Issue 13: Monarchies in Southeast Asia

ブルネイ・ダルサラーム ―王室至上主義と現代国家―

          ブルネイ・ダルサラーム ―王室至上主義と現代国家―  ブルネイ・ダルサラーム(平和の家)は小さな独立国であり、東南アジアに唯一の君主国である。1984年に英国から独立して以来、ブルネイ王室はその権力を強化し、今やほぼ揺るぐことのない国家の支配権を手にしている。ブルネイにおける絶対君主制存続の理由は何であるか。本論では、ブルネイ王室がスルタンの座に権力を集中させる事に成功してきた事、伝統的、宗教的根拠を以てその正当性としてきた事、そして、自身を安定した政権として示してきた事について論じる。ブルネイ王室は政治改革への要求を何とか退けたが、これは効果的かつ迅速に、炭化水素による歳入を広く寛大な社会福祉制度の整備に用いたためであった。新伝統的政体であるブルネイのスルタン制度は、変化する世界情勢の中で、その適応性と抵抗力を示してきた。 歴史的背景  ブルネイのスルタン(ヤンディ・ペルトゥアン・ネガラ)は、600年間君臨し続けてきた代々のスルタンの家系につらなるものである。現在のスルタン、ハジ・ハサナル・ボルキア・ムイザディン・ワッダラーは、第29代目の支配者である。ブルネイの人口は少なく、40万人程度で、そのうち66%はマレー系 が占めている。ブルネイは2つの飛び地に分かれており、それぞれが東マレーシアのサワラク州にとり囲まれている。権力が頂点に達した16世紀以降は、スルタンの力が弱まり、19世紀には隣接するサワラクのブルック・ラージャらの圧力のもと、その領土が縮小した。消滅の危機にさらされたブルネイで、1906年に英国総督邸が設立された事により、待ち望まれた一時的猶予がもたらされた。居留期間末の1959年には、ブルネイに内政の自治が与えられ、スルタンには最高権力が付された。新憲法が公布されたのは1959年で、これによって、一部選挙に基づく立法評議会がもたらされた。 これに続いて、ブルネイ人民党(PRB)が立法評議会の民選枠の議席全てを勝ち取った。ところが、PRBは1962年にマレーシアとの統合に対する武装反乱を行い、そのため選出された候補者たちは政権を握る事ができなくなった。この反乱は英国によって素早く鎮圧されたが、ブルネイの政治史にとっては重大な出来事であった。ここで生じた脆弱性や不安の意識は今日までも広がっている。これはまた、当時のスルタン、オマール・アリ・サイフディーン3世にその存在意義を与えた。彼はそれによって非常事態の規定を課し、憲法改正を先送りにし、さらにはこの影響から、マレーシアに加入しない事を決断したのである。英国による憲法改正着手への圧力に屈する事を拒み、スルタンは1967年に退位、彼の息子ハジ・ハサナル・ボルキアに王位を譲った。 したがって、英国の植民地化は、弱く、分裂した君主制を活気づけ、これを中央集権的専制政治に変容させたと論じる事ができる。  新伝統国家の構築  多くの研究者達が、絶対君主制の存続に疑問を投げかけている。Huntingtonら、近代化を論じる理論家たちは、君主政権が近代国家建設の圧力に抗えないと論じる。 君主たちの直面しているものは、Huntingtonらが「王のジレンマ」と述べるものである。つまり、近代化は国王の権力や権威を削ぎ、彼らが拡大する都市部の中流階級などの有力な新集団と権力を分かつ事を求めるのである。 近代化理論では、中流階級が変化やさらなる政治参加を強く求める事で、最終的に君主制が破綻するという。しかし、石油に依存した中東やブルネイの湾岸諸国の君主制はこの事態を回避し、代わりに新伝統国家として発達、繁栄してきたのである。これらの君主制は依然として保守的、家父長主義的であり、極めて権威主義的である。彼らが用いる正当性の原則は、宗教や文化、伝統に基づくものである。さらに、急激な社会経済の発展に応じ、彼らは正当性の原則を拡大し、これに寛大な社会福祉制度に支えられた経済発展を含めたのであった。支配者たちは、頑丈かつ長期的な絆を国民たちとの間に築こうとしている。  1984年の独立後、ブルネイは制度構築という困難な課題に直面した。スルタンは絶対権力を行使したが、同時に、彼は近代国家運営の需要への対応を補佐する政府専門機関の設立の重要性をも理解していた。1984年には内閣形式の政府機関が公表されるが、スルタンは引き続き強大な権力を振るい、首相、財務大臣と内務大臣を兼任している。「王のジレンマ」を軽減させるため、スルタンは教養ある新エリート集団を政府に取り入れ、新興社会集団の間での不満を減らそうとした。これらの新エリート集団と手を組む事によって、スルタンは王家や伝統的エリートへの依存を軽減する事もできたのだ。テクノクラートや教養あるエリートが政府の要職に当たらされた。スルタンの息子、ハジ・アルムタデー・ビラ王子は1998年に皇太子に任命され、2005年には上級大臣に昇進した。彼には過去10年の間に、より重要な任務が与えられてきたが、彼が度々スルタンの代理を務め、公的行事を主宰し、各国要人らをもてなす事は、権限移譲が滞りなく行われる事を確実にするためである。独立以来、有効な代議政治を導入せんとする試みはほとんど無かった。スルタンと彼に近い親族達が、絶えず中央集権化を進めてきたのである。  教養あるエリート集団を、行政機関や政府官僚に取り入れる事とは別に、スルタンはまた、寛大かつ包括的な社会福祉制度を提供する事で、その他の住民たちにもより広く訴えてきた。ブルネイ経済は天然資源の採取に大きく依存しており、石油とガスに輸出収入の90%、国内総生産の半分以上を頼っている。 国家は最大の雇用主であり、現在ブルネイ人の25%を雇用し、政府は高い生活水準を供給している。 その一人当たりのGDPは、51.760米ドル と、アジアでは最高位である。スルタンの治世は、2011年にGDP2.6%の伸びを伴う安定した経済成長を見せたが、これは石油の価格が上昇したためであった。インフレは低く、個人所得税も存在しない。 スルタンの統治が寛大な社会福祉制度を提供する事ができる力は、被選挙権や有効な参政権が何もない政治環境の中、必要とされる正当性を国家に与えている。  ブルネイ社会は規制が厳しく、マスコミは厳重に管理されている。非常事態の規定は2年毎に更新されているが、君主制に対する深刻な問題は1962年以来、何も起きてはいない。どのような問題も、迅速かつ強力に処理されてきたのである。以前存在した政党の一つで、1985年に結党された国民民主党(BNDP)は、最終的に議会制民主主義が立憲君主制の元に設立される事、有事法の撤廃、そして選挙の再導入を求めた。 1988年、この党は即座に社会団体法のもとで登録抹消され、党首であったAbdul Latif Chuchuは有事法に基づき逮捕された。 他にも多くの政党が出現したが、それらの党員数は少なく、彼らは公に王家を批判する事を避けてきた。その穏便な姿勢にもかかわらず、これらの政党もまた登録抹消されたのである。唯一、今日のブルネイに現存している政党が国家開発党である。  2004年の憲法改正  ブルネイが21世紀を迎え、国家として成熟してきた事から、多くのブルネイ住民たちは、選挙の再導入や政治参加の機会を期待していた。 しかし、2004年に発表された一連の憲法改正は、スルタンにさらなる権力を与えるものであった。かつて部分的選挙に基づいた立法評議会が2004年に復活したが、議員は全て任命されたものであり、そこにはスルタンや彼の弟のモハメッド・ボルキア王子、皇太子、閣僚や社会の重鎮たち、様々な地方の代表者たちも含まれていた。 復活した立法評議会に与えられた仕事は、2004年の憲法改正を通過させる事であったが、これにはスルタンを絶対君主として確立させるために作られた、新たな法律が含まれていた。新たな改正はスルタンの権力を明確にし、彼に最高権力を付し、公私共の立場で彼を法に縛られぬ存在とした。この憲法改正は、立法評議会の役割をも損ねるものであった。選挙の規定をよそに、立法評議会はこれまで、任命された議員のみで構成され、会合は年に一度、三月に開かれ、国民が関心を持つ予算や統治の問題についての疑問が提起される。  1959年の憲法によると、立法評議会には助言の任務があり、いかなる法律を通過させるにもその事前の承認が必要であった。しかし、2004年の改正はこの規定を廃し、事実上、立法評議会を「追認するだけの無意味な議会」としてしまった。立法評議会のメンバーを決めるための直接選挙が、近い将来に行われる可能性は低い。2004年の憲法改正は、スルタンをブルネイの法制度の根幹、あるいは根本規範とする結果となったと論じられる。 Hortonは、この憲法改正が示している事が「実際そうなる事なく、王国に何らかの自由民主主義の衣を着せようとする願望」だと主張する。 国家イデオロギーの推進  独立達成に際し、スルタンが掲げたイデオロギーは、Melayu Islam Beraja(マレー主義に基づくイスラーム的王政、MIB)であり、これは国家への忠誠を奨励するものであった。このイデオロギーはスルタンの政治的正当性の重要な根拠となってきた。すなわち、これはイスラームを国家宗教に高め、マレー民族社会の権利や特権を掲げ、世襲制の王室が適切な統治機構である事を正当化するものである。このイデオロギーによって王室をイスラームの守護者と位置づける事が可能となり、王室にはさらなる正当性が授けられることになる。  MIBを考案したのはスルタンに近い官僚で、その意図はイスラームやマレー文化、スルタンに対する忠誠と結びつく国家アイデンティティの定義であった。 MIBの忠実な提唱者の一人であるペヒン・ハジ・アブドゥル・アジズ・ウマル前教育相は、600年間実践され続けてきた統治制度はマレー世界独自のもので、スルタンの権力は絶対である、と懇切に語っている。 MIBはまた、西洋民主主義の概念よりも受け入れやすい代替案だと言われているが、これはMIBがスルタンと国民との間の特別で親密な関係に依存しているためである。スルタンはこのイデオロギーが「神の意志」であると宣言したが、これはブルネイ国民が絶対王政にまつわる規範や価値観を受け入れるよう、適応させるために画策された企てであったと論じたくなる。  ブルネイの君主制は家父長主義的、かつ独自のものである。スルタンは国家の象徴として、あるいは、国民の忠誠の的として描かれる。彼は公務に強い関心があると述べ、遠方地域を開発計画の進捗状況の観察に訪れている。 毎週金曜日の祈りを国中のモスクで順繰りに行う事で、彼は自分と神との緊密な関係や、イスラームへの強い傾倒を示して見せる。しかし、その結果、スルタンには非の打ちどころがあってはならないという事にもなる。なぜならば、彼は政治的指導者としてだけではなく、道徳的に高潔で模範的な人物とみなされるためである。善良でクリーンな統治に対する期待はまた、王室の他のメンバーにも向けられる。国民たちは、スルタンの最年少の弟で、元財務相のジェフリ王子をめぐる法廷闘争に関心がある様だ。彼は1990年代の後半に、金額にして150億米ドルの国費を横領したために告発された。正当性を維持するべく、スルタンは即座に弟の行為を非難し、費用のかさむ訴訟手続を通じて国家資産の回収を試みた。 将来の展望  新伝統国家として、ブルネイは国民の現代的要求に応じ、安全と安定を提供できる事を示してきた。しかし、21世紀になり、ブルネイが国民国家として成熟するにつれ、現代国家を運営する上での圧力や緊張感が明らかとなった。スルタンは社会福祉や公共財を提供できる国家の能力が、物価の上昇の結果、絶えず圧迫されている事を意識している。ブルネイは歳入を石油やガスに依存し続けており、経済を多様化させようとする努力は望ましい結果を生んでいない。さらに、この国はガスや石油の価格と生産の変動による影響を受けやすい。現代ブルネイ君主制にとり、その課題は国家が常に公共財や高い生活水準に対する国内の需要に応じられることを確実とする事である。スルタンは、それが王族のエリートであれ、将来有望な中流階級であれ、彼ら政権の支持者たちが確実に、スルタンの政権の正当性を実証し続けるように気をつけていなくてはならない。政治参加が無い中、スルタンはより広く、都市部や地方の支持者たちにアピールするため懸命に働きかけ、今後もずっと慈悲深い支配者として、彼らの信頼と信用を得なくてはならないのだ。 Naimah S Talib Adjunct Fellow, Political Science Department, University […]

Issue 12

死者の歴史、生者の遺産:シンガポールのブキット・ブラウン墓地

遺産は過去の社会的役割を考察する上で十分なものではない。遺産には過去を取捨選択し、不完全な歴史的解釈を生み出す傾向がある。それはしばしば、歴史的変化に影響されぬかのような過去を創作する。遺産は整然としており、賛美的で表面的なものであるが、史実はそうでない事が多い。 […]

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ゾンビとの出会い―東南アジア仏教におけるゾンビへの考察

          とりわけ、ゾンビや屍については、ほとんど研究される事の無いものではあるが、最も有名な現地資料の一つにVetāla-prakaraṇam(ゾンビの物語集)がある。Vetāla-prakaraṇamはprakaraṇam文献全体の一ジャンルであり、東南アジアに広まり始めたのは、証拠となる写本によると15世紀である。prakaraṇam文献の中で最も重要なものには、Vetāla-prakaraṇam(ゾンビ物語集)、Nandaka-prakaraṇam(雄牛物語集、実際のところ、インドの言語、ジャワ語、タミル語、そしてラオ語の物語では、あらゆる種の動物が一頭の雄牛を訪ねる物語である)、Maṇḍūka-prakaraṇam(蛙物語集)、Piśāca-prakaraṇam(幽鬼物語集)、Pakṣī-prakaraṇam(鳥物語集)であるが、これは物語によってはŚakuna-prakaraṇam(どちらもサンスクリット語で鳥の意味)と題される事もある。これらは通常は短編集で、怪物や動物を主題とした物語である。しかし、この呼称はまた、少なくとも一例において、特定の都市の成り立ちや特定の像、及び遺物の来歴にまつわる歴史物語集にも用いられる。これらの書物は、中世日本の説話物語や、中国の志怪小説の物語に幾分似たところがあるが、ヨーロッパなどで見受けられる動物寓話集とは似ていない。これらは、幻想、怪奇的な生き物の世界への詳しい入門書ではないが、物語に登場するのは、動物や人の姿をした悪魔や幽鬼、半獣などである。prakaraṇamのジャンルは、鳥や蛙の物語集と、その他の種や超自然的存在である幽鬼、怪物などの物語集とを区別しない。東南アジアのそれぞれのprakaraṇam文献に収められた、これらの物語の多くは『パンチャタントラ』や『ヒトーパデーシャ』、『カタ―・サリット・サーガラ』その他、インドの物語集のサンスクリット語の物語に由来する。しかし、その他のインドの物語と同様に、東南アジアの物語の多くは対応するインドの物語とは、かなり異なっている。特にラオ語とタイ語のPakṣī-prakaraṇamは『パンチャタントラ』の、主に第三巻の様々な物語に間接的に由来している。しかし、これらが直接的に東南アジア(特にジャワ、北タイ、シャン地方やカンボジア)に初めて紹介されたのは、Tantropākhyāna(ラオ語ではMun Tantai、タイ語ではNithan Nang Tantrai、ジャワ語ではTantri Kāmandaka、あるいはTantri Demung)を通じてであった。    この物語集のインドにおける最古の写本はマイソールで発見されたもので、時代は西暦1031年に遡る。サンスクリット学者や南インド文学の専門家であるEdgerton、Venkatasubbiah、Artola達は、サンスクリット語文献の異本や、タミル語、カンナダ語、マラヤーラム語で、作者がインド人のVasubhāga、Viṣṇuśarman、Durgasiṃhaらとされる物語の由来を明らかにした。それらはBhāvadevasūriの編纂したジャイナ教の聖者パールシュヴァナータの物語に類似している。 当然、これらの物語のうち、より広く知られている物語は中央アジアや中東の諸言語にも見られる。例えば、パフラヴィ―語やペルシア語、シリア語の物語である『カリラとディムナの物語』(『ビドパイの寓話集』としても知られる)は、Pakṣīや『パンチャタントラ』のいくつかの鳥の物語に近似している。これらの物語の中には、ギリシア語、アラビア語、ヘブライ語やスペイン語に翻訳されたものもある。大変人気の高い『鳥の会議(ペルシア語:Manteq at-Tair)』は、12世紀の詩人Farid ud-Din Attarの作であるが、構想や登場する鳥がPakṣī-prakaraṇamのそれに酷似している。    Syam PhathranuprawatとKusuma Raksamaniは、これらの原典と思しきインドの文献を広範に研究し、さらにはこれらをジャワ語の物語と比較してきた(しかし、仏教文献との比較は行われていない)。Kusumaの研究はNandakaprakaraṇamに集中しているが、彼はNandaka、Pakṣī、Maṇḍūka、Piśācaの諸文献が、タイ北部に1400年代の半ばにもたらされた事、また、これらがおそらくVasubhāgaの物語に由来する事を示しているが、Pakṣīの大部分はViṣṇuśarmanの系譜に連なるようである。これに相当するパーリ語文献は発見されておらず、北タイ語の写本はニッサヤ形式によって記されたものであり、これはパーリ語ではなく、サンスクリット語文献に由来する。中には、サンスクリット語の言葉がパーリ語に翻訳されている例もあるが、これらの文献の本格的なパーリ語訳は、北タイ語方言への翻訳と注釈より前には存在しないようである。Syamは、北タイ語やラオ語、タイ中央部の言語によるTantropākhyāna物語が全く異なるという点を強調している。Tantropākhyānaのタイトルは、サンスクリット語でTantrī、あるいはTantrū、ラオ語、タイ語、ジャワ語の物語では、Nang Tantai 、Nang TantraiあるいはTantriとされる女性の名前に由来するものである。この女性が王に様々な物語を聞かせた事によって、理論上では360編ほどの物語が伝わったとされているが、通常、東南アジアの物語集には80編から90編の物語のみが存在する。    Vetāla-prakaraṇam、あるいはタイ語で一般にNithan Wetanというこの物語は、タイで有名なものであり、過去数年間のうちに数編の現代版が存在した。それらは過去四世紀に渡って、ラオ語やタイ語で流布していたサンスクリット語の物語集の中の、20編から25編の物語を題材としたものである。この物語集は、サンスクリット語や幾つかの現代東南アジア言語の様々な物語に見出される。この最古の物語集には、どうやら25編の物語が収められていたらしく、10世紀頃よりVetālapañcaviṃśatiというタイトルが付けられていた。これは後にソーマヴェーダが編纂した『カタ―・サリット・サーガラ』に組み込まれることとなった。Theodore Riccardiは、ネパールで知られているJambhaladatta版の物語に関する学位論文を書いた。この物語11編のうち、人気の高い一編がRichard Burton作の「Vikram and The Vampire」となったが、Arthur Riderの「Twenty-Two Goblins」もまた、この物語の不完全な翻訳である。 この文献ではそもそも、これらの物語がVikramādityaという名の王によって語られたとされているが、この人物は東南アジアの写本では物語の作者と認識されている。   東南アジアの物語では、Vikramādityaは木に吊るされた死骸と一連の対話をする王である。これは生ける屍、もしくはヴェターラー(タイ語ではwetan)として知られるゾンビである。王はこのゾンビを捕らえて担ぎ、バラモンの預言者(サンスクリット語ではṛṣi、タイ語ではphra reusi)のところへ運び、この預言者から神秘的な力を授かろうとしている。ゾンビは繰り返し、王に様々な生き物にちなんだ広範で、しばしば、とても滑稽な物語に関する謎をかけては逃げてしまうのであった。ゾンビは王に謎をかけた後に(奇妙な事に、王に正解を当てさせておいて)王の肩を飛び下り、元通り木に登ってしまうのであった。例えばある物語ではオウムと九官鳥が、女と男ではどちらがより無知であるかと議論をする。九官鳥はある恩知らずな男の話をする。美しく裕福な女性に愛されながら、彼女から盗みを続け、彼女を捨ててしまった男である。オウムはある女の話をする。彼女は結婚しているにも関わらず、長い間、あるバラモンと浮気を続けている。ところがある日、このバラモンは彼女の部屋に忍び込んだ泥棒と勘違いされてしまう。彼女の召使いに頭を殴られた男が横たわって死にかけていると、女は彼を生き返らせるために、その口から息を吹き込もうと試みたのであった。しかし、彼は断末魔の苦しみから、図らずも彼女の鼻を食いちぎってしまった!彼女は自分の美貌が損なわれた事を夫のせいにした。この夫は彼女に非が無ければ、王に死刑にされていたところである。ゾンビは王に、男と女で本当に酷いのはどちらであるかと尋ねる。王は「女」と答えるが、その答えは何ら客観的な理由もなく、ゾンビが正解と見ていたものである。また別の物語では、あるバラモンの父母が、彼らの年若い息子の突然の死に悲しんでいた。彼らが息子の亡骸を墓地へ運ぶと、そこには年老いたヨーガ行者がおり、彼は初めにその子を見て泣いたが、その後、飛び上がって小躍りし、その子の亡骸に乗り移るために魔術を使った。両親たちは、自分たちの子供が生き返った様子を見て大喜びであった。しかし、その子は禁欲的なヨーガ行者として余生を過ごす決意をしたのである!ゾンビは王に、このヨーガ行者が初めに泣き、それから小躍りした理由を尋ねた。王は再び正しく答え、ヨーガ行者は自分の古い肉体を失う事を悲しみ、それから新たな若いバラモンの肉体を得る事に喜んだのであると言った。他にも恋愛や毒殺、遊女の話、魔法によって性が入れ替わる話など、謎かけ物語が多く存在する。この王とゾンビの物語の終わりに、ゾンビは人間や動物の習性に対する洞察から、その苦行者が王を殺し、ゾンビの力を利用せんとしている事を王に警告する。このゾンビは王を怖がらせるのではなく、最終的には王の命を救い、彼の霊的な味方となるのであった。  […]

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アスワンを探して―フィリピン社会の怪談・化け物・妖術師 東 賢

はじめに―1枚の絵画    数年前、福岡に行った際に、かねてより気になっていた福岡アジア美術館へと足をのばしてみた。充実したアジア各国の絵画・美術作品の展示の中で、フィリピン人画家カルロス・フランシスコの「教育による進歩」の前で、私は立ちすくんだ。フィリピンの教育と発展という啓蒙的なイメージが描かれる中で、切り離された上半身から内臓を垂らしながら、作品上部をノイズのように漂う異形の姿は、まぎれもなくアスワンだった。教育と発展の中で消え去るべき「迷信」のイメージが、そこには集約されていた。まさか、こんなところでまたアスワンに再会することになるとは。どうやらアスワンを探す私の旅は、まだ終わってはいないらしい。  アスワンの過去と現在   アスワンとは、フィリピンのとくに低地キリスト教社会において、民間信仰や口頭伝承の中に頻繁に現れる超自然的な存在である。多様に語られるアスワンの姿は、大きくまとめれば(a)吸血鬼、(b)内臓吸い、(c)獣人、(d)人喰い鬼(e)妖術師の5つに分類できるという[Ramos 1990]。私がカルロス・フランシスコの絵画の中にみたのは、「内臓吸い」の姿で漂うアスワンであった。さらに近年、メディアや都市伝説の中で、その姿はさらに多様さを増しているようである。    私がアスワンと出会ったのは、マニラのある大学で留学生活をしていたころだった。男子学生寮は4人ずつの相部屋で、各地からマニラへとやってきたフィリピン人学生たちは、忙しい勉学の時間の合間にも語り合ったり遊んだりすることを忘れず、賑やかな日々が続いていた。そんな中、深夜にベッドで眠りにつく前に、ルームメイトたちが静かに語る怪談話に耳を傾けるのも楽しみの1つだった。そして、そんな他愛もない怪談話の中で、アスワンはよく語られていた。地域差はあれど、アスワンについてはある程度定型化された語りのフォーマットがあるようで、異なった地域出身のルームメイトたちもその面白さと怖さを共有しているようだった。私は次第に、フィリピンの怪談という二重の異世界の魅力に引き込まれ、アスワンについてもっと知りたいと欲するようになっていった。    調べてみると、さかのぼればアスワンは、フィリピンへの植民者であるスペイン人の記した15世紀や16世紀の歴史資料にすでに登場していた。そこでは、カトリックを布教しようとするスペイン人宣教師の目から見た「原住民の迷信」として、またカトリックの神に反する「悪魔」として、アスワンは描かれていた[Plasencia 1903-9; Ortiz 1903-9]。それが、スペインとアメリカによる統治期、そして第2次世界大戦の日本による軍政期を経て独立の後、マルコスの独裁政権におけるナショナリズムの流れの中、アスワンはフィリピンの国民的な民間信仰や口頭伝承としての地位を獲得していく。中 でも、上述のラモスによる研究は、ほぼフィリピン全土にわたるアスワンの口頭伝承の収集、記録作業を行ったものであり、農村や漁村から都市部まで国家レベルでの信仰と伝承の流通と、その共通性と多様性がともに示されている。そのように、「国民的な化け物」としての地位を確立したアスワンは、さらにその語られるコンテクストを広げていくのである。  メディアの中のアスワン  「国民的な化け物」としてのアスワンは、地方の農漁村や山奥に身を隠しているだけではない。その姿は都市伝説の中で語られる、マニラのハイウェイを疾走する老婆の姿であったり、また出稼ぎ先の国外で邪悪な力に感染し、帰国後自分の子を殺し食べてしまう母親の姿であったりする。地域共同体の中で育まれてきたであろうアスワンについての想像力は、一地域を超えたナショナルなレベルで、またときに国境を超えたグローバルなレベルに展開しているのである。  またさらに、様々なメディアの中にもアスワンは頻繁に登場する。驚くべきは、タブロイド紙を中心に一般紙でもアスワンの出現が報道されることである(もちろんその「事実」が最終的に検証されることは稀であるが)。また、フィクションとしては、アスワンを取り上げたりモチーフにした小説やコミックなど数多く、さらに近年の特徴としてはテレビ番組や映画など、映像メディアの中でも扱われることが挙げられる。  国語であり共通語であるフィリピノ語で制作されたいわゆる「タガログ映画」の中に、アスワンを題材にしたヒット作がいくつかある。人気ホラー映画シリーズShake Rattle & Roll II (1990)に収録された”Aswang”や、2011年にもリメイク作品が制作されたAswang(1992)などが代表的なものであるが、近年はアスワンをモチーフにラブコメディ風に仕上げたAng Darling Kong Aswang(2009)やラブロマンスの要素を強くしたCorazon: Ang Unang Aswang(2012)などジャンルも横断的になっている。  アスワンの故郷?   日常生活の中で、また現代的なコンテクストにおいても、アスワンが頻繁に語られ描かれる中で、その表象がある特定の一地域と関連付けられる傾向がある。それは、西ビサヤ地方のパナイ島にあるカピス州を「アスワンの故郷」だとする語りである。    私がカピス州の州都ロハス市で、2000年ごろから長期滞在調査をすることになったのも、「カピスがアスワンの故郷だ」という語りを多く、マニラの友人たちから聞いたのが理由である。日本人の大学院生がなぜかアスワンに興味を持ち、それを研究の対象にしようとしていることを聞くと、皆口をそろえて「カピスがアスワンの故郷だ」と、私に意味ありげに告げるのである。そのようにいわれる何かがカピス州にあるのか、という関心から、私はカピス州ロハス市での長期滞在調査を実施することを決定した。    ところが、いざロハスに到着して、アスワンについて聞きまわっていると、人々の反応は好ましくなく、非協力的で、ときに暴力的なまでの反感を抱かれることもあった。アスワンについては語りたくないという態度から、カピスにはアスワンなどいないという反応まで、とにかく私の聞き取り調査はことごとくうまくいかなかった。その調査の不調の理由を知ったのは、しばらく経った後、ロハス市内にあるカピス州の地方新聞社を訪れたときである。週刊の新聞のバックナンバーを調べていると、そこには90年代の半ばごろから数カ月に1度のペースで、アスワンに関する記事が掲載されていた。それら記事の主題は、「アスワンの故郷」という外部からの表象に対して、それを受け入れるのか、否定するのかというものだった。とくに、1999年に全国公開された映画Sa […]

Issue 12

ドゥクンとインドネシア政治

         スハルト政権崩壊後のインドネシア政治研究では、インドネシア政治という電車の無賃乗客のように、ドゥクン(呪術師)の存在は拒否され扱われてこなかった。政治においては、合理的で客観的だとされる側面にばかりこれまで関心が寄せられてきた。しかし、とりわけインドネシアの政治闘争においてドゥクンを利用するという現象は古くから続いてきたのであり、到底無視することなど出来ない。ドゥクンが重宝されてきたのは、政治闘争で彼らを用いれば、ドゥクンの利用者に権力と安寧をもたらすと信じられているからである。    この小論考では、現代政治におけるドゥクンの役割を描きたいと考えている。ただし、本稿はドゥクンのもつ呪術的な力が実在するのかどうかを経験論的に証明しようとするものではない。本稿は、多くの事例にみられるドゥクンを利用するという現象は、インドネシアの政治闘争とは切っても切り離すことが出来ず、現代民主主義の試金石ともみなしうる世論調査機関が乱立するようになった今でもそのことは当てはまるのである。  スハルト政権期におけるドゥクン    社会現象としてのドゥクンは、人々の日常生活とは無縁なものではない。ドゥクンとは呪術的な力とエネルギーを持つと信じられ、自分のために、或いは他者の依頼を受けて、密かに、そして、謎めいた方法でその力とエネルギーを使うもののことである。その力とエネルギーにより、対象となる人物の救済や健康の回復を行う場合もあれば、その逆に、対象となる人物に恐怖心を引き起こしたり、災厄をもたらしたりする。    一般に、「白いドゥクン」と「黒いドゥクン」がいることが知られているが、その区分 はまったくもって社会的文脈しだいである。「白いドゥクン」は救済や回復の祈願など、「善」を目的とするものであり、「黒いドゥクン」は他人を傷つけるだけでなく、殺害までも行う、「悪」を目的とするネガティブなものである。    ドゥクンはその行為類型で分類することもできる。たとえば、人間と精霊を媒介するドゥクン・プレワガン(dukun prewangan)、助産ドゥクン(dukun beranak)、災厄除去するドゥクン・シウェル(dukun siwel)、さらには人体に金・ダイヤモンド・クリスタル石から作られた細い針を埋め込むことで美容・権威・権力を確約するドゥクン・ススック(dukun susuk)もいる。呪文やハーブによって治療を行うドゥクン・ジャンピ(dukun jampi)、ドゥクン・サンテット(dukun santet)、ドゥクン・テルゥ(dukun teluh)、ドゥクン・テゥヌン(dukun tenung)は呪術で敵対者に災厄をもたらすことができる。dukun leak (バリ)、dukun minyakkuyang(南カリマンタン)など、インドネシア各地に特有のドゥクンの呼び名がある。    一方、政治におけるドゥクンとは、ドゥクンの利用者が政治において、とりわけ地方首長直接選挙のような政治闘争において、利得や勝利をもたらすことを約束する。政治現象としては、ドゥクンの存在は、独立以降の近代民主主義の展開と軌を一にしてきた。インドネシア政治におけるドゥクン現象に関する学問的な記録はほとんどないが、政治ドゥクンは政治のダイナミクスにおいて一定の地位を占めており、新秩序期には権力の一翼を担っていた。地方政治アクターたちのみならず、「大人物(orang besar)」としてのスハルトもこの灰色の世界と密接な関係を持っていたと言われている。    当時、ABG、すなわち国軍(ABRI)、官僚(Birokrasi)、ゴルカル(Golkar)からなる比較的シンプルなパターンに基づいて政治的リクルートが行われていたものの、ドゥクンの入り込む余地がなかったわけではない。実際には、ドゥクンは特別の地位を保持していたものの、秘匿とされていたのであった。権力者の「承認」を獲得することがカギであったため、ドゥクンの仕事はこの閉じられたダイナミクスの中で「承認」を得るための方法やアクターを見出すことであった(mbah Limリム老師へのヒアリングに基づく。2012年1月17日、シドアルジョにて)。ドゥクンとは、信頼に足る助言者として重要な存在とされていたのである。また、ドゥクンは政敵、あるいは将来政権にとって脅威となる政治仲間を排除するためにも用いられた。ドゥクン・サンテットであるキ・グンデン・パムンカス(Ki Gendeng Pamungkas)は政治家や権力者の取り巻きから、その政敵のみならず、いずれ「悪巧み」をしうる同僚に呪術をかけて生命を奪うよう依頼されることもよくあると述べている。    スハルトのリーダーシップにおける神秘的な側面は、確かにジャワのリーダーシップに関する文化から説明できよう。しかしながら、社会事実としてそのリーダーシップは精神的・霊的助言者に故意に依存していたのである。スハルトのリーダーシップを「守護する」忠実なドゥクンたちも存在した(Liberty, 1-10 Juni 1998)。全国に少なくとも「1000人のドゥクン(seribu […]

Issue 12

インドネシア における 子供 ∙ 若者の自殺

          近年、インドネシアにおいて子供や若者の自殺が増加しているといわれる。この現象は1998年に初めて注目を浴びた。国家子供保護委員会(Komisi Nasional Perlindungan Anak, Komnas Anak )は、2012年上半期の報告書において、2012年1月から7月までに子供の自殺が20件あったと報告している。アリスト・ムルデカ・シレイト(Arist Merdeka Sirait)同委員会会長は、この20件の自殺について、その主な原因が、失恋(8件)、経済的問題(7件)、家庭内不和(4件)、学校での問題(1件)であったと述べた。また、20件のうち最も若い自殺者の年齢は13才であった。  自殺に関する全国的な統計はないが、2012年前半までの傾向をみると、子供や若者の自殺は、2012年末までに全国的にさらに増えるかもしれない。こうした多くの子供や若者たちの自殺は、実に痛ましい問題である。インドネシアの子供や若者の世界では一体何が起きているのだろうか。インドネシアで子供や若者の自殺が増えている原因は何であろうか。なぜ彼・彼女らは自殺を決意したのだろうか。これらの問いに答えるためには、より深い考察が必要であるが、本稿ではインドネシアの地方文化に焦点を当て、ジョグジャカルタ州グヌンキドゥル県にみられる文化的背景から子供や若者の自殺という現象について考えてみたい。  プルンガントン    ジョグジャカルタ州グヌンキドゥル県は、インドネシアにおいて子供や若者の自殺が最も多い地域として知られている。過去5年間の統計をみると、確かに自殺件数はかなり多い。地元の警察によれば、2011年における子供や若者による自殺の件数は28件であった。また、専門家間対話フォーラム(Wahana Komunikasi Lintas Spesialis)によると、グヌンキドゥル県における自殺の割合は10万人に9人である。ちなみに首都ジャカルタにおける自殺の割合は10万人に1.2人である。    グヌンキドゥル県には、「プルンガントン」とよばれる、この地方特有の概念がある。この概念は、人が自殺をする理由に関する民間信仰に由来している。この信仰によると、人は夜、空から「pulung」あるいは「wahyu」とよばれる星がふってきたと感じて自殺をするのである。「pulung」は彗星のような尾を持つ丸い光のかたまりであり、黄みを帯びた赤色で、青い光を放っている。この星は、とてつもない速さで自殺をする人の家あるいは家の近くに落ちていく。自殺をする人は首をつって(gantung)自殺することから、この伝承は「pulung gantung(プルンガントン)」と呼ばれるようになった。    「プルンガントゥン」は、誰かが自殺をすると口伝えで広まり、その自殺は自然なものであり、なんら疑う余地がないとして正当化される。しかし、住民たちは、その人が自殺に至る前には大抵何か解決のできない個人的な悩みや問題があったのだという事実を否定することはない。そうした問題は、大抵は住民たちの間で周知されている。個人的な問題には、例えば、不治の病、借金苦、進路問題、失恋などがある。    この信仰は、例えば、次の事例にもみることができる。2011年12月24日、シシリア・プトリ(Cicilia Putri)という15才の女子中学生が首をつって自殺をした。住民たちは、彼女が自殺をする数日前に、彼女の家の周辺に丸い光が尾を引いて空から落ちてきたと信じていた。しかし、西ジャワ州バンドンに住む彼女の両親は、彼女が彼氏にふられたために自殺をしたのではないかと考えている。    グヌンキドゥル県の「プルンガントン」信仰は、運命を自然に起きたこととして受け入れる文化が形成される過程の一部を示したものといえる。こうした自殺は周辺住民の間で、すでに再生産された知識となっており、理性や感情を抑えることぐらいでは解決できなくなった日々の問題をどうやって解決するかを教えてくれる「教材」になっている。 人生の意味をめぐる危機と国家政治    すでに多くのメディアで語られているように、インドネシアにおいて自殺は単に経済的な問題を理由に起きるわけではない。また自殺者の家族的背景が、経済的に困窮した家庭や教育レベルの低い家庭、または農村家庭であるとは限らない。子供や若者の自殺は大都市でも起きており、また、比較的裕福な家庭や教育レベルの高い家庭の子供たちにも見られる。経済的状況や教育レベルによって、人がストレスから解放されたり、人生における問題を理性的に解決することができるという保証はない。    グヌンキドゥル県の例は、自殺の動機に経済的問題があると読み取ることもできるが、上述したように経済的問題がない子供や若者の自殺の場合は異なる意味合いをもっている。つまり、子供や若者は何か問題に直面したときに、理性や感情のコントロールでは越えられない複雑な現実を目の当たりにし、問題の解決法として近道を選んでしまうのである。    こうした自殺の意味合いは、インドネシアにおける1998年以降の社会・政治的変化の文脈の中で、より一層大きくなっている。権力闘争に明け暮れる地方行政官は、子供や若者の問題に注意を払わなくなっていた。また、本来子供の成長と想像力を養う重要な役割をもつ家族は、今日さまざまな問題に直面している。父親や母親は、政治闘争や人間関係の希薄化など社会生活における複雑な問題に対処するのに忙しく、子供と一緒にいる機会をもてないでいる。21世紀におけるインドネシアの課題は、子供たちの理性や感情の成長発育にとって最適な状態と空間をどう提供していくかにある。  […]

Issue 11

マドゥラのブラテー(Blater/悪党)の社会的起源と政治権力

マドゥラ族の象徴的イメージは暴力と宗教性に結び付けられている。しかし実際のところ、理論的に言えばこれらの言葉は異なる、または矛盾した意味を表す事もある。宗教的な人々は禁欲的に暮らし、悪行や暴力行為を犯す事を避けようとする。これに対して暴力に慣れた人々は、禁欲的な生活から遠ざかる傾向にある。ところが、社会的現実が提示する複雑な諸問題が、常に規範的な理論を裏づけるとは限らない。文化という文脈上では、暴力と宗教性は空所に作用するものではなく、その存在は常に社会構造の力関係や利害的相互作用と相関したものである(Foucault: 2002)。  暴力と宗教性は人類文明の「子供」である。暴力はその背景や動機により、様々な種類に区別される。チャロックについて考えてみよう。これはマドゥラ族の内紛を解決する暴力的な伝統である。  それは彼らの自尊心や誇りに対する熱烈さ、その思い入れ如何では、その関係者達に深刻な傷害や、死さえをも招く顛末となり得るものである。マドゥラ族がチャロックを行うのは、彼らの誇りや自尊心が侮辱を受ける、もしくは害され、傷つけられたと彼らが感じる時である。彼らの憤りの感情が、恥辱の感情(マロー またはトドゥス)に発展した場合、マドゥラ族はチャロックを行って争いを調停する。  この事情はマドゥラの有名な諺に確言されている。“ango’an pote tolang etembang pote matah”、字義どおりには「白眼をよりも白骨を」という意味で、「人生は自尊心を持たねば無意味である」という隠喩である。  マローとなりチャロックという結末をもたらす、恥辱という強い感情は、しばしば人妻をめぐる修羅場と結びつけられる。マドゥラ人は、彼の妻が侵害されるような事があれば、立腹してチャロックを行う。同様に、彼はその妻の不貞の噂に嫉妬心をおこし、彼女の不義の相手がチャロックの標的となるのである。チャロックはまた、報復行為、とりわけ殺害された家族への仇討という形をとる事もある。  このように、チャロックは人の高潔さを守る行為であり、その血筋を維持するための闘いであると解されている (Wiyata, 2002: 89-159)。 チャロック における動機と標的は大変明確である。人々は自尊心が害された事から生じる暴力的な争議に巻き込まれるのである。  自尊心と誇りにかけてチャロックを行うマドゥラ人は勇敢(ブラテー)であったと認識される。ブラテーは、その人の自尊心への打撃を暴力で解決する事であり、恐れのない精神、誇り、そして勇敢さを示すものである。一方、自らの自尊心を守るために「寛容性」を選ぶ者達は、地域社会からブラテーの精神を持たぬ者と見なされる。以前はブラテーでないとされていたマドゥラ人達が、ひとたびチャロックを行った後に、中でも血みどろの格闘を勝ち取った者らがブラテーとして認められる事例が数多くある。  このように、チャロックは地域社会で紛争を解決するための勇気であると見なされており、チャロックを行う事はその人のブラテーとしての社会的地位を強化し、正当化する重要な社会的行為なのである。  チャロックを行う事のみがブラテーの地位を正当化する方法というわけではない。他にもマドゥラ人をブラテーに変え得る、それ以上の社会的手段が多数存在する。  クラピン・サピ(マドゥラ族の牛競べ)、鶏闘、犯罪行為やレモー、 ブラテーへの関与…こういった全てがブラテーの文化的再生産を成すものである。  偏在するダイナミズムがこの独特な文化と地域社会をマドゥラに創り出した。 従って、あるマドゥラ人が自らをブラテーであると認め、かつ彼が社会において特別な地位に就いていようとも、何ら不思議はないという事になる。ブラテーは文化的に高い評価を集め、社会的尊敬を受けるし、そうでないブラテーを見つける事は困難である。  ブラテーは全てのコミュニティー、及び社会階級から現れ得る。サントリ出身の者もいれば非サントリ出身者も存在する。手短に言えば、大いに宗教的である者をも含む、いかなる社会的集団、または階級の者であれ、万人がブラテーになり得るのである。  元サントリ(厳格なムスリム)がペサントレン(伝統的なイスラームの学校)を卒業した後にブラテーとなった事例も多い。元サントリのブラテーは、大概ガジ(コーランの詩を吟ずる事)に長け、キターブ・クニン (黄色い本、ペサントレンで用いられるアラビア語の原書)に通じている。  これもまた、マドゥラ社会にあっては一般的な事である。マドゥラ族の伝統上、宗教的な教えは日常生活の一部となっているのである。若きは全ての子供達が島中の集落や村々に散在するランガル、ムソラ、スラウ、モスクやペサントレンで宗教を教えられる事に始まる。  このような背景があればこそ、元サントリのブラテーが文化的ネットワークを築き、彼をキアイ(イスラーム教の聖職者)であるかのようにさえ扱う伝統を展開させて来られたのである (Mansoornoor 1990; Bruinessen 1995)。  イスラーム教はマドゥラ社会で中心的役割を果たしており、様々な社会儀礼は常にキアイを指導的立場に戴く宗教的精神と結びつけられている。  […]