Issue 6 Mar. 2005

ジャワあるいは他のどこかにおける友情、メディアに伝達された想像力、熱狂的信仰

         またお会いしましょう  この20年というもの、私はインドネシアをたびたび訪れてきた。そのうちの12年は、ジャワのジョクジャカルタにおいて、文化人類学者としての調査活動に携わってきた。2002年の夏、私は再びこの地を訪れ、ジョクジャの南区域にある家族と私の家には、仕事の上でも個人的にも付き合いのある、一人の旧友がやって来た。マス・ヤルトは、地元の大学のリサーチプロジェクトの給与支払い名簿を管理していたが、12年前に私が出会った時は、同じようなプロジェクトのデータ処理者をしていた。当時の私は、この非常にジャワ的な都市において文化人類学の博士論文のための調査を、やはり同じ身分であった私のパートナーと共に行なう大学院生であった。   彼が到着すると、私たちは握手と互いの頬をかぐことによって熱情を込めて挨拶を交わした。靴を脱ぐと、彼は狭い玄関の間に足を踏み入れた。この部屋の奥に続いているのは、ありがたいことに天井に扇風機が取り付けられ、ジャワのアンティーク、織物、インドネシアの現代美術によって念入りに飾りつけられた客間である。床が大理石でできたこの部屋の片隅には、その人物にふさわしい精巧な筆で描かれた、少なくともインドネシア人の目には非常に美しい人物画が飾られている。袖の短い服に見慣れた黒い帽子を被ったその絵は、インドネシアの初代大統領スカルノのパステル画である。扇風機は心地よく低いうなり声をたてて回り、現代の様々な瞬間の遺物に囲まれて、私たちはタバコに火をつけた。香りのよい一服は、私たちの友情と、男性同士の仲間意識をしっかりと強めてくれた。  話題が9月11日のことに移ってゆくまでに、それほどの時間はかからなかった。熟した丁子の香りのする煙のベールの向こうに、この悲劇的な出来事についての理論と疑問の両方を提起しようとするかのようなマス・ヤルトの鋭い眼差しが伺えた。私の瞳を覗き込みながら彼は尋ねたが、その語調にはかなりの確信が感じられた「ワールドトレードセンターで働いていた何千人ものヤフディ(ユダヤ人)が、前もって一日休みを取ろうと知っていたというのは本当かい?」そこで彼らは死と破壊行為と負傷を逃れた。表現を誇張した彼の質問は続いたが、もし知っていたとすれば、引き出される唯一の結論は「9.11の飛行機を飛ばしていたのはユダヤ人だ。」しかない。    ちょうどその時、夕方の祈りへの呼びかけが町中にこだました。マス・ヤルトは、礼儀正しく断りを入れると、手、足、顔を洗い、私がタバコを吸いながら静かに待っている間、部屋の片隅で祈りを捧げた。この行動は、彼の攻撃的な発言にエクスクラメーションマークを置くために意図されたジェスチャーのように思えた。1997年に、ジョクジャの東に位置する、宮廷が維持されているもう一方の街であるソロを再訪したマーク・パールマンと同じように、私はこの「各個人の熱狂的信仰の深まり」に衝撃を受けていた(Perlman 1999,11)。今までの付き合いの中で、マス・ヤルトが私の前で祈ったのは、オフィス内にしつらえられた日々の祈り用の小部屋で、他のスタッフと共に行なった一回きりであった。私は彼の家に何度か泊まったことがあるし、仕事が終わった後の午後の時間を、彼のバイクでゆっくり回ったり、映画を見たり、彼が訪れるべきだと考えているジョクジャ市内の遺跡、ワルン(飲食のための売店)などの場所を訪れたりして過ごしたものだ。  その頃の私達の主な話題は、政治、文化、ジャワ文化などであり、当時の私の興味の対象であったペンゴバタントラディスョナル(伝統医学)についてももちろん話し合った。ソロとジョクジャの宮廷の支配者とその家族が葬られている、ジョクジャの南にある小さな町に彼は住んでいる。この墓地は超自然的な意味で強い影響力があり(angker)神聖(keramat)だが、様々なジャワの宗教については、私達はほとんど話をしなかった。例外といえば、多分ジャワの神秘主義(kebathinan)の医学における役割の話くらいだった。イスラム教、また確かにキリスト教については、ディスカッションをした覚えがない。  我々の友情の初期のころ、マス・ヤルトは現代的な人間として印象付けられている。彼はスカルノ主義者であり、スハルトの新秩序には懐疑的であった。科学に携わり、ブルシーダタ(純正なデータ)のために雇われたあたかもオフィスの手先のようであった。当時の彼は、テクノロジーからフリーセックスまで、現代的なものを全て体現していた。ある日の午後、私達はいく人かの友達と映画を見に出かけた。それはオリバー・ストーンのJFKだった。主演スターのケヴィン・コスナーが、彼の考えによる陰謀の概略を述べ始めると、政変の中でのジョン・F・ケネディの暗殺のシーンが重なった。私はマス・ヤルトが涙するところを目にした。映画を見終わった後、彼と仲間たちはJFKとスカルノには沢山の共通点があるということで意見が一致していた。そしてケネディに起ったこと- 少なくとも映画の中で -がスカルノにも起ったというのである。陰謀のセオリーに対する一般的な関心はさておき、我々に共有の立脚点、つまり近代性に対する性急な意識を与えるのは近代的国民国家とその政府の意図に対する批判なのである。  さて2002年となり、我々は陰謀のセオリーについて再び討論を行なっていた。夕べの祈りへの誘いが空に響いたため中断された彼の議論が根拠としていたのは、歴史のあらゆる曲がり角と、変化や予測不可能な出来事への推進力の背後に、陰謀者と回し者がいると感じる伝統であった。1997年に端を発した政治、経済危機の後に以下のような動きが続いた。スハルトの失脚、インドネシア群島のいくつかの地域で起った暴動、学生デモと改革運動(reformasi)、銀行スキャンダル、信仰治療を行なう黒魔術師の殺害、華人、また華人―インドネシア人混血女性に対するレイプ、いわゆる奥地における人肉食と最近の首狩り、そしてもちろん議会における些細な、あるいはそれほど些細ではない政治問題。新聞、雑誌は、これら全ての裏側に、個人にせよ集団にせよ誰かがいるのだという一般の認識を刺激したり、うわさを裏書してみせようとした。  私たちの友情は長く続いていたものだったし、彼は近代的なものを理解する人間だと考えていたので、私はマス・ヤルトに向かって、そんな思いつきは不合理だとかなり決然と説明した。オサマ・ビン・ラディンのアルカイダの組織が計画の背後におり、攻撃を行なった証拠は明らかじゃないか、と私はためらいもなく(あるいは考えもせず)言った。  夏が過ぎていくにつれ、マス・ヤルトとの友情が、世界的に現れつつある感情のパターンから影響を受けていると次第に感じるようになっていた。私が到着してからというもの、私の学問的関心をジャワのイスラム教の固有の歴史と性格に導こうとすることに、彼は非常な関心を見せていた。自分とまた彼の小さな街の人々が博学なイスラム学者であると認めている人々とのインタビューを、彼は積極的にアレンジしてくれた。イスラム教の学識と実践を独学し、地域では著名な人物と会見することになった。その人物は、ジョクジャカルタから三十分ほど南に行った所にある、マス・ヤルトの住んでいる街に居を構えていた。彼は、この「インタビュー」に参加するようにと、ジョクジャに住む他の友人も招いていた。会談の予定は夕方に入っていたため、この友人たちが私を車で連れて行ってくれるのは、理にかなったことであった。彼らが到着するのを待っている間、処刑されたレポーター、ダニエル・パールの新聞に載った写真が突然頭に浮かんだ。彼は、縛られ椅子に座り、頭をたれていた。舞台裏で動いている捕獲者に髪を摑まれており、頭に銃とナイフを突きつけられていた。待っている間に自分でも困惑するほど恐怖に襲われてしまい、もし私が帰ってこなかったら気をもむだろうかとパートナーに告げるために家の中にいったん戻ったほどだった。マス・ヤルト - そしてメディアに伝達されたアイデンティティーの政治における私たちの存在は極度に暴力的になった。「現実解釈の可能性の複数性」は私の想像力の働きと一緒になって、驚くべき恐れを私にもたらした。   インドネシアで過ごした日々を通じて、私はこんな風に恐怖を感じたことはなかった。その上、私がこのように考え込んでしまったのは、友人や親族と呼べるような存在に対してであったのである。私達は共に働き、食事をし、遊んだ。私は彼の子供たちの勉強をみてやったこともあるし、彼は私のパートナーの仕事を助けてくれた。私たちの関係は、私がインドネシアで作り上げてきた他の様々な関係と同じく、いやそれ以上に相当なものがあったと思う。ミニバンに乗り込む時に私が感じた恐怖は、世界的な出来事と構造的なつながりを持っていた。この感情は、長く続いてきた、または常に進行形で作られつつある私たちの関係にとっての感情的責任に違背した。その晩、帰宅する前にこの恐怖についてマス・ヤルトに語るべきだったのだろうか。2年後(2004年)に私達はたった一度、ほんの短い時間再会した。私達は互いに語ることが少ないことに気付いた。それでも彼は私に贈り物を持ってきていた。モート とルザフォードがパプアに関して観察した「マスメディアによって表現された暴力(とその他の事件)は、出来事を説明する際に決定的な要因となる。」という言葉のように、最近のインドネシアを象徴的に示すような贈り物だった。彼は私に一冊の本を送ってくれた。その本は暴力を体現してはいなかったが、最近のインドネシアにおいて、想像力に課せられた複数の言い換え、(再)命名、虚構の現実を捉えているように思えた。その本は、英語を話す西欧の学者によるコーランのスーラの章に関する解釈のインドネシア語訳であった。  メディアによる伝達    政治、経済危機、パレスティナにおける第2次インティファーダ、9.11の事件、アフガニスタンとイラクにおける戦争、これらの事件以後、世界最大のイスラム教徒人口を持つインドネシアにおいて、その国際コミュニティーが抱いた希望は、インドネシアの国民と政治が「中庸」を保つことであった。専門家であろうとなかろうと、インドネシアに対する観察者は、一般的に以下のように認めている。政治上のアイデンティティーが極端に走らない原因は、歴史を通じて一貫した寛容性と、そこに住む人々の個性と社会生活のあり方に柔軟性が保たれていることに見出される。この寛容性と、方針決定と経験の柔軟性は、島嶼部東南アジア、とりわけインドネシアの文化的特色であるとされている。O. W. ウォルタースは、この地域の「文化基盤」を分析しながら、社会的、文化的境界を越えて広く評価されていた人間の特質について、19世紀のジャワ語文献においては、洗練された人物(wong praja)が、柔軟性のある人物(lemesena)と表現されていることを引用している(1991,161)。ベン・アンダーソンは、特にジャワ人にとっては「もしジャワ的な生き方の中に適応させ、説明付けることができるなら、ほとんど全てのことが容認される。」と語っている。しかしながら、近年において、アンダーソンは過ぎ去った時を回顧しながら、この「ジャワ人の寛容性」が薄れつつあること、また比喩的にも、あるいは多くの場合現実的にも、「異なる社会的グループの間に近寄りがたい高い壁」という社会的建造物が登場しつつあることを指摘している(2002,3)。   9.11以前、以後のインドネシアにおける社会的事件は、この文化的に複合的な国家の持つ寛容性と「環境を変える」というジャワ人の能力が挑戦を受けていることを物語っているといってよいだろう(Beatty 2002)。特に、個人とその宗教的な所属に関して、長く続いてきたいわゆる「柔軟な市民性」が、世の中一般に見られるような非寛容な方向性に近づきつつあるように思われる。アンダーソンが40年ほど前、また近年嘆いたように、国家主義の世界的な重圧と振興は、ジャワ人の「旧来の道徳的な多様性を明らかに脅かし」、「構造的に条件付けられていた寛容を徐々に衰えさせている」といえよう。(1996,42)。インドネシアに新たに課せられてきたアイデンティティー、とりわけ宗教的なそれについて、私は身近な、あるいは遠方からの観察と会話からここに分析してみたいと考える。モルッカ、カリマンタン、スラウェシにおける地域紛争は、民族的、宗教的、政治的、経済的、あるいはそれらの組み合わせによって、多分様々に論じられており、非寛容で柔軟性を欠くアイデンティティーの形成を説明する説得的な例となることだろう。が、以下において私は、2002年にジョクジャカルタとその近郊におけるフィールドワーク中に、長年の友とその仲間たちと交わした会話について考えを進めてみたい。   注目すべきことに、慣れ親しんだジョクジャカルタの他の環境において、私は初めて「ユダヤ人」、あるいは「ヤフディ」に出会った。注意深くこのことを考えてみるにつれ、この世界的な兆候は、9.11や、インドネシアの内外で起っている事件を解釈するためのみに人目を惹いているわけではないことに気付いた。その他の記号的な重みが加えられているのであり、これらの重みは、インドネシアにおける社会的形態と習慣の変容、アイデンティティー形成の両極性を反映している。インドネシアにおけるユダヤ人コミュニティーの数は僅かなものなので、インドネシア人にとって自らの経験に根ざしたユダヤ人に関する知識は殆どないといってよいだろう。またその上、スラバヤのコミュニティーに僅かばかり残っているユダヤ人が、近年差別の対象とされたり攻撃を受けた例はない。イスラム教徒達は彼らに「シャローム」と挨拶を投げかけ、コウシャー(ユダヤ教徒にとっての基準を満たした食料を売る店)は、イスラム教徒のハラール(イスラム教の戒律に従ってさばいた食べ物)を売る肉屋から仕入れた肉を扱っている。また10年以上も、あるイスラム教徒の家族が小さなシナゴーグの管理人を務めている(Graham 2004を見よ)。このことから考えて、インドネシアにおける、ユダヤ人を表す符合として世界的に認識されているイメージはインドネシア人にとっての社会的事件や懸念事項と共鳴しあっているといえよう。  例を挙げて言えば、インドネシアの第4代大統領、アブラハム・ワヒドの議会制に基づく選挙の後、イスラエル人とパレスティナ解放主義者間の暴力行為は国内の「どこか他の場所でメディアに伝達された」と受け止められるようになった。この時、政治的な符号としてのヤフディが、現在のような受けとめられ方をするようになったのである。メディアの中で目にすることのできる彼等の姿は、生々しい現実として目撃され、人間の行なう事件の真実に対する平等な洞察を自称する、その他の様々な符号の可視的な背景の中でより深い意味づけを獲得していくのである。フェルドマン(2000)は、この政治化された可視性を「観察統治様式」と呼び、いわゆる「現実解釈の可能性の複数性」が事件に対する人々の理解を形作るようになると述べている(Feldman 2000参照)。シーゲルは、「インドネシアにおいて『ユダヤ人』という語は、脅威を示している」が、この脅威には形状がない。」という点に注目している(2001,302)。シーゲルによれば、ユダヤ人の宗教的なアイデンティティーは、「キリスト教徒のそれに吸収されている」例もいくらか見られる(同、272)。ハッサンは、「シオニスト兼キリスト教徒の陰謀のセオリー」への、同じような同化の例を観察している(2002,163)。このことをバリにおける爆破犯が念頭に置いていたことは明らかである。有罪を宣告された爆破犯のうちの一人、アムゾーリは、彼らを爆破に駆り立てたのは、ユダヤ人、アメリカ合衆国とその同盟者達に端を発し、世界中を覆っている道徳的退廃であった、と語っている。彼の考えによれば、この悪の枢軸による世俗の「けっこうな」暮らしぶりは、道徳的退廃を生むために宗教と競っているのである。そこで彼は、「白人を殺したことには誇りを感じるが、インドネシア人の犠牲者を出したことには悲しみを感じている。」   シーゲルは、「メディアの上のユダヤ人」と結び付けられている反ユダヤ人主義は、インドネシア国内でおこっているイスラム教徒とキリスト教徒のコミュニティー間の暴力行為に関するメディアの叙述を通じ、インドネシアの多様性を持った宗教に関わってくるような日常の中での政治に入り込んできていると主張している(2001,303)。リードは、東南アジアの歴史において、華人が「東洋のユダヤ人」として知られるようになるにつれおこった、ユダヤ人と華人の結びつけに関する史料を引用している(1997,55)。シロは、「ユダヤ人に譬えられることは、東南アジアの華人知識人からは歓迎されず」、ただ「イスラム教徒に敵意を抱かせる」事にのみ役立っていることに注目している(1997,5)。実際、既に人種主義的な符号として重い意味づけをなされているユダヤ人の世界的な符号は、インドネシア社会において華人の社会的アイデンティティーが既に「人種的カテゴリー」となっていることについて伝えている。その結果、インドネシアの華人の、華人として、インドネシア人として、あるいは他の標識を持ったアイデンティティーに関する社会的な理論は、予言を叶える役割を果たしている。これは、民族主義がどのように働くかの例であり、社会生活と差異に対する理解に何故有益かという理由である。   インドネシアのメディアによって伝えられている「ユダヤ人」の世界的な符号は、インドネシアのイスラム教徒の間に、イスラム教に混ぜ物が混入されつつあるのではないかという恐怖をたきつけている。こういった恐れの感情は、「血」に関する言説の中にしばしば見られる。2000年10月に、マレーシアにおいて、イスラエルのクリケットチームがマレーシアの土を踏むことに対する抗議運動が行なわれたが、このことはジャカルタにおけるデモに刺激を与えた。インドネシアの抗議者らは、イスラエルの国旗に血を浴びせかけ、「ユダヤ人の血が欲しい。」と要求した。ワヒド大統領の外相アルウィ・シハブは、議会において以下のように論じた。インドネシア軍の人員が占領の最終期に犯したとされる人権侵害と戦争犯罪の証言を聴取するため開かれようとしている東ティモール国際法廷の設立を妨げようと努力するつもりなら、インドネシアには「ユダヤ人のロビイスト」が必要である。何故「ユダヤ人のロビイスト」なのか?それは、アメリカ議会がユダヤ人にコントロールされており、合衆国国務長官のマデリーン・オルブライトは、ユダヤ人の血を引いているからである。  リードは、今日のインドネシアとマレーシアにおいては、「近代化の犯人リストに関する最も粗野な人種的公式化は、理論的な構成概念としてのみ知られている『ユダヤ人』マイノリティに対して行なわれている。」と嘆息している(1997,63)。「近代化の犯人リスト」についてさらに詳しく述べる中でリードは、インドネシア人のモデルニサスィ、ウェストゥニサスィ、グロバリサスィに対する魅了のされ方と嫌悪 - をインドネシア人がしばしば一つのものに合体する歴史的な過程と条件に注目している。スハルトの新秩序下においては、そのような合成が奨励された。プンバグナン(発展)は、土着の民主主義、階級的社会秩序、公正で豊かな社会の土台としての物品とサービスの流通、またインドネシア国家の礎と一括して扱われた。レフォルマスィは、スハルトの夢が馴れ合い、腐敗、縁者びいき(Kolusi, Korupsi, Nepotisme, KKN)に基づいていたことを暴露した。   しかし、夢とはそこから覚めることが困難なものである。そしてここに皮肉な成り行きが見られる。もう一人のバリの爆破犯、アリ・イムロンは、「インドネシア国家の息子としての我々の能力は誇るに値する。」と語っている。この発言は、1928年において、インドネシアの民族主義者の「覚醒」を布告した青年の誓いを仄めかしている。この国家的なアイデンティティーの覚醒は、その大志という意味では国民国家と同種の近代性の段階に入っている。スカルノの旧秩序と「指導される民主主義」の下で、国民国家であることは、成熟、発展(maju)した社会になるための記号的な進歩であった。が、しかし、スハルトの新秩序統治体制においては、ただ単に国民国家になるだけでは不十分であった。近代性の記号は、技術主義社会にふさわしく設計されており、プンバグナンの条件を技術的に発展させるものであるべきだった。30年間のプンバグナンスタイルの心的傾向は、インドネシア人に対して、深い心理的、社会的、文化的影響を与えた。その中でも著しいのは、自分たちの社会におけるものにせよ、他者の世界と比較してみたものにせよ、自己に対する見方に対する影響であった。それ故、イムロンの誇りの源泉が爆弾を作り他者に示す能力と、途上国の貧しい村の若者が、アメリカやオーストラリアなどの先進国に打撃を加える能力であったことは驚くに足りない。2002年10月にクタビーチにおいて使用した技術を彼は記者会見の中で見せびらかし、自分がアフガニスタンで爆弾製造を学んだと主張した。そして「我々のインドネシア人としての能力は誇るべきものだ。が、その能力は間違った目的に使用されている。」と語った。インドネシアの国家を技術面における刷新と結びつける考え方は、スハルトの新秩序下における開発主義、プンバグナンのイデオロギーの主要な推進力であった。   バリの爆破犯の声明の中を勢いよく流れる開発主義は、新秩序体制政治の経済、文化的成り行きを反映している。スハルトの統治期においては、トルイヨが「構造の変化と資本の空間化」(2001,128)と定義したグローバライゼーションが明らかにインドネシアにおいても起り、社会の殆どあらゆる階級によってなんらかの形で感じ取られていた、と語るのが正しいように思う。トルイヨは、グローバライゼーションをそれぞれがばらばらの過程であると述べたが、また以下のようにも表現している。人々と空間(例えばインドネシア)を「その中においては、諸国家の理想がさらに似かより、増えつつある過半数の人々が、理解したり認識したりすることができないようにする手段ですらあるような消費の網」に結びつける「消費品市場の世界的統一」(同書、同ページ)。市場とそのメディアティックス - 人間生活における市場に対するメディアのパフォーマンス -は、バリの爆破犯が憎みかつ愛した「けっこうな暮らし」への欲望を体現、また誇示している(同書、同ページ)。テレビ、ラジオ、印刷物などの一般的なメディアは、未だにアメリカ、日本、香港、インドなどの他者に大きく影響を受けている。消費品の消費によって達成される「けっこうな」暮らしの社会的架空性は、インドネシアを新しく訪れた者の目にも、以前そこで時を過ごしたことがある者の目にも明らかである。このことは、反アメリカ主義以前に、私が会ったり新たに知り合ったりした多くのインドネシア人によって映し出された、非常に目につく圧倒的なイメージであった。   マス・ヤルトがその日の夕方早くにとった姿勢は、ある意味で同種の感情を反映しているとも言えよう。私は彼の前に座り、台頭しつつある「観察統治様式」の中で異議を唱えたり、彼の説に従ったりした。この「観察統治様式」の中においては、多彩な真実が近年において歴史的に固定的な解釈をされているが、友人、同僚としての生命を持った我々の歴史を侵略している。お互いを眺めながら、私達は共にたくさんの「どこか」-「伝達されメディア化されたどこか」について考え込んでいたに違いない。スピアーは、特定の場所に住む人々の実際の歴史を説得力を持って伝達するような「イメージ、語彙、サウンドバイツ(ほんの短いメッセージ)、スローガンそして軌道の混乱」とその特性を描写している(2000,28)。このことはマス・ヤルトにとってもその通りなのだろうとは思う。おそらくは尋ねてみるべきだったのだろう。が、ある夕べに私の感じた恐怖には、私の平静を乱す効果があった。 熱狂的信仰  同じように、これらの「同時代的メディア風景」は、コミュニティーのイメージ形成、いやもっと正確には、今日のインドネシアにおけるコミュニティーのイメージ形成にもまた影響を与えている。それは、今日の大変に重要な時期を迎えたインドネシアにおける、あまりにも多くの出来事、イメージ、活動、連想の一点への収束である。内部の人間も外部の人間も、インドネシア人が、おびただしい数の言い方でアイデンティティーや意見について表現しなければならない、レフォルマスィの能力と自由の表裏に注目している。アイデンティティーに関して言えば、ゲリー・ヴァン・クリンケンは、現在では「インドネシアでは、以前には公然と聞かれることのなかったエスニシティーに関する排他的な言説が」登場している、と述べている(2002、68)。ユダヤ人の血を求めたり、血というものは宗教的所属に生来的に結び付けられているという解釈を行なうことは、時勢の憂慮すべき兆候だろう。シーゲルは、「華人」というカテゴリーは、一部のインドネシア人にとっては「人種的カテゴリー」(「肉体的な特徴の遺伝」を意味する)に属すると認めている。彼はまた、インドネシア人は一風変わった人種差別主義の感覚を持っているとも述べている(1998,83,85)。彼によれば、「ヨーロッパの人種差別主義者」と「インドネシアの人種差別主義者」は、体現と同化の捉え方に関して差異がある。前者にとっては、脅威を感じさせるような何かを体現する他者の持つ要素に「耐え難い」。それに対しインドネシア人にとっての華人は、彼らが「よりよいインドネシア人」になろうとしない場合に脅威となる(同書、85)。   が、最近では、一人の人間が体現する耐え難い要素という概念は、民族的、宗教的紛争において顕著に根をはり出している。この小論の学会発表版において、私と同じ都市化したカンプン(村)でフィールドワークを行なった人類学者である私のパートナージャニス・ニューベリーは、何年かにわたって時折居を共にした家族の息子との会話について詳述している。 彼女の記憶するのは以下の通りである。  私は一家の長男と話しをしていた。彼は物静かで、家族を支えるため薬局で父親と共に長時間勤勉に働いていた。彼はとうとう結婚し、妻の家族の家に引っ越したが、最も長い時間を過ごしているのは、母の家だった。彼は口数が少ないのだが、彼が語る言葉は、結果的にはいつも言葉以上の重みがある。物事がどのように変わってしまったかを彼は語った。「ムバック(ジャワ語で年上の女性に対する呼称)、今じゃ子供ですら僕の手から金を受け取ろうとしない。僕はカフィールだから。」カフィールという語のこんな使い方は非常に印象的である。私はそれまでにこの言葉が使われるのを聞いたことがなかった。今では一人のカトリックが、小さな子供ですら自分に触れたがらない事実に接し、考え込んでしまっているのだ。これは非常に困惑的な瞬間であった。(Newberry and […]

Issue 6 Mar. 2005

Re-Opening the Debate on Malaysian Elections

The following essays are based on the analyses and findings of the IKMAS Electoral System Research Project (Phase I) and the Phase II survey of “Voters’s Perceptions on National Issues, Economic Optimism, Education Corruption and […]

Issue 6 Mar. 2005

Eleksyon sa Malaysia: Muling Pagbubukas sa Debate

Ang mga sumusunod na sanaysay ay nakabatay sa pagsusuri at konklusyon ng IKMAS Electoral System Research Project (Phase I) at sa surbey sa Phase II hinggil sa “Pagtingin ng mga Botante sa mga Pambansang Usapin, […]

Issue 6 Mar. 2005

การเลือกตั้งเปรียบเสมือนน้ำ

         สำหรับคนเป็นจำนวนมากเหลือเกินที่ไม่ได้มีความทรงจำแต่หนหลังใดๆ เกี่ยวกับชีวิตช่วงก่อนยุคที่ฟิลิปปินส์จะประกาศกฎอัยการศึกแล้ว การเลือกตั้งเป็นเหมือนกับน้ำ เป็นสิ่งที่หากขาดเสียแล้วก็เหมือนกับการเมืองสิ้นชีวิตไปด้วย  การเลือกตั้งเป็นสิ่งจำเป็นสำหรับร่างกายการเมือง เช่นเดียวกับที่น้ำเป็นสิ่งจำเป็นสำหรับร่างกายมนุษย์   ในบรรดาคนรุ่นปู่ย่าตายายการเลือกตั้งก็เป็นเสมือนน้ำเช่นกัน ต่างกันแต่เพียงว่าคนรุ่นนั้นจะมองวัฒนธรรมทางการเมืองของฟิลิปปินส์ในปัจจุบันเป็นดั่งทะเลทรายที่แห้งผาก  ท่านผู้เฒ่าเหล่านี้จะถวิลหายุคที่ภูมิรัฐศาสตร์ดารดาษไปด้วยทุ่งหญ้าเขียวขจีแห่งอุดมการณ์ที่บานสะพรั่ง หอมอบอวลไปด้วยคุณธรรมในหมู่ท่านผู้นำและชนชั้นปกครองของประเทศ ตัดขาดไปไกลจากภาพอันน่าสะพรึงกลัวของประเทศที่แทบจะขาดวิ่นสิ้นไปในช่วงของการเลือกตั้งและช่วงหลังจากการเลือกตั้งฉะนั้น การเลือกตั้งเป็นเหมือนน้ำ เป็นเครื่องชะล้างกายาแห่งการเมืองให้สะอาดหมดจด  คณะผู้บริหารทุกคณะมักกลายสภาพเป็นคอกม้าหมักหมมโสมม และก็คะแนนเสียงที่ไหลหลั่งพรั่งพรูซึ่งมีการกำกับให้เข้าช่องเข้าทางเป็นสายน้ำสายเดียวนี้แหละที่จะชำระล้างคอกม้าที่โสโครกนั้นให้สะอาดขึ้นได้ ในปีค.ศ. 1935 (พ.ศ. 2478) เมื่อฟิลิปปินส์มีการเลือกตั้งเป็นครั้งแรก ผู้มีสิทธิ์เลือกตั้งหนึ่งในสามเต็มๆ ที่เดียวที่ไม่สนใจจะออกมาใช้สิทธิ์ และในตอนนั้นคนที่มีสิทธิ์เลือกตั้งมีถึงหนึ่งล้านห้าแสนคน เป็นชายล้วน และเป็นคนที่รู้หนังสือกันทุกคน ตอนนั้นคนฟิลิปปินส์กำลังใจจดใจจ่อรอการปกครองตนเองเพื่อเตรียมประเทศสำหรับเอกราชเต็มรูปแบบ(ผู้แปล — หลังจากตกเป็นเมืองขึ้นของสเปนมา 333 ปี คือตั้งแต่ ค.ศ. 1565-1898 และเปลี่ยนมือมาอยู่ใต้การปกครองของสหรัฐอเมริกาจนได้รับเอกราชในปี ค.ศ.1946) ดังนั้นจึงเป็นเรื่องสมเหตุสมผลที่บรรดาคนที่มีสิทธิ์ออกเสียงเลือกตั้งควรจะกระตือรือร้นออกมาใช้สิทธิ์กัน ออกมามีส่วนร่วมในการสร้างรากฐานแห่งรัฐชาติของชาวฟิลิปปินส์ด้วยกันเองในอนาคต  ทว่า คนเป็นจำนวนมากกลับไม่สนใจ และเหตุผลที่ไม่สนใจก็ไม่น่าจะเป็นเรื่องแปลกอันใด ก็ด้วยตัวเลือกในขณะนั้นมีจำกัด ตอนนั้นผู้ลงสมัครรับเลือกตั้งมีอยู่ด้วยกันเพียงสามคน และหนึ่งในสามนั้นก็ได้คะแนนนิยมท่วมท้น ผลการเลือกตั้งจึงเป็นสิ่งที่สรุปได้ล่วงหน้าอยู่แล้ว และในเมื่อทุกอย่างดูเหมือนกำลังจะเป็นไปด้วยดีเช่นนี้ […]

Issue 6 Mar. 2005

Elections Are Like Water

         Elections are like water, missed only in its absence For the overwhelming majority of Filipinos who have no recollection of life before martial law, elections are like water – a requisite for political life, […]

Issue 6 Mar. 2005

Pemilihan Umum Seperti Air

         Pemilihan umum seperti air, hanya gagal bila tak terlaksana Bagi sebagian besar masyarakat Filipina yang tak memiliki ingatan sebelum undang-undang darurat militer diberlakukan, pemilihan umum seperti air – satu syarat bagi kehidupan politik, sangat […]

Issue 6 Mar. 2005

選挙は水のようなもの

         選挙は水のようなもの。なくなって初めて恋しがられる。 戒厳令以前の暮らしの記憶のない圧倒的大多数のフィリピン人にとって、選挙は水のようなものだ。人間の身体にとっての水と同様、選挙は国家にとって不可欠であり、政治生活の必需品である。年配の世代にしてみても、選挙は水のようなものだ。しかし彼らの場合は、現在の政治文化を不毛の砂漠のようにとらえ、選挙のたびに国民が引き裂かれるおぞましい風景とは無縁だった、指導者と民衆の美徳によって彩られ理想主義がみずみずしく開花していた時代を懐かしむ。 選挙は水のようなものだ。川のように、票の激流があっという間に国を浄化し、どの政権にもみられる「アウゲイアス王の牛舎」(注:不潔あるいは腐敗した場所の意)を洗い流す。 1935年に行われた初の大統領選では、有権者の3分の1が投票しなかった。当時は読み書きのできる全男性に選挙権が認められており、選挙人登録をした人の数は150万人に上った。我々は完全な独立に向けた独立準備政府の発足を心待ちにしていたのだから、有権者たちが将来の国民国家の基礎作りへの参加に興味を示すにちがいないと思うのは当然のことだろう。ところが、実際にはかなりの数が興味を示さなかった。だが、その理由は驚くものではない。選択肢を見ると、大統領ポストに3候補者しかおらず、それもこの少ない人数の中で1人は圧倒的な人気を誇っていた。結果は目に見えていたし、万事順調に進んでいると思える時代だったから、有権者の3分の1は特に気にかける理由を見出さなかった。マヌエル・L・ケソンは68%の得票率で圧勝し、エミリオ・アギナルドとグレゴリオ・アグリパイはともに18%以下で終わった。1941年になると女性にも選挙権が認められたが、投票率はほぼ横ばいだった。つまり、前回と同様、3分の1は投票に意義を感じなかったということだが、この選挙では現職のケソンが81%もの票を得ている。 我々フィリピン人が羨ましいと思いがちな民主主義国家では、選挙人登録をした人びとの間で投票率が66%に上ることはめったにない。アメリカ合衆国の選挙は同国だけならず世界の情勢に影響を及ぼすにもかかわらず、投票する人はずっと少ない。フィリピンでは、平穏な民主主義の時代とされる戦前から、一票を投じるという過程に対しフィリピン人は大きな評価をし、今でもそう評価し続けるという我々の民主主義の特徴が明らかになっている。ただし、戦前は予想可能だった我々の政治的かつ国家的発展の姿は、第二次世界大戦という国民的トラウマの中における一連の衝撃と失望によって消えてしまう。 1941から1946年までの間、フィリピンにはマヌエル・L・ケソン、ホルヘ・バルガス、ホセ・P・ラウレル、セルヒオ・オスメニャ、マヌエル・ロハスという計6人の国家元首がいた。この5年間に、正当な大統領の座を巡って2人の指導者(日本に支持され本国に残ったラウレルと、米国の支持を受け亡命したケソン、その後にはオスメニャ)の間で争いが繰り広げられた。この時代、どちらの味方につくかはもはや政治的ビジネスではなく、血生臭いビジネスだった。「協力者」(注:collaborator、日本占領軍に協力したフィリピン人の意)ゲリラ、亡命中の役人に山にこもった役人、隠れたゲリラだというマニラ在住の役人に親日派を明言する役人といった具合に様々な人びとがいた。 今日知られているように、終戦と戦争のトラウマの後に初めて実施された国政選挙が、それ以降の選挙の舞台を設置した。投票が生きるか死ぬかの問題となってしまってからというもの、戦前に注意深く育成された政治的な美徳の見せかけの維持は、もはや困難だった。大戦前、選挙は人々が自分たちの指導者を指名するという神聖な面を持っていたという意味で、水のようなものだった。一方、大戦後には、選挙は汚れを流し落とす手段だけではなく、生き残るために必要不可欠なものとなったという意味で、水のようなものだった。引き裂かれて分裂してしまった有権者、ゲリラ、偽のゲリラ、本物の「協力者」で不当に告発された者、日本の銃剣を後ろ盾に不動産を避難させた者(自分の身の可愛さから今は米国にしがみついているが)、不満の募った農民―置かれた状況は異なるが、みな生き残った者たち―が選挙の結果に多大な関心を寄せる事態となったのだった。 1946年の選挙では、本物のゲリラ、過激派、そしてケソンが国政を支配していた20年間に遣り込められていた指導者らが、ついに自分たちの時代が到来したとして必死に戦った。ロハスの後ろで陣を張ったのは、孤児のようになっていたケソン派の政党員だった●。ゲリラと「協力者」の両方がいたが、なかでも特に重要だったのは「協力者」だとして告発されていた者たちであり、彼らにとっては政治的生き残りが名誉回復と復権への唯一の道だった。選挙では両陣営とも、極貧状態に陥っていた国民の人気取りに必死になった。国民はというと、独立に興奮と恐れを同時に感じながらも、戦前に注意深く組み立てられてきた発展がついに実を結ぶのが1946年だと信じ込まされてきたが、実際には独立とは死と腐敗が悪臭を放つ廃墟の上でたなびく旗のことだと知らされたのだった。 戦争により人びとは殺され、インフラは廃墟と化し、理想は痛ましくも空洞化し、文字通り「乾きあがった」国民は選挙を水のようなもの、そして水を求める喉がカラカラに乾いた人々の戦い、それも必死の戦いだと考えた。1946年に圧勝した候補者はおらず、単独過半数を得ただけだった。また、票の買収、不正操作、選挙がらみの暴力は以前では考えられないレベルに達した。1949年になると、こうした状況はさらに悪化し、エルピディオ・キリノが死人を眠りから起こし、植物や動物まで動員させて投票させ勝利したという悪名高き話は世界中に衝撃を与えた。しかし1953年、カリスマ性を持ったラモン・マグサイサイが、ケソンが1935年に記録した得票率68.9%を破って当選するという、待望の大洪水が起った。 ところが、マグサイサイは1957年にこの世を去った。彼の後継者であるカルロス・P・ガルシアは7人の候補者の中で、わずか41.3%の票を取得することで選ばれた。相対多数を得た者が選挙を制したことで、ここに今日のフィリピンの政治制度が生まれた。この国は、勤勉さと巧みな策略を駆使したケソン、また天賦の才能とカリスマ性を兼ね備えたマグサイサイのような指導者たちがいつも支配するわけではない。ほとんどの政治家は平凡でひねくれ者だが、かといって非常にずるがしこくはない人たちであり、必ずいつも輝く人がいるというのは不可能である。 加えて、政治家は控えめで大衆の気を引くような行動をとることは好ましくないと有権者が考える時代は終わった。さらに、政治家の間では、疲れきった、ある意味、道徳的に破綻した戦前派の世代から、戦争に実際に加わり、その後成長した若く生意気な世代へと、嗜好や期待するものの変化がみられた。さらに加えて、政党ごとの組織票などの、ケソンが注意深く設置しマグサイサイがその人格の力で動かした大統領の権限や組織マシーンは着実に衰退した。その結果が次のようであった。 ガルシアは、彼の先任者たちが当たり前のものとしてきた基本的な支配のレバーをもぎ取られた大統領だった。政党マシーンによって生み出され育て上げられた大統領だったが、その党員は政党志向の投票の防波堤だった組織票を既に無くしていた。キリノの横暴な性格と、その裏腹の微々たる政治的ギフトへの反応として始まった潮流の一つ、大統領の特権から地方自治体の任命が徐々に剥奪されるという過去の遺産を背負った大統領でもあった。また、彼は古いスタイルの政治家だったが、それ以前にマグサイサイが手下をとおして投票者に指示を与えて選挙に勝利するという古い政治家のスタイルを崩してしまっていた。スペイン語を話し、古い形式にのっとって就任した人だったが、有権者はマグサイサイ式のバロンタガログを着て登場する素朴なタイプを好んだ。この有権者はまた、芸能アイドルという資格しか持たないロヘリオ・デラロサを上院まで送りこんでいる。その一方で、投票した人たちはガルシアに大統領としてケソンやマグサイサイのような自信に満ちた態度と風格を期待した。 問題は、ガルシアはこれら2人のようではなかったことである。自らが言っていたように、彼は「馬鹿ではなく」、じっさい彼や彼の後任はしばらくのあいだ、残された権力のレバーを握って大統領職まで上り詰めるという賢さを披露した。 したがって、投票者と大統領を志す政治家の双方の間でみられた、大統領という地位に対する一般的な見方は、過去の大統領の実物大以上の人物像と比べて、現職の大統領たちが(試みはしたものの)それと同等の権威と有効性を用いて行政力を行使できない苦しみを経験した。法のもと、制度のもとに、そのための手段がなかったのである。にもかかわらず、投票者の間の期待は変らず、政治家の間の野望も変らず、さらに選挙に対する人びとの関心は1946年以来高いレベルにとどまり、特に流星のごとく登場したマグサイサイの後は熱狂状態だった。ガルシアは、キリノがマグサイサイに負けたときとほぼ同じ理由によって、ディオスダード・マカパガルにその座を奪われた。しかし、悲しくもマカパガルには行政力を執行するだけの実力が身についておらず、1965年、しかるべく彼はフェルディナンド・E・マルコスによって押しやられた。マルコスは、渇望していた権力にたどり着き、手にした地位を放さないためには、制度をすべて壊すしかないと心に決めた。 1969年、マルコスは大統領選では歴代4位の61%という高い得票率を掲げて、史上初の再選を果たした。ちょうどケソンが行政支配をやり易くするために制度を変革したように、マルコスも変革に着手したが、彼の場合はもっと大胆だった。このインフラ重視の大統領は選挙をダムととらえた。つまり、政治支配を集中させる手段であり、自分のクローニーの畑は灌漑で潤し、敵の土地には何もせずに干し上がらせ、自然の流れさえ変えられるという圧倒的かつ不屈の意志を持つ、まるでファラオのようなイメージを人びとに与えるものだった。 「新社会」というマルコスが構築した湖の水は、ドロドロしていて、浅く、汚染されていて、臭いことが判明した。1986年、ダムは決壊し、もっと自然な水の流れが戻ってきた。コラソン・アキノは公式選挙結果では敗れたが、きちんと集計されたところでは勝ち、それは彼女の支持者や世界の目にはモラルの勝利として映った。選挙を取り戻す、言うなれば、選挙を渇望する国民に水を持ち帰ることについて―たとえそれが自分の夫が成し遂げようとしたものであっても―アキノは最初から、恥かしがり屋の未亡人として、政治的激動期における国家再建の中心的役目を果たすことについては乗り気でない様相を見せていた。 コリー・アキノは選挙、実のところは国民投票によって権力の座に着き、彼女は選挙/国民投票を正当性の維持の要に用いた。 ところが、ガルシアの選挙のときに姿を現した、政治制度の発展―または未発展―の段階が、復讐をするかのようにフィデル・ラモスの時代になって戻ってきた。ラモスは、我々の選挙史上で最低の得票率(28%)で当選するという記録を作った。彼の成功は、選挙を大統領統治のための正当性だとする考えに悪い影響を及ぼした。エドサ(注:ピープルパワー革命)後の策略で重要になったことは、人気でもマシーンでもなく(彼の対抗馬らはこれらを兼ね備えていた)、少ないものから最大の効果を発揮させるという戦略的優位性である。ラモスは、他の候補者よりも不人気の度合いが低かったという理由で、国民の多くに拒否されながらも、大統領の地位にたどり着いた。ラモスの任期後、ジョセフ・エストラダが圧勝のような形で大統領になったことは驚きに値しないが、その圧勝とされる状況はじっさい、ガルシアと他の候補者との間の得票差よりも健全だったとは言えない。ラモスとエストラダは少数派の大統領だったのであり、様々な期待に応じるには制度的に無理があった。それと同時に、有権者の方はますます分裂し、失望し、絶望した。人びとの好みとマスコミの変化によって、ジョセフ・エストラダはロヘリオ・デラロサの後継者になった。 ラモスの巧妙なずるさと部下を操る長い経験をなくして、エストラダは権力を維持するには不適当であることが明らかになった。一方、彼の副大統領となったグロリア・マカパガル=アロヨは、エドサ後に初めて過半数に近い票を獲得した(注:フィリピンでは大統領と副大統領を別々に選ぶ)。これによって、彼女は自分がエストラダの後継者だと十分認められ動き出す権限を手にしたのである。エストラダがマラカニアン宮殿から逃げ出したとき、(長い話を簡単に言えば)アロヨはすばやくそこに乗り込んだ。とはいえ、この一連の過程は、正当な継承者、つまり炎を受け渡される明らかな後継者として次期大統領が歴史的に味わうことができた自然な特権を否定されるという特異な状況下で行われたのだった。 2004年大統領選のキャンペーンは正当性の追求だった。正当性はエストラダが指名した候補者によって失われ、また現職もまだ獲得していない。不信任をつきつけられ拘置所にいる指導者に依存した候補者や、自分自身も拘置所へ行くべきだとの申し立てでひどく傷ついた現職のほかにも候補者がいたが、彼らも正当性を追求した。ところが、熟成中の一つの政治文化が2人の最有力候補と選挙戦の影を薄くしてしまった。この政治文化は、1960年代に生まれ、1970年代に暴力的になり、1990年代に道徳的に破綻したのだが、指導者も指導される人たちも1980年代の信頼できる選挙を復活させようとバラ色の眼鏡をかけて見ている。水があるように、選挙はある。しかし、国の合理的な、熟考した計画の一端としてではない。乞食の民衆に感謝の念を植え付けるための施しのように、投票を水のように見なす指導者の考えにぴったり合うから存在するのである。 少なくとも3分の1の有権者が投票しなくなる日が来るにちがいない。選挙の結果がどうであれ、重要なことは問題になっていないのだから。1946年以降、この問題は重要であり続け、それゆえ、選挙のたびに汚職が国の重要懸案に挙げられている。大多数にとって何が問題なのかというと、文字通りに水そのものが彼らの物として飲め、水浴びに使える生活、バランガイ(注:近所の地域)ごとに一つの蛇口とかゴミの溜まった水路とかいった具合には計れない生活、そういう生活を望むということなのだ。 選挙は水のようなもの―喉の乾いた人たちにとっては必需品であり、それを支配したり所有する人たちにとっては権力の根源である。選挙は水のようなもの―それぞれの人にそれぞれの意味がある。選挙は水のようなもの―少なくとも我国のように、どのバランガイの人たちも飲み水のために何時間も待ったあげく、濁って悪臭のするものしか得られない現実のなかで、上流階級の家々にあるプールの存在が恥を象徴している。 マヌエル・ケソン三世 Manuel L. Quezon III is a columnist and contributing editor at […]

Issue 6 Mar. 2005

Ang Halalan ay Parang Tubig

         Ang halalan ay parang tubig, hinahanap-hanap lamang tuwing wala Para sa higit na malaking bilang ng mga Pilipino na walang alaala sa buhay bago ang batas militar, ang halalan ay parang tubig: isang rekisito […]

Issue 6 Mar. 2005

Pasuk Pongphaichit on Thailand

Thank you very much, Acharn Giles. The title of my talk, “A Country is a Company, a PM is a CEO,” is based on a statement Prime Minister Thaksin Shinawatra made in November 1977 when […]

Issue 6 Mar. 2005

Paul Hutchcroft on The Philippines

Thank you very much. It’s a real pleasure to be here today to join this comparative discussion of political leadership throughout the region and I am pleased to have this opportunity to talk about the […]

Issue 6 Mar. 2005

Francis Loh Kok Wah on Malaysia

Thank you Mr. Chairman, Acharn Giles. Friends, I have always been studying the people on the sides rather than the leaders. I started studying the coolies in the tin mines, and then I started looking […]

Issue 6 Mar. 2005

Vedi Hadiz on Indonesia

Thank you, Mr. Chairman. As you know, we are having parliamentary elections in Indonesia on the 5th of April, and this should actually be a very good time to talk about leadership in Indonesia. The […]

Issue 6 Mar. 2005

Benedict Anderson on Southeast Asia

Thank you very much, Acharn Giles. This is great. First thing I want to say is this: listening to these four excellent and stimulating presentations, I was particularly struck by one thing that came out […]

Issue 6 Mar. 2005

Wahyu Prasetyawan on Indonesia’s Presidential Election

How did Susilo Bambang Yudhoyono defeat incumbent Megawati in the 2004 presidential election, given the President’s relatively successful maintenance of the economy over the last three years? Many analysts have highlighted the novel role played […]

Book Reviews

Book Review: Indonesia: The 2004 Elections and Beyond

Indonesia: The 2004 Elections and BeyondAdam Schwarz Singapore / Institute of Southeast Asian Studies / 2004 This monograph is a transcript of a lecture delivered by former Far Eastern Economic Review correspondent Adam Schwarz at the Institute of […]

Book Reviews

Book Review. Democratization in Thailand: Grappling with Realities

Democratization in Thailand: Grappling with Realities『民主化の虚像と実像-タイ現代政治変動のメカニズム』Tamada Yoshifumi玉田芳文Kyoto / Kyoto University Press / 2003 Dr. Tamada Yoshifumi, a distinguished scholar of modern Thai politics at Kyoto University, was awarded the 20th Masayashi Ohira Memorial Prize in 2004 for this […]

Issue 5 Mar. 2004

Editorial: Issue 5 of the Kyoto Review of Southeast Asia

Issue 5 presents a diverse look at Islam in Southeast Asia. Our Review Essays discuss the Islamization of knowledge among Malaysian intellectuals and the intersection of Islamic law and gender issues in Malaysia, Indonesia, Singapore, and the […]