マレーシアにおける冷戦遺産

Meredith L. Weiss

National-monument-Malaysia-KRSEAjpg

冷戦はマレーシアの政治と社会に大きな痕跡を残した。1948年から60年の反共産主義非常事態は、初めは英国植民統治エリートの、後には現地エリートの共産主義の国内進出との闘いに向けた構えの程を示していた。だが、なおも充満する共産主義の脅威、そしてあまりにも都合の良過ぎる共産主義の敵の亡霊は、マラヤ共産党(the Malayan Communist Party: MCP)の排斥とその後の敗退のはるか後にまで政治全体にこだましていた。冷戦はマレーシアの公式政治(formal politics)と市民社会に、複雑で永続的な遺産を残した。これらの影響は今もなお、政治的イデオロギーや居住形態(settlement patterns)、制約的法律、地政学的な位置づけにおいて見る事ができる。総じて、マレーシアは真の共産主義、すなわち真に攻撃的な共産主義運動を経験したのであり、その人心掌握戦略(hearts-and-minds strategy)と軍事的弾圧とを組み合わせた反乱鎮圧対策は、今でも暴力的な過激派対策における今日の治安部隊の指標となっている。だが、より深い傷を残したのは、マラヤ共産党そのものよりも、これらの戦いがイデオロギーや人口統計、法律、安全保障の状況を形作った方法にある。つまり、マレーシアの社会政治的発達の形成期における、華人を中心とし、国際社会に非難された反資本主義運動は、イデオロギーの選択肢を非合法化し、著しく非政治化された社会に内包される強力で中央集権的な、具体的には民族共同体的で資本主義的な国家の強化を促したのだ。

マレーシアは、とりわけ興味深い検討事例を与えてくれる。一方において、マレーシアの2018年の総選挙では、おしなべて計画的な連立政権が61年間政権の座にあった、よりパトロネージ志向が明らかな政権を追い落したものの、イスラム主義の第三政党も良い成果を挙げており、単なる取引的(transactional)、テクノクラート的な政治よりも、イデオロギー的な政治に今なお重大な強みがある事を示唆している。また他方において、その政治的マッピング(political mapping)は左翼運動弾圧の長期的な歴史も反映している。つまり、活発で人気があった左翼政治の初期の歴史にもかかわらず、マレーシアには数十年もの間、強力に(あるいは少なくとも、あからさまに)階級に基づいた政治的な選択肢が、小さな、窮地に陥った社会主義政党の外には存在しなかった。MCPがその武装集団(マラヤ人民抗日軍(the Malayan People’s Anti-Japanese Army、MPAJA、それに戦後のマラヤ人民解放軍、MPLA)を巻き込んで、トラウマ的な反共産主義のゲリラ戦の口火を切ったのは、現在のマレーシア国家が形をとり始めるのと同時の事だったが、これは(特に左派の)社会政治団体の規制から、マレーシアの政治的展開における華人の役割の軽視、そして一般的には合法とされるイデオロギー的見解の範疇の制限に至るまで、この国家のあり方や特性にとって極めて重要であった事が示された。

冷戦の名残

マレーシア国家は非常事態が鎮静化した後、もはや目立った共産主義の脅威に直面しているようには見えなかったが、MCPが完全に降伏したのは、ようやく1989年になってからの事だ。だが、殊に冷戦については(とりわけ、ベトナム戦争がまだ熾烈であった東南アジア内では)、1960年代後半から1970年代初頭の民族共同体的で資本主義を支持する国家が、当時の主な対戦相手である異民族から成った社会主義戦線(Socialist Front)の鎮圧に際し、直面した抵抗が最小限だったのは、それが左派であるとともに華人主体だった事による…この「華人」とは「共産主義者」の事だ。事実、共産主義は亡霊として、強力な国家と組織的に非政治化された社会とを正当化する上で、今も都合の良い引き立て役を提供している。冷戦の遺産はこのようにマレーシアで生き続け、国内の対立関係を効果的に明確化している。その持続的な名残が一層明らかな点が、政治的イデオロギーや集落形態、制約的な法律、それにマレーシアの地政学的な位置づけである。

イデオロギー的空間

反共産主義のイデオロギーは、急進的な労働組合や階級に基づく同盟を抑圧するイギリスとマラヤの取り組みに寄与した代わりに、民族の柱状化(ethnic pillarization)と共同体的政治(communal politics)の定着を促した。この結果は特にUMNOと、そのアライアンス(連盟党)および後に国民戦線(National Front: Barisan Nasional/BN)における連盟相手である華人やインド人のエリートたちの利益を反映していた。彼らの政治的所属や行政のモデルを左右したのは、有権者たちの階級ではなくエスニシティに沿った帰属意識の主軸だったし、また当初から、このアライアンス/BNが支持していた資本主義経済のモデルは、ブミプトラ(Bumiputeraマレー人と他の先住諸族)への再分配政策の支持によって補われるものだった

冷戦理論はイギリスやマラヤのエリートが、資本主義のイデオロギー的受容を自分たちの利益のためではなく、実存的脅威によって裏付けられたためと主張する事を可能にした。当初はマレー人の多くが小規模米農家だったが、彼らがその役割を担っていたのは英国の政策のためであり、どう見ても、彼らは資本主義に無関心だったと思われる。しかし、民族共同体の有力エリートたちは英国の作り上げた秩序で身を固めていた。英国の政策がマレー農家の中産(および資本家)階級の確立を目指す一方で、マレー人の行政サービスの設立や、その他の民族を対象とした取り組みは、彼らの英国の政策への統合を拡大した。

ほとんどの華人経済エリートも同様に、資本主義の追求に巻き込まれていた。だが、華人(やインド系)の労働階級の多くは、小規模農家というよりも、工場やゴム農園、スズ鉱山、あるいは、港湾労働などの有給労働に従事する新興の産業プロレタリアートに相当した。このマラヤとシンガポールの基盤から左傾した労働組合が出現し、(西洋優位の)資本主義に対する批判的見解が提示されたのだ。労働組合は重大で党派的な政治的関与の潜在的ないし実際の発射台となり、民族よりも階級に基づく帰属意識だけでなく、集団行動をも促進した。早期にイデオロギーを中傷され、あるいは単に抑圧された事から、労働組合は今ではほとんど沈黙したままとなっている。また独立後、間もない時代には、特に地方政府のレベルで左派政党の大躍進が見られたが、初期の弾圧と阻害要因によって、広く認められる労働者政党として機能する党は一つも残らなかった。

重要な事は、公式政治が極めて重要な関与に対して、わずかに寛容性を保っている事だ。そうだとしても、MCP崩壊から長い時を経た今も、一網打尽で合法性を否定するのに「共産主義者」のレッテルが貼られる可能性はあるし、広範な優遇政策を含む新自由主義に対する国家の自民族中心主義的な独自の解釈が「イデオロギー的なもの」として示される事は無く、むしろ主要な政治言説は、マレー人優位を人口統計学的、社会学的に必然と定義し、その他の経済的枠組みを真剣に検討する事がほぼ無い。結局、冷戦は階級よりも民族共同体的な結びつき、社会主義的あるいは、社会民主主義的モデルの検討の回避、華人住民を本質的に要注意人物と見なす傾向を確立させ、これらがポスト冷戦期のイデオロギーの可能性と実践に持続的な影響を及ぼしてきた。

 

住民の再定住

マレーシアでの第二の重要な冷戦遺産は人的景観(the human landscape)そのものと関係がある。非常事態期の反共産主義の取り組みは、当時の人口の約10分の1にあたる50万人以上の華人を婉曲的に「新村(New Villages)」と呼ばれた地域へ強制的に再定住させ、MCPの流通経路を断つ(制裁的)予防努力とする事にまで及んだ。

都市部や鉱山周辺に集中してはいたものの、一定数の華人は長らく自給自足の農地に居住していた。1940年代の日本による占領は、この農村の分散化を促進させ、1945年には50万人もの華人スクオッター(squatters:無断居住者)たちがジャングルの周辺集落にいた。これらのコミュニティは、MPAJA部隊に食料その他の物資、情報ルートや補充兵を、好むと好まざるとに関わらず提供していた (Tilman 1966, 410, Yao 2016)。植民地政府は、MPAJA部隊がジャングルで生き長らえるには、そのような供給が無くては無理と考え、コミュニティを無差別に柵で囲まれた村落に移動させた。政治的主流への統合もこの取り組みの一環であったが、これは主としてマラヤ華人協会(the Malayan Chinese Association: MCA, 馬華公会)を通じて行われた。この協会は生活に必要な設備を提供し、新村住民が新たな環境に適応する手助けを行った(see Teh 2007 [1971])。

しかし、再定住はMCP支持者とその他の者達の両方を単一民族の街に、地理的に孤立させ、多くの場合が、このあまりにも煩わしい状態によって深い不満を抱かせた。大規模な強制移住は、民族共同体の庇護者としてのMCAに明確な適所を切り開くなど、民族的な帰属意識を向上させた。このイニシアティブは住民が自らの新しいコミュニティに一役買っているという意識を高めるための代議制システムの導入など、新たな地方統治の形態と(Strauch 1981, 40-41)、監視のための新たな手法や正当化も促した。

新村が点在して残っているのは、主に半島部マレーシアの西側だ。それらの村々は、より自然に形成された市や町に比べ、それほど民族が混在していないようだ。また、これらの村々への手当てには一貫性が欠けているとしか言いようがない。ほとんどの新村は、1980年代の半ばまでには基本的に十分なインフラを備えていたが、過密状態と農地不足に直面しており、雇用の機会が限られていた事から人口流出が起こり、学校その他の施設も乏しく、あるいは限りがあり、行政や財源も不十分だった(Rumley and Yiftachel 1993, 61-2)。つまるところ、冷戦の反共産主義によって生じた住民再配置の空間は、この時代の持続的かつ結果的な遺産に相当する。

法規制

第三に、法の領域に目を向けよう。東南アジアの他のどの国とも異なり、反共産主義の努力は軍事的関与が長引いたにもかかわらず、国軍自体を拡充させる事はなかった。振り返ってみると、このような自制は極めて注目に値するものだ。しかし、非常事態期には市民の自由や社会政治改革に対する新たな規制が見られ、これが冷戦後にまで根強く残った。労働組合に関するものだけでなく、それ以外の市民社会団体も、非常事態期の規制に由来する登録上、公的審査上の規則下に置かれたままとなっている。さらには、特別な警察権限を要請し、特に政治的なものなど、緩やかに定義された脅威を阻止するための規範が、冷戦期の取り組みの名残として残っている。

The Communist Party of Malaya Office before the Malayan Emergency

さらに狡猾にも、この法社会的機構は重大な政治的関与を向こう見ずで無謀、あるいは単に不適切と貶める評価を定着させ、また特には、マレーシア華人と言えば、おそらくは誠実さが当てにならないとの憶測に結びつくような印象作りを促した。この見方の定着に重要な役割を果たした出来事が1960年代末の都市部におけるマレー人対華人の民族暴動で、特にクアラルンプールでの1969年5月の選挙後の暴動であった。だが、時と共に「5月13日」の支配的な解釈が変わり、上り調子の社会主義戦線を非難するイデオロギー的色合いは払しょくされ、純粋な民族化の(racialized)記述が優先された。1969年から71年の非常事態宣言期以降の新たな法律は、NEP(New Economic Policy/新経済政策)を補完し、マレー人の特権に対するいかなる攻撃も、あるいはこれについての批判的議論でさえも禁止した。

独立以来初の政権交代があったにもかかわらず、今日もなお、そしてこれ程執拗にも、マレーシアには一連の法的制約が存在し、それらは明らかに実際のいかなる脅威にも見合っていない。これが残る一方で、冷戦がもたらした都合の良い亡霊は、それほど確かな存在ではないにせよ、国内の権力闘争や偏見と都合よく手を結び、客観的に見れば必要以上に強圧的な手段を正当化している。数十年を経てなお、その遺産は存在し続けているのだ。

対外関係

最後に、マレーシアで社会政治的傾向が明確化すると、他のアジア諸国での冷戦の続行は、政治機構に対する外部からの干渉や厳しい批判の衝撃までをも緩和した。西洋列強は、マレーシアその他の地域諸国の非自由主義的指導部を、これらのパートナーが反共産主義である限り(また1970年代には、ベトナムへの軍事的アクセスの便宜を図った場合は特に)、容認していたのだ。このようにして、マレーシアは厄介なコンディショナリティーや外圧からの保護を享受した。

はっきりしない事は、どの程度、あるいはなぜ、これらの許容が習慣化したかという事だ。ベトナム以降も、ソ連の崩壊以降でさえ、米国その他の民主主義諸国は、増々抑圧的となるマレーシア国家を貿易相手国として価値のある限り容認し続けた。アメリカの為政者たちは優遇政策の範囲に不満を述べたが、それでもマレーシアはレッセ・フェール(laissez-faire/自由放任)の手法から恩恵を受けているようであり、その親交関係の確立は共通の経済的な利益と手法を圧倒的な前提としていた。マレーシアは反共産主義の外国勢力にイデオロギー的に上手く同調し、その脅威とならぬようにして来たため、大して問題にされなかったのだ。

要するに、マレーシアは冷戦時代に誕生して以来、殊にASEANがひとたび形成され、これが忍び寄るとされた過激派共産主義に対する一層の緩衝装置となって以来、幅広い自由を享受してきたという事だ。その経験は冷戦を国際紛争という視野から見る視点を与えていると思われる。この遂行には、問題がそのイデオロギー的同族を国外に見出す前に国内で消し止め、取り込み、あるいは封じ込める事が必要であり、そうしなければ、これらは国内問題から多国間問題へと徐々に変化する事になる。

結論

これらのプロセスの結末は、選挙権威主義体制(electoral-authoritarian regime)の長期的な強化だが、その政権は今、ようやく正式な移行の初期の不安定な段階にある。その政権は変わる事のない居住パターンによって強化された民族共同体のアイデンティティを優遇している。また政権は、資本主義の発展にも機会を与えているが、福祉支援は市民の当然の権利というよりも、慈悲深き政府からの贈り物と表現され、重大な政治的関与には広範で深く内在化した、断続的にのみ回避される牽制が伴う。この遺産の一部は、確かにこの地域一帯で見られるものだが、マレーシアの英国からの実質無血で段階的な脱植民地化や、その民族共同体的構造、開発主義的な野心と努力とは、これらの遺産を特定の必然的な方向へと導く。

議論する余地があるのは、そもそもMCPがマラヤに実際、どれ程の脅威を与えたのか、つまり、政治機構が本当に共産主義に変わってしまうような事があり得たのかという事だ。確かに、MCPの軍事部門は構成も十分で、かなり強力ではあったが、組織された政治的左派の大部分が非共産主義者で、それ自体が民族共同体に基づいて著しく階層化されていた。より確かな事は、共産主義が政治機構に取り消す事のできない深い傷を残して勝利し、その制度的、イデオロギー的、社会的、戦略的な方針を、今後数十年の要となる進路に打ち立てる必要には及ばなかったという事である。

Meredith L. Weiss
ニューヨーク州立大学アルバニー校
政治学科教授

Banner: View of the National Monument of Malaysia located in Kuala Lumpur, Malaysia. Image: EQRoy / Shutterstock.com

References

Rumley, Dennis, and Oren Yiftachel. 1993. “The Political Geography of the Control of Minorities.”  Tijdschrift voor Economische en Sociale Geografie 84 (1):51-64.
Strauch, Judith. 1981. Chinese Village Politics in the Malaysian State. Cambridge, MA: Harvard University Press.
Teh, Hock Heng. 2007 [1971]. “Revisiting Our Roots: New Villages.”  The Guardian 4:3.
Tilman, Robert O. 1966. “The Non-Lessons of the Malayan Emergency.”  Asian Survey 6 (8):407-19.
Yao, Souchou. 2016. The Malayan Emergency: Essays on a Small, Distant War. Copenhagen: NIAS Press.