Issue 27

Migrant Workers and the PAP: Who is Dependent on Whom?

Throughout the Covid-19 crisis, Prime Minister Lee Hsien Loong and other high-ranking ministers of the Singapore government have repeatedly expressed gratitude to migrant construction workers for their role in building the gleaming city-state. These low-paid […]

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อัตลักษณ์ในอีสานและการกลับมาของ “คนเสื้อแดง” ในการเลือกตั้งปี 2562 และอนาคตข้างหน้า

บรรยากาศมืดมนน่าขนลุกของการเลือกตั้งปี 2562  คือสัญญาณบ่งชี้ว่า เส้นทางสู่ระบอบประชาธิปไตยของประเทศไทยยังถูกสกัดขัดขวางจากยามชุดเดิม กล่าวคือ ชนชั้นนำเบื้องหลังรัฐบาลทหาร  ถึงแม้พรรคเพื่อไทย ซึ่งเป็นพรรคฝ่ายค้านพรรคใหญ่ที่สุด ได้รับคะแนนเสียงจนได้ที่นั่งเสียงข้างมากในรัฐสภา แต่กลับไม่สามารถตั้งรัฐบาลได้  ผลการเลือกตั้งเช่นนี้มีความหมายอย่างไรต่อผู้ลงคะแนนเสียงในภาคตะวันออกเฉียงเหนือ (หรือที่เรียกกันติดปากว่าภาคอีสาน)?  การส่งสัญญาณชัดเจนว่า พลเอกประยุทธ์ จันทร์โอชา ผู้นำรัฐบาลทหาร ตั้งใจจะครองอำนาจต่อไป  ประเด็นนี้จะกลายเป็นจุดเริ่มต้นที่ปลุกให้ขบวนการคนเสื้อแดงอันทรงพลังฟื้นคืนชีพอีกครั้งหรือไม่ เมื่อคำนึงถึงว่าขบวนการนี้เป็นการแสดงออกของความคับข้องใจทางการเมืองในภาคอีสานมาเป็นระยะเวลานานพอสมควร  ในบทความนี้ ผู้เขียนจะพยายามตอบคำถามข้อหลังจากมุมมองของสมาชิกรากหญ้าในขบวนการทางการเมืองนี้  ผู้เขียนต้องการอภิปรายให้เห็นว่า อัตลักษณ์ของคนเสื้อแดงและอัตลักษณ์ทางการเมืองในภาคอีสานโดยรวมในปี 2562 มีความซับซ้อนยิ่งขึ้นกว่าเดิม กระนั้นมันก็ยังไม่พัฒนาเป็นขบวนการทางการเมืองเชิงชาติพันธุ์ ประวัติศาสตร์ของ “คนเสื้อแดง” ในภูมิทัศน์การเมืองไทย ความขัดแย้งทางการเมืองที่นำไปสู่การรัฐประหารปี 2549 และการยึดอำนาจจากนายกรัฐมนตรีที่มีทั้งคนรักคนชังอย่างทักษิณ ชินวัตร ทำให้ประเทศไทยแตกแยกเป็นสองขั้ว  ฟากฝ่ายหนึ่งคือขบวนการเสื้อเหลือง […]

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イサーンにおけるアイデンティティと2019年選挙、その他における赤シャツの再来

不気味なほど重苦しい2019年選挙の雰囲気は、タイの民主主義への道のりが、今なお軍事政権に支援された支配層エリートという、代わり映えしない門番に阻まれている事の隠しきれない兆だった。野党第一党のタイ貢献党(The Pheu Thai Party)は議会の過半数を獲得したが、政権樹立には至らなかった。これらの選挙結果は(イサーンとも呼ばれる)東北地方の有権者たちにとって何を意味しているのか?軍事政権の指導者、プラユット・チャンオーチャー将軍(General Prayuth Chan-ocha)が権力の座に居座るつもりだという明確なメッセージは、長年、イサーンで政治的不満の表れであった強力な赤シャツ運動を復活させる事となるのだろうか?本論では後者の疑問について、この政治運動に携わる一般活動家の視点からの回答を試みる。赤シャツ派のアイデンティティと、イサーンにおけるより一般的な政治的アイデンティティが、2019年になって一層複雑化している事、しかし、これが民族的な政治運動には発展していない事を論じる。 タイの政治情勢における赤シャツ派の歴史 政治的対立は2006年のクーデターをもたらし、渦中のタクシン・チナワット(Thaksin Shinawatra)首相を失脚させて国を二分化した。一方の黄シャツ運動(以前は民主市民連合、PAD/the People’s Alliance for Democracyと呼ばれていた)は、タクシンとその政治的協力者に激しい反感を抱き、その理由として汚職や縁故主義、権力乱用、反王政主義を挙げた。黄シャツ派の大半は中産階級の都市住民で、汚職政治家に対する嫌悪を公然と口にし、「タイらしさ」と関連した保守的価値観を支持していた。2005年から2006年にかけ、彼らは一連の抗議活動を行ってタクシン失脚を目論んだが、これが奏功して2006年のクーデターが実現した。対する赤シャツ運動(以前は反独裁民主同盟、UDD/ the United Front for Democracy Against Dictatorshipと呼ばれた)は、2007年頃にクーデターと黄シャツ運動に対抗して形成された。赤シャツ派デモ参加者の社会経済的背景は様々であったが、大多数は北部各県や貧困に苦しむ東北(イサーンとも呼ばれる)地方の出身者であった(Naruemon and McCargo 2011)。 2014年には、プラユット・チャンオーチャー将軍率いる軍事政権がタクシンの妹のインラック・チナワット(Yingluck Shinawatra)前首相と縁のある政権を排除した。タイの「色分けされた」街頭運動が、再び政治の中心に登場する事となった。このクーデターは元黄シャツ派デモの参加者やエリート支持者、反チナワット組織の同盟である民主主義改革協議会(the People’s Democratic Reform Committee /PDRC)の街頭デモに乗じ、赤シャツ派による対抗デモを口実に起こされた。ところが、PDRCの指導者たちが2014年のクーデター後に軍部の制裁対象とならなかった一方で、赤シャツ派は国中で厳しい取り締まりを受けた(Saowanee and McCargo 2019)。軍政の暴力的で抑圧的な手段のため、赤シャツ運動は実質上、無力化されてしまった。クーデター直後の抗議デモは小規模で散発的であり、そのほとんどが大学生や学者、あるいは自分は赤でも黄でもないという者達によって組織されていた。 クーデターから数年後、ようやく赤シャツ派は再び姿を現し、全国各地の様々な政治イベントに参加してその支持を表明するようになった。2016年7月24日にクーデター後最大の集会が憲法草案を検討するためにタマサート(Thammasat)大学で実施されると、大勢の赤シャツ派が集い、これ見よがしと赤い服装や装備一式を身に着けた。赤シャツ派は国民投票の監視など、個別の活動を実施しようと試みるが、これらが許可されることはなかった(Saowanee and […]

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หลอมรวมทั้งที่กีดกัน: อัตลักษณ์ชาติไทยในหมู่ชาวอีสาน

ประชากรพูดภาษาลาวในภาคตะวันออกเฉียงเหนือของประเทศไทย ซึ่งมักเรียกกันว่าคนอีสาน ตกเป็นเหยื่อการเลือกปฏิบัติและกีดกันจากผลดีด้านการพัฒนาซึ่งส่วนใหญ่ตกเป็นของภาคกลางและกรุงเทพมาเป็นเวลานาน อันที่จริง รัฐบาลไทยมีนโยบาย “สูบจากชนบทเหมือนสูบจากเมืองขึ้น”เพื่อส่งเสริมทุนและอุดหนุนแรงงานในเมืองมาหลายทศวรรษ  ยิ่งกว่านั้น ข้อบังคับเข้มงวดด้านภาษาในภาคการศึกษาและระบบราชการซ้ำเติมความเสียเปรียบแก่คนพื้นเมืองชาวอีสาน  ในเชิงเศรษฐกิจนั้น ภาคอีสานล้าหลังส่วนอื่นๆ ของประเทศ มีอัตราความยากจนสูงกว่า รวมทั้งประชากรทำมาหาเลี้ยงชีพในภาคเศรษฐกิจนอกระบบในอัตราสูงด้วย  ในเชิงการเมือง ภาคอีสานก็ถูกกีดกันค่อนข้างมากเช่นกัน มีชาวพื้นเมืองอีสานแค่ไม่กี่คนได้ดำรงตำแหน่งทางการเมืองระดับสูง  คนที่เคยดำรงตำแหน่งสูงในช่วงทศวรรษ 1940 ก็ถูกรัฐไทยสังหาร  นับแต่นั้นมา บุคคลที่เป็นชาวอีสานแท้ๆ ค่อนข้างน้อยคนที่มีชื่อเสียงโดดเด่นทางการเมือง ทั้งๆ ที่ชาวอีสานมีจำนวนเกือบ 30% ของประชากรทั้งประเทศ รูป 1. กลุ่มภาษาในประเทศไทย Source: Lewis et al. (2015); Premsrirat […]

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排除の中での統合、イサーン人のタイ国民のアイデンティティ

タイ東北地方でラーオ語を話す人々はイサーン人と呼ばれ、長い間、差別され、タイ中央平原やバンコクに生じた発展の恩恵から排除されてきた。事実、政府の政策は何十年もの間、「地方を征服された属州のように枯渇させ」る事で、資本家階級に資本を提供し、都市部の労働力を支援してきたのだ。さらに、教育や国の官僚制度における厳しい言語要件がイサーン出身者を不利な立場に置いている。経済面では、イサーン地方は国のその他の地域より立ち遅れ、貧困発生率は高く、インフォーマル・セクターに従事する者も多い。政治面においても、イサーンは甚だしく排除され、イサーン出身者で行政の高い地位に就く者はごくわずかしかない。1940年代に、このような地位に就いた者の中には、タイ国家によって殺害された者もあった。そうした時期から今日まで、イサーン人とされる人々で政治的汚名を得た者は、イサーン人が人口のほぼ30%を占めている事を思えば、相対的に少ない。 このような排除のもとでなら、民族的な動員が生じてもおかしくはない。事実、何らかの地域的動員は効果的なものとなるだろう。著者が独自に行った言語が政治に及ぼす影響の研究では、政治家が中部タイ語ではなくファーサ・イサーン(Phasa Isan)というラーオ語の現地語を話すなら、イサーン人からの得票率を17%も増加させることになることが明らかになっている。 さらに、サオワニー・アレクサンダ―(Saowanee Alexander)とダンカン・マッカ―ゴ(Duncan McCargo)は、地域的アイデンティティがある程度は、言語の違いに基づいて発達、強化され続けていることを見いだしている。つまり、民族的動員の可能性は存在するのだ。 それにもかかわらず、民族的な動員は広い範囲で定着するには至っていない。例えば、タイ貢献党と赤シャツ運動は、いずれも同地方で強く支持されてきたが、どちらの組織も自らを「イサーン」として売り込んではいない。両組織の指導部は、その他の地方出身のタイ人が主流を占めている。赤シャツ派の有名な指導者であるジャトゥポルン・プロンパン(Jatuporn Prompan)や、ナッタウット・サイクア(Nattawut Saikua)、ウェーラカーン・ムシガポン(は南部の出身だし、タイ貢献党の2019年選挙の名だたる者達は誰しも、タイ中央部やバンコクが本拠地であった。長年、党指導部を務めるチナワット一門はチェンマイが故郷だとしている一方、自分たちが中国系でバンコクに拠点がある事を、はばかりなく強調している。タイ政治では、エスニシティは政策や階級、人格的アピールの二の次となるのだ。 イサーン人の動員に高まりが見られないのはなぜなのか?この答えの大部分は、イサーン人のタイ国民のアイデンティティへの統合が成功したことに見出せよう。民族的・宗教的アイデンティティは、何らかの政治活動の動機になるものであっても、より大きなアイデンティティに包摂され、個人や集団を政治目的のために動員する力を打ち消すこともあるのだ。近年の研究によると、ナショナリズム感情は民族の違いを乗り越え、異なる民族の人々に、民族集団の利益より国の結束を重視するよう促す事ができる。したがって、国民アイデンティティは国家にとって困難な社会的亀裂を埋める上で、極めて有用なものとなり得るのだ。 タイ国家は、少なくともイサーン人に関する限り、100年以上にわたって統合的な民族政策をとることで、イサーンのラーオ族をより大きなタイ人アイデンティティに組み込もうとしてきた。これらの政策は、チュラーロンコーン王(King Chulalongkorn/1868-1910)の中央集権化改革の下で始められ、1932年の絶対王政崩壊後も続き、教育政策に最も明確な形をとって表れた。その教育が最も重視していたのが、タイ全土で中部タイ語の使用を標準化することであり、この言語をタイ人のアイデンティティの柱とすることであった。チャールズ・キーズ(Charles Keys)によると、多くのイサーン人が市場経済への統合という目的のため、中部タイ語とタイ人アイデンティティを受容し、タイ人と称する事から生じるプラスの恩恵を享受した。 そこで問題となるのは、イサーン人が直面する不利益や排除が続く中で、これらの統合に向けた取り組みによって、実際にはどの程度、イサーン人がタイ人として受け入れられてきたのかということだ。この問題を調査するにあたり、調査データと併せ、自身をイサーン人と認めた様々な人々への綿密なインタビューを用いた。この調査結果に関するより詳細な考察は、他所で入手する事が可能だが、ここではその成果をいくつか要約しておく。 まず、4つの異なる全国調査の調査データは、イサーン人がタイ国民のアイデンティティを受容したとする主張を裏付けている。アジアン・バロメーター(the Asian Barometer/AB)と世界価値観調査(World Values Survey/WVS)は、いずれもタイで複数回の調査を実施しており、これらの調査には国民アイデンティティ感情や、回答者の母国語の特定に関する質問が含まれていた。これによって、タイにおける民族間の回答を比較し、統合の取り組みがイサーン人に「タイ人である事」を上手く納得させられているかどうかを調べる事ができる。国家政策に効果が無いのであれば、イサーン人の回答が、中部タイ語話者全般の回答に比べてナショナリスティックではない事に気が付くはずだ。反対に、これらの政策が有効であれば、イサーン人がその同国人と似たような値の回答をするのが見られるだろう。 ここに提示されたグラフ(図表2)から、「タイ人である事をどのくらい誇りに思いますか?」という質問に対する、タイの4つの主要言語集団間の回答の平均値の差が明らかになる。これらの集団には、母国語が中部タイ語の話者、北部タイのイサーン語、およびカム・ムアン語の話者、そして南部タイのパクタイ語の話者が含まれる。 中部タイ語の話者集団の平均値が基準値となり、ここではゼロで表記されている。ゼロ以上の値は、集団の平均的な回答が、中部タイ語の話者集団の平均値を上回ることを示し、ゼロ以下の値は集団の平均的な回答がこれを下回ることを示す。細い区切り付きの線は95%信頼区間で、これがゼロのラインにかかっている場合は、問題となる集団と中部タイ語の話者集団の回答に差があると断言することはできない。 結果から、イサーン語話者の回答者集団が、タイ人である事を誇りに思う気持ちにおいて、中部タイ語話者の集団よりも一貫して高い値を記していることが 明らかになった。事実、これらの差は全4回の調査を通じて統計学的に有意であった。また、イサーン語話者の国民アイデンティティ感情は、全調査を通じてパクタイ語話者よりも高い値であった。だが、イサーン語とカム・ムアン語の話者間の差には、それ程一貫性が無かった。つまり、調査結果が示しているのは、イサーン人のタイ国民アイデンティティの受容度が、中部タイ語話者と比べると高い、あるいは少なくとも、北部や南部タイに見られる集団と同等程度であるという事だ。 同様の調査を「自分がタイ国民の一員だと思う」という表現で、同意を表す値を記した回答者に繰り返したところ、やはりイサーン人が中部タイ語話者よりも肯定的な値を記すのが見られた(図表3)。この差は世界価値観調査の二回の調査においても、やはり明確かつ重大であった。カム・ムアン語とパクタイ語の話者の結果には、それほど一貫性が無かった。これらの結果は、タイ国家の統合に向けた取り組みが、タイ東北部出身のイサーン人に、彼らがタイ人である事を見事に納得させた事を示す、さらなる証拠となる。事実、イサーン人は一般的に、国民アイデンティティに関する質問に対して、全国的にその他の集団よりも肯定的な回答をしている。 イサーン人がタイ国民のアイデンティティをどの程度共有しているのかを、より良く理解するため、著者はイサーン語を話す様々な職業・地位の人々に、一連の半構造化インタビューを行った。回答者たちは皆、タイ国民のアイデンティティについて誇らしげに語り、「タイ人である事」を強調した。これを最も端的に表しているのが、自分のタイ人とイサーン人のアイデンティティを比べるように言われた、ある回答者の言葉だ。 イサーン人がタイ人だという事を説明しておく必要がありますね。その間の区別など存在しないのです。我々がイサーン人である事を誇りに思うということは、タイ人であることも誇りに思っているという事なのです。なぜなら、イサーン人はタイ人なのですから。 イサーンのラーオ族は、一世紀以上に及ぶ統合政策によってタイ人となった。彼らは地域的アイデンティティを保ちながらも、タイ国民に自然に溶け込んでいると感じており、自分たちのタイ人アイデンティティに誇りを持っているのだ。 イサーン人のアイデンティティに基づく動員の可能性について、さらに質問を続けたところ、大半の回答者の考えは、特にイサーン語を話す事によって民族的・宗教的アイデンティティを動員すれば、少なくとも地元では政治戦略として成功するだろうというものだった。だが、国家レベルにおいては多くの者達が、政治家がイサーン語を話すことに反対していた。ある者はこう言った。「それは違う(不適切)でしょう。そんなことがあってはなりません。世間にはイサーン語を聞きたくない人もいるのですから」。 また別の者はこのように述べた。「私は良いと思いますが、まずい事もあります。その人がイサーン贔屓だと思われるといけませんから」。 さらに別の者はこう言った。「国全体で政治家を承認する必要があるのですから、彼らがイサーン代表であるかのように話すと問題になるでしょう」。 これらの回答が浮き彫りにしたのは、民族的・宗教的主張よりも国家の統合を重視する方が大切だという回答者の信念であり、そこではイサーン人のアイデンティティは、より大きなタイ人である事の中に包摂されているのだった。 強力なタイ・ナショナリズム感情はこのように、イサーンにおける民族的・宗教的動員のための圧力を軽減する役に立ってきた。今後もイサーン人が経済と政治の両面において不利益を被る場合にも、それらがアイデンティティのさらなる強化を促すような、地域運動や民族政党の発生につながることはなく、また特にパラノイア的軍部が繰り返し政治に介入し、国家が認めた国民アイデンティティを積極的に強化しようとしていることを考えれば、近々、そのような動員が起こる可能性はなさそうだ。 Jacob I. Ricks […]

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Issue 27

อิสลามกับภาษายาวี: อาณาบริเวณสำหรับการแสดงออกและส่งเสริมอัตลักษณ์มลายูในกลุ่มจังหวัดชายแดนภาคใต้ของประเทศไทย

ตามคำนิยามของ Funk (2013, p.15) “อัตลักษณ์คือมโนทัศน์ของตัวตนหรือของกลุ่มที่บ่งบอกว่าการเป็นตัวเองหมายถึงอะไร”  อัตลักษณ์เป็นหัวใจของความขัดแย้งยืดเยื้อระหว่างรัฐบาลไทยกับผู้ก่อความไม่สงบชาวมลายูในกลุ่มจังหวัดชายแดนภาคใต้ของประเทศไทย (อันประกอบด้วยจังหวัดปัตตานี ยะลา นราธิวาสและบางส่วนของจังหวัดสงขลา)  อัตลักษณ์มีส่วนชี้นำลักษณะของความสัมพันธ์ระหว่างชาวไทยที่เป็นชนกลุ่มใหญ่กับชาวมลายูที่เป็นชนกลุ่มน้อยด้วย  รัฐบาลกลางส่งเสริมอัตลักษณ์แห่งชาติของชาวไทยที่เป็นชนกลุ่มใหญ่มานานแล้ว โดยเน้นย้ำลักษณะเฉพาะของคนไทยบางประการ เช่น ชาติพันธุ์ไทย ภาษาไทย ประวัติศาสตร์ไทยและศาสนาพุทธ  ทั้งนี้เพื่อก่อให้เกิดความเป็นอันหนึ่งอันเดียวในหมู่ประชาชนและสร้างชาติที่แข็งแกร่ง (Abuza, 2009; Aphornsuvan, 2006; Chalk, 2008; McCargo, 2008, 2009; Melvin, 2007; NRC, 2006; Pitsuwan, 1982; Storey, 2007, 2008; […]

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イスラーム教とヤーウィ語 ―タイ深南部におけるマレー系アイデンティティの表現と推進のための領域

ファンク(Funk)(2013, p.15)によると、「アイデンティティとは、自己、あるいは集団、それ自身のあり方にまつわる概念だ」。アイデンティティはタイ深南部(パッタニ(Pattani)、ヤラー(Yala)、ナラティワート(Narathiwat)とソンクラー(Songkhla)の一部)において、タイ政府とマレー系武装勢力との長引く紛争の核心に横たわる。これは主要民族のタイ人とマイノリティであるマレー系住民との関係性も形成している。中央政府は長い間、主要民族であるタイ人の国民アイデンティティを推進し、タイ人の典型的な特質として、タイ人のエスニシティやタイ語、タイの歴史や仏教などを強調し、国民統合と強力な国造りを目指してきた(Abuza, 2009; Aphornsuvan, 2006; Chalk, 2008; McCargo, 2008, 2009; Melvin, 2007; NRC, 2006; Pitsuwan, 1982; Storey, 2007, 2008; Yusuf, 2006)。ところが、このようなタイ人的特質の強調は、非タイ人マイノリティ、とりわけタイ南部のマレー系マイノリティの周辺化をもたらした(Kelman, 2004)。この関係性の負の性質が、分離主義を目標としたマレー系武装勢力の活動を育んだと言う事もできる。 本論で焦点を当てるマレー系アイデンティティの肯定的な側面は、日常生活における宗教や文化の領域で実用的な役割を果たすもので、政治的独立を求める闘争とは距離を置いている。事実、この実用的な役割は、現在の政治情勢の中でマレー系アイデンティティの表現と推進を可能とする安全空間を代表するものだ。深南部におけるアイデンティティ表現のための二つの現代的な領域について論じる。それらは青少年活動、とりわけ、アイデンティティ推進に増々重要な役割を担うようになったオンライン空間での活動と、伝統的なタディカー(Tadika)というイスラーム教就学前教育施設である。 マレー系アイデンティティの表現と推進 マレー系アイデンティティの要となる構成要素は、主要民族タイ人のアイデンティティが、タイ民族の国家や仏教、王室を中心に形成されたのとは異なる(McCargo, 2012)。近年の実地調査から気付いた事は、マレー系住民が彼らのアイデンティティを定義する際に大抵、宗教と言語の二つの要素を根拠にしている事だ。まず、マレー系の情報提供者は、自分たちのアイデンティティの主な要素としてイスラーム教を挙げる事が最も一般的だ。イスラーム教の装いや身なりは特に強調される。これは深南部のマレー系住民の大半が、スンニ派イスラーム教徒である事を考えれば当然の事だ。 情報提供者の一人で、地元ジャーナリストのムハンマド(Muhammad)が言うように、他の二つの紛争要件である「土地とマレー人のエスニシティ」に比べれば、「宗教は紛争要件として最も脅威が少なく、国家から最も容認されている」。 事実、「エスニシティ」に対する明確な言及は、どの情報提供者の自己定義にも欠けていた。むしろ彼らは、現地語であるヤーウィ語が深南部のマレー系である事を示す重要な指標だと繰り返し述べた。 マレー系の人々が自らのアイデンティティを隠そうとする度合いは、国レベルでプラユット・チャンオーチャー将軍率いる軍部に支配された政権が続き、深南部では政策に対する軍部の統帥権と支配が続くにも関わらず、この数年の間に驚くほど低下した。だが、マレー系のアイデンティティが軍事政権下で興隆したからといって、驚くような事だろうか?第一、宗教の自由は最新の憲法で保証されており、その憲法の策定にはプラユットが力を貸したのである。第二に、プラユット将軍は「文化的多元主義」を宣言し、これを深南部での紛争解決の政策ガイドラインとしている(NSC, 2016)。この宗教の自由が改善された状況を称え、情報提供者の一人は「国家がさらなる空間を開放する(なら)」地域の人々は自分たちのマレー系アイデンティティを「自由に表現する」事ができると言った。 ヤーウィ語の使用とイスラーム教の服装は「もはや政府によって禁じられていない」どころか、一層推進され、「この4、5年のうちに、マレー系アイデンティティを特色付け、より強化する」事となった。 青少年活動は、このアイデンティティ空間の開放に特に良く反応し、イスラーム教とヤーウィ語の実践を推進する重要な機構となりつつある。マレー系の青少年(15歳から30歳)は、増々自分たちのアイデンティティを意識し、これを守る上で積極的な役割を果たすようになった。青少年団体はオンラインの文化的キャンペーンに携わり、何百人もの人々を動員し、彼らに特別な機会や宗教的祭事、例えばハリ・ラヤ(Hari Raya)祭という、アラビア語で「イード(Eid)」とも呼ばれるラマダーン明けの祭事などで、イスラーム教的な服を着用させた。 青少年の活動家たちは、ヤーウィ語のレベルや質が低い事にも懸念を示し、ヤーウィ語を使用できる地元民の数を増やそうとした。マレー系の人々のヤーウィ語使用能力には、大きく分けて三つの集団がある。一つ目のマレー系の大半の人々は、簡単な、あるいは「口語体」レベルのヤーウィ語が使用できると考えられる。つまり、彼らが話したり聞いたりする事のできるヤーウィ語の単語数は限られたものでしかない。二つ目の比較的少数集団であるマレー語の学者や研究者たちは、ローマ字綴りを書く事ができる。これは彼らがマレーシアかインドネシアのいずれかでマレー語を勉強し、正式な教育を受けたためだ。三つ目の最少集団は、大半が年配のマレー系有識者であり、(バハサ・マレーシアに対して)ヤーウィ語を話し、聞く能力に加え、ヤーウィ文字を書く能力がある。 青少年活動のダイナミクスは、デジタル・ネットワークやオンラインのプラットフォームに現れる。ヤーウィ語の独自性を守ろうと志すフリーランスのアーティスト、ディン(Ding)は、ヤーウィ語のコンピューター用無料フォントを作成したが、これは現時点では唯一入手可能なヤーウィ語フォントだ。彼のヤーウィ語フォントは大いにダウンロードされ、青少年や政府関係者、民間企業などによって使用されている。それはFacebookのページ、広告用のラベルや掲示板、看板などに見られる。また、ディンは友人たちと協力し、ヤーウィ語の辞書を作る取り組みの一環として、徐々にヤーウィ語の単語を収集している。さらに、ニュースや漫画のストーリーなど、ヤーウィ語のメディア素材の数も、オンラインサイト上で増加している。ムハンマドはこの理由について、「若者たちには異なるコミュニケーション手段があり、それらがより『オンライン』である一方、旧世代の活動家は『オン・グラウンドな手段』を発動させる事が多い」ためと説明した。 […]

Issue 27

อัตลักษณ์ท้องถิ่น การเมืองระดับชาติและมรดกโลกในภาคเหนือของประเทศไทย

ในเดือนกุมภาพันธ์ 2558 คณะกรรมการแห่งชาติว่าด้วยอนุสัญญาคุ้มครองมรดกโลกแห่งประเทศไทยได้ยื่นขอขึ้นทะเบียนเมืองเชียงใหม่ให้อยู่ในรายชื่อมรดกโลกขององค์การยูเนสโก ระหว่างที่ยังอยู่ในบัญชีเบื้องต้นของกระบวนการพิจารณามรดกโลก กลุ่มขับเคลื่อนประเด็นนี้วางแผนที่จะยื่นเอกสารการขอพิจารณามรดกโลกรอบสุดท้ายในเร็ววัน เป็นไปได้ว่าน่าจะภายในปลายปี 2562  สำหรับทุกประเทศในเอเชียตะวันออกเฉียงใต้ การได้ขึ้นทะเบียนเป็นมรดกโลกมีแรงเย้ายวนใจหลายประการ เพราะมันให้คำมั่นสัญญาถึง “เกียรติภูมิทั้งระดับชาติและระหว่างประเทศ […] ความช่วยเหลือทางการเงินและ […] ผลดีในการยกระดับความตระหนักรู้ของสาธารณชน การท่องเที่ยวและการพัฒนาทางเศรษฐกิจ”  ในขณะที่แหล่งมรดกโลกของไทยแหล่งอื่นๆ เช่น สุโขทัยและอยุธยา ส่วนใหญ่มีความสำคัญในเชิงประวัติศาสตร์และอัตลักษณ์แห่งชาติ การยื่นขอขึ้นทะเบียนเมืองใหญ่ในภาคเหนือครั้งล่าสุดนี้ รวมทั้งความพยายามอื่นๆ ก่อนหน้านั้น สะท้อนอัตลักษณ์ท้องถิ่นและอัตลักษณ์ภูมิภาคเท่าๆ กับอัตลักษณ์แห่งชาติ สิ่งที่เป็นเดิมพันอยู่ตรงที่ชาวเมืองเหนือจะมีปฏิกิริยาอย่างไรในการหาทางคลี่คลายความตึงเครียดระหว่างความเป็นมรดกกับความเป็นย่าน (ชุมชน/ละแวกบ้าน) ดังที่ Mark Askew เคยชี้ให้เห็นว่าเกิดขึ้นในกรุงเทพเมื่อยุคทศวรรษ 1990  การยกย่องซากปรักหักพังที่ถูกทิ้งร้างให้มีสถานะระดับชาติและระดับโลกไม่ใช่เรื่องยาก แต่ในกรณีของเชียงใหม่ การขอขึ้นทะเบียนมรดกโลกมีการผสมผสานทั้งซากปรักหักพังทางกายภาพของอาณาจักรทางการเมืองในอดีตกับชุมชนที่ยังมีชีวิตอยู่ในปัจจุบัน  […]

Issue 27

北部タイにおける地方アイデンティティ、国内政治と世界遺産

2015年2月、タイ世界遺産国家委員会(the Thailand National Committee for World Heritage)は、チェンマイ市をUNESCO世界遺産リストに登録するための申請を行った。 まだ暫定リストに載った段階ではあるが、組織委員会は最終的な推薦書類を近々、おそらくは2019年末に提出する計画だ。東南アジア各地において、世界遺産リスト登録の魅力は、これが「国内外に対する威信や…資金援助、…国民意識の高揚による潜在的利益、ツーリズム、そして経済発展を約束する」事にある。スコータイやアユタヤなど、タイの世界遺産は、主に国家のアイデンティティや歴史に基づくものであるが、 最近のタイ北部の申請や、これに先行するその他の試みは、地方、あるいは地域のアイデンティティを国家のアイデンティティと同程度に反映している。 ここで問題となるのは、マーク・アスキュー(Marc Askew)が1990年代のバンコクに見出したmoradok(遺産)とyarn(コミュニティあるいは周辺住民)の間の緊張に対する、北部のある種の反応だ。 荒廃した遺跡を国家的、世界的なステータスへと格上げする事は比較的容易であるが、チェンマイの場合、世界遺産の候補地は政治的な力を備えた過去の物的遺構であると同時に、人々が暮らすコミュニティでもある。このプロジェクトは北部の人々のアイデンティティと、北部と中央政府との関係にとって何を意味するのだろうか?現在も続くこの町の遺産保存の取り組みは、より古くからの、現代タイにおける地方アイデンティティのあゆみと、どう折り合いをつけるのだろうか? ラーンナー主義 チェンマイの申請には、この町の将来に様々な集団が利害関係を持つ結果を招く可能性がある。申請の背後にある集団には、熱心な若手建築家や都市計画担当者、学者らが含まれるが、彼らは大まかに言うと、ある種の「地方主義」を掲げる人々に相当する。チェンマイの場合、これは時にラーンナー主義(Lanna-ism)と呼ばれるが、この造語は16世紀までこの地方の大部分を支配した古代ラーンナー王国を引き合いに出し、「標準的な」バンコク、あるいは中部タイを基とするアイデンティティとは異なる地方アイデンティティに歴史的根拠を与えるものだ。 ラーンナー主義は、歴史上のラーンナー王国との実質的な関連性よりも、むしろ第二次世界大戦後のチェンマイやチェンライなどの都市における、地方の政治的、文化的アイデンティティ空間を要求する取り組みに由来する。北部での大学建設のための地域キャンペーン、ラーンナーの王たちのための記念像設置の要求、チェンマイ市全域でラーンナー文字が再び見られるようになった事、これらの全てがこの過程を示すものだ。チェンマイの都市遺産は、ラーンナー主義の形成と表現に常に重要な役割を果たしてきたが、これには市の中心部にある重要な空間がバンコク政府によって再構築、あるいは実質的には植民地化されたという事情もあり、また、ラーンナーの王たちと所縁のある寺院や宮殿(khum)の長い歴史もある。この町を世界遺産リストに加える事に成功すれば、ラーンナーのアイデンティティやラーンナー主義は、間違いなく国内外で存在感を高めるだろう。 ラーンナー主義のプロモーションは予想外の形をとった。キャンペーンの一端として、世界遺産作業部会はマスコット・デザインのコンテストを行ったが、結果はこの町の創設神話と深い関りを持つアルビノ鹿(fan phuak)を非常に可愛らしく表現したものとなった。このキャラクターはノンファン(Nong Fan)といって、チェンマイと世界遺産プロジェクト、そしておそらくは、ラーンナー主義そのものも象徴している。 候補地にはチェンマイ市内と周辺の歴史的に重要な遺跡が数多く含まれるが、重視されているものとしては、マンラーイ王朝の古代史や、チェンマイとシャムとの関りにおける「許容可能な」要素、特には寺院などがある。 だが、市の中心部には議論を呼び、プロジェクトの境界内に位置するのに、当初の候補には挙げられていなかった場所もある。市内中心部の二つの重要な博物館では、ラーンナー遺産の文化的アイデンティティの展示が行われているが、これらの博物館が入る歴史的建造物は、バンコク政府の国内植民地主義の中心的な建物であった政府庁舎(sala rathaban)と地方裁判所(san khwaeng)である。要するに、候補地の選定は、この町の植民地時代の中心部を再構築し、地方史をナショナリストの歴史叙述の許容枠に収まる限りにおいて紹介する場にしようと試みる、より大きなプロセスの一部なのだ。 タイ政府と歴史および遺産の限界 世界遺産のステータスは、地方のアイデンティティや文化、歴史に保存と推進の手段をもたらすものであるが、タイの場合、中央政府が支配する国家の制限内でこれに取り組む事を意味する。都市空間の中で地方史を記念しようとした過去の取り組みも、やはりタイ政府が構想したものである。例えば、有名な「三人の王(three kings)」のモニュメントは、チェンマイとラーンナーの建国王であるマンラーイの単独像から始められたものだが、中央政府が関与した途端、チェンマイとスコータイ両国の建国王を結びつけるモニュメントに変わり、それによって地方史を国史の範囲内にきっちりと収める事となった。 同様に、最近の世界遺産リストへの過程においても、中央と地方の間にひと悶着起きている。事の発端は2002年のチェンセーン(Chiang Saen)、ウィアン・クム・カーム(Wiang Kum Kam)、ランプーン(Lamphun)など、ラーンナー史と関りのある、より小規模な地域で、これらの全てには保存の必要と観光事業拡大の強い可能性があった。 2008年にはランプーンが世界遺産リスト登録の申請に乗り出した。 2010年には数名の学者たちが、チェンマイの最終申請のための準備を開始した。 この時点で国政が干渉してきた。UNESCO関連の活動が同年暮れに停止されたのは、プレアヴィヒア(Preah Vihear)の状況を巡り、紛争が勃発したためである。プレアヴィヒアは11世紀のクメール寺院で、タイとカンボジアの国境間に位置し、2008年に世界遺産リストに登録されていた。今なお続く同寺院とその隣接区域の領有権を巡る争いは、過剰なナショナリストによる抗議デモが、ついに2011年に現実の紛争を引き起こし、6月にはタイの代表団がこれに抗議してUNESCOを脱退する事となった。北部では、UNESCOのあらゆる申請業務が停止された。同年に自身がチェンマイ出身のコン・ムアン(khon muang)であるインラック・チナワット(Yingluck Shinawatra)の選挙が行われ、プロジェクトは急加速した。 […]