Issue 8-9 Mar. 2007

批評するという選択:“Talking Drama with Utih” におけるKrishen Jit との出会い

      こうして、我々の演劇は、ある新しいものから別の新しいものへと移ろっていく。我々の前途には何が待ち受けているのだろうか?1970年代以前に存在していた、たくさんの規則から、我々の脚本家たちが一度は自由にしてもらって以来、予言はできなくなってきており、それを言うことは困難である。今日では、ただ一つだけの規則、すなわち、演劇は固定して動かない硬質なものではない、という規則だけが流布しているようである。しかし、自由と共に、重い責任が、特に広い心がまだ育っていない観客に対する責任が、やって来たのである。(1979年4月8日、Jit)   マレーシアのような社会環境、すなわち、(人種的、宗教的、加えて言語的に)異なった諸文化が、国家と共に、さまざまな権力関係の中で共存しているような場所では、パフォーマンスについて議論するという任務は、優越的な実践とその結果として生じる偏見を生み出すところの、社会‐経済的・文化的政策と絡み合うということをもまた、含意している。具体例を挙げれば、(民族集団別の不条理な所得格差を減少させることを目的とした)国家公認の差別是正措置と(マレー語のクレオール化による「不純化」を防止することを意図した)国家言語の使用と管理は、マレーシア人のディスコースを形作る、周期的に発生する論争点である。人種や宗教といった、文化の一定の側面が「センシティブである」と分類されて―すなわち、公共的な議論が公認されておらず、その限度を侵犯した時に重大な検閲がなされる―場合、アイデンティティや国民らしさに関する論争点とずる賢く取り組むパフォーマンスは、しばしば、網から滑り落ちるのである。   これらの場に対する慎重な注意は、批評と省察のための豊富な素材を提供する。しかしながら、批判的な分析が歴史への視点を提供し、芸術解読の技法を発展させるという思考の場を創出することへの挑戦が果たされることはめったにない。Krishen Jitの長く続いたNew Straits Times紙上の芸術批評コラムであるTalking Drama with Utihは、マレーシアの風土の中での、そんな場所の一つであった。それぞれのコラムは、パフォーマンス・イベントの批評のみならず、それに関連した論点を突く、巡り会いであった。これに肩を並べる関心と分析の深さを生み出している者が、もし他にいるとすれば、残念ながら、それは、ほんの二、三の例しかない。本稿は、Jitの批評するという選択の結果として―しばしば一つの記事の中で―伝統文化・現代的不安・同時代の切望との「出会い」を創り出した“Talking Drama with Utih”のいくつかを検討する。 “Talking Drama with Utih”(「Uthiと共にドラマを語りあう」) パフォーマンスの批評は、審美的な価値の評価を越えて、作品の背景となっている政治的コンテキスト(脈絡)と文化的歴史の探求へと及ぶものである。マレーシアのようなポストコロニアルな多元的社会においては、これは、選択肢を与え、反響を左右し、文化的容認の限界を決定するローカルとグローバルの双方の影響への意識的な自覚化を含むことになる。商品化されえないものとしてのライブ・パフォーマンスは、パフォーマンスの瞬間を越えた歴史的記録と反響については、批判的論評に依存する。これを実践することは、つかの間の一瞬を、洞察と出来事への感性とその意義を提供することになる、持続する記録へと置き換えるという、法外な努力を要求する。   “Talking Drama with Utih”は、マレーシアの英語新聞の中で、最も長く存続した芸術コラムであると認められている。世に認められた演劇界の長老であったKrishen Jit(1939~2005年)は、1972年から1994年に至るまで、毎週、Uthi―マレーシア文学における桂冠作家であるUsman AwangによるUda dan Dara(マレー語:UdaとDara)という劇の登場人物の一人―という筆名を用いて、マレーシアにおける演劇と芸術について書いた。劇中では、Uthi は、彼の人間のありかたに関する洞察が事態を紛糾させるのだが、それにもかかわらず、思考を刺激してくれる能力によって崇敬されている、賢明だが一風変わった村の年長者である。Uthiは、常に慣習やしきたりを信奉せず、そして、後でしばしば彼のラディカルな考え方や強力な批評のために誤った解釈に陥る。いくつもの点で、Jitのコラムは、彼に似た役割を演じていると言えよう。   30年間に及ぶマレーシア人の生活の、大きな変化の中にあって、Uthiの声は、アイデンティティ、モダニティ、教養、芸術における公正といった論争点を探求する間に、多元的で分裂した社会のダイナミズムと深く関わってきた。不条理劇、もしくは中国歌劇として―彼自身の限界を認める自由さをもって、それ故に権威主義的に見えることなく説得的に―Jitはローカルなものを国際的なものと関連させて、あるいは、その逆もまた同様に、解釈して提示した。彼は、自らの役割を、選択の贅沢さが、気まぐれな思いつきで選んだり拾い上げたりすることを可能にする、ブロードウエイやウェストエンドの評論家とは区別されるものだと理解していた。Jitは、マレーシア人の批評家は、時に、それが、進化しつつある一つ国民文化と特徴付けられるものとして、ローカルな実験を理解する困難な任務をやり遂げなければならならず、そして、それは作り手と観客の両方の利益のために議論されるに値するものだと信じていた(Jit、1986:5を見よ)。これは、なじみの無いものに注意を払い、自らの本能を信用し、客観性と絶対的な権威への誤った信頼に対してはっきりと挑戦することを意味する。 あなたがそこで使用されている言語が分からない時であっても、いかに多くのものを見たり聞いたりできるかということは驚くべきことである…まだ慣れていない人は、その場ですぐにコード化されたメッセージを解することはできない。また、舞台の袖でも続くようなジェスチャーの中に込められたニュアンスをきちんと理解することは不可能である…たとえ仮に、ため息の意味を知らなくとも各自の理由によってそれを楽しむことは可能である…だから、もし広東語を知らないとしても広東歌劇を見に出かけよう(Jit、1986年5月25日)。 “Talking Drama […]

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タイ現代文学の潮流 ―セーニー・サオワポンよりチャート・コープチッティへの流れを中心として―

はじめに   タイ現代文学においては、他の多くの分野においてと同様に、1973年のいわゆる「学生革命」前後が一つのturning pointとなるのであるが、本稿は、具体的な文学作品分析を通して1973年の前と後との傾向及び特徴の違いの一端を捉えることを、その狙いとしたものである。具体的には、1973以前の代表作としてセーニー・サオワポン『妖魔』を、以後の代表作としてはチャート・コープチッティ『裁き』を採り上げる。この二作品を採り上げる理由は、其々がいわゆるタイ文学の「純文学」系の評価としては、その頂点に立つものであると考えられるからである。   まず『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴を、「業からの解放」という視座から捉えてみた。管見によれば、セーニーは作品中で、文学にも長らく反映されてきたタイ社会に特有の通俗的仏教観念との対決・決別を示しているのである。即ち本来のものを離れ既に社会的に通俗化した運命の享受観や業への諦観(タイ語でいうプロム・リキット的側面)から離れ、運命或は業を改変できるものとして捉える「本来的な」業理解(カンマ・リキット的側面)へと我々を誘うものであると考えられるのである。   続いて『裁き(カム・ピパークサー)』の文学的特徴を「出家と実存のはざまで」といった視座から分析した。本作品はサルトル的な自己欺瞞の否定を謳っているといえよう。世界に寄る辺なく投げ出されている実存(人間存在)との対峙、およびその対極にある自己欺瞞(に生きる人々)の否定。あるいはタイ的自己欺瞞の一つである、苦は業に因るという観念或は苦は業の結果であるとする人々の批判(そうではなく苦は人間の実存の結果であるとしている)。さらには、タンブン(喜捨)をはじめとする一般の通俗仏教信仰への懐疑などである。しかし本作品に特徴的なのは、出家に「出口」を求めている点である。ここで出家という仏教的価値観については、文中の方丈の言葉がまさに暗示の如く通奏低音として作品中に流れている。そこでいう「仏法の世界」とは出家者としての仏法の世界であり、世俗と区別した出世間のことを指しているのはいうまでもない。それは他人との出会いにより自己の失墜を招く、実存と向き合わざるを得ない世間、即ち仏教的に云うならば、パーリ語で云うところのローキヤではなく、ロークッタラ、即ち出世間なのである。   それでは以下、具体的に両者の作品分析を行っていくこととする。  【1】セーニー・サオワポン『妖魔』-「業からの解放」    本論は、本邦に於いていまだ殆んど研究の手がつけられていないタイ文学をその素材としたものである。本論ではなかんずく、タイ現代文学においての、作家の社会に対する意識の位相を探っていきたい。我々とは文化的思想的背景を異にするかの地の文学は、自ずとその趣を別にするが、中でも顕著な特色の一つに、作家の社会に対する極めて鋭敏な意識・姿勢が挙げられよう。政治的社会的不安定は、その度重なる動揺を通し、近現代の文学者の社会意識をいやが上にも我々の考える以上に鮮明なものにしていった。その外からの眼としては、先づ、大きく東南アジア現代文学の特徴として、「東南アジア社会の文学は本質的にlittérature engagéeである」と指摘する者がある。東南アジアの作家たちは、いやが上にも政治や社会の現実と対峙し、そこから顔をそむけることが殆んど不可能であった過去があるであろう。その中には植民地化の問題に由来するものもあるだろうが、それを免れたとはいえ、タイにおいても社会の現実は非常に重く作家の肩にのしかかっており、逆に社会に対する作家の極めて鋭敏な意識・姿勢はタイ現代文学の色濃い特徴となっている。タイの文化文学にも造詣の深い文化人類学者のニールス・ムドラーは、インドネシア文学に比してタイ作家と社会の係わりを次の如く強調している。「タイの作家にとってその特徴をかたちづくる中心はsocial stage」であり、「ジャワ文学のself-centredな個に対してタイ文学の個はsocial settingの中に明瞭に規定されている」と。   加えて、内からの眼としては、長らくタイペンクラブ会長をも務めたニッタヤー・マーサウィスットは、タイ文学の特徴として、タイ作家の社会正義に対する意識は幾度の政治的動乱にも屈することなく、文学の責務として脈々と続いている旨の指摘を行っている。さらには、タイにはいまだトルストイやツルゲーネフや巴金、或はバルザックやゴーリキーや魯迅も生んではいないが、それでも良いところはある、それは政治に関して割と力強い思索をしてきた点である、といった面白い指摘をした者もいる。   それでは内外のタイ研究者が共通して認めるタイ現代文学に顕著な特徴である社会意識とは一体いかなる位相であるのか。ここではビルマ大使も務めたことのある現代有数の作家セーニー・サオワポン เสนีย์ เสาวพงษ์์(1918~)およびその代表作『妖魔』ปีศาจ を中心に見ていきたい。   その為の手順として、本論考では、先ず、セーニーのタイ現代文学における文学史的位置・役割を概観し、次に『妖魔』の作品分析を通して、その位相の具体的な例を抽出していきたい。  【1.1】セーニー・サオワポンの文学史的位置    セーニー・サオワポンは、タイ現代文学史上において「純文学系」の一つの到達点であると捉えられ得る。チュラーロンコーン大学のトリーシン・ブンカチョーン博士は、セーニーの干支七順目(84歳)を記念するマティチョン主催のシンポジウムにおいて、セーニーは文学によりタイを動かし、タイ小説の歴史を変えた。さらには、先見性に富んだ著作によって未来をも予見することのできる、タイ社会のみならず人類全体の作家である、との指摘を行なった。   ここでセーニーの文学史上の意義を考える場合は、先ずタイ現代文学史上での〈人生の為の芸術〉วรรณกรรมเพื่อชีวิต の動きを顧みなければなるまい。タイにおいては現代文学は常に政治との係わりにおいて、或はその圧迫を受けながら或はその抑圧から脱しながら、歴史が流れていくのであるが、その流れの中から〈人生の為の芸術〉と呼ばれる処の動きが生起する。この〈人生の為の芸術〉はまたタイ現代文学を俯瞰した場合には、そのメイン・ストリームを為すといっても過言ではないものでもあるのだが、その中でもとりわけセーニー・サオワポンの果たした役割は大きい。   セーニーは1952年のタマサート大学での講演の中で、この〈人生の為の芸術〉の立場を表明する。とりわけ「著作と社会」การประพันธ์กัปสังคมでは明瞭に作家の社会に対する責務を打ち出し、また同年の評論「ロマン主義とリアリズム」อัตถนิยมแลจินตนิยมにおいてはリアリズム文学の意義を唱えた。こうした立場は、同時代の高名な文芸評論家たるバンチョン・バンチュートシンの次の言葉に集約されるであろう。 人が飢餓のために死んでいっている時、月の美しさはなんの役に立とう。芸術家の責務は悲惨な光景を直視するところにある。   […]

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วิถีของวรรณกรรมร่วมสมัยของไทย กระแสวรรณกรรม จาก เสนีย์ เสาวพงศ์ จนถึง ชาติ กอบจิตติ

บทนำ สำหรับวงการวรรณกรรมร่วมสมัยของไทยแล้วนั้นปี2516หรือ“ช่วงของการปฎิวัตินักศึกษา” ถือได้ว่าเป็นจุดหักเหหนึ่ง(Turning point)เฉกเช่นเดียวกับในหลายๆแขนง งานวิจัยฉบับนี้จะทำการศึกษาถึงความแตกต่างของลักษณะพิเศษในผลงานวรรณกรรมและแนวโน้มของงานในช่วงก่อนและหลังระยะเวลาดังกล่าวผ่านทางการวิเคราะห์ผลงานวรรณกรรมในรายละเอียดของผลงานนวนิยายสองเรื่องนั่นก็คือ“ปีศาจ” ของเสนีย์ เสาวพงศ์ และ “คำพิพากษา” ของ ชาติ กอบจิตติ “ปีศาจ”เป็นตัวแทนของงานในช่วงก่อนปี2516 ส่วนเรื่อง “คำพิพากษา” นั้นเป็นตัวแทนของงานในช่วงหลังปี2516 เหตุผลที่หยิบยกผลงานทั้งสองเรื่องนี้มาทำการวิเคราะห์เนื่องจากผลงานทั้งสองเรื่องถือได้ว่าเป็นผลงานแถวหน้าในฐานะการวิจารณ์วรรณกรรมบริสุทธิ์ ของวรรณกรรมไทย อันดับแรกการวิจัยได้จับประเด็นของลักษณะพิเศษทางวรรณกรรมของเรื่อง “ปีศาจ” จากมุมมองในประเด็นที่เกี่ยวกับ “การหลุดพ้นจากบ่วงกรรม” เพราะเมื่อหากพิจารณาให้ดีแล้วจะพบว่าในผลงานวรรณกรรมของเสนีย์ เสาวพงศ์เรื่องนี้นั้นได้แสดงถึงการเป็นปฎิปักษ์กับแนวคิดเกี่ยวกับพุทธศาสนาโดยทั่วไปที่เป็นลักษณะพิเศษของสังคมไทยที่ได้สะท้อนออกมาเป็นระยะเวลายาวนานในวรรณกรรม กล่าวคือเป็นการถอยห่างออกจากเรื่องของพรหมลิขิต, โชคชะตาที่ได้กลายเป็นสิ่งธรรมดาสามัญของสังคมไปแล้ว, และเป็นสิ่งที่ชักชวนพวกเราให้เข้าไปสู่ความเข้าใจในเรื่องกรรม (กรรมลิขิต) ในความหมายดั้งเดิมซึ่งถือว่าโชคชะตาหรือกรรมนั้นเป็นสิ่งที่สามารถเปลี่ยนแปลงได้ หลังจากนั้นได้ทำการวิเคราะห์ลักษณะพิเศษทางวรรณกรรมของผลงานเรื่อง “คำพิพากษา”จากมุมมองเกี่ยวกับ“รอยต่อระหว่างการออกบวชกับการมีตัวตนอยู่จริง” สามารถกล่าวได้ว่าผลงานเรื่อง “คำพิพากษา” นี้นั้นได้ปฎิเสธถึงการหลอกตัวเองตามแนวคิดของนักปรัชญาชาวฝรั่งเศส ฌอง […]

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タイ現代文学の潮流 ―セーニー・サオワポンよりチャート・コープチッティへの流れを中心として―

はじめに タイ現代文学においては、他の多くの分野においてと同様に、1973年のいわゆる「学生革命」前後が一つのturning pointとなるのであるが、本稿は、具体的な文学作品分析を通して1973年の前と後との傾向及び特徴の違いの一端を捉えることを、その狙いとしたものである。具体的には、1973以前の代表作としてセーニー・サオワポン『妖魔』を、以後の代表作としてはチャート・コープチッティ『裁き』を採り上げる。この二作品を採り上げる理由は、其々がいわゆるタイ文学の「純文学」系の評価としては、その頂点に立つものであると考えられるからである。 まず『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴を、「業からの解放」という視座から捉えてみた。管見によれば、セーニーは作品中で、文学にも長らく反映されてきたタイ社会に特有の通俗的仏教観念との対決・決別を示しているのである。即ち本来のものを離れ既に社会的に通俗化した運命の享受観や業への諦観(タイ語でいうプロム・リキット的側面)から離れ、運命或は業を改変できるものとして捉える「本来的な」業理解(カンマ・リキット的側面)へと我々を誘うものであると考えられるのである。 続いて『裁き(カム・ピパークサー)』の文学的特徴を「出家と実存のはざまで」といった視座から分析した。本作品はサルトル的な自己欺瞞の否定を謳っているといえよう。世界に寄る辺なく投げ出されている実存(人間存在)との対峙、およびその対極にある自己欺瞞(に生きる人々)の否定。あるいはタイ的自己欺瞞の一つである、苦は業に因るという観念或は苦は業の結果であるとする人々の批判(そうではなく苦は人間の実存の結果であるとしている)。さらには、タンブン(喜捨)をはじめとする一般の通俗仏教信仰への懐疑などである。しかし本作品に特徴的なのは、出家に「出口」を求めている点である。ここで出家という仏教的価値観については、文中の方丈の言葉がまさに暗示の如く通奏低音として作品中に流れている。そこでいう「仏法の世界」とは出家者としての仏法の世界であり、世俗と区別した出世間のことを指しているのはいうまでもない。それは他人との出会いにより自己の失墜を招く、実存と向き合わざるを得ない世間、即ち仏教的に云うならば、パーリ語で云うところのローキヤではなく、ロークッタラ、即ち出世間なのである。 それでは以下、具体的に両者の作品分析を行っていくこととする。 【1】セーニー・サオワポン『妖魔』-「業からの解放」  本論は、本邦に於いていまだ殆んど研究の手がつけられていないタイ文学をその素材としたものである。本論ではなかんずく、タイ現代文学においての、作家の社会に対する意識の位相を探っていきたい。我々とは文化的思想的背景を異にするかの地の文学は、自ずとその趣を別にするが、中でも顕著な特色の一つに、作家の社会に対する極めて鋭敏な意識・姿勢が挙げられよう。政治的社会的不安定は、その度重なる動揺を通し、近現代の文学者の社会意識をいやが上にも我々の考える以上に鮮明なものにしていった。その外からの眼としては、先づ、大きく東南アジア現代文学の特徴として、「東南アジア社会の文学は本質的にlittérature engagéeである」と指摘する者がある。東南アジアの作家たちは、いやが上にも政治や社会の現実と対峙し、そこから顔をそむけることが殆んど不可能であった過去があるであろう。その中には植民地化の問題に由来するものもあるだろうが、それを免れたとはいえ、タイにおいても社会の現実は非常に重く作家の肩にのしかかっており、逆に社会に対する作家の極めて鋭敏な意識・姿勢はタイ現代文学の色濃い特徴となっている。タイの文化文学にも造詣の深い文化人類学者のニールス・ムドラーは、インドネシア文学に比してタイ作家と社会の係わりを次の如く強調している。「タイの作家にとってその特徴をかたちづくる中心はsocial stage」であり、「ジャワ文学のself-centredな個に対してタイ文学の個はsocial settingの中に明瞭に規定されている」と。 加えて、内からの眼としては、長らくタイペンクラブ会長をも務めたニッタヤー・マーサウィスットは、タイ文学の特徴として、タイ作家の社会正義に対する意識は幾度の政治的動乱にも屈することなく、文学の責務として脈々と続いている旨の指摘を行っている。さらには、タイにはいまだトルストイやツルゲーネフや巴金、或はバルザックやゴーリキーや魯迅も生んではいないが、それでも良いところはある、それは政治に関して割と力強い思索をしてきた点である、といった面白い指摘をした者もいる。 それでは内外のタイ研究者が共通して認めるタイ現代文学に顕著な特徴である社会意識とは一体いかなる位相であるのか。ここではビルマ大使も務めたことのある現代有数の作家セーニー・サオワポン เสนีย์ เสาวพงษ์์(1918~)およびその代表作『妖魔』ปีศาจ を中心に見ていきたい。 その為の手順として、本論考では、先ず、セーニーのタイ現代文学における文学史的位置・役割を概観し、次に『妖魔』の作品分析を通して、その位相の具体的な例を抽出していきたい。 【1.1】セーニー・サオワポンの文学史的位置  セーニー・サオワポンは、タイ現代文学史上において「純文学系」の一つの到達点であると捉えられ得る。チュラーロンコーン大学のトリーシン・ブンカチョーン博士は、セーニーの干支七順目(84歳)を記念するマティチョン主催のシンポジウムにおいて、セーニーは文学によりタイを動かし、タイ小説の歴史を変えた。さらには、先見性に富んだ著作によって未来をも予見することのできる、タイ社会のみならず人類全体の作家である、との指摘を行なった。 ここでセーニーの文学史上の意義を考える場合は、先ずタイ現代文学史上での〈人生の為の芸術〉วรรณกรรมเพื่อชีวิต の動きを顧みなければなるまい。タイにおいては現代文学は常に政治との係わりにおいて、或はその圧迫を受けながら或はその抑圧から脱しながら、歴史が流れていくのであるが、その流れの中から〈人生の為の芸術〉と呼ばれる処の動きが生起する。この〈人生の為の芸術〉はまたタイ現代文学を俯瞰した場合には、そのメイン・ストリームを為すといっても過言ではないものでもあるのだが、その中でもとりわけセーニー・サオワポンの果たした役割は大きい。 セーニーは1952年のタマサート大学での講演の中で、この〈人生の為の芸術〉の立場を表明する。とりわけ「著作と社会」การประพันธ์กัปสังคมでは明瞭に作家の社会に対する責務を打ち出し、また同年の評論「ロマン主義とリアリズム」อัตถนิยมแลจินตนิยมにおいてはリアリズム文学の意義を唱えた。こうした立場は、同時代の高名な文芸評論家たるバンチョン・バンチュートシンの次の言葉に集約されるであろう。 人が飢餓のために死んでいっている時、月の美しさはなんの役に立とう。芸術家の責務は悲惨な光景を直視するところにある。 こうした立場が、その後に与えた影響は甚だ大きく、とりわけ1973年の学生革命前後の文学界の思潮に与えた影響は計り知れない。学生革命前後に台頭してくるいわゆる新世代(ルン・マイ)の作家・評論家たちの多くは、セーニーらの打ち出した作家の責務という立場を強烈に踏襲していく。例えば、ルン・マイの代表的な評論家たるウィッタヤーコーン・チェーンクーンは、「社会に対する責務を持たない作家」は、「読者に毒を盛る」のに「自己の商品に責任を取らぬ儲け家商人と同等である」と表現しているし、また文学者ではないが他の諸々の文化的活動で有名なスラック・シワラックは、「作家の社会に対する責任は、父親の家族に対する責任にも比される。作家は作品人物の生を繰るのにプロム(ブラフマー神)と同じくらい価値を有する」と述べている。その他1957年に『人生のための芸術 人民のための芸術』を残したチット・プミサックを忘れてはなるまい。 サティエン・チャンティマートーンは、こうしたタイ文学史上におけるセーニーの文学史的役割を次の如く表している。「旧社会の不正義、非民主的非科学的な考えと闘った、社会の弱き者の人生のための芸術の開拓者。」或は、「普通の人に視点の基礎を置く歴史の場を拓いた前衛であり、1973年学生革命前後の思想・社会に多大な影響をもたらした。」 このようにタイ現代文学史上、とりわけ〈人生の為の芸術〉を核とする流れにおいて、セーニーは、創作及び評論の双方にわたって中心になる役割を担ったのである。  【1.2】『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴 本作の初出は『サヤームサマイ』สยามสมัย 誌(1953-4)であり、その後受け入れる出版社がすぐになく、初刊はクヴィエントーン เกวียนทอง 版(1957)である。物語は、農村出身の青年弁護士サーイ・シーマーと上流階級の娘ラッチャニーとの出逢いから始まり、ラッチャニーの両親をはじめとする旧社会の人々と彼ら新世代との価値観の対立などを軸に展開し、最後に彼ら二人がそれぞれに、農村に入り自らの未来を社会的に虐げられた人々の役に立てようと暁の空の下決意するところで幕を閉じる。 この作品は発表当初は殆んど反響は見られなかったが、後の民主主義運動の高揚とともに復刊され、絶大な支持を集め、タイ現代文学史上の最高峰の一つとしての定評を得るに至った。 先に述べた新世代(ルン・マイ)の代表的評論家たるウィッタヤコーン・チェーンクーンは復刊されたミットナラー版(1971年)の序文の中で次のようにこの作品を評している。  タイ国のような王子王女の恋愛物語(チャクチャク・ウォンウォン)やメロドラマ風のものしか生み出してこなかった小国にとって実に偉大な小説である。  またついで先鋭的文芸評論家たるサティエン・チャンティマートーンは、「真摯に仕事に取り組む新世代(ルン・マイ)のバイブルとなった」と述べ、トリーシン・ブンカチョーンは〈人生の為の文学〉を画期的に発展させ、内容と技法の両面に亘ってほぼ完成へと至らしたことを指摘し、強調している。 […]

Issue 8-9 Mar. 2007

エスニシティ表象としてのミュージアム -ポスト・スハルト期インドネシアにおける華人アイデンティティの創成―

本稿の目的   本稿は,インドネシアにおける華人社会団体のひとつ,印華百家姓協会 (Paguyuban Sosial Marga Tionghoa Indonesia : PSMTI,以下PSMTIとする)による印華文化公園(Taman Budaya Tionghoa Indonesia)建設計画の検討を通して,エスニシティが可視化されるプロセスと手法を明らかにすることを目的とする。印華文化公園は,インドネシアにおける華人の文化・歴史の展示を主な目的とするミュージアムとして,ジャカルタ郊外にある「ミニチュア版『うるわしのインドネシア』公園」(Taman Mini “Indonesia Indah”,以下タマン・ミニとする)に建設が予定され,準備が進められている施設である。   印華文化公園建設計画の検討に際しては,クリフォードによる「『接触コンタクト・領域ゾーン』としてのミュージアム」の概念が有効である。クリフォードは,『ルーツ-20世紀後期の旅と翻訳-』において,北米の北西沿岸のマイノリティであるインディアンに関する展示を行う4つのミュージアムの検討を通し,ミュージアムはもともと支配集団による下位集団の文化の目録化の現場であったが,現在はマイノリティによるアイデンティティ形成の場としても利用され,両集団の「接触領域」として機能していることを指摘している。 本稿は,インドネシアにおいてマイノリティ集団に数えられる華人のミュージアム建設計画の計画概要,立案者,立地,現状と課題,を取り上げ,国家と民族の「接触領域」としてのミュージアムと,ミュージアムに表象されるエスニシティの創成と可視化のプロセスを描く。   他民族国家インドネシアにおいて,エスニシティの可視化は,ショッピング・モールの装飾に始まり,街頭の像や,選挙活動の際に配られる選挙グッズまでありとあらゆる場において行われている。商業や政治など,目的に応じてエスニシティの可視化は多様な形態をとり,メッセージとして使用される。その中で,本稿が取り上げる印華文化公園は,インドネシアの華人が国家に対して語りかける場であるといえる。   なお,本稿では中国系インドネシア人,すなわち印華もしくは「中華」の福建語読みティオンフォアに相当する語として「華人」を使用する。また,民族またはインドネシア語のスクおよびスク・バンサに相当する語は,エスニシティを使用する。各種の中国語の名称に関しては,中国語の簡体字に相当する日本語の漢字を使用する 背景   インドネシアの華人にとって,1998年5月は,解放と恐怖という明暗双方の意味を持つ。1998年5月に繰り広げられた全国的な暴動をきっかけに,32年間続いたスハルト体制の崩壊によって,同体制が行ってきた華人に対する法律上の規制からの解放へと続いた。同時に,自らが直接的な暴力の対象となったことによって,華人として存在することへの恐怖感が再び共有される契機となった。   1997年後半から通貨・経済危機に陥ったスハルト体制を批判する学生運動が各地で広がる中,1998年5月12日,西ジャカルタのトリサクティ大学で行われた政府批判集会に向けて何者かが発砲し,4人の学生が死亡した。この事件を引き金に,ジャカルタをはじめ,メダン,ソロ,パレンバンなど全国各地で大規模な暴動に起こり,1100人以上の死者を出した。スハルト体制批判として始まった暴動は,スハルト体制下で経済的利益を享受してきたとされる反華人暴動に転化し,特にジャカルタでは,グロドック(Glodok)と呼ばれる華人の多い商業地区を中心に,放火や華人女性に対する暴行が多数あった。   結果的にスハルトは,5月21日に退陣し,その後ハビビ,アブドゥルラフマン・ワヒド,メガワティ政権を経て現在のユドヨノ政権まで,目まぐるしく政権が変わった。このような体制の変化の中で,華人に関する法的規制の改正は,非常に早いスピードですすみつつある。華人に関する法律の歴史的変遷に関しては,スルヤディナタ[Suryadinata 2003]やリンジー[Lindsey 2005]が詳しく経緯を述べている。ここでは,特に1999年10月から2001年7月まで政権を担ったアブドゥルラフマン・ワヒド大統領期に改正が進められ,文化,宗教,言語に関する制約がなくなったことを指摘しておく。さより最近に行われた画期的な改正としては,2006年8月1日に成立した「2006年第12号法律:新国籍法」が挙げられる。   このように,インドネシア国家における一国民として法的平等化がすすみ,表現の制約から解放されることで,華人としてのエスニック・アイデンティティを自由に表現することのできる環境が整いつつある。本来であれば,表現の自由化は個人の活動に還元されればよく,集団としてのエスニック・アイデンティティ,すなわちエスニシティを形成する必然性はない。しかし,インドネシアの華人の場合は,多民族国家インドネシアに内包される一集団として「華人」エスニシティを確立する必要性が生じた。   1998年5月の経験により,それまで出身地や職業,家族的背景や,国籍変更の時期の違いなどに応じて,地域レベルや個人レベルで確立されていたアイデンティティが,他者から見ればとりもなおさず「華人」カテゴリー内のバリエーションでしかないことが判明した。そして,他者からみた「華人」は,極端な表現を用いれば,「インドネシア土着」のエスニック・グループでないにも関わらず,国内経済を牛耳る排他的な集団であり,攻撃の対象と見なされる。 […]

Issue 8-9 Mar. 2007

พิพิธภัณฑ์ในฐานะสัญลักษณ์แห่งชนชาติ การสร้างกลุ่มสังคมชุมชนชาวจีนโพ้นทะเลในอินโดนีเซียในยุคโพสต์ ซูฮาร์โต้

วัตถุประสงค์ของงานวิจัย งานชิ้นนี้มีวัตถุประสงค์เพื่อแสดงให้เห็นถึงขั้นตอนกระบวนการและวิธีการแสดงตัวตนให้ปรากฎของชนกลุ่มน้อยทางเชื้อชาติ ผ่านการพิจารณาถึงแผนการก่อสร้างสวนวัฒนธรรมจีนอินโดนีเซีย (Taman Budaya Tionghoa Indonesia) ซึ่งดำเนินการโดยสมาคมชาวจีนโพ้นทะเลอินโดนีเซีย (Paguyuaban Sosial Marga Tionghoa Indonesia:PSMTI ในบทความจะใช้ชื่อย่อว่า PSMI) หนึ่งในสมาคมชาวจีนโพ้นทะเลในอินโดนีเซีย สวนวัฒนธรรมจีนอินโดนีเซียเป็นสถานที่ที่ได้มีการเตรียมการที่จะจัดสร้างขึ้นภายในสวนสาธารณะอินโดนีเซียอันน่ารื่นรมย์ (Taman Mini “Indonesia Indah” ในบทความจะใช้ชื่อว่า Taman Mini) ชานกรุงจาการ์ตา ในรูปแบบของพิพิธภัณฑ์เพื่อจุดประสงค์ในการจัดแสดงประวัติศาสตร์และวัฒนธรรมของชาวจีนโพ้นทะเลในอินโดนีเซีย ในการพิจารณาถึงแผนดังกล่าวแนวความคิดของคลิฟฟอร์ดเรื่อง [พิพิธภัณฑ์ในฐานะของContact zone]นั้นเหมาะในการอธิบายในเรื่องนี้ได้อย่างดี คลิฟฟอร์ดได้บ่งชี้ถึงบทบาทของพิพิธภัณฑ์ผ่านการวิเคราะห์พิพิธภัณฑ์4แห่งที่ทำการจัดแสดงเรื่องราวเกี่ยวกับชาวอินเดียนแดงชนกลุ่มน้อยในคาบสมุทรอเมริกาเหนือ ไว้ในหน้งสือ “Travel and Transition in […]

Issue 8-9 Mar. 2007

Ethnicity and Kinship in Filipino Centennial Novels

Aurelio S. Agcaoili. Dangadang. Quezon City: University of the Philippines Press, 2003.B.S. Medina, Jr. Huling Himagsik. Manila: De La Salle University Press, 1998.Jun Cruz Reyes. Etsa-Puwera. Quezon City: University of the Philippines Press & Philippine […]

Issue 7 Sept. 2006

States, Peoples, and Borders in Southeast Asia

Many borderlands in Southeast Asia—in southern Thailand, East Timor, Papua New Guinea, Sulawesi, Aceh, southern Philippines, Myanmar—have become violent. In the peripheral spaces of Southeast Asian nation-states, people flee from horrific acts of violence committed […]

Issue 7 Sept. 2006

The Indonesian Migrants of Davao and Cotabato

The more recent Indonesian migrants to the Philippines are collectively called Maroris by the natives of Davao. They are called Maroris because in coming to southern Mindanao, a lot of them went by way of […]

Book Reviews

Research Trends on Southeast Asian Sea Nomads

Sea Nomads in Southeast Asia Southeast Asia, a region encompassing an expanse of coasts and islands rich in varied maritime resources, is known widely for its long-established maritime traditions. What is regrettably less known is […]

Issue 6 Mar. 2005

มองสถานการณ์ภาคใต้ผ่านแว่น “กบฏชาวนา”๑ พระเอกคือคนเล็กๆ

         พระเอกคือคนเล็กๆ ปฏิเสธได้ยากว่า สถานการณ์ที่เกิดในภาคใต้ในรอบปีนี้เป็นความเคลื่อนไหวทางสังคม มีคนร่วมอยู่ในเหตุการณ์นับเป็นร้อย ถ้ารวมคนที่อาจสนับสนุนให้สามารถปฏิบัติการได้ ก็นับได้เป็นพันหรืออาจจะมากกว่านั้น ผมไม่สนใจว่าความเคลื่อนไหวทางสังคมที่กว้างใหญ่ไพศาลขนาดนี้ มีใครเป็นผู้นำ ใครเป็นผู้บงการ หรือได้รับการอุดหนุนจากใครบ้าง เพราะการมองหา “หัวโจก” ไม่ช่วยให้เราเข้าใจอะไรเลย นี่ไม่ใช่เหตุการณ์โดดๆ เช่น ปล้นปืนทหาร สังหารเจ้าหน้าที่บ้านเมือง เผาโรงเรียน หรือใช้กองกำลังโจมตีหน่วยตำรวจ แต่เป็นความเคลื่อนไหวที่เกี่ยวข้องกับผู้คนจำนวนมาก ไม่มีใครสามารถบงการหรือล่อลวงคนจำนวนมากเช่นนี้ออกมาปฏิบัติการร้ายแรงเช่นนี้ได้ (แม้แต่อาศัยยาเสพติด) แต่ต้องมีปัจจัยบางอย่างที่ผลักดันให้ผู้คนเล็กๆ เหล่านี้เคลื่อนไหวเพื่อจุดประสงค์บางอย่างร่วมกัน จะเข้าใจสถานการณ์ที่เกิดในภาคใต้ได้ จำเป็นต้องเข้าใจปัจจัยเงื่อนไขที่แวดล้อมชีวิตของคนเล็กๆ เหล่านี้ รัฐอำนาจนิยมมักไม่สนใจคนเล็กๆ ที่ร่วมอยู่ในความเคลื่อนไหวทางสังคม เพราะรัฐอำนาจนิยมไม่เคยคิดว่าประชาชนคนธรรมดาสามารถเคลื่อนไหวทางการเมืองหรือสังคมได้ด้วยตัวเอง ต้องมีคนหรืออามิสหรือคำหลอกลวงเป็นผู้ชักจูงเสมอ ถึงแม้จะมีคนหรืออามิสหรือคำหลอกลวงชักจูง ทั้งหมดเหล่านี้ก็ไม่สามารถอธิบายพฤติกรรมของคนเล็กๆ ที่ร่วมอยู่ในขบวนการได้อยู่นั่นเอง […]