ドゥクンとインドネシア政治

      

  スハルト政権崩壊後のインドネシア政治研究では、インドネシア政治という電車の無賃乗客のように、ドゥクン(呪術師)の存在は拒否され扱われてこなかった。政治においては、合理的で客観的だとされる側面にばかりこれまで関心が寄せられてきた。しかし、とりわけインドネシアの政治闘争においてドゥクンを利用するという現象は古くから続いてきたのであり、到底無視することなど出来ない。ドゥクンが重宝されてきたのは、政治闘争で彼らを用いれば、ドゥクンの利用者に権力と安寧をもたらすと信じられているからである。 

  この小論考では、現代政治におけるドゥクンの役割を描きたいと考えている。ただし、本稿はドゥクンのもつ呪術的な力が実在するのかどうかを経験論的に証明しようとするものではない。本稿は、多くの事例にみられるドゥクンを利用するという現象は、インドネシアの政治闘争とは切っても切り離すことが出来ず、現代民主主義の試金石ともみなしうる世論調査機関が乱立するようになった今でもそのことは当てはまるのである。 

スハルト政権期におけるドゥクン 

  社会現象としてのドゥクンは、人々の日常生活とは無縁なものではない。ドゥクンとは呪術的な力とエネルギーを持つと信じられ、自分のために、或いは他者の依頼を受けて、密かに、そして、謎めいた方法でその力とエネルギーを使うもののことである。その力とエネルギーにより、対象となる人物の救済や健康の回復を行う場合もあれば、その逆に、対象となる人物に恐怖心を引き起こしたり、災厄をもたらしたりする。 

  一般に、「白いドゥクン」と「黒いドゥクン」がいることが知られているが、その区分 はまったくもって社会的文脈しだいである。「白いドゥクン」は救済や回復の祈願など、「善」を目的とするものであり、「黒いドゥクン」は他人を傷つけるだけでなく、殺害までも行う、「悪」を目的とするネガティブなものである。 

  ドゥクンはその行為類型で分類することもできる。たとえば、人間と精霊を媒介するドゥクン・プレワガン(dukun prewangan)、助産ドゥクン(dukun beranak)、災厄除去するドゥクン・シウェル(dukun siwel)、さらには人体に金・ダイヤモンド・クリスタル石から作られた細い針を埋め込むことで美容・権威・権力を確約するドゥクン・ススック(dukun susuk)もいる。呪文やハーブによって治療を行うドゥクン・ジャンピ(dukun jampi)、ドゥクン・サンテット(dukun santet)、ドゥクン・テルゥ(dukun teluh)、ドゥクン・テゥヌン(dukun tenung)は呪術で敵対者に災厄をもたらすことができる。dukun leak (バリ)、dukun minyakkuyang(南カリマンタン)など、インドネシア各地に特有のドゥクンの呼び名がある。 

  一方、政治におけるドゥクンとは、ドゥクンの利用者が政治において、とりわけ地方首長直接選挙のような政治闘争において、利得や勝利をもたらすことを約束する。政治現象としては、ドゥクンの存在は、独立以降の近代民主主義の展開と軌を一にしてきた。インドネシア政治におけるドゥクン現象に関する学問的な記録はほとんどないが、政治ドゥクンは政治のダイナミクスにおいて一定の地位を占めており、新秩序期には権力の一翼を担っていた。地方政治アクターたちのみならず、「大人物(orang besar)」としてのスハルトもこの灰色の世界と密接な関係を持っていたと言われている。 

  当時、ABG、すなわち国軍(ABRI)、官僚(Birokrasi)、ゴルカル(Golkar)からなる比較的シンプルなパターンに基づいて政治的リクルートが行われていたものの、ドゥクンの入り込む余地がなかったわけではない。実際には、ドゥクンは特別の地位を保持していたものの、秘匿とされていたのであった。権力者の「承認」を獲得することがカギであったため、ドゥクンの仕事はこの閉じられたダイナミクスの中で「承認」を得るための方法やアクターを見出すことであった(mbah Limリム老師へのヒアリングに基づく。2012年1月17日、シドアルジョにて)。ドゥクンとは、信頼に足る助言者として重要な存在とされていたのである。また、ドゥクンは政敵、あるいは将来政権にとって脅威となる政治仲間を排除するためにも用いられた。ドゥクン・サンテットであるキ・グンデン・パムンカス(Ki Gendeng Pamungkas)は政治家や権力者の取り巻きから、その政敵のみならず、いずれ「悪巧み」をしうる同僚に呪術をかけて生命を奪うよう依頼されることもよくあると述べている。 

Suharto was the second President of Indonesia, having held the office for 31 years from 1967.
Suharto was the second President of Indonesia, having held the office for 31 years from 1967.

  スハルトのリーダーシップにおける神秘的な側面は、確かにジャワのリーダーシップに関する文化から説明できよう。しかしながら、社会事実としてそのリーダーシップは精神的・霊的助言者に故意に依存していたのである。スハルトのリーダーシップを「守護する」忠実なドゥクンたちも存在した(Liberty, 1-10 Juni 1998)。全国に少なくとも「1000人のドゥクン(seribu dukun)」がスハルトの背後にいたのである(Gelanggang Rakyat, 18 Oktober 1998)。ロモ・マルト・パガルソ(Romo Marto Pangarso)、ロモ・ディアト(Romo Diat)、スヨノ・フマルダニ(Soedjono Hoemardani)、キ・アグン・セロ(Ki Ageng Selo)、スヤルウォ(Soedjarwo)、ダルンドリオ(Darundrio)、ディラン老師(mbah Diran)、エヤン・トモ(Eyang Tomo)などが、忠誠心厚いドゥクンの例である。 

  また、スハルトは、神秘的な物品、神からの啓示(pulung)、神秘的な力をもつことでそのリーダーシップの「正統性」も得ていた(Vatikiotis, 2008を参照)。スハルトは、その強力な政治リーダーシップを保持する上で大きく貢献したとされる神物を少なくとも113個もっていた。さらに、キ・エデン・アモンロゴ(Ki Edan Amongrogo)によればスハルトは、「柘榴石(Mirah Delima)」という神物の力を借りてそのリーダーシップを発揮したという(Liberty,1-10, Juni 1998)。ここで明らかなのは、ドゥクン、神物、およびスハルトのリーダーシップは分かちがたい像のように一体となっているのである。 

地方首長選挙コンサルタントとしてのドゥクン 

  1998年にスハルト政権が崩壊し、その後(2004年の)直接選挙や(2005年の)地方首長直接選挙を通して政治的リクルートが開かれたものとなり、大衆レベルでの民主主義が始まったといえる。しかし、このことは直ちに政治がドゥクンと無縁になったことを意味しない。 

  直接選挙により、インドネシア政治史上初めて、一般の人達がさまざまな政治的計算における重要な要素である有権者(voters)として位置づけられた。この文脈で、政治的リクルートの過程において世論調査機関が重要なベンチマークとなったのである。ゴルカル、闘争民主党(PDIP)、国民信託党(PAN)、民主党、および福祉正義党(PKS)といった五大政党は、世論調査結果を基に選挙での候補者選択に際してのベンチマークとしている。 

  1998年以降、多くの政治アクターは世論調査を、政治闘争における世論のみならず有権者行動をも把握するための効果的な手段と認識するようになった。世論調査は、候補者に対する支持率を明らかにし、さらにはその候補者に対する社会の期待をマッピングすることで、政治闘争の当事者である政治アクターを支援する。世論調査はポスト・スハルトの現代民主主義の文脈において、権力の奪い合いの闘争にいる政治アクターたちの羅針盤となっていると信じられている。 

  政治闘争において合理性・客観性が重要だという考えが強まったため、政治ドゥクンの役割は終焉を迎えたのだという意見もある。しかし実際には、地方首長選挙も含めて、どの政治闘争においても、相変わらずドゥクンを利用する傾向は続いている。そのため、宗教副大臣は不満をこぼすに至った。地方首長選挙でドゥクンが流行るために、禁忌行為を犯すようになり、宗教的な価値を損なうと副大臣は考えたからである(http://www. kemenag.go.id/index.php?a=berita&id=86648)。 

  各候補者自身であれ、その選挙チームの依頼によるものであれ、ドゥクンの政治的役割は、現代の政治コンサルタントの役割と同様である。ただし、世論調査機関(世論に依拠した政治コンサルタント)とドゥクンの間では「分業」とでも呼べるようなものがある。世論調査機関は支持率や受容度を測定するのに対し、ドゥクンは神からの啓示をうかがう。世論調査は当選確率を高めるのに対し、ドゥクンはカリスマ性と権威を高める。世論調査が投票行動をマッピングするのに対して、ドゥクンは内政の政治状況をマッピングし、「仮想敵」と「ともに歩むべき仲間」を特定する。世論調査機関がバンドワゴン効果をもたらすような形で調査結果を公開し、ドゥクンは密かに祈願と祝福の呪文(Wangsit)をささやく。世論調査機関はデータ収集のために多段抽出法(multistage random sampling)とインタビューを実施する一方、ドゥクンは霊感を得るために精霊を用いたり、瞑想や断食をしたりする。世論調査機関は選挙運動戦略や勝利のための提言を行い、ドゥクンは候補者の風貌の見栄えが一層良くなるように、ピンを刺したり、(若返りにも使われる)呪力のあるクヤン油を用いたりする 1。最終的には、依頼者たる候補者や選挙チームは世論調査機関の提言を批判的に聞く一方で、ドゥクンの忠言には尊厳と敬意を持って聞き入れるのである。 

  シドアルジョに住む62歳の地方ドゥクンの一人、リム老師(mbah Lim)は、患者(klien)のほぼすべては政治家だという。リム老師は東ジャワのみならず中ジャワおよび西ジャワにまでおよぶ地域で実施される地方首長選挙の候補者を「守護する(mengawal)」専門のドゥクンである。リム老師は「私は、装飾品を与え、首長選挙において政治的ライバルたちが候補者とその家族にたいして行う黒魔術や妨害から保護するように依頼されるんだ。首長選挙が始まってから、私は超多忙になり、ついには国営企業から早期退職をすることに決めたよ。だって、地方首長選挙で守護することへの依頼が多くて、生活が保証されているからね」と語った。以前行われた西ジャワ州での地方首長選挙では、リム老師は選挙運動期間から投票最終日までの21日間、ガルングン山で儀式を行い続けたという(リム老師へのヒアリングに基づく。2012年1月17日)。 

An elections rally in 2004. A time considered as the starting point for popular democratization. Yet this did not necessarily sterilize politics from shamanism.
An elections rally in 2004. A time considered as the starting point for popular democratization. Yet this did not necessarily sterilize politics from shamanism.

  ドゥクン実践に詳しい人類学者エルマ・ティアラ・エルバル氏は政治におけるドゥクンの役割はすでに大きなものとなっており、地方首長選挙での投票所(TPS)にも及んで いるという。4年前の南カリマンタンのグヌン・マス県での知事選挙ではドゥクンが直接、投票所で活動していた。投票当日、末端の選挙実施委員会(KPPS)が投票所を管理し、世論調査機関がクイック・カウントと出口調査を行う一方で、ドゥクンは投票用紙に黒魔法をかけて投票結果が変わることがないように警備していたのである。投票日前夜、ドゥクンは投票所の周囲を回りながら黄米と塩を撒き、投票の場には黒鶏(ayam cemani)の血を垂らして魔法をかけたのである。また、木と黄布が投票所の周りの地面に突き刺さっている首切り刀に巻きつけられていた。これは「四方風水ドゥクン(dukun empat arah mata angin)」がその場所を守護していることを示すものである(2012年8月6日エルマ・ティアラ・エルバル氏へのヒアリングに基づく)。興味深いのは、多くの投票所で人々がそうしたドゥクンによる守護を受け入れ、理解していることである。 

  人々に受け入れられているとはいえ、地方首長選挙の候補者や選挙チームはドゥクンを用いたことを明かそうとはしない。というのも、黒魔術を用いた、自信がないんだ、非合理なものに左右されている、などといった世論やイメージを、政治アクターは気にしているからである。ドゥクンの使用を隠そうとするからといって調査ができないわけではない。ドゥクンが政治活動に「関わって(bertindak)」いるかどうかに関するもっとも簡単な方法の一つは、地方首長選挙後の当選者の行動を見てみることである。政治ドゥクンの使用者はみな誓約の履行条件のひとつとして、勝利後に神聖な儀式を行う。この誓約を履行しているかどうかが、最もわかりやすいドゥクンの役割の指標である(2012年8月6日、Gundik Gohongへのヒアリングに基づく)。 

要約 

  政治アリーナとは、政治アクターが権力を奪取・保持するための開かれた戦場である。激しい競争が、さまざまな競争手段を生み出す。そのひとつがドゥクンの利用である。選挙(特に地方首長選挙)においてドゥクンの利用が目立つ理由は少なくとも3つある。まず、地方首長選挙の競争の激しさと複雑さがある。第二に、候補者や選対チームが地方首長選挙の各種管理委員会(選挙管理委員会、選挙監視委員会、選挙実施委員会)に未だに信頼していないからである。第三に、いくつかの地方ではドゥクンが近代的な政治コンサルタントよりも前に存在しており、人々の間で受容された文化現象だとみなされているからである。 

  そうだとすれば、インドネシアの政治闘争に関する研究において、これまで伝統的、グレーな分野、さらには非合理とされてきた領域を分析する余地があってもおかしくない。ドゥクンをこの国の現代政治過程における無賃乗客に位置づけってしまっては、インドネシア政治の微妙な意味や複雑さを消し去ってしまうことになる。

 Agus Trihartono 
立命館大学大学院国際関係研究科後期課程 

Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 12 (September 2012). The Living and the Dead 

参考文献 

Vatikiotis, Michael. Farewell to the Smiling general Reflections on Soeharto, Global Asia, Vol.3, no.1, Spring 2008 

Notes:

  1. クヤン油とは東カリマンタンの黒魔術で用いられる油(minyak)をいう。minyak kawiyangとも、minyak Sumblikともいう。黒、赤、緑、黄、白の五色があり効能は異なるが、主に金銭関係の祈願に用いられる(訳者注)。