Issue 31 Sept. 2021

ミャンマーの革命の焦点、連邦主義

独立以来、ミャンマーが模索してきたのは、自国の豊かな文化や言語、民族、宗教のアイデンティティーを包摂できる政治機構だ。これまで、少数民族は連邦主義を、全ての民族集団の平等や権利を確保する手段と主張してきた。だが、1962年から2010年までミャンマーを統治した軍事独裁政権は、極めて中央集権的な政治体制を敷いた。そのため、このような体制下で、連邦主義の議論をする事は一切不可能だった。その後、2008年憲法の下で行われた民政移管は、中央集権型の連邦主義を生み出した。ところが、ビルマ政府の実態や構想は、国民民主連盟(National League for Democracy: NLD)政権(2016-2021)の下でさえ、中央政権的なものに止まっていた。 これについて、この記事では歴史的概要を述べた後、2021年のクーデターが連邦主義をめぐる政治論争をどのように根底から変えたかという事に焦点を当てる。まず、少数民族の若手指導者が、いかに連邦主義を反クーデター運動の中心的要望としているかを考察した上で、エスニシティに関するディスコースの変化にも言及する。このディスコースについては、以前の民族系統モデル(ethnic-genealogical models)から、包摂的な行政区域モデル(civil-territorial model)の連邦主義へと焦点が移りつつある。次に、連邦議会代表委員会(the Committee Representing the Pyidaungsu Hluttaw: CRPH)が2008年憲法を廃止し、連邦民主憲章(Federal Democracy Charter)を採択した事の重大性を考察する。ちなみに、同憲章の第一部では、幅広い視野の連邦制の原則が謳われている。これらの展開や、連邦主義がミャンマー政治の未来として認められた事は、連邦主義の実現に向けた過去数十年間の取り組みの成功を示している。だが、エスニシティや地理的環境、市民権、宗教などをめぐる、根深く、多角的で重層的な社会の格差は今も残されている。つまり現在の状況は、これらの格差を解消しておらず、国民を一夜にして団結させるものでもない。さらに、不信感も根強く残っている。その上、連邦民主憲章の第一部に提示された価値観を実践し、連邦制を樹立するには、特に同憲章第二部に関する現実的な交渉が必要となるだろう。 ミャンマーにおける連邦制のジレンマ ミャンマーは民族、宗教、言語、文化に関して、極めて多様な国であるが、数の上では仏教徒のビルマ族が大多数を占め、彼らが昔から政府を牛耳ってきた。一方、少数民族の(各種政党や少数民族武装勢力: Ethnic Armed Organizations: EAOsの)指導者は長年、連邦主義をビルマ族による搾取や抑圧などから自民族の権利や利益を護り、中央政府から州レベルに権力を移行させる手段と考えてきた。そのため、このような地方分権化や連邦主義を求める声が、国家の指導者から歓迎された事は滅多になかった。早くも1959年には、Silversteinが「連邦制のジレンマ(federal dilemma)」という新たな言葉を編み出している。この言葉は、指導者が多数派優位型の民主主義を望みつつも、政治的な理由から、少数民族のためにある程度、連邦主義の要素を認めざるを得ない状況を表している。 1962年から2010年にかけ、ミャンマーを支配した軍事政権は極めて中央集権的な体制を築いた。当時、軍事支配の正当化の理由の一つに、国家崩壊を回避する必要性が挙げられ、連邦主義は(少数民族州による分離への第一歩となる可能性があるとして)問題視された。その後、2010年に始まった政権移行と共に、連邦主義の話題はタブーではなくなったが、2008年憲法下でも、権力は依然として中央に集中し続けた。 また、NLD政権下でも、前政権と同様に、いずれの政治機構が少数民族の求める自治を実現しつつ、その他の問題を生み出さない、あるいは悪化させないかという点で、政治的エリートの意見が割れたままとなった。だが一方では、大きな歩み寄りも生じ、ミャンマーの未来が連邦国家にあるという意見の一致で、和平プロセスをめぐる交渉が収束した。それでもなお、特に「連邦制民主主義(federal democracy)」と「民主主義連邦国家(democratic federal state)」の違いなど、用語をめぐる激しい意見の対立が残った。この対立は、ステークホルダー間の信頼欠如を反映すると共に、NLDが連邦主義より民主化を優先しているという認識を少数民族の指導者に抱かせる一因ともなった。 一方、市民社会団体は、民政移管後に開放された市民空間がもたらした機会を捉え、市役所で開催されるような集会から、より個別の需要に即した専門講座まで、連邦主義に関する幅広い教育活動を実施した。このような活動によって問題意識が広まり、連邦制はまぎれもなく開発のディスコースの一部となり、新たな連邦制支持者も確保された。 反クーデター運動とゼネスト民族委員会(GSC-N)における連邦主義 そもそも、2021年2月1日のクーデター直後には、連邦主義は政治的要望の焦点ではなかった。初期の反対運動の要望は、政治的指導者の釈放と民選政府の復元であり、連邦主義には言及していなかった。つまり、当初のデモ隊はクーデターの撤回を要求していたものの、2008年憲法によって規定された概念的枠組を越える事はなかった。むしろ、今回の反クーデター運動に、連邦制民主主義という政治的要望を持ち込んだのは、ゼネスト民族委員会(the General Strike Committee of […]

Issue 31 Sept. 2021

ミャンマーの和平プロセス —2010-2021

1957年から2010年までのミャンマーの歴史は、現在も続く国軍(現地ではタトマドー: the Tatmadaw: と呼ばれる)と、様々な少数民族武装勢力(EAOs)との武力衝突を特徴とする。この間、国軍は、時として一部の組織と停戦に至る事もあったが、2010年に開始された政権移行には、より包括的な和平合意の達成という明確な目標があった。この全国停戦合意(The Nationwide Ceasefire Agreement: NCA)は、2011年に政権を取った軍政寄りの連邦団結発展党(Union Solidarity and Development Party: USDP)政権が提案したもので、これが変化のきっかけとなった。この記事では、停戦交渉に向けてUSPDが用いる新たなアプローチから、国民民主連盟(the National League for Democracy: NLD)政権(2016-2021)の下で進行した、政治交渉の官僚主義化まで、和平プロセスの展開を分析する。その後、2021年2月のクーデターが和平プロセスのステークホルダーの立場や認識、関係に、どのような影響を与えたかを検討する。だが、これらの考察によって、当事者全員に自分たちが「勝つ」という思いがあるうちは、和平交渉は再開されそうにない、という残念な結論が導かれる。何より、たとえ和平交渉が再開されたとしても、もはやNCAは平和を実現する有効な手段とはならないだろう。 社会契約が無い国の中央集権化 ミャンマーには、実に多様な民族集団があり、話される言語には、ビルマ語や、シナ・チベット語、タイ語、モン語やサンスクリット語由来の言語などがある。そのせいか、英国植民地支配の下では、ビルマ中心部が直轄統治を受けた一方で、山間の国境地帯は、現地の少数民族の指導者との一連の曖昧な取り決めを通じて支配された。 1947年には、ビルマから植民地の支配者を追放するため、多数派ビルマ族とカチン族、シャン族、チン族の指導者間に緩やかな同盟関係が結ばれた。ただし、この協定の規定では、10年後に連邦国家の設立に関する国民投票の実施が求められていたが、これが履行される事はついになかった。その後、1962年には国軍が権力を掌握し、国軍によるミャンマー支配は、2010年に政治、経済、和平をめぐる移行期が開始するまで続いた。だが、国軍はその後も、文民政権との臨時的な権力分担の取り決めを通じて自身の影響力を保った。 1957年から2010年までは、軍事支配に対する、武装した少数民族の抵抗運動が広範囲で行われていた時代だ。この運動の主な目的は、少数民族の自治、あるいは独立を達成し、少数民族の地域から国軍を追い出す事だった。確かに、一部のEAOsはイデオロギー上の信念のもとで結成されていたが、大半の組織に、その政治的思想の指針となる「世界像(Weltbild)」があったとは言い難い。 国軍はその統治期間を通じ、様々な武装組織と停戦交渉を行うことで、そのような組織の鎮静化を試みた。これらの交渉の成果は様々で、中には何十年も停戦が続いているもの(例えば、モン州やチン州、ワ州など)もあれば、(カチン州など)不安定で、紛争が繰り返される例もある。だが、これらの停戦協定は単なる紳士協定に過ぎず、紛争を煽る不満を和らげるための、政治体制の変化に向けたさらなる交渉にはつながらなかった。しかも、国民アイデンティティや、少数民族の包摂という概念についての議論も行われず、多数派ビルマ族の象徴的な中心性がそのままとなった。これと同時に、少数民族は(認識上、事実上の)「ビルマ化」政策を、自分たちが必死に闘って守ろうとしているアイデンティティの存続を脅かすものと理解した。 和平プロセスの第一段階(2010—2015) 2010年に政治的自由化(political opening)が開始された後、軍政寄りの連邦団結発展党(USPD)が当選を果たし、1962年以来の準文民政権として権力を握った。当時、USDPが実行した多くの改革には、少数民族地域の鎮静化という新たな試みがあったが、同党はこれに全く新たな手法で取り組んだ。すなわち、以前の和平交渉の多くが臨時的で、現地の国軍司令官とEAOsの個人的な会談だったのに対し、新たな交渉は閣僚級の担当者を中心とした、はるかに組織的な会談だったのだ。 さらに、政府の交渉責任者(ウー・アウン・ミン元中将: U Aung Min, a former Lieutenant General)は、誠意を持って会談に臨む気があるなら、どのような武装勢力とも無条件で会うつもりだと表明した。また、彼が自分の善意の証として、交渉に備えて設立したミャンマー平和センター(Myanmar Peace […]

Issue 31 Sept. 2021

ミャンマーの民主化運動

ミャンマー(当時はビルマといった)には、1948年の独立から1962年のクーデターまでの短期間、民主主義の時代があった。以来、50年近くにわたり、国軍(現地ではタトマドー: Tatmadawという)は、ほぼ絶対的な権力を手にした。だが、2010年には予想外に政治的・経済的自由化が始まり、これが10年間、軍事政権と後続する文民政権との間に権力分担の時代をもたらした。まず2011年から2015年までは、軍政寄りの連邦団結発展党(Union Solidarity and Development Party: USDP)が、次に国民民主連盟(the National League for Democracy /NLD)が政権を取った。この民主改革のペースは、よく言っても控えめだったが、この比較的開放的な10年間は、政治規範を大幅に改革し、より良い未来への期待を国民、特に若年層の間で高めた。 ところが、この改革は、2021年2月1日に突如として終わりを迎える。2020年11月選挙でNLDが圧勝してから3カ月も経たない内に、国軍がクーデターを起こし、国家行政評議会(the State Administration Council: SAC)を介した軍事支配を完全に復活させたのだ。これに続く数週間には、広い範囲で民主化運動が展開されたが、国軍はこれを暴力的な弾圧によって迎えた。このため、ついに民主化運動の要望は、クーデター前の原状回復から、国軍のミャンマー政界からの完全な追放に変わってしまった。 この記事では、ミャンマーの民主化運動について簡単な分析を行う上で、この運動を三つの中心的な要素から成るものと捉える。つまり、この三大要素とは、大規模デモ、市民不服従運動(the Civil Disobedience Movement: CDM)、そして連邦議会代表委員会(the Committee Representing the Pyidaungsu Hluttaw: CPRH)および国民統一政府(National Unity Government: NUG)だ。また、少数民族の特殊な役割についても検討しよう。なお、今回の運動を以前の運動と全く異なるものとしながら、以前の対立と変わらない点は、軍部の圧倒的優位が民主化運動の力を削ぎ、決め手となる成果を出せなくしている事だ。このため、対立が長引き、多大な損害をもたらして、最終的には無残な膠着状態に陥る結果となる可能性が最も高い。 歴史的背景 民主化を要求する様々な形の圧力をものともせず、国軍は、2011年までの半世紀に国家をほぼ完全に支配した。この軍政の息の長さには、いくつかの要因がある。そもそも、国軍は、その存在の初めから現在まで、絶えず進行中の紛争に関与してきた世界で唯一の近代的軍隊だ。しかも国軍は、ミャンマーの建国に中心的な役割を担った事から、自らを国家の体現者と見なし、敵対者を反逆者と見なすようになった。また、教育から医療までの様々な分野にはパラレルな機構が幅広く存在し、これが軍事関係者と一般市民の交流を制限している。つまり、これらの事情が、国内の脅威と見なされる民主化運動や少数民族などに対し、国軍に過激な手段を取らせているのだ。 その後、2010年には政権移行が開始されたが、国軍の影響力はしっかりと護られ続けていた。2008年憲法は国軍の自律性を保証し、国軍に国会の4分の1の議席を割り当て、内務省や国防省、国境省などの主要閣僚の支配権も付与した。しかも、国軍は事実上、臨時的な権力分担の取り決めを確立させたものの、これには意図的に曖昧な条件が付けられていた。 そうだとしても、USDP […]

Issue 31 Sept. 2021

アイデンティティと社会的包摂

アイデンティティと社会的包摂をめぐる問題は、ミャンマー社会における長年の争点だ。ミャンマーは民族言語学的に世界で最も多様な国の一つで、公式に認められた少数民族は135、その言語は約107種ある。それに、ミャンマー国境内では数多くの宗教団体が共存し、仏教徒(87.9%)や、キリスト教徒(6.2%)、イスラーム教徒(4.3%)、ヒンドゥ教徒(0.5%)、および精霊崇拝者(0.8%)などがいる。このような状況の中、対立をもたらす植民地支配の遺産と、多数派ビルマ族優位の歴史が民族や宗教の断層線(fault lines)を形成し、今日も社会を分断し続けている この記事では、準民主主義的統治の行われた2011年から2021年までの10年間に、アイデンティと社会的包摂がどのように展開したかについての概要を述べる。まずは、軍寄りの連邦団結発展党(Union Solidarity and Development Party: USDP)下での状況を述べ、次に、国民に選挙で選ばれた2016年以降の国民民主連盟(National League for Democracy: NLD)政権下での状況を述べる。ここでは、エスニシティ、宗教、ジェンダーおよび性的志向という三つの面に沿って社会的包摂性の概念を構築する。また、慎重な楽観論では、準民主政権がミャンマーに一段と高い社会的包摂性をもたらすとしているが、そのような進展はまだ限られたままだ。だが、2021年2月1日の軍事クーデターには、新たな転換点となる可能性がある。というのは、このクーデターによって、以前なら乗り越えられなかった分裂を超え、新たな連帯が構築されたからだ。だとしても、複数のステークホルダーが次第に緊迫感を増す状況の舵取りをする上は、当初の連帯が持続するものとなるかどうか、今はまだ分からない。 ミャンマーの歴史背景におけるアイデンティティと社会的包摂 植民地支配(1824-1948)の下では、英国による分割統治政策が、多数派のビルマ族と少数民族を対立させた。それに、独立後の激動の時代には、人々を結束させる国民アイデンティティも無いまま、複数の少数民族が自治権拡大を求める闘いの中で、少数民族武装勢力(Ethnic Armed Organizations: EAOs)を結成した。さらに、1962年の軍事クーデター後には、民族的・宗教的マイノリティに対する国家的な抑圧が強まった。その後、軍事政権は1982年ビルマ国籍法(the 1982 Burma Citizenship Law)を採択し、これが現在も改正されずに、ムスリムやヒンドゥ教徒、華人などの集団を差別している。事実、これらの集団は、ミャンマーの原住民(Taing Yin Thar)ではないとの理由により、完全な市民権を認められていない。特にムスリムは、殊さら差別の標的とされ、政府や軍の職を追われた。また、1990年代の大規模な軍事攻撃の際には、軍部が特定の少数民族の集団を優遇する一方、その他の集団を厳しく弾圧した。さらに、軍政支配下での差別はジェンダー差別にも及んだ。そもそも、タトマドー(Tatmadaw :いわゆるビルマ軍)は昔から、女性指導者をタブー視してきた。例えば、国軍の最高幹部が重んじる、「雌鶏ではなく、雄鶏の鳴き声のみが夜明けをもたらす」というビルマの格言には、国家は男性が統治する場合のみ強くなれるという意味がある。また国軍は、スパヤーラット(Suphayarlat)女王の無分別な統治が、英国によるビルマ帝国の植民地化をもたらしたという話を捏造し、無能な女性指導者のナラティブを広めた。このような事情から、軍が公布した2008年憲法では、一部の重要な閣僚ポストが男性のみに割り当てられている。また、女性が兵役に就く事は、ごく最近になって、ようやく認められたが、軍部にも政府にも、地位のある女性はごく僅かしかいない。 USDP(2010-2015)とNLD(2016-2021)政権下での準民主的統治への移行  —社会的包摂性に向けた、わずかな進歩 民族の包摂 2011年の民政移管後、連邦団結発展党(USDP)政権は、少数民族の異なる集団間に分割統治的な手法を用い、包括的な和平交渉の前段階である全国停戦合意(the Nationwide Ceasefire Agreement: NCA)から一部の少数民族武装勢力(EAOs)を排除した。しかし、2015年選挙でNLDが政権を獲得すると、民族のさらなる包摂と平等な待遇への新たな期待が高まった。なぜなら、NLDの選挙公約では、政治対話を行って民族紛争の根本原因に取り組む事、平等な権利と民族自決、資源共有の原則に基づく真の連邦制国家に向けて努力する事が誓われていたからだ。ところが、NLDは政権の座にあった5年間に、この公約を大して実現できなかった。後に、NLDはこの失敗を正当化し、2008年憲法による制約のせいだと主張した。 だが、少数民族の視点から見ると、常にビルマ族の多数派が国家統治機構の中心となるべきとするNLDの民族至上主義的な信念に、この失敗の原因があった。他にも、NLD政権と国軍の緊密な関係、両者が早急な憲法改正に乗り気でない事や、少数民族との平等な権力分担に関する憲法条項の改正に反対している事なども、少数民族の指導者から批判されている。 宗教の包摂 1962年以降、仏教は、もはや国教ではなくなったが、2008年憲法361条は、仏教がミャンマー社会における「特別な信仰である事」を認めている。その結果、歴代ミャンマー政府は他の宗教集団を顧みず、仏教を優遇し続けてきた。この政府による仏教の優遇には、宗教的共生を地域社会や個人のレベルで妨げる政策や法律、実践が含まれる。その分かりやすい例の一つに、礼拝施設の建設をめぐる、様々な宗教集団への不公平な待遇がある。例えば、仏教徒なら、仏塔や寺院など、どんな宗教施設でも、気に入った場所に自由に建てる事ができる。だがこれに対し、キリスト教やヒンドゥ教、イスラーム教の団体は、既存の礼拝施設を改修するにも、新たな建物を建てるにも、許可を得るのを困難に感じている。 これまで、USDP政権(と国軍)は、右翼活動家のネットワークや団体を動員し、自ら仏教ナショナリズムを扇動してきた。この例には、仏教徒ナショナリストの969運動(the […]

Issue 31 Sept. 2021

世界における2020年以降のミャンマー —争われる正当性と改革

近年、ビルマ(ミャンマー)の外交政策と、その世界におけるポジションが世間の高い関心を集めている。長年、ミャンマーの外交政策は、正当性を主張し、争い、否定し、あるいは授ける手段となってきた。特にこれが当てはまるのは、1962年と1988年のクーデター後の状況だ。当時、並立した政権が軍事政権に対し、自らの正当性を主張したが、軍政によって退陣させられるか、国民から寄せられた信任を無効にされるかのどちらかとなった。だとしても、外交政策に変化が生じた複雑な10年間(2010年~2020年)で、ミャンマーと国際社会の関係の正常化には、ある程度の成果が上がった。だが、2021年2月1日に軍事クーデターが起きた今となっては、先行きの見通しが立たない。ただ、軍部の容赦ないデモ弾圧の後に生じた反クーデター運動の反響から、外交政策の重要性が明らかになった。しかも、外交政策は、軍政にとっても、クーデターや軍事支配に反対する民主派勢力にとっても等しく重要だ。 この記事では、国家行政評議会(the State Administration Council: SAC)による軍政と、国民統一政府(the National Unity Government: NUG)が幅広く代表するミャンマーの様々な反軍政勢力が、外交政策を用い、国民の認める正当性や(あるいは)、政治的な正当性を主張する動向を論じる。そのために、まずは正当性をめぐる過去の外交政策の類似した動向を分析し、次に、ポスト2020年選挙のシナリオにおける文民政権の新たな選択肢について分析する。そして最後に、2021年2月のミャンマー軍事クーデター後の不確定要素を分析し、締めくくりとしたい。 外交政策の過去と現在 独立、積極、中立を旨とした外交政策は、ミャンマーがこれまで国際社会との交流に用いてきた一つの常套手段で、この政策は一貫して変わらなかった。また、1962年以降の歴代軍事(独裁)政権下では、外交政策の駆け引きをする機会も限られていた。これらの理由から、ミャンマーの多くの国民は、自国とその他の世界の国々との関わり方について、おおむね(よく言えば)中立的で、(悪く言えば)無関心なままとなった。 最初に軍事支配を敷いた1962年のクーデターを、外国勢力は、冷戦時代の地政学的懸念から生じたものと考えた。そこで、彼らは当時、軍政からの外交政策の申し出を割り切って受け入れた。だが、これと対照的に、1988年から2011年に権力を握った国家平和発展評議会(the State Peace and Development Council: SPDC)はパーリア国家となり孤立した。このため、SPDCは外交政策やパブリック・ディプロマシーに取り組み、正当性を獲得しようと努めたが、これは失敗に終わった。 そこでSPDC政権は、対外経済関係を拡大させ、欧米諸国によって課された制裁に対抗しようと、アジア全域、特に東南アジア諸国連合(ASEAN)の域内で、二国間関係の強化を目指した。 ところで、2008年にSPCDが軍部の起草した憲法の施行を見届けた時期は、平和的なデモの容赦ない弾圧から、わずか6カ月後、あるいは、壊滅的な被害をもたらしたサイクロン・ナルギスが、国内の米作デルタ地帯を襲った直後にあたる。当時、災害および人道支援の調整には、ASEANが中心的役割を担っていたため、軍の将校たちは、国際人道支援団体の活動の余地を設ける事を承諾した。また、これはミャンマー政府の高官にとって、改革に向けた能力を高める新たな手法を学ぶ機会ともなった。 同様に、軍政の「改革」に向けた取り組みに対し、国際社会からのさらなる譲歩を引き出す努力の一環として、軍部は当時の野党党首、アウンサン・スー・チー女史(以後、スー・チー氏)の断続的な自宅軟禁を解除した。これは2010年11月に、10年余年ぶりの投票が行われた数日後の出来事だった。さらに、軍の影響下にある準文民政権、連邦団結発展党(the Union Solidarity and Development Party: USDP)が選挙に当選し、広範囲にわたる政治・経済改革のプロセスが開始され、国内外を驚かせた。この出来事は、比較的自由で公正な2015年選挙の礎となり、その選挙では、スー・チー氏率いる国民民主連盟(National League for Democracy: NLD)が圧勝し、同氏を代表とする与党が、ミャンマーで半世紀以上ぶりとなる民選政府を樹立した。 以降、スー・チー氏は、過去に利益をもたらした国際社会への復帰政策を進めていった。2016年9月には、同氏がこの政策をさらに色付けし、民間人を中心とした外交の焦点を強調し、労働移住など、人間の安全保障の問題を提起して、さらなる人的交流を推進した。この民間人を中心としたアプローチの主な動機は、在外ミャンマー国民を巻き込み、彼らの協力を得る事にあった。つまり、NLD支持者が大半を占める海外在住のミャンマー市民からの支持を確認した上で、ミャンマーの国際的な「イメージと尊厳」を回復しようとしたのだ。 この展開は、ミャンマーが自国の殻を破り、思うままに世界と関わりを持つ用意が整っていた事を示していた。だが、この好調な出だしは長続きせず、2016年と2017年のアラカン・ロヒンギャ救世軍(the Arakan […]

Issue 30 Mar. 2021

環境に未来はない?タイにおける最近の学生主導デモと環境政策(の不在)

2020年8月16日の夜、ラチャダムヌン(Rajadumneon)通りの民主記念塔周辺の路上に様々な人々が集まり、軍部主導のタイ政府に対する抗議が行われた。このデモを主導していたのは、大学生や中高生などの学生だ。これにアーティストやラッパー、コメディアン、作家、漫画家、歌手、そして会社員や若手フリーランサー、工場労働者、小規模事業者、研究者、さらにはイサーン地方各県の元赤シャツ隊員までもが、このデモに加わった。デモのメインステージでは、青年活動家の活発なパフォーマンスやスピーチが行われていた。また、デモ隊が占拠する路上では、さらに多様でクリエイティブな活動が行われ、民主主義の要求以外にも、社会問題や日常生活、この国の将来に関する政治的な要求が示された。 「人民解放団(フリー・ピープル/“Free People” /ประชาชนปลดแอก)」の同盟団体による最近の民主化要求デモは、タイの現代政治を理解する指標として重要な出来事だと思われる。このように、街頭デモが政治の表舞台を占拠する様子は、1990年代を彷彿とさせた。これらのデモは、バンコク中心部の民主記念塔をはじめ、全国各地の多くの県の、さまざまな大学や学校、公共施設でも生じている。これは、この数十年の間にタイ民主主義が後退する中で、社会運動が再び、漸進的な変化を要求する役割を担う可能性を示している。 1990年代には、農民団体やスラム地区の活動家、反開発運動の活動家、労働者支援の活動家、それに環境保護主義者などの様々な運動があった。これらの運動は、新たにタイの政治的空間を切り開く事を促し、また、この空間に立脚した運動でもあった。特に、これらの運動と環境政策との密接な関連は、これらの運動が、単に特定の環境被害の軽減を目指しただけでなく、民主主義の深化も促していた事を示す。 ここで、市民の活動、運動、活動家や参加者の多様性を考えると、現在のデモで、環境政策がこれ程までに重視されていない事には興味を覚える。ことに、若手活動家に関してはこれがあてはまり、彼らの環境政策や開発関連の問題に対する取り組みは限られている。それに、以前の民主主義デモの時代に、開発と環境がいずれも中心的な問題であった事を思うと、さらに驚きを感じる。一体、環境運動に何が起きたのだろうか?そして、今後、タイの民主主義を形成していく上で、この運動はどのような位置を占めるのだろうか? 青年解放団(Free Youth)から人民解放団へ 人民解放団は、主に民主主義や人権、透明性、その他の社会問題の改善と推進に取り組む反政府的な政治運動だ。この運動は、プラユット・チャンオチャ将軍率いる現政府に対して、真正面から批判を加えた。プラユットによる釈然としない選挙や国会操作、非効率的な政権運営、それに透明性の欠如は、どう見ても、現政権の正当性が疑わしい事を示している。 この運動は、学生たちの小規模な団体から始まり、2019年の後半には「青年解放団」と呼ばれるようになった。この青年解放団の指導者は、権利や自由を求めて運動を行っていた。やがて、同運動はツイッターやFacebookなどのソーシャルメディアを通じ、より広い注目と支持を集めるようになった。当初は学生を中心とした運動だったが、後に様々な分野の人々が加わった事で、運動の裾野と目標の範囲が広がった。その後、青年解放団は人民解放団となり、いわゆる「3項目の要求、2つの原則、1つの夢(”3 Demands 2 Standpoints and 1 Dream”)」を活動の中心に据えた融和的な協力団体のさまざまな運動を包括する事となった。 ここでいう、「3項目の要求」とは、以下を指す。 政府は民主的な権利と自由を行使する国民に対する嫌がらせを止めなければならない。 政府は民意に基づく新憲法の作成プロセスを容認しなければならない。 政府は「国会を解散させ」、自由で公正な選挙を通じ、国民が再び意思表明を行う事を認めなければならない。 また、「2つの原則」とは、(1)いかなるクーデターの試みにも反対する事、(2)政治的な閉塞状況を打開し、政府の正当性の欠如を正す中央政府を形成する事。 最後の「一つの夢」は、真の立憲君主制の実現だ。同団体によると、国民が絶対的な主権を有する民主主義体制の憲法プロセスの下で、このような夢が実現されるという。 人民解放団は政治的変化を重視するが、その活動は制度政策のみを求めるものではない。むしろ、彼らは活発な運動によって、様々な社会的ミッションを一つの公共空間の下で、まとめてきたのだ。そのため、デモ現場を歩けば、LGBTQの権利や同性婚、女性が中絶を行い、性的同意を表明する権利、教育改革など、人々が様々な社会・政治問題に関する運動を行っている事に気が付く。例えば、ムスリムの若者は、この機に乗じて、タイ最南部県の安全保障政策に透明性と文化的相違の尊重を盛り込む事を要求し、労働組合は不平等な労働条件を指摘し、社会保障を要求している。また、人民解放団のメンバーは、民主主義社会における自由で独立したマスコミの重要性も強調している。 このように多様な立場がある中で、環境政策の果たす役割が限られている事は衝撃的だ。この環境運動の欠落から、今後の民主主義国タイで環境政策が果たす役割について、何が分かるだろうか?   民主主義と環境保護をめぐる緊張感 現代の若者世代の間に、有意義で積極的な環境保護運動への取り組みが欠けている事を理解するには、いくつかの周辺事情に目を向ければよい。 1990年代には、開発の影響下にある村人と手を組んだNGOが、環境政策を主導していた。大半の環境政策は地元主導型で、「地域文化」を保護する目的の下で形成されたものだった。また、タクシン・チナワット政権は、数々の政策を通じて、これらの団体の中核を担う有権者を、自身の中央政府との建設的関係に持ち込んだ。タクシン政権は、全国的な経済機会の改善や、教育改革、村民生活の改善、農村部での天然資源の管理などに力を入れていたのだ。この政策に惹かれた村人たちが、以前に手を組んでいたNGO活動家の元を去ったため、一部のNGOの間で不満が生じ、都市部の中産階級とこれらのNGOが結びつく事となった。結果、この中産階級が反タクシン政治運動の一翼を担い、2006年の軍事クーデターを引き起こしたのだ。 タクシン政権が2000年代初頭にもたらした変化によって、新世代の人々は民主主義の政治や政策が提供しうる機会に気が付く事となった。この事態は、教育や技術、創造的経済(creative economy)、その他の社会福祉などの分野で見られる。また、この変化はタイの政治構造の脆弱性も浮き彫りにした。このため、多くのタイ人、特に若者世代にとって、民主主義は次第に、現地の状況に即した環境運動や地域文化に取って代わる存在となっていった。 また、環境NGOや農村部の村人が展開する主張と、若者たちの関心や状況との間には、隔たりがあったように思われる。これは何もバンコクの若者に限らず、デモの一部が行われた、チェンマイ県やコーンケーン(Khon Kaen)県、ウボンラーチャターニー(Ubon Ratchathani)県などの若者についても言える。それに、タイの環境NGOの活動は、農村部に拠点が置かれ、これに携わるのは排他的なメンバーや同盟者であった。1990年代以降、農村部の村人の動員は、これらの運動の中核戦略の一つとされてきた。確かに、彼らの環境に関する知識の生産や主張は、進取の気概に富んでいる。だが、これらは既存の政府を対象とし、地域運動を支えるものではあるが、より多くの人々に環境問題を伝えたり、民主化と環境保護を結び付けたりする、より大きな構造の問題に取り組むものではない。要するに、環境保護運動の大きな失敗は、この運動の政治的主張を、バンコクの人々の目に見える形にできなかった事、そして、これをより若い世代の活動家にとって、現実味ある問題とする事ができなかった点にある。そもそも、デモを行った若者は、1995年から2005年の間に生まれた人々なのだ。彼らが育った時代といえば、民主主義に対する憧れや、街頭デモ、軍事クーデターが挙げられる。つまり、今回のデモに参加した若者の大半は、現在の軍事政権の下で成人を迎えた者たちなのだ。 タイで生き残っている環境NGOは、この10年間、困難な状況に陥っている。どうやら、彼らの環境保護の使命を継ぎ、支持する事に関心を抱く若者の数が限られているようなのだ。そうだとしても、この世代の人々が環境問題を気にかけていないという事ではない。ただ、この政治の新時代に、環境運動をより現実の政治に直結した運動とするには、より幅広い同盟関係の構築と、より大きな政治的分野との関わりという点で、戦略の立て直しが必要となる。おそらく、今号のベンチャラット・セー・チュア(Bencharat Sae […]

Issue 30 Mar. 2021

環境運動と道徳政策 ——タイ軍事政権下(後?)の環境運動を振り返る

我々の運動は政治的なものではない」。 公開討論会であれ、私的な会合であれ、タイの環境保護活動家が、これと似たような主張をするのを著者は何度も耳にした。特にこの主張が目に付くのが、最近のタイの三大環境運動だ。具体的には、メーウォン(Mae Wong)・ダム反対デモ、タイ人実業家による野生の黒ヒョウ殺しの事件に端を発する反密猟デモ、そして、ドイ・ステープ(Doi Suthep)国立公園内に予定されていた裁判官宿舎の建設計画反対デモだ。なぜ、タイの環境運動は、これほど声高に政治性の否定に熱弁をふるうのか?そして、このように政治的要素が抜かれた環境保護主義は一体、何をもたらすのか?また、環境保護の主張は、タイで益々議論が生じる状況の中で、どのように変化していくのか?本論では、これらの疑問点を検討する事で、環境運動の非政治化の影響を考えると共に、タイ民主主義の目的と、これらの運動とを合致させる、より政治色の濃い環境運動をもたらすには、どのような手段があるのかを考察する。 環境運動の非政治化 環境運動の非政治化が一般的となった背景には、2014年5月のクーデター以来、2019年7月まで、タイを支配した軍政の国家平和秩序協議会(the National Council for Peace and Order, 以下NCPO)の存在があった。つまり、全ての活動家が軍政の下で、自分とコミュニティを相当な危険にさらして政治運動に取り組む事になったのだ。そのような抑圧的な状況の中で、彼らが各自の運動の重要な主張と、より大きな政治的主張との間に距離を設け、安全を確保しようとした事は理解できる。だが、疑わしい接戦の選挙を経て、NCPOに代わって支配を続ける現政府の下でも、環境保護主義者はなお、非政治化宣言を続けているのだ。この一貫した態度から明らかとなるのは、戦略的な駆け引きだけではない。それ以上に、環境保護主義者のより大きな政策形成の根本を成す信念が浮かび上がってくる。それは、イデオロギーでないにせよ、信念であり、これが明らかになる事で、彼らの運動形成の方法も見えてくる。 タイの環境運動の大半は、環境保護を中心としたものではない。むしろ、これらの運動は、生計に対する権利や、天然資源へのアクセス権の問題を、環境保護をめぐる問題に結びつける運動なのだ。なぜこのような事になったかと言うと、環境保護と(あるいは)天然資源の保全を目的とした運動の方が、生計や資源に対する権利の問題に取り組む運動よりも、一般的な認知度を高めやすく、支持を集めやすいからだ。 このような運動の好例として、ナコーンサワン(Nakhon Sawan)県のメーウォン・ダム計画に対する反対運動がある。以前、タイの環境政治は2000年代半ばのより重大な政治紛争の下で一括りにされていたが、2013年には、この反対運動がタイの環境政治を再び活気付ける事となった。かつての反ダム運動は、現地の地域社会の生計に対する潜在的な影響を重視していた(また、それ故に中産階級の支持を多く集められなかった)。だが、これとは違って、メーウォン・ダム反対運動の主張の軸に据えられたのは、タイで最後の野生のトラ個体群の一部が生息する原生林の保護であった。この運動は、都市部の中産階級から幅広い注目を集めた。さらに、この運動は一部の人々にとって、過去10年間の環境運動を象徴するものとなった。 また、2018年の初頭に、これとは別の二つの非政治化された環境関連の事例が、大ニュースとなった。一つ目の事例は、トゥンヤイ・ナレースワン(Thungyai Naresuan)野生動物保護区内で、タイ人大物実業家が行った野生動物の密猟に対して起きた運動だ。当時、密猟者と、彼らが殺した希少な黒ヒョウの皮のグロテスクな写真に対し、この運動は説明責任を求めた。多くの人々は、猟を行った有力者が起訴を逃れるだろうと思っていた。このようにして、このデモは訴訟手続きの腐敗や、野生動物の保護に対する関心を呼び起こした。また、チェンマイ県、ドイ・ステープの保護林に侵出する裁判官宿舎計画をめぐっても、抗議者は同様の懸念を表明した。この二つの事例は、厳格な森林保護を要求する市民のデモや運動を引き起こすと同時に、汚職と権力の乱用が、環境破壊とどのように関わっているかも浮き彫りにした。 [Update]: Prosecutors said on Wednesday they are seeking to indict the president of #Thailand’s largest construction company, […]

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環境のジェントリフィケーションと環境独裁主義 ——軍部主導政府下のタイにおける運河の改修

洪水はタイに重大な環境課題を突き付けている。複数の県では、ほぼ毎年、洪水による影響が出ている。例えば、ほんの一時間、普通の雨が降っただけで、バンコクとその郊外には洪水が生じかねない。また、タイ政府による洪水防止事業の多くには、運河沿いで暮らす地域住民の立ち退きが伴う。たとえ、洪水には複雑な原因があったとしても、これらの集落は多くの場合、水の流れをせき止める存在として非難されている。本論では、ポリティカル・エコロジー(political ecology)の観点に立ち、運河と洪水、都市貧困層の対立的関係の分析を行う。ここには、2014年のクーデター以降、軍部主導の政府が運河沿いに暮らす地域住民の立ち退きにポスト災害理論を適用し、これを徹底的に実施してきた様子を示す。これらの対策を支持しているのが、バンコクの中産階級の住民で、彼らは自宅周辺にある都市貧困層集落の存在を快く思っていない。つまり、軍事政権の下で運河沿い集落の立ち退きが生じたのは、いわゆる環境のジェントリフィケーションと、環境独裁主義という二つのプロセスが重なった結果なのである。この「環境のジェントリフィケーション」という言葉は、環境を改善させるという理由によって、都市貧困層を退去させる過程を指す。 また、後者の「環境独裁主義」という言葉は、貧困層による権利主張を無視し、環境事業に着手できる独裁主義政権の環境保護への取り組み方が、民主主義政権のやり方と異なる点を、問題として提起するものだ。 運河沿いの地域住民をめぐる長年の交渉 バンコクが洪水を回避する事は困難だ。なぜなら、この街はチャオプラヤ川の河口に位置し、市域の大部分が海抜以下の低地なのだ。かつて、バンコクと近隣他県が洪水をしのげたのは、河川や運河のシステムが、雨季の間の排水に役立っていたからだ。だが、急速な都市化のせいで、このシステムが破壊されている。都市化によって、一般道や高速道路、ビルが建設され、運河の数や規模が縮小されているのだ。これに加え、バンコクの公式な人口は、1960年の215万人から、2020年には1,053万9千人にまで増加した。つまり、バンコクの全体的な排水機能が低下した原因を、運河沿い住民が水の流れをせき止めている事のせいだけには出来ないのだ。むしろ、より大きな社会的・環境的変化の一連のプロセスの一環として、この排水機能の低下を捉える必要がある。 洪水防止の目的で、運河沿いのスラム地区住民を退去させる事が正当化可能か否かをめぐり、タイでは長年、交渉が行われてきた。確かに、運河システムを自然のままに保とうとする環境保護の視点で見れば、運河沿いに人間が定住する事は禁止されるべきである。また、一部の政府機関、中でも、バンコク首都圏庁灌漑下水局(Department of Drainage and Sewerage of the Bangkok Metropolitan Administration、以後BMA)は、技術的な観点から、運河を拡張すれば水の流れを早める事が可能だと主張する。そのため、水路を塞ぎ、バンコクの洪水を引き起こす運河沿いのスラム地区を移転させるべきだと、これらの機関は主張している。 この見解の結果、バンコクで1983年に大洪水が発生した後で、バーン・オー(Bang Oo)集落の強制退去という行動が生じた。このバーン・オー集落は、バンコク、プラ・カノン(Phra Khanong)地区のバーン・オー運河沿いに位置し、チャオプラヤ川へ流れ込む水をせき止め、バンコク全域に大洪水を引き起こしたと非難された。この問題認識を受け、200名の武装した警察特殊部隊が、バーン・オー集落80世帯の家屋を乱暴に破壊し、これに対処した。その後も、洪水は常にバンコクの問題であり続けたが、1983年のような深刻な事態には至らなかったため、BMAは次に露店商や交通渋滞に注意を向けた。このため、運河沿い集落の立ち退き計画は棚上げとなった。 ところが、この運河沿い集落の強制退去の問題は、ピチット・ラッタグン(Bhichit Rattakul)知事の政権期(1996-2003)に再燃する事となった。同知事は、バンコク中産階級の間で人気があった。これは、バンコクを住みやすい都市にしようとする知事のキャンペーンと、彼に環境汚染を懸念する人物とのイメージがあったおかげだ。ピチットは、バンコクに緑地を増やし、運河の水質を回復させると公約していた。この彼のキャンペーンが、中産階級の人々の想像力をかき立てた。人々が思い描いたのは、日本の京都のような先進国のイメージで、その運河はきれいな水をたたえ、両側にはスラム地区ではなく、木影のある遊歩道がある…そんなイメージだった。そこで、ピチット知事がこの公約を実行に移そうとしたところ、運河沿いに暮らすスラム地区の住民を、地区職員の一部が強制退去させる事態が生じたのだ。 これを受けて、スラム地区の住民と彼らの協力者である非政府組織(NGO)や研究者などは、スラム地区の住民が運河を汚し、洪水を引き起こしたとする非難に反論した。また、1998年9月1日には、スラム地区の全国ネットワークで、タイの4地域全てを網羅した「4地域スラム・ネットワーク(Four Regions Slum Network、以後FRSN)」の率いるスラム地区住民、約1,000人がBMA事務局前でデモを行った。このデモ隊は、運河沿いに暮らすスラム地区の住民が、水路にゴミを捨て、洪水を引き起こしたのではない事を主張した。それどころか、ゴミは他所から流れてきたものであり、スラム地区の住民が一丸となって行動し、運河のゴミ掃除をしたと、彼らは強く主張した。つまり、彼らの主張は、スラム地区の住民が実際には運河の改善に力を貸したという事、そしてBMAは洪水を地域住民のせいにするのを止めるべきだという点だ。さらに、FRSNは「集落の住民は運河沿いで生活してもよい」という重要な言説を持ち出し、タイの村人が何世紀にもわたって運河沿いで生活してきた事情を指摘した。この運動の結果、ピチット知事は地域住民の要求を受け入れ、住民が運河沿いで暮らせるようになる事、「立ち退き」という言葉が辞書から削除される必要があると告げた。以降、ピチットの在任期間に、さらなる「立ち退き」が行われる事はなかった。 このピチット知事の対応は重要なものであった。さらに、FRSNは同知事の写真と公約を載せたポスターを制作し、これを地域住民に配布して、地区職員に立ち退きを迫られないよう手を打った。この地域住民の反論と、ピチット知事の決断が示している事は、技術的知識のみに依拠した環境管理は不可能であり、人間の居住地と環境との社会的関係も考慮する必要があるという事だ。また、この出来事は、人間の居住地と環境との関係性を調整する際に、民主的な政治が重要である事を浮き彫りにしている。つまり、ピチット知事は選挙で選ばれた議員であり、中産階級と都市貧困層の両者と折り合いを付けなくてはならなかったのだ。ところが独裁主義の時代に、この状況が劇的に変化する事となった。 軍事政府下での運河の改修 この運河沿い住民の移住計画は、1998年に中止された。ところが、2011年に大洪水がタイを襲い、815人が死亡、1,360万人がこの影響を受けた。この後、BMA灌漑下水局は、バンコクにある9つの主要な運河沿いの住民を退去させる新計画を提案し、これが12,307世帯に影響を及ぼした。ただし、この計画は、民主的に選ばれたインラック・シナワトラ政権に代わり、2014年5月22日に、プラユット・チャンオチャ将軍が権力を掌握するまでは実施されなかった。 この軍政の指導者は、民主的に選ばれた政府が、政治紛争を抑えられなかったために、やむを得ず政府を転覆させたと主張した。プラユット将軍が強調したのは、このクーデターが、秩序の回復を通じて、タイに治安をもたらすものだったという点だ。そこで、政府はこの目的を果たすため、18の緊急政策を発表した。この政策には、歩道の秩序回復や、バンを使った輸送の整備、森林再生、それに運河の改修が含まれていた。つまり、洪水防止目的での運河沿い集落の立ち退きは、軍部が政治的秩序を回復しようとする、様々な取り組みの中で分析する必要があるのだ。また、「運河沿い集落の秩序化」という表現には、運河に侵入した集落が、環境にも政治にも悪影響を及ぼすという含みがあった。 当時、政府高官は、ラードプラオ(Lad Phrao)運河の場合と同じように、同政策の肯定的な見解しか説明しなかった。このラードプラオ運河の事例では、多くの地域住民が政府の計画に協力し、運河上から運河脇の土地へと自宅を移動させていた。だが、この運河の例は、住民が元々家のあった場所の近くに自宅を再建する事が認められた唯一の事例である。また、ラードプラオ運河沿いの住民は、政府に協力した事で、退去させられた家屋一軒あたり8万バーツという、比較的手厚い補償も受けている。しかも、彼らは政府の後援する住宅環境改善事業(Secure Housing (Ban Mankhong/バーン・マンコン) Project)に参加できたため、この恩恵にもあずかっていた。 だが、その他の運河沿いの住民は退去に際し、政府の特別な施策の恩恵を得る事がなかった。例えば、クローンサームワー(Khlong […]

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イサーンにおける灌漑——東北部のアイデンティティと水政策

本論では、タイ東北部(イサーン)の水政策が、この地域の地理条件や人々をどのように結び付け、イサーン人の従属的政治アイデンティティを生み出し、助長し、時には、挑戦しているのかを考察する。灌漑とダム建設は、タイ東北部とタイ中央政府との不均等な関係を維持する上で、絶対不可欠な存在だ。そもそも、水政策は社会的に中立的な政策ではない。むしろ、これは暑くて乾燥したイサーンの地理的特性を、イサーン人が後進的で劣った反体制派だ(ゆえに、より厳しく統治する必要がある)とするイメージに結び付ける政策なのだ。 タイ東北地方のイサーンには、20の県が存在する。この地方は、タイ最大の地域であり、その約2,200万人の住民は全国の総人口の33%を占める。この地域の人々、コーン・イサーン(khon Isan/イサーン人)は、主にラオ語の話者である。だが、タイ史のどの時代にも、イサーン人は無教養で後進的な人々との烙印を押されてきた。その原因は、民族主義的な社会のヒエラルキー構造にある。また、イサーンはタイで最も貧しい地域であり、1人当たりの国民所得は最低レベルだ。それにイサーンの大地は、砂で覆われ、酸性、不毛を特徴とし、これが農業経営を困難にしている。このため、同地域からバンコクに送られる出稼ぎ労働者は、タイの他の地域よりも多い。 大規模な水インフラは、干ばつに強いという口実でこの地域に売却され、二毛作を促進してきた。これらの政策は、100年近くの間、イサーンにおける政府の重要政策となっている。東北地方の政治家は、しばしば、このような政策がコーン・イサーンに水を供給し、生活と収入を向上させると言っている。だが大抵、中央政府と全国の政治家は、水政策を貧困からコーン・イサーンを「救う」手段であり、イサーン政治を支配する方法と位置付けている。とはいえ、後述するように、コーン・イサーンは受け身のアクターではない。むしろ、彼らは常に水管理をめぐって政府と闘ってきたし、そのような闘いを通じて、しばしば、自分たちの従属性に異議を申し立ててきた。この地域の水にまつわる歴史を分析する事で、どのように水政策が、コーン・イサーンを後進的とするイメージを生み出しているかが分かる。さらには、この分析によって、水政策がコーン・イサーンの新たな政治的実践を生み出す場となった事も明らかになるだろう。   水とイサーン支配 過去70年のうちに、イサーン地方は森林地帯から水田地帯へと、急速な環境の変化を経験してきた。また、これとほぼ同時期に、中央政府は様々な種類と規模の灌漑事業、6,000件以上に出資してきた。これらの事業は、この地域の約120万ヘクタールの土地に水を供給するために計画されたものだ。これらの事業では、同地域を乾燥した不毛の土地であり、これを開発し、住み良くするには、インフラが必要だとされている。 だが、これらの地理的特性にも、政策が関係している。というのも、タイで共産主義の反乱が起きた時代に、イサーンは、その地理条件や貧困、そしてラオスやカンボジアに国境を接する立地から、特に共産主義の影響を受けやすい地域と認識されていたのだ。これらの不安材料の重なりは、一連の政治的で開発主義的な傾向のある国家主導型の開発事業を開始させる動機を政府に与えた。そのようなわけで、米国の支援もあり、イサーンが経済・インフラ開発の優先対象とされた事で、近隣諸国の「共産主義の脅威」を抑制する緩衝地帯が生じる事が望まれていた。 1958年にサリット・タナラット(Sarit Dhanarajata)陸軍元帥がタイの主導権を握ると、彼はイサーンにおける幾つかの事業に着手した。この地域の出身者であるサリットは、米国から資金援助を受け、5年間の開発計画(1961年に発表)を推進した。この計画の一部であった緊急農村開発計画(Accelerated Rural Development Programs)は、県知事の管掌の下で反乱対策を講じ、経済改革を促進させる一つの手段であった。 当時、政府はコーン・イサーンの生業として、大規模な工業型農業を奨励していた。これに伴い、イサーン農民は、コメの生産高を上げるため、「緑の改革(Green Revolution)」の一環として導入されたハイブリッド種や、化学肥料、殺虫剤の使用を勧められた。このように、農業が変わってゆく状況の中で、新たな農法はコメの生産高向上に役立ち、農民は需要の増加に応じるべく、新たな土地区画を開墾した。この新たな手法は、土着農法よりも多くの水を必要とするものであった。 現在、イサーンには17基の水力発電ダムがあるが、最新のものは、ウボン・ラチャタニ(Ubon Ratchathani)県のパクムン(Pak Mun)・ダムだ。イサーンにおける農業の重要性を考えると、バンコクで権力を握った全ての政権が、この地域の開発ニーズに対する解決策の第一として、水資源を大いに重視してきたのは当然の事だと言える。だが、たとえ政府が、この地域の経済成長の促進のために巨大ダムの提案をしたのだとしても、これらは、バンコク向けに電力を発電するダムとされたのだ。このようにして、ダム建設はバンコクとイサーンの非対称的な関係性を助長する事になった。それに、コーン・イサーンは、ダムがもたらした結果に苦しみはしたが、これらの事業から、ほとんど何の恩恵も受けなかったのである。 また、論争の的となったパクムン・ダムの状況も、これと似たようなものだった。このダムが1994年に完成した後、多くの急流は水底に沈み、ムン川とその支流からは、150種類以上の魚種が姿を消した。これに対し、パクムン・ダムがもたらす灌漑と電力の恩恵には限りがあった。このため、貧民連合(Assembly of the Poor, 以下AoP)と世界ダム委員会(The World Commission on Dams , WCD)は、この事業を大いに批判した。また、このダムが建設される前には、適切な環境アセスメントが行われていなかった。しかも、商業と自給自足の両方の目的で、小規模な漁業活動を営む地域の村人は、川や河川資源に対するダムの悪影響に比べると、灌漑用水にどのような利点があるのか分からないと述べた。地元住民は漁業収入を失い、多くの者がAoPに代わってデモに参加した。これらの運動には、イサーン各地から人々が集まり、中にはシリントン・ダムなど、過去の事業の影響を受けた人々もいた。このようにして、人々は新たな方法で運動に加わる事となった。これらの運動は「タイ・バーン(Thai Baan)研究」を通じて、新たな知識を生産し、反覇権主義的な政策決定の可能性を提示した。そうする事により、彼らはイサーンの環境政策と政治的アクターの改革を行ったのである。 また同時に、政府は水力発電事業にも着手し、経済発展を促そうとした。この水関連のインフラ計画は、貧困を撲滅し、食糧の安全保障をもたらし、アグリビジネスに水を供給する手段として、具体的レベルで様々に正当化された。また、これらの計画には、重要な政治的意義もあった。というのも、これらは共産主義の反乱と闘い、政治的支援を得るために計画されていたからだ。この地域で最初の水力発電事業は、1971年に完成したラムドムノイ(シリントン・ダムLam Dom Noi/ Sirinthorn Dam)で、このダムの建設により、2,526世帯が強制的に彼らの土地を追われる事となった。その後、不毛な土地に再定住させられた彼らには、なけなしの補償が与えられたばかりである。 […]

Issue 30 Mar. 2021

タイにおける気候変動——知識の政策と支配への影響

気候変動は、社会と環境に対する21世紀最大の世界的危機の一つだ。それに、異常気象現象や動植物の生息地の喪失、作物の不作、それに沿岸部や島しょ部の水没が生じる頻度や規模が増大している事は、査読を受けた出版物が裏付けている。そこで、温室効果ガス排出量の安定化と将来の影響に対するレジリエンスの構築を目指す国連気候変動枠組み条約(United Nations Framework Convention on Climate Change, 以下UNFCCC)に従って、タイは十分な対応を講じるべく、タイ王国バンコク都気候変動マスタープラン2015–2050(Thailand climate change master plan 2015–2050, 以下TCCMP)を策定した。確かに、この対応は、国際政策のレベルでは申し分のないものだ。だが、タイ人にとって気温が2℃上昇し、異常な洪水や干ばつが発生する可能性が15%高まるという事は、具体的に何を意味するのか? タイ語では“karn plien plang sapab puumi aagad”という気候変動には、様々な理解の仕方がある。例えば、科学者のように炭素濃度を計測する代わりに、おそらく農民は、季節的な悪条件による不作を通して気候変動を認識している。これに対して、宗教儀礼によって神々を鎮めるなり、さらに農薬を買うなりする必要も出てくるだろう。また、仏教僧侶の場合は、こころを正す事が悪天候の解消法につながる。つまり、道徳の重要性を回復する事で、これを自然に還元するという事だ。彼らにとっては、気候変動の問題は地域的、個人的に解決する事が可能な問題であり、これを解決するのに、いかなる国際機関に頼る必要もなければ、低炭素政策の策定も関係ないと思われている(Vaddhanaphuti 2020)。だが問題は、これらの宗教的発想に基づく行為が、気候変動問題の削減に有効と言えるのか?という点だ。 本論は、タイにおける気候関連知識と政策決定の展望を主題とし、気候関連知識の歴史的展開を検討し、気候変動に対する認識や対応の様々なあり方を探るものだ。気候変動については、種々の団体が主張する多様な現実がある。ところが、国内外のテクノクラート的な気候管理体制の下で、タイ人の気候関連知識は、温室効果ガス削減ばかりに限られているように思われる。つまり、その他の気候関連の知識形態が軽視されているのだ。そこで、気候政策における気候関連知識の多元性と公正を実現するため、この構造の道徳的、政治的影響を検討して、この分析を締めくくる。だが、誌面に限りもあるため、本論では主に、気候適応のコンテキストに焦点を絞りたい。 タイにおける気候関連知識と気候政策の形成 タイにおける気候変動の問題は、森林の生物多様性や、農作物の生産性に対する物理的、経済的影響を研究する学者たちの間で、1990年代の後半に持ち上がった。この学者たちは“predict-then-adapt(予測後適応)”という研究に携わっていた。この研究では、脆弱性に対する潜在的な社会的、政治的な原因の調査よりも、むしろ精確な予測(prediction)に必要な、気候の将来予測(climate projection)を微調整する事に主眼が置かれていた(Chinvanno and Kersuk 2012)。気候変動の社会面の研究は、特に都市や農村、沿岸などの領域で次第に増加していった(ここを参照)。2011年にタイ研究基金(Thailand Research Fund)は、タイにおける気候関連知識の状況を概観するため、タイ気候変動に関する第一次評価報告書 (Thailand’s First Assessment Report on […]

Patani-Politics- Faces-of the-2019-Election Campaign DuncanMcCargo-KRSEA
Issue 28 Sept. 2020

パッタニ政治…2019年選挙運動の顔ぶれ

2019年3月24日タイの選挙において、パッタニ、ヤラー、ナラティワートから選出された国会議員全員がマレー系ムスリムであったが、これは前代未聞のことだ。この16年間で7千名以上の命を奪った反政府暴動が暗い影を落とすタイ深南部には、この地域独特の政治情勢の機微がある。数十年前、ムスリムが大半を占めるこの地域の国会代表を務めていたのは、主に仏教徒だ。タイ下院のマレー系ムスリム議員たちの置かれた状況は複雑で、当局からは暴力行為と関係しているのでは、という疑惑の目を向けられ、自分たちのコミュニテイーの一部の者達からは、マレー人アイデンティティに対する裏切り者と見なされている。 長年、民主党が第一党である北寄り南部の有権者とは違い、南寄り南部のマレー系ムスリムの有権者はひどく気まぐれだ。この三県の国会議席11席のうち、9席は2019年に真新しい政党が獲得し、前国会議員が獲得したのは、わずか3席だ。民主党は、2011年に11議席中の10席を獲得したが、2019年に確保した選挙区はパッタニ第一区(Pattani District 1)の一つだけだ。この地域で最大の勝者となったのは、新党、プラチャーチャート(Prachachat)で、元下院議長のワン・ムハマド・ヌール・マタ(Wan Muhamad Noor Matha)(アカ・ワン・ノル/aka Wan Nor)が率いるこの党は、三県各県に2議席ずつ、6議席を獲得した。残りの3議席を獲得したのは、新党、国民国家の力党(Palang Pracharat)で、彼らは2014年5月のクーデターで権力を掌握した軍事政権と密接な協力関係にある。パッタニ第二区の小選挙区議席を獲得したのは、実用主義のプームジャイタイ党(Bhumjai Thai Party)で、彼らは2011年にも別のパッタニ議席を獲得していた。選挙区の11議席とは別に、他にも3名のマレー系ムスリムが比例による議席を確保した。プラチャーチャート党の党首、ワン・ノル(Wan Nor)と、プームジャイタイ党のペダウ・トーミーナ(Pechdau Tohmeena)、そして新未来党(Future Forward)のニラマン・スレイマン(Niraman Sulaiman)だ。一体何が起きたのだろうか? ****** ワン・ノルは謎めいた人物だ。彼は深南部から現れた政治家としては飛びぬけて成功した人で、以前は多くの国家の要職に就いていたが、その語り口は穏やかで、無口で、極度の引っ込み思案だ。独身のワン・ノルは、ヤラーの豪邸に一人住まいで、滅多にインタビューには応じず、著者のインタビューには一度も応じていない。ワン・ノルが1986年にデン・トーミーナ(Den Tohmeena)らと共に、ワダー(Wadah/「統一」)という政治派閥を設立したのは、タイ国会でマレー系ムスリムの利益を増進するための組織的な試みであった。ワダーは機会と利益を求め、党から党を渡り歩き、チャワリット・ヨンチャイユット(Chavalit Yongchaiyudh)の新希望党(New Aspiration Party)や、後にはタクシン・シナワットのタイ愛国党(Thai Rak Thai)の庇護の下で成長した。1995年から2005年の歴代政権の下、ワン・ノルはタイ政府にとって、この地域の重鎮であったし、その功績には十分な報酬が与えられた。 ワン・ノルの破滅は、2004年10月25日の恐ろしい夜に生じた。この日、千人以上の非武装のデモ参加者がタクバイ(Tak Bai)で一斉に逮捕され、軍用トラックに乗せられてパッタニ陸軍基地に運ばれた。この移送中に78名の男性が窒息死した。当時、内務大臣を務めていたにもかかわらず、ワン・ノルには人命損失を防ぐ力が無かった。有権者たちはタクシン政権の手荒な公安警察を非難し、ワダーの選挙区の全議員が2005年選挙で議席を失った。プラチャーチャート党は、14年間野党となっていたワダーの再起をかけた最新の試みであった。 だが妙な事に、プラチャーチャートの結党を発案したのはワン・ノルではなく、仏教徒で元警視監のタウィー・ソドソン(Tawee Sodsong)である。タウィーは以前、南部国境県行政センター(the Southern Border Provinces Administrative Centre)長官を務め、当時も地域を変えるための個人的使命を持っていた。ワン・ノルは当初、党首となる事を辞退し、選挙遊説もほとんど欠席していた。著者がパッタニでのプラチャーチャート党大規模決起集会で彼に会った時は、妙にぼんやりした様子だった。 プラチャーチャートは見事に6選挙区を確保したが、ライバル同士の反目によって助けられていた。元民主党員の一部はステープ・トゥアクスパン(Suthep Thuagsuban)の離脱組、タイ行動連盟(Action […]

Issue 28 Sept. 2020

タイ最南部での新たな交渉

2020年1月20日、タイの交渉人とパッタニ・マレー民族革命戦線(BRN/the Barisan Revolusi Nasional)のメンバーが、マレーシアのクアラルンプールで接触し、待ち望まれた和平交渉を開始したと発表した。BRNはムスリムが大多数を占めるマレー語圏のタイ南部で、事実上、全戦闘員を指揮する分離独立運動だ。タイとBRNの関係筋によると、今回の最新の和平イニシアチブは、DPP(the Dewan Pimpinan Parti)の名で知られたBRNの秘密主義的な評議会が、彼らの交渉人が対話のテーブルにつく事を初めて賛意をもって承認したものであった。双方はこの場に臨み、解決困難な紛争の政治的解決策を探るものと見られた。マレー語圏のタイ南部で紛争が再浮上したのは2001年の後半だが、これが公式に認められるようになったのは、2004年1月4日に大勢の武装勢力がナラティワート県の陸軍砲兵大隊本部を急襲し、350点以上もの武器を略奪した後の事だ。それ以前では、1960年代初頭にパッタニ・マレー系住民の民族的・宗教的アイデンティティを顧みないタイの同化政策への反応として、紛争の波が生じた事がある。武力抗争が徐々に下火となったのは、1980年代後半だが、パッタニは史実に基づくマレー人の故郷で、タイ軍とタイ政府当局は外国の占領軍だというナラティブが消える事は無かった。 だが、2020年1月20日は、タイがBRNとの交渉の場に赴き、交渉による紛争解決を公式に発表した最初の日ではなかった。元首相のインラック・シナワトラの政権も、2013年2月28日に、やはりクアラルンプールで、同様のイニシアチブを開始させている。この発表は、主要な利害関係者全員の不意を突いたものだった。その利害関係者にはBRNとタイ軍も含まれていた。BRNは最終的には代表団を交渉の場に送り、元外交長官のムハンマド・アダム・ヌール(Muhammed Adam Nur)と、BRNの青年組織メンバーのアブドゥルカリーム・カリード(Abdulkarim Khalid)がこの代表を務めた。だが、彼らの任務はプロセスの阻止であり、彼らがこれを成し遂げた2013年最終四半期には、インラックが、いわゆるバンコク・シャットダウンの街頭デモをうけ、自身の政治生命をかけて議会を解散する事態となった。このデモが、彼女を失脚させた2014年5月の軍事クーデターに道筋をつけたのだ。たとえ、インラックのイニシアチブが欺瞞と賭けの中間にあったとしても、これは最南部の地元住民を大いに刺激し、期待させた。何と言っても、タイ政府が紛争を政治的に解決する決意を初めて公に示した機会だったのだ。残念な事に、昔から係争が続くこの地域の平和は、この動きの主な動機ではなかった。インラックと元マレーシア首相のナジブ・ラザクが、より関心を寄せていたのは和平イニシアチブによる政治的利益をかき集める事だったのだ。 2014年5月のクーデター後に、インラックが始めた取り組みを続けるかどうかが、何度か真剣に議論された。クーデターの背後に存在するタイ上層部の国家平和秩序評議会(NCPO/The National Council for Peace and Order )は、この会談にも、そもそもの始めからも関与していなかった。だが、軍政は会談の続行を決定し、その条件に、この会談が公平な参画の下で行われる事を挙げた。つまり、BRNやパッタニ統一開放機構(PULO/all Patani United Liberation Organisation)の全派閥、それにパッタニ・イスラム・ムジャヒディン運動(GMIP/ Gerakan Mujahidine Islam Patani)、パッタニ・イスラム解放戦線(BIPP/ Barisan Islam Pembebasan Pattani)など、パッタニ・マレー分離独立主義の全グループが一同に会し、各々の紛争をタイ国家と交渉する必要があるというわけだ。プラユット政権とタイ上層部の人間は、パッタニ・マレー反政府勢力との対話のために「自らを彼らと対等な立場におとしめる」、という考えそのものに苛立ち、公平な参画を要求したのである。会談にけりをつけて、これで最後にしたい、というのが彼らの姿勢だった。クーデターから7カ月後の2014年12月、プラユット・チャンオチャ首相はクアラルンプールへ行って、新たに交渉責任者として指名されたアクサラ・ケルドフォル司令官(Gen. Aksara Kherdphol)を紹介した。彼は、マレーシアの元国家情報部顧問で、和平プロセスのファシリテーターに指名されたダト・スリ・アフマッド・ザムザミン・ビン・ハシム(Dato Sri Ahmad […]

Sheep (2017-2018) by Samak Kosem
Issue 28 Sept. 2020

南部国境におけるアートと人間以外の存在、あるいはクィアのナラティブの人類学

2017年の初頭に、私は「クィアのムスリム」のあり方に関するプロジェクトで、自分の新たなパッタニでの境界研究として、視覚民族誌(visual ethnography)に取り組むようになった。自分が6年間宗教を学んだイスラーム学校の、子供時代の同性愛者の姿の思い出について、「ポンドック(Pondok/イスラーム寄宿塾)のポンダン(Pondan/トランスジェンダー)」(Samak 2017a)という内省的な記事を書いて以来、これらの経験は、今でも私に疑問を抱かせ続けている。このように反同性愛の気風が極めて濃厚な場所で、このような事態が生じたのはなぜなのだろう? これと同じ年に、タイ「深南部」三県の内外の学者や活動家の間で大きな議論があり、同性愛をどのように公の場での議論とするか、クィアの人々やアイデンティティを、コミュニティの中でどのように可視化するかが論じられた(see Anticha 2017)。当時、イスラーム教徒のクィアの存在を口にする事は極めてデリケートな話題となった。ある日、イスラーム・カレッジ(Islamic college)の私の元学生から、パッタニで迷子の羊を見た事はあるか?と尋ねられた。私はなぜ、これまで一度も、自分たちの間で暮らす羊たちに気が付かなかったのか不思議に感じた。突然、あの疑問が再び生じてきた。なぜ、これほど多くの羊がここにいるのか、迷子の犬のように歩き回る羊が、あれほど汚れて見えたのはなぜなのか? 人間以外の主体 ハラウェイ(Haraway)(1991)を読めば、社会的主体や、日常生活における人間と人間以外の存在のハイブリディティに関する我々の思い込みを揺るがす、人間以外の主体というものが理解できる。タイ深南部のムスリム社会の、社会的、文化的背景を理解するのに、ポストヒューマニズムのオブジェクト志向存在論(object-oriented ontology)の枠組みを利用するという手段がある(Ming 2019)。自分のプロジェクトを練り直し、ムスリム社会のクィアのあり方を調査する上で、我々、人間と同じ環境に暮らす存在として、社会、文化生活を物語る社会的主体の一つである人間以外の主体にも目を向けてみる事にした。 羊たちの様子を3カ月間追った後、彼らが迷子ではなく、モスクの隣の共有の囲いの中で、コミュニティの人々が所有する他の羊や動物たちと共に暮らしている事に気が付いた。GPSを使って羊たちが近所で歩き回った地点に印を付けた。これは人類学者が村人の代表について行き、村の状況を把握するやり方と似ている。私の場合、羊たちは彼らが普段行く場所の全てに私を連れて行った。その中には墓地や、イスラーム教の学校、モスク、市場、商店や軍の検問所などがあった。羊の所有者によると、羊たちは自分たちがどこへ行けて、どこを渡れないのかを知っていると言う。つまり、動物たちには動物たちの場所感覚があり、時には、路傍のタイ人仏教徒やムラユ人(Melayu)ムスリムの居場所を見て、彼らの境界を察知する事もできるのだ。 羊たちは動物であり、人間以外の存在だが、後に、他にも考察するべき人間以外の主体の存在に気が付いた。喫茶店で夜を過ごすうちに、人々がしきりにジン(djinn/元々はアラビア語で、神によって創られた超自然的存在を指す言葉。彼らは人間界とはパラレルな世界に住むが、目には見えない。現地の人々は時々、これをピー“pi”と呼ぶが、これはタイ語で精霊を意味する)の物語を話している事に気が付いたのだ。 ファーマン(Fuhrmann)の “Ghostly Desire” (2016)を読んだ事で、クィアという個性について考えてみる気になり、これをイスラーム教信仰のジンと比較して、目に見えないクィアの人々とジンを比べてみた。鮮やかなほど対照的に、地元の人々が好んで語る話題があれば、他方の話題は全く論じられない。 私が三つ目に注目した人間以外の主体は「波」だ。私は南部の浜辺が地元の人々や、そこで食べ物を売って生活する多くのムスリム女性にとって、一種の「安全地帯」である事に気が付いた。私は浜辺でプラスチックごみを集め、自分の作品の中で「波」を表現した。これらの物体は、私にその場で営まれた暮らしの痕跡を語り聞かせる語り手にもなり、私にとっての波は、ジェンダーと生活の象徴となった。数名の美術学生に付いて、隣のソンクラー県テーパー(Thepha)村を訪ねた際、我々はタイ語とマレー語の両方で、地元の人々が様々な波の種類を表現するのに使う、それぞれの言葉を学び、それがいかに村人たちの暮らしの一部である環境とのかかわり方や、日々の自然とのかかわり方を表しているかを学んだ。だが、これらの村落は、新たな発電所の建設のため、政府から移転を命じられており、多くの人々がデモをしにバンコクへ行った。私はドキュメンタリー映画を作って、この状況と南部の波の持つ意味の両方を、アートという形で記録して伝える事にした。 実践としてのアートと人類学 アートは人類学者が物質文化に取り組むための題材であるだけでなく、変化のための能動的な基盤でもある。その変化とは、アートの概念の変化と、文化的意識に結びつく社会参画的なアートを定義する議論の変化だ(Morphy and Perkins 2006)。私のビデオ作品「羊(Sheep)」(2017-2018)は、ヒエラルキーと宗教的暴力を暗示した作品で、深南部の文化におけるムスリム社会のもう一つの顔を描き、人間がいかに人間以外の存在と人間目線で接しているかを示すとともに、タイ国家の中の深南部の人々と暴力の隠喩にもなっている(Thanavi 2018)。犠牲祭に捧げられない「穢れた羊」の通念を作り上げる事は、国家が深南部の人々の定義を試みる手法と何一つ変わらないのだ(Samak 2017b)。 この「人間以外の存在の民族誌(nonhuman ethnography)」プロジェクト(2017-2020)では、人類学と写真という芸術実践の横断的な作品として、学術研究の知識と方法論を現代アートと組み合わせた「フィールドノート」を作成した。フィールドノートは2018年の第一回バンコク・アート・ビエンナーレ(BAB/ Bangkok Art Biennale)で、学芸員のパトリック・D・フローレス(Patrick D. Flores)と「翻訳不可能性(untranslatability)」を論じた後に展示された。私は元々タイ語で書かれていた自分のノートを、ジャウィ文字を使ってムラユ語に翻訳する事に決めた。この私なりのやり方で、観客との対話を開始させ、ナラティブや知識が、いかに我々の理解にとって負担や限界となるかを示そうとした。また、無知や我々の文化的相違の複雑な感じも出したかった。たとえ同じ国の住民であっても、現地のムラユ語とジャウィ文字は、地域外から来る「普通の」タイ人にとっては、今も乗り越えられない溝なのだ。理解するための唯一の手段は、写真や映像の使用だ。この作品は、何とかしてこの関係の隔たりを伝え、タイ人観客にこれらの暮らしがいかに顧みられてこなかったかを示そうするものだ。 例えば、「波(waves)」プロジェクトでは、波が意味するものについて論じた。波は通常、声を意味するが、それは誰も聞きたがらないような雑音にも、ムラユ人ムスリムの地元の人々の声にもなる。「薄いベール(A Thin Veil)」(2018)は無言のビデオ作品で、人間以外の存在が「波」の環境や社会、文化、人々とのかかわりの物語を語る。このドキュメンタリーの無音の波は、ほとんど顧みられる事の無いマラユ文化の社会生活の波の隠喩である。テーパー村の人々は、国家を相手に石炭火力発電所による沖合の波の汚染を防止しようと闘っている。波が原理主義者をめぐる状況を指す事もある。南部では、人々が「ニュー・ウェーブ」について語れば、イスラーム教原理主義者の話をしているのだ(Willis […]

Issue 28 Sept. 2020

開始時点で失敗した最後の事例?タイ南部のMARAイニシアチブ(2015-2019)

本論で提示する議論は、武装勢力代表とタイ国家の2015年から2019年にかけての和平交渉が、いくつかの点で異なるにせよ、南部各県のそれ以前の和平交渉の試み(2006-2014)と同じ欠点のために難航したというものだ。2004年に紛争が始まって以来、南部の確かな和平プロセスの構築において、MARAイニシアチブが出だしの失敗を伴った最後の事例である事も論じよう。 2014年の軍事クーデターは、タイに独裁的統治という新時代の到来を告げた。 2019年選挙では、新未来党(The Future Forward Party)という、軍部優位に対する新たな反対拠点の台頭も見られたが、その後、同党は活動を禁止されている。概して2014年以降、タイは軍部優位を維持する、あるいは、国家運営における陸軍の役割を拡大させる方向にすら向かっている様子だ。2014年以来、南部各県での暴力事件の発生率は着実に減少しつつあり、死者数や暴力事件数は、年々低下し続けている。古参の学者も若い学者も、アナリストたちは、この減少について幾らか説明を試みているが、概して、納得のいく完璧な説明はまだ出て来ていない。その理由については、また別の文献で概要を述べる。2013年には南部紛争で574名の死者が観測されたが、2019年に同紛争で生じた死者は174名だ。 2015年から2019年にかけて、タイ国家が数多くの会談を行ったMARA(Majlis Syura Patani)は、かつての紛争(1960-1990)のメンバーが高齢化した元武装勢力の連合体で、その会談には現地で活動する武装勢力を統制する効果がほとんど、あるいは全く無い事が広く知られている。現地で活動する武装勢力は(現)パッタニ・マレー民族革命戦線(BRN/Barisan Revolusi Nasional)によって召集され、洗脳され、訓練された者達である。BRNは急進的な分離独立主義組織で、2000年代初期から残忍な暴力的作戦を実行している。 現BRNは事実上、ヤラー旧市場地区の組織として、1990年代半ばに始まった。 結局、MARAは数々の失敗したイニシアチブの最新事例となった。この失敗事例の第一番はランカウイ会談だ。2005年後半から2006年初頭にかけ、タイ官僚と以前の紛争の武装勢力のメンバーとの会談が、マレーシアの物議を醸すマハティール・モハマド首相によって召集され、ランカウイ島で開かれた。以前の紛争の武装勢力が出した提案は無難なものだったが、当時のタクシン政権は反政府街頭デモに気を取られ、これに取り合わなかった。タクシンを失脚させた2006年クーデターの3日前、武装勢力はハジャイ(Hat Yai)にある多数のデパートを爆破して、和平イニシアチブに対する反意を表明したが、これは同じ日に和平集会が予定されていた場所だった。 2008年にはインドネシアのボゴールで、ソムチャーイ政権の代表と、様々な武装勢力グループの代表の間で秘密裏の会談が開かれた。だが、この会談は間もなくタイ軍部の有力者による激しい批判を受け、断念された。2010年には、イスラム協力機構(OIC/the Organisation for Islamic Cooperation)が南部のムスリムに自分たち自身の政治運動を組織するよう提案し、分離独立派とタイ国家との会談を設ける手助けを申し出た。この提案を批判し、拒否したのは、アピシット政権とタイ軍で、彼らはタイの政治と保安の両機構が内政問題と見なす事柄に、部外者が関与する事を一切許さなかったのだ。 ヨーロッパのNGOの調停により、2006年から2011年にかけて、国家安全保障会議(NSC/the National Security Council)と武装勢力との間で断続的な会談が行われた。これらは「ジュネーブ・プロセス(‘Geneva process’)」と呼ばれるもので、会談はタイ貢献党(Pheu Thai)政権が権力を握る2011年まで続いた。結局、これらの会談には成果がない事が判明した。武装勢力代表団のスポークスマンで、現地戦闘員の70%以上を指揮すると豪語したカストゥリ・マフコタ(Kasturi Mahkota)は、2010年の夏にナラティワートの3地区の停戦合意を取りつけた。この停戦合意の発表後も攻撃は続き、間もなく、カストゥリが自身の影響力の度合いを完全に誇張していた事が明らかとなった。 同様の「停戦」は、2008年7月にも軍部から発表されている。 2013年2月、クアラルンプールで「和平対話プロセスに関する合意書(General Consensus on Peace Dialogue Process)」が、BRN下級メンバーのハサン・タイブ(Hassan Taib)とタイ国軍代表のパラドン・パッタナターブット(Paradorn Pattanatabut)中将によって署名された。これに続く半年間には、クアラルンプールで数多くの会合が開かれた。このクアラルンプール会談は、以前のイニシアチブとは幾らか異なり、タイ首相の支持の下、公共の場で開催されたし、BRNもこのプロセスの期間中は絶えずYouTubeを通じて、数々の公式声明を発表していた。これらの会談は、2013年のラマダーン中に両者の間で停戦の試みが失敗した後に決裂した。 […]

Civil Society Southern Thailand
Issue 28 Sept. 2020

タイ深南部の市民社会と弱い国家

理想を言えば、政府の役割は国民に福利をもたらす事、すなわち、規範を作り、国民を紛争から守り、法と秩序をもたらす事であるはずだ。 そうでないなら、政府と国民の間には武力衝突が生じる可能性がある。理論上、市民社会は国家の枠外に存在するが、これを良い統治と切り離して考える事は難しい。だが、政府が国内紛争への対応に失敗し、政治財を国民に供給する事ができなければ、最終的には弱い国家となる。タイの場合がこれに当たる。 2004年1月4日以来、タイ深南部は社会不安に直面してきた。市民社会団体は、南部国境県の住民の生命や財産を保護する力の無い政府に対処するように、着実に成長してきた。タイ政府は秘密裏の行動をしている。政府は「情報作戦」(IO/Information Operations)という軍事戦略を用い、この地域の人々が互いに監視し合うように仕向けた。 架空のFacebookページを通じて行われるIOは、コンテンツの拡散と、反政府ネットワークであるパッタニ・マレー民族革命戦線(Barisan Revolusi Nasional Melayu Patani)、BRNコーディネート(BRN-Coordinate)に対する憎悪の扇動を中心としている。架空ページは、BRNコーディネートを支援する個人や組織(学者やNGOなど)の割り出しにも利用される。タイ王国国内治安維持部隊(Internal Security Operations Command)は、IOが10年以上にわたる軍事行動の一環である事を認めた。これはより多くの問題を市民社会にもたらし、国民がこの地域の和平プロセスに関与する事を一層困難にしている。 コロナウイルス感染症まん延の渦中は、タイ政府とBRNが敵対するタイ深南部の和平構築の絶好の機会があった。2020年4月3日にBRNコーディネートは、医療援助が必要な人々を救助する余地を設けるため、武力衝突を終結させるという声明を発表したが、この唯一の条件は、タイ政府が軍事活動を再開させない事であった。 …「今回、BRNは人道的理由により、全ての活動を停止させる。理由は、全人類の大きな敵がコロナウイルス感染症であると気が付いた事だ」BRN中央事務局(BRN’s Central Secretariat)のものとされる声明は、そのように伝えた。 南部国境県の平和を目指す仏教徒ネットワーク(the Buddhist Network for Peace in the Southern Border Province)の代表で、タイ最南部市民社会協議会(the Civil Society Council of Southernmost Thailand)の元副議長でもあるルクチャット・スワン(Rukchat Suwan)氏は、4月5日、個人のフェイスブックに「タイ政府関係者が攻撃を仕掛けていない限り」、誰もが参加することを喜んでいるためタイ政府はこの声明を無視してはならないとのコメントを投稿した。2004年にタイ南部各県で武力衝突が発生して以来、「南部国境県の平和を目指す仏教徒ネットワーク」は、南部国境の県に住む仏教徒で結成された。南部国境の3県で平和的に共存する方法の理解を深め、問題解決のための方法としての暴力を拒否するために、平和を目指し、すべての仏教徒のための援助を行っています。 権威主義的な国家の姿は、2020年4月30日のパッタニ県ノーンチック群(Nong Chik […]

Isan Redshirts Indentity KRSEA
Issue 27 Mar. 2020

イサーンにおけるアイデンティティと2019年選挙、その他における赤シャツの再来

不気味なほど重苦しい2019年選挙の雰囲気は、タイの民主主義への道のりが、今なお軍事政権に支援された支配層エリートという、代わり映えしない門番に阻まれている事の隠しきれない兆だった。野党第一党のタイ貢献党(The Pheu Thai Party)は議会の過半数を獲得したが、政権樹立には至らなかった。これらの選挙結果は(イサーンとも呼ばれる)東北地方の有権者たちにとって何を意味しているのか?軍事政権の指導者、プラユット・チャンオーチャー将軍(General Prayuth Chan-ocha)が権力の座に居座るつもりだという明確なメッセージは、長年、イサーンで政治的不満の表れであった強力な赤シャツ運動を復活させる事となるのだろうか?本論では後者の疑問について、この政治運動に携わる一般活動家の視点からの回答を試みる。赤シャツ派のアイデンティティと、イサーンにおけるより一般的な政治的アイデンティティが、2019年になって一層複雑化している事、しかし、これが民族的な政治運動には発展していない事を論じる。 タイの政治情勢における赤シャツ派の歴史 政治的対立は2006年のクーデターをもたらし、渦中のタクシン・チナワット(Thaksin Shinawatra)首相を失脚させて国を二分化した。一方の黄シャツ運動(以前は民主市民連合、PAD/the People’s Alliance for Democracyと呼ばれていた)は、タクシンとその政治的協力者に激しい反感を抱き、その理由として汚職や縁故主義、権力乱用、反王政主義を挙げた。黄シャツ派の大半は中産階級の都市住民で、汚職政治家に対する嫌悪を公然と口にし、「タイらしさ」と関連した保守的価値観を支持していた。2005年から2006年にかけ、彼らは一連の抗議活動を行ってタクシン失脚を目論んだが、これが奏功して2006年のクーデターが実現した。対する赤シャツ運動(以前は反独裁民主同盟、UDD/ the United Front for Democracy Against Dictatorshipと呼ばれた)は、2007年頃にクーデターと黄シャツ運動に対抗して形成された。赤シャツ派デモ参加者の社会経済的背景は様々であったが、大多数は北部各県や貧困に苦しむ東北(イサーンとも呼ばれる)地方の出身者であった(Naruemon and McCargo 2011)。 2014年には、プラユット・チャンオーチャー将軍率いる軍事政権がタクシンの妹のインラック・チナワット(Yingluck Shinawatra)前首相と縁のある政権を排除した。タイの「色分けされた」街頭運動が、再び政治の中心に登場する事となった。このクーデターは元黄シャツ派デモの参加者やエリート支持者、反チナワット組織の同盟である民主主義改革協議会(the People’s Democratic Reform Committee /PDRC)の街頭デモに乗じ、赤シャツ派による対抗デモを口実に起こされた。ところが、PDRCの指導者たちが2014年のクーデター後に軍部の制裁対象とならなかった一方で、赤シャツ派は国中で厳しい取り締まりを受けた(Saowanee and McCargo 2019)。軍政の暴力的で抑圧的な手段のため、赤シャツ運動は実質上、無力化されてしまった。クーデター直後の抗議デモは小規模で散発的であり、そのほとんどが大学生や学者、あるいは自分は赤でも黄でもないという者達によって組織されていた。 クーデターから数年後、ようやく赤シャツ派は再び姿を現し、全国各地の様々な政治イベントに参加してその支持を表明するようになった。2016年7月24日にクーデター後最大の集会が憲法草案を検討するためにタマサート(Thammasat)大学で実施されると、大勢の赤シャツ派が集い、これ見よがしと赤い服装や装備一式を身に着けた。赤シャツ派は国民投票の監視など、個別の活動を実施しようと試みるが、これらが許可されることはなかった(Saowanee and […]

Ubon Thani Northeast Thailand KRSEA
Issue 27 Mar. 2020

排除の中での統合、イサーン人のタイ国民のアイデンティティ

タイ東北地方でラーオ語を話す人々はイサーン人と呼ばれ、長い間、差別され、タイ中央平原やバンコクに生じた発展の恩恵から排除されてきた。事実、政府の政策は何十年もの間、「地方を征服された属州のように枯渇させ」る事で、資本家階級に資本を提供し、都市部の労働力を支援してきたのだ。さらに、教育や国の官僚制度における厳しい言語要件がイサーン出身者を不利な立場に置いている。経済面では、イサーン地方は国のその他の地域より立ち遅れ、貧困発生率は高く、インフォーマル・セクターに従事する者も多い。政治面においても、イサーンは甚だしく排除され、イサーン出身者で行政の高い地位に就く者はごくわずかしかない。1940年代に、このような地位に就いた者の中には、タイ国家によって殺害された者もあった。そうした時期から今日まで、イサーン人とされる人々で政治的汚名を得た者は、イサーン人が人口のほぼ30%を占めている事を思えば、相対的に少ない。 このような排除のもとでなら、民族的な動員が生じてもおかしくはない。事実、何らかの地域的動員は効果的なものとなるだろう。著者が独自に行った言語が政治に及ぼす影響の研究では、政治家が中部タイ語ではなくファーサ・イサーン(Phasa Isan)というラーオ語の現地語を話すなら、イサーン人からの得票率を17%も増加させることになることが明らかになっている。 さらに、サオワニー・アレクサンダ―(Saowanee Alexander)とダンカン・マッカ―ゴ(Duncan McCargo)は、地域的アイデンティティがある程度は、言語の違いに基づいて発達、強化され続けていることを見いだしている。つまり、民族的動員の可能性は存在するのだ。 それにもかかわらず、民族的な動員は広い範囲で定着するには至っていない。例えば、タイ貢献党と赤シャツ運動は、いずれも同地方で強く支持されてきたが、どちらの組織も自らを「イサーン」として売り込んではいない。両組織の指導部は、その他の地方出身のタイ人が主流を占めている。赤シャツ派の有名な指導者であるジャトゥポルン・プロンパン(Jatuporn Prompan)や、ナッタウット・サイクア(Nattawut Saikua)、ウェーラカーン・ムシガポン(は南部の出身だし、タイ貢献党の2019年選挙の名だたる者達は誰しも、タイ中央部やバンコクが本拠地であった。長年、党指導部を務めるチナワット一門はチェンマイが故郷だとしている一方、自分たちが中国系でバンコクに拠点がある事を、はばかりなく強調している。タイ政治では、エスニシティは政策や階級、人格的アピールの二の次となるのだ。 イサーン人の動員に高まりが見られないのはなぜなのか?この答えの大部分は、イサーン人のタイ国民のアイデンティティへの統合が成功したことに見出せよう。民族的・宗教的アイデンティティは、何らかの政治活動の動機になるものであっても、より大きなアイデンティティに包摂され、個人や集団を政治目的のために動員する力を打ち消すこともあるのだ。近年の研究によると、ナショナリズム感情は民族の違いを乗り越え、異なる民族の人々に、民族集団の利益より国の結束を重視するよう促す事ができる。したがって、国民アイデンティティは国家にとって困難な社会的亀裂を埋める上で、極めて有用なものとなり得るのだ。 タイ国家は、少なくともイサーン人に関する限り、100年以上にわたって統合的な民族政策をとることで、イサーンのラーオ族をより大きなタイ人アイデンティティに組み込もうとしてきた。これらの政策は、チュラーロンコーン王(King Chulalongkorn/1868-1910)の中央集権化改革の下で始められ、1932年の絶対王政崩壊後も続き、教育政策に最も明確な形をとって表れた。その教育が最も重視していたのが、タイ全土で中部タイ語の使用を標準化することであり、この言語をタイ人のアイデンティティの柱とすることであった。チャールズ・キーズ(Charles Keys)によると、多くのイサーン人が市場経済への統合という目的のため、中部タイ語とタイ人アイデンティティを受容し、タイ人と称する事から生じるプラスの恩恵を享受した。 そこで問題となるのは、イサーン人が直面する不利益や排除が続く中で、これらの統合に向けた取り組みによって、実際にはどの程度、イサーン人がタイ人として受け入れられてきたのかということだ。この問題を調査するにあたり、調査データと併せ、自身をイサーン人と認めた様々な人々への綿密なインタビューを用いた。この調査結果に関するより詳細な考察は、他所で入手する事が可能だが、ここではその成果をいくつか要約しておく。 まず、4つの異なる全国調査の調査データは、イサーン人がタイ国民のアイデンティティを受容したとする主張を裏付けている。アジアン・バロメーター(the Asian Barometer/AB)と世界価値観調査(World Values Survey/WVS)は、いずれもタイで複数回の調査を実施しており、これらの調査には国民アイデンティティ感情や、回答者の母国語の特定に関する質問が含まれていた。これによって、タイにおける民族間の回答を比較し、統合の取り組みがイサーン人に「タイ人である事」を上手く納得させられているかどうかを調べる事ができる。国家政策に効果が無いのであれば、イサーン人の回答が、中部タイ語話者全般の回答に比べてナショナリスティックではない事に気が付くはずだ。反対に、これらの政策が有効であれば、イサーン人がその同国人と似たような値の回答をするのが見られるだろう。 ここに提示されたグラフ(図表2)から、「タイ人である事をどのくらい誇りに思いますか?」という質問に対する、タイの4つの主要言語集団間の回答の平均値の差が明らかになる。これらの集団には、母国語が中部タイ語の話者、北部タイのイサーン語、およびカム・ムアン語の話者、そして南部タイのパクタイ語の話者が含まれる。 中部タイ語の話者集団の平均値が基準値となり、ここではゼロで表記されている。ゼロ以上の値は、集団の平均的な回答が、中部タイ語の話者集団の平均値を上回ることを示し、ゼロ以下の値は集団の平均的な回答がこれを下回ることを示す。細い区切り付きの線は95%信頼区間で、これがゼロのラインにかかっている場合は、問題となる集団と中部タイ語の話者集団の回答に差があると断言することはできない。 結果から、イサーン語話者の回答者集団が、タイ人である事を誇りに思う気持ちにおいて、中部タイ語話者の集団よりも一貫して高い値を記していることが 明らかになった。事実、これらの差は全4回の調査を通じて統計学的に有意であった。また、イサーン語話者の国民アイデンティティ感情は、全調査を通じてパクタイ語話者よりも高い値であった。だが、イサーン語とカム・ムアン語の話者間の差には、それ程一貫性が無かった。つまり、調査結果が示しているのは、イサーン人のタイ国民アイデンティティの受容度が、中部タイ語話者と比べると高い、あるいは少なくとも、北部や南部タイに見られる集団と同等程度であるという事だ。 同様の調査を「自分がタイ国民の一員だと思う」という表現で、同意を表す値を記した回答者に繰り返したところ、やはりイサーン人が中部タイ語話者よりも肯定的な値を記すのが見られた(図表3)。この差は世界価値観調査の二回の調査においても、やはり明確かつ重大であった。カム・ムアン語とパクタイ語の話者の結果には、それほど一貫性が無かった。これらの結果は、タイ国家の統合に向けた取り組みが、タイ東北部出身のイサーン人に、彼らがタイ人である事を見事に納得させた事を示す、さらなる証拠となる。事実、イサーン人は一般的に、国民アイデンティティに関する質問に対して、全国的にその他の集団よりも肯定的な回答をしている。 イサーン人がタイ国民のアイデンティティをどの程度共有しているのかを、より良く理解するため、著者はイサーン語を話す様々な職業・地位の人々に、一連の半構造化インタビューを行った。回答者たちは皆、タイ国民のアイデンティティについて誇らしげに語り、「タイ人である事」を強調した。これを最も端的に表しているのが、自分のタイ人とイサーン人のアイデンティティを比べるように言われた、ある回答者の言葉だ。 イサーン人がタイ人だという事を説明しておく必要がありますね。その間の区別など存在しないのです。我々がイサーン人である事を誇りに思うということは、タイ人であることも誇りに思っているという事なのです。なぜなら、イサーン人はタイ人なのですから。 イサーンのラーオ族は、一世紀以上に及ぶ統合政策によってタイ人となった。彼らは地域的アイデンティティを保ちながらも、タイ国民に自然に溶け込んでいると感じており、自分たちのタイ人アイデンティティに誇りを持っているのだ。 イサーン人のアイデンティティに基づく動員の可能性について、さらに質問を続けたところ、大半の回答者の考えは、特にイサーン語を話す事によって民族的・宗教的アイデンティティを動員すれば、少なくとも地元では政治戦略として成功するだろうというものだった。だが、国家レベルにおいては多くの者達が、政治家がイサーン語を話すことに反対していた。ある者はこう言った。「それは違う(不適切)でしょう。そんなことがあってはなりません。世間にはイサーン語を聞きたくない人もいるのですから」。 また別の者はこのように述べた。「私は良いと思いますが、まずい事もあります。その人がイサーン贔屓だと思われるといけませんから」。 さらに別の者はこう言った。「国全体で政治家を承認する必要があるのですから、彼らがイサーン代表であるかのように話すと問題になるでしょう」。 これらの回答が浮き彫りにしたのは、民族的・宗教的主張よりも国家の統合を重視する方が大切だという回答者の信念であり、そこではイサーン人のアイデンティティは、より大きなタイ人である事の中に包摂されているのだった。 強力なタイ・ナショナリズム感情はこのように、イサーンにおける民族的・宗教的動員のための圧力を軽減する役に立ってきた。今後もイサーン人が経済と政治の両面において不利益を被る場合にも、それらがアイデンティティのさらなる強化を促すような、地域運動や民族政党の発生につながることはなく、また特にパラノイア的軍部が繰り返し政治に介入し、国家が認めた国民アイデンティティを積極的に強化しようとしていることを考えれば、近々、そのような動員が起こる可能性はなさそうだ。 Jacob I. Ricks […]

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Issue 27 Mar. 2020

イスラーム教とヤーウィ語 ―タイ深南部におけるマレー系アイデンティティの表現と推進のための領域

ファンク(Funk)(2013, p.15)によると、「アイデンティティとは、自己、あるいは集団、それ自身のあり方にまつわる概念だ」。アイデンティティはタイ深南部(パッタニ(Pattani)、ヤラー(Yala)、ナラティワート(Narathiwat)とソンクラー(Songkhla)の一部)において、タイ政府とマレー系武装勢力との長引く紛争の核心に横たわる。これは主要民族のタイ人とマイノリティであるマレー系住民との関係性も形成している。中央政府は長い間、主要民族であるタイ人の国民アイデンティティを推進し、タイ人の典型的な特質として、タイ人のエスニシティやタイ語、タイの歴史や仏教などを強調し、国民統合と強力な国造りを目指してきた(Abuza, 2009; Aphornsuvan, 2006; Chalk, 2008; McCargo, 2008, 2009; Melvin, 2007; NRC, 2006; Pitsuwan, 1982; Storey, 2007, 2008; Yusuf, 2006)。ところが、このようなタイ人的特質の強調は、非タイ人マイノリティ、とりわけタイ南部のマレー系マイノリティの周辺化をもたらした(Kelman, 2004)。この関係性の負の性質が、分離主義を目標としたマレー系武装勢力の活動を育んだと言う事もできる。 本論で焦点を当てるマレー系アイデンティティの肯定的な側面は、日常生活における宗教や文化の領域で実用的な役割を果たすもので、政治的独立を求める闘争とは距離を置いている。事実、この実用的な役割は、現在の政治情勢の中でマレー系アイデンティティの表現と推進を可能とする安全空間を代表するものだ。深南部におけるアイデンティティ表現のための二つの現代的な領域について論じる。それらは青少年活動、とりわけ、アイデンティティ推進に増々重要な役割を担うようになったオンライン空間での活動と、伝統的なタディカー(Tadika)というイスラーム教就学前教育施設である。 マレー系アイデンティティの表現と推進 マレー系アイデンティティの要となる構成要素は、主要民族タイ人のアイデンティティが、タイ民族の国家や仏教、王室を中心に形成されたのとは異なる(McCargo, 2012)。近年の実地調査から気付いた事は、マレー系住民が彼らのアイデンティティを定義する際に大抵、宗教と言語の二つの要素を根拠にしている事だ。まず、マレー系の情報提供者は、自分たちのアイデンティティの主な要素としてイスラーム教を挙げる事が最も一般的だ。イスラーム教の装いや身なりは特に強調される。これは深南部のマレー系住民の大半が、スンニ派イスラーム教徒である事を考えれば当然の事だ。 情報提供者の一人で、地元ジャーナリストのムハンマド(Muhammad)が言うように、他の二つの紛争要件である「土地とマレー人のエスニシティ」に比べれば、「宗教は紛争要件として最も脅威が少なく、国家から最も容認されている」。 事実、「エスニシティ」に対する明確な言及は、どの情報提供者の自己定義にも欠けていた。むしろ彼らは、現地語であるヤーウィ語が深南部のマレー系である事を示す重要な指標だと繰り返し述べた。 マレー系の人々が自らのアイデンティティを隠そうとする度合いは、国レベルでプラユット・チャンオーチャー将軍率いる軍部に支配された政権が続き、深南部では政策に対する軍部の統帥権と支配が続くにも関わらず、この数年の間に驚くほど低下した。だが、マレー系のアイデンティティが軍事政権下で興隆したからといって、驚くような事だろうか?第一、宗教の自由は最新の憲法で保証されており、その憲法の策定にはプラユットが力を貸したのである。第二に、プラユット将軍は「文化的多元主義」を宣言し、これを深南部での紛争解決の政策ガイドラインとしている(NSC, 2016)。この宗教の自由が改善された状況を称え、情報提供者の一人は「国家がさらなる空間を開放する(なら)」地域の人々は自分たちのマレー系アイデンティティを「自由に表現する」事ができると言った。 ヤーウィ語の使用とイスラーム教の服装は「もはや政府によって禁じられていない」どころか、一層推進され、「この4、5年のうちに、マレー系アイデンティティを特色付け、より強化する」事となった。 青少年活動は、このアイデンティティ空間の開放に特に良く反応し、イスラーム教とヤーウィ語の実践を推進する重要な機構となりつつある。マレー系の青少年(15歳から30歳)は、増々自分たちのアイデンティティを意識し、これを守る上で積極的な役割を果たすようになった。青少年団体はオンラインの文化的キャンペーンに携わり、何百人もの人々を動員し、彼らに特別な機会や宗教的祭事、例えばハリ・ラヤ(Hari Raya)祭という、アラビア語で「イード(Eid)」とも呼ばれるラマダーン明けの祭事などで、イスラーム教的な服を着用させた。 青少年の活動家たちは、ヤーウィ語のレベルや質が低い事にも懸念を示し、ヤーウィ語を使用できる地元民の数を増やそうとした。マレー系の人々のヤーウィ語使用能力には、大きく分けて三つの集団がある。一つ目のマレー系の大半の人々は、簡単な、あるいは「口語体」レベルのヤーウィ語が使用できると考えられる。つまり、彼らが話したり聞いたりする事のできるヤーウィ語の単語数は限られたものでしかない。二つ目の比較的少数集団であるマレー語の学者や研究者たちは、ローマ字綴りを書く事ができる。これは彼らがマレーシアかインドネシアのいずれかでマレー語を勉強し、正式な教育を受けたためだ。三つ目の最少集団は、大半が年配のマレー系有識者であり、(バハサ・マレーシアに対して)ヤーウィ語を話し、聞く能力に加え、ヤーウィ文字を書く能力がある。 青少年活動のダイナミクスは、デジタル・ネットワークやオンラインのプラットフォームに現れる。ヤーウィ語の独自性を守ろうと志すフリーランスのアーティスト、ディン(Ding)は、ヤーウィ語のコンピューター用無料フォントを作成したが、これは現時点では唯一入手可能なヤーウィ語フォントだ。彼のヤーウィ語フォントは大いにダウンロードされ、青少年や政府関係者、民間企業などによって使用されている。それはFacebookのページ、広告用のラベルや掲示板、看板などに見られる。また、ディンは友人たちと協力し、ヤーウィ語の辞書を作る取り組みの一環として、徐々にヤーウィ語の単語を収集している。さらに、ニュースや漫画のストーリーなど、ヤーウィ語のメディア素材の数も、オンラインサイト上で増加している。ムハンマドはこの理由について、「若者たちには異なるコミュニケーション手段があり、それらがより『オンライン』である一方、旧世代の活動家は『オン・グラウンドな手段』を発動させる事が多い」ためと説明した。 […]

Issue 27 Mar. 2020

北部タイにおける地方アイデンティティ、国内政治と世界遺産

2015年2月、タイ世界遺産国家委員会(the Thailand National Committee for World Heritage)は、チェンマイ市をUNESCO世界遺産リストに登録するための申請を行った。 まだ暫定リストに載った段階ではあるが、組織委員会は最終的な推薦書類を近々、おそらくは2019年末に提出する計画だ。東南アジア各地において、世界遺産リスト登録の魅力は、これが「国内外に対する威信や…資金援助、…国民意識の高揚による潜在的利益、ツーリズム、そして経済発展を約束する」事にある。スコータイやアユタヤなど、タイの世界遺産は、主に国家のアイデンティティや歴史に基づくものであるが、 最近のタイ北部の申請や、これに先行するその他の試みは、地方、あるいは地域のアイデンティティを国家のアイデンティティと同程度に反映している。 ここで問題となるのは、マーク・アスキュー(Marc Askew)が1990年代のバンコクに見出したmoradok(遺産)とyarn(コミュニティあるいは周辺住民)の間の緊張に対する、北部のある種の反応だ。 荒廃した遺跡を国家的、世界的なステータスへと格上げする事は比較的容易であるが、チェンマイの場合、世界遺産の候補地は政治的な力を備えた過去の物的遺構であると同時に、人々が暮らすコミュニティでもある。このプロジェクトは北部の人々のアイデンティティと、北部と中央政府との関係にとって何を意味するのだろうか?現在も続くこの町の遺産保存の取り組みは、より古くからの、現代タイにおける地方アイデンティティのあゆみと、どう折り合いをつけるのだろうか? ラーンナー主義 チェンマイの申請には、この町の将来に様々な集団が利害関係を持つ結果を招く可能性がある。申請の背後にある集団には、熱心な若手建築家や都市計画担当者、学者らが含まれるが、彼らは大まかに言うと、ある種の「地方主義」を掲げる人々に相当する。チェンマイの場合、これは時にラーンナー主義(Lanna-ism)と呼ばれるが、この造語は16世紀までこの地方の大部分を支配した古代ラーンナー王国を引き合いに出し、「標準的な」バンコク、あるいは中部タイを基とするアイデンティティとは異なる地方アイデンティティに歴史的根拠を与えるものだ。 ラーンナー主義は、歴史上のラーンナー王国との実質的な関連性よりも、むしろ第二次世界大戦後のチェンマイやチェンライなどの都市における、地方の政治的、文化的アイデンティティ空間を要求する取り組みに由来する。北部での大学建設のための地域キャンペーン、ラーンナーの王たちのための記念像設置の要求、チェンマイ市全域でラーンナー文字が再び見られるようになった事、これらの全てがこの過程を示すものだ。チェンマイの都市遺産は、ラーンナー主義の形成と表現に常に重要な役割を果たしてきたが、これには市の中心部にある重要な空間がバンコク政府によって再構築、あるいは実質的には植民地化されたという事情もあり、また、ラーンナーの王たちと所縁のある寺院や宮殿(khum)の長い歴史もある。この町を世界遺産リストに加える事に成功すれば、ラーンナーのアイデンティティやラーンナー主義は、間違いなく国内外で存在感を高めるだろう。 ラーンナー主義のプロモーションは予想外の形をとった。キャンペーンの一端として、世界遺産作業部会はマスコット・デザインのコンテストを行ったが、結果はこの町の創設神話と深い関りを持つアルビノ鹿(fan phuak)を非常に可愛らしく表現したものとなった。このキャラクターはノンファン(Nong Fan)といって、チェンマイと世界遺産プロジェクト、そしておそらくは、ラーンナー主義そのものも象徴している。 候補地にはチェンマイ市内と周辺の歴史的に重要な遺跡が数多く含まれるが、重視されているものとしては、マンラーイ王朝の古代史や、チェンマイとシャムとの関りにおける「許容可能な」要素、特には寺院などがある。 だが、市の中心部には議論を呼び、プロジェクトの境界内に位置するのに、当初の候補には挙げられていなかった場所もある。市内中心部の二つの重要な博物館では、ラーンナー遺産の文化的アイデンティティの展示が行われているが、これらの博物館が入る歴史的建造物は、バンコク政府の国内植民地主義の中心的な建物であった政府庁舎(sala rathaban)と地方裁判所(san khwaeng)である。要するに、候補地の選定は、この町の植民地時代の中心部を再構築し、地方史をナショナリストの歴史叙述の許容枠に収まる限りにおいて紹介する場にしようと試みる、より大きなプロセスの一部なのだ。 タイ政府と歴史および遺産の限界 世界遺産のステータスは、地方のアイデンティティや文化、歴史に保存と推進の手段をもたらすものであるが、タイの場合、中央政府が支配する国家の制限内でこれに取り組む事を意味する。都市空間の中で地方史を記念しようとした過去の取り組みも、やはりタイ政府が構想したものである。例えば、有名な「三人の王(three kings)」のモニュメントは、チェンマイとラーンナーの建国王であるマンラーイの単独像から始められたものだが、中央政府が関与した途端、チェンマイとスコータイ両国の建国王を結びつけるモニュメントに変わり、それによって地方史を国史の範囲内にきっちりと収める事となった。 同様に、最近の世界遺産リストへの過程においても、中央と地方の間にひと悶着起きている。事の発端は2002年のチェンセーン(Chiang Saen)、ウィアン・クム・カーム(Wiang Kum Kam)、ランプーン(Lamphun)など、ラーンナー史と関りのある、より小規模な地域で、これらの全てには保存の必要と観光事業拡大の強い可能性があった。 2008年にはランプーンが世界遺産リスト登録の申請に乗り出した。 2010年には数名の学者たちが、チェンマイの最終申請のための準備を開始した。 この時点で国政が干渉してきた。UNESCO関連の活動が同年暮れに停止されたのは、プレアヴィヒア(Preah Vihear)の状況を巡り、紛争が勃発したためである。プレアヴィヒアは11世紀のクメール寺院で、タイとカンボジアの国境間に位置し、2008年に世界遺産リストに登録されていた。今なお続く同寺院とその隣接区域の領有権を巡る争いは、過剰なナショナリストによる抗議デモが、ついに2011年に現実の紛争を引き起こし、6月にはタイの代表団がこれに抗議してUNESCOを脱退する事となった。北部では、UNESCOのあらゆる申請業務が停止された。同年に自身がチェンマイ出身のコン・ムアン(khon muang)であるインラック・チナワット(Yingluck Shinawatra)の選挙が行われ、プロジェクトは急加速した。 […]

Issue 27 Mar. 2020

タイ北部におけるタイ国民のアイデンティティとラーンナー人アイデンティティ

CIAのワールド・ファクトブック(World Factbook)はタイについて、タイ人が人口の95%を占める民族的に均質な国と述べている。 このイメージは、植民地時代後期に遡るタイの公的特徴描写にぴったり沿ったものだ。イギリスとフランスがシャム(1939年以前のタイの呼称)を全面包囲すると、シャム人のエリートはその勢力範囲内の主要タイ系(Tai)民族集団を、シャム人の属するタイ人(Thai)民族集団の地方構成員と呼ぶようになった。こうして、コーラット(Khorat)高原のラーオ族(現在、人口の約30%を占める)はタイ東北人となり、北部山地のブラック・ラーオ族(Black Lao/現在、人口の約12%を占める)は北部タイ人となった。 以来、タイ・ナショナリズム計画は、タイ国境を脅かしたヨーロッパ国民国家諸国を模倣しながら進められる事となる。国家の道具たる普通教育と併せ、地図製作や仏教の中央集権化、そしてユージン・ウェーバー(Eugene Weber)のフランス・ナショナリズムの展開についての有名な研究論文の表現を借りると、農民をタイ人にするための国家的プロパガンダが行われた。 その120年後、タイ・ナショナリスト計画はどのくらい成功を収めたのだろうか? この疑問を北部タイのラーンナー人の民族集団において検討する。北部タイのラーンナー民族は約800万人、あるいはタイの人口の約12%を占める。 彼らが自分たちの呼称(ethnonym)として、より一般的に用いるのは、文字通り「ムアンの人々」を意味する「コム・ムアン(khonmueang)」だが、同集団はタイ・ユアン(Tai Yuan)、あるいは北部タイ人(Northern Thai)とも呼ばれる。各名称には具体的な歴史的起源と政治的な意味がある。事実、シャムがかつてのラーンナー王国領を1899年に初めて併合した時、シャム人エリートたちは彼らの事をラーオと呼んでいた。 ラーンナー民族のタイ国民のアイデンティティへの統合は、どのくらい成功しているのだろうか?彼らは自分たちの事をどの程度タイ人と見なし、また、その他のアイデンティティは、どの程度まで今も有効なのだろうか? この疑問への一つの答えは、ラーンナー人に対する一般的な考え方や認識から導くことができる。イサーン人の民族集団について、しばしばネガティブなステレオタイプがタイ社会に満ちているのとは異なり、ラーンナー人は穏やかで洗練された民族として描写される傾向にある。ラーンナー人には、イサーン人に対する近隣ラオスのラーオ族のような、国境地方で併存して暮らす民族がいない事も大きいだろう。これはおそらく、現在のタイ国境内にあった最初期のタイ族の諸王国が、ラーンナー領内に位置していた事と関係している。いずれにせよ、チェンマイはバンコク住民にとって理想の休暇先と考えられており、白く美しい肌や、穏やかな口調の方言、豊かな文化などが首都への土産話となっている。 本論はステレオタイプを超え、ラーンナー人のタイ人アイデンティティに関する疑問に答えを出そうとするものであり、そのために世界価値観調査(the World Values Survey /WVS))が実施した世論調査を参照している。また目下、著者が2015年から2019年の間に北部で行った3つの調査に関連したラーンナー文化プロジェクト(the Lanna Cultural Project /LCP)の結果も紹介する。 タイ国民のアイデンティティ タイで2007年と2013年の二度の周期で実施されたWVSの質問を用いる事にする。WVSでは、どの言語が家庭内で話されているかという、調査上、最良のエスニック・マーカー(ethnic marker)となる質問もされ、不完全とはいえ、優れた民族的アイデンティティの判断基準を提供している。この基準を用いる事で、タイにおける国民アイデンティティの強弱の差を分析する事ができる。図表1は「タイ人である事をどのくらい誇りに思いますか?」という質問に対する民族別の結果を示すものだ。回答は既定の4段階評価に沿って行われ、1は「全く誇りに思わない」、4は「非常に誇りに思う」を意味する。大半の回答者が3、あるいは4と答え、全集団の平均値は3.5以上であった。中部タイ人(ないしシャム人)は、この国の主要民族であるが、誇りについての平均値は最も低かった。ラーンナー人は、2007年と2013年の調査を平均して最高値を示し、これに僅差でイサーン人が続いた。 同様の結果が見られたのは、回答者が自身をどの程度タイ国民と考えているかを判断する、もう一つの質問への回答で、これも4段階評価に基づくものだ。図表2から分かるのは、全集団の平均値が(3)の「そう思う」と(4)の「強くそう思う」の中間辺りにあるという事だ。この質問においても、ラーンナー人の平均値は最も高かった。 では、ラーンナー人のタイ人意識が最も強いと結論付けるべきなのだろうか?これら二つの質問において不明な事は、回答者がどのような文脈上で回答したのかという事だ。具体的には、回答者が誰、あるいは何を自分たちの比較対象にしたのか、という事だ。タイ人である事に誇りを持っていないのであれば、他のどのアイデンティティに誇りを持っているのか?同様に、タイ国民の一員でないのならば、他のどの国民の一員なのか?エスニシティの文献が長年に渡り、立証してきた事は、個人には同時に数多くのアイデンティティがあり、それぞれのアイデンティティが全般、個別の二つの文脈の中で優位を巡って競合しているという事だ。ラーンナー人のタイ人意識が最も強いと単純に結論付ける事の複雑さを説明するため、WVSの質問をもう一つ紹介しよう。この質問は回答者がどの程度、自分たちを地域コミュニティの一員と考えているかを問うものだ。WVSでは、自分をタイ国民の一員だと思うか、という質問の直後にこの問いが来る。図表3はこれらの結果を示すものだが、ラーンナー人が再び最上位の結果となり、彼らが国民的、地域的アイデンティティの両方に最も強い意識を持つ事が示された。だが、これらの結果をどのように解釈するべきだろうか?この結果を不可解とする者もいる。タイ人アイデンティティの意識が最も強い集団なら、地域的アイデンティティの意識は最も弱いはずではないのか?これは何を意味するのだろうか? WVSは国民アイデンティティや民族的アイデンティティに関する疑問の分析を意図したものでは無く、ここからタイの諸民族集団がタイ人の国民アイデンティティ、あるいはラーンナー人のアイデンティティについて、どう感じているのかを読み取る事には限界がある。そこで、筆者はこれらの疑問をより深く掘り下げるべく、2015年から3つの調査を行ってきた。まず、「タイ人である事をどのくらい誇りに思いますか?」という質問を繰り返す事で、望ましさのバイアス(the desirability bias)とWVSの質問の段階評価の限界に対処した。まず回答者には、彼らの誇りのレベルをタイ人の平均値と比較するよう依頼し、タイ人の平均値が段階評価の中程であった事を伝えた。これは回答者が誇りのレベルに関して、低い絶対値をさらけ出す事なく、より低い相対値を示しやすくするためだ。タイには強い社会的プレッシャーがあり、高いレベルのナショナリズムを示す事が求められるが、相対値の低さは必ずしも絶対値の低さに結びつくものではない。こうする事で、望ましさのバイアスを最小限に抑えた。質問に対する二つ目の調整は、単純に回答幅を拡大する事で、ここでは4段階から10段階評価にまで拡げた。図表5はこの結果を示すものだ。11.82%の人々のみが、タイ人である事を誇りに思う気持ちが平均的な人と同じレベルだと考えていた。その他の約15%は、平均的な人よりも誇りに思うレベルが低いと考えている。低い事に変わりはないが、これらの結果から分かる事は、WVSの結果が示すよりも、はるかに大きなばらつきがあるという事だ。WVSの結果では、回答者の0.54%のみが「あまり誇りに思わない」、あるいは「全く誇りに思わない」と述べていた。残る73%はタイ人である事を誇りに思う気持ちが、平均的な人のレベルよりも高いと考え、自らを最高の段階評価に位置付けた者は、WVSの調査では95.70%であったのに対し、13.69%のみであった。この調査は、北部タイのラーンナー地方に限定されたものであったため、現段階でこれを他の民族集団と比較する事は出来ない。だが、質問に手を加えた事で、ラーンナー人のタイ人アイデンティティの強さに、より大きなばらつきがある事が分かった。   ラーンナー人のアイデンティティとラーンナー・ナショナリズム 次は、ラーンナー人がWVSにおいて最も強い国民的・地域的アイデンティティを有するという難題に目を向けよう。LCPの二つ目の質問は、回答者に自分たちのタイ人アイデンティティを地域的アイデンティティに比較するよう尋ねるものだ。回答者には6つの異なるアイデンティティを提示し、これに対して1から6までの順位をつけるよう頼んだ。1位は最も重要な位置づけを示す。表1は、それぞれのアイデンティティの平均順位を示す。タイ人アイデンティティは概して最も高い順位であり、41.88%がこれを1位とし、全体平均順位では2.37である事が分かる。回答者には、三つの異なる民族的・地域的アイデンティティの選択肢を与えた。それらは北部、ラーンナーとチェンマイだ。これら三つの地域的アイデンティティを合わせると、43.56%という割合で一位となった。 三つのアイデンティティを比較すると、北部は二番目に高い平均順位であるが、ラーンナーとチェンマイのアイデンティティは、いずれもより高い頻度で一位となった。また、この三つの民族的・地域的アイデンティティの平均は、どれもほぼ同じであった。この事が示していると考えられるのは、一つの民族名称を他の名称よりも好む者があったとしても、平均的に見ると、これらの名称は大いに置き換えが可能であるという事だ。 表1. […]

Vietnam Eve Hanson KRSEA
Issue 26 Sept. 2019

冷戦の遺産:ベトナムにおける体制の安全保障と暴力機構

現代ベトナムの政治情勢は、超大国がハノイとホーチミン市の指導者を通じて衝突した結果である。この衝突には非常に残念な結末が伴った (Dr Nguyễn Đan Quế, interview, August 11, 2015) 戦争終結から40年、現代のベトナムで民主化運動の活動家として注目されるDr. Quếは、自国の権威主義とその反対派の展開について自身の見解を述べた。彼が人権と民主化のための活動を始めたのは、1970年代初頭のベトナム統一前の事で、当時、彼は他の知識人たちと共に南部の旧ベトナム共和国での拘禁の状況について非難した。現代の民主主義や人権問題の活動家には、その活動の起源を統一前の時代に見る者や、自らを南部の独裁主義に対して組織された初期の運動や集団の系統と考える者がいる。 ベトナムでは、植民地化されたその他の社会と同様に、国家独立のための闘争がほぼ途切れることなく国際関与を伴った冷戦の対立へと移行して行った。この国際関与は決定的に重要な要因となった。また、これもアジアの他の地域と同様に、大量殺戮や政治的迫害、大量残虐行為が想像を絶する規模で行われ、1955年~75年までには300万人以上が死亡、そのうち200万人以上は民間人だった(Bellamy 2018)。社会科学の理論、イデオロギー、資金と銃で身を固めた二つの冷戦ブロックは、国内政権と連携して独裁政権を形成し、これが双方で展開された事から、幾世代にもまたがる政治的遺産が残った。一方ではアメリカ合衆国とその同盟国の、他方ではソビエト圏と中国の直接関与が、その設立の手助けをした排他的政権は市民の支持を必要とせず、外部からの多大な資金的、戦略的支援によって保護されていた。双方で政治的浄化計画、すなわち、対立する思想に同調する恐れのある反対派を排除する試みが実行にうつされた。彼らは国内の政治的支配のための暴力機構の設立とその近代化を支援した。これらの動きが重なった事で、この時代に出現し、政治的権利や公民権を要求し始めていた市民社会の団体や組織、運動など、あらゆるタイプの政治的アクターが活動する政治空間が大幅に制限された。 民主化や権威主義、体制構築(regime-development)に関する政治学的研究が悩まされてきたのはひとつのバイアスである。そのバイアスは、権威主義的な政治体制に回復力(レジリエンス)が存在することや、そこから民主化に至るまでのあらゆる事柄を国内的要因で説明しようとするバイアスである。実際には、海外のアクターが大規模な直接関与によって独裁体制をつくりあげ、その後、反対する市民からその体制を護ってきたにもかかわらず、である。国際的な影響力に関する研究は、西側とのつながりや西側の影響力を民主主義体制の建設に貢献するものと見て、ポスト冷戦の権威主義の一因とは考えない傾向にある(se e.g. Levitsky and Way 2002; 2010)。ベトナムでは、アメリカとその同盟国が連携と影響力の両方を行使したが、これらを用いる事で、南ベトナム共和国の反共産体制を確実なものに強化しようとした事は明らかだ。ベトナムの例が示唆するのは、冷戦の政治的遺産が複雑な事、これに国家と市民社会の間のひどく偏った力関係が含まれ、それが政治的権利や被選挙権を要求する市民や団体を損ねるほどのものだという事だ。暴力機構は、政治体制や政府をそれ自身の市民から守る事を目的としたもので、海外のアクターの積極的な支援から利益を得ていた。だが、Dr. Quếが上で示唆する通り、外国の支援を受けた独裁政権は、自らの反対勢力も育む事となった。 ベトナムの分断、政治的浄化と暴力 1949年に共産勢力が国民党に勝利を宣言し、毛沢東が中華人民共和国設立を宣言した後、アメリカは東南アジアに調査団を派遣した。東南アジアの他の地域から「反乱鎮圧」のテクニックと経験をもつCIA職員が関与させられるようになったのは、ベトナムが世界規模の冷戦の一部で、世界的な共産主義拡大に対する闘いの要地と見なされるようになってからだ。第一次インドシナ戦争を終結させたジュネーブ合意(Geneva Agreement)は6年後、現在、ベトナム社会主義共和国として知られている領土を17度線のところで二つの暫定的な「再編成区域(re-grouping zones)」に分割した。これはイデオロギー上の分断を地理化したもので、間もなく双方はこれを国境として認識するようになった(Devillers 1962)。この境界線の両側の政府には、いずれもその領土に対する主導権が無く、両者はむしろ、自らを対立する政治勢力の列島の中の小島と考え、何とかしてこの支配権を握る必要があると考えていた。 ジュネーブ合意が国政選挙を約束したのに、これが一度も実行されなかった訳は、アメリカもゴ・ディン・ジェム(Ngô Đình Diệm)首相のアメリカによって設置された政府も、自分たちに勝ち目が無いと思っていたからだ。その代わり1956年3月4日には、南ベトナム共和国の憲法制定議会が選出され、CIAの協力の下で憲法が作成され、ジェムに「事実上の絶大な権力」が付与された(Boot 2018)。北部のベトナム民主共和国がソビエト連邦や中国に支援とインスピレーションを求める一方、アメリカはCIAその他の組織を通じた独裁的な南ベトナム政府の創設に大いに携わっていた(Boot 2018; Chapman 2013)。領土の支配権も、当てにできる国民の支持も無い両政府とその国外の同盟国は、敵対勢力の一掃を図ろうと、急進的な計画に着手した。17度線の両側で行われた政治的浄化の取り組みは、ついに明白なポリティサイド(政治的自殺)に至った。. 南部では通常の戦争と並行して、CIAが1967年にPhượng hoàng、フェニックス・プログラムに着手した(CIA […]

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Issue 26 Sept. 2019

マレーシアにおける冷戦遺産

冷戦はマレーシアの政治と社会に大きな痕跡を残した。1948年から60年の反共産主義非常事態は、初めは英国植民統治エリートの、後には現地エリートの共産主義の国内進出との闘いに向けた構えの程を示していた。だが、なおも充満する共産主義の脅威、そしてあまりにも都合の良過ぎる共産主義の敵の亡霊は、マラヤ共産党(the Malayan Communist Party: MCP)の排斥とその後の敗退のはるか後にまで政治全体にこだましていた。冷戦はマレーシアの公式政治(formal politics)と市民社会に、複雑で永続的な遺産を残した。これらの影響は今もなお、政治的イデオロギーや居住形態(settlement patterns)、制約的法律、地政学的な位置づけにおいて見る事ができる。総じて、マレーシアは真の共産主義、すなわち真に攻撃的な共産主義運動を経験したのであり、その人心掌握戦略(hearts-and-minds strategy)と軍事的弾圧とを組み合わせた反乱鎮圧対策は、今でも暴力的な過激派対策における今日の治安部隊の指標となっている。だが、より深い傷を残したのは、マラヤ共産党そのものよりも、これらの戦いがイデオロギーや人口統計、法律、安全保障の状況を形作った方法にある。つまり、マレーシアの社会政治的発達の形成期における、華人を中心とし、国際社会に非難された反資本主義運動は、イデオロギーの選択肢を非合法化し、著しく非政治化された社会に内包される強力で中央集権的な、具体的には民族共同体的で資本主義的な国家の強化を促したのだ。 マレーシアは、とりわけ興味深い検討事例を与えてくれる。一方において、マレーシアの2018年の総選挙では、おしなべて計画的な連立政権が61年間政権の座にあった、よりパトロネージ志向が明らかな政権を追い落したものの、イスラム主義の第三政党も良い成果を挙げており、単なる取引的(transactional)、テクノクラート的な政治よりも、イデオロギー的な政治に今なお重大な強みがある事を示唆している。また他方において、その政治的マッピング(political mapping)は左翼運動弾圧の長期的な歴史も反映している。つまり、活発で人気があった左翼政治の初期の歴史にもかかわらず、マレーシアには数十年もの間、強力に(あるいは少なくとも、あからさまに)階級に基づいた政治的な選択肢が、小さな、窮地に陥った社会主義政党の外には存在しなかった。MCPがその武装集団(マラヤ人民抗日軍(the Malayan People’s Anti-Japanese Army、MPAJA、それに戦後のマラヤ人民解放軍、MPLA)を巻き込んで、トラウマ的な反共産主義のゲリラ戦の口火を切ったのは、現在のマレーシア国家が形をとり始めるのと同時の事だったが、これは(特に左派の)社会政治団体の規制から、マレーシアの政治的展開における華人の役割の軽視、そして一般的には合法とされるイデオロギー的見解の範疇の制限に至るまで、この国家のあり方や特性にとって極めて重要であった事が示された。 冷戦の名残 マレーシア国家は非常事態が鎮静化した後、もはや目立った共産主義の脅威に直面しているようには見えなかったが、MCPが完全に降伏したのは、ようやく1989年になってからの事だ。だが、殊に冷戦については(とりわけ、ベトナム戦争がまだ熾烈であった東南アジア内では)、1960年代後半から1970年代初頭の民族共同体的で資本主義を支持する国家が、当時の主な対戦相手である異民族から成った社会主義戦線(Socialist Front)の鎮圧に際し、直面した抵抗が最小限だったのは、それが左派であるとともに華人主体だった事による…この「華人」とは「共産主義者」の事だ。事実、共産主義は亡霊として、強力な国家と組織的に非政治化された社会とを正当化する上で、今も都合の良い引き立て役を提供している。冷戦の遺産はこのようにマレーシアで生き続け、国内の対立関係を効果的に明確化している。その持続的な名残が一層明らかな点が、政治的イデオロギーや集落形態、制約的な法律、それにマレーシアの地政学的な位置づけである。 イデオロギー的空間 反共産主義のイデオロギーは、急進的な労働組合や階級に基づく同盟を抑圧するイギリスとマラヤの取り組みに寄与した代わりに、民族の柱状化(ethnic pillarization)と共同体的政治(communal politics)の定着を促した。この結果は特にUMNOと、そのアライアンス(連盟党)および後に国民戦線(National Front: Barisan Nasional/BN)における連盟相手である華人やインド人のエリートたちの利益を反映していた。彼らの政治的所属や行政のモデルを左右したのは、有権者たちの階級ではなくエスニシティに沿った帰属意識の主軸だったし、また当初から、このアライアンス/BNが支持していた資本主義経済のモデルは、ブミプトラ(Bumiputera:マレー人と他の先住諸族)への再分配政策の支持によって補われるものだった。 冷戦理論はイギリスやマラヤのエリートが、資本主義のイデオロギー的受容を自分たちの利益のためではなく、実存的脅威によって裏付けられたためと主張する事を可能にした。当初はマレー人の多くが小規模米農家だったが、彼らがその役割を担っていたのは英国の政策のためであり、どう見ても、彼らは資本主義に無関心だったと思われる。しかし、民族共同体の有力エリートたちは英国の作り上げた秩序で身を固めていた。英国の政策がマレー農家の中産(および資本家)階級の確立を目指す一方で、マレー人の行政サービスの設立や、その他の民族を対象とした取り組みは、彼らの英国の政策への統合を拡大した。 ほとんどの華人経済エリートも同様に、資本主義の追求に巻き込まれていた。だが、華人(やインド系)の労働階級の多くは、小規模農家というよりも、工場やゴム農園、スズ鉱山、あるいは、港湾労働などの有給労働に従事する新興の産業プロレタリアートに相当した。このマラヤとシンガポールの基盤から左傾した労働組合が出現し、(西洋優位の)資本主義に対する批判的見解が提示されたのだ。労働組合は重大で党派的な政治的関与の潜在的ないし実際の発射台となり、民族よりも階級に基づく帰属意識だけでなく、集団行動をも促進した。早期にイデオロギーを中傷され、あるいは単に抑圧された事から、労働組合は今ではほとんど沈黙したままとなっている。また独立後、間もない時代には、特に地方政府のレベルで左派政党の大躍進が見られたが、初期の弾圧と阻害要因によって、広く認められる労働者政党として機能する党は一つも残らなかった。 重要な事は、公式政治が極めて重要な関与に対して、わずかに寛容性を保っている事だ。そうだとしても、MCP崩壊から長い時を経た今も、一網打尽で合法性を否定するのに「共産主義者」のレッテルが貼られる可能性はあるし、広範な優遇政策を含む新自由主義に対する国家の自民族中心主義的な独自の解釈が「イデオロギー的なもの」として示される事は無く、むしろ主要な政治言説は、マレー人優位を人口統計学的、社会学的に必然と定義し、その他の経済的枠組みを真剣に検討する事がほぼ無い。結局、冷戦は階級よりも民族共同体的な結びつき、社会主義的あるいは、社会民主主義的モデルの検討の回避、華人住民を本質的に要注意人物と見なす傾向を確立させ、これらがポスト冷戦期のイデオロギーの可能性と実践に持続的な影響を及ぼしてきた。   住民の再定住 マレーシアでの第二の重要な冷戦遺産は人的景観(the human landscape)そのものと関係がある。非常事態期の反共産主義の取り組みは、当時の人口の約10分の1にあたる50万人以上の華人を婉曲的に「新村(New Villages)」と呼ばれた地域へ強制的に再定住させ、MCPの流通経路を断つ(制裁的)予防努力とする事にまで及んだ。 都市部や鉱山周辺に集中してはいたものの、一定数の華人は長らく自給自足の農地に居住していた。1940年代の日本による占領は、この農村の分散化を促進させ、1945年には50万人もの華人スクオッター(squatters:無断居住者)たちがジャングルの周辺集落にいた。これらのコミュニティは、MPAJA部隊に食料その他の物資、情報ルートや補充兵を、好むと好まざるとに関わらず提供していた (Tilman […]

Issue 26 Sept. 2019

ブラック・サイト、タイ:冷戦の政治的遺産

タイにおける中央情報局(CIA)の「ブラック・サイト」に関する報告の衝撃的な局面の一つは、ヒューマン・ライツ・ウォッチ(Human Rights Watch)の研究者、Sunai Phasukのコメントである。これによるとタイの国軍と警察は、ブラック・サイトの拷問技術を導入していた。「水責めは前代未聞だった…2004年か2005年以降に初めて、これがここで用いられるようになった」(Los Angeles Times, April 22, 2018)。米国の軍事行動がタイにとって重大な「遺産」となったのは、これが初めての事ではない。米国とタイの冷戦同盟は、タイの政治とその政治制度に広範な影響を及ぼしてきた。 この冷戦同盟が確立された背景に、冷戦対立の高まりを反映した複数の政治紛争があった。タイでは、米国との深い関わり合いに、1932年革命の推進者とその反対派である王政主義者との間の国内の政治闘争が絡み合っていた。 第二次世界大戦後の米国タイ大使が、全て熱心な反共産主義者であったことを見極めたのはDarling (1965, 104-105)だが、彼は、大使たちが「自分の政府と国民を助け、この国の安全保障上の深刻な脅威だと感じている問題を重視する、という善意しかもっていなかった」とも断言している。CIAと国務省の当時の記録文書が示すところによると、「善意」を定義するのは「共産主義の侵略」に対する闘いの中で、タイが確実な冷戦同盟国となることだった。 米国・タイの冷戦関係における3つの相関点は、いかに「善意」が軍事的権威主義を支持するために用いられたかを示している。軍事政権へのこの安定した支持は、プリディ・パノムヨン(Pridi Phanomyong)との以前の同盟の撤回と、彼の自由タイ運動(Free Thai)支持者の政治的な壊滅を、基礎としていた。この過程で、米国とバンコクの軍事政権は、プリディと自由タイ運動の拠点である東北地方が、共産主義者のイレデンティスト(irredentist:領土回復主義者)の危険な温床であると見なした。こうした干渉のいずれもが、タイ政治に深い影響を及ぼしてきた。 プリディ:同盟者から敵へ 第二次世界大戦中、高名な法学者にして、1932年の絶対王政打倒の立案者、自由タイ運動地下組織の指導者、そして摂政でもあったプリディは、タイで米国が最も信頼を置く同盟者だった。米国は1946年に彼の協力の見返りとして自由勲章(the Medal of Freedom)を与えている。しかし、彼には、社会主義と経済ナショナリズム、急進的な反植民地主義についての疑問が浮上してくる(Thanet 1987; Goscha 1999)。 タイの王政主義者たちはそのような疑念をしきりに煽り立てた。プリディに対する積年の不満から、彼らはプリディが共和制主義者で「ボルシェビキ(共産党員)」であると、繰り返し言い立てた。米国は当初、王政主義者の策略を退けたが、戦略諜報局(OSS)そして後のCIAの報告書は、次第にプリディの思想に疑念を抱かせるような王政主義者の談話や「機密情報」を描いていく。1946年のアーナンダ・マヒドン(Ananda Mahidol)国王の謎の死をめぐって政治が混乱する中で、1947年にプリディ政権を失脚させたクーデターの直前に、自由タイ運動と共産主義を結びつける情報機関の報告書が拡散される。Fineman(1997, 36)が明らかにした通り、アメリカはクーデター実行者が「罰を受けずに選挙によるプリディの政府を転覆させること」を事実上認めた。王政主義者から国王の死に関与したと非難され、また1949年の反クーデターの失敗から政府と米国の敵と非難されたプリディは、生涯にわたる亡命生活に入った。 1947年のクーデターの後、タイの新たな軍首脳はこのクーデターが共和制主義者と共産主義者、すなわち、プリディと自由タイ運動に対するものであったとアメリカ大使館に正式に発表した。CIAの報告書(1948a)は、プリディが「共産主義者で、現政府の転覆を謀っている」と非難している。この米国のクーデター支持は、米国がタイの政治的安定を強く望んでいたこと、そして米国がタイや東南アジアでの共産主義の進出に対する民主的な対抗手段が無いと判断したことを反映していた。このような見解が暴力的な軍事政権との同盟を許容させたのだ。 1949年の末にプリディが中国に亡命する中で、CIAの報告書は繰り返し、プリディを中国共産党やピブーン(Phibun)政権打倒の動きと関連付けた。一つの報告書はプリディを侵略計画と破壊工作、東北部の共産主義本部、さらには中国政府の支援を受けたピブーン政権攪乱と結び付けている(CIA 1950)。 同盟者から共産主義の脅威となるまでのプリディの米国にとっての遍歴は、タイ政治にとって何を意味するのだろうか?当然、プリディ自身の政治活動が彼の失脚の一因ではある。彼の政敵は彼より上手だったということだ。それでも、米国がプリディに見切りをつけたことは、王政主義者にとって大きな政治的勝利を意味した。ピブーンは、反王政主義者であるにもかかわらず王政主義者と結託し、プリディの政治運動による非軍事的で民主的な体制という選択肢を根絶する。 プリディの政治的破綻は、タイの軍事支配に対する主な反対勢力が、1940年代の末には相当弱体化されていたことを意味した。これが米国にとっては好都合だった。戦時中の同盟者を見限ることで、王政主義の政治家と、強力な政治機構としての王室の政治的基盤の再活性化の準備となった。米国が手に入れたものは、同盟者としての安定した軍事政権と、冷戦工作のための東南アジア本土の基地であった。 東北部からの脅威 プリディの自由タイ運動支持者を追放するため、政府と米国は彼らを共産主義に関連付けたが、この結び付けは米国受けするものだった。米国の公式な文書や政策において、プリディと自由タイ運動、野党の政治家をベトミンや東北部のベトナム人政治難民の共産主義に関連付けたものが積み上がることになる。 戦後、武器貿易などのタイのベトミンへの支援が広く知られることとなった。実際、反植民地主義とフランス人への蔑視によって、この支援は政治的分裂を越えるものとなったのである。Goscha […]

UP Philippines statue KRSEA
Issue 26 Sept. 2019

冷戦を通じたフィリピン人テクノクラートの台頭をたどる

フィリピン人テクノクラートの台頭は通常、フィリピンの戒厳令時代(1972~1986年)に関連付けられる。だが、米国にとってのテクノクラシーの重要性は、この時代よりも前に生じた。早くも1950年代には、米国は既に研鑽を積んだ経済学者やエンジニア、経営管理の専門家などを東南アジアのような開発途上地域に擁しておく事の重要性を認識していた。これらの専門家たちは、それぞれの社会で開発プロセスの先頭に立ち、これらの社会が共産主義の手に落ちるのを防ぐ事ができた。本論ではフィリピンのテクノクラシーの台頭を、冷戦というコンテキストの中でたどり、その上で、フェルディナンド・E.マルコス大統領の戒厳令前の初期政権(1965~1972年)時代に採用され、後の戒厳令体制では引き続き、この独裁者の経済政策の重要な立案者となったテクノクラートたちにとりわけ注目する。 冷戦とテクノクラシーの出現 「標準的な政治用語」における「テクノクラシー」とは、「技術的な訓練を受けた専門家が、彼らの専門知識と主要な政治・経済機構内での地位に基づいて支配する統治制度を指す」(Fischer 1990, 17)。これは新たな中産階級の出現と重なる。C. Wright Millsによると、この階級は「第二次世界大戦後に、新たな技術系官僚(technocratic-bureaucrat)の産業資本主義経済と共に出現した」(Glassman 1997, 161)。つまりテクノクラシーの台頭は、冷戦の到来とも、米国からのフィリピン独立の達成とも一致していたのだ。その後、米国その他の「先進国」では工業化が進んだが、開発途上社会では依然としてこれが進まなかった。この遅れがアメリカの悩みの種となった。この非植民地化と冷戦の緊張という背景があったからこそ、アメリカ大統領ハリー・トゥル―マンは、1949年1月20日に「ポイント・フォー」計画(“Point Four” program)を発表し、その中で貧困を戦略上の脅威と定義して、開発と安全保障とを結びつけた(Latham 2011, 10-11)。トゥルーマン政権(1945-1953)最大の懸念は、アジアにあるような後進的な農村社会が共産化する事だった(Cullather 2010, 79)。 近代化の理論がこれに解決策をもたらした。冷戦の状況下で「理論家や政府高官は非植民地化の時代に、近代化の思想を用いて拡大する国力の好ましい印象を打ち出そうとした」(Latham 2000, 16)。この国力の拡大を端的に示すものが教育制度の確立であり、これが開発途上社会にテクノクラートを輩出し、近代化という米国の冷戦イデオロギーを存続させようとした。これらのテクノクラートは、あらゆる開発途上社会が必要とした「近代化するエリート」の一員と見なされた(Gilman 2003, 101)。 教育制度によるテクノクラートの再生産 テクノクラートを主に輩出したのは、この国の国家的エリート大学で、1908年にアメリカが設立したフィリピン大学(the University of the Philippines :UP)だった。UPはマルコスの初期政権とその後の戒厳令体制にとって極めて重要なテクノクラートたちを養成した。これには1970年から86年にマルコスの財政秘書官(finance secretary)を務めたCesar E. A. Virataや、1970年から79年までマルコスの投資委員会(the Board of Investments)の委員長だったVicente T. […]

KRSEA How Long is Now: Indonesia
Issue 26 Sept. 2019

現状はいつまで続くのか? インドネシアのレフォルマシと遅れた冷戦史の捉え直しについて

提題の「現状はいつまで続くのか?(How Long is Now?)」は、ベルリン・ミッテ(Berlin-Mitte)のオラニエンブルガー・シュトラーセ(Oranienburger Strasse)沿いの壁画をほのめかすものだが、これが描かれているのは、かつてのSSセンターでナチスの監獄だったものが、後に東ドイツの公共施設となり、ベルリンの壁崩壊後は活動的な芸術家たちのための施設となり、今では廃墟となった建物だ。この壁画は、ベルリンの近年の独創的な過去の出来事を、未来を待ち続ける時が長引く中で振り返るものだ。著者にとっては、この壁画は1998年の秋に深夜まで延々と自分に講義と議論を行わせたジャカルタのインドネシア人学生の力強さと悲運とを封じ込めたものでもある。彼らは当時、世界最大であった改革派の大衆運動をなぜ払しょくする事ができたのか、またなぜ約50万人もの人々が、1965年から66年の間に軍部や「民」兵たちによって殺されたのかなど、1940年代後半以降に出現した出来事の、極めて重要な歴史を捉え直す手段を模索していた。つかの間の透明性は立ち消えてしまった。先行きはまだ見えてこない。なぜなのか? 国際社会に支持された合意が、自由と選挙のためにスハルトを見捨てる一方で、エリートを保護していた事は、公的な場での議論に委ねるには秘密が多すぎた事を意味する。すでにジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領(Joko ‘Jokowi’ Widodo)が、彼の前任者たちよりも有力集団への依存が少ないとする望みは薄れてしまった。有力者、プラボウォ・スビアント(Prabowo Subianto)は保守的なムスリムのポピュリズムを喧伝しているにもかかわらず、全面的な後退が生じている。国際的にもてはやされているのは、自由民主化が確固たる国家建設によって進められるべきだという主張だ。民主的左派も、1950年代末と1960年代初頭の出来事を検討する事に熱心ではない。ネル―やスカルノのような指導者や非同盟運動(the non-aligned movement)は過去に属するものなのだ。さらに、毛沢東主義者たちは改革主義のインドネシア人共産党員やスカルノ派の人間が十分革命的でなかったとさえ主張した。後になって同調した事を悔やんだ者達は、それを思い起こさせられる事を望まず、それとは違う何か、アナキズムや市民社会、新しい運動や言説の分析などを試みる。民主主義を支持するインドネシア人たちが専念した汚職や人権、生活などの差し迫った問題は、過去に目を向けて対処する事がより困難なように思われた。 また、インドネシアの大虐殺に関する研究のほとんどが、1965年末に大虐殺の犠牲者となったエリートの苦しみに焦点を当てている。この事が人権を強調している点は称賛に値するが、徹底的な歴史分析の入門としては不十分だ(Törnquist 2019)。3つの謎が残る。1つ目は、どのような政治的経済と政治機関が、この共謀と弾圧を可能にしたのか。2つ目は、何が軍部の促進した暴力と民兵や自警団の参加を結び付ける事ができたのか。3つ目は、何が政治の新たな左派志向の運動の失敗と、これに代わる権威主義的特徴の政治の再来を説明するのかということだ。 幅のある歴史分析が必要な事を示すものの一つが、Geoffrey Robinson (2018)の研究だ。入手できる最も包括的な研究の中で、Robinsonが受け入れ難いと感じているのが、John Roosa (2006)の革新的な主張で、これは運動全般ではなくてインドネシア共産党(the Indonesian Communist Party:PKI)の一部の指導者たちが、虐殺に先行した9・30運動(the 30 September Movement)において、重要な秘密の役割を果たしたとしている。Robinsonが躊躇する理由は、主流研究の結論が、当時PKIが極めて順調で、確実に地歩を築きつつあったとしている点だ(Anderson and McVey 1971; Mortimer 1974; Crouch 1978)。そうだとすると、向こう見ずな秘密工作には何の理由もなかった事になる。だが、より批判的な分析は、1950年代末から1960年代初頭に共産主義者が直面していた課題について、これとは違った見方を示す。PKIは民主主義を望んでいたが、1959年にスカルノ大統領と陸軍の「指導される民主主義(“Guided Democracy”)」の導入と選挙の先送りを支持していた。つまり、PKIは、まず大衆政治を通過する必要があったという事だ。 大衆政治とは、スカルノの反帝国主義運動や外国企業の国有化に協力し、彼の基礎的農地改革や、ナショナリスト、宗教者および共産主義者の社会・政治的中心人物による共同公共統治(joint public governance)の手法を支持する活動に協力する事であり、これには軍部への協力も含まれた。これは共産主義者に組織化と圧力政治の余地をもたらしたが、この事が改革派の政敵を弱体化させる事はなかった。軍部は(戒厳令という手段によっても)国有化された企業や国家機構の大部分を掌握し、1960年から61年の共産主義者による労働争議(labour […]

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Issue 25 Mar. 2019

ラオスでの土地認識の変化 国家主権から資本動員へ

2013年8月23日、フランスのパリでKhamtanh Souridaray Sayarath夫人と面会した。ラオス南部の町、チャンパサック(Champassak)生まれの彼女は、1950年代にビエンチャンにある法科大学院を卒業した最初のラオス女性の一人だった。卒業後は工業省(Ministry of Industry)や文化省(Ministry of Culture)、貿易局(the Department of Trade)で様々な地位に就いた。1962年には経済省(the Ministry of Economics)局長となり、ラオス王国政府(the Royal Lao Government (RLG))の土地コンセッション(利用許可)や伐採権、鉱業権を認可する責任を負った。彼女がこの地位にあったのは、1975年に共産党のパテート・ラーオ(Pathet Lao)が国を掌握するまでの事だった。他の多くの人々と同様に、彼女はタイの難民キャンプに逃れた後、最終的にはパリに腰を据えた。 筆者のKhamtanh夫人との議論は、国民の土地の概念化がラオスでどのように変化したかという考察に関するもので、その対象は非共産主義時代から共産主義時代の間だけでなく、ラオスで経済改革が施行された1980年代半ば以降、特に2003年の土地法(Land Law)可決以降の変化だ。土地法可決は海外の投資家たちが広大な農園コンセッションを受ける事を認める法的枠組みをもたらしたが、このような事はKhamtanh夫人の時代には起こり得ぬものだった。本論ではラオスでの土地と国家主権に関する認識に過去数十年間で重大な変化があったことについて論じる。今や、土地は増々金融化され、むしろ海外の民間投資を呼び込む資源と見られるようになり、外国人に管理される事が認められない主権領土とは見なされなくなってきた。 Khamtanh夫人へのインタビュー Khamthanh夫人との議論で筆者が特に興味深く感じたのは、ラオス王国政府時代の彼女の土地コンセッションに対する認識の知る事だった。彼女が言うには、1962年から1975年の間の土地コンセッションは5ヘクタール丁度までで、それ以上はありえなかった。確かに、1958年5月の土地法を改正した、1959年12月21日付けの法律第59/10号は、外国人による財産取得を1975年のラオス人民民主共和国(Lao PDR)設立に至るまで規制していた。 2000年代になり、これとは全く異なる事態が生じ始め、外国企業は農業用地のコンセッションを1万ヘクタールまで獲得ができるようになった。 Khamtanh夫人によると、企業がさらに土地を必要とした場合は、村人かその他の土地所有者から土地を買う必要があったが、重要な点は、外国人が工場展開のための投資を奨励されていたとしても、ラオス市民だけが土地を所有できたということだ。王国政府の政策はその他の多くの初期ポスト・コロニアル政府の政策と同様に、国家主権の概念を天然資源と密接に結び付け、土地その他の資源の利権を外国企業に供与することには慎重であった。例えば、1961年にタンザニアがヨーロッパ列強からの独立を獲得した際には、初代大統領のムワリム・ジュリウス・ニエレレ(Mwalimu Julius Nyerere)が、「タンザニア人が自分たちで資源を開発するための地質学及び工学の優れた技術を手にするまでは、鉱物資源を未開発で放置する事を提唱した」。この時代とラオスにおける状況をよく示した1971年の論文で、Khamchong Luangpraseutは次のように述べている。「(ラオスには)グレーンジ型の大規模農場は存在しない」。彼はまた次のように記す。「ラオス王国では、国家が土地の名義上の所有者である。ラオスの法律によると、耕作者はその利用者であって所有者ではない。」 王国政府内の多くの者たちが特に関心を寄せていたことが国土の保護であったのは、国土と国家主権との関連性が認識されていたためだ。とはいえ、Khamtanh夫人が認めたように、王国政府内には腐敗して国家資源を犠牲にして私利を得ようとする者達もいた。当時、物事がどう認識されていたかを示すべく、Khamtanh夫人は1960年代と1970年代の初頭にラオスで稼働していた鉱山がわずかであったこと、鉱業権供与の要求が何件かあったにせよ、政府がこれに慎重であったことを説明した。例えば、カムアン(Khammouane)県ヒンブン(Hinboun)郡のPhon Tiou地域の錫鉱業には二、三の企業が関与していた。ところがKhamtanh夫人の話では、その地域の全ての鉱業権は表向きにはチャンパサック王家(Champassak Royal House)の当主、Chao Boun Oumの所有となっていた。ただし、彼は明らかに鉱業権をフランス企業にリースしていたという。Khamtanh夫人は口を極めて、王国政府が将来の世代や国家のために自然を保護し、資源を手つかずのままで置いておくことを望み、そのためにあまり多くの鉱業権を供与したがらなかったと強調した。彼らは基本的に農村部の土地を商品や資本の一形態とは考えていなかったのだ。 Khamtanh夫人はまた、国内の全ての製材所の監視を行っていた。多少の木材輸出は認可されていたが、相対的には少量の木材のみ輸出可能であったのは、政府が森林資源の枯渇を懸念していたためだと彼女は説明した。林業局(The […]

Issue 25 Mar. 2019

誰のための土地資本化か? ラオスにおける土地商品化の問題と代替案

2017年8月3日、ラオスで唯一法的に認められた政党で、支配的な政治制度でもあるラオス人民革命党(the Lao People’s Revolutionary Party以降は党)の中央委員会は、土地管理と開発の強化に関する決議を発表した。この決議(ラオス語でmati)が驚くほど批判的であったのは、政府の過去の土地管理政策、とりわけ、土地の投資や商品化の計画に関する政策で、政府が2006年以降「土地資本化(“Turning Land Into Capital” (kan han thi din pen theun,以降はTLIC)」と名付けて来た政策だ。TLICに関しては多くの問題が認められたが、特に、TLICに「まだ包括的な法的枠組みが無いため、政府と国民がしかるべき利益を得られずにいる」事、また、「開発計画のための土地収用が重荷であるだけでなく、センシティブな問題でもあり、社会秩序に影響を及ぼしている」事がある。 この決議は党と国家の懸念を反映したものであり(しばしば、これがラオスで「党国家(“Party-State”)」、phak-latと呼ばれるのは、両者の活動が密接に重複するためだ)、というのも、彼らの国民に対する正統性を脅かす可能性を土地紛争が持っているからだ。そこで党はトーンルン・シースリット(Thongloun Sisoulith)首相を筆頭に、新たな指導者たちを選出し、政府を2016年時点とは異なる方法で運営しようとした。彼らにはラオス国民最大の懸念と認識された問題に対して、より厳格な政府の統制を主張する権限が与えられた。それらの問題とは、まん延する腐敗や麻薬取引、不法伐採の横行、そして土地問題である。ラオスは度々、党国家が実質上、国内の政治生活のあらゆる側面を支配する手法から、その反民主的慣行を批判されている。だが、ラオスがレーニン主義的な民主集中制(democratic centralism)の原理を公式的に守ろうとする態度は、時として、市民の懸念を(特に国民議会(NA)に提出される苦情という形で)不規則的に上層部に吸い上げ、トップダウン式の政策決定に影響を及ぼす事を可能としている。 この決議はまた、内外の投資家への国有地のリースやコンセッションの供与(TLICの中心的構成要素で、1992年以降承認され、2000年度の初頭から激化した(Bairdの本号参照)が限界に達した事を実証している。土地コンセッションが社会環境に壊滅的な影響をもたらす割には、わずかな公益しか生み出さない事が認識され、政府は2007年以降、ある種のコンセッションに猶予を設けてきたが、この付随条件は時と共に弱まって来た。影響を被ったコミュニティは増々、土地の収用に不満を募らせることになったし、農地や林地の大部分の土地の譲渡を拒むようにもなった。郡や県の高官たちは、中央政府から企業に供与された土地の大部分が利用不可能である事に気が付き、これを上に報告した。その結果、投資家たちは特に農業部門において土地を入手するために、コミュニティや各世帯から土地を借り入れる、契約農業を行うなどといった、その他の手段を模索しはじめた。 こうして、TLIC政策は岐路にあり、政府はこれがどう改定されるべきかを検討している。殊に草案が修正された土地法については、作成時に国民議会による再検討のため、2018年10月にいったん保留となった程である。TLICが土地に関する党決議に卓越した役割を果たしている事を考えれば、これが定着する事は明らかだ。しかし、党国家とラオス社会全体が取り組むべき懸案がある。誰のために土地が資本化されるのか?そして誰が土地資本化の方法を決めるのか?あるいは、どの土地区画が転用対象となるのか?といった事だ。現在まで、TLICの利益は土地投資家と国家が享受してきたが、その外部性の大半はラオス人の土地利用者や国民全般が負担してきた。本論では、党国家がTLICの「善」と「悪」をより公平にいかに分配するかという問題を深刻に受け止めつつも、同時にそのような目的の達成に必要となる実質的な政策や政治・経済改革に取り組む準備ができていないと主張する。かくして、ラオスのTLICを背景とする土地のガバナンス問題は、「古きものは死し、新しきものは生まれ得ぬ(“the old is dying and the new cannot be born”)」というように、今後も続いて行くと思われる。 土地資本化の曖昧な誓約 2017年8月に、著者はTLICが過去10年の間にいかに運営されてきたかを評価する研究プロジェクトに参加した。行われた33件のインタビュー(これが本論の基本的な証拠となっている)は、国際非政府組織(INGOs)や国内非営利団体(NPAs)、ラオスのコンサルタント会社など、政府の外部で働く人々も含むラオス国民が、全体としてTLIC政策に対して広く似たような感情を抱いている事を示した。一人の回答者の答えはこの展望を明確に反映していた。「この政策は原則的には良いが、実施上には多くの問題がある。その実施方法には透明性や説明責任も無く、良いガバナンスも無い。全てがトップダウン方式で行われている。」政策内容よりも実施に焦点を当てる事は、ラオス国民が政府の政策に軽い批判を表現する際に用いる典型的な策だ。それでも回答者たちは、この政策の意図については、特にラオス人の発展願望に重なる点を考慮して、これを純粋に評価すると表明した。 TLICが理論上はラオス国民の心に訴えるものである理由の一つが、具体的な適用形態が無数にある事に比べ、その定義が曖昧な事だ。多くのラオス人回答者が、この政策の意図を最大限に拡大解釈していた。例えば、様々な形の投資によって国土の経済的な生産性を高め、国家と国民のために幅広い利益を生み出す、という具合だ。TLICに具体的な定義が欠如している理由は、これが実際に公的政策として明文化された事も、公表された事も無かったためであり、伝えられるところによると、その正確な意義をめぐって起草委員会の意見が割れていたためだという!回答者たちはこの政策の意図について様々な解釈を口にした。(1)幅広い経済価値を生み出すため、(2)政府のプロジェクトに資金を調達するため、(3)国土の私有化および商品化のため、(4)国家資産あるいは公共資産としての土地に対するラオスの管理権を維持するため。さらに、彼らは様々なプロジェクトをTLICの枠組みに当てはまるものと見なしたが、どのタイプのものが「真の」TLICの例であるかについては、時に意見が分かれた。それらには(1)インフラ、特に政府庁舎のために民間投資家と国土の取引をする事、(2)国土を売り、450年道路(the 450 Year Road)の事例のような道路施設の資金を調達する 、(3)国土を投資家にリースやコンセッションとして供与する事、(4)土地市場の創出と発展を目的に土地を登録する事が含まれていた。 […]

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Issue 25 Mar. 2019

安全保障の地理学:現代ラオスにおける抑圧、比較優位と住民管理業務

1988年の初頭にラオス閣僚評議会は、各省庁や国家委員会、大衆組織、各県ならびに各市町村に向けて訓令を発した。「住民管理業務の強化(“stepping up population management work”)」と題されたこの文書は、経済発展と国家安全保障の密接なつながりを強調したラオス農村部のビジョンを明記したものだ。これによると、住民管理業務には「人口統計の把握、出産および死亡統計の記録、身分証明書の発行、人口移動の計画、居住パターンの分類、そして生計を立てる土地を持たない多民族の国民のために新たな職を探す、あるいは創出する事」が含まれていた。またその「基本原理」について、訓令には「ラオスの多民族の国民に正当かつ等しい権利を生活のあらゆる領域で享受させ、彼らの集団的主体性と独創心をより強化して、国家防衛と社会主義構築の達成という二つの戦略的課題に当たらせる」と記されていた。 この住民管理の手法の一部は、フーコー(Foucault)の近代政治の手法に関する講義の記述、またそのより大筋の支配理論にとても似ている。というのも,住民(the population)を把握する上で人口や地理、生計に関する統計を用い、政治・経済政策を通じてこれらを行政能力とガバナンスに昇華させようとしたものだからだ。いずれにおいても、「住民」は単に人々の集団を指すだけでなく、より大きな集団の必要に応じて行動しようとする集団、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)の言う「為すべきことを為す(“do as they ought”)」人々を意味する。フーコーが主張したのは、ここでいう住民が,手に負えぬ群集、すなわち「人民(“the people”)」とは正反対のものとして理解すべきということである。人民とは、その権利や利益が満たされる事が社会的に不都合であると判明してもこれを要求し、住民の構成員となる事を拒むことでシステム全体の機能を妨害するものたちである。一方で住民の一部となれば一定の自己利益が得られるが、ただし,厳しい制約が伴う。すなわち、国家の利益のための犠牲も要求されるという事だ。 この20年越しの評議会の住民管理業務に関する訓令は、一見するよりも時代錯誤なものではない。1980年代後期はラオス人民共和国(Lao PDR)の歴史の変革期であり、一方では自由化と外国投資(いわゆる新経済メカニズム/ New Economic Mechanism)の名の下で経済に全面的な変化を引き起こそうとするポスト冷戦期の幕開けだった。他方で第二次インドシナ戦争終結後から遥かに長引いた戦後10年プラスアルファの時代でもあった。1988年の後半にタイの首相が「戦場を市場に変える」ために地域全体の協力を呼びかけると、ラオスの党首たちは「銃声のしない新たな戦場での…高度の警戒」の必要性を強め、幹部たちに「敵」(の過去、及び現在の試み)が他国でもそうしたように、相互疑惑や反目、上下階層間の不信感をもたらし、内紛を引き起こして暴動や反乱を生む」と喚起した。住民管理業務に関する訓令が発されたのはそのほんの数か月前の事だが、この訓令にもやはり、外国による密かな干渉が明白に述べられていた。訓令は住民管理業務について、「大がかりで包括的な作業」であり、「適切な態度、強い責任感と十分な能力を以て政治、社会、経済、国家防衛と公安上の任務を遂行し、住民の民主的権利を尊重しつつ、巧妙かつ慎重に備える事で、敵の策略を回避する」必要があると論じていた。 こうした安全保障論はやや時代錯誤と思われるかもしれないが、その基本的な論理は今も存在する。このエッセイは、開発と防衛についての国家によるあけすけな理論化の初期についての考察が、現代ラオスの土地と資源のガバナンスに対する我々の批判的分析の試みに有益な2つの方法を示すものである。この2つの方法は、いずれも安全保障の言説を真剣に受け止めながら、他方で、外国による介入という悪しき過去のイメージを維持することで批判をそらしたり、排除したりする試みとは根本的に距離をとるものでもある。第一に、筆者はラオス高地の現代の住民管理業務をアイワ・オン(Aihwa Ong)が段階的主権(graduated sovereignty)と呼んだものの一形態として理解するべきだと考える。段階的主権とは、強国とは言い難い国々が、その領土と国民をグローバル経済の制約と機会に適応させるために行う政治的作業のことである。ラオスの場合、規制への反発に対する一時しのぎの手段として国家による抑圧が採用されており、農村コミュニティと、コミュニティの人々と土地の両方を開発や保護政策に参加/登録させようと試みる様々なアクターとの緊張関係を管理するための手段になっている。第二に、この主権として行使される抑圧は、確かに道徳的に批判されるべきものではあるものの、歴史的に複数の要因が引き起こしたものであり、ラオス国家だけでなく,海外の公的アクター(政府と多国間アクターの両者)を視野に入れる必要性があることを示唆しておきたい。これらのアクターの決定が今日のグローバル経済のなかでラオスが生き延びていく手段に重大な影響を及ぼすからだ。この分析は土地や森林管理の様々な分野にまたがる問題に関連すると思われるが、簡潔を期すため、ここでの議論は一つの事例に限定する。 ラオス北西部における管理された囲い込みと政治的無力化 戦争の暴力と、抑圧手段の管理は今日、ポストコロニアル社会の組織では圧倒的に重要である。戦争が起こったところでは、領土と国民の統治される方法が再構成され、事実、全国民が政治的に無力化される。 – Achille Mbembe, On the Postcolony(アキーユ・ンベンベ『旧植民地について』) ラオスは2000年代の後半に国際土地取引のにわか景気の第一線に急浮上したが、振り返ってみれば、これは世界的なランド・ラッシュ(土地獲得競争)と呼ばれるものだった。東南アジアの学問とジャーナリズムが一体となって示したように、2008年後期から2009年に全世界の注目が急上昇したにもかかわらず、2000年代の大半を通じて、多国籍アグリビジネスのための様々なかたちでの土地の囲い込みが生じ、金利の安いクレジットや投機的な需要、新興経済国による積極的対外投資が重なり、これが西洋の開発支援を受けた「土地の豊かな」国々の不満の蓄積を招いた。ラオス北西部の新たな天然ゴム農園に対する中国の投資はこの隙間を突いた。大半が民間投資でありながら二国間開発協力の名の下で進行し、中国政府の対外投資奨励政策によって促進された。このような政策には、天然ゴム等の正当な換金作物がアヘン栽培の代替になるというレトリックでなされるアグリビジネスへの寛大な助成金も含まれていた。 「メゾ(中)」規模においては、雲南省南部とラオス北西部の間のアクセシビリティと連結性の向上にともなって新たな天然ゴム農場への投資が進んだ。中国企業はシン郡(Sing District)や県都ルアン・ナムター(Luang Namtha)などの国境地帯で成功をある程度収めていたが、この地域の農民の多くが既に中国と関係していた事から、新たな土地へのアクセス(また契約農家か契約労働者のいずれかの形によるラオス村民へのアクセス)の大半は「北部経済回廊(Northern Economic Corridor)」(西部ルアン・ナムターとボケオ県を通って北部タイと雲南省を結ぶもの道路の拡張で,2003年から2007年にかけて建設)周辺に新たに開かれた後背地で起きた。「大メコン圏(“Greater Mekong […]