Issue 16 Sept. 2014

インドネシアの漫画Wanaraを通じたインドネシア漫画の分類区分の曖昧化

漫画はインドネシアにおける最も重要な出版形式の一つである。翻訳された漫画出版物の初版は、その他全ての出版物よりも五倍(一作品につき15,000部)多い (Kuslum, 2007; Indonesia Today, 2012) 。日本の漫画の翻訳版がインドネシアで最もよく売れている本であり(Kuslum, 2007)、インドネシアで書かれて出版された漫画の数は、輸入された漫画の数に比べると少ない。  漫画出版社大手のElex Media Komputindo (EMK)は、毎月、日本漫画の翻訳本52冊に対し、現地の漫画1冊の割合で発刊している。もう一つの漫画出版社大手のM&Cによれば、彼らの出版物の70%が日本漫画の翻訳本である(Kuslum, 2007)。翻訳された日本の漫画の人気が高いのは、そのクロスメディア戦略にも依拠している。日本の漫画の人気が高すぎるので、インドネシア人たちの間では、現地の漫画を重視しようという動きも生まれている(Ahmad他、2005: 1, 2006: 5, 44–45; Darmawan, 2005)。全国紙Kompasの記事を見ても、或いは、DI:Y (Special Region: Yourself) 漫画展(2007)や、インドネシア漫画の歴史展(Indonesian Comics History Exhibition)(2011)といった展示会が開催されることからも、インドネシアの漫画を盛り上げようとする動きがあることが分かる。   インドネシアの読者たちは現地の漫画が持つニュアンスや、外国の漫画がそれぞれどう違うのか、という事がわかるようになってきている。読者たちがニュアンスの違いを理解できる理由の一つは、外国の漫画出版物が異なる時代に紹介されたからである。スーパーヒーローの漫画がアメリカから輸入されたのは1950年代であり、『タンタン』や『アストリックス』などの冒険漫画がヨーロッパから入ってきたのは1970年代であった。日本の漫画が市場に参入したのは、1980年代の終わりである。もう一つの理由は、それぞれの外国の漫画が特有の画風を持つことである。いくつかの出版物を見れば、また、漫画出版の慣例を見てみると、こうした二つの要因が組み合わさって、漫画の分類が行われていることが分かる(Ahmad他、2005, 2006; Giftanina, 2012; Darmawan, 2005)。そして、読者や出版社、漫画家たちは、現地のある漫画を取り上げて、これはある外国のスタイル(gaya)で描かれていると述べたりするのである。  このスタイル(インドネシア語でgaya)とは、画風のことである。インドネシアの漫画論で、gayaと言えば、登場人物の描写や、コマ割、テーマなど、視覚的なステレオタイプに関する要素を指す。分かりやすい例としては、日本漫画(マンガ)の大きな瞳をした登場人物、写実的な筆致のアメリカのスーパーヒーロー漫画、ヨーロッパ漫画に用いられるリーニュ・クレール(ligne Claire/明晰な線)などである(Giftanina, 2012; […]

Issue 15 Mar. 2014

中国のソフト・パワーとASEANの建設的関与:中・ASEAN関係と南シナ海

10年間の沈黙の後、南シナ海(SCS)の対立が再浮上し、東アジア防衛議論の的となった。この対立は様々な意味において、中国のASEANとその加盟諸国との関係を試す試金石である。この対立はこの重要な関係に内在し、この関係を具現するものである。もし両者がSCSを収拾する事ができなければ、一体、ソフト・パワーと建設的関与の傘下における20年の前向きな取り組みの何が残るのであろう。 最近、多くの注目を集めてはいるが、SCSの現状は目新しいものではない。1990年代の初頭には、特にアメリカのアナリストたちによって、この領域が将来、恒久的な対立として浮上するとの予測が行われていた。 一見したところ、現在の状況は1990年代への回帰のように見えるかもしれない。だが、よく見てみれば、そうでない事は明らかだ。1990年代初頭以降、大きな変化が中国とASEANの関係や地域システムの中に生じてきた。両者の関係は概して、互いに肯定的で建設的であり、特に経済分野では、この地域の政治、経済、社会や安全の力学など、無数の局面が変化している。これら全ての変容は瞬時に消え去りはしない。だが、これらはSCSにおいても、アクターたちの互いに対する行為に影響を与え続けるものだ。  ソフト・パワーと建設的関与 冷戦終結以降、中国とASEANの関係がどのように発展してきたかという問題の背後に存在する、最も重要な要因の一つは、両者が自分達のソフト・パワー資源を活用して、互いにアプローチを試みてきた事であった。 中国は東南アジアでの「中国の脅威」というイメージに対抗すべく、この地域の嗜好を(再)形成するために、ソフト・パワー外交の活用を通じた努力を行ってきた。一方、これと並行して、ASEANや東南アジア諸国は、自分たちの中国に対する「建設的関与」戦略を押し進め、中国を関与させて地域秩序に巻き込み、説得して多国間の取り組みや「ASEAN流」など、いくつかの地域基準や地域的慣行を受け入れさせようと試みた。  だが、中国のソフト・パワー言説については、ソフト・パワーの定義法についての意見が全く一致していない。ソフト・パワーは厳密に言うと、「望むものを強制力や報酬ではなく、魅力によって手に入れる能力」、または「他者の嗜好を形成する能力」と定義され、これを中国のコンテキストに当てはめるには、特に問題がある。これにはいくつか理由があり、まずは経済力の資源が中国の力の一つの基本的特徴であり、これが中国外交の成功やその魅力の要となっている事(これはナイのハード・パワー観である)、中国のリーダーシップという表現がふさわしいと見なされるのが、この表現が力強い中国の構築に役立つと考えられる時である事、さらにこれとは別に、ソフト・パワーとは何かという言説が中国に出現した(「中国的特徴を備えるソフト・パワー」)という事もある。本稿でこの厄介な定義に決着をつけようと試みるつもりはないが、単純に、中国や東南アジアのリーダーシップから受け入れられ、導入されたソフト・パワーの形態に焦点を合わせてみる事にする。一国の魅力は少なくとも、ある程度はこれを見る人間次第なのだ。 協力、楽観主義と平和的関係の制度化 1990年代初頭、中国は冷戦後の新戦略を進めていたが、これは中国の「善隣」政策に特徴付けられ、東南アジアを中国の「平和的台頭」戦略を示す場に変じる事を目的としていた。これと同時にASEANが推進していた外交キャンペーンは、中国を隔離するのではなく、むしろこれと関わろうとするものであった。すなわち、ASEANの「建設的関与」戦略と、中国を脅威とする認識を弱めるための「ソフト・パワー」外交に向けた中国の動きとの間には、互恵的な過程があったのだ。この関係の改善は、両者にとって長期的なアイデンティティの変換プロセスとなり、彼らの利益を再解釈し、互いに対する振る舞いを変えるものとなった。この関係改善は、彼らの関係を建設的かつ平和的な方法でまとめようとする試みが行われた理由や、南シナ海に関しても、この関係が肯定的な方向に進められた理由を理解するための土台となる。 時の経過とともに、特に2000年以降には、中国は参加国である事を超えて、多国間の舞台における積極的なアクターとなってきた。底流にある中国の理論は、中国や中国の温和な意図を理解すれば、アジアのアクターたちの利益認識や行動を中国に有利な方向に変えるだろうというものである。多国間主義に向かう動きや、その受容は、時が経つにつれ、ASEANにとって実に望ましい方法で制度化される事となった。 中国の多国間主義の受容と平和的関係の制度化は共に、フォーラムや対話、公認された外交規範や慣行を備える構造的な枠組みを作り出した。この制度化はASEANの中国との関与の重要な一部で、地域の平和と安定におけるASEANの関わりを増進させる事となった。さらに、これは実際、「中国の脅威」が自己充足的な預言とならぬ事を保証するものであった。中国との関与という長期目標は達成された。これは中国を「地域の多国間制度の中に組み込もうとするものであり、中国の地域における行動を抑えるばかりか、これを次第に変化させる」ものであった。中国の行動は実際に控えめなものとなったし、中国は多国間フォーラムへの関与に慣れ、これに異を唱えなくなった。さらに、中国は「ASEAN流」を外交原則として認め、近隣諸国の利益に配慮するようにさえなったのである。これは中国の「ソフト・パワー外交」とASEANの「建設的関与」政策の間の互恵的な過程であった。 これと同時期に、良好な関係のため、また集合体としてのASEANとの関わりを持つ事を含め、中国が多国間主義を認めた事から、SCSはアナリストたちが一般的に、中国が攻撃的態度を取るであろう事を、また、この地域がまもなく恒久的な紛争の場となるであろう事を推測する地域となった。それにもかかわらず、1990年代半ばから、SCS紛争は緩和されていったのである。重要な点は、中国が1995年のASEAN地域フォーラム(ARF)に先立ち、中国はスプラトリー諸島について多国間の場で協議する事に前向きであると宣言した事だ。2年後には、SCS紛争がARFの議題に取り上げられるまでとなった。これは2002年の「南シナ海に関する関係諸国行動宣言」に連なるプロセスにとって、極めて重大な事であった。 中国の新たな自己主張 2007年にこの状況が変わったのは、中国がより主張の強い外交政策を押し進めたためである。最も具体的に言うと、中国は自国の軍事区域を拡大し、SCSでの管轄権の主張を強化して、より強硬路線の政策を進める事で、他の国々の主張を損ねようとしたのである。ここに潜む原因をたどれば、中国の国力の向上や自信の強化に加え、衰える事のない国家主義や外部干渉に伴う不満の増加に行き着く。これに伴い、多くの中国のソフト・パワーの正当性が、ほどなく損なわれる事となった。2010年に、この正当性がさらに弱まったのは、政治的、軍事的な挑発行為が、アメリカ政府と中国政府の間に行われたためである。中国はSCSをチベットや台湾などと同様の「核心的利益」であると表現したとされ、さらにはこの領域内で軍事演習を行ったとされる。緊張がさらに高まったのは、中国がより強い主張を盛んに行うようになったためである。 その上で、中国の新たな自己主張の姿勢がASEANにとって衝撃でなかった(これは西洋の多くとは対照的であった)事は強調されるべきである。ASEAN加盟諸国は、アナリストたち数名の示唆したように、中国の「微笑攻勢」に騙されたりはしなかったのである。むしろ、デウィ・フォルテュナ・アンワル氏を引用すると、ASEAN加盟諸国は、「中国の示す特有の約束と危険の両方を十分に心得ていたのであり、これからもそうあり続ける」、ASEANは「中国との最善の取引の方法…が、中国と関与し、これを完全に地域秩序の中に統合する事である」との確信を抱き続けて行くだろう。 中国政府からの不明瞭な合図 過去3年間、中国政府からは判然としない合図が送られてきている。一方では、対策が講じられ、中国のアプローチの抑制が図られてきた。中国はASEANによって提示された2002年の行動宣言の実施法に関する指針を承認した。中国の平和的意図を世界に確信させるための外交攻勢が開始されたが、それには2011年9月6日に発行された白書が含まれる。これは中国が鄧小平の指導に従い、SCS紛争を棚上げにして共同開発に努める事を改めて明言したものであった。 もう一方で、中国はASEANを分裂させる取り組みにあたり、カンボジア、ラオス、ミャンマーとタイがSCS紛争に一丸となって取り組む事がないよう説得してきたのである。中国の信頼性も当てにならぬものである。例えば、2012年のスカボロー礁における中国とフィリピンのにらみ合いの後、中国は口頭による相互撤退の合意を守り抜く事に失敗した。その代わり、中国はこの礁湖の河口を囲い、フィリピン側が再び立ち入れぬようにして、礁付近のパトロールを強化した。これはほんの一例に過ぎない。 しかし昨年、習近平国家主席と李克強首相が東南アジアを訪問した10月、新たな連携強化と、以前に失われた信頼回復のための動きが進められた。習主席の提案は、「運命共同体」を築く事で、中国・ASEAN関係の使命を高めようというものであった。李首相も自身の役割を果たし、中国とASEANが「善隣友好政策と、中国とASEAN諸国間の友好的連携」を促進するべきだと主張した。 結論 ―未知に向かって 1989年から2007年の期間には、両者のソフト・パワーのアプローチによって、明らかに肯定的で目に見える成果がもたらされる事となった。しかし、目に見える成果があったとしても、長期的なソフト・パワーの持続性は、さほど明らかではないようだ。目下、中国の意図が疑問視される中、SEAにおける中国のソフト・パワー外交の影響は所詮、限られたものにすぎない。手間暇かけて培われた信頼が、2007年以来、大きく損なわれてきた。 中国はこれに気が付いてから、失われた信頼を再び得るために変わろうとしてきた。しかし、努力が行われているとしても、これが上手く行くかどうかは疑問である。ASEANの関与は、中国に対するソフトバランシングや危機回避が増々強調されるに従って、より実用的なものとなってきた。さらに、ASEANの意見は、SCSがどのように(多国間、あるいは二国間で)対処されるべきであるかという点で、はっきり二分されることとなった。これは建設的関与成功の実現性を損ね得るものだ。だとしても、ASEANの建設的関与によって生じた根本的な影響がある。中国の「ASEAN流」の全面的な受容やその制度化、さらにはASEAN主導の諸機関の容認が、引き続き確実となった事で、概念的、規範的変容の発生がもたらされる事となった。  お互いのソフト・パワー外交を通じて、肯定的関与が行われた事は無意味ではなかった。これは肯定的な地域関係の構築全般に寄与し、中国と東南アジアの経済的発展のための空間を生み出す事となった。 もし、相互的なソフト・パワーの関与がなければ、現在の東アジアは、おそらく非常に異なった様子になっていただろう。新たな地域秩序が双方の交流の試みを通じて構築されてきた。正常化された関係が維持されてきた。中国は引き続き、ASEAN主導の地域機関や国際機関と関わり、独自のモデルを推進して行く事となるだろう。さらに、この秩序は共通の価値観を中心に構築されたものであり、その価値観は地域の価値観であり、外部から押し付けられたものではないのだ。 Mikael Weissmann The author is Research Fellow at the Swedish Institute […]

Issue 15 Mar. 2014

南シナ海における安全保障の管理:DOCからCOCへ

2002年にASEAN・中国間の重大文書と称えられた「南シナ海における関係国の行動宣言(DOC)」は、その使命である権利主張国間のより深い信頼関係の構築や、問題の深刻化の防止を果たせぬままである。それは当事者たちに道徳的制約を課す役割を演じたに過ぎない。しかし少なくとも、これは問題や緊張が生じた際に参照される基準となり、また正式な行動規範(COC)交渉の土台となったと論じる事もできる。 ASEAN諸国と中国がCOCプロセスを開始したばかりの現在、全ての参加諸国がDOCの抜け穴を検討しながら、COCを協議、交渉する事が重要である。 DOCプロセスから何がわかるか ASEAN加盟諸国と中国とのDOC調印は、2002年11月にカンボジアで行われたが、これは数年間の長引く交渉の末の事であった。多くのアナリストたちの見解によると、DOCは本質的には、何もしないという態度と法的拘束力を備えた合意という、二つの態度の間の折衷案であった。DOCの文書は3つの目的を明示している。それらは、信頼醸成措置の促進、実際的な海上協力の取り組み、そして正式で拘束力を持つCOCの協議と制定の場を設ける事である。 観測筋の中には、DOCが全くの失敗ではなかったと確信する者たちもいる。全ての当事諸国の政治的善意の象徴として、DOCは概して南シナ海の全般的な安定維持に役立った。DOCを土台に、全ての論者たちが話し合いや意見交換を行ったのである。DOCが少なくとも、南シナ海の全ての権利主張諸国に対する道徳的制約になったと確信する者たちもいる。彼らはさらに、DOCが実際に南シナ海における協力のいくつかの例に寄与したと論じる。中国、ベトナム、フィリピンが2005年から2008年にかけて行った三カ国共同の地震研究などがそれである。 だが、ほとんどのアナリストたちは、DOCにこの三つの目的全てを果たす効力が欠如している事に失望している。現在のところ、DOCの条項違反は国によって異なるにしろ、DOCを厳密に順守している権利主張国は、一国たりとも存在しないのだ。DOCの制定後、南シナ海で行われた二国間、あるいは多国間の協力計画の事例はほとんど存在しない。また、2011年以前には、行動規範の話し合いは遅々として進まず、成果も大して上がらなかった。 2、3の理由がこれらの失敗を説明する。多くのアナリストたちは、DOC自体が本質的に欠陥であったと確信しており、その理由は、DOCに法的権限が無く、権利主張国の南シナ海におけるいかなる行動をも規制する事ができなかったせいである。DOCには順守を監視する機構が無く、まして、これを強要する機構など皆無である。 中国にはDOCプロセスに対する関心があまりなく、DOCを実施する事で、南シナ海の権益の主張を危機にさらす気などなかったのだと論じる者もいる。さらに具体的には、中国が南シナ海の協力推進に乗り気でなかったと思われる理由は、ASEANの権利主張国4カ国の間での非公式協議が、DOC協力に関するASEAN・中国会談より先に行われた事で、中国が不満であったためだとされる。さらには、比較的安定していた2008年以前の南シナ海の状況が、権利主張国に対して個々にも、集団的にも、DOC実施のための真摯な手段に踏み出す誘因をほとんど与えなかったと論じる事もできよう。 DOCの文書は、信頼醸成措置や、南シナ海におけるその他の形の協力の、具体的実施に関する情報をほとんど提供しなかった。当時の見解は、全ての関係諸国が協力を促進させるために、協力の範囲や具体的手順、政策措置についてさらに協議を重ねて行く必要があるというものであった。 DOC調印後の最初の数年間に、ASEAN諸国と中国は、実際に海上協力に取り組もうと試みていた。2003年に、彼らは定例のASEAN・中国高級事務レベル会合(SOM)の開催を決定し、これによってDOCの実施を監督し、共同作業部会を設置して、その細目に対処しようとしたのである。2004年12月には、クアラルンプールで初のDOCに関するSOMが開催され、参加者たちは共同作業部会機構を設置し、DOCの実施について協議する事を決めた。彼らはまた、文書を作成し、そこに共同作業部会の構成や役割、責任なども明記した。この作業部会の任務は、DOC実施のための具体的な政策の検討、提供、それに論争の複雑化や深刻化の原因行為の特定であった。この作業部会が専門家を指名する事によって、技術的なサポートや政策勧告が行われる事も期待されていた。この会合は半年ごとに行われ、各会合の後にはSOMに報告書を提出する事になっている。協力分野としては、海洋環境保護、海洋の科学的調査、海上航行の安全と捜索・救難活動、さらには対国際犯罪活動などが含まれる。 第1回 共同作業部会の会合は、2005年8月4日から5日にマニラで行われた。ASEANはDOC実施の7つの指針の草案を提示した。その第2項目は「ASEANは引き続き、現行の内部協議を中国との会談前に行う」と言明している。中国はこの点に異議を唱え、南シナ海がASEAN全体ではなく、ごくわずかなASEAN諸国にのみ関する問題であると論じた。かくして中国は、議論の相手にASEANの「関係諸国」を望むのであり、集団としてのASEANを望むのではないと宣言する事となった。この形式上の問題に関する食い違いが、その後全ての会合に影を落とす事となる。第2回 共同作業部会の会合が2006年に三亜で行われた際には、突破口が見えた。全ての関係諸国が6つの協力分野に的を絞る事で合意したのである。 ASEANと中国が最終的に下した決断は、DOC実施の指針を2011年7月の中国・ASEAN外相会議で制定する事であった。双方がASEANの結束問題に譲歩する事となった。2011年7月のASEAN・中国首脳会談の際、中国の温家宝元首相は、中国がASEANの良き近隣国、良き友、良きパートナーであり続けると述べた。彼は中国に、ASEAN諸国と共にDOCの包括的実施に向けた取り組みを行う用意がある事を明言した。彼はまた、中国がCOCの起草を協議する事にも前向きであると加えた。さらに、温氏は100億ドルの融資(40億ドルの優先的融資を含む)を提供し、これをASEAN諸国のインフラ計画に当てると約束した。 2011年後期から2012年半ばにかけて、ASEANの高官たちは将来のCOCの重要要素の概要を述べた文書の起草に取り組んだ。中国はASEAN諸国がこの起草に取り組む際、中国が直接関わらなかった事に不満であった。だが、このASEANの明白な連帯行為に対して中国が公然と抗議をする事はなかった。2012年7月、プノンペンでのASEAN外相会議で、ASEANがCOCの重要要素を含む文書を中国に提示した際もなお、中国はASEANと共にCOCプロセスを開始する用意があると表明していた。  中国政府がCOC交渉の開始に反対しなかった一方で、中国の楊潔チ元外相は、COC協議が全ての関係諸国によるDOCの完全順守に基づくものとなるであろう事を強調した。彼はまた、「中国は全ての関係諸国が相互信頼を強化し、連携を促進し、COC策定のための必要条件を作り出すためにより多くを行う事を望む」と述べた。 2013年8月、中国の王毅新外相は、COCプロセスに関する4つの見解を提示した。第一に、COCの制定はかなり長い時間を要するであろうという事、これは問題の複雑性のためである。第二に、このプロセスが最大限の総意に沿ったものとなり、それぞれの権利主張諸国の受け入れやすさを配慮するべき事。第三に、その他の妨害が避けられるべき事。第四に、諸交渉が段階的に進められるべき事。基本的にCOCプロセスは、DOCの実施と連動して進められるべきである。 2013年9月15日、COCに関する第一回 中国・ASEAN高級事務レベル会合が蘇州で開催された。全ての参加諸国が、総意を守り、段階的アプローチを採用するという原則に従ってCOCプロセスを開始する事で合意した。COCプロセスは、間違いなく大幅に遅延する、あるいは骨の折れるものとなるだろうし、その事は地域の多くの国々やアメリカ合衆国などの域外大国の期待に反する事となるだろう。 COCはDOCから何を学ぶ事ができるか DOCプロセスの欠陥は多い。そもそもの不幸は、1990年代の後半から2002年に、交渉参加諸国が妥協への誘惑に屈して法的拘束力を持たぬ文書に合意した事であった。結果、全ての参加諸国の順守が政治的善意を通じてのみ維持され得る事となった。しかし政治的善意は、内外の異なった状況の下で容易に損なわれ得るものである。法的拘束力の不在はまた、権利主張諸国の様々な国内機関の間に協調が欠けている事を暗示する。これはまた、過去数年間の南シナ海における紛争と緊張の原因となってきた。 DOCはその不履行に対して、いかなる処罰も代償も規定していない。これに違反した当事国に対し、修辞上、あるいは名声上の傷を与える仕組みすら存在しない。DOCを順守するかわりに、権利主張諸国は互いに競い合って、DOCの精神をないがしろにしようとしているように思われる。 DOCがその条文の地理的適応範囲を特定していないため、どの地理領域が対象となるのかが判然としない。このような事から、権利主張諸国は常に、自分達の南シナ海での行動が、彼らの正当な海域内で行われたと主張するのである。地理的範囲の曖昧さに加え、具体的な違反行為が特定されていない事が、さらにDOCの実施を困難としてきた。権利主張諸国がわれ先にと南シナ海での単独行為に走るのは、他の当事国の行為が彼らの主張や利益を危うくするのではないかと恐れるためであるが、特にこれを違反したところで、いかなる処罰や代償にも結びつかないためでもある。DOCに記されたいくつかの協力計画を実行するプロセスは相当遅れている。上記の分析から明らかな事は、いくつかのASEAN諸国の「ASEANの結束」対中国という主張が、これらの計画の開始をいく分妨げてきたという事だ。また、法執行機関の争議が絶えず様々な権利主張国の間に存在する事も、これらの機能分野における協力を妨げてきた。 2002年から2009年にかけて、域外の諸勢力は南シナ海問題に積極的に関与しなかったようである。域外のアクターたちがある程度無関心であったのは、南シナ海の全般的な状況が、これらの年には概して安定を保っていたためである。2009年以来、域外の諸勢力は南シナ海の安全保障問題を収拾しようとする取り組みに力を入れてきたようである。彼らの関与はまた、さまざまな係争諸国に圧力をかけ、DOCの実施を早めてきたようだ。 DOCプロセスをもとに、次のように結論付ける事が妥当であろう。すなわち、COCプロセスは容易なものにはならないという事だ。極めて高い可能性として、COCの起草には骨の折れる交渉が行われる事となるだろう。またCOCでさえも、南シナ海の平和と安定を守るためには、ましてやこの問題を解決するためには、十分ではないかもしれないと考え得る根拠が存在する。  しかし、幸運なことに、過去数十年の間に、様々な権利主張諸国が、南シナ海紛争に取り組むためのいくつかの原則や基準を開発し、あるいはこれらに公の場で合意してきた。これらの諸原則は、DOCやその他ASEAN・中国間の文書にもしっかりと説明されている。全ての関係諸国が、この問題を平和的に解決するという原則に合意したのである。彼らはUNCLOSやその他の関連国際法を順守してこの問題に取り組み、これを解決する事に合意したのだ。彼らは係争領域が二か国にのみ関係する場合には、二国間の取り組みを、問題が二国間以上の国にも関係する場合には、多国間の取り組みを実行する事で合意した。常に小競り合いや論争があっても、権利主張諸国には、協力してこの問題に取り組む用意があるようだ。  結論 今後の課題は、COCプロセスをどの程度速やかに進める事ができるかという事、さらにはこの新たな文書にどれほど権利主張諸国の行為を抑制する効果があるかという事である。南シナ海の長期的な平和と安定にとって重要なことは、COCが実効性を獲得し、これによって確実に関係国が自制を働かせ、信頼醸成措置を促進させて、配慮が不要な領域での協力活動を実施する事である。COCを実効力あるものとするには、DOCの欠陥やDOCの実施を遅らせてきたいくつかの要因が克服されなくてはならない。 Mingjiang LiDr. Mingjiang Li is an Associate Professor at the […]

Issue 15 Mar. 2014

高まる東アジア大国間の戦略的競争:東南アジアと南シナ海への影響

東シナ海及び南シナ海の最近の出来事は、領土や海洋資源をめぐる中国とその他様々な地域諸国の間の論争について、物事が好転するよりも先に悪化する運命にあるという事を示唆している。 中国が2013年11月23日に宣言した東シナ海の防空識別圏は、日本と係争中の釣魚島/尖閣諸島の地域に重なっており、近隣諸国、主に日本と韓国を苛立たせるものであった。このために、これらの国々とアメリカ、オーストラリアなどは、中国政府が新たに課した規定に挑戦し、中国に飛行計画を通告する事も、身元証明のための常ならぬ手続きを踏むこともなく、宣告されたADIZ内に飛行するという行為に到ったのである。中国の弁護にまわり、中国の消息筋の論じるところでは、各国家にはADIZを宣言する権利があり、日本自身もこれと同地域に対して、40年前からこれを宣言しているし、アメリカやその他約20の国々にもそのような領域がいくつかあり、他国から尊重されている。さらに、この動きは自己防衛であったし(defensive)、日本領空を飛行する無人機を撃墜するという日本の政治家たちの脅迫(threat)に応じたものであった。 一方、観測筋の中には、アメリカ国務省のジョン・ケリー国務長官や、防衛相のチャック・ヘーゲル国防長官などのように、中国の最近の動きに対する反応として、これは中国が長年、中日間で緊迫している海域論争を、空域にまで拡大し、現状を変えようとする試みである(change the status quo)と非難する者もいる。この領海問題の争点は、権利主張諸国やその他の海洋利用者たちにとっては、主権、海洋生物及び無生物資源の開発、重要な海上交通路へのアクセスであり、また大国の場合には、これに地域のリーダーシップをめぐる戦略的競争も絡んでくる。加えて中国の立場では、歴史的不正の認識を訂正する必要性が認識されている。一方で、管轄権を係争中の島々や海域の上空領域に対して、一方的に行使しようとする試みは、新たな争点を生み出したようだ。評論家たちは領空通過の自由に対する脅威を、過度な海洋管轄権の主張が海上航行の自由を脅かすのと変わらぬ程、重要であると見ている。 航行の自由は、長らく、アメリカによって南シナ海におけるアメリカの核心的利益と認識されてきたものであるが、これを浮き彫りとしたのが、中国船がアメリカ軍艦カウペンス号に接近した12月5日の事件であった。この誘導ミサイル装備巡洋艦は、中国が南シナ海に展開させていた新しい空母(遼寧)を付け回していると非難されたものである。ヘーゲル米国防長官は、中国の行動を「無責任である」とし、この事件が「何らかの偶発的誤算」の引き金になり得るものであったと述べた。一つの問題は、海洋法会議で未解決の案件に、各国が海上で軍事活動を行う諸権利に関する条項の解釈があり、これに関して中国とアメリカが相反する政策を実行している事である。この事件は、この二つの大国が、互いの軍事的存在や活動に対して挑発し合う傾向がある事を示す、もう一つの証拠であり、これに対処するには、双方の二国間協議を通じて行う以外に術がない。 東南アジアに近づいてみると、中国の東シナ海に対するADIZ宣言の後、中国がこれに似たADIZを南シナ海にも宣言する事を考えているのではないかという推測があった。海南に本拠地を置く国立南シナ海研究所のWu Shicun所長は、南シナ海に対するADIZは実行不可能であると論じた。その根拠としては、より広範な領域が対象となる必要がある事、中国が九つの破線に対する法的主張を明確にしていない事を考慮すると、中国にこれを実施するだけの法的、技術的用意が欠如している事、この影響を受けるであろう係争国の数、そしてこれらの国々の反応が中国の東南アジアにおけるその他の戦略的目標を侵害し得るものである事などが考えられる。Wu氏はさらに、悪質な西洋のマスコミ連中が、ADIZ問題を大々的に報じる事で恩恵を得ていた事、また中国がSCSに対して行うがごとく、事実無根の主張を助長する事で、中国を悪者扱いしたという事を主張した。彼の姿勢は、中国の東シナ海における日本に対するアプローチと、南シナ海におけるASEAN諸国に対するアプローチを区別しようとするものである。 ところがつい今年、中国はまた、海南省人民代表会議の政策を施行し、「外国の漁業従事者たち」が係争中のスプラトリー諸島やパラセル諸島の域内で操業する際に、中国の許可を求めた上で、海南省の「管轄」下、南シナ海の3分の2にあたる水域での漁や調査を行う事を要求すると発表した。実のところ、中国は2012年の後期にこれと似た、しかし、より強硬な声明を発表しており、その際には外国漁船に乗船して検査を行うと述べている。その他の報告は、つい先日の声明を30年前の法律(thirty year-old law)の繰り返しであると主張するものだ。米国務省のジェン・サキ報道官は、南シナ海の係争水域内における他国の漁業活動を制限する最近の動きについて、「挑発的で危険をはらんだ行為である(a provocative and potentially dangerous act)」と言っている。 客観的にみて、海南省が宣言したこれらの規定の実施が不可能に近い事は、そのリスクを考えてみればわかる。中国軍だけでなく、少なくとも他に4カ国の政府がこの水域で活動しており、これを実施する事によって、中国が公然とUNCLOSの公約を違反しているとの非難が高まるからである。この種の漁業権の制限こそは、フィリピンが国際海洋法裁判所(ITLOS)で正式に中国を起訴した際に回避を望んだものであった。もし中国が乗船措置を実施する、あるいはその他にも、沿岸諸国が自国の排他的経済水域内で行う通常の漁業活動を妨害するような事があれば、それがフィリピンの主張に正当性と重要性を与える最強の支えとなるであろう。 目下、法廷戦術に集中しているフィリピンは、賢明にも過剰反応をしない事を選択した代わりに、中国に新たな措置の意義を説明するよう求めた。一方で、ベトナムの漁業従事者たちは、パラセル諸島における漁業を続けているが(continue to fish)、中国当局が一隻の漁船を停止させ、その漁獲を押収したという一つの事件(one incident)が報告されている。 ADIZ論争が猛烈な勢いで進行し、影響を被る国々が中国の漁業規制への対応に苦闘する中、ある「不可解な」一件の報告が、1月13日に中国の雑誌Qianzhanによって発表された。それは、中国が2014年にフィリピンのパグアサ(中業)島に侵攻する準備をしているというもので、その要約はChina Daily Mail に「中国とフィリピン:中業(パグアサ)島をめぐる戦いが回避不可能とされる理由」という見出しの下で発表された。現在のところ、中国当局筋からこれが事実であるとの確証はとれていない。他の中国のアナリストたちは、このような見解を批判して、これが何者かの偽情報で、中国をさらに悪者扱いするためのものであると仄めかす者もいた。 フィリピンに対する特定の威嚇は、今年の3月に向けての前哨戦というコンテキストでなら納得できる。3月にはフィリピンによる中国の九段線の適法性を問う訴訟が、ITLOS仲裁法廷の陪審員たちの初審議にさらされる。これは中国がこの仲裁裁判を自分達の領土や海域に対する主張を大きく損ねる可能性のあるものと捉え、そのために国際規範や自らの公言する政治・外交上の基本方針を犠牲にして、このような自暴自棄の手段で宣戦布告を行わんとしている事を推測させる。だが、暴力の行使などという威嚇の実行は、人命の損失を意味するのであり(武力の不均衡を考慮すると、フィリピン側にその可能性が高い)、中国・ASEAN間の信頼醸成のための協定の多くを公然と違反して現状を変える事であって、中国とASEANの関係にかかってくる政治的負担が高すぎる。あまりにも負担が高いため、専門家アナリストのCarl Thayerなどを含むコメンテイタ―たちは、この報告を「虚勢である」と退けている。 虚勢はともかく、最近の中国の強い主権の主張や、戦略上の権益増進の行為が増々顕著となって行く事には、他の域内国や域外国にまで、中国が東アジアの強国で、東南アジアはその戦略上の裏庭であるという、中国の新事実を認めさせる目的があり、そのためには、中国の印象に民族統一主義的、覇権主義的との反響があってもお構いなしなのだ。だが、中国の最近の行動は、中国が強国であるとの受容と認識を、ASEANや日本、韓国、オーストラリアやアメリカ合衆国などの間で獲得するための役に立つのだろうか。中国の行動は、将来、中国が責任あるリーダーシップの役割を演じ、自制を働かせ、近隣の小国や同類たちの感性に等しく気を配れるとの自信を抱かせるものなのだろうか。あるいは、これが自身の目には防御的、他者の目には挑発的と映るにせよ、この行動の結果は、中国自身が最も恐れる日本の攻撃的な再軍備や、アメリカの全面的な軍事的封じ込め政策となるのであろうか。 そのような結末は、事によるとASEANの何カ国かだけには受け入れられたとしても、東南アジアやASEANに利益をもたらすものではなく、おそらくは取り返しのつかぬ程、数十年来の協力的安全保障や包括的多国間主義の原則に沿った地域の安全保障構造の構築努力を後退させることになるだろう。また、軍事対立のリスクが高まる事によって、中国と日本の協力が継続的な経済活力には不可欠と見なされているASEAN+3を直接的に損ねる事となろう。さらに、東アジア首脳会議では、新たなアプローチを開発して東アジア地域に集団型戦略的リーダーシップを用意するという課題が未だに果たされていない。 ASEAN自身にも、たとえ2015年という節目が急速に近づきつつあるにせよ、これらの新展開を無視して、単に自分達のコミュニティの構築計画にのみ集中するような余裕はない。2015年の象徴する、より強力な地域統合の推進は、大国同士の対立がASEAN加盟諸国内の分裂や分極化の一因となるのであれば、成功し得ないだろう。 南シナ海で緩慢に進行する法的拘束力を持つ地域的行動規範のための協議は、もし現状が変わり、これがさらに広範な海域や空域に対する軍事支配や所管をめぐる対立となった場合には、現実的価値を失う事になるだろう。中堅国外交は、軍事・産業機構が本格始動するようになれば、一層見当違いなものにさえなろう。また、大国間の軍拡競争が引き金となり、多くがいまだに近隣諸国との紛争に巻き込まれている東南アジア諸国の防衛費を増大させるような事になれば、より大きな危機さえもが待ち受けることとなる。このようなシナリオでは、不安定の度合いや、安全保障のジレンマの重みが増すばかりである。 大国間の戦略的競争は、ASEANやその加盟諸国の状況をさらに困難なものにするだけである。これに対してASEANに何ができるか、あるいは何をするべきかという問いは、まだ真剣に問われた事がないように思われる。 Aileen San […]

Issue 15 Mar. 2014

三つの優先的施策 南シナ海の平和と安定維持のために

近年、南シナ海で沸々と緊張が高まっているが、これは中国にせよ、ASEAN、国際社会にせよ、何人の利益にもならぬものである。多くの者たちは南シナ海を「紛争の将来である」とし、現状が「袋小路…」であり、「武力衝突」に通じ得るもので、「戦略家や為政者たちの早急な対応を必要とする」と警告している。最悪の事態は、関係者たちがこの問題を収集できずに紛争が勃発し、地域全体が不安定となるにまかせ、長年続いた平和や安定、経済開発の進行を覆すような事があれば、明白となる。南シナ海の責任ある利害関係者として、ASEANと中国は以下に挙げた三つの安定のための優先的施策に着手し、平和と安定の維持にあたるべきである。 第一に、ASEANと中国の戦略的信頼関係が、相互の「戦略的保証」を請け合う事で強化されるべきだ。 中国はいくつかのASEAN加盟諸国が、アメリカがアジアに「拠点」を置き、南シナ海へ介入する事を認めている、あるいはそれを助長しているのではないかと疑っている。様々な機に、中国はASEANが地域のパワープレイにおいて「一方の肩を持つ事がないよう」念押しを行ってきた。一方、ASEANがそれとなく懸念を表明した中国の南シナ海における覇権主義的志向は、中国が軍事、準軍事的な自己主張の急上昇によって脆い現状を変える代わり、微笑外交を放棄した事によって裏付けられる。 中国が最近、東シナ海で一方的な防空識別圏(ADIZ)を通告した事や、海南での漁業規制を発表して南シナ海の3分の2の海域で操業する「外国」漁船に、中国当局への許可を求めるよう要求した事は、中国の新たな指導部が善隣友好政策の継続を主張した事を考慮すると、中国の言行一致能力に疑念を投じるものであった。この戦略的不信の行き着く先は、作用と反作用の連鎖、例えば地域の再武装化や軍事化が安全保障環境をさらに悪化させ、地域のパワーバランスを乱し、不安定な影響を与えるというような事である。ASEANと中国には、悪化の一途をたどるこの戦略的不信に、直ちに歯止めをかける必要がある。中国はASEANに対し、平和的発展を続け、彼らの主導者たちが公表した事を厳密に実施するという事を再保証した上で、さらなる自制を行う必要がある。最も重要な事は、中国がその急激な経済力や軍事力の高まりについて、これがASEANを力づける原因であって憂慮の原因ではないと証明する必要があるという事だ。中国はその好景気がいかに地域の繁栄の利益となったかを、説得力をもって示してきた。中国が海軍の能力についてこれを行うには、最新の艦艇を係争中の海域ではなく、海賊や武装強盗との戦闘支援のために、あるいは南シナ海の遭難者や遭難船の救助、例えば2013年にフィリピンを襲った台風ハイエンのような大災害時の救助活動のために送る事である。中国はその領有権問題が、引き続き平和的に解決され、軍事力や準軍事力、経済力などが使われる事がない事を示すべきである。中国はASEAN内の全ての疑念を払拭するはずである。中国がASEANとの南シナ海についての対話、例えば拘束力を持つ地域の行動規範交渉などに、もっと進んで関わるならば、対話は心底有利なものとなるのである。一方、ASEANは中国に対して、ASEANが中国に対抗する域外諸勢力の支援を求めているのではない事を保証する必要がある。ASEANは、その目的が地域内の主要国と関わる事で、全ての者の利益となるような、力強い平衡と協力体制を創り出す事だと示さなくてはならない。ASEANはまた中国に対して、東南アジアが大国のパワープレイに興味もなければ、干渉する力もない事を示し、平和、自由、自治の東南アジア地域の構築というイデオロギーが、現在でもなお深く、彼らの価値観の中心にある事を示す必要がある。オーストラリア人の学者Hugh Whiteは、露骨ではあったが、むしろ正しい事を言った。「ASEANは、アメリカが中国を自国の利益のために操る事を助けはしない」。  第二に、ASEANと中国がさらに取り組むべき事は、南シナ海の規定に基づく制度基盤、特に1982年のUNCLOS(国連海洋法条約)の強化である。 中国とASEANの両者は、UNCLOSが南シナ海に法的秩序を創り出すための基盤である事に同意した。中国は「UNCLOSの原則や目的を守る事を重視している」。ASEANは「広く認められた国際法の諸原則を、1982年のUNCLOSも含め、完全に尊重する」事を求めた。しかし、多くの相違点がUNCLOSの解釈や適用、実施の過程で明らかとなり、これが当事者たちの間にいくつかの誤解を生む事となった。中国の「歴史的権利」に対する主張は、とりわけ典型的な例である。中国が南シナ海に対する歴史的権利を主張し、そのような権利がUNCLOSの調印国となる事で破棄される事はないと主張する一方で、ASEANは、そのような権利については既に1982年のUNCLOSの交渉過程で熟慮、議論され尽くしたものであり、条約の効力によって、その権利は破棄されるという見解であった。UNCLOSの解釈をめぐる、その他の相違点の原因としては、文書交渉の際の意図的な曖昧さや、新たに生じた海洋問題で、条約起草時には存在しなかった、より的確に言うと考慮されなかった問題がある。 意図的な曖昧さというのは、島々の管理体制の曖昧さや、その結果としての複雑な海域などであり、UNCLOSの下に生じたそのような特性が、南シナ海の多くの小島や岩礁、低潮高地にまつわる多くの誤解を生み出したのである。沿岸国の排他的経済水域内における「平和目的」や「航行の自由」の範疇内での軍部の情報監視の権利と限度に、議論の余地がある事は、非の打ちどころがない2009年の事例に見られる通りである。UNCLOSは半閉鎖性海域にある沿岸諸国に、様々な面での協力を義務付けたものの、そのような協力がいかに生じるのか、例えば航行上の安全や環境を脅かす事なく軍事演習を行う方法や、国家間にまたがった魚種資源の保護のために、諸国がどのように協力する必要があるかなどについては、ほとんど、あるいは全く指針を与えなかったのである。  新たに生じつつある問題は、海洋空間やその海洋資源の新たな利用によるもので、これらは新しい議論や問題発生の引き金となり得る。不適切な問題、あるいは無規制の問題として、地域の海底利用が増加する状況での海底ケーブル敷設や、新たな海洋資源獲得のための生物資源調査活動の増加、海洋観光、特にエコツーリズムの増加、廃止設備数の増加や、航海の安全性に影響を与え得る海洋構築物(廃棄及び改修の問題)、特にもう使われなくなった建造物の問題などがあり、これらは全て、適切な対応がなされなければ、新たな問題発生や緊張の源となり得る。結局、たとえ完全に規制された環境の中で、そのような規制に統一された解釈や適用、実施が伴っていたとしても、例えば、南シナ海の混み合った通信回線の通信量が急増する事から生じる不測の出来事などを通じ、問題はなおも発生し得る。このような問題発生のリスクを最小限に止めるための協力は、ASEANや中国、その他全ての南シナ海を利用する者達にとって、長期的な利益となる。これが南シナ海の法的秩序の最も重要な基盤であり、これを基にその他の制度であるDOC(行動宣言)や、未来のCOC〈行動規範〉が築かれる事からも、ASEANと中国が協力してUNCLOSについての相互理解を促進し、この条約の解釈の差異を縮める事で、その適用と実施における一致に到る事が根本的に重要であり、必要な事である。ASEANと中国がこの方向へ向かう最初の一歩は、彼らがその海洋の諸権利を、UNCLOSに沿った形で主張する事であろう。 第三に、中国とASEANは直ちに、拘束力を持つ南シナ海における行動規範の項目を起草し始めるべきである。 拘束力のある南シナ海における地域的行動規範の制定が、ASEANの90年代初頭よりの抱負であった事、さらには、90年代後期に中国が地域的COCの交渉過程に入る事で合意した際、中国もこの抱負を分かち合っていたという事は、思い起こしてみる価値がある。2002年に調印されたDOCは不完全なCOCであった。ASEANと中国がこの規範を骨抜きにせざるを得なかったのは、彼らがそのような文書の適用範囲に同意できなかったためである。ASEANと中国は、その後、DOC自体の中(第10条)でも、また2006年には、両者の国家元首間でも、彼らがこの未完の課題と南シナ海における地域的行動規範の最終的な採択に向けた取り組みを継続させる事を繰り返し述べている。2013年の9月には、ASEANと中国がCOCの「協議」プロセスを開始するにあたり、COCに関する初の高級事務レベル会合が中国の蘇州で開催された。第二回の会合は、2014年4月にタイで開催される予定である。だが、ASEANのCOCプロセス早期制定のための弛まぬ努力にもかかわらず、中国側には切迫感が感じられず、この「協議」プロセスに関する明確な期限や作業計画についても意見がまとまっていないのが現状である。  多くの者たちは、COC起草時の中国の積極的な役割が、中国にとって最大の利益となるだろうという事を確信している。なぜなら、それはASEANと中国が協力して自分達だけで問題解決を成し得る事を示すからだ。これはいかなる外国の干渉にも抗し得る、最強の保証となるもので、中国が絶えず求めてきたものなのである。COC起草に際し、ASEANと中国は、DOCの制約を考慮し、COCが確実にこれらに正面から取り組むものとなるようにするべきである。まずは、COCをよりきめ細やかなものとして、DOCに相当見られた文言の曖昧さをできる限り回避するよう努めるべきだ。次に、COCは透明性のある機構を備える事によって確実に順守されるべきである。例えば、制度化された審査機構などを備えるべきである。三つ目に、COCはそれ自体の解釈や適用に関する紛争を解決する制度を体現するべきである。最後に、COCは包括的な規則や原則を含むだけではなく、明確な処置上の指針を設け、問題発生に陥った関係諸国が、勃発の可能性のある紛争を緩和する手立てを即座に知る助けとなるべきである。  南シナ海の状況が対処可能である事を確信できる強い根拠がある。ASEANと中国の南シナ海に対する戦略地政学的関心は収束させ得るものだ。ASEANと中国の南シナ海に対する法的見地を整合性のあるものとする事も可能である。ASEANと中国の南シナ海に対する相違点の多くは、誤解や相互理解の欠如によって生じた、あるいは深められたものであり、これらは両者の対話や協力の強化で克服し得るものである。したがって、ASEANと中国は直ちに措置を講じ、上に挙げた三つの優先的施策を実施し、戦略的環境を安定させ、地域の法的基盤を強化し、信頼を高める事で南シナ海の緊張を弱めるべきなのである。 Nguyen Hung Son The author is Director of Policy Institute for South China Sea Studies, Diplomatic Academy of Vietnam. The views expressed in this […]

Issue 15 Mar. 2014

南シナ海論争における 既知の知、既知の未知、未知の未知と未知の知

元米国防長官のドナルド・ラムズフェルド氏は、2002年2月12日に意味論史に残る人物となった。この時、彼はイラクにおける “Known Knowns (既知の知)”、 “Known Unknowns (既知の未知)”と“Unknown Unknowns (未知の未知)”に関する非常に複雑な説明を行った。私はどちらかというと彼と同意見で、これが複雑な問題の分析にとって便利な概念的枠組であると考える。実際、NASAはこれを用いて宇宙ミッションを計画し、既知の知、既知の未知、未知の未知によるリスクに対処する準備を整えてきたのである。彼の秀逸なアプローチを用いて、南シナ海論争の複雑性に光を投じてみよう。 既知の知 既知の知は我々が知っているという事を知っている事であり、我々が周知している知識である。2013年には南シナ海で比較的穏やかな状況が観察された。ASEANと中国は、2013年に戦略的パートナーシップの10周年記念を祝った。この晴れやかな機に、中国は南シナ海における節度をいくらか示す事となった。これと同時期、ASEANは日本との対話パートナーシップの40周年も祝っている。一年に及ぶ祝典が最高潮に達したのは、12月13日と14日に行われた第二回 日・ASEAN特別首脳会議であった。日本の安倍晋三総理大臣は、ASEANが日本の新たな安保上の積極的役割を支持する事を望んでいた。しかし、東京の特別首脳会談で、ASEANの首脳陣と会合した際、彼がそのような支持を得る事は全くなかった。大多数のASEAN首脳たちは、非常に用心深い様子で、日本が少しずつ新たな安保上の積極的役割を構築し、東北アジアの近隣諸国、特に中国や北朝鮮を警戒させるような事がないよう望んでいたのである。 それにもかかわらず、安倍政権は「積極的平和主義」という新たな戦略計画を進めつつあり、それには軍事費の増加やアメリカとのより緊密な軍事同盟、ASEAN諸国との新たな防衛関係が含まれている。日本は円借款を与える事でフィリピン国軍の増強を支持する事になっており、これには10隻の日本製沿岸警備艇の提供により、南シナ海にフィリピン海軍の存在感を高める事が含まれる。 その一方で、アメリカによるアジアへのリバランスに対する信用が大きく損なわれる事となった。これは、バラク・オバマ大統領の10月の東南アジア訪問が、アメリカ連邦議会の財政問題とその後の政府機能の一部閉鎖のために中止せざるを得なくなったためである。しかし最近、アメリカ連邦議会が超党派の財政協議で合意に到ったため、2014年の政府機関の閉鎖は回避される事になるだろう。これによって、オバマ氏はミャンマー(2014年のASEAN議長国)を訪問し、2014年11月初めの第二回 米ASEAN首脳会議と、ネピドーでの第九回 東アジア首脳会議に参加する事が可能となる。ミャンマーは、しきりに彼らが中国の良き隣人でありつつも、アメリカの新たな良き友となり得る事を示そうとしている。ミャンマーはASEAN代表国として、2013年から2015年のASEAN・アメリカ戦略的パートナーシップの調整にあたる。 アメリカ軍の南シナ海における存在の拡大は、中国との対立リスクを増加させるものだ。ごく最近、12月5日に米巡洋艦カウペンス号と中国の戦車揚陸艦が衝突しかけた事件は、カウペンス号が中国の空母、遼寧率いる海軍演習の動向監視を中国の要求通りに止めなかった事から生じたものである。 アメリカによるアジアへのリバランスや、日本の新たな安保上の積極的役割に対抗し、中国は東南アジアでの微笑攻勢を強化した。それには(ASEANによって受け入れられた)2010年の中国・ASEAN自由貿易圏をアップグレードさせる提案や、新たな善隣友好条約が含まれる。 既知の未知 さらに厄介なものは、我々が知らないという事を知っている、あるいは我々がその潜在的リスクを知らずにいる事柄である。おそらく究極の既知の未知とは、我々の太陽系の圧倒的神秘、どのようにこれが形成されたか、地球上の生命の起源(あるいは諸起源?)とは、そして、この太陽系が広大な宇宙の中でどこへ向かっているのか、というような事であろう。 南シナ海における新たな既知の未知は、中国の九段U字型線という、壮大かつ問題の主張に対するフィリピンの訴訟である。ASEANの加盟国仲間との事前協議もせずに、フィリピンは1月に、国際海洋法裁判所で中国に対する訴訟を提起した。5名の裁判官から成る仲裁法廷が組織され、この訴訟の検討に当たるが、中国はこれに加わる事を拒否している。いくつかの小規模な、あるいは短期的な既知の未知をこの訴訟に認める事ができる。 この法廷がこの事案のさらなる審議に管轄権を持つ事に合意するか否かは不明であろう。法廷がこの審議の管轄権を持たぬと判定するなら、それは中国の勝利を意味し、中国の九段U字型線への新たな訴訟が起き得ぬ事を意味するのであろうか。一方で、法廷がこれに管轄権を持つとの判定をするとして、フィリピンからの要求に対して、どのような裁定が下されるかは依然として不明なままである。中国はこれまで、公式に九段U字型線が何を示すか、明確に説明した事がない。そのため、法廷はおそらく、これについていかなる判決をも下す事ができないだろう。たとえ法廷が、中国が実際にフィリピンの海域を侵犯している、あるいは、フィリピンの排他的経済水域内の島々や岩礁を侵害していると判決したところで、どのように中国に不利な何らかの判決を実行する事ができるだろう。 この九段U字型線は、最も厄介な既知の未知の一つとして南シナ海に存在している。中国当局の人間が南シナ海に十一段の線を加えたのは、1947年に出版された地図であった。彼らは明らかに地図製作の細部にはほとんど注意を払わず、この十一の破線をいかなる地理座標に特定する事もしなかったのだ。これらが海上境界線として意図されたものであったなら、この十一段線は実線としてつながれ、全ての要所が正確な地理座標を備えているべきなのである。 1949年以降に中国の採用した中華民国の南シナ海地図は、この十一の破線を含んでいる。二つの破線がトンキン湾から取り除かれたのは、北ベトナムとの領海画定が1950年代のはじめに合意された後であった。目下、中国がその計算づくの戦略的曖昧さにおいて一枚上手であるのは、他の権利主張者たちが、九段U字型線が実際に何を指すものか、確信の持てぬままにしているためである。 もう一つの台湾にまつわる既知の未知は、タイピン/イトゥアバ島の軍事占領であり、これはスプラトリー諸島における最大の争点となる島である。中国は台湾軍の存在を容認しているが、その理由は不明である。 これは一つの中国政策の表れかもしれない。 もし、中国が南シナ海の係争領域に対する歴史的権利の主張の勝者となれば、その結果はどのようなものになるだろうか。これは懸念すべき既知の未知である。最初の大きな犠牲は、UNCLOSの解体であるかもしれない。他の主要諸国は、その他の場所で係争中の領土や海域を各自の歴史的権利の主張に基づいて強奪しようという気になるかもしれない。どこまで歴史を遡り、正当な主張の根拠と成す事ができるのだろうか。 結局、はるか昔に遡れば、我々は皆、同じ出自の人類なのである。 さらなる既知の未知は、南シナ海における自己主張をより強化するという中国の戦略的意図である。中国の主張は、この地域の領空通過や航行の自由が、合法的な無害通航権を行使するいかなる国の問題にもなった例がないという事であろう。しかし、中国はその200海里の排他的経済水域内における、外国の軍艦や航空機による軍事活動に反対し、時にはその妨害を試みようとさえしているのだ。  近いうちに、中国が南シナ海に一方的な防空識別圏(ADIZ)を設定するというのもあり得る事だ。 おそらく、パラセル諸島を手始めに、中国航空母艦部隊が配備計画を押し進める準備が整えば、南方のスプラトリー諸島へと拡大して行くであろう。アメリカのジョン・ケリー国務長官は、2013年12月17日のフィリピン訪問の際、中国に対して南シナ海にいかなる防空識別圏をも設定せぬよう警告を行った。 1951年の米比相互防衛条約にまつわる不確実性もまた、既知の未知である。アメリカはフィリピンへの軍事支援を増加させており、そこには12月17日にケリー氏がマニラで発表した、さらなる4000万米ドルの支援が含まれている。しかしアメリカは、万一フィリピンと中国との間に、南シナ海で深刻な武力衝突が生じた際に取りうる対応については全く曖昧なのである。おそらく、これはアメリカの戦略的曖昧政策の一環なのであろう。 中国が南シナ海の超えてはならぬ一線のありかを知らず、ただこれを推測するに止めておくためのものだ。 中国とアメリカの対立がどのように展開して行くかは、深刻な既知の未知である。この対立がすでに東南アジアに間接的な軍拡競争をあおっている事を見れば、安心してはおれない。この対立が深刻化すれば、その先に待ち受けているものは何であろう。新たな冷戦が世界の中の我が地域に生じるのであろうか。 未知の未知 未知の未知はリスクの中でも最悪の類のものである。なぜなら、我々はその存在すら知らず、それは重大かつ計り知れぬ衝撃で我々に襲い掛かり得るからである。場合によっては、一方がリスクを既知の未知として捉えていても、もう一方はおそらくそれに全く気が付いていない。それが未知の未知である。予期せぬ日本の真珠湾攻撃がその一例であった。この攻撃はアメリカにとっては未知の未知であったが、これは主に日本が国際法や外交規範を破ったせいである。同時に、日本軍は自らの行為を理解してはいたが、その攻撃の結果や、最終的に第二次世界大戦に惨敗する事は見通せていなかったのである。  南シナ海において、何らかの未知の未知の例えを思いつく事は困難である。 定義上、我々はそれが存在する事を知らないのであり、ましてやその結果を予見するなど、不可能な事である。 未知の知 […]

Issue 14 Sept. 2014

変動するミャンマー :軍事的栄光の行方

序  近代西洋の統治理論と実践は、良き政府を軍部が文民統制の下に置かれた政府と規定する。共産主義諸国でさえ、党が主導権を握り、軍部がこれに忠実に従って国家のイデオロギーを、たとえそれが現実よりも虚構に近い場合であっても順守する。  いくつかの非西洋諸国では、例えば日本がそうであったように、この信念がしばしば苦い経験の後に根付く事となった。1989年にはミャンマー国民民主連盟(NLD)までもが、党の網領の一環として、文民統制の下にビルマ軍を置く事を提言し、1962年以来の軍部上層から忌み嫌われる事となった。だが、民軍のスペクトルの二極間にある二元論的感覚は、常に複雑に絡み合う一連の関係性に対する単純化されたアプローチとなってきた。  ところが、ビルマ/ミャンマーでは、独立時や民政下(1948-1958, 1960-1962)の軍部の役割が、西洋でのそれよりも、はるかに文民統制に非従属的であった。独立運動におけるビルマ軍の役割の現実や作り話がどうであれ、軍部が国家をまとめ、短期間で国の大部分を巻き込み、ラングーン郊外にまで迫ったカレン族の反乱に対抗した事には疑問の余地がない。軍部は多くの政治的(二つの共産党の)反乱や、様々な民族的反乱と戦った。さらに軍部は、無力な反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が、同胞同士の相争う1958年の内戦に加わろうとするのを止め、1962年のクーデターによって国家をまとめたことを主張、軍部が構想、支配するビルマ社会主義計画党(BSPP)を設立した。国軍の長(ネ・ウィン将軍)は、防衛大臣でもあり、一時は副首相でもあった。文民政権は極めて無力であることが判明したのだ。1988年の軍事クーデターは、軍部の支配下にあって破綻したBSPP政権にてこ入れをするために講じられたものであったが、この政権はこのようにしてtatmadaw(ミャンマー軍)の指令と統率の下で約28年間、政権の座に着いていたのであった(1958-60, 1962-1988)。彼らはさらなる23年間(1988-2011)を、命令による統治に甘んじる事となった。その影響力は今なお、実質的に偏在している。ビルマ/ミャンマーは近代史上、軍事的支配が最長でなくとも、最も長かった国の一つである。 I 近代ミャンマーにおける軍部の役割  ビルマ/ミャンマーは1962年以降、直接及び間接的な軍事支配の下にあった。その当時から、軍部は明らかに権力を永続的に掌握しようと画策していた。ミャンマー軍はそれ以来35年間、政令による直接統治を行い(1962-1974, 1988-2011)、さらには軍部の指示、統率下にあるBSPPのもとで間接統治を14年間行った(1974-1988) 。軍部の影響力は深く、あらゆる社会区分にまで及んでいる。彼らは全ての社会的移動性の道筋を支配してきた。軍部による経済の実効支配は、はじめはBSPPのもとで、後にはその公共部門への権限、さらには軍部によって組織、運営されるミャンマー経済持ち株会社やミャンマー経済株式会社、あるいは防衛省調達室の下にある諸企業を通じて行われてきた。あらゆるマスコミや輸入書籍、輸入資材に課された検閲は、成功には満たぬとしても、国民を政治的に近代化させ得る外的影響から隔離するための包括的な試みであった。  ミャンマー軍は比較的効果的のあった市民のための教育制度や医療制度を実質的に破壊する一方で、軍人やその親族達の暮らし向きが、策定者たちのために特別に計らわれた制度によって、はるかに良きものとなるよう、確実を期したのである。軍部は1980年に僧侶の登録という、あらゆる政権の長年の目標であった事をこなし、1982年には市民権を自分達に望ましい形となるように定義した。ガラスの天井が築かれ、これが非仏教徒(クリスチャンやムスリムたち)を実権から退けた。反乱を起こしていた少数民族集団と停戦を結ぶことにはなったが、概して少数民族の地域は軍の占拠する敵対的な領地、あるいは敵地として扱われていた。ミャンマー社会では、権力が機関よりも個人に集中するため、ミャンマー軍の上層部は個人的なつながりを通じて社会全体の支配を達成する事が出来たのである。 II 規律にあふれた民主主義: ミャンマー軍の将来的な役割を考える  2003年には、首相で軍事情報局長でもあったキン・ニュン大将が「規律にあふれた民主主義」のための7段階のロードマップを公表し、国家元首として、タン・シュエ大将がこれを規定した。この「規律」は事実上、軍部によって用意される事となったが、これは彼らの主要な目標である挙国一致、国家主権、軍事的自治権、さらには軍事予算や(そしておそらくは)彼らの代行人が得る事になる経済利益に対する支配権を持続させるためのものであった。  1993年以降にも、政府が出資し、大いにその筋書を行った新憲法のガイドライン策定のための全国会議が開催された時に、ミャンマー軍を政治分野の中心的機関に据える事が決定された。この事は憲法に規定され、次のように述べられている。(第6条)「ミャンマー連邦の一貫した目標は…(f)「国軍が国家の政治の指導的役割に参画する事を可能とする事」。(第20条も同様)。これは2008年のスターリン主義的な選挙によって承認されたものであった (これを早めたのは、おそらく2007年の僧侶による反政府デモ、「サフラン革命」によって生じたトラウマであろう)。軍部は重要な政治的地位を占める事となった。国や地方など、全ての議会の25パーセントが現役軍人で構成される事になり、彼ら自身は国防大臣から指名されるが、この国防大臣もまた、現役将校でなければならず、さらには(警察を取り仕切る)内務大臣や少数民族の地域を担当する大臣もまた同様とされた。国軍司令官は非常事態の際には政権を担う事ができる。大統領候補や副大統領候補(彼らは全員、間接的に議会から選出される)の近親者達は誰ひとり、外国勢力への忠誠を尽くす事はできない。ミャンマー連邦共和国からの離脱があってはならないのだ。憲法改正には議会の75パーセントの賛成が必要なため、軍部は提案された改正案を全て直接コントロールする事ができるが、彼らの支配下にあり、国会で大多数を占める連邦団結発展党(USDP)を通じても同様の事が行える事は言うまでもない。まるで単一体であるかのように振る舞うミャンマー軍は、理論上は軍部の支配を存続させるような制度を編み出した。この計画は理論的には完全で、軍部の支配を当面の間は保証するかと思われる。しかし、軍部が単一体のように見えたとしても、また、文法的には単一体であったとしても、経験は、これが首尾一貫した統一体であり続ける可能性が低い事を示す。個人的対立による影響が生じるだろう。側近たちやパトロン‐クライアントの関係が形成され、この単一性を厳しく試す事になるだろう。また組織的にも、BSPPの時代がそうであったように、現役将校と退役将校は、彼らの要求や目的でさえもが対立する事に気が付くかもしれない。米国議会調査局は新政府を「準民主」と表現するが、これはその上層部が退役軍人であるからだ。 III ビルマからミャンマーへ:社会的移動性の対比  新政府が発足した2011年3月のミャンマーは、軍事クーデター前夜の1962年3月1日のビルマとは社会的に極めて異なるものであった。当時、この国の少数民族(人口の1/3にあたる)の諸地域を除いたビルマ族の地域は、おそらく東アジア社会の中で最も移動性の開かれた地域であった。政権は多様で、内閣でさえもが民族的に開放されていた。移動性は原則として4つの道筋に存在した。教育制度は広く普及し、最貧層の男女でさえ、ラングーンやマンダレーの無料の大学に通う事ができたのである。サンガ(仏教の僧職)は開かれ、男性はその教育制度や大学を通じて身を立て、偉大な名声を残す事ができた。民間の政治組織やNGOは権力に通じる道であった。全ビルマ農民協会、全ビルマ労働者協会、退役軍人、その他の集団が、権力や権威を得るための手段であった。軍人自体は名誉ある職業であったし、勤め口よりも志願者の数がはるかに上回っていた。しかし民間部門では、基本的に外国人が優位であった。女性たちは社会、特に教育や医療関係の職業に目立っていたし、彼女たちはその他の多くの社会には無い法的権利を手にしていた。  50年に及ぶ軍事支配の後の現在との対比は、これ以上ない程までに鮮烈である。あらゆる移動性の道筋が軍部の支配下に置かれてきた。ミャンマー軍が大学に行く人間を決め、サンガは登録され、その教育機関は知的、及び運営上の支配対象となった。民間組織や民間部門はBSPPによって禁じられる、あるいは国家支配の要素となるかのいずれかとなった。ムスリムやクリスチャンが官職及び軍隊の管理職に就く事を認められず、大多数の少数民族もまた同様である中、軍は唯一の権力への道となった。どちらも軍事政権である(1988-2011)国家法秩序回復評議会(SLORC)と後の国家平和発展評議会(SPDC)が、(おそらくは1987年の中国を模範とする)「市民社会」の発展を許可したにせよ、これらの諸集団は事実上、代替的な政治方針に関与する事も、これを支持する事も阻まれていたのである。  東アジアで最も開かれた社会から、ビルマ/ミャンマーは意図的な軍隊式の支配を通じ、ミャンマー軍とその諸機関を「国家内国家」、あるいは国家そのものとさえするような社会になってしまった。最高の教育は軍事組織内にあり、これに反対する者や移動が可能であった者達は、国を離れ、雇用や政治上の憩いを求めて各地へと去って行った。推定では、50万人の教育を受けた人材が去ったとされる。さらにおそらくは、200万人の労働者達がタイへ避難、あるいは単純労働を求める事で、戦争や極度の貧困を逃れたのである。 IV ミャンマーの社会的コンテキストにおける国軍の将来  2011年3月30日の新政府発足にあたり、テイン・セイン大統領は、東南アジアで最も裕福な国であるはずのミャンマーを襲った大きな不幸を公式に認めた。彼は国家を変え、実際に社会の背後に存在するあらゆる局面の改革を試みている。それは容易な事ではない。力が不足している。たとえ改革に貢献するため、亡命中のビルマ人たちが呼び戻されたとしても十分ではない。変革のための正当で自由な発言は、様々な議会や、今、新たに規制の取れたマスコミにも存在する。軍事支配を弱める事に対する外部からの要求は、しばしば単純な言葉で述べられる。それはすなわち、憲法改正によって現役軍人を排除し、大統領を間接選挙で選出する規則を変えよというものである。   軍部のより穏健な役割に関する問題は、そう簡単に解決され得るものではない。なぜなら、多くの人が不適切と感じている憲法条項が軍事的支配の原因なのではなく、それはむしろ、より基本的な問題を反映したものであり、もっと長期的に取り組む以外の方法がないからである。軍部のより穏健な役割に関しては、即席の解決策が存在しない。憲法改正は、もっと基本的な問題を改善するためのアプローチなのである。  多元的な社会秩序の再構築には時間がかかるだろう。それは移動性の道筋を開く事で、国家の性質を変え、さらには軍部が自ら抱く優越感を変える事をも意味している。   実質的には退役軍人によって構成された与党が優位であっても、今や政治は開かれている。市民社会はより自由で、大学は検閲を廃止し、たとえ暗記学習が未だに主流であっても、知的硬直は廃されたのだ。学究生活がよみがえったのである。軍人は今でも望ましい職業であり、これが変わる事はないだろうし、その栄光も挽回されるであろう。軍と民のより近い関係は、互いへの敬意を若干回復する結果になるかもしれない。ミャンマー国軍が民間の政治家達を卑しく、腐敗した、役立たずだと罵ってきたこの数年間には、このような敬意が失われていた。進歩はおそらく今後10年にまたがるであろう。  しかし、問題は残されている。民間部門には公式の金融制度を通じた公的資本が欠けており、中国に独占される結果に終わるかもしれない。中国には事業拡大のために必要な資金を得る別の手段が存在する。この問題に取り組まなくてはならない。なぜならば、もし経済成長が行き詰れば、裕福な少数民族が(再び)国民の不満のスケープゴートとなる可能性があるからだ。  いくつかの比較例がミャンマーに起こり得る変化の道筋を明らかにするだろう。韓国は固定的な階級社会で、1961年から1987年までは軍部に支配されていたが、この国では軍部の権力からの撤退が平和裏に行われ、不平一つ出ないという事態が観察された。これは多様な社会的移動性の道筋が開かれたためであった。タイでは社会にそれ程強い軍事的支配が見られなかったが、これはタイ軍が権力への道を地方での政治や事業に見出してきたためである。インドネシアも、同様の穏やかなプロセスを始動している。これらの各社会では、名声や権力、権威への入り口が、以前は基本的に軍部によって独占されていたが、これが変化して成功への多元的な道筋となったのである。時が経てば、これがミャンマーにも起こるであろう。  皮肉なことに、また、直観に反して、我々はミャンマーがタイよりもはるかに容易く進歩する事を期待してもよいだろう。タイは極めて階級的な社会であり、発達はしているが、成長は停滞気味である。だが、ミャンマーでは、軍人は一般人と同じ出自から出世した者であり、たとえ軍のエリートの息子たち(中国では「幼君」)が陸軍士官学校で一目置かれていようとも、これもまた変わって行く事だろう。つまり、ミャンマーにはタイよりも平等主義的なビルマの権力体系へ移行するための、より大きな機会が存在するのだ。  ミャンマー軍は自分達の権力と権威を持続させるためのシステムを作ってきたが、これは徐々に失われて行く事だろう。これによって大多数のビルマ人たちにはより多くの機会が開かれ、そこには女性のための機会も含まれている。しかし、(民族、宗教の両方の)少数派には多元的な共存がもたらされるべきである。これは発現段階にあるようだが、その実現には、我々がまだ見ぬ政府の意図的な努力が必要となるだろう。 David I. Steinberg 翻訳 吉田千春  Kyoto Review […]

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テインセイン政権の安定と脆弱性

テインセイン政権の安定と脆弱性 なぜ予想できなかったのか?  ミャンマーでは誰もが予想しなかったことが起きている。2011年3月末、1988年から続いていた軍事政権の支配が幕を下ろして、テインセイン前首相が大統領に就任、2008年憲法体制による「文民」政権がはじまった。同政権は矢継ぎ早にいくつもの政治経済改革を打ち出した。民主化勢力との和解も進み、欧米からの制裁も2012年のうちに概ね解除された。驚くべき変化である。なぜ我々はこの変化を予想できなかったのだろうか。  いくつも理由はあるが、ここでは3点の国内政治上の理由を挙げておきたい。まず、多くの観察者はタンシュエ将軍がこれほどスムーズに政界から身を引くとは考えていなかった。1992年から最高指導者の位置にあったタンシュエは、現代では数少ない典型的な独裁者であり、そのリーダーシップの実態は謎に包まれていた。この寡黙な独裁者がミャンマーをどういう国にしたいのか、そのビジョンが見えなかった一方で、自身の権力への執着ははっきりしているように思えた。2011年の政権移譲直後も、タンシュエが背後から糸を引いて政権を操るために国家最高評議会が設立されたのではないかという噂が流れたが、結局現実のものとはならず、今日、テインセイン大統領がその意思決定に際してタンシュエから意見を聞くことはないようだ。  第2に、政権を引き継いで新しい大統領となったテインセインが、大方の予想に反して改革者であった。テインセインは、タンシュエより12歳若い元将軍であり、さらにタンシュエの下で国家平和発展評議会(SPDC)第一書記と首相として同政権を支えてきた。たとえ有能ではあっても、大統領に就任した途端に前政権の政策を根本的に変えるとは考えにくかったわけである。また、心臓に病をかかえており、タンシュエ、マウンエーとともに「民政移管」を機に引退するものと考えられていた。 ところが、期待は裏切られ、世界を驚かせた。知られている限り、大変真面目な人物で、他の将軍たちに比べてクリーンだという。事実、Time誌の取材によると、テインセインはイラワジデルタにある故郷の村に対して、現在にいたるまで格段の利益誘導をしていない。  第3に、アウンサンスーチーと国民民主連盟(NLD)がこれほど急に政権への協力姿勢を示すとは考えられなかった。20年ぶりの総選挙を目の前にした2010年4月29日、NLDが発表した「シュエゴンダイン宣言」では、軍事政権に、①NLDの党員を含むすべての政治囚の無条件解放、②2008年憲法のうち非民主的な条項の修正、③包括的で自由かつ公平な総選挙の、国際的な監視下における実施、の3つを求めた。当時、この要求は多くの観察者には無謀に思えたし、現に軍事政権は彼らの要求には耳を貸さずに選挙を実施した。ところが、テインセインの積極的な和解への働きかけと、アウンサンスーチーの歩み寄りが、極めて短期的に長年の政治対立を融解させた。  すでに明らかなように、今起きているミャンマーの変化は、政府と民主化勢力の指導者の間の合意と、両者が持つ自身の勢力への強い指導力が原動力になって起きている。したがって、我々はこの変化を市民社会の勝利とみなすべきではない。2007年のいわゆるサフラン革命と、それへの国軍による弾圧が示しているように、軍事政権は社会に自ら歩み寄る必要はなかった。財政についても、決して豊かではないが、天然ガス輸出によって比較的安定していた。また、エリートの間の対立が引き起こした変化でもない。もちろん、一枚岩の政治指導層は世の中に存在しないので、強靭に見えたミャンマーの指導層にも亀裂はかつて存在した。例えば、野戦将校たちと情報部所属の将校たちの間の対立だ。しかしそれが体制移行の引き金になったわけではなかった。  ミャンマーの今回の移行がなのは、指導層の世代交代がきっかけとなって、上からの政策レジーム転換を引き起こしたという点だ。テインセインの矢継ぎ早の改革を見る限り、大統領となった途端、彼の頭のなかに突然改革のアイデアが溢れだしたようには思えない。かつて大統領の最有力候補だと言われたシュエマン下院議長の改革志向についても、新しい政治環境のなかで突然生まれたものとは考えにくい。おそらく、現在の改革派の多くは、タンシュエに表面上は従いながらも、お互い明示しないまま、改革志向を共有してきたのだろう。それが指導者の世代交代で突然、政策的選択肢として浮上したものだと思われる。  膨らんでいく期待  ミャンマーは今、世界から大きな期待を集めている。それはひとつには民主化に向けての期待、もうひとつは経済発展への期待だ。かつて、この国は期待どころか悪評の的だった。1993年の国連総会演説で当時のビル・クリントン米国大統領が今後の外国政策の指針として「民主主義の拡大」(democratic enlargement)を表明して以降、非民主的な国の批判は米国外交のひとつの特徴であり、ミャンマーの軍事政権はその格好のターゲットであった。ブッシュ政権時代には「圧政の拠点」(outpost of tyranny)という不名誉な呼称までミャンマーはいただいている。制裁も段階的に強化されてきた。しかし、1988年の軍事クーデターから20年以上経っても、軍事政権は崩壊しそうにはなかった。ミャンマーの経済発展の機会を奪うという意味では米国とEUの制裁は成功したが、民主化という目的には制裁は必ずしも有効であったようには思えない。  そうした制裁の限界に気づいた米国も、オバマ政権になって対ミャンマー政策の転換(再関与)を打ち出していた。おそらく偶然、欧米の政策転換と同じタイミングでミャンマーの指導者が交代した。この「タイミング」という要素が重要である。そして、その機を逃さず、ミャンマー政府は欧米からの制裁をわずか2年で実質的な解除にまでもっていった。アジアの小国がこの短期間で米国とEUの外交政策を変えさせたのだから驚くべきことだ。この外交的成功はもちろんテインセイン大統領の強い改革への意思によるものでもあるが、それ以上に、アウンサンスーチーの国際的な注目度の高さが大きく寄与した。ミャンマーは経済規模も小さく、世界経済との相互依存もそれほど深くないため、従来の欧米の対ミャンマー政策は、アウンサンスーチーの処遇が決定的な要因となって、彼女が自宅軟禁に置かれる度に強化されてきた。幸いなことに、この偏った欧米の外交姿勢が、今回は逆の方向に強く働いた。アウンサンスーチーが欧米に対して経済制裁の解除を訴えたことが効果的なメッセージとなり、最終的にはミャンマーの外交的成功を呼び込んだ。2012年4月に補欠選挙で当選したアウンサンスーチーは議員就任後、積極的にテインセイン大統領の外交に協力し、政権の改革を宣伝するスポークスマンとなった。そして、同じタイミングでアジア太平洋に外交政策の焦点を移しかった米国との間に取引が成立したわけである。  この外交的成功によって、大きな期待が国内的にも国際的にも呼び起こされることになった。ただし、やや期待は大きすぎるように見える。1962年から約50年の軍事政権を経験し、現在も東南アジアで経済水準が最低レベルにある国が、そう簡単に安定した民主主義と奇跡的な経済発展を成し遂げることはないだろう。高まる世界の期待は2015年総選挙への注目を否が応にも高めている。言うまでもなく、2年後の選挙について語るのは、今は早すぎる。ただ言えるのは、同じ東南アジアで先行して民主化した国(タイ、フィリピン、インドネシア、カンボジア)を見ればわかるように、民主化の過程ではどこもいろいろと苦労しているということだ。カンボジアを除いた3カ国は、民主化以前の体制がミャンマーよりも相対的にはリベラルだったし、国家の安定性はこれも相対的だが高かった。ほとんど兵営国家と言ってよいようなミャンマーの軍事政権がそう簡単に民主化できるとは思えない。政治発展は決して単線的ではないので、過剰な期待は禁物だ。  本当に民主化するのか?  ミャンマーの政治経済改革は、大変微妙な政治的均衡の上で起きている。権力構造は大きくいって3つの層から成り立っている。まず、テインセイン大統領の強力な指導力あり、その周囲を元将軍たちが大臣として支えている。ここまでは従来の軍事政権から連続した側面である。次が、与党である連邦発展団結党(USDP)である。この政党には実業家や元公務員など、多くの民間人が在籍しているが、基本的には大統領を支持する勢力であり、大統領の指導力を安定させながら一定程度の政治的多元性を保証する。議員の4分の1は国軍司令官が指名する議員で、国軍の影響力が維持されるよう憲法上規定されているし、USDPは軍政時代の大衆動員組織を母体としていて実質的に大統領と国軍の強い影響下にある。憲法改正の要件は議員の4分の3以上の賛成だから、軍人議席の存在が民主化のための憲法改正を防ぐ点では有効である。そして、第3の層に民主化勢力がいる。すべての野党は、議席の点では少数勢力であり、立法過程において大勢には影響しないし、大統領は彼らの存在を通して欧米に政治体制の政治的包括性を示すことができる。これから次の選挙までの安定はある程度保証されていると言ってよい。  だが、いくつかの他の要素を考慮に入れたとき、現在のテインセインの指導力が実に微妙な均衡の上に成り立っていることがわかる。大統領の指導力を維持する制度的な仕組みが安定しているのに比べて、体制そのものを維持するメカニズムが脆弱だからである。2008年憲法はスハルト時代のインドネシア憲法をモデルにしている。そのモデルとなったスハルト体制では、軍人議席、大統領の強い権限、与党ゴルカルの支配的な役割、選挙制度の与党有利な運用に至るまで、スハルトの独裁が続くように実に巧みに設計されていたが、ミャンマーではその仕組が確立されていない。USDPはかなり急づくりの寄り合い所帯で、党の団結を支える議員の忠誠度は決して高くない。  選挙についても、現在の国際環境では政府の選挙への露骨な介入は間違いなく国際的な非難を呼び起こす。また、情報技術の発展と検閲の廃止が、ミャンマーの政治過程に透明性を与えており、政府が選挙での不正を秘密裏に実行することはほとんど不可能だ。さらに、これにアウンサンスーチーの並外れた人気が加わる。NLDは組織としてはまだまだ弱いが、アウンサンスーチーのカリスマだけでNLDは選挙で勝てる力を持っている。それは2011年4月の補欠選挙で首都ネーピードーで争われた4つの議席すべてをNLDが獲得したことが明確に示している。なぜなら、ネーピードーの住民のほとんどは公務員とその家族で、彼らは与党を支持するものだと政権側は想定していたのが、選挙結果はその想定をまったく裏切るものだったからだ。  2015年の総選挙までに、この脆弱さをテインセインとUSDPが克服できるのか、あるいはNLDが一気に政権を乗っ取るのか、あるいは両者の間に政治的取引が成立するのか。これから3年間の政治動向は今後のミャンマーの民主化と経済発展を占う上で非常に重要なものとなるだろう。 中西嘉宏 Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University 翻訳 吉田千春 Kyoto Review of Southeast Asia. Issue […]

Issue 14 Sept. 2014

変貌するミャンマーの「三つの不安に関する展望」

変貌するミャンマーの「三つの不安に関する展望」  ミャンマーの過去三年間の変化は、実に目のくらむようなものであった。この三年間の事態の展開をざっと見れば、この国の変遷の真偽に疑念を抱く者を、誰でも説得する事ができるだろう。しかし問題は、この変遷がどこへ向かっているのか、そしてこの変遷をどのように理解する事が最良であるかという点だ。 ミャンマーへの訪問後、二人の世界のトップレベルの民主化研究者であるThomas CarothersとLarry Diamondは、似たような結論に至った。すなわち、ネピドーの「民主主義」の目標、定義と手段は、代議政治の本質と相容れぬものであるという事だ。Carothersはミャンマーの諸改革を、暴力に満ちたアラブの春の十年前に、アラブ指導部が行ったトップダウン式の諸改革に喩えている。彼自身の言葉によると、「アラブ諸政府が講じた手段は、民主化のための改革ではなく、むしろ慎重に制限された取り組みであり、国民の政権に対する不満を緩和させる事で、真の民主化の可能性を確実に阻止するために考え出されたものであった」。 Diamondはさらに率直であった。「思うに、この推移はまだ極めて初期の段階にあり、現時点で何をしても選挙制民主主義がこの結果として生じるのか、故意の結果なのかは判然としない」。 しかしなぜ国際社会は、退役・現役の将校たちに寄り添い、国民や改革、民主主義への移行という名目で、ネピドーに何億ドルにも相当する「包括的援助」を惜しみなく与えるのか。これら世界からの改革主義者たちへの称賛の言葉や支援が、同時にロヒンギャ族の民族浄化や人道犯罪、「ネオ・ナチ仏教運動」による反ムスリムの集団暴行、カチン紛争の難民急増、そして広く報じられるネピドーの共謀と罪を大きくしているのではないのだろうか。 率直な答えは「グローバル資本主義」である。ミャンマーの将校たちは、外部の援助で、国家の不振にあえぐ政治経済を自由市場路線に沿って変革する事を、新興の利潤性の高いフロンティア経済へのアクセスと引き換えに合意したのである。しかし特筆すべき事実は、自由主義西洋的ミャンマーの全面再起は、所々にわずかな譲歩がある事よりも、ネピドーの存続期間に大きく依存しているという事である。  事実、典型的なグローバル資本家たちの目から見たミャンマーは、何よりも「資源の売春宿」であり、最も活気ある「フロンティア市場」であり、興亡する大国の永遠に続くかのようなゲームにおける、銘々の「大戦略」の戦略基軸なのである。「市場」及び「資源と労働力の源」としての人間社会という見方は、地球上の土地と資源と労働力を有する全ての国にとって、何百年も前に科学技術によって大規模な資本主義的変革が引き起こされて以来、むしろ根強い見方となっている。 ネピドーでの2013年6月の世界経済フォーラムにまで話を進めよう。これはエリート主導の「民主主義」、巧みな「市民社会」、社会的責任のある企業が支える「自由市場」についてのものであった。だが基本的に、ミャンマーに対する国際政策は、世界にほとんど残されていない最後のフロンティア市場の一つから、最大の利益を引き出すために考えられたものである。ちなみに、もう一つのフロンティア市場は北朝鮮である。 今年6月には、マデレーン・オルブライト元米国務長官が、ヤンゴンの式典でコーラを直接大きなペットボトルから飲む姿が見られた。ヤンゴンは彼女のコンサルタント会社、オルブライト・ストーンブリッジの法人顧客の一つであるコカ・コーラが、ミャンマーで最初にボトリング工場を創業した場所である。全米民主研究所の議長であるオルブライトがミャンマーにいた事については、民主主義や異なる宗教の並立を推進し、さらには「これまで一口も飲んだことのない人」にコーラの正しい飲み方を伝えるためであったと報じられた。しかし、これはアメリカ人に限られた事ではない。 ロヒンギャ族やその他ムスリムたちに対するポグロムが展開され、さらには当局の上層部がこれに連座していた事が確認される中、イスラム国家のカタールは一切ためらいもせず、数十億ドル規模のミャンマーにおける電気通信契約をノルウェーと共同で獲得し、これに応じたのである。実にオスロの公式和平調停の関係者たちが、2012年ノーベル平和賞候補であったテイン・セイン大統領から、国営テレノールにかなり利潤の高い電話契約を取り付けたその一方では、カチン族、カレン族、シャン族、カレンニ族とモン族が、なおもオスロの和平調停の良き結果を待っていたのである。 平和の前に電話を!平和のためにテレノールを! もしカール・マルクスが生きていれば、彼はミャンマーが経験している一連の変化、即ち、蔓延する土地の争奪、その結果としての経済転換、ワーキングプア、ひどい労働条件、強制移住、暴力的対立、技術輸入、新様式や新たなラインの製品づくり、資本注入、巨大開発計画などについて、彼が「本源的蓄積」と呼んだ非情なプロセスを通じた収益性の低い現金主義経済と定義した事であろう。 ここで提案するのは、ミャンマーに対する新たな解釈の方法であり、ミャンマー研究が東洋学者たちになおざりにされてきた理由を批判的に考察するものである。また、東南アジア研究のためにVictor Liebermanが論じてきたブローデル的アプローチの再検討と更新を行う。 我々は唯一最も重大で進行中の世界的なプロセス、つまりはフロンティア市場としてのミャンマーの資本主義的変遷に焦点を絞る必要がある。なぜなら、このプロセスこそは、他のどの要素よりも、我々の研究対象となる国民や我々の研究そのものの両方に影響を及ぼすものであるからだ。この目のくらむような変化の数々を、最も経験的に検証、説明するのに相応しいと思われる展望は、ここで「三つの不安に関する展望」と名付けられた安全に関する展望であり、つまりは(従来的な)国家的不安、世界的不安、そして人間的不安の事である。 第一に国家的不安とは、単刀直入に言うと、国民国家に対する恒久的な危機感を指す。最もあからさまには「政権の存続」ついての不安である。第二に世界的不安とは、世界の経済や政治の秩序に対する一般的な不安感や無防備感と定義される。したがって、これは世界の政治経済を構成する国民国家の安全の上に成り立つものである。最後に第三の人間的不安とは、「国家や国境の安全とは対照的な、個人や人々の暮らす社会の安全」の欠如を指す。 一言で言うと、提案した「三つの不安に関する展望」は、冷戦終結以来、一般にグローバル化と呼ばれるプロセスの中で、グローバル資本主義が共同体や自然環境、国家政治経済を一つの全体的な総体と成した事について論じるものである。ここで、この安全に関する三つのディスコースが、政策の決定やその実践における優位をめぐって競合する。規定に基づく予測可能な国際秩序を語る一方で、全ての国民国家が戦争のような不測の事態に備えている。内外の大きな危機感に駆られ、アメリカまでもが同盟国や市民、ライバルたちを等しくスパイしている事が、最近のPRISMスキャンダルにも示されている。 これら三つの全てが必ずしも相互排他的であるとは限らないが、難民、国内避難民や失業者などの脆弱性問題は、概して政策の後回しとなる。人々やコミュニティの安全と福利は文字通り、そして比喩的にも、ないがしろにされている。特に、他の二つの国家と世界の不安政体が一丸となって戦略的打算や政治的便宜のために排他的共生関係を形成する場合はそうなる。国家、企業、多国籍機関や国際金融機関の政策や実践が、周辺社会や不特定個人および、その自然居住環境や生計手段へのアクセス、安全、移転や結社の自由などに対し、集合的に損害を与える一因となっているという話をしばしば目にする理由はこれである。 私は提案した「三つの不安に関する展望」が、ミャンマーの国務(やその他の類似した「国家」の事例)を最も良く説明し、この国の客観的に立証し得る現実を反映するものである事を確信している。これはまた、ミャンマーの研究とその内政の両方を、この国が「フロンティア市場」として経験している唯一最も重大なプロセスである資本主義的変遷のコンテキストの中に位置づけるものである。 この不安のプリズムを通して見ると、この国のトップダウン式の民主主義改革は、ミャンマーの民主化というよりも、主として、ミャンマーの国家支配層であるエリートが、グローバリストの資本家勢力とエリート協定を結ぶためのものであり、同時に彼らは独自の社会階級、つまりは軍部の縁故資本主義者へと変貌してゆく。この協定では、国民たちが熱望されたフロンティア市場を開放する事と引き換えに、資本や世界市場、技術に対するノーマライゼーションや受容、適法性やこれらへのアクセスが与えられる。ネピドーはこの国で最も有力な利害関係者である軍部や国家の不安政体にとって望ましく、有利な条件で国を開放している。このプロセスの中では、この国で最も有力な政治家であり、世界的象徴でもあるアウンサンスーチーでさえ、もはやその台本や背景、歌の旋律を操る事もできないグローバル資本主義の舞台に立たされている事に気が付くのである。 今なお進行中であるロヒンギャ族のムスリムに対する民族浄化の事例は、それ自体が三つの不安に関する展望の経験的テスト・ケースとして現れた。悲惨な貧困が広がるにもかかわらず、ラカイン州ではロヒンギャ族が仏教徒のラカイン族と共に暮らしていた。しかし最近では、相次ぐ集団暴行によってこの州が知られるようになった。この地域はミャンマーの新興資本主義経済にとって、戦略的で利潤性の高い地域となったのだ。ここには戦略上重要な深い湾港や農産業の可能性がある肥沃な農地、漁業、数十億ドル規模の経済特区や中国のガスと石油の二重パイプラインの起点がある。 1971年の東西パキスタンの内戦では、西パキスタンの将軍であるTikkaが、軍隊に冷淡な命令を下した。「私の狙いは土地であり、国民ではない」 。やはり冷淡な話で、今度はミャンマー西部であるが、ミャンマーの国家安全政体は、単に土地を再獲得しただけで、そこに(ロヒンギャ族の)国民は含まれていなかったのかもしれない。 ミャンマーの変遷を、この三つの不安に関する展望のもつれた網の中に正しく位置付けない限り、この改革や変化、そして民主化に対する我々の理解は、ネピドーの国家的不安政体や世界的不安政体の資本主義者たちに幇助された民主化に劣らず、生半可なままとなるだろう。 Maung Zarni博士 マラヤ大学 準研究員 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス 客員研究員 翻訳 吉田千春 Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 14 (September […]

Issue 14 Sept. 2014

ミャンマー版グラスノスチの再評価

ミャンマー版グラスノスチの再評価  2011年にミャンマーのテイン・セイン大統領によって政治、経済の全面的な改革が導入された事は、2010年の総選挙後に、ミャンマー政府の公約した改革に疑念を抱いていた世界の多くの観測筋を驚かせた。当初、コメンテーターやアナリストたちの多くが懐疑的であったが、政権のイニシアティブの度合いや規模を無視する事は出来なかった。新たな国内法が社会生活や政治生活の特定分野で国家の存在を縮小させ始めていたからである。外交関係が新たな海外のパートナーとの間に結ばれ、投資関連の新たな法律によって海外の企業や資金提供機関がミャンマーに参入できるようになった。このミャンマー政府の全面的な変容は、しばしば、ミャンマーの開放と呼ばれ、多くの人々を仰天させる事となった。ほとんどの人が、このような変化が軍事当局によって構想、展開、施行された文民政権の内に生じる事を予期していなかったためである。中には、自分達がミャンマーで目の当たりにしているものが、冷戦末期のソビエト連邦のグラスノスチ(公開性)や、その変容を特徴づけたプロセスに類似しているのではないかと考える者たちもいた。 冷戦モデルとミャンマーの開放  冷戦後のパラダイムとそのミャンマーへの適用は、通常認識されているよりも、はるか以前に始まっていた。1980年代後期と1990年代前期に起きた民衆の民主主義蜂起が、以前のネ・ウィンの軍事社会主義政権を挿げ替えるだろうという予想は、間違いなく東欧での人民運動や、フィリピンや韓国での「ピープル・パワー」の表出などから生じたものである。冷戦期のドミノ理論のように、自由民主主義が有機的に権威主義的体制を置き換えるであろうという新たな予想が有力な喩えとなった。 ミャンマー国内での出来事は、民主主義の理想や人権、選挙、そして自由民主主義的制度などのコンテキストの中で解釈されてきた。これらのもたらした言葉と視座の両方によって、変化や連続性が判断されてきたのである。その結果、ミャンマーの過去26年間の政治史は、冷戦後の物語の枠組みを通じて理解され、SLORC/SPDC政府と、2011年から2013年にネピドーが着手した改革との間に歴史的な分断を生じる事となった。  テイン・セイン大統領の対内的、対外的な諸改革は、ミハイル・ゴルバチョフ政権下のソビエト連邦における「急激な」変革との比較を呼び起す。テイン・セインをゴルバチョフに結び付ける事は、彼の改革計画の成功が、大いに彼の人格や政治的意志に依るとの印象を生む事にもなった。この見方は我々の注意をテイン・セイン政権発足の素地となったより広範なプロセスよりも、特定個人の活動に止めるものである。特にマスコミは、ミャンマーの政変をアウンサンスーチーなど、政治的、社会的変革の思想そのものの象徴となった特定個人と結び付けてきた。テイン・セイン大統領を変革の大立者として印象付ける事で、観測筋はこの図式を少し複雑にしたかもしれないが、彼らはその他にもさまざまな利害関係者や勢力、派閥が国家をめぐって競合してきた事を見過ごしている。  より広範なプロセスにおける軍部の役割が、公の場で弱まり始めたのは、政府の文民的アイデンティティがさらに顕著となったためである。事実、現政権が以前の軍事政権と距離を置くことで、西洋諸国がミャンマーとの関係を再構築できるようにした事は極めて重要であった。2011年末には、西洋諸国の何カ国かがASEANやその他の地域提携に加わり、ミャンマー政府の政治構造の自由化、民族分離主義勢力との和平交渉、政治的和解の促進、世界市場に向けた経済再統合などの努力を公然と評価した。アウンサンスーチーが自宅軟禁から解放され、ついに2012年4月には選出されて議員となった事、さらにはバラク・オバマ大統領の画期的な訪問などといった出来事を受け、かつての誹謗者たちの多くは、テイン・セイン政権の改革を公に支持するようになった。ミャンマー当局を長年批判し続けていた国際メディアもこれに倣い、かつての「ならず者」軍事国家をより肯定的な観点から報じ、その文民政権や改革主義の大統領の努力を強調するようになったのである。  2013年初頭には、ミャンマーがその内部や上部から開かれる事は明らかであったが、忌まわしい制裁措置がこの変革の動機になったのではないかという事が、相変わらず囁かれ続けていた。ともあれ、1990年代初頭に西洋から課されていた経済制裁の大半が解除された事は、あらゆる異種分野の投資家たちが、次々とミャンマーの膨大な資源、熟練労働者や市場に進出して行く機会を生み出す事となった。「ミャンマー熱」を更に高めたものは、政府高官らの世界歴訪の旅であり、それにはテイン・セインやアウンサンスーチーの東アジアやヨーロッパ、アメリカへの訪問などがあった。アウンサンスーチーが(10年の自宅軟禁の後に)遂にノーベル平和賞を受賞し、また後にはワシントンD.C.で議会名誉勲章を受け取った映像は、彼女の経験を通じてのみ、ミャンマーを理解していた多くの者たちに、ミャンマー近代史の長い一章がようやく、ページをめくられた事を告げるのであった。  閉ざされた爪弾き国家から、新興のより開かれた民主主義へ、ミャンマーに対するこの認識の変化は、批判なしに実現するものではなかった。積年の敵対者である軍事政権や亡命政府、支援団体などは、依然として、これらの変革に表面的であるとのレッテルを貼っている。民主主義の活動家たちは、憲法が軍部に国会で25パーセントの議席保有を保証している事が、体制に内在する欠陥を示すと指摘する。政府高官は公共、民間の両部門に見られる派閥争いや個人的な利害関係が、これらの改革を実施する上での脅威である事をすんなりと認めている。貧弱なインフラは財務不正と経済制裁が組み合わさって生じたものであるが、これは政府に重要な変革の多くを、特に人口の70パーセントを占める農村で遂行できるだけの力量が不足している事を際立たせている。民族対立やコミュニティの暴力(これらはどちらも、ミャンマーの社会政治史の長年の特徴である)は、ネピドーによって始められた改革プロセスの背後にあるダイナミクスを複雑にし続けている。   海外の支援団体やマスコミ連中の中には、テイン・セインの全面的な改革計画や、政府の民主主義的な変革に対する公約全体の見通しを、ラカイン州における特定の移民問題、特に国内のムスリム・コミュニティや、いわゆるロヒンギャ族への暴力に関する問題への対応によって評価しようとする者達もいる。評論家たちは、政府の広範な改革案(これもまた、貧困緩和や経済投資、医療、教育やインフラ整備に重点的に取り組むためのものである)の実行可能性を、アイデンティティの政治に関する特殊で歴史的に複雑な問題に結びつけている(これを解決するには何世代もかかるだろう)。改革プロセスの成功を政府の民族/コミュニティの緊張関係の解決能力に結びつける事は、現地の複雑なダイナミクスをあまりに単純化しすぎるものであるが、活動家たちはラカイン州やカチン州、カレン州などの異なったコミュニティが、ミャンマーの行く末について、しばしば別の考えを持ち、それらがネピドーやヤンゴン、あるいはマンダレーの意向に一致するとは限らないという事実を浮き彫りにしている。世界企業が「新生ミャンマー」に大々的な投資を行う中、当局は慎重に物事を進め、これらの紛争地帯での秩序を回復する一方で、節度ある民主政治を維持する必要があった。  2011年以降、ミャンマー政府に対する一般的な認識は変わったかもしれないが、その内政の国際化は未だに進んでいない。国内のダイナミクスについては世界中で議論が続くが、それらは大抵が地域の状況にとって有利でもなく、意味もないものである。冷戦後のパースペクティブが影響を及ぼし続けているが故に、発展は地域の状況から切り離されたままとなり、かえって様々な疑問が提議される事となった。ミャンマー版グラスノスチの特徴である「衝撃的な」「突然の」変革は、往々にして1987年よりも、むしろ2010年のコンテキストで評価されている。これはネ・ウィンが初めてこの国の社会主義政策の失敗と、国家経済の国際市場に向けた再統合の必要性を認めた年であった。 近年の改革の素地となったパースペクティブを拡大し、我々の判断に今なお影響を与える冷戦期のパラダイムと距離を置く事によって、時事に対するより複雑な見解がもたらされるであろう。 長期改革 1987-2013  ミャンマーの現代史に対する標準的な理解は、しばしば次のような出来事やイメージを中心に構築されることが多い。すなわち、それらは1988年の学生暴動、1990年の選挙、アウンサンスーチーの役割、少数民族の強制移住、いわゆるサフラン革命、サイクロン「ナルギス」、そして2010年の「欠陥ある」選挙などである。主流メディアや活動家、政府や学者達の議論の大半が、このような談話的要素に基づき、過去数十年間を脆弱な民主主義運動と強大な軍事独裁政権の闘争として描いてきたのである。冷戦末期の状況や東欧その他のアジア地域での政治的変遷に当てはめると、ミャンマーの民主主義の経験は、できるだけ長く権力にしがみ付こうと努めた独裁政権のために行き詰ったかと思われていた。この過去数十年間の見解もあり、2011年に導入された諸改革が実に大変「衝撃的な」ものと見えたのは、国内の統合と再建のプロセスに対するなけなしの配慮が、改革主義政府の出現に向けられたためであった。  しかし、これと同じ期間を「長期改革」期と捉える事もできる。これは政府が憲法起草のための憲法制定会議を召集したこと、憲法を批准する国民投票を行い、総選挙を行い、ついには政権を発足させ、またその他の法定機関を組織したことによって裏付けられる。七段階から成る「規律ある民主主義のためのロードマップ」は、2003年に公式に発表されたものであるが、そこにはこの各段階がより大きな青写真の一部である事、この青写真が直接、2011年に現れた政府を形作った事が述べられていた。だが、これらの下準備を真に受けた者はほとんどいなかったのである。制裁がミャンマーを西洋の経済や市場から孤立させていた時期(これはちょうどミャンマーが経済の方向転換を望んでいた時にあたる)、軍事当局はむしろ、ASEANや東アジア、中東内での地域提携に頼っていた。 最も重要な事は、国内の状況の中で、この20年期が1948年以来、多角的かつ敵対的な内戦を戦い続けてきた民族分離主義者達との間に、17の停戦合意を確立した時期でもあった事だ。後の2012年には、カレン民族同盟やその軍事組織のいくつかとの間に重要な合意を通じた和解の区切りが打たれ、アジアにおける最古の反政府運動の一つが終結する事となった。この点で、1987年から2013年の時代を、50年近く続いた長い内戦の末に、和解と再建、改革がついに実った困難で起伏ある時代と捉えることができる。 結論  近年のミャンマーの改革に関する評価の多くは、直接間接を問わず、これを冷戦の終結を告げたグラスノスチに結び付けるものであった。このパースペクティブは、ミャンマーでの出来事を世界の別の地域のプロセスに結びつける上では有効であるが、そのために地域的なパターンや優先事項に対する理解が犠牲になっている。SLORC/SPDCのイニシアティブから概念的な断絶を図ってきたテイン・セイン政権の手法は、我々が現在目にしている喜ばしい改革が、かつての軍事政権の長期改革計画に端を発するという不愉快な事実を曖昧にしている。現に、しばしば批判された「民主主義へのロードマップ」がついに履行されたが、これが現在の変革を称賛している当の政権から疑問視されていた事はお構いなしであった。ミャンマーの開放に対する冷戦後のアプローチは、最近、中西嘉宏が論じたように、重要な連続性を見落としているのかもしれない。民と軍の混成政権の成立は、過去からの唐突な決別ではなく、軍部エリートの安定や地位確保のために講じられた体制の継続だったのではないか、と中西は語る。 強硬論者たちが改革プロセスを「覆す」恐れは、根拠のないものであろう‐‐‐軍部は最初からこの改革の一部であり、これに投資してきたのである。 准教授 Maitrii Aung-Thwin博士 シンガポール国立大学 史学科 翻訳 吉田千春 Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 14 (September 2013). Myanmar  

Issue 14 Sept. 2014

ミャンマーにおける農業改革の最優先化

 ミャンマーの農業部門を長い間抑えてきたものは、政府の貧弱で押し付けがましい政策決定や、慢性的な信用不足、不十分で老巧化したインフラ、確固とした土地所有権や財産権の欠如であった。これらの障害がミャンマーの豊富な天然資源や農業の計り知れぬ可能性の前に立ちはだかり、長年、この国の(大多数である)農村部の住民たちの生活を特徴づける極度の貧困をもたらしてきたのである。  テイン・セイン政権の下では、ミャンマーの農業部門改革に関する多くの対話が行われてきた。「国民ワークショップ」は、ミャンマーの経済改革譚の目玉であるが、この第一回は農業をテーマとするものであった。このワークショップでは多くの提案が出されたが、それらは主に農村部のインフラの改善、手頃な投入財の利用を可能にする事、信用枠の拡大(主として小規模金融)などを通じた生産性の向上に関する提案であった。その後に開催された他の農業関連の会合の多くが、多角的機関や開発庁、(特に)海外の潜在的投資家たちに支援されたものであったが、そこでもやはり似たようなテーマが取り上げられてきた。 停滞する改革  それにもかかわらず、またこのレトリックが人目を引くにもかかわらず、実際にミャンマーの農業部門で実施された改革の実績は、未だに微々たるものである。ミャンマーの農業を包括的に変革する事が急務であるが、まずは農業部門を悩ませ続ける市場の歪みを取り除く事から始めなくてはならない。このコンテキストに顕著な事は、数多の生産管理や輸出規制、調達規則などであり、これらは中央政府から公式的に自粛させられてはいるが、先の軍事政権の名残として相変わらず存在している。近年の豆類の輸出国としてのミャンマーの成功は(ミャンマーは現在、世界最大の豆類輸出国の一つである)、この国の農民や貿易業者たちがマーケットシグナルに積極的に反応する事ができる事を示している。豆類の貿易は10年前に自由化されたが、これとは対照的に、その他のほとんどの商品には常に国家干渉の影響が存在する。  貿易に関する規制や制限を撤廃する事は必要であるが、それだけではミャンマーの悪化した農業部門の再生には不十分であろう。 ミャンマーの旧軍事政権の下、農村地域は常になおざりにされてきた。その結果、地方のインフラは危機的な状況に置かれ、多くの村落には国営市場(地域の市場にさえ)につながる利用可能な道が存在しない。肥料も多くの場所では入手不可能で、灌漑システムは沈泥に塞がれ、種や農薬、ポンプやその他の器具もほとんど無く、大方の燃料類は大抵が予算的に手の届かぬものとなっている。市場開放はこのような弊害のいくつかを解決するであろう。しかし、短中期的にミャンマーの農業部門に必要なものは、十分な公共支出や投資であり、これらは特に道路や橋、灌漑、発電や流通、また環境・資源の管理システムなどに対するものである。 求められる一層の改革とイニシアティブ  以下に簡潔にまとめたのは、ミャンマーの農業変革に必要ないくつかの対策である。これらは、ミャンマー経済をより広く変革するのに必要な対策と一致し、かつ「国際的ベストプラクティス」と考えられるものとも同義である。現在、この国では多くの機関(世界銀行やアメリカ合衆国国際開発庁(USAID)、様々な国連機関も含む)がこれを推進している。  ・ミャンマーの輸出許可制の廃止。 目下、これがミャンマーの農民の生産市場を人為的に規制し、その販売オプションを制限して出荷価格を押し下げている。世界市場に向けた生産には、より高品質な米の生産に対するインセンティブの強化という効果もある。このような米の価格は、現在ミャンマーがアフリカやその他の限られた範囲の海外市場へ輸出している砕け米の類に比べると、相当高価なものである。  ・いまだに存在する国内の米の取引・販売に対する地理的制約を解除すること。これらの制約は、ミャンマーの農民が生産物を不足地域(価格が高い地域)へ出荷販売する事や、取引の利益を広く享受する事を否定するものである。つまり、これらがミャンマーをいくつもの小さな市場へと分割し、価格を上下させて食糧安保を不安定にしているのだ。ミャンマーの農作物に対するこれらの制約を国内取引において解除する事は、有意義な改革の「手の届く成果」の一つとしては十分なものとなろう。  ・ミャンマーの農民に完全な「生産権」を付与する事。何十年もの間、ミャンマーの農民は各地域の条件もかえりみず、特定の作物(主には米)を生産するように仕向けられてきた。これが影響して生産量は減少し、農民の収入が低下する事となった。自分達で自由に「何を、どのように、いつ」生産するかを決める事ができれば、ミャンマーの農民は収穫率の高い作物を生産し、地元の条件に合う作業(例えば、園芸、小規模畜産、漁業などに多様化する)に移行する事が可能となるだろう。ベトナム(ミャンマーに関連する一規範として挙げたに過ぎない)では、このような「生産権」の付与が、ベトナムが世界的に重要な食物生産国として立ち現れる背後にあった唯一最も重要な政策であった。  ・市場知識の普及。世界の農業に最大の変化を与えた革新の一つは、携帯電話の利用拡大によって生じ、また、これによって市場情報へのアクセスも可能となった。この変化を容易に見る事のできるアフリカでは、農民やその他の人々が、異なる商業地域の市場価格を比較し、それに合わせて商品を供給できる力に、この変化が単純ながらも強く現れた。ミャンマーの通信分野の改革は現在進行中であるが、その成果はいまだに不明なままである。  ・有利な為替レートと輸入政策の実施。「マクロ経済の」要因の一つで、ミャンマーの農民の収入に重大な影響を及ぼし得るものが為替レートである。 昨年の喜ばしい動きの中で、ミャンマー政府はミャンマーのチャットを「管理フロート」制に変更したが、堅調な資本移動や資源収益のため、このレートは大きく値上がりした(1米ドルに対して850チャットにまで上がった)。その結果、ミャンマーの農民のあらゆる外貨収入が二通りの方法で減らされる事となった。第一にこの事で、ミャンマーの第一次輸出の価格がさらに値上がりし、他の供給者たち(特にその他の東南アジアで積極的に為替レートを低く保つ国の供給者たち)に対する競争力が弱まってしまった。第二に商品が米ドルで値段を付けられ、支払われるために、輸出収入をひとたび持ち帰れば、農民のチャット収益は減る事になる。無論、一定の為替レートを注意深く管理して定める必要はあるが、少なくとも、幅広い政策を策定する事によって、ミャンマーの競争力を強化するような為替レートを支える事もできるだろう。  また、必要な改革を実施して、ミャンマーの輸入許可制の自由化を図らねばならない。そのような動きは「必然的に」チャットの価値を下げ、同時に、ミャンマーの生産者や消費者たちが、より安価で完成度の高い商品(資本財及び消費財)や生産的資材を利用する機会をさらにもたらす事であろう。  ・農業保険の奨励。他の多くの国々では、法外な価格や生産高の減少に(また自然災害に)備え、農業保険制度によって農民の収入が保護されている。 これに関して特に有用なものは、いわゆるインデックス・ベースの保険契約である。これらの制度では、ある特定地域の収穫高が、長期的平均によって定められた値(あるいは、その他の適切な基準)を下回る場合、農民たちに損害賠償が支払われる。このようなタイプの保険制度の実用性としては、シンプルさ(例えば、農場ごとの査定を必要としないこと)や透明性(データは公開され、直接届けられる)がある。このような制度は、アメリカやインド、カナダ、モンゴル、その他の一定の国々で実施されており、世界銀行が特に好む制度でもある。自ずと政策選択は、このような保険に課された保険料に政府がどの程度の助成金を出すかという点になる。このような保険を適用する多くの国は、実に十分な助成金を提供しているのだ(これらの助成金には、世界貿易機構(WTO)加盟国の定めた公約に違反しないという美点がある)。  ・当然のこと、ミャンマーの農民たちが直面する最大の出費の一つは、手頃な正規の農村金融が存在しない事に由来する。最大手の複合企業に属する者以外、ほぼ全てのミャンマーの農民たちが十分な量の正規信用を利用できないという事は、小規模貸金業者のみが、大半の人々の唯一の拠り所であるという事を意味している。このような貸金業者が課す金利は高く、ひと月10%が標準である。良心的な金利の信用が不足した結果、ミャンマーの農民の多くは、単にこれを利用せずに済ませ、もはや生産性を高める肥料などの資材も使用しなくなっている。同様に、彼らは作付けや収穫の方法にも出費を最小限に抑えるようなものを採用しているが、これが生産高までをも減少させている。また、未払負債を抱えた農民たちは、次第に債務/不履行の悪循環に陥り、これがしばしば、彼らの土地利用権の喪失や貧困化という結果をもたらしている。  ・したがって、ミャンマーに有効な農村金融制度を作り直す事は、第一の優先事項とされるべきであり、手始めには資本の流れを生むための緊急改革がいくつか行われるべきである。その中には、ミャンマーの個人銀行の農民への貸付制限の解除、銀行で適用される金利の上限および下限の解除、銀行が受け取る許容可能担保を拡大し、これに全ての農作物が含まれるようにすること、世界の一流銀行で、商品供給網の太いコネクションを有するものに参入を許可すること、引き続きミャンマーの小規模金融の(慎重な)成長を推進すること、現行のミャンマー農業開発銀行(MADB)の改革、および資本構成の変更などがある。 土地改革  ミャンマーの農業部門の改善にとって、最も頑強な障壁の一つは、全ての農地が正式には国家によって所有されているという事実である。2011年の下旬には、二つの新法案がミャンマーの国会で発表された。表向きには農民たちに住居保有権の保証や取引可能な土地の権利を与えるために考案された農地法案と空閑地、休閑地、および未開墾地に関する法案は、実際のところ、わずかながらも、より多くの土地「接収」の機会を縁故者や巨大アグリビジネスにもたらす事となった。また、農民自身が「何をいつ、どのように」栽培するかを決める権利を否定する規定も依然として含まれたままで、その最も重要な条項は単に(農業・灌漑相の率いる)新たな執行機関に「土地収用」の決定を下すための諸権利を保証しているだけのようである。この「土地収用」は、これまでにも小規模農家から土地を接収するために用いられてきた。  ミャンマーの農民たちに自分の土地に対する有益な権限を与えること、さらにはその住居保有権を保証することが政府の最優先事項とされるべきだ。短期的には、上記の法律を再検討する事が必要となるが、一方で、大規模な農地接収に関しては、短期的猶予のようなものを設ける必要があるだろう。これらの早急な対策に加え、ミャンマーは他国における経験を分析するべきである。変革のシナリオの中での土地所有権の問題全体は、過去20年に渡って多くの国が取り組まなくてはならなかったものであり、その過程で多くの革新的な方法論も現れてきた(保護され、ほぼ普遍的な「マイクロ・プロット」から、慣習的保有権の習わしの様々な認識方法まで)。 結論  ミャンマーの農業部門は国民の大半を抱え、常にこの国のGDPに最大の貢献を果たしてきた部門でもある。長期的に、また、世界の食品価格の将来的な上昇や、近隣諸国のとどまるところを知らぬ需要、非常に豊富な給水といったコンテキストにおいて、ミャンマーの農業はこの国の経済復興を成功へと導く最大の鍵でもある。ミャンマーの現政権の任務は、この可能性を明示する事、そして、その際にアジアにおける平和と繁栄の源泉という、ミャンマーにふさわしい立場を回復する事である。 Sean Turnell・Wylie Bradford Department of Economics, Macquarie University   翻訳 吉田千春 Kyoto Review of Southeast […]

Issue 13 Mar. 2013

ブルネイ・ダルサラーム ―王室至上主義と現代国家―

          ブルネイ・ダルサラーム ―王室至上主義と現代国家―  ブルネイ・ダルサラーム(平和の家)は小さな独立国であり、東南アジアに唯一の君主国である。1984年に英国から独立して以来、ブルネイ王室はその権力を強化し、今やほぼ揺るぐことのない国家の支配権を手にしている。ブルネイにおける絶対君主制存続の理由は何であるか。本論では、ブルネイ王室がスルタンの座に権力を集中させる事に成功してきた事、伝統的、宗教的根拠を以てその正当性としてきた事、そして、自身を安定した政権として示してきた事について論じる。ブルネイ王室は政治改革への要求を何とか退けたが、これは効果的かつ迅速に、炭化水素による歳入を広く寛大な社会福祉制度の整備に用いたためであった。新伝統的政体であるブルネイのスルタン制度は、変化する世界情勢の中で、その適応性と抵抗力を示してきた。 歴史的背景  ブルネイのスルタン(ヤンディ・ペルトゥアン・ネガラ)は、600年間君臨し続けてきた代々のスルタンの家系につらなるものである。現在のスルタン、ハジ・ハサナル・ボルキア・ムイザディン・ワッダラーは、第29代目の支配者である。ブルネイの人口は少なく、40万人程度で、そのうち66%はマレー系 が占めている。ブルネイは2つの飛び地に分かれており、それぞれが東マレーシアのサワラク州にとり囲まれている。権力が頂点に達した16世紀以降は、スルタンの力が弱まり、19世紀には隣接するサワラクのブルック・ラージャらの圧力のもと、その領土が縮小した。消滅の危機にさらされたブルネイで、1906年に英国総督邸が設立された事により、待ち望まれた一時的猶予がもたらされた。居留期間末の1959年には、ブルネイに内政の自治が与えられ、スルタンには最高権力が付された。新憲法が公布されたのは1959年で、これによって、一部選挙に基づく立法評議会がもたらされた。 これに続いて、ブルネイ人民党(PRB)が立法評議会の民選枠の議席全てを勝ち取った。ところが、PRBは1962年にマレーシアとの統合に対する武装反乱を行い、そのため選出された候補者たちは政権を握る事ができなくなった。この反乱は英国によって素早く鎮圧されたが、ブルネイの政治史にとっては重大な出来事であった。ここで生じた脆弱性や不安の意識は今日までも広がっている。これはまた、当時のスルタン、オマール・アリ・サイフディーン3世にその存在意義を与えた。彼はそれによって非常事態の規定を課し、憲法改正を先送りにし、さらにはこの影響から、マレーシアに加入しない事を決断したのである。英国による憲法改正着手への圧力に屈する事を拒み、スルタンは1967年に退位、彼の息子ハジ・ハサナル・ボルキアに王位を譲った。 したがって、英国の植民地化は、弱く、分裂した君主制を活気づけ、これを中央集権的専制政治に変容させたと論じる事ができる。  新伝統国家の構築  多くの研究者達が、絶対君主制の存続に疑問を投げかけている。Huntingtonら、近代化を論じる理論家たちは、君主政権が近代国家建設の圧力に抗えないと論じる。 君主たちの直面しているものは、Huntingtonらが「王のジレンマ」と述べるものである。つまり、近代化は国王の権力や権威を削ぎ、彼らが拡大する都市部の中流階級などの有力な新集団と権力を分かつ事を求めるのである。 近代化理論では、中流階級が変化やさらなる政治参加を強く求める事で、最終的に君主制が破綻するという。しかし、石油に依存した中東やブルネイの湾岸諸国の君主制はこの事態を回避し、代わりに新伝統国家として発達、繁栄してきたのである。これらの君主制は依然として保守的、家父長主義的であり、極めて権威主義的である。彼らが用いる正当性の原則は、宗教や文化、伝統に基づくものである。さらに、急激な社会経済の発展に応じ、彼らは正当性の原則を拡大し、これに寛大な社会福祉制度に支えられた経済発展を含めたのであった。支配者たちは、頑丈かつ長期的な絆を国民たちとの間に築こうとしている。  1984年の独立後、ブルネイは制度構築という困難な課題に直面した。スルタンは絶対権力を行使したが、同時に、彼は近代国家運営の需要への対応を補佐する政府専門機関の設立の重要性をも理解していた。1984年には内閣形式の政府機関が公表されるが、スルタンは引き続き強大な権力を振るい、首相、財務大臣と内務大臣を兼任している。「王のジレンマ」を軽減させるため、スルタンは教養ある新エリート集団を政府に取り入れ、新興社会集団の間での不満を減らそうとした。これらの新エリート集団と手を組む事によって、スルタンは王家や伝統的エリートへの依存を軽減する事もできたのだ。テクノクラートや教養あるエリートが政府の要職に当たらされた。スルタンの息子、ハジ・アルムタデー・ビラ王子は1998年に皇太子に任命され、2005年には上級大臣に昇進した。彼には過去10年の間に、より重要な任務が与えられてきたが、彼が度々スルタンの代理を務め、公的行事を主宰し、各国要人らをもてなす事は、権限移譲が滞りなく行われる事を確実にするためである。独立以来、有効な代議政治を導入せんとする試みはほとんど無かった。スルタンと彼に近い親族達が、絶えず中央集権化を進めてきたのである。  教養あるエリート集団を、行政機関や政府官僚に取り入れる事とは別に、スルタンはまた、寛大かつ包括的な社会福祉制度を提供する事で、その他の住民たちにもより広く訴えてきた。ブルネイ経済は天然資源の採取に大きく依存しており、石油とガスに輸出収入の90%、国内総生産の半分以上を頼っている。 国家は最大の雇用主であり、現在ブルネイ人の25%を雇用し、政府は高い生活水準を供給している。 その一人当たりのGDPは、51.760米ドル と、アジアでは最高位である。スルタンの治世は、2011年にGDP2.6%の伸びを伴う安定した経済成長を見せたが、これは石油の価格が上昇したためであった。インフレは低く、個人所得税も存在しない。 スルタンの統治が寛大な社会福祉制度を提供する事ができる力は、被選挙権や有効な参政権が何もない政治環境の中、必要とされる正当性を国家に与えている。  ブルネイ社会は規制が厳しく、マスコミは厳重に管理されている。非常事態の規定は2年毎に更新されているが、君主制に対する深刻な問題は1962年以来、何も起きてはいない。どのような問題も、迅速かつ強力に処理されてきたのである。以前存在した政党の一つで、1985年に結党された国民民主党(BNDP)は、最終的に議会制民主主義が立憲君主制の元に設立される事、有事法の撤廃、そして選挙の再導入を求めた。 1988年、この党は即座に社会団体法のもとで登録抹消され、党首であったAbdul Latif Chuchuは有事法に基づき逮捕された。 他にも多くの政党が出現したが、それらの党員数は少なく、彼らは公に王家を批判する事を避けてきた。その穏便な姿勢にもかかわらず、これらの政党もまた登録抹消されたのである。唯一、今日のブルネイに現存している政党が国家開発党である。  2004年の憲法改正  ブルネイが21世紀を迎え、国家として成熟してきた事から、多くのブルネイ住民たちは、選挙の再導入や政治参加の機会を期待していた。 しかし、2004年に発表された一連の憲法改正は、スルタンにさらなる権力を与えるものであった。かつて部分的選挙に基づいた立法評議会が2004年に復活したが、議員は全て任命されたものであり、そこにはスルタンや彼の弟のモハメッド・ボルキア王子、皇太子、閣僚や社会の重鎮たち、様々な地方の代表者たちも含まれていた。 復活した立法評議会に与えられた仕事は、2004年の憲法改正を通過させる事であったが、これにはスルタンを絶対君主として確立させるために作られた、新たな法律が含まれていた。新たな改正はスルタンの権力を明確にし、彼に最高権力を付し、公私共の立場で彼を法に縛られぬ存在とした。この憲法改正は、立法評議会の役割をも損ねるものであった。選挙の規定をよそに、立法評議会はこれまで、任命された議員のみで構成され、会合は年に一度、三月に開かれ、国民が関心を持つ予算や統治の問題についての疑問が提起される。  1959年の憲法によると、立法評議会には助言の任務があり、いかなる法律を通過させるにもその事前の承認が必要であった。しかし、2004年の改正はこの規定を廃し、事実上、立法評議会を「追認するだけの無意味な議会」としてしまった。立法評議会のメンバーを決めるための直接選挙が、近い将来に行われる可能性は低い。2004年の憲法改正は、スルタンをブルネイの法制度の根幹、あるいは根本規範とする結果となったと論じられる。 Hortonは、この憲法改正が示している事が「実際そうなる事なく、王国に何らかの自由民主主義の衣を着せようとする願望」だと主張する。 国家イデオロギーの推進  独立達成に際し、スルタンが掲げたイデオロギーは、Melayu Islam Beraja(マレー主義に基づくイスラーム的王政、MIB)であり、これは国家への忠誠を奨励するものであった。このイデオロギーはスルタンの政治的正当性の重要な根拠となってきた。すなわち、これはイスラームを国家宗教に高め、マレー民族社会の権利や特権を掲げ、世襲制の王室が適切な統治機構である事を正当化するものである。このイデオロギーによって王室をイスラームの守護者と位置づける事が可能となり、王室にはさらなる正当性が授けられることになる。  MIBを考案したのはスルタンに近い官僚で、その意図はイスラームやマレー文化、スルタンに対する忠誠と結びつく国家アイデンティティの定義であった。 MIBの忠実な提唱者の一人であるペヒン・ハジ・アブドゥル・アジズ・ウマル前教育相は、600年間実践され続けてきた統治制度はマレー世界独自のもので、スルタンの権力は絶対である、と懇切に語っている。 MIBはまた、西洋民主主義の概念よりも受け入れやすい代替案だと言われているが、これはMIBがスルタンと国民との間の特別で親密な関係に依存しているためである。スルタンはこのイデオロギーが「神の意志」であると宣言したが、これはブルネイ国民が絶対王政にまつわる規範や価値観を受け入れるよう、適応させるために画策された企てであったと論じたくなる。  ブルネイの君主制は家父長主義的、かつ独自のものである。スルタンは国家の象徴として、あるいは、国民の忠誠の的として描かれる。彼は公務に強い関心があると述べ、遠方地域を開発計画の進捗状況の観察に訪れている。 毎週金曜日の祈りを国中のモスクで順繰りに行う事で、彼は自分と神との緊密な関係や、イスラームへの強い傾倒を示して見せる。しかし、その結果、スルタンには非の打ちどころがあってはならないという事にもなる。なぜならば、彼は政治的指導者としてだけではなく、道徳的に高潔で模範的な人物とみなされるためである。善良でクリーンな統治に対する期待はまた、王室の他のメンバーにも向けられる。国民たちは、スルタンの最年少の弟で、元財務相のジェフリ王子をめぐる法廷闘争に関心がある様だ。彼は1990年代の後半に、金額にして150億米ドルの国費を横領したために告発された。正当性を維持するべく、スルタンは即座に弟の行為を非難し、費用のかさむ訴訟手続を通じて国家資産の回収を試みた。 将来の展望  新伝統国家として、ブルネイは国民の現代的要求に応じ、安全と安定を提供できる事を示してきた。しかし、21世紀になり、ブルネイが国民国家として成熟するにつれ、現代国家を運営する上での圧力や緊張感が明らかとなった。スルタンは社会福祉や公共財を提供できる国家の能力が、物価の上昇の結果、絶えず圧迫されている事を意識している。ブルネイは歳入を石油やガスに依存し続けており、経済を多様化させようとする努力は望ましい結果を生んでいない。さらに、この国はガスや石油の価格と生産の変動による影響を受けやすい。現代ブルネイ君主制にとり、その課題は国家が常に公共財や高い生活水準に対する国内の需要に応じられることを確実とする事である。スルタンは、それが王族のエリートであれ、将来有望な中流階級であれ、彼ら政権の支持者たちが確実に、スルタンの政権の正当性を実証し続けるように気をつけていなくてはならない。政治参加が無い中、スルタンはより広く、都市部や地方の支持者たちにアピールするため懸命に働きかけ、今後もずっと慈悲深い支配者として、彼らの信頼と信用を得なくてはならないのだ。 Naimah S Talib Adjunct Fellow, Political Science Department, University […]

Issue 12 Sept. 2012

死者の歴史、生者の遺産:シンガポールのブキット・ブラウン墓地

遺産は過去の社会的役割を考察する上で十分なものではない。遺産には過去を取捨選択し、不完全な歴史的解釈を生み出す傾向がある。それはしばしば、歴史的変化に影響されぬかのような過去を創作する。遺産は整然としており、賛美的で表面的なものであるが、史実はそうでない事が多い。 […]

Issue 12 Sept. 2012

ゾンビとの出会い―東南アジア仏教におけるゾンビへの考察

          とりわけ、ゾンビや屍については、ほとんど研究される事の無いものではあるが、最も有名な現地資料の一つにVetāla-prakaraṇam(ゾンビの物語集)がある。Vetāla-prakaraṇamはprakaraṇam文献全体の一ジャンルであり、東南アジアに広まり始めたのは、証拠となる写本によると15世紀である。prakaraṇam文献の中で最も重要なものには、Vetāla-prakaraṇam(ゾンビ物語集)、Nandaka-prakaraṇam(雄牛物語集、実際のところ、インドの言語、ジャワ語、タミル語、そしてラオ語の物語では、あらゆる種の動物が一頭の雄牛を訪ねる物語である)、Maṇḍūka-prakaraṇam(蛙物語集)、Piśāca-prakaraṇam(幽鬼物語集)、Pakṣī-prakaraṇam(鳥物語集)であるが、これは物語によってはŚakuna-prakaraṇam(どちらもサンスクリット語で鳥の意味)と題される事もある。これらは通常は短編集で、怪物や動物を主題とした物語である。しかし、この呼称はまた、少なくとも一例において、特定の都市の成り立ちや特定の像、及び遺物の来歴にまつわる歴史物語集にも用いられる。これらの書物は、中世日本の説話物語や、中国の志怪小説の物語に幾分似たところがあるが、ヨーロッパなどで見受けられる動物寓話集とは似ていない。これらは、幻想、怪奇的な生き物の世界への詳しい入門書ではないが、物語に登場するのは、動物や人の姿をした悪魔や幽鬼、半獣などである。prakaraṇamのジャンルは、鳥や蛙の物語集と、その他の種や超自然的存在である幽鬼、怪物などの物語集とを区別しない。東南アジアのそれぞれのprakaraṇam文献に収められた、これらの物語の多くは『パンチャタントラ』や『ヒトーパデーシャ』、『カタ―・サリット・サーガラ』その他、インドの物語集のサンスクリット語の物語に由来する。しかし、その他のインドの物語と同様に、東南アジアの物語の多くは対応するインドの物語とは、かなり異なっている。特にラオ語とタイ語のPakṣī-prakaraṇamは『パンチャタントラ』の、主に第三巻の様々な物語に間接的に由来している。しかし、これらが直接的に東南アジア(特にジャワ、北タイ、シャン地方やカンボジア)に初めて紹介されたのは、Tantropākhyāna(ラオ語ではMun Tantai、タイ語ではNithan Nang Tantrai、ジャワ語ではTantri Kāmandaka、あるいはTantri Demung)を通じてであった。    この物語集のインドにおける最古の写本はマイソールで発見されたもので、時代は西暦1031年に遡る。サンスクリット学者や南インド文学の専門家であるEdgerton、Venkatasubbiah、Artola達は、サンスクリット語文献の異本や、タミル語、カンナダ語、マラヤーラム語で、作者がインド人のVasubhāga、Viṣṇuśarman、Durgasiṃhaらとされる物語の由来を明らかにした。それらはBhāvadevasūriの編纂したジャイナ教の聖者パールシュヴァナータの物語に類似している。 当然、これらの物語のうち、より広く知られている物語は中央アジアや中東の諸言語にも見られる。例えば、パフラヴィ―語やペルシア語、シリア語の物語である『カリラとディムナの物語』(『ビドパイの寓話集』としても知られる)は、Pakṣīや『パンチャタントラ』のいくつかの鳥の物語に近似している。これらの物語の中には、ギリシア語、アラビア語、ヘブライ語やスペイン語に翻訳されたものもある。大変人気の高い『鳥の会議(ペルシア語:Manteq at-Tair)』は、12世紀の詩人Farid ud-Din Attarの作であるが、構想や登場する鳥がPakṣī-prakaraṇamのそれに酷似している。    Syam PhathranuprawatとKusuma Raksamaniは、これらの原典と思しきインドの文献を広範に研究し、さらにはこれらをジャワ語の物語と比較してきた(しかし、仏教文献との比較は行われていない)。Kusumaの研究はNandakaprakaraṇamに集中しているが、彼はNandaka、Pakṣī、Maṇḍūka、Piśācaの諸文献が、タイ北部に1400年代の半ばにもたらされた事、また、これらがおそらくVasubhāgaの物語に由来する事を示しているが、Pakṣīの大部分はViṣṇuśarmanの系譜に連なるようである。これに相当するパーリ語文献は発見されておらず、北タイ語の写本はニッサヤ形式によって記されたものであり、これはパーリ語ではなく、サンスクリット語文献に由来する。中には、サンスクリット語の言葉がパーリ語に翻訳されている例もあるが、これらの文献の本格的なパーリ語訳は、北タイ語方言への翻訳と注釈より前には存在しないようである。Syamは、北タイ語やラオ語、タイ中央部の言語によるTantropākhyāna物語が全く異なるという点を強調している。Tantropākhyānaのタイトルは、サンスクリット語でTantrī、あるいはTantrū、ラオ語、タイ語、ジャワ語の物語では、Nang Tantai 、Nang TantraiあるいはTantriとされる女性の名前に由来するものである。この女性が王に様々な物語を聞かせた事によって、理論上では360編ほどの物語が伝わったとされているが、通常、東南アジアの物語集には80編から90編の物語のみが存在する。    Vetāla-prakaraṇam、あるいはタイ語で一般にNithan Wetanというこの物語は、タイで有名なものであり、過去数年間のうちに数編の現代版が存在した。それらは過去四世紀に渡って、ラオ語やタイ語で流布していたサンスクリット語の物語集の中の、20編から25編の物語を題材としたものである。この物語集は、サンスクリット語や幾つかの現代東南アジア言語の様々な物語に見出される。この最古の物語集には、どうやら25編の物語が収められていたらしく、10世紀頃よりVetālapañcaviṃśatiというタイトルが付けられていた。これは後にソーマヴェーダが編纂した『カタ―・サリット・サーガラ』に組み込まれることとなった。Theodore Riccardiは、ネパールで知られているJambhaladatta版の物語に関する学位論文を書いた。この物語11編のうち、人気の高い一編がRichard Burton作の「Vikram and The Vampire」となったが、Arthur Riderの「Twenty-Two Goblins」もまた、この物語の不完全な翻訳である。 この文献ではそもそも、これらの物語がVikramādityaという名の王によって語られたとされているが、この人物は東南アジアの写本では物語の作者と認識されている。   東南アジアの物語では、Vikramādityaは木に吊るされた死骸と一連の対話をする王である。これは生ける屍、もしくはヴェターラー(タイ語ではwetan)として知られるゾンビである。王はこのゾンビを捕らえて担ぎ、バラモンの預言者(サンスクリット語ではṛṣi、タイ語ではphra reusi)のところへ運び、この預言者から神秘的な力を授かろうとしている。ゾンビは繰り返し、王に様々な生き物にちなんだ広範で、しばしば、とても滑稽な物語に関する謎をかけては逃げてしまうのであった。ゾンビは王に謎をかけた後に(奇妙な事に、王に正解を当てさせておいて)王の肩を飛び下り、元通り木に登ってしまうのであった。例えばある物語ではオウムと九官鳥が、女と男ではどちらがより無知であるかと議論をする。九官鳥はある恩知らずな男の話をする。美しく裕福な女性に愛されながら、彼女から盗みを続け、彼女を捨ててしまった男である。オウムはある女の話をする。彼女は結婚しているにも関わらず、長い間、あるバラモンと浮気を続けている。ところがある日、このバラモンは彼女の部屋に忍び込んだ泥棒と勘違いされてしまう。彼女の召使いに頭を殴られた男が横たわって死にかけていると、女は彼を生き返らせるために、その口から息を吹き込もうと試みたのであった。しかし、彼は断末魔の苦しみから、図らずも彼女の鼻を食いちぎってしまった!彼女は自分の美貌が損なわれた事を夫のせいにした。この夫は彼女に非が無ければ、王に死刑にされていたところである。ゾンビは王に、男と女で本当に酷いのはどちらであるかと尋ねる。王は「女」と答えるが、その答えは何ら客観的な理由もなく、ゾンビが正解と見ていたものである。また別の物語では、あるバラモンの父母が、彼らの年若い息子の突然の死に悲しんでいた。彼らが息子の亡骸を墓地へ運ぶと、そこには年老いたヨーガ行者がおり、彼は初めにその子を見て泣いたが、その後、飛び上がって小躍りし、その子の亡骸に乗り移るために魔術を使った。両親たちは、自分たちの子供が生き返った様子を見て大喜びであった。しかし、その子は禁欲的なヨーガ行者として余生を過ごす決意をしたのである!ゾンビは王に、このヨーガ行者が初めに泣き、それから小躍りした理由を尋ねた。王は再び正しく答え、ヨーガ行者は自分の古い肉体を失う事を悲しみ、それから新たな若いバラモンの肉体を得る事に喜んだのであると言った。他にも恋愛や毒殺、遊女の話、魔法によって性が入れ替わる話など、謎かけ物語が多く存在する。この王とゾンビの物語の終わりに、ゾンビは人間や動物の習性に対する洞察から、その苦行者が王を殺し、ゾンビの力を利用せんとしている事を王に警告する。このゾンビは王を怖がらせるのではなく、最終的には王の命を救い、彼の霊的な味方となるのであった。  […]

Issue 12 Sept. 2012

アスワンを探して―フィリピン社会の怪談・化け物・妖術師 東 賢

はじめに―1枚の絵画    数年前、福岡に行った際に、かねてより気になっていた福岡アジア美術館へと足をのばしてみた。充実したアジア各国の絵画・美術作品の展示の中で、フィリピン人画家カルロス・フランシスコの「教育による進歩」の前で、私は立ちすくんだ。フィリピンの教育と発展という啓蒙的なイメージが描かれる中で、切り離された上半身から内臓を垂らしながら、作品上部をノイズのように漂う異形の姿は、まぎれもなくアスワンだった。教育と発展の中で消え去るべき「迷信」のイメージが、そこには集約されていた。まさか、こんなところでまたアスワンに再会することになるとは。どうやらアスワンを探す私の旅は、まだ終わってはいないらしい。  アスワンの過去と現在   アスワンとは、フィリピンのとくに低地キリスト教社会において、民間信仰や口頭伝承の中に頻繁に現れる超自然的な存在である。多様に語られるアスワンの姿は、大きくまとめれば(a)吸血鬼、(b)内臓吸い、(c)獣人、(d)人喰い鬼(e)妖術師の5つに分類できるという[Ramos 1990]。私がカルロス・フランシスコの絵画の中にみたのは、「内臓吸い」の姿で漂うアスワンであった。さらに近年、メディアや都市伝説の中で、その姿はさらに多様さを増しているようである。    私がアスワンと出会ったのは、マニラのある大学で留学生活をしていたころだった。男子学生寮は4人ずつの相部屋で、各地からマニラへとやってきたフィリピン人学生たちは、忙しい勉学の時間の合間にも語り合ったり遊んだりすることを忘れず、賑やかな日々が続いていた。そんな中、深夜にベッドで眠りにつく前に、ルームメイトたちが静かに語る怪談話に耳を傾けるのも楽しみの1つだった。そして、そんな他愛もない怪談話の中で、アスワンはよく語られていた。地域差はあれど、アスワンについてはある程度定型化された語りのフォーマットがあるようで、異なった地域出身のルームメイトたちもその面白さと怖さを共有しているようだった。私は次第に、フィリピンの怪談という二重の異世界の魅力に引き込まれ、アスワンについてもっと知りたいと欲するようになっていった。    調べてみると、さかのぼればアスワンは、フィリピンへの植民者であるスペイン人の記した15世紀や16世紀の歴史資料にすでに登場していた。そこでは、カトリックを布教しようとするスペイン人宣教師の目から見た「原住民の迷信」として、またカトリックの神に反する「悪魔」として、アスワンは描かれていた[Plasencia 1903-9; Ortiz 1903-9]。それが、スペインとアメリカによる統治期、そして第2次世界大戦の日本による軍政期を経て独立の後、マルコスの独裁政権におけるナショナリズムの流れの中、アスワンはフィリピンの国民的な民間信仰や口頭伝承としての地位を獲得していく。中 でも、上述のラモスによる研究は、ほぼフィリピン全土にわたるアスワンの口頭伝承の収集、記録作業を行ったものであり、農村や漁村から都市部まで国家レベルでの信仰と伝承の流通と、その共通性と多様性がともに示されている。そのように、「国民的な化け物」としての地位を確立したアスワンは、さらにその語られるコンテクストを広げていくのである。  メディアの中のアスワン  「国民的な化け物」としてのアスワンは、地方の農漁村や山奥に身を隠しているだけではない。その姿は都市伝説の中で語られる、マニラのハイウェイを疾走する老婆の姿であったり、また出稼ぎ先の国外で邪悪な力に感染し、帰国後自分の子を殺し食べてしまう母親の姿であったりする。地域共同体の中で育まれてきたであろうアスワンについての想像力は、一地域を超えたナショナルなレベルで、またときに国境を超えたグローバルなレベルに展開しているのである。  またさらに、様々なメディアの中にもアスワンは頻繁に登場する。驚くべきは、タブロイド紙を中心に一般紙でもアスワンの出現が報道されることである(もちろんその「事実」が最終的に検証されることは稀であるが)。また、フィクションとしては、アスワンを取り上げたりモチーフにした小説やコミックなど数多く、さらに近年の特徴としてはテレビ番組や映画など、映像メディアの中でも扱われることが挙げられる。  国語であり共通語であるフィリピノ語で制作されたいわゆる「タガログ映画」の中に、アスワンを題材にしたヒット作がいくつかある。人気ホラー映画シリーズShake Rattle & Roll II (1990)に収録された”Aswang”や、2011年にもリメイク作品が制作されたAswang(1992)などが代表的なものであるが、近年はアスワンをモチーフにラブコメディ風に仕上げたAng Darling Kong Aswang(2009)やラブロマンスの要素を強くしたCorazon: Ang Unang Aswang(2012)などジャンルも横断的になっている。  アスワンの故郷?   日常生活の中で、また現代的なコンテクストにおいても、アスワンが頻繁に語られ描かれる中で、その表象がある特定の一地域と関連付けられる傾向がある。それは、西ビサヤ地方のパナイ島にあるカピス州を「アスワンの故郷」だとする語りである。    私がカピス州の州都ロハス市で、2000年ごろから長期滞在調査をすることになったのも、「カピスがアスワンの故郷だ」という語りを多く、マニラの友人たちから聞いたのが理由である。日本人の大学院生がなぜかアスワンに興味を持ち、それを研究の対象にしようとしていることを聞くと、皆口をそろえて「カピスがアスワンの故郷だ」と、私に意味ありげに告げるのである。そのようにいわれる何かがカピス州にあるのか、という関心から、私はカピス州ロハス市での長期滞在調査を実施することを決定した。    ところが、いざロハスに到着して、アスワンについて聞きまわっていると、人々の反応は好ましくなく、非協力的で、ときに暴力的なまでの反感を抱かれることもあった。アスワンについては語りたくないという態度から、カピスにはアスワンなどいないという反応まで、とにかく私の聞き取り調査はことごとくうまくいかなかった。その調査の不調の理由を知ったのは、しばらく経った後、ロハス市内にあるカピス州の地方新聞社を訪れたときである。週刊の新聞のバックナンバーを調べていると、そこには90年代の半ばごろから数カ月に1度のペースで、アスワンに関する記事が掲載されていた。それら記事の主題は、「アスワンの故郷」という外部からの表象に対して、それを受け入れるのか、否定するのかというものだった。とくに、1999年に全国公開された映画Sa […]

Issue 12 Sept. 2012

ドゥクンとインドネシア政治

         スハルト政権崩壊後のインドネシア政治研究では、インドネシア政治という電車の無賃乗客のように、ドゥクン(呪術師)の存在は拒否され扱われてこなかった。政治においては、合理的で客観的だとされる側面にばかりこれまで関心が寄せられてきた。しかし、とりわけインドネシアの政治闘争においてドゥクンを利用するという現象は古くから続いてきたのであり、到底無視することなど出来ない。ドゥクンが重宝されてきたのは、政治闘争で彼らを用いれば、ドゥクンの利用者に権力と安寧をもたらすと信じられているからである。    この小論考では、現代政治におけるドゥクンの役割を描きたいと考えている。ただし、本稿はドゥクンのもつ呪術的な力が実在するのかどうかを経験論的に証明しようとするものではない。本稿は、多くの事例にみられるドゥクンを利用するという現象は、インドネシアの政治闘争とは切っても切り離すことが出来ず、現代民主主義の試金石ともみなしうる世論調査機関が乱立するようになった今でもそのことは当てはまるのである。  スハルト政権期におけるドゥクン    社会現象としてのドゥクンは、人々の日常生活とは無縁なものではない。ドゥクンとは呪術的な力とエネルギーを持つと信じられ、自分のために、或いは他者の依頼を受けて、密かに、そして、謎めいた方法でその力とエネルギーを使うもののことである。その力とエネルギーにより、対象となる人物の救済や健康の回復を行う場合もあれば、その逆に、対象となる人物に恐怖心を引き起こしたり、災厄をもたらしたりする。    一般に、「白いドゥクン」と「黒いドゥクン」がいることが知られているが、その区分 はまったくもって社会的文脈しだいである。「白いドゥクン」は救済や回復の祈願など、「善」を目的とするものであり、「黒いドゥクン」は他人を傷つけるだけでなく、殺害までも行う、「悪」を目的とするネガティブなものである。    ドゥクンはその行為類型で分類することもできる。たとえば、人間と精霊を媒介するドゥクン・プレワガン(dukun prewangan)、助産ドゥクン(dukun beranak)、災厄除去するドゥクン・シウェル(dukun siwel)、さらには人体に金・ダイヤモンド・クリスタル石から作られた細い針を埋め込むことで美容・権威・権力を確約するドゥクン・ススック(dukun susuk)もいる。呪文やハーブによって治療を行うドゥクン・ジャンピ(dukun jampi)、ドゥクン・サンテット(dukun santet)、ドゥクン・テルゥ(dukun teluh)、ドゥクン・テゥヌン(dukun tenung)は呪術で敵対者に災厄をもたらすことができる。dukun leak (バリ)、dukun minyakkuyang(南カリマンタン)など、インドネシア各地に特有のドゥクンの呼び名がある。    一方、政治におけるドゥクンとは、ドゥクンの利用者が政治において、とりわけ地方首長直接選挙のような政治闘争において、利得や勝利をもたらすことを約束する。政治現象としては、ドゥクンの存在は、独立以降の近代民主主義の展開と軌を一にしてきた。インドネシア政治におけるドゥクン現象に関する学問的な記録はほとんどないが、政治ドゥクンは政治のダイナミクスにおいて一定の地位を占めており、新秩序期には権力の一翼を担っていた。地方政治アクターたちのみならず、「大人物(orang besar)」としてのスハルトもこの灰色の世界と密接な関係を持っていたと言われている。    当時、ABG、すなわち国軍(ABRI)、官僚(Birokrasi)、ゴルカル(Golkar)からなる比較的シンプルなパターンに基づいて政治的リクルートが行われていたものの、ドゥクンの入り込む余地がなかったわけではない。実際には、ドゥクンは特別の地位を保持していたものの、秘匿とされていたのであった。権力者の「承認」を獲得することがカギであったため、ドゥクンの仕事はこの閉じられたダイナミクスの中で「承認」を得るための方法やアクターを見出すことであった(mbah Limリム老師へのヒアリングに基づく。2012年1月17日、シドアルジョにて)。ドゥクンとは、信頼に足る助言者として重要な存在とされていたのである。また、ドゥクンは政敵、あるいは将来政権にとって脅威となる政治仲間を排除するためにも用いられた。ドゥクン・サンテットであるキ・グンデン・パムンカス(Ki Gendeng Pamungkas)は政治家や権力者の取り巻きから、その政敵のみならず、いずれ「悪巧み」をしうる同僚に呪術をかけて生命を奪うよう依頼されることもよくあると述べている。    スハルトのリーダーシップにおける神秘的な側面は、確かにジャワのリーダーシップに関する文化から説明できよう。しかしながら、社会事実としてそのリーダーシップは精神的・霊的助言者に故意に依存していたのである。スハルトのリーダーシップを「守護する」忠実なドゥクンたちも存在した(Liberty, 1-10 Juni 1998)。全国に少なくとも「1000人のドゥクン(seribu […]

Issue 11 Mar. 2011

地方政治におけるインドネシア華人:評論文

 序文  1998年5月の悲劇的な事件以来、様々な変化が生じた。それには(2006年に第12号として公布の)市民権法の最新の改正もあり、これはインドネシア華人達に自分達の文化的アイデンティティを示すための社会的、政治的な場を提供した。それにも関わらず一部の華人達は、事態が新秩序時代さながらの危険を孕むものであると見ている。中国の新年を祝う竜舞を禁じた市長命令127の発布前後である2008年初頭、ポンティアナックのマレー人達によって示された反中感情は、華人達の立場がいかに不安定であるかを示すものであるとされている。これに先立つ2004年10月12日、新たに選出されたジュスフ・カッラ副大統領の発言(シナール・ハラパン 2004年10月12日)にも、華人ビジネスマン達を中小企業及び大企業において異なる待遇で差別しようとする意図があり、華人達がいまだに平等な市民として扱われていない事を示すのであった。  明らかに、華人差別廃止に関する政府の諸政策のほとんどがレトリックである。たとえプリ(先住民) 及び、ノン‐プリ(移民)という言葉が、もはや公式な政府方針や事業で用いられるべきではないとする指令が、ハビビにより現に法制化(1998年大統領令第26号)されたとてもそれは同じである。同様に、アブドゥルラフマン・ワヒドが大統領職にあった2000年の大統領令第6号の発布により、中国の慣習や伝統の実践を個人的領域に制限する1967年の大統領決定第14号が無効となり、多くの中国人や現地インドネシア人達はこれを華僑差別の終わりであると見た。しかしこれらの政治的気配や法的改正が、華僑と現地インドネシア人達の間に長年培われてきた対立に与えた影響は、ごくわずかなもの過ぎない。ポンティアナック事件が正しく解釈されるなら、華人達は未だに差別を受け、深く恨まれている。  事件が起こったのは、ポンティアナックのある華人がダヤック人と共に西カリマンタンで知事、副知事の座を勝ち取った直後であった。ポンティアナックのマレー人達には、華人の地元政治関与への切望と要求は、明らかに受け入れられないものであった。  ジェマ・パーディ(2005:23)は、少数派華僑をめぐる状況の変わらぬ現実を、現地インドネシア人達の間にわだかまる華人の忠誠心に対する疑念と、彼らの認識を歪め続けている華人の経済的役割や、国家経済における支配力のレベルに関する神話のためであるとした。彼女は、我々が「反中暴力やその他多くの暴力を単に国家主導のものとする分析を再考するべきである」と論じる。なぜならば、彼女の研究した1998年5月以降の諸事件により、「大衆が暴力や反中感情と嫌悪の一連の記憶を持つに至る限度」が示されたためである。彼女は「華僑の経済的圧力、その周辺的地位への追い込みや不正との関係が、インドネシア人の心に深く刻み込まれている」と確信する。彼女の意見では、このために華人達の立場は「未だに深刻で一定の用心を必然とする」ものなのである。  ジェマ・パーディの見解は、「華人に向けられた人種的暴力には、明らかに経済的要因が作用している」1と結論付ける、その他の反中暴力に関する諸研究と大いに一致するものである。例えば、コロンビィンとリンドブラッドは次のように述べている。「1912年のサレカット・イスラームの設立以来、インドネシア華人達は、独断的なムスリム達が自分達のビジネス上の優位を華人に妨げられたと感じる度に、繰り返される大量虐殺の対象となったのであった。」  ゆえに、彼らにしてみれば、「暴動は、インドネシアでは偶然にも華人の顔をした資本家階級への抗議を表すもの」なのであった。この見解を支持したのはキース・ヴァン・ダイクである。 彼は「近代的な生産方式が人々を不公平な競争や、労働市場で他集団に太刀打ちできないという危惧にさらし、戦争(第一次世界大戦)初期の日々の食品の値上がりは、華人業者や小売商達のせいにされた」と論じた。それでも、彼の認めるように、数年後までは反中感情が暴力的噴出に至る事はなかった。 1946年にインドネシア革命を受けて起こった暴動は、極めて狂暴であった。これは、華人が現地人の経済的競合者として恨まれたに止まらず、オランダの協力者としても憎まれたためであった。当時、いわゆる「経済的国家主義」も、おそらくその一因となりつつあった。このため1960年代には、よそ者である華僑が地方で小売業に携わる事を禁じる1959年の大統領規則第10号を受け、更には1960年半ばに中国政府がその関与を疑われ、非難された「共産党関連の」失敗に終わった政変を受け、華人に対する攻撃は非常に大規模で全国的なものとなった。この事は、より政治的でイデオロギー的変動が、暴動をその最高点に導く力となった事を示す。つまり察するとおり、反中感情はインドネシア人の歴史に大変深く内在しており、それゆえに1998年の5月に、最後で最も残虐的な暴動が、ついに華人達の運命を変えるまでは、スハルトの権威主義的政権の30年間に反中暴動が「予期せぬ雷鳴」のごとく断続的に起ころうとも驚くには値しないのであった。たとえ、新秩序政府がある程度暴力の度合いをコントロールできたにせよ、暴力を永久に根絶する事は明らかに不可能であった。これはおそらく、そのような要望がなかったためであろう。 このような状況下、1998年5月の暴動以来設立されたインドネシア華人組織の、政治活動を避けんとする態度には、おそらく大いに根拠がある事だろう。例えば、PSMTI(Paguyuban Sosial Marga Tionghoa Indonesia-印華百家姓協会)は1998年8月28日に組織された。これは元陸軍准将(プーン)・テディ・ユスフ(ション・ディ)の指導のもと、5月の暴動後に設立された初のインドネシア華人非政党組織であったが、これは自身の立場を「非政治的」と位置付ける傾向にある。  「たとえPSMTIがインドネシアの法制度の範囲内で活動を行う事が許されていようと も、PMSTIは実質的な政治活動への参加せぬよう自制している。さらに、PSMTIは 政党に関連した政党や社会組織に属さない。」(2005年4月1日にアクセスした http://www.psmti.net/psmti_掲載の原文訳) これと同様に、INTI(Perhimpunan Indonesia Keturunan Tionghoa-インドネシア華人協会)は、スルヤディナタによると1999年4月10日、エディ・レンボン(ワン・ヨウシャン)の指導のもとに設立された。9彼らはその組織的任務に関する声明で「政治的」という言葉を避けているようである。  「Perhimpunan INTIとして知られるインドネシア華人協会は社会的組織であり、その特徴はその愛国心、自由、独立、非営利と平等性である。その設立の目的は、過 去の遺物である「インドネシアの中華問題」の解決にある。 INTIは全ての華人民が 一体となり、徹底的に総力を挙げて取り組む事が「中華問 題」解決の絶対条件であると確信する。」  この主なメンバーは中国系インドネシア人民であるが、INTIは排他的組織ではなく、その基本的原則や組織規則、またINTIの目標に賛同する全てのインドネシア人民に開放されているものである。  INTIがこのような「非政府的」、もしくは「曖昧な」政治的立場11を持つ理由は、2007年5月16日にインドネシア華人協会(INTI)前会長のエディ・レンボンが、ジャカルタ・ポスト紙に次のように語った時、明らかとなった。  「インドネシア華人は政治学を学ばなくてはならない。しかるべく知識に基づいた政 治家となるためである。しかし、私は民族を基盤とした政党の設立には賛成しない。ほとんどの華人達は、 未だ政治をタブー視している。政治に関わる事はおろか、彼らはそれについて語る […]

Issue 11 Mar. 2011

マドゥラのブラテー(Blater/悪党)の社会的起源と政治権力

マドゥラ族の象徴的イメージは暴力と宗教性に結び付けられている。しかし実際のところ、理論的に言えばこれらの言葉は異なる、または矛盾した意味を表す事もある。宗教的な人々は禁欲的に暮らし、悪行や暴力行為を犯す事を避けようとする。これに対して暴力に慣れた人々は、禁欲的な生活から遠ざかる傾向にある。ところが、社会的現実が提示する複雑な諸問題が、常に規範的な理論を裏づけるとは限らない。文化という文脈上では、暴力と宗教性は空所に作用するものではなく、その存在は常に社会構造の力関係や利害的相互作用と相関したものである(Foucault: 2002)。  暴力と宗教性は人類文明の「子供」である。暴力はその背景や動機により、様々な種類に区別される。チャロックについて考えてみよう。これはマドゥラ族の内紛を解決する暴力的な伝統である。  それは彼らの自尊心や誇りに対する熱烈さ、その思い入れ如何では、その関係者達に深刻な傷害や、死さえをも招く顛末となり得るものである。マドゥラ族がチャロックを行うのは、彼らの誇りや自尊心が侮辱を受ける、もしくは害され、傷つけられたと彼らが感じる時である。彼らの憤りの感情が、恥辱の感情(マロー またはトドゥス)に発展した場合、マドゥラ族はチャロックを行って争いを調停する。  この事情はマドゥラの有名な諺に確言されている。“ango’an pote tolang etembang pote matah”、字義どおりには「白眼をよりも白骨を」という意味で、「人生は自尊心を持たねば無意味である」という隠喩である。  マローとなりチャロックという結末をもたらす、恥辱という強い感情は、しばしば人妻をめぐる修羅場と結びつけられる。マドゥラ人は、彼の妻が侵害されるような事があれば、立腹してチャロックを行う。同様に、彼はその妻の不貞の噂に嫉妬心をおこし、彼女の不義の相手がチャロックの標的となるのである。チャロックはまた、報復行為、とりわけ殺害された家族への仇討という形をとる事もある。  このように、チャロックは人の高潔さを守る行為であり、その血筋を維持するための闘いであると解されている (Wiyata, 2002: 89-159)。 チャロック における動機と標的は大変明確である。人々は自尊心が害された事から生じる暴力的な争議に巻き込まれるのである。  自尊心と誇りにかけてチャロックを行うマドゥラ人は勇敢(ブラテー)であったと認識される。ブラテーは、その人の自尊心への打撃を暴力で解決する事であり、恐れのない精神、誇り、そして勇敢さを示すものである。一方、自らの自尊心を守るために「寛容性」を選ぶ者達は、地域社会からブラテーの精神を持たぬ者と見なされる。以前はブラテーでないとされていたマドゥラ人達が、ひとたびチャロックを行った後に、中でも血みどろの格闘を勝ち取った者らがブラテーとして認められる事例が数多くある。  このように、チャロックは地域社会で紛争を解決するための勇気であると見なされており、チャロックを行う事はその人のブラテーとしての社会的地位を強化し、正当化する重要な社会的行為なのである。  チャロックを行う事のみがブラテーの地位を正当化する方法というわけではない。他にもマドゥラ人をブラテーに変え得る、それ以上の社会的手段が多数存在する。  クラピン・サピ(マドゥラ族の牛競べ)、鶏闘、犯罪行為やレモー、 ブラテーへの関与…こういった全てがブラテーの文化的再生産を成すものである。  偏在するダイナミズムがこの独特な文化と地域社会をマドゥラに創り出した。 従って、あるマドゥラ人が自らをブラテーであると認め、かつ彼が社会において特別な地位に就いていようとも、何ら不思議はないという事になる。ブラテーは文化的に高い評価を集め、社会的尊敬を受けるし、そうでないブラテーを見つける事は困難である。  ブラテーは全てのコミュニティー、及び社会階級から現れ得る。サントリ出身の者もいれば非サントリ出身者も存在する。手短に言えば、大いに宗教的である者をも含む、いかなる社会的集団、または階級の者であれ、万人がブラテーになり得るのである。  元サントリ(厳格なムスリム)がペサントレン(伝統的なイスラームの学校)を卒業した後にブラテーとなった事例も多い。元サントリのブラテーは、大概ガジ(コーランの詩を吟ずる事)に長け、キターブ・クニン (黄色い本、ペサントレンで用いられるアラビア語の原書)に通じている。  これもまた、マドゥラ社会にあっては一般的な事である。マドゥラ族の伝統上、宗教的な教えは日常生活の一部となっているのである。若きは全ての子供達が島中の集落や村々に散在するランガル、ムソラ、スラウ、モスクやペサントレンで宗教を教えられる事に始まる。  このような背景があればこそ、元サントリのブラテーが文化的ネットワークを築き、彼をキアイ(イスラーム教の聖職者)であるかのようにさえ扱う伝統を展開させて来られたのである (Mansoornoor 1990; Bruinessen 1995)。  イスラーム教はマドゥラ社会で中心的役割を果たしており、様々な社会儀礼は常にキアイを指導的立場に戴く宗教的精神と結びつけられている。  […]

Issue 8-9 Mar. 2007

セックス中毒

  心理学者であり、シーナカリンウィロート大学教育学部常勤教授であるワンロップ・ピヤマノータム博士はこんな見解を披瀝している。「タイにおいて十年ほど前からセックス中毒とも言うべき病的な症状が観察されるようになり、この傾向性は日増しに強くなっている。とりわけ憂慮すべき層は女性と若年層である。患者の行動には以下の四段階がある。頻繁な自慰行為、露出行動、窃視(対象としてはインターネットやVCDのアダルト画像も対象として含まれる)、そして最終的な段階が、金銭目的ではなく、自己の性的欲求を満たすための売春。これらの行動の原因となっているのは、幼少時からのわいせつ媒体との接触であり、アメリカにおいては人口の3-6パーセントが患者であるとみなされる…社会的ステイタスの高い男性層は、しばしばこれらのセックス中毒患者のターゲットとされる。一晩5人と関係を持ったり、結婚後も浮気相手を常に探し続けるという重症患者も見られる。」   基本教育委員会のポーンニパー・リッパヨーム事務局長は以下のように表明した。アディサイ・ポーターラーミック教育相は、関係行政官を集め、若年層の性行動を指す語として、「愛をささやく」に代わるより適切な表現について検討させた。これらの話し合いにおいては、どのくらいの年齢の就学層が、公の場で性的な行為に及ぶべきではないかといったことも話題に上った。結論が下され次第、アディサイ氏は新しい表現の使用を宣言する予定であり、こういった行動をとる若年層の減少に寄与することを期待している。(日刊マティチョン、2004年9月7日火曜日号)   上に引用したニュースを既に目にされた方も多いだろう。私自身は一読して、何だこれは一体、とうなってしまった。記事の中には、「この病気は日増しに蔓延しつつある。」とあるが、セックス中毒病は、(記事掲載の翌日シータンヤー病院総裁ワチラ・ペンチャン医師は、セックス中毒は病気ではない、いい加減なことを言わないように、と反論した。)わたしの知らぬ間に鳥インフルエンザのように大流行していたのだろうか。その上この種の病(菌)に感染し易いリスク層は女性と若年層だとのことである。記事の展開にさらに付き合う気力があるならば、こんな見解に出くわすことになる。ワンロップ博士の見解(あるいは研究)によれば、この病気の流行の被害を受けているのは「社会的ステイタスの高い男性層」で、彼らは年齢を問わないセックス中毒の女性達に同衾を迫られているのだそうである。   「私自身、クリニックにおいて相談を受けたり治療にあたったりしていますが、30才の女性患者に騙されかかったことがあります。その患者は夫を前にして私と関係を持ちたい、と言ったのですが、夫に強要されているというのは実は嘘で、自分がそうしたかったのだということがわかりました…最近では16、7の女性が相談という口実でやってきて、私に関係を迫ったんですよ。」   記事から我々は以下のような知識を得ることができる。セックス中毒は「病気」であるばかりか、伝染病のようなものである。特に女性と若年層に大流行中しており、患者女性の性欲の犠牲となって、あの手この手でやり込められているのは、この情報の提供者である博士のような紳士方である。   一般的に言って、体が弱り抵抗力が低くなっている場合、流感にしろコレラにしろ伝染病に感染することがある。記事の内容から推測するに、女性と若年層は「脆弱」で「免疫システムに問題がある」人口であるということだろう。(そしてこの病気は肉体的なものというより精神的なものであるから、この場合の免疫システムの問題とは知的な欠陥を意味している。分かりやすく言えば、女性と若年層は愚かで頑迷なため、なんにでも簡単にひっかかりやすい。)感染しやすいこれらの性別と年齢層の人口は、しっかりと保護、観察の下に置かれるべきである。これに対し男性、特に「社会的ステータスの高い」層は堅固で優れた性であり、この病気の流行に巻き込まれるほど脆弱ではない。   おやおや、人生にさよならして、これからは生まれ変わるたびに「社会的ステータスの高い」男性に生まれたいものだわね。コギャルから熟女まで、寝る相手は引きもきらずというわけみたいだし。   記事中のセックス中毒の定義に従うなら、私も患者の一人なんだろうな。人生の中で文句なしに楽しいことは何か、と聞かれたら、その数少ない答えの中に入っているのがセックスだ。自分でするのを覚えたのは8才だったか9才だったか忘れたけれど、たまたま指が初めて「そこらへん」に当たってうっとりするくらい気持ちよかった時のことは覚えている。それからは今日に至るまで研究は欠かさないよ。隣で寝ている本物の男が眠り込んでしまおうものなら、私は自分でなんとかしますよ。年とともにテクニックは向上し、セクシーなねまきを選んで、音楽をかけ、キャンドルを灯し、香水を吹きかけて、どんな声を出すかって、これは超個人的なお楽しみ。   朝起きて隣に寝ている男を襲っちゃうのは当たり前として、夜とか明け方は…え?だってさー、その体でねまきのズボンだけで目の前で寝返りをうたれて、正気でいろっておっしゃるの?   お医者の先生さま…セックス中毒を治すにはどこへ行ったらいいんでしょう?だってそこまでおっしゃるのにまだ治療に駆けつけなかったら、この病気って周りの人にどんどんうつっちゃうんでしょう?このコラムに夢中の読者の皆さんがまるでアヘン中毒みたいにセックス中毒になっちゃう…考えてもみてくださいよ。立派な紳士の皆様方、例えばお医者様とか弁護士さん、エンジニアーさん、アピシットさま、アピラックさま、チャートゥロンさまみたいなイケメン政治家の方々がセックス中毒の女たちに追い掛け回されて仕事にならなくなっちゃうんじゃありません?   まあいいか、皮肉はここまでにして本題に戻りましょう。この記事を批判の槍玉に挙げて、私がここまでおちょくるのはなぜだろうか。「セックス中毒」は病気であるという決めつけに関しては、シータンヤー病院総裁が既に否定している。セックス依存というのは、アルコール、ギャンブル、ラグナロクゲーム、トーモーンさんのコラム、GMマガジン、週刊マティチョン、その他もろもろに対する依存症と同じようなものであり、社会問題として見ようと思えば見られなくもない。が、病気であると捉えることは間違っている。   この病気が10年来「流行している」とする見解も、何と比較を行っているのか不明であり、お話にならない。20年前に比べて今の人間がアダルト映像をよく見るようになったという事実も、セックス中毒患者の増加に単純に結びつけることは不適切ではないだろうか。アダルト映像産業の拡大、輸送システムの発達、VCDプレヤー価格の低下などの現象があり、また、エイズを恐れるあまり現実のセックスより自宅でアダルト映像をおかずにする人間が増えていることや、その他セックス中毒とは直接の関係がない無数の原因があるはずだ。   治療を受けようとする人間という観点から見た場合、精神科医にかかる患者の総数、精神科の患者数をとりあげてみれば、今のタイ人は昔に比べ精神の病を抱えている人間が増えているといえるのかもしれない。が、精神科の患者の増加から、精神を病むタイ人が増えていると単純に結論付けることはできるのだろうか。それよりは、精神科医や心理学に対する理解が変化し、精神科医にかかることイコール頭がおかしいというわけではない、という認識が生まれつつあることなども原因の一つとして考えてみる必要がある。また、最近のタイ人にとっての占い師や宗教の権威が低下し、精神科医は現代タイ人の心のよりどころとして、それらに代わる役割を果たしているのかもしれない。いってみれば、セックス中毒で治療を受ける患者数の増加が反映しているのは、昔なら自分に起こっていることが特に問題だとは感じず、治療の必要性など思いつきもしなかった、ということに過ぎないのではないだろうか。欲しくてたまらなかろうが、自分の手を使おうがそんなことはお前の勝手、亭主に一晩10回のしかかろうがこっちの知ったことか、それで嫌がる亭主なら新しいのを探せ、それと医者が何の関係がある、といったところである。   よく考えてみれば、セックス中毒というのはいかにもありそうなことで、性別、年齢を問わず全ての人間の身に起こっても不思議ではない。私自身もセックス中毒といえばいえるのかもしれないが、生きていく上でそれが問題だと感じない限り、治療が必要だとは思わないだろう。それどころか、一日のうちに何度もクオリティの高いセックスをしてリフレッシュできるなんて、とってもいいことじゃないかとすら思う。それなのにまた一体どうした大騒ぎだ。教育省が「愛をささやく」に代わる新語を探そうとするほどの大事なのか。男にとってのセックス中毒は憂慮の必要がないが、女にとってはそうはいかないというようなニュアンスが行間から感じられるのもひっかかる。そんなものの考えのせいで私たちが今さら振り戻されるのはこんなお決まりの思考パターンだ。セックスが好きな男は普通だけれど、女ならそれはどうかしている、セックスにおける女の役割は男の欲望を受け止めること、男にとって望ましい「ビーナス」とは、男に犯されるのを待っているような上品な女で、厚かましくも「ねえ、本当に欲しい。」と身をすり寄せてくるような女はヒステリー(タイ人の一般的な理解と用法に従った場合)だ。   また、経済的理由からではない少女売春を、セックス依存と結びつけることも短絡過ぎる解釈ではないだろうかと、そのお手軽ぶりに眉をひそめたくなる。女、男、ゲイ、またその他のセクシュアリティのうち誰がする場合にせよ、売春という行為には、様々な要因が絡み合っているものだ。愛、性、金銭、身体、資本、利益、商品化、宗教、リプロダクティブヘルスなどの意味に対する理解から始まり、苦しみや喜びをどう受け止めているか、セックスに何を求めているのか、国家の中における自身の位置づけに対する理解などもその中に含まれる。   「子供」の性行為に関するニュースが流れるや否や、社会や教育省が示す戦々恐々ぶりは、パニック状態の域に達している気がする。そう遠くない歴史を振り返ってみれば、チュラロンコーン王時代の刑法によれば、子供の年齢は12才を境に定めてあった。12才の女性をレイプした場合、それは女性に対する行為であって「子供」に対するものではなかったのである。王族の系譜を紐解いてみれば、宮中のやんごとなきお方たちが13才で子供を持っている例を見ることができる。13才で出産したということは、11,2才当時の妊娠ということになる。「子供」が性行為を行っている、という捉え方は単純に年齢によって判断されるものではなく、その時代の政治(国家、統治のあり方)、経済のあり方に影響されて変化する「子供」の定義づけや役割に左右されるものなのである。また、社会階層やその他の要素も関連してくる。   こういったパニック状態を見るにつけ、セックスを不潔でネガティブなものだと皮相的に捉えている限り、バスの中で性行為に及ぶ若者たちにあきれ返りののしり散らす(といっても実はこういう記事をかなりわくわくしながら読んでいる)ことを性懲りもなく繰り返すだけなのではないかと感じる。実のところセックスは、社会、経済、政治といった要因と結びつきながら歴史的に変遷を遂げてきた私たちの生き方の一部とすら言えるものなのに。 また明日にでもなれば、ティーンエージャーがショッピングセンター、道端、公園などでことに及んでいるというニュースを読むことができるだろう。具体的に、どんなやり方で、どんな風に服に手を突っ込んで愛撫し、女の子の方はどんな格好で色気づいているのか、まったく最近の子はなんて嘆かわしい、と騒ぎ立てるのはまるで、ネットでアダルトページの女の子を見ながら興奮しつつもあきれたと口にしている時と変わりがない。おーい一体こりゃあ、こういう子たちって恥ずかしくないのかね、こういうのと付き合うのはごめんだね、見ろよ、すげえ胸だなあ! 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Issue 8-9 Mar. 2007

タイ現代文学の潮流 ―セーニー・サオワポンよりチャート・コープチッティへの流れを中心として―

はじめに   タイ現代文学においては、他の多くの分野においてと同様に、1973年のいわゆる「学生革命」前後が一つのturning pointとなるのであるが、本稿は、具体的な文学作品分析を通して1973年の前と後との傾向及び特徴の違いの一端を捉えることを、その狙いとしたものである。具体的には、1973以前の代表作としてセーニー・サオワポン『妖魔』を、以後の代表作としてはチャート・コープチッティ『裁き』を採り上げる。この二作品を採り上げる理由は、其々がいわゆるタイ文学の「純文学」系の評価としては、その頂点に立つものであると考えられるからである。   まず『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴を、「業からの解放」という視座から捉えてみた。管見によれば、セーニーは作品中で、文学にも長らく反映されてきたタイ社会に特有の通俗的仏教観念との対決・決別を示しているのである。即ち本来のものを離れ既に社会的に通俗化した運命の享受観や業への諦観(タイ語でいうプロム・リキット的側面)から離れ、運命或は業を改変できるものとして捉える「本来的な」業理解(カンマ・リキット的側面)へと我々を誘うものであると考えられるのである。   続いて『裁き(カム・ピパークサー)』の文学的特徴を「出家と実存のはざまで」といった視座から分析した。本作品はサルトル的な自己欺瞞の否定を謳っているといえよう。世界に寄る辺なく投げ出されている実存(人間存在)との対峙、およびその対極にある自己欺瞞(に生きる人々)の否定。あるいはタイ的自己欺瞞の一つである、苦は業に因るという観念或は苦は業の結果であるとする人々の批判(そうではなく苦は人間の実存の結果であるとしている)。さらには、タンブン(喜捨)をはじめとする一般の通俗仏教信仰への懐疑などである。しかし本作品に特徴的なのは、出家に「出口」を求めている点である。ここで出家という仏教的価値観については、文中の方丈の言葉がまさに暗示の如く通奏低音として作品中に流れている。そこでいう「仏法の世界」とは出家者としての仏法の世界であり、世俗と区別した出世間のことを指しているのはいうまでもない。それは他人との出会いにより自己の失墜を招く、実存と向き合わざるを得ない世間、即ち仏教的に云うならば、パーリ語で云うところのローキヤではなく、ロークッタラ、即ち出世間なのである。   それでは以下、具体的に両者の作品分析を行っていくこととする。 【1】セーニー・サオワポン『妖魔』-「業からの解放」   本論は、本邦に於いていまだ殆んど研究の手がつけられていないタイ文学をその素材としたものである。本論ではなかんずく、タイ現代文学においての、作家の社会に対する意識の位相を探っていきたい。我々とは文化的思想的背景を異にするかの地の文学は、自ずとその趣を別にするが、中でも顕著な特色の一つに、作家の社会に対する極めて鋭敏な意識・姿勢が挙げられよう。政治的社会的不安定は、その度重なる動揺を通し、近現代の文学者の社会意識をいやが上にも我々の考える以上に鮮明なものにしていった。その外からの眼としては、先づ、大きく東南アジア現代文学の特徴として、「東南アジア社会の文学は本質的にlittérature engagéeである」と指摘する者がある。東南アジアの作家たちは、いやが上にも政治や社会の現実と対峙し、そこから顔をそむけることが殆んど不可能であった過去があるであろう。その中には植民地化の問題に由来するものもあるだろうが、それを免れたとはいえ、タイにおいても社会の現実は非常に重く作家の肩にのしかかっており、逆に社会に対する作家の極めて鋭敏な意識・姿勢はタイ現代文学の色濃い特徴となっている。タイの文化文学にも造詣の深い文化人類学者のニールス・ムドラーは、インドネシア文学に比してタイ作家と社会の係わりを次の如く強調している。「タイの作家にとってその特徴をかたちづくる中心はsocial stage」であり、「ジャワ文学のself-centredな個に対してタイ文学の個はsocial settingの中に明瞭に規定されている」と。   加えて、内からの眼としては、長らくタイペンクラブ会長をも務めたニッタヤー・マーサウィスットは、タイ文学の特徴として、タイ作家の社会正義に対する意識は幾度の政治的動乱にも屈することなく、文学の責務として脈々と続いている旨の指摘を行っている。さらには、タイにはいまだトルストイやツルゲーネフや巴金、或はバルザックやゴーリキーや魯迅も生んではいないが、それでも良いところはある、それは政治に関して割と力強い思索をしてきた点である、といった面白い指摘をした者もいる   それでは内外のタイ研究者が共通して認めるタイ現代文学に顕著な特徴である社会意識とは一体いかなる位相であるのか。ここではビルマ大使も務めたことのある現代有数の作家セーニー・サオワポン เสนีย์ เสาวพงษ์์(1918~)およびその代表作『妖魔』ปีศาจ を中心に見ていきたい。   その為の手順として、本論考では、先ず、セーニーのタイ現代文学における文学史的位置・役割を概観し、次に『妖魔』の作品分析を通して、その位相の具体的な例を抽出していきたい。 【1.1】セーニー・サオワポンの文学史的位置   セーニー・サオワポンは、タイ現代文学史上において「純文学系」の一つの到達点であると捉えられ得る。チュラーロンコーン大学のトリーシン・ブンカチョーン博士は、セーニーの干支七順目(84歳)を記念するマティチョン主催のシンポジウムにおいて、セーニーは文学によりタイを動かし、タイ小説の歴史を変えた。さらには、先見性に富んだ著作によって未来をも予見することのできる、タイ社会のみならず人類全体の作家である、との指摘を行なった。   ここでセーニーの文学史上の意義を考える場合は、先ずタイ現代文学史上での〈人生の為の芸術〉วรรณกรรมเพื่อชีวิต の動きを顧みなければなるまい。タイにおいては現代文学は常に政治との係わりにおいて、或はその圧迫を受けながら或はその抑圧から脱しながら、歴史が流れていくのであるが、その流れの中から〈人生の為の芸術〉と呼ばれる処の動きが生起する。この〈人生の為の芸術〉はまたタイ現代文学を俯瞰した場合には、そのメイン・ストリームを為すといっても過言ではないものでもあるのだが、その中でもとりわけセーニー・サオワポンの果たした役割は大きい。   セーニーは1952年のタマサート大学での講演の中で、この〈人生の為の芸術〉の立場を表明する。とりわけ「著作と社会」การประพันธ์กัปสังคมでは明瞭に作家の社会に対する責務を打ち出し、また同年の評論「ロマン主義とリアリズム」อัตถนิยมแลจินตนิยมにおいてはリアリズム文学の意義を唱えた。こうした立場は、同時代の高名な文芸評論家たるバンチョン・バンチュートシンの次の言葉に集約されるであろう。 人が飢餓のために死んでいっている時、月の美しさはなんの役に立とう。芸術家の責務は悲惨な光景を直視するところにある。   […]

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文学と現代フィリピン政治

        凡例: 1)()は、原著者の使用したもので、()内の記述は原著者による説明。2)〔〕は、翻訳者の使用したもので、〔〕の言葉は、訳文を分かり易くするために翻訳者が追加したもので、原文には存在しない。    1958年の12月、〔つまり、〕ほぼ57年前、約100人のフィリピンの指導的なライター〔著述家〕たちが、国際ペンクラブのフィリピン支部によってスポンサー(後援)された会議に参加するためにルソン島北部高地のリゾート(保養地)都市であるバギオへと登って行った。結局のところ、この行事は、全国ライター会議として告知されていたので―ほとんどライター仲間の内輪の集まりではあったのだが、彼自身が著名なバナキュラーな〔日常語の/土着固有語での〕詩人であったフィリピン大統領カルロス・P・ガルシア閣下;民族主義者で、スペイン語で書く詩人で劇作家でもあったクラロ・M・レクト上院議員;フィリピン大学の総長ビンセンテ・G・シンコ;そしてアメリカ大使館とイギリス大使館からの少数のコーカサス人たち、といった人々を含む堂々たる来賓の一行も訪れて、話しに加わった。参加者の中には、重要な政治家、実業家、外交官、学者、出版業者、そして、最低一人ずつの聖職者と陸軍の将軍、といった面々もまた含まれていた。    私が言える限りでは、私が5歳になろうとしていた1958年の12月以前のフィリピンでは、この規模のライターの会議は、一度も行われたことがなく―これ以降、一度も開催されたことがないことは確かである。それでは、いったい何が、これらの文学的著名人を山の頂上へと一緒に向かわせることができたのであろうか。それは、ほぼ60年近い歳月の後に、わたしたちを、ここ、アジアのもう一つの都市へ一緒に連れてきた一般的主題とほぼ同じである:〔すなわち〕極めて重要で、逃れがたく、止むにやまれぬ、しかし、厄介でもあり、悩まされてもいる文学と政治の間の挑戦的な関係である。   1958年の会合では、この主題は、会議のテーマの題名、『フィリピン人作家と国民の成長』として課題となっていた。2、3週間前の暇な時間に、私のオフィスの書庫の掃除をしている過程で、私は、この会議の議事録を見る機会があったが、それは、(1959年の第1号)の雑誌、『コメント』〔季刊誌〕の特集号に収められており―私は、胸を打たれた、〔それというのも〕今回の会議に向けての準備をしながら、私の心中には全く別の書き出しがあったのだが、1958年のことを全て再び繰り返しているようで、私が何と取り組んでいるのかを示してくれたからである。(プラトンの2500年の後にとは言わないが)、半世紀以上の後に、文学と政治〔の関係を〕生み出すために文学精神の最良の部分を携えて、私たちフィリピン人作家は、古いものと新しいものと双方の、十分な理由があって消耗させられたままになっている。  小説家と〔政治〕パンフレット〔の〕ライター  1958年の会議の間に表明された見解の典型は、〔以下に引用する〕作家エディルベルト・ティエンポのものであろう:  小説家とパンフレットライターとは、和解できない、異なった二つの範疇に属している。文学は、社会問題に対する解答、それは即座に行動に組み込まれるであろうが、を発見することを、直接に気に病むことはあまりない、ということを私たちは認識しなければならない;さらに、小説家と詩人とは、政治または経済の指導者の代わりとなるための素養を身に付けた存在ではない。彼らの関心は、生活や事件の記録者として行動することではなく、それらに総合を与えること、首尾一貫した秩序をあたえることであり…成功した作家は、自らの時代の偶発的な事件を超越して、サガ〔英雄伝説〕や預言者〔先駆者〕となる…芸術的啓示が彼自身と彼の芸術に対する最終的責任である。   それは、今日では、まあまあ安全で口にするには分別のある言明のように聞こえるが、1958年の時点では、数十年にわたって続いてきた一連の激烈な論争、これは、第二次世界大戦前でさえも二つの党派、すなわち、一方では、詩人ホセ・ガルシア・ビリャの「芸術のための芸術」派と呼ばれたそれ、もう一方では、プロレタリア文学の旗を掲げたサルバドール・P・ロペスら、の両者間で行われていた、論争のただの最新版であった。1930年代のフィリピン人作家は、〔一方では、〕詩的モダニズムにまさに針路を変えようとしていたビリャとその仲間による、〔もう一方では〕フィリピンの革命的で反政府的な文学の長い伝統に立ち返ろうとするロペスの軍勢による、二つの敵対的な立場の間で引き裂かれていた。    『コメント』特集号の編集者の一人であった評論家のエルマー・オルドニェスは、ビリャの最も忠実な同盟者の一人で、内科医で短編作家であったアルトゥーロ・B・ロトールの皮肉を思い出した、なぜなら、彼は、これより早く、次のように書いていたからである:  フィリピン人のあいだで、芸術の中で扱うことに失敗した、現在、広がりを示して国内の注目を集めている出来事への重要な理解を示したものは誰もいない。例えば、中部ルソンの農民と、その生活状況を改善しようとする努力からはほど遠く、そういうわけで、重要な物語は何一つ書かれてはいない。国内の残りの人々がトンドのスラムについて語っているというのに、我が詩人たちは、有頂天でマニラ湾の夕日について詩作している。それで、新聞を一瞥さえしないくせに、散文の韻律と調和について学者ぶって討論している作家たちについてどう考えるべきだろうか。ひとつのフレーズ〔一句〕のために何週間もかけて仕事をするくせに、社会正義とは何かとか、ブラカンのある農民が金持ちの地主の貯えた薪を盗んで捕まったのは何故なのか、を理解しようと試みて5分間を費やこともしない作家について何を言うべきだろうか。    ロトール博士は1988年に死んだのだが、彼は、バギオの会議には出席していなかったので、我々は、ティエンポ博士(ついでだが、彼は、芸術のための芸術は「高潔な真剣さを欠いている」と考えていたのでそちらの方も信じていなかった)の好みについて、彼がどう言っただろうかについて確かなことを知ることはできないが、推測することはできる。なるほど、もし、今日、彼がまだ生きていたならば―〔そして、〕私が、この論考でやろうとしているように、私たちの、社会正義のような問題に対する理解は、土地所有権や儲かる仕事と単純に取り組んでいることよりも遥かに複雑になっていることを、もし彼が理解しなかったならば―彼は、現代のフィリピン文学の多くについて、特に英語で書かれたものについて、同じように辛らつな不満を述べていたであろう。それら〔の伝統的社会問題〕は、確かに主要な問題であり続けてはいるが、しかし、フィリピン人労働者の海外への大規模な輸出やそのフィリピン家族への影響、経済、文化的流行と慣行のグローバル化、社会内部のデジタル的な分裂の成長、といった最近の発展と混じり合う問題となってきている。    1958年から、政治と文学〔の関係について〕の経験と思索において、私たちフィリピン人はどれほど遠くへ来たのであろうか。    もし、最近の政治生活にたいする文学のインパクトが何かあるとすれば、私は、それを回顧し、再検討してみたい―私の暫定的な命題は、伝統的な文学表現形式は経済的・文化的要因によって猛烈に影響が小さくなっているが、非伝統的な表現形式が停滞に活を入れており、表現に富む文学的想像力が引き続き今日のフィリピン社会の重要な政治的な力となっているというものである。    フィリピンにおける政治と文学は、長きにわたり、容易ならざる関係を持ってきているのだが、そこでは、創造的なジャーナリストたちと作家たちは、ほとんど絶え間なく入れ替わっていった植民地支配者、専制者、独裁者、圧制者からの災厄を蒙り続けてきているのである。この国の捻じ曲がった政治史は、1800年代のフランシスコ・バルタザール の反専制的なFlorante at Lauraとホセ・リサールの小説から、1900年代早期の反帝国主義的演劇を〔経て〕、1980年代以降の反マルコス運動に至るまで、フィリピン人著作家たちによる政治的抵抗運動への直接参加が起こる多くの機会を与えてきている。より大きくもっと分かりやすい国民的な政治問題の下には、もちろん、ジェンダー、宗教、地域〔間〕の、さらに―私たちの経験の中で最も重要なのは―階級の政治が潜在しているのである。   しかし、それらについて議論する前に、歴史に若干言及する方が、私の命題の基礎をすえるための、もっと〔良い〕助けになるであろう。  言語の群島    今日のフィリピンは、7000以上の群島に、そのほとんどはローマン・カソリックと、人口規模は小さいが重要なムスリムの少数民族からなる8200万の人々が居住している国である。1946年に独立を達成する以前に、私たちは、1521年にスペインによって、1898年にアメリカによって、1941年には日本によって侵略された。私たちの種族的系統は、主としてマレー系、中国系、スペイン系の血統によって構成されており、相互の間の混交は猛烈に進んでいるが、数多くの、その土地固有の部族も残存している。    1972年から1986年の間に、私たちは戒厳令を布いた独裁者フェルディナンド・マルコスによって支配された。1986年にマルコスが追放されて以降には、3人の民主的に選出された大統領がいるが、経済と政治の深刻な問題は引き続いている。この国の金持ちはとても富裕で、貧困者は本当に貧しく、その数は実に多い。フィリピン人の10人に一人は海外で生活し、働いている。世界の船員の10人のうち三人はフィリピン人である。『アジア・ジャーナル・オンライン』によると、ここマレーシアには50万人にのぼるフィリピン人がおり、そのうち20万人は不法に滞在している。   […]

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イスラーム的近代性を歌う:マレーシアにおけるナシッドの再創造

        野党「汎マレーシア・イスラーム党」(Islam Se Malaysia、略称PAS)は1990年にクランタン州の政権を握って以来、wayang kulit(影絵芝居)やmakyong(マレー演劇の一つ)といった伝統的な演劇やロック・コンサートは非イスラーム的とみなし、それらの公演を禁止した。伝統的な演劇は、治療を含む精神的な場において実施されるため、正統派ムスリムはこれらをharam(禁止)している。精霊は、このような演劇やイスラーム的でない舞台(インドの叙事詩ラーマーヤナ、マハーバーラタなど)にて呼び出されると信じられているためだ。さらに悪いことに、ワヤン・クランタンの道化師であるPak Dogolは、影絵芝居の英雄であるSeri Ramaの使用人となっているだけでなく、彼自身がヒンドゥの半神半人となっている。また、女性の声は、隠されなくてはならない身体の部分(aurat)とみなされるため、2002年以来、クランタン州で行われるコンサートやライブ・ショーにおいて女性は参加を禁じられている(Star, 19 September 2002)。 これまでメディアは、こうした保守的なムスリムの行動に焦点を当ててきた。しかしながら、ムスリム世界の他の地域と同様、ムスリムの間には、イスラームの実践や文化に関し、多様な解釈を受け入れる人々が存在する(Hefner 1997, p. 6-7)。マレーシアでは過去約20年間に、違いには気に留めながらも、近代性の挑戦を受け入れるイスラーム近代主義者の中間層が増加した。Gole (2002) が示唆するように、これらのムスリムは、近代的で、なおかつイスラーム的でもある文化を提示している。彼らにとって、音楽は、イスラームの言葉を広げるだけでなく、イスラームが近代世界に適応できる宗教だと示すための重要な役目を持っているのである。 本論文は、マレーシアにおいて、演奏者と聴衆をイスラーム的近代性に関する対話に引き込むイスラームのポピュラー音楽の一種、ポップ・ナシッド(pop nasyid)の展開を検討する。ポップ・ナシッドは、ポピュラー音楽における世界的な流行を取り入れ、新しい技術、メディア、マーケティング戦略を用いながらも、非西洋的なマレーシアの近代性を投影することで若者世代のムスリムを魅了している。ポップ・ナシッドのミュージシャンたちも、歌詞、音楽的要素、ビデオ・イメージ、衣装などを通し、自らを世界的なイスラーム運動の一端と結びつける。同時に、彼らはイスラームの近代的なローカルの解釈を再創造し、彼らの歌の中にローカルなマレーシアの音楽的要素を取り入れている。 マレーシアにおけるナシッドの展開 ナシッドという語は、「詩の朗誦」を意味するansyada から来ている。預言者ムハンマドがメッカからメディナへ行ったとき、彼は、メディナの人々からTola’al Badru’Alaina (ついに月が我々のところに昇った、multimedia section のwww.rabbani.com.myで参照可能)というナシッドの歌で迎えられたと信じられている。今日、ナシッド は、アッラーの賛美または他の宗教的なテーマ(普遍的な愛、良い道徳、イスラームにおける同胞愛など)についての歌詞を含むイスラームの宗教的歌謡を指す。  マレーシアにおけるナシッドの始まりは、第二次世界大戦前に、クルアン読誦の合間にイスラームの教師と学生がインフォーマルに歌ったときだった。ナシッドの曲は、イスラームの教義や預言者ムハンマドについての教えを広めるのに重要な役割を果たした。ナシッドの歌はまた、イスラームに基づく道徳や行動も奨励した。ナシッドはアカペラで歌われたり、あるいはrebana や kompang といったフレームドラムが用いられたりした。当初、歌詞はアラビア語だったが、次第にマレー語に変わっていった。1950~60年代になると、ナシッドは学校でも奨励され、州や国レベルの宗教省が組織するクルアン読誦の競技大会においても歌われるようになった。これらの競技大会においてナシッド歌手は、厳しい規則に従わねばならなかった。グループは、男性か女性かのいずれかで構成しなければならず、男女混成は許されなかった。女性は身体を覆い(tutup aurat)、男性は 頭にsongkokまたはkopiahをかぶらねばならなかった。上演中、すべての歌手は起立し、手は握るか身体の横に置いた。アラビア語とマレー語以外は使用できず、また、フレームドラムを除いた楽器の演奏は許可されなかった。また当時、ナシッドは、Awwal MuharramやAidil Fitri などの宗教儀礼でも歌われた(Matusky […]

Issue 8-9 Mar. 2007

批評するという選択:“Talking Drama with Utih” におけるKrishen Jit との出会い

      こうして、我々の演劇は、ある新しいものから別の新しいものへと移ろっていく。我々の前途には何が待ち受けているのだろうか?1970年代以前に存在していた、たくさんの規則から、我々の脚本家たちが一度は自由にしてもらって以来、予言はできなくなってきており、それを言うことは困難である。今日では、ただ一つだけの規則、すなわち、演劇は固定して動かない硬質なものではない、という規則だけが流布しているようである。しかし、自由と共に、重い責任が、特に広い心がまだ育っていない観客に対する責任が、やって来たのである。(1979年4月8日、Jit)   マレーシアのような社会環境、すなわち、(人種的、宗教的、加えて言語的に)異なった諸文化が、国家と共に、さまざまな権力関係の中で共存しているような場所では、パフォーマンスについて議論するという任務は、優越的な実践とその結果として生じる偏見を生み出すところの、社会‐経済的・文化的政策と絡み合うということをもまた、含意している。具体例を挙げれば、(民族集団別の不条理な所得格差を減少させることを目的とした)国家公認の差別是正措置と(マレー語のクレオール化による「不純化」を防止することを意図した)国家言語の使用と管理は、マレーシア人のディスコースを形作る、周期的に発生する論争点である。人種や宗教といった、文化の一定の側面が「センシティブである」と分類されて―すなわち、公共的な議論が公認されておらず、その限度を侵犯した時に重大な検閲がなされる―場合、アイデンティティや国民らしさに関する論争点とずる賢く取り組むパフォーマンスは、しばしば、網から滑り落ちるのである。   これらの場に対する慎重な注意は、批評と省察のための豊富な素材を提供する。しかしながら、批判的な分析が歴史への視点を提供し、芸術解読の技法を発展させるという思考の場を創出することへの挑戦が果たされることはめったにない。Krishen Jitの長く続いたNew Straits Times紙上の芸術批評コラムであるTalking Drama with Utihは、マレーシアの風土の中での、そんな場所の一つであった。それぞれのコラムは、パフォーマンス・イベントの批評のみならず、それに関連した論点を突く、巡り会いであった。これに肩を並べる関心と分析の深さを生み出している者が、もし他にいるとすれば、残念ながら、それは、ほんの二、三の例しかない。本稿は、Jitの批評するという選択の結果として―しばしば一つの記事の中で―伝統文化・現代的不安・同時代の切望との「出会い」を創り出した“Talking Drama with Utih”のいくつかを検討する。 “Talking Drama with Utih”(「Uthiと共にドラマを語りあう」) パフォーマンスの批評は、審美的な価値の評価を越えて、作品の背景となっている政治的コンテキスト(脈絡)と文化的歴史の探求へと及ぶものである。マレーシアのようなポストコロニアルな多元的社会においては、これは、選択肢を与え、反響を左右し、文化的容認の限界を決定するローカルとグローバルの双方の影響への意識的な自覚化を含むことになる。商品化されえないものとしてのライブ・パフォーマンスは、パフォーマンスの瞬間を越えた歴史的記録と反響については、批判的論評に依存する。これを実践することは、つかの間の一瞬を、洞察と出来事への感性とその意義を提供することになる、持続する記録へと置き換えるという、法外な努力を要求する。   “Talking Drama with Utih”は、マレーシアの英語新聞の中で、最も長く存続した芸術コラムであると認められている。世に認められた演劇界の長老であったKrishen Jit(1939~2005年)は、1972年から1994年に至るまで、毎週、Uthi―マレーシア文学における桂冠作家であるUsman AwangによるUda dan Dara(マレー語:UdaとDara)という劇の登場人物の一人―という筆名を用いて、マレーシアにおける演劇と芸術について書いた。劇中では、Uthi は、彼の人間のありかたに関する洞察が事態を紛糾させるのだが、それにもかかわらず、思考を刺激してくれる能力によって崇敬されている、賢明だが一風変わった村の年長者である。Uthiは、常に慣習やしきたりを信奉せず、そして、後でしばしば彼のラディカルな考え方や強力な批評のために誤った解釈に陥る。いくつもの点で、Jitのコラムは、彼に似た役割を演じていると言えよう。   30年間に及ぶマレーシア人の生活の、大きな変化の中にあって、Uthiの声は、アイデンティティ、モダニティ、教養、芸術における公正といった論争点を探求する間に、多元的で分裂した社会のダイナミズムと深く関わってきた。不条理劇、もしくは中国歌劇として―彼自身の限界を認める自由さをもって、それ故に権威主義的に見えることなく説得的に―Jitはローカルなものを国際的なものと関連させて、あるいは、その逆もまた同様に、解釈して提示した。彼は、自らの役割を、選択の贅沢さが、気まぐれな思いつきで選んだり拾い上げたりすることを可能にする、ブロードウエイやウェストエンドの評論家とは区別されるものだと理解していた。Jitは、マレーシア人の批評家は、時に、それが、進化しつつある一つ国民文化と特徴付けられるものとして、ローカルな実験を理解する困難な任務をやり遂げなければならならず、そして、それは作り手と観客の両方の利益のために議論されるに値するものだと信じていた(Jit、1986:5を見よ)。これは、なじみの無いものに注意を払い、自らの本能を信用し、客観性と絶対的な権威への誤った信頼に対してはっきりと挑戦することを意味する。 あなたがそこで使用されている言語が分からない時であっても、いかに多くのものを見たり聞いたりできるかということは驚くべきことである…まだ慣れていない人は、その場ですぐにコード化されたメッセージを解することはできない。また、舞台の袖でも続くようなジェスチャーの中に込められたニュアンスをきちんと理解することは不可能である…たとえ仮に、ため息の意味を知らなくとも各自の理由によってそれを楽しむことは可能である…だから、もし広東語を知らないとしても広東歌劇を見に出かけよう(Jit、1986年5月25日)。 “Talking Drama […]

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タイ現代文学の潮流 ―セーニー・サオワポンよりチャート・コープチッティへの流れを中心として―

はじめに   タイ現代文学においては、他の多くの分野においてと同様に、1973年のいわゆる「学生革命」前後が一つのturning pointとなるのであるが、本稿は、具体的な文学作品分析を通して1973年の前と後との傾向及び特徴の違いの一端を捉えることを、その狙いとしたものである。具体的には、1973以前の代表作としてセーニー・サオワポン『妖魔』を、以後の代表作としてはチャート・コープチッティ『裁き』を採り上げる。この二作品を採り上げる理由は、其々がいわゆるタイ文学の「純文学」系の評価としては、その頂点に立つものであると考えられるからである。   まず『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴を、「業からの解放」という視座から捉えてみた。管見によれば、セーニーは作品中で、文学にも長らく反映されてきたタイ社会に特有の通俗的仏教観念との対決・決別を示しているのである。即ち本来のものを離れ既に社会的に通俗化した運命の享受観や業への諦観(タイ語でいうプロム・リキット的側面)から離れ、運命或は業を改変できるものとして捉える「本来的な」業理解(カンマ・リキット的側面)へと我々を誘うものであると考えられるのである。   続いて『裁き(カム・ピパークサー)』の文学的特徴を「出家と実存のはざまで」といった視座から分析した。本作品はサルトル的な自己欺瞞の否定を謳っているといえよう。世界に寄る辺なく投げ出されている実存(人間存在)との対峙、およびその対極にある自己欺瞞(に生きる人々)の否定。あるいはタイ的自己欺瞞の一つである、苦は業に因るという観念或は苦は業の結果であるとする人々の批判(そうではなく苦は人間の実存の結果であるとしている)。さらには、タンブン(喜捨)をはじめとする一般の通俗仏教信仰への懐疑などである。しかし本作品に特徴的なのは、出家に「出口」を求めている点である。ここで出家という仏教的価値観については、文中の方丈の言葉がまさに暗示の如く通奏低音として作品中に流れている。そこでいう「仏法の世界」とは出家者としての仏法の世界であり、世俗と区別した出世間のことを指しているのはいうまでもない。それは他人との出会いにより自己の失墜を招く、実存と向き合わざるを得ない世間、即ち仏教的に云うならば、パーリ語で云うところのローキヤではなく、ロークッタラ、即ち出世間なのである。   それでは以下、具体的に両者の作品分析を行っていくこととする。  【1】セーニー・サオワポン『妖魔』-「業からの解放」    本論は、本邦に於いていまだ殆んど研究の手がつけられていないタイ文学をその素材としたものである。本論ではなかんずく、タイ現代文学においての、作家の社会に対する意識の位相を探っていきたい。我々とは文化的思想的背景を異にするかの地の文学は、自ずとその趣を別にするが、中でも顕著な特色の一つに、作家の社会に対する極めて鋭敏な意識・姿勢が挙げられよう。政治的社会的不安定は、その度重なる動揺を通し、近現代の文学者の社会意識をいやが上にも我々の考える以上に鮮明なものにしていった。その外からの眼としては、先づ、大きく東南アジア現代文学の特徴として、「東南アジア社会の文学は本質的にlittérature engagéeである」と指摘する者がある。東南アジアの作家たちは、いやが上にも政治や社会の現実と対峙し、そこから顔をそむけることが殆んど不可能であった過去があるであろう。その中には植民地化の問題に由来するものもあるだろうが、それを免れたとはいえ、タイにおいても社会の現実は非常に重く作家の肩にのしかかっており、逆に社会に対する作家の極めて鋭敏な意識・姿勢はタイ現代文学の色濃い特徴となっている。タイの文化文学にも造詣の深い文化人類学者のニールス・ムドラーは、インドネシア文学に比してタイ作家と社会の係わりを次の如く強調している。「タイの作家にとってその特徴をかたちづくる中心はsocial stage」であり、「ジャワ文学のself-centredな個に対してタイ文学の個はsocial settingの中に明瞭に規定されている」と。   加えて、内からの眼としては、長らくタイペンクラブ会長をも務めたニッタヤー・マーサウィスットは、タイ文学の特徴として、タイ作家の社会正義に対する意識は幾度の政治的動乱にも屈することなく、文学の責務として脈々と続いている旨の指摘を行っている。さらには、タイにはいまだトルストイやツルゲーネフや巴金、或はバルザックやゴーリキーや魯迅も生んではいないが、それでも良いところはある、それは政治に関して割と力強い思索をしてきた点である、といった面白い指摘をした者もいる。   それでは内外のタイ研究者が共通して認めるタイ現代文学に顕著な特徴である社会意識とは一体いかなる位相であるのか。ここではビルマ大使も務めたことのある現代有数の作家セーニー・サオワポン เสนีย์ เสาวพงษ์์(1918~)およびその代表作『妖魔』ปีศาจ を中心に見ていきたい。   その為の手順として、本論考では、先ず、セーニーのタイ現代文学における文学史的位置・役割を概観し、次に『妖魔』の作品分析を通して、その位相の具体的な例を抽出していきたい。  【1.1】セーニー・サオワポンの文学史的位置    セーニー・サオワポンは、タイ現代文学史上において「純文学系」の一つの到達点であると捉えられ得る。チュラーロンコーン大学のトリーシン・ブンカチョーン博士は、セーニーの干支七順目(84歳)を記念するマティチョン主催のシンポジウムにおいて、セーニーは文学によりタイを動かし、タイ小説の歴史を変えた。さらには、先見性に富んだ著作によって未来をも予見することのできる、タイ社会のみならず人類全体の作家である、との指摘を行なった。   ここでセーニーの文学史上の意義を考える場合は、先ずタイ現代文学史上での〈人生の為の芸術〉วรรณกรรมเพื่อชีวิต の動きを顧みなければなるまい。タイにおいては現代文学は常に政治との係わりにおいて、或はその圧迫を受けながら或はその抑圧から脱しながら、歴史が流れていくのであるが、その流れの中から〈人生の為の芸術〉と呼ばれる処の動きが生起する。この〈人生の為の芸術〉はまたタイ現代文学を俯瞰した場合には、そのメイン・ストリームを為すといっても過言ではないものでもあるのだが、その中でもとりわけセーニー・サオワポンの果たした役割は大きい。   セーニーは1952年のタマサート大学での講演の中で、この〈人生の為の芸術〉の立場を表明する。とりわけ「著作と社会」การประพันธ์กัปสังคมでは明瞭に作家の社会に対する責務を打ち出し、また同年の評論「ロマン主義とリアリズム」อัตถนิยมแลจินตนิยมにおいてはリアリズム文学の意義を唱えた。こうした立場は、同時代の高名な文芸評論家たるバンチョン・バンチュートシンの次の言葉に集約されるであろう。 人が飢餓のために死んでいっている時、月の美しさはなんの役に立とう。芸術家の責務は悲惨な光景を直視するところにある。   […]

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タイ現代文学の潮流 ―セーニー・サオワポンよりチャート・コープチッティへの流れを中心として―

はじめに タイ現代文学においては、他の多くの分野においてと同様に、1973年のいわゆる「学生革命」前後が一つのturning pointとなるのであるが、本稿は、具体的な文学作品分析を通して1973年の前と後との傾向及び特徴の違いの一端を捉えることを、その狙いとしたものである。具体的には、1973以前の代表作としてセーニー・サオワポン『妖魔』を、以後の代表作としてはチャート・コープチッティ『裁き』を採り上げる。この二作品を採り上げる理由は、其々がいわゆるタイ文学の「純文学」系の評価としては、その頂点に立つものであると考えられるからである。 まず『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴を、「業からの解放」という視座から捉えてみた。管見によれば、セーニーは作品中で、文学にも長らく反映されてきたタイ社会に特有の通俗的仏教観念との対決・決別を示しているのである。即ち本来のものを離れ既に社会的に通俗化した運命の享受観や業への諦観(タイ語でいうプロム・リキット的側面)から離れ、運命或は業を改変できるものとして捉える「本来的な」業理解(カンマ・リキット的側面)へと我々を誘うものであると考えられるのである。 続いて『裁き(カム・ピパークサー)』の文学的特徴を「出家と実存のはざまで」といった視座から分析した。本作品はサルトル的な自己欺瞞の否定を謳っているといえよう。世界に寄る辺なく投げ出されている実存(人間存在)との対峙、およびその対極にある自己欺瞞(に生きる人々)の否定。あるいはタイ的自己欺瞞の一つである、苦は業に因るという観念或は苦は業の結果であるとする人々の批判(そうではなく苦は人間の実存の結果であるとしている)。さらには、タンブン(喜捨)をはじめとする一般の通俗仏教信仰への懐疑などである。しかし本作品に特徴的なのは、出家に「出口」を求めている点である。ここで出家という仏教的価値観については、文中の方丈の言葉がまさに暗示の如く通奏低音として作品中に流れている。そこでいう「仏法の世界」とは出家者としての仏法の世界であり、世俗と区別した出世間のことを指しているのはいうまでもない。それは他人との出会いにより自己の失墜を招く、実存と向き合わざるを得ない世間、即ち仏教的に云うならば、パーリ語で云うところのローキヤではなく、ロークッタラ、即ち出世間なのである。 それでは以下、具体的に両者の作品分析を行っていくこととする。 【1】セーニー・サオワポン『妖魔』-「業からの解放」  本論は、本邦に於いていまだ殆んど研究の手がつけられていないタイ文学をその素材としたものである。本論ではなかんずく、タイ現代文学においての、作家の社会に対する意識の位相を探っていきたい。我々とは文化的思想的背景を異にするかの地の文学は、自ずとその趣を別にするが、中でも顕著な特色の一つに、作家の社会に対する極めて鋭敏な意識・姿勢が挙げられよう。政治的社会的不安定は、その度重なる動揺を通し、近現代の文学者の社会意識をいやが上にも我々の考える以上に鮮明なものにしていった。その外からの眼としては、先づ、大きく東南アジア現代文学の特徴として、「東南アジア社会の文学は本質的にlittérature engagéeである」と指摘する者がある。東南アジアの作家たちは、いやが上にも政治や社会の現実と対峙し、そこから顔をそむけることが殆んど不可能であった過去があるであろう。その中には植民地化の問題に由来するものもあるだろうが、それを免れたとはいえ、タイにおいても社会の現実は非常に重く作家の肩にのしかかっており、逆に社会に対する作家の極めて鋭敏な意識・姿勢はタイ現代文学の色濃い特徴となっている。タイの文化文学にも造詣の深い文化人類学者のニールス・ムドラーは、インドネシア文学に比してタイ作家と社会の係わりを次の如く強調している。「タイの作家にとってその特徴をかたちづくる中心はsocial stage」であり、「ジャワ文学のself-centredな個に対してタイ文学の個はsocial settingの中に明瞭に規定されている」と。 加えて、内からの眼としては、長らくタイペンクラブ会長をも務めたニッタヤー・マーサウィスットは、タイ文学の特徴として、タイ作家の社会正義に対する意識は幾度の政治的動乱にも屈することなく、文学の責務として脈々と続いている旨の指摘を行っている。さらには、タイにはいまだトルストイやツルゲーネフや巴金、或はバルザックやゴーリキーや魯迅も生んではいないが、それでも良いところはある、それは政治に関して割と力強い思索をしてきた点である、といった面白い指摘をした者もいる。 それでは内外のタイ研究者が共通して認めるタイ現代文学に顕著な特徴である社会意識とは一体いかなる位相であるのか。ここではビルマ大使も務めたことのある現代有数の作家セーニー・サオワポン เสนีย์ เสาวพงษ์์(1918~)およびその代表作『妖魔』ปีศาจ を中心に見ていきたい。 その為の手順として、本論考では、先ず、セーニーのタイ現代文学における文学史的位置・役割を概観し、次に『妖魔』の作品分析を通して、その位相の具体的な例を抽出していきたい。 【1.1】セーニー・サオワポンの文学史的位置  セーニー・サオワポンは、タイ現代文学史上において「純文学系」の一つの到達点であると捉えられ得る。チュラーロンコーン大学のトリーシン・ブンカチョーン博士は、セーニーの干支七順目(84歳)を記念するマティチョン主催のシンポジウムにおいて、セーニーは文学によりタイを動かし、タイ小説の歴史を変えた。さらには、先見性に富んだ著作によって未来をも予見することのできる、タイ社会のみならず人類全体の作家である、との指摘を行なった。 ここでセーニーの文学史上の意義を考える場合は、先ずタイ現代文学史上での〈人生の為の芸術〉วรรณกรรมเพื่อชีวิต の動きを顧みなければなるまい。タイにおいては現代文学は常に政治との係わりにおいて、或はその圧迫を受けながら或はその抑圧から脱しながら、歴史が流れていくのであるが、その流れの中から〈人生の為の芸術〉と呼ばれる処の動きが生起する。この〈人生の為の芸術〉はまたタイ現代文学を俯瞰した場合には、そのメイン・ストリームを為すといっても過言ではないものでもあるのだが、その中でもとりわけセーニー・サオワポンの果たした役割は大きい。 セーニーは1952年のタマサート大学での講演の中で、この〈人生の為の芸術〉の立場を表明する。とりわけ「著作と社会」การประพันธ์กัปสังคมでは明瞭に作家の社会に対する責務を打ち出し、また同年の評論「ロマン主義とリアリズム」อัตถนิยมแลจินตนิยมにおいてはリアリズム文学の意義を唱えた。こうした立場は、同時代の高名な文芸評論家たるバンチョン・バンチュートシンの次の言葉に集約されるであろう。 人が飢餓のために死んでいっている時、月の美しさはなんの役に立とう。芸術家の責務は悲惨な光景を直視するところにある。 こうした立場が、その後に与えた影響は甚だ大きく、とりわけ1973年の学生革命前後の文学界の思潮に与えた影響は計り知れない。学生革命前後に台頭してくるいわゆる新世代(ルン・マイ)の作家・評論家たちの多くは、セーニーらの打ち出した作家の責務という立場を強烈に踏襲していく。例えば、ルン・マイの代表的な評論家たるウィッタヤーコーン・チェーンクーンは、「社会に対する責務を持たない作家」は、「読者に毒を盛る」のに「自己の商品に責任を取らぬ儲け家商人と同等である」と表現しているし、また文学者ではないが他の諸々の文化的活動で有名なスラック・シワラックは、「作家の社会に対する責任は、父親の家族に対する責任にも比される。作家は作品人物の生を繰るのにプロム(ブラフマー神)と同じくらい価値を有する」と述べている。その他1957年に『人生のための芸術 人民のための芸術』を残したチット・プミサックを忘れてはなるまい。 サティエン・チャンティマートーンは、こうしたタイ文学史上におけるセーニーの文学史的役割を次の如く表している。「旧社会の不正義、非民主的非科学的な考えと闘った、社会の弱き者の人生のための芸術の開拓者。」或は、「普通の人に視点の基礎を置く歴史の場を拓いた前衛であり、1973年学生革命前後の思想・社会に多大な影響をもたらした。」 このようにタイ現代文学史上、とりわけ〈人生の為の芸術〉を核とする流れにおいて、セーニーは、創作及び評論の双方にわたって中心になる役割を担ったのである。  【1.2】『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴 本作の初出は『サヤームサマイ』สยามสมัย 誌(1953-4)であり、その後受け入れる出版社がすぐになく、初刊はクヴィエントーン เกวียนทอง 版(1957)である。物語は、農村出身の青年弁護士サーイ・シーマーと上流階級の娘ラッチャニーとの出逢いから始まり、ラッチャニーの両親をはじめとする旧社会の人々と彼ら新世代との価値観の対立などを軸に展開し、最後に彼ら二人がそれぞれに、農村に入り自らの未来を社会的に虐げられた人々の役に立てようと暁の空の下決意するところで幕を閉じる。 この作品は発表当初は殆んど反響は見られなかったが、後の民主主義運動の高揚とともに復刊され、絶大な支持を集め、タイ現代文学史上の最高峰の一つとしての定評を得るに至った。 先に述べた新世代(ルン・マイ)の代表的評論家たるウィッタヤコーン・チェーンクーンは復刊されたミットナラー版(1971年)の序文の中で次のようにこの作品を評している。  タイ国のような王子王女の恋愛物語(チャクチャク・ウォンウォン)やメロドラマ風のものしか生み出してこなかった小国にとって実に偉大な小説である。  またついで先鋭的文芸評論家たるサティエン・チャンティマートーンは、「真摯に仕事に取り組む新世代(ルン・マイ)のバイブルとなった」と述べ、トリーシン・ブンカチョーンは〈人生の為の文学〉を画期的に発展させ、内容と技法の両面に亘ってほぼ完成へと至らしたことを指摘し、強調している。 […]