Issue 14 Sept. 2014

ミャンマーにおける農業改革の最優先化

 ミャンマーの農業部門を長い間抑えてきたものは、政府の貧弱で押し付けがましい政策決定や、慢性的な信用不足、不十分で老巧化したインフラ、確固とした土地所有権や財産権の欠如であった。これらの障害がミャンマーの豊富な天然資源や農業の計り知れぬ可能性の前に立ちはだかり、長年、この国の(大多数である)農村部の住民たちの生活を特徴づける極度の貧困をもたらしてきたのである。  テイン・セイン政権の下では、ミャンマーの農業部門改革に関する多くの対話が行われてきた。「国民ワークショップ」は、ミャンマーの経済改革譚の目玉であるが、この第一回は農業をテーマとするものであった。このワークショップでは多くの提案が出されたが、それらは主に農村部のインフラの改善、手頃な投入財の利用を可能にする事、信用枠の拡大(主として小規模金融)などを通じた生産性の向上に関する提案であった。その後に開催された他の農業関連の会合の多くが、多角的機関や開発庁、(特に)海外の潜在的投資家たちに支援されたものであったが、そこでもやはり似たようなテーマが取り上げられてきた。 停滞する改革  それにもかかわらず、またこのレトリックが人目を引くにもかかわらず、実際にミャンマーの農業部門で実施された改革の実績は、未だに微々たるものである。ミャンマーの農業を包括的に変革する事が急務であるが、まずは農業部門を悩ませ続ける市場の歪みを取り除く事から始めなくてはならない。このコンテキストに顕著な事は、数多の生産管理や輸出規制、調達規則などであり、これらは中央政府から公式的に自粛させられてはいるが、先の軍事政権の名残として相変わらず存在している。近年の豆類の輸出国としてのミャンマーの成功は(ミャンマーは現在、世界最大の豆類輸出国の一つである)、この国の農民や貿易業者たちがマーケットシグナルに積極的に反応する事ができる事を示している。豆類の貿易は10年前に自由化されたが、これとは対照的に、その他のほとんどの商品には常に国家干渉の影響が存在する。  貿易に関する規制や制限を撤廃する事は必要であるが、それだけではミャンマーの悪化した農業部門の再生には不十分であろう。 ミャンマーの旧軍事政権の下、農村地域は常になおざりにされてきた。その結果、地方のインフラは危機的な状況に置かれ、多くの村落には国営市場(地域の市場にさえ)につながる利用可能な道が存在しない。肥料も多くの場所では入手不可能で、灌漑システムは沈泥に塞がれ、種や農薬、ポンプやその他の器具もほとんど無く、大方の燃料類は大抵が予算的に手の届かぬものとなっている。市場開放はこのような弊害のいくつかを解決するであろう。しかし、短中期的にミャンマーの農業部門に必要なものは、十分な公共支出や投資であり、これらは特に道路や橋、灌漑、発電や流通、また環境・資源の管理システムなどに対するものである。 求められる一層の改革とイニシアティブ  以下に簡潔にまとめたのは、ミャンマーの農業変革に必要ないくつかの対策である。これらは、ミャンマー経済をより広く変革するのに必要な対策と一致し、かつ「国際的ベストプラクティス」と考えられるものとも同義である。現在、この国では多くの機関(世界銀行やアメリカ合衆国国際開発庁(USAID)、様々な国連機関も含む)がこれを推進している。  ・ミャンマーの輸出許可制の廃止。 目下、これがミャンマーの農民の生産市場を人為的に規制し、その販売オプションを制限して出荷価格を押し下げている。世界市場に向けた生産には、より高品質な米の生産に対するインセンティブの強化という効果もある。このような米の価格は、現在ミャンマーがアフリカやその他の限られた範囲の海外市場へ輸出している砕け米の類に比べると、相当高価なものである。  ・いまだに存在する国内の米の取引・販売に対する地理的制約を解除すること。これらの制約は、ミャンマーの農民が生産物を不足地域(価格が高い地域)へ出荷販売する事や、取引の利益を広く享受する事を否定するものである。つまり、これらがミャンマーをいくつもの小さな市場へと分割し、価格を上下させて食糧安保を不安定にしているのだ。ミャンマーの農作物に対するこれらの制約を国内取引において解除する事は、有意義な改革の「手の届く成果」の一つとしては十分なものとなろう。  ・ミャンマーの農民に完全な「生産権」を付与する事。何十年もの間、ミャンマーの農民は各地域の条件もかえりみず、特定の作物(主には米)を生産するように仕向けられてきた。これが影響して生産量は減少し、農民の収入が低下する事となった。自分達で自由に「何を、どのように、いつ」生産するかを決める事ができれば、ミャンマーの農民は収穫率の高い作物を生産し、地元の条件に合う作業(例えば、園芸、小規模畜産、漁業などに多様化する)に移行する事が可能となるだろう。ベトナム(ミャンマーに関連する一規範として挙げたに過ぎない)では、このような「生産権」の付与が、ベトナムが世界的に重要な食物生産国として立ち現れる背後にあった唯一最も重要な政策であった。  ・市場知識の普及。世界の農業に最大の変化を与えた革新の一つは、携帯電話の利用拡大によって生じ、また、これによって市場情報へのアクセスも可能となった。この変化を容易に見る事のできるアフリカでは、農民やその他の人々が、異なる商業地域の市場価格を比較し、それに合わせて商品を供給できる力に、この変化が単純ながらも強く現れた。ミャンマーの通信分野の改革は現在進行中であるが、その成果はいまだに不明なままである。  ・有利な為替レートと輸入政策の実施。「マクロ経済の」要因の一つで、ミャンマーの農民の収入に重大な影響を及ぼし得るものが為替レートである。 昨年の喜ばしい動きの中で、ミャンマー政府はミャンマーのチャットを「管理フロート」制に変更したが、堅調な資本移動や資源収益のため、このレートは大きく値上がりした(1米ドルに対して850チャットにまで上がった)。その結果、ミャンマーの農民のあらゆる外貨収入が二通りの方法で減らされる事となった。第一にこの事で、ミャンマーの第一次輸出の価格がさらに値上がりし、他の供給者たち(特にその他の東南アジアで積極的に為替レートを低く保つ国の供給者たち)に対する競争力が弱まってしまった。第二に商品が米ドルで値段を付けられ、支払われるために、輸出収入をひとたび持ち帰れば、農民のチャット収益は減る事になる。無論、一定の為替レートを注意深く管理して定める必要はあるが、少なくとも、幅広い政策を策定する事によって、ミャンマーの競争力を強化するような為替レートを支える事もできるだろう。  また、必要な改革を実施して、ミャンマーの輸入許可制の自由化を図らねばならない。そのような動きは「必然的に」チャットの価値を下げ、同時に、ミャンマーの生産者や消費者たちが、より安価で完成度の高い商品(資本財及び消費財)や生産的資材を利用する機会をさらにもたらす事であろう。  ・農業保険の奨励。他の多くの国々では、法外な価格や生産高の減少に(また自然災害に)備え、農業保険制度によって農民の収入が保護されている。 これに関して特に有用なものは、いわゆるインデックス・ベースの保険契約である。これらの制度では、ある特定地域の収穫高が、長期的平均によって定められた値(あるいは、その他の適切な基準)を下回る場合、農民たちに損害賠償が支払われる。このようなタイプの保険制度の実用性としては、シンプルさ(例えば、農場ごとの査定を必要としないこと)や透明性(データは公開され、直接届けられる)がある。このような制度は、アメリカやインド、カナダ、モンゴル、その他の一定の国々で実施されており、世界銀行が特に好む制度でもある。自ずと政策選択は、このような保険に課された保険料に政府がどの程度の助成金を出すかという点になる。このような保険を適用する多くの国は、実に十分な助成金を提供しているのだ(これらの助成金には、世界貿易機構(WTO)加盟国の定めた公約に違反しないという美点がある)。  ・当然のこと、ミャンマーの農民たちが直面する最大の出費の一つは、手頃な正規の農村金融が存在しない事に由来する。最大手の複合企業に属する者以外、ほぼ全てのミャンマーの農民たちが十分な量の正規信用を利用できないという事は、小規模貸金業者のみが、大半の人々の唯一の拠り所であるという事を意味している。このような貸金業者が課す金利は高く、ひと月10%が標準である。良心的な金利の信用が不足した結果、ミャンマーの農民の多くは、単にこれを利用せずに済ませ、もはや生産性を高める肥料などの資材も使用しなくなっている。同様に、彼らは作付けや収穫の方法にも出費を最小限に抑えるようなものを採用しているが、これが生産高までをも減少させている。また、未払負債を抱えた農民たちは、次第に債務/不履行の悪循環に陥り、これがしばしば、彼らの土地利用権の喪失や貧困化という結果をもたらしている。  ・したがって、ミャンマーに有効な農村金融制度を作り直す事は、第一の優先事項とされるべきであり、手始めには資本の流れを生むための緊急改革がいくつか行われるべきである。その中には、ミャンマーの個人銀行の農民への貸付制限の解除、銀行で適用される金利の上限および下限の解除、銀行が受け取る許容可能担保を拡大し、これに全ての農作物が含まれるようにすること、世界の一流銀行で、商品供給網の太いコネクションを有するものに参入を許可すること、引き続きミャンマーの小規模金融の(慎重な)成長を推進すること、現行のミャンマー農業開発銀行(MADB)の改革、および資本構成の変更などがある。 土地改革  ミャンマーの農業部門の改善にとって、最も頑強な障壁の一つは、全ての農地が正式には国家によって所有されているという事実である。2011年の下旬には、二つの新法案がミャンマーの国会で発表された。表向きには農民たちに住居保有権の保証や取引可能な土地の権利を与えるために考案された農地法案と空閑地、休閑地、および未開墾地に関する法案は、実際のところ、わずかながらも、より多くの土地「接収」の機会を縁故者や巨大アグリビジネスにもたらす事となった。また、農民自身が「何をいつ、どのように」栽培するかを決める権利を否定する規定も依然として含まれたままで、その最も重要な条項は単に(農業・灌漑相の率いる)新たな執行機関に「土地収用」の決定を下すための諸権利を保証しているだけのようである。この「土地収用」は、これまでにも小規模農家から土地を接収するために用いられてきた。  ミャンマーの農民たちに自分の土地に対する有益な権限を与えること、さらにはその住居保有権を保証することが政府の最優先事項とされるべきだ。短期的には、上記の法律を再検討する事が必要となるが、一方で、大規模な農地接収に関しては、短期的猶予のようなものを設ける必要があるだろう。これらの早急な対策に加え、ミャンマーは他国における経験を分析するべきである。変革のシナリオの中での土地所有権の問題全体は、過去20年に渡って多くの国が取り組まなくてはならなかったものであり、その過程で多くの革新的な方法論も現れてきた(保護され、ほぼ普遍的な「マイクロ・プロット」から、慣習的保有権の習わしの様々な認識方法まで)。 結論  ミャンマーの農業部門は国民の大半を抱え、常にこの国のGDPに最大の貢献を果たしてきた部門でもある。長期的に、また、世界の食品価格の将来的な上昇や、近隣諸国のとどまるところを知らぬ需要、非常に豊富な給水といったコンテキストにおいて、ミャンマーの農業はこの国の経済復興を成功へと導く最大の鍵でもある。ミャンマーの現政権の任務は、この可能性を明示する事、そして、その際にアジアにおける平和と繁栄の源泉という、ミャンマーにふさわしい立場を回復する事である。 Sean Turnell・Wylie Bradford Department of Economics, Macquarie University   翻訳 吉田千春 Kyoto Review of Southeast […]

Issue 13 Mar. 2013

ブルネイ・ダルサラーム ―王室至上主義と現代国家―

          ブルネイ・ダルサラーム ―王室至上主義と現代国家―  ブルネイ・ダルサラーム(平和の家)は小さな独立国であり、東南アジアに唯一の君主国である。1984年に英国から独立して以来、ブルネイ王室はその権力を強化し、今やほぼ揺るぐことのない国家の支配権を手にしている。ブルネイにおける絶対君主制存続の理由は何であるか。本論では、ブルネイ王室がスルタンの座に権力を集中させる事に成功してきた事、伝統的、宗教的根拠を以てその正当性としてきた事、そして、自身を安定した政権として示してきた事について論じる。ブルネイ王室は政治改革への要求を何とか退けたが、これは効果的かつ迅速に、炭化水素による歳入を広く寛大な社会福祉制度の整備に用いたためであった。新伝統的政体であるブルネイのスルタン制度は、変化する世界情勢の中で、その適応性と抵抗力を示してきた。 歴史的背景  ブルネイのスルタン(ヤンディ・ペルトゥアン・ネガラ)は、600年間君臨し続けてきた代々のスルタンの家系につらなるものである。現在のスルタン、ハジ・ハサナル・ボルキア・ムイザディン・ワッダラーは、第29代目の支配者である。ブルネイの人口は少なく、40万人程度で、そのうち66%はマレー系 が占めている。ブルネイは2つの飛び地に分かれており、それぞれが東マレーシアのサワラク州にとり囲まれている。権力が頂点に達した16世紀以降は、スルタンの力が弱まり、19世紀には隣接するサワラクのブルック・ラージャらの圧力のもと、その領土が縮小した。消滅の危機にさらされたブルネイで、1906年に英国総督邸が設立された事により、待ち望まれた一時的猶予がもたらされた。居留期間末の1959年には、ブルネイに内政の自治が与えられ、スルタンには最高権力が付された。新憲法が公布されたのは1959年で、これによって、一部選挙に基づく立法評議会がもたらされた。 これに続いて、ブルネイ人民党(PRB)が立法評議会の民選枠の議席全てを勝ち取った。ところが、PRBは1962年にマレーシアとの統合に対する武装反乱を行い、そのため選出された候補者たちは政権を握る事ができなくなった。この反乱は英国によって素早く鎮圧されたが、ブルネイの政治史にとっては重大な出来事であった。ここで生じた脆弱性や不安の意識は今日までも広がっている。これはまた、当時のスルタン、オマール・アリ・サイフディーン3世にその存在意義を与えた。彼はそれによって非常事態の規定を課し、憲法改正を先送りにし、さらにはこの影響から、マレーシアに加入しない事を決断したのである。英国による憲法改正着手への圧力に屈する事を拒み、スルタンは1967年に退位、彼の息子ハジ・ハサナル・ボルキアに王位を譲った。 したがって、英国の植民地化は、弱く、分裂した君主制を活気づけ、これを中央集権的専制政治に変容させたと論じる事ができる。  新伝統国家の構築  多くの研究者達が、絶対君主制の存続に疑問を投げかけている。Huntingtonら、近代化を論じる理論家たちは、君主政権が近代国家建設の圧力に抗えないと論じる。 君主たちの直面しているものは、Huntingtonらが「王のジレンマ」と述べるものである。つまり、近代化は国王の権力や権威を削ぎ、彼らが拡大する都市部の中流階級などの有力な新集団と権力を分かつ事を求めるのである。 近代化理論では、中流階級が変化やさらなる政治参加を強く求める事で、最終的に君主制が破綻するという。しかし、石油に依存した中東やブルネイの湾岸諸国の君主制はこの事態を回避し、代わりに新伝統国家として発達、繁栄してきたのである。これらの君主制は依然として保守的、家父長主義的であり、極めて権威主義的である。彼らが用いる正当性の原則は、宗教や文化、伝統に基づくものである。さらに、急激な社会経済の発展に応じ、彼らは正当性の原則を拡大し、これに寛大な社会福祉制度に支えられた経済発展を含めたのであった。支配者たちは、頑丈かつ長期的な絆を国民たちとの間に築こうとしている。  1984年の独立後、ブルネイは制度構築という困難な課題に直面した。スルタンは絶対権力を行使したが、同時に、彼は近代国家運営の需要への対応を補佐する政府専門機関の設立の重要性をも理解していた。1984年には内閣形式の政府機関が公表されるが、スルタンは引き続き強大な権力を振るい、首相、財務大臣と内務大臣を兼任している。「王のジレンマ」を軽減させるため、スルタンは教養ある新エリート集団を政府に取り入れ、新興社会集団の間での不満を減らそうとした。これらの新エリート集団と手を組む事によって、スルタンは王家や伝統的エリートへの依存を軽減する事もできたのだ。テクノクラートや教養あるエリートが政府の要職に当たらされた。スルタンの息子、ハジ・アルムタデー・ビラ王子は1998年に皇太子に任命され、2005年には上級大臣に昇進した。彼には過去10年の間に、より重要な任務が与えられてきたが、彼が度々スルタンの代理を務め、公的行事を主宰し、各国要人らをもてなす事は、権限移譲が滞りなく行われる事を確実にするためである。独立以来、有効な代議政治を導入せんとする試みはほとんど無かった。スルタンと彼に近い親族達が、絶えず中央集権化を進めてきたのである。  教養あるエリート集団を、行政機関や政府官僚に取り入れる事とは別に、スルタンはまた、寛大かつ包括的な社会福祉制度を提供する事で、その他の住民たちにもより広く訴えてきた。ブルネイ経済は天然資源の採取に大きく依存しており、石油とガスに輸出収入の90%、国内総生産の半分以上を頼っている。 国家は最大の雇用主であり、現在ブルネイ人の25%を雇用し、政府は高い生活水準を供給している。 その一人当たりのGDPは、51.760米ドル と、アジアでは最高位である。スルタンの治世は、2011年にGDP2.6%の伸びを伴う安定した経済成長を見せたが、これは石油の価格が上昇したためであった。インフレは低く、個人所得税も存在しない。 スルタンの統治が寛大な社会福祉制度を提供する事ができる力は、被選挙権や有効な参政権が何もない政治環境の中、必要とされる正当性を国家に与えている。  ブルネイ社会は規制が厳しく、マスコミは厳重に管理されている。非常事態の規定は2年毎に更新されているが、君主制に対する深刻な問題は1962年以来、何も起きてはいない。どのような問題も、迅速かつ強力に処理されてきたのである。以前存在した政党の一つで、1985年に結党された国民民主党(BNDP)は、最終的に議会制民主主義が立憲君主制の元に設立される事、有事法の撤廃、そして選挙の再導入を求めた。 1988年、この党は即座に社会団体法のもとで登録抹消され、党首であったAbdul Latif Chuchuは有事法に基づき逮捕された。 他にも多くの政党が出現したが、それらの党員数は少なく、彼らは公に王家を批判する事を避けてきた。その穏便な姿勢にもかかわらず、これらの政党もまた登録抹消されたのである。唯一、今日のブルネイに現存している政党が国家開発党である。  2004年の憲法改正  ブルネイが21世紀を迎え、国家として成熟してきた事から、多くのブルネイ住民たちは、選挙の再導入や政治参加の機会を期待していた。 しかし、2004年に発表された一連の憲法改正は、スルタンにさらなる権力を与えるものであった。かつて部分的選挙に基づいた立法評議会が2004年に復活したが、議員は全て任命されたものであり、そこにはスルタンや彼の弟のモハメッド・ボルキア王子、皇太子、閣僚や社会の重鎮たち、様々な地方の代表者たちも含まれていた。 復活した立法評議会に与えられた仕事は、2004年の憲法改正を通過させる事であったが、これにはスルタンを絶対君主として確立させるために作られた、新たな法律が含まれていた。新たな改正はスルタンの権力を明確にし、彼に最高権力を付し、公私共の立場で彼を法に縛られぬ存在とした。この憲法改正は、立法評議会の役割をも損ねるものであった。選挙の規定をよそに、立法評議会はこれまで、任命された議員のみで構成され、会合は年に一度、三月に開かれ、国民が関心を持つ予算や統治の問題についての疑問が提起される。  1959年の憲法によると、立法評議会には助言の任務があり、いかなる法律を通過させるにもその事前の承認が必要であった。しかし、2004年の改正はこの規定を廃し、事実上、立法評議会を「追認するだけの無意味な議会」としてしまった。立法評議会のメンバーを決めるための直接選挙が、近い将来に行われる可能性は低い。2004年の憲法改正は、スルタンをブルネイの法制度の根幹、あるいは根本規範とする結果となったと論じられる。 Hortonは、この憲法改正が示している事が「実際そうなる事なく、王国に何らかの自由民主主義の衣を着せようとする願望」だと主張する。 国家イデオロギーの推進  独立達成に際し、スルタンが掲げたイデオロギーは、Melayu Islam Beraja(マレー主義に基づくイスラーム的王政、MIB)であり、これは国家への忠誠を奨励するものであった。このイデオロギーはスルタンの政治的正当性の重要な根拠となってきた。すなわち、これはイスラームを国家宗教に高め、マレー民族社会の権利や特権を掲げ、世襲制の王室が適切な統治機構である事を正当化するものである。このイデオロギーによって王室をイスラームの守護者と位置づける事が可能となり、王室にはさらなる正当性が授けられることになる。  MIBを考案したのはスルタンに近い官僚で、その意図はイスラームやマレー文化、スルタンに対する忠誠と結びつく国家アイデンティティの定義であった。 MIBの忠実な提唱者の一人であるペヒン・ハジ・アブドゥル・アジズ・ウマル前教育相は、600年間実践され続けてきた統治制度はマレー世界独自のもので、スルタンの権力は絶対である、と懇切に語っている。 MIBはまた、西洋民主主義の概念よりも受け入れやすい代替案だと言われているが、これはMIBがスルタンと国民との間の特別で親密な関係に依存しているためである。スルタンはこのイデオロギーが「神の意志」であると宣言したが、これはブルネイ国民が絶対王政にまつわる規範や価値観を受け入れるよう、適応させるために画策された企てであったと論じたくなる。  ブルネイの君主制は家父長主義的、かつ独自のものである。スルタンは国家の象徴として、あるいは、国民の忠誠の的として描かれる。彼は公務に強い関心があると述べ、遠方地域を開発計画の進捗状況の観察に訪れている。 毎週金曜日の祈りを国中のモスクで順繰りに行う事で、彼は自分と神との緊密な関係や、イスラームへの強い傾倒を示して見せる。しかし、その結果、スルタンには非の打ちどころがあってはならないという事にもなる。なぜならば、彼は政治的指導者としてだけではなく、道徳的に高潔で模範的な人物とみなされるためである。善良でクリーンな統治に対する期待はまた、王室の他のメンバーにも向けられる。国民たちは、スルタンの最年少の弟で、元財務相のジェフリ王子をめぐる法廷闘争に関心がある様だ。彼は1990年代の後半に、金額にして150億米ドルの国費を横領したために告発された。正当性を維持するべく、スルタンは即座に弟の行為を非難し、費用のかさむ訴訟手続を通じて国家資産の回収を試みた。 将来の展望  新伝統国家として、ブルネイは国民の現代的要求に応じ、安全と安定を提供できる事を示してきた。しかし、21世紀になり、ブルネイが国民国家として成熟するにつれ、現代国家を運営する上での圧力や緊張感が明らかとなった。スルタンは社会福祉や公共財を提供できる国家の能力が、物価の上昇の結果、絶えず圧迫されている事を意識している。ブルネイは歳入を石油やガスに依存し続けており、経済を多様化させようとする努力は望ましい結果を生んでいない。さらに、この国はガスや石油の価格と生産の変動による影響を受けやすい。現代ブルネイ君主制にとり、その課題は国家が常に公共財や高い生活水準に対する国内の需要に応じられることを確実とする事である。スルタンは、それが王族のエリートであれ、将来有望な中流階級であれ、彼ら政権の支持者たちが確実に、スルタンの政権の正当性を実証し続けるように気をつけていなくてはならない。政治参加が無い中、スルタンはより広く、都市部や地方の支持者たちにアピールするため懸命に働きかけ、今後もずっと慈悲深い支配者として、彼らの信頼と信用を得なくてはならないのだ。 Naimah S Talib Adjunct Fellow, Political Science Department, University […]

Issue 12 Sept. 2012

死者の歴史、生者の遺産:シンガポールのブキット・ブラウン墓地

遺産は過去の社会的役割を考察する上で十分なものではない。遺産には過去を取捨選択し、不完全な歴史的解釈を生み出す傾向がある。それはしばしば、歴史的変化に影響されぬかのような過去を創作する。遺産は整然としており、賛美的で表面的なものであるが、史実はそうでない事が多い。 […]

Issue 12 Sept. 2012

ゾンビとの出会い―東南アジア仏教におけるゾンビへの考察

          とりわけ、ゾンビや屍については、ほとんど研究される事の無いものではあるが、最も有名な現地資料の一つにVetāla-prakaraṇam(ゾンビの物語集)がある。Vetāla-prakaraṇamはprakaraṇam文献全体の一ジャンルであり、東南アジアに広まり始めたのは、証拠となる写本によると15世紀である。prakaraṇam文献の中で最も重要なものには、Vetāla-prakaraṇam(ゾンビ物語集)、Nandaka-prakaraṇam(雄牛物語集、実際のところ、インドの言語、ジャワ語、タミル語、そしてラオ語の物語では、あらゆる種の動物が一頭の雄牛を訪ねる物語である)、Maṇḍūka-prakaraṇam(蛙物語集)、Piśāca-prakaraṇam(幽鬼物語集)、Pakṣī-prakaraṇam(鳥物語集)であるが、これは物語によってはŚakuna-prakaraṇam(どちらもサンスクリット語で鳥の意味)と題される事もある。これらは通常は短編集で、怪物や動物を主題とした物語である。しかし、この呼称はまた、少なくとも一例において、特定の都市の成り立ちや特定の像、及び遺物の来歴にまつわる歴史物語集にも用いられる。これらの書物は、中世日本の説話物語や、中国の志怪小説の物語に幾分似たところがあるが、ヨーロッパなどで見受けられる動物寓話集とは似ていない。これらは、幻想、怪奇的な生き物の世界への詳しい入門書ではないが、物語に登場するのは、動物や人の姿をした悪魔や幽鬼、半獣などである。prakaraṇamのジャンルは、鳥や蛙の物語集と、その他の種や超自然的存在である幽鬼、怪物などの物語集とを区別しない。東南アジアのそれぞれのprakaraṇam文献に収められた、これらの物語の多くは『パンチャタントラ』や『ヒトーパデーシャ』、『カタ―・サリット・サーガラ』その他、インドの物語集のサンスクリット語の物語に由来する。しかし、その他のインドの物語と同様に、東南アジアの物語の多くは対応するインドの物語とは、かなり異なっている。特にラオ語とタイ語のPakṣī-prakaraṇamは『パンチャタントラ』の、主に第三巻の様々な物語に間接的に由来している。しかし、これらが直接的に東南アジア(特にジャワ、北タイ、シャン地方やカンボジア)に初めて紹介されたのは、Tantropākhyāna(ラオ語ではMun Tantai、タイ語ではNithan Nang Tantrai、ジャワ語ではTantri Kāmandaka、あるいはTantri Demung)を通じてであった。    この物語集のインドにおける最古の写本はマイソールで発見されたもので、時代は西暦1031年に遡る。サンスクリット学者や南インド文学の専門家であるEdgerton、Venkatasubbiah、Artola達は、サンスクリット語文献の異本や、タミル語、カンナダ語、マラヤーラム語で、作者がインド人のVasubhāga、Viṣṇuśarman、Durgasiṃhaらとされる物語の由来を明らかにした。それらはBhāvadevasūriの編纂したジャイナ教の聖者パールシュヴァナータの物語に類似している。 当然、これらの物語のうち、より広く知られている物語は中央アジアや中東の諸言語にも見られる。例えば、パフラヴィ―語やペルシア語、シリア語の物語である『カリラとディムナの物語』(『ビドパイの寓話集』としても知られる)は、Pakṣīや『パンチャタントラ』のいくつかの鳥の物語に近似している。これらの物語の中には、ギリシア語、アラビア語、ヘブライ語やスペイン語に翻訳されたものもある。大変人気の高い『鳥の会議(ペルシア語:Manteq at-Tair)』は、12世紀の詩人Farid ud-Din Attarの作であるが、構想や登場する鳥がPakṣī-prakaraṇamのそれに酷似している。    Syam PhathranuprawatとKusuma Raksamaniは、これらの原典と思しきインドの文献を広範に研究し、さらにはこれらをジャワ語の物語と比較してきた(しかし、仏教文献との比較は行われていない)。Kusumaの研究はNandakaprakaraṇamに集中しているが、彼はNandaka、Pakṣī、Maṇḍūka、Piśācaの諸文献が、タイ北部に1400年代の半ばにもたらされた事、また、これらがおそらくVasubhāgaの物語に由来する事を示しているが、Pakṣīの大部分はViṣṇuśarmanの系譜に連なるようである。これに相当するパーリ語文献は発見されておらず、北タイ語の写本はニッサヤ形式によって記されたものであり、これはパーリ語ではなく、サンスクリット語文献に由来する。中には、サンスクリット語の言葉がパーリ語に翻訳されている例もあるが、これらの文献の本格的なパーリ語訳は、北タイ語方言への翻訳と注釈より前には存在しないようである。Syamは、北タイ語やラオ語、タイ中央部の言語によるTantropākhyāna物語が全く異なるという点を強調している。Tantropākhyānaのタイトルは、サンスクリット語でTantrī、あるいはTantrū、ラオ語、タイ語、ジャワ語の物語では、Nang Tantai 、Nang TantraiあるいはTantriとされる女性の名前に由来するものである。この女性が王に様々な物語を聞かせた事によって、理論上では360編ほどの物語が伝わったとされているが、通常、東南アジアの物語集には80編から90編の物語のみが存在する。    Vetāla-prakaraṇam、あるいはタイ語で一般にNithan Wetanというこの物語は、タイで有名なものであり、過去数年間のうちに数編の現代版が存在した。それらは過去四世紀に渡って、ラオ語やタイ語で流布していたサンスクリット語の物語集の中の、20編から25編の物語を題材としたものである。この物語集は、サンスクリット語や幾つかの現代東南アジア言語の様々な物語に見出される。この最古の物語集には、どうやら25編の物語が収められていたらしく、10世紀頃よりVetālapañcaviṃśatiというタイトルが付けられていた。これは後にソーマヴェーダが編纂した『カタ―・サリット・サーガラ』に組み込まれることとなった。Theodore Riccardiは、ネパールで知られているJambhaladatta版の物語に関する学位論文を書いた。この物語11編のうち、人気の高い一編がRichard Burton作の「Vikram and The Vampire」となったが、Arthur Riderの「Twenty-Two Goblins」もまた、この物語の不完全な翻訳である。 この文献ではそもそも、これらの物語がVikramādityaという名の王によって語られたとされているが、この人物は東南アジアの写本では物語の作者と認識されている。   東南アジアの物語では、Vikramādityaは木に吊るされた死骸と一連の対話をする王である。これは生ける屍、もしくはヴェターラー(タイ語ではwetan)として知られるゾンビである。王はこのゾンビを捕らえて担ぎ、バラモンの預言者(サンスクリット語ではṛṣi、タイ語ではphra reusi)のところへ運び、この預言者から神秘的な力を授かろうとしている。ゾンビは繰り返し、王に様々な生き物にちなんだ広範で、しばしば、とても滑稽な物語に関する謎をかけては逃げてしまうのであった。ゾンビは王に謎をかけた後に(奇妙な事に、王に正解を当てさせておいて)王の肩を飛び下り、元通り木に登ってしまうのであった。例えばある物語ではオウムと九官鳥が、女と男ではどちらがより無知であるかと議論をする。九官鳥はある恩知らずな男の話をする。美しく裕福な女性に愛されながら、彼女から盗みを続け、彼女を捨ててしまった男である。オウムはある女の話をする。彼女は結婚しているにも関わらず、長い間、あるバラモンと浮気を続けている。ところがある日、このバラモンは彼女の部屋に忍び込んだ泥棒と勘違いされてしまう。彼女の召使いに頭を殴られた男が横たわって死にかけていると、女は彼を生き返らせるために、その口から息を吹き込もうと試みたのであった。しかし、彼は断末魔の苦しみから、図らずも彼女の鼻を食いちぎってしまった!彼女は自分の美貌が損なわれた事を夫のせいにした。この夫は彼女に非が無ければ、王に死刑にされていたところである。ゾンビは王に、男と女で本当に酷いのはどちらであるかと尋ねる。王は「女」と答えるが、その答えは何ら客観的な理由もなく、ゾンビが正解と見ていたものである。また別の物語では、あるバラモンの父母が、彼らの年若い息子の突然の死に悲しんでいた。彼らが息子の亡骸を墓地へ運ぶと、そこには年老いたヨーガ行者がおり、彼は初めにその子を見て泣いたが、その後、飛び上がって小躍りし、その子の亡骸に乗り移るために魔術を使った。両親たちは、自分たちの子供が生き返った様子を見て大喜びであった。しかし、その子は禁欲的なヨーガ行者として余生を過ごす決意をしたのである!ゾンビは王に、このヨーガ行者が初めに泣き、それから小躍りした理由を尋ねた。王は再び正しく答え、ヨーガ行者は自分の古い肉体を失う事を悲しみ、それから新たな若いバラモンの肉体を得る事に喜んだのであると言った。他にも恋愛や毒殺、遊女の話、魔法によって性が入れ替わる話など、謎かけ物語が多く存在する。この王とゾンビの物語の終わりに、ゾンビは人間や動物の習性に対する洞察から、その苦行者が王を殺し、ゾンビの力を利用せんとしている事を王に警告する。このゾンビは王を怖がらせるのではなく、最終的には王の命を救い、彼の霊的な味方となるのであった。  […]

Issue 12 Sept. 2012

アスワンを探して―フィリピン社会の怪談・化け物・妖術師 東 賢

はじめに―1枚の絵画    数年前、福岡に行った際に、かねてより気になっていた福岡アジア美術館へと足をのばしてみた。充実したアジア各国の絵画・美術作品の展示の中で、フィリピン人画家カルロス・フランシスコの「教育による進歩」の前で、私は立ちすくんだ。フィリピンの教育と発展という啓蒙的なイメージが描かれる中で、切り離された上半身から内臓を垂らしながら、作品上部をノイズのように漂う異形の姿は、まぎれもなくアスワンだった。教育と発展の中で消え去るべき「迷信」のイメージが、そこには集約されていた。まさか、こんなところでまたアスワンに再会することになるとは。どうやらアスワンを探す私の旅は、まだ終わってはいないらしい。  アスワンの過去と現在   アスワンとは、フィリピンのとくに低地キリスト教社会において、民間信仰や口頭伝承の中に頻繁に現れる超自然的な存在である。多様に語られるアスワンの姿は、大きくまとめれば(a)吸血鬼、(b)内臓吸い、(c)獣人、(d)人喰い鬼(e)妖術師の5つに分類できるという[Ramos 1990]。私がカルロス・フランシスコの絵画の中にみたのは、「内臓吸い」の姿で漂うアスワンであった。さらに近年、メディアや都市伝説の中で、その姿はさらに多様さを増しているようである。    私がアスワンと出会ったのは、マニラのある大学で留学生活をしていたころだった。男子学生寮は4人ずつの相部屋で、各地からマニラへとやってきたフィリピン人学生たちは、忙しい勉学の時間の合間にも語り合ったり遊んだりすることを忘れず、賑やかな日々が続いていた。そんな中、深夜にベッドで眠りにつく前に、ルームメイトたちが静かに語る怪談話に耳を傾けるのも楽しみの1つだった。そして、そんな他愛もない怪談話の中で、アスワンはよく語られていた。地域差はあれど、アスワンについてはある程度定型化された語りのフォーマットがあるようで、異なった地域出身のルームメイトたちもその面白さと怖さを共有しているようだった。私は次第に、フィリピンの怪談という二重の異世界の魅力に引き込まれ、アスワンについてもっと知りたいと欲するようになっていった。    調べてみると、さかのぼればアスワンは、フィリピンへの植民者であるスペイン人の記した15世紀や16世紀の歴史資料にすでに登場していた。そこでは、カトリックを布教しようとするスペイン人宣教師の目から見た「原住民の迷信」として、またカトリックの神に反する「悪魔」として、アスワンは描かれていた[Plasencia 1903-9; Ortiz 1903-9]。それが、スペインとアメリカによる統治期、そして第2次世界大戦の日本による軍政期を経て独立の後、マルコスの独裁政権におけるナショナリズムの流れの中、アスワンはフィリピンの国民的な民間信仰や口頭伝承としての地位を獲得していく。中 でも、上述のラモスによる研究は、ほぼフィリピン全土にわたるアスワンの口頭伝承の収集、記録作業を行ったものであり、農村や漁村から都市部まで国家レベルでの信仰と伝承の流通と、その共通性と多様性がともに示されている。そのように、「国民的な化け物」としての地位を確立したアスワンは、さらにその語られるコンテクストを広げていくのである。  メディアの中のアスワン  「国民的な化け物」としてのアスワンは、地方の農漁村や山奥に身を隠しているだけではない。その姿は都市伝説の中で語られる、マニラのハイウェイを疾走する老婆の姿であったり、また出稼ぎ先の国外で邪悪な力に感染し、帰国後自分の子を殺し食べてしまう母親の姿であったりする。地域共同体の中で育まれてきたであろうアスワンについての想像力は、一地域を超えたナショナルなレベルで、またときに国境を超えたグローバルなレベルに展開しているのである。  またさらに、様々なメディアの中にもアスワンは頻繁に登場する。驚くべきは、タブロイド紙を中心に一般紙でもアスワンの出現が報道されることである(もちろんその「事実」が最終的に検証されることは稀であるが)。また、フィクションとしては、アスワンを取り上げたりモチーフにした小説やコミックなど数多く、さらに近年の特徴としてはテレビ番組や映画など、映像メディアの中でも扱われることが挙げられる。  国語であり共通語であるフィリピノ語で制作されたいわゆる「タガログ映画」の中に、アスワンを題材にしたヒット作がいくつかある。人気ホラー映画シリーズShake Rattle & Roll II (1990)に収録された”Aswang”や、2011年にもリメイク作品が制作されたAswang(1992)などが代表的なものであるが、近年はアスワンをモチーフにラブコメディ風に仕上げたAng Darling Kong Aswang(2009)やラブロマンスの要素を強くしたCorazon: Ang Unang Aswang(2012)などジャンルも横断的になっている。  アスワンの故郷?   日常生活の中で、また現代的なコンテクストにおいても、アスワンが頻繁に語られ描かれる中で、その表象がある特定の一地域と関連付けられる傾向がある。それは、西ビサヤ地方のパナイ島にあるカピス州を「アスワンの故郷」だとする語りである。    私がカピス州の州都ロハス市で、2000年ごろから長期滞在調査をすることになったのも、「カピスがアスワンの故郷だ」という語りを多く、マニラの友人たちから聞いたのが理由である。日本人の大学院生がなぜかアスワンに興味を持ち、それを研究の対象にしようとしていることを聞くと、皆口をそろえて「カピスがアスワンの故郷だ」と、私に意味ありげに告げるのである。そのようにいわれる何かがカピス州にあるのか、という関心から、私はカピス州ロハス市での長期滞在調査を実施することを決定した。    ところが、いざロハスに到着して、アスワンについて聞きまわっていると、人々の反応は好ましくなく、非協力的で、ときに暴力的なまでの反感を抱かれることもあった。アスワンについては語りたくないという態度から、カピスにはアスワンなどいないという反応まで、とにかく私の聞き取り調査はことごとくうまくいかなかった。その調査の不調の理由を知ったのは、しばらく経った後、ロハス市内にあるカピス州の地方新聞社を訪れたときである。週刊の新聞のバックナンバーを調べていると、そこには90年代の半ばごろから数カ月に1度のペースで、アスワンに関する記事が掲載されていた。それら記事の主題は、「アスワンの故郷」という外部からの表象に対して、それを受け入れるのか、否定するのかというものだった。とくに、1999年に全国公開された映画Sa […]

Issue 12 Sept. 2012

ドゥクンとインドネシア政治

         スハルト政権崩壊後のインドネシア政治研究では、インドネシア政治という電車の無賃乗客のように、ドゥクン(呪術師)の存在は拒否され扱われてこなかった。政治においては、合理的で客観的だとされる側面にばかりこれまで関心が寄せられてきた。しかし、とりわけインドネシアの政治闘争においてドゥクンを利用するという現象は古くから続いてきたのであり、到底無視することなど出来ない。ドゥクンが重宝されてきたのは、政治闘争で彼らを用いれば、ドゥクンの利用者に権力と安寧をもたらすと信じられているからである。    この小論考では、現代政治におけるドゥクンの役割を描きたいと考えている。ただし、本稿はドゥクンのもつ呪術的な力が実在するのかどうかを経験論的に証明しようとするものではない。本稿は、多くの事例にみられるドゥクンを利用するという現象は、インドネシアの政治闘争とは切っても切り離すことが出来ず、現代民主主義の試金石ともみなしうる世論調査機関が乱立するようになった今でもそのことは当てはまるのである。  スハルト政権期におけるドゥクン    社会現象としてのドゥクンは、人々の日常生活とは無縁なものではない。ドゥクンとは呪術的な力とエネルギーを持つと信じられ、自分のために、或いは他者の依頼を受けて、密かに、そして、謎めいた方法でその力とエネルギーを使うもののことである。その力とエネルギーにより、対象となる人物の救済や健康の回復を行う場合もあれば、その逆に、対象となる人物に恐怖心を引き起こしたり、災厄をもたらしたりする。    一般に、「白いドゥクン」と「黒いドゥクン」がいることが知られているが、その区分 はまったくもって社会的文脈しだいである。「白いドゥクン」は救済や回復の祈願など、「善」を目的とするものであり、「黒いドゥクン」は他人を傷つけるだけでなく、殺害までも行う、「悪」を目的とするネガティブなものである。    ドゥクンはその行為類型で分類することもできる。たとえば、人間と精霊を媒介するドゥクン・プレワガン(dukun prewangan)、助産ドゥクン(dukun beranak)、災厄除去するドゥクン・シウェル(dukun siwel)、さらには人体に金・ダイヤモンド・クリスタル石から作られた細い針を埋め込むことで美容・権威・権力を確約するドゥクン・ススック(dukun susuk)もいる。呪文やハーブによって治療を行うドゥクン・ジャンピ(dukun jampi)、ドゥクン・サンテット(dukun santet)、ドゥクン・テルゥ(dukun teluh)、ドゥクン・テゥヌン(dukun tenung)は呪術で敵対者に災厄をもたらすことができる。dukun leak (バリ)、dukun minyakkuyang(南カリマンタン)など、インドネシア各地に特有のドゥクンの呼び名がある。    一方、政治におけるドゥクンとは、ドゥクンの利用者が政治において、とりわけ地方首長直接選挙のような政治闘争において、利得や勝利をもたらすことを約束する。政治現象としては、ドゥクンの存在は、独立以降の近代民主主義の展開と軌を一にしてきた。インドネシア政治におけるドゥクン現象に関する学問的な記録はほとんどないが、政治ドゥクンは政治のダイナミクスにおいて一定の地位を占めており、新秩序期には権力の一翼を担っていた。地方政治アクターたちのみならず、「大人物(orang besar)」としてのスハルトもこの灰色の世界と密接な関係を持っていたと言われている。    当時、ABG、すなわち国軍(ABRI)、官僚(Birokrasi)、ゴルカル(Golkar)からなる比較的シンプルなパターンに基づいて政治的リクルートが行われていたものの、ドゥクンの入り込む余地がなかったわけではない。実際には、ドゥクンは特別の地位を保持していたものの、秘匿とされていたのであった。権力者の「承認」を獲得することがカギであったため、ドゥクンの仕事はこの閉じられたダイナミクスの中で「承認」を得るための方法やアクターを見出すことであった(mbah Limリム老師へのヒアリングに基づく。2012年1月17日、シドアルジョにて)。ドゥクンとは、信頼に足る助言者として重要な存在とされていたのである。また、ドゥクンは政敵、あるいは将来政権にとって脅威となる政治仲間を排除するためにも用いられた。ドゥクン・サンテットであるキ・グンデン・パムンカス(Ki Gendeng Pamungkas)は政治家や権力者の取り巻きから、その政敵のみならず、いずれ「悪巧み」をしうる同僚に呪術をかけて生命を奪うよう依頼されることもよくあると述べている。    スハルトのリーダーシップにおける神秘的な側面は、確かにジャワのリーダーシップに関する文化から説明できよう。しかしながら、社会事実としてそのリーダーシップは精神的・霊的助言者に故意に依存していたのである。スハルトのリーダーシップを「守護する」忠実なドゥクンたちも存在した(Liberty, 1-10 Juni 1998)。全国に少なくとも「1000人のドゥクン(seribu […]

Issue 11 Mar. 2011

地方政治におけるインドネシア華人:評論文

 序文  1998年5月の悲劇的な事件以来、様々な変化が生じた。それには(2006年に第12号として公布の)市民権法の最新の改正もあり、これはインドネシア華人達に自分達の文化的アイデンティティを示すための社会的、政治的な場を提供した。それにも関わらず一部の華人達は、事態が新秩序時代さながらの危険を孕むものであると見ている。中国の新年を祝う竜舞を禁じた市長命令127の発布前後である2008年初頭、ポンティアナックのマレー人達によって示された反中感情は、華人達の立場がいかに不安定であるかを示すものであるとされている。これに先立つ2004年10月12日、新たに選出されたジュスフ・カッラ副大統領の発言(シナール・ハラパン 2004年10月12日)にも、華人ビジネスマン達を中小企業及び大企業において異なる待遇で差別しようとする意図があり、華人達がいまだに平等な市民として扱われていない事を示すのであった。  明らかに、華人差別廃止に関する政府の諸政策のほとんどがレトリックである。たとえプリ(先住民) 及び、ノン‐プリ(移民)という言葉が、もはや公式な政府方針や事業で用いられるべきではないとする指令が、ハビビにより現に法制化(1998年大統領令第26号)されたとてもそれは同じである。同様に、アブドゥルラフマン・ワヒドが大統領職にあった2000年の大統領令第6号の発布により、中国の慣習や伝統の実践を個人的領域に制限する1967年の大統領決定第14号が無効となり、多くの中国人や現地インドネシア人達はこれを華僑差別の終わりであると見た。しかしこれらの政治的気配や法的改正が、華僑と現地インドネシア人達の間に長年培われてきた対立に与えた影響は、ごくわずかなもの過ぎない。ポンティアナック事件が正しく解釈されるなら、華人達は未だに差別を受け、深く恨まれている。  事件が起こったのは、ポンティアナックのある華人がダヤック人と共に西カリマンタンで知事、副知事の座を勝ち取った直後であった。ポンティアナックのマレー人達には、華人の地元政治関与への切望と要求は、明らかに受け入れられないものであった。  ジェマ・パーディ(2005:23)は、少数派華僑をめぐる状況の変わらぬ現実を、現地インドネシア人達の間にわだかまる華人の忠誠心に対する疑念と、彼らの認識を歪め続けている華人の経済的役割や、国家経済における支配力のレベルに関する神話のためであるとした。彼女は、我々が「反中暴力やその他多くの暴力を単に国家主導のものとする分析を再考するべきである」と論じる。なぜならば、彼女の研究した1998年5月以降の諸事件により、「大衆が暴力や反中感情と嫌悪の一連の記憶を持つに至る限度」が示されたためである。彼女は「華僑の経済的圧力、その周辺的地位への追い込みや不正との関係が、インドネシア人の心に深く刻み込まれている」と確信する。彼女の意見では、このために華人達の立場は「未だに深刻で一定の用心を必然とする」ものなのである。  ジェマ・パーディの見解は、「華人に向けられた人種的暴力には、明らかに経済的要因が作用している」1と結論付ける、その他の反中暴力に関する諸研究と大いに一致するものである。例えば、コロンビィンとリンドブラッドは次のように述べている。「1912年のサレカット・イスラームの設立以来、インドネシア華人達は、独断的なムスリム達が自分達のビジネス上の優位を華人に妨げられたと感じる度に、繰り返される大量虐殺の対象となったのであった。」  ゆえに、彼らにしてみれば、「暴動は、インドネシアでは偶然にも華人の顔をした資本家階級への抗議を表すもの」なのであった。この見解を支持したのはキース・ヴァン・ダイクである。 彼は「近代的な生産方式が人々を不公平な競争や、労働市場で他集団に太刀打ちできないという危惧にさらし、戦争(第一次世界大戦)初期の日々の食品の値上がりは、華人業者や小売商達のせいにされた」と論じた。それでも、彼の認めるように、数年後までは反中感情が暴力的噴出に至る事はなかった。 1946年にインドネシア革命を受けて起こった暴動は、極めて狂暴であった。これは、華人が現地人の経済的競合者として恨まれたに止まらず、オランダの協力者としても憎まれたためであった。当時、いわゆる「経済的国家主義」も、おそらくその一因となりつつあった。このため1960年代には、よそ者である華僑が地方で小売業に携わる事を禁じる1959年の大統領規則第10号を受け、更には1960年半ばに中国政府がその関与を疑われ、非難された「共産党関連の」失敗に終わった政変を受け、華人に対する攻撃は非常に大規模で全国的なものとなった。この事は、より政治的でイデオロギー的変動が、暴動をその最高点に導く力となった事を示す。つまり察するとおり、反中感情はインドネシア人の歴史に大変深く内在しており、それゆえに1998年の5月に、最後で最も残虐的な暴動が、ついに華人達の運命を変えるまでは、スハルトの権威主義的政権の30年間に反中暴動が「予期せぬ雷鳴」のごとく断続的に起ころうとも驚くには値しないのであった。たとえ、新秩序政府がある程度暴力の度合いをコントロールできたにせよ、暴力を永久に根絶する事は明らかに不可能であった。これはおそらく、そのような要望がなかったためであろう。 このような状況下、1998年5月の暴動以来設立されたインドネシア華人組織の、政治活動を避けんとする態度には、おそらく大いに根拠がある事だろう。例えば、PSMTI(Paguyuban Sosial Marga Tionghoa Indonesia-印華百家姓協会)は1998年8月28日に組織された。これは元陸軍准将(プーン)・テディ・ユスフ(ション・ディ)の指導のもと、5月の暴動後に設立された初のインドネシア華人非政党組織であったが、これは自身の立場を「非政治的」と位置付ける傾向にある。  「たとえPSMTIがインドネシアの法制度の範囲内で活動を行う事が許されていようと も、PMSTIは実質的な政治活動への参加せぬよう自制している。さらに、PSMTIは 政党に関連した政党や社会組織に属さない。」(2005年4月1日にアクセスした http://www.psmti.net/psmti_掲載の原文訳) これと同様に、INTI(Perhimpunan Indonesia Keturunan Tionghoa-インドネシア華人協会)は、スルヤディナタによると1999年4月10日、エディ・レンボン(ワン・ヨウシャン)の指導のもとに設立された。9彼らはその組織的任務に関する声明で「政治的」という言葉を避けているようである。  「Perhimpunan INTIとして知られるインドネシア華人協会は社会的組織であり、その特徴はその愛国心、自由、独立、非営利と平等性である。その設立の目的は、過 去の遺物である「インドネシアの中華問題」の解決にある。 INTIは全ての華人民が 一体となり、徹底的に総力を挙げて取り組む事が「中華問 題」解決の絶対条件であると確信する。」  この主なメンバーは中国系インドネシア人民であるが、INTIは排他的組織ではなく、その基本的原則や組織規則、またINTIの目標に賛同する全てのインドネシア人民に開放されているものである。  INTIがこのような「非政府的」、もしくは「曖昧な」政治的立場11を持つ理由は、2007年5月16日にインドネシア華人協会(INTI)前会長のエディ・レンボンが、ジャカルタ・ポスト紙に次のように語った時、明らかとなった。  「インドネシア華人は政治学を学ばなくてはならない。しかるべく知識に基づいた政 治家となるためである。しかし、私は民族を基盤とした政党の設立には賛成しない。ほとんどの華人達は、 未だ政治をタブー視している。政治に関わる事はおろか、彼らはそれについて語る […]

Issue 11 Mar. 2011

マドゥラのブラテー(Blater/悪党)の社会的起源と政治権力

マドゥラ族の象徴的イメージは暴力と宗教性に結び付けられている。しかし実際のところ、理論的に言えばこれらの言葉は異なる、または矛盾した意味を表す事もある。宗教的な人々は禁欲的に暮らし、悪行や暴力行為を犯す事を避けようとする。これに対して暴力に慣れた人々は、禁欲的な生活から遠ざかる傾向にある。ところが、社会的現実が提示する複雑な諸問題が、常に規範的な理論を裏づけるとは限らない。文化という文脈上では、暴力と宗教性は空所に作用するものではなく、その存在は常に社会構造の力関係や利害的相互作用と相関したものである(Foucault: 2002)。  暴力と宗教性は人類文明の「子供」である。暴力はその背景や動機により、様々な種類に区別される。チャロックについて考えてみよう。これはマドゥラ族の内紛を解決する暴力的な伝統である。  それは彼らの自尊心や誇りに対する熱烈さ、その思い入れ如何では、その関係者達に深刻な傷害や、死さえをも招く顛末となり得るものである。マドゥラ族がチャロックを行うのは、彼らの誇りや自尊心が侮辱を受ける、もしくは害され、傷つけられたと彼らが感じる時である。彼らの憤りの感情が、恥辱の感情(マロー またはトドゥス)に発展した場合、マドゥラ族はチャロックを行って争いを調停する。  この事情はマドゥラの有名な諺に確言されている。“ango’an pote tolang etembang pote matah”、字義どおりには「白眼をよりも白骨を」という意味で、「人生は自尊心を持たねば無意味である」という隠喩である。  マローとなりチャロックという結末をもたらす、恥辱という強い感情は、しばしば人妻をめぐる修羅場と結びつけられる。マドゥラ人は、彼の妻が侵害されるような事があれば、立腹してチャロックを行う。同様に、彼はその妻の不貞の噂に嫉妬心をおこし、彼女の不義の相手がチャロックの標的となるのである。チャロックはまた、報復行為、とりわけ殺害された家族への仇討という形をとる事もある。  このように、チャロックは人の高潔さを守る行為であり、その血筋を維持するための闘いであると解されている (Wiyata, 2002: 89-159)。 チャロック における動機と標的は大変明確である。人々は自尊心が害された事から生じる暴力的な争議に巻き込まれるのである。  自尊心と誇りにかけてチャロックを行うマドゥラ人は勇敢(ブラテー)であったと認識される。ブラテーは、その人の自尊心への打撃を暴力で解決する事であり、恐れのない精神、誇り、そして勇敢さを示すものである。一方、自らの自尊心を守るために「寛容性」を選ぶ者達は、地域社会からブラテーの精神を持たぬ者と見なされる。以前はブラテーでないとされていたマドゥラ人達が、ひとたびチャロックを行った後に、中でも血みどろの格闘を勝ち取った者らがブラテーとして認められる事例が数多くある。  このように、チャロックは地域社会で紛争を解決するための勇気であると見なされており、チャロックを行う事はその人のブラテーとしての社会的地位を強化し、正当化する重要な社会的行為なのである。  チャロックを行う事のみがブラテーの地位を正当化する方法というわけではない。他にもマドゥラ人をブラテーに変え得る、それ以上の社会的手段が多数存在する。  クラピン・サピ(マドゥラ族の牛競べ)、鶏闘、犯罪行為やレモー、 ブラテーへの関与…こういった全てがブラテーの文化的再生産を成すものである。  偏在するダイナミズムがこの独特な文化と地域社会をマドゥラに創り出した。 従って、あるマドゥラ人が自らをブラテーであると認め、かつ彼が社会において特別な地位に就いていようとも、何ら不思議はないという事になる。ブラテーは文化的に高い評価を集め、社会的尊敬を受けるし、そうでないブラテーを見つける事は困難である。  ブラテーは全てのコミュニティー、及び社会階級から現れ得る。サントリ出身の者もいれば非サントリ出身者も存在する。手短に言えば、大いに宗教的である者をも含む、いかなる社会的集団、または階級の者であれ、万人がブラテーになり得るのである。  元サントリ(厳格なムスリム)がペサントレン(伝統的なイスラームの学校)を卒業した後にブラテーとなった事例も多い。元サントリのブラテーは、大概ガジ(コーランの詩を吟ずる事)に長け、キターブ・クニン (黄色い本、ペサントレンで用いられるアラビア語の原書)に通じている。  これもまた、マドゥラ社会にあっては一般的な事である。マドゥラ族の伝統上、宗教的な教えは日常生活の一部となっているのである。若きは全ての子供達が島中の集落や村々に散在するランガル、ムソラ、スラウ、モスクやペサントレンで宗教を教えられる事に始まる。  このような背景があればこそ、元サントリのブラテーが文化的ネットワークを築き、彼をキアイ(イスラーム教の聖職者)であるかのようにさえ扱う伝統を展開させて来られたのである (Mansoornoor 1990; Bruinessen 1995)。  イスラーム教はマドゥラ社会で中心的役割を果たしており、様々な社会儀礼は常にキアイを指導的立場に戴く宗教的精神と結びつけられている。  […]

Issue 8-9 Mar. 2007

セックス中毒

  心理学者であり、シーナカリンウィロート大学教育学部常勤教授であるワンロップ・ピヤマノータム博士はこんな見解を披瀝している。「タイにおいて十年ほど前からセックス中毒とも言うべき病的な症状が観察されるようになり、この傾向性は日増しに強くなっている。とりわけ憂慮すべき層は女性と若年層である。患者の行動には以下の四段階がある。頻繁な自慰行為、露出行動、窃視(対象としてはインターネットやVCDのアダルト画像も対象として含まれる)、そして最終的な段階が、金銭目的ではなく、自己の性的欲求を満たすための売春。これらの行動の原因となっているのは、幼少時からのわいせつ媒体との接触であり、アメリカにおいては人口の3-6パーセントが患者であるとみなされる…社会的ステイタスの高い男性層は、しばしばこれらのセックス中毒患者のターゲットとされる。一晩5人と関係を持ったり、結婚後も浮気相手を常に探し続けるという重症患者も見られる。」   基本教育委員会のポーンニパー・リッパヨーム事務局長は以下のように表明した。アディサイ・ポーターラーミック教育相は、関係行政官を集め、若年層の性行動を指す語として、「愛をささやく」に代わるより適切な表現について検討させた。これらの話し合いにおいては、どのくらいの年齢の就学層が、公の場で性的な行為に及ぶべきではないかといったことも話題に上った。結論が下され次第、アディサイ氏は新しい表現の使用を宣言する予定であり、こういった行動をとる若年層の減少に寄与することを期待している。(日刊マティチョン、2004年9月7日火曜日号)   上に引用したニュースを既に目にされた方も多いだろう。私自身は一読して、何だこれは一体、とうなってしまった。記事の中には、「この病気は日増しに蔓延しつつある。」とあるが、セックス中毒病は、(記事掲載の翌日シータンヤー病院総裁ワチラ・ペンチャン医師は、セックス中毒は病気ではない、いい加減なことを言わないように、と反論した。)わたしの知らぬ間に鳥インフルエンザのように大流行していたのだろうか。その上この種の病(菌)に感染し易いリスク層は女性と若年層だとのことである。記事の展開にさらに付き合う気力があるならば、こんな見解に出くわすことになる。ワンロップ博士の見解(あるいは研究)によれば、この病気の流行の被害を受けているのは「社会的ステイタスの高い男性層」で、彼らは年齢を問わないセックス中毒の女性達に同衾を迫られているのだそうである。   「私自身、クリニックにおいて相談を受けたり治療にあたったりしていますが、30才の女性患者に騙されかかったことがあります。その患者は夫を前にして私と関係を持ちたい、と言ったのですが、夫に強要されているというのは実は嘘で、自分がそうしたかったのだということがわかりました…最近では16、7の女性が相談という口実でやってきて、私に関係を迫ったんですよ。」   記事から我々は以下のような知識を得ることができる。セックス中毒は「病気」であるばかりか、伝染病のようなものである。特に女性と若年層に大流行中しており、患者女性の性欲の犠牲となって、あの手この手でやり込められているのは、この情報の提供者である博士のような紳士方である。   一般的に言って、体が弱り抵抗力が低くなっている場合、流感にしろコレラにしろ伝染病に感染することがある。記事の内容から推測するに、女性と若年層は「脆弱」で「免疫システムに問題がある」人口であるということだろう。(そしてこの病気は肉体的なものというより精神的なものであるから、この場合の免疫システムの問題とは知的な欠陥を意味している。分かりやすく言えば、女性と若年層は愚かで頑迷なため、なんにでも簡単にひっかかりやすい。)感染しやすいこれらの性別と年齢層の人口は、しっかりと保護、観察の下に置かれるべきである。これに対し男性、特に「社会的ステータスの高い」層は堅固で優れた性であり、この病気の流行に巻き込まれるほど脆弱ではない。   おやおや、人生にさよならして、これからは生まれ変わるたびに「社会的ステータスの高い」男性に生まれたいものだわね。コギャルから熟女まで、寝る相手は引きもきらずというわけみたいだし。   記事中のセックス中毒の定義に従うなら、私も患者の一人なんだろうな。人生の中で文句なしに楽しいことは何か、と聞かれたら、その数少ない答えの中に入っているのがセックスだ。自分でするのを覚えたのは8才だったか9才だったか忘れたけれど、たまたま指が初めて「そこらへん」に当たってうっとりするくらい気持ちよかった時のことは覚えている。それからは今日に至るまで研究は欠かさないよ。隣で寝ている本物の男が眠り込んでしまおうものなら、私は自分でなんとかしますよ。年とともにテクニックは向上し、セクシーなねまきを選んで、音楽をかけ、キャンドルを灯し、香水を吹きかけて、どんな声を出すかって、これは超個人的なお楽しみ。   朝起きて隣に寝ている男を襲っちゃうのは当たり前として、夜とか明け方は…え?だってさー、その体でねまきのズボンだけで目の前で寝返りをうたれて、正気でいろっておっしゃるの?   お医者の先生さま…セックス中毒を治すにはどこへ行ったらいいんでしょう?だってそこまでおっしゃるのにまだ治療に駆けつけなかったら、この病気って周りの人にどんどんうつっちゃうんでしょう?このコラムに夢中の読者の皆さんがまるでアヘン中毒みたいにセックス中毒になっちゃう…考えてもみてくださいよ。立派な紳士の皆様方、例えばお医者様とか弁護士さん、エンジニアーさん、アピシットさま、アピラックさま、チャートゥロンさまみたいなイケメン政治家の方々がセックス中毒の女たちに追い掛け回されて仕事にならなくなっちゃうんじゃありません?   まあいいか、皮肉はここまでにして本題に戻りましょう。この記事を批判の槍玉に挙げて、私がここまでおちょくるのはなぜだろうか。「セックス中毒」は病気であるという決めつけに関しては、シータンヤー病院総裁が既に否定している。セックス依存というのは、アルコール、ギャンブル、ラグナロクゲーム、トーモーンさんのコラム、GMマガジン、週刊マティチョン、その他もろもろに対する依存症と同じようなものであり、社会問題として見ようと思えば見られなくもない。が、病気であると捉えることは間違っている。   この病気が10年来「流行している」とする見解も、何と比較を行っているのか不明であり、お話にならない。20年前に比べて今の人間がアダルト映像をよく見るようになったという事実も、セックス中毒患者の増加に単純に結びつけることは不適切ではないだろうか。アダルト映像産業の拡大、輸送システムの発達、VCDプレヤー価格の低下などの現象があり、また、エイズを恐れるあまり現実のセックスより自宅でアダルト映像をおかずにする人間が増えていることや、その他セックス中毒とは直接の関係がない無数の原因があるはずだ。   治療を受けようとする人間という観点から見た場合、精神科医にかかる患者の総数、精神科の患者数をとりあげてみれば、今のタイ人は昔に比べ精神の病を抱えている人間が増えているといえるのかもしれない。が、精神科の患者の増加から、精神を病むタイ人が増えていると単純に結論付けることはできるのだろうか。それよりは、精神科医や心理学に対する理解が変化し、精神科医にかかることイコール頭がおかしいというわけではない、という認識が生まれつつあることなども原因の一つとして考えてみる必要がある。また、最近のタイ人にとっての占い師や宗教の権威が低下し、精神科医は現代タイ人の心のよりどころとして、それらに代わる役割を果たしているのかもしれない。いってみれば、セックス中毒で治療を受ける患者数の増加が反映しているのは、昔なら自分に起こっていることが特に問題だとは感じず、治療の必要性など思いつきもしなかった、ということに過ぎないのではないだろうか。欲しくてたまらなかろうが、自分の手を使おうがそんなことはお前の勝手、亭主に一晩10回のしかかろうがこっちの知ったことか、それで嫌がる亭主なら新しいのを探せ、それと医者が何の関係がある、といったところである。   よく考えてみれば、セックス中毒というのはいかにもありそうなことで、性別、年齢を問わず全ての人間の身に起こっても不思議ではない。私自身もセックス中毒といえばいえるのかもしれないが、生きていく上でそれが問題だと感じない限り、治療が必要だとは思わないだろう。それどころか、一日のうちに何度もクオリティの高いセックスをしてリフレッシュできるなんて、とってもいいことじゃないかとすら思う。それなのにまた一体どうした大騒ぎだ。教育省が「愛をささやく」に代わる新語を探そうとするほどの大事なのか。男にとってのセックス中毒は憂慮の必要がないが、女にとってはそうはいかないというようなニュアンスが行間から感じられるのもひっかかる。そんなものの考えのせいで私たちが今さら振り戻されるのはこんなお決まりの思考パターンだ。セックスが好きな男は普通だけれど、女ならそれはどうかしている、セックスにおける女の役割は男の欲望を受け止めること、男にとって望ましい「ビーナス」とは、男に犯されるのを待っているような上品な女で、厚かましくも「ねえ、本当に欲しい。」と身をすり寄せてくるような女はヒステリー(タイ人の一般的な理解と用法に従った場合)だ。   また、経済的理由からではない少女売春を、セックス依存と結びつけることも短絡過ぎる解釈ではないだろうかと、そのお手軽ぶりに眉をひそめたくなる。女、男、ゲイ、またその他のセクシュアリティのうち誰がする場合にせよ、売春という行為には、様々な要因が絡み合っているものだ。愛、性、金銭、身体、資本、利益、商品化、宗教、リプロダクティブヘルスなどの意味に対する理解から始まり、苦しみや喜びをどう受け止めているか、セックスに何を求めているのか、国家の中における自身の位置づけに対する理解などもその中に含まれる。   「子供」の性行為に関するニュースが流れるや否や、社会や教育省が示す戦々恐々ぶりは、パニック状態の域に達している気がする。そう遠くない歴史を振り返ってみれば、チュラロンコーン王時代の刑法によれば、子供の年齢は12才を境に定めてあった。12才の女性をレイプした場合、それは女性に対する行為であって「子供」に対するものではなかったのである。王族の系譜を紐解いてみれば、宮中のやんごとなきお方たちが13才で子供を持っている例を見ることができる。13才で出産したということは、11,2才当時の妊娠ということになる。「子供」が性行為を行っている、という捉え方は単純に年齢によって判断されるものではなく、その時代の政治(国家、統治のあり方)、経済のあり方に影響されて変化する「子供」の定義づけや役割に左右されるものなのである。また、社会階層やその他の要素も関連してくる。   こういったパニック状態を見るにつけ、セックスを不潔でネガティブなものだと皮相的に捉えている限り、バスの中で性行為に及ぶ若者たちにあきれ返りののしり散らす(といっても実はこういう記事をかなりわくわくしながら読んでいる)ことを性懲りもなく繰り返すだけなのではないかと感じる。実のところセックスは、社会、経済、政治といった要因と結びつきながら歴史的に変遷を遂げてきた私たちの生き方の一部とすら言えるものなのに。 また明日にでもなれば、ティーンエージャーがショッピングセンター、道端、公園などでことに及んでいるというニュースを読むことができるだろう。具体的に、どんなやり方で、どんな風に服に手を突っ込んで愛撫し、女の子の方はどんな格好で色気づいているのか、まったく最近の子はなんて嘆かわしい、と騒ぎ立てるのはまるで、ネットでアダルトページの女の子を見ながら興奮しつつもあきれたと口にしている時と変わりがない。おーい一体こりゃあ、こういう子たちって恥ずかしくないのかね、こういうのと付き合うのはごめんだね、見ろよ、すげえ胸だなあ! […]

Issue 8-9 Mar. 2007

タイ現代文学の潮流 ―セーニー・サオワポンよりチャート・コープチッティへの流れを中心として―

はじめに   タイ現代文学においては、他の多くの分野においてと同様に、1973年のいわゆる「学生革命」前後が一つのturning pointとなるのであるが、本稿は、具体的な文学作品分析を通して1973年の前と後との傾向及び特徴の違いの一端を捉えることを、その狙いとしたものである。具体的には、1973以前の代表作としてセーニー・サオワポン『妖魔』を、以後の代表作としてはチャート・コープチッティ『裁き』を採り上げる。この二作品を採り上げる理由は、其々がいわゆるタイ文学の「純文学」系の評価としては、その頂点に立つものであると考えられるからである。   まず『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴を、「業からの解放」という視座から捉えてみた。管見によれば、セーニーは作品中で、文学にも長らく反映されてきたタイ社会に特有の通俗的仏教観念との対決・決別を示しているのである。即ち本来のものを離れ既に社会的に通俗化した運命の享受観や業への諦観(タイ語でいうプロム・リキット的側面)から離れ、運命或は業を改変できるものとして捉える「本来的な」業理解(カンマ・リキット的側面)へと我々を誘うものであると考えられるのである。   続いて『裁き(カム・ピパークサー)』の文学的特徴を「出家と実存のはざまで」といった視座から分析した。本作品はサルトル的な自己欺瞞の否定を謳っているといえよう。世界に寄る辺なく投げ出されている実存(人間存在)との対峙、およびその対極にある自己欺瞞(に生きる人々)の否定。あるいはタイ的自己欺瞞の一つである、苦は業に因るという観念或は苦は業の結果であるとする人々の批判(そうではなく苦は人間の実存の結果であるとしている)。さらには、タンブン(喜捨)をはじめとする一般の通俗仏教信仰への懐疑などである。しかし本作品に特徴的なのは、出家に「出口」を求めている点である。ここで出家という仏教的価値観については、文中の方丈の言葉がまさに暗示の如く通奏低音として作品中に流れている。そこでいう「仏法の世界」とは出家者としての仏法の世界であり、世俗と区別した出世間のことを指しているのはいうまでもない。それは他人との出会いにより自己の失墜を招く、実存と向き合わざるを得ない世間、即ち仏教的に云うならば、パーリ語で云うところのローキヤではなく、ロークッタラ、即ち出世間なのである。   それでは以下、具体的に両者の作品分析を行っていくこととする。 【1】セーニー・サオワポン『妖魔』-「業からの解放」   本論は、本邦に於いていまだ殆んど研究の手がつけられていないタイ文学をその素材としたものである。本論ではなかんずく、タイ現代文学においての、作家の社会に対する意識の位相を探っていきたい。我々とは文化的思想的背景を異にするかの地の文学は、自ずとその趣を別にするが、中でも顕著な特色の一つに、作家の社会に対する極めて鋭敏な意識・姿勢が挙げられよう。政治的社会的不安定は、その度重なる動揺を通し、近現代の文学者の社会意識をいやが上にも我々の考える以上に鮮明なものにしていった。その外からの眼としては、先づ、大きく東南アジア現代文学の特徴として、「東南アジア社会の文学は本質的にlittérature engagéeである」と指摘する者がある。東南アジアの作家たちは、いやが上にも政治や社会の現実と対峙し、そこから顔をそむけることが殆んど不可能であった過去があるであろう。その中には植民地化の問題に由来するものもあるだろうが、それを免れたとはいえ、タイにおいても社会の現実は非常に重く作家の肩にのしかかっており、逆に社会に対する作家の極めて鋭敏な意識・姿勢はタイ現代文学の色濃い特徴となっている。タイの文化文学にも造詣の深い文化人類学者のニールス・ムドラーは、インドネシア文学に比してタイ作家と社会の係わりを次の如く強調している。「タイの作家にとってその特徴をかたちづくる中心はsocial stage」であり、「ジャワ文学のself-centredな個に対してタイ文学の個はsocial settingの中に明瞭に規定されている」と。   加えて、内からの眼としては、長らくタイペンクラブ会長をも務めたニッタヤー・マーサウィスットは、タイ文学の特徴として、タイ作家の社会正義に対する意識は幾度の政治的動乱にも屈することなく、文学の責務として脈々と続いている旨の指摘を行っている。さらには、タイにはいまだトルストイやツルゲーネフや巴金、或はバルザックやゴーリキーや魯迅も生んではいないが、それでも良いところはある、それは政治に関して割と力強い思索をしてきた点である、といった面白い指摘をした者もいる   それでは内外のタイ研究者が共通して認めるタイ現代文学に顕著な特徴である社会意識とは一体いかなる位相であるのか。ここではビルマ大使も務めたことのある現代有数の作家セーニー・サオワポン เสนีย์ เสาวพงษ์์(1918~)およびその代表作『妖魔』ปีศาจ を中心に見ていきたい。   その為の手順として、本論考では、先ず、セーニーのタイ現代文学における文学史的位置・役割を概観し、次に『妖魔』の作品分析を通して、その位相の具体的な例を抽出していきたい。 【1.1】セーニー・サオワポンの文学史的位置   セーニー・サオワポンは、タイ現代文学史上において「純文学系」の一つの到達点であると捉えられ得る。チュラーロンコーン大学のトリーシン・ブンカチョーン博士は、セーニーの干支七順目(84歳)を記念するマティチョン主催のシンポジウムにおいて、セーニーは文学によりタイを動かし、タイ小説の歴史を変えた。さらには、先見性に富んだ著作によって未来をも予見することのできる、タイ社会のみならず人類全体の作家である、との指摘を行なった。   ここでセーニーの文学史上の意義を考える場合は、先ずタイ現代文学史上での〈人生の為の芸術〉วรรณกรรมเพื่อชีวิต の動きを顧みなければなるまい。タイにおいては現代文学は常に政治との係わりにおいて、或はその圧迫を受けながら或はその抑圧から脱しながら、歴史が流れていくのであるが、その流れの中から〈人生の為の芸術〉と呼ばれる処の動きが生起する。この〈人生の為の芸術〉はまたタイ現代文学を俯瞰した場合には、そのメイン・ストリームを為すといっても過言ではないものでもあるのだが、その中でもとりわけセーニー・サオワポンの果たした役割は大きい。   セーニーは1952年のタマサート大学での講演の中で、この〈人生の為の芸術〉の立場を表明する。とりわけ「著作と社会」การประพันธ์กัปสังคมでは明瞭に作家の社会に対する責務を打ち出し、また同年の評論「ロマン主義とリアリズム」อัตถนิยมแลจินตนิยมにおいてはリアリズム文学の意義を唱えた。こうした立場は、同時代の高名な文芸評論家たるバンチョン・バンチュートシンの次の言葉に集約されるであろう。 人が飢餓のために死んでいっている時、月の美しさはなんの役に立とう。芸術家の責務は悲惨な光景を直視するところにある。   […]

Issue 8-9 Mar. 2007

文学と現代フィリピン政治

        凡例: 1)()は、原著者の使用したもので、()内の記述は原著者による説明。2)〔〕は、翻訳者の使用したもので、〔〕の言葉は、訳文を分かり易くするために翻訳者が追加したもので、原文には存在しない。    1958年の12月、〔つまり、〕ほぼ57年前、約100人のフィリピンの指導的なライター〔著述家〕たちが、国際ペンクラブのフィリピン支部によってスポンサー(後援)された会議に参加するためにルソン島北部高地のリゾート(保養地)都市であるバギオへと登って行った。結局のところ、この行事は、全国ライター会議として告知されていたので―ほとんどライター仲間の内輪の集まりではあったのだが、彼自身が著名なバナキュラーな〔日常語の/土着固有語での〕詩人であったフィリピン大統領カルロス・P・ガルシア閣下;民族主義者で、スペイン語で書く詩人で劇作家でもあったクラロ・M・レクト上院議員;フィリピン大学の総長ビンセンテ・G・シンコ;そしてアメリカ大使館とイギリス大使館からの少数のコーカサス人たち、といった人々を含む堂々たる来賓の一行も訪れて、話しに加わった。参加者の中には、重要な政治家、実業家、外交官、学者、出版業者、そして、最低一人ずつの聖職者と陸軍の将軍、といった面々もまた含まれていた。    私が言える限りでは、私が5歳になろうとしていた1958年の12月以前のフィリピンでは、この規模のライターの会議は、一度も行われたことがなく―これ以降、一度も開催されたことがないことは確かである。それでは、いったい何が、これらの文学的著名人を山の頂上へと一緒に向かわせることができたのであろうか。それは、ほぼ60年近い歳月の後に、わたしたちを、ここ、アジアのもう一つの都市へ一緒に連れてきた一般的主題とほぼ同じである:〔すなわち〕極めて重要で、逃れがたく、止むにやまれぬ、しかし、厄介でもあり、悩まされてもいる文学と政治の間の挑戦的な関係である。   1958年の会合では、この主題は、会議のテーマの題名、『フィリピン人作家と国民の成長』として課題となっていた。2、3週間前の暇な時間に、私のオフィスの書庫の掃除をしている過程で、私は、この会議の議事録を見る機会があったが、それは、(1959年の第1号)の雑誌、『コメント』〔季刊誌〕の特集号に収められており―私は、胸を打たれた、〔それというのも〕今回の会議に向けての準備をしながら、私の心中には全く別の書き出しがあったのだが、1958年のことを全て再び繰り返しているようで、私が何と取り組んでいるのかを示してくれたからである。(プラトンの2500年の後にとは言わないが)、半世紀以上の後に、文学と政治〔の関係を〕生み出すために文学精神の最良の部分を携えて、私たちフィリピン人作家は、古いものと新しいものと双方の、十分な理由があって消耗させられたままになっている。  小説家と〔政治〕パンフレット〔の〕ライター  1958年の会議の間に表明された見解の典型は、〔以下に引用する〕作家エディルベルト・ティエンポのものであろう:  小説家とパンフレットライターとは、和解できない、異なった二つの範疇に属している。文学は、社会問題に対する解答、それは即座に行動に組み込まれるであろうが、を発見することを、直接に気に病むことはあまりない、ということを私たちは認識しなければならない;さらに、小説家と詩人とは、政治または経済の指導者の代わりとなるための素養を身に付けた存在ではない。彼らの関心は、生活や事件の記録者として行動することではなく、それらに総合を与えること、首尾一貫した秩序をあたえることであり…成功した作家は、自らの時代の偶発的な事件を超越して、サガ〔英雄伝説〕や預言者〔先駆者〕となる…芸術的啓示が彼自身と彼の芸術に対する最終的責任である。   それは、今日では、まあまあ安全で口にするには分別のある言明のように聞こえるが、1958年の時点では、数十年にわたって続いてきた一連の激烈な論争、これは、第二次世界大戦前でさえも二つの党派、すなわち、一方では、詩人ホセ・ガルシア・ビリャの「芸術のための芸術」派と呼ばれたそれ、もう一方では、プロレタリア文学の旗を掲げたサルバドール・P・ロペスら、の両者間で行われていた、論争のただの最新版であった。1930年代のフィリピン人作家は、〔一方では、〕詩的モダニズムにまさに針路を変えようとしていたビリャとその仲間による、〔もう一方では〕フィリピンの革命的で反政府的な文学の長い伝統に立ち返ろうとするロペスの軍勢による、二つの敵対的な立場の間で引き裂かれていた。    『コメント』特集号の編集者の一人であった評論家のエルマー・オルドニェスは、ビリャの最も忠実な同盟者の一人で、内科医で短編作家であったアルトゥーロ・B・ロトールの皮肉を思い出した、なぜなら、彼は、これより早く、次のように書いていたからである:  フィリピン人のあいだで、芸術の中で扱うことに失敗した、現在、広がりを示して国内の注目を集めている出来事への重要な理解を示したものは誰もいない。例えば、中部ルソンの農民と、その生活状況を改善しようとする努力からはほど遠く、そういうわけで、重要な物語は何一つ書かれてはいない。国内の残りの人々がトンドのスラムについて語っているというのに、我が詩人たちは、有頂天でマニラ湾の夕日について詩作している。それで、新聞を一瞥さえしないくせに、散文の韻律と調和について学者ぶって討論している作家たちについてどう考えるべきだろうか。ひとつのフレーズ〔一句〕のために何週間もかけて仕事をするくせに、社会正義とは何かとか、ブラカンのある農民が金持ちの地主の貯えた薪を盗んで捕まったのは何故なのか、を理解しようと試みて5分間を費やこともしない作家について何を言うべきだろうか。    ロトール博士は1988年に死んだのだが、彼は、バギオの会議には出席していなかったので、我々は、ティエンポ博士(ついでだが、彼は、芸術のための芸術は「高潔な真剣さを欠いている」と考えていたのでそちらの方も信じていなかった)の好みについて、彼がどう言っただろうかについて確かなことを知ることはできないが、推測することはできる。なるほど、もし、今日、彼がまだ生きていたならば―〔そして、〕私が、この論考でやろうとしているように、私たちの、社会正義のような問題に対する理解は、土地所有権や儲かる仕事と単純に取り組んでいることよりも遥かに複雑になっていることを、もし彼が理解しなかったならば―彼は、現代のフィリピン文学の多くについて、特に英語で書かれたものについて、同じように辛らつな不満を述べていたであろう。それら〔の伝統的社会問題〕は、確かに主要な問題であり続けてはいるが、しかし、フィリピン人労働者の海外への大規模な輸出やそのフィリピン家族への影響、経済、文化的流行と慣行のグローバル化、社会内部のデジタル的な分裂の成長、といった最近の発展と混じり合う問題となってきている。    1958年から、政治と文学〔の関係について〕の経験と思索において、私たちフィリピン人はどれほど遠くへ来たのであろうか。    もし、最近の政治生活にたいする文学のインパクトが何かあるとすれば、私は、それを回顧し、再検討してみたい―私の暫定的な命題は、伝統的な文学表現形式は経済的・文化的要因によって猛烈に影響が小さくなっているが、非伝統的な表現形式が停滞に活を入れており、表現に富む文学的想像力が引き続き今日のフィリピン社会の重要な政治的な力となっているというものである。    フィリピンにおける政治と文学は、長きにわたり、容易ならざる関係を持ってきているのだが、そこでは、創造的なジャーナリストたちと作家たちは、ほとんど絶え間なく入れ替わっていった植民地支配者、専制者、独裁者、圧制者からの災厄を蒙り続けてきているのである。この国の捻じ曲がった政治史は、1800年代のフランシスコ・バルタザール の反専制的なFlorante at Lauraとホセ・リサールの小説から、1900年代早期の反帝国主義的演劇を〔経て〕、1980年代以降の反マルコス運動に至るまで、フィリピン人著作家たちによる政治的抵抗運動への直接参加が起こる多くの機会を与えてきている。より大きくもっと分かりやすい国民的な政治問題の下には、もちろん、ジェンダー、宗教、地域〔間〕の、さらに―私たちの経験の中で最も重要なのは―階級の政治が潜在しているのである。   しかし、それらについて議論する前に、歴史に若干言及する方が、私の命題の基礎をすえるための、もっと〔良い〕助けになるであろう。  言語の群島    今日のフィリピンは、7000以上の群島に、そのほとんどはローマン・カソリックと、人口規模は小さいが重要なムスリムの少数民族からなる8200万の人々が居住している国である。1946年に独立を達成する以前に、私たちは、1521年にスペインによって、1898年にアメリカによって、1941年には日本によって侵略された。私たちの種族的系統は、主としてマレー系、中国系、スペイン系の血統によって構成されており、相互の間の混交は猛烈に進んでいるが、数多くの、その土地固有の部族も残存している。    1972年から1986年の間に、私たちは戒厳令を布いた独裁者フェルディナンド・マルコスによって支配された。1986年にマルコスが追放されて以降には、3人の民主的に選出された大統領がいるが、経済と政治の深刻な問題は引き続いている。この国の金持ちはとても富裕で、貧困者は本当に貧しく、その数は実に多い。フィリピン人の10人に一人は海外で生活し、働いている。世界の船員の10人のうち三人はフィリピン人である。『アジア・ジャーナル・オンライン』によると、ここマレーシアには50万人にのぼるフィリピン人がおり、そのうち20万人は不法に滞在している。   […]

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イスラーム的近代性を歌う:マレーシアにおけるナシッドの再創造

        野党「汎マレーシア・イスラーム党」(Islam Se Malaysia、略称PAS)は1990年にクランタン州の政権を握って以来、wayang kulit(影絵芝居)やmakyong(マレー演劇の一つ)といった伝統的な演劇やロック・コンサートは非イスラーム的とみなし、それらの公演を禁止した。伝統的な演劇は、治療を含む精神的な場において実施されるため、正統派ムスリムはこれらをharam(禁止)している。精霊は、このような演劇やイスラーム的でない舞台(インドの叙事詩ラーマーヤナ、マハーバーラタなど)にて呼び出されると信じられているためだ。さらに悪いことに、ワヤン・クランタンの道化師であるPak Dogolは、影絵芝居の英雄であるSeri Ramaの使用人となっているだけでなく、彼自身がヒンドゥの半神半人となっている。また、女性の声は、隠されなくてはならない身体の部分(aurat)とみなされるため、2002年以来、クランタン州で行われるコンサートやライブ・ショーにおいて女性は参加を禁じられている(Star, 19 September 2002)。 これまでメディアは、こうした保守的なムスリムの行動に焦点を当ててきた。しかしながら、ムスリム世界の他の地域と同様、ムスリムの間には、イスラームの実践や文化に関し、多様な解釈を受け入れる人々が存在する(Hefner 1997, p. 6-7)。マレーシアでは過去約20年間に、違いには気に留めながらも、近代性の挑戦を受け入れるイスラーム近代主義者の中間層が増加した。Gole (2002) が示唆するように、これらのムスリムは、近代的で、なおかつイスラーム的でもある文化を提示している。彼らにとって、音楽は、イスラームの言葉を広げるだけでなく、イスラームが近代世界に適応できる宗教だと示すための重要な役目を持っているのである。 本論文は、マレーシアにおいて、演奏者と聴衆をイスラーム的近代性に関する対話に引き込むイスラームのポピュラー音楽の一種、ポップ・ナシッド(pop nasyid)の展開を検討する。ポップ・ナシッドは、ポピュラー音楽における世界的な流行を取り入れ、新しい技術、メディア、マーケティング戦略を用いながらも、非西洋的なマレーシアの近代性を投影することで若者世代のムスリムを魅了している。ポップ・ナシッドのミュージシャンたちも、歌詞、音楽的要素、ビデオ・イメージ、衣装などを通し、自らを世界的なイスラーム運動の一端と結びつける。同時に、彼らはイスラームの近代的なローカルの解釈を再創造し、彼らの歌の中にローカルなマレーシアの音楽的要素を取り入れている。 マレーシアにおけるナシッドの展開 ナシッドという語は、「詩の朗誦」を意味するansyada から来ている。預言者ムハンマドがメッカからメディナへ行ったとき、彼は、メディナの人々からTola’al Badru’Alaina (ついに月が我々のところに昇った、multimedia section のwww.rabbani.com.myで参照可能)というナシッドの歌で迎えられたと信じられている。今日、ナシッド は、アッラーの賛美または他の宗教的なテーマ(普遍的な愛、良い道徳、イスラームにおける同胞愛など)についての歌詞を含むイスラームの宗教的歌謡を指す。  マレーシアにおけるナシッドの始まりは、第二次世界大戦前に、クルアン読誦の合間にイスラームの教師と学生がインフォーマルに歌ったときだった。ナシッドの曲は、イスラームの教義や預言者ムハンマドについての教えを広めるのに重要な役割を果たした。ナシッドの歌はまた、イスラームに基づく道徳や行動も奨励した。ナシッドはアカペラで歌われたり、あるいはrebana や kompang といったフレームドラムが用いられたりした。当初、歌詞はアラビア語だったが、次第にマレー語に変わっていった。1950~60年代になると、ナシッドは学校でも奨励され、州や国レベルの宗教省が組織するクルアン読誦の競技大会においても歌われるようになった。これらの競技大会においてナシッド歌手は、厳しい規則に従わねばならなかった。グループは、男性か女性かのいずれかで構成しなければならず、男女混成は許されなかった。女性は身体を覆い(tutup aurat)、男性は 頭にsongkokまたはkopiahをかぶらねばならなかった。上演中、すべての歌手は起立し、手は握るか身体の横に置いた。アラビア語とマレー語以外は使用できず、また、フレームドラムを除いた楽器の演奏は許可されなかった。また当時、ナシッドは、Awwal MuharramやAidil Fitri などの宗教儀礼でも歌われた(Matusky […]

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批評するという選択:“Talking Drama with Utih” におけるKrishen Jit との出会い

      こうして、我々の演劇は、ある新しいものから別の新しいものへと移ろっていく。我々の前途には何が待ち受けているのだろうか?1970年代以前に存在していた、たくさんの規則から、我々の脚本家たちが一度は自由にしてもらって以来、予言はできなくなってきており、それを言うことは困難である。今日では、ただ一つだけの規則、すなわち、演劇は固定して動かない硬質なものではない、という規則だけが流布しているようである。しかし、自由と共に、重い責任が、特に広い心がまだ育っていない観客に対する責任が、やって来たのである。(1979年4月8日、Jit)   マレーシアのような社会環境、すなわち、(人種的、宗教的、加えて言語的に)異なった諸文化が、国家と共に、さまざまな権力関係の中で共存しているような場所では、パフォーマンスについて議論するという任務は、優越的な実践とその結果として生じる偏見を生み出すところの、社会‐経済的・文化的政策と絡み合うということをもまた、含意している。具体例を挙げれば、(民族集団別の不条理な所得格差を減少させることを目的とした)国家公認の差別是正措置と(マレー語のクレオール化による「不純化」を防止することを意図した)国家言語の使用と管理は、マレーシア人のディスコースを形作る、周期的に発生する論争点である。人種や宗教といった、文化の一定の側面が「センシティブである」と分類されて―すなわち、公共的な議論が公認されておらず、その限度を侵犯した時に重大な検閲がなされる―場合、アイデンティティや国民らしさに関する論争点とずる賢く取り組むパフォーマンスは、しばしば、網から滑り落ちるのである。   これらの場に対する慎重な注意は、批評と省察のための豊富な素材を提供する。しかしながら、批判的な分析が歴史への視点を提供し、芸術解読の技法を発展させるという思考の場を創出することへの挑戦が果たされることはめったにない。Krishen Jitの長く続いたNew Straits Times紙上の芸術批評コラムであるTalking Drama with Utihは、マレーシアの風土の中での、そんな場所の一つであった。それぞれのコラムは、パフォーマンス・イベントの批評のみならず、それに関連した論点を突く、巡り会いであった。これに肩を並べる関心と分析の深さを生み出している者が、もし他にいるとすれば、残念ながら、それは、ほんの二、三の例しかない。本稿は、Jitの批評するという選択の結果として―しばしば一つの記事の中で―伝統文化・現代的不安・同時代の切望との「出会い」を創り出した“Talking Drama with Utih”のいくつかを検討する。 “Talking Drama with Utih”(「Uthiと共にドラマを語りあう」) パフォーマンスの批評は、審美的な価値の評価を越えて、作品の背景となっている政治的コンテキスト(脈絡)と文化的歴史の探求へと及ぶものである。マレーシアのようなポストコロニアルな多元的社会においては、これは、選択肢を与え、反響を左右し、文化的容認の限界を決定するローカルとグローバルの双方の影響への意識的な自覚化を含むことになる。商品化されえないものとしてのライブ・パフォーマンスは、パフォーマンスの瞬間を越えた歴史的記録と反響については、批判的論評に依存する。これを実践することは、つかの間の一瞬を、洞察と出来事への感性とその意義を提供することになる、持続する記録へと置き換えるという、法外な努力を要求する。   “Talking Drama with Utih”は、マレーシアの英語新聞の中で、最も長く存続した芸術コラムであると認められている。世に認められた演劇界の長老であったKrishen Jit(1939~2005年)は、1972年から1994年に至るまで、毎週、Uthi―マレーシア文学における桂冠作家であるUsman AwangによるUda dan Dara(マレー語:UdaとDara)という劇の登場人物の一人―という筆名を用いて、マレーシアにおける演劇と芸術について書いた。劇中では、Uthi は、彼の人間のありかたに関する洞察が事態を紛糾させるのだが、それにもかかわらず、思考を刺激してくれる能力によって崇敬されている、賢明だが一風変わった村の年長者である。Uthiは、常に慣習やしきたりを信奉せず、そして、後でしばしば彼のラディカルな考え方や強力な批評のために誤った解釈に陥る。いくつもの点で、Jitのコラムは、彼に似た役割を演じていると言えよう。   30年間に及ぶマレーシア人の生活の、大きな変化の中にあって、Uthiの声は、アイデンティティ、モダニティ、教養、芸術における公正といった論争点を探求する間に、多元的で分裂した社会のダイナミズムと深く関わってきた。不条理劇、もしくは中国歌劇として―彼自身の限界を認める自由さをもって、それ故に権威主義的に見えることなく説得的に―Jitはローカルなものを国際的なものと関連させて、あるいは、その逆もまた同様に、解釈して提示した。彼は、自らの役割を、選択の贅沢さが、気まぐれな思いつきで選んだり拾い上げたりすることを可能にする、ブロードウエイやウェストエンドの評論家とは区別されるものだと理解していた。Jitは、マレーシア人の批評家は、時に、それが、進化しつつある一つ国民文化と特徴付けられるものとして、ローカルな実験を理解する困難な任務をやり遂げなければならならず、そして、それは作り手と観客の両方の利益のために議論されるに値するものだと信じていた(Jit、1986:5を見よ)。これは、なじみの無いものに注意を払い、自らの本能を信用し、客観性と絶対的な権威への誤った信頼に対してはっきりと挑戦することを意味する。 あなたがそこで使用されている言語が分からない時であっても、いかに多くのものを見たり聞いたりできるかということは驚くべきことである…まだ慣れていない人は、その場ですぐにコード化されたメッセージを解することはできない。また、舞台の袖でも続くようなジェスチャーの中に込められたニュアンスをきちんと理解することは不可能である…たとえ仮に、ため息の意味を知らなくとも各自の理由によってそれを楽しむことは可能である…だから、もし広東語を知らないとしても広東歌劇を見に出かけよう(Jit、1986年5月25日)。 “Talking Drama […]

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タイ現代文学の潮流 ―セーニー・サオワポンよりチャート・コープチッティへの流れを中心として―

はじめに   タイ現代文学においては、他の多くの分野においてと同様に、1973年のいわゆる「学生革命」前後が一つのturning pointとなるのであるが、本稿は、具体的な文学作品分析を通して1973年の前と後との傾向及び特徴の違いの一端を捉えることを、その狙いとしたものである。具体的には、1973以前の代表作としてセーニー・サオワポン『妖魔』を、以後の代表作としてはチャート・コープチッティ『裁き』を採り上げる。この二作品を採り上げる理由は、其々がいわゆるタイ文学の「純文学」系の評価としては、その頂点に立つものであると考えられるからである。   まず『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴を、「業からの解放」という視座から捉えてみた。管見によれば、セーニーは作品中で、文学にも長らく反映されてきたタイ社会に特有の通俗的仏教観念との対決・決別を示しているのである。即ち本来のものを離れ既に社会的に通俗化した運命の享受観や業への諦観(タイ語でいうプロム・リキット的側面)から離れ、運命或は業を改変できるものとして捉える「本来的な」業理解(カンマ・リキット的側面)へと我々を誘うものであると考えられるのである。   続いて『裁き(カム・ピパークサー)』の文学的特徴を「出家と実存のはざまで」といった視座から分析した。本作品はサルトル的な自己欺瞞の否定を謳っているといえよう。世界に寄る辺なく投げ出されている実存(人間存在)との対峙、およびその対極にある自己欺瞞(に生きる人々)の否定。あるいはタイ的自己欺瞞の一つである、苦は業に因るという観念或は苦は業の結果であるとする人々の批判(そうではなく苦は人間の実存の結果であるとしている)。さらには、タンブン(喜捨)をはじめとする一般の通俗仏教信仰への懐疑などである。しかし本作品に特徴的なのは、出家に「出口」を求めている点である。ここで出家という仏教的価値観については、文中の方丈の言葉がまさに暗示の如く通奏低音として作品中に流れている。そこでいう「仏法の世界」とは出家者としての仏法の世界であり、世俗と区別した出世間のことを指しているのはいうまでもない。それは他人との出会いにより自己の失墜を招く、実存と向き合わざるを得ない世間、即ち仏教的に云うならば、パーリ語で云うところのローキヤではなく、ロークッタラ、即ち出世間なのである。   それでは以下、具体的に両者の作品分析を行っていくこととする。  【1】セーニー・サオワポン『妖魔』-「業からの解放」    本論は、本邦に於いていまだ殆んど研究の手がつけられていないタイ文学をその素材としたものである。本論ではなかんずく、タイ現代文学においての、作家の社会に対する意識の位相を探っていきたい。我々とは文化的思想的背景を異にするかの地の文学は、自ずとその趣を別にするが、中でも顕著な特色の一つに、作家の社会に対する極めて鋭敏な意識・姿勢が挙げられよう。政治的社会的不安定は、その度重なる動揺を通し、近現代の文学者の社会意識をいやが上にも我々の考える以上に鮮明なものにしていった。その外からの眼としては、先づ、大きく東南アジア現代文学の特徴として、「東南アジア社会の文学は本質的にlittérature engagéeである」と指摘する者がある。東南アジアの作家たちは、いやが上にも政治や社会の現実と対峙し、そこから顔をそむけることが殆んど不可能であった過去があるであろう。その中には植民地化の問題に由来するものもあるだろうが、それを免れたとはいえ、タイにおいても社会の現実は非常に重く作家の肩にのしかかっており、逆に社会に対する作家の極めて鋭敏な意識・姿勢はタイ現代文学の色濃い特徴となっている。タイの文化文学にも造詣の深い文化人類学者のニールス・ムドラーは、インドネシア文学に比してタイ作家と社会の係わりを次の如く強調している。「タイの作家にとってその特徴をかたちづくる中心はsocial stage」であり、「ジャワ文学のself-centredな個に対してタイ文学の個はsocial settingの中に明瞭に規定されている」と。   加えて、内からの眼としては、長らくタイペンクラブ会長をも務めたニッタヤー・マーサウィスットは、タイ文学の特徴として、タイ作家の社会正義に対する意識は幾度の政治的動乱にも屈することなく、文学の責務として脈々と続いている旨の指摘を行っている。さらには、タイにはいまだトルストイやツルゲーネフや巴金、或はバルザックやゴーリキーや魯迅も生んではいないが、それでも良いところはある、それは政治に関して割と力強い思索をしてきた点である、といった面白い指摘をした者もいる。   それでは内外のタイ研究者が共通して認めるタイ現代文学に顕著な特徴である社会意識とは一体いかなる位相であるのか。ここではビルマ大使も務めたことのある現代有数の作家セーニー・サオワポン เสนีย์ เสาวพงษ์์(1918~)およびその代表作『妖魔』ปีศาจ を中心に見ていきたい。   その為の手順として、本論考では、先ず、セーニーのタイ現代文学における文学史的位置・役割を概観し、次に『妖魔』の作品分析を通して、その位相の具体的な例を抽出していきたい。  【1.1】セーニー・サオワポンの文学史的位置    セーニー・サオワポンは、タイ現代文学史上において「純文学系」の一つの到達点であると捉えられ得る。チュラーロンコーン大学のトリーシン・ブンカチョーン博士は、セーニーの干支七順目(84歳)を記念するマティチョン主催のシンポジウムにおいて、セーニーは文学によりタイを動かし、タイ小説の歴史を変えた。さらには、先見性に富んだ著作によって未来をも予見することのできる、タイ社会のみならず人類全体の作家である、との指摘を行なった。   ここでセーニーの文学史上の意義を考える場合は、先ずタイ現代文学史上での〈人生の為の芸術〉วรรณกรรมเพื่อชีวิต の動きを顧みなければなるまい。タイにおいては現代文学は常に政治との係わりにおいて、或はその圧迫を受けながら或はその抑圧から脱しながら、歴史が流れていくのであるが、その流れの中から〈人生の為の芸術〉と呼ばれる処の動きが生起する。この〈人生の為の芸術〉はまたタイ現代文学を俯瞰した場合には、そのメイン・ストリームを為すといっても過言ではないものでもあるのだが、その中でもとりわけセーニー・サオワポンの果たした役割は大きい。   セーニーは1952年のタマサート大学での講演の中で、この〈人生の為の芸術〉の立場を表明する。とりわけ「著作と社会」การประพันธ์กัปสังคมでは明瞭に作家の社会に対する責務を打ち出し、また同年の評論「ロマン主義とリアリズム」อัตถนิยมแลจินตนิยมにおいてはリアリズム文学の意義を唱えた。こうした立場は、同時代の高名な文芸評論家たるバンチョン・バンチュートシンの次の言葉に集約されるであろう。 人が飢餓のために死んでいっている時、月の美しさはなんの役に立とう。芸術家の責務は悲惨な光景を直視するところにある。   […]

Issue 8-9 Mar. 2007

タイ現代文学の潮流 ―セーニー・サオワポンよりチャート・コープチッティへの流れを中心として―

はじめに タイ現代文学においては、他の多くの分野においてと同様に、1973年のいわゆる「学生革命」前後が一つのturning pointとなるのであるが、本稿は、具体的な文学作品分析を通して1973年の前と後との傾向及び特徴の違いの一端を捉えることを、その狙いとしたものである。具体的には、1973以前の代表作としてセーニー・サオワポン『妖魔』を、以後の代表作としてはチャート・コープチッティ『裁き』を採り上げる。この二作品を採り上げる理由は、其々がいわゆるタイ文学の「純文学」系の評価としては、その頂点に立つものであると考えられるからである。 まず『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴を、「業からの解放」という視座から捉えてみた。管見によれば、セーニーは作品中で、文学にも長らく反映されてきたタイ社会に特有の通俗的仏教観念との対決・決別を示しているのである。即ち本来のものを離れ既に社会的に通俗化した運命の享受観や業への諦観(タイ語でいうプロム・リキット的側面)から離れ、運命或は業を改変できるものとして捉える「本来的な」業理解(カンマ・リキット的側面)へと我々を誘うものであると考えられるのである。 続いて『裁き(カム・ピパークサー)』の文学的特徴を「出家と実存のはざまで」といった視座から分析した。本作品はサルトル的な自己欺瞞の否定を謳っているといえよう。世界に寄る辺なく投げ出されている実存(人間存在)との対峙、およびその対極にある自己欺瞞(に生きる人々)の否定。あるいはタイ的自己欺瞞の一つである、苦は業に因るという観念或は苦は業の結果であるとする人々の批判(そうではなく苦は人間の実存の結果であるとしている)。さらには、タンブン(喜捨)をはじめとする一般の通俗仏教信仰への懐疑などである。しかし本作品に特徴的なのは、出家に「出口」を求めている点である。ここで出家という仏教的価値観については、文中の方丈の言葉がまさに暗示の如く通奏低音として作品中に流れている。そこでいう「仏法の世界」とは出家者としての仏法の世界であり、世俗と区別した出世間のことを指しているのはいうまでもない。それは他人との出会いにより自己の失墜を招く、実存と向き合わざるを得ない世間、即ち仏教的に云うならば、パーリ語で云うところのローキヤではなく、ロークッタラ、即ち出世間なのである。 それでは以下、具体的に両者の作品分析を行っていくこととする。 【1】セーニー・サオワポン『妖魔』-「業からの解放」  本論は、本邦に於いていまだ殆んど研究の手がつけられていないタイ文学をその素材としたものである。本論ではなかんずく、タイ現代文学においての、作家の社会に対する意識の位相を探っていきたい。我々とは文化的思想的背景を異にするかの地の文学は、自ずとその趣を別にするが、中でも顕著な特色の一つに、作家の社会に対する極めて鋭敏な意識・姿勢が挙げられよう。政治的社会的不安定は、その度重なる動揺を通し、近現代の文学者の社会意識をいやが上にも我々の考える以上に鮮明なものにしていった。その外からの眼としては、先づ、大きく東南アジア現代文学の特徴として、「東南アジア社会の文学は本質的にlittérature engagéeである」と指摘する者がある。東南アジアの作家たちは、いやが上にも政治や社会の現実と対峙し、そこから顔をそむけることが殆んど不可能であった過去があるであろう。その中には植民地化の問題に由来するものもあるだろうが、それを免れたとはいえ、タイにおいても社会の現実は非常に重く作家の肩にのしかかっており、逆に社会に対する作家の極めて鋭敏な意識・姿勢はタイ現代文学の色濃い特徴となっている。タイの文化文学にも造詣の深い文化人類学者のニールス・ムドラーは、インドネシア文学に比してタイ作家と社会の係わりを次の如く強調している。「タイの作家にとってその特徴をかたちづくる中心はsocial stage」であり、「ジャワ文学のself-centredな個に対してタイ文学の個はsocial settingの中に明瞭に規定されている」と。 加えて、内からの眼としては、長らくタイペンクラブ会長をも務めたニッタヤー・マーサウィスットは、タイ文学の特徴として、タイ作家の社会正義に対する意識は幾度の政治的動乱にも屈することなく、文学の責務として脈々と続いている旨の指摘を行っている。さらには、タイにはいまだトルストイやツルゲーネフや巴金、或はバルザックやゴーリキーや魯迅も生んではいないが、それでも良いところはある、それは政治に関して割と力強い思索をしてきた点である、といった面白い指摘をした者もいる。 それでは内外のタイ研究者が共通して認めるタイ現代文学に顕著な特徴である社会意識とは一体いかなる位相であるのか。ここではビルマ大使も務めたことのある現代有数の作家セーニー・サオワポン เสนีย์ เสาวพงษ์์(1918~)およびその代表作『妖魔』ปีศาจ を中心に見ていきたい。 その為の手順として、本論考では、先ず、セーニーのタイ現代文学における文学史的位置・役割を概観し、次に『妖魔』の作品分析を通して、その位相の具体的な例を抽出していきたい。 【1.1】セーニー・サオワポンの文学史的位置  セーニー・サオワポンは、タイ現代文学史上において「純文学系」の一つの到達点であると捉えられ得る。チュラーロンコーン大学のトリーシン・ブンカチョーン博士は、セーニーの干支七順目(84歳)を記念するマティチョン主催のシンポジウムにおいて、セーニーは文学によりタイを動かし、タイ小説の歴史を変えた。さらには、先見性に富んだ著作によって未来をも予見することのできる、タイ社会のみならず人類全体の作家である、との指摘を行なった。 ここでセーニーの文学史上の意義を考える場合は、先ずタイ現代文学史上での〈人生の為の芸術〉วรรณกรรมเพื่อชีวิต の動きを顧みなければなるまい。タイにおいては現代文学は常に政治との係わりにおいて、或はその圧迫を受けながら或はその抑圧から脱しながら、歴史が流れていくのであるが、その流れの中から〈人生の為の芸術〉と呼ばれる処の動きが生起する。この〈人生の為の芸術〉はまたタイ現代文学を俯瞰した場合には、そのメイン・ストリームを為すといっても過言ではないものでもあるのだが、その中でもとりわけセーニー・サオワポンの果たした役割は大きい。 セーニーは1952年のタマサート大学での講演の中で、この〈人生の為の芸術〉の立場を表明する。とりわけ「著作と社会」การประพันธ์กัปสังคมでは明瞭に作家の社会に対する責務を打ち出し、また同年の評論「ロマン主義とリアリズム」อัตถนิยมแลจินตนิยมにおいてはリアリズム文学の意義を唱えた。こうした立場は、同時代の高名な文芸評論家たるバンチョン・バンチュートシンの次の言葉に集約されるであろう。 人が飢餓のために死んでいっている時、月の美しさはなんの役に立とう。芸術家の責務は悲惨な光景を直視するところにある。 こうした立場が、その後に与えた影響は甚だ大きく、とりわけ1973年の学生革命前後の文学界の思潮に与えた影響は計り知れない。学生革命前後に台頭してくるいわゆる新世代(ルン・マイ)の作家・評論家たちの多くは、セーニーらの打ち出した作家の責務という立場を強烈に踏襲していく。例えば、ルン・マイの代表的な評論家たるウィッタヤーコーン・チェーンクーンは、「社会に対する責務を持たない作家」は、「読者に毒を盛る」のに「自己の商品に責任を取らぬ儲け家商人と同等である」と表現しているし、また文学者ではないが他の諸々の文化的活動で有名なスラック・シワラックは、「作家の社会に対する責任は、父親の家族に対する責任にも比される。作家は作品人物の生を繰るのにプロム(ブラフマー神)と同じくらい価値を有する」と述べている。その他1957年に『人生のための芸術 人民のための芸術』を残したチット・プミサックを忘れてはなるまい。 サティエン・チャンティマートーンは、こうしたタイ文学史上におけるセーニーの文学史的役割を次の如く表している。「旧社会の不正義、非民主的非科学的な考えと闘った、社会の弱き者の人生のための芸術の開拓者。」或は、「普通の人に視点の基礎を置く歴史の場を拓いた前衛であり、1973年学生革命前後の思想・社会に多大な影響をもたらした。」 このようにタイ現代文学史上、とりわけ〈人生の為の芸術〉を核とする流れにおいて、セーニーは、創作及び評論の双方にわたって中心になる役割を担ったのである。  【1.2】『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴 本作の初出は『サヤームサマイ』สยามสมัย 誌(1953-4)であり、その後受け入れる出版社がすぐになく、初刊はクヴィエントーン เกวียนทอง 版(1957)である。物語は、農村出身の青年弁護士サーイ・シーマーと上流階級の娘ラッチャニーとの出逢いから始まり、ラッチャニーの両親をはじめとする旧社会の人々と彼ら新世代との価値観の対立などを軸に展開し、最後に彼ら二人がそれぞれに、農村に入り自らの未来を社会的に虐げられた人々の役に立てようと暁の空の下決意するところで幕を閉じる。 この作品は発表当初は殆んど反響は見られなかったが、後の民主主義運動の高揚とともに復刊され、絶大な支持を集め、タイ現代文学史上の最高峰の一つとしての定評を得るに至った。 先に述べた新世代(ルン・マイ)の代表的評論家たるウィッタヤコーン・チェーンクーンは復刊されたミットナラー版(1971年)の序文の中で次のようにこの作品を評している。  タイ国のような王子王女の恋愛物語(チャクチャク・ウォンウォン)やメロドラマ風のものしか生み出してこなかった小国にとって実に偉大な小説である。  またついで先鋭的文芸評論家たるサティエン・チャンティマートーンは、「真摯に仕事に取り組む新世代(ルン・マイ)のバイブルとなった」と述べ、トリーシン・ブンカチョーンは〈人生の為の文学〉を画期的に発展させ、内容と技法の両面に亘ってほぼ完成へと至らしたことを指摘し、強調している。 […]

Issue 8-9 Mar. 2007

エスニシティ表象としてのミュージアム -ポスト・スハルト期インドネシアにおける華人アイデンティティの創成―

本稿の目的   本稿は,インドネシアにおける華人社会団体のひとつ,印華百家姓協会 (Paguyuban Sosial Marga Tionghoa Indonesia : PSMTI,以下PSMTIとする)による印華文化公園(Taman Budaya Tionghoa Indonesia)建設計画の検討を通して,エスニシティが可視化されるプロセスと手法を明らかにすることを目的とする。印華文化公園は,インドネシアにおける華人の文化・歴史の展示を主な目的とするミュージアムとして,ジャカルタ郊外にある「ミニチュア版『うるわしのインドネシア』公園」(Taman Mini “Indonesia Indah”,以下タマン・ミニとする)に建設が予定され,準備が進められている施設である。   印華文化公園建設計画の検討に際しては,クリフォードによる「『接触コンタクト・領域ゾーン』としてのミュージアム」の概念が有効である。クリフォードは,『ルーツ-20世紀後期の旅と翻訳-』において,北米の北西沿岸のマイノリティであるインディアンに関する展示を行う4つのミュージアムの検討を通し,ミュージアムはもともと支配集団による下位集団の文化の目録化の現場であったが,現在はマイノリティによるアイデンティティ形成の場としても利用され,両集団の「接触領域」として機能していることを指摘している。 本稿は,インドネシアにおいてマイノリティ集団に数えられる華人のミュージアム建設計画の計画概要,立案者,立地,現状と課題,を取り上げ,国家と民族の「接触領域」としてのミュージアムと,ミュージアムに表象されるエスニシティの創成と可視化のプロセスを描く。   他民族国家インドネシアにおいて,エスニシティの可視化は,ショッピング・モールの装飾に始まり,街頭の像や,選挙活動の際に配られる選挙グッズまでありとあらゆる場において行われている。商業や政治など,目的に応じてエスニシティの可視化は多様な形態をとり,メッセージとして使用される。その中で,本稿が取り上げる印華文化公園は,インドネシアの華人が国家に対して語りかける場であるといえる。   なお,本稿では中国系インドネシア人,すなわち印華もしくは「中華」の福建語読みティオンフォアに相当する語として「華人」を使用する。また,民族またはインドネシア語のスクおよびスク・バンサに相当する語は,エスニシティを使用する。各種の中国語の名称に関しては,中国語の簡体字に相当する日本語の漢字を使用する 背景   インドネシアの華人にとって,1998年5月は,解放と恐怖という明暗双方の意味を持つ。1998年5月に繰り広げられた全国的な暴動をきっかけに,32年間続いたスハルト体制の崩壊によって,同体制が行ってきた華人に対する法律上の規制からの解放へと続いた。同時に,自らが直接的な暴力の対象となったことによって,華人として存在することへの恐怖感が再び共有される契機となった。   1997年後半から通貨・経済危機に陥ったスハルト体制を批判する学生運動が各地で広がる中,1998年5月12日,西ジャカルタのトリサクティ大学で行われた政府批判集会に向けて何者かが発砲し,4人の学生が死亡した。この事件を引き金に,ジャカルタをはじめ,メダン,ソロ,パレンバンなど全国各地で大規模な暴動に起こり,1100人以上の死者を出した。スハルト体制批判として始まった暴動は,スハルト体制下で経済的利益を享受してきたとされる反華人暴動に転化し,特にジャカルタでは,グロドック(Glodok)と呼ばれる華人の多い商業地区を中心に,放火や華人女性に対する暴行が多数あった。   結果的にスハルトは,5月21日に退陣し,その後ハビビ,アブドゥルラフマン・ワヒド,メガワティ政権を経て現在のユドヨノ政権まで,目まぐるしく政権が変わった。このような体制の変化の中で,華人に関する法的規制の改正は,非常に早いスピードですすみつつある。華人に関する法律の歴史的変遷に関しては,スルヤディナタ[Suryadinata 2003]やリンジー[Lindsey 2005]が詳しく経緯を述べている。ここでは,特に1999年10月から2001年7月まで政権を担ったアブドゥルラフマン・ワヒド大統領期に改正が進められ,文化,宗教,言語に関する制約がなくなったことを指摘しておく。さより最近に行われた画期的な改正としては,2006年8月1日に成立した「2006年第12号法律:新国籍法」が挙げられる。   このように,インドネシア国家における一国民として法的平等化がすすみ,表現の制約から解放されることで,華人としてのエスニック・アイデンティティを自由に表現することのできる環境が整いつつある。本来であれば,表現の自由化は個人の活動に還元されればよく,集団としてのエスニック・アイデンティティ,すなわちエスニシティを形成する必然性はない。しかし,インドネシアの華人の場合は,多民族国家インドネシアに内包される一集団として「華人」エスニシティを確立する必要性が生じた。   1998年5月の経験により,それまで出身地や職業,家族的背景や,国籍変更の時期の違いなどに応じて,地域レベルや個人レベルで確立されていたアイデンティティが,他者から見ればとりもなおさず「華人」カテゴリー内のバリエーションでしかないことが判明した。そして,他者からみた「華人」は,極端な表現を用いれば,「インドネシア土着」のエスニック・グループでないにも関わらず,国内経済を牛耳る排他的な集団であり,攻撃の対象と見なされる。 […]

Issue 6 Mar. 2005

農民反乱」という眼鏡を通してみた南部の状況  ニティ・イアウスィーウォン

         主役はごく一般の多数を占める人々   今年になって起こった南部の諸状況が社会的な広がりをもった運動であることは否定のしようがない。事件に関わった人物は100人を数え、実行を支えた層も含めば、1000人、いやそれ以上になるかもしれない。   これほどまでに広範な社会的な運動の指導者は誰なのか、背後で糸を引いているのは何者か、どんな人物からの援助があるのかといったことは、私の興味の範囲にはない。「親玉」が誰なのかと探したところで、そんなことは何の理解の助けにもならないのだから。南部において進行中の動きは、軍からの銃の強奪、公務員の殺害、学校への放火、警察組織に対する集団的な襲撃等々のそれぞれ個別の事件ではなく、多くの人間が関わりを持つ運動なのである。これほど多くの人間を操り欺いてこれらの凶悪な行為に駆り立てることなど(麻薬に頼ったとしても)、誰にもできるものではない。それぞれ異なった目的を持った、ごく普通の多数を占める人々―小さき人々が集まって運動を起こすのを後押しする何か他の要素があるはずである。南部の状況を理解するためには、これらの人々の生活を取り囲む環境を知る必要がある。   権力主義国家は、社会運動に参加する一般の人々には関心がない。普通の国民が政治、社会を直接に動かす力を持つとは考えもせず、何らかの人物、報酬によって動かされているに違いないと理解している。   運動に誘い込むような人物、報酬がたとえあったとしても、運動に加わっている小さきの行動を説明しきることはできない。なぜなら、参加しないことに決めたその他大勢の一般の人々と参加を決意した人々の二つの存在があるからだ。いかなる理由によって、あるグループが一つの選択を行い、別のグループはそれとは違った選択を行なったのか。  誰が主役なのか   多くの死者を出した4月28日の事件は、これらの小さき人々は何者なのか、ということについて、偶然ながら我々にいくらかを知らしめることとなった。   マスコミによる情報からわかる限りでは、4月28日に実行犯として送り込まれてきた人力は、ことごとく地方の人間であったといえる。このことは、第四軍司令官が、「これらの人物はソンクラー県サバーヨーイ郡または、ヤラー県カーバン郡、ヤハー郡、ターントー郡、アイユーウェーン郡、ベートン郡において武器の取り扱いに関する訓練を受けていた。」と語る言葉と一致している。彼の言葉によれば、これらの地域は一面の森林、山岳地帯であり、関係者が調査に入ることはできない。(マティチョン誌、5月3日)   第四軍司令官の言は、軍の消息筋からの情報とも一致している。「二十歳以下の青少年(実際この言葉をなんと訳してよいのか戸惑う。後になって発表されたところによれば、死亡者の多くは25-30才であり、二十歳以下の青少年と訳すにはふさわしくない。)に対して森林、山岳地帯、人里離れた村近くで、秘密裡に武器取り扱いの訓練が行なわれていた。この訓練を受けた者たちは、公務員を襲撃することによって集団内での地位を急速に上げていた。」   筆者は死亡者の家族の経歴に関する詳細を調べてみようとした。しかし、マスコミはこの点に関して関心がなく、ほんの僅かな情報しか得ることができなかった。   負傷者の一人にアブドゥルローニン・チェロ氏がいる。パタニー県コークポー郡の住民である。彼の妻はインタビューに対し、職業はゴムの樹液採取の日雇いだと答えている(5月2日付マティチョン誌)。家族の暮らし向きは、自らの資本を持たない地方の日雇い労働者というかなり貧しいものであったことがわかる。   サバーヨーイ郡刑務所を襲撃し、19人の死者を出した実行犯の居住地であるサアン村は、ターンキーリー区に属している。区長は以下のように語っている。「最大の問題は教育です。若い者の多くは仕事にあぶれ働き口がない。というのも小学校6年しか終えておらず、最高でも中学3年と学問がない。両親を手伝ってゴムの樹液を採取する他には何もすることがないんです。」(5月2日付マティチョン誌)教育程度、職業からみても、地方の崩壊という現象の犠牲者であることがわかる。   確かに、共に射殺されたサーラプー・ヨンマケ氏、マローニン・ヨンマケ氏のような例外もある。彼等の父は、失ったもの、とりわけ、イスラムウィタヤー校中学6年級を終了し、警察学校に今年入学するはずであった息子(どちらを指しているか不明)に対する無念の思いを吐露している。しかしながら、次の情報は、襲撃の実行犯、或いは運動全体も、伝統的なエリート層、とりわけ宗教的指導者とつながりはないのではないかと我々に思わせる。4月27日付けのバンコクポスト誌は、ヤラー県ラーマン郡ダーローハーロー-ラーマン通り、パタニ-県コークポー郡、ナラーティワート県ルーソの南部三県の諸地域においてビラがばら撒かれていたと報じている。このビラにはある宗教指導者が制服の警察官に対し何かを手渡している絵が描かれ、イスラム教の指導者は南部の騒乱に関する情報を警察に提供すことを止めるように、という要求がタイ語で書かれている。   この要求から見て、宗教指導者の大部分は運動と関係がなく、活動家や運動との心のつながりもない、と言える点に注目したい。筆者は、活動家や運動が宗教界以外の伝統的エリート層ともしっかりとしたつながりを持ってはいないのではないかと、かなりはっきり感じている。実際、政府筋が今日に到るまで行っている「親玉」の逮捕拘留、起訴などは、彼らが訴えているほどの真実味があると証明しきれているものは一件もない。筆者は(軍事熟練、国内治安維持委員会第四本部)によって編集された「ケーススタディー報告」中の二例を読む機会があった。この報告書によれば、事件のすべては、地方レベル、国家レベルでの伝統的エリートにかかわりがある、と述べている。しかし、その内容はあやふやで勝手な思いつき、根拠のない疑惑で成り立っており、自分自身の関わっている問題に都合よく証拠を解釈しようという意図があるようだ。(にもかかわらず多くの政府指導者の信ずるところとなっている。)筆者は、小さき人々によるこの運動は、実行メンバーは地方の宗教エリート層とかかわりのない運動者であると主張したいのである。   PULO、BRN、 Bersatuといったタイ政府に対する抵抗運動は、今回の動きと自らのかかわりを誇示しようとはしている。が、それほどの関わりはないのではなかろうか。これらの抵抗運動組織が小さき人々の諸行動を支え、称賛しているということは確かにありそうなことではある。直接の後押しはしないまでも、政治的目的にかなった効果はあるだろう。実際のところ、PULOやBRNの組織はそれほど堅固なものではなく、これらの組織が、今回の運動のように広範、長期にわたる運動を実施できた例はない。   4月28日の事件後のPULOの声明を注意深く読めば、彼らが事件を自らの仕業とは言明していないことがわかる。PULOは、「英雄」の犠牲の精神と勇敢さを褒め称えていながら、実際はその英雄達と面識がないのではないかと思わせるところがある。タイの当局が死亡者の姓名と家族構成について造作なく把握していることは、PULO側も知っているはずである。にもかかわらず彼等らの声明においては、「英雄」は無名氏のままの扱いになっている。  主役の理想 マスコミが政府、また政府高官から受け取った歯切れの悪い情報によれば、実行犯らはタイから独立したパタニーの国家を建国したいという分離独立の意図を持っており、過激な民衆蜂起をよしとするイスラム教徒の一派からの影響を受けていたということが示されている。   […]

Issue 6 Mar. 2005

ジョクジャを歩く

         旅行警告-インドネシア、合衆国国務省、2003年4月10日。当旅行警告は合衆国市民に対し、インドネシアにおいて進行中の治安悪化を知らしめることを目的に発されたものである。… 合衆国公的機関の防衛対策を受けて、テロリストは民間の標的を探索中である。特にホテル、クラブ、レストラン、宗教施設、屋外で行なわれる娯楽イベント等の、アメリカ人が居住、集合、訪問を行なうような施設がそれらに含まれているといってよいだろう。… この旅行警告を知ってなおインドネシアに旅行または、居住するアメリカ人は低姿勢を保つこと。必要な旅行の時間と路線に変化を持たせ、自らが置かれている周囲の環境に厳しく注意を払うこと。… ほぼ何の前触れもなく暴力と不穏な情勢が巻き起こる可能性がある。テロ行為を含む脅威は、ジャカルタ、ジョクジャカルタ、スラバヤ、カリマンタン、スラウェシなどの広範な地域に存在している。   国務省によるこの旅行警告にもかかわらず、夫と私はジャワへと飛んだ。それは、バリのクタビーチにおける二〇〇二年十月の爆破事件の二,三ヵ月後であり、アメリカ軍のイラク侵攻の二、三ヵ月前のことであった。ジョクジャカルタにおいて、彼は教鞭をとり、私は編集作業を行なう予定であった。前述の勧告は情勢の不穏、背後に控える脅威、また何らかの事件の勃発にまで言及していた。しかし、「アメリカ人が居住、集合、訪問を行なうような」場所を探すテロリストは、ジョクジャでは困難を味わうだろうということがすぐにわかった。というのも、お目当てのアメリカ人は、ごく僅かしかみつからないのである。土産物、銀製品、バティックの店、ペーパーバック古書店、旅行代理店、欧米の旅行者向けのレストランは殆ど空の状態だった。プラウィロタマンやソスロウィジャヤンの近郊にある旅行者向けの店には活気がなかった。しかし旅行産業が活気を失っている一方で、インドネシア人の輸入品に対する嗜好に応える欧米系の店舗は賑わいをみせていた。カリウラン通りの豪華でガラス張りのケンタッキーフライドチキンやその向かいのダンキンドーナツ、記念碑脇にあるピザハット、喧騒に包まれたマリオボロモールのウェンディーズ、マクドナルド、テキサスチキンに爆弾を仕掛けたとしても、犠牲者は十代二十代のジャワ人中産階級であるのに違いない。   ジョクジャカルタの私たちは、丸い地球の上で出来得る限り故郷を遠く離れていた。ニューヨークの午前八時はジャワの午後八時だ。私たちにとってここはエキゾチックな場所であり、果物や自然環境は一見したところ学部時代に読んだ海洋小説の中に見覚えがあった。ジョクジャ北部には活火山のグヌンムラピがそびえ立っていた。標高は約三〇〇〇メートルの孤高の山は、常に白い雲を頂上にたなびかせていた。その輪郭は、子供の描く山の絵のように簡略で、周りに従える者もなく、山陰は空の青より濃かった。ムラピは殆どいつも全く姿を隠しているのだが、これは火山の習いとして雲に包まれているのに過ぎない。ジャワを越えてバリやロンボクへ飛ぶ旅行者は、雲間から、また晴れていれば大地からそびえる火山をそこここに見つけることが出来る。   私たちは青い火山に魅せられたが、押さえ込まれた脅威の象徴としてではなく、まるでその山がおとぎ話そのもののように見えたからである。そこである日私たちはバイクを北に走らせ、ムラピの裾野にあたるカリウランに向かった。カリウランは緑が濃く、標高の高い比較的気候の涼しい場所であった。その街は貧しく、週末旅行者(ウィスマス)用の柱がむき出しの住居が点在していた。そのうちのいくつかは、アイルルパナス(温水)使用可の部屋があることを宣伝していた。私たちは国立公園の入り口を見つけ、森の中にある展望台に向かって登っていったが、そこでもまだ雲しか眺めることができなかった。火山はまだ私達の眼前に現れず、頭上高くにあるようだった。   展望台で、私たちは三人の人間に出会った。上着を着ていない二人の男性と、もう一人の女性はインドネシア人で、英語を話す者はいなかった。私たちが姿を現すと、二人の男性のうち背の高い方が、何事か叫びながらやって来て、ダリマナ?と訊ねた。私達がカミ ダリアメリカ、私たちはアメリカ人だと答えると、彼は何かペラン、「戦争」に関することを大声で語った。この単語については、私は週の初めに辞書の中から既に拾い出してあった。この日は三月二十六日、アメリカ合衆国がイラクへの爆撃を開始した六日後であった。   たどたどしい言葉での会話が続いたが、夫も私も「戦争は良くない」ペランティダクバグスという私たちにとっての決まり文句を申し出た。そしてアール・ゴアがどんな人物か説明しようと試み、私たちは彼に投票したのだと語った。しかしこれらの言葉は、あるいはアルゴアという単語は、私達の耳にすら薄っぺらなものに響いた。私達はニューヨーク州にある小さな街からやって来て、そこはニューヨーク市とは違う場所であることを説明するため、ここがカリフォルニア、ここがテキサスと、そう役に立つとは思えない地図を地面に描いた。男性は、自分は貧しい人間(ミスキン)で三十八歳だが家は無い、アメリカに行きたいので連れて行ってくれないか、と言って笑った。   私達は女性から二本のソフトドリンクを買った。彼女は売り子で、細い筋肉質の脚をしてゴムサンダルを履いていた。ソーダ水と水の壜を並べた箱を布製の紐で背中に吊り下げて、険しい山道を運んできていた。男たちが笑ったので、私達は彼女が高値を吹っかけたことに気づいた。が、私達は喜んで高値を吹っかけられるという基本方針を立てていた。もちろん限度はあるが、これは国際交易に対するささやかな私達の良心だった。   山上の三人に別れを告げると、私達はカリウランの街を散策した。百日草に似た花、間違いなくバラだと言える花、彩色された家々、雄鶏、不思議なほど性質の良い犬、有刺鉄線に囲まれ、夢の中で見かけるような古びた地元の運動場、しっかりした門扉の背後に建っている、見るからに宿泊客のいなそうなタイル張りの屋根をした公共宿泊施設などが目に入った。宿泊するホテルの裏手近くで、子供たちが私達のピンク色の顔、黒くない髪を見ながら「ハロー、ハロー!」と英語で叫んだ。車に乗った一人の母親がクラクションを鳴らしたので、私達は彼女の子供に向かって手を振り、「ハロー!」と叫んだが、自分達がいかにもアメリカ人らしい行動をとっているように感じていた。翌朝になっても、まだムラピを見ることはできなかった。   合衆国国防長官のポール・ウォルフォヴィッツは、レーガン政権下においてインドネシア大使を三年間務めた。彼はムラピ山にガイド付で登山し、下山後、この山に関する気の効いたスピーチを行なった。ウォルフォヴィッツが大使だった時、インドネシア人は彼を大変に好いていたが、国防長官となってからは、彼とその同僚たちがインドネシアをテロリストの横行する国と決め付けているため、裏切られたように感じているとパク・ドゥジョコというインドネシア人の教授が語ってくれた。そこで旅行警告の登場である。また、一方では、観光産業と海外投資の著しい低落ぶりが起った。このことは一九九七年のアジア経済危機で既に打撃を蒙っていたインドネシアの経済に追い討ちをかけた。  インドネシアを理解しようとする私達の試みは、今や私たちが遠く離れ、ポール・ウォルフォヴィッツとその同僚たちが影響力の頂点の上に立っているアメリカ合衆国を理解しようとする努力と絡み合っていた。群島のインドネシアと巨大なアメリカ、この巨大な国家という存在は、ある時ははっきりと、またある時はぼんやりと見え隠れしながら聳え立っていた。    初めてジョクジャカルタに上陸した時、私達はプリアルサホテルを訪れ、通りを南に進んだ場所にあるプリバハサでインドネシア語を習う申し込みをした。ホテルは殆どがら空きだったので、朝食の時私達を取り囲んでいたのは、赤色でどぎつく飾り立てた薄暗がりの中、籠に入ったさえずる鳥、小さな水槽の中で果ても無く泳いでいる大きな魚だった。朝食を済ませると私達は部屋に戻り、エディー・バウアーのバッグに本、筆記用具、持ち運び可能な貴重品を詰めてインドネシア語の授業に向かった。   本通と平行したジャランセンドゥラワシは長い道ではないのだが、私には長く感じられた。騒がしく、暑く狭いこの道にはバイクの音が響き、露天がひしめき合っていた。私達はこれらに押しやられたような感じで一列になって歩いた。路上で行なわれている生業が何事であるのか私にはまだわからず、看板を読むこともできなかった。ジョクジャの最も一般的な食堂は、柱に防水シートの屋根をかぶせたワルンという売店であることも知らなかったし、街角のテントの下に腰掛けた男達が、バイクの修理やパンクしたタイヤの継ぎ合わせを手がけていることも目に付かなかった。ある店の前に水の壜が毎朝ピラミッド型に積み上げられていることに私達は気づいており、それを一つの目印にしていた。だが、そのワロンステーキアンドシェイクの暖簾をくぐり、メニューを見ながら夕食を注文する勇気が出るまでには、しばらくの時間がかかった。殆ど気づいていなかったのだが、幸いなことに英語はジャワの都会においてかなりの権威を得ていた。近隣の看板に書かれていることの多くは、私たちにとって自明で理解可能な印刷文字だった。例えば、ドライクリーン、レディースアンドジェント、サウンドシステム、フェイシャル、インターネットなど。またステーキアンドシェイクのメニューの中には、フレンチフライ、サーロイン、ブラックペッパーステーキ等の語があった。  毎朝、徒歩旅行を済ませると、私達はプリバハサの門に到着し、語学教師の下に投降した。プリの狭くて屋外にある教室は、それぞれにインドネシアの島の名前がつけられており、それぞれの島の写真と物産で飾られていた。がたがた音を立てている扇風機と白板が取り付けてあり、屋根の張り出しと粘土製タイルのひさしが灼熱を遮っていた。私達はここにバハサ、この国の公用語を学習しに来ていた。この言語は、もともとマレー半島とスマトラ島から発し、広く交易に用いられた国際語に由来している。  バハサは分類的には混生語である。容易に学べて、港とそこを訪れる舟の間で使用することを目的に作られた言語である。名詞、動詞には格、性、語形変化、活用が無いため、学習者は早い段階から簡単な文章を組み立てられるようになる。バハサのうちの単語の一部は、様々な意味範囲を持っている。例えば、パカイという語は、使う、着る、・・・と、などの意味で使うことができる。ハンマーをパカイすることもできるし、ブラウスをパカイすることもできるし、お茶を「パカイ砂糖」で飲むこともできる。バハサはまた、他の言語から単語をすぐに取り入れていく言語でもある。そこで、パスポル, スタトゥス, フレクスィベル,エフェクティヴ,エクスルスィブ,ノルマル,デモクラスィ,コンフィルマスィ,レヴォルスィ,トラディスィ, コルスィ,コルプスィ,ネポティスメなどの言葉がある。 (二〇〇三年三-四月の新聞にはレコンストラクスィ, トランスィスィ, アグレスィの語も見られた。)  私は迅速に言葉が上達するさまを思い描いて、授業を受けることを心待ちにしていた。もちろん幻滅を感じるではあろうことも予測はしていたが。新しい単語を覚えようとして長い時間を費やした。友達を空港に迎えに行く時は、メンジャムプトだっけ、メンジェムプトだったっけ、それともメンジェムパト……. ジャムがあってそれからパトかプト?それにどうして皆飛行機をペサワットと言うの? 授業を受けてみて再び私が気づいたのは、単語は物体ではないということであった。林檎という語を齧ったり投げたりすることはできない。何度も繰り返して使ってみるうちに、林檎という単語は次第に架空の香りと形を持つようになっていくのだ。   プリでは、ふとしたことから教えられることがあった。世界中のかなり多くの人々が複数の言語を話し、我々アメリカ人は鈍感な単一言語主義で知られることを思い知らされた。教師たちはジャワ語(あるいはバリ語)とバハサの両方を話し、英語もかなりうまかった。私達の出合ったヨーロッパ人は英語を流暢に話した。オランダ人は私達と話す時だけでなく、ドイツ人の少女と話す時、また教師に質問する時にも英語を使っていた。この点に関して一番お粗末なのは私達だった。イラクの非武装化に期限を設けるか否かという点に関し、イギリスとアメリカ合衆国側、フランス、ドイツ、ロシア側の国連安全保障理事会での対立が激しくなってきた時、ヒューと私は休み時間には教室にとどまって、旅行警告の勧める「低姿勢」を保ちながら 他の人々と低い声でおしゃべりをした。   個人的、また国家的な様々な意味において、謙遜と誇りが思いもかけずどっと襲ってくるのを私は感じた。私が注目したのは、表面下に湿った暑い空気を、背後に骨折りを隠して語られている言葉だった。明らかな嘘を録音放送に撒き散らすイラクの情報相ムハンマド・サイード・アル-サハフをテレビで見るのが私は嫌だった。カメラの前でスローガンを叫ぶジョージ・W・ブッシュやドナルド・ラムズフェルドを見るのは多分それ以上に不愉快だった。ブッシュは大衆の前で喋るために大した努力をしていたが、その努力とは、練習済みのフレーズに頼り切ることであった。これらの丸暗記の言葉は、呼び出しがかかるともつれながらから飛び出してくるようで、外国語で自分について語ろうとする生徒のような印象を与えた。「国連の役割は重要だ。」大統領、重要な役割とは、具体的には何を意味しますか?「だから言ったとおりだよ。重要な役割さ。」こういった発言がどのように感じられるか、私はまざまざと知った。彼を眺めることは実に堪らなかった。   が、大学に在学中か、既に卒業した息子を持つような年齢のアメリカ人旅行者がいつも謙虚でばかりいられるわけはない。授業に出、二十代でありながら母親じみたやさしさを持つ二人の教師に向かって子供のように(あるいは子供より下手くそに)話すことを思うと、時折ふと、私達のどちらか一人は気が重くなるのだった。実際、四月の初めに「抵抗地域」ウム・カスルとバスラにおける醜悪な驚きと、自軍への悲惨な誤爆事故が「昨日のイラク関連ニュース」となった後、プリバハサの教室で、私は疑い深く、暗く、弁解がましくなっていた。ジョクジャの通りを歩いている誰もが「ハロー、メエースター!」と挨拶するので訂正しながら「私はアメリカから来たんじゃない。フランスから来たんだ!」サヤティダクダリアメリカ、サヤダリプランシス!と叫び返すのだとフランス人が(早口のバハサで)説明するのに再び耳を傾けることができなかった。  「この間抜け!」と私は考えていたが、その言葉をバハサでなんと言おうかとは考えてみなかった。この時の私は、自分が反イラク戦争派のフランスとその個人的体現者を支持していることを忘れていた。  私がこの反駁の言葉を口にすることはなく、心中に飲み込んだ。そこで胡椒と煙の味がする自国語の味はなかなか消えることはなかった。     ジョクジャカルタは、ハムンク・ブウォノ十世という名のスルタンを戴くにふさわしく壮麗で、また大学街でもある人口四十五万人の都市である。周囲は水田で囲まれ、雄牛や水牛と働いている者もまだいる。路上では馬が簡単なつくりの乗り物を引いていたり、人がベチャ(輪タク)をこぐ姿を目にすることができる。こういった乗り物は、スピードを上げてとばすバイクの中を静かに進んでいく。バイクの運転はジョクジャでは特に荒っぽい。これは、皆大学生が運転しているからなのだと説明された。  気候があまり変化しないため、多くのインドネシア人は一年を通じ、車よりバイクに乗っていることが多い。それは、住居やレストランが、しっかりと壁で覆われていなくとも構わないのと同じである。私たちが結局借りることになった大学関係者用住宅は、広々としていて、もともとノルウェーの交換留学生のために建てられたものだった。この建物には壁がないのだが、それと気づくのに何日かかかった。主室には重たげな勉強机と、七人のノルウェー人がついたとしても充分に大きい丸い木製の食卓が置かれていた。この部屋は、背の高い窓の広々とした空間から明かりを採り入れており、窓は白くて蜂の巣状の格子と蚊避けのネットで覆われていた。が、家の背面の窓にはガラスが入っていなかった。  このような様子なので、ジョクジャを訪れたアメリカ人らは、室内にいても何だか屋外にいるように感じ、屋外にいれば、さらにもっと外にいるのだという印象を受けている。仕事をするにせよ、食事をするにせよ、あるいは人との交流を持つにせよ、人目に、またアスファルトに晒されているような感じが強い。路上では、曲芸並みの運転は何も珍しいものではない。すんでのところで事故を起こさない様子にははらはらさせられた。コンピューターを膝の上に載せた者、長い巻いた絨毯を腕に抱えた者、沢山の鳩を入れた木箱を背中にしっかり括りつけた者、細い手足でまるで騎手のようにしっかりと捉まっている天真爛漫な子供を運ぶ者などがいる。幼子の母親は夫に身を寄せてバイクに乗り、首から肩へと吊るしたスルダンと言われる布製の紐で子供を支えている。合流地点にたどり着くまでに止まろうとする者はいない。合流は多分大丈夫だろうと信じることによって成り立っている円滑な動きである。事故は起っている。東南アジア地域のバイク関連の事故は、この地域の経済発展に対する障害物の一つであるとジャカルタポストは報じている。  私は人類学の教授にこう訊ねたことがある。儀礼におけるマナーの素晴らしさで知られるジャワ人が、向こう見ずなバイク運転者で溢れた都市を作り出してしまうことがどうして可能なんでしょう?彼は答えた。「ああ、それは簡単ですよ。道というのは国境地域ですからね。」  中産階級のアメリカ人を危害から守るために作られた、物理的な防御のための法的、規制的なネットワークは、インドネシアには再現されなかった。通常は費用が嵩みすぎ、輸入した場合、あまりにも奇妙なものになってしまうからである。ジョクジャから見る限り、アメリカ人は国内外からの脅威に危険な状態で晒されているようには思えない。それどころか、シートベルトをし、チャイルドシートを設け、安全なヘルメットをかぶり、塩素で消毒され、保険を掛け、厳重に武装し、海上を防衛し、恐ろしく安全だ。  私達がインドネシアを訪れることで蒙る危険は、インドネシア人たちがうまく出し抜いている日常的な危険に比べれば小さなものである。私たち自身は、インドネシアの論理、熱気、活気、実情に自らを充分晒すことができるということだ。毎朝、ジョクジャの街並みがいつもの賑わいをみせる中で外出すると、合衆国国務省の撮ったインドネシア群島のスナップ写真は国務省特製のレンズでかなりの高所から撮ったものだということがわかる。テロリストの脅威、地獄、それでは十番バスは?  このように感じていたので、路上を歩く時、私はほんの小さなことでも観察することを喜んだ。これは多分、一時的な滞在者としての適応能力が向上し、その結果安全性も高まっていると感じさせてくれるからだったのかもしれない。ジャランコロンボの路上では、ベンジン(ガソリン)の蓋付壜が売られていた。キャンパス内で手押し車の上で売られているそれと同じような形の壜は琥珀色の液体で満たされ、バナナの葉の小片で栓をされていた。この違いを見分けられるようになったが、このことが私は妙に嬉しかった。そこで私はキャンパスに出向くと顔に傷のある男からこの濃い色の液体を買い、ビニール袋にあけてストローで飲んだ。いったい何を飲み干しているのか見当がつかなかったが(砂糖味のタマリンドジュースかココナツの花のシロップから作ったグラジャワだろう)、「これはガソリンじゃないわ!」と言うことはできた。  夫と私は、ジョクジャにおいていつも安心ばかり求めているわけではなかった。時折、非常に慎重にではあるが、私達はトラブルを求めた。四月十日の旅行警告は、インドネシアのアメリカ人に「暴力行為に発展する恐れのある政治的なデモを避けよ。」と命じていた。私達の家からは、ガジャマダ大学のキャンパスの音が耳に入った。同大学内のロータリーは抗議行動を起こす人々の恰好の舞台だと聞かされていたため、私達は耳を澄ましていた。ある朝早く、私達は拡声器から流れる怒った声を聞いたが、その意味はわからなかった。ヒューは警告を重んじて大学内のオフィスまで迂回した道を通っていった。後になって、この時の群集は、北部における茶農園に対する大学の所有権に抗議するためにバスで訪れたスマランの住民であることを知った。彼らは土地の返還を要求していた。これは国内の紛争であり、アメリカの対外政策とは関わりがなかった。それからまた二、三週間の後、私達は再び拡声器の声を聞いた。その日は三月二十三日、日曜日の朝で、アメリカのイラク爆撃が開始されてからわずか後であった。私達は見に行くことに決めた。ドアから一歩を踏み出した時、その日は特に長くて白く見える自分の脚を見て動揺を感じた。前方に進んで行くと、キャンパスの芝生の傍に人と駐車された乗り物の一群があった。空には風船が漂っていた。   私達は人ごみに向かってジャランカリウランを横切った。歩を進めていくと、ロータリーに向かう大通りにワルンやCD、木製パズル、ヘラとフォーク、棘の立った果物の売り子が列をなしているのが見えた。子供が沢山おり、芝生の上では曲芸が演じられていた。シャボン玉売りは、私達に二組のセットを売ったが、それは、1)液状石鹸を入れた使用済み三十五ミリフィルム入れ、2)端の部分を糸で巻いてカーブさせ、ループ状にしたストローで成り立っていた。これは、ガジャマダ大学の日曜早朝蚤の市だったのである。拡声器は、ブーム!という口中清涼ミントを売る会社をスポンサーとしているロックバンドのものだった。お揃いのTシャツを着たインドネシア人の若い女性がただのミントを差し出した。私はミントを差し出した二人目の少女からそれを受け取った。一人目の少女は私に手を差し出すと目を見開いたので、私は脇に飛び跳ねてしまった。これは「(私が)置かれている周囲の環境に厳しく注意を払うこと。」という警告を意識した結果なのである。  次の週になると、インドネシア人たちは、イラク人死傷者のぞっとするような写真をテレビ放送で眼にするようになった。こういった写真は、バグダッドへのミサイル攻撃が終了した後も、四月、五月を通じて放映されていた。メトロTVは、スハルト政権の崩壊後に認可を受けた民間の二十四時間ジャカルタニュース放送局である。この局が繰り返し放映していたフィルムモンタージュは、負傷したイラク市民の映像に、インドネシア人の少女がインドネシア語で、四肢を失ってどうやって生きていくのかと、手足を失った若いイラク人に向かって歌いかける映像が重ね合わされたものであった。  こういったメッセージには聞き手がついた。空港の雑誌販売店で、イスラム教徒の女性(頭にかぶっていたジルバブでわかる)は私を見つけると、どこからきたのかと訪ねた。私が「アメリカ」と答えると、彼女はジェスチャーを交えながら、アメリカの爆弾で腕を吹き飛ばされた小さなイラク人の少年を見た時、自分は泣いてしまったのだと、バハサで強く訴えた。涙が止まらなかったのよ、と彼女は指で涙が頬を伝う様を示し、私をじっと見つめた。私の国に対するこういった批判者に対して、対峙し、評価し、その存在を認めようとするつもりでいた。が、この正々堂々たる出会いに出くわすや、私は弁解的な反駁をバハサで創り出していた。イブ、アンダセディジュハウントゥクオランーオランマティディアチェ、ティモール、ダンパプアダリTNI? メンガパ?オランーオランイトゥティダクディTVクマリン?「イブ、あなたはインドネシア軍に攻撃されたアチェー、東ティモール、パプアニューギニアの死者についても悲しんでいるの?どうして?この人たちは昨日のテレビには出てこなかったから?」  インドネシア人の抱いていた(そしてもちろん抱き続けていくであろう)一般的な感情は、アメリカのイラク侵攻に対して強く反対するというものであった。ジャワ人の礼儀正しい語学教師の一人は、彼女もまたジルバブをかぶっていたが、当時広まっていたジョークで、ヒトラーの魂がジョージ・W・ブッシュに入ったのではないか、と言ったような類のものを説明しようとしてくれた。ジョクジャカルタのイスラム原理主義者にインタビューを行なったガジャマダ大学の宗教学専攻の大学院生は、以下のように語った。原理主義者たちは、イラクにおける行動を、彼等の宗教的同胞に対する世界的な陰謀の一つに数えられる侵略行為のリストに付け加えようとしている。そこで、パキスタン、チェチェン、アフガニスタン、ボスニア、パレスティナ、また近い所ではインドネシア人同士のキリスト教徒とイスラム教徒の衝突が致命的に激しいスラウェシ島中央部、モルッカ諸島(特にアンボン島)に関する記録と共に、イラクにおけるイスラム教徒の犠牲者についての記録が残され、インターネット上に記事として掲載される。 […]

Issue 6 Mar. 2005

ジャワあるいは他のどこかにおける友情、メディアに伝達された想像力、熱狂的信仰

         またお会いしましょう  この20年というもの、私はインドネシアをたびたび訪れてきた。そのうちの12年は、ジャワのジョクジャカルタにおいて、文化人類学者としての調査活動に携わってきた。2002年の夏、私は再びこの地を訪れ、ジョクジャの南区域にある家族と私の家には、仕事の上でも個人的にも付き合いのある、一人の旧友がやって来た。マス・ヤルトは、地元の大学のリサーチプロジェクトの給与支払い名簿を管理していたが、12年前に私が出会った時は、同じようなプロジェクトのデータ処理者をしていた。当時の私は、この非常にジャワ的な都市において文化人類学の博士論文のための調査を、やはり同じ身分であった私のパートナーと共に行なう大学院生であった。   彼が到着すると、私たちは握手と互いの頬をかぐことによって熱情を込めて挨拶を交わした。靴を脱ぐと、彼は狭い玄関の間に足を踏み入れた。この部屋の奥に続いているのは、ありがたいことに天井に扇風機が取り付けられ、ジャワのアンティーク、織物、インドネシアの現代美術によって念入りに飾りつけられた客間である。床が大理石でできたこの部屋の片隅には、その人物にふさわしい精巧な筆で描かれた、少なくともインドネシア人の目には非常に美しい人物画が飾られている。袖の短い服に見慣れた黒い帽子を被ったその絵は、インドネシアの初代大統領スカルノのパステル画である。扇風機は心地よく低いうなり声をたてて回り、現代の様々な瞬間の遺物に囲まれて、私たちはタバコに火をつけた。香りのよい一服は、私たちの友情と、男性同士の仲間意識をしっかりと強めてくれた。  話題が9月11日のことに移ってゆくまでに、それほどの時間はかからなかった。熟した丁子の香りのする煙のベールの向こうに、この悲劇的な出来事についての理論と疑問の両方を提起しようとするかのようなマス・ヤルトの鋭い眼差しが伺えた。私の瞳を覗き込みながら彼は尋ねたが、その語調にはかなりの確信が感じられた「ワールドトレードセンターで働いていた何千人ものヤフディ(ユダヤ人)が、前もって一日休みを取ろうと知っていたというのは本当かい?」そこで彼らは死と破壊行為と負傷を逃れた。表現を誇張した彼の質問は続いたが、もし知っていたとすれば、引き出される唯一の結論は「9.11の飛行機を飛ばしていたのはユダヤ人だ。」しかない。    ちょうどその時、夕方の祈りへの呼びかけが町中にこだました。マス・ヤルトは、礼儀正しく断りを入れると、手、足、顔を洗い、私がタバコを吸いながら静かに待っている間、部屋の片隅で祈りを捧げた。この行動は、彼の攻撃的な発言にエクスクラメーションマークを置くために意図されたジェスチャーのように思えた。1997年に、ジョクジャの東に位置する、宮廷が維持されているもう一方の街であるソロを再訪したマーク・パールマンと同じように、私はこの「各個人の熱狂的信仰の深まり」に衝撃を受けていた(Perlman 1999,11)。今までの付き合いの中で、マス・ヤルトが私の前で祈ったのは、オフィス内にしつらえられた日々の祈り用の小部屋で、他のスタッフと共に行なった一回きりであった。私は彼の家に何度か泊まったことがあるし、仕事が終わった後の午後の時間を、彼のバイクでゆっくり回ったり、映画を見たり、彼が訪れるべきだと考えているジョクジャ市内の遺跡、ワルン(飲食のための売店)などの場所を訪れたりして過ごしたものだ。  その頃の私達の主な話題は、政治、文化、ジャワ文化などであり、当時の私の興味の対象であったペンゴバタントラディスョナル(伝統医学)についてももちろん話し合った。ソロとジョクジャの宮廷の支配者とその家族が葬られている、ジョクジャの南にある小さな町に彼は住んでいる。この墓地は超自然的な意味で強い影響力があり(angker)神聖(keramat)だが、様々なジャワの宗教については、私達はほとんど話をしなかった。例外といえば、多分ジャワの神秘主義(kebathinan)の医学における役割の話くらいだった。イスラム教、また確かにキリスト教については、ディスカッションをした覚えがない。  我々の友情の初期のころ、マス・ヤルトは現代的な人間として印象付けられている。彼はスカルノ主義者であり、スハルトの新秩序には懐疑的であった。科学に携わり、ブルシーダタ(純正なデータ)のために雇われたあたかもオフィスの手先のようであった。当時の彼は、テクノロジーからフリーセックスまで、現代的なものを全て体現していた。ある日の午後、私達はいく人かの友達と映画を見に出かけた。それはオリバー・ストーンのJFKだった。主演スターのケヴィン・コスナーが、彼の考えによる陰謀の概略を述べ始めると、政変の中でのジョン・F・ケネディの暗殺のシーンが重なった。私はマス・ヤルトが涙するところを目にした。映画を見終わった後、彼と仲間たちはJFKとスカルノには沢山の共通点があるということで意見が一致していた。そしてケネディに起ったこと- 少なくとも映画の中で -がスカルノにも起ったというのである。陰謀のセオリーに対する一般的な関心はさておき、我々に共有の立脚点、つまり近代性に対する性急な意識を与えるのは近代的国民国家とその政府の意図に対する批判なのである。  さて2002年となり、我々は陰謀のセオリーについて再び討論を行なっていた。夕べの祈りへの誘いが空に響いたため中断された彼の議論が根拠としていたのは、歴史のあらゆる曲がり角と、変化や予測不可能な出来事への推進力の背後に、陰謀者と回し者がいると感じる伝統であった。1997年に端を発した政治、経済危機の後に以下のような動きが続いた。スハルトの失脚、インドネシア群島のいくつかの地域で起った暴動、学生デモと改革運動(reformasi)、銀行スキャンダル、信仰治療を行なう黒魔術師の殺害、華人、また華人―インドネシア人混血女性に対するレイプ、いわゆる奥地における人肉食と最近の首狩り、そしてもちろん議会における些細な、あるいはそれほど些細ではない政治問題。新聞、雑誌は、これら全ての裏側に、個人にせよ集団にせよ誰かがいるのだという一般の認識を刺激したり、うわさを裏書してみせようとした。  私たちの友情は長く続いていたものだったし、彼は近代的なものを理解する人間だと考えていたので、私はマス・ヤルトに向かって、そんな思いつきは不合理だとかなり決然と説明した。オサマ・ビン・ラディンのアルカイダの組織が計画の背後におり、攻撃を行なった証拠は明らかじゃないか、と私はためらいもなく(あるいは考えもせず)言った。  夏が過ぎていくにつれ、マス・ヤルトとの友情が、世界的に現れつつある感情のパターンから影響を受けていると次第に感じるようになっていた。私が到着してからというもの、私の学問的関心をジャワのイスラム教の固有の歴史と性格に導こうとすることに、彼は非常な関心を見せていた。自分とまた彼の小さな街の人々が博学なイスラム学者であると認めている人々とのインタビューを、彼は積極的にアレンジしてくれた。イスラム教の学識と実践を独学し、地域では著名な人物と会見することになった。その人物は、ジョクジャカルタから三十分ほど南に行った所にある、マス・ヤルトの住んでいる街に居を構えていた。彼は、この「インタビュー」に参加するようにと、ジョクジャに住む他の友人も招いていた。会談の予定は夕方に入っていたため、この友人たちが私を車で連れて行ってくれるのは、理にかなったことであった。彼らが到着するのを待っている間、処刑されたレポーター、ダニエル・パールの新聞に載った写真が突然頭に浮かんだ。彼は、縛られ椅子に座り、頭をたれていた。舞台裏で動いている捕獲者に髪を摑まれており、頭に銃とナイフを突きつけられていた。待っている間に自分でも困惑するほど恐怖に襲われてしまい、もし私が帰ってこなかったら気をもむだろうかとパートナーに告げるために家の中にいったん戻ったほどだった。マス・ヤルト - そしてメディアに伝達されたアイデンティティーの政治における私たちの存在は極度に暴力的になった。「現実解釈の可能性の複数性」は私の想像力の働きと一緒になって、驚くべき恐れを私にもたらした。   インドネシアで過ごした日々を通じて、私はこんな風に恐怖を感じたことはなかった。その上、私がこのように考え込んでしまったのは、友人や親族と呼べるような存在に対してであったのである。私達は共に働き、食事をし、遊んだ。私は彼の子供たちの勉強をみてやったこともあるし、彼は私のパートナーの仕事を助けてくれた。私たちの関係は、私がインドネシアで作り上げてきた他の様々な関係と同じく、いやそれ以上に相当なものがあったと思う。ミニバンに乗り込む時に私が感じた恐怖は、世界的な出来事と構造的なつながりを持っていた。この感情は、長く続いてきた、または常に進行形で作られつつある私たちの関係にとっての感情的責任に違背した。その晩、帰宅する前にこの恐怖についてマス・ヤルトに語るべきだったのだろうか。2年後(2004年)に私達はたった一度、ほんの短い時間再会した。私達は互いに語ることが少ないことに気付いた。それでも彼は私に贈り物を持ってきていた。モート とルザフォードがパプアに関して観察した「マスメディアによって表現された暴力(とその他の事件)は、出来事を説明する際に決定的な要因となる。」という言葉のように、最近のインドネシアを象徴的に示すような贈り物だった。彼は私に一冊の本を送ってくれた。その本は暴力を体現してはいなかったが、最近のインドネシアにおいて、想像力に課せられた複数の言い換え、(再)命名、虚構の現実を捉えているように思えた。その本は、英語を話す西欧の学者によるコーランのスーラの章に関する解釈のインドネシア語訳であった。  メディアによる伝達    政治、経済危機、パレスティナにおける第2次インティファーダ、9.11の事件、アフガニスタンとイラクにおける戦争、これらの事件以後、世界最大のイスラム教徒人口を持つインドネシアにおいて、その国際コミュニティーが抱いた希望は、インドネシアの国民と政治が「中庸」を保つことであった。専門家であろうとなかろうと、インドネシアに対する観察者は、一般的に以下のように認めている。政治上のアイデンティティーが極端に走らない原因は、歴史を通じて一貫した寛容性と、そこに住む人々の個性と社会生活のあり方に柔軟性が保たれていることに見出される。この寛容性と、方針決定と経験の柔軟性は、島嶼部東南アジア、とりわけインドネシアの文化的特色であるとされている。O. W. ウォルタースは、この地域の「文化基盤」を分析しながら、社会的、文化的境界を越えて広く評価されていた人間の特質について、19世紀のジャワ語文献においては、洗練された人物(wong praja)が、柔軟性のある人物(lemesena)と表現されていることを引用している(1991,161)。ベン・アンダーソンは、特にジャワ人にとっては「もしジャワ的な生き方の中に適応させ、説明付けることができるなら、ほとんど全てのことが容認される。」と語っている。しかしながら、近年において、アンダーソンは過ぎ去った時を回顧しながら、この「ジャワ人の寛容性」が薄れつつあること、また比喩的にも、あるいは多くの場合現実的にも、「異なる社会的グループの間に近寄りがたい高い壁」という社会的建造物が登場しつつあることを指摘している(2002,3)。   9.11以前、以後のインドネシアにおける社会的事件は、この文化的に複合的な国家の持つ寛容性と「環境を変える」というジャワ人の能力が挑戦を受けていることを物語っているといってよいだろう(Beatty 2002)。特に、個人とその宗教的な所属に関して、長く続いてきたいわゆる「柔軟な市民性」が、世の中一般に見られるような非寛容な方向性に近づきつつあるように思われる。アンダーソンが40年ほど前、また近年嘆いたように、国家主義の世界的な重圧と振興は、ジャワ人の「旧来の道徳的な多様性を明らかに脅かし」、「構造的に条件付けられていた寛容を徐々に衰えさせている」といえよう。(1996,42)。インドネシアに新たに課せられてきたアイデンティティー、とりわけ宗教的なそれについて、私は身近な、あるいは遠方からの観察と会話からここに分析してみたいと考える。モルッカ、カリマンタン、スラウェシにおける地域紛争は、民族的、宗教的、政治的、経済的、あるいはそれらの組み合わせによって、多分様々に論じられており、非寛容で柔軟性を欠くアイデンティティーの形成を説明する説得的な例となることだろう。が、以下において私は、2002年にジョクジャカルタとその近郊におけるフィールドワーク中に、長年の友とその仲間たちと交わした会話について考えを進めてみたい。   注目すべきことに、慣れ親しんだジョクジャカルタの他の環境において、私は初めて「ユダヤ人」、あるいは「ヤフディ」に出会った。注意深くこのことを考えてみるにつれ、この世界的な兆候は、9.11や、インドネシアの内外で起っている事件を解釈するためのみに人目を惹いているわけではないことに気付いた。その他の記号的な重みが加えられているのであり、これらの重みは、インドネシアにおける社会的形態と習慣の変容、アイデンティティー形成の両極性を反映している。インドネシアにおけるユダヤ人コミュニティーの数は僅かなものなので、インドネシア人にとって自らの経験に根ざしたユダヤ人に関する知識は殆どないといってよいだろう。またその上、スラバヤのコミュニティーに僅かばかり残っているユダヤ人が、近年差別の対象とされたり攻撃を受けた例はない。イスラム教徒達は彼らに「シャローム」と挨拶を投げかけ、コウシャー(ユダヤ教徒にとっての基準を満たした食料を売る店)は、イスラム教徒のハラール(イスラム教の戒律に従ってさばいた食べ物)を売る肉屋から仕入れた肉を扱っている。また10年以上も、あるイスラム教徒の家族が小さなシナゴーグの管理人を務めている(Graham 2004を見よ)。このことから考えて、インドネシアにおける、ユダヤ人を表す符合として世界的に認識されているイメージはインドネシア人にとっての社会的事件や懸念事項と共鳴しあっているといえよう。  例を挙げて言えば、インドネシアの第4代大統領、アブラハム・ワヒドの議会制に基づく選挙の後、イスラエル人とパレスティナ解放主義者間の暴力行為は国内の「どこか他の場所でメディアに伝達された」と受け止められるようになった。この時、政治的な符号としてのヤフディが、現在のような受けとめられ方をするようになったのである。メディアの中で目にすることのできる彼等の姿は、生々しい現実として目撃され、人間の行なう事件の真実に対する平等な洞察を自称する、その他の様々な符号の可視的な背景の中でより深い意味づけを獲得していくのである。フェルドマン(2000)は、この政治化された可視性を「観察統治様式」と呼び、いわゆる「現実解釈の可能性の複数性」が事件に対する人々の理解を形作るようになると述べている(Feldman 2000参照)。シーゲルは、「インドネシアにおいて『ユダヤ人』という語は、脅威を示している」が、この脅威には形状がない。」という点に注目している(2001,302)。シーゲルによれば、ユダヤ人の宗教的なアイデンティティーは、「キリスト教徒のそれに吸収されている」例もいくらか見られる(同、272)。ハッサンは、「シオニスト兼キリスト教徒の陰謀のセオリー」への、同じような同化の例を観察している(2002,163)。このことをバリにおける爆破犯が念頭に置いていたことは明らかである。有罪を宣告された爆破犯のうちの一人、アムゾーリは、彼らを爆破に駆り立てたのは、ユダヤ人、アメリカ合衆国とその同盟者達に端を発し、世界中を覆っている道徳的退廃であった、と語っている。彼の考えによれば、この悪の枢軸による世俗の「けっこうな」暮らしぶりは、道徳的退廃を生むために宗教と競っているのである。そこで彼は、「白人を殺したことには誇りを感じるが、インドネシア人の犠牲者を出したことには悲しみを感じている。」   シーゲルは、「メディアの上のユダヤ人」と結び付けられている反ユダヤ人主義は、インドネシア国内でおこっているイスラム教徒とキリスト教徒のコミュニティー間の暴力行為に関するメディアの叙述を通じ、インドネシアの多様性を持った宗教に関わってくるような日常の中での政治に入り込んできていると主張している(2001,303)。リードは、東南アジアの歴史において、華人が「東洋のユダヤ人」として知られるようになるにつれおこった、ユダヤ人と華人の結びつけに関する史料を引用している(1997,55)。シロは、「ユダヤ人に譬えられることは、東南アジアの華人知識人からは歓迎されず」、ただ「イスラム教徒に敵意を抱かせる」事にのみ役立っていることに注目している(1997,5)。実際、既に人種主義的な符号として重い意味づけをなされているユダヤ人の世界的な符号は、インドネシア社会において華人の社会的アイデンティティーが既に「人種的カテゴリー」となっていることについて伝えている。その結果、インドネシアの華人の、華人として、インドネシア人として、あるいは他の標識を持ったアイデンティティーに関する社会的な理論は、予言を叶える役割を果たしている。これは、民族主義がどのように働くかの例であり、社会生活と差異に対する理解に何故有益かという理由である。   インドネシアのメディアによって伝えられている「ユダヤ人」の世界的な符号は、インドネシアのイスラム教徒の間に、イスラム教に混ぜ物が混入されつつあるのではないかという恐怖をたきつけている。こういった恐れの感情は、「血」に関する言説の中にしばしば見られる。2000年10月に、マレーシアにおいて、イスラエルのクリケットチームがマレーシアの土を踏むことに対する抗議運動が行なわれたが、このことはジャカルタにおけるデモに刺激を与えた。インドネシアの抗議者らは、イスラエルの国旗に血を浴びせかけ、「ユダヤ人の血が欲しい。」と要求した。ワヒド大統領の外相アルウィ・シハブは、議会において以下のように論じた。インドネシア軍の人員が占領の最終期に犯したとされる人権侵害と戦争犯罪の証言を聴取するため開かれようとしている東ティモール国際法廷の設立を妨げようと努力するつもりなら、インドネシアには「ユダヤ人のロビイスト」が必要である。何故「ユダヤ人のロビイスト」なのか?それは、アメリカ議会がユダヤ人にコントロールされており、合衆国国務長官のマデリーン・オルブライトは、ユダヤ人の血を引いているからである。  リードは、今日のインドネシアとマレーシアにおいては、「近代化の犯人リストに関する最も粗野な人種的公式化は、理論的な構成概念としてのみ知られている『ユダヤ人』マイノリティに対して行なわれている。」と嘆息している(1997,63)。「近代化の犯人リスト」についてさらに詳しく述べる中でリードは、インドネシア人のモデルニサスィ、ウェストゥニサスィ、グロバリサスィに対する魅了のされ方と嫌悪 - をインドネシア人がしばしば一つのものに合体する歴史的な過程と条件に注目している。スハルトの新秩序下においては、そのような合成が奨励された。プンバグナン(発展)は、土着の民主主義、階級的社会秩序、公正で豊かな社会の土台としての物品とサービスの流通、またインドネシア国家の礎と一括して扱われた。レフォルマスィは、スハルトの夢が馴れ合い、腐敗、縁者びいき(Kolusi, Korupsi, Nepotisme, KKN)に基づいていたことを暴露した。   しかし、夢とはそこから覚めることが困難なものである。そしてここに皮肉な成り行きが見られる。もう一人のバリの爆破犯、アリ・イムロンは、「インドネシア国家の息子としての我々の能力は誇るに値する。」と語っている。この発言は、1928年において、インドネシアの民族主義者の「覚醒」を布告した青年の誓いを仄めかしている。この国家的なアイデンティティーの覚醒は、その大志という意味では国民国家と同種の近代性の段階に入っている。スカルノの旧秩序と「指導される民主主義」の下で、国民国家であることは、成熟、発展(maju)した社会になるための記号的な進歩であった。が、しかし、スハルトの新秩序統治体制においては、ただ単に国民国家になるだけでは不十分であった。近代性の記号は、技術主義社会にふさわしく設計されており、プンバグナンの条件を技術的に発展させるものであるべきだった。30年間のプンバグナンスタイルの心的傾向は、インドネシア人に対して、深い心理的、社会的、文化的影響を与えた。その中でも著しいのは、自分たちの社会におけるものにせよ、他者の世界と比較してみたものにせよ、自己に対する見方に対する影響であった。それ故、イムロンの誇りの源泉が爆弾を作り他者に示す能力と、途上国の貧しい村の若者が、アメリカやオーストラリアなどの先進国に打撃を加える能力であったことは驚くに足りない。2002年10月にクタビーチにおいて使用した技術を彼は記者会見の中で見せびらかし、自分がアフガニスタンで爆弾製造を学んだと主張した。そして「我々のインドネシア人としての能力は誇るべきものだ。が、その能力は間違った目的に使用されている。」と語った。インドネシアの国家を技術面における刷新と結びつける考え方は、スハルトの新秩序下における開発主義、プンバグナンのイデオロギーの主要な推進力であった。   バリの爆破犯の声明の中を勢いよく流れる開発主義は、新秩序体制政治の経済、文化的成り行きを反映している。スハルトの統治期においては、トルイヨが「構造の変化と資本の空間化」(2001,128)と定義したグローバライゼーションが明らかにインドネシアにおいても起り、社会の殆どあらゆる階級によってなんらかの形で感じ取られていた、と語るのが正しいように思う。トルイヨは、グローバライゼーションをそれぞれがばらばらの過程であると述べたが、また以下のようにも表現している。人々と空間(例えばインドネシア)を「その中においては、諸国家の理想がさらに似かより、増えつつある過半数の人々が、理解したり認識したりすることができないようにする手段ですらあるような消費の網」に結びつける「消費品市場の世界的統一」(同書、同ページ)。市場とそのメディアティックス - 人間生活における市場に対するメディアのパフォーマンス -は、バリの爆破犯が憎みかつ愛した「けっこうな暮らし」への欲望を体現、また誇示している(同書、同ページ)。テレビ、ラジオ、印刷物などの一般的なメディアは、未だにアメリカ、日本、香港、インドなどの他者に大きく影響を受けている。消費品の消費によって達成される「けっこうな」暮らしの社会的架空性は、インドネシアを新しく訪れた者の目にも、以前そこで時を過ごしたことがある者の目にも明らかである。このことは、反アメリカ主義以前に、私が会ったり新たに知り合ったりした多くのインドネシア人によって映し出された、非常に目につく圧倒的なイメージであった。   マス・ヤルトがその日の夕方早くにとった姿勢は、ある意味で同種の感情を反映しているとも言えよう。私は彼の前に座り、台頭しつつある「観察統治様式」の中で異議を唱えたり、彼の説に従ったりした。この「観察統治様式」の中においては、多彩な真実が近年において歴史的に固定的な解釈をされているが、友人、同僚としての生命を持った我々の歴史を侵略している。お互いを眺めながら、私達は共にたくさんの「どこか」-「伝達されメディア化されたどこか」について考え込んでいたに違いない。スピアーは、特定の場所に住む人々の実際の歴史を説得力を持って伝達するような「イメージ、語彙、サウンドバイツ(ほんの短いメッセージ)、スローガンそして軌道の混乱」とその特性を描写している(2000,28)。このことはマス・ヤルトにとってもその通りなのだろうとは思う。おそらくは尋ねてみるべきだったのだろう。が、ある夕べに私の感じた恐怖には、私の平静を乱す効果があった。 熱狂的信仰  同じように、これらの「同時代的メディア風景」は、コミュニティーのイメージ形成、いやもっと正確には、今日のインドネシアにおけるコミュニティーのイメージ形成にもまた影響を与えている。それは、今日の大変に重要な時期を迎えたインドネシアにおける、あまりにも多くの出来事、イメージ、活動、連想の一点への収束である。内部の人間も外部の人間も、インドネシア人が、おびただしい数の言い方でアイデンティティーや意見について表現しなければならない、レフォルマスィの能力と自由の表裏に注目している。アイデンティティーに関して言えば、ゲリー・ヴァン・クリンケンは、現在では「インドネシアでは、以前には公然と聞かれることのなかったエスニシティーに関する排他的な言説が」登場している、と述べている(2002、68)。ユダヤ人の血を求めたり、血というものは宗教的所属に生来的に結び付けられているという解釈を行なうことは、時勢の憂慮すべき兆候だろう。シーゲルは、「華人」というカテゴリーは、一部のインドネシア人にとっては「人種的カテゴリー」(「肉体的な特徴の遺伝」を意味する)に属すると認めている。彼はまた、インドネシア人は一風変わった人種差別主義の感覚を持っているとも述べている(1998,83,85)。彼によれば、「ヨーロッパの人種差別主義者」と「インドネシアの人種差別主義者」は、体現と同化の捉え方に関して差異がある。前者にとっては、脅威を感じさせるような何かを体現する他者の持つ要素に「耐え難い」。それに対しインドネシア人にとっての華人は、彼らが「よりよいインドネシア人」になろうとしない場合に脅威となる(同書、85)。   が、最近では、一人の人間が体現する耐え難い要素という概念は、民族的、宗教的紛争において顕著に根をはり出している。この小論の学会発表版において、私と同じ都市化したカンプン(村)でフィールドワークを行なった人類学者である私のパートナージャニス・ニューベリーは、何年かにわたって時折居を共にした家族の息子との会話について詳述している。 彼女の記憶するのは以下の通りである。  私は一家の長男と話しをしていた。彼は物静かで、家族を支えるため薬局で父親と共に長時間勤勉に働いていた。彼はとうとう結婚し、妻の家族の家に引っ越したが、最も長い時間を過ごしているのは、母の家だった。彼は口数が少ないのだが、彼が語る言葉は、結果的にはいつも言葉以上の重みがある。物事がどのように変わってしまったかを彼は語った。「ムバック(ジャワ語で年上の女性に対する呼称)、今じゃ子供ですら僕の手から金を受け取ろうとしない。僕はカフィールだから。」カフィールという語のこんな使い方は非常に印象的である。私はそれまでにこの言葉が使われるのを聞いたことがなかった。今では一人のカトリックが、小さな子供ですら自分に触れたがらない事実に接し、考え込んでしまっているのだ。これは非常に困惑的な瞬間であった。(Newberry and […]

Issue 6 Mar. 2005

選挙は水のようなもの

         選挙は水のようなもの。なくなって初めて恋しがられる。 戒厳令以前の暮らしの記憶のない圧倒的大多数のフィリピン人にとって、選挙は水のようなものだ。人間の身体にとっての水と同様、選挙は国家にとって不可欠であり、政治生活の必需品である。年配の世代にしてみても、選挙は水のようなものだ。しかし彼らの場合は、現在の政治文化を不毛の砂漠のようにとらえ、選挙のたびに国民が引き裂かれるおぞましい風景とは無縁だった、指導者と民衆の美徳によって彩られ理想主義がみずみずしく開花していた時代を懐かしむ。 選挙は水のようなものだ。川のように、票の激流があっという間に国を浄化し、どの政権にもみられる「アウゲイアス王の牛舎」(注:不潔あるいは腐敗した場所の意)を洗い流す。 1935年に行われた初の大統領選では、有権者の3分の1が投票しなかった。当時は読み書きのできる全男性に選挙権が認められており、選挙人登録をした人の数は150万人に上った。我々は完全な独立に向けた独立準備政府の発足を心待ちにしていたのだから、有権者たちが将来の国民国家の基礎作りへの参加に興味を示すにちがいないと思うのは当然のことだろう。ところが、実際にはかなりの数が興味を示さなかった。だが、その理由は驚くものではない。選択肢を見ると、大統領ポストに3候補者しかおらず、それもこの少ない人数の中で1人は圧倒的な人気を誇っていた。結果は目に見えていたし、万事順調に進んでいると思える時代だったから、有権者の3分の1は特に気にかける理由を見出さなかった。マヌエル・L・ケソンは68%の得票率で圧勝し、エミリオ・アギナルドとグレゴリオ・アグリパイはともに18%以下で終わった。1941年になると女性にも選挙権が認められたが、投票率はほぼ横ばいだった。つまり、前回と同様、3分の1は投票に意義を感じなかったということだが、この選挙では現職のケソンが81%もの票を得ている。 我々フィリピン人が羨ましいと思いがちな民主主義国家では、選挙人登録をした人びとの間で投票率が66%に上ることはめったにない。アメリカ合衆国の選挙は同国だけならず世界の情勢に影響を及ぼすにもかかわらず、投票する人はずっと少ない。フィリピンでは、平穏な民主主義の時代とされる戦前から、一票を投じるという過程に対しフィリピン人は大きな評価をし、今でもそう評価し続けるという我々の民主主義の特徴が明らかになっている。ただし、戦前は予想可能だった我々の政治的かつ国家的発展の姿は、第二次世界大戦という国民的トラウマの中における一連の衝撃と失望によって消えてしまう。 1941から1946年までの間、フィリピンにはマヌエル・L・ケソン、ホルヘ・バルガス、ホセ・P・ラウレル、セルヒオ・オスメニャ、マヌエル・ロハスという計6人の国家元首がいた。この5年間に、正当な大統領の座を巡って2人の指導者(日本に支持され本国に残ったラウレルと、米国の支持を受け亡命したケソン、その後にはオスメニャ)の間で争いが繰り広げられた。この時代、どちらの味方につくかはもはや政治的ビジネスではなく、血生臭いビジネスだった。「協力者」(注:collaborator、日本占領軍に協力したフィリピン人の意)ゲリラ、亡命中の役人に山にこもった役人、隠れたゲリラだというマニラ在住の役人に親日派を明言する役人といった具合に様々な人びとがいた。 今日知られているように、終戦と戦争のトラウマの後に初めて実施された国政選挙が、それ以降の選挙の舞台を設置した。投票が生きるか死ぬかの問題となってしまってからというもの、戦前に注意深く育成された政治的な美徳の見せかけの維持は、もはや困難だった。大戦前、選挙は人々が自分たちの指導者を指名するという神聖な面を持っていたという意味で、水のようなものだった。一方、大戦後には、選挙は汚れを流し落とす手段だけではなく、生き残るために必要不可欠なものとなったという意味で、水のようなものだった。引き裂かれて分裂してしまった有権者、ゲリラ、偽のゲリラ、本物の「協力者」で不当に告発された者、日本の銃剣を後ろ盾に不動産を避難させた者(自分の身の可愛さから今は米国にしがみついているが)、不満の募った農民―置かれた状況は異なるが、みな生き残った者たち―が選挙の結果に多大な関心を寄せる事態となったのだった。 1946年の選挙では、本物のゲリラ、過激派、そしてケソンが国政を支配していた20年間に遣り込められていた指導者らが、ついに自分たちの時代が到来したとして必死に戦った。ロハスの後ろで陣を張ったのは、孤児のようになっていたケソン派の政党員だった●。ゲリラと「協力者」の両方がいたが、なかでも特に重要だったのは「協力者」だとして告発されていた者たちであり、彼らにとっては政治的生き残りが名誉回復と復権への唯一の道だった。選挙では両陣営とも、極貧状態に陥っていた国民の人気取りに必死になった。国民はというと、独立に興奮と恐れを同時に感じながらも、戦前に注意深く組み立てられてきた発展がついに実を結ぶのが1946年だと信じ込まされてきたが、実際には独立とは死と腐敗が悪臭を放つ廃墟の上でたなびく旗のことだと知らされたのだった。 戦争により人びとは殺され、インフラは廃墟と化し、理想は痛ましくも空洞化し、文字通り「乾きあがった」国民は選挙を水のようなもの、そして水を求める喉がカラカラに乾いた人々の戦い、それも必死の戦いだと考えた。1946年に圧勝した候補者はおらず、単独過半数を得ただけだった。また、票の買収、不正操作、選挙がらみの暴力は以前では考えられないレベルに達した。1949年になると、こうした状況はさらに悪化し、エルピディオ・キリノが死人を眠りから起こし、植物や動物まで動員させて投票させ勝利したという悪名高き話は世界中に衝撃を与えた。しかし1953年、カリスマ性を持ったラモン・マグサイサイが、ケソンが1935年に記録した得票率68.9%を破って当選するという、待望の大洪水が起った。 ところが、マグサイサイは1957年にこの世を去った。彼の後継者であるカルロス・P・ガルシアは7人の候補者の中で、わずか41.3%の票を取得することで選ばれた。相対多数を得た者が選挙を制したことで、ここに今日のフィリピンの政治制度が生まれた。この国は、勤勉さと巧みな策略を駆使したケソン、また天賦の才能とカリスマ性を兼ね備えたマグサイサイのような指導者たちがいつも支配するわけではない。ほとんどの政治家は平凡でひねくれ者だが、かといって非常にずるがしこくはない人たちであり、必ずいつも輝く人がいるというのは不可能である。 加えて、政治家は控えめで大衆の気を引くような行動をとることは好ましくないと有権者が考える時代は終わった。さらに、政治家の間では、疲れきった、ある意味、道徳的に破綻した戦前派の世代から、戦争に実際に加わり、その後成長した若く生意気な世代へと、嗜好や期待するものの変化がみられた。さらに加えて、政党ごとの組織票などの、ケソンが注意深く設置しマグサイサイがその人格の力で動かした大統領の権限や組織マシーンは着実に衰退した。その結果が次のようであった。 ガルシアは、彼の先任者たちが当たり前のものとしてきた基本的な支配のレバーをもぎ取られた大統領だった。政党マシーンによって生み出され育て上げられた大統領だったが、その党員は政党志向の投票の防波堤だった組織票を既に無くしていた。キリノの横暴な性格と、その裏腹の微々たる政治的ギフトへの反応として始まった潮流の一つ、大統領の特権から地方自治体の任命が徐々に剥奪されるという過去の遺産を背負った大統領でもあった。また、彼は古いスタイルの政治家だったが、それ以前にマグサイサイが手下をとおして投票者に指示を与えて選挙に勝利するという古い政治家のスタイルを崩してしまっていた。スペイン語を話し、古い形式にのっとって就任した人だったが、有権者はマグサイサイ式のバロンタガログを着て登場する素朴なタイプを好んだ。この有権者はまた、芸能アイドルという資格しか持たないロヘリオ・デラロサを上院まで送りこんでいる。その一方で、投票した人たちはガルシアに大統領としてケソンやマグサイサイのような自信に満ちた態度と風格を期待した。 問題は、ガルシアはこれら2人のようではなかったことである。自らが言っていたように、彼は「馬鹿ではなく」、じっさい彼や彼の後任はしばらくのあいだ、残された権力のレバーを握って大統領職まで上り詰めるという賢さを披露した。 したがって、投票者と大統領を志す政治家の双方の間でみられた、大統領という地位に対する一般的な見方は、過去の大統領の実物大以上の人物像と比べて、現職の大統領たちが(試みはしたものの)それと同等の権威と有効性を用いて行政力を行使できない苦しみを経験した。法のもと、制度のもとに、そのための手段がなかったのである。にもかかわらず、投票者の間の期待は変らず、政治家の間の野望も変らず、さらに選挙に対する人びとの関心は1946年以来高いレベルにとどまり、特に流星のごとく登場したマグサイサイの後は熱狂状態だった。ガルシアは、キリノがマグサイサイに負けたときとほぼ同じ理由によって、ディオスダード・マカパガルにその座を奪われた。しかし、悲しくもマカパガルには行政力を執行するだけの実力が身についておらず、1965年、しかるべく彼はフェルディナンド・E・マルコスによって押しやられた。マルコスは、渇望していた権力にたどり着き、手にした地位を放さないためには、制度をすべて壊すしかないと心に決めた。 1969年、マルコスは大統領選では歴代4位の61%という高い得票率を掲げて、史上初の再選を果たした。ちょうどケソンが行政支配をやり易くするために制度を変革したように、マルコスも変革に着手したが、彼の場合はもっと大胆だった。このインフラ重視の大統領は選挙をダムととらえた。つまり、政治支配を集中させる手段であり、自分のクローニーの畑は灌漑で潤し、敵の土地には何もせずに干し上がらせ、自然の流れさえ変えられるという圧倒的かつ不屈の意志を持つ、まるでファラオのようなイメージを人びとに与えるものだった。 「新社会」というマルコスが構築した湖の水は、ドロドロしていて、浅く、汚染されていて、臭いことが判明した。1986年、ダムは決壊し、もっと自然な水の流れが戻ってきた。コラソン・アキノは公式選挙結果では敗れたが、きちんと集計されたところでは勝ち、それは彼女の支持者や世界の目にはモラルの勝利として映った。選挙を取り戻す、言うなれば、選挙を渇望する国民に水を持ち帰ることについて―たとえそれが自分の夫が成し遂げようとしたものであっても―アキノは最初から、恥かしがり屋の未亡人として、政治的激動期における国家再建の中心的役目を果たすことについては乗り気でない様相を見せていた。 コリー・アキノは選挙、実のところは国民投票によって権力の座に着き、彼女は選挙/国民投票を正当性の維持の要に用いた。 ところが、ガルシアの選挙のときに姿を現した、政治制度の発展―または未発展―の段階が、復讐をするかのようにフィデル・ラモスの時代になって戻ってきた。ラモスは、我々の選挙史上で最低の得票率(28%)で当選するという記録を作った。彼の成功は、選挙を大統領統治のための正当性だとする考えに悪い影響を及ぼした。エドサ(注:ピープルパワー革命)後の策略で重要になったことは、人気でもマシーンでもなく(彼の対抗馬らはこれらを兼ね備えていた)、少ないものから最大の効果を発揮させるという戦略的優位性である。ラモスは、他の候補者よりも不人気の度合いが低かったという理由で、国民の多くに拒否されながらも、大統領の地位にたどり着いた。ラモスの任期後、ジョセフ・エストラダが圧勝のような形で大統領になったことは驚きに値しないが、その圧勝とされる状況はじっさい、ガルシアと他の候補者との間の得票差よりも健全だったとは言えない。ラモスとエストラダは少数派の大統領だったのであり、様々な期待に応じるには制度的に無理があった。それと同時に、有権者の方はますます分裂し、失望し、絶望した。人びとの好みとマスコミの変化によって、ジョセフ・エストラダはロヘリオ・デラロサの後継者になった。 ラモスの巧妙なずるさと部下を操る長い経験をなくして、エストラダは権力を維持するには不適当であることが明らかになった。一方、彼の副大統領となったグロリア・マカパガル=アロヨは、エドサ後に初めて過半数に近い票を獲得した(注:フィリピンでは大統領と副大統領を別々に選ぶ)。これによって、彼女は自分がエストラダの後継者だと十分認められ動き出す権限を手にしたのである。エストラダがマラカニアン宮殿から逃げ出したとき、(長い話を簡単に言えば)アロヨはすばやくそこに乗り込んだ。とはいえ、この一連の過程は、正当な継承者、つまり炎を受け渡される明らかな後継者として次期大統領が歴史的に味わうことができた自然な特権を否定されるという特異な状況下で行われたのだった。 2004年大統領選のキャンペーンは正当性の追求だった。正当性はエストラダが指名した候補者によって失われ、また現職もまだ獲得していない。不信任をつきつけられ拘置所にいる指導者に依存した候補者や、自分自身も拘置所へ行くべきだとの申し立てでひどく傷ついた現職のほかにも候補者がいたが、彼らも正当性を追求した。ところが、熟成中の一つの政治文化が2人の最有力候補と選挙戦の影を薄くしてしまった。この政治文化は、1960年代に生まれ、1970年代に暴力的になり、1990年代に道徳的に破綻したのだが、指導者も指導される人たちも1980年代の信頼できる選挙を復活させようとバラ色の眼鏡をかけて見ている。水があるように、選挙はある。しかし、国の合理的な、熟考した計画の一端としてではない。乞食の民衆に感謝の念を植え付けるための施しのように、投票を水のように見なす指導者の考えにぴったり合うから存在するのである。 少なくとも3分の1の有権者が投票しなくなる日が来るにちがいない。選挙の結果がどうであれ、重要なことは問題になっていないのだから。1946年以降、この問題は重要であり続け、それゆえ、選挙のたびに汚職が国の重要懸案に挙げられている。大多数にとって何が問題なのかというと、文字通りに水そのものが彼らの物として飲め、水浴びに使える生活、バランガイ(注:近所の地域)ごとに一つの蛇口とかゴミの溜まった水路とかいった具合には計れない生活、そういう生活を望むということなのだ。 選挙は水のようなもの―喉の乾いた人たちにとっては必需品であり、それを支配したり所有する人たちにとっては権力の根源である。選挙は水のようなもの―それぞれの人にそれぞれの意味がある。選挙は水のようなもの―少なくとも我国のように、どのバランガイの人たちも飲み水のために何時間も待ったあげく、濁って悪臭のするものしか得られない現実のなかで、上流階級の家々にあるプールの存在が恥を象徴している。 マヌエル・ケソン三世 Manuel L. Quezon III is a columnist and contributing editor at […]

Issue 5 Mar. 2004

地形をマッピングする: マレーシアにおける知識のイスラム化政策と文化

         Georg StauthPolitics and Cultures of Islamization in Southeast Asia: Indonesia and Malaysia in the Nineteen-nineties『東南アジアにおけるイスラム化政策と文化: 1990年代のインドネシアとマレーシア』Bielefeld / Transcript Verlag / 2002  Mona AbazaDebates on Islam and Knowledge in Malaysia and Egypt: Shifting Worlds『マレーシアとエジプトにおけるイスラム教と知識に関する議論: 移りゆく世界』London […]

Issue 5 Mar. 2004

女性とイスラム教と法律

         Hjh. Nik Noriani Nik Badlishah, editorIslamic Family Law and Justice for Muslim Women『イスラムの家族法およびイスラム女性のための正義』Malaysia / Sisters in Islam / 2003 Gender, Muslim Laws and Reproductive Rights『性、イスラム法および生殖に関する権利』Davao City / Pilipina Legal Resources Center, Inc. / 2001 […]

Issue 4 Oct. 2003

フィリピン経済に対する評価

         この報告で論ずるのは、フィリピン経済が持続的に成長するのではなく、周期的に成長と停滞を繰り返すのはなぜなのか、そして停滞を招く要因は何なのか、また多様な経済部門とあまり考え抜かれてはいない成長戦略が経済成長にどのような効果を与えているのか、雇用におけるジェンダーの影響、そしてフィリピンの天然資源と環境の状態である。経済成長に周期性がみられることと、収入が上下することは、マクロ経済レベルでの支出傾向や、選挙政治の性質、地方の発展にだけ関係があるのではなく、1980年代以前の大して考え抜かれていない成長戦略が長続きしないことや、現在の自由化戦略に限界があること、そして国の天然資源と環境の状態にも影響をうけているのである。 経済成長の周期性 一人当たりのGDP成長率で測ってみると、60年代以降、経済は75年から82年までの7年間をのぞいて、4年から5年ほどの短い成長サイクルを6回繰り返してきた。経済が停滞することで、財政面では負債が増大し、収支バランスと国際通貨準備上の地位が悪化し、民間投資の低下を招いた。投資が落ち込むことについては、前年度のGNPと通貨価値、国内の信用が低下していること、利子率が高いことなどが密接に関係している。投資は大統領選の前年にも落ち込んだが、これはGDPがより低くなることが予想されたからである。政府の支出が増大することと民間の投資が低下することは、経済の停滞を解決するとも考えられてきたし、引き起こす原因であるとも考えられてきた。 83年から85年にかけての政治経済上の危機は、それ以前と以降の経済成長を分ける分水嶺となっている。成長率がマイナスであった時期を除けば、82年までは一人当たりの実質所得が絶えず上昇してきた。しかし、86年以降は成長率が頻繁にマイナスになるため、所得の上昇は遅々として進まなかった。結果として一人当たりの実質的なGDPが、82年のピーク時の状態に戻るのに20年もかかってしまった。85年以降の経済回復が遅々として進まず、経済状態自体もよりいっそう不安定になったのは、政治体制が変わるごとに経済成長戦略が政治上の争いを伴って変更されたことと、自然環境と天然資源に限界が訪れたことを反映している。 80年代以前、経済成長に刺激を与えてきたのは、通貨価値を過剰に高く維持し、関税保護をかけ、政府の援助を与えることで輸入代替産業を補助してきたことと、天然資源と農産物の輸出であった。しかしながら、80年代までにこの成長戦略は機能停止に陥った。鉱業を除く天然資源部門と農業部門が産業発展の源を提供することを困難にしたのは、森林と漁業資源が枯渇し、比較的低開発であった農業部門が安い食料と新しい輸出品を提供できなかったためである。さらには、政府がインフラ投資と成長を維持するために海外から借り入れと赤字の財政支出をおこなったことが、通貨価値が過大に評価されていたこととあいまって、徐々にインフレを引き起こし、社会コストがかさむ状況を生み出した。このような中で80年代初期までには、新しい成長戦略が絶対的に必要となっていた。 83年から85年の政治経済危機と国内の天然資源の枯渇は、経済政策のフレームワークとして世界的に自由化が重要性をましてきていたことと一致した。外資を導入して輸出志向型産業の設立促進のためにフィリピン政府が自由化を採用したことが、80年代以前の保護主義的な経済政策からの主要な転換であった。しかしながら、これは上手く機能するために必要な制度的な調整を欠いた危険な転換であった。  環境悪化の中でのサービス業部門主導の経済成長そしてさえない農業 近隣諸国と異なり、フィリピンは70年代以来安定した高度成長期を持ったことがない。成長が周期的で不安定であったのは、先に述べたようにマクロ経済と政治が不安定であったことに加えて、特定部門の成長パターンが低く不規則であったこと、80年代までの戦後の成長戦略が無思慮かつ不安定であったこと、そして現在の輸出志向型の産業化戦略に限界があることなどに起因する。 サービス業部門はもっとも安定した成長の源泉であった。しかし、穀物部門の成長率が低かったことと、林業、漁業、工業部門の成長が不安定で凋落傾向を示していたことが、経済の潜在的な成長を妨げてきた。農業がふるわないのは、不効率であるというばかりではなく、森林を非生産的な森や薮、農地に転換してきたことも原因である。移住が急速かつ無制限に行われ、それに付随して道路建設や採鉱、高地栽培が進み、そして木が伐採されて裸になった川の流域を修復し損ねたことにより森林は荒れていった。そして森林の荒廃により、気候状態や降水量、川の流量が変化し、森林が持つ水を蓄え、土が流れ出さないようにする力と、堆積作用が減退し、結果として灌漑や水力発電機能が低下し、収穫と収入も減少することとなった。 環境破壊は貧困と移住に密接な関係がある。森林面積が急激に減少し、農地が占める割合が増加したにもかかわらず、灌漑された農地が少ない地方は、貧困状態にある家庭の割合が非常に大きい。こういった地方では、貧困や農業部門・林業部門以外に雇用機会がないことが外への移住を引き起こしてきた。地方からの移住者は好んで高地や海岸地方、都市の中心部へと移っていった。しかしながら、こういった場所への急速でむやみな移住は環境に破滅的な効果を及ぼした。 典型的な例として、魚に対する需要が急激に伸びたので漁師や町で漁業を営む人の数が増え、魚が乱獲された結果、70年代後半から80年代の初めにかけて漁業資源が枯渇してしまったことがある。そして漁業資源の枯渇は、一回の漁での漁獲高が減少し、儀装を転換できなかった漁師の貧困化を導くこととなった。養殖は90年代に新たな成長の源泉を提供したが、マングローブの減少や沿岸部に土砂が沈殿したこと、湖や川が汚染されたことにより、その持続的な成長は脅かされている。漁業資源が枯渇し、漁師の貧困化が加速しているだけでなく、移住してきた人がスラムを形成するために、沿岸地域はいまや貧しい地方からの移民に対するセーフティーネットとしての機能を低下させている。  90年代、農業、産業部門に対してサービス業部門は比較的安定した成長を続け、比較的大きな雇用機会を生み出した。しかしながら、そのような機会を活かせるのは主に首都圏やコルディレラ自治区、南部タガログ、ヴィサヤ中央部に限られたものであった。また雇用機会は男性に比べて女性のほうがより高いように思われる。女性はコミュニティーや社会、そして個人に対するサービス、卸売りや小売に主要な役割を果たしており、女性労働力の約50パーセントはこういった業種で占められている。以前は地方の非賃金家族労働者であった女性が、いまや移民として都市サービス産業の余剰労働力のとりわけ重要な源泉となっているのである。 サービス業部門の成長は銀行や金融機関への外資の流入、海外からの送金、そして都市の人口とマーケットが拡大した結果である。地方の農業と製造業がふるわないために、下層中流階級に属する人と貧しい地方からの移民が都市の中心部で増加した。その数はあまりに膨大であり、とても公的なサービス業部門で吸収することが出来なかった。その結果、インフォーマル部門市場が拡大し、スラム人口が増大することになった。 サービス業部門への雇用の増加は、小数従業員にごくわずかな給料を支払って運営される企業が増えていることに対応している。これは規模が小さいほどサービス業部門に比較的参入しやすいこと、インフォーマル部門が成長していること、そして労働者が90年から92年にかけて失業と不完全雇用を経験したことを反映している。活動の幅を広げ規模を小さくすることで、インフォーマル部門が失業者と不完全雇用者を吸収し、他の部門や地方での限られた雇用機会を補完するという姿は、ギアツが述べたインボリューション・プロセスが進行しているように見える。 サービス業部門が先導する成長にはいくつかの限界がある。ひとつには他の経済部門を成長させることができないということである。また都市に集中するサービス業部門の孤立性は都市環境の悪化を促進した。都市が経済的に繁栄し、より多くの人を惹きつけるため、莫大なエネルギーと水資源が消費され、ごみが発生し蓄積されることとなった。このような事態を予想し適切な保護を打ち出すことが全くなかったため、都心はいまや地下水が枯渇し、沿岸部では地盤が沈下し、ごみが散乱して、大気汚染と水質汚染が進み、人々の健康が蝕まれていくという問題に直面している。 製造業と外資、自由化の限界 外資導入と同時進行した、産業保護から自由化政策への転換は残念なことに期待されたような恩恵を製造業部門にもたらさなかった。外資の大部分が90年代前半は化学や化学製品、食品に、96年には機械、器具、電化製品、生活必需品、非金属鉱物製品に流入したにもかかわらず、雇用機会や輸出能力はたいして増大しなかった。 82年から98年にかけて、特定の産業では雇用が純増した。これは、これまで大規模産業であった繊維、ゴム、ガラス、木材製品、製陶業の規模が縮小したために雇用が減少したのに対して、電子工学や科学的・専門的な器具製造産業の規模が拡大し、雇用が増大したためである。また皮革、プラスティック、非金、合金、機械といったいくつかの小規模産業でも雇用は増大した。食品加工やアパレル産業でも比較的雇用機会は大きくなった。こういった増加にもかかわらず、過去16年間の雇用の純増量は大したものではなかった。平均して、毎年新しく生まれる就職口はたかだか30,511であった。これは98年の新規労働人口1,013,000人のたかだか3パーセントに過ぎない数である。それゆえ、部門毎の雇用割り当てを改善し損ねたといえる。 外資は食品加工産業の輸出向け製品にもたいした貢献をしなかった。むしろ外資は国内都市市場向け製品により集中した。輸出向け製品への投資は主に電子光学産業に集中した。機械部品といった関連商品の生産と共に、電子工学製品は90年代の商品貿易全体の拡張に貢献した。実際、商品輸出のほぼ70パーセントを電子工学製品が占めていたのである。残念なことに、製造や貿易のなかで電子工学製品の輸出が主要な役割を果たしたことのよってもたらされた経済効果は限られたものであった。重要な部品を輸入する必要があるので、電子工学製品は付加価値産業や純貿易余剰に対して実質的な貢献をなさなかった。また、他の産業から孤立した生産形態をとっているために、フィリピン経済全体にほとんど結びつくことがなく、成長にも微々たる貢献しかなさなかった。さらには、仕入れという名目で部品を輸出入することにより、資本の逃避が生じていた可能性もある。 貿易自由化による恩恵は農業部門でも限られた物であった。農作物輸入の増加はGNPに対する輸入の割合が高くなるということと、価格の低下を招いた。消費者には恩恵があったわけだが、安い農作物の輸入は国内の農業生産者に有害であった。安い外米も国内のコメ生産の比較優位をなくしてしまった。 失業を別として、貿易自由化は農業部門の不公平を際立たせてしまったかもしれない。大規模生産者のように規模の経済を達成することも出来ず、公的な資金貸付にも市場にも接触機会が限られている小規模生産者は、金融業者に依存せざるを得ず、作物を廉価で売らざるを得なかった。そのほか、所有権を確実に主張できるのかどうか、灌漑、肥料にたいする助成金やインフラ投資、そして近年はMAV (the Minimum Access Volume) 輸入から生み出された基金などにアクセスできるのかどうかについての差が不平等を生み出している。小規模生産者に対するセーフティーネットという意味があるにもかかわらず、MAV輸入から集められた歳入にアクセスしやすいのは大商人の方で小規模生産者の要求に対しては厳しすぎるという批判がある。 貧困と貧困緩和対策の限界 経済部門や産業に歴史的に栄枯盛衰があるため、解雇されたりはじき出されたりして有給雇用につくことが出来ない家族や集団があり、その中から国の貧困層の中枢をなす集団が生まれてきた。それは次のように分類することが出来る。  木こりや抗夫、低地からの移住者によって内陸へと押しやられた、高地にもともと住んでいた人々のコミュニティー。 食糧生産者として高地に再入植したもとの伐木搬出労働者。 漁獲高が減少した、もしくは昔からの漁場を商業漁業によって荒らされ、よりよい漁場を見つけ出したり移住していくことが出来ない町の漁師。 砂糖や材木といった経済的に凋落した部門や産業から解職され高地や沿岸部に移住した農業や非農業労働者。 カガヤン峡谷やビコル(Bicol)、ヴィサヤ東部、ミンダナオといった農業が立ち遅れ、干ばつや自然の大災害、気候状態の変化などにさらされている地域の農家。 十分な水がないか適切な灌漑システムがない、もしくは農業生産そのものが凋落している地方の農民や農業労働者。 […]

Issue 4 Oct. 2003

マレーシアの華人企業: 危機を生きのびたのは誰だ?

         1997年のアジア通貨危機がマレーシアの華人企業にどのような影響を与えたのか? 生き残れたかどうかを決定する重要な要因は規模や業種、負債をかかえているのか、そして多角化の形態であった。建設業、不動産業、製造業部門に主に携わっていた大企業は莫大な負債を抱え、その多角化プログラムは投機的でローンによって賄われており、そのほとんどは危機によって深刻な打撃をうけた。上場株を手に入れたり、金融部門に進出したりした企業も深刻な影響を受けた。このなかには株価を上昇させ、売却する際に莫大な利益を得る目的で狙いをつけた企業の株を大量に買うことで知られていた「荒らしや集団」も含まれている。 危機を乗り越えることが出来たのは慎重で、運営と拡張の際は入念に選択して決めるような企業であった。このような「弾力のある」企業は4つの特徴を持っている。1つめは製品を製造したりサービスを提供したりする「実際の」業務に携わっていること。2つめは通貨危機にあまり左右されない経済分野に関わっていたこと。3つめは大半が手を広げすぎず自分の主要なビジネスに集中していたこと。そして最後に多くの企業が、十分な資産の後ろ盾と貸付にまわせるほどの収入を持ち、利益を蓄えとして保持することで、手足を縛るような負債を避けていたことである。弾力ある企業の中にはマレーシアの外に重要な投資先を持つものもあり、通貨の切り下げから守られていた。しかし香港やヴェトナム、カンボジアに保有していた重要な資産を失ったものもいた。 華人の小・中規模企業(SMEs)はかなり生き残った。彼らが負債問題を回避できたのは皮肉なことに、かなり早い段階で銀行の融資を受けにくくなっていたからである。ある種の小規模企業は通貨危機によって生じた2つの要因によって実際に恩恵を受けた。1つめの要因は、原料や機械、部品を輸入に依存している企業の中には辛酸をなめたものもいたが、マレーシアのリンギットの切り下げにより国際市場の中でマレーシア製品が競争力を得たことである。2つめは、インドネシアの政治経済が不安定であり続けたことにより、多くの多国籍企業が運営先をマレーシアに振り替えたことである。SMEsが重要なのは、製造業がいまだマレーシア経済の最も重要な部門であり、多くのSMEsが地元の華人企業を含む大規模産業と製造面でつながりを持っているからである。 アジア危機は東南アジアの華人企業の強さだけではなく、その失敗も分析すべきであることを認識させた。失敗の多くは経営のミスや製品の質の低さ、技術の低さ、技術革新の欠如、過度の借り入れ、そして様々なビジネスに手を広げすぎたことに起因している。通貨危機は華人が自らの企業を発展させる上で利用するビジネス形態の多様さを明らかにし、東南アジアの華人企業の強さと弱さは本質的に構造的なものであることを示したのである。  Lee Kam Hing and Lee Poh Ping Translated by Onimaru Takeshi.Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 4 (October 2003). Regional Economic Integration

Issue 4 Oct. 2003

フィリピン人移民労働者、東南アジア域内の労働循環、そして海外移民プログラムの運営(とその失敗)

          ここ数十年、海外で働くフィリピン人労働者 (overseas Filipino workers:以下OFWs) はフィリピン社会と経済の中で重要な部門となった。彼らからの送金が歳入の重要な源泉となっているため、政府は以前はOCWs (overseas contract workers) と呼んでいたOFWsを国の新しいヒーロー (mga bagong bayani) と認定した。OFWという言葉には海外で働いているフィリピン人の様々な集団が含まれている。移民や、文書で契約を結んだ労働者もいればそうでない者もいる。統計上、彼らは移民でOFWsであると分類される。1999年の統計によれば移民は280万人でOFWsは420万人いることになっている。そして420万人の内、240万人が文書で契約されており、180万人がそうではない。そして、大半が男性である海で働く労働者と、女性の比率がますます高まっている陸で働く労働者というように、OFWsは統計上さらに細かく分類されている。進行しつつあるフィリピン人労働力の拡散の中で女性の比率がますます高まっていることと、政府が積極的に海外への労働力移動を促進していることに本稿は焦点を当てる。 海外に移住した労働者の運命はフィリピン人の国際移動の性質が変化しつつあることを示しているとメディアは報じている。統計から確実にいえるのは、ますます女性が移動の主流となり、志向する業種もサービス業が増加してきているということだ。フィリピン人の労働力移動も、ASEANというより大きな文脈の中で起きている労働循環の枠の中で生じている事象である。ASEANの中で職を求める人々は、ますます国境を越えて移民を受け入れかつ送り出している特定の国々へと渡っていく。注目すべきことは比較的発展が遅れている国から来たアジアの女性が、地域の中でより発展が進んでいる国のなかでみじめな家事活動をますます引き受けつつあるという傾向である。例えばフィリピン人やインドネシア人の女性労働者はより繁栄しているマレーシアの中で家事労働部門に携わっているのである。サービス産業の中での彼女たちの「価値」は平等でないにもかかわらず、搾取の経験は似たようなものである。中東諸国で働くフィリピン人とインドネシア人の女性家事労働者に、広範に見られるような虐待経験は同じように比較することが出来る。労働力輸出プログラムの様々な時点で、どちらの政府も虐待癖のある雇用者から彼女たちを守るべく、労働者の配置にモラトリアムを設定しようとしてきた。 移民虐待問題の衝撃と女性の移動が増加し続けているということが国際社会の注意をひきつけることとなった。女性移民問題に対する国際的な関心は次の二つの形態をとった。1つは国際的な保護を促進することであり、もう1つは西洋諸国で女性移民の様々な側面についての研究がなされたことである。 国連加盟国の中で関係のある国は、国際レベルで移民の権利を保護する保証を作り出すべく抜け目なくロビー活動を行ってきた。国際労働移民に関する数少ない法的に拘束力を持つ文書の1つに、全移住労働者とその家族の権利保護に関する国際条約があるが、この条約が国連で1990年に採択されるまでに10年以上におよぶロビー活動が必要であった。学問の世界では、西洋に拠点をおく学者たちがフィリピン人移民がいかにして異境の生活で生じる感情的な負担を克服するのか、またどのような仕組みで彼らが毎日の「抵抗」を実践しているのかを研究している。たとえ散漫なものであろうとも、この研究はグローバル化が実生活に及ぼしている影響を分析するのに貢献するものである。  Odine de Guzman Translated by Onimaru Takeshi.Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 4 (October 2003). Regional Economic Integration