テインセイン政権の安定と脆弱性

中西嘉宏

テインセイン政権の安定と脆弱性

なぜ予想できなかったのか?

 ミャンマーでは誰もが予想しなかったことが起きている。2011年3月末、1988年から続いていた軍事政権の支配が幕を下ろして、テインセイン前首相が大統領に就任、2008年憲法体制による「文民」政権がはじまった。同政権は矢継ぎ早にいくつもの政治経済改革を打ち出した。民主化勢力との和解も進み、欧米からの制裁も2012年のうちに概ね解除された。驚くべき変化である。なぜ我々はこの変化を予想できなかったのだろうか 1

 いくつも理由はあるが、ここでは3点の国内政治上の理由を挙げておきたい。まず、多くの観察者はタンシュエ将軍がこれほどスムーズに政界から身を引くとは考えていなかった。1992年から最高指導者の位置にあったタンシュエは、現代では数少ない典型的な独裁者であり、そのリーダーシップの実態は謎に包まれていた。この寡黙な独裁者がミャンマーをどういう国にしたいのか、そのビジョンが見えなかった一方で、自身の権力への執着ははっきりしているように思えた。2011年の政権移譲直後も、タンシュエが背後から糸を引いて政権を操るために国家最高評議会が設立されたのではないかという噂が流れたが、結局現実のものとはならず、今日、テインセイン大統領がその意思決定に際してタンシュエから意見を聞くことはないようだ。

 第2に、政権を引き継いで新しい大統領となったテインセインが、大方の予想に反して改革者であった。テインセインは、タンシュエより12歳若い元将軍であり、さらにタンシュエの下で国家平和発展評議会(SPDC)第一書記と首相として同政権を支えてきた。たとえ有能ではあっても、大統領に就任した途端に前政権の政策を根本的に変えるとは考えにくかったわけである。また、心臓に病をかかえており、タンシュエ、マウンエーとともに「民政移管」を機に引退するものと考えられていた。 2 ところが、期待は裏切られ、世界を驚かせた。知られている限り、大変真面目な人物で、他の将軍たちに比べてクリーンだという。事実、Time誌の取材によると、テインセインはイラワジデルタにある故郷の村に対して、現在にいたるまで格段の利益誘導をしていない。

 第3に、アウンサンスーチーと国民民主連盟(NLD)がこれほど急に政権への協力姿勢を示すとは考えられなかった。20年ぶりの総選挙を目の前にした2010年4月29日、NLDが発表した「シュエゴンダイン宣言」では、軍事政権に、①NLDの党員を含むすべての政治囚の無条件解放、②2008年憲法のうち非民主的な条項の修正、③包括的で自由かつ公平な総選挙の、国際的な監視下における実施、の3つを求めた。当時、この要求は多くの観察者には無謀に思えたし、現に軍事政権は彼らの要求には耳を貸さずに選挙を実施した。ところが、テインセインの積極的な和解への働きかけと、アウンサンスーチーの歩み寄りが、極めて短期的に長年の政治対立を融解させた。

"Contrary to all expectations,  President Thein Sein is a reformer"
“Contrary to all expectations, President Thein Sein is a reformer”

 すでに明らかなように、今起きているミャンマーの変化は、政府と民主化勢力の指導者の間の合意と、両者が持つ自身の勢力への強い指導力が原動力になって起きている。したがって、我々はこの変化を市民社会の勝利とみなすべきではない。2007年のいわゆるサフラン革命と 3、それへの国軍による弾圧が示しているように、軍事政権は社会に自ら歩み寄る必要はなかった。財政についても、決して豊かではないが、天然ガス輸出によって比較的安定していた。また、エリートの間の対立が引き起こした変化でもない。もちろん、一枚岩の政治指導層は世の中に存在しないので、強靭に見えたミャンマーの指導層にも亀裂はかつて存在した。例えば、野戦将校たちと情報部所属の将校たちの間の対立だ。しかしそれが体制移行の引き金になったわけではなかった。

 ミャンマーの今回の移行がなのは、指導層の世代交代がきっかけとなって、上からの政策レジーム転換を引き起こしたという点だ。テインセインの矢継ぎ早の改革を見る限り、大統領となった途端、彼の頭のなかに突然改革のアイデアが溢れだしたようには思えない。かつて大統領の最有力候補だと言われたシュエマン下院議長の改革志向についても、新しい政治環境のなかで突然生まれたものとは考えにくい。おそらく、現在の改革派の多くは、タンシュエに表面上は従いながらも、お互い明示しないまま、改革志向を共有してきたのだろう。それが指導者の世代交代で突然、政策的選択肢として浮上したものだと思われる。

 膨らんでいく期待

 ミャンマーは今、世界から大きな期待を集めている。それはひとつには民主化に向けての期待、もうひとつは経済発展への期待だ。かつて、この国は期待どころか悪評の的だった。1993年の国連総会演説で当時のビル・クリントン米国大統領が今後の外国政策の指針として「民主主義の拡大」(democratic enlargement)を表明して以降、非民主的な国の批判は米国外交のひとつの特徴であり、ミャンマーの軍事政権はその格好のターゲットであった。ブッシュ政権時代には「圧政の拠点」(outpost of tyranny)という不名誉な呼称までミャンマーはいただいている。制裁も段階的に強化されてきた 4。しかし、1988年の軍事クーデターから20年以上経っても、軍事政権は崩壊しそうにはなかった。ミャンマーの経済発展の機会を奪うという意味では米国とEUの制裁は成功したが、民主化という目的には制裁は必ずしも有効であったようには思えない。

Pyidaungsu Hluttaw Complex, Naypyidaw (Parliament)
Pyidaungsu Hluttaw Complex, Naypyidaw (Parliament)

 そうした制裁の限界に気づいた米国も、オバマ政権になって対ミャンマー政策の転換(再関与)を打ち出していた 5。おそらく偶然、欧米の政策転換と同じタイミングでミャンマーの指導者が交代した 6。この「タイミング」という要素が重要である。そして、その機を逃さず、ミャンマー政府は欧米からの制裁をわずか2年で実質的な解除にまでもっていった。アジアの小国がこの短期間で米国とEUの外交政策を変えさせたのだから驚くべきことだ。この外交的成功はもちろんテインセイン大統領の強い改革への意思によるものでもあるが、それ以上に、アウンサンスーチーの国際的な注目度の高さが大きく寄与した。ミャンマーは経済規模も小さく、世界経済との相互依存もそれほど深くないため、従来の欧米の対ミャンマー政策は、アウンサンスーチーの処遇が決定的な要因となって、彼女が自宅軟禁に置かれる度に強化されてきた。幸いなことに、この偏った欧米の外交姿勢が、今回は逆の方向に強く働いた。アウンサンスーチーが欧米に対して経済制裁の解除を訴えたことが効果的なメッセージとなり、最終的にはミャンマーの外交的成功を呼び込んだ。2012年4月に補欠選挙で当選したアウンサンスーチーは議員就任後、積極的にテインセイン大統領の外交に協力し、政権の改革を宣伝するスポークスマンとなった。そして、同じタイミングでアジア太平洋に外交政策の焦点を移しかった米国との間に取引が成立したわけである。

 この外交的成功によって、大きな期待が国内的にも国際的にも呼び起こされることになった。ただし、やや期待は大きすぎるように見える。1962年から約50年の軍事政権を経験し、現在も東南アジアで経済水準が最低レベルにある国が、そう簡単に安定した民主主義と奇跡的な経済発展を成し遂げることはないだろう。高まる世界の期待は2015年総選挙への注目を否が応にも高めている。言うまでもなく、2年後の選挙について語るのは、今は早すぎる。ただ言えるのは、同じ東南アジアで先行して民主化した国(タイ、フィリピン、インドネシア、カンボジア)を見ればわかるように、民主化の過程ではどこもいろいろと苦労しているということだ。カンボジアを除いた3カ国は、民主化以前の体制がミャンマーよりも相対的にはリベラルだったし、国家の安定性はこれも相対的だが高かった。ほとんど兵営国家と言ってよいようなミャンマーの軍事政権がそう簡単に民主化できるとは思えない。政治発展は決して単線的ではないので、過剰な期待は禁物だ。

The Myanmar Lower House, Parliament, Naypyidaw
The Myanmar Lower House, Parliament, Naypyidaw

 本当に民主化するのか?

 ミャンマーの政治経済改革は、大変微妙な政治的均衡の上で起きている。権力構造は大きくいって3つの層から成り立っている。まず、テインセイン大統領の強力な指導力あり、その周囲を元将軍たちが大臣として支えている。ここまでは従来の軍事政権から連続した側面である。次が、与党である連邦発展団結党(USDP)である。この政党には実業家や元公務員など、多くの民間人が在籍しているが、基本的には大統領を支持する勢力であり、大統領の指導力を安定させながら一定程度の政治的多元性を保証する。議員の4分の1は国軍司令官が指名する議員で、国軍の影響力が維持されるよう憲法上規定されているし、USDPは軍政時代の大衆動員組織を母体としていて実質的に大統領と国軍の強い影響下にある。憲法改正の要件は議員の4分の3以上の賛成だから、軍人議席の存在が民主化のための憲法改正を防ぐ点では有効である。そして、第3の層に民主化勢力がいる。すべての野党は、議席の点では少数勢力であり、立法過程において大勢には影響しないし、大統領は彼らの存在を通して欧米に政治体制の政治的包括性を示すことができる。これから次の選挙までの安定はある程度保証されていると言ってよい。

The state seal of Myanmar
The state seal of Myanmar

 だが、いくつかの他の要素を考慮に入れたとき、現在のテインセインの指導力が実に微妙な均衡の上に成り立っていることがわかる。大統領の指導力を維持する制度的な仕組みが安定しているのに比べて、体制そのものを維持するメカニズムが脆弱だからである。2008年憲法はスハルト時代のインドネシア憲法をモデルにしている。そのモデルとなったスハルト体制では、軍人議席、大統領の強い権限、与党ゴルカルの支配的な役割、選挙制度の与党有利な運用に至るまで、スハルトの独裁が続くように実に巧みに設計されていたが、ミャンマーではその仕組が確立されていない。USDPはかなり急づくりの寄り合い所帯で、党の団結を支える議員の忠誠度は決して高くない。

 選挙についても、現在の国際環境では政府の選挙への露骨な介入は間違いなく国際的な非難を呼び起こす。また、情報技術の発展と検閲の廃止が、ミャンマーの政治過程に透明性を与えており、政府が選挙での不正を秘密裏に実行することはほとんど不可能だ。さらに、これにアウンサンスーチーの並外れた人気が加わる。NLDは組織としてはまだまだ弱いが、アウンサンスーチーのカリスマだけでNLDは選挙で勝てる力を持っている。それは2011年4月の補欠選挙で首都ネーピードーで争われた4つの議席すべてをNLDが獲得したことが明確に示している。なぜなら、ネーピードーの住民のほとんどは公務員とその家族で、彼らは与党を支持するものだと政権側は想定していたのが、選挙結果はその想定をまったく裏切るものだったからだ。

 2015年の総選挙までに、この脆弱さをテインセインとUSDPが克服できるのか、あるいはNLDが一気に政権を乗っ取るのか、あるいは両者の間に政治的取引が成立するのか。これから3年間の政治動向は今後のミャンマーの民主化と経済発展を占う上で非常に重要なものとなるだろう。

中西嘉宏
Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University

翻訳 吉田千春
Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 14 (September 2013). Myanmar

Notes:

  1. ちなみに、筆者は2009年に発表した拙著のなかで以下のように書いている。「軍事政権が自ら改革に動く可能性は低い。いかにしてより多元的な政治勢力の存在と、現在とは異なる国家の運転原理を軍政に認めさせていくか、ビルマの政治経済発展のためにはそれが鍵となる。恐ろしく困難なことではあるが」(中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造:ネー・ウィン体制下の国家と軍隊(1962−1988)』 京都大学学術出版会、2009、290頁)。どれだけ贔屓目に見ても、筆者の予想が外れてしまったことは明らかだろう。
  2. Time誌のテインセインの故郷への取材が示したのは、彼が地元にまったく利益誘導をしていないことである。詳しくは以下を参照。 “Inside Man” Time (January 21, 2013)
  3. 便宜的にこの名称を使うが、目的を達成していない社会運動に「革命」という名を与えることは本来不適切だと筆者は考えている。
  4. Michael F. Martin “U.S. Sanctions on Burma” CRS Report for Congress (January 11, 2011)参照。
  5. Remarks With Indonesian Foreign Minister Noer Hassan Wirajuda, Jakarta, Indonesia (February 18, 2009)  (http://www.state.gov/secretary/rm/2009a/02/119424.htm)
  6. 国の政策転換と同国の国内政治の関係について以下を参照。Taylor, Robert. “Myanmar: From Army Rule to Constitutional Rule,” Asian Affairs Vol.43, No.2, pp.223-224