ジャワあるいは他のどこかにおける友情、メディアに伝達された想像力、熱狂的信仰
またお会いしましょう この20年というもの、私はインドネシアをたびたび訪れてきた。そのうちの12年は、ジャワのジョクジャカルタにおいて、文化人類学者としての調査活動に携わってきた。2002年の夏、私は再びこの地を訪れ、ジョクジャの南区域にある家族と私の家には、仕事の上でも個人的にも付き合いのある、一人の旧友がやって来た。マス・ヤルトは、地元の大学のリサーチプロジェクトの給与支払い名簿を管理していたが、12年前に私が出会った時は、同じようなプロジェクトのデータ処理者をしていた。当時の私は、この非常にジャワ的な都市において文化人類学の博士論文のための調査を、やはり同じ身分であった私のパートナーと共に行なう大学院生であった。 彼が到着すると、私たちは握手と互いの頬をかぐことによって熱情を込めて挨拶を交わした。靴を脱ぐと、彼は狭い玄関の間に足を踏み入れた。この部屋の奥に続いているのは、ありがたいことに天井に扇風機が取り付けられ、ジャワのアンティーク、織物、インドネシアの現代美術によって念入りに飾りつけられた客間である。床が大理石でできたこの部屋の片隅には、その人物にふさわしい精巧な筆で描かれた、少なくともインドネシア人の目には非常に美しい人物画が飾られている。袖の短い服に見慣れた黒い帽子を被ったその絵は、インドネシアの初代大統領スカルノのパステル画である。扇風機は心地よく低いうなり声をたてて回り、現代の様々な瞬間の遺物に囲まれて、私たちはタバコに火をつけた。香りのよい一服は、私たちの友情と、男性同士の仲間意識をしっかりと強めてくれた。 話題が9月11日のことに移ってゆくまでに、それほどの時間はかからなかった。熟した丁子の香りのする煙のベールの向こうに、この悲劇的な出来事についての理論と疑問の両方を提起しようとするかのようなマス・ヤルトの鋭い眼差しが伺えた。私の瞳を覗き込みながら彼は尋ねたが、その語調にはかなりの確信が感じられた「ワールドトレードセンターで働いていた何千人ものヤフディ(ユダヤ人)が、前もって一日休みを取ろうと知っていたというのは本当かい?」そこで彼らは死と破壊行為と負傷を逃れた。表現を誇張した彼の質問は続いたが、もし知っていたとすれば、引き出される唯一の結論は「9.11の飛行機を飛ばしていたのはユダヤ人だ。」しかない。 ちょうどその時、夕方の祈りへの呼びかけが町中にこだました。マス・ヤルトは、礼儀正しく断りを入れると、手、足、顔を洗い、私がタバコを吸いながら静かに待っている間、部屋の片隅で祈りを捧げた。この行動は、彼の攻撃的な発言にエクスクラメーションマークを置くために意図されたジェスチャーのように思えた。1997年に、ジョクジャの東に位置する、宮廷が維持されているもう一方の街であるソロを再訪したマーク・パールマンと同じように、私はこの「各個人の熱狂的信仰の深まり」に衝撃を受けていた(Perlman 1999,11)。今までの付き合いの中で、マス・ヤルトが私の前で祈ったのは、オフィス内にしつらえられた日々の祈り用の小部屋で、他のスタッフと共に行なった一回きりであった。私は彼の家に何度か泊まったことがあるし、仕事が終わった後の午後の時間を、彼のバイクでゆっくり回ったり、映画を見たり、彼が訪れるべきだと考えているジョクジャ市内の遺跡、ワルン(飲食のための売店)などの場所を訪れたりして過ごしたものだ。 その頃の私達の主な話題は、政治、文化、ジャワ文化などであり、当時の私の興味の対象であったペンゴバタントラディスョナル(伝統医学)についてももちろん話し合った。ソロとジョクジャの宮廷の支配者とその家族が葬られている、ジョクジャの南にある小さな町に彼は住んでいる。この墓地は超自然的な意味で強い影響力があり(angker)神聖(keramat)だが、様々なジャワの宗教については、私達はほとんど話をしなかった。例外といえば、多分ジャワの神秘主義(kebathinan)の医学における役割の話くらいだった。イスラム教、また確かにキリスト教については、ディスカッションをした覚えがない。 我々の友情の初期のころ、マス・ヤルトは現代的な人間として印象付けられている。彼はスカルノ主義者であり、スハルトの新秩序には懐疑的であった。科学に携わり、ブルシーダタ(純正なデータ)のために雇われたあたかもオフィスの手先のようであった。当時の彼は、テクノロジーからフリーセックスまで、現代的なものを全て体現していた。ある日の午後、私達はいく人かの友達と映画を見に出かけた。それはオリバー・ストーンのJFKだった。主演スターのケヴィン・コスナーが、彼の考えによる陰謀の概略を述べ始めると、政変の中でのジョン・F・ケネディの暗殺のシーンが重なった。私はマス・ヤルトが涙するところを目にした。映画を見終わった後、彼と仲間たちはJFKとスカルノには沢山の共通点があるということで意見が一致していた。そしてケネディに起ったこと- 少なくとも映画の中で -がスカルノにも起ったというのである。陰謀のセオリーに対する一般的な関心はさておき、我々に共有の立脚点、つまり近代性に対する性急な意識を与えるのは近代的国民国家とその政府の意図に対する批判なのである。 さて2002年となり、我々は陰謀のセオリーについて再び討論を行なっていた。夕べの祈りへの誘いが空に響いたため中断された彼の議論が根拠としていたのは、歴史のあらゆる曲がり角と、変化や予測不可能な出来事への推進力の背後に、陰謀者と回し者がいると感じる伝統であった。1997年に端を発した政治、経済危機の後に以下のような動きが続いた。スハルトの失脚、インドネシア群島のいくつかの地域で起った暴動、学生デモと改革運動(reformasi)、銀行スキャンダル、信仰治療を行なう黒魔術師の殺害、華人、また華人―インドネシア人混血女性に対するレイプ、いわゆる奥地における人肉食と最近の首狩り、そしてもちろん議会における些細な、あるいはそれほど些細ではない政治問題。新聞、雑誌は、これら全ての裏側に、個人にせよ集団にせよ誰かがいるのだという一般の認識を刺激したり、うわさを裏書してみせようとした。 私たちの友情は長く続いていたものだったし、彼は近代的なものを理解する人間だと考えていたので、私はマス・ヤルトに向かって、そんな思いつきは不合理だとかなり決然と説明した。オサマ・ビン・ラディンのアルカイダの組織が計画の背後におり、攻撃を行なった証拠は明らかじゃないか、と私はためらいもなく(あるいは考えもせず)言った。 夏が過ぎていくにつれ、マス・ヤルトとの友情が、世界的に現れつつある感情のパターンから影響を受けていると次第に感じるようになっていた。私が到着してからというもの、私の学問的関心をジャワのイスラム教の固有の歴史と性格に導こうとすることに、彼は非常な関心を見せていた。自分とまた彼の小さな街の人々が博学なイスラム学者であると認めている人々とのインタビューを、彼は積極的にアレンジしてくれた。イスラム教の学識と実践を独学し、地域では著名な人物と会見することになった。その人物は、ジョクジャカルタから三十分ほど南に行った所にある、マス・ヤルトの住んでいる街に居を構えていた。彼は、この「インタビュー」に参加するようにと、ジョクジャに住む他の友人も招いていた。会談の予定は夕方に入っていたため、この友人たちが私を車で連れて行ってくれるのは、理にかなったことであった。彼らが到着するのを待っている間、処刑されたレポーター、ダニエル・パールの新聞に載った写真が突然頭に浮かんだ。彼は、縛られ椅子に座り、頭をたれていた。舞台裏で動いている捕獲者に髪を摑まれており、頭に銃とナイフを突きつけられていた。待っている間に自分でも困惑するほど恐怖に襲われてしまい、もし私が帰ってこなかったら気をもむだろうかとパートナーに告げるために家の中にいったん戻ったほどだった。マス・ヤルト - そしてメディアに伝達されたアイデンティティーの政治における私たちの存在は極度に暴力的になった。「現実解釈の可能性の複数性」は私の想像力の働きと一緒になって、驚くべき恐れを私にもたらした。 インドネシアで過ごした日々を通じて、私はこんな風に恐怖を感じたことはなかった。その上、私がこのように考え込んでしまったのは、友人や親族と呼べるような存在に対してであったのである。私達は共に働き、食事をし、遊んだ。私は彼の子供たちの勉強をみてやったこともあるし、彼は私のパートナーの仕事を助けてくれた。私たちの関係は、私がインドネシアで作り上げてきた他の様々な関係と同じく、いやそれ以上に相当なものがあったと思う。ミニバンに乗り込む時に私が感じた恐怖は、世界的な出来事と構造的なつながりを持っていた。この感情は、長く続いてきた、または常に進行形で作られつつある私たちの関係にとっての感情的責任に違背した。その晩、帰宅する前にこの恐怖についてマス・ヤルトに語るべきだったのだろうか。2年後(2004年)に私達はたった一度、ほんの短い時間再会した。私達は互いに語ることが少ないことに気付いた。それでも彼は私に贈り物を持ってきていた。モート とルザフォードがパプアに関して観察した「マスメディアによって表現された暴力(とその他の事件)は、出来事を説明する際に決定的な要因となる。」という言葉のように、最近のインドネシアを象徴的に示すような贈り物だった。彼は私に一冊の本を送ってくれた。その本は暴力を体現してはいなかったが、最近のインドネシアにおいて、想像力に課せられた複数の言い換え、(再)命名、虚構の現実を捉えているように思えた。その本は、英語を話す西欧の学者によるコーランのスーラの章に関する解釈のインドネシア語訳であった。 メディアによる伝達 政治、経済危機、パレスティナにおける第2次インティファーダ、9.11の事件、アフガニスタンとイラクにおける戦争、これらの事件以後、世界最大のイスラム教徒人口を持つインドネシアにおいて、その国際コミュニティーが抱いた希望は、インドネシアの国民と政治が「中庸」を保つことであった。専門家であろうとなかろうと、インドネシアに対する観察者は、一般的に以下のように認めている。政治上のアイデンティティーが極端に走らない原因は、歴史を通じて一貫した寛容性と、そこに住む人々の個性と社会生活のあり方に柔軟性が保たれていることに見出される。この寛容性と、方針決定と経験の柔軟性は、島嶼部東南アジア、とりわけインドネシアの文化的特色であるとされている。O. W. ウォルタースは、この地域の「文化基盤」を分析しながら、社会的、文化的境界を越えて広く評価されていた人間の特質について、19世紀のジャワ語文献においては、洗練された人物(wong praja)が、柔軟性のある人物(lemesena)と表現されていることを引用している(1991,161)。ベン・アンダーソンは、特にジャワ人にとっては「もしジャワ的な生き方の中に適応させ、説明付けることができるなら、ほとんど全てのことが容認される。」と語っている。しかしながら、近年において、アンダーソンは過ぎ去った時を回顧しながら、この「ジャワ人の寛容性」が薄れつつあること、また比喩的にも、あるいは多くの場合現実的にも、「異なる社会的グループの間に近寄りがたい高い壁」という社会的建造物が登場しつつあることを指摘している(2002,3)。 9.11以前、以後のインドネシアにおける社会的事件は、この文化的に複合的な国家の持つ寛容性と「環境を変える」というジャワ人の能力が挑戦を受けていることを物語っているといってよいだろう(Beatty 2002)。特に、個人とその宗教的な所属に関して、長く続いてきたいわゆる「柔軟な市民性」が、世の中一般に見られるような非寛容な方向性に近づきつつあるように思われる。アンダーソンが40年ほど前、また近年嘆いたように、国家主義の世界的な重圧と振興は、ジャワ人の「旧来の道徳的な多様性を明らかに脅かし」、「構造的に条件付けられていた寛容を徐々に衰えさせている」といえよう。(1996,42)。インドネシアに新たに課せられてきたアイデンティティー、とりわけ宗教的なそれについて、私は身近な、あるいは遠方からの観察と会話からここに分析してみたいと考える。モルッカ、カリマンタン、スラウェシにおける地域紛争は、民族的、宗教的、政治的、経済的、あるいはそれらの組み合わせによって、多分様々に論じられており、非寛容で柔軟性を欠くアイデンティティーの形成を説明する説得的な例となることだろう。が、以下において私は、2002年にジョクジャカルタとその近郊におけるフィールドワーク中に、長年の友とその仲間たちと交わした会話について考えを進めてみたい。 注目すべきことに、慣れ親しんだジョクジャカルタの他の環境において、私は初めて「ユダヤ人」、あるいは「ヤフディ」に出会った。注意深くこのことを考えてみるにつれ、この世界的な兆候は、9.11や、インドネシアの内外で起っている事件を解釈するためのみに人目を惹いているわけではないことに気付いた。その他の記号的な重みが加えられているのであり、これらの重みは、インドネシアにおける社会的形態と習慣の変容、アイデンティティー形成の両極性を反映している。インドネシアにおけるユダヤ人コミュニティーの数は僅かなものなので、インドネシア人にとって自らの経験に根ざしたユダヤ人に関する知識は殆どないといってよいだろう。またその上、スラバヤのコミュニティーに僅かばかり残っているユダヤ人が、近年差別の対象とされたり攻撃を受けた例はない。イスラム教徒達は彼らに「シャローム」と挨拶を投げかけ、コウシャー(ユダヤ教徒にとっての基準を満たした食料を売る店)は、イスラム教徒のハラール(イスラム教の戒律に従ってさばいた食べ物)を売る肉屋から仕入れた肉を扱っている。また10年以上も、あるイスラム教徒の家族が小さなシナゴーグの管理人を務めている(Graham 2004を見よ)。このことから考えて、インドネシアにおける、ユダヤ人を表す符合として世界的に認識されているイメージはインドネシア人にとっての社会的事件や懸念事項と共鳴しあっているといえよう。 例を挙げて言えば、インドネシアの第4代大統領、アブラハム・ワヒドの議会制に基づく選挙の後、イスラエル人とパレスティナ解放主義者間の暴力行為は国内の「どこか他の場所でメディアに伝達された」と受け止められるようになった。この時、政治的な符号としてのヤフディが、現在のような受けとめられ方をするようになったのである。メディアの中で目にすることのできる彼等の姿は、生々しい現実として目撃され、人間の行なう事件の真実に対する平等な洞察を自称する、その他の様々な符号の可視的な背景の中でより深い意味づけを獲得していくのである。フェルドマン(2000)は、この政治化された可視性を「観察統治様式」と呼び、いわゆる「現実解釈の可能性の複数性」が事件に対する人々の理解を形作るようになると述べている(Feldman 2000参照)。シーゲルは、「インドネシアにおいて『ユダヤ人』という語は、脅威を示している」が、この脅威には形状がない。」という点に注目している(2001,302)。シーゲルによれば、ユダヤ人の宗教的なアイデンティティーは、「キリスト教徒のそれに吸収されている」例もいくらか見られる(同、272)。ハッサンは、「シオニスト兼キリスト教徒の陰謀のセオリー」への、同じような同化の例を観察している(2002,163)。このことをバリにおける爆破犯が念頭に置いていたことは明らかである。有罪を宣告された爆破犯のうちの一人、アムゾーリは、彼らを爆破に駆り立てたのは、ユダヤ人、アメリカ合衆国とその同盟者達に端を発し、世界中を覆っている道徳的退廃であった、と語っている。彼の考えによれば、この悪の枢軸による世俗の「けっこうな」暮らしぶりは、道徳的退廃を生むために宗教と競っているのである。そこで彼は、「白人を殺したことには誇りを感じるが、インドネシア人の犠牲者を出したことには悲しみを感じている。」 シーゲルは、「メディアの上のユダヤ人」と結び付けられている反ユダヤ人主義は、インドネシア国内でおこっているイスラム教徒とキリスト教徒のコミュニティー間の暴力行為に関するメディアの叙述を通じ、インドネシアの多様性を持った宗教に関わってくるような日常の中での政治に入り込んできていると主張している(2001,303)。リードは、東南アジアの歴史において、華人が「東洋のユダヤ人」として知られるようになるにつれおこった、ユダヤ人と華人の結びつけに関する史料を引用している(1997,55)。シロは、「ユダヤ人に譬えられることは、東南アジアの華人知識人からは歓迎されず」、ただ「イスラム教徒に敵意を抱かせる」事にのみ役立っていることに注目している(1997,5)。実際、既に人種主義的な符号として重い意味づけをなされているユダヤ人の世界的な符号は、インドネシア社会において華人の社会的アイデンティティーが既に「人種的カテゴリー」となっていることについて伝えている。その結果、インドネシアの華人の、華人として、インドネシア人として、あるいは他の標識を持ったアイデンティティーに関する社会的な理論は、予言を叶える役割を果たしている。これは、民族主義がどのように働くかの例であり、社会生活と差異に対する理解に何故有益かという理由である。 インドネシアのメディアによって伝えられている「ユダヤ人」の世界的な符号は、インドネシアのイスラム教徒の間に、イスラム教に混ぜ物が混入されつつあるのではないかという恐怖をたきつけている。こういった恐れの感情は、「血」に関する言説の中にしばしば見られる。2000年10月に、マレーシアにおいて、イスラエルのクリケットチームがマレーシアの土を踏むことに対する抗議運動が行なわれたが、このことはジャカルタにおけるデモに刺激を与えた。インドネシアの抗議者らは、イスラエルの国旗に血を浴びせかけ、「ユダヤ人の血が欲しい。」と要求した。ワヒド大統領の外相アルウィ・シハブは、議会において以下のように論じた。インドネシア軍の人員が占領の最終期に犯したとされる人権侵害と戦争犯罪の証言を聴取するため開かれようとしている東ティモール国際法廷の設立を妨げようと努力するつもりなら、インドネシアには「ユダヤ人のロビイスト」が必要である。何故「ユダヤ人のロビイスト」なのか?それは、アメリカ議会がユダヤ人にコントロールされており、合衆国国務長官のマデリーン・オルブライトは、ユダヤ人の血を引いているからである。 リードは、今日のインドネシアとマレーシアにおいては、「近代化の犯人リストに関する最も粗野な人種的公式化は、理論的な構成概念としてのみ知られている『ユダヤ人』マイノリティに対して行なわれている。」と嘆息している(1997,63)。「近代化の犯人リスト」についてさらに詳しく述べる中でリードは、インドネシア人のモデルニサスィ、ウェストゥニサスィ、グロバリサスィに対する魅了のされ方と嫌悪 - をインドネシア人がしばしば一つのものに合体する歴史的な過程と条件に注目している。スハルトの新秩序下においては、そのような合成が奨励された。プンバグナン(発展)は、土着の民主主義、階級的社会秩序、公正で豊かな社会の土台としての物品とサービスの流通、またインドネシア国家の礎と一括して扱われた。レフォルマスィは、スハルトの夢が馴れ合い、腐敗、縁者びいき(Kolusi, Korupsi, Nepotisme, KKN)に基づいていたことを暴露した。 しかし、夢とはそこから覚めることが困難なものである。そしてここに皮肉な成り行きが見られる。もう一人のバリの爆破犯、アリ・イムロンは、「インドネシア国家の息子としての我々の能力は誇るに値する。」と語っている。この発言は、1928年において、インドネシアの民族主義者の「覚醒」を布告した青年の誓いを仄めかしている。この国家的なアイデンティティーの覚醒は、その大志という意味では国民国家と同種の近代性の段階に入っている。スカルノの旧秩序と「指導される民主主義」の下で、国民国家であることは、成熟、発展(maju)した社会になるための記号的な進歩であった。が、しかし、スハルトの新秩序統治体制においては、ただ単に国民国家になるだけでは不十分であった。近代性の記号は、技術主義社会にふさわしく設計されており、プンバグナンの条件を技術的に発展させるものであるべきだった。30年間のプンバグナンスタイルの心的傾向は、インドネシア人に対して、深い心理的、社会的、文化的影響を与えた。その中でも著しいのは、自分たちの社会におけるものにせよ、他者の世界と比較してみたものにせよ、自己に対する見方に対する影響であった。それ故、イムロンの誇りの源泉が爆弾を作り他者に示す能力と、途上国の貧しい村の若者が、アメリカやオーストラリアなどの先進国に打撃を加える能力であったことは驚くに足りない。2002年10月にクタビーチにおいて使用した技術を彼は記者会見の中で見せびらかし、自分がアフガニスタンで爆弾製造を学んだと主張した。そして「我々のインドネシア人としての能力は誇るべきものだ。が、その能力は間違った目的に使用されている。」と語った。インドネシアの国家を技術面における刷新と結びつける考え方は、スハルトの新秩序下における開発主義、プンバグナンのイデオロギーの主要な推進力であった。 バリの爆破犯の声明の中を勢いよく流れる開発主義は、新秩序体制政治の経済、文化的成り行きを反映している。スハルトの統治期においては、トルイヨが「構造の変化と資本の空間化」(2001,128)と定義したグローバライゼーションが明らかにインドネシアにおいても起り、社会の殆どあらゆる階級によってなんらかの形で感じ取られていた、と語るのが正しいように思う。トルイヨは、グローバライゼーションをそれぞれがばらばらの過程であると述べたが、また以下のようにも表現している。人々と空間(例えばインドネシア)を「その中においては、諸国家の理想がさらに似かより、増えつつある過半数の人々が、理解したり認識したりすることができないようにする手段ですらあるような消費の網」に結びつける「消費品市場の世界的統一」(同書、同ページ)。市場とそのメディアティックス - 人間生活における市場に対するメディアのパフォーマンス -は、バリの爆破犯が憎みかつ愛した「けっこうな暮らし」への欲望を体現、また誇示している(同書、同ページ)。テレビ、ラジオ、印刷物などの一般的なメディアは、未だにアメリカ、日本、香港、インドなどの他者に大きく影響を受けている。消費品の消費によって達成される「けっこうな」暮らしの社会的架空性は、インドネシアを新しく訪れた者の目にも、以前そこで時を過ごしたことがある者の目にも明らかである。このことは、反アメリカ主義以前に、私が会ったり新たに知り合ったりした多くのインドネシア人によって映し出された、非常に目につく圧倒的なイメージであった。 マス・ヤルトがその日の夕方早くにとった姿勢は、ある意味で同種の感情を反映しているとも言えよう。私は彼の前に座り、台頭しつつある「観察統治様式」の中で異議を唱えたり、彼の説に従ったりした。この「観察統治様式」の中においては、多彩な真実が近年において歴史的に固定的な解釈をされているが、友人、同僚としての生命を持った我々の歴史を侵略している。お互いを眺めながら、私達は共にたくさんの「どこか」-「伝達されメディア化されたどこか」について考え込んでいたに違いない。スピアーは、特定の場所に住む人々の実際の歴史を説得力を持って伝達するような「イメージ、語彙、サウンドバイツ(ほんの短いメッセージ)、スローガンそして軌道の混乱」とその特性を描写している(2000,28)。このことはマス・ヤルトにとってもその通りなのだろうとは思う。おそらくは尋ねてみるべきだったのだろう。が、ある夕べに私の感じた恐怖には、私の平静を乱す効果があった。 熱狂的信仰 同じように、これらの「同時代的メディア風景」は、コミュニティーのイメージ形成、いやもっと正確には、今日のインドネシアにおけるコミュニティーのイメージ形成にもまた影響を与えている。それは、今日の大変に重要な時期を迎えたインドネシアにおける、あまりにも多くの出来事、イメージ、活動、連想の一点への収束である。内部の人間も外部の人間も、インドネシア人が、おびただしい数の言い方でアイデンティティーや意見について表現しなければならない、レフォルマスィの能力と自由の表裏に注目している。アイデンティティーに関して言えば、ゲリー・ヴァン・クリンケンは、現在では「インドネシアでは、以前には公然と聞かれることのなかったエスニシティーに関する排他的な言説が」登場している、と述べている(2002、68)。ユダヤ人の血を求めたり、血というものは宗教的所属に生来的に結び付けられているという解釈を行なうことは、時勢の憂慮すべき兆候だろう。シーゲルは、「華人」というカテゴリーは、一部のインドネシア人にとっては「人種的カテゴリー」(「肉体的な特徴の遺伝」を意味する)に属すると認めている。彼はまた、インドネシア人は一風変わった人種差別主義の感覚を持っているとも述べている(1998,83,85)。彼によれば、「ヨーロッパの人種差別主義者」と「インドネシアの人種差別主義者」は、体現と同化の捉え方に関して差異がある。前者にとっては、脅威を感じさせるような何かを体現する他者の持つ要素に「耐え難い」。それに対しインドネシア人にとっての華人は、彼らが「よりよいインドネシア人」になろうとしない場合に脅威となる(同書、85)。 が、最近では、一人の人間が体現する耐え難い要素という概念は、民族的、宗教的紛争において顕著に根をはり出している。この小論の学会発表版において、私と同じ都市化したカンプン(村)でフィールドワークを行なった人類学者である私のパートナージャニス・ニューベリーは、何年かにわたって時折居を共にした家族の息子との会話について詳述している。 彼女の記憶するのは以下の通りである。 私は一家の長男と話しをしていた。彼は物静かで、家族を支えるため薬局で父親と共に長時間勤勉に働いていた。彼はとうとう結婚し、妻の家族の家に引っ越したが、最も長い時間を過ごしているのは、母の家だった。彼は口数が少ないのだが、彼が語る言葉は、結果的にはいつも言葉以上の重みがある。物事がどのように変わってしまったかを彼は語った。「ムバック(ジャワ語で年上の女性に対する呼称)、今じゃ子供ですら僕の手から金を受け取ろうとしない。僕はカフィールだから。」カフィールという語のこんな使い方は非常に印象的である。私はそれまでにこの言葉が使われるのを聞いたことがなかった。今では一人のカトリックが、小さな子供ですら自分に触れたがらない事実に接し、考え込んでしまっているのだ。これは非常に困惑的な瞬間であった。(Newberry and […]