Issue 35

มนตรากับความทรงจำ: พินิจเรื่องราวชีวิตในศาสนาพุทธของหมอพเนจรสมัยสาธารณรัฐเวียดนาม

เมื่อต้องเขียนเรื่องราวทางประวัติศาสตร์ของศาสนาพุทธสมัยสาธารณรัฐเวียดนาม ประสบการณ์ในชีวิตจริงของปัจเจกบุคคลอาจช่วยจุดประกายความเข้าใจได้มากขึ้นเกี่ยวกับวิถีการดำเนินชีวิตของผู้คนที่ล้อไปกับเค้าโครงของเรื่องเล่าระดับที่ใหญ่กว่า  ในที่นี้ เราจะพินิจเรื่องราวเช่นนี้เรื่องหนึ่ง นั่นคือ ประวัติชีวิตของหมอพเนจรและพระอาจารย์ด้านพุทธศาสนา เหงวียน วัน กว๋าง (Nguyễn Văn Quảng, ประมาณ 1950-ปัจจุบัน)  ตามที่เขาเขียนเล่าอัตชีวประวัติของตนโดยมีโกสต์ไรเตอร์ชาวอเมริกัน Margorie Pivar ช่วยเรียบเรียงให้ในหนังสือชื่อ Fourth Uncle in the Mountain: A Memoir of a Barefoot Doctor in Vietnam (2004)  ในบันทึกความทรงจำเล่มนี้ กว๋างเล่าย้อนถึงชีวิตในเวียดนามภาคใต้ (Nam […]

Issue 35

魔法と記憶 ベトナム共和国時代を仏教徒として生きた旅医者の物語の考察

ベトナム共和国時代の仏教史の記録を作成する際、個人の実体験は、人々がより大きな物語の輪郭をどのように歩んだかという洞察に光を投じる。この論文では、そのような物語の一つを考察する。これは、旅する癒術師で、仏教指導者でもある、グエン・ヴァン・クアン(Nguyễn Văn Quảng/ 1950年頃~現在)の物語だ。この物語は、アメリカ人ゴーストライター、マージョリー・ピヴァー(Margorie Pivar)の協力の下、“Fourth Uncle in the Mountain: A Memoir of a Barefoot Doctor in Vietnam (2004)”に綴られている。これはクアンが南ベトナム(Nam Bộ)での生活を振り返る回想録で、物語はチョラック県(Chợ Lách/ベンチェ省/Bến Tre)周辺での青年時代から始まる。その後、南ベトナム西部デルタの七山(the Seven Mountains)で修行した十代、第二ベトナム共和国時代(the Second Republic of Vietnam/1967–1975)末に仏教僧院長となった成熟期、共産主義体制に順応しようと医療従事者になった1975年以降、そしてついに、1987年にベトナム脱出を敢行するまでが描かれる。 このクアンの人生の、四つの波乱に満ちた時代を描く一連の物語は、地に根ざした人間の視点を我々に提示する。ここから、南ベトナムで「仏教徒」である事の意味や、南部デルタという土地での暮らしや旅の経験、そして、現地の人々の地域における関係性が検討できる。また、全編を通じ、クアンと彼の共著者は、青年時代や記憶、喪失にまつわる教訓を与えてくれる。 グエン・ヴァン・クアンとは、果たしてどのような人物だったのか?それは古参の医者たちにもよく分からない。1950年、乳児だったクアンは、チョラック県の市場に捨てられていた。どうやら、彼の両親は偏狭な仏教徒だったらしく、フランス人ともめていた。だが、クアンが旗ざおの下で見つかって間もなく、両親は射殺されて発見された。こうして、実の両親を失ったクアンは、喪失によって心に傷を負ったのだろう。彼にとって、医者であり僧侶でもある「ベトナム最強の魔術師」グエン・ヴァン・タゥ(Nguyễn Văn Thâu/1886-1983)が養父である一方で、「南洋桜」(Roe Tree / cây trứng […]

Issue 35

ဂမ္ဘီရနှင့် ပုံရိပ်သမိုင်း – ဗီယက်နမ်သမ္မတနိုင်ငံ (တောင်ဗီယက်နမ်) တွင် နေထိုင်ခဲ့သည့် နယ်လှည့်ဆေးဆရာတဦး၏ မှတ်တမ်းပုံရိပ်

ဗီယက်နမ်သမ္မတနိုင်ငံ (တောင်ဗီယက်နမ်) ၏ သက်တမ်းအတွင်းရှိ ဗုဒ္ဓဘာသာ၏ သမိုင်းကြောင်းကို ရေးသားရာတွင် ယင်းကာလတွင် နေထိုင်ခဲ့သည့် ပုဂ္ဂိုလ်များ၏ ဘဝအတွေ့အကြုံက လူအများ ဘယ်လိုနေထိုင် ရှင်သန်ခဲ့သည်ဆိုသည်ကို ပြန်ပြောင်း ပြောပြနိုင်ပါသည်။ ဤဆောင်းပါးတွင် ဗုဒ္ဓဘာသာ ဘုန်းတော်ကြီးလည်းဖြစ်၊ နယ်လှည့် ဆေးဆရာတဦးလည်း ဖြစ်သူ ငွင်ဗန်ကွမ်း (၁၉၅၀ – ယနေ့ထိ) ၏ အကြောင်းကို တင်ပြထားပါသည်။ ငွင်ဗန်ကွမ်းက အမေရိကန် စာရေးဆရာတဦး ဖြစ်သူ မာဂိုရီပီယာ ၏ […]

Issue 20

Potent Places as Embodied Memory in Cambodia

Commenting on sociologist Maurice Halbwach’s (1925) influential theoretical essay on memory, Paul Connerton declared that continuing to speak of “collective memory” required recognition that the term subsumed “quite simply facts of communication between individuals.” (Connerton […]

Bahasa Indonesia

Tempat-tempat Potensial Sebagai Perwakilan Ingatan Di Kamboja

Ketika mengomentari esai teoritis berpengaruh karya sosiologis Maurice Halbwachs (1925) tentang memori/ingatan, Paul Connerton menyatakan bahwa untuk melanjutkan membicarakan ingatan kolektif memerlukan pengakuan bahwa istilah tersebut merupakan bagian dari “fakta cukup sederhana tentang komunikasi antar […]

Issue 20

สถานที่ขลังในฐานะความทรงจำที่จับต้องได้ในกัมพูชา

เมื่อความเรียงเชิงทฤษฎีเกี่ยวกับความทรงจำอันโด่งดังของมอริซ อัลบ์วาคส์ (Maurice Halbwachs) นักมานุษยวิทยา ได้รับการตีพิมพ์ออกมานั้น (1925) พอล คอนเนอร์ตัน (Paul Connerton) แสดงความคิดเห็นต่อผลงานชิ้นนี้โดยยืนยันว่า การพูดถึง “ความทรงจำรวมหมู่” (collective memory) ต่อแต่นี้ไปต้องตระหนักว่าคำคำนี้มีความหมายถึง “ข้อเท็จจริงพื้นฐานง่ายๆ เกี่ยวกับการสื่อสารระหว่างปัจเจกบุคคล” (Connerton 2010: 38) ผู้เขียนดำเนินรอยตามบทเรียนขั้นพื้นฐานของอัลบ์วาคส์โดยถือว่า ความทรงจำรวมหมู่ในที่นี้หมายถึงเรื่องเล่าเกี่ยวกับเหตุการณ์ในอดีตที่กลุ่มทางสังคมหนึ่งๆ ผลิตขึ้นมา และได้รับการจินตนาการซ้ำและเล่าซ้ำโดยเชื่อมโยงกับสถานการณ์ในปัจจุบันเสมอ ในบทความนี้ ผู้เขียนใช้ข้อมูลภาคสนามที่วิจัยมานานกว่าเก้าปีในจังหวัดโพธิสัตว์ (Pursat) ซึ่งตั้งอยู่ทางภาคตะวันตกของประเทศกัมพูชา เพื่อนำมาบรรยายถึงสถานการณ์ที่การสื่อสารของปัจเจกบุคคลได้สร้างและถ่ายทอดความทรงจำรวมหมู่ผ่านสื่อกลางที่เป็นสถานที่ ผู้เขียนต้องการชี้ให้เห็นว่า ความทรงจำรวมหมู่ของชาวเขมรในกัมพูชามีความเชื่อมโยงกับการประจักษ์และการปฏิบัติที่เกี่ยวข้องกับแผ่นดินอย่างแยกกันไม่ขาด ความเชื่อมโยงนี้สะท้อนถึงความสำคัญอย่างยิ่งของแผ่นดินในหลายแง่มุมของชีวิตทางสังคม นอกจากนี้ […]

Issue 20

カンボジアの記憶が現れた効験のある場所

社会学者であるモーリス・アルヴァックス(Maurice Halbwach (1925))の記憶にまつわる有力な論文の出版に際し、ポール・コナトン(Paul Connerton)はこれを評して「集合的記憶」を論じ続ける上で、この語には「極単純に、個人間のコミュニケーションの現実」が包含されているとの認識が必要だと言明した(Connerton 2010: 38)。アルヴァックスの根本的な教えに倣い、筆者は本論における集合的記憶の意味を、社会集団によって生み出された過去の出来事のナラティブとし、また常に現状を考慮して再考され、語り直されるものとする。この論文では、9年間に及んだカンボジア西部のポーサット州でのフィールドワークに基づき、集合的記憶を生成し、伝達する個人的活動であるコミュニケーションが、場所を介在して行われている状況を説明する。カンボジアにおけるクメール民族の集合的記憶は、土地に関する認識や慣習と密接に結び付いたものであると考えられる。この結びつきは、社会生活の多くの側面における土地の決定的な重要性を反映するものだ。つまり、集合的記憶は必ずしも国家的なものとは限らず、地域的なものでもあるという事だ。 宗教体系における重要要素としての土地  カンボジアでの土地は、80%の人々が今でも田園地方に暮らす中で生活の中心となっている。また、土地は国民の宗教体系にとっても重要なものである。大地は今なおクメールの宗教体系の中で重要要素であり、その最も明白な例は土地の守護精霊(anak tā)と彼らの住処との深い結びつき(Ang 2000)や、視覚文化に頻繁に引用される大地の女神Braḥ Dharaṇī (Guthrie 2004)である。このような信仰は、古代東南アジアの諸宗教における「大地の力の神格化」という、より大きな概念に支えられたものであり(Mus 1933: 374)、この概念の中で、大地と大地の精霊たち、あるいはヒンドゥ化過程の後にはヒンドゥの神々が融合され、固有の実在となっている。この土地に付された大地の力を神と融合させ得る力は、カンボジアではサンスクリットでデーヴァ・ラージャ(神のような王)信仰として知られるkamrateṅ jagat ta rājyaというアンコール朝の宗教以来、馴染みの深いものとなっている。古典的な解釈では、これを王と(特に)シヴァ神(Coedes 1961)との結合を祝するものと見なすが、別の学者達(Jacques 1985など)は、これがaN anak tāや王の守護精霊の性質の一部を具えた神と見なしている((Estève 2009)。 カンボジアでは、東南アジアの大部分と同様で(Allerton 2013)、そのような信仰が特定の場所にそれ独自の介在者を与える。この介在者はカンボジアでは、主にmcās’ dịk mcās’ ṭī,、「水と大地の支配者」の姿をとって現れる。彼らの主な懸念は、自分たちの土地を不適切な行いをする訪問者や、許しを請わずに木を伐り果物を取る欲深い土地の利用者たちから守る事である。 上の要約はPaul MusやAng Chouleanなどの優れた人類学者達によって詳述されたカンボジアでの土地のオントロジーの基本原理を紹介するものである。筆者は自身のフィールドワークから、カンボジアでは大地と時が異なるオントロジーとしては認識されておらず、むしろ一つの範疇内で括られたものであるとの判断に至った。これを可能にしているのが、クメール人のparamī (boromeyと発音される)の力の認識である。(国あるいは地方レベルで考えられる)カンボジアの領土は、「paramīが充満した」、効験があると認められた場所のネットワークによって構成されている。そのような場所は、特別な古い僧院をはじめ、立派な形をした特定の古木や、樹木が茂り、壊れた像の転がった丘など、様々である。どのような形にせよ、そのような効験あらたかな場所の大半には、宗教や王権にちなんだ歴史上の出来事との関連性が共通して存在している。Judith Bovensiepen (2009)が述べたティモール・レステの事例と同様で、カンボジアの土地は所定の場所で起きた過去の出来事を、いわば「吸収する」事ができるのだ。 上述の大地の性質は、効験のある場所を記憶の場として機能させ得るもので、そのような場所で過去の出来事が記憶され、(とりとめもない事もあるが、大抵は祭祀の根拠についての)解釈を与えられる事で、現代の社会生活や個人生活と関わり合っている。ここで紹介する事例研究の主題は、クレアン・ムアン(Khleang […]

Issue 20

แกะสลักปั้นหล่อความทรงจำและประวัติศาสตร์ในเมืองเหนือของประเทศไทย

อนุสาวรีย์และรูปปั้นเป็นที่นิยมมานานในรัฐที่พยายามกำหนดนิยามความทรงจำส่วนรวม (collective memory) บางคนถึงกับเรียกความหมกมุ่นที่มีต่อการสร้างอนุสรณ์สถานที่มีรูปปั้นว่า “ลัทธิคลั่งรูปปั้น” (statuemania) ซึ่งเป็นอาการป่วยทางจิตของชนชั้นนำระดับชาติและนักวางผังเมืองไม่เฉพาะในตะวันตกเท่านั้น แต่รวมถึงในหลายสถานที่อย่างประเทศไทยด้วย อนุสาวรีย์ใหม่ๆ เริ่มผุดขึ้นมาเป็นจุดหมายภูมิทัศน์ของเมืองกรุงเทพฯ ในช่วงต้นศตวรรษที่ 20 ในหลายๆ แง่ ความคลั่งไคล้นี้ยังคงแพร่กระจาย—และขยายตัว—พร้อมกับการก่อสร้างอุทยานราชภักดิ์ที่หัวหิน ซึ่งมีผู้บรรยายว่าเป็น “อุทยานประวัติศาสตร์พร้อมอนุสาวรีย์เจ็ดกษัตริย์ที่รัฐบาลทหารสร้างเพื่อสักการบูชา” ความหลงใหลในอนุสาวรีย์รูปปั้นเป็นสิ่งที่แผ่พ้นปัจจุบัน พ้นศูนย์กลางและพ้นรัฐ ดินแดนเทพนิยายประวัติศาสตร์ราชภักดิ์ของรัฐบาลเผด็จการทหารเป็นแค่การสำแดงครั้งล่าสุดของประวัติศาสตร์อันยาวนานในการสร้างอนุสาวรีย์ที่เกี่ยวข้องกษัตริย์ในประเทศไทย ในทำนองเดียวกัน โฉมหน้าเมืองที่เปลี่ยนไปของกรุงเทพฯ ในช่วงอัสดงของระบอบสมบูรณาญาสิทธิราชย์ก็เป็นแค่ฉากหลังฉากหนึ่งของลัทธิคลั่งรูปปั้น ยกตัวอย่างเช่น ในจังหวัดภาคเหนืออย่างเชียงใหม่ อนุสรณ์สถานทางประวัติศาสตร์ไม่เพียงชี้ให้เห็นชั่วขณะสำคัญในประวัติศาสตร์ของเมืองและของภูมิภาคเท่านั้น แต่ที่สำคัญกว่านั้นคือมันสะท้อนให้เห็นความพยายามของรัฐที่จะยัดเยียดแม่บททางประวัติศาสตร์ฉบับราชาชาตินิยมกระแสหลักครอบทับลงบนความทรงจำของท้องถิ่น ในประการสุดท้าย ลัทธิคลั่งรูปปั้นไม่ใช่แค่ความป่วยไข้ของชนชั้นนำในรัฐเดี่ยวเท่านั้น แต่ยังเป็นอาการร่วมที่แพร่ระบาดในกลุ่มคนกับกลุ่มผลประโยชน์ที่แตกต่างหลากหลายด้วย เฉกเช่นศิลปินที่แกะสลักปั้นหล่อรูปปั้นมากับมือ ชนชั้นนำระดับชาติและท้องถิ่นก็พยายามปั้นแต่งความทรงจำของมวลชนโดยแสดงออกผ่าน “ความทรงจำที่เคลื่อนย้ายไม่ได้” เช่นกัน ครูบาศรีวิชัย […]

Issue 20

タイ北部都市で記憶と歴史を彫り、鋳造する

記念建造物や彫像は、集合的記憶の定義を試みる国家の間で久しく普及している。そのような彫像記念物に対する執念は、一部の者たちによって、ある種の「彫像狂」とさえも表現される。これは西洋だけでなく、タイのような場所でも国家のエリートや都市プランナーたちの病なのである。タイでは新たな記念建造物が20世紀初頭からバンコクの都市景観に点在するようになった。この熱狂は様々な方法で拡大を続けており、最近ではタイのホアヒンのラチャパクディ公園の建設が「軍事政権によって安置された7人の王の記念像があるテーマパーク」と表現されている。 この彫像記念物に対する執心は、現在を超え、中央を超え、国家を超えて広がっている。軍事政権のラチャパクディという歴史テーマパークは、王族を記念建造物によって顕彰するタイの長い歴史の最新の現れであるに過ぎない。同様に、絶対君主制の黄昏時におけるバンコクの都市変容は、彫像狂の一背景に過ぎぬものであった。例えば北部都市のチェンマイでは、歴史記念建造物はこの都市及び地方の歴史上の重要期のみを示すばかりか、何よりも、国家が地域の記憶に主流の王党派・国家主義者の歴史テーマを押し付けんとする試みの地域的バリエーションをも示しているのだ。最後に、彫像狂は画一的な国家主体のみが患う病ではなく、むしろ、様々な主体や利害関係によって共有される疾患である。個々の芸術家たちがこれらの彫像を自分たち自身で彫り、鋳造する一方、国家や地方のエリートたちもまた、これらの「不動の記憶」によって表された国民的記憶の形成に取り組んでいるのだ。 クルバ・スリウィチャイ(Khruba Sriwichai) チェンマイに建設された最初期の近代的彫像記念物の一つはクルバ・スリウィチャイ(1878-1938)に捧げられたものである。彼はカリスマ的な僧侶であり、タイ政府の徴兵制度の方針に対する抵抗や、意欲的な寺院再建の経歴、街はずれからドイ・ステープ山頂寺院への道路の建設によって最もよく知られており、これら全てのことのために彼はタイ政府当局側にとって、ちょっとした目の上のこぶとなっていた。  クルバ・スリウィチャイのための記念碑建設を押す動きは、地元から、特にチェンマイ初の議員Luang Sri Prakadによって始められた。記録資料は、彼の記念碑に対する熱意や、政府内でこれを推進し、ドイ・ステープ麓にこれを設置しようとした努力を十分に実証している。一見、このようにタイ政府にとって厄介な人物の記念碑が中央国家によって、これ程強く支持された事を知ると意外に思うかもしれない。この彫像が地方の多様性の認識に向けたより大きな動きの一環だと提言することはあまりにも単純であろう。だが、この記念碑は確かに「地元に、あるいは地域に根差したディスコース」の焦点となったのである。地元のイニシアティブに応じて、タイ政府はこのカリスマ的で厄介な僧侶の遺産を統合せんと試みていたのである。この点において、これは初の試みではなかった。例えば1946年には、タイ王国が援助した公式火葬の後、彼の遺骨は六分割され、北部各県に分配された。1938年に亡くなった時、彼は依然として北部地方のアイデンティティーの象徴であったが、これはタイ政府が牛耳るシャム・タイ国民のアイデンティティーとは、せいぜい異なったものであって、下手をすると正反対のものであった。ようやく18年後の1956年にこの記念碑が設置された時、個人の記憶はなお、この製作と受け入れにとって重要であった。スリウィチャイの記念碑は、彼のカリスマ性の一部を中央国家に移転する事で、この厄介な僧侶の記憶を「手懐け」ようとするものであったかもしれないが、また地元の記憶のディスコースに開かれたままとなっていたのである。 タイ国家はこの記憶の形成を、彫刻家シルパ・ビラスリ(Silpa Bhirasri)の作品を通じて行った。元はイタリアのフィレンツェ出身で、帰化してタイ市民となったシルパは、後に近代タイ美術の父、そしてピブーンソンクラーム首相の主な彫像プロパガンディストと見なされるようになった。Maurizio Peleggiは、ピブーン時代に彫像記念物が「政治的プロパガンダの媒体として配置された」と記している。シルパはバンコクで特筆すべき彫像、例えばタクシン騎馬像の記念建造物などを製作したが、彼がデザインしたバンコクで最も有名な記念建造物は民主記念塔である。彼は他の彫刻家たちも養成したが、その中には彼のスリウィチャイ像の彫刻と鋳造を補佐したKhiem Yimsiriや、チェンマイで最も有名な記念建造物である三人の王の記念碑を27年後に製作する事となったKhaimuk Chutoなどがいる。 三人の王 最も有名で広く複製されるチェンマイの記念碑は中心地に位置し、三人の王族の肖像によって構成されている。それらはパヤー・マンラーイ(Phya Mangrai)、パヤー・ンガムムアン(Phya Ngam Muang)と、通常はラームカムヘーン(Ramkhamhaeng)として知られる13世紀のスコータイ王で、タイ史に慈愛に満ちた王権の概念を打ち立てたパヤー・ルアン(Phya Ruang)である。この記念碑は1296年にこの都市が建設された時、この三人が会ってマンラーイの新たな都市の位置や設計、規模を定め、これが彼の新たなラーンナー王国の首都となったという物語を伝えるものだ。 この記念碑の発端は複雑で、実際にはマンラーイだけの記念碑を建てようとする地元の動きとして始まった。1969年には地方委員会が組織され、マンラーイ記念の取り組みに便宜が図られたが、この委員会が芸術局(FAD)と接触し、この記念碑のデザインを依頼した。彼らはさらにSukit Nimmanhemin教育大臣にも接触し、土地とFADの支持を確保した。1969年の夏にはこの大臣の提案によって、FADはマンラーイの記念碑という概念を、三人の王の記念碑へと変えてしまった。それはなぜか?政府が一年後に行った説明によると、彫像記念物の増殖には「混乱」を招く可能性があったためということで、つまりは、タイ政府によって認可されない歴史の記憶を作り出す事になる、という意味である。1970年3月に政府は新たな政策を発表した。それは、重要人物の記念建造物や記念碑の計画はいかなるものであれ、政府に提出し、政府が検討する必要があるというものだ。地方の彫像狂の問題が、政府の最高レベルの懸念となったのである。それでもなお、一人の王から三人の王への変更問題は、引き続き人々の関心を集めた。6月5日の地元紙は次のように問いかけた。「マンラーイの記念碑:一人の王か三人の王か、どっちが良い?」チェンマイ知事は、他の王たちを入れるとマンラーイの重要性が薄れること、また、特に若い世代向けの説明を追加する必要が出てくるとの不満を述べた。地元の旧チェンマイ王国の子孫たちもまた、マンラーイだけの記念碑の方が良かったようである。 一度、ンガムムアンとラームカムヘーンが加えられると、この記念碑の構成の問題がさらなる論争を生んだ。マンラーイは中央に立っているが、威厳たっぷりに中心となった人物はラームカムヘーンであり、他の者たちは彼の話を聞いているのである。地元民たちの中には、マンラーイを中心から外すというナラティブに不満を表明する者たちもいたが、他の者たちは、なぜラームカムヘーンがもっと中心とならないのかと尋ねた。国家的な見地から見ると、彼は当然、より重要であると考えられるためだ。ラームカムヘーンとマンラーイの主役争いは様々な方法で行われた。例えば、記念碑落成にちなんだ記念のお守りが発行された時、ラームカムヘーンの名前はマンラーイの名前よりも先に、最初に記載されていた。これらの人物のデザインも、また意味ありげである。彫刻家でタイ王妃の親族であるKhaimuk Chutoは、王たちの顔つきを彼らの人柄を反映したものとして思い描いた。マンラーイは美形で、ラームカムヘーンは支配者らしく、ンガムムアンは「ハンサムで気が多い」といった具合だ。 おそらくタイ政府の観点から見れば、マンラーイとラームカムヘーンを二つの中心とする事は妥協であっただろう。だが、チェンマイの観点から見ると、これは国家の歴史を地方の記憶の上に押し付ける事であった。一人の王の姿を三人に増やす事で、この記念碑は歴史的ディスコースをタイ国家の指示通りに再び中央化し、チェンマイの歴史をバンコクの歴史と結びつける事となったのだ。 彫像が体現するもの これらの彫像は世俗的な記念建造物として存在するだけでなく、信仰や儀礼の対象でもある。事実、世俗彫像と宗教彫像との境界線は、大部分の東南アジアにおいては不明瞭である。バンコクの王たちやその他の人物の彫像記念物は、容易に崇拝や儀礼の中心となり得るものであり、多くの本物そっくりの僧侶の彫像が地域の博物館や寺院に設置されている。完成した後の三人の王の彫像がチェンマイに入る様子は、古代の王たちさながらで、市内北部のチャンプアック門を通った後に市内中央の聖域に進んで行った。彫像はまるでそれらが王たちであるかのように動かされ、今日では代々の王権を体現するものとしてあがめられている。この記念碑はタイ政府による支配をよそに、市内中心部の呪力・霊験を主張する競合集団によって再解釈され続けている。 同様に、クルバ・スリウィチャイ記念碑もまた、宗教的、世俗的、両方の記憶を体現している。例えば1972年には、スリウィチャイとその弟子が山麓に建設した道路の基点近くに位置するWat Sri Sodaという寺院が、この彫像の寺院敷地内への移動を要求した。実際、彼らはこの彫像を宗教的彫像として要求し、彼らの方がこの彫像をより良く保護する事が可能であり、功徳を積むための儀式にも便宜が良くなると主張したのである。地元Khon Muang紙に発表された論説はこの計画に強く反論し、それをただの金儲けとして、元々の場所が選ばれたのは、この彫像を広い範囲から見えるようにするためであり、それによって人々がこの高僧の善行を記憶しておく(ramlukthung)役に立つからであると主張した。現在、この記念建造物は元の位置に留まり、記憶と崇拝の焦点となっている。 結論 全ての記念建造物は集合的記憶を幾分、歪めるものである。上で検討した記念碑は、今日のチェンマイに数多くある、歴史的記憶が姿形を与えられた場所のうち、ほんの二つの場所である。三人の王、あるいはクルバ・スリウィチャイ記念碑移動の簡易計画をめぐる論争は忘れられるべきではない。なお、一度は議論の的となった彫像を、地域のアイデンティティーの象徴として再配置する事も可能である。三人の王たちのシルエットを用いて、何でも北部、ラーンナー、あるいはチェンマイの標識とする事ができる。ニューヨークに自由の女神があるのなら、チェンマイには三人の王があるのだ。芸術家たちがこれらの彫像を刻むのと同様に、社会的、政治的諸勢力は記憶の風景を形成する。だが、「彫像狂」を地域的観点から検討することで明らかとなるのは、地域の記憶を体現するものに対する細かい政治的制限が、どのようにラチャパクディ公園にあるような彫像、つまりは、軍部の認めた超王党派、超国家主義者版タイ人のアイデンティティーと歴史のぶしつけな道具を作り出すことができるのかという点である。 Taylor M. Easum […]

Issue 19

Nonviolent Action: The Ultimate Sacrifice

I have long been awed by the level of commitment required for any idealist to make the ultimate sacrifice for their cause, the offering of one’s very life. Where does one acquire such steadfast, unbending […]

Issue 19

Rethinking “Religion” from the Margins

We have long been hearing about the degeneration of Buddhism in Thailand, most often accompanying scandals involving monks who deal with money, magic, or sex. Such realities are inevitably attributed to modernity or globalization. However, […]

Issue 19

The Curious Case of Buddhist Activism in Singapore

Buddhist activism has been a subject of considerable discussion among academics, policy makers, and practitioners in recent years. Buddhist activists, consist of both the Sangha and laity, have sought to promote social justice, campaign for political […]

Issue 19

การศึกษาศาสนาพุทธในเวียดนาม: ข้อคิดเห็นบางประการเกี่ยวกับแนวโน้มในปัจจุบันและอนาคต

ภายในสาขาการศึกษาเกี่ยวกับพุทธศาสนานั้น ศาสนาพุทธในเวียดนามได้รับความสนใจน้อยเกินไปจากแวดวงนักวิชาการยุโรป-อเมริกัน ส่วนหนึ่งเกิดมาจากอคติทางวิชาการที่นิยมศึกษาศาสนาพุทธโดยรวมศูนย์อยู่ที่ตัวบทพระคัมภีร์มากกว่าการแสดงออกด้านวัตรปฏิบัติของพุทธศาสนาในชีวิตประจำวันจริงๆ อคติดังกล่าวนี้มีพื้นฐานมาจากวิธีการศึกษาทางวิชาการแบบเก่าที่ให้ความสำคัญแก่ตัวบทบางอย่างมากกว่า แล้วสร้างภาพของศาสนาขึ้นมาจากทัศนะดังกล่าว โดยมักละเลยการตีความและการแสดงออกของปัจเจกบุคคลและวัฒนธรรมของศาสนิกชน วัฒนธรรมเชิงตัวบทของศาสนาพุทธในเวียดนามมิได้พัฒนาไปถึงระดับเดียวกับประเทศพุทธศาสนาอื่นๆ และได้รับความสนใจจากวงวิชาการค่อนข้างน้อย นอกเหนือจากนี้ ยังมีอุปสรรคหลายประการสำหรับผู้ที่ต้องการศึกษาวิจัยศาสนาในเวียดนาม ซึ่งยังถือเป็นหัวข้อที่อ่อนไหวภายใต้ระบอบการปกครองในปัจจุบัน ยกตัวอย่างเช่น การกำหนดสถานที่และการเข้าถึงบุคคลที่ต้องการสัมภาษณ์ การติดต่อกับระบบราชการที่ล่าช้าจุกจิกมากเพื่อเข้าถึงแหล่งเก็บเอกสารสำคัญ ปัญหาเหล่านี้อาจมีความยากลำบากมากกว่าในประเทศอื่นที่ประชากรส่วนใหญ่นับถือศาสนาพุทธ ถึงแม้มีข้อจำกัดดังกล่าว แต่ก็มีผลงานชั้นเยี่ยมที่ศึกษาเกี่ยวกับเวียดนามและสร้างความกระจ่างแก่ประเด็นหลายอย่างในประวัติศาสตร์พุทธศาสนาและการปฏิบัติในปัจจุบัน กระนั้นก็ตาม ถึงแม้มีงานวิจัยที่โดดเด่นอยู่บ้าง แต่ก็ยังมีช่องว่างไม่น้อยในประเด็นสำคัญๆ หลายประการภายในงานวิชาการที่ศึกษาศาสนาพุทธในเวียดนาม ประเด็นหนึ่งคือการเปรียบเทียบกับศาสนาพุทธในที่อื่นๆ การวิจัยหัวข้อหนึ่งในหลายหัวข้อที่น่าศึกษาเกี่ยวกับศาสนาพุทธในเวียดนามก็คือการสำรวจตรวจสอบ “ความเป็นมหายาน” ของศาสนาพุทธในเวียดนามโดยเปรียบเทียบกับศาสนาพุทธนิกาย “มหายาน” ในประเทศอื่นๆ รวมถึงเปรียบเทียบกับรูปแบบของพุทธศาสนาที่เรียกกันทั่วไปว่า “เถรวาท” ด้วย แนวคิดที่มีมายาวนานเกี่ยวกับคุณลักษณะที่ใช้ในการจัดแบ่งนิยามนิกายและใช้กันซ้ำๆ ในพุทธศาสนานี้ยังคงใช้ได้หรือไม่? การนิยามศาสนาพุทธในเวียดนามว่าเป็นนิกาย “มหายาน” มีความเหมาะสมหรือเปล่า? […]

Issue 11

The Idea of Kingship in Buddhist Cambodia

Kyoto Review of Southeast Asia Issue 11 (March 2011): Southeast Asian Studies in Korea  “Sihanouk! Long live Sihanouk!” However unusual in the circumstances, this evocation of the prince was no surprise. Citing the destruction by […]

Issue 11

캄보디아의 왕과 왕권

Kyoto Review of Southeast Asia Issue 11 (March 2011): Southeast Asian Studies in Korea “시하누크 왕 만세!” 그토록 급박한 상황에서 왕의 이름을 주문처럼 부르는 게 조금도 이상하지 않았다. 베트남군이 캄보디아 심장부로 들어오기까지 마치 ‘ 열려라 […]