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批評するという選択:“Talking Drama with Utih” におけるKrishen Jit との出会い
こうして、我々の演劇は、ある新しいものから別の新しいものへと移ろっていく。我々の前途には何が待ち受けているのだろうか?1970年代以前に存在していた、たくさんの規則から、我々の脚本家たちが一度は自由にしてもらって以来、予言はできなくなってきており、それを言うことは困難である。今日では、ただ一つだけの規則、すなわち、演劇は固定して動かない硬質なものではない、という規則だけが流布しているようである。しかし、自由と共に、重い責任が、特に広い心がまだ育っていない観客に対する責任が、やって来たのである。(1979年4月8日、Jit) マレーシアのような社会環境、すなわち、(人種的、宗教的、加えて言語的に)異なった諸文化が、国家と共に、さまざまな権力関係の中で共存しているような場所では、パフォーマンスについて議論するという任務は、優越的な実践とその結果として生じる偏見を生み出すところの、社会‐経済的・文化的政策と絡み合うということをもまた、含意している。具体例を挙げれば、(民族集団別の不条理な所得格差を減少させることを目的とした)国家公認の差別是正措置と(マレー語のクレオール化による「不純化」を防止することを意図した)国家言語の使用と管理は、マレーシア人のディスコースを形作る、周期的に発生する論争点である。人種や宗教といった、文化の一定の側面が「センシティブである」と分類されて―すなわち、公共的な議論が公認されておらず、その限度を侵犯した時に重大な検閲がなされる―場合、アイデンティティや国民らしさに関する論争点とずる賢く取り組むパフォーマンスは、しばしば、網から滑り落ちるのである。 これらの場に対する慎重な注意は、批評と省察のための豊富な素材を提供する。しかしながら、批判的な分析が歴史への視点を提供し、芸術解読の技法を発展させるという思考の場を創出することへの挑戦が果たされることはめったにない。Krishen Jitの長く続いたNew Straits Times紙上の芸術批評コラムであるTalking Drama with Utihは、マレーシアの風土の中での、そんな場所の一つであった。それぞれのコラムは、パフォーマンス・イベントの批評のみならず、それに関連した論点を突く、巡り会いであった。これに肩を並べる関心と分析の深さを生み出している者が、もし他にいるとすれば、残念ながら、それは、ほんの二、三の例しかない。本稿は、Jitの批評するという選択の結果として―しばしば一つの記事の中で―伝統文化・現代的不安・同時代の切望との「出会い」を創り出した“Talking Drama with Utih”のいくつかを検討する。 “Talking Drama with Utih”(「Uthiと共にドラマを語りあう」) パフォーマンスの批評は、審美的な価値の評価を越えて、作品の背景となっている政治的コンテキスト(脈絡)と文化的歴史の探求へと及ぶものである。マレーシアのようなポストコロニアルな多元的社会においては、これは、選択肢を与え、反響を左右し、文化的容認の限界を決定するローカルとグローバルの双方の影響への意識的な自覚化を含むことになる。商品化されえないものとしてのライブ・パフォーマンスは、パフォーマンスの瞬間を越えた歴史的記録と反響については、批判的論評に依存する。これを実践することは、つかの間の一瞬を、洞察と出来事への感性とその意義を提供することになる、持続する記録へと置き換えるという、法外な努力を要求する。 “Talking Drama with Utih”は、マレーシアの英語新聞の中で、最も長く存続した芸術コラムであると認められている。世に認められた演劇界の長老であったKrishen Jit(1939~2005年)は、1972年から1994年に至るまで、毎週、Uthi―マレーシア文学における桂冠作家であるUsman AwangによるUda dan Dara(マレー語:UdaとDara)という劇の登場人物の一人―という筆名を用いて、マレーシアにおける演劇と芸術について書いた。劇中では、Uthi は、彼の人間のありかたに関する洞察が事態を紛糾させるのだが、それにもかかわらず、思考を刺激してくれる能力によって崇敬されている、賢明だが一風変わった村の年長者である。Uthiは、常に慣習やしきたりを信奉せず、そして、後でしばしば彼のラディカルな考え方や強力な批評のために誤った解釈に陥る。いくつもの点で、Jitのコラムは、彼に似た役割を演じていると言えよう。 30年間に及ぶマレーシア人の生活の、大きな変化の中にあって、Uthiの声は、アイデンティティ、モダニティ、教養、芸術における公正といった論争点を探求する間に、多元的で分裂した社会のダイナミズムと深く関わってきた。不条理劇、もしくは中国歌劇として―彼自身の限界を認める自由さをもって、それ故に権威主義的に見えることなく説得的に―Jitはローカルなものを国際的なものと関連させて、あるいは、その逆もまた同様に、解釈して提示した。彼は、自らの役割を、選択の贅沢さが、気まぐれな思いつきで選んだり拾い上げたりすることを可能にする、ブロードウエイやウェストエンドの評論家とは区別されるものだと理解していた。Jitは、マレーシア人の批評家は、時に、それが、進化しつつある一つ国民文化と特徴付けられるものとして、ローカルな実験を理解する困難な任務をやり遂げなければならならず、そして、それは作り手と観客の両方の利益のために議論されるに値するものだと信じていた(Jit、1986:5を見よ)。これは、なじみの無いものに注意を払い、自らの本能を信用し、客観性と絶対的な権威への誤った信頼に対してはっきりと挑戦することを意味する。 あなたがそこで使用されている言語が分からない時であっても、いかに多くのものを見たり聞いたりできるかということは驚くべきことである…まだ慣れていない人は、その場ですぐにコード化されたメッセージを解することはできない。また、舞台の袖でも続くようなジェスチャーの中に込められたニュアンスをきちんと理解することは不可能である…たとえ仮に、ため息の意味を知らなくとも各自の理由によってそれを楽しむことは可能である…だから、もし広東語を知らないとしても広東歌劇を見に出かけよう(Jit、1986年5月25日)。 “Talking Drama […]