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Issue 25

ラオスでの土地認識の変化 国家主権から資本動員へ

2013年8月23日、フランスのパリでKhamtanh Souridaray Sayarath夫人と面会した。ラオス南部の町、チャンパサック(Champassak)生まれの彼女は、1950年代にビエンチャンにある法科大学院を卒業した最初のラオス女性の一人だった。卒業後は工業省(Ministry of Industry)や文化省(Ministry of Culture)、貿易局(the Department of Trade)で様々な地位に就いた。1962年には経済省(the Ministry of Economics)局長となり、ラオス王国政府(the Royal Lao Government (RLG))の土地コンセッション(利用許可)や伐採権、鉱業権を認可する責任を負った。彼女がこの地位にあったのは、1975年に共産党のパテート・ラーオ(Pathet Lao)が国を掌握するまでの事だった。他の多くの人々と同様に、彼女はタイの難民キャンプに逃れた後、最終的にはパリに腰を据えた。 筆者のKhamtanh夫人との議論は、国民の土地の概念化がラオスでどのように変化したかという考察に関するもので、その対象は非共産主義時代から共産主義時代の間だけでなく、ラオスで経済改革が施行された1980年代半ば以降、特に2003年の土地法(Land Law)可決以降の変化だ。土地法可決は海外の投資家たちが広大な農園コンセッションを受ける事を認める法的枠組みをもたらしたが、このような事はKhamtanh夫人の時代には起こり得ぬものだった。本論ではラオスでの土地と国家主権に関する認識に過去数十年間で重大な変化があったことについて論じる。今や、土地は増々金融化され、むしろ海外の民間投資を呼び込む資源と見られるようになり、外国人に管理される事が認められない主権領土とは見なされなくなってきた。 Khamtanh夫人へのインタビュー Khamthanh夫人との議論で筆者が特に興味深く感じたのは、ラオス王国政府時代の彼女の土地コンセッションに対する認識の知る事だった。彼女が言うには、1962年から1975年の間の土地コンセッションは5ヘクタール丁度までで、それ以上はありえなかった。確かに、1958年5月の土地法を改正した、1959年12月21日付けの法律第59/10号は、外国人による財産取得を1975年のラオス人民民主共和国(Lao PDR)設立に至るまで規制していた。 2000年代になり、これとは全く異なる事態が生じ始め、外国企業は農業用地のコンセッションを1万ヘクタールまで獲得ができるようになった。 Khamtanh夫人によると、企業がさらに土地を必要とした場合は、村人かその他の土地所有者から土地を買う必要があったが、重要な点は、外国人が工場展開のための投資を奨励されていたとしても、ラオス市民だけが土地を所有できたということだ。王国政府の政策はその他の多くの初期ポスト・コロニアル政府の政策と同様に、国家主権の概念を天然資源と密接に結び付け、土地その他の資源の利権を外国企業に供与することには慎重であった。例えば、1961年にタンザニアがヨーロッパ列強からの独立を獲得した際には、初代大統領のムワリム・ジュリウス・ニエレレ(Mwalimu Julius Nyerere)が、「タンザニア人が自分たちで資源を開発するための地質学及び工学の優れた技術を手にするまでは、鉱物資源を未開発で放置する事を提唱した」。この時代とラオスにおける状況をよく示した1971年の論文で、Khamchong Luangpraseutは次のように述べている。「(ラオスには)グレーンジ型の大規模農場は存在しない」。彼はまた次のように記す。「ラオス王国では、国家が土地の名義上の所有者である。ラオスの法律によると、耕作者はその利用者であって所有者ではない。」 王国政府内の多くの者たちが特に関心を寄せていたことが国土の保護であったのは、国土と国家主権との関連性が認識されていたためだ。とはいえ、Khamtanh夫人が認めたように、王国政府内には腐敗して国家資源を犠牲にして私利を得ようとする者達もいた。当時、物事がどう認識されていたかを示すべく、Khamtanh夫人は1960年代と1970年代の初頭にラオスで稼働していた鉱山がわずかであったこと、鉱業権供与の要求が何件かあったにせよ、政府がこれに慎重であったことを説明した。例えば、カムアン(Khammouane)県ヒンブン(Hinboun)郡のPhon Tiou地域の錫鉱業には二、三の企業が関与していた。ところがKhamtanh夫人の話では、その地域の全ての鉱業権は表向きにはチャンパサック王家(Champassak Royal House)の当主、Chao Boun Oumの所有となっていた。ただし、彼は明らかに鉱業権をフランス企業にリースしていたという。Khamtanh夫人は口を極めて、王国政府が将来の世代や国家のために自然を保護し、資源を手つかずのままで置いておくことを望み、そのためにあまり多くの鉱業権を供与したがらなかったと強調した。彼らは基本的に農村部の土地を商品や資本の一形態とは考えていなかったのだ。 Khamtanh夫人はまた、国内の全ての製材所の監視を行っていた。多少の木材輸出は認可されていたが、相対的には少量の木材のみ輸出可能であったのは、政府が森林資源の枯渇を懸念していたためだと彼女は説明した。林業局(The […]

Issue 22

“Raya Kita”:タイ南部のマレー系ムスリムと国王

2011年に子供の日のお祭りが、ヤラー県ラーマン郡(the Raman district)のLa Meng校で開催された。このお祭りの様々な催しには、ゲームや出しもの、くじ引き、屋台、景品や表彰式などがあった。いくつかの国家機関や軍部から送られた「山のような贈り物」に加え、その年のお祭りを特別にしていたのは、生徒たちの“Rayo Kito”(あるいは、マレー語の標準語では“Raya Kita”、意味は「我らが王」)の合唱会であった。この歌は、国王が臣下たちのために、いかに献身的にたゆまぬ努力を行ってきたか、またそれに応じて、臣下たちがいかに彼を敬愛してきたかという事を歌ったものである。この歌を子供の日のお祭りに歌う事で伝えようとしているメッセージは、マレー系ムスリムの生徒たちも、この国の他の者達と同じように国王に感謝し、彼を愛しており、その事に彼らの民族や宗教の違いは関係ないという事だ。 Busaという5年生の子供の父親は次のように述べた。子供の日のお祭りは、今なお続く騒乱が2004年に勃発して以来、国家機関から多くの支援を受けるようになったが、国家から厳重に監視されるようにもなった。兵士たちがAPC(装甲車)や軍のピックアップトラックでやって来たのは、単にプレゼントやアイスクリームを渡すためだけではなく、その催しが防衛方針に沿うものであるかどうかを確認するためでもある。生徒たちがお返しに“Rayo Kito”を歌ったのは、彼らが国王と国を愛し、これに忠実である事を、国家の要請通りに示すためであった。そこで彼が続けて言うには、この出しものは額面通りに受け止められぬものであり、学生たちの中には、国王の事を歌の通りに尊敬する者たちがいたとしても、他の者たちは歌詞など全く意識しておらず、歌えと言われたから歌ったまでなのであった。 マレー人ラジャ La Mengの住民たちは、マレー人ラジャ(あるいはRaya)を、カリスマを持った無敵の人物と見ている。彼らの間に膾炙する一つの物語では、あるラジャが森の中を従者と共に旅していた時、一頭の象に出くわし、これに攻撃を仕掛けられた。ラジャは力を籠め、素手のままでこの象を打ち倒したのである。この物語が広く流布し、ラジャを手強い人物と印象付けた。また、ラジャたちは超自然的な存在と関係している事から、守らなくてはならない幾つかの食事規定がある。彼らが食べられないものは、筍と数種類の魚であり、これらを口にすると彼らの力は消えてしまう。また、彼らがカリスマ性を持つと同時に無敵である事は、臣下たちに愛と恐れを抱かせる。 マレー文化専門家のMengは、住民たちがラジャに対して相反する感情を抱いていると言う。村人たちが好感を抱いているのはRamanの支配者たち、中でもTok Niであり、彼は村の設立に重要な役割を果たした事で知られている。村人たちが祖霊やその他の精霊の儀式を行う際は、必ずRamanの支配者達に敬意が表される。だが、彼らの先祖は数名のRamanの支配者達を、その残忍さゆえに恐れていたのである。一つの物語によると、Raya Sueyongという、ケダ州を逃れ、Ramanの支配者の娘と結婚した者は、常に料理人たちに命じ、料理を作る際に彼の何人かの臣下の肉を入れさせていたという事だ。また別の物語によると、あるRamanの支配者は、彼に贈られたジャックフルーツの一部が欠けている事に気が付き、兵士たちに誰がそれを取ったのかと尋ねた。ある妊婦が、つわりのためにそれを食べた事を知った後、彼は兵士達に彼女の腹を裂いてジャックフルーツを取り出すよう命じた。また同じ様に、彼はある側室が王宮からこっそりと抜け出していた事を知ると、彼女の脚を切断させたのであった。 Mengは、マレー人臣民達のマレー人支配者に対する恐れが、シャム人の国王達にまで拡大されたのだと付け加えた。彼は次のように言った。「マレー人臣民達がシャム人の国王達を恐れた理由は、これらの王達が遠方に住み、彼らが一度も王達を見た事が無かったためでもある。彼らは王がどのような者達であるのかを知らなかったのだ。さらには、あるシャム人の王が、以前この地域にKhun Phanを送ってマレー人盗賊の成敗に当たらせた事があり、この事が地元のマレー人達にシャム人の国王をより一層恐れさせる事となった」。Mengの話が正しいとすると、疑問は、なぜ現代のマレー人達が、タイ国王、とりわけプミポン国王を愛しているのか、という事だ。 タイ国王 シャム国境が定められるや否や、その支配層エリートたちが没頭した事は、領内の異なる民族や宗教の人々を結びつける方法を見い出す事であった。これが極めて重要であったのは、フランス人達が民族を口実に、ラオ族やクメール族を仏領インドシナに属すると主張し、その支配を拡大させていたためである。そのような民族理論に直面し、ラーマ五世とその顧問達は、シャム国内に住む人間は、一定の基準、とりわけ、国王に忠実であるという基準を満たす限り、タイ国家に属するものとの考えを示した。ラーマ五世の「包括的」国家建設計画は、ラーマ六世から、ラーマ七世、ラーマ八世の治世の間、国の政変によって中断される事となったが、ラーマ九世、すなわちプミポン国王の治世に再開される事となった。 プミポン国王は、あらゆる民族・宗教の違いを超越した存在と称されていた。彼は一仏教徒でありながら、憲法上はイスラム教をも含む諸宗教の擁護者なのであった。この結果、イスラム教徒が国家イデオロギーの「宗教的」範疇への適合を、後者が仏教と強く結びついている事から困難に感じていても、「国王」の範疇においては、支持と保護を見い出すのである。同様に、彼は一タイ民族でありながらも憲法上は国家元首であったし、ごく最近は祖国の父として知られ、その慈悲は民族によらず、全市民に注がれるものとされていた。マレー民族は、国家イデオロギーの「国民」の範疇への適合を、後者のタイ民族との結びつき上、困難に感じていても、「国王」の範疇には、同じく支持と保護を見い出すのである。したがってこの範疇は、マレー系ムスリムの人々がLa Meng住民の事例のような民族的・宗教的差別で悪評高い仏教国家、タイの領内に住む事を可能としているものである。 Mengは、マレー人ラジャに馴染みがあった事に加え、住民達がプミポン国王を難無く尊敬する事ができた理由には、彼に対する住民達の認識の仕方が関係していたはずだと言った。一概に、住民たちはプミポン国王に対して無関心であったが、彼の支配下で虐げられているとは感じていなかった。彼らは国家当局、特に公安当局を嫌っていたかもしれないが、彼らがそのような当局、あるいは政府を、国王に結びつける事はなかった。Kak Dahは、国家支援を受ける数多くの団体の一員であるが、彼女は国王が民族や宗教に関して差別的であるとは思わなかったが、特定の国家当局は差別的だと感じていたと主張した。彼女はこれに加え、次のように言った。「タイ人だけが国王を愛しているのではありません。マレー人も国王を愛しています」。6年生のAsrohは、彼が国王に対して全く問題を感じていない理由を次のように主張した。「国王は僕らマレー人に良くして下さる。イスラム教徒にも良くして下さる」。また住民たちの中には、数名の王族メンバーに関する批評やうわさ話をした者はいても、プミポン国王に対する嫌悪を私の前、あるいは人前で口にした者は一人もいなかった。彼らの愛はさておき、プミポン国王を神のような人物として神秘化する事は、住民たちが答えるべき神学的、宇宙論的疑問を投げかけている。 「我々はミスター・キングを愛している」 ある日、我々が道端の東屋に腰をかけてお喋りをしていた時、私はKak Dahに、式典用の大皿に刻まれた“เรารักนายหลวง”(Rao Rak Nay Luang、我々は国王を愛している」)の文中の“เรา” (Rao、我々)という語が何を意味するものであるかと尋ねた。「マレー人の事です」と彼女は言った。そこで私は彼女に、一見したところ、主にタイ民族のために考案されたような文章を用いる事に不快感はなかったのかと尋ねてみた。すると、彼女は「いいえ、マレー人が国王を愛したって問題はありません」と言った。そこで、式典用の大皿準備を手伝ったKak Mohという人にKak Dahと同意見かと尋ねてみると、彼女はそうだと答えた。彼女は「タイに住んでいるのだから、私たちもタイ人です」、と付け加えた。この姿勢は、その東屋にいた他の人々にも分かち合われた。 “เรา” (Rao)という語の意味は明快であるが、“นายหลวง” (Nay Luang)という言葉は違う。“นายหลวง” […]

Issue 22

タイのコスモポリタンな領域における上等で清潔な服喪

2016年9月22日から26日の間、ある展示会がバンコクの繁華街のパラゴン・デパートとディスカバリー・センターの間にある商業スペースの小区画で開催された。その展示の目玉はロイヤル・プロジェクトの商品で、この開発プロジェクトはプミポン国王によって、その70年間の御代を通じて推進されたものであった。大きな白いテントの中は可動式の空調で冷やされ、袋を抱えた買い物客らが、茸ソテーのグリルドチーズ、ラズベリーケチャップ添え等のごちそうを味わいつつ、豪勢な空間を見物できるようになっていた。再現された山荘は、みずみずしく植えられた花々や木製のテーブル、田舎の家屋を模した建物を完備し、世俗的快楽を求める買い物客を迎えていた。前国王の大きな4枚の写真が天井から吊られていたが、あまりにも至るところにあったため、これと言って目立つ様子もなかった。 それらは最も精悍な頃のプミポンを描いたものであった。それらの写真の中で、プミポンは簡素な平服、あるいは軍服をまとい、一人で、あるいは女王か娘と並び、周囲には常に大勢の群衆が平伏していた。これらが撮影された頃のロイヤル・プロジェクトは、王室に広まった小規模な開発計画であった。それらの主な拠点となったタイ山岳民族のコミュニティのある地域は、大抵が共産主義の反政府活動に取り囲まれた地域であった。またこれらの計画は、しばしば国王直々の訪問を伴うものであった。一つのレベルにおいて、このような王国の辺境訪問は、開発の約束と相まり、プミポンを国家の建設者、冷戦主義者として示すものであった。この対極にありながら、これに匹敵する存在として、彼と同時代に地球の裏側にいたフィデル・カストロの例が挙げられる。また別のレベルにおいては、これらは世界の、またひいては宇宙の刹那と自己とを呼応させる事ができた完璧な仏教王を連想させた。 では、これらのイメージが現代の都会の消費者たちと何の関係があるのだろう? 適時性 良いプロパガンダは、時宜を得たものでなくてはならない。かつてJacques Ellul (1973, 43)が明らかにしたように、プロパガンダは現在を形作る「基本潮流」との和(ラポール)を突くものでなければならず、また「移ろいやすい臨場性」と結び着く事によってのみ扇動的となる。基本的事実が速やかに歴史や中立、無関心の領域に移行するような世界の中で、プロパガンダが語るべきは「神話と、定められた時間と場所の前提」のみなのだ。 冷戦期を通じて、二つの極めて重要な要素がタイに歴史的臨場感を生んだ。それらは共産主義の脅威とアメリカ指向の開発主義である。当時のプミポンの地方訪問は、この両者に物申すものであった。それらは想定された反政府活動の脅威を浮き彫りにしただけでなく、当時進行しつつあった資本主義の急速な拡大に対する懸念も和らげたのである。 重要な事は、これが単独的な覇権主義のプロジェクトではなかった事だ。それは多角的なものであり、目覚ましい献身行為を王家の図像の様々なレベルでの利用権によって報いるという、一連の複雑な相互関係を通じて運営されていた。当面の間、この最大の恩恵はアメリカ人にあった。彼らのプロパガンダ作戦におけるタイ王政支持は、王家のイメージ保護に役立ち、これによって共産主義を打倒せんとするものであった。タイを訪問するアメリカ人の大多数にとって、彼らの戦争を行うために尽力した国王への忠誠は至極当然なものであった。さらに、西洋の白人に対する深い懐疑のわだかまっていた地域では、アメリカ人に特権的地位が与えられた事が、タイ的秩序を志向する義務感を植え付け、これが大いに文化統治の「伝統的」形式の尊重へと注がれたのである。このポストコロニアル的な道徳秩序は、タイのアメリカ主導の資本主義への急速な統合を支える上で役に立った。 冷戦主義者プミポンは、久しくその精彩を失っている。だが、新たに生じる動向を読み取る事に長けた王室は、その相互関係が新たな社会的、政治的現実を反映するよう、これを作り替えた。冷戦期のアメリカ人たちと同様に、タイの日常生活における王室の重要性を進んで主張してきた者達には、その報いに国王の道徳的権威と認められるものの一定の利用権が与えられてきた。代わりに、この事がタイ王権の拠り所となる既存の宇宙論に、変わり続ける世界の中で新たな効力を吹き込む事を助けてきたのである。 清新、清潔で健康的 今日の時代思潮は清潔さである。清潔な食事とスローフードは、バンコクの最もクールな場を席巻している。身体の毒素排出と現代生活の不安を和らげる事を約束した清潔な食事は、かつて、石鹸や衛生学によって規定された差異の、古い植民地時代の比喩(トロープ)を複製している。Anne Mcclintock (1995, 226)が、イギリスのインペリアルレザー(the British imperial lather)との関連で述べたように、「清めの儀式は、身体を意味の土壌として整え、自己と社会にまたがる価値の流れを秩序付け、一つの社会と別の社会との境界を定めるのである」。 「清潔な」(sa-ad)一皿の食事の値段が一般人の購買能力をはるかに超えているタイでは、世界的な流行である「スロー」、「オーガニック」、「クラフト」は、身体的な差異と純粋性を得る新たな手段を、数々の魅惑的な食料品によって提供している。またこれは新たな空間も生み出し、それらの清浄かつ清新な場は、一部の流行に敏感でコスモポリタンな顧客たちを楽しませんとするものである。アーリヤ・オーガニック・プレイス(Ariya Organic Place :Ariyaはパーリー語で純粋、貴重、あるいは高貴を意味する)などの名前がついたレストランは、したがって、海外の最新の手法を用いて都会人の身体に滋養を与える事を謳ってはいるが、国内のタイ仏教の世界観と結びついた、より長い歴史を踏まえたものでもあるのだ。 同じ事はパラゴン横の展示会についても言え、その宣伝用資材は「高原風にするべく木で飾られ」ながらも、「都市住民や新世代の需要と流行りのライフスタイルに応じる」「現代的なファーマーズマーケット」を基調としたものであった。すなわちそれは、世界的な通用性と文化的特性との融合であり、有名シェフの魅惑的な新レシピが、田舎風の小粋にタイ風のひねりを利かせ、高額な値札と共に供されたというわけだ。 ここで、前時代に撮影されたプミポン国王の不鮮明な肖像が、現代の新奇のスペクタクルの中で、極めて重要な要素を成していた。彼の肉体が今生の終わりに近づくにつれ、これらの肖像からは、冷戦の背景が取り去られる事となった。今、若かりし頃の国王の御霊が据えられているのは、清められた(borisut)文化的世界の中心であり、小規模ながらも活気に満ちた、贅沢な消費行為を通じた多様な参入の機会が横溢する場である。 ロイヤル・イメージの買収 九代目の御代を通じ、富と購買能力は、かつての外国人たちが王室との相互関係を築くための基本的手段となってきた。Christine Gray (1991)は、冷戦の真っただ中に、タイ華人の資本主義者たちが王家の慈善事業やイニシアティブに貢献する事で、いかに王家の威徳を「手にする」事ができたかを述べている。彼女はまた、タイ華人が所有するバンコク銀行が、1967年にロイヤル・ガルーダ紋章の使用権を認められ、その商標を王家と関連付ける手立とした手法も明らかにした。 一方、Kasian Tejapira (2003)は、1980年代後期からのタイにおける「急成長」時代に伴う急速な消費主義の拡大が、より均一な都会のアイデンティティ感覚を生み出す上で役立ったと主張した。増々、タイ人である事は、お金で手に入れられる事、あるいは、価値交換によって体験し得る事となっていった。一回の休暇、一着の服、一個の宝石、これらの全てをより魅力あるものとするには、それを「タイ的」な何かと関連付ければよいのであった。これとは別に、Somsak Jeamteerasakul (2013)は、この新たな消費文化の出現が、都会の消費者たちに王室勢力圏への進出を、より容易かつ魅力的なものとした事を主張する。単に王家お墨付きの、あるいはロイヤル・ブランドの商品を買う事は、より伝統的で儀礼化された献身の表明とは対照的であったが、国家への献身を示す明快な手段となったのである。 だが、時の経過と共に、これらの購入はまた、道徳的な複雑性から比較的自由であり続けるには、コスモポリタンな生活がプミポン国王の肖像を介したものである必要があるとの考えを裏付ける上で役に立った。1997年の危機で、タイの資本主義体制の根本的不平等が、かくも容赦無くさらけ出された後、王家の威徳はより一層貴重な商品となった。とりわけ2006年以降の時代、君主制への献身は、タクシン・チナワットに関連した様々な統治機関に反対であったタイの都会人たちを安堵させる事となった。すなわち、それは彼らに道徳的に高潔であり続けたという自信を与えたのである。 […]

Issue 19

周縁からの「宗教」再考

随分と前からタイでの仏教の衰退を嘆く言説を耳にしてきたが、そのほとんどは金銭や呪術、セックスなどに関与した僧侶たちの醜聞を伴ったものだった。このような現実は必ず、近代やグローバル化のせいにされてきた。しかし、国家に認可された僧侶組織としてのサンガ(僧伽)の相対的な衰退が、必ずしも宗教全般の衰退を意味するわけではない。そこで求められているのはむしろ、研究者が近代国民国家の形成過程で促された宗教の制度化や、宗教自体の概念を再考する事で、東南アジアの諸宗教に対する、より細やかな理解を提供することである。 宗教、国家、中心からの視点 我々の上座部仏教や、より広い東南アジアの宗教全般に対する理解は、二重の目隠しによって視野を狭められてきた。一つは、西洋に由来する「宗教(religion)」という言葉そのものである。非西洋社会でこの言葉の用法が広く問題とされてきたのは、それが西洋を起源とするものである事と、近代キリスト教徒的バイアスがかかっているためである(Asad 1993参照)。東南アジアも例外ではない。これらの問題は、アジアにおける西洋的宗教概念の適用や、西洋の圧力下でのアジア諸宗教の変遷の双方に対する批判的なアプローチに道を開いてきた。キリスト教の歴史の過程で発生した合理化や、それに続く世俗化が、ウェーバー(Weber)やバーガー(Berger)といった宗教社会学者たちによって繰り返し論じられてきたのとは対照的に、この地域では、植民地国家、あるいは植民地独立後の近代化途上の国家権力によって、合理化や標準化、制度化が進められてきた。したがって、この地域の宗教を理解する上で国家権力は不可避の重要な要素となっている。 今一つは、上座部仏教を理解するための主要なパラダイムや観点の多くが、国民国家形成時のタイに由来しているということである。このことは我々の上座部仏教や、おそらくはこの地域の他の諸宗教に対する理解の仕方を様々に形作り、また我々の知識形成の方向性をも定めてきた。村落仏教にしても、仏教と精霊崇拝、森林の僧たちと僧院組織との関係、あるいは王権と国家にしても、これらの研究主題は主にタイから発せられたものであり、そこでの理解のパラダイムは、仏教と国民統合に焦点を置いたものとなっている。このことはまた、少数民族を仏教研究の考慮外に置いてきたことにも影響している。このように、この地域の仏教研究の焦点は、僧院組織と国家との関係、そして国民国家建設における仏教の役割の考察に当てられてきたのである(Ishii 1986; Tambiah 1976)。 これらの理由から、タイ仏教研究はエリートの僧院仏教を優先してきたのだが、実際にはそうしたエリート仏教は、McDaniel (2008)の指摘どおり、過去一世紀の仏教実践を標準化する上では、ごく限られた効果しかもたらしていない。一方、仏教は国民国家建設の営みにおいて一つの重要な「タイ人たる」指標となってきた。少数民族が仏教以外の宗教を選択すれば、それは彼らが自分達を非タイ人としてのアイデンティティを明示するための選択と見なされる。あるいは逆に、少数民族が仏教を実践すれば、それは何がしかの意味で異端の仏教と見なされてきた。 これまで仏教は、二重の意味で中心からの視点で論じられてきたといえる。第一に、仏教はその組織と国家の関係を理解する上で僧院の中心、またしばしば国家、王室の中心からの視点で、考察されて来たのである。また第二に、仏教は、「仏教的」、あるいは「非仏教的」と分類される多様な要素によって構成される、習合的な複合全体の階層の中心点とも目されてきた。 以上のようなサンガ中心のエリート主義的観点を相対化する試みは、これまでも繰り返されてきたのだが、この中心-周縁の構図が前提とされる限り、周縁の宗教要素は中心に対する抵抗と見られる傾向にあり、結局は中心‐周縁の理解モデルを強化してきたのである。少数民族の仏教実践を、多数派の仏教に対する何らかの抵抗として、あるいはアンチテーゼとして見なす限り、我々は国家を中心とする制度仏教とその他の少数民族の宗教という二分論、対立という従来の見方を上書きする事になる。 宗教と三つの境界 以上の見方では、民族カテゴリーを、宗教実践理解のための自明で自己完結した単位とみなすことになり、仏教徒・非仏教徒、多数派・少数派、中心・周縁などの二分化を前提としこれらの明確な区分とされるものを横断するような、それ以外の視点を排除してきた。このようなアプローチは、宗教実践と伝統が混ざり合い、複雑な重層を成す東南アジアの諸宗教の現実を、見えなくしてしまい、説明不可能にしてしまう。むしろ、少数民族の仏教を考察するのであれば、仏教への中心主義的な視点を根本から問い、民族と国家の区分を当然のものとする事に疑問を投じることから始めるべきである。 近年、日本の我々のグループは、境界や周縁で実践される宗教に目を向けてきたが、我々の確信は、周縁に生じる宗教動態を考察する事で、国家中心の制度宗教のパラダイムを問う事ができるだろうというところにある。ここで言う「境界」には、三重の意味あいがある。第一に、地政学的な国家間の国境、第二に、エスニシティ(あるいは山地と低地の間)の境界、そして第三に、出家と在家の境界である。さらに、隠された局面として、これらの周縁を深く探究する事によって「宗教」自体の縁辺や輪郭を問うに至ることが期待される。 エスニシティと宗教実践 この地域では少数民族が国境域に居住しているため、地政学的、民族的境界は多くの場合交差しあっている。従って、このような少数民族を理解することは、彼らが境界を跨ぐ存在であるがゆえに、国家中心の視点を問う出発点となり得る。この点から実感される事は、少数民族と宗教、多数派国家との間には複雑な関係のパターンがあり、それらをいかなる単純な公式に還元するのも不可能だという事である。 フィールドワークに基づく議論が提示する複雑な現実は、周縁の中心に対する抵抗、国家の認めた民族区分、制度宗教などを想定した既存の見解を問い直すものである。上ミャンマーのパラウン(Palaung)とパオ(Pao)の両者の間では、これまで多民族が共有する複合的宗教空間であったものが、民族別に、それぞれに独自の言語に音訳、翻訳された経典を備えた小規模僧院組織に分割され始めている(小島 2015; Murakami 2012; 村上2015)。これらはパラウン語を仏典に用いる試みを通じ、あるいは、パオの僧院組織の設立を通じて実現されてきた。皮肉なことに、このような動きを引き起こしたものは、少数民族の地域外を旅する機会を得た彼らの宗教的指導者や知識人たちの移動性の向上であった。別言すれば、境界を超え、自分達の民族の区域外の地域に行く経験が、逆説的に、民族的境界の確立を促したわけであるが、これは宗教実践における自身のエスニシティや言語の画一化という、多数派仏教徒たちの間で行われる制度化と並行した現象といえるだろう。 過去には、少数民族と低地国家との関係は「模倣か抵抗」のいずれかとされてきた。しかし、これらのパラウンとパオの事例が示しているのは、多数派、あるいは国家を中心とする低地社会の経験が、少数民族自身の仏教実践にフィードバックされ得るという事である。現実は単純な服従か抵抗かという二者択一よりも、遥かにダイナミックなものである。一見すると宗教的な境界の横断、あるいは少数民族の民族区分への囲い込みに見える現象は、実践者の観点からすれば、単なる宗教環境の改善方法なのである。この事例は、当事者自身の宗教実践がもつ意味に顧慮することなく、国境を行き来する移動性によって民族の区分が解き放たれるかのように無批判に想定することへの警鐘となっている。 民族カテゴリーの確立を分析する上で、宗教は重要な問題となり得る。20世紀ビルマのカレン族の民族意識が、宗教と仏教の再定義の過程から生じて来たものである事が解明された(Ikeda 2012)。「カレン族らしさ」の出現をめぐる仏教徒の語りは、少数民族とキリスト教その他の非仏教宗教との一般的な関連付けを改めるものであった。一方で、タイにおける中国寺廟の調査は、国家の宗教に対する規制の縁辺を解明するものであった(Kataoka 2012)。中国寺廟の信者たちは、公式の統計において自分達を仏教徒だと主張するが、習合的な神仏を祀る彼らの寺は、公式には「非宗教」と位置付けられている。国家の宗教行政から無視されてきた中国寺廟は、仏教の公式的定義と宗教自体とのギャップを提示するものである。 ここで明らかな事は、第一に、公式に定義された宗教や公認されたエスニシティの関係は、決して予想可能でもなければ、厳密に対応するものでもないという事だ。民族・宗教の関係は、一つの民族が一つの信仰を奉じているような場合でも、特に宗教と近代国家建設の再定義のプロセスの中では、決して単純なものではない。さらに、少数民族の宗教の研究は、「宗教」自体の境界の再検討につながり得るものである。 宗教的境界 宗教実践を周縁から検討する事は、制度に基づく諸制約から距離を置き、より現地や個々の実践者たちの視点から、仏教を理解する事につながってゆく。クルーバー・ブンチュム(Khruba Bunchum)や、ウ・トゥザナ(U Thuzana)など、カリスマ僧侶の国境の少数民族地域での足跡をたどる上で、我々は、少数民族の宗教運動にすぐに抵抗を読み取る既存の見解を疑問視する事から始めた(Hayami 2011; 速水2015; 片岡2015)。結局、これらの探求が明らかにするのは、現場の実践者たちにとっては、国家支持か反国家かという争点は、えてして二義的な価値しかもたないという点である。むしろ、実践者たちにとってより重要なのは、彼らの帰依するカリスマ的な力が、実際に彼らを守護し、彼らが自分達の生活状況の中で求める力を与えてくれるかどうかということなのである。 タイ・ミャンマー国境沿いでは、多くのカリスマ僧侶たちが少数民族から熱烈に崇拝されている。これらの僧侶たちは国家権力の狭間で活動し、これらの少数民族の者達にオルタナティブを提供している。だが大抵同時に、この同じ僧侶たちは、国境のいずれかの側で権力の座にあるエリートとも接触している。このように様々な帰依者たちを無差別に受け入れる事によって、彼らは境域での自由な往来を認められているのである。このような事例をもって、彼らカリスマ僧侶たちが国家を相対化しているのか、それとも国家の辺境統治に奉仕しているのか、と問うことは、そもそも的外れであるか、あるいは誤解を招くものでさえある。少数民族の多数派支配に対する、服従か抵抗か、という単純な二者択一自体が問われなくてはならないだろう。帰依者達自身にしてみれば、このような疑問はおそらく全くどうでもよいことである。したがって、周縁における宗教実践は、単なる「弱者の武器」なのではなく、完全に異なった筋から検討されるべきものである。 […]

Issue 19

シンガポールにおける仏教運動の興味深い事例

近年、仏教運動は研究者や政策担当者、実践家の間で相当な議論の的となっている。 サンガ(僧伽、出家者集団)と在家から成る仏教徒活動家は、社会的公正と政治改革運動の促進や、環境保護主義の普及、そして自身の信仰への脅迫や異端教義からの擁護を目指してきた。東南アジアという文脈で仏教運動が想起させるものには、ゴーサナンダ(Ghosananda)やティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh)らの平和運動や、スラック・シワラック(Sulak Sivaraksa)の政治・社会運動、それからもちろん、2007年ビルマで起きたサフラン革命がある。だが、このような運動は、東南アジア大陸部の仏教諸国に特有のものではない。東南アジア島嶼部の仏教徒コミュニティもまた、相応に運動を担ってきたのである。 東南アジア島嶼部と言ってしばしば思い浮かぶのは、今日のブルネイ、インドネシアやマレーシアを含むイスラームのマレー世界、そして、カトリックのフィリピンである。島嶼部の中でシンガポールが異彩を放っている理由は、圧倒的な華人人口の多さ(約75パーセント)と、あまり多くの人には知られていないが、その多くを仏教徒人口が占めることである。シンガポールで行われた2010年の人口調査によると、33.3パーセントの人々が、仏教徒を自認している。筆者は最近の研究で、シンガポールのポスト植民地期における仏教運動に焦点を当ててきた。そこで明らかになってきたのは、東南アジア大陸部の仏教徒活動家とは異なり、シンガポールの仏教徒活動家は、政治改革や環境保護主義、あるいは世界平和にはあまり関心を抱いていないということである。むしろ、彼らは、教義の誤った解釈や「異端」から仏教を擁護し、社会福祉活動を推進することに携わっている。 シンガポール仏教総会(The Singapore Buddhist Federation/ SBF, Xinjiapo fojiao zonghui 新加坡佛教總會)は、仏教コミュニティを代表する包括的な全国組織であり、英国植民地政府とシンガポール国内の様々な仏教団体との橋渡しを務めるべく、1949年に設立された。設立当初から、SBFは仏教コミュニティの利益促進に積極的な役割を果たし、1955年には、ヴェ(Vesak)が祝日として官報に告知されるよう求める植民地政府への働きかけにおいても重要な役割を果たした。また、植民地政府に対して、仏教徒用の墓地建設の承認を求める働きかけも行った。1955年9月と1959年2月には、SBFは当局に仏教徒用の墓地の設立と、その周辺での橋や下水設備、道路、仏教寺院や食堂の建設許可を与えるよう嘆願をした。墓地設立当初SBFが主導した運動は、主に仏教コミュニティに実用的かつ具体的な利益をもたらす運動に限られていた。SBFの関心は明らかに、政府を説き伏せ、自分達の要求を承諾させる事にあったのであり、仏教徒を結集させてその信仰を擁護したり、誤った教義解釈や実践を正したりすることではなかった。 ダルマ(仏法)を擁護する 1970年代初頭から、SBFは宏船尊師(Hong Chuan, 1907-1990)の指導の下、「仏法擁護運動」(hufa xingdong 護法行動)の推進に、より積極的に取り組むようになった。SBFは、仏教を冒涜する内容や間違った教義解釈を含む外国映画の検閲を求めて、政府に働きかける上で重要な役割を果たした。SBFが主導した最初の運動は1970年8月に行われた韓国映画「Dream (夢)」に対する抗議である。SBF側の言葉を引用すると、この映画は「仏教を侮辱し、道徳規範を堕落させ、人々の心を毒する」ものである。仏教コミュニティの「品格」を守るべく、宏船は映画検閲委員会に嘆願書を提出し、上映の一時停止と、SBFによる映画の検閲許可を求めた。その後、この映画はシンガポールでの上映が禁止となった。その後の数年間に、SBFはシンガポール映画検閲委員会に働きかけ、いくつかの他の映画、例えば「出家者(Monks/Chujia ren)」や「四大皆空(The Four Great Elements are Empty (Sida jiekong)」、「露乳女尼(Breasts Revealing Nun /Louru nüni)」、「肉蒲団(The Carnal Prayer […]

Issue 19

ベトナムにおける仏教研究:現在と今後の方向性についての考察

仏教研究の分野において、ベトナム仏教は欧米圏の研究者の十分な関心を集めて来なかった。これはある程度、学問が文献を中心とする仏教研究を偏重し、暮らしに即した日々の仏教実践の表現を軽んじる傾向があることに起因する。こうした偏見は古い学問的方法論に基づいており、そこでは特定の文献を特別扱いし、その観点から宗教概念を組み立てる一方で、個人や個別文化の描写や記述を大幅に無視する。そしてベトナム仏教に関する経典文化は、他の仏教圏の経典文化と同程度には発展してこなかったため、結果として学問的な関心が向けられる事があまりなかったのである。加えて、ベトナムの現政権下で宗教は扱いに慎重を要するトピックであるため、宗教研究を成し遂げようとする研究者にはこれも障害となっている。例えば、インタビューの対象者を探し出して接触することや、ひどくお役所的な公文書類を扱うことは、他の仏教諸国で同じことをするよりも、はるかに骨の折れる仕事となろう。しかしこういった制限にもかかわらず、卓越したベトナム研究が行われ、それが仏教史と現代における仏教実践に関する特定分野に光をあててきた。けれども、一部の非常に優れた研究はあるものの、ベトナム仏教研究の多くの重要な分野には未だ大きな空白が残っている。そういった分野の一つが、他の仏教との比較という領域である。ベトナム仏教をめぐって立ち現れる数多くの研究課題候補の一つに、ベトナム仏教の「大乗性」を他の「大乗」仏教や、一般に「上座仏教」とみなされる仏教形態と比較調査する仕事がある。このような仏教の多様なあり方について、特徴を定義するために用いられてきた従来の比喩はもはや精査に耐えるだろうか。「大乗」という呼称はベトナム仏教にふさわしいものであろうか。 「上座仏教」と「大乗仏教」という二項対立は、長年、仏教の分類として太鼓判を押されたかのように用いられてきたものであるが、近年、これを疑問視し、反論する研究が急速に進んできた。数ある論考の中でも重要な編書、”How Theravāda is Theravāda? Exploring Buddhist Identities”(『上座仏教が上座仏教である所以:仏教アイデンティティの研究』は、この一般的な枠組を用い続けることから生じる諸問題を検討し、明確に示している。比較研究に富んだ、同書と対を成すような必携の編著 ”How Mahāyāna is Mahāyāna?”(『大乗仏教が大乗仏教である所以』のようなものがあったならば、他の仏教圏においてもみられるあまりに単純な二項対立的な枠組みに関する理解と認識を深める上でも有効であり、また、ベトナムの現代仏教の本質を理解するためにも有効であろう。 英語圏での仏教に関する知識や理解は、何よりも、このような乗り物(大乗・小乗といった)の分類で捉え、その中で地域仏教を描写するという立場を、大体において採り続けてきた。研究者が目指すべき意味ある方向性というのは、このような分類を越えて、地域仏教の独自性を描写し、より精緻な枠組みを用いて表現し分析することであろう。この可能性ある研究領域は、仏教の何たるかについて、これをエリートの経典中心の禁欲的な宗教として描き、信徒の目標を涅槃への到達だとするような見解から、学術界が距離をおくことの一助となるだろう。 説得力のある文献としてSwearer (1995)や McDaniel (2011)、 Kitiarsa (2012)、Soucy (2012)のものがある。これらは仏教研究を、古く、理想化された正典中心型のものから、生き生きとした民衆による宗教実践の領域へと押しあげてきた。ベトナムとそこで実践される宗教について理解を深めるために必要なのは、この方向性に沿ったさらなる研究が、特にベトナムの政治における仏教の役割や仏教のポリティクスに重点を置いて行われることである。 仏教と、ベトナム史における仏教の役割に関する一つの際立ったサブテーマに目を転じると、Woodside (1976)とMcHale (2004) 、 DeVido (2007, 2009)が、20世紀ベトナムの仏教復興運動について貴重な研究を提示している。だがこの運動の遺産については、まだ多くの研究が待たれる。手短に言えば、この復興運動が目指したのは、ベトナムにおける仏教の強化と変容であり、仏教が全盛を極めたと想像される黄金時代に引き戻すことであった。アジアの他の復興運動と同様に、ベトナムで生じたこの運動も、より強固な民族アイデンティティを構築し、それを活気ある近代的革新的仏教に組み込もうとするものであった。あらゆる場所の近代仏教に見られるように、この復興運動も仏教実践を合理化し、カルトや金銭を燃やすこと、シャーマン的実践など、異端的要素を取り除こうとした。さらに、新旧の仏教経典を翻訳し、それに重要な救済論上の位置づけを与えた。同時に信徒は、これらを読み学んで理解する方が、その内容も分からずに丸暗記して唱える事を頼みにするよりも良いと助言された。ベトナムの復興論者たちが重視したことは、社会参加であり、学校や診療所、組織、その他の社会奉仕手段の設立であったが、これらの多くは現在でも存在している。その結果、近代化し、政治にも積極的に参加する仏教という型式が、この復興運動から生じる事となったが、これは後にティク・ナット・ハン(Thích Nhất Hạnh)が「社会参加仏教(engaged Buddhism)」と呼んだものである。ナット・ハンの言葉によると、「仏教学者たちは1930年代には既に、仏教の近代社会への参加を論じていた」。社会参加仏教という型式は、1960年代から70年代の間にナット・ハンが密接に関わったものであるが、これは新たな現象ではなく、古くからある仏教実践を取り組んだもので、その理論的起源は中国に存在する。この流れに沿うさらなる研究が望まれる。それは、ベトナムの社会参加仏教が、どの程度、仏教界において社会参加仏教という現代的言説や実践に影響を及ぼし、形作ってきたのかということについて理解を促す。さらに、ベトナムでの思想や実践、集団の形成における中国以外の他の地域の仏教の役割については、ほとんど知られていない。いずれにせよ、仏教研究において地域や国境を超えた取り組みは、仏教が国境というしがらみから離れ、仏教運動の展開と発展についてのより明確で幅広い視野に到達する上で、役立つものである。 南ベトナムにおける仏教徒の平和運動は、一つの重要な歴史的要素であり、近年研究者の注目の的となっている復興運動と密接に関わっている。Topmiller (2002)や Moyar (2004), McCallister […]

Issue 19

諸概念が拮抗する仏教のポリティクス

ミャンマーでの近年の仏教徒動員についての一般的、学問的な表象をみてみると、いかに理論的で分析的なアプローチが仏教、政治、社会に関する研究を形作っているかを考えさせてくれる。最近民主化されつつあるミャンマーにおいて、ナショナリストの僧院組織、マバタ(MaBaTha)が台頭し、彼らが規制をかける法律を作り、選挙政治に影響を及ぼそうと試みており、それは、仏教とナショナリズムのポリティクスの問題を再び、多くの東南アジアについての分析の中でも中心的な問題にした。マバタはその名を20世紀初頭の反植民地ナショナリストのスローガンで、人種、宗教・言語及びサーサナー(sāsana/仏の法や教え)を意味する「Amyo (マ), Batha(バ), Thathana(タ)」からとっている。この名前自体が現代の展開を100年以上も昔のビルマでの仏教の一般大衆動員と結びつけるものとなっている。 問題なのは、20世紀初頭の運動についての研究の大半と同様、ミャンマーにおけるマバタ、その他のナショナリストや反ムスリム感情の台頭に関する分析の多くが、仏教徒たちが宗教を政治目的に利用したことに台頭の原因を求めたり、ビルマ仏教の本質にはナショナリスト的感情、あるいは外国人嫌いの感情が根強く存在することに台頭の原因を求めたりしていることだ。これらはいずれも間違いであるが、その理由は、単にこれらが過度の単純化であるというだけでなく、むしろ、これらが仏教や宗教、アイデンティティを考察する上で問題含みのアプローチの典型であるためだ。そうした研究は、仏教に永劫不変の本質が有るとみなしており、また、人間の経験や行動において宗教と政治とは別個の領域として容易に識別できるとみなしてしまっている。これらの各状況をもう少し深く掘り下げてみれば、これらの運動についての研究の多くは、単に政治情勢やナショナリストのアイデンティティ、仏教実践に関するある特定の解釈や内容を助長しようとしているだけでなく、このような議論の拠り所となる概念的枠組みを積極的に形成し、それについて論じようとしていることが明らかとなる。 これらの運動にまつわる多くの現在の言説は、以前の運動と同様に、これらの運動もまた、仏教とビルマ人らしさを保とうとして、この両者を積極的に構築し、刷新していることをまったく見落としてしまっている。こうした試みにおいては、仏教も国民も流動的な(空っぽの)容器でしかなく、社会構造やヒエラルキーの創造と変容のメカニズムとして作用する。だが、仏教、ビルマ国民といったアイデアを意図せずして固定的で単一で識別可能なものとしてしまうのは、何も一般的な言説、ジャーナリスティックな言説、政策的な言説に限らない。往々にして、学者たる我々自身が研究を通じて、これらが固定的な知の対象であり、我々が記述し説明する専門的知識を持つと主張できる対象だとしてしまっている。その点を意識しなかった場合、我々は無意識のうちに自分達の研究する場の文化の政治に巻き込まれてしまい、国民、人種、あるいは排除という言葉で定義されない別の形での仏教が創造される可能性やアイデンティティと動員の諸形態が創造される可能性を排除してしまうという深刻な事態になりかねない。 20世紀の初頭には、植民地時代のビルマの多くの仏教徒たちが、植民地支配の到来に伴う絶え間ない変化を、仏の教えが失われつつあるという予感として経験した。彼らは仏教を守るための大規模な運動を起こし、これが社会や社会組織のさまざまな側面に影響を及ぼし、そして究極的には反植民地ナショナリストの政治に影響を与えたのである。現代のミャンマーにおける動きと極めて似ているようにみえる。この国は再び、社会的、政治的、経済的な激動の時代に直面している。多くのビルマ人たちが、変化が不安定を生むことに不安を感じ、そして、何か致命的なものが失われつつあるという懸念を表明している。仏教や仏の教え、ビルマ文化の保護を主張する運動が大衆動員を生み出してきた。仏教保護の取り組みに共感し、仏教への脅威が誰、あるいは何であるか(ムスリム、政党、外国のNGO、ライフスタイルの変化)についての言説に共感することが、明らかに多くのミャンマー人達にとってアイデンティティの一部をなしてきているように思われる。 しかし、これら2つの動きにつながりを認めて、仏教徒の言説やビルマ人のナショナリズムに共通する本質を説明しようするよりも、進むべき道は、この2つの動きがミャンマー(ビルマ)、仏教と宗教という本質的なカテゴリーをどのように構築、再構築してきたかを考察することである。こうしたカテゴリーは流動的で拮抗しており、そして、とりわけ影響力のあるものとして着目し、人々が自分達自身をどのように組織化するかに着目する研究であれば、我々は社会の中の権力の作用、すなわち、仏教のポリティクスを理解することができるのである。 我々にとってもっともやりやすいのは、東南アジア研究を形成する上で重要であり続けているベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)の批判的洞察に従うことである。つまり、これらの運動の言説における国民を脱国民化(解体)し、これらの言説がどのように排他主義的な宗教アイデンティティの観点からミャンマーを想像することになっているのかを分析することであろう。国民や国民アイデンティティを論じ、これらを構築する動きはどのようなものであれ往々にして表立っているし、容易に政治的言説に結び付く。しかし、排他的な運動に対抗して、よりリベラルにミャンマーを国民として想像しようとする運動の行われ方については、研究者たちは見過ごしがちである。国民を脱国民化(解体)することは、こうした運動を理解する上で何が重要であるかを分析するためには決定的に重要な第一歩であり、有用でもあるが、最初の一歩に過ぎない。次の段階は、おそらく宗教学者たちにとってはわかりやすいことだが、仏教を脱仏教化(解体)することであり、こうした運動がその言説やプロジェクトを通じ、どのようにミャンマーにおいて仏教がもつ意味の広がりを変えているかに着目することである。通俗的な分析や政策分析は、歴史を超越する仏教の本質があり、それが特定の歴史的な運動によってはっきりと示されているかのように、あるいは、歪められているかのように記述しており、仏教徒たちが仏教の解釈を変容させ続けてきていることを認識していない。ミャンマーにおける現代の運動は、たとえ仏教の擁護や保護をその使命の中心と主張しようとも、仏教の実際的な意味を積極的に作り変えていることが明らかなのにである。 さらに、ミャンマー人や仏教といったカテゴリーを論点としながら、再想像するこの作業は、ナショナリスティック、原理主義的、あるいは反ムスリム的とレッテルづけされている運動に限らず、多種多様の仏教運動や僧侶たちによって実行されている。このせめぎ合い、作り変えられて行く範疇に着目することで、我々は現代ミャンマーの様々な仏教運動の関係性を理解し、これらの運動がミャンマーの社会的、宗教的、政治的展望の中に生み出すより深い変化を、それらの単なるレトリック内容をはるかに超えて考察することが可能となる。 我々は、仏教やミャンマー人といったカテゴリーを解体していくこの分析をもう一歩進め、仏教運動において宗教と世俗それら自体がいかに論じられて、再構築されてきており、きわめて重要な政治的・社会的相互作用の一部になっているのかに着目する必要がある。このとき、我々が仏教と政治に関心があるのであれば、カテゴリーに着目することは極めて有用である。学者たちはしばしば、(宗教が何を意味するかを問うこともなく)仏教に宗教というレッテルを貼り、宗教と政治を考察することは、それぞれを分析し、その関係性と相互作用を分析するうえで有益な方法だとしている。だが、これは宗教を政治から切り離すことの出来る生活・行動・思想カテゴリーであることを前提としてしまっている。宗教は他の社会生活、世俗とレッテル貼りされている社会生活から切り離しうるという世界観と概念区分を前提としてしまっている。Talal Asadらが教えてくれたように、このような世界観は絶対でもなければ、当然のものでもなく、特殊なイデオロギー、世界観であり、我々はこの下で常に、あらゆる場所の全ての人々の営みが行われていると決めつけるべきではない。宗教を境界のあるカテゴリーだとするのは、特殊なヨーロッパ史の所産である。これは東南アジアに植民地主義とともにもたらされ、宗主国特有の様式として機能した。東南アジアの仏教徒たちは、植民地支配の下で宗教・世俗という世界観に適応するようになり、またこれを現地の概念的枠組み(lokiya/lokuttara, sāsana /ローキヤ・ロークッタラ、サーサナなど)と融合させたものの、このような枠組みは昔も今も、議論の続く、物議を醸すものなのだ。宗教の境界の明確な輪郭線と、そのカテゴリーと政治、経済などの世俗的カテゴリーとの相互作用は、積極的な解釈、翻訳、さらなる翻訳を生み出している。 植民地時代には、仏教徒たちも英国の行政官たちも同様に、「世俗」の意味するものを定義することに積極的であった。国家と宗教の完全な分離というレトリックにも関わらず、英国植民地時代の「世俗主義」には、政府が僧侶らに(律/Vinayaではなく、パーリー語仏典の内容に関する)試験を実施するという意味もあった。それは仏教が、教えの実践ではなく、仏典の内容に限定されたものである限り、僧院を政府の教育制度に取り込めたことを意味する。植民地時代のビルマ人たちにとって世俗とは、カルマやサーサナの概念は使える空間であるが、実践は別のロジックが作用していたようである。 現代の運動においては、国家と公的な政治的言説、そして宗教の役割の間の正しい関係についてかなりのやりとりが行われている。国家とは、法律によって制限を設けて仏教を外的脅威から保護するプロジェクトを実施する機構だと言う人は多い。あまり露骨に外国人嫌いを目論まない形で仏教団体が国民のアイデンティティや国家の発展、文化の保護を国家と同様に積極的に進めるべきだという人もいる。ミャンマーにいる欧米の大使たちが、開発計画や特定の僧侶や僧院派閥による仏教解釈を積極的に是認した後、選挙の直前に政教分離を表立って要請した。それはあたかも、先の是認だけでは、仏教、宗教、政治の構成要素を定義する作業が予定したようには進められていないからとでも言いたいかのようであった。 このような大使たちの行為は、仏教と世俗主義のカテゴリーが構成されていく過程ははるかに複雑であることを示している。僧院の開設や、仏教徒の社会奉仕事業に臨む大使たちの映像は、パーリー語の試験を監督し、僧院学校のカリキュラムを書き直す、19世紀の英国植民地の行政官たちのセピア色をした写真のテクニカラー版のようにしか見えない。仏教はそれ自体、これらの相互作用における権力をめぐる言説の産物なのである。このゲームの中で、このような大使たちの行動は、リベラルな解釈とナショナリスティックな解釈という両極の間で仏教解釈の幅を決めていくことを正当化してしまい、そうすることで、国民、人種、あるいは排他主義的アイデンティティによって定義されないような仏教実践、アイデンティティと動員の概念と態様の創出をきわめて積極的に阻止してしまう。さらに、こうした行動は、一部の意見を助長し、その他の意見を封じ込める過程の中で、ミャンマー特有の世俗の意味を規定していくことになる。 学者たる我々が、宗教、政治、あるいは世俗を普遍的で固定的な性質のカテゴリーと前提したまま仏教と政治を調査すると、諸概念を現地の文脈の中で再定義し、再形成しようとする人々が行っている多くの作業を見逃してしまう。自分たち自身の想定に基づいてこのようなカテゴリーを常識的で固定的なものと考えて、分析装置として使用することは容易である。だがそれでは、我々が研究せんとする運動のポリティクス、すなわち、文化と知の働きにある権力の作用を見落としてしまう。この点で、我々にとってより有意義なことは、仏教徒たちがビルマ人の生活を構成するカテゴリーを定義、再定義するポリティクスに着目することであろう。そうすると、植民地時代と現在の仏教徒の運動の両方が、諸概念をどのように作りなおしてきたのかを考えることができる。サーサナや宗教、政治、国家、仏教といったアイデアの変化を通じて、ビルマの人々が自己や自分達の行動、その未来と過去を認識するときの諸概念がどのように作りなおされてきたのかがわかるのである。  我々がミャンマー(ビルマ)とビルマ仏教を研究対象にすることで、我々はこれらの概念に真実味や信ぴょう性を添えることになるが、それは問題含みである。もし、我々がビルマ(ミャンマー)を知っていると主張することでキャリアを積むうち、「ビルマ(ミャンマー)」は一国民として無意識に当たり前の対象となり、知ることができ、一見不変なものとしてしまうと、我々はナショナリズム、ベネディクト・アンダーソンの言う国民の想像行為に寄与していることになる。もし、ビルマ仏教が我々の研究の中で絶対的で当然の何かとなり、我々が常に権力の作用を察知するような流動的な概念でなくなるのなら、我々は自らを現地の政治に関与し、暗黙のうちに現地で支配的な言説を、たとえその内容を批判していたとしても、支持することになる。だが、我々が学術研究や論文において、「仏教」、「宗教」あるいは「世俗」といった概念が、明らかに研究の余地を残すものであり、アイデンティティや排除の方法であり、相容れ難いさまざまな文化と表現の一部であると論じつづける限り、(自由主義的形式であれ、排他主義的な形式であれ)ナショナリストたちがアイデンティティと政治的現実を排他的に捉えて主張する試みというのは、ミャンマー、アイデンティティ、仏教に関するその他の意見や解釈を打ち消すためのメカニズムであることを認識することができる。 トロント、ヨーク大学 准教授 Alicia Turnerアリシア・ターナーはトロントのヨーク大学のHumanities and Religious Studies(人文宗教学)の准教授で、The Journal of Burma Studies(ビルマ研究ジャーナル)の編集者である。彼女の最新の著作はSaving Buddhism: The Impermanence of Religion in […]

Issue 19

首都バンコクにおけるヒンドゥー教の舞台: 都市部タイ仏教徒空間の儀礼的スペクタクルと宗教多元主義

この数十年間でタイの仏教徒は増々、奇跡的な加護と親しみやすい信仰を兼ね備えた慈愛の源泉として、ヒンドゥーの神々を崇拝するようになってきた。現代バンコクの多くの公共の場には、ヒンドゥー教そのものではなくとも、ヒンドゥーの神々や信仰実践への興味をそそる場所がある。例えば、インド系移民が元々は移民コミュニティのために建てたヒンドゥーの諸寺院、シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院(Wat Khaek/インド寺院)、デーヴ寺院(Dev Mandir)、ドゥルガー寺院(Durga Mandir)、ヴィシュヌ寺院(Wat Wisanu)などが挙げられる。また、タイ族の仏教徒たちが、ヒンドゥーの神々に祈りを捧げようと建設した寺院には、チャクリー王朝初期に王宮のバラモン達のために建てられたデーヴァサターン(Bot Phram/バラモン寺院)や、より近年に建てられたラームイントラー通りの巨大なシヴァ寺院などがある。加えて、様々な個人や私立機関、政府機関などが、ヒンドゥーの神々の神像を単体で中心に据える公設の祠を建てることも増えてきている。エラワン廟のブラフマー神像は、おそらくこの最も有名な例であり、またインドラ神や那羅延天(ヴィシュヌ神)、ラクシュミー神、三神一体(トリムルティ)、ガネーシャ神の祠も、ラーチャプラソン交差点から徒歩圏内の近場にある。現在、様々なヒンドゥーの神々の神像や祠が、首都バンコクの至るところにある仏教寺院(wat)や汎宗派主義の神廟(thewasathan)の両方で容易に見られるようになった。  インド系移民がヒンドゥー教信仰を実践するための場であれ、タイ人仏教徒がヒンドゥーの神々への信仰を示すための場であれ、このような公共の礼拝所は、バンコクに居住する両者にとって、ヒンドゥー教全体としての社会的再生産と公的イメージ化の重要な中心となっている。そして、ヒンドゥーの諸寺院(あるいはヒンドゥー教団体と関連するラームイントラー通りのシヴァ寺院)が、ヒンドゥーの儀式を大規模な公共の祭りとして企画・推進する時、インド人ヒンドゥー教徒とタイ人仏教徒の宗教世界や儀礼的想像力、信仰の論理は、ほとんど必然のように密接に絡み合う。意図の有無にかかわらず、ヒンドゥーの儀礼サイクルの中で共同で作り出される神像を祀る儀礼の中で現出するのは、インド人コミュニティにとっての伝統的ヒンドゥーの宗教性を帯びた瞬間だけではなく、一般のタイ人仏教徒にとっての汎宗派的な信心や他者性を帯びた光景でもある。このような宗教的接触を通じて、仏教徒やヒンドゥー教徒、そのコミュニティや、当局は、根本的なところから互いを構築し合うようになる。そして、増々都市化と国際化の進むタイ社会というイメージの元で、宗教多元主義や多様性の受容、寛容、アイデンティティにまつわる興味深い問題を提起している。 ナヴラートリ祭 10日間に及ぶナヴラートリ祭は、シーロム通りにあるタミル・シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院において、毎年10月に執り行われる。この祭りは、タイ都市部の公共空間で、複数の宗教・宗派のコミュニティが、彼らのために大規模なヒンドゥー教儀礼を計画、運営、開催する際に生じる複雑な宗教の絡み合いの状態をよく示している。多面的な様相を示す祭りの期間中、ドゥルガー、ラクシュミー、ウマテウィー、サラスヴァティーといった女神像はその配偶者や従者らの像と共に、寺院の中に置かれ礼拝の対象となる。それぞれの日に以下のものを組み合わせる。すなわち①絶え間ない個々の一般参加者による伝統的な供犠と、②その寺のバラモンが行う朝、昼、晩の三度の特別な供犠である。最終日の夜に寺の外で行われる行列は、祭の儀礼とその実践のクライマックスである。行列の中心を成すのは、それぞれに異なる女神に憑依された三人のインド人霊媒師と、ガナパティ(ガネーシャ)、スブラマニアン、クリシュナ、カタラガマ(スカンダ)、ウマテウィーの神像を乗せた5台の山車である。大勢の楽師隊や踊り子、バラモンや信者の一行が、これらの霊媒師と山車を取り囲む中、行列は寺を抜け、一巡するのに7時間以上もかかる3㎞の環状の道路沿いを進んで行く。何万人ものタイ人仏教徒たちが、飾りを施した大きな祭壇を行列経路の両側に設置し、時には深夜の2時3時まで待ってようやく、彼らの脇を次々に通過してゆく霊媒師やバラモン、神々の全てから祝福を受けとるのだ。 この祭りの最初の9日間の一般参加者の90%以上は、タイ系の人々や中国系タイ人の仏教徒であるが、最終日の夜には、バンコク郊外や内陸部各県からの来訪があるため参加者数は天文学的な数字に膨れ上がり、インド系ヒンドゥー教徒の割合はより一層少なくなる。つまり、シュリー・マハーマリーアンマーン寺院のナヴラートリ祭は、本質的にはバンコクに居住するタミル系ヒンドゥー教徒コミュニティの重要な年中行事であり、祭祀を専門とするバラモンが主宰、運営するが、信徒や参加者、後援者の大部分はインド人でもなければ、ヒンドゥー教徒でもないのである。そして、この祭りの10日間を通して公衆に示される儀礼の供物、供犠、信仰は複雑に絡まり合い、模範的なヒンドゥー教行事でありながら、正統的仏教儀礼として共鳴している。さらに印象深いのは、ナヴラートリ祭が実際に、ヒンドゥー教徒と仏教徒の両コミュニティの内部から、参加者や信仰上の見解、儀礼の筋書の多元性を醸成し促進しているという事であり、それらが全て、祭りの期間中に満足のゆく形で表現され、実現されているという事だ。   儀礼参加者の多様性と儀礼の筋書の多元性 人口統計で見ると少数派でも、インド系ヒンドゥー教徒の多様な集団は、ナヴラートリ祭の開催に重要な役割を担っている。バラモン神官やインド人霊媒師、儀礼補佐役、それに古典音楽の奏者らは、この祭りの期間中祭祀を司る重要な人々である。これに加え、寺の管理者や出資者、ジャーナリストや映像監督も、シーロムに居住するローカルなインド人コミュニティの出身者であり、常連の、しばしば重要な参加者として、毎日早朝から深夜までかかる儀礼を計画し、運営する。ローカルなインド人コミュニティの信心深い個人や家族、商人たちが、ヒンドゥー教徒の参加者の大部分を占める一方で、インドから来るタミル州宗教省の官僚代表や、マレーシアとシンガポールから来る少数のヒンドゥー教徒たちも姿を見せる。プーケットで行われる華人のベジタリアン祭のような国境を越えた華人の巡礼と観光の対象には未だなっていないものの、現代のグローバル化したメディアと交通の時代の中、このナヴラートリ祭のヒンドゥー教徒の観衆たちは、明らかにバンコクだけでなくその外からも訪れるようになっている。 タイ人仏教徒をみても多様な集団がこの祭りに参加している。例えば、少数だかタイ人警官や軍人が警備をしていたり、露店商が儀礼用品を売ったり、メディアがこの行事を報道したりする。さらに重要なことは、大勢のローカルなタイ人と中国系タイ人の仏教徒たちが、シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院の日々の営みの中で重要な権限を持った地位を占めているという事だ。彼らは寺の管理人や出資者、儀礼補佐役を務めている。この寺の儀礼補佐役の多くはタイ人仏教徒であり、彼らは祭りの期間中に寺に押し寄せ、なだれ込む、大勢のタイ人仏教徒の一般参拝者たちをさばく上で不可欠なのである。寺に押し寄せるタイ人仏教徒の参拝者たちは、主にバンコク出身者であるが、明瞭に異なるいくつかの層に分けることができる。圧倒的多数は、この寺やヒンドゥーの神々には一過的にしか関わらず、祭りを神の加護と祝福を得るのに丁度よい、一度きりのチャンスと見ている個人や夫婦、家族などである。しかし、タイ人仏教徒の中には、祭りの期間中定期的にこの寺に戻り、日に三度行われる祭式に参加しようと居残るものたちが存在する。以前この寺に参拝したり供物を捧げたりして得た霊的加護に恩義を感じている者もいる。またヒンドゥーの神々全般に特別な信仰上の思い入れを募らせる者たちもあり、ナヴラートリ祭はこの信心を実践し、強める上でうってつけの機会となっている。また、中にはプロの霊媒師もおり、彼らは自分達に定期的に憑依するヒンドゥーの神々や女神たちとの深い一体感を感じ、業(カルマ)によって現世で神への奉仕者となったと恩義を感じている。 最終日の夜の行列では、これらタイ人仏教徒の多様な層は、数も増え、特徴もますます多様化する。大勢の警官やボランティア、露店商たちがやって来て大群衆をさばき、サービスを提供する。バンコク大都市圏に住み、日和見的に神の加護を求める事に興味を持つ何万人ものタイ人仏教徒が、この行列を目にしようとやって来るのだ。しかし、行列経路沿いに一時的な祭壇を設けている個人や集団の多くは、ヒンドゥーの神々を熱心に信奉する人々の小集団か、あるいは個人的な取り巻きに付き添われたプロの霊媒師たちのどちらかである。これらの信奉者や霊媒師たちのほぼ全員が、この祭りの期間以前にシュリ―・マハーマリーアンマーン寺院で行われたいかなる儀式にも参加した事がなく、また中にはピッサヌロークやコーンケーンなどの遠方からやって来る者もいる。一般のタイ人仏教徒市民にとっては、殺到する大群衆のために寺院へ近寄る事が困難となるために、これらの行列経路沿いの仮設祭壇が二次的で補助的な祭祀の供物や祭りの光景と共に、しばしば宗教的好奇心や関わりの主な対象となる。正規の行列の前後には、一般の人々が祭壇の前にたむろする様々な霊媒師たちに神の祝福や神との仲裁、神の助言を求める。この祭の行列経路は事実上、騒々しいタイ人仏教徒の帰依者にとって、補助的・自律的な舞台となる。ここでの信仰は、寺のバラモン権威の統制が直に及ばぬものとして、自然発生的に出来上がっていく。実際、正統派ヒンドゥー教から黙認された仏教徒の熱狂的信仰やトランス憑依、パフォーマンスの過剰、異教性といった大規模に展開する公衆の人々の光景は社会的可能性を切り開くものであり、多くの参拝者や参加者たちがこのナヴラートリ祭の劇的な山場に魅力を感じる所以ともなっている。   仏教徒の首都における多元主義、多様性の受容と寛容  シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院のナヴラートリ祭の開催において、バンコクのヒンドゥー教徒と仏教徒のコミュニティが密接に絡み合いながら役割を持っていることは、ある程度、近代タイの一連の大規模な社会発展に基づいたものである。インターネットや全国規模のマスコミ市場、そしてグローバルに行われる観光によって、インドとタイ両国におけるヒンドゥー教の信仰や実践は、タイ人仏教徒にとってさらに知られたものとなり、理解可能で近づきやすいものとなった。タイ人資本家や企業家は、ヒンドゥー教の芸術的、物質的、文学的文化の中で、隙間産業を生み出してきた。都市化と交通網の発達によって、増々多くのタイ人が仏教とヒンドゥー教の継続的接触を日常的に体験できるようになった。規制のない中で宗教という多様にまたがる領域で仕事をする企業家は、創造的・宗教的なブリコラージュを行い、二つの宗教コミュニティ間で文化を仲立ちする役割を果たしてきた。拡大を続ける宗派を超えたこの大衆的な宗教性は、奇跡や熱狂的信仰、秘教、恍惚状態を強調しながら、既存の秩序や正統派エリートの支配の及ばぬところで宗教の交流を促進してきた。こういった展開は、さらに新たな問題を提起している。 シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院のナヴラートリ祭は、明らかにヒンドゥー教の儀礼であるが、これを仏教徒の祭りと呼ぶ事も、今では可能なのではないか?祭りの主な神話や儀礼の筋書がある一つの宗教コミュニティに根差したものでありながら、圧倒的な数の参加者が別の宗教コミュニティの出身である場合、どのように宗派のラベルを用いるのか?祭りの最初の九日間に寺の内部で生じる儀礼サイクルは、儀礼の精神や信仰論理、宗教的権威が多様化し細分化する最終日の行列とは、記述上でも分析上でも異なったものとして扱うべきではないのか?何らかの意味があるとすれば、どのような意味において、この祭りがシンクレティズムやハイブリッド性、ブリコラージュ、トランス・カルチャーの事例となりうるのか? さらには、現代の仏教国タイにおける宗教の多元主義や多様性の受容、寛容といった特異な社会的現実をいかに説明するのか?祭祀への共同参加やその相互作用の事例が、仏教徒とヒンドゥー教徒、華人の宗教コミュニティの間で豊富な一方、仏教徒とキリスト教徒、ムスリムのコミュニティの間でそのような事例が見られる事は少ない。これらの宗派を超えた共同関係に見られる違いは、一体どの程度、宗教人口統計や宗教の土着化に関する戦略、純化への要求、宗教的共存の歴史的記憶、そして改宗や紛争をもたらすとされる外国人への恐怖心などが対照をなしていることの結果であるのか?祭祀への共同参加やその相互作用が、仏教徒とタイ国内の全ての宗教的マイノリティたちとの間でも、同じ様に上手く宗派間分裂の橋渡しとなる事を望めるだろうか?それともむしろ、全てを受け入れ続ける寛容性を追い求める上では、多様な代替戦略の醸成が必要なのだろうか? Erick White(Cornell University) Issue 19, Kyoto Review of Southeast Asia, March 2016

Issue 18

ミャンマーにおける家族の同性愛嫌悪と「オープン」の同族関係

ミャンマーでは、様々なミャンマー語の俗語や英語の借用表現によって、ジェンダーやセクシュアル・マイノリティの主体ポジションが示されている。主な男性の主体ポジションはapwint (「オープン」) 、apôn (「ハイダー」:隠す者)、homo (「ホモ」:同性愛者)や、thu nge (「ガイ」:男)である。オープンとは男性で、その言動や見た目が女性的な者を言う。オープン達が中国から輸入した女性ホルモンを服用する事は、一般的ではないにしろ、彼らがジェンダーの規範的集団を出て男性から女性に転換したトランス・コミュニティの一員になるための通過儀礼として、日常的に行われている。性別適合手術は、まだミャンマーの医療市場では受けることができないが、資金力のある、ごく少数のオープンたちは、海外でそのような手術を受けることができる。ハイダーやホモというのは、規範的な男として通用するような男性である。ガイは時に「ストレート」とビルマ人英語話者たちから呼ばれる者達で、やはりジェンダー適応者であり、ハイダーたちにとってはそれ程でもないが、オープン達にとっては第一の性的関心の対象となっている。ハイダーたちが言語学上、己の内なる女性的自己を「隠す」と位置づけられている一方、ホモのレッテルを貼られた者たちは、「女性的な」男性が、規範的男性であるガイとの関係を求める、という現地のジェンダーやセクシュアリティの文化を、様々に拒絶している。ホモは女性性、あるいは男性性と同定され得る人々であって、彼らはそれぞれに他のホモやガイに惹かれるのである。本論で筆者が特に焦点を当てるのは、女性的な男性、ビルマ語でapwintすなわちオープンと呼ばれる人々である。 オープン達は抑圧、特に警察による法体制の範囲内の嫌がらせや虐待の対象となっているが、この状態が、彼らの日常生活では滅多に重大な問題とはならない。 多くの場合、オープン達にとって、より差し迫った暴力や恥辱、苦悩の原因は、家庭の中で生じている。私が最近のミャンマーでのフィールドワークの際にインタビューした、非男性的な情報提供者の男性たちは、概して家庭内の事、幼少期に生じた事から自分達の身の上話を語り始めるが、多くの場合が自分達の経験した家族からの暴力的な反応についてである。これはミャンマーの文化制度内におけるジェンダーのヒエラルキーに幾分関係がある。オープン達にとって、女性性との関連は、男性としての社会的地位の喪失をもたらすものであるが、男性は「権力(awza)」や「カリスマ(hpoun)」に関し、女性よりも構造的に優位であるとされている。 awzaは政治的権力と関連付けられるが、hpounは道徳的、宗教的権威に関連付けられている。ミャンマーの仏教文化では、ある者のhpounの蓄積はカルマによって決まり、過去生で積まれた徳によるとされている。男性がより偉大なhpounを持つと考えられる事から、この象徴的な権威の観念が、女性よりも男性を優位とする仏教的宇宙観を支えている。ある男性が、男性から女性に主体ポジションを換える事は、hpounを弱める事と見なされ、その結果、人間性がおとしめられ、敬意が払われなくなる。また主体ポジションの変化は、家族の社会的地位にも問題をもたらす。なぜならば、この地位がanadeの法則によって規定されているためである。 Anadeは規定的な枠組みとして、ミャンマーでの対人関係を左右するものである。Anadeは敬意を意味し、これには他者に不快感や苦痛を与えると思しき言動を避けることも含まれる。Anade、あるいはこの慇懃な敬意の文化は、トランスのミャンマー人達にとっては問題である。なぜなら、これは基本的にジェンダーの規範に基づくもので、これによってオープン達はヘテロノーマティブ(異性愛規範を是とする)なミャンマー社会の中で、劣った存在と位置付けられることになるからだ。重要な文化伝達の機構として、ミャンマー人の家族単位は、Anadeの規範にトランスの子供たちを同化させる上で重要な役割を担っているが、その結果、子供達は苦しむことになる。子供達は幼少期から、両親に従うこと、彼らを支えることを教えられる。トランスの子が居る家庭にありがちな話の筋で、男性規範に適応し損ねた息子に直面した父親の最大の関心は、面目を保つことである。この赤恥の原因は、トランスの子を持つことで、その家族が人々の嘲笑を買うはめになることだ。だが、ミャンマー人の父親に更なる追い打ちを与えるのは、彼の息子がトランスであるために、彼のawzaには、つまりは男性としての「権威」で家族単位を取り仕切り、いかなる逸脱も退け、これを矯正する力には、大した影響力がないと見られることである。このスキーマにおいて、awzaは同意上の支配、anadeは強制力と関わっている。 例えば、Chit Chitという情報提供者は、両親と共にヤンゴンのとある衛星都市に住んでいたが、十代の頃にオープンとなり始めた、あるいは女性らしさを呈するようになった。彼女の父親は当初、父親の威力を駆使し、Chit Chitをジェンダーの規範内に追い込もうとしていた。だが、これが望ましい結果をもたらさなかったため、Chit Chitの父親は体罰を行使したが、それでも思うような効果がなかった。その後、Chit Chitが一家を去ったために、父親の男らしさの概念に関わるawzaの権威に、さらなる打撃が加わった。息子が女性としてオープンになる時に、父親が被る赤恥は、去勢さながらの経験となり得るものであり、トランスの子供たちに対する父親の、時として暴力的な反応はこれによって説明される。 抑圧的な家庭力学の例は、ヤンゴンのオープンであるLayの話にも見られる。13歳の時、Layはもはや家族との同居に耐えられなくなっていた。それは彼女の父親が、彼女がトランスであり続けるのであれば、もう家族としては歓迎しないと告げたてからである。Layは路上に放り出されたが、これは非常につらいことであった。なぜなら、それは彼女がオープンの主体ポジションとなって程無い頃の出来事で、親類関係の代わりに構築されるオープンのソーシャル・ネットワーク内に居場所が無かったためである。トランスの同族関係に加わるために必要な一定の知識や技術は、大抵、トランスの母親の養子となれば得られる。Layは路上をさまよい、とうとうヤンゴンの風俗業の中心地の一つにあるチャイナタウンの近くに行きついた。Layは語った。「そこで多くのオープン達に会ったけど、私に話しかけたり、私を助けたりする人はいませんでした。彼らは私を知らなかったのですから。ひたすら歩き続けました。どこへでも、こころのおもむくままにね」。Layは帰宅を決意し、家に帰ろうと試みた。それは耐え難かったが、路上生活よりもましであると思われた。両親は彼女が家に戻ると、彼女を金属棒で殴りはしたものの、彼女を家に住まわせた。しかし、Layの両親たちの苛立ちは増々募った。それは、彼女が近所で普通の男性として振る舞いたがらず、そしてオープンとなる、女性らしく振る舞うことを、彼らがコントロールできないことへの苛立ちであった。ついに彼らはLayに、オープンで居続けるなら、もう家に居ることを歓迎しないと告げ、彼女は再び路上へ追放された。 トラウマ的ではあるが、この家族の家を出る行為、そして同族関係の再構築も含め、新たにクィア同士の結びつきの在り方と折り合いをつけることで、多くのミャンマー人オープン達は帰属意識を得られる。トランスの人々は、実の家族から拒絶されると、他のトランスの人々との友情関係や家族的な「母-娘」関係のモデルに基づく、新たな関係形態を模索、創造する。再構築された同族関係の力学は、ミャンマーのトランスの人々の日常生活における重大な関心事となる。トランスの人々は、概して家庭内で様々な形の暴力や苦悩、疎外感を経験する。その結果、家庭を離れることが、しばしば、多くのトランスの個人たちの選び得る唯一の選択肢となる。結果的に、その人は実の家族と別離するものの、トランスの社会性は、彼らがクィアの同族関係の単位に加わることで生じる。このようなクィアの同族関係の諸形態は、主として特別なワーク・ラインを通じて形成される。そこでは年若いトランスの「娘たち」が、年上のトランス達と「母‐娘」の関係を結ぶのであるが、これは親密な関係と経済的安定、職業訓練を兼ねたものである。 トランス達は支援ネットワークの中で、通常の親族同士のように関わり合うが、これは実の家族に代わるものである。この二つの同族関係の様式の大きな違いは、そのメンバーとなるための基準にある。実の家族は縦型式の同族関係であり、これに加わるには、遺伝や共通の根本的属性、たとえば血縁関係などが基となる。対照的に、トランスの同族関係は、水平的かつ拡散的であり、これに加わるための基準は、ジェンダーや希望などの文化的範疇である。ここでいう水平的とは、トランスの同族関係が均一な権力構造であるという意味ではない。ミャンマーにおける主要な同族関係の構造は家族単位で、その中では祖父母たちが最年長者と見なされる。年長者たちが亡くなると、次世代の者達がこれに代わって家長となる。トランスの同族関係の様式も、ヒエラルキー的には同様のパターンに従うもので、若年メンバーは目上の者達からの恩義を受けている。 1960年代以降、ミャンマー人apwintすなわちオープン達が次第に経済的なニッチを生み出しており、重要な生計手段の機会や、様々な社会組織の形成につながっている。現在、ミャンマーでは二つの職業が、広くオープンと関連付けられている。即ち、それらは霊媒業と美容業である。これらの職業は俗に、英語のラインという言葉で呼ばれている。美容業界は、ミャンマー人トランス達が就ける主要なワーク・ラインであり、しばしば霊媒業や風俗業とも絡んでいる。美容院はトランス達の家やコミュニティセンターとして機能しているが、出会いの場でもあり、国際的なHIV教育と予防のネットワークの中核でもある。トランスのワーク・ラインは、トランスの人々の重要なセーフティ―ネットであり、最近家を出た若者達にとっても、年配の退職者で家を出て久しく、実の子供達からの支えが受けられない者達にとっても、同様である。これらのワーク・ラインは、トランス同士の時空を超えた結びつきを促進するものである。今日、メーク・アップのsaya (美容師)になるのは、ミャンマー人トランスジェンダーの人々の最もありふれた夢であり、この業界は他の業界よりも、トランスジェンダーの人々を多く取り込んでいる。この業界のトップの者達は、華やかな公的生活を送っており、これがミャンマーの同性愛者やトランスジェンダーのプライドにとって、第一の目標となっている。実家での体験が、多くの場合、ネガティブなものであることを考慮すると、ワーク・ラインを通じて形成された同族関係は、トランスの帰属にとって重要な社会構造なのである。 トランスの文化では、「娘」は「母親」を敬い、これに仕え、時には崇めることが義務付けられているが、これに対して、母親にはその娘を支援し、養い、彼女たちが独立して成功に満ちた幸せな人生を送れるようにしてやる義務がある。中でも、支援は若いトランス達にとって不可欠なものである。彼らは自分達が経済的に独立したトランスの母親となり、今度は自分達が養女を取れるようになるまでは、非常に不安定である。「母親」や「娘」のカテゴリーは、様々に分類できる。母親達の中には、その娘の人生にとって不可欠なまでに重要で、永続的で生涯にわたる関係を持つ者達もある。また別のトランスの母娘関係は一時的であって、中には一生のうちに二人以上のトランスの母親を持つ娘もある。トランス達の日々の会話の中で、ミャンマー語の「母親」と「娘」という言葉は、日常的な代名詞でもあり、年配のトランスが年若いトランスを呼ぶ際に、これを用いることもあれば、その逆もある。「養子をとる」という動詞は、「母親」と「娘」という言葉を、より正式な同族集団を形成するものとして区別する上で、また、これらの言葉の代名詞的用法を区別する上で重要である。 だが、ミャンマー社会における家族やジェンダー、ヘテロノーマティブなanadeの規範の重要性を思うと、なお、非常に多くのオープン達が両親に逆らって家を出る道を選んでいることは、注目に値する。anadeは、極めて重要な序列化の原理であり、個々がオープンのアイデンティティへ移行する上で、大きな障壁を作り出している。なぜなら、この文化制度の中で、家族というコンテキストにおいては、両親に対する義務の方が、己に忠実であるよりも優先されるためである。これは家庭的安定を個別化よりも名誉とする、ミャンマーの民族心理学を反映している。家を出ることで、オープン達は、単にジェンダーやセクシュアリティに関するだけではなく、anadeについても、基本的社会規範に背くことになるのだ。 しかし、ここ数十年の間に、若いオープン達が活気あるトランス支援ネットワークに加わる機会が増々増加している。これらのネットワークは、大抵、家族単位をモデルに組織されたものである。オープン達のワーク・ラインの発展は、オープンとなるための場を作り出し、経済的に独立する上で極めて重要なものである。トランス達はワーク・ラインを通じて、現代ミャンマーでオープンとなり、オープンとして生活するために必要な経済力を、実家に頼らずとも得られるのだ。これらトランスの同族ネットワークは、トランスの人間性に有利な社会的集団の形成を伴うが、ミャンマー文化の主流である年齢に関する序列をいくらか再現しており、ここではトランス流anadeがこれを律する。ミャンマーにおける近年の政治の自由化は、ミャンマーのトランス達に、国家的弾圧に挑む重要な機会を与えた。しかし、オープン達が家庭内で経験するような、日常的な形の社会的、文化的抑圧への対処は、おそらく今後も、ミャンマーのトランスの人々にとって、最も困難で長引く闘いとなるであろう。 オーストラリア国立大学 David GilbertAustralian National University Issue 18, Kyoto Review of Southeast Asia, September 2015

Issue 17

インドネシアにおける不平等と民主主義

1998年のスハルト大統領失脚に至るまでの数年間、いわゆるkesenjangan sosial、ないし「社会格差」の高まりに関する国民的議論がインドネシアのマスコミで話題になった。1980年代に経済自由化政策が始まると、製造業と金融業が急成長し、中産階級の豊かさの兆しがインドネシアの諸都市において増々目につくようになった。また、超富裕層に属する実業家たちが増えていることも感じられるようになったが、そのような人々は大抵、トップレベルの政府高官の子弟や家族の一員であった。社会的公正を求める声がスハルト政権への不満を煽り、1998年の体制転換の前後には、ジャカルタやその他の大都市の路上でのデモや暴動となって激しく噴出した。多くのインドネシア人たちはreformasiの時代が、より開放的で民主的な政治だけでなく、さらなる社会的平等をもたらしてくれることも望んだ。 そのような望みは実現されていない。インドネシアが1998年に民主化を初めてから、富の不平等は大幅に拡大してきた。社会的格差が拡大してきたのは、とりわけ、超富裕層の財産が劇的に増加し、貧しい市民たちの所得が伸び悩んだためである。だが、不平等に対処する試みは、インドネシアの政治では目立たない。インドネシアの政治文化には平等主義の要素が濃厚にあり、貧しい市民を基盤とする社会運動が多くあるにもかかわらず、階級的亀裂にそった政党システムがあるわけでもないし、政府が体系だった再分配プログラムを提案したこともなければ、ましてや着手したこともなかった。かわりに、裕福なアクターたちが公的な政治を牛耳り、社会的弱者たちは主にパトロン・クライアント関係を通じて政治に関与してきた。この関係では、政治家たちは社会全体に再分配をするのではなく、的を絞った有権者に利益を供与するのである。しかし、再分配の政治はますます重要性を持ち始めており、それは、政治家たちが選挙において保険、教育、その他の社会福祉政策の拡充を訴える頻度が増えていることからも分かる。 インドネシアにおける不平等 歴史的に、インドネシアにおける不平等は、東南アジアの他の主要近隣諸国に比べると、若干低いものであった。ところが、官庁統計によると10年程前から不平等が悪化し始めており、しかも、その速度は加速度的であった。所得の不平等を測るジニ係数は2002年の0.32から、2013年には0.41にまで上昇した。だが、観測筋の大半は、この測定値が実際のインドネシアの不平等の度合いからかけ離れていると確信している。特に、この値は上層部への極度な富の集中を捉え損ねている。 経済学者やその他のアナリストたちが、この深まる不平等の原因を論じてきた。一つの要因として、貧しい層のインドネシア人たちの所得が伸び悩んでいる、あるいは、比較的緩慢にしか伸びていないという点があげられる。最近のある研究によると、貧困層および貧困層に近い層(near-poor)が経済成長によって受ける利益は、平均的な国民が受ける利益よりも大幅に少ないことが分かっている。 公的に貧者と分類される人が総人口に占める割合は、2002年の18.4%から2013年には11.2%に減少したものの、非常に多くの、いわゆる「貧困に近い層」と合わせると、彼らは未だに人口の約半分を占めている。世界銀行によると、2011年には、人口の43%が一日あたり2米ドル以下で生活していた。 これと対照的に、インドネシアの中産階級は確かに大幅に拡大しているのであるが、最も劇的な動きが起きたのは超富裕層である。過去十年程の間に、インドネシアの超富裕層に、圧倒的なまでに富が集中してきたのである。アメリカの政治学者ジェフリー・ウィンタース(Jeffrey Winters)が2011年に算定したところでは、人口の1%の100分の1以下に相当するインドネシアの最も裕福な43,000人の市民が所有する富は、インドネシアのGDPの25%に相当し、またわずか40人がGDPの10%をやや上回るほどの富を所有していた。 2012年には、インドネシアの億万長者の数が日本の億万長者の数を超え、また一人あたりで換算すると、インドネシアには中国とインドよりも億万長者の数が多い。 2014年の初めに、ウェルスインサイトという「世界の富裕層および超富裕層に属する人々」に関するデータを提供する機関は、インドネシアの大富豪の増加率は世界最速であり、億万長者の数が2013年の37,000人から2014年には45,000人を超え、増加率は22.6%に達すると予測した。 同様の企業であるウェルスXの一年前の計算では、インドネシアには785名の「超富裕層」の人々(各自少なくとも3,000万ドルの財産がある人々)がおり、その総資産は1,300億米ドルで、これは前年よりほぼ17%の上昇であった。クレディ・スイスも負けじと、インドネシアの億万長者の増加を予測しており、2014年の98,000人が2019年には161,000人となり、その増加率を64%とした。 ただし、このような予測は、多くの海外在住の富豪たちをおそらくカウントしていない。2006年にTempo誌が報じたところでは、シンガポールに住む億万長者の約3分の1がインドネシア人で、その多くが1997年から98年の金融危機の後に移住したということである。  このように富がますます集中する現象は、大きなグローバルな流れの一部であるが、インドネシアにおいて富の集中を加速させる一因は、2000年代に生じた商品産物(commodity)ブームであり、この時代には石炭やパーム油といった重要商品産物の価格と生産高が急上昇した。この好景気による利益はインドネシア社会の貧困層を利するよりもむしろ上層部にかなり集中したのであり、そのことは、インドネシアにおいて不平等が生み出され、維持されてきた要因が政治的であることを示している。概して、この商品産物景気の第一受益者となったのは政治的コネを持つ企業家たちであり、彼らはそのコネを利用して鉱山や農園の開発、運営に必要な許認可権を獲得することができた。その中にはジャカルタの主だったビジネス・アクターもいたし、さまざまな成り上がりの実業家、地方官僚や政治家もいた。彼らは、分権化によって地方自治体が獲得した裁量権を自分たちに都合よく利用できたのである。とてつもなく裕福なインドネシア人たちは今なおジャカルタとシンガポールに集中しているのは事実としても、大幅な富の急増は地方でも生じている。比較的辺鄙な場所に行ってみても、宮殿のような大邸宅や自家用ジェット機など、大いなる富の証拠を見出すことができる。 個人の富は政治権力と不可分であることが商品産物ブームから見て取れるが、そもそも、これは、長い間、インドネシアの政治経済の特徴であった。インドネシアの最も裕福な市民たちの大部分が、政治家の一族であるか、スハルト時代やそれ以後に政治的パトロンや政府の協力者たちに近づく事のできた家の者であるかのどちらかである。したがって、インドネシアの「オリガーキー(寡頭制)」政治は、ポスト・スハルト時代のインドネシア政治に関する多くの重要な分析において、主要な関心事となってきた。 寡頭制論の基本ポイントは、1990年代後半の経済的、政治的危機の後、オリガークたちがインドネシアにおける民主主義の主要機関である政党や議会を「略奪し」、またマスコミなどのような機関を統制下において市民社会をも支配したということである。こうしたことからすると、政治権力をめぐる争いというのは、基本的に国家権力の提供する経済資源へのアクセスをめぐるオリガーク間の争いといえる。そのような競争は、熾烈になり得る ―Jeffrey Wintersの印象的な表現によれば、インドネシアは「野放しの寡頭制(untamed oligarchy)」なのである。 不平等、政治と概念 極度の社会的不平等の存在は、当然、インドネシアや東南アジアだけに限らない。実際、トーマス・ピケティ(Thomas Piketty)の最近の有名な著作が明らかにしたように、それは先進資本主義諸国の不変の特徴であり、ここ数十年の間に、ますます明白となってきたことである。不平等が継続するには、それを支える思想的背景が必要である。ほとんどの社会では、2つの要素が多様に交じり合い、多様な形をとりつつ思想的背景を形成している。一つ目は、不平等を「正当化する」イデオロギーである。たとえば、社会のヒエラルキーは神やその他の超自然的な力が是認しているのだと主張をしたり、あるいは、貧者は個人的、集団的に自らの境遇に責任を負うと主張したり、裕福な者たちが富にふさわしいのは、その才能や勤労、世襲の原則、伝統、その他の要因によるのだと主張したりする。二つ目の一連の思想は、不平等を「飼いならそう」とする思想である。これは経済や社会生活に国家を介入させることで富を再配分するか、少なくとも、不平等の最悪の影響のいくつかを改善しようとすることを意味する。こうした思想はあらゆる社会に存在しており、特に前世紀あたりでは、福祉国家建設の試みと結び付けられてきた。しかし、福祉国家による干渉は、いくつかの国々では時に不平等を大幅に削減してきたものの、完全な不平等の撲滅を目指したことは一度もなかったのである。 インドネシアでは、どのような概念構造が不平等を促進しているのであろうか。ここで考察の一つの出発点となるものが、2014年6月に行われた全国調査である。これは二つの調査機関、「インドネシア・サーベイ研究所(Lembaga Survei Indonesia)」と「インドネシア政治インディケーター(Indikator Politik Indonesia)」によって行われたものである。 この調査によって、不平等に対する深い社会的懸念が明らかとなった。(他国の市民と同様に)回答者たちは、自国の実際の不平等の程度をかなり低く見積もってはいたものの、51.6%が現代インドネシアを若干不平等、40.1%が非常に不平等であるという意見であった(わずか6.6%がインドネシアを若干平等、0.5%が非常に平等であると見ていた)。ほぼ4分の1にあたる23.3%の人々は、所得格差について「どのような状況下でも」許容できないと述べた。さらに多い66.3%の人々は、所得格差を条件付きで許容できると述べたが、興味深い点は、これらの回答者のわずか18%しか、次のような社会的正当化を正しいと判断しなかったことである。「金持ちが金もちたる所以は、勤労の結果で、貧者が貧しいのは、彼らが怠惰なためである」という正当化の仕方である。不平等を条件付きなら許容できると述べた者たちの大半が適応派で、国家の働きかけが貧者の状況改善に必要であると示唆する条件を選ぶことによって、不平等を許容可能であるとしていた。不平等を許容するための条件とは、もし生活必需品が全ての人に無理なく買える価格であれば(23.6%)、もし貧困が減少しているのであれば(17.5%)、もし国家が全体として発展しているのであれば(17.5%)、もし裕福になるための競争が公正な状況下に生じたのであれば(16.3%)、というようなものであり、これらは国家の介入を示唆している。 これらの調査結果が示唆するのは、インドネシア社会における強い平等主義の精神と、社会的不平等と定義されるものに対する反感である。その起源は、経済ナショナリストや社会主義者たちの命題であるインドネシアの反植民地闘争に求めることができ、一般の政治論議は圧倒的に国家主義的かつ福祉国家的方向性を持ち続けたままである。「自由主義」という用語、そして「資本主義」という用語さえ、政治エリート階級に属する者同士の間でさえ事実上のタブーとなっており、全ての主要政党が賛同している意見は、国家が経済に介入し、貧者の運命を改善するべきであるというものだ。だが、そのような意見は広まってはいても、散漫である。keejahteraan(社会福祉)やpemerataan(平等)に対しておおまかにレトリックとしてコミットすることはあっても、それが、例えば、裕福なインドネシア人たちの税負担を引き上げ、本格的な再配分を行うという話になることはほとんどない。 障害と展望 平等へのこのような広範な人々の支持がありながら、それが不平等を抑制するための更なる努力につながらない理由は、フォーマルな政治の性質によるところが多い。一つの要因は、組織的に貧者を代弁する政党が存在しないことである。たとえば、労働組合とつながりのある社会民主党は存在しない。社会運動や動員が、より貧しい人々の間に存在しないと言うのではない ― むしろ、そのような運動は、随所に存在しており、(労働者の組織化のように)いくつかの分野では、これらの運動が過去10年の間にますます存在感を増してきている。しかし、こうした社会運動は断片的であり、部分的な政策変更に焦点を合わせ、選挙協力を通じて単発的な取引を成立させるのが関の山である。この要因と関連して、パトロン・クライアント関係が市民とその政治的代表者とをつないでいることも障害となっている。政治家は、社会福祉や平等のような普遍主義的な言葉を用いて市民にアプローチするが、彼らは概して、支持者へと厳密に絞った恩恵しか提供しない。それは、ある村での開発プロジェクトであったり、支援をしてくれている宗教組織を通じた社会支援プログラムであったり、選挙期間中の個人的な贈与や報酬であったりする。この種の恩顧主義は、大雑把ではあっても再分配ではある。しかし、低レベルで場当たり的である。また、こうした恩顧主義は、裕福なアクターに有利な一種の政治的実践でもあり、長期的には不平等の削減よりも、むしろこれを固定化する。 このような全ての障害にも関わらず、インドネシア政治における社会福祉、そしておそらく再配分も伴う新たなパラダイムの兆しがかすかに見え始めている。過去10年間で、とりわけ地方首長直接選挙の導入により、とりわけ医療部門で多くの地方自治体が新たな社会福祉政策を導入するようになった。新たに、国民皆保険制度も導入された。 2014年の大統領選挙で勝利した新大統領のジョコ・ウィドド氏は、貧しい有権者たちの支持を集め、彼は他候補と違って貧者の窮状を理解できる人物というイメージで売り込み、国民保険、教育その他の社会福祉サービスを拡充すると言った。就任早々の彼の政策のひとつは、貧困家庭への現金支給プログラムであり、最終的には人口の3分の1を対象とすることから、エコノミスト誌は、このプログラムは「その種の計画では世界最大のもの」と言っている。 要するに、国民の平等主義的な気質に適った具体的な政策が徐々に生まれつつある。富の不平等への直接的、抜本的取り組みは確かにありそうにないとしても、少なくとも、不平等を何とかするためのよちよち歩きが始まっている。 政治社会変動学科 Edward Aspinall教授 オーストラリア国立大学 アジア太平洋学部コーラル・ベル・スクール・オブ・アジア・パシフィック・アフェアーズ  Issue 17, Kyoto Review of Southeast Asia, […]

Issue 17

ベトナムにおける不平等の凝集と民主化に向けた圧力

東南アジアのほぼ全域において、社会的、政治的な対立が増加している。いくつかの国々は、経済的不平等と政治的不平等の両者を抱え、これが今日、民衆の抗議運動によって問われているが、そのような状況はベトナムのように、団結や抗議、集会の権利が制限された国でも同じである。不平等の政治力学、すなわち、実際の、あるいは認識された、様々な形をした不平等に対して、社会的な抗議運動がどのように生じ、いつ、どういう理由で、これらが民主化への要求、つまり、民主化の「ディマンド・サイド」に転換されるのかという事が、東南アジアのコンテキストでは、意外なほどに学者達に注目されてこなかった。最近の報告書の中で、アジア開発銀行(ADB)は、不平等の高まりが地域の政治的安定に対する、より大きな脅威の一つであるとしている。の推測では、「この地域の人々の大半、約5分の4の人々が、さらに不平等化する国々で暮らしている」。 ベトナムでは、ベトナム共産党(CPV)主導の、権威主義的な一党政権下での30年近い高度経済成長の後に、社会的抗議や民主化への要求が生じているわけだが、この国はしばしば、比較的「包括的な成長(inclusive growth)」を示す、所得格差水準が並の事例に挙げられ、中には1993年から2006年にかけての所得格差の低下を示唆する研究もある。この研究を踏まえれば、近年の大規模な抗議運動や、その他の形をした動員を通じて、不平等が政治問題化されている事が謎めいて見えるだろう。だが、不平等に対する許容度は、イデオロギーや、その他の異なるコンテキストによって変わり得るものだ。ある国では許容できる水準でも、イデオロギーや文化、その他の理由から、許容されない事もあるという事だ。ベトナム政治のコンテキストにおいて、党の公式レトリックは繰り返し、経済的平等と(レーニン主義版「中央集権的民主主義」とあだ名された)民主主義、さらには「国家」が中立国でなく、労働者や農民たちを支援する国である事を強調している。しかし、経済的平等や民主主義についての公式的な言説と、国民の暮らしの現実との間には、認知的不協和が拡大している。この不協和は、2006年以降の政治ブログやソーシャル・メディアの急増と関係がある。ソーシャル・メディアは、2013年の制限規定の導入により、議論やオンライン上でのニュースの共有、その他、政党国家に反する、あるいは国家安全と社会的秩序及び安全を脅かす、国家の結束を妨害すると思しき情報が全て禁止となった事、著名ブロガーたちの投獄が広く議論された事をよそに、今も発展を続けている。これらのブログでは、様々な物議をかもす問題、例えば、ベトナムと中国との関係や、民主化、多元主義、人権、汚職や不平等などが論じられている。中でも、党指導部による巨額財産の不正蓄財疑惑は、人々の大変な怒りを買っている。 不平等は、国家の空間に等しく広がったものではない。地方の中には、未だに人々が多かれ少なかれ同じ様に貧しい所もあれば、別の場所では、発展がかなり均一的であったり、また別の地域では、格差の急速な拡大が見られたりしている。つまり、不平等の全国統計水準では、不平等の政治に関わる地理的パターンがわからないのである。全国的な水準では不平等の推移が穏やかであっても、ベトナムの事例は、極めて高い水準の不平等の地理的な集中が発達している事、すなわち不平等の凝集を示している。これらの地域はまた、2005年から2006年にかけて、大規模な抗議運動の起きた地域とも一致する。また、これは多くの民主化運動の活動家たちの故郷でもあり、彼らが地ならしをした事によって、大衆が政治体制の民主化を求める、かなり主張の強い政治的市民社会が発展したのである。 不平等の凝集は、集中した「不同意の空間」(space of discontent)が発達する構造的な条件を形成したようだ。この「不同意の空間」では、異なる問題領域 (例えば労働問題や低賃金、人権侵害、社会保障制度の欠如、土地収奪、土地配分、環境破壊など)に関する抗議運動などを含む、様々な形をした動員が、互いに影響を及ぼし合いながら、権威主義的な政治の抑圧に対峙し、政治空間を広げている。インターネットを通じることによって、当初はむしろ地域的なものであった抗議が、政治への関心と地理的な広がりを持つ新たな支持者たちを得たのである。  経済改革と不平等の凝集 産業化は、海外直接投資(FDI)が主導する製造業の著しい集中を、ホーチミン市やドンナイ省、ビンズオン省などのいくつかの地方にもたらす事となったのであるが、これらは、市民団体らが国家に対して組織的自治や民主的権利を求める長い奮闘の歴史がある地域である。 経済改革が最初にもたらした結果は、地域化された経済的不平等であった。富が増々集中する国の南部では、ジニ係数の不平等水準が他の地域よりも高いものとなった。最近の国連人間居住計画(UN-HABITAT)の報告書は、諸都市におけるジニ係数を推定し、ホーチミン市を、アジアだけではなく、世界中でも最も不平等な街の一つと指摘し、そのジニ係数を0.53と推定した。これによって、ホーチミン市は「不平等の水準が非常に高い」というカテゴリーに当てはまることとなったが、UN-HABITATによると、これは「所得分配における制度上の欠陥を示す」もので、「市およびその他当局が、不平等を緊急を要する事柄として対処すべき(…)」状況であるということだ。この区分では「不平等の水準が危機的な高さに近づいている」。 所得ジニ係数0.4の定義は、「国際的な警戒ラインで、これを超えると不平等が政治的、社会的、経済的に、深刻な悪影響をもたらし得る」という事である。提示されたデータによると、ホーチミン市は「数値が全国平均を大きく上回る」、高度に不平等な都市として突出している。これに比べ、ハノイにおける不平等の水準はずっと低く、0.39と推定される。つまり、分配に対する経済成長の影響は、その結果が全国的に見られたものであるか、特定の地域を対象に推定されたものであるかによって異なるというわけだ。 また、不平等に対する認識も、これと同様のパターンのようだ。2014年に発表された調査は「不平等に対する重大な懸念」が、ベトナム市民の間に存在する事を示しているが、中でも、都市部の住民が最も強い懸念を示しており、都市部の住民10人のうち、8人が不平等の水準の上昇を不安と感じ、その大半の者達が同じ地域に住んでいるという事だ。  不平等の凝集と不満空間 この南部の産業的中心地のあたりこそは、改革時代に最初の大規模な労働者抗議の行われた場所であった。ストライキは違法であったが、改革時代を通じて拡大を続け、2005年と2006年、それ以降には爆発的に増加し、何十万もの抗議者たちを引きつけた。これが南部から全国へと拡大しはじめると、ベトナム共産党は次第に抗議運動を社会的、政治的秩序に対する潜在的脅威と見るようになった。国家の反応がさらに対立的となったのは、抗議者たちが他の民主主義擁護団体の支持を得る事となったためである。だが、これらの抗議運動は、既に土地の収奪や宗教上の権利、環境破壊反対、その他の問題に関する、他の形をした抗議行動のための政治的空間を開いていたのだ。幾つかの民主主義擁護団体が組織され、新たな政党や自主労働組合が公に発表されたが、中には「労働者の権利を保護し、これを増進させる。その権利には、政府の干渉を受けずに組合を組織し、これに加入する権利も含まれ、(また)土地を政府関係者らによって押収された人々の公正を期し、危険な労働環境をなくす」という明確な目標を持つものも存在した。 同年4月から10月にかけ、公に発表された民主主義擁護団体の中で、最も広く知られていたのが、ブロック8406であった。彼らはインターネット上に、「自由および民主主義に関するマニフェスト2006」を公表した。多くの著名な反体制活動家たちが、この労働者抗議を支持したが、その会報の中には「Tổ Quốc(祖国)」のように、不平等の高まりに触れ、より公正な社会の実現には、民主化を通じるより他の方法はないと論じるものもあった。Carlyle Thayerは、この時代を「民主主義擁護団体が明確な運動と融合しはじめた時代」と表現した。 戦後のベトナムで、このような最大規模の抗議運動が増加してから、わずか数か月後に一斉検挙が行われ、最も重要な指導者達が逮捕される事となった。 取締り強化の第二段階では、メディアやインターネット、それから社会科学の研究者たちまで、最も独立した意見の発信源が対象となった。抗議運動の指導者や、反体制活動家たちの裁判が開始された後は、公判で彼らを擁護した弁護士たちまでもが取締り対象となった。またYou Tubeに投稿された映像は、ジャーナリストたちが抗議運動の現場から報道、取材を行おうとした際、暴力的な襲撃を受けた様子であるとされる。 この暴力的な抑圧と、長期刑の判決が、抗議運動の若き指導者達に言い渡された事で、これが多くのブロガーたちから非難され、階層を超えた住民たちの怒りを招く事となった。より大規模な抗議運動が、2011年と2012年に再発し、このすさんだ歳月には、土地収奪をめぐる幾つかの対立が、国家側と自分達の土地を守ろうとする抗議者側の両側で暴力に発展していった。2012年の末には、新たに市民たちの民主化要求が生じ、2013年のはじめには、新憲法発布と同時に「嘆願書72」が、ジャーナリストの一団を前に、党執行部に手渡されたのであった。これは複数政党制による民主主義を主張したものであったが、わずか数週間後にはインターネット上に投稿され、12,000名の署名者を得たとされている。古参党員、たとえば憲法の専門家や、元司法大臣たちが、この嘆願書グループを率いていた。この新憲法には、民主的な方向に向けた変更点が何も含まれていなかったのである。 南部で生じた大規模な抗議運動は、政権交代を求めるものではなかったが、政権に充満した政治的不平等を疑問視する他の者達に、政治的空間を開くこととなった。多くの者たちが、ベトナムの政治体制の正当性と安定について、これが経済成長を生み出す限りは賛成だと主張した。だが、民主化のディマンド・サイドに着目すると、この期待には矛盾があるようだ。大規模な抗議行動への動員が急増したのは、むしろ高度経済成長期であったし、繁栄する南部では、貧困レベルが全国最下位であっても、非常に高い水準の不平等が存在する。2005年から2006年にかけての抗議運動の間とそれ以降に政治的市民社会が拡大したことの意義は、政治的代議制度や政治参加などの政治体制の諸局面についてベトナム共産党と切り離しては考えられないものだ、という支配的だった規範が変化しつつある事を示唆している。人々はたとえ政治的権利が保証されていなくとも、増々、そうした権利を有する国民として振舞い始めているのだ。 東南アジアの不平等の政治力学については、さらなる研究が必要であるが、このベトナムの事例は、全国レベルの下での動きが、不平等の空間的凝集、それが政治化される方法と政治体制の変革との関連性を探る上で重要である事を示している。 ストックホルム大学 政治学科Eva Hansson博士SE-106 91 Stockholm, Sweden eva.hansson@statsvet.su.se Issue 17, Kyoto Review of Southeast Asia, March 2015

Issue 17

マレーシアとシンガポールにおける不平等をめぐる動員

調査結果も評論家たちも、シンガポール(2011)とマレーシア(2013)での直近の選挙で、野党が重大な躍進を遂げた原因が経済にあるとしている。具体的には、生活費の増大や機会の減少、十分に裕福な人々とそうでない人々の間の格差拡大などである。両国における選挙結果は、この経済不安を反映したものであったが、選挙以外の政治参加がますます広がり、熱を帯びてくることで、政権の安定が脅かされていることも明白である。 マレーシアとシンガポールは2つの代表的な「ハイブリッド」体制、つまり、非自由主義的な政治体制と自由主義的な政治体制のタイプがもつ特性を組み合わせた体制である。マレーシアは競争的権威主義に当てはまり、シンガポールはヘゲモニック選挙権威主義である。どちらの国でも、独立以来、同一の政党か政党連合が権力を握り続け、歴代の選挙を勝ち抜いてきたが、これは(かなり実績に基づいている)もっともらしい正当性や、的の絞られた報奨金、都合よく歪められた競争区域等が組み合わさった結果である。近年では新たな課題が生じ、この平衝を揺るがしている。ニュース・サイトからソーシャル・ネットワークまで、新たなオンライン・メディアが政治論議を行う領域を広げ、国家干渉を比較的受けぬ政治的空間が開かれた。他方で、確たる成長の予想外の結果として所得と富の不平等の増大が起き、雇用のために大規模な海外からの移民と海外への移民が発生し、着実に社会的セーフティーネットが削られてきており、そうしたことへの議論が新たな議論空間で大いになされている。ハイブリッドな体制、シンガポールの国民行動党(PAP)と、マレーシアの統一マレーシア国民組織(UMNO)率いるバリサン・ナショナル(BN:国民戦線)は、「発展」の速度を緩めようとしておらず、これまでとは違う優先事項や枠組みに直面しても政治基盤を譲ろうしておらず、それがために、1950年代から1960年代にその支配を確立して以来、未曽有の困難に直面している。 不平等の証 シンガポールとマレーシアの両国が、経済的不平等の指標の上昇を経験し、その上昇についての議論が増え、また、ますます白熱するようになったのは、少なくとも1990年代以降のことである。シンガポールのリー・シェンロン首相でさえ、2011年の国会では「所得格差は以前よりも著しく…成功者の子供たちは首尾上々であるのに、大した成功を収めなかった者たちの子供らはあまりうまくいっていない」、そのために家族は「自分たちへの絶望や不安、心配を抱える」ようになっていることを認めている(Lee 2011)。それにもかかわらず、両国の政府指導者たちが、この諸変化を大いに容認してきたのは、これらが競争の原則によるものであるためだ。つまり、最高の教育を受け、高度の能力を有する労働力を育て質の向上をはかり、同時に、建築現場、プランテーション農業、製造業、その他の高い技術を要さぬ低賃金の働き口に十分な労働者を確保する上で、これが不可癖であるということだ。こうした取り組みには、市民の間の格差の深まりを容認すること、人口動態パターンを明白に変化させるような労働移住をより積極的に受け入れることを伴う。 実際の不平等以上に不平等は強く意識されているとはいえ、現に不平等の証拠はある。シンガポールとマレーシアは、1990年代後期から、経済的不平等の指数であるジニ係数の最高値という不名誉を東南アジアで競ってきた。ジニ係数には1(完全な平等)から100までの幅があり、OECD諸国のジニ係数平均値は2000年代の後期には32であった。シンガポール政府は寛大な所得移転をしていたにもかかわらず、ジニ係数は、2007年に46.7のピークに達し、2012年までに45.9に下がっただけである。 この格差の一部は大多数である華人内部のものであるが、民族間の格差は残る。所得と教育レベルは、インド系が華人系シンガポール人よりもやや低い一方、マレー系市民の平均月収は、華人系の人々の平均月収のわずか60%で、高等教育を受けた比率は6分の1である(Fetzer 2008, 147-8)。アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)による再分配があるにもかかわらず、マレーシアのジニ係数もやはり懸念すべき46.2である。 これは世帯レベルで測定した値であり、個人レベルで測定したほうがマレーシアでは困窮の度合いが高いであろう。 これと同時に生活費の上昇が続いている。インフレはシンガポールでは常に低く、1990年代の半ば以降、その年率は概して2%を超えていない。2008年にはインフレが6.5%に達した後、徐々に約4.5%にまで下がった。 マレーシアでも、2013年選挙の時の有権者たちの重大な懸念が生活費であったことが世論調査でわかっている。民族間の所得格差が徐々に減少してきたのは、ブミプトラ、つまり、マレー人と土着の少数民族を利する優先的政策が広範囲に実施されてきたおかげであった。しかし、民族内の格差は増大した。マレーシアの大半を占める農村地帯よりも都市部に恩恵が不均等に流れ込んでいるのはその一例である(Gomez, et al., 2012, 10)。ブミプトラたちの間でも、恩恵やパトロネージへのアクセスは平等ではなく、いわゆるUMNOプトラという与党とコネを持つものたちが特別扱いされて懸念と批判を生んだ。 生活費の上昇に伴って倹約をする必要があり、それが不安を生んでいる。とりわけシンガポールでは競争への不安がさらなる不安を呼んでいる。また、労働需要を満たすために、更に多くの海外からの労働者を受け入れることを政府がはっきりと表明しており、それが国民性に与える影響も不安を巻き起こしている。シンガポールへの移住は1990年代以降、急激に増加している。シンガポール国民及び永住者たちは、1970年には人口の97%を占めていたが、1980年には95%、1990年には90%、2000年には81%、そして現在ではたったの72%でしかない。つまり、シンガポールの現在の人口510万人のうち、約4分の1が非居住者の外国人で、そのほとんどが他のアジア諸国の出身者であるということだ。 このように人口構造が変わり始めると、普段はおとなしい「ハートランダ―たち」と、英語教育を受け、上昇志向、海外志向であるモバイルな「コスモポリタンな人たち」(Tan 2003, 758-9)も共に、不安げにオンラインの議論に参加することから野党支持に到る、様々な手段によって、はっきりと意見を述べるようになった。選挙調査や世論調査のデータによると、おそらくは国民行動党(PAP)の恩恵を最も受けた、若くて十分な教育を受けた中産階層の華人たちが今では同党に対して最も懐疑的である (Fetzer 2008, 136)。国家が腕の立つ「外国人技能労働者」を優遇しているために人々の反発を招いおり、その反発は映画、フィクションやブログなど、あらゆる場面で表面化している。つまり、これらの外国からの新参者たちは勤め口を奪い、シンガポール人男性に課された義務兵役を全うせず、ともすれば、特別な待遇や手当を享受していると思われているのだ(Ortmann 2009, 37-41)。さらには、外国籍住民の大部分が、民族的に現地のマイノリティと手を組んでいることも根深い偏見を生んでいる。 不平等をめぐる動員 経済的な不平等と不満が、国民たちの唯一の不満でないことは明らかである。例えばマレーシアでは、イスラーム化や共同体の権利を求める要求は物質的幸福に関する要求と重なるかもしれないが、異なった前提に立つために市民集団ごとにその重なり具合は同じではないかもしれない。だが経済的不平等は、両国においてますます目立ち、正当性を問う動員の根拠となっている。 これと同時に、インターネットが代替案を表明するための新たな公共空間を提供している。シンガポールは世界でも最たる「ネットワーク」社会である。全シンガポール人の4分の3近くがオンラインであるばかりか、15歳から19歳の97%の人たちがインターネットを日常的に使い、25歳から34歳の80%の人たちがFacebookアカウントを持っている(Kemp 2012b)。マレーシア人の約60%もまたオンラインであり、その90%がソーシャル・メディア・サイトにアクセスしている(Kemp 2012a)。両国の主要メディアは大変な曲がり角に来ている。両国では投資家たちに満足してもらうために、インターネットの検閲を制限しており、それゆえ、オンライン・メディアを通じて情報や議論、動員にアクセスする道が開かれているのである (Weiss 2014a)。 最近のシンガポール、マレーシア両国における抗議運動は、主にオンラインを通じて組織化された。シンガポール政府の公文書から、外国人労働者を急激に採用して、現地人口の減少を補完しようとする政府の計画が明らかになると、地元で仕事が減り、(例えば、シンガポールの非常に限られた空間が超過密状態になることで)生活の質が落ちるかもしれないことに脅威を感じた国民の怒りは、そのはけ口をオンラインに見出したのであった。ネットワーク上での痛烈な批判が現実世界での抗議活動を招いてもいる。2013年初め、移民排斥活動家たちがFacebookを利用して、シンガポールの過去数十年間でも最大規模の二つの抗議運動が行われたのである。これらの抗議があまりに激しかったことから、PAP政府は移民達ではなく、シンガポール国民だけに給付される特別手当(教育費など)の増額を余儀なくされた。また、野党各党にとってもメリットがあった。2011年の選挙活動期間中、野党の集会や政策がオンラインで報じられた事によって、メッセージ(そのほとんどは「生計に関する」不安にまつわるものであった)の届く範囲が広がったばかりか、より多くの人々が野党のイベントに直接足を運び、後には野党に投票するようになったと思われる。  同様に、マレーシアでも、前回の選挙と2013年選挙とでは、初めて投票する有権者の増加率が23%というこれまでにない高さとなった。そのほとんどが、若くインターネットに精通した野党寄りの人々であると思われる。この増加は、オンラインのニュースや議論、それに主にオンラインで企画された最近の大規模抗議と大きな関連があると思われる。そのような抗議の最大のものがブルシ(清廉で公正な選挙のための同盟)を支持する抗議であった。野党のイデオロギーの最重要点はブルシの中核的論題でもある、グッドガバナンスと汚職反対であるが、2013年の選挙活動で野党連合が重視した公約は、せまく経済的なものに限られていた。公約は不安を抱えた中産階層に向けたもので、無償の高等教育やWi-Fiアクセス、道路通行料やガソリン価格の値下げなどであった。こうしたメッセージと対照的に、BN(国民戦線)の人たち(特に、現首相とその夫人)が怪しいと思わざるを得ないほど裕福であり、BNの人たちは強欲な「取り巻き連中」であると、派手に書かれ、暴露された。 体制にとっての意味 筆者は別のところで(Weiss 2014b)このような展開が、これらのハイブリッドな体制の性質に重要な影響を及ぼし得ると述べた。マレーシアとシンガポールの選挙権威主義は、いずれも、積極的ではあるが狭く限定的な政治参加と制限された競争を前提としており、ロバート・ダール(Robert Dahl)の「ポリアーキー」の理想型からはほど遠い(Dahl 1971)。開発主義国家が、絶対的な意味であれ相対的な意味であれ、約束してきた恩恵を提供することをできなくなったために、政治への関心が増し、政治の要職に新たな参加者がつき、新たなテーマが政策アジェンダに登るようになった。政治体制がハイブリッドであるためには、現状維持への高いレベルのコンセンサスが必要である。つまり、「民主主義」がいかに限定的なものであれ、同意を強制するためにあからさまな強制を必要としないほどには十分に民主主義的であるということを皆が信じていることが必要である。政治参加の幅や範囲が拡大していき、新たな政治的発言をするものが生まれてくれば、すでに明らかな競争の激しさがさらに増すのかもしれない。あるいは、政府がこうした活発な動きを抑えこもうとするのかもしれない。ただし、貿易相手や投資家を困惑させ、ベスト・アンド・ブライテストたちを海外に移民させてしまう可能性があることを考えると、政府による鎮圧という後者の対応はおそらく考えにくい。しかし、いずれのシナリオになるにせよ、現体制を新たな停滞状態に陥らせて、体制転換の道へと進まざるをえない。人々が不満をますます抱くようになり、新たな政治空間のような動員手段が使われるようになったなかでの最近の選挙を見ると、どちらのハイブリッド国家においても、より深く、かつ幅広い変化が起きており、より参加型で、競争的な政治秩序へと移行しつつあることが分かる。 […]

Issue 17

タイにおける不平等と政治 

よく知られているように、『アメリカの民主主義』の記述において、アレクシス・ド・トクヴィルは「境遇の平等」をアメリカの民主主義の基本でだと言明している。これはタイには当てはまらない。というのも、境遇の不平等こそが、タイの民主主義を規定しているからだ。したがって、トクヴィルの言葉を次のように言い変える事ができる。タイの不平等は社会の動きに甚大な影響を与える。それは国家イデオロギーに一定の方向を与え、法律にある傾向を付与し、為政者に従うべき原則を与え、被治者に特有の習性をもたらす。この不平等の影響は政治や法律を超え、はるか広範に及ぶ。それは世論を創り、感情を生み、慣習を導き、それと無関係なものすべてに修正を加える。タイの不平等は根源的事実であり、全てはそこから生じる。 貧困、所得と不平等 タイにおける経済的、政治的な不平等は、お互いを強化し合う関係にある。それは高度経済成長の利益をエリート達が占有する過程で生まれた。エリートの特権の保護が、排他的で権威主義的なエリート支配の政治構造を生み出しているのだ。1950年代以降の高度経済成長期の大半を通じた独裁的政権の支配が、資本主義の発展を促し、資本家や中産階級を生んだ一方で、政治的権利は制限されてきた。成長は貧困を削減したものの、不平等は依然として高水準にとどまっている。つまり、成長は多くの者達に利潤をもたらしはしたが、資本家階級とその仲間たちがその利益を占有していたのである。 成長が不平等の減少をもたらさなかったのは、所得の増加が富裕層に集中していたためである。0.45から0.53というジニ係数は、1980年代以来、高い水準にとどまったままで、その他の富の測定値も同じような結果である。2007年のデータによって明らかとなったのは、トップ10%の家族が富の51%以上を保有する一方で、下の50%は8.5%の富を保有するにすぎないという事だ。土地や家屋、その他の財産については、人口のわずか10%が私有地の約90%を所有している。別のデータは労働から資本への所得再配分を示すもので、労働の生産性向上に伴い、利益が増加した事で、大いに資本が蓄えられている。2011年の後期まで、低迷した実質賃金がこのパターンの一部であった。. 不平等をどう説明するか この搾取と不平等のパターンは、長い間存在してきたものである。事実、研究者たちは上述のデータと似たようなデータを、数十年の間、引用してきたのだ。1960年代にBellは、貧しい東北地域から巨額の黒字が移転され、この地域を「低開発地域化」させた事を明らかとしたが、これは生産者たちが低賃金と不十分な農業利益で搾取されていたためであった。 30年後にはTeeranaが、貧困削減が所得格差を縮めないという結論を出し、タイにおける不平等が、他のアジア諸国よりも高い事を示した。 なぜ不平等は存続するのか。最良の答えは、国の政策と資本の構造的な力にある。 国家と政策 政策の研究は長年に渡る農村部と都市部の分断を指摘している。国家主導の産業化の結果、より多くの労働者階級が生じたが、資本集約度が高かったため、産業部門は農村部から都市部に出稼ぎに来た移住者たちを吸収できなかった。結果、巨大なインフォーマルセクターの中で、労働者達が国家の限定的な福祉制度の外に取り残される事となった。国家の再配分の対象が小規模なフォーマルセクターに限定されたことで、ますます不平等になった。 同様に、国家の教育投資も都市部に集中してきた。経済が急成長した時代、国家の教育のための支出は、長い間、低いままだった。1960年代の農民や労働者達が人口の85%を占めていた頃に、大学生の15.5%のみが、これらの階層出身であった。1980年代の半ばには、この割合が低下し、わずかに8.8%となった。つまり、下層階級は低賃金や単純労働を脱するための出世街道から除外されていたわけである。 課税政策も貧困層に対して差別的であった。製造業の保護によって農業は冷遇され、また何十年ものあいだ、米の逆進税が地方から都市に富を移転させてきた。1990年代まで、一連の逆進税を通じて富裕層は課税制度から利益を得てきた。2012年の国家の財政政策および支出は、金持ち贔屓にとどまっていた。これらの諸政策の影響によって、貧者から富者への再配分が行われてきたのである。 これらの諸計画を補完してきたのが、政府や企業によって継続されてきた低賃金・高収益政策で、これが富を資本家へと移転してきたのである。 階級と権力 この低賃金・高収益政策の継続に必要となる政治権力は、国家と企業との一連の戦略であり、法律や政策、イデオロギー、そして抑圧にまつわるものである。高度経済成長期の大半を通じ、サバルタン(従属的社会集団)を巡る政治は限定的で、しばしば厳しく抑制されてきた。このような階級に根差した戦略は、選挙政治を制限することで権威主義的体制を維持せんとするものであった。 恩顧主義、あるいは「金権政治」は、カネという特定の利害にもとづく政治的な支持を集める事によって、不平等に対する政策上の注目をそらすものになった。少なくとも2001年まではこれが支配的な傾向だった。選挙が行われた時に、あまりに多くの政党が関与する事となったため、連立政権は常に弱く短命であったし、関与した政党が地元の補助金以上の政策を展開させることは一度も無かった。この政策が多数派を締め出し、代議制を無力な状態に保ち、軍部と王室の支配を可能としてきたのである。その結果、不平等は政界のエリートたちから顧みられず、排除された集団は再配分問題に対する計画的な配慮よりも、むしろ排他主義的な政治利益を受け入れざるを得なかったのである。少なくとも、タクシン・シナワットが2001年に当選するまではそうであった。 不平等への対応 不平等とそれを維持する構造に対して異議が唱えられている。ごく最近では、2009年と2010年に行われ、長期に及んだ赤シャツ派の抗議が、そのような異議の一つであった。2006年のクーデターを拒絶する大勢のなかで、民主化に関する論争に不平等が関連付けられるようになった。この関連付けは、一連の政治・経済的危機、すなわち1991年の軍事クーデターに始まり、続く1992年5月の市民蜂起、そして1997年に長く続いた急成長が終焉した結果として生じたものである。1997年の憲法は、その結果として誕生したものであり、これが政治支配を変える事となった。 1997年憲法の下で選出された唯一の政権は、2001年と2005年のタクシン政権であった。1998年に結成されたタクシンのタイ愛国党(TRT)が、選挙で人気を博したのは、その政策が貧困層のための改善を公約するものであったためである。農民の借金返済の猶予や、地域レベルのソフトローン、さらに政治上、最も決定的となったものが国民皆保険であった。これは初めて政党が公約とし、実行に移しさえした、計画的で普遍的な貧困・福祉対策計画であった。1997年に始まった景気の低迷が、エリートたちの力を弱めた。彼らの社会的対立に対する懸念は、彼らがタクシンと大衆たちとの政治取引に甘んじるに足るものであった。 TRTが並外れた人気を博したばかりか、有権者たちは、より対応力のある政府も可能であるという事に気が付いたのだ。これらの結果がエリートたちを動揺させた。王党派は国民選挙で選ばれた政治家たちを恐れ、タクシンを危険と見なしたが、これはタクシンが王室と張り合うような人気を確立させるかと思われたためである。2005年のタクシンの地滑り的再選を受け、枢密院議長のプレーム・ティンスーラ―ノンのような、王室寄りの人間は、君主制の政治的中心性が低下することを脅威と見た。この認識が、未だに終わらぬ選挙政治制限のための政治闘争を解き放つ事となった。保守派は、政治が最高の制度たる王制と共に機能すべきだという彼らの見解に、選挙が脅威になると考えた。彼らは選挙政治を、社会的、政治的秩序における王政の基本的役割を損ねるものと見なした。タクシンはまた、現状に異を唱えるにあたって官僚制度に揺さぶりをかけ、これを民選政治家や国民たちのニーズに答えるものとした。官僚たちの入れ替えや、諸大臣のリストラに際し、タクシンは自分のひいきの人物達を昇進させたが、この事は、数十年の間、国民たちを支配する事に慣れた高級官僚にとっては脅威であった。同様に、タクシンは資本家階級に挑み、国内のビジネスがより競争的なものとなる事を要求した。反対派はこれについて、シナワットの一団が競争力を得ていると考え、この経済力再編を危険であると考えたのだ。 タクシンは十分な自覚のないまま、エリート政治同盟である王室、軍部、企業に脅威を与え、また伝統的階級制を順守せぬ事で危険視される事となった。タクシンの下層階級への配慮は、数々の保守的、階層的、権威主義的諸勢力が、彼の政権に立ち向かう事を意味したのである。この結果が2006年のクーデターだ。クーデターは、この論争を終わらせはしなかった。赤シャツ派、その他のタクシン支持者たちが、王室と軍部に敵対したためである。2010年の新たな選挙を要求し、赤シャツ派は長期抗議行動を行ったが、その政治的レトリックは地位や不平等に的が絞られていた。 抗議者たちは周知の通り、被支配者である庶民を意味する古語、「プライ(phrai)」によって自分達を位置づけ、これに対する語として「アマット(amat)」、「支配階級の貴族」の語を用いた。彼らは法律の二重基準や、アマットたちの政治権力独占、さらには不平等に対して感じる深い憤りを強調した。赤シャツ派は急進的だという主張にも関わらず、彼らの要求は革新的であった。「我々が望む自由な資本主義国家は、金持ちと貧者の格差が縮小された国家である。我々は貧者のために、より多くの機会を作りたい。」という具合だ。この階級と地位に対する訴えがエリート層を怒らせたのは、特にこの抗議がサバルタンの団結を無視できぬ程にまで高めたためである。 この団結は政治動員と投票パターン、そして経済データの一致に反映されていた。投票パターンは低所得と貧困率に一致し、最貧困地域である北部と東北部、それに中央部の数県、さらにはバンコク周辺の労働者階級の暮らす地域で、一貫して親タクシン派政党への投票が行われた。平均的な一人当たりの県内総生産は、2007年にエリート層の支持する民主党に投票した県では、親タクシン派政党を支持する県に比べると、ほぼ2.4倍高かった。 不平等の政治 相対的に低い所得、歪んだ所有制、そして既存富裕層への所得の吸い上げ、これらが示すものは、長期的な搾取のパターンである。この搾取に対する抵抗はあったが、それらがこのパターンを変化させる事は無かった。エリート層は大抵、そのような「反逆」に、抑圧をもって応じてきた。この抵抗の結果、抗議者たちが1973年、1992年、2009年、そして2010年に、要求した通りに選挙政治がもたらされた際、その一つの結果となったのが恩顧主義の政治であり、これは文民政治家たちが不正で腐敗しているとの中傷を許容するものであった。この中傷が軍部や王室の干渉による抑圧や権威主義、エリート支配の再建を可能としている。エリート層は統治する際、その統治権を強調し、排他的概念である秩序や権威、道徳を引き合いに出す。このシステムの中心には、王政が不可欠であり、エリート層は王の道徳的権威と共に統治するという主張が存在する。 このイデオロギーを疑問視する者達が、繰り返し要求したのが、政治的代議制度と、深く根付いた搾取に挑む政策であった。中でも注目すべきは、選挙政治に対する粘り強い支持の存在である。2006年のクーデター以来、選挙が許されると、大勢の有権者たちが集まり、繰り返し、親タクシン政権への回帰が行われてきた。これは単なる親タクシン主義にとどまらず、選挙政治やサバルタンの利益を代表すると見られる政党の支持をも意味している。農村や労働者階級の有権者たちは、どうやら恩顧主義政治を拒み、あまり階級的でも搾取的でもない、より良い社会が築かれる事を望んでいるようだ。 赤シャツ派の多くの者たちにとって、民主主義はクーデターではなく、選挙政治を意味するようになった。また、不平等は裁判所から政治権力に及ぶ様々な舞台での「二重基準」と見なされた。正式の赤シャツ隊は「政治権力が真にタイ国民に属する」国家を要求したのである。彼らが望んだのは「公平で公正な国家」であり、「国民が貴族的寡頭政治(アマット)から解放され、誇りと自由と平等を有する」国家である。 これらの自由や正義、平等に対する要求は、政治体制の支配によって苦闘を経験してきた。このような要求への対応に、エリート層は司法手段を、軍部は銃を用いてきたし、王党派は度重なるデモを行ってきた。結果、2014年5月22日に軍事クーデターが生じ、これによって王党派エリート以外の政治家を弱体化させ、選挙政治を後退させようとしている。 結論 もし、トクヴィルが現在のタイにタイム・トラベルしたならば、彼は初期のアメリカ民主主義の特徴となり、その社会を構築していた「境遇の平等」を見出す事はできないだろう。むしろ、彼が目にする事になるのは、とてつもなく破壊的な、社会的、政治的、経済的制度の影響であり、これが不平等を維持すべく構築されている様子であろう。 Kevin Hewison西オーストラリア州 パース マードック大学 アジア研究センター 経営・管理学部(School of Management & Governance)Email: […]

Issue 17

香港における雨傘運動 ― 経済問題から物質主義の拒否まで

2014年9月の下旬、何千人もの人々が、香港の大通りの占拠を始め、これが2カ月以上に及んだ。抗議者たちは、オキュパイ・セントラル:愛と平和で中環を占領せよ(讓愛與和平佔領中環)運動の呼びかけに応じたものであるが、この運動は真の民主主義が否定されれば、市民的不服従も辞さぬと警告したものである。この運動が起きたのは、8月31日で、この時、全国人民代表大会(全人代)常務委員会は、行政長官の普通選挙実施を制限しようとする決断を発表した。 ついに学生達が道路封鎖を始めたのは、一週間に渡るストライキの後であった。平和的な抗議者達が催涙ガスで迎えられたため、何万人もの香港人たちが通りへ繰り出し、行き過ぎた暴力が、学生やその他の活動家たちに向けられた事に抗議する事となった。抗議者達が雨傘で身を守った事から、これが雨傘運動として知られるようになった。この熱心な抗議活動の噴出は、過去の抗議と同じく、経済問題の影響を受けたものであったが、それと同時に、これは主として物質主義に反対する運動でもあり、真の普通選挙のための自己犠牲を強調するものであった。 香港の所得不平等は先進諸国中で最も高く、困った事に、その格差は今も拡大を続けている。ジニ係数は不平等を測定する指標で、1996年にはその数字が既に憂慮すべき0.52であったが、2011年には0.54にまで増加している。これはかなりビジネス主導の非民主的な政治制度が、大物実業家たちに偏った力を与える一方で、大量の貧困層を顧みなかったためである。労働組合は極めて弱く、雇用者たちのために多くを得る事ができず、雇用者たちはストライキをすれば、激しい競争環境の中で失職するのではないかと怯えている。多くの人々が超過密環境で暮らしているが、その中には、あまりに狭いため、背筋を伸ばして座る事もできぬようなケージホームも含まれる。最近、この問題への対策として、最低賃金の導入や公式貧困線の設定などがあるが、これらは問題を阻止する上では、ほとんど役に立っていない。その訳は、これらの手段が極めて不十分であるという事実で、例えば最低賃金の30香港ドル(2014年12月現在)は、食費や家賃の支払いに足るものではない。 しかし、大変な不平等にもかかわらず、香港の民主化抗議は、最悪の影響を被る人々が先導するものでも、主に経済的不平等に関連するものでもない。むしろ、その第一の目的は、高度な市民的自由の維持と民主主義的機構の設置によって市民を保護する事である。この民主主義運動は、主に高度な教育を受けた中間所得層に根差すものである。そのため、この運動の起源を、専門的な職業に就く人たちが主な原動力となった1970年代の圧力団体政治に求める事ができよう。返還後、社会問題が増々目につくばかりとなったが、これは比例代表制の導入により、多数の新政党が出現するようになったためである。この目的は、かつて強大であった民主党の弱体化にあったが、これが目標や戦略をめぐり、汎民主陣営内に多くの深い分裂をもたらす事となった。汎民主派政党の中には、今日、さらなる富の再配分を呼びかけるものも存在するが、大企業主たちの間では、彼らの利益に対する民主化の悪影響への不安が高まっている。例えば2014年の10月20日には、元実業家の行政長官が、「ひと月の収入が1,800米ドル以下の香港の半数の人々」の代表とならねばならぬ事を不安だと述べている。 つまり、運動の原動力となっている根本的な要因は、不平等とは直接関係がなく、むしろ社会的流動性の低下や、生活の質の悪化に関する事柄であり、中産階級に最大の影響を及ぼすものである。2003年には、これら諸問題の対処における政府の無能ぶりと相まって、香港人の基本理念である公民権までもが失われるのではないかと恐れられた。この引き金は、政府が基本法第二十三条に基づく治安法を提案した事であり、これには言論と集会の自由を損ねる恐れがあった。その結果、およそ50万の人々が、香港島の中心地区のいたる所で行われた大規模集会に参加する事となった。政府は結局、この法案を見送り、さらには一年後の別の大規模抗議の後、董建華行政長官も辞任する事となった。 多くの人々にとって、路上での抗議運動が、政治的意思決定の過程に働きかける事のできる唯一の手段となった。毎年、大小多数の抗議運動が行われている。毎年恒例の7月1日の大規模集会の他にも、1月1日の集会や、6月4日のキャンドルライト・ビジルがある。後者は毎年行われ、1989年の天安門事件の犠牲者達を偲ぶものである。このような毎年のイベントの外にも、多くの抗議運動がより自発的に企画されている。例えば2009年の反高速鉄道路線デモや、2012年の反国民教育デモなどがある。これらの抗議運動はいずれも、ユース・アクティビズムの復活を示すもので、その原動力となっているのはソーシャル・メディアや、社会政治問題に対する意識の向上である。これらの抗議運動はまた、香港のアイデンティティの強化を反映するものでもある。深い文化的、経済的、政治的な違いから、多くの香港人たちは自分達が本土から疎外されていると考えており、また同時に、中国からの大量の移民や旅行者たちの流入による悪影響も受けている。彼らが生活費上昇の一因となっている事から、彼らを「イナゴ」と中傷するものがあっても驚くにはあたらないだろう。 最近の雨傘運動には、過去の民主化を求める抗議運動との共通点がいくつかある。真の民主主義に対する要求の背後で、主な推進力となった学生と学者の両者は、非常に遅い政治改革の進捗に苛立ち、この街の未来に深い懸念を抱いた者達であった事。参加者の大半が中間所得層の出身で、深刻な社会問題の最悪の影響を被る者達ではなかった事。事実、汎民主派の労働組合によって市の全域における労働者ストライキが提案されたが、これが実現する事はなかった。現実に、大半の労働者達は、なけなしの給料に頼って生存しており、進んで職を賭す気などないという事である。したがって、所得不平等はむしろ、学者たちの間での懸念となっている。活動家たちにとって、より気がかりな事は、昇進の機会が希薄になり、住宅費のせいで、前の世代よりも良い暮らしをする事が非常に困難になっている事実なのであった。 この運動はまた、一つの重要な側面において、過去の大半の抗議運動とは異なっていた。経済問題を強調する代わりに、この雨傘運動は、物質主義と金儲け文化に対する典型的な拒絶を示していたのだ。それは、より理想的な目標を志すもので、真に民主的な社会を発展させ、人々が互いを信頼できるような社会にするといった事である。多くの特筆すべき出来事が、運動のこの特質をひときわ目立たせている。例年7月1日に行われる民主化支持のデモは、多くの政党や非政府組織によって寄付金集めに利用されるものであるが、この2ヵ月に及ぶ占領は、これには相当せぬものであった。物売りは一人もおらず、ステッカーやポストカードも無料で配布されていた。Tシャツや雨傘でさえ、製造原価で売られていた。その上、無料で水や菓子、温かいスープを配給所からもらう事もできた。参加を思いきれなかった多くの香港人たちは、支えとなる巨額の資金を配給所に寄付したのであった。 もう一つの重要な違いは、この雨傘運動が芸術や手工芸品を重視する場であったという事実で、これらのものは通常、金権主義社会では軽視されている。政府は自分達が経済の四大支柱と考えるもの(金融業務、通商および物流、観光業、工商業支援と専門サービス)を第一に重視してきたため、製造業や文化産業が顧みられなかったためである。抗議デモの主会場で、雨傘広場と呼ばれる会場では、ボランティアたちが自作の学習コーナーを設けたり、来場しやすいよう、通路網が設けられたりした。革製の黄色いリボンが作られたり、Tシャツには傘モチーフのロゴがプリントされたりして、人々が長蛇の列を作った。ついには、印象的なインスタレーション作品や、あらゆる類の絵が展示される事となった。これらの芸術作品の題材は、基本的な論点となった社会問題や、より良い民主主義的な未来に対する信念を貫く必要性などであった。 この運動の大きな特徴はまた、その教育的な性質でもあった。教授や非常勤講師たちのグループが、無料講義を提供したが、これは学生たちによるボイコットが行われていた9月の後半にはすでに始められていた。占領の間、「民主主主義の教室」は通りへ移った。110以上の異なる講義は、主としてこの運動の関連主題である民主政治や、自由、市民的不服従、比較展望などに焦点を合わせたものであった。運動のこの側面によって明らかとなったのは、自分達の権利をより意識し、また、それらがなぜ街の未来の発展にとって重要であるかを意識した、より教養ある市民を生み出す試みであった。 この活動の大部分が、3か所の主要デモ会場に集中していた一方で、運動をさらに大きな社会へと拡大させる試みも存在した。最も顕著な試みは、巨大な黄色の垂れ幕の使用であり、これが香港のランドマークであるライオンロック(獅子山)にかけられたのだ。象徴的なこの山は、九龍のほとんどの場所から見る事ができるものだ。だが、これは単に認知度を高めるためだけの試みではなく、香港のアイデンティティの核心的意義を再定義しようとする試みでもあった。1970年代には、この山はどのような困難をも克服し、出世街道を進んで行く事のできる香港人の、「なせばなる精神」と同義だと考えられていた。この抗議団体はYoutubeのビデオで次のように発表した。「我々はライオンロックの精神を金銭にまつわる事だけではないと考えています…普通選挙を求めて戦う香港中の人々が、偉大な忍耐を不正との戦いにおいて、また困難に直面して示してきました。これこそ真のライオンロック精神であります」。言い足すなら、香港人は単なる経済的成功以上に、誰もが尊重されるような民主的社会の発展を目指しているという事だ。 最も明白にこの抗議運動の反物質主義的傾向を示す例が、最新の抗議運動の形態で、いわゆる「ショッピング革命(鳩鳴革命)」というものであった。これによって何百人もの人々が、組織立ってはいないが、平和的な抗議デモに、ほぼ毎晩参加することとなった。この運動は、旺角のデモ会場が片づいた後に起きたものである。ごちゃごちゃとしたショッピングエリアの中で、抗議者達は同じ映画館で毎晩8時ごろに待ち合わせ、その後「ショッピング」ツアーのため、西洋菜街という大変混雑したショッピング街に繰り出す。この際、頻繁にスローガンを唱え、民主主義を要求する黄色ののぼりを用い、のろのろと歩いては小銭を投げ、またそれを拾ったりするのだ。この抗議運動の形態は、梁振英が、デモ会場が片付いたら国民は再び買い物に戻るべきである、と言った事から生じたもので、この発言は、ある中国本土人が民主化に反対する抗議の最中に、マスコミのインタビューを受けたところ、香港に買い物に行っていたと答えた記憶をよみがえらせるものであった。そこで、抗議者たちはこれを一転させ、買い物と見まがうような抗議運動を行うようになった。結果、何百人もの警察官が毎晩この地域に配置される事になったのである。 結論として、香港での体制変化は、主として中間所得層の人々が牽引するものであり、彼らはこの街の未来に懸念を抱いている。高額な住宅費や生活費などの経済的問題が、重要な役割を果たしている事は明らかであるが、もっと重要な事は、より理想的な価値観、例えば個人の自由や民主的権利などである。雨傘運動が著しく反物質主義的で、草の根的な民主化運動であるのは、多くの参加者たちが、財産よりも値打ちのある何かのために奮闘した事による。同時に、大多数の香港人が、未だに低賃金の極度な長時間労働を抜け出せずにいる事が、より広範囲な支持を得る上での大きな障壁を生み出してきた。また、たとえ彼らが動員され得たとしても、民主化のプロセスは、やはり中国政府が必要な諸改革を許容する気があるかどうかにかかっている。現在のところ、残念ながら、その見込みはなさそうである。 香港城市大学 Stephan Ortmann助教 Issue 17, Kyoto Review of Southeast Asia, March 2015

Issue 16

序:東南アジア発の漫画研究

2000年に入ってから、漫画について批判的な視点や学問的観点から注目が予想以上に集まっている。明らかに、より大きな三つの流れがこの背景には存在している。一つ目は、ほぼ無制限な市場経済の拡大であり、消費主義や新たな類の「ポップカルチャー」もこれに含まれる。二つ目は、グローバル化の過程であり、これは例えば白石さやによると (2013: 236-237)、日本のマンガやアニメが特定の作品としてよりも、他の社会に応用可能な文化産業のモデルとして、世界的な規模で普及している事に現れている。三つ目が、情報社会の出現により、参加型で流動的な文化の形態が脚光を浴びるようになった事であり、これについてはファンアートやコスプレ、ソーシャルネットワーキングサービスなどを挙げておけば十分であろう。全く驚くべきことに、漫画が一般に認められたのは、基本的に従来の活字メディアによって形成された漫画のアイデンティティに崩壊が生じた、ちょうどその時であった。 こうした流れが、メディア研究や文化人類学、社会学、さらにその他の分野における、マンガ関連の研究を推し進めてきた。この点について、ある東アジアと東南アジアのポップカルチャーの編著本の序章には、次の事が誇らしげに述べられている。「学会であるテーマが妥当かどうかを示す基準の一つは、経済学者や政治学者たちが、これをいつ重視するようになるかである」(Otmazgin & Ben-Ari 2013: 3)。大抵、このような権威付けが意味するのは、マクロ分析の方が入念な個々の事例のクローズアップよりも好まれるということである。せいぜい、漫画はこれといったメディア特有の属性を持たぬ、単なる一次資料の役割を果たせば良いということになる。しかし、このような傾向は、政治学の分野それ自体よりも、過去十年間の学術研究の変化に負うところが大きいようだ。上記の本より40年前、Benedict Andersonは、インドネシアのアニメと漫画を用いて、インドネシアの政治的コミュニケーションの研究を行っていたが、これは今日でも驚くほどに洗練された手法であった。「形式は内容と同じ程度にものを言う」(1990: 156)などの基礎前提や、娯楽的な続き漫画は、一コマの政治漫画とは違い、研究者が「形式に目を向け、しかる後に内容を見る」事を要するという見解は、決して時代遅れなどではない。むしろ、特に現代の地域研究で漫画を使う有効性を示している。日本研究は、近年のマンガと関連メディアの有効性を示している点で先を行く。ここでの主流は、漫画研究をポップカルチャーや社会科学の分野に割り当てる傾向で、テキスト分析やヴィジュアル吟味、その他の美学的考察は大抵が無視されたままである。アメリカやヨーロッパの漫画は、「グラフィック・ノベル」という名のもと、あちらの文学部で学術的に考察される一方、特に日本のマンガ、より一般的にはアジアのマンガは、このような学術的取り組みの価値が無いかのようにみなされている。 しかし、この特集号の諸論文は、必ずしも、ある地域研究の枠組みに依拠しているわけではない。ここに掲載された論文は、東南アジア研究を優先させるというより、漫画とその研究に関する論文である。これらが東南アジア研究に貢献できぬと言うのではなく、ただ、そのような貢献が漫画研究を介して行われるという事だ。その意味をここで手短に述べておいた方が良いであろう。 世界的な規模で、漫画研究は、英語、フランス語、日本語、あるいは、アメリカン・コミックス(アメコミ)、バンド・デシネ、マンガといった地政学的、言語学的に明確な文化に応じて枝分かれしており、興味の大半は英語、フランス語、日本語の漫画である。東南アジアの漫画に焦点をあてるという本号の試みは、まだ、かなり例外的なものである。通常、漫画文化の研究は、北アメリカ、西ヨーロッパと日本の比較が中心で、時折、特に日本のマンガについては、韓国や中国語の市場の比較もこれに含まれる。この偏重ぶりは、インドネシアと日本の漫画プロジェクトにもあらわれた。これは2008年に国際交流基金(ジャパン・ファウンデーション)が二カ国間の国交50周年を機に後援、実施したものである。この成果であるDarmawan とTakahashiの編集による短編集は、当初、両国の言語で出版される予定であったが、日本語版はついに実現せず、日本人のマンガ評論家や読者たちが、インドネシアと日本の両国に起源を持つ非マンガ形式の漫画について学ぶことができなかった。 本号では、東南アジアにおける「マンガ」の役割だけに着目しているわけでもない。焦点はむしろ、漫画の多様性にあり、その範囲は自伝的物語から、絵日記、エッセーのようなブログ上の書き込み、教育向けの作品(歴史教育や性教育に関するものも)、さらには娯楽的フィクションに及ぶ。興味深いことに、紹介された作品例の大半が、もはや「日本の」、「インドネシアの」、「ベトナムの」、といった文化によって分類できるような範疇には当てはまらぬものである。それどころか、さまざまな形でフュージョン・スタイルと呼ぶべきものに広がっていることが特徴的である。さらには、一方では商業的で、型通りで、ファン本位のものとしての「マンガ」があり、もう一方には個人的で、創造力に富んだグラフィック・ナラティブとしての「同人誌」があるという差別化が東南アジアの漫画には必ずしも当てはまらないということが示唆される。おおよその場合、西洋的、日本的観点からも相互に排他的であると見なされているこの二つの種類が、文化的、経済的状況に関する限り、多くの共通点をもつように見えるのである。マンガであれ同人誌であれ、作家達が、少なくとも、それだけで生計を立てることは不可能なのである。 近年では、東南アジアの若手研究者で、大抵が日本を拠点にマンガ研究に携わる者達が、自分達の地域の漫画に注目し、これらを日本語で批判的に紹介しようと懸命に努力している。すでに1990年代の後半には、アメリカで教育を受けた文化人類学者で、インドネシアの専門家である白石さやがこの分野に着目しており、初めは日本マンガの普及について、しかし程なくして、現地の漫画文化についても関心をもつようになった。2013年に彼女の論文集が日本語で出版されたことから、彼女の初期の取り組みを再発見し、今日の方法論的問題と関係付けて読みなおすことができるであろう。同様に、特筆しておくべきことは、ベテランの漫画歴史家John Lentが、1999年から、“The International Journal of Comic Art (IJOCA)”という雑誌を世界中のアニメやグラフィック・ナラティブに関する記事のために提供してきたことである。これらの筆者たちの中には、彼の最新巻“Southeast Asian Cartoon Art (2014)”に寄稿した者もいる。これらの評論的、学術的試みに加え、重要な漫画名作選についても、最後に触れておこう。“Liquid City”は、ちょうどその第3巻が出版されたところである(Liew 2008, Liew & Lim 2010, Liew & Sim […]

Issue 16

教育用漫画:変化する認識

漫画は長らく、フィリピン文化の一部となってきた。例えば、Ambeth OcampoとDennis Villegasは、フィリピンの英雄であるホセ・リサール(Jose Rizal)を漫画で描いた最初期の人物の一人だ (Villegas, 2011) (Ocampo, 1990)。John A. Lentは、フィリピン人がはじめて漫画に魅了されたのは風刺画を発表していたスペイン占領時代であるとしている (Lent, 2004) 。1930年代はフィリピン漫画の創成期と見なされており、Tony Velasquezの“Mga Kabalbalan ni Kenkoy”が出版された時期であった。そのため、Velasquezは「フィリピン漫画の父」と認識されていた(Roxas & Arevalo, 1985)。しかし、その出版よりも先に、フィリピン人は1900年代にはすでに風刺画を制作し、消費していた(McCoy & Roces, 1985)。 風刺画が社会問題をそれとなく批判する手段であるとすると、漫画は手頃な娯楽の一形態と見なされ、フィリピンの人々はこれを消費することで、日々の現実から逃れようとしていた。しかしReyesは漫画の主要なテーマが、単にファンタジーに関連したものだけでなく、現実的側面も含むものだと考えていた。そして、作家たちは漫画というメディアを、笑いの提供から洗練されたストーリーテリングのジャンルへと変化させる。1930年代から1980年代にかけて、漫画のレパートリーに含まれるようになったロマンスやSF、成人向けなどの様々なジャンルは、実質的にフィリピン文学の神話や叙事詩、小説や短編作、awitやcorridoにとって代わる事となった。漫画の魅力は、単に手頃であるというだけでなく、その言葉づかいや、絵が文を補う点にもあったのだ(Reyes, 1985)。 このメディアが成熟すると、漫画は教育的用途を含むようになった。日本占領期の後、漫画家たちは戦争に関する物語を制作するようになった。その最初期の作品の一つには、Antonioの“Lakan Dupil: Ang Kahanga-hangang Gerilya”がある。これは1947年3月にLiwaywayマガジンから出版されたものである。この連載は、想像上の登場人物を中心とし、日本占領期を舞台にゲリラ活動やカリバピの裏切り、憲兵隊の拷問などを描くものであった。フィリピン最大の漫画出版社、Ace Publications, Inc.は、教育的古典(Educational Klasiks)の第六巻を刊行した。これは1960年1月11日に始まったもので、その意図は、これを私公立の学校の補助的読書教材にする事であった(Komiklopedia, 2007)。 このような歴史ものの漫画が存在しても、読者たちがこれを教育的目的で使い始めるには、時間がかかるだろう。最も初期の作品は、Balagtasの“Florante at Laura”で、これはPed […]

Issue 16

ベトナムの漫画、新たに出現するストーリーテリングのかたち

 ベトナムにおける漫画の概念  ベトナムにおける漫画が、一般の人々から批判を受けてきたのは、彼らの「漫画」という言葉に対する解釈のためである。ベトナム語の「漫画」は “truyen tranh” で、“truyen” が「物語」を、“tranh” が「絵」を意味する。年配世代はこの言葉を子供用の絵入りの物語と認識している。その一方で、若い世代は「漫画」を日本のマンガと同一視している。   「絵入りの物語」としての漫画が、社会で高く評価されていないのは、長年にわたる中国儒教からの影響がある。「物語(truyen)」の内容に教育的、道徳的価値観が無くてはならないと考える人が少なくない。1990年代までの漫画は、知恵や理想についての代わり映えのしないストーリーばかりだった。しかし、漫画にはいろんなジャンルがあり、あらゆる年齢層を対象としている。性的なシーンや暴力、大人の言葉づかいや大人向けの題材で書かれた漫画を見れば、年配世代はこれらが子供達に有害なものだと考えるかもしれない。  つまり、漫画が若者たちに大変人気で、ベトナムの若者文化に欠かせぬものの一部になっているという事実にもかかわらず、漫画は文学あるいは国の「精華(tinh hoa)」であるとは見なされていない。 ベトナムの漫画  漫画は新聞に発表されるだけではなく、作品集のかたちでも出版されてきた。ベトナム漫画には様々なテーマがあり、娯楽や教育、さらにはプロパガンダにも用いられてきた。1960年代後期から1975年まで、漫画はサイゴンで全盛を極めていた。この時代がベトナムで漫画家を増やすきっかけとなった。当時、最も有名な漫画家はVo Hung Kietで、彼は切手を手掛けるイラストレーターでもあった。彼の漫画は子供達に大変な人気があった(図2、3)。1970年代には、ベトナム漫画の外に、中国の连环画(Lianhuanhua: 手のひらサイズの絵本で、連続的な絵が描かれている)やバンド・デシネ(フランスとベルギーの漫画)、アメリカン・コミックス(アメコミ)などが存在した。しかしこれらの漫画は、粗末な印刷の海賊版がベトナム語に翻訳されたものでしかなかった。 ベトナム漫画の発展に大きな変化があったのは1987年以降である。この時代の漫画はアメコミに似せて作られたが、1987年から1990年にかけて着実に発展し、漫画家の人数も、漫画のジャンルも増加した。さらに子供達の需要に答え、政府は漫画制作の促進をとりわけ重視した。最も有名であった漫画家はHung Lanで、その漫画(“Vietnamese fairy tales”, “Toet and Xe”, “Co Tien Xanh”など)は広く読まれていた。ただしその内容というと、教育や道徳哲学などに関するものであった。  1992年には、『ドラえもん』がKim Dong 出版社によって輸入され、ベトナムで初めて出版された日本の漫画(マンガ)となった。『ドラえもん』はすぐに大流行し、4万部以上が販売された。その成功の後、他の出版社もマンガの出版を手掛けるようになる。1995年には、『美少女戦士セーラームーン』と『ドラゴンボール』が出版され、マンガ旋風を巻き起こした。教育的で道徳的な物語のベトナム漫画を圧倒したマンガには、若い読者たちの需要を満たす物語があったし、非常に安い価格で売られていた。マンガは、ほとんどが海賊版であったにもかかわらず、漫画市場全体を支配していた。これに変化が起きたのが2004年で、ベトナムはこの年、文学的および芸術的著作物の保護に関するベルヌ条約の拡大版に署名して、著作権を重んじるようになった。結果、マンガの販売と内容の管理は、以降、厳しい規制を受ける事になった。 新しいベトナム漫画のかたち 日本マンガの他には、韓国と中国の漫画が漫画市場を占めてきた。漫画は子供向けのものであるという偏見が根強いため、ベトナム独自スタイルで漫画を制作する事は困難である。外国漫画の大流入に直面し、ベトナム人漫画家たちも漫画を描くように努めてきた。2002年には、Phan Thi社が、“Than dong Dat Viet(ベトナム神童)”というタイトルの連載漫画を刊行し、これがベトナム漫画に変化をもたらす事となった(図4、5)。“Than dong Dat […]

Issue 16

シンガポール・コミックスの現在のトレンド:自伝が主流となる時

もし、受賞することが何らかの指標であるなら、シンガポール漫画は良い方向に進んでいるようだ。2014年2月、Oh Yong Hwee原作、Koh Hong Teng作画の〝Ten Sticks and One Rice″が、国際漫画賞(International Manga Award)の銅賞を受賞した。日本の外務省が主催するこの国際漫画賞は、海外で漫画の振興に寄与した漫画家を讃えるために創設された。第七回国際漫画賞には、53カ国から256名の参加登録があり、〝Ten Sticks and One Rice″は、シンガポール唯一の受賞作品だ。この漫画を出版したエピグラム・コミックス社は急成長していて、2013年にこの出版社が刊行したもう一冊の漫画、Andrew Tan (drewscape)による短編、〝Monsters, Miracle and Mayonnaise″はアイズナー賞の最優秀短編にノミネートされた。受賞はしていないけど。 シンガポールの漫画出版の現実は、残念だけど、賞を受賞したり、ノミネートされたりしても、漫画で食べていけるほどの販売部数と結びつかない。評論家たちからは称賛を受けたけど、〝Ten Sticks and One Rice″は1000部出版されて、実際売れたのは約650部だけだった(Nanda, 2014)。Kohは漫画で食べていこうとしたんだけど、売り上げが少なく、結局、収入を補うべくフリーランスの仕事をしたり、美術学校で非常勤講師を務めたりしなくてはならなかった。一方、Ohはウェブ・デザインの会社を所有しているので、執筆を趣味として行うことができた。〝Monsters, Miracle and Mayonnaise″に関しては、初版の1000部が売り切れ、増刷される事となった。〝Monsters, Miracle and Mayonnaise″のTanもフリーランスの売れっ子アーティストで、漫画は副業にすぎない。 シンガポールの漫画史に特徴的なのは、作家たちが生活を漫画の執筆に頼っていないというところだ。この最たる例がEric Khooの〝Unfortunate Lives: […]

Issue 16

インドネシアの漫画Wanaraを通じたインドネシア漫画の分類区分の曖昧化

漫画はインドネシアにおける最も重要な出版形式の一つである。翻訳された漫画出版物の初版は、その他全ての出版物よりも五倍(一作品につき15,000部)多い (Kuslum, 2007; Indonesia Today, 2012) 。日本の漫画の翻訳版がインドネシアで最もよく売れている本であり(Kuslum, 2007)、インドネシアで書かれて出版された漫画の数は、輸入された漫画の数に比べると少ない。  漫画出版社大手のElex Media Komputindo (EMK)は、毎月、日本漫画の翻訳本52冊に対し、現地の漫画1冊の割合で発刊している。もう一つの漫画出版社大手のM&Cによれば、彼らの出版物の70%が日本漫画の翻訳本である(Kuslum, 2007)。翻訳された日本の漫画の人気が高いのは、そのクロスメディア戦略にも依拠している。日本の漫画の人気が高すぎるので、インドネシア人たちの間では、現地の漫画を重視しようという動きも生まれている(Ahmad他、2005: 1, 2006: 5, 44–45; Darmawan, 2005)。全国紙Kompasの記事を見ても、或いは、DI:Y (Special Region: Yourself) 漫画展(2007)や、インドネシア漫画の歴史展(Indonesian Comics History Exhibition)(2011)といった展示会が開催されることからも、インドネシアの漫画を盛り上げようとする動きがあることが分かる。   インドネシアの読者たちは現地の漫画が持つニュアンスや、外国の漫画がそれぞれどう違うのか、という事がわかるようになってきている。読者たちがニュアンスの違いを理解できる理由の一つは、外国の漫画出版物が異なる時代に紹介されたからである。スーパーヒーローの漫画がアメリカから輸入されたのは1950年代であり、『タンタン』や『アストリックス』などの冒険漫画がヨーロッパから入ってきたのは1970年代であった。日本の漫画が市場に参入したのは、1980年代の終わりである。もう一つの理由は、それぞれの外国の漫画が特有の画風を持つことである。いくつかの出版物を見れば、また、漫画出版の慣例を見てみると、こうした二つの要因が組み合わさって、漫画の分類が行われていることが分かる(Ahmad他、2005, 2006; Giftanina, 2012; Darmawan, 2005)。そして、読者や出版社、漫画家たちは、現地のある漫画を取り上げて、これはある外国のスタイル(gaya)で描かれていると述べたりするのである。  このスタイル(インドネシア語でgaya)とは、画風のことである。インドネシアの漫画論で、gayaと言えば、登場人物の描写や、コマ割、テーマなど、視覚的なステレオタイプに関する要素を指す。分かりやすい例としては、日本漫画(マンガ)の大きな瞳をした登場人物、写実的な筆致のアメリカのスーパーヒーロー漫画、ヨーロッパ漫画に用いられるリーニュ・クレール(ligne Claire/明晰な線)などである(Giftanina, 2012; […]

Issue 15: The South China Sea

南シナ海における安全保障の管理:DOCからCOCへ

2002年にASEAN・中国間の重大文書と称えられた「南シナ海における関係国の行動宣言(DOC)」は、その使命である権利主張国間のより深い信頼関係の構築や、問題の深刻化の防止を果たせぬままである。それは当事者たちに道徳的制約を課す役割を演じたに過ぎない。しかし少なくとも、これは問題や緊張が生じた際に参照される基準となり、また正式な行動規範(COC)交渉の土台となったと論じる事もできる。 ASEAN諸国と中国がCOCプロセスを開始したばかりの現在、全ての参加諸国がDOCの抜け穴を検討しながら、COCを協議、交渉する事が重要である。 DOCプロセスから何がわかるか ASEAN加盟諸国と中国とのDOC調印は、2002年11月にカンボジアで行われたが、これは数年間の長引く交渉の末の事であった。多くのアナリストたちの見解によると、DOCは本質的には、何もしないという態度と法的拘束力を備えた合意という、二つの態度の間の折衷案であった。DOCの文書は3つの目的を明示している。それらは、信頼醸成措置の促進、実際的な海上協力の取り組み、そして正式で拘束力を持つCOCの協議と制定の場を設ける事である。 観測筋の中には、DOCが全くの失敗ではなかったと確信する者たちもいる。全ての当事諸国の政治的善意の象徴として、DOCは概して南シナ海の全般的な安定維持に役立った。DOCを土台に、全ての論者たちが話し合いや意見交換を行ったのである。DOCが少なくとも、南シナ海の全ての権利主張諸国に対する道徳的制約になったと確信する者たちもいる。彼らはさらに、DOCが実際に南シナ海における協力のいくつかの例に寄与したと論じる。中国、ベトナム、フィリピンが2005年から2008年にかけて行った三カ国共同の地震研究などがそれである。 だが、ほとんどのアナリストたちは、DOCにこの三つの目的全てを果たす効力が欠如している事に失望している。現在のところ、DOCの条項違反は国によって異なるにしろ、DOCを厳密に順守している権利主張国は、一国たりとも存在しないのだ。DOCの制定後、南シナ海で行われた二国間、あるいは多国間の協力計画の事例はほとんど存在しない。また、2011年以前には、行動規範の話し合いは遅々として進まず、成果も大して上がらなかった。 2、3の理由がこれらの失敗を説明する。多くのアナリストたちは、DOC自体が本質的に欠陥であったと確信しており、その理由は、DOCに法的権限が無く、権利主張国の南シナ海におけるいかなる行動をも規制する事ができなかったせいである。DOCには順守を監視する機構が無く、まして、これを強要する機構など皆無である。 中国にはDOCプロセスに対する関心があまりなく、DOCを実施する事で、南シナ海の権益の主張を危機にさらす気などなかったのだと論じる者もいる。さらに具体的には、中国が南シナ海の協力推進に乗り気でなかったと思われる理由は、ASEANの権利主張国4カ国の間での非公式協議が、DOC協力に関するASEAN・中国会談より先に行われた事で、中国が不満であったためだとされる。さらには、比較的安定していた2008年以前の南シナ海の状況が、権利主張国に対して個々にも、集団的にも、DOC実施のための真摯な手段に踏み出す誘因をほとんど与えなかったと論じる事もできよう。 DOCの文書は、信頼醸成措置や、南シナ海におけるその他の形の協力の、具体的実施に関する情報をほとんど提供しなかった。当時の見解は、全ての関係諸国が協力を促進させるために、協力の範囲や具体的手順、政策措置についてさらに協議を重ねて行く必要があるというものであった。 DOC調印後の最初の数年間に、ASEAN諸国と中国は、実際に海上協力に取り組もうと試みていた。2003年に、彼らは定例のASEAN・中国高級事務レベル会合(SOM)の開催を決定し、これによってDOCの実施を監督し、共同作業部会を設置して、その細目に対処しようとしたのである。2004年12月には、クアラルンプールで初のDOCに関するSOMが開催され、参加者たちは共同作業部会機構を設置し、DOCの実施について協議する事を決めた。彼らはまた、文書を作成し、そこに共同作業部会の構成や役割、責任なども明記した。この作業部会の任務は、DOC実施のための具体的な政策の検討、提供、それに論争の複雑化や深刻化の原因行為の特定であった。この作業部会が専門家を指名する事によって、技術的なサポートや政策勧告が行われる事も期待されていた。この会合は半年ごとに行われ、各会合の後にはSOMに報告書を提出する事になっている。協力分野としては、海洋環境保護、海洋の科学的調査、海上航行の安全と捜索・救難活動、さらには対国際犯罪活動などが含まれる。 第1回 共同作業部会の会合は、2005年8月4日から5日にマニラで行われた。ASEANはDOC実施の7つの指針の草案を提示した。その第2項目は「ASEANは引き続き、現行の内部協議を中国との会談前に行う」と言明している。中国はこの点に異議を唱え、南シナ海がASEAN全体ではなく、ごくわずかなASEAN諸国にのみ関する問題であると論じた。かくして中国は、議論の相手にASEANの「関係諸国」を望むのであり、集団としてのASEANを望むのではないと宣言する事となった。この形式上の問題に関する食い違いが、その後全ての会合に影を落とす事となる。第2回 共同作業部会の会合が2006年に三亜で行われた際には、突破口が見えた。全ての関係諸国が6つの協力分野に的を絞る事で合意したのである。 ASEANと中国が最終的に下した決断は、DOC実施の指針を2011年7月の中国・ASEAN外相会議で制定する事であった。双方がASEANの結束問題に譲歩する事となった。2011年7月のASEAN・中国首脳会談の際、中国の温家宝元首相は、中国がASEANの良き近隣国、良き友、良きパートナーであり続けると述べた。彼は中国に、ASEAN諸国と共にDOCの包括的実施に向けた取り組みを行う用意がある事を明言した。彼はまた、中国がCOCの起草を協議する事にも前向きであると加えた。さらに、温氏は100億ドルの融資(40億ドルの優先的融資を含む)を提供し、これをASEAN諸国のインフラ計画に当てると約束した。 2011年後期から2012年半ばにかけて、ASEANの高官たちは将来のCOCの重要要素の概要を述べた文書の起草に取り組んだ。中国はASEAN諸国がこの起草に取り組む際、中国が直接関わらなかった事に不満であった。だが、このASEANの明白な連帯行為に対して中国が公然と抗議をする事はなかった。2012年7月、プノンペンでのASEAN外相会議で、ASEANがCOCの重要要素を含む文書を中国に提示した際もなお、中国はASEANと共にCOCプロセスを開始する用意があると表明していた。  中国政府がCOC交渉の開始に反対しなかった一方で、中国の楊潔チ元外相は、COC協議が全ての関係諸国によるDOCの完全順守に基づくものとなるであろう事を強調した。彼はまた、「中国は全ての関係諸国が相互信頼を強化し、連携を促進し、COC策定のための必要条件を作り出すためにより多くを行う事を望む」と述べた。 2013年8月、中国の王毅新外相は、COCプロセスに関する4つの見解を提示した。第一に、COCの制定はかなり長い時間を要するであろうという事、これは問題の複雑性のためである。第二に、このプロセスが最大限の総意に沿ったものとなり、それぞれの権利主張諸国の受け入れやすさを配慮するべき事。第三に、その他の妨害が避けられるべき事。第四に、諸交渉が段階的に進められるべき事。基本的にCOCプロセスは、DOCの実施と連動して進められるべきである。 2013年9月15日、COCに関する第一回 中国・ASEAN高級事務レベル会合が蘇州で開催された。全ての参加諸国が、総意を守り、段階的アプローチを採用するという原則に従ってCOCプロセスを開始する事で合意した。COCプロセスは、間違いなく大幅に遅延する、あるいは骨の折れるものとなるだろうし、その事は地域の多くの国々やアメリカ合衆国などの域外大国の期待に反する事となるだろう。 COCはDOCから何を学ぶ事ができるか DOCプロセスの欠陥は多い。そもそもの不幸は、1990年代の後半から2002年に、交渉参加諸国が妥協への誘惑に屈して法的拘束力を持たぬ文書に合意した事であった。結果、全ての参加諸国の順守が政治的善意を通じてのみ維持され得る事となった。しかし政治的善意は、内外の異なった状況の下で容易に損なわれ得るものである。法的拘束力の不在はまた、権利主張諸国の様々な国内機関の間に協調が欠けている事を暗示する。これはまた、過去数年間の南シナ海における紛争と緊張の原因となってきた。 DOCはその不履行に対して、いかなる処罰も代償も規定していない。これに違反した当事国に対し、修辞上、あるいは名声上の傷を与える仕組みすら存在しない。DOCを順守するかわりに、権利主張諸国は互いに競い合って、DOCの精神をないがしろにしようとしているように思われる。 DOCがその条文の地理的適応範囲を特定していないため、どの地理領域が対象となるのかが判然としない。このような事から、権利主張諸国は常に、自分達の南シナ海での行動が、彼らの正当な海域内で行われたと主張するのである。地理的範囲の曖昧さに加え、具体的な違反行為が特定されていない事が、さらにDOCの実施を困難としてきた。権利主張諸国がわれ先にと南シナ海での単独行為に走るのは、他の当事国の行為が彼らの主張や利益を危うくするのではないかと恐れるためであるが、特にこれを違反したところで、いかなる処罰や代償にも結びつかないためでもある。DOCに記されたいくつかの協力計画を実行するプロセスは相当遅れている。上記の分析から明らかな事は、いくつかのASEAN諸国の「ASEANの結束」対中国という主張が、これらの計画の開始をいく分妨げてきたという事だ。また、法執行機関の争議が絶えず様々な権利主張国の間に存在する事も、これらの機能分野における協力を妨げてきた。 2002年から2009年にかけて、域外の諸勢力は南シナ海問題に積極的に関与しなかったようである。域外のアクターたちがある程度無関心であったのは、南シナ海の全般的な状況が、これらの年には概して安定を保っていたためである。2009年以来、域外の諸勢力は南シナ海の安全保障問題を収拾しようとする取り組みに力を入れてきたようである。彼らの関与はまた、さまざまな係争諸国に圧力をかけ、DOCの実施を早めてきたようだ。 DOCプロセスをもとに、次のように結論付ける事が妥当であろう。すなわち、COCプロセスは容易なものにはならないという事だ。極めて高い可能性として、COCの起草には骨の折れる交渉が行われる事となるだろう。またCOCでさえも、南シナ海の平和と安定を守るためには、ましてやこの問題を解決するためには、十分ではないかもしれないと考え得る根拠が存在する。  しかし、幸運なことに、過去数十年の間に、様々な権利主張諸国が、南シナ海紛争に取り組むためのいくつかの原則や基準を開発し、あるいはこれらに公の場で合意してきた。これらの諸原則は、DOCやその他ASEAN・中国間の文書にもしっかりと説明されている。全ての関係諸国が、この問題を平和的に解決するという原則に合意したのである。彼らはUNCLOSやその他の関連国際法を順守してこの問題に取り組み、これを解決する事に合意したのだ。彼らは係争領域が二か国にのみ関係する場合には、二国間の取り組みを、問題が二国間以上の国にも関係する場合には、多国間の取り組みを実行する事で合意した。常に小競り合いや論争があっても、権利主張諸国には、協力してこの問題に取り組む用意があるようだ。  結論 今後の課題は、COCプロセスをどの程度速やかに進める事ができるかという事、さらにはこの新たな文書にどれほど権利主張諸国の行為を抑制する効果があるかという事である。南シナ海の長期的な平和と安定にとって重要なことは、COCが実効性を獲得し、これによって確実に関係国が自制を働かせ、信頼醸成措置を促進させて、配慮が不要な領域での協力活動を実施する事である。COCを実効力あるものとするには、DOCの欠陥やDOCの実施を遅らせてきたいくつかの要因が克服されなくてはならない。 Mingjiang LiDr. Mingjiang Li is an Associate Professor at the […]

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変動するミャンマー :軍事的栄光の行方

序  近代西洋の統治理論と実践は、良き政府を軍部が文民統制の下に置かれた政府と規定する。共産主義諸国でさえ、党が主導権を握り、軍部がこれに忠実に従って国家のイデオロギーを、たとえそれが現実よりも虚構に近い場合であっても順守する。  いくつかの非西洋諸国では、例えば日本がそうであったように、この信念がしばしば苦い経験の後に根付く事となった。1989年にはミャンマー国民民主連盟(NLD)までもが、党の網領の一環として、文民統制の下にビルマ軍を置く事を提言し、1962年以来の軍部上層から忌み嫌われる事となった。だが、民軍のスペクトルの二極間にある二元論的感覚は、常に複雑に絡み合う一連の関係性に対する単純化されたアプローチとなってきた。  ところが、ビルマ/ミャンマーでは、独立時や民政下(1948-1958, 1960-1962)の軍部の役割が、西洋でのそれよりも、はるかに文民統制に非従属的であった。独立運動におけるビルマ軍の役割の現実や作り話がどうであれ、軍部が国家をまとめ、短期間で国の大部分を巻き込み、ラングーン郊外にまで迫ったカレン族の反乱に対抗した事には疑問の余地がない。軍部は多くの政治的(二つの共産党の)反乱や、様々な民族的反乱と戦った。さらに軍部は、無力な反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が、同胞同士の相争う1958年の内戦に加わろうとするのを止め、1962年のクーデターによって国家をまとめたことを主張、軍部が構想、支配するビルマ社会主義計画党(BSPP)を設立した。国軍の長(ネ・ウィン将軍)は、防衛大臣でもあり、一時は副首相でもあった。文民政権は極めて無力であることが判明したのだ。1988年の軍事クーデターは、軍部の支配下にあって破綻したBSPP政権にてこ入れをするために講じられたものであったが、この政権はこのようにしてtatmadaw(ミャンマー軍)の指令と統率の下で約28年間、政権の座に着いていたのであった(1958-60, 1962-1988)。彼らはさらなる23年間(1988-2011)を、命令による統治に甘んじる事となった。その影響力は今なお、実質的に偏在している。ビルマ/ミャンマーは近代史上、軍事的支配が最長でなくとも、最も長かった国の一つである。 I 近代ミャンマーにおける軍部の役割  ビルマ/ミャンマーは1962年以降、直接及び間接的な軍事支配の下にあった。その当時から、軍部は明らかに権力を永続的に掌握しようと画策していた。ミャンマー軍はそれ以来35年間、政令による直接統治を行い(1962-1974, 1988-2011)、さらには軍部の指示、統率下にあるBSPPのもとで間接統治を14年間行った(1974-1988) 。軍部の影響力は深く、あらゆる社会区分にまで及んでいる。彼らは全ての社会的移動性の道筋を支配してきた。軍部による経済の実効支配は、はじめはBSPPのもとで、後にはその公共部門への権限、さらには軍部によって組織、運営されるミャンマー経済持ち株会社やミャンマー経済株式会社、あるいは防衛省調達室の下にある諸企業を通じて行われてきた。あらゆるマスコミや輸入書籍、輸入資材に課された検閲は、成功には満たぬとしても、国民を政治的に近代化させ得る外的影響から隔離するための包括的な試みであった。  ミャンマー軍は比較的効果的のあった市民のための教育制度や医療制度を実質的に破壊する一方で、軍人やその親族達の暮らし向きが、策定者たちのために特別に計らわれた制度によって、はるかに良きものとなるよう、確実を期したのである。軍部は1980年に僧侶の登録という、あらゆる政権の長年の目標であった事をこなし、1982年には市民権を自分達に望ましい形となるように定義した。ガラスの天井が築かれ、これが非仏教徒(クリスチャンやムスリムたち)を実権から退けた。反乱を起こしていた少数民族集団と停戦を結ぶことにはなったが、概して少数民族の地域は軍の占拠する敵対的な領地、あるいは敵地として扱われていた。ミャンマー社会では、権力が機関よりも個人に集中するため、ミャンマー軍の上層部は個人的なつながりを通じて社会全体の支配を達成する事が出来たのである。 II 規律にあふれた民主主義: ミャンマー軍の将来的な役割を考える  2003年には、首相で軍事情報局長でもあったキン・ニュン大将が「規律にあふれた民主主義」のための7段階のロードマップを公表し、国家元首として、タン・シュエ大将がこれを規定した。この「規律」は事実上、軍部によって用意される事となったが、これは彼らの主要な目標である挙国一致、国家主権、軍事的自治権、さらには軍事予算や(そしておそらくは)彼らの代行人が得る事になる経済利益に対する支配権を持続させるためのものであった。  1993年以降にも、政府が出資し、大いにその筋書を行った新憲法のガイドライン策定のための全国会議が開催された時に、ミャンマー軍を政治分野の中心的機関に据える事が決定された。この事は憲法に規定され、次のように述べられている。(第6条)「ミャンマー連邦の一貫した目標は…(f)「国軍が国家の政治の指導的役割に参画する事を可能とする事」。(第20条も同様)。これは2008年のスターリン主義的な選挙によって承認されたものであった (これを早めたのは、おそらく2007年の僧侶による反政府デモ、「サフラン革命」によって生じたトラウマであろう)。軍部は重要な政治的地位を占める事となった。国や地方など、全ての議会の25パーセントが現役軍人で構成される事になり、彼ら自身は国防大臣から指名されるが、この国防大臣もまた、現役将校でなければならず、さらには(警察を取り仕切る)内務大臣や少数民族の地域を担当する大臣もまた同様とされた。国軍司令官は非常事態の際には政権を担う事ができる。大統領候補や副大統領候補(彼らは全員、間接的に議会から選出される)の近親者達は誰ひとり、外国勢力への忠誠を尽くす事はできない。ミャンマー連邦共和国からの離脱があってはならないのだ。憲法改正には議会の75パーセントの賛成が必要なため、軍部は提案された改正案を全て直接コントロールする事ができるが、彼らの支配下にあり、国会で大多数を占める連邦団結発展党(USDP)を通じても同様の事が行える事は言うまでもない。まるで単一体であるかのように振る舞うミャンマー軍は、理論上は軍部の支配を存続させるような制度を編み出した。この計画は理論的には完全で、軍部の支配を当面の間は保証するかと思われる。しかし、軍部が単一体のように見えたとしても、また、文法的には単一体であったとしても、経験は、これが首尾一貫した統一体であり続ける可能性が低い事を示す。個人的対立による影響が生じるだろう。側近たちやパトロン‐クライアントの関係が形成され、この単一性を厳しく試す事になるだろう。また組織的にも、BSPPの時代がそうであったように、現役将校と退役将校は、彼らの要求や目的でさえもが対立する事に気が付くかもしれない。米国議会調査局は新政府を「準民主」と表現するが、これはその上層部が退役軍人であるからだ。 III ビルマからミャンマーへ:社会的移動性の対比  新政府が発足した2011年3月のミャンマーは、軍事クーデター前夜の1962年3月1日のビルマとは社会的に極めて異なるものであった。当時、この国の少数民族(人口の1/3にあたる)の諸地域を除いたビルマ族の地域は、おそらく東アジア社会の中で最も移動性の開かれた地域であった。政権は多様で、内閣でさえもが民族的に開放されていた。移動性は原則として4つの道筋に存在した。教育制度は広く普及し、最貧層の男女でさえ、ラングーンやマンダレーの無料の大学に通う事ができたのである。サンガ(仏教の僧職)は開かれ、男性はその教育制度や大学を通じて身を立て、偉大な名声を残す事ができた。民間の政治組織やNGOは権力に通じる道であった。全ビルマ農民協会、全ビルマ労働者協会、退役軍人、その他の集団が、権力や権威を得るための手段であった。軍人自体は名誉ある職業であったし、勤め口よりも志願者の数がはるかに上回っていた。しかし民間部門では、基本的に外国人が優位であった。女性たちは社会、特に教育や医療関係の職業に目立っていたし、彼女たちはその他の多くの社会には無い法的権利を手にしていた。  50年に及ぶ軍事支配の後の現在との対比は、これ以上ない程までに鮮烈である。あらゆる移動性の道筋が軍部の支配下に置かれてきた。ミャンマー軍が大学に行く人間を決め、サンガは登録され、その教育機関は知的、及び運営上の支配対象となった。民間組織や民間部門はBSPPによって禁じられる、あるいは国家支配の要素となるかのいずれかとなった。ムスリムやクリスチャンが官職及び軍隊の管理職に就く事を認められず、大多数の少数民族もまた同様である中、軍は唯一の権力への道となった。どちらも軍事政権である(1988-2011)国家法秩序回復評議会(SLORC)と後の国家平和発展評議会(SPDC)が、(おそらくは1987年の中国を模範とする)「市民社会」の発展を許可したにせよ、これらの諸集団は事実上、代替的な政治方針に関与する事も、これを支持する事も阻まれていたのである。  東アジアで最も開かれた社会から、ビルマ/ミャンマーは意図的な軍隊式の支配を通じ、ミャンマー軍とその諸機関を「国家内国家」、あるいは国家そのものとさえするような社会になってしまった。最高の教育は軍事組織内にあり、これに反対する者や移動が可能であった者達は、国を離れ、雇用や政治上の憩いを求めて各地へと去って行った。推定では、50万人の教育を受けた人材が去ったとされる。さらにおそらくは、200万人の労働者達がタイへ避難、あるいは単純労働を求める事で、戦争や極度の貧困を逃れたのである。 IV ミャンマーの社会的コンテキストにおける国軍の将来  2011年3月30日の新政府発足にあたり、テイン・セイン大統領は、東南アジアで最も裕福な国であるはずのミャンマーを襲った大きな不幸を公式に認めた。彼は国家を変え、実際に社会の背後に存在するあらゆる局面の改革を試みている。それは容易な事ではない。力が不足している。たとえ改革に貢献するため、亡命中のビルマ人たちが呼び戻されたとしても十分ではない。変革のための正当で自由な発言は、様々な議会や、今、新たに規制の取れたマスコミにも存在する。軍事支配を弱める事に対する外部からの要求は、しばしば単純な言葉で述べられる。それはすなわち、憲法改正によって現役軍人を排除し、大統領を間接選挙で選出する規則を変えよというものである。   軍部のより穏健な役割に関する問題は、そう簡単に解決され得るものではない。なぜなら、多くの人が不適切と感じている憲法条項が軍事的支配の原因なのではなく、それはむしろ、より基本的な問題を反映したものであり、もっと長期的に取り組む以外の方法がないからである。軍部のより穏健な役割に関しては、即席の解決策が存在しない。憲法改正は、もっと基本的な問題を改善するためのアプローチなのである。  多元的な社会秩序の再構築には時間がかかるだろう。それは移動性の道筋を開く事で、国家の性質を変え、さらには軍部が自ら抱く優越感を変える事をも意味している。   実質的には退役軍人によって構成された与党が優位であっても、今や政治は開かれている。市民社会はより自由で、大学は検閲を廃止し、たとえ暗記学習が未だに主流であっても、知的硬直は廃されたのだ。学究生活がよみがえったのである。軍人は今でも望ましい職業であり、これが変わる事はないだろうし、その栄光も挽回されるであろう。軍と民のより近い関係は、互いへの敬意を若干回復する結果になるかもしれない。ミャンマー国軍が民間の政治家達を卑しく、腐敗した、役立たずだと罵ってきたこの数年間には、このような敬意が失われていた。進歩はおそらく今後10年にまたがるであろう。  しかし、問題は残されている。民間部門には公式の金融制度を通じた公的資本が欠けており、中国に独占される結果に終わるかもしれない。中国には事業拡大のために必要な資金を得る別の手段が存在する。この問題に取り組まなくてはならない。なぜならば、もし経済成長が行き詰れば、裕福な少数民族が(再び)国民の不満のスケープゴートとなる可能性があるからだ。  いくつかの比較例がミャンマーに起こり得る変化の道筋を明らかにするだろう。韓国は固定的な階級社会で、1961年から1987年までは軍部に支配されていたが、この国では軍部の権力からの撤退が平和裏に行われ、不平一つ出ないという事態が観察された。これは多様な社会的移動性の道筋が開かれたためであった。タイでは社会にそれ程強い軍事的支配が見られなかったが、これはタイ軍が権力への道を地方での政治や事業に見出してきたためである。インドネシアも、同様の穏やかなプロセスを始動している。これらの各社会では、名声や権力、権威への入り口が、以前は基本的に軍部によって独占されていたが、これが変化して成功への多元的な道筋となったのである。時が経てば、これがミャンマーにも起こるであろう。  皮肉なことに、また、直観に反して、我々はミャンマーがタイよりもはるかに容易く進歩する事を期待してもよいだろう。タイは極めて階級的な社会であり、発達はしているが、成長は停滞気味である。だが、ミャンマーでは、軍人は一般人と同じ出自から出世した者であり、たとえ軍のエリートの息子たち(中国では「幼君」)が陸軍士官学校で一目置かれていようとも、これもまた変わって行く事だろう。つまり、ミャンマーにはタイよりも平等主義的なビルマの権力体系へ移行するための、より大きな機会が存在するのだ。  ミャンマー軍は自分達の権力と権威を持続させるためのシステムを作ってきたが、これは徐々に失われて行く事だろう。これによって大多数のビルマ人たちにはより多くの機会が開かれ、そこには女性のための機会も含まれている。しかし、(民族、宗教の両方の)少数派には多元的な共存がもたらされるべきである。これは発現段階にあるようだが、その実現には、我々がまだ見ぬ政府の意図的な努力が必要となるだろう。 David I. Steinberg 翻訳 吉田千春  Kyoto Review […]

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テインセイン政権の安定と脆弱性

テインセイン政権の安定と脆弱性 なぜ予想できなかったのか?  ミャンマーでは誰もが予想しなかったことが起きている。2011年3月末、1988年から続いていた軍事政権の支配が幕を下ろして、テインセイン前首相が大統領に就任、2008年憲法体制による「文民」政権がはじまった。同政権は矢継ぎ早にいくつもの政治経済改革を打ち出した。民主化勢力との和解も進み、欧米からの制裁も2012年のうちに概ね解除された。驚くべき変化である。なぜ我々はこの変化を予想できなかったのだろうか。  いくつも理由はあるが、ここでは3点の国内政治上の理由を挙げておきたい。まず、多くの観察者はタンシュエ将軍がこれほどスムーズに政界から身を引くとは考えていなかった。1992年から最高指導者の位置にあったタンシュエは、現代では数少ない典型的な独裁者であり、そのリーダーシップの実態は謎に包まれていた。この寡黙な独裁者がミャンマーをどういう国にしたいのか、そのビジョンが見えなかった一方で、自身の権力への執着ははっきりしているように思えた。2011年の政権移譲直後も、タンシュエが背後から糸を引いて政権を操るために国家最高評議会が設立されたのではないかという噂が流れたが、結局現実のものとはならず、今日、テインセイン大統領がその意思決定に際してタンシュエから意見を聞くことはないようだ。  第2に、政権を引き継いで新しい大統領となったテインセインが、大方の予想に反して改革者であった。テインセインは、タンシュエより12歳若い元将軍であり、さらにタンシュエの下で国家平和発展評議会(SPDC)第一書記と首相として同政権を支えてきた。たとえ有能ではあっても、大統領に就任した途端に前政権の政策を根本的に変えるとは考えにくかったわけである。また、心臓に病をかかえており、タンシュエ、マウンエーとともに「民政移管」を機に引退するものと考えられていた。 ところが、期待は裏切られ、世界を驚かせた。知られている限り、大変真面目な人物で、他の将軍たちに比べてクリーンだという。事実、Time誌の取材によると、テインセインはイラワジデルタにある故郷の村に対して、現在にいたるまで格段の利益誘導をしていない。  第3に、アウンサンスーチーと国民民主連盟(NLD)がこれほど急に政権への協力姿勢を示すとは考えられなかった。20年ぶりの総選挙を目の前にした2010年4月29日、NLDが発表した「シュエゴンダイン宣言」では、軍事政権に、①NLDの党員を含むすべての政治囚の無条件解放、②2008年憲法のうち非民主的な条項の修正、③包括的で自由かつ公平な総選挙の、国際的な監視下における実施、の3つを求めた。当時、この要求は多くの観察者には無謀に思えたし、現に軍事政権は彼らの要求には耳を貸さずに選挙を実施した。ところが、テインセインの積極的な和解への働きかけと、アウンサンスーチーの歩み寄りが、極めて短期的に長年の政治対立を融解させた。  すでに明らかなように、今起きているミャンマーの変化は、政府と民主化勢力の指導者の間の合意と、両者が持つ自身の勢力への強い指導力が原動力になって起きている。したがって、我々はこの変化を市民社会の勝利とみなすべきではない。2007年のいわゆるサフラン革命と、それへの国軍による弾圧が示しているように、軍事政権は社会に自ら歩み寄る必要はなかった。財政についても、決して豊かではないが、天然ガス輸出によって比較的安定していた。また、エリートの間の対立が引き起こした変化でもない。もちろん、一枚岩の政治指導層は世の中に存在しないので、強靭に見えたミャンマーの指導層にも亀裂はかつて存在した。例えば、野戦将校たちと情報部所属の将校たちの間の対立だ。しかしそれが体制移行の引き金になったわけではなかった。  ミャンマーの今回の移行がなのは、指導層の世代交代がきっかけとなって、上からの政策レジーム転換を引き起こしたという点だ。テインセインの矢継ぎ早の改革を見る限り、大統領となった途端、彼の頭のなかに突然改革のアイデアが溢れだしたようには思えない。かつて大統領の最有力候補だと言われたシュエマン下院議長の改革志向についても、新しい政治環境のなかで突然生まれたものとは考えにくい。おそらく、現在の改革派の多くは、タンシュエに表面上は従いながらも、お互い明示しないまま、改革志向を共有してきたのだろう。それが指導者の世代交代で突然、政策的選択肢として浮上したものだと思われる。  膨らんでいく期待  ミャンマーは今、世界から大きな期待を集めている。それはひとつには民主化に向けての期待、もうひとつは経済発展への期待だ。かつて、この国は期待どころか悪評の的だった。1993年の国連総会演説で当時のビル・クリントン米国大統領が今後の外国政策の指針として「民主主義の拡大」(democratic enlargement)を表明して以降、非民主的な国の批判は米国外交のひとつの特徴であり、ミャンマーの軍事政権はその格好のターゲットであった。ブッシュ政権時代には「圧政の拠点」(outpost of tyranny)という不名誉な呼称までミャンマーはいただいている。制裁も段階的に強化されてきた。しかし、1988年の軍事クーデターから20年以上経っても、軍事政権は崩壊しそうにはなかった。ミャンマーの経済発展の機会を奪うという意味では米国とEUの制裁は成功したが、民主化という目的には制裁は必ずしも有効であったようには思えない。  そうした制裁の限界に気づいた米国も、オバマ政権になって対ミャンマー政策の転換(再関与)を打ち出していた。おそらく偶然、欧米の政策転換と同じタイミングでミャンマーの指導者が交代した。この「タイミング」という要素が重要である。そして、その機を逃さず、ミャンマー政府は欧米からの制裁をわずか2年で実質的な解除にまでもっていった。アジアの小国がこの短期間で米国とEUの外交政策を変えさせたのだから驚くべきことだ。この外交的成功はもちろんテインセイン大統領の強い改革への意思によるものでもあるが、それ以上に、アウンサンスーチーの国際的な注目度の高さが大きく寄与した。ミャンマーは経済規模も小さく、世界経済との相互依存もそれほど深くないため、従来の欧米の対ミャンマー政策は、アウンサンスーチーの処遇が決定的な要因となって、彼女が自宅軟禁に置かれる度に強化されてきた。幸いなことに、この偏った欧米の外交姿勢が、今回は逆の方向に強く働いた。アウンサンスーチーが欧米に対して経済制裁の解除を訴えたことが効果的なメッセージとなり、最終的にはミャンマーの外交的成功を呼び込んだ。2012年4月に補欠選挙で当選したアウンサンスーチーは議員就任後、積極的にテインセイン大統領の外交に協力し、政権の改革を宣伝するスポークスマンとなった。そして、同じタイミングでアジア太平洋に外交政策の焦点を移しかった米国との間に取引が成立したわけである。  この外交的成功によって、大きな期待が国内的にも国際的にも呼び起こされることになった。ただし、やや期待は大きすぎるように見える。1962年から約50年の軍事政権を経験し、現在も東南アジアで経済水準が最低レベルにある国が、そう簡単に安定した民主主義と奇跡的な経済発展を成し遂げることはないだろう。高まる世界の期待は2015年総選挙への注目を否が応にも高めている。言うまでもなく、2年後の選挙について語るのは、今は早すぎる。ただ言えるのは、同じ東南アジアで先行して民主化した国(タイ、フィリピン、インドネシア、カンボジア)を見ればわかるように、民主化の過程ではどこもいろいろと苦労しているということだ。カンボジアを除いた3カ国は、民主化以前の体制がミャンマーよりも相対的にはリベラルだったし、国家の安定性はこれも相対的だが高かった。ほとんど兵営国家と言ってよいようなミャンマーの軍事政権がそう簡単に民主化できるとは思えない。政治発展は決して単線的ではないので、過剰な期待は禁物だ。  本当に民主化するのか?  ミャンマーの政治経済改革は、大変微妙な政治的均衡の上で起きている。権力構造は大きくいって3つの層から成り立っている。まず、テインセイン大統領の強力な指導力あり、その周囲を元将軍たちが大臣として支えている。ここまでは従来の軍事政権から連続した側面である。次が、与党である連邦発展団結党(USDP)である。この政党には実業家や元公務員など、多くの民間人が在籍しているが、基本的には大統領を支持する勢力であり、大統領の指導力を安定させながら一定程度の政治的多元性を保証する。議員の4分の1は国軍司令官が指名する議員で、国軍の影響力が維持されるよう憲法上規定されているし、USDPは軍政時代の大衆動員組織を母体としていて実質的に大統領と国軍の強い影響下にある。憲法改正の要件は議員の4分の3以上の賛成だから、軍人議席の存在が民主化のための憲法改正を防ぐ点では有効である。そして、第3の層に民主化勢力がいる。すべての野党は、議席の点では少数勢力であり、立法過程において大勢には影響しないし、大統領は彼らの存在を通して欧米に政治体制の政治的包括性を示すことができる。これから次の選挙までの安定はある程度保証されていると言ってよい。  だが、いくつかの他の要素を考慮に入れたとき、現在のテインセインの指導力が実に微妙な均衡の上に成り立っていることがわかる。大統領の指導力を維持する制度的な仕組みが安定しているのに比べて、体制そのものを維持するメカニズムが脆弱だからである。2008年憲法はスハルト時代のインドネシア憲法をモデルにしている。そのモデルとなったスハルト体制では、軍人議席、大統領の強い権限、与党ゴルカルの支配的な役割、選挙制度の与党有利な運用に至るまで、スハルトの独裁が続くように実に巧みに設計されていたが、ミャンマーではその仕組が確立されていない。USDPはかなり急づくりの寄り合い所帯で、党の団結を支える議員の忠誠度は決して高くない。  選挙についても、現在の国際環境では政府の選挙への露骨な介入は間違いなく国際的な非難を呼び起こす。また、情報技術の発展と検閲の廃止が、ミャンマーの政治過程に透明性を与えており、政府が選挙での不正を秘密裏に実行することはほとんど不可能だ。さらに、これにアウンサンスーチーの並外れた人気が加わる。NLDは組織としてはまだまだ弱いが、アウンサンスーチーのカリスマだけでNLDは選挙で勝てる力を持っている。それは2011年4月の補欠選挙で首都ネーピードーで争われた4つの議席すべてをNLDが獲得したことが明確に示している。なぜなら、ネーピードーの住民のほとんどは公務員とその家族で、彼らは与党を支持するものだと政権側は想定していたのが、選挙結果はその想定をまったく裏切るものだったからだ。  2015年の総選挙までに、この脆弱さをテインセインとUSDPが克服できるのか、あるいはNLDが一気に政権を乗っ取るのか、あるいは両者の間に政治的取引が成立するのか。これから3年間の政治動向は今後のミャンマーの民主化と経済発展を占う上で非常に重要なものとなるだろう。 中西嘉宏 Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University 翻訳 吉田千春 Kyoto Review of Southeast Asia. Issue […]

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変貌するミャンマーの「三つの不安に関する展望」

変貌するミャンマーの「三つの不安に関する展望」  ミャンマーの過去三年間の変化は、実に目のくらむようなものであった。この三年間の事態の展開をざっと見れば、この国の変遷の真偽に疑念を抱く者を、誰でも説得する事ができるだろう。しかし問題は、この変遷がどこへ向かっているのか、そしてこの変遷をどのように理解する事が最良であるかという点だ。 ミャンマーへの訪問後、二人の世界のトップレベルの民主化研究者であるThomas CarothersとLarry Diamondは、似たような結論に至った。すなわち、ネピドーの「民主主義」の目標、定義と手段は、代議政治の本質と相容れぬものであるという事だ。Carothersはミャンマーの諸改革を、暴力に満ちたアラブの春の十年前に、アラブ指導部が行ったトップダウン式の諸改革に喩えている。彼自身の言葉によると、「アラブ諸政府が講じた手段は、民主化のための改革ではなく、むしろ慎重に制限された取り組みであり、国民の政権に対する不満を緩和させる事で、真の民主化の可能性を確実に阻止するために考え出されたものであった」。 Diamondはさらに率直であった。「思うに、この推移はまだ極めて初期の段階にあり、現時点で何をしても選挙制民主主義がこの結果として生じるのか、故意の結果なのかは判然としない」。 しかしなぜ国際社会は、退役・現役の将校たちに寄り添い、国民や改革、民主主義への移行という名目で、ネピドーに何億ドルにも相当する「包括的援助」を惜しみなく与えるのか。これら世界からの改革主義者たちへの称賛の言葉や支援が、同時にロヒンギャ族の民族浄化や人道犯罪、「ネオ・ナチ仏教運動」による反ムスリムの集団暴行、カチン紛争の難民急増、そして広く報じられるネピドーの共謀と罪を大きくしているのではないのだろうか。 率直な答えは「グローバル資本主義」である。ミャンマーの将校たちは、外部の援助で、国家の不振にあえぐ政治経済を自由市場路線に沿って変革する事を、新興の利潤性の高いフロンティア経済へのアクセスと引き換えに合意したのである。しかし特筆すべき事実は、自由主義西洋的ミャンマーの全面再起は、所々にわずかな譲歩がある事よりも、ネピドーの存続期間に大きく依存しているという事である。  事実、典型的なグローバル資本家たちの目から見たミャンマーは、何よりも「資源の売春宿」であり、最も活気ある「フロンティア市場」であり、興亡する大国の永遠に続くかのようなゲームにおける、銘々の「大戦略」の戦略基軸なのである。「市場」及び「資源と労働力の源」としての人間社会という見方は、地球上の土地と資源と労働力を有する全ての国にとって、何百年も前に科学技術によって大規模な資本主義的変革が引き起こされて以来、むしろ根強い見方となっている。 ネピドーでの2013年6月の世界経済フォーラムにまで話を進めよう。これはエリート主導の「民主主義」、巧みな「市民社会」、社会的責任のある企業が支える「自由市場」についてのものであった。だが基本的に、ミャンマーに対する国際政策は、世界にほとんど残されていない最後のフロンティア市場の一つから、最大の利益を引き出すために考えられたものである。ちなみに、もう一つのフロンティア市場は北朝鮮である。 今年6月には、マデレーン・オルブライト元米国務長官が、ヤンゴンの式典でコーラを直接大きなペットボトルから飲む姿が見られた。ヤンゴンは彼女のコンサルタント会社、オルブライト・ストーンブリッジの法人顧客の一つであるコカ・コーラが、ミャンマーで最初にボトリング工場を創業した場所である。全米民主研究所の議長であるオルブライトがミャンマーにいた事については、民主主義や異なる宗教の並立を推進し、さらには「これまで一口も飲んだことのない人」にコーラの正しい飲み方を伝えるためであったと報じられた。しかし、これはアメリカ人に限られた事ではない。 ロヒンギャ族やその他ムスリムたちに対するポグロムが展開され、さらには当局の上層部がこれに連座していた事が確認される中、イスラム国家のカタールは一切ためらいもせず、数十億ドル規模のミャンマーにおける電気通信契約をノルウェーと共同で獲得し、これに応じたのである。実にオスロの公式和平調停の関係者たちが、2012年ノーベル平和賞候補であったテイン・セイン大統領から、国営テレノールにかなり利潤の高い電話契約を取り付けたその一方では、カチン族、カレン族、シャン族、カレンニ族とモン族が、なおもオスロの和平調停の良き結果を待っていたのである。 平和の前に電話を!平和のためにテレノールを! もしカール・マルクスが生きていれば、彼はミャンマーが経験している一連の変化、即ち、蔓延する土地の争奪、その結果としての経済転換、ワーキングプア、ひどい労働条件、強制移住、暴力的対立、技術輸入、新様式や新たなラインの製品づくり、資本注入、巨大開発計画などについて、彼が「本源的蓄積」と呼んだ非情なプロセスを通じた収益性の低い現金主義経済と定義した事であろう。 ここで提案するのは、ミャンマーに対する新たな解釈の方法であり、ミャンマー研究が東洋学者たちになおざりにされてきた理由を批判的に考察するものである。また、東南アジア研究のためにVictor Liebermanが論じてきたブローデル的アプローチの再検討と更新を行う。 我々は唯一最も重大で進行中の世界的なプロセス、つまりはフロンティア市場としてのミャンマーの資本主義的変遷に焦点を絞る必要がある。なぜなら、このプロセスこそは、他のどの要素よりも、我々の研究対象となる国民や我々の研究そのものの両方に影響を及ぼすものであるからだ。この目のくらむような変化の数々を、最も経験的に検証、説明するのに相応しいと思われる展望は、ここで「三つの不安に関する展望」と名付けられた安全に関する展望であり、つまりは(従来的な)国家的不安、世界的不安、そして人間的不安の事である。 第一に国家的不安とは、単刀直入に言うと、国民国家に対する恒久的な危機感を指す。最もあからさまには「政権の存続」ついての不安である。第二に世界的不安とは、世界の経済や政治の秩序に対する一般的な不安感や無防備感と定義される。したがって、これは世界の政治経済を構成する国民国家の安全の上に成り立つものである。最後に第三の人間的不安とは、「国家や国境の安全とは対照的な、個人や人々の暮らす社会の安全」の欠如を指す。 一言で言うと、提案した「三つの不安に関する展望」は、冷戦終結以来、一般にグローバル化と呼ばれるプロセスの中で、グローバル資本主義が共同体や自然環境、国家政治経済を一つの全体的な総体と成した事について論じるものである。ここで、この安全に関する三つのディスコースが、政策の決定やその実践における優位をめぐって競合する。規定に基づく予測可能な国際秩序を語る一方で、全ての国民国家が戦争のような不測の事態に備えている。内外の大きな危機感に駆られ、アメリカまでもが同盟国や市民、ライバルたちを等しくスパイしている事が、最近のPRISMスキャンダルにも示されている。 これら三つの全てが必ずしも相互排他的であるとは限らないが、難民、国内避難民や失業者などの脆弱性問題は、概して政策の後回しとなる。人々やコミュニティの安全と福利は文字通り、そして比喩的にも、ないがしろにされている。特に、他の二つの国家と世界の不安政体が一丸となって戦略的打算や政治的便宜のために排他的共生関係を形成する場合はそうなる。国家、企業、多国籍機関や国際金融機関の政策や実践が、周辺社会や不特定個人および、その自然居住環境や生計手段へのアクセス、安全、移転や結社の自由などに対し、集合的に損害を与える一因となっているという話をしばしば目にする理由はこれである。 私は提案した「三つの不安に関する展望」が、ミャンマーの国務(やその他の類似した「国家」の事例)を最も良く説明し、この国の客観的に立証し得る現実を反映するものである事を確信している。これはまた、ミャンマーの研究とその内政の両方を、この国が「フロンティア市場」として経験している唯一最も重大なプロセスである資本主義的変遷のコンテキストの中に位置づけるものである。 この不安のプリズムを通して見ると、この国のトップダウン式の民主主義改革は、ミャンマーの民主化というよりも、主として、ミャンマーの国家支配層であるエリートが、グローバリストの資本家勢力とエリート協定を結ぶためのものであり、同時に彼らは独自の社会階級、つまりは軍部の縁故資本主義者へと変貌してゆく。この協定では、国民たちが熱望されたフロンティア市場を開放する事と引き換えに、資本や世界市場、技術に対するノーマライゼーションや受容、適法性やこれらへのアクセスが与えられる。ネピドーはこの国で最も有力な利害関係者である軍部や国家の不安政体にとって望ましく、有利な条件で国を開放している。このプロセスの中では、この国で最も有力な政治家であり、世界的象徴でもあるアウンサンスーチーでさえ、もはやその台本や背景、歌の旋律を操る事もできないグローバル資本主義の舞台に立たされている事に気が付くのである。 今なお進行中であるロヒンギャ族のムスリムに対する民族浄化の事例は、それ自体が三つの不安に関する展望の経験的テスト・ケースとして現れた。悲惨な貧困が広がるにもかかわらず、ラカイン州ではロヒンギャ族が仏教徒のラカイン族と共に暮らしていた。しかし最近では、相次ぐ集団暴行によってこの州が知られるようになった。この地域はミャンマーの新興資本主義経済にとって、戦略的で利潤性の高い地域となったのだ。ここには戦略上重要な深い湾港や農産業の可能性がある肥沃な農地、漁業、数十億ドル規模の経済特区や中国のガスと石油の二重パイプラインの起点がある。 1971年の東西パキスタンの内戦では、西パキスタンの将軍であるTikkaが、軍隊に冷淡な命令を下した。「私の狙いは土地であり、国民ではない」 。やはり冷淡な話で、今度はミャンマー西部であるが、ミャンマーの国家安全政体は、単に土地を再獲得しただけで、そこに(ロヒンギャ族の)国民は含まれていなかったのかもしれない。 ミャンマーの変遷を、この三つの不安に関する展望のもつれた網の中に正しく位置付けない限り、この改革や変化、そして民主化に対する我々の理解は、ネピドーの国家的不安政体や世界的不安政体の資本主義者たちに幇助された民主化に劣らず、生半可なままとなるだろう。 Maung Zarni博士 マラヤ大学 準研究員 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス 客員研究員 翻訳 吉田千春 Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 14 (September […]

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ミャンマー版グラスノスチの再評価

ミャンマー版グラスノスチの再評価  2011年にミャンマーのテイン・セイン大統領によって政治、経済の全面的な改革が導入された事は、2010年の総選挙後に、ミャンマー政府の公約した改革に疑念を抱いていた世界の多くの観測筋を驚かせた。当初、コメンテーターやアナリストたちの多くが懐疑的であったが、政権のイニシアティブの度合いや規模を無視する事は出来なかった。新たな国内法が社会生活や政治生活の特定分野で国家の存在を縮小させ始めていたからである。外交関係が新たな海外のパートナーとの間に結ばれ、投資関連の新たな法律によって海外の企業や資金提供機関がミャンマーに参入できるようになった。このミャンマー政府の全面的な変容は、しばしば、ミャンマーの開放と呼ばれ、多くの人々を仰天させる事となった。ほとんどの人が、このような変化が軍事当局によって構想、展開、施行された文民政権の内に生じる事を予期していなかったためである。中には、自分達がミャンマーで目の当たりにしているものが、冷戦末期のソビエト連邦のグラスノスチ(公開性)や、その変容を特徴づけたプロセスに類似しているのではないかと考える者たちもいた。 冷戦モデルとミャンマーの開放  冷戦後のパラダイムとそのミャンマーへの適用は、通常認識されているよりも、はるか以前に始まっていた。1980年代後期と1990年代前期に起きた民衆の民主主義蜂起が、以前のネ・ウィンの軍事社会主義政権を挿げ替えるだろうという予想は、間違いなく東欧での人民運動や、フィリピンや韓国での「ピープル・パワー」の表出などから生じたものである。冷戦期のドミノ理論のように、自由民主主義が有機的に権威主義的体制を置き換えるであろうという新たな予想が有力な喩えとなった。 ミャンマー国内での出来事は、民主主義の理想や人権、選挙、そして自由民主主義的制度などのコンテキストの中で解釈されてきた。これらのもたらした言葉と視座の両方によって、変化や連続性が判断されてきたのである。その結果、ミャンマーの過去26年間の政治史は、冷戦後の物語の枠組みを通じて理解され、SLORC/SPDC政府と、2011年から2013年にネピドーが着手した改革との間に歴史的な分断を生じる事となった。  テイン・セイン大統領の対内的、対外的な諸改革は、ミハイル・ゴルバチョフ政権下のソビエト連邦における「急激な」変革との比較を呼び起す。テイン・セインをゴルバチョフに結び付ける事は、彼の改革計画の成功が、大いに彼の人格や政治的意志に依るとの印象を生む事にもなった。この見方は我々の注意をテイン・セイン政権発足の素地となったより広範なプロセスよりも、特定個人の活動に止めるものである。特にマスコミは、ミャンマーの政変をアウンサンスーチーなど、政治的、社会的変革の思想そのものの象徴となった特定個人と結び付けてきた。テイン・セイン大統領を変革の大立者として印象付ける事で、観測筋はこの図式を少し複雑にしたかもしれないが、彼らはその他にもさまざまな利害関係者や勢力、派閥が国家をめぐって競合してきた事を見過ごしている。  より広範なプロセスにおける軍部の役割が、公の場で弱まり始めたのは、政府の文民的アイデンティティがさらに顕著となったためである。事実、現政権が以前の軍事政権と距離を置くことで、西洋諸国がミャンマーとの関係を再構築できるようにした事は極めて重要であった。2011年末には、西洋諸国の何カ国かがASEANやその他の地域提携に加わり、ミャンマー政府の政治構造の自由化、民族分離主義勢力との和平交渉、政治的和解の促進、世界市場に向けた経済再統合などの努力を公然と評価した。アウンサンスーチーが自宅軟禁から解放され、ついに2012年4月には選出されて議員となった事、さらにはバラク・オバマ大統領の画期的な訪問などといった出来事を受け、かつての誹謗者たちの多くは、テイン・セイン政権の改革を公に支持するようになった。ミャンマー当局を長年批判し続けていた国際メディアもこれに倣い、かつての「ならず者」軍事国家をより肯定的な観点から報じ、その文民政権や改革主義の大統領の努力を強調するようになったのである。  2013年初頭には、ミャンマーがその内部や上部から開かれる事は明らかであったが、忌まわしい制裁措置がこの変革の動機になったのではないかという事が、相変わらず囁かれ続けていた。ともあれ、1990年代初頭に西洋から課されていた経済制裁の大半が解除された事は、あらゆる異種分野の投資家たちが、次々とミャンマーの膨大な資源、熟練労働者や市場に進出して行く機会を生み出す事となった。「ミャンマー熱」を更に高めたものは、政府高官らの世界歴訪の旅であり、それにはテイン・セインやアウンサンスーチーの東アジアやヨーロッパ、アメリカへの訪問などがあった。アウンサンスーチーが(10年の自宅軟禁の後に)遂にノーベル平和賞を受賞し、また後にはワシントンD.C.で議会名誉勲章を受け取った映像は、彼女の経験を通じてのみ、ミャンマーを理解していた多くの者たちに、ミャンマー近代史の長い一章がようやく、ページをめくられた事を告げるのであった。  閉ざされた爪弾き国家から、新興のより開かれた民主主義へ、ミャンマーに対するこの認識の変化は、批判なしに実現するものではなかった。積年の敵対者である軍事政権や亡命政府、支援団体などは、依然として、これらの変革に表面的であるとのレッテルを貼っている。民主主義の活動家たちは、憲法が軍部に国会で25パーセントの議席保有を保証している事が、体制に内在する欠陥を示すと指摘する。政府高官は公共、民間の両部門に見られる派閥争いや個人的な利害関係が、これらの改革を実施する上での脅威である事をすんなりと認めている。貧弱なインフラは財務不正と経済制裁が組み合わさって生じたものであるが、これは政府に重要な変革の多くを、特に人口の70パーセントを占める農村で遂行できるだけの力量が不足している事を際立たせている。民族対立やコミュニティの暴力(これらはどちらも、ミャンマーの社会政治史の長年の特徴である)は、ネピドーによって始められた改革プロセスの背後にあるダイナミクスを複雑にし続けている。   海外の支援団体やマスコミ連中の中には、テイン・セインの全面的な改革計画や、政府の民主主義的な変革に対する公約全体の見通しを、ラカイン州における特定の移民問題、特に国内のムスリム・コミュニティや、いわゆるロヒンギャ族への暴力に関する問題への対応によって評価しようとする者達もいる。評論家たちは、政府の広範な改革案(これもまた、貧困緩和や経済投資、医療、教育やインフラ整備に重点的に取り組むためのものである)の実行可能性を、アイデンティティの政治に関する特殊で歴史的に複雑な問題に結びつけている(これを解決するには何世代もかかるだろう)。改革プロセスの成功を政府の民族/コミュニティの緊張関係の解決能力に結びつける事は、現地の複雑なダイナミクスをあまりに単純化しすぎるものであるが、活動家たちはラカイン州やカチン州、カレン州などの異なったコミュニティが、ミャンマーの行く末について、しばしば別の考えを持ち、それらがネピドーやヤンゴン、あるいはマンダレーの意向に一致するとは限らないという事実を浮き彫りにしている。世界企業が「新生ミャンマー」に大々的な投資を行う中、当局は慎重に物事を進め、これらの紛争地帯での秩序を回復する一方で、節度ある民主政治を維持する必要があった。  2011年以降、ミャンマー政府に対する一般的な認識は変わったかもしれないが、その内政の国際化は未だに進んでいない。国内のダイナミクスについては世界中で議論が続くが、それらは大抵が地域の状況にとって有利でもなく、意味もないものである。冷戦後のパースペクティブが影響を及ぼし続けているが故に、発展は地域の状況から切り離されたままとなり、かえって様々な疑問が提議される事となった。ミャンマー版グラスノスチの特徴である「衝撃的な」「突然の」変革は、往々にして1987年よりも、むしろ2010年のコンテキストで評価されている。これはネ・ウィンが初めてこの国の社会主義政策の失敗と、国家経済の国際市場に向けた再統合の必要性を認めた年であった。 近年の改革の素地となったパースペクティブを拡大し、我々の判断に今なお影響を与える冷戦期のパラダイムと距離を置く事によって、時事に対するより複雑な見解がもたらされるであろう。 長期改革 1987-2013  ミャンマーの現代史に対する標準的な理解は、しばしば次のような出来事やイメージを中心に構築されることが多い。すなわち、それらは1988年の学生暴動、1990年の選挙、アウンサンスーチーの役割、少数民族の強制移住、いわゆるサフラン革命、サイクロン「ナルギス」、そして2010年の「欠陥ある」選挙などである。主流メディアや活動家、政府や学者達の議論の大半が、このような談話的要素に基づき、過去数十年間を脆弱な民主主義運動と強大な軍事独裁政権の闘争として描いてきたのである。冷戦末期の状況や東欧その他のアジア地域での政治的変遷に当てはめると、ミャンマーの民主主義の経験は、できるだけ長く権力にしがみ付こうと努めた独裁政権のために行き詰ったかと思われていた。この過去数十年間の見解もあり、2011年に導入された諸改革が実に大変「衝撃的な」ものと見えたのは、国内の統合と再建のプロセスに対するなけなしの配慮が、改革主義政府の出現に向けられたためであった。  しかし、これと同じ期間を「長期改革」期と捉える事もできる。これは政府が憲法起草のための憲法制定会議を召集したこと、憲法を批准する国民投票を行い、総選挙を行い、ついには政権を発足させ、またその他の法定機関を組織したことによって裏付けられる。七段階から成る「規律ある民主主義のためのロードマップ」は、2003年に公式に発表されたものであるが、そこにはこの各段階がより大きな青写真の一部である事、この青写真が直接、2011年に現れた政府を形作った事が述べられていた。だが、これらの下準備を真に受けた者はほとんどいなかったのである。制裁がミャンマーを西洋の経済や市場から孤立させていた時期(これはちょうどミャンマーが経済の方向転換を望んでいた時にあたる)、軍事当局はむしろ、ASEANや東アジア、中東内での地域提携に頼っていた。 最も重要な事は、国内の状況の中で、この20年期が1948年以来、多角的かつ敵対的な内戦を戦い続けてきた民族分離主義者達との間に、17の停戦合意を確立した時期でもあった事だ。後の2012年には、カレン民族同盟やその軍事組織のいくつかとの間に重要な合意を通じた和解の区切りが打たれ、アジアにおける最古の反政府運動の一つが終結する事となった。この点で、1987年から2013年の時代を、50年近く続いた長い内戦の末に、和解と再建、改革がついに実った困難で起伏ある時代と捉えることができる。 結論  近年のミャンマーの改革に関する評価の多くは、直接間接を問わず、これを冷戦の終結を告げたグラスノスチに結び付けるものであった。このパースペクティブは、ミャンマーでの出来事を世界の別の地域のプロセスに結びつける上では有効であるが、そのために地域的なパターンや優先事項に対する理解が犠牲になっている。SLORC/SPDCのイニシアティブから概念的な断絶を図ってきたテイン・セイン政権の手法は、我々が現在目にしている喜ばしい改革が、かつての軍事政権の長期改革計画に端を発するという不愉快な事実を曖昧にしている。現に、しばしば批判された「民主主義へのロードマップ」がついに履行されたが、これが現在の変革を称賛している当の政権から疑問視されていた事はお構いなしであった。ミャンマーの開放に対する冷戦後のアプローチは、最近、中西嘉宏が論じたように、重要な連続性を見落としているのかもしれない。民と軍の混成政権の成立は、過去からの唐突な決別ではなく、軍部エリートの安定や地位確保のために講じられた体制の継続だったのではないか、と中西は語る。 強硬論者たちが改革プロセスを「覆す」恐れは、根拠のないものであろう‐‐‐軍部は最初からこの改革の一部であり、これに投資してきたのである。 准教授 Maitrii Aung-Thwin博士 シンガポール国立大学 史学科 翻訳 吉田千春 Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 14 (September 2013). Myanmar  

Issue 14: Myanmar

ミャンマーにおける農業改革の最優先化

 ミャンマーの農業部門を長い間抑えてきたものは、政府の貧弱で押し付けがましい政策決定や、慢性的な信用不足、不十分で老巧化したインフラ、確固とした土地所有権や財産権の欠如であった。これらの障害がミャンマーの豊富な天然資源や農業の計り知れぬ可能性の前に立ちはだかり、長年、この国の(大多数である)農村部の住民たちの生活を特徴づける極度の貧困をもたらしてきたのである。  テイン・セイン政権の下では、ミャンマーの農業部門改革に関する多くの対話が行われてきた。「国民ワークショップ」は、ミャンマーの経済改革譚の目玉であるが、この第一回は農業をテーマとするものであった。このワークショップでは多くの提案が出されたが、それらは主に農村部のインフラの改善、手頃な投入財の利用を可能にする事、信用枠の拡大(主として小規模金融)などを通じた生産性の向上に関する提案であった。その後に開催された他の農業関連の会合の多くが、多角的機関や開発庁、(特に)海外の潜在的投資家たちに支援されたものであったが、そこでもやはり似たようなテーマが取り上げられてきた。 停滞する改革  それにもかかわらず、またこのレトリックが人目を引くにもかかわらず、実際にミャンマーの農業部門で実施された改革の実績は、未だに微々たるものである。ミャンマーの農業を包括的に変革する事が急務であるが、まずは農業部門を悩ませ続ける市場の歪みを取り除く事から始めなくてはならない。このコンテキストに顕著な事は、数多の生産管理や輸出規制、調達規則などであり、これらは中央政府から公式的に自粛させられてはいるが、先の軍事政権の名残として相変わらず存在している。近年の豆類の輸出国としてのミャンマーの成功は(ミャンマーは現在、世界最大の豆類輸出国の一つである)、この国の農民や貿易業者たちがマーケットシグナルに積極的に反応する事ができる事を示している。豆類の貿易は10年前に自由化されたが、これとは対照的に、その他のほとんどの商品には常に国家干渉の影響が存在する。  貿易に関する規制や制限を撤廃する事は必要であるが、それだけではミャンマーの悪化した農業部門の再生には不十分であろう。 ミャンマーの旧軍事政権の下、農村地域は常になおざりにされてきた。その結果、地方のインフラは危機的な状況に置かれ、多くの村落には国営市場(地域の市場にさえ)につながる利用可能な道が存在しない。肥料も多くの場所では入手不可能で、灌漑システムは沈泥に塞がれ、種や農薬、ポンプやその他の器具もほとんど無く、大方の燃料類は大抵が予算的に手の届かぬものとなっている。市場開放はこのような弊害のいくつかを解決するであろう。しかし、短中期的にミャンマーの農業部門に必要なものは、十分な公共支出や投資であり、これらは特に道路や橋、灌漑、発電や流通、また環境・資源の管理システムなどに対するものである。 求められる一層の改革とイニシアティブ  以下に簡潔にまとめたのは、ミャンマーの農業変革に必要ないくつかの対策である。これらは、ミャンマー経済をより広く変革するのに必要な対策と一致し、かつ「国際的ベストプラクティス」と考えられるものとも同義である。現在、この国では多くの機関(世界銀行やアメリカ合衆国国際開発庁(USAID)、様々な国連機関も含む)がこれを推進している。  ・ミャンマーの輸出許可制の廃止。 目下、これがミャンマーの農民の生産市場を人為的に規制し、その販売オプションを制限して出荷価格を押し下げている。世界市場に向けた生産には、より高品質な米の生産に対するインセンティブの強化という効果もある。このような米の価格は、現在ミャンマーがアフリカやその他の限られた範囲の海外市場へ輸出している砕け米の類に比べると、相当高価なものである。  ・いまだに存在する国内の米の取引・販売に対する地理的制約を解除すること。これらの制約は、ミャンマーの農民が生産物を不足地域(価格が高い地域)へ出荷販売する事や、取引の利益を広く享受する事を否定するものである。つまり、これらがミャンマーをいくつもの小さな市場へと分割し、価格を上下させて食糧安保を不安定にしているのだ。ミャンマーの農作物に対するこれらの制約を国内取引において解除する事は、有意義な改革の「手の届く成果」の一つとしては十分なものとなろう。  ・ミャンマーの農民に完全な「生産権」を付与する事。何十年もの間、ミャンマーの農民は各地域の条件もかえりみず、特定の作物(主には米)を生産するように仕向けられてきた。これが影響して生産量は減少し、農民の収入が低下する事となった。自分達で自由に「何を、どのように、いつ」生産するかを決める事ができれば、ミャンマーの農民は収穫率の高い作物を生産し、地元の条件に合う作業(例えば、園芸、小規模畜産、漁業などに多様化する)に移行する事が可能となるだろう。ベトナム(ミャンマーに関連する一規範として挙げたに過ぎない)では、このような「生産権」の付与が、ベトナムが世界的に重要な食物生産国として立ち現れる背後にあった唯一最も重要な政策であった。  ・市場知識の普及。世界の農業に最大の変化を与えた革新の一つは、携帯電話の利用拡大によって生じ、また、これによって市場情報へのアクセスも可能となった。この変化を容易に見る事のできるアフリカでは、農民やその他の人々が、異なる商業地域の市場価格を比較し、それに合わせて商品を供給できる力に、この変化が単純ながらも強く現れた。ミャンマーの通信分野の改革は現在進行中であるが、その成果はいまだに不明なままである。  ・有利な為替レートと輸入政策の実施。「マクロ経済の」要因の一つで、ミャンマーの農民の収入に重大な影響を及ぼし得るものが為替レートである。 昨年の喜ばしい動きの中で、ミャンマー政府はミャンマーのチャットを「管理フロート」制に変更したが、堅調な資本移動や資源収益のため、このレートは大きく値上がりした(1米ドルに対して850チャットにまで上がった)。その結果、ミャンマーの農民のあらゆる外貨収入が二通りの方法で減らされる事となった。第一にこの事で、ミャンマーの第一次輸出の価格がさらに値上がりし、他の供給者たち(特にその他の東南アジアで積極的に為替レートを低く保つ国の供給者たち)に対する競争力が弱まってしまった。第二に商品が米ドルで値段を付けられ、支払われるために、輸出収入をひとたび持ち帰れば、農民のチャット収益は減る事になる。無論、一定の為替レートを注意深く管理して定める必要はあるが、少なくとも、幅広い政策を策定する事によって、ミャンマーの競争力を強化するような為替レートを支える事もできるだろう。  また、必要な改革を実施して、ミャンマーの輸入許可制の自由化を図らねばならない。そのような動きは「必然的に」チャットの価値を下げ、同時に、ミャンマーの生産者や消費者たちが、より安価で完成度の高い商品(資本財及び消費財)や生産的資材を利用する機会をさらにもたらす事であろう。  ・農業保険の奨励。他の多くの国々では、法外な価格や生産高の減少に(また自然災害に)備え、農業保険制度によって農民の収入が保護されている。 これに関して特に有用なものは、いわゆるインデックス・ベースの保険契約である。これらの制度では、ある特定地域の収穫高が、長期的平均によって定められた値(あるいは、その他の適切な基準)を下回る場合、農民たちに損害賠償が支払われる。このようなタイプの保険制度の実用性としては、シンプルさ(例えば、農場ごとの査定を必要としないこと)や透明性(データは公開され、直接届けられる)がある。このような制度は、アメリカやインド、カナダ、モンゴル、その他の一定の国々で実施されており、世界銀行が特に好む制度でもある。自ずと政策選択は、このような保険に課された保険料に政府がどの程度の助成金を出すかという点になる。このような保険を適用する多くの国は、実に十分な助成金を提供しているのだ(これらの助成金には、世界貿易機構(WTO)加盟国の定めた公約に違反しないという美点がある)。  ・当然のこと、ミャンマーの農民たちが直面する最大の出費の一つは、手頃な正規の農村金融が存在しない事に由来する。最大手の複合企業に属する者以外、ほぼ全てのミャンマーの農民たちが十分な量の正規信用を利用できないという事は、小規模貸金業者のみが、大半の人々の唯一の拠り所であるという事を意味している。このような貸金業者が課す金利は高く、ひと月10%が標準である。良心的な金利の信用が不足した結果、ミャンマーの農民の多くは、単にこれを利用せずに済ませ、もはや生産性を高める肥料などの資材も使用しなくなっている。同様に、彼らは作付けや収穫の方法にも出費を最小限に抑えるようなものを採用しているが、これが生産高までをも減少させている。また、未払負債を抱えた農民たちは、次第に債務/不履行の悪循環に陥り、これがしばしば、彼らの土地利用権の喪失や貧困化という結果をもたらしている。  ・したがって、ミャンマーに有効な農村金融制度を作り直す事は、第一の優先事項とされるべきであり、手始めには資本の流れを生むための緊急改革がいくつか行われるべきである。その中には、ミャンマーの個人銀行の農民への貸付制限の解除、銀行で適用される金利の上限および下限の解除、銀行が受け取る許容可能担保を拡大し、これに全ての農作物が含まれるようにすること、世界の一流銀行で、商品供給網の太いコネクションを有するものに参入を許可すること、引き続きミャンマーの小規模金融の(慎重な)成長を推進すること、現行のミャンマー農業開発銀行(MADB)の改革、および資本構成の変更などがある。 土地改革  ミャンマーの農業部門の改善にとって、最も頑強な障壁の一つは、全ての農地が正式には国家によって所有されているという事実である。2011年の下旬には、二つの新法案がミャンマーの国会で発表された。表向きには農民たちに住居保有権の保証や取引可能な土地の権利を与えるために考案された農地法案と空閑地、休閑地、および未開墾地に関する法案は、実際のところ、わずかながらも、より多くの土地「接収」の機会を縁故者や巨大アグリビジネスにもたらす事となった。また、農民自身が「何をいつ、どのように」栽培するかを決める権利を否定する規定も依然として含まれたままで、その最も重要な条項は単に(農業・灌漑相の率いる)新たな執行機関に「土地収用」の決定を下すための諸権利を保証しているだけのようである。この「土地収用」は、これまでにも小規模農家から土地を接収するために用いられてきた。  ミャンマーの農民たちに自分の土地に対する有益な権限を与えること、さらにはその住居保有権を保証することが政府の最優先事項とされるべきだ。短期的には、上記の法律を再検討する事が必要となるが、一方で、大規模な農地接収に関しては、短期的猶予のようなものを設ける必要があるだろう。これらの早急な対策に加え、ミャンマーは他国における経験を分析するべきである。変革のシナリオの中での土地所有権の問題全体は、過去20年に渡って多くの国が取り組まなくてはならなかったものであり、その過程で多くの革新的な方法論も現れてきた(保護され、ほぼ普遍的な「マイクロ・プロット」から、慣習的保有権の習わしの様々な認識方法まで)。 結論  ミャンマーの農業部門は国民の大半を抱え、常にこの国のGDPに最大の貢献を果たしてきた部門でもある。長期的に、また、世界の食品価格の将来的な上昇や、近隣諸国のとどまるところを知らぬ需要、非常に豊富な給水といったコンテキストにおいて、ミャンマーの農業はこの国の経済復興を成功へと導く最大の鍵でもある。ミャンマーの現政権の任務は、この可能性を明示する事、そして、その際にアジアにおける平和と繁栄の源泉という、ミャンマーにふさわしい立場を回復する事である。 Sean Turnell・Wylie Bradford Department of Economics, Macquarie University   翻訳 吉田千春 Kyoto Review of Southeast […]