Issue 6

มองสถานการณ์ภาคใต้ผ่านแว่น “กบฏชาวนา”๑ พระเอกคือคนเล็กๆ

         พระเอกคือคนเล็กๆ ปฏิเสธได้ยากว่า สถานการณ์ที่เกิดในภาคใต้ในรอบปีนี้เป็นความเคลื่อนไหวทางสังคม มีคนร่วมอยู่ในเหตุการณ์นับเป็นร้อย ถ้ารวมคนที่อาจสนับสนุนให้สามารถปฏิบัติการได้ ก็นับได้เป็นพันหรืออาจจะมากกว่านั้น ผมไม่สนใจว่าความเคลื่อนไหวทางสังคมที่กว้างใหญ่ไพศาลขนาดนี้ มีใครเป็นผู้นำ ใครเป็นผู้บงการ หรือได้รับการอุดหนุนจากใครบ้าง เพราะการมองหา “หัวโจก” ไม่ช่วยให้เราเข้าใจอะไรเลย นี่ไม่ใช่เหตุการณ์โดดๆ เช่น ปล้นปืนทหาร สังหารเจ้าหน้าที่บ้านเมือง เผาโรงเรียน หรือใช้กองกำลังโจมตีหน่วยตำรวจ แต่เป็นความเคลื่อนไหวที่เกี่ยวข้องกับผู้คนจำนวนมาก ไม่มีใครสามารถบงการหรือล่อลวงคนจำนวนมากเช่นนี้ออกมาปฏิบัติการร้ายแรงเช่นนี้ได้ (แม้แต่อาศัยยาเสพติด) แต่ต้องมีปัจจัยบางอย่างที่ผลักดันให้ผู้คนเล็กๆ เหล่านี้เคลื่อนไหวเพื่อจุดประสงค์บางอย่างร่วมกัน จะเข้าใจสถานการณ์ที่เกิดในภาคใต้ได้ จำเป็นต้องเข้าใจปัจจัยเงื่อนไขที่แวดล้อมชีวิตของคนเล็กๆ เหล่านี้ รัฐอำนาจนิยมมักไม่สนใจคนเล็กๆ ที่ร่วมอยู่ในความเคลื่อนไหวทางสังคม เพราะรัฐอำนาจนิยมไม่เคยคิดว่าประชาชนคนธรรมดาสามารถเคลื่อนไหวทางการเมืองหรือสังคมได้ด้วยตัวเอง ต้องมีคนหรืออามิสหรือคำหลอกลวงเป็นผู้ชักจูงเสมอ ถึงแม้จะมีคนหรืออามิสหรือคำหลอกลวงชักจูง ทั้งหมดเหล่านี้ก็ไม่สามารถอธิบายพฤติกรรมของคนเล็กๆ ที่ร่วมอยู่ในขบวนการได้อยู่นั่นเอง […]

Issue 6

農民反乱」という眼鏡を通してみた南部の状況  ニティ・イアウスィーウォン

         主役はごく一般の多数を占める人々   今年になって起こった南部の諸状況が社会的な広がりをもった運動であることは否定のしようがない。事件に関わった人物は100人を数え、実行を支えた層も含めば、1000人、いやそれ以上になるかもしれない。   これほどまでに広範な社会的な運動の指導者は誰なのか、背後で糸を引いているのは何者か、どんな人物からの援助があるのかといったことは、私の興味の範囲にはない。「親玉」が誰なのかと探したところで、そんなことは何の理解の助けにもならないのだから。南部において進行中の動きは、軍からの銃の強奪、公務員の殺害、学校への放火、警察組織に対する集団的な襲撃等々のそれぞれ個別の事件ではなく、多くの人間が関わりを持つ運動なのである。これほど多くの人間を操り欺いてこれらの凶悪な行為に駆り立てることなど(麻薬に頼ったとしても)、誰にもできるものではない。それぞれ異なった目的を持った、ごく普通の多数を占める人々―小さき人々が集まって運動を起こすのを後押しする何か他の要素があるはずである。南部の状況を理解するためには、これらの人々の生活を取り囲む環境を知る必要がある。   権力主義国家は、社会運動に参加する一般の人々には関心がない。普通の国民が政治、社会を直接に動かす力を持つとは考えもせず、何らかの人物、報酬によって動かされているに違いないと理解している。   運動に誘い込むような人物、報酬がたとえあったとしても、運動に加わっている小さきの行動を説明しきることはできない。なぜなら、参加しないことに決めたその他大勢の一般の人々と参加を決意した人々の二つの存在があるからだ。いかなる理由によって、あるグループが一つの選択を行い、別のグループはそれとは違った選択を行なったのか。  誰が主役なのか   多くの死者を出した4月28日の事件は、これらの小さき人々は何者なのか、ということについて、偶然ながら我々にいくらかを知らしめることとなった。   マスコミによる情報からわかる限りでは、4月28日に実行犯として送り込まれてきた人力は、ことごとく地方の人間であったといえる。このことは、第四軍司令官が、「これらの人物はソンクラー県サバーヨーイ郡または、ヤラー県カーバン郡、ヤハー郡、ターントー郡、アイユーウェーン郡、ベートン郡において武器の取り扱いに関する訓練を受けていた。」と語る言葉と一致している。彼の言葉によれば、これらの地域は一面の森林、山岳地帯であり、関係者が調査に入ることはできない。(マティチョン誌、5月3日)   第四軍司令官の言は、軍の消息筋からの情報とも一致している。「二十歳以下の青少年(実際この言葉をなんと訳してよいのか戸惑う。後になって発表されたところによれば、死亡者の多くは25-30才であり、二十歳以下の青少年と訳すにはふさわしくない。)に対して森林、山岳地帯、人里離れた村近くで、秘密裡に武器取り扱いの訓練が行なわれていた。この訓練を受けた者たちは、公務員を襲撃することによって集団内での地位を急速に上げていた。」   筆者は死亡者の家族の経歴に関する詳細を調べてみようとした。しかし、マスコミはこの点に関して関心がなく、ほんの僅かな情報しか得ることができなかった。   負傷者の一人にアブドゥルローニン・チェロ氏がいる。パタニー県コークポー郡の住民である。彼の妻はインタビューに対し、職業はゴムの樹液採取の日雇いだと答えている(5月2日付マティチョン誌)。家族の暮らし向きは、自らの資本を持たない地方の日雇い労働者というかなり貧しいものであったことがわかる。   サバーヨーイ郡刑務所を襲撃し、19人の死者を出した実行犯の居住地であるサアン村は、ターンキーリー区に属している。区長は以下のように語っている。「最大の問題は教育です。若い者の多くは仕事にあぶれ働き口がない。というのも小学校6年しか終えておらず、最高でも中学3年と学問がない。両親を手伝ってゴムの樹液を採取する他には何もすることがないんです。」(5月2日付マティチョン誌)教育程度、職業からみても、地方の崩壊という現象の犠牲者であることがわかる。   確かに、共に射殺されたサーラプー・ヨンマケ氏、マローニン・ヨンマケ氏のような例外もある。彼等の父は、失ったもの、とりわけ、イスラムウィタヤー校中学6年級を終了し、警察学校に今年入学するはずであった息子(どちらを指しているか不明)に対する無念の思いを吐露している。しかしながら、次の情報は、襲撃の実行犯、或いは運動全体も、伝統的なエリート層、とりわけ宗教的指導者とつながりはないのではないかと我々に思わせる。4月27日付けのバンコクポスト誌は、ヤラー県ラーマン郡ダーローハーロー-ラーマン通り、パタニ-県コークポー郡、ナラーティワート県ルーソの南部三県の諸地域においてビラがばら撒かれていたと報じている。このビラにはある宗教指導者が制服の警察官に対し何かを手渡している絵が描かれ、イスラム教の指導者は南部の騒乱に関する情報を警察に提供すことを止めるように、という要求がタイ語で書かれている。   この要求から見て、宗教指導者の大部分は運動と関係がなく、活動家や運動との心のつながりもない、と言える点に注目したい。筆者は、活動家や運動が宗教界以外の伝統的エリート層ともしっかりとしたつながりを持ってはいないのではないかと、かなりはっきり感じている。実際、政府筋が今日に到るまで行っている「親玉」の逮捕拘留、起訴などは、彼らが訴えているほどの真実味があると証明しきれているものは一件もない。筆者は(軍事熟練、国内治安維持委員会第四本部)によって編集された「ケーススタディー報告」中の二例を読む機会があった。この報告書によれば、事件のすべては、地方レベル、国家レベルでの伝統的エリートにかかわりがある、と述べている。しかし、その内容はあやふやで勝手な思いつき、根拠のない疑惑で成り立っており、自分自身の関わっている問題に都合よく証拠を解釈しようという意図があるようだ。(にもかかわらず多くの政府指導者の信ずるところとなっている。)筆者は、小さき人々によるこの運動は、実行メンバーは地方の宗教エリート層とかかわりのない運動者であると主張したいのである。   PULO、BRN、 Bersatuといったタイ政府に対する抵抗運動は、今回の動きと自らのかかわりを誇示しようとはしている。が、それほどの関わりはないのではなかろうか。これらの抵抗運動組織が小さき人々の諸行動を支え、称賛しているということは確かにありそうなことではある。直接の後押しはしないまでも、政治的目的にかなった効果はあるだろう。実際のところ、PULOやBRNの組織はそれほど堅固なものではなく、これらの組織が、今回の運動のように広範、長期にわたる運動を実施できた例はない。   4月28日の事件後のPULOの声明を注意深く読めば、彼らが事件を自らの仕業とは言明していないことがわかる。PULOは、「英雄」の犠牲の精神と勇敢さを褒め称えていながら、実際はその英雄達と面識がないのではないかと思わせるところがある。タイの当局が死亡者の姓名と家族構成について造作なく把握していることは、PULO側も知っているはずである。にもかかわらず彼等らの声明においては、「英雄」は無名氏のままの扱いになっている。  主役の理想 マスコミが政府、また政府高官から受け取った歯切れの悪い情報によれば、実行犯らはタイから独立したパタニーの国家を建国したいという分離独立の意図を持っており、過激な民衆蜂起をよしとするイスラム教徒の一派からの影響を受けていたということが示されている。   […]

Issue 6

Walking on Yogya

         TRAVEL WARNING – INDONESIA, United States Department of State, April 10, 2003. This Travel Warning is being issued to remind U.S. citizens of the ongoing security threats in Indonesia. … As security is increased […]

Issue 6

Tinggal di Yogya

         PERINGATAN PERJALANAN-INDONESIA, Departemen Luar Negeri Amerika Serikat 10 April 2003. Peringatan Perjalanan ini dikeluarkan guna mengingatkan warga negara Amerika Serikat terhadap ancaman keamanan di Indonesia…Karena keamanan di kantor-kantor milik pemerintah Amerika ditingkatkan, teroris mencari […]

Issue 6

Paglalakad sa Yogya

         BABALA SA PAGLALAKBAY – INDONESIA, United States Department of State, ika-10 ng Abril, 2003. Ang Babala sa Paglalakbay na ito ay inilabas para ipaalala sa mga mamamayan ng Estados Unidos ang mga kasalukuyang banta […]

Issue 6

ジョクジャを歩く

         旅行警告-インドネシア、合衆国国務省、2003年4月10日。当旅行警告は合衆国市民に対し、インドネシアにおいて進行中の治安悪化を知らしめることを目的に発されたものである。… 合衆国公的機関の防衛対策を受けて、テロリストは民間の標的を探索中である。特にホテル、クラブ、レストラン、宗教施設、屋外で行なわれる娯楽イベント等の、アメリカ人が居住、集合、訪問を行なうような施設がそれらに含まれているといってよいだろう。… この旅行警告を知ってなおインドネシアに旅行または、居住するアメリカ人は低姿勢を保つこと。必要な旅行の時間と路線に変化を持たせ、自らが置かれている周囲の環境に厳しく注意を払うこと。… ほぼ何の前触れもなく暴力と不穏な情勢が巻き起こる可能性がある。テロ行為を含む脅威は、ジャカルタ、ジョクジャカルタ、スラバヤ、カリマンタン、スラウェシなどの広範な地域に存在している。   国務省によるこの旅行警告にもかかわらず、夫と私はジャワへと飛んだ。それは、バリのクタビーチにおける二〇〇二年十月の爆破事件の二,三ヵ月後であり、アメリカ軍のイラク侵攻の二、三ヵ月前のことであった。ジョクジャカルタにおいて、彼は教鞭をとり、私は編集作業を行なう予定であった。前述の勧告は情勢の不穏、背後に控える脅威、また何らかの事件の勃発にまで言及していた。しかし、「アメリカ人が居住、集合、訪問を行なうような」場所を探すテロリストは、ジョクジャでは困難を味わうだろうということがすぐにわかった。というのも、お目当てのアメリカ人は、ごく僅かしかみつからないのである。土産物、銀製品、バティックの店、ペーパーバック古書店、旅行代理店、欧米の旅行者向けのレストランは殆ど空の状態だった。プラウィロタマンやソスロウィジャヤンの近郊にある旅行者向けの店には活気がなかった。しかし旅行産業が活気を失っている一方で、インドネシア人の輸入品に対する嗜好に応える欧米系の店舗は賑わいをみせていた。カリウラン通りの豪華でガラス張りのケンタッキーフライドチキンやその向かいのダンキンドーナツ、記念碑脇にあるピザハット、喧騒に包まれたマリオボロモールのウェンディーズ、マクドナルド、テキサスチキンに爆弾を仕掛けたとしても、犠牲者は十代二十代のジャワ人中産階級であるのに違いない。   ジョクジャカルタの私たちは、丸い地球の上で出来得る限り故郷を遠く離れていた。ニューヨークの午前八時はジャワの午後八時だ。私たちにとってここはエキゾチックな場所であり、果物や自然環境は一見したところ学部時代に読んだ海洋小説の中に見覚えがあった。ジョクジャ北部には活火山のグヌンムラピがそびえ立っていた。標高は約三〇〇〇メートルの孤高の山は、常に白い雲を頂上にたなびかせていた。その輪郭は、子供の描く山の絵のように簡略で、周りに従える者もなく、山陰は空の青より濃かった。ムラピは殆どいつも全く姿を隠しているのだが、これは火山の習いとして雲に包まれているのに過ぎない。ジャワを越えてバリやロンボクへ飛ぶ旅行者は、雲間から、また晴れていれば大地からそびえる火山をそこここに見つけることが出来る。   私たちは青い火山に魅せられたが、押さえ込まれた脅威の象徴としてではなく、まるでその山がおとぎ話そのもののように見えたからである。そこである日私たちはバイクを北に走らせ、ムラピの裾野にあたるカリウランに向かった。カリウランは緑が濃く、標高の高い比較的気候の涼しい場所であった。その街は貧しく、週末旅行者(ウィスマス)用の柱がむき出しの住居が点在していた。そのうちのいくつかは、アイルルパナス(温水)使用可の部屋があることを宣伝していた。私たちは国立公園の入り口を見つけ、森の中にある展望台に向かって登っていったが、そこでもまだ雲しか眺めることができなかった。火山はまだ私達の眼前に現れず、頭上高くにあるようだった。   展望台で、私たちは三人の人間に出会った。上着を着ていない二人の男性と、もう一人の女性はインドネシア人で、英語を話す者はいなかった。私たちが姿を現すと、二人の男性のうち背の高い方が、何事か叫びながらやって来て、ダリマナ?と訊ねた。私達がカミ ダリアメリカ、私たちはアメリカ人だと答えると、彼は何かペラン、「戦争」に関することを大声で語った。この単語については、私は週の初めに辞書の中から既に拾い出してあった。この日は三月二十六日、アメリカ合衆国がイラクへの爆撃を開始した六日後であった。   たどたどしい言葉での会話が続いたが、夫も私も「戦争は良くない」ペランティダクバグスという私たちにとっての決まり文句を申し出た。そしてアール・ゴアがどんな人物か説明しようと試み、私たちは彼に投票したのだと語った。しかしこれらの言葉は、あるいはアルゴアという単語は、私達の耳にすら薄っぺらなものに響いた。私達はニューヨーク州にある小さな街からやって来て、そこはニューヨーク市とは違う場所であることを説明するため、ここがカリフォルニア、ここがテキサスと、そう役に立つとは思えない地図を地面に描いた。男性は、自分は貧しい人間(ミスキン)で三十八歳だが家は無い、アメリカに行きたいので連れて行ってくれないか、と言って笑った。   私達は女性から二本のソフトドリンクを買った。彼女は売り子で、細い筋肉質の脚をしてゴムサンダルを履いていた。ソーダ水と水の壜を並べた箱を布製の紐で背中に吊り下げて、険しい山道を運んできていた。男たちが笑ったので、私達は彼女が高値を吹っかけたことに気づいた。が、私達は喜んで高値を吹っかけられるという基本方針を立てていた。もちろん限度はあるが、これは国際交易に対するささやかな私達の良心だった。   山上の三人に別れを告げると、私達はカリウランの街を散策した。百日草に似た花、間違いなくバラだと言える花、彩色された家々、雄鶏、不思議なほど性質の良い犬、有刺鉄線に囲まれ、夢の中で見かけるような古びた地元の運動場、しっかりした門扉の背後に建っている、見るからに宿泊客のいなそうなタイル張りの屋根をした公共宿泊施設などが目に入った。宿泊するホテルの裏手近くで、子供たちが私達のピンク色の顔、黒くない髪を見ながら「ハロー、ハロー!」と英語で叫んだ。車に乗った一人の母親がクラクションを鳴らしたので、私達は彼女の子供に向かって手を振り、「ハロー!」と叫んだが、自分達がいかにもアメリカ人らしい行動をとっているように感じていた。翌朝になっても、まだムラピを見ることはできなかった。   合衆国国防長官のポール・ウォルフォヴィッツは、レーガン政権下においてインドネシア大使を三年間務めた。彼はムラピ山にガイド付で登山し、下山後、この山に関する気の効いたスピーチを行なった。ウォルフォヴィッツが大使だった時、インドネシア人は彼を大変に好いていたが、国防長官となってからは、彼とその同僚たちがインドネシアをテロリストの横行する国と決め付けているため、裏切られたように感じているとパク・ドゥジョコというインドネシア人の教授が語ってくれた。そこで旅行警告の登場である。また、一方では、観光産業と海外投資の著しい低落ぶりが起った。このことは一九九七年のアジア経済危機で既に打撃を蒙っていたインドネシアの経済に追い討ちをかけた。  インドネシアを理解しようとする私達の試みは、今や私たちが遠く離れ、ポール・ウォルフォヴィッツとその同僚たちが影響力の頂点の上に立っているアメリカ合衆国を理解しようとする努力と絡み合っていた。群島のインドネシアと巨大なアメリカ、この巨大な国家という存在は、ある時ははっきりと、またある時はぼんやりと見え隠れしながら聳え立っていた。    初めてジョクジャカルタに上陸した時、私達はプリアルサホテルを訪れ、通りを南に進んだ場所にあるプリバハサでインドネシア語を習う申し込みをした。ホテルは殆どがら空きだったので、朝食の時私達を取り囲んでいたのは、赤色でどぎつく飾り立てた薄暗がりの中、籠に入ったさえずる鳥、小さな水槽の中で果ても無く泳いでいる大きな魚だった。朝食を済ませると私達は部屋に戻り、エディー・バウアーのバッグに本、筆記用具、持ち運び可能な貴重品を詰めてインドネシア語の授業に向かった。   本通と平行したジャランセンドゥラワシは長い道ではないのだが、私には長く感じられた。騒がしく、暑く狭いこの道にはバイクの音が響き、露天がひしめき合っていた。私達はこれらに押しやられたような感じで一列になって歩いた。路上で行なわれている生業が何事であるのか私にはまだわからず、看板を読むこともできなかった。ジョクジャの最も一般的な食堂は、柱に防水シートの屋根をかぶせたワルンという売店であることも知らなかったし、街角のテントの下に腰掛けた男達が、バイクの修理やパンクしたタイヤの継ぎ合わせを手がけていることも目に付かなかった。ある店の前に水の壜が毎朝ピラミッド型に積み上げられていることに私達は気づいており、それを一つの目印にしていた。だが、そのワロンステーキアンドシェイクの暖簾をくぐり、メニューを見ながら夕食を注文する勇気が出るまでには、しばらくの時間がかかった。殆ど気づいていなかったのだが、幸いなことに英語はジャワの都会においてかなりの権威を得ていた。近隣の看板に書かれていることの多くは、私たちにとって自明で理解可能な印刷文字だった。例えば、ドライクリーン、レディースアンドジェント、サウンドシステム、フェイシャル、インターネットなど。またステーキアンドシェイクのメニューの中には、フレンチフライ、サーロイン、ブラックペッパーステーキ等の語があった。  毎朝、徒歩旅行を済ませると、私達はプリバハサの門に到着し、語学教師の下に投降した。プリの狭くて屋外にある教室は、それぞれにインドネシアの島の名前がつけられており、それぞれの島の写真と物産で飾られていた。がたがた音を立てている扇風機と白板が取り付けてあり、屋根の張り出しと粘土製タイルのひさしが灼熱を遮っていた。私達はここにバハサ、この国の公用語を学習しに来ていた。この言語は、もともとマレー半島とスマトラ島から発し、広く交易に用いられた国際語に由来している。  バハサは分類的には混生語である。容易に学べて、港とそこを訪れる舟の間で使用することを目的に作られた言語である。名詞、動詞には格、性、語形変化、活用が無いため、学習者は早い段階から簡単な文章を組み立てられるようになる。バハサのうちの単語の一部は、様々な意味範囲を持っている。例えば、パカイという語は、使う、着る、・・・と、などの意味で使うことができる。ハンマーをパカイすることもできるし、ブラウスをパカイすることもできるし、お茶を「パカイ砂糖」で飲むこともできる。バハサはまた、他の言語から単語をすぐに取り入れていく言語でもある。そこで、パスポル, スタトゥス, フレクスィベル,エフェクティヴ,エクスルスィブ,ノルマル,デモクラスィ,コンフィルマスィ,レヴォルスィ,トラディスィ, コルスィ,コルプスィ,ネポティスメなどの言葉がある。 (二〇〇三年三-四月の新聞にはレコンストラクスィ, トランスィスィ, アグレスィの語も見られた。)  私は迅速に言葉が上達するさまを思い描いて、授業を受けることを心待ちにしていた。もちろん幻滅を感じるではあろうことも予測はしていたが。新しい単語を覚えようとして長い時間を費やした。友達を空港に迎えに行く時は、メンジャムプトだっけ、メンジェムプトだったっけ、それともメンジェムパト……. ジャムがあってそれからパトかプト?それにどうして皆飛行機をペサワットと言うの? 授業を受けてみて再び私が気づいたのは、単語は物体ではないということであった。林檎という語を齧ったり投げたりすることはできない。何度も繰り返して使ってみるうちに、林檎という単語は次第に架空の香りと形を持つようになっていくのだ。   プリでは、ふとしたことから教えられることがあった。世界中のかなり多くの人々が複数の言語を話し、我々アメリカ人は鈍感な単一言語主義で知られることを思い知らされた。教師たちはジャワ語(あるいはバリ語)とバハサの両方を話し、英語もかなりうまかった。私達の出合ったヨーロッパ人は英語を流暢に話した。オランダ人は私達と話す時だけでなく、ドイツ人の少女と話す時、また教師に質問する時にも英語を使っていた。この点に関して一番お粗末なのは私達だった。イラクの非武装化に期限を設けるか否かという点に関し、イギリスとアメリカ合衆国側、フランス、ドイツ、ロシア側の国連安全保障理事会での対立が激しくなってきた時、ヒューと私は休み時間には教室にとどまって、旅行警告の勧める「低姿勢」を保ちながら 他の人々と低い声でおしゃべりをした。   個人的、また国家的な様々な意味において、謙遜と誇りが思いもかけずどっと襲ってくるのを私は感じた。私が注目したのは、表面下に湿った暑い空気を、背後に骨折りを隠して語られている言葉だった。明らかな嘘を録音放送に撒き散らすイラクの情報相ムハンマド・サイード・アル-サハフをテレビで見るのが私は嫌だった。カメラの前でスローガンを叫ぶジョージ・W・ブッシュやドナルド・ラムズフェルドを見るのは多分それ以上に不愉快だった。ブッシュは大衆の前で喋るために大した努力をしていたが、その努力とは、練習済みのフレーズに頼り切ることであった。これらの丸暗記の言葉は、呼び出しがかかるともつれながらから飛び出してくるようで、外国語で自分について語ろうとする生徒のような印象を与えた。「国連の役割は重要だ。」大統領、重要な役割とは、具体的には何を意味しますか?「だから言ったとおりだよ。重要な役割さ。」こういった発言がどのように感じられるか、私はまざまざと知った。彼を眺めることは実に堪らなかった。   が、大学に在学中か、既に卒業した息子を持つような年齢のアメリカ人旅行者がいつも謙虚でばかりいられるわけはない。授業に出、二十代でありながら母親じみたやさしさを持つ二人の教師に向かって子供のように(あるいは子供より下手くそに)話すことを思うと、時折ふと、私達のどちらか一人は気が重くなるのだった。実際、四月の初めに「抵抗地域」ウム・カスルとバスラにおける醜悪な驚きと、自軍への悲惨な誤爆事故が「昨日のイラク関連ニュース」となった後、プリバハサの教室で、私は疑い深く、暗く、弁解がましくなっていた。ジョクジャの通りを歩いている誰もが「ハロー、メエースター!」と挨拶するので訂正しながら「私はアメリカから来たんじゃない。フランスから来たんだ!」サヤティダクダリアメリカ、サヤダリプランシス!と叫び返すのだとフランス人が(早口のバハサで)説明するのに再び耳を傾けることができなかった。  「この間抜け!」と私は考えていたが、その言葉をバハサでなんと言おうかとは考えてみなかった。この時の私は、自分が反イラク戦争派のフランスとその個人的体現者を支持していることを忘れていた。  私がこの反駁の言葉を口にすることはなく、心中に飲み込んだ。そこで胡椒と煙の味がする自国語の味はなかなか消えることはなかった。     ジョクジャカルタは、ハムンク・ブウォノ十世という名のスルタンを戴くにふさわしく壮麗で、また大学街でもある人口四十五万人の都市である。周囲は水田で囲まれ、雄牛や水牛と働いている者もまだいる。路上では馬が簡単なつくりの乗り物を引いていたり、人がベチャ(輪タク)をこぐ姿を目にすることができる。こういった乗り物は、スピードを上げてとばすバイクの中を静かに進んでいく。バイクの運転はジョクジャでは特に荒っぽい。これは、皆大学生が運転しているからなのだと説明された。  気候があまり変化しないため、多くのインドネシア人は一年を通じ、車よりバイクに乗っていることが多い。それは、住居やレストランが、しっかりと壁で覆われていなくとも構わないのと同じである。私たちが結局借りることになった大学関係者用住宅は、広々としていて、もともとノルウェーの交換留学生のために建てられたものだった。この建物には壁がないのだが、それと気づくのに何日かかかった。主室には重たげな勉強机と、七人のノルウェー人がついたとしても充分に大きい丸い木製の食卓が置かれていた。この部屋は、背の高い窓の広々とした空間から明かりを採り入れており、窓は白くて蜂の巣状の格子と蚊避けのネットで覆われていた。が、家の背面の窓にはガラスが入っていなかった。  このような様子なので、ジョクジャを訪れたアメリカ人らは、室内にいても何だか屋外にいるように感じ、屋外にいれば、さらにもっと外にいるのだという印象を受けている。仕事をするにせよ、食事をするにせよ、あるいは人との交流を持つにせよ、人目に、またアスファルトに晒されているような感じが強い。路上では、曲芸並みの運転は何も珍しいものではない。すんでのところで事故を起こさない様子にははらはらさせられた。コンピューターを膝の上に載せた者、長い巻いた絨毯を腕に抱えた者、沢山の鳩を入れた木箱を背中にしっかり括りつけた者、細い手足でまるで騎手のようにしっかりと捉まっている天真爛漫な子供を運ぶ者などがいる。幼子の母親は夫に身を寄せてバイクに乗り、首から肩へと吊るしたスルダンと言われる布製の紐で子供を支えている。合流地点にたどり着くまでに止まろうとする者はいない。合流は多分大丈夫だろうと信じることによって成り立っている円滑な動きである。事故は起っている。東南アジア地域のバイク関連の事故は、この地域の経済発展に対する障害物の一つであるとジャカルタポストは報じている。  私は人類学の教授にこう訊ねたことがある。儀礼におけるマナーの素晴らしさで知られるジャワ人が、向こう見ずなバイク運転者で溢れた都市を作り出してしまうことがどうして可能なんでしょう?彼は答えた。「ああ、それは簡単ですよ。道というのは国境地域ですからね。」  中産階級のアメリカ人を危害から守るために作られた、物理的な防御のための法的、規制的なネットワークは、インドネシアには再現されなかった。通常は費用が嵩みすぎ、輸入した場合、あまりにも奇妙なものになってしまうからである。ジョクジャから見る限り、アメリカ人は国内外からの脅威に危険な状態で晒されているようには思えない。それどころか、シートベルトをし、チャイルドシートを設け、安全なヘルメットをかぶり、塩素で消毒され、保険を掛け、厳重に武装し、海上を防衛し、恐ろしく安全だ。  私達がインドネシアを訪れることで蒙る危険は、インドネシア人たちがうまく出し抜いている日常的な危険に比べれば小さなものである。私たち自身は、インドネシアの論理、熱気、活気、実情に自らを充分晒すことができるということだ。毎朝、ジョクジャの街並みがいつもの賑わいをみせる中で外出すると、合衆国国務省の撮ったインドネシア群島のスナップ写真は国務省特製のレンズでかなりの高所から撮ったものだということがわかる。テロリストの脅威、地獄、それでは十番バスは?  このように感じていたので、路上を歩く時、私はほんの小さなことでも観察することを喜んだ。これは多分、一時的な滞在者としての適応能力が向上し、その結果安全性も高まっていると感じさせてくれるからだったのかもしれない。ジャランコロンボの路上では、ベンジン(ガソリン)の蓋付壜が売られていた。キャンパス内で手押し車の上で売られているそれと同じような形の壜は琥珀色の液体で満たされ、バナナの葉の小片で栓をされていた。この違いを見分けられるようになったが、このことが私は妙に嬉しかった。そこで私はキャンパスに出向くと顔に傷のある男からこの濃い色の液体を買い、ビニール袋にあけてストローで飲んだ。いったい何を飲み干しているのか見当がつかなかったが(砂糖味のタマリンドジュースかココナツの花のシロップから作ったグラジャワだろう)、「これはガソリンじゃないわ!」と言うことはできた。  夫と私は、ジョクジャにおいていつも安心ばかり求めているわけではなかった。時折、非常に慎重にではあるが、私達はトラブルを求めた。四月十日の旅行警告は、インドネシアのアメリカ人に「暴力行為に発展する恐れのある政治的なデモを避けよ。」と命じていた。私達の家からは、ガジャマダ大学のキャンパスの音が耳に入った。同大学内のロータリーは抗議行動を起こす人々の恰好の舞台だと聞かされていたため、私達は耳を澄ましていた。ある朝早く、私達は拡声器から流れる怒った声を聞いたが、その意味はわからなかった。ヒューは警告を重んじて大学内のオフィスまで迂回した道を通っていった。後になって、この時の群集は、北部における茶農園に対する大学の所有権に抗議するためにバスで訪れたスマランの住民であることを知った。彼らは土地の返還を要求していた。これは国内の紛争であり、アメリカの対外政策とは関わりがなかった。それからまた二、三週間の後、私達は再び拡声器の声を聞いた。その日は三月二十三日、日曜日の朝で、アメリカのイラク爆撃が開始されてからわずか後であった。私達は見に行くことに決めた。ドアから一歩を踏み出した時、その日は特に長くて白く見える自分の脚を見て動揺を感じた。前方に進んで行くと、キャンパスの芝生の傍に人と駐車された乗り物の一群があった。空には風船が漂っていた。   私達は人ごみに向かってジャランカリウランを横切った。歩を進めていくと、ロータリーに向かう大通りにワルンやCD、木製パズル、ヘラとフォーク、棘の立った果物の売り子が列をなしているのが見えた。子供が沢山おり、芝生の上では曲芸が演じられていた。シャボン玉売りは、私達に二組のセットを売ったが、それは、1)液状石鹸を入れた使用済み三十五ミリフィルム入れ、2)端の部分を糸で巻いてカーブさせ、ループ状にしたストローで成り立っていた。これは、ガジャマダ大学の日曜早朝蚤の市だったのである。拡声器は、ブーム!という口中清涼ミントを売る会社をスポンサーとしているロックバンドのものだった。お揃いのTシャツを着たインドネシア人の若い女性がただのミントを差し出した。私はミントを差し出した二人目の少女からそれを受け取った。一人目の少女は私に手を差し出すと目を見開いたので、私は脇に飛び跳ねてしまった。これは「(私が)置かれている周囲の環境に厳しく注意を払うこと。」という警告を意識した結果なのである。  次の週になると、インドネシア人たちは、イラク人死傷者のぞっとするような写真をテレビ放送で眼にするようになった。こういった写真は、バグダッドへのミサイル攻撃が終了した後も、四月、五月を通じて放映されていた。メトロTVは、スハルト政権の崩壊後に認可を受けた民間の二十四時間ジャカルタニュース放送局である。この局が繰り返し放映していたフィルムモンタージュは、負傷したイラク市民の映像に、インドネシア人の少女がインドネシア語で、四肢を失ってどうやって生きていくのかと、手足を失った若いイラク人に向かって歌いかける映像が重ね合わされたものであった。  こういったメッセージには聞き手がついた。空港の雑誌販売店で、イスラム教徒の女性(頭にかぶっていたジルバブでわかる)は私を見つけると、どこからきたのかと訪ねた。私が「アメリカ」と答えると、彼女はジェスチャーを交えながら、アメリカの爆弾で腕を吹き飛ばされた小さなイラク人の少年を見た時、自分は泣いてしまったのだと、バハサで強く訴えた。涙が止まらなかったのよ、と彼女は指で涙が頬を伝う様を示し、私をじっと見つめた。私の国に対するこういった批判者に対して、対峙し、評価し、その存在を認めようとするつもりでいた。が、この正々堂々たる出会いに出くわすや、私は弁解的な反駁をバハサで創り出していた。イブ、アンダセディジュハウントゥクオランーオランマティディアチェ、ティモール、ダンパプアダリTNI? メンガパ?オランーオランイトゥティダクディTVクマリン?「イブ、あなたはインドネシア軍に攻撃されたアチェー、東ティモール、パプアニューギニアの死者についても悲しんでいるの?どうして?この人たちは昨日のテレビには出てこなかったから?」  インドネシア人の抱いていた(そしてもちろん抱き続けていくであろう)一般的な感情は、アメリカのイラク侵攻に対して強く反対するというものであった。ジャワ人の礼儀正しい語学教師の一人は、彼女もまたジルバブをかぶっていたが、当時広まっていたジョークで、ヒトラーの魂がジョージ・W・ブッシュに入ったのではないか、と言ったような類のものを説明しようとしてくれた。ジョクジャカルタのイスラム原理主義者にインタビューを行なったガジャマダ大学の宗教学専攻の大学院生は、以下のように語った。原理主義者たちは、イラクにおける行動を、彼等の宗教的同胞に対する世界的な陰謀の一つに数えられる侵略行為のリストに付け加えようとしている。そこで、パキスタン、チェチェン、アフガニスタン、ボスニア、パレスティナ、また近い所ではインドネシア人同士のキリスト教徒とイスラム教徒の衝突が致命的に激しいスラウェシ島中央部、モルッカ諸島(特にアンボン島)に関する記録と共に、イラクにおけるイスラム教徒の犠牲者についての記録が残され、インターネット上に記事として掲載される。 […]

Issue 6

เดินย่องในย็อกยา

          ประกาศเตือนการเดินทาง-ประเทศอินโดนีเซีย  กระทรวงการต่างประเทศสหรัฐอเมริกา วันที่ 10  เมษายน 2546 ประกาศเตือนการเดินทางฉบับนี้ออกมาเพื่อเตือนพลเมืองสหรัฐอเมริกาเกี่ยวกับการคุกคามต่อสวัสดิภาพในประเทศอินโดนีเซียที่กำลังดำเนินอยู่ในขณะนี้ … เนื่องจากที่ทำการของสหรัฐอเมริกามีการเพิ่มมาตรการรักษาความปลอดภัยยิ่งขึ้น  ผู้ก่อการร้ายจะหันไปหาเป้าหมายที่ง่ายต่อการโจมตีขึ้น  ซึ่งอาจจะรวมถึงสถานที่ต่าง ๆ ที่เป็นที่รู้กันว่าเป็นที่ที่ชาวอเมริกันพักพิง ชุมนุม และไปเยี่ยมชม โดยเฉพาะอย่างยิ่ง ตามโรงแรม สถานเริงรมย์ ภัตตาคาร สถานที่ทางศาสนา โรงเรียน หรือกิจกรรมนันทนาการกลางแจ้ง … ชาวอเมริกันที่เดินทางหรือพักพิงอยู่ในประเทศอินโดนีเซีย ทั้ง ๆ ที่ทราบถึงคำประกาศเตือนควรอย่าพยายามไม่ทำตัวโดดเด่น   ควรจัดเวลาและเส้นทางในการเดินทางให้มีความแตกต่างกันออกไปในแต่ละครั้ง  และขอให้ตื่นตัวเต็มที่ตลอดเวลาเกี่ยวกับสิ่งของและผู้คนรอบตัว… มีความเป็นไปได้ว่าจะเกิดความรุนแรงและไม่สงบ ซึ่งอาจจะปะทุขึ้นได้โดยแทบไม่รู้ตัว อันตรายซึ่งรวมถึงการก่อการร้ายที่อาจเกิดขึ้นซึ่งมีอยู่ในภูมิภาคต่าง ๆ ของอินโดนีเซียเช่น กรุงจาการ์ตา ย็อกยาการ์ตา สุราบายา กะลิมันตัน และสุลาเวสี ฉันและสามีบินไปเกาะชวาทั้ง […]

Issue 6

มิตรภาพ จินตนาการที่ถูกแทรกแซง และความเคร่งศาสนาในชวา และที่อื่น ๆ

         แล้วพบกันใหม่  ผมเดินทางไป ๆ มา ๆ ยังประเทศอินโดนีเซียตลอดระยะเวลา 20 ปีที่ผ่านมา และตลอด12 ปี ในช่วงเวลาดังกล่าวได้ศึกษาวิจัยในสาขามนุษยวิทยาทางวัฒนธรรมในเมืองย็อกยาการ์ตาบนเกาะชวา   ผมกลับมาที่นี่อีกครั้งในฤดูร้อน ค.ศ.2002 เพื่อนเก่าผู้หนึ่งที่ผมคุ้นเคยเป็นอย่างดีในฐานะเพื่อนร่วมงาน และเพื่อนที่รู้จักเป็นส่วนตัวได้แวะมาเยี่ยมบ้านทางตอนใต้ของเมืองย็อกยาที่ผมและครอบครัวพำนักอยู่ มาส ยาร์โต ซึ่งเป็นเจ้าหน้าที่สำนักงานที่ดูแลรายชื่อผู้ได้รับเบี้ยเลี้ยงให้กับโครงการวิจัยหนึ่งที่เชื่อมโยงกับมหาวิทยาลัยแห่งหนึ่งในย็อกยา เคยช่วยวิเคราะห์ข้อมูลให้กับโครงการวิจัยในลักษณะคล้ายคลึงกันในสมัยที่ผมได้พบเขาครั้งแรกเมื่อ  20 ปีก่อน ตอนนั้นผมเป็นนักศึกษาระดับปริญญาเอกเดินทางมากับภรรยาของผม ซึ่งเป็นนักศึกษาระดับปริญญาเอกเช่นกัน เราทั้งสองกำลังวิจัยเพื่อทำวิทยานิพนธ์ระดับปริญญาเอกในสาขามานุษยวิทยาทางวัฒนธรรมในเมืองย็อกยาแห่งนี้ ในคราวนี้เมื่อผมกลับมา มาส ยาร์โต และผมทักทายกันอย่างกระตือรือร้นด้วยการจับมือ และหอมแก้ม หลังจากที่มาส ยาร์โต ถอดรองเท้าออกแล้ว เขาก็เดินผ่านเข้ามาในห้องเล็ก ๆ ทางด้านหน้าของบ้านที่เปิดออกสู่ห้องรับแขกที่มีขนาดกว้างขวาง ห้องรับแขกนี้มีพัดลมติดเพดาน และตกแต่งด้วยวัตถุโบราณของชวา สิ่งทอ และศิลปะสมัยใหม่ของอินโดนีเซีย ในมุมหนึ่งของห้องที่มีพื้นเป็นหินอ่อนนี้ มีรูปภาพสีน้ำที่งดงามภาพหนึ่งแขวนอยู่ ภาพนี้เป็นภาพของบุรุษนายหนึ่งที่ชาวอินโดนีเซียส่วนใหญ่เห็นว่าเป็นบุคคลที่ยิ่งใหญ่บุคคลที่อยู่ในเสื้อแขนสั้น และสวมหมวกสีดำที่ชินตา คือ ซูการ์โน ประธานาธิบดีคนแรกของอินโดนีเซีย ในท่ามกลางวัตถุต่าง ๆ ที่ชวนให้ระลึกถึงบรรยากาศแห่งความเป็นสมัยใหม่เหล่านี้ ในขณะที่พัดลมหมุนไปมาอยู่บนเพดานให้เสียงชวนฟัง ผมและเพื่อนชาวอินโดนีเซียก็สูบบุหรี่สำราญกับควันที่อบอวลไปด้วยมิตรภาพ ไม่นานนักบทสนทนาของเราทั้งสองก็วกไปที่เหตุการณ์ 9/11 ดวงตาของมาส ยาร์โต ดูเหมือนจะเพ่งทะลุม่านบาง ๆ จากควันกานพลูหอมกรุ่นเขาเสนอทฤษฎี และคำถามที่เกี่ยวกับเหตุการณ์โศกนาฎกรรมครั้งนั้น เขาจ้องตรงมาที่ตาของผม ขณะที่ถามว่า “เป็นเรื่องจริงหรือไม่ที่คนยิวนับพัน ๆ คนที่ทำงานที่ตึกเวิรลด์ เทรด เซ็นเตอร์ รู้ล่วงหน้าแล้วว่าจะเกิดอะไรขึ้น และไม่มาทำงานในวันนั้น” จึงไม่ต้องเผชิญกับความวุ่นวาย การบาดเจ็บ และล้มตาย คำถามที่มีคำตอบอยู่ในตัวนี้นำไปสู่ข้อสรุปที่ว่า “พวกยิวเป็นพวกที่ขับเครื่องบินชนตึก” ในขณะนั้นเอง เราได้ยินเสียงบ่งบอกถึงเวลาสวดมนต์เย็นที่เริ่มดังก้องไปทั่วเมือง  แล้ว มาส ยาร์โต ซึ่งกำลังทำทีประหนึ่งว่าข้อสรุปที่เขาเสนอมาสักครู่นั้นเป็นเรื่องที่น่าแปลกใจ ก็ขอตัวอย่างสุภาพออกไปล้างมือ ล้างเท้า ล้างหน้า และเลี่ยงออกไปสวดมนต์ในมุมหนึ่งของห้องนี้ ในขณะที่ผมก็สูบบุหรี่ต่อไปในความเงียบงัน เช่นเดียวกันกับ มาร์ค เพิร์ลแมน ที่กลับมาที่โซโล ซึ่งเป็นอดีตเมืองราชสำนักอีกเมืองหนึ่ง ซึ่งอยู่ทางตะวันออกของย็อกยา ในปี คศ.1997 ผมรู้สึกว่า “ผู้คนที่นี่มีความเสื่อมใสและเคร่งครัดในศาสนามากยิ่งขึ้น”อย่างเห็นได้ชัดเจน (เพิร์ลแมน [Perlman]1999, 11) ตลอดเวลาที่เราได้รู้จักกันมา ครั้งเดียวที่มาส บาร์โต สวดมนต์ต่อหน้าผม คือ ตอนที่เขาอยู่กับเจ้าหน้าที่อีกคนหนึ่งในห้องเล็ก ๆในสำนักงานที่จัดไว้ให้เป็นห้องสวดมนต์ ผมเคยไปพักค้างคืนที่บ้านของเขาหลายครั้งหลายหน และเราใช้เวลาช่วงบ่ายหลังเลิกงานด้วยกันขี่มอเตอร์ไซด์ของเขาตระเวนเที่ยวทั่วเมืองบ้าง ดูภาพยนตร์บ้างเป็นครั้งเป็นคราว และเยี่ยมชมสถานที่สำคัญ ๆ ร้านขายอาหารแผงลอย และสถานที่อื่น ๆ ทั้งใน และรอบ ๆ ย็อกยาที่มาส ยาร์โต เห็นว่าผมควรจะรู้จัก บทสนทนาของเราในวันเก่า ๆ นั้น ส่วนมากว่าด้วยการเมือง วัฒนธรรม วัฒนธรรมชวา และการรักษาแผนโบราณที่ผมสนใจในขณะนั้น แม้ว่าเขาพำนักอยู่ในเมืองเล็ก ๆ ทางใต้ของย็อกยา ซึ่งเป็นที่ฝังศพของอดีตผู้นำและครอบครัวที่เคยปกครองเมืองโซโล และย็อกยาซึ่งเป็นเมืองราชสำนักเก่า (สำหรับชาวอินโดนีเซียแล้ว จะถือว่าหลุมผังศพเป็นสถานที่ที่ศักดิ์สิทธิ์และมีพลังลึกลับ) แต่เราก็ไม่เคยพูดถึงความหลากหลายทางศาสนาของชวา หากจะพูดถึงบ้างก็มีแต่เรื่องของการใช้ความลึกลับทางศาสนาของชาวชวาในการบำบัดรักษา เท่าที่ผมจำได้ ศาสนาอิสลาม และศาสนาคริสต์ไม่เคยเป็นหัวข้อการสนทนาของเราเลย ในช่วงแรก ๆ ที่เรารู้จักกัน ผมพบว่า มาส ยาร์โต เป็นคนที่มีความเป็นสมัยใหม่ เขานิยมซูการ์โน และไม่ไว้วางใจแนวทางของซูฮาร์โตที่ว่าด้วยการสร้างระบบใหม่ เขาสนใจวิทยาศาสตร์ แม้จะเป็นแบบที่เจ้าหน้าที่ตรวจสอบข้อมูลระดับล่างเช่นเขาจะเข้าใจได้ และเขาก็ผูกมิตรกับผมซึ่งมาจากประเทศ ซึ่งในขณะนั้นเป็นตัวแทนของทุกอย่างที่ทันสมัยตั้งแต่เทคโนโลยีจนถึงเพศสัมพันธ์ บ่ายวันหนึ่งเราสองคนและเพื่อน ๆ จากที่ทำงานไปดูภาพยนตร์เรื่อง JFK ของโอลิเวอร์ สโตน ด้วยกัน ตอนที่เควิน คอสต์เนอร์ดารานำเริ่มเล่าว่า แผนการสมคบคิดที่เขาเสนอนั้นนำไปสู่เหตุการณ์การลอบสังหารประธานาธิบดีจอห์น เอฟ เคนเนดี้ได้อย่างไร ผมสังเกตเห็นว่าดวงตาของมาส ยาร์โต เอ่อไปด้วยน้ำตา หลังจากจบภาพยนตร์ ยาร์โตและเพื่อน ๆ เห็นพ้องว่า จอห์น เอฟ เคนเนดี้ และซูการ์โน มีลักษณะหลาย ๆ อย่างคล้ายกัน และสิ่งที่เกิดขึ้นกับเคนเนดี้ในภาพยนตร์ก็เกิดขึ้นกับซูการ์โนเช่นกัน นอกจากเรื่องทฤษฎีสมคบคิดแล้ว ก็มีเรื่องของการวิพากษ์รัฐชาติสมัยใหม่ และเจตน์จำนงของรัฐบาลที่เราสนใจร่วมกัน   หัวข้อเหล่านี้เป็นเรื่องราวเกี่ยวกับความเป็นสมัยใหม่ที่ดุเดือดเอาการทีเดียว คราวนี้ในปี คศ.2002 เราหวนกลับมาถกประเด็นทฤษฎีสมคบคิดกันอีกครั้ง ในท่ามกลางเสียงเรียกให้สวดมนต์เย็นที่ดังก้องไปทั่ว มาส ยาร์โต เสนอข้อโต้แย้งของเขาทีละประโยค ๆ อย่างมั่นใจ โดยความคิดเหล่านี้มีรากฐานจากขนบที่เชื่อว่ามีผู้สมคบคิด และผู้ก่อการอยู่เบื้องหลัง  ในทุก ๆ ฉากของประวัติศาสตร์ ทุก ๆ ย่างก้าวที่นำไปสู่ความเปลี่ยนแปลง และเหตุการณ์ที่เกิดขึ้นโดยไม่รู้เนื้อรู้ตัว  ตั้งแต่วิกฤตการณ์ทางการเมืองและเศรษฐกิจที่เริ่มต้นขึ้นใน ค.ศ.1997 ตามมาด้วย การล่มสลายของรัฐบาลที่มีซูฮาร์โตเป็นผู้นำ การลุกฮือขึ้นมาต่อสู้อย่างรุนแรงในส่วนต่าง ๆ ของหมู่เกาะอินโดนีเซียการประท้วงของนักศึกษา ขบวนการปฏิรูปที่มีชื่อว่า Reformasi เรื่องฉาวโฉ่ที่เกี่ยวกับธนาคาร การฆ่าหมอผีที่เล่นคุณไสย การข่มขืนสตรีเชื้อสายจีนและที่มีเลือดผสมระหว่างจีนและอินโดนีเซีย   และขบวนการล่าหัวมนุษย์ใหม่ในหมู่เกาะรอบนอก ไปจนถึงการเมืองของรัฐบาลทั้งเรื่องใหญ่และเรื่องเล็ก เหตุการณ์ต่าง ๆ เหล่านี้ หนังสือพิมพ์และนิตยสารต่าง ๆ ยืนยัน และประโคมข่าวว่ามีคนอยู่เบื้องหลังทั้งสิ้น ด้วยความที่เราเป็นเพื่อนกันมาเป็นเวลายาวนาน และผมรู้สึกว่า มาส ยาร์โต มีความเป็นคนสมัยใหม่ ผมจึงอธิบายให้เขาฟังอย่างมุ่งมั่นว่าข้อสรุปเช่นนี้ไร้สาระเป็นอย่างยิ่ง ผมกล่าวอย่างไม่ลังเล (และไม่ได้คิดเลยด้วยซ้ำไป) ว่ามีหลักฐานที่ชัดเจน ซึ่งยืนยันว่าสมาชิกขบวนการอัลเคด้าของโอสะมา บิน ลาเดน เป็นผู้วางแผนอยู่เบื้องหลัง และเป็นผู้ดำเนินการโจมตี ตลอดช่วงฤดูร้อน ผมรู้สึกได้อย่างชัดเจนมากขึ้นว่าผลกระทบของเหตุการณ์ เช่น 9/11 ที่แผ่กระจายไปทั่วโลก ได้เขามามีบทบาทในความสัมพันธ์ของผมกับมาส ยาร์โต ตั้งแต่ที่ผมมาถึง เขาได้แสดงความสนใจอย่างล้นเหลือที่จะชวนเชิญให้ผมหันมาศึกษาประวัติศาสตร์ และลักษณะเฉพาะของศาสนาอิสลามในเกาะชวา เขาถึงกับกุลีกุจอจัดการนัดสัมภาษณ์ให้ผมได้พูดคุยกับผู้คนที่เขาและเพื่อน ๆ เของเขาในเมืองนี้เห็นว่าเป็นปราชญ์ทางศาสนาอิสลามที่รอบรู้ ครั้งหนึ่งผมได้พบกับบุคคลสำคัญในท้องถิ่นท่านหนึ่งที่ได้ศึกษาคำสอนและการปฏิบัติของศาสนาอิสลามด้วยตนเอง โดยการพบปะครั้งนี้จะมีขึ้นที่เมืองที่พำนักของ มาส ยาร์โต ซึ่งอยู่ทางใต้ของ ย็อกยาออกไปประมาณชั่วโมงครึ่ง มาส ยาร์โต ได้เชิญเพื่อน ๆ จากย็อกยาร่วมฟังการสัมภาษณ์ครั้งนี้ด้วย และเนื่องจากเราจะพบกันในตอนค่ำ มาส ยาร์โต จึงจัดการให้เพื่อน ๆ ของเขามารับผม และขับรถพาผมไปยังที่นัดผม ในขณะที่ผมรอพวกเรามารับ จู่ ๆ ผมก็นึกถึงภาพในหนังสือพิมพ์ของ เดเนียล  เพิร์ล ผู้สื่อข่าวที่ถูกฆ่าตาย ขณะถูกมัดอยู่กับพื้นศีรษะก้มต่ำ  ผมถูกกระชากเป็นกระจุกอยู่ในมือของผู้จับกุมที่ไม่ได้ปรากฏอยู่ในภาพ และมีปืนและมีดจ่ออยู่ที่ศีรษะ เป็นเรื่องที่น่าอายจริง ๆ ที่ผมจะต้องเล่าว่า ผมกลัวมากจนกระทั่งในระหว่างที่รอยู่นั้น ผมเดินกลับไปที่บ้านเพื่อบอกภรรยาของผมว่าหากผมไม่กลับมา ขอให้เธอเข้าใจว่าอาจมีอันตรายเกิดขึ้นกับผม ทั้ง มาส  ยาร์โต และผู้คนที่มีชีวิตอยู่ในบรรยากาศแห่งความขัดแย้งทางอัตลักษณ์ที่ถูกแทรกแซงอยู่ตลอดเวลา สามารถกลายเป็นคนที่กระทำการรุนแรงอย่างมากได้ “ความหลากหลายแห่งความเป็นจริงในรูปแบบต่าง ๆ” ที่ผมนำเข้ามาในจินตนาการของผม   ทำให้ผมประหวั่นพรั่นพรึงได้อย่างน่าประหลาดใจทีเดียว เท่าที่ผ่านมา ตลอดเวลาที่ผมอยู่ในประเทศอินโดนีเซียผมไม่เคยรู้สึกกลัวเช่นนี้มาก่อนเลย ยิ่งกว่านั้นความกลัวนี้เกี่ยวข้องกับบุคคลที่ผมถือว่าเป็นเพื่อน และญาติสนิทคนหนึ่ง เราทำงาน รับประทานอาหาร เดินทาง และสนุกด้วยกัน ผมส่งเสียให้ลูก ๆ ของเขาได้เรียน เขาให้ความช่วยเหลือในงานของภรรยาผม มิตรภาพที่ผมและเขามีต่อกันนั้นเหนียวแน่นพอ ๆ กับ ที่ผมมีให้เพื่อนคนอื่น ๆ ในประเทศอินโดนีเซีย  หรืออาจจะมั่นคงกว่ากับคนอื่น ๆ ก็ว่าได้ ความกลัวที่เกิดขึ้นนี้ ซึ่งที่จริงเป็นความรู้สึกที่ผูกกับเหตุการณ์อื่น ๆ ที่เกิดขึ้นในโลก ที่ผมประสบอยู่ขณะที่ผมก้าวเขาไปในรถตู้ขนาดเล็กที่มารับผมนั้นบั่นทอนความรู้สึกผูกพันทางใจในมิตรภาพของเราสองคน ที่แม้จะเป็นความผูกพันที่ยั่งยืน  แต่อันที่จริงก็กำลังพัฒนาและแปรเปลี่ยนไปอยู่ตลอดเวลา ในขณะนี้ผมนึกสงสัยขึ้นมาว่า ในเหตุการณ์นั้น ผมควรจะบอกให้ มาส ยาร์โต ทราบถึงความกลัวของผมก่อนที่ผมจะกลับบ้าน หรือไม่และสองปีให้หลัง (คศ.2004) เราพบกันสั้น ๆ อีกครั้งหนึ่งเราพบว่าเราไม่มีอะไรจะพูดกันสักเท่าไร แม้ว่า มาส ยาร์โต จะนำของที่ระลึกมาให้ผม ซึ่งดูเหมือนจะเป็นสัญลักษณ์แทนประเทศอินโดนีเซียในยุคปัจจุบัน (ทั้งนี้ โมต และรูเธอร์ฟอร์ด ที่ได้ศึกษาวัฒนธรรมของเกาะปาบัว ตั้งข้อสังเกตไว้ว่าในประเทศอินโดนีเซียในปัจจุบัน “การเสนอภาพความรุนแรง[และเรื่องราวอื่น]) ที่ผ่านการแทรกแซงของสื่อนั้น เป็นปัจจัยสำคัญที่กำหนดให้เหตุการณ์ต่าง ๆ เกิดขึ้น” (โมต และรูเธอร์ฟอร์ด [Mote and Rutherford] 2001, 117) มาส ยาร์โต นำหนังสือมาให้ผมหนึ่งเล่ม และแม้ว่าหนังสือเล่มนี้จะไม่ได้เป็นภาพของความรุนแรง ผมกลับรู้สึกเสมือนว่ามันรวบรวมการแปลความที่หลากหลาย การเขียนขึ้นใหม่ และความเป็นจริงเสมือนที่เข้ามามีอิทธิพลต่อจินตนาการของเราอย่างท่วมท้นในยุคนี้ หนังสือเล่มนั้น คือ งานตีความพระคัมภีร์อัลกุรอาน ของนักวิชาการตะวันตกที่ใช้ภาษาอังกฤษในการสื่อสารในฉบับแปลภาษาอินโดนีเซีย การแทรกแซง หลังจากวิกฤตการเมือง และเศรษฐกิจ ความขัดแย้งอย่างรุนแรงระหว่างปาเลสไตน์และอิสราเอล   เหตุการณ์ 9/11 และสงครามในประเทศอัฟกานิสถาน และอิรัก นานาประเทศตั้งความหวังไว้ประการหนึ่งกับประเทศอินโดนีเซีย ซึ่งมีประชากรที่เป็นมุสลิมจำนวนมากที่สุดในโลก ความหวังนั้น คือ ขอให้ประชาชนและการเมืองของประเทศคง “ความเป็นกลาง”ต่อไป เป็นที่เข้าใจกันดีในหมู่ ผู้ศึกษาประเทศอินโดนีเซียว่า ประวัติศาสตร์ที่หนักแน่นยาวนานของความใจกว้างยอมรับความแตกต่างและความยืดหยุ่นต่ออัตลักษณ์ และชีวิตทางสังคมที่พบได้ในผู้คนที่อยู่ในภูมิภาคนี้เป็นสิ่งที่ก่อให้เกิดการเมืองเชิงอัตลักษณ์ที่มีความเป็นกลาง  อันที่จริงผู้คนมักจะพูดถึงความใจกว้าง และความยืดหยุ่นของทัศนคติ และวิถีชีวิตว่าเป็นลักษณะเด่นทางวัฒนธรรมของเอเซียตะวันออกเฉียงใต้ และโดยเฉพาะอย่างยิ่งของหมู่เกาะอินโดนีเซีย ในการอธิบายให้เห็นลักษณะเด่นที่เป็นจุดยืนทางวัฒนธรรมของภูมิภาคนี้ โอ ดับเบิลยู โวลเตอร์ (O. W. Wolters)อ้างจากหลักฐานภาษาชวาในศตวรรษที่ 19 ชิ้นหนึ่งถึงลักษณะร่วมหนึ่งที่บุคคลจากสังคมและวัฒนธรรมต่าง ๆ พึงมีเหมือนกัน นั่นคือ คนที่เจริญแล้ว (wong praja) จะเป็นคนที่ยืนหยุ่น (lemesena) (1999, 161)  เบเนดิค แอนเดอร์สัน (Benedict Anderson) ตั้งข้อสังเกตไว้ว่า สำหรับชาวชวาแล้ว “เขาจะอดทนยอมรับแทบทุกอย่าง หากสิ่งเหล่านั้นสามารถนำมาปรับ หรืออธิบายให้เข้ากับวิถีชีวิตของชาวชวาได้” แต่กระนั้นเมื่อไม่นานมานี่เอง แอนเดอร์สันมองย้อนกลับไปในอดีต และชี้ให้เห็นว่า ขณะนี้ “ความใจกว้างของชาวชวา” ลดน้อยลงไป และสิ่งที่ปรากฏขึ้นให้เห็นในสังคมทั้งในเชิงสัญลักษณ์ และในเชิงรูปธรรมในหลาย ๆ กรณี คือ การก่อตัวขึ้นของ“กำแพงสูงใหญ่ที่ขวางกั้นไม่ให้กลุ่มคนที่แตกต่างกันมาพบกันได้” เหตุการณ์ต่าง ๆ ในประเทศอินโดนีเซีย ทั้งก่อนและหลังโศกนาฎกรรม 9/11 ชี้เป็นนัยให้เห็นว่า ความใจกว้าง และความสามารถของชาวชวาที่จะ “เปลี่ยนที่ไปมา” ในประเทศที่มีความหลากหลายทางวัฒนธรรมนี้กำลังถูกท้าท้ายอยู่ ยิ่งกว่านั้นแล้ว “ความเป็นพลเมืองที่ยืดหยุ่นและลื่นไหล” มาโดยตลอดที่ยอมรับทั้งศาสนาที่นับถือ และความเป็นบุคคลนั้นดูเหมือนว่ากำลังเปลี่ยนแปลงไปสู่การขาดความผ่อนปรนที่ปรากฏมากขึ้นจนกลายเป็นสิ่งที่เราเคยชินมากไปเสียแล้ว  ดังที่แอนเดอร์สัน (Anderson) แสดงความรู้สึกเศร้าสลดไว้เมื่อประมาณ 40 ปีก่อน และอีกครั้งเมื่อไม่นานมานี้ อิทธิพลต่าง ๆ จากเหตุการณ์ในโลก และการก่อตัวขึ้นของลัทธิชาตินิยมในหมู่ชาวชวา “เข้ามาคุกคามความหลากหลายทางศีลธรรมเดิม ๆ อย่างเห็นได้ชัด” และ “บั่นทอนความใจกว้างยอมรับความแตกต่างที่เป็นลักษณะเดิม ๆ ซึ่งโครงสร้างทางสังคมกำหนดให้ดำรงอยู่” (1996, 42) จากการสังเกตและการสนทนาทั้งอย่างใกล้ชิดและจากที่มองอยู่ห่าง ๆ ณ ที่นี้ผมต้องการศึกษาลักษณะการเปลี่ยนแปลงไปของอัตลักษณ์ในประเทศอินโดนีเซีย โดยเฉพาะอย่างยิ่งอัตลักษณ์ทางศาสนา ซึ่งสังเกตเห็นได้เมื่อเร็ว ๆ นี้ แม้ว่าปัญหาความขัดแย้งท้องถิ่นใน มาลุกุ กะลิมันตัน และสุลาเวสี ซึ่งเป็นความขัดแย้งทางชาติพันธุ์ ศาสนา การเมือง เศรษฐกิจ หรือหลายมิติรวมกันนั้นอาจเป็นตัวอย่างที่น่าเชื่อถือ ซึ่งจะแสดงให้เห็นถึงความใจกว้างยอมรับความแตกต่างที่ลดน้อยลง และการสร้างอัตลักษณ์ที่ไม่ยืดหยุ่นและตายตัวมากยิ่งขึ้น  แต่ในที่นี้ผมขอเลือกศึกษาจากบทสนทนากับมาส ยาร์โต เพื่อนเก่าของผมผู้นี้ และเพื่อนคนอื่น ๆ ระหว่างที่ผมเข้าไปเก็บข้อมูลที่ย็อกยาการ์ตา และบริเวณใกล้เคียง ใน คศ.2002 เป็นที่น่าสังเกตเป็นอย่างยิ่งที่ผมได้เผชิญหน้ากับ “ยิว” หรือ Yahudi เป็นครั้งแรกในภูมิภาคท้องถิ่นที่ผมคุ้นเคยนี้ เมื่อผมเริ่มให้ความสนใจมากขึ้น ผมเห็นได้อย่างชัดเจนว่าสัญญะซึ่งเป็นที่รู้จักกันทั่วโลกนั้นนอกจากจะมีความโดดเด่นในฐานะที่เป็นสัญญะพิเศษที่ช่วยในการตีความเพื่อทำความเข้าใจกับเหตุการณ์ 9/11 และเหตุการณ์อื่น ๆ ทั้งในและนอกประเทศอินโดนีเซียแล้ว   สัญญะนี้ยังอัดแน่นด้วยความหมายเชิงสัญลักษณ์อื่น ๆ อีกจำนวนมาก ซึ่งสะท้อนให้เห็นรูปแบบและการปฏิบัติทางสังคมที่เปลี่ยนแปลงไป รวมถึงทวิลักษณ์ในการสร้างอัตลักษณ์ในประเทศอินโดนีเซีย เมื่อพิจารณาจำนวนของชุมชนชาวยิวในประเทศอินโดนีเซียซึ่งมีอยู่น้อยมาก ก็น่าจะบอกได้ว่าความรู้ผ่านประสบการณ์ตรงเกี่ยวกับชาวยิวก็มีอยู่น้อยมากเช่นกันในหมู่ชาวอินโดนีเซีย นอกจากนั้นแล้ว ชาวยิวจำนวนน้อยนิดที่อยู่ในชุมชนเล็ก ๆ ที่สุราร์บายาไม่เคยเป็นเป้าของการวิพากษ์วิจารณ์หรือต้องประสบกับการแบ่งแยกสีผิวที่เพิ่งเกิดขึ้นในประเทศเมื่อไม่นานมานี้เลย เพื่อนบ้านชาวมุสลิมทักทายชาวยิวอย่างเป็นมิตรด้วยการกล่าวคำว่า “ซาโลม” อาหารของชาวยิวก็มาจากเนื้อที่พ่อค้าเนื้อฮาลาลชาวมุสลิมเป็นผู้ตระเตรียมให้ และในทศวรรษที่ผ่านมา ครอบครัวชาวมุสลิมรับหน้าที่ดูแลโบสถ์ยิวเล็ก ๆ ที่อยู่ในชุมชนนั้น การเปลี่ยนแปลงที่เกิดขึ้นในประเทศอินโดนีเซียนี้บอกเป็นนัยว่า สัญญะของ “ชาวยิว” ในประเทศอินโดนีเซียนั้นได้รับการตีความที่สอดคล้องกับเหตุการณ์อื่น ๆ และความกังวลในหมู่ชาวอินโดนีเซีย ตัวอย่างเช่น หลังจากการเลือกตั้งรัฐสภาของนายดับดูร์ราห์มัน วาห์ฮิด ประธานาธิบดีคนที่ 4 ของประเทศอินโดนีเซีย ชาวอินโดนีเซียเริ่มรู้สึกว่าความรุนแรงของอิสราเอลกับปาเลสไตน์เป็น “เรื่องของที่อื่นที่ถูกแทรกแซง” ในช่วงเวลานี้เองที่ “ยิว” ในฐานะที่เป็นสัญญะทางการเมืองได้เข้ามามีบทบาทในประเทศอินโดนีเซีย ผู้คนรับรู้สัญญะดังกล่าวที่ปรากฏอยู่ตามสื่อต่าง ๆ ว่า คือ ความเป็นจริง ซึ่งมีความหมายลึกซึ้งมากขึ้นเมื่ออยู่ในบริบทของสัญญะตัวอื่น ๆ ที่สื่อความให้เข้าใจถึงความเป็นจริงของเหตุการณ์ต่าง ๆ ได้พอ ๆกัน เฟลด์แมน (Feldman) (2000) อธิบายว่า การปรากฎให้เห็นของสัญญะเหล่านี้ในบริบททางการเมือง เป็น “ระบบในทางการมองเห็น”/”จักษุระบบ” โดยที่ในระบบนี้ “ความหลากหลาย” ของสิ่งที่เรียกว่า “ความเป็นจริงรูปแบบต่าง ๆ” เข้ามากำหนดความเข้าใจต่อเหตุการณ์ต่าง ๆ ของมนุษย์ (โปรดดู เฟลด์แมน [Feldman] 2000) ซีเกลตั้งข้อสังเกตว่า“คำว่า ‘ยิว’ ในประเทศอินโดนีเซียบ่งบอกถึงภัยคุมคาม” แต่เป็นภัยคุกคามที่ไม่มีรูปร่าง (2001, […]

Issue 6

ジャワあるいは他のどこかにおける友情、メディアに伝達された想像力、熱狂的信仰

         またお会いしましょう  この20年というもの、私はインドネシアをたびたび訪れてきた。そのうちの12年は、ジャワのジョクジャカルタにおいて、文化人類学者としての調査活動に携わってきた。2002年の夏、私は再びこの地を訪れ、ジョクジャの南区域にある家族と私の家には、仕事の上でも個人的にも付き合いのある、一人の旧友がやって来た。マス・ヤルトは、地元の大学のリサーチプロジェクトの給与支払い名簿を管理していたが、12年前に私が出会った時は、同じようなプロジェクトのデータ処理者をしていた。当時の私は、この非常にジャワ的な都市において文化人類学の博士論文のための調査を、やはり同じ身分であった私のパートナーと共に行なう大学院生であった。   彼が到着すると、私たちは握手と互いの頬をかぐことによって熱情を込めて挨拶を交わした。靴を脱ぐと、彼は狭い玄関の間に足を踏み入れた。この部屋の奥に続いているのは、ありがたいことに天井に扇風機が取り付けられ、ジャワのアンティーク、織物、インドネシアの現代美術によって念入りに飾りつけられた客間である。床が大理石でできたこの部屋の片隅には、その人物にふさわしい精巧な筆で描かれた、少なくともインドネシア人の目には非常に美しい人物画が飾られている。袖の短い服に見慣れた黒い帽子を被ったその絵は、インドネシアの初代大統領スカルノのパステル画である。扇風機は心地よく低いうなり声をたてて回り、現代の様々な瞬間の遺物に囲まれて、私たちはタバコに火をつけた。香りのよい一服は、私たちの友情と、男性同士の仲間意識をしっかりと強めてくれた。  話題が9月11日のことに移ってゆくまでに、それほどの時間はかからなかった。熟した丁子の香りのする煙のベールの向こうに、この悲劇的な出来事についての理論と疑問の両方を提起しようとするかのようなマス・ヤルトの鋭い眼差しが伺えた。私の瞳を覗き込みながら彼は尋ねたが、その語調にはかなりの確信が感じられた「ワールドトレードセンターで働いていた何千人ものヤフディ(ユダヤ人)が、前もって一日休みを取ろうと知っていたというのは本当かい?」そこで彼らは死と破壊行為と負傷を逃れた。表現を誇張した彼の質問は続いたが、もし知っていたとすれば、引き出される唯一の結論は「9.11の飛行機を飛ばしていたのはユダヤ人だ。」しかない。    ちょうどその時、夕方の祈りへの呼びかけが町中にこだました。マス・ヤルトは、礼儀正しく断りを入れると、手、足、顔を洗い、私がタバコを吸いながら静かに待っている間、部屋の片隅で祈りを捧げた。この行動は、彼の攻撃的な発言にエクスクラメーションマークを置くために意図されたジェスチャーのように思えた。1997年に、ジョクジャの東に位置する、宮廷が維持されているもう一方の街であるソロを再訪したマーク・パールマンと同じように、私はこの「各個人の熱狂的信仰の深まり」に衝撃を受けていた(Perlman 1999,11)。今までの付き合いの中で、マス・ヤルトが私の前で祈ったのは、オフィス内にしつらえられた日々の祈り用の小部屋で、他のスタッフと共に行なった一回きりであった。私は彼の家に何度か泊まったことがあるし、仕事が終わった後の午後の時間を、彼のバイクでゆっくり回ったり、映画を見たり、彼が訪れるべきだと考えているジョクジャ市内の遺跡、ワルン(飲食のための売店)などの場所を訪れたりして過ごしたものだ。  その頃の私達の主な話題は、政治、文化、ジャワ文化などであり、当時の私の興味の対象であったペンゴバタントラディスョナル(伝統医学)についてももちろん話し合った。ソロとジョクジャの宮廷の支配者とその家族が葬られている、ジョクジャの南にある小さな町に彼は住んでいる。この墓地は超自然的な意味で強い影響力があり(angker)神聖(keramat)だが、様々なジャワの宗教については、私達はほとんど話をしなかった。例外といえば、多分ジャワの神秘主義(kebathinan)の医学における役割の話くらいだった。イスラム教、また確かにキリスト教については、ディスカッションをした覚えがない。  我々の友情の初期のころ、マス・ヤルトは現代的な人間として印象付けられている。彼はスカルノ主義者であり、スハルトの新秩序には懐疑的であった。科学に携わり、ブルシーダタ(純正なデータ)のために雇われたあたかもオフィスの手先のようであった。当時の彼は、テクノロジーからフリーセックスまで、現代的なものを全て体現していた。ある日の午後、私達はいく人かの友達と映画を見に出かけた。それはオリバー・ストーンのJFKだった。主演スターのケヴィン・コスナーが、彼の考えによる陰謀の概略を述べ始めると、政変の中でのジョン・F・ケネディの暗殺のシーンが重なった。私はマス・ヤルトが涙するところを目にした。映画を見終わった後、彼と仲間たちはJFKとスカルノには沢山の共通点があるということで意見が一致していた。そしてケネディに起ったこと- 少なくとも映画の中で -がスカルノにも起ったというのである。陰謀のセオリーに対する一般的な関心はさておき、我々に共有の立脚点、つまり近代性に対する性急な意識を与えるのは近代的国民国家とその政府の意図に対する批判なのである。  さて2002年となり、我々は陰謀のセオリーについて再び討論を行なっていた。夕べの祈りへの誘いが空に響いたため中断された彼の議論が根拠としていたのは、歴史のあらゆる曲がり角と、変化や予測不可能な出来事への推進力の背後に、陰謀者と回し者がいると感じる伝統であった。1997年に端を発した政治、経済危機の後に以下のような動きが続いた。スハルトの失脚、インドネシア群島のいくつかの地域で起った暴動、学生デモと改革運動(reformasi)、銀行スキャンダル、信仰治療を行なう黒魔術師の殺害、華人、また華人―インドネシア人混血女性に対するレイプ、いわゆる奥地における人肉食と最近の首狩り、そしてもちろん議会における些細な、あるいはそれほど些細ではない政治問題。新聞、雑誌は、これら全ての裏側に、個人にせよ集団にせよ誰かがいるのだという一般の認識を刺激したり、うわさを裏書してみせようとした。  私たちの友情は長く続いていたものだったし、彼は近代的なものを理解する人間だと考えていたので、私はマス・ヤルトに向かって、そんな思いつきは不合理だとかなり決然と説明した。オサマ・ビン・ラディンのアルカイダの組織が計画の背後におり、攻撃を行なった証拠は明らかじゃないか、と私はためらいもなく(あるいは考えもせず)言った。  夏が過ぎていくにつれ、マス・ヤルトとの友情が、世界的に現れつつある感情のパターンから影響を受けていると次第に感じるようになっていた。私が到着してからというもの、私の学問的関心をジャワのイスラム教の固有の歴史と性格に導こうとすることに、彼は非常な関心を見せていた。自分とまた彼の小さな街の人々が博学なイスラム学者であると認めている人々とのインタビューを、彼は積極的にアレンジしてくれた。イスラム教の学識と実践を独学し、地域では著名な人物と会見することになった。その人物は、ジョクジャカルタから三十分ほど南に行った所にある、マス・ヤルトの住んでいる街に居を構えていた。彼は、この「インタビュー」に参加するようにと、ジョクジャに住む他の友人も招いていた。会談の予定は夕方に入っていたため、この友人たちが私を車で連れて行ってくれるのは、理にかなったことであった。彼らが到着するのを待っている間、処刑されたレポーター、ダニエル・パールの新聞に載った写真が突然頭に浮かんだ。彼は、縛られ椅子に座り、頭をたれていた。舞台裏で動いている捕獲者に髪を摑まれており、頭に銃とナイフを突きつけられていた。待っている間に自分でも困惑するほど恐怖に襲われてしまい、もし私が帰ってこなかったら気をもむだろうかとパートナーに告げるために家の中にいったん戻ったほどだった。マス・ヤルト - そしてメディアに伝達されたアイデンティティーの政治における私たちの存在は極度に暴力的になった。「現実解釈の可能性の複数性」は私の想像力の働きと一緒になって、驚くべき恐れを私にもたらした。   インドネシアで過ごした日々を通じて、私はこんな風に恐怖を感じたことはなかった。その上、私がこのように考え込んでしまったのは、友人や親族と呼べるような存在に対してであったのである。私達は共に働き、食事をし、遊んだ。私は彼の子供たちの勉強をみてやったこともあるし、彼は私のパートナーの仕事を助けてくれた。私たちの関係は、私がインドネシアで作り上げてきた他の様々な関係と同じく、いやそれ以上に相当なものがあったと思う。ミニバンに乗り込む時に私が感じた恐怖は、世界的な出来事と構造的なつながりを持っていた。この感情は、長く続いてきた、または常に進行形で作られつつある私たちの関係にとっての感情的責任に違背した。その晩、帰宅する前にこの恐怖についてマス・ヤルトに語るべきだったのだろうか。2年後(2004年)に私達はたった一度、ほんの短い時間再会した。私達は互いに語ることが少ないことに気付いた。それでも彼は私に贈り物を持ってきていた。モート とルザフォードがパプアに関して観察した「マスメディアによって表現された暴力(とその他の事件)は、出来事を説明する際に決定的な要因となる。」という言葉のように、最近のインドネシアを象徴的に示すような贈り物だった。彼は私に一冊の本を送ってくれた。その本は暴力を体現してはいなかったが、最近のインドネシアにおいて、想像力に課せられた複数の言い換え、(再)命名、虚構の現実を捉えているように思えた。その本は、英語を話す西欧の学者によるコーランのスーラの章に関する解釈のインドネシア語訳であった。  メディアによる伝達    政治、経済危機、パレスティナにおける第2次インティファーダ、9.11の事件、アフガニスタンとイラクにおける戦争、これらの事件以後、世界最大のイスラム教徒人口を持つインドネシアにおいて、その国際コミュニティーが抱いた希望は、インドネシアの国民と政治が「中庸」を保つことであった。専門家であろうとなかろうと、インドネシアに対する観察者は、一般的に以下のように認めている。政治上のアイデンティティーが極端に走らない原因は、歴史を通じて一貫した寛容性と、そこに住む人々の個性と社会生活のあり方に柔軟性が保たれていることに見出される。この寛容性と、方針決定と経験の柔軟性は、島嶼部東南アジア、とりわけインドネシアの文化的特色であるとされている。O. W. ウォルタースは、この地域の「文化基盤」を分析しながら、社会的、文化的境界を越えて広く評価されていた人間の特質について、19世紀のジャワ語文献においては、洗練された人物(wong praja)が、柔軟性のある人物(lemesena)と表現されていることを引用している(1991,161)。ベン・アンダーソンは、特にジャワ人にとっては「もしジャワ的な生き方の中に適応させ、説明付けることができるなら、ほとんど全てのことが容認される。」と語っている。しかしながら、近年において、アンダーソンは過ぎ去った時を回顧しながら、この「ジャワ人の寛容性」が薄れつつあること、また比喩的にも、あるいは多くの場合現実的にも、「異なる社会的グループの間に近寄りがたい高い壁」という社会的建造物が登場しつつあることを指摘している(2002,3)。   9.11以前、以後のインドネシアにおける社会的事件は、この文化的に複合的な国家の持つ寛容性と「環境を変える」というジャワ人の能力が挑戦を受けていることを物語っているといってよいだろう(Beatty 2002)。特に、個人とその宗教的な所属に関して、長く続いてきたいわゆる「柔軟な市民性」が、世の中一般に見られるような非寛容な方向性に近づきつつあるように思われる。アンダーソンが40年ほど前、また近年嘆いたように、国家主義の世界的な重圧と振興は、ジャワ人の「旧来の道徳的な多様性を明らかに脅かし」、「構造的に条件付けられていた寛容を徐々に衰えさせている」といえよう。(1996,42)。インドネシアに新たに課せられてきたアイデンティティー、とりわけ宗教的なそれについて、私は身近な、あるいは遠方からの観察と会話からここに分析してみたいと考える。モルッカ、カリマンタン、スラウェシにおける地域紛争は、民族的、宗教的、政治的、経済的、あるいはそれらの組み合わせによって、多分様々に論じられており、非寛容で柔軟性を欠くアイデンティティーの形成を説明する説得的な例となることだろう。が、以下において私は、2002年にジョクジャカルタとその近郊におけるフィールドワーク中に、長年の友とその仲間たちと交わした会話について考えを進めてみたい。   注目すべきことに、慣れ親しんだジョクジャカルタの他の環境において、私は初めて「ユダヤ人」、あるいは「ヤフディ」に出会った。注意深くこのことを考えてみるにつれ、この世界的な兆候は、9.11や、インドネシアの内外で起っている事件を解釈するためのみに人目を惹いているわけではないことに気付いた。その他の記号的な重みが加えられているのであり、これらの重みは、インドネシアにおける社会的形態と習慣の変容、アイデンティティー形成の両極性を反映している。インドネシアにおけるユダヤ人コミュニティーの数は僅かなものなので、インドネシア人にとって自らの経験に根ざしたユダヤ人に関する知識は殆どないといってよいだろう。またその上、スラバヤのコミュニティーに僅かばかり残っているユダヤ人が、近年差別の対象とされたり攻撃を受けた例はない。イスラム教徒達は彼らに「シャローム」と挨拶を投げかけ、コウシャー(ユダヤ教徒にとっての基準を満たした食料を売る店)は、イスラム教徒のハラール(イスラム教の戒律に従ってさばいた食べ物)を売る肉屋から仕入れた肉を扱っている。また10年以上も、あるイスラム教徒の家族が小さなシナゴーグの管理人を務めている(Graham 2004を見よ)。このことから考えて、インドネシアにおける、ユダヤ人を表す符合として世界的に認識されているイメージはインドネシア人にとっての社会的事件や懸念事項と共鳴しあっているといえよう。  例を挙げて言えば、インドネシアの第4代大統領、アブラハム・ワヒドの議会制に基づく選挙の後、イスラエル人とパレスティナ解放主義者間の暴力行為は国内の「どこか他の場所でメディアに伝達された」と受け止められるようになった。この時、政治的な符号としてのヤフディが、現在のような受けとめられ方をするようになったのである。メディアの中で目にすることのできる彼等の姿は、生々しい現実として目撃され、人間の行なう事件の真実に対する平等な洞察を自称する、その他の様々な符号の可視的な背景の中でより深い意味づけを獲得していくのである。フェルドマン(2000)は、この政治化された可視性を「観察統治様式」と呼び、いわゆる「現実解釈の可能性の複数性」が事件に対する人々の理解を形作るようになると述べている(Feldman 2000参照)。シーゲルは、「インドネシアにおいて『ユダヤ人』という語は、脅威を示している」が、この脅威には形状がない。」という点に注目している(2001,302)。シーゲルによれば、ユダヤ人の宗教的なアイデンティティーは、「キリスト教徒のそれに吸収されている」例もいくらか見られる(同、272)。ハッサンは、「シオニスト兼キリスト教徒の陰謀のセオリー」への、同じような同化の例を観察している(2002,163)。このことをバリにおける爆破犯が念頭に置いていたことは明らかである。有罪を宣告された爆破犯のうちの一人、アムゾーリは、彼らを爆破に駆り立てたのは、ユダヤ人、アメリカ合衆国とその同盟者達に端を発し、世界中を覆っている道徳的退廃であった、と語っている。彼の考えによれば、この悪の枢軸による世俗の「けっこうな」暮らしぶりは、道徳的退廃を生むために宗教と競っているのである。そこで彼は、「白人を殺したことには誇りを感じるが、インドネシア人の犠牲者を出したことには悲しみを感じている。」   シーゲルは、「メディアの上のユダヤ人」と結び付けられている反ユダヤ人主義は、インドネシア国内でおこっているイスラム教徒とキリスト教徒のコミュニティー間の暴力行為に関するメディアの叙述を通じ、インドネシアの多様性を持った宗教に関わってくるような日常の中での政治に入り込んできていると主張している(2001,303)。リードは、東南アジアの歴史において、華人が「東洋のユダヤ人」として知られるようになるにつれおこった、ユダヤ人と華人の結びつけに関する史料を引用している(1997,55)。シロは、「ユダヤ人に譬えられることは、東南アジアの華人知識人からは歓迎されず」、ただ「イスラム教徒に敵意を抱かせる」事にのみ役立っていることに注目している(1997,5)。実際、既に人種主義的な符号として重い意味づけをなされているユダヤ人の世界的な符号は、インドネシア社会において華人の社会的アイデンティティーが既に「人種的カテゴリー」となっていることについて伝えている。その結果、インドネシアの華人の、華人として、インドネシア人として、あるいは他の標識を持ったアイデンティティーに関する社会的な理論は、予言を叶える役割を果たしている。これは、民族主義がどのように働くかの例であり、社会生活と差異に対する理解に何故有益かという理由である。   インドネシアのメディアによって伝えられている「ユダヤ人」の世界的な符号は、インドネシアのイスラム教徒の間に、イスラム教に混ぜ物が混入されつつあるのではないかという恐怖をたきつけている。こういった恐れの感情は、「血」に関する言説の中にしばしば見られる。2000年10月に、マレーシアにおいて、イスラエルのクリケットチームがマレーシアの土を踏むことに対する抗議運動が行なわれたが、このことはジャカルタにおけるデモに刺激を与えた。インドネシアの抗議者らは、イスラエルの国旗に血を浴びせかけ、「ユダヤ人の血が欲しい。」と要求した。ワヒド大統領の外相アルウィ・シハブは、議会において以下のように論じた。インドネシア軍の人員が占領の最終期に犯したとされる人権侵害と戦争犯罪の証言を聴取するため開かれようとしている東ティモール国際法廷の設立を妨げようと努力するつもりなら、インドネシアには「ユダヤ人のロビイスト」が必要である。何故「ユダヤ人のロビイスト」なのか?それは、アメリカ議会がユダヤ人にコントロールされており、合衆国国務長官のマデリーン・オルブライトは、ユダヤ人の血を引いているからである。  リードは、今日のインドネシアとマレーシアにおいては、「近代化の犯人リストに関する最も粗野な人種的公式化は、理論的な構成概念としてのみ知られている『ユダヤ人』マイノリティに対して行なわれている。」と嘆息している(1997,63)。「近代化の犯人リスト」についてさらに詳しく述べる中でリードは、インドネシア人のモデルニサスィ、ウェストゥニサスィ、グロバリサスィに対する魅了のされ方と嫌悪 - をインドネシア人がしばしば一つのものに合体する歴史的な過程と条件に注目している。スハルトの新秩序下においては、そのような合成が奨励された。プンバグナン(発展)は、土着の民主主義、階級的社会秩序、公正で豊かな社会の土台としての物品とサービスの流通、またインドネシア国家の礎と一括して扱われた。レフォルマスィは、スハルトの夢が馴れ合い、腐敗、縁者びいき(Kolusi, Korupsi, Nepotisme, KKN)に基づいていたことを暴露した。   しかし、夢とはそこから覚めることが困難なものである。そしてここに皮肉な成り行きが見られる。もう一人のバリの爆破犯、アリ・イムロンは、「インドネシア国家の息子としての我々の能力は誇るに値する。」と語っている。この発言は、1928年において、インドネシアの民族主義者の「覚醒」を布告した青年の誓いを仄めかしている。この国家的なアイデンティティーの覚醒は、その大志という意味では国民国家と同種の近代性の段階に入っている。スカルノの旧秩序と「指導される民主主義」の下で、国民国家であることは、成熟、発展(maju)した社会になるための記号的な進歩であった。が、しかし、スハルトの新秩序統治体制においては、ただ単に国民国家になるだけでは不十分であった。近代性の記号は、技術主義社会にふさわしく設計されており、プンバグナンの条件を技術的に発展させるものであるべきだった。30年間のプンバグナンスタイルの心的傾向は、インドネシア人に対して、深い心理的、社会的、文化的影響を与えた。その中でも著しいのは、自分たちの社会におけるものにせよ、他者の世界と比較してみたものにせよ、自己に対する見方に対する影響であった。それ故、イムロンの誇りの源泉が爆弾を作り他者に示す能力と、途上国の貧しい村の若者が、アメリカやオーストラリアなどの先進国に打撃を加える能力であったことは驚くに足りない。2002年10月にクタビーチにおいて使用した技術を彼は記者会見の中で見せびらかし、自分がアフガニスタンで爆弾製造を学んだと主張した。そして「我々のインドネシア人としての能力は誇るべきものだ。が、その能力は間違った目的に使用されている。」と語った。インドネシアの国家を技術面における刷新と結びつける考え方は、スハルトの新秩序下における開発主義、プンバグナンのイデオロギーの主要な推進力であった。   バリの爆破犯の声明の中を勢いよく流れる開発主義は、新秩序体制政治の経済、文化的成り行きを反映している。スハルトの統治期においては、トルイヨが「構造の変化と資本の空間化」(2001,128)と定義したグローバライゼーションが明らかにインドネシアにおいても起り、社会の殆どあらゆる階級によってなんらかの形で感じ取られていた、と語るのが正しいように思う。トルイヨは、グローバライゼーションをそれぞれがばらばらの過程であると述べたが、また以下のようにも表現している。人々と空間(例えばインドネシア)を「その中においては、諸国家の理想がさらに似かより、増えつつある過半数の人々が、理解したり認識したりすることができないようにする手段ですらあるような消費の網」に結びつける「消費品市場の世界的統一」(同書、同ページ)。市場とそのメディアティックス - 人間生活における市場に対するメディアのパフォーマンス -は、バリの爆破犯が憎みかつ愛した「けっこうな暮らし」への欲望を体現、また誇示している(同書、同ページ)。テレビ、ラジオ、印刷物などの一般的なメディアは、未だにアメリカ、日本、香港、インドなどの他者に大きく影響を受けている。消費品の消費によって達成される「けっこうな」暮らしの社会的架空性は、インドネシアを新しく訪れた者の目にも、以前そこで時を過ごしたことがある者の目にも明らかである。このことは、反アメリカ主義以前に、私が会ったり新たに知り合ったりした多くのインドネシア人によって映し出された、非常に目につく圧倒的なイメージであった。   マス・ヤルトがその日の夕方早くにとった姿勢は、ある意味で同種の感情を反映しているとも言えよう。私は彼の前に座り、台頭しつつある「観察統治様式」の中で異議を唱えたり、彼の説に従ったりした。この「観察統治様式」の中においては、多彩な真実が近年において歴史的に固定的な解釈をされているが、友人、同僚としての生命を持った我々の歴史を侵略している。お互いを眺めながら、私達は共にたくさんの「どこか」-「伝達されメディア化されたどこか」について考え込んでいたに違いない。スピアーは、特定の場所に住む人々の実際の歴史を説得力を持って伝達するような「イメージ、語彙、サウンドバイツ(ほんの短いメッセージ)、スローガンそして軌道の混乱」とその特性を描写している(2000,28)。このことはマス・ヤルトにとってもその通りなのだろうとは思う。おそらくは尋ねてみるべきだったのだろう。が、ある夕べに私の感じた恐怖には、私の平静を乱す効果があった。 熱狂的信仰  同じように、これらの「同時代的メディア風景」は、コミュニティーのイメージ形成、いやもっと正確には、今日のインドネシアにおけるコミュニティーのイメージ形成にもまた影響を与えている。それは、今日の大変に重要な時期を迎えたインドネシアにおける、あまりにも多くの出来事、イメージ、活動、連想の一点への収束である。内部の人間も外部の人間も、インドネシア人が、おびただしい数の言い方でアイデンティティーや意見について表現しなければならない、レフォルマスィの能力と自由の表裏に注目している。アイデンティティーに関して言えば、ゲリー・ヴァン・クリンケンは、現在では「インドネシアでは、以前には公然と聞かれることのなかったエスニシティーに関する排他的な言説が」登場している、と述べている(2002、68)。ユダヤ人の血を求めたり、血というものは宗教的所属に生来的に結び付けられているという解釈を行なうことは、時勢の憂慮すべき兆候だろう。シーゲルは、「華人」というカテゴリーは、一部のインドネシア人にとっては「人種的カテゴリー」(「肉体的な特徴の遺伝」を意味する)に属すると認めている。彼はまた、インドネシア人は一風変わった人種差別主義の感覚を持っているとも述べている(1998,83,85)。彼によれば、「ヨーロッパの人種差別主義者」と「インドネシアの人種差別主義者」は、体現と同化の捉え方に関して差異がある。前者にとっては、脅威を感じさせるような何かを体現する他者の持つ要素に「耐え難い」。それに対しインドネシア人にとっての華人は、彼らが「よりよいインドネシア人」になろうとしない場合に脅威となる(同書、85)。   が、最近では、一人の人間が体現する耐え難い要素という概念は、民族的、宗教的紛争において顕著に根をはり出している。この小論の学会発表版において、私と同じ都市化したカンプン(村)でフィールドワークを行なった人類学者である私のパートナージャニス・ニューベリーは、何年かにわたって時折居を共にした家族の息子との会話について詳述している。 彼女の記憶するのは以下の通りである。  私は一家の長男と話しをしていた。彼は物静かで、家族を支えるため薬局で父親と共に長時間勤勉に働いていた。彼はとうとう結婚し、妻の家族の家に引っ越したが、最も長い時間を過ごしているのは、母の家だった。彼は口数が少ないのだが、彼が語る言葉は、結果的にはいつも言葉以上の重みがある。物事がどのように変わってしまったかを彼は語った。「ムバック(ジャワ語で年上の女性に対する呼称)、今じゃ子供ですら僕の手から金を受け取ろうとしない。僕はカフィールだから。」カフィールという語のこんな使い方は非常に印象的である。私はそれまでにこの言葉が使われるのを聞いたことがなかった。今では一人のカトリックが、小さな子供ですら自分に触れたがらない事実に接し、考え込んでしまっているのだ。これは非常に困惑的な瞬間であった。(Newberry and […]

Issue 6

Re-Opening the Debate on Malaysian Elections

The following essays are based on the analyses and findings of the IKMAS Electoral System Research Project (Phase I) and the Phase II survey of “Voters’s Perceptions on National Issues, Economic Optimism, Education Corruption and […]

Issue 6

การเลือกตั้งเปรียบเสมือนน้ำ

         สำหรับคนเป็นจำนวนมากเหลือเกินที่ไม่ได้มีความทรงจำแต่หนหลังใดๆ เกี่ยวกับชีวิตช่วงก่อนยุคที่ฟิลิปปินส์จะประกาศกฎอัยการศึกแล้ว การเลือกตั้งเป็นเหมือนกับน้ำ เป็นสิ่งที่หากขาดเสียแล้วก็เหมือนกับการเมืองสิ้นชีวิตไปด้วย  การเลือกตั้งเป็นสิ่งจำเป็นสำหรับร่างกายการเมือง เช่นเดียวกับที่น้ำเป็นสิ่งจำเป็นสำหรับร่างกายมนุษย์   ในบรรดาคนรุ่นปู่ย่าตายายการเลือกตั้งก็เป็นเสมือนน้ำเช่นกัน ต่างกันแต่เพียงว่าคนรุ่นนั้นจะมองวัฒนธรรมทางการเมืองของฟิลิปปินส์ในปัจจุบันเป็นดั่งทะเลทรายที่แห้งผาก  ท่านผู้เฒ่าเหล่านี้จะถวิลหายุคที่ภูมิรัฐศาสตร์ดารดาษไปด้วยทุ่งหญ้าเขียวขจีแห่งอุดมการณ์ที่บานสะพรั่ง หอมอบอวลไปด้วยคุณธรรมในหมู่ท่านผู้นำและชนชั้นปกครองของประเทศ ตัดขาดไปไกลจากภาพอันน่าสะพรึงกลัวของประเทศที่แทบจะขาดวิ่นสิ้นไปในช่วงของการเลือกตั้งและช่วงหลังจากการเลือกตั้งฉะนั้น การเลือกตั้งเป็นเหมือนน้ำ เป็นเครื่องชะล้างกายาแห่งการเมืองให้สะอาดหมดจด  คณะผู้บริหารทุกคณะมักกลายสภาพเป็นคอกม้าหมักหมมโสมม และก็คะแนนเสียงที่ไหลหลั่งพรั่งพรูซึ่งมีการกำกับให้เข้าช่องเข้าทางเป็นสายน้ำสายเดียวนี้แหละที่จะชำระล้างคอกม้าที่โสโครกนั้นให้สะอาดขึ้นได้ ในปีค.ศ. 1935 (พ.ศ. 2478) เมื่อฟิลิปปินส์มีการเลือกตั้งเป็นครั้งแรก ผู้มีสิทธิ์เลือกตั้งหนึ่งในสามเต็มๆ ที่เดียวที่ไม่สนใจจะออกมาใช้สิทธิ์ และในตอนนั้นคนที่มีสิทธิ์เลือกตั้งมีถึงหนึ่งล้านห้าแสนคน เป็นชายล้วน และเป็นคนที่รู้หนังสือกันทุกคน ตอนนั้นคนฟิลิปปินส์กำลังใจจดใจจ่อรอการปกครองตนเองเพื่อเตรียมประเทศสำหรับเอกราชเต็มรูปแบบ(ผู้แปล — หลังจากตกเป็นเมืองขึ้นของสเปนมา 333 ปี คือตั้งแต่ ค.ศ. 1565-1898 และเปลี่ยนมือมาอยู่ใต้การปกครองของสหรัฐอเมริกาจนได้รับเอกราชในปี ค.ศ.1946) ดังนั้นจึงเป็นเรื่องสมเหตุสมผลที่บรรดาคนที่มีสิทธิ์ออกเสียงเลือกตั้งควรจะกระตือรือร้นออกมาใช้สิทธิ์กัน ออกมามีส่วนร่วมในการสร้างรากฐานแห่งรัฐชาติของชาวฟิลิปปินส์ด้วยกันเองในอนาคต  ทว่า คนเป็นจำนวนมากกลับไม่สนใจ และเหตุผลที่ไม่สนใจก็ไม่น่าจะเป็นเรื่องแปลกอันใด ก็ด้วยตัวเลือกในขณะนั้นมีจำกัด ตอนนั้นผู้ลงสมัครรับเลือกตั้งมีอยู่ด้วยกันเพียงสามคน และหนึ่งในสามนั้นก็ได้คะแนนนิยมท่วมท้น ผลการเลือกตั้งจึงเป็นสิ่งที่สรุปได้ล่วงหน้าอยู่แล้ว และในเมื่อทุกอย่างดูเหมือนกำลังจะเป็นไปด้วยดีเช่นนี้ […]

Issue 6

Elections Are Like Water

         Elections are like water, missed only in its absence For the overwhelming majority of Filipinos who have no recollection of life before martial law, elections are like water – a requisite for political life, […]

Issue 6

Pemilihan Umum Seperti Air

         Pemilihan umum seperti air, hanya gagal bila tak terlaksana Bagi sebagian besar masyarakat Filipina yang tak memiliki ingatan sebelum undang-undang darurat militer diberlakukan, pemilihan umum seperti air – satu syarat bagi kehidupan politik, sangat […]

Issue 6

選挙は水のようなもの

         選挙は水のようなもの。なくなって初めて恋しがられる。 戒厳令以前の暮らしの記憶のない圧倒的大多数のフィリピン人にとって、選挙は水のようなものだ。人間の身体にとっての水と同様、選挙は国家にとって不可欠であり、政治生活の必需品である。年配の世代にしてみても、選挙は水のようなものだ。しかし彼らの場合は、現在の政治文化を不毛の砂漠のようにとらえ、選挙のたびに国民が引き裂かれるおぞましい風景とは無縁だった、指導者と民衆の美徳によって彩られ理想主義がみずみずしく開花していた時代を懐かしむ。 選挙は水のようなものだ。川のように、票の激流があっという間に国を浄化し、どの政権にもみられる「アウゲイアス王の牛舎」(注:不潔あるいは腐敗した場所の意)を洗い流す。 1935年に行われた初の大統領選では、有権者の3分の1が投票しなかった。当時は読み書きのできる全男性に選挙権が認められており、選挙人登録をした人の数は150万人に上った。我々は完全な独立に向けた独立準備政府の発足を心待ちにしていたのだから、有権者たちが将来の国民国家の基礎作りへの参加に興味を示すにちがいないと思うのは当然のことだろう。ところが、実際にはかなりの数が興味を示さなかった。だが、その理由は驚くものではない。選択肢を見ると、大統領ポストに3候補者しかおらず、それもこの少ない人数の中で1人は圧倒的な人気を誇っていた。結果は目に見えていたし、万事順調に進んでいると思える時代だったから、有権者の3分の1は特に気にかける理由を見出さなかった。マヌエル・L・ケソンは68%の得票率で圧勝し、エミリオ・アギナルドとグレゴリオ・アグリパイはともに18%以下で終わった。1941年になると女性にも選挙権が認められたが、投票率はほぼ横ばいだった。つまり、前回と同様、3分の1は投票に意義を感じなかったということだが、この選挙では現職のケソンが81%もの票を得ている。 我々フィリピン人が羨ましいと思いがちな民主主義国家では、選挙人登録をした人びとの間で投票率が66%に上ることはめったにない。アメリカ合衆国の選挙は同国だけならず世界の情勢に影響を及ぼすにもかかわらず、投票する人はずっと少ない。フィリピンでは、平穏な民主主義の時代とされる戦前から、一票を投じるという過程に対しフィリピン人は大きな評価をし、今でもそう評価し続けるという我々の民主主義の特徴が明らかになっている。ただし、戦前は予想可能だった我々の政治的かつ国家的発展の姿は、第二次世界大戦という国民的トラウマの中における一連の衝撃と失望によって消えてしまう。 1941から1946年までの間、フィリピンにはマヌエル・L・ケソン、ホルヘ・バルガス、ホセ・P・ラウレル、セルヒオ・オスメニャ、マヌエル・ロハスという計6人の国家元首がいた。この5年間に、正当な大統領の座を巡って2人の指導者(日本に支持され本国に残ったラウレルと、米国の支持を受け亡命したケソン、その後にはオスメニャ)の間で争いが繰り広げられた。この時代、どちらの味方につくかはもはや政治的ビジネスではなく、血生臭いビジネスだった。「協力者」(注:collaborator、日本占領軍に協力したフィリピン人の意)ゲリラ、亡命中の役人に山にこもった役人、隠れたゲリラだというマニラ在住の役人に親日派を明言する役人といった具合に様々な人びとがいた。 今日知られているように、終戦と戦争のトラウマの後に初めて実施された国政選挙が、それ以降の選挙の舞台を設置した。投票が生きるか死ぬかの問題となってしまってからというもの、戦前に注意深く育成された政治的な美徳の見せかけの維持は、もはや困難だった。大戦前、選挙は人々が自分たちの指導者を指名するという神聖な面を持っていたという意味で、水のようなものだった。一方、大戦後には、選挙は汚れを流し落とす手段だけではなく、生き残るために必要不可欠なものとなったという意味で、水のようなものだった。引き裂かれて分裂してしまった有権者、ゲリラ、偽のゲリラ、本物の「協力者」で不当に告発された者、日本の銃剣を後ろ盾に不動産を避難させた者(自分の身の可愛さから今は米国にしがみついているが)、不満の募った農民―置かれた状況は異なるが、みな生き残った者たち―が選挙の結果に多大な関心を寄せる事態となったのだった。 1946年の選挙では、本物のゲリラ、過激派、そしてケソンが国政を支配していた20年間に遣り込められていた指導者らが、ついに自分たちの時代が到来したとして必死に戦った。ロハスの後ろで陣を張ったのは、孤児のようになっていたケソン派の政党員だった●。ゲリラと「協力者」の両方がいたが、なかでも特に重要だったのは「協力者」だとして告発されていた者たちであり、彼らにとっては政治的生き残りが名誉回復と復権への唯一の道だった。選挙では両陣営とも、極貧状態に陥っていた国民の人気取りに必死になった。国民はというと、独立に興奮と恐れを同時に感じながらも、戦前に注意深く組み立てられてきた発展がついに実を結ぶのが1946年だと信じ込まされてきたが、実際には独立とは死と腐敗が悪臭を放つ廃墟の上でたなびく旗のことだと知らされたのだった。 戦争により人びとは殺され、インフラは廃墟と化し、理想は痛ましくも空洞化し、文字通り「乾きあがった」国民は選挙を水のようなもの、そして水を求める喉がカラカラに乾いた人々の戦い、それも必死の戦いだと考えた。1946年に圧勝した候補者はおらず、単独過半数を得ただけだった。また、票の買収、不正操作、選挙がらみの暴力は以前では考えられないレベルに達した。1949年になると、こうした状況はさらに悪化し、エルピディオ・キリノが死人を眠りから起こし、植物や動物まで動員させて投票させ勝利したという悪名高き話は世界中に衝撃を与えた。しかし1953年、カリスマ性を持ったラモン・マグサイサイが、ケソンが1935年に記録した得票率68.9%を破って当選するという、待望の大洪水が起った。 ところが、マグサイサイは1957年にこの世を去った。彼の後継者であるカルロス・P・ガルシアは7人の候補者の中で、わずか41.3%の票を取得することで選ばれた。相対多数を得た者が選挙を制したことで、ここに今日のフィリピンの政治制度が生まれた。この国は、勤勉さと巧みな策略を駆使したケソン、また天賦の才能とカリスマ性を兼ね備えたマグサイサイのような指導者たちがいつも支配するわけではない。ほとんどの政治家は平凡でひねくれ者だが、かといって非常にずるがしこくはない人たちであり、必ずいつも輝く人がいるというのは不可能である。 加えて、政治家は控えめで大衆の気を引くような行動をとることは好ましくないと有権者が考える時代は終わった。さらに、政治家の間では、疲れきった、ある意味、道徳的に破綻した戦前派の世代から、戦争に実際に加わり、その後成長した若く生意気な世代へと、嗜好や期待するものの変化がみられた。さらに加えて、政党ごとの組織票などの、ケソンが注意深く設置しマグサイサイがその人格の力で動かした大統領の権限や組織マシーンは着実に衰退した。その結果が次のようであった。 ガルシアは、彼の先任者たちが当たり前のものとしてきた基本的な支配のレバーをもぎ取られた大統領だった。政党マシーンによって生み出され育て上げられた大統領だったが、その党員は政党志向の投票の防波堤だった組織票を既に無くしていた。キリノの横暴な性格と、その裏腹の微々たる政治的ギフトへの反応として始まった潮流の一つ、大統領の特権から地方自治体の任命が徐々に剥奪されるという過去の遺産を背負った大統領でもあった。また、彼は古いスタイルの政治家だったが、それ以前にマグサイサイが手下をとおして投票者に指示を与えて選挙に勝利するという古い政治家のスタイルを崩してしまっていた。スペイン語を話し、古い形式にのっとって就任した人だったが、有権者はマグサイサイ式のバロンタガログを着て登場する素朴なタイプを好んだ。この有権者はまた、芸能アイドルという資格しか持たないロヘリオ・デラロサを上院まで送りこんでいる。その一方で、投票した人たちはガルシアに大統領としてケソンやマグサイサイのような自信に満ちた態度と風格を期待した。 問題は、ガルシアはこれら2人のようではなかったことである。自らが言っていたように、彼は「馬鹿ではなく」、じっさい彼や彼の後任はしばらくのあいだ、残された権力のレバーを握って大統領職まで上り詰めるという賢さを披露した。 したがって、投票者と大統領を志す政治家の双方の間でみられた、大統領という地位に対する一般的な見方は、過去の大統領の実物大以上の人物像と比べて、現職の大統領たちが(試みはしたものの)それと同等の権威と有効性を用いて行政力を行使できない苦しみを経験した。法のもと、制度のもとに、そのための手段がなかったのである。にもかかわらず、投票者の間の期待は変らず、政治家の間の野望も変らず、さらに選挙に対する人びとの関心は1946年以来高いレベルにとどまり、特に流星のごとく登場したマグサイサイの後は熱狂状態だった。ガルシアは、キリノがマグサイサイに負けたときとほぼ同じ理由によって、ディオスダード・マカパガルにその座を奪われた。しかし、悲しくもマカパガルには行政力を執行するだけの実力が身についておらず、1965年、しかるべく彼はフェルディナンド・E・マルコスによって押しやられた。マルコスは、渇望していた権力にたどり着き、手にした地位を放さないためには、制度をすべて壊すしかないと心に決めた。 1969年、マルコスは大統領選では歴代4位の61%という高い得票率を掲げて、史上初の再選を果たした。ちょうどケソンが行政支配をやり易くするために制度を変革したように、マルコスも変革に着手したが、彼の場合はもっと大胆だった。このインフラ重視の大統領は選挙をダムととらえた。つまり、政治支配を集中させる手段であり、自分のクローニーの畑は灌漑で潤し、敵の土地には何もせずに干し上がらせ、自然の流れさえ変えられるという圧倒的かつ不屈の意志を持つ、まるでファラオのようなイメージを人びとに与えるものだった。 「新社会」というマルコスが構築した湖の水は、ドロドロしていて、浅く、汚染されていて、臭いことが判明した。1986年、ダムは決壊し、もっと自然な水の流れが戻ってきた。コラソン・アキノは公式選挙結果では敗れたが、きちんと集計されたところでは勝ち、それは彼女の支持者や世界の目にはモラルの勝利として映った。選挙を取り戻す、言うなれば、選挙を渇望する国民に水を持ち帰ることについて―たとえそれが自分の夫が成し遂げようとしたものであっても―アキノは最初から、恥かしがり屋の未亡人として、政治的激動期における国家再建の中心的役目を果たすことについては乗り気でない様相を見せていた。 コリー・アキノは選挙、実のところは国民投票によって権力の座に着き、彼女は選挙/国民投票を正当性の維持の要に用いた。 ところが、ガルシアの選挙のときに姿を現した、政治制度の発展―または未発展―の段階が、復讐をするかのようにフィデル・ラモスの時代になって戻ってきた。ラモスは、我々の選挙史上で最低の得票率(28%)で当選するという記録を作った。彼の成功は、選挙を大統領統治のための正当性だとする考えに悪い影響を及ぼした。エドサ(注:ピープルパワー革命)後の策略で重要になったことは、人気でもマシーンでもなく(彼の対抗馬らはこれらを兼ね備えていた)、少ないものから最大の効果を発揮させるという戦略的優位性である。ラモスは、他の候補者よりも不人気の度合いが低かったという理由で、国民の多くに拒否されながらも、大統領の地位にたどり着いた。ラモスの任期後、ジョセフ・エストラダが圧勝のような形で大統領になったことは驚きに値しないが、その圧勝とされる状況はじっさい、ガルシアと他の候補者との間の得票差よりも健全だったとは言えない。ラモスとエストラダは少数派の大統領だったのであり、様々な期待に応じるには制度的に無理があった。それと同時に、有権者の方はますます分裂し、失望し、絶望した。人びとの好みとマスコミの変化によって、ジョセフ・エストラダはロヘリオ・デラロサの後継者になった。 ラモスの巧妙なずるさと部下を操る長い経験をなくして、エストラダは権力を維持するには不適当であることが明らかになった。一方、彼の副大統領となったグロリア・マカパガル=アロヨは、エドサ後に初めて過半数に近い票を獲得した(注:フィリピンでは大統領と副大統領を別々に選ぶ)。これによって、彼女は自分がエストラダの後継者だと十分認められ動き出す権限を手にしたのである。エストラダがマラカニアン宮殿から逃げ出したとき、(長い話を簡単に言えば)アロヨはすばやくそこに乗り込んだ。とはいえ、この一連の過程は、正当な継承者、つまり炎を受け渡される明らかな後継者として次期大統領が歴史的に味わうことができた自然な特権を否定されるという特異な状況下で行われたのだった。 2004年大統領選のキャンペーンは正当性の追求だった。正当性はエストラダが指名した候補者によって失われ、また現職もまだ獲得していない。不信任をつきつけられ拘置所にいる指導者に依存した候補者や、自分自身も拘置所へ行くべきだとの申し立てでひどく傷ついた現職のほかにも候補者がいたが、彼らも正当性を追求した。ところが、熟成中の一つの政治文化が2人の最有力候補と選挙戦の影を薄くしてしまった。この政治文化は、1960年代に生まれ、1970年代に暴力的になり、1990年代に道徳的に破綻したのだが、指導者も指導される人たちも1980年代の信頼できる選挙を復活させようとバラ色の眼鏡をかけて見ている。水があるように、選挙はある。しかし、国の合理的な、熟考した計画の一端としてではない。乞食の民衆に感謝の念を植え付けるための施しのように、投票を水のように見なす指導者の考えにぴったり合うから存在するのである。 少なくとも3分の1の有権者が投票しなくなる日が来るにちがいない。選挙の結果がどうであれ、重要なことは問題になっていないのだから。1946年以降、この問題は重要であり続け、それゆえ、選挙のたびに汚職が国の重要懸案に挙げられている。大多数にとって何が問題なのかというと、文字通りに水そのものが彼らの物として飲め、水浴びに使える生活、バランガイ(注:近所の地域)ごとに一つの蛇口とかゴミの溜まった水路とかいった具合には計れない生活、そういう生活を望むということなのだ。 選挙は水のようなもの―喉の乾いた人たちにとっては必需品であり、それを支配したり所有する人たちにとっては権力の根源である。選挙は水のようなもの―それぞれの人にそれぞれの意味がある。選挙は水のようなもの―少なくとも我国のように、どのバランガイの人たちも飲み水のために何時間も待ったあげく、濁って悪臭のするものしか得られない現実のなかで、上流階級の家々にあるプールの存在が恥を象徴している。 マヌエル・ケソン三世 Manuel L. Quezon III is a columnist and contributing editor at […]

Issue 6

Ang Halalan ay Parang Tubig

         Ang halalan ay parang tubig, hinahanap-hanap lamang tuwing wala Para sa higit na malaking bilang ng mga Pilipino na walang alaala sa buhay bago ang batas militar, ang halalan ay parang tubig: isang rekisito […]

Issue 6

Pasuk Pongphaichit on Thailand

Thank you very much, Acharn Giles. The title of my talk, “A Country is a Company, a PM is a CEO,” is based on a statement Prime Minister Thaksin Shinawatra made in November 1977 when […]

Issue 6

Paul Hutchcroft on The Philippines

Thank you very much. It’s a real pleasure to be here today to join this comparative discussion of political leadership throughout the region and I am pleased to have this opportunity to talk about the […]

Issue 6

Francis Loh Kok Wah on Malaysia

Thank you Mr. Chairman, Acharn Giles. Friends, I have always been studying the people on the sides rather than the leaders. I started studying the coolies in the tin mines, and then I started looking […]

Issue 6

Vedi Hadiz on Indonesia

Thank you, Mr. Chairman. As you know, we are having parliamentary elections in Indonesia on the 5th of April, and this should actually be a very good time to talk about leadership in Indonesia. The […]