選挙は水のようなもの

Manuel Quezon III

        

選挙は水のようなもの。なくなって初めて恋しがられる。

戒厳令以前の暮らしの記憶のない圧倒的大多数のフィリピン人にとって、選挙は水のようなものだ。人間の身体にとっての水と同様、選挙は国家にとって不可欠であり、政治生活の必需品である。年配の世代にしてみても、選挙は水のようなものだ。しかし彼らの場合は、現在の政治文化を不毛の砂漠のようにとらえ、選挙のたびに国民が引き裂かれるおぞましい風景とは無縁だった、指導者と民衆の美徳によって彩られ理想主義がみずみずしく開花していた時代を懐かしむ。

選挙は水のようなものだ。川のように、票の激流があっという間に国を浄化し、どの政権にもみられる「アウゲイアス王の牛舎」(注:不潔あるいは腐敗した場所の意)を洗い流す。

1935年に行われた初の大統領選では、有権者の3分の1が投票しなかった。当時は読み書きのできる全男性に選挙権が認められており、選挙人登録をした人の数は150万人に上った。我々は完全な独立に向けた独立準備政府の発足を心待ちにしていたのだから、有権者たちが将来の国民国家の基礎作りへの参加に興味を示すにちがいないと思うのは当然のことだろう。ところが、実際にはかなりの数が興味を示さなかった。だが、その理由は驚くものではない。選択肢を見ると、大統領ポストに3候補者しかおらず、それもこの少ない人数の中で1人は圧倒的な人気を誇っていた。結果は目に見えていたし、万事順調に進んでいると思える時代だったから、有権者の3分の1は特に気にかける理由を見出さなかった。マヌエル・L・ケソンは68%の得票率で圧勝し、エミリオ・アギナルドとグレゴリオ・アグリパイはともに18%以下で終わった。1941年になると女性にも選挙権が認められたが、投票率はほぼ横ばいだった。つまり、前回と同様、3分の1は投票に意義を感じなかったということだが、この選挙では現職のケソンが81%もの票を得ている。

我々フィリピン人が羨ましいと思いがちな民主主義国家では、選挙人登録をした人びとの間で投票率が66%に上ることはめったにない。アメリカ合衆国の選挙は同国だけならず世界の情勢に影響を及ぼすにもかかわらず、投票する人はずっと少ない。フィリピンでは、平穏な民主主義の時代とされる戦前から、一票を投じるという過程に対しフィリピン人は大きな評価をし、今でもそう評価し続けるという我々の民主主義の特徴が明らかになっている。ただし、戦前は予想可能だった我々の政治的かつ国家的発展の姿は、第二次世界大戦という国民的トラウマの中における一連の衝撃と失望によって消えてしまう。

1941から1946年までの間、フィリピンにはマヌエル・L・ケソン、ホルヘ・バルガス、ホセ・P・ラウレル、セルヒオ・オスメニャ、マヌエル・ロハスという計6人の国家元首がいた。この5年間に、正当な大統領の座を巡って2人の指導者(日本に支持され本国に残ったラウレルと、米国の支持を受け亡命したケソン、その後にはオスメニャ)の間で争いが繰り広げられた。この時代、どちらの味方につくかはもはや政治的ビジネスではなく、血生臭いビジネスだった。「協力者」(注:collaborator、日本占領軍に協力したフィリピン人の意)ゲリラ、亡命中の役人に山にこもった役人、隠れたゲリラだというマニラ在住の役人に親日派を明言する役人といった具合に様々な人びとがいた。

今日知られているように、終戦と戦争のトラウマの後に初めて実施された国政選挙が、それ以降の選挙の舞台を設置した。投票が生きるか死ぬかの問題となってしまってからというもの、戦前に注意深く育成された政治的な美徳の見せかけの維持は、もはや困難だった。大戦前、選挙は人々が自分たちの指導者を指名するという神聖な面を持っていたという意味で、水のようなものだった。一方、大戦後には、選挙は汚れを流し落とす手段だけではなく、生き残るために必要不可欠なものとなったという意味で、水のようなものだった。引き裂かれて分裂してしまった有権者、ゲリラ、偽のゲリラ、本物の「協力者」で不当に告発された者、日本の銃剣を後ろ盾に不動産を避難させた者(自分の身の可愛さから今は米国にしがみついているが)、不満の募った農民―置かれた状況は異なるが、みな生き残った者たち―が選挙の結果に多大な関心を寄せる事態となったのだった。

1946年の選挙では、本物のゲリラ、過激派、そしてケソンが国政を支配していた20年間に遣り込められていた指導者らが、ついに自分たちの時代が到来したとして必死に戦った。ロハスの後ろで陣を張ったのは、孤児のようになっていたケソン派の政党員だった●。ゲリラと「協力者」の両方がいたが、なかでも特に重要だったのは「協力者」だとして告発されていた者たちであり、彼らにとっては政治的生き残りが名誉回復と復権への唯一の道だった。選挙では両陣営とも、極貧状態に陥っていた国民の人気取りに必死になった。国民はというと、独立に興奮と恐れを同時に感じながらも、戦前に注意深く組み立てられてきた発展がついに実を結ぶのが1946年だと信じ込まされてきたが、実際には独立とは死と腐敗が悪臭を放つ廃墟の上でたなびく旗のことだと知らされたのだった。

戦争により人びとは殺され、インフラは廃墟と化し、理想は痛ましくも空洞化し、文字通り「乾きあがった」国民は選挙を水のようなもの、そして水を求める喉がカラカラに乾いた人々の戦い、それも必死の戦いだと考えた。1946年に圧勝した候補者はおらず、単独過半数を得ただけだった。また、票の買収、不正操作、選挙がらみの暴力は以前では考えられないレベルに達した。1949年になると、こうした状況はさらに悪化し、エルピディオ・キリノが死人を眠りから起こし、植物や動物まで動員させて投票させ勝利したという悪名高き話は世界中に衝撃を与えた。しかし1953年、カリスマ性を持ったラモン・マグサイサイが、ケソンが1935年に記録した得票率68.9%を破って当選するという、待望の大洪水が起った。

ところが、マグサイサイは1957年にこの世を去った。彼の後継者であるカルロス・P・ガルシアは7人の候補者の中で、わずか41.3%の票を取得することで選ばれた。相対多数を得た者が選挙を制したことで、ここに今日のフィリピンの政治制度が生まれた。この国は、勤勉さと巧みな策略を駆使したケソン、また天賦の才能とカリスマ性を兼ね備えたマグサイサイのような指導者たちがいつも支配するわけではない。ほとんどの政治家は平凡でひねくれ者だが、かといって非常にずるがしこくはない人たちであり、必ずいつも輝く人がいるというのは不可能である。

加えて、政治家は控えめで大衆の気を引くような行動をとることは好ましくないと有権者が考える時代は終わった。さらに、政治家の間では、疲れきった、ある意味、道徳的に破綻した戦前派の世代から、戦争に実際に加わり、その後成長した若く生意気な世代へと、嗜好や期待するものの変化がみられた。さらに加えて、政党ごとの組織票などの、ケソンが注意深く設置しマグサイサイがその人格の力で動かした大統領の権限や組織マシーンは着実に衰退した。その結果が次のようであった。

ガルシアは、彼の先任者たちが当たり前のものとしてきた基本的な支配のレバーをもぎ取られた大統領だった。政党マシーンによって生み出され育て上げられた大統領だったが、その党員は政党志向の投票の防波堤だった組織票を既に無くしていた。キリノの横暴な性格と、その裏腹の微々たる政治的ギフトへの反応として始まった潮流の一つ、大統領の特権から地方自治体の任命が徐々に剥奪されるという過去の遺産を背負った大統領でもあった。また、彼は古いスタイルの政治家だったが、それ以前にマグサイサイが手下をとおして投票者に指示を与えて選挙に勝利するという古い政治家のスタイルを崩してしまっていた。スペイン語を話し、古い形式にのっとって就任した人だったが、有権者はマグサイサイ式のバロンタガログを着て登場する素朴なタイプを好んだ。この有権者はまた、芸能アイドルという資格しか持たないロヘリオ・デラロサを上院まで送りこんでいる。その一方で、投票した人たちはガルシアに大統領としてケソンやマグサイサイのような自信に満ちた態度と風格を期待した。

問題は、ガルシアはこれら2人のようではなかったことである。自らが言っていたように、彼は「馬鹿ではなく」、じっさい彼や彼の後任はしばらくのあいだ、残された権力のレバーを握って大統領職まで上り詰めるという賢さを披露した。

したがって、投票者と大統領を志す政治家の双方の間でみられた、大統領という地位に対する一般的な見方は、過去の大統領の実物大以上の人物像と比べて、現職の大統領たちが(試みはしたものの)それと同等の権威と有効性を用いて行政力を行使できない苦しみを経験した。法のもと、制度のもとに、そのための手段がなかったのである。にもかかわらず、投票者の間の期待は変らず、政治家の間の野望も変らず、さらに選挙に対する人びとの関心は1946年以来高いレベルにとどまり、特に流星のごとく登場したマグサイサイの後は熱狂状態だった。ガルシアは、キリノがマグサイサイに負けたときとほぼ同じ理由によって、ディオスダード・マカパガルにその座を奪われた。しかし、悲しくもマカパガルには行政力を執行するだけの実力が身についておらず、1965年、しかるべく彼はフェルディナンド・E・マルコスによって押しやられた。マルコスは、渇望していた権力にたどり着き、手にした地位を放さないためには、制度をすべて壊すしかないと心に決めた。

1969年、マルコスは大統領選では歴代4位の61%という高い得票率を掲げて、史上初の再選を果たした。ちょうどケソンが行政支配をやり易くするために制度を変革したように、マルコスも変革に着手したが、彼の場合はもっと大胆だった。このインフラ重視の大統領は選挙をダムととらえた。つまり、政治支配を集中させる手段であり、自分のクローニーの畑は灌漑で潤し、敵の土地には何もせずに干し上がらせ、自然の流れさえ変えられるという圧倒的かつ不屈の意志を持つ、まるでファラオのようなイメージを人びとに与えるものだった。

「新社会」というマルコスが構築した湖の水は、ドロドロしていて、浅く、汚染されていて、臭いことが判明した。1986年、ダムは決壊し、もっと自然な水の流れが戻ってきた。コラソン・アキノは公式選挙結果では敗れたが、きちんと集計されたところでは勝ち、それは彼女の支持者や世界の目にはモラルの勝利として映った。選挙を取り戻す、言うなれば、選挙を渇望する国民に水を持ち帰ることについて―たとえそれが自分の夫が成し遂げようとしたものであっても―アキノは最初から、恥かしがり屋の未亡人として、政治的激動期における国家再建の中心的役目を果たすことについては乗り気でない様相を見せていた。

コリー・アキノは選挙、実のところは国民投票によって権力の座に着き、彼女は選挙/国民投票を正当性の維持の要に用いた。

ところが、ガルシアの選挙のときに姿を現した、政治制度の発展―または未発展―の段階が、復讐をするかのようにフィデル・ラモスの時代になって戻ってきた。ラモスは、我々の選挙史上で最低の得票率(28%)で当選するという記録を作った。彼の成功は、選挙を大統領統治のための正当性だとする考えに悪い影響を及ぼした。エドサ(注:ピープルパワー革命)後の策略で重要になったことは、人気でもマシーンでもなく(彼の対抗馬らはこれらを兼ね備えていた)、少ないものから最大の効果を発揮させるという戦略的優位性である。ラモスは、他の候補者よりも不人気の度合いが低かったという理由で、国民の多くに拒否されながらも、大統領の地位にたどり着いた。ラモスの任期後、ジョセフ・エストラダが圧勝のような形で大統領になったことは驚きに値しないが、その圧勝とされる状況はじっさい、ガルシアと他の候補者との間の得票差よりも健全だったとは言えない。ラモスとエストラダは少数派の大統領だったのであり、様々な期待に応じるには制度的に無理があった。それと同時に、有権者の方はますます分裂し、失望し、絶望した。人びとの好みとマスコミの変化によって、ジョセフ・エストラダはロヘリオ・デラロサの後継者になった。

ラモスの巧妙なずるさと部下を操る長い経験をなくして、エストラダは権力を維持するには不適当であることが明らかになった。一方、彼の副大統領となったグロリア・マカパガル=アロヨは、エドサ後に初めて過半数に近い票を獲得した(注:フィリピンでは大統領と副大統領を別々に選ぶ)。これによって、彼女は自分がエストラダの後継者だと十分認められ動き出す権限を手にしたのである。エストラダがマラカニアン宮殿から逃げ出したとき、(長い話を簡単に言えば)アロヨはすばやくそこに乗り込んだ。とはいえ、この一連の過程は、正当な継承者、つまり炎を受け渡される明らかな後継者として次期大統領が歴史的に味わうことができた自然な特権を否定されるという特異な状況下で行われたのだった。

2004年大統領選のキャンペーンは正当性の追求だった。正当性はエストラダが指名した候補者によって失われ、また現職もまだ獲得していない。不信任をつきつけられ拘置所にいる指導者に依存した候補者や、自分自身も拘置所へ行くべきだとの申し立てでひどく傷ついた現職のほかにも候補者がいたが、彼らも正当性を追求した。ところが、熟成中の一つの政治文化が2人の最有力候補と選挙戦の影を薄くしてしまった。この政治文化は、1960年代に生まれ、1970年代に暴力的になり、1990年代に道徳的に破綻したのだが、指導者も指導される人たちも1980年代の信頼できる選挙を復活させようとバラ色の眼鏡をかけて見ている。水があるように、選挙はある。しかし、国の合理的な、熟考した計画の一端としてではない。乞食の民衆に感謝の念を植え付けるための施しのように、投票を水のように見なす指導者の考えにぴったり合うから存在するのである。

少なくとも3分の1の有権者が投票しなくなる日が来るにちがいない。選挙の結果がどうであれ、重要なことは問題になっていないのだから。1946年以降、この問題は重要であり続け、それゆえ、選挙のたびに汚職が国の重要懸案に挙げられている。大多数にとって何が問題なのかというと、文字通りに水そのものが彼らの物として飲め、水浴びに使える生活、バランガイ(注:近所の地域)ごとに一つの蛇口とかゴミの溜まった水路とかいった具合には計れない生活、そういう生活を望むということなのだ。

選挙は水のようなもの―喉の乾いた人たちにとっては必需品であり、それを支配したり所有する人たちにとっては権力の根源である。選挙は水のようなもの―それぞれの人にそれぞれの意味がある。選挙は水のようなもの―少なくとも我国のように、どのバランガイの人たちも飲み水のために何時間も待ったあげく、濁って悪臭のするものしか得られない現実のなかで、上流階級の家々にあるプールの存在が恥を象徴している。

マヌエル・ケソン三世

Manuel L. Quezon III is a columnist and contributing editor at the Philippine Daily Inquirer and History Curator at the Ayala Museum.

Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 6 (March 2005). Elections and Statesmen