロ・プロット」から、慣習的保有権の習わしの様々な認識方法まで)。 結論  ミャンマーの農業部門は国民の大半を抱え、常にこの国のGDPに最大の貢献を果たしてきた部門でもある。長期的に、また、世界の食品価格の将来的な上昇や、近隣諸国のとどまるところを知らぬ需要、非常に豊富な給水といったコンテキストにおいて、ミャンマーの農業はこの国の経済復興を成功へと導く最大の鍵でもある。ミャンマーの現政権の任務は、この可能性を明示する事、そして、その際にアジアにおける平和と繁栄の源泉という、ミャンマーにふさわしい立場を回復する事である。 Sean Turnell・Wylie Bradford Department of Economics, Macquarie University   翻訳 吉田千春 Kyoto Review of Southeast […]

Issue 14 Sept. 2014

การจัดลำดับความสำคัญการปฏิรูปทางการเกษตรในพม่า

ภาคการเกษตรของพม่าถูกกดให้จมอยู่ยาวนานภายใต้กระบวนการกำหนดนโยบายรัฐที่ย่ำแย่และก้าวก่าย การขาดความน่าเชื่อถือที่เรื้อรัง โครงสร้างพื้นฐานที่ขาดแคลนและไร้ประสิทธิภาพ และการขาดความมั่นคงในกรรมสิทธิ์ที่ดินและสิทธิในทรัพย์สินของชาวนา ความทุกข์ร้อนนี้ที่ได้เกิดขึ้นท่ามกลางความอุดมสมบูรณ์ของทรัพยากรธรรมชาติและศักยภาพทางการเกษตรที่ยิ่งใหญ่ของพม่า ได้กลายมาเป็นปัจจัยที่นำไปสู่ความยากจนที่เลวร้ายที่อธิบายถึงลักษณะของชีวิตประชาชนในชนบท (ซึ่งเป็นคนส่วนใหญ่) ของประเทศ ภายใต้การบริหารจัดการของประธานาธิบดีเต็ง เส่ง (Thein Sein) ได้มีการเจรจามากมายเกี่ยวกับการปฏิรูปภาคการเกษตรของพม่า อันดับแรก ได้มีการจัด “การประชุมเชิงปฏิบัติการระดับชาติ” หลายครั้งที่เป็นส่วนหนึ่งของความพยายามปฏิรูปเศรษฐกิจของพม่าที่ได้อุทิศให้กับภาคการเกษตรเป็นพิเศษ สิ่งนี้มาพร้อมกับคำแนะนำจำนวนหนึ่งที่ส่วนใหญ่จะมุ่งไปที่การผลิตที่เพิ่มขึ้น ผ่านการปรับปรุงโครงสร้างพื้นฐานของชนบท การเข้าถึงวัตถุการผลิตที่มีราคาเหมาะสม และการเปิดให้มีการกู้ยืมที่กว้างขวางขึ้น (มุ่งเน้นไปที่การกู้ยืมในระดับจุลภาค) จากนั้น ได้มีการประชุมอื่นๆ ที่ทุ่มเทให้กับการเกษตร ส่วนใหญ่ได้รับการสนับสนุนจากสถาบันในระดับพหุภาคี หน่วยงานด้านการพัฒนา และนักลงทุนต่างประเทศที่มีศักยภาพ มีประเด็นในการประชุมที่คล้ายคลึงกัน การปฏิรูปที่หยุดชะงัก แม้เงื่อนไขที่กล่าวข้างต้นยังคงอยู่ รวมถึงโวหารของรัฐบาลในการสนับสนุนการปฏิรูป แต่ในความเป็นจริง ความก้าวหน้าด้านการปฏิรูปภาคเกษตรกรรมยังคงมีไม่มากนัก การเปลี่ยนแปลงที่ครอบคลุมทุกมิติของภาคเกษตรกรรมเป็นความต้องการอย่างเร่งด่วน […]

Issue 14 Sept. 2014

จุดเด่นและจุดด้อยของความเป็นผู้นำของเต็ง เส่ง

จุดเด่นและจุดด้อยของความเป็นผู้นำของเต็ง เส่ง การเปลี่ยนแปลงที่คาดการณ์ไม่ได้ ไม่มีใครที่จะสามารถพยากรณ์การเปลี่ยนแปลงที่กำลังจะเกิดขึ้นในพม่าได้  เดือนมีนาคม ค.ศ. 2011 กลายมาเป็นจุดสิ้นสุดของ 23 ปีแห่งการปกครองโดยรัฐบาลทหารพม่า อดีตนายกรัฐมนตรีเต็ง เส่ง (Thein Sein) กลายมาเป็นประธานาธิบดีในปี ค.ศ.2008 และรัฐบาล “พลเรือน” ที่ตั้งบนรัฐธรรมนูญได้เริ่มต้นขึ้น ในการสืบต่ออำนาจอย่างรวดเร็ว รัฐบาลใหม่ได้นำมาซึ่งการปฏิรูปการเมืองและเศรษฐกิจ ความสมานฉันท์เดินหน้าไปกับกลุ่มที่สนับสนุนประชาธิปไตย และในปี ค.ศ. 2012 การคว่ำบาตรจากตะวันตกได้ยุติลง นี่คือการเปลี่ยนแปลงที่น่าตื่นตาตื่นใจ และนำพวกเราไปสู่การตั้งคำถามว่าทำไมถึงไม่มีใครสามารถทำนายว่ามันจะเกิดสิ่งนี้ได้ มีเหตุผลมากมายและผู้เขียนต้องการที่จะให้เหตุผล 3 ประการที่เกี่ยวข้องกับการเมืองภายในประเทศ เหตุผลประการแรก ผู้สังเกตการณ์ส่วนใหญ่ไม่สามารถที่จะจินตนาการได้ว่า พลเอกอาวุโสตาน ฉ่วย […]

Issue 14 Sept. 2014

การประเมินนโยบาย “เปิดกว้าง” ของพม่า

การประเมินนโยบาย “เปิดกว้าง” ของพม่า การประกาศใช้การปฏิรูปทางการเมืองและเศรษฐกิจแบบกว้างๆ โดยประธานาธิบดีเต็ง  เส่ง (Thein Sein) ของพม่าเมื่อ ค.ศ.2011 ได้สร้างความประหลาดใจให้กับผู้สังเกตการณ์ชาวต่างประเทศจำนวนมาก ซึ่งต่างก็สงสัยในความมุ่งมั่นของรัฐบาลในการผลักดันให้เกิดการเปลี่ยนแปลงหลังจากการเลือกตั้งทั่วไปเมื่อ ค.ศ.2010 ขณะที่นักวิจารณ์และนักวิเคราะห์จำนวนมากตั้งข้อสงสัยในระยะแรก แต่เราไม่อาจปฏิเสธว่า อัตรา (ความเร็ว) และขอบเขตของความคิดริเริ่มในการปฏิรูปของรัฐบาลชุดนี้ได้เริ่มขึ้น โดยเฉพาะเมื่อกฏหมายใหม่ๆ ได้เริ่มที่จะลดทอนบทบาทของรัฐในบางภาคของชีวิตทางสังคมและการเมือง ความสัมพันธ์ระหว่างพม่ากับคู่ค้าต่างประเทศใหม่ๆ ได้มีขึ้นและการออกกฏหมายส่งเสริมการลงทุนที่อนุญาตให้บริษัทต่างประเทศและหน่วยงานที่สนับสนุนด้านเงินทุนเข้ามาในประเทศ การเปลี่ยนแปลงในภาพรวมของรัฐบาล ซึ่งมักถูกเรียกว่าเป็นการเปิดประเทศของพม่า ได้สร้างความประหลาดใจไว้มากมาย เพราะแทบจะไม่มีคนที่คิดว่าการเปลี่ยนแปลงที่จะเกิดขึ้นภายในรัฐบาลพลเรือนที่ถูกสร้าง พัฒนาและนำมาใช้โดยผู้อำนาจทางการทหารคิด มีบางคนข้อสงสัยว่าสิ่งที่พวกเขาได้มองเห็นในพม่าขณะนี้ จะคล้ายคลึงกับซึ่งที่เรียกว่า Glasnost หรือ การเปิดกว้าง และกระบวนการต่างๆ ที่เป็นคุณสมบัติของการเปลี่ยนแปลงของสหภาพโซเวียตในช่วยท้ายของสงครามเย็นหรือไม่ รูปแบบสงครามเย็นและการเปิดประเทศของพม่า […]

Issue 14 Sept. 2014

พัฒนาการในพม่า: อนาคตของความยิ่งใหญ่ของกองทัพ

ทฤษฎีและหลักปฏิบัติเกี่ยวกับการปกครองแบบตะวันตกสมัยใหม่ได้กำหนดเงื่อนไขของการเป็น “รัฐบาลที่ดี” ไว้ว่า จะต้องเป็นรัฐบาลที่การทหารอยู่ภายใต้การควบคุมของพลเรือน  แม้แต่ในรัฐระบอบคอมมิวนิสต์ที่มีพรรคคอมมิวนิสต์ที่ได้รับการคาดหวังว่าจะต้องรับบทบาทการนำด้านการปกครอง ทหารก็จำเป็นต้องปฏิบัติตามและยึดมั่นในอุดมการณ์แห่งรัฐ แม้ว่าสิ่งนั้นเป็นดูเหมือนเป็นเรื่องเพ้อฝันมากกว่าความเป็นจริง ในบางประเทศที่ไม่ได้อยู่ในโลกตะวันตก แนวคิดเรื่องบทบาทดังกล่าวยังคงถูกยึดมั่นเอาไว้ บ่อยครั้ง มักจะเกิดขึ้นหลังจากได้ผ่านประสบการณ์อันขมขื่น เช่น ประเทศญี่ปุ่น เป็นต้น ใน ค.ศ.1989 แม้แต่พรรคสันนิบาตแห่งชาติเพื่อประชาธิปไตย (Myanmar National League for Democracy – NLD) ก็สนับสนุนการที่พลเรือนมีอำนาจเหนือกองทัพทหารพม่าซึ่งถือว่าเป็นส่วนหนึ่งของนโยบายของพรรค ทั้งนี้ กองทัพพม่าสามารถเข้าครอบงำทางการเมืองได้ตั้งแต่ ค.ศ.1962 อย่างไรก็ตาม วิธีการมองเรื่องนี้ที่แยกเป็นสองขั้วที่สุดโต่ง คือแยกเป็นฝ่ายพลเรือนและฝ่ายทหารที่ต่างคอยเอาชนะกัน นับเป็นวิธีการที่ทำให้เรื่องซับซ้อนได้เข้าใจได้ง่าย และเป็นชุดเชื่อมต่อของความสัมพันธ์ต่างๆ ระหว่างฝ่านทหารและพลเรือน อย่างไรก็ตาม […]

Book Reviews

Book Review: The Glass Palace

The Glass PalaceAmitav GhoshNew York / Random House / 2002 (paper)London / HarperCollins UK / 2000 (cloth) Booming sounds break into the lives of people at a food stall in Mandalay. Such jarring noise was […]