死者の歴史、生者の遺産:シンガポールのブキット・ブラウン墓地

Loh Kah Seng

遺産は過去の社会的役割を考察する上で十分なものではない。遺産には過去を取捨選択し、不完全な歴史的解釈を生み出す傾向がある。それはしばしば、歴史的変化に影響されぬかのような過去を創作する。遺産は整然としており、賛美的で表面的なものであるが、史実はそうでない事が多い。

      

  ブキット・ブラウン論争 

  ブキット・ブラウン墓地はシンガポールの広大な埋葬地である。1922年に英国植民地政府により、華人の共同墓地として開設された。1973年に閉鎖された時、人民行動党(PAP)政府は火葬政策を採用したが、これはシンガポールの土地不足のためであった。ブキット・ブラウン墓地には、約十万基の墓が存在する。しかし、独立後のシンガポールに墓地の未来は存在しない。 

  ブキット・ブラウン墓地が国民の注目の的となって再浮上したのは、2011年9月である。この時に政府が発表した計画は、八車線から成る幹線道路の建設で、これは墓地の一部を貫通するものであった。この計画は地域の交通渋滞緩和を旨としていたが、四千基近い墓の撤去を意味するものでもあった。 その頃までにブキット・ブラウン墓地は、かつての己の影法師のような存在になっていた。清明節に先祖の墓参りをする家族の数も減り、多くの墓石が荒廃するようになっていた。ブキット・ブラウンの零落は、その歴史の一部なのである。

Graves of different sizes affected by the expressway, courtesy of Martina Yeo. Only some have been tended to over the years.

様々な大きさの墓、高速道路の影響を受けたもの 写真はMartina Yeoの厚意による
わずかに数基のみが長年に渡って手入れされている

   市民団体や一般大衆達が怒った事は、ブキット・ブラウンに関する採決が、適切な協議も無く可決された事であった。地元のNGO、シンガポール遺産協会(SHS)など、遺産擁護派の人々は、ブキット・ブラウン墓地を保護する事により、シンガポール人に歴史感覚とアイデンティティが与えられ ると主張した。 また別のNGO、自然協会(シンガポールNSS)は、墓地の土台となる緑地帯の開発によって、この地域に洪水が起きやすくなる事、また、動物種を危機にさらす事を主張した。SHS、NSSや他の諸団体は、その後、国家当局の諮問を受けた。その他の遺産愛好者たちは、国家を回避し、ツアーや公開討論の企画、嘆願書の作成など、しばしばソーシャルメディアを使ったブキット・ブラウン墓地の保護を試みていた。 

  この論争は次第に鎮静化して行った。高速道路計画は続行され、政府はその批評家たちを抱き込んだ様子で、墓地の歴史を記録するプロジェクトを委託するなどしていたが、民間諸団体は遺産擁護を強く主張した。 

偉大な華人たちの遺産、権力と富の歴史 

  遺産擁護派も官僚たちも、共にブキット・ブラウン墓地の歴史的価値を認めていた。たとえ、墓地のほんの僅かな一画に過ぎぬとしても、そこに名士達が埋葬されているためである。シンガポール遺産協会は、「ブキット・ブラウン墓地には何万人もの一般移民たちも埋葬されている」と強調した。その人々は「名も明かされず、血と汗と労苦を我らが街の港に捧げた一般庶民」であるとされていた。彼らはこの保護活動の形成に、決して具体的に現れる事のない、この「匿名」という名に留まったのであった。遺産愛好者たちは、苦心して高名な人物の墓を探し当て、それらの建築的に目を引く墓石の写真を共有した。実際のところ、全ての墓が偉大な華人の墓であり、遺産と仰がれる文化的慣行は、華人の先祖崇拝と葬礼であった。しかし、階級や民族性、ジェンダーといった事柄は論じられる事がなかった。この遺産についての対話は「公式シンガポール物語」の男らしさやヒロイズムに辿り着くのである。PAPの歴史に関する最近の委託研究は、Men in Whiteと題されていた。 

Screen Shot 2013-12-09 at 2.03.12 PM

遺産愛好者たち 華人銀行家の墓にて 写真はMartino Yeoの厚意による

  歴史は偉人たちの物語に終始するべきではない。Carl Trocki やJames Warrenの古典的文献は、植民地時代にシンガポールの自由貿易港の開発において、華人エリートが果たした役割を指摘してい 

  る。彼らの多くが、その富や地位を英国帝国-資本主義体制の中で獲得していた。彼らは19世紀には、潤沢な財をもたらすアヘン農場やスピリッツの蒸留所などを牛耳っていた。彼らはアヘンや賭博、売春や秘密結社を使い、貧しい新客(新たにやって来た)華人男性たちを従属的な労働力へと仕立て上げたのである。このような労働者達の過酷な労働が、シンガポールの貿易や、華人エリートたちのビジネスを支えていたのである。ドラッグやセックスは労働者たちを肉体の限界へと押しやった。また、秘密結社が非合法となる1890年までは、商人と三合会(Triad)のリーダー達の間に歴然とした差は見られなかった。 

  特別な人物の重視は、何もブキット・ブラウンに限られた問題ではない。高名な華人(あるいは非華人)たちの名を、シンガポールの重要な建築物や場所に用いる事は、エリート主義と出世がシンガポール人の心とアイデンティティに深く刻み込まれている事を示している。 

ブキット・ブラウン墓地、規制と論争の歴史 

  ブキット・ブラウンの歴史は、植民地時代に試みられた華人墓の合理化と、それがもたらした論争の記録であろう。当初より、当局は墓が申請され、登録される事を要求していた。彼らは墓地の区画ごとに、番号の付加と配置、大きさ、深さ、その料金を定めた。 

  Brenda Yeohによると、墓地管理は植民地政策の一環であり、華人の伝統的慣習に代わる「近代的」(英国中心の)社会構成の方法を植え付けるためのものであった。 

  しかし、この政策的枠組みに対して、華人社会の指導者らは反発を続けてきた。ブキット・ブラウン墓地が丘陵地に置かれている事は、彼らの感情を考慮した譲歩である。英国人がよく理解できなかった事は、労働者階級が不健全な低地に密集するショップハウスの小部屋でやつれる一方で、華人たちが死者を丘陵地に葬らなくてはならないとする理由であった。この論争は、華人商業社会の力を見せつけるものであった。当初の墓の規模に対する規制(一区画につき墓一基)は間もなく緩和され、上流階級であれば二区画にまたがった墓を建てる事も可能となったのである。これにより、ブキット・ブラウンの頂に荘厳な墓地の遺産が受け継がれる事となった。 

カンポン(小村落) 死者と共に生きる 

  著者のブキット・ブラウン記録チームに関するオーラル・ヒストリーの研究により、カンポンの元住民にインタビューする事が可能となった。彼らは1980年代から1990年代初頭に公共住宅に再定住するまで、この墓地の隣に住んでいた住民たちである。木造部落のKheam Hock RoadやLorong Halwa、Kampong Kuborなどは、ブキット・ブラウン墓地に経済的、文化的貢献を行っていた。村人たちの中には、墓作りや墓石彫刻を職とする者や、墓守をする者達がいた。男女の村人たちはまた、墓参りの人々を相手に神像や飲食物の販売も行っていた。

Kampong at Kheam Road Road, courtesy of Koh Geok Khee

Kheam Road Roadのカンポン 写真はKoh Geok Kheeの厚意による

  この社会史と対象的なものが、開拓者の物語である。これはまた、中央集権国家であり、その公式経済に常勤雇用の文化をそなえた現代シンガポールとも好対象を成している。しかし、社会史が偉人達の壮大な物語の中で「場違いな事柄」となるのは珍しい事ではない。 

  村人たちは、死者の傍で暮らす事に何の恐れも抱いていなかった。表向きの華人文化では、人々は死者を敬い、彼らを高地に埋葬する事になっている。しかし、この村人たちにとっては、死者と共に暮らす事が生活に好機をもたらす場合、実用主義が文化的規範に勝るのであった。あるインタビューの回答者は、村人たちが「幽霊たちの良き友」であろう、と語った。 英国政府は公衆衛生を懸念し、墓所が水源から最低でも20フィートは離れた場所に設置されるよう規定した。しかし、住民たちは以前にこの丘の頂の井戸水を飲んでいて、「si lang chap」(死体の果汁)が清潔で澄んでいた事をはっきりと記憶していたのである。 

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村の誕生日のお祝い 写真はKoh Geok Kheeの厚意による

 非公式経済 

Durian seller, courtesy of Koh Geok Khee

ドリアン売り 写真はKoh Geok Kheeの厚意による

  これらの村落での労働や社会生活は、非公式経済の中に生じたものである。墓を建てたり彫ったりする仕事が出来高払い、需要次第の仕事であれば、墓の維持管理は季節労働であった。仕事の性質上、大人たちは望めば、他の収入源を探す事もできた。そのような人々、特にティーンエイジャー達の中には、パートタイムのキャディとしてブキット・ブラウン向かいのゴルフ・コースで働く者もいたし、果物売りとして働く者もいた(地元の「ヒル・ドリアン」はよく売れていた)。 

  ある一面において、ブキット・ブラウンのカンポンは、シンガポールの他のどのカンポンとも異なっていた。そこには、墓作りや墓石彫刻の職人たちの仕事にまつわる技術や文化が存在した。彼らは幾分裕福で、他の者たちよりも大きな家に住んでいたが、それらは村の中でも交通の便の良い場所にあった。墓作りの職人たちは、中国やマレーシアの石材輸出業者らと貿易関係を築いていた。国産石材は粗悪品と見なされ、主に労働者階級が利用していた。墓石彫刻の職人が墓作りの職人の息子である場合もあった。彼らは年若い時分に技術を学ぶ。器用な手先が必要とされる仕事で、長時間、一つの石塊に屈みこんで行う作業は骨の折れる仕事であった。

Funeral procession through Bukit Brown, courtesy of Koh Geok Khee

ブキット・ブラウンを行く葬列 写真はKoh Geok Kheeの厚意による

  管理人や墓守たちは、単なる草刈り屋ではなかった。彼らの多くは、ほとんど教育を受けておらず、草刈りや墓石の清掃、古い墓の薄れた碑文の塗り直しなどを手作業で行っていた。彼らの熟練技の真髄は、危険な霊界という概念に依拠していたが、霊界もまた、規則に支配される存在なのである。彼らの中の一人は「この丘で稼ぐことは容易くない」と説明した。 祭儀を行って精霊を鎮めない事には、雑草を片付ける事も、木を一本切り倒す事もならないのである。彼らは墓守たちが道徳律に背いたばかりに死亡した事を例に警告した。 

A grave tended to by a caretaker, courtesy of Martina Yeo

墓守によって手入れされている墓 写真はMartina Yeoの厚意による

  ブキット・ブラウン近郊に住む華人と、僅かなマレー人マイノリティたちは、実用主義によって結ばれていた。マレー人男性の中には、華人墓の墓守を職とする者もいた。この地域の小川沿いでは、マレー人女性と華人女性たちが一緒に洗濯をしていた。多くのマレー人は福建語をいくらか話す事ができたし、華人たちもまた、マレー語のbazaar (口語)を話す事ができた。これはブキット・ブラウンの真の多文化性であった。 

遺産をめぐる対話の外に 

  Laurajane Smithの指摘通り、遺産を巡る対話はしばしば、「専門家たちの手で選ばれ、重大事に仕立てられた」ものである。ブキット・ブラウンの保護を試みる擁護派の人々は、遺産と開発の間に対立要素は存在しないと主張した。しかし、彼らの解決策は高速道路よりも墓地に優先的なものであった。シンガポール遺産協会から、ある興味深い提案が出された。それは、遺産を公共財とみなし、道路など他の公共財と共に評価されるようにしてはどうか、というものである。だが、概して遺産保護の対話が提示したものはゼロ・サム・ゲームなのであった。道路利用者たちは、その対話から締め出されていた。事実、彼らの中には、高速道路の必要性を疑問視し、その地域の交通渋滞がオフピークの時間帯にのみ発生していた事を指摘する者もあった。 

Malay residents in Kampong Kubor, courtesy of Tomirah Seban

Kampong Kuborのマレー人住民 写真はTomirah Sebanの厚意による

 遺産愛好者たちは、自分達の家族や友人らをツアーに連れ出し、イベントや写真をフェイス・ブックで共有していた。しかし、ブキット・ブラウンに関心を持たぬ人々の意見を動員しようという試みは皆無であった。事実、保護に批判的であった人々は、微妙に異なるアイデアをいくつか出したのであったが、残念なことに、擁護派がこれを取り上げる事はなかった。マスコミに送られてきた一通の手紙は、擁護派の「声高な少数派」が、若い夫婦達の住宅需要に配慮していない事を批判していた(この墓地は、長期的には住宅地となる区域に指定されていた)。資金不足、人材不足のシンガポールの市民団体が無力であるのは、無理のない事である。しかし、これだけでは十分な説明にならない。保護論者団体の利害関心の狭さに不満を漏らしていた人々には、擁護派の排他性にうんざりさせられた者たちもいた。ブキット・ブラウン保護は、不公平で一方的な運動と見なされていたのである。 

  この保護運動に最も失望を感じるのは、この墓地に直接的な関わりを持つ人々が参加していない点である。ある墓作り職人は墓地の部分的な保存を提案した。彼によると、鋼製の墓地の門や、選ばれた墓は文化的、歴史的感覚を救済するという事だ。  

しかし、その他の人々については、変化の必然性に対する深い諦観があった。この地域に長く住んでいたある住民は、荒れ果てた墓地が多くの人々の関心を引くものかと疑問に感じていた。また別の住民で墓守であった人は、政府が高速道路計画に費やしてきた金額を考えれば、墓地の保護は困難だろうと感じていた。 

Resettlement and demolition, courtesy of Koh Geok Khee

再定住と取り壊し 写真はKoh Geok Kheeの厚意による

  ブキット・ブラウンに10万基の墓がある中で、その遺族たちの見解には定めがたいものがある。彼らの中には保護を支持する者も僅かに存在するが、そのような人々はChew Boon Layら、実業家の子孫たちである。興味深いことに、Sharon Limという若い女性は「庶民」の一人で、貧民区画に葬られた彼女の曽祖父の話を、下からの貴重な歴史的事例として語った。国民感情についても、2012年の8月現在、影響を受ける墓の三分の一以下にあたる1,005基が遺族たちの所有確認を受けたという事実により、いくらか見当がつくだろう。この低い数字は、幾分、歳月を経た墓がその子孫達から忘れられているせいでもあろう。しかし、国家と遺産愛好者たちとの対話の外には、物言わぬ大衆が存在しているのだ。 

遺産における歴史 

  Ben Andersonの言葉を借りると、遺産は国家と同じ方法で想定される。何に歴史的価値があり、何が保存されるべきであるかを決めるのは、専門家やエリートたちである。専門家やエリートたちと言う事で、上層部の人間について指摘しようとするのではない。ブキット・ブラウンの遺産愛好者たちの多くは、このコミュニティの出身者であり、中には愛する家族がそこに葬られている人たちもいる。むしろ、著者は歴史を遺産へと転化させる行為や、遺産を開発よりも優先させる行為について指摘するのである。 

  我々の住む世界は、過去が我々の幸福感に何らかの役割を果たす事を求めるものである。目まぐるしい発展が馴染みある風景や暮らしを消して行く。歴史学の分野は多くの場合、社会的想像力を掻き立て得る物語を創り出すには、あまりにも断片的で、内向的、学問的である。歴史にしても、専門家やエリートたちの言説である事が多い。歴史を語る言葉(愛国的な言葉が思い浮かべられる)の多くは賛美的である。だが今は、歴史的な観点を遺産にまつわる言説に採り入れるべき時であろう。 

Memories of youth, courtesy of Soh Ah Bee

青年時代の思い出 写真はSoh Ah Beeの厚意による

  遺産が特異で固定された、祝福されるような存在で、整然としているため、歴史は多様で競合的な解釈をもたらす。多くの歴史家たちは、各自の提示する過去の解釈が、一つの解釈に過ぎぬ事を認めている。歴史はその主題について時空を超えて探るものであり、遺産の対象は歴史の中で徐々に変化、増大、あるいは減少してゆく。様々な解釈の中には、成功物語に加え、人類の邪悪な行いも含まれている。歳月を経た場所には、様々な人々の様々な記憶が蓄えられて行く。シンガポールは2011年の選挙の後、さらに大きな政治論争に備える構えであるが、そうであれば、遺産擁護はさらに多元的かつ包括的なものになるべきである。ブキット・ブラウンの歴史は、単に自分達を祝福するだけの、偉大な華人たちの墓地の物語よりも、はるかに豊かなものとなるであろう。

Loh Kah Seng
京都大学東南アジア研究所 

翻訳者 吉田千春 

Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 12 (September 2012). The Living and the Dead