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Menggugat Ruang Pemahaman dalam Politik Buddhisme

Gambaran umum dan ilmiah tentang mobilisasi umat Buddha di Myanmar belakangan ini mengangkat persoalan bagaimana pendekatan teoritis dan analitis dapat menentukan kajian Buddhisme, politik dan masyarakat. Munculnya organisasi monastik nasionalis “MaBaTha” dan upayanya untuk memberlakukan […]

Issue 19 Mar. 2016

การช่วงชิงภูมิทัศน์ด้านมโนทัศน์ในการเมืองของพุทธศาสนา

การตีความเกี่ยวกับการระดมมวลชนชาวพุทธในเมียนมาระยะหลัง ทั้งที่เป็นการตีความในแวดวงวิชาการและโดยคนทั่วไป ชี้ให้เห็นประเด็นที่วิธีการเชิงทฤษฎีและเชิงวิเคราะห์มีผลต่อการศึกษาความเกี่ยวพันระหว่างพุทธศาสนากับการเมืองและสังคม การขยายตัวขององค์กรพระสงฆ์ชาตินิยมอย่าง MaBaTha และความพยายามขององค์กรนี้ที่จะผลักดันให้มีการออกกฎหมายที่เข้มงวดและชี้นำการเลือกตั้งในเมียนมาที่เพิ่งเปลี่ยนสู่ระบอบประชาธิปไตยเมื่อไม่นานนี้ ทำให้ประเด็นการเมืองของพุทธศาสนาและลัทธิชาตินิยมหวนกลับมาเป็นเป้าของการวิเคราะห์กันอย่างมากมายในเอเชียตะวันออกเฉียงใต้อีกครั้ง ชื่อองค์กร MaBaTha มาจากคำขวัญของลัทธิชาตินิยมต่อต้านอาณานิคมในช่วงต้นศตวรรษที่ 20 นั่นคือ “Amyo (Ma), Batha (Ba), Thathana (Tha)” หรือ เชื้อชาติ, ศาสนา/ภาษา และสาสน์ (sāsana หมายถึงระบบและคำสอนของพระพุทธเจ้า) ชื่อขององค์กรเองชี้ให้เห็นความเชื่อมโยงระหว่างพัฒนาการในสมัยปัจจุบันกับการเคลื่อนไหวระดมมวลชนของชาวพุทธในพม่าเมื่อศตวรรษก่อน ปัญหาที่เกิดขึ้นก็เช่นเดียวกับการวิเคราะห์ทางวิชาการเกี่ยวกับประวัติศาสตร์ช่วงก่อนนั้น กล่าวคือ การวิเคราะห์ที่มีมากมายเกี่ยวกับการขยายตัวของ MaBaTha กับลัทธิชาตินิยมและบรรยากาศการต่อต้านมุสลิมในเมียนมา มักอ้างว่าต้นกำเนิดของปรากฏการณ์นี้มาจากชาวพุทธที่ใช้ศาสนาเพื่อเป้าหมายทางการเมือง หรือจากลัทธิชาตินิยมที่มีมายาวนานและความเกลียดกลัวคนต่างชาติที่ฝังอยู่ในศาสนาพุทธของพม่า ข้ออ้างทั้งสองประการนี้ต่างก็ผิดพลาด ไม่เพียงเพราะเป็นการตีขลุมสรุปที่หยาบง่ายเกินไป แต่เพราะมันสะท้อนถึงวิธีการที่มีปัญหาในการคิดเกี่ยวกับพุทธศาสนา […]

Issue 19 Mar. 2016

諸概念が拮抗する仏教のポリティクス

ミャンマーでの近年の仏教徒動員についての一般的、学問的な表象をみてみると、いかに理論的で分析的なアプローチが仏教、政治、社会に関する研究を形作っているかを考えさせてくれる。最近民主化されつつあるミャンマーにおいて、ナショナリストの僧院組織、マバタ(MaBaTha)が台頭し、彼らが規制をかける法律を作り、選挙政治に影響を及ぼそうと試みており、それは、仏教とナショナリズムのポリティクスの問題を再び、多くの東南アジアについての分析の中でも中心的な問題にした。マバタはその名を20世紀初頭の反植民地ナショナリストのスローガンで、人種、宗教・言語及びサーサナー(sāsana/仏の法や教え)を意味する「Amyo (マ), Batha(バ), Thathana(タ)」からとっている。この名前自体が現代の展開を100年以上も昔のビルマでの仏教の一般大衆動員と結びつけるものとなっている。 問題なのは、20世紀初頭の運動についての研究の大半と同様、ミャンマーにおけるマバタ、その他のナショナリストや反ムスリム感情の台頭に関する分析の多くが、仏教徒たちが宗教を政治目的に利用したことに台頭の原因を求めたり、ビルマ仏教の本質にはナショナリスト的感情、あるいは外国人嫌いの感情が根強く存在することに台頭の原因を求めたりしていることだ。これらはいずれも間違いであるが、その理由は、単にこれらが過度の単純化であるというだけでなく、むしろ、これらが仏教や宗教、アイデンティティを考察する上で問題含みのアプローチの典型であるためだ。そうした研究は、仏教に永劫不変の本質が有るとみなしており、また、人間の経験や行動において宗教と政治とは別個の領域として容易に識別できるとみなしてしまっている。これらの各状況をもう少し深く掘り下げてみれば、これらの運動についての研究の多くは、単に政治情勢やナショナリストのアイデンティティ、仏教実践に関するある特定の解釈や内容を助長しようとしているだけでなく、このような議論の拠り所となる概念的枠組みを積極的に形成し、それについて論じようとしていることが明らかとなる。 これらの運動にまつわる多くの現在の言説は、以前の運動と同様に、これらの運動もまた、仏教とビルマ人らしさを保とうとして、この両者を積極的に構築し、刷新していることをまったく見落としてしまっている。こうした試みにおいては、仏教も国民も流動的な(空っぽの)容器でしかなく、社会構造やヒエラルキーの創造と変容のメカニズムとして作用する。だが、仏教、ビルマ国民といったアイデアを意図せずして固定的で単一で識別可能なものとしてしまうのは、何も一般的な言説、ジャーナリスティックな言説、政策的な言説に限らない。往々にして、学者たる我々自身が研究を通じて、これらが固定的な知の対象であり、我々が記述し説明する専門的知識を持つと主張できる対象だとしてしまっている。その点を意識しなかった場合、我々は無意識のうちに自分達の研究する場の文化の政治に巻き込まれてしまい、国民、人種、あるいは排除という言葉で定義されない別の形での仏教が創造される可能性やアイデンティティと動員の諸形態が創造される可能性を排除してしまうという深刻な事態になりかねない。 20世紀の初頭には、植民地時代のビルマの多くの仏教徒たちが、植民地支配の到来に伴う絶え間ない変化を、仏の教えが失われつつあるという予感として経験した。彼らは仏教を守るための大規模な運動を起こし、これが社会や社会組織のさまざまな側面に影響を及ぼし、そして究極的には反植民地ナショナリストの政治に影響を与えたのである。現代のミャンマーにおける動きと極めて似ているようにみえる。この国は再び、社会的、政治的、経済的な激動の時代に直面している。多くのビルマ人たちが、変化が不安定を生むことに不安を感じ、そして、何か致命的なものが失われつつあるという懸念を表明している。仏教や仏の教え、ビルマ文化の保護を主張する運動が大衆動員を生み出してきた。仏教保護の取り組みに共感し、仏教への脅威が誰、あるいは何であるか(ムスリム、政党、外国のNGO、ライフスタイルの変化)についての言説に共感することが、明らかに多くのミャンマー人達にとってアイデンティティの一部をなしてきているように思われる。 しかし、これら2つの動きにつながりを認めて、仏教徒の言説やビルマ人のナショナリズムに共通する本質を説明しようするよりも、進むべき道は、この2つの動きがミャンマー(ビルマ)、仏教と宗教という本質的なカテゴリーをどのように構築、再構築してきたかを考察することである。こうしたカテゴリーは流動的で拮抗しており、そして、とりわけ影響力のあるものとして着目し、人々が自分達自身をどのように組織化するかに着目する研究であれば、我々は社会の中の権力の作用、すなわち、仏教のポリティクスを理解することができるのである。 我々にとってもっともやりやすいのは、東南アジア研究を形成する上で重要であり続けているベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)の批判的洞察に従うことである。つまり、これらの運動の言説における国民を脱国民化(解体)し、これらの言説がどのように排他主義的な宗教アイデンティティの観点からミャンマーを想像することになっているのかを分析することであろう。国民や国民アイデンティティを論じ、これらを構築する動きはどのようなものであれ往々にして表立っているし、容易に政治的言説に結び付く。しかし、排他的な運動に対抗して、よりリベラルにミャンマーを国民として想像しようとする運動の行われ方については、研究者たちは見過ごしがちである。国民を脱国民化(解体)することは、こうした運動を理解する上で何が重要であるかを分析するためには決定的に重要な第一歩であり、有用でもあるが、最初の一歩に過ぎない。次の段階は、おそらく宗教学者たちにとってはわかりやすいことだが、仏教を脱仏教化(解体)することであり、こうした運動がその言説やプロジェクトを通じ、どのようにミャンマーにおいて仏教がもつ意味の広がりを変えているかに着目することである。通俗的な分析や政策分析は、歴史を超越する仏教の本質があり、それが特定の歴史的な運動によってはっきりと示されているかのように、あるいは、歪められているかのように記述しており、仏教徒たちが仏教の解釈を変容させ続けてきていることを認識していない。ミャンマーにおける現代の運動は、たとえ仏教の擁護や保護をその使命の中心と主張しようとも、仏教の実際的な意味を積極的に作り変えていることが明らかなのにである。 さらに、ミャンマー人や仏教といったカテゴリーを論点としながら、再想像するこの作業は、ナショナリスティック、原理主義的、あるいは反ムスリム的とレッテルづけされている運動に限らず、多種多様の仏教運動や僧侶たちによって実行されている。このせめぎ合い、作り変えられて行く範疇に着目することで、我々は現代ミャンマーの様々な仏教運動の関係性を理解し、これらの運動がミャンマーの社会的、宗教的、政治的展望の中に生み出すより深い変化を、それらの単なるレトリック内容をはるかに超えて考察することが可能となる。 我々は、仏教やミャンマー人といったカテゴリーを解体していくこの分析をもう一歩進め、仏教運動において宗教と世俗それら自体がいかに論じられて、再構築されてきており、きわめて重要な政治的・社会的相互作用の一部になっているのかに着目する必要がある。このとき、我々が仏教と政治に関心があるのであれば、カテゴリーに着目することは極めて有用である。学者たちはしばしば、(宗教が何を意味するかを問うこともなく)仏教に宗教というレッテルを貼り、宗教と政治を考察することは、それぞれを分析し、その関係性と相互作用を分析するうえで有益な方法だとしている。だが、これは宗教を政治から切り離すことの出来る生活・行動・思想カテゴリーであることを前提としてしまっている。宗教は他の社会生活、世俗とレッテル貼りされている社会生活から切り離しうるという世界観と概念区分を前提としてしまっている。Talal Asadらが教えてくれたように、このような世界観は絶対でもなければ、当然のものでもなく、特殊なイデオロギー、世界観であり、我々はこの下で常に、あらゆる場所の全ての人々の営みが行われていると決めつけるべきではない。宗教を境界のあるカテゴリーだとするのは、特殊なヨーロッパ史の所産である。これは東南アジアに植民地主義とともにもたらされ、宗主国特有の様式として機能した。東南アジアの仏教徒たちは、植民地支配の下で宗教・世俗という世界観に適応するようになり、またこれを現地の概念的枠組み(lokiya/lokuttara, sāsana /ローキヤ・ロークッタラ、サーサナなど)と融合させたものの、このような枠組みは昔も今も、議論の続く、物議を醸すものなのだ。宗教の境界の明確な輪郭線と、そのカテゴリーと政治、経済などの世俗的カテゴリーとの相互作用は、積極的な解釈、翻訳、さらなる翻訳を生み出している。 植民地時代には、仏教徒たちも英国の行政官たちも同様に、「世俗」の意味するものを定義することに積極的であった。国家と宗教の完全な分離というレトリックにも関わらず、英国植民地時代の「世俗主義」には、政府が僧侶らに(律/Vinayaではなく、パーリー語仏典の内容に関する)試験を実施するという意味もあった。それは仏教が、教えの実践ではなく、仏典の内容に限定されたものである限り、僧院を政府の教育制度に取り込めたことを意味する。植民地時代のビルマ人たちにとって世俗とは、カルマやサーサナの概念は使える空間であるが、実践は別のロジックが作用していたようである。 現代の運動においては、国家と公的な政治的言説、そして宗教の役割の間の正しい関係についてかなりのやりとりが行われている。国家とは、法律によって制限を設けて仏教を外的脅威から保護するプロジェクトを実施する機構だと言う人は多い。あまり露骨に外国人嫌いを目論まない形で仏教団体が国民のアイデンティティや国家の発展、文化の保護を国家と同様に積極的に進めるべきだという人もいる。ミャンマーにいる欧米の大使たちが、開発計画や特定の僧侶や僧院派閥による仏教解釈を積極的に是認した後、選挙の直前に政教分離を表立って要請した。それはあたかも、先の是認だけでは、仏教、宗教、政治の構成要素を定義する作業が予定したようには進められていないからとでも言いたいかのようであった。 このような大使たちの行為は、仏教と世俗主義のカテゴリーが構成されていく過程ははるかに複雑であることを示している。僧院の開設や、仏教徒の社会奉仕事業に臨む大使たちの映像は、パーリー語の試験を監督し、僧院学校のカリキュラムを書き直す、19世紀の英国植民地の行政官たちのセピア色をした写真のテクニカラー版のようにしか見えない。仏教はそれ自体、これらの相互作用における権力をめぐる言説の産物なのである。このゲームの中で、このような大使たちの行動は、リベラルな解釈とナショナリスティックな解釈という両極の間で仏教解釈の幅を決めていくことを正当化してしまい、そうすることで、国民、人種、あるいは排他主義的アイデンティティによって定義されないような仏教実践、アイデンティティと動員の概念と態様の創出をきわめて積極的に阻止してしまう。さらに、こうした行動は、一部の意見を助長し、その他の意見を封じ込める過程の中で、ミャンマー特有の世俗の意味を規定していくことになる。 学者たる我々が、宗教、政治、あるいは世俗を普遍的で固定的な性質のカテゴリーと前提したまま仏教と政治を調査すると、諸概念を現地の文脈の中で再定義し、再形成しようとする人々が行っている多くの作業を見逃してしまう。自分たち自身の想定に基づいてこのようなカテゴリーを常識的で固定的なものと考えて、分析装置として使用することは容易である。だがそれでは、我々が研究せんとする運動のポリティクス、すなわち、文化と知の働きにある権力の作用を見落としてしまう。この点で、我々にとってより有意義なことは、仏教徒たちがビルマ人の生活を構成するカテゴリーを定義、再定義するポリティクスに着目することであろう。そうすると、植民地時代と現在の仏教徒の運動の両方が、諸概念をどのように作りなおしてきたのかを考えることができる。サーサナや宗教、政治、国家、仏教といったアイデアの変化を通じて、ビルマの人々が自己や自分達の行動、その未来と過去を認識するときの諸概念がどのように作りなおされてきたのかがわかるのである。  我々がミャンマー(ビルマ)とビルマ仏教を研究対象にすることで、我々はこれらの概念に真実味や信ぴょう性を添えることになるが、それは問題含みである。もし、我々がビルマ(ミャンマー)を知っていると主張することでキャリアを積むうち、「ビルマ(ミャンマー)」は一国民として無意識に当たり前の対象となり、知ることができ、一見不変なものとしてしまうと、我々はナショナリズム、ベネディクト・アンダーソンの言う国民の想像行為に寄与していることになる。もし、ビルマ仏教が我々の研究の中で絶対的で当然の何かとなり、我々が常に権力の作用を察知するような流動的な概念でなくなるのなら、我々は自らを現地の政治に関与し、暗黙のうちに現地で支配的な言説を、たとえその内容を批判していたとしても、支持することになる。だが、我々が学術研究や論文において、「仏教」、「宗教」あるいは「世俗」といった概念が、明らかに研究の余地を残すものであり、アイデンティティや排除の方法であり、相容れ難いさまざまな文化と表現の一部であると論じつづける限り、(自由主義的形式であれ、排他主義的な形式であれ)ナショナリストたちがアイデンティティと政治的現実を排他的に捉えて主張する試みというのは、ミャンマー、アイデンティティ、仏教に関するその他の意見や解釈を打ち消すためのメカニズムであることを認識することができる。 トロント、ヨーク大学 准教授 Alicia Turnerアリシア・ターナーはトロントのヨーク大学のHumanities and Religious Studies(人文宗教学)の准教授で、The Journal of Burma Studies(ビルマ研究ジャーナル)の編集者である。彼女の最新の著作はSaving Buddhism: The Impermanence of Religion in […]

Issue 19 Mar. 2016

นาฏกรรมของศาสนาฮินดูในมหานครกรุงเทพฯ: เทศกาลพิธีกรรมและพหุนิยมทางศาสนาในสภาพแวดล้อมทางสังคมไทยพุทธของเมืองใหญ่

ในช่วงหลายทศวรรษที่ผ่านมา ชาวไทยพุทธหันไปนับถือเทพเจ้าในศาสนาฮินดูมากขึ้น โดยยึดถือเป็นแหล่งพึ่งพิงทางใจที่จะช่วยดลบันดาลปาฏิหาริย์ที่เป็นคุณแก่ตนและเครื่องยึดเหนี่ยวทางศรัทธา ภายในมหานครกรุงเทพฯ ยุคปัจจุบัน มีสถานที่สาธารณะจำนวนมากช่วยกระตุ้นความสนใจที่มีต่อเทพเจ้าฮินดูและการสักการบูชา หรืออาจรวมถึงศาสนาฮินดูเองด้วย มีศาสนสถานฮินดูหลายแห่งที่แรกเริ่มเดิมทีนั้น ผู้อพยพชาวอินเดียก่อตั้งขึ้นเพื่อรับใช้ชุมชนพลัดถิ่น เช่น วัดพระศรีมหาอุมาเทวี (วัดแขก) วัดเทพมณเฑียร วัดทุรคามณเฑียรและวัดวิษณุ มีอีกหลายวัดที่ชาวไทยพุทธเองสร้างขึ้นเพื่อสักการะเทพเจ้าฮินดู เช่น เทวสถาน (โบสถ์พราหมณ์) ที่สร้างขึ้นสำหรับพราหมณ์ประจำราชสำนักตั้งแต่ต้นราชวงศ์จักรี หรือวิหารพระศิวะขนาดใหญ่ที่ตั้งอยู่บนถนนรามอินทราก็เพิ่งสร้างขึ้นเมื่อสิบกว่าปีมานี้ นอกจากนี้ยังมีภูมิสถาปัตยกรรมแบบขยายพื้นที่รอบแท่นบูชาสาธารณะที่ตั้งโดดๆ โดยมีศูนย์กลางอยู่ที่รูปปั้นเทพเจ้าฮินดู ซึ่งสร้างขึ้นโดยบุคคล สถาบันเอกชนหรือหน่วยงานรัฐบาล ศาลพระพรหมเอราวัณน่าจะเป็นตัวอย่างที่มีชื่อเสียงที่สุดของภูมิสถาปัตยกรรมประเภทนี้ แม้ว่าจะมีศาลอื่นๆ ที่สร้างขึ้นเพื่อบูชาพระอินทร์ พระนารายณ์ พระลักษมี พระตรีมูรติและพระพิฆเนศ ตั้งอยู่ใกล้ๆ ในระยะเดินถึงได้จากสี่แยกราชประสงค์ก็ตาม ในประการสุดท้าย รูปปั้นและศาลบูชาเทพเจ้าฮินดูองค์ต่างๆ สามารถพบเห็นได้ง่ายทั้งในวัดพุทธศาสนาและตามเทวสถานแบบหลายศาสนาที่มีอยู่ทั่วไปในมหานครกรุงเทพฯ […]

Issue 19 Mar. 2016

首都バンコクにおけるヒンドゥー教の舞台: 都市部タイ仏教徒空間の儀礼的スペクタクルと宗教多元主義

この数十年間でタイの仏教徒は増々、奇跡的な加護と親しみやすい信仰を兼ね備えた慈愛の源泉として、ヒンドゥーの神々を崇拝するようになってきた。現代バンコクの多くの公共の場には、ヒンドゥー教そのものではなくとも、ヒンドゥーの神々や信仰実践への興味をそそる場所がある。例えば、インド系移民が元々は移民コミュニティのために建てたヒンドゥーの諸寺院、シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院(Wat Khaek/インド寺院)、デーヴ寺院(Dev Mandir)、ドゥルガー寺院(Durga Mandir)、ヴィシュヌ寺院(Wat Wisanu)などが挙げられる。また、タイ族の仏教徒たちが、ヒンドゥーの神々に祈りを捧げようと建設した寺院には、チャクリー王朝初期に王宮のバラモン達のために建てられたデーヴァサターン(Bot Phram/バラモン寺院)や、より近年に建てられたラームイントラー通りの巨大なシヴァ寺院などがある。加えて、様々な個人や私立機関、政府機関などが、ヒンドゥーの神々の神像を単体で中心に据える公設の祠を建てることも増えてきている。エラワン廟のブラフマー神像は、おそらくこの最も有名な例であり、またインドラ神や那羅延天(ヴィシュヌ神)、ラクシュミー神、三神一体(トリムルティ)、ガネーシャ神の祠も、ラーチャプラソン交差点から徒歩圏内の近場にある。現在、様々なヒンドゥーの神々の神像や祠が、首都バンコクの至るところにある仏教寺院(wat)や汎宗派主義の神廟(thewasathan)の両方で容易に見られるようになった。  インド系移民がヒンドゥー教信仰を実践するための場であれ、タイ人仏教徒がヒンドゥーの神々への信仰を示すための場であれ、このような公共の礼拝所は、バンコクに居住する両者にとって、ヒンドゥー教全体としての社会的再生産と公的イメージ化の重要な中心となっている。そして、ヒンドゥーの諸寺院(あるいはヒンドゥー教団体と関連するラームイントラー通りのシヴァ寺院)が、ヒンドゥーの儀式を大規模な公共の祭りとして企画・推進する時、インド人ヒンドゥー教徒とタイ人仏教徒の宗教世界や儀礼的想像力、信仰の論理は、ほとんど必然のように密接に絡み合う。意図の有無にかかわらず、ヒンドゥーの儀礼サイクルの中で共同で作り出される神像を祀る儀礼の中で現出するのは、インド人コミュニティにとっての伝統的ヒンドゥーの宗教性を帯びた瞬間だけではなく、一般のタイ人仏教徒にとっての汎宗派的な信心や他者性を帯びた光景でもある。このような宗教的接触を通じて、仏教徒やヒンドゥー教徒、そのコミュニティや、当局は、根本的なところから互いを構築し合うようになる。そして、増々都市化と国際化の進むタイ社会というイメージの元で、宗教多元主義や多様性の受容、寛容、アイデンティティにまつわる興味深い問題を提起している。 ナヴラートリ祭 10日間に及ぶナヴラートリ祭は、シーロム通りにあるタミル・シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院において、毎年10月に執り行われる。この祭りは、タイ都市部の公共空間で、複数の宗教・宗派のコミュニティが、彼らのために大規模なヒンドゥー教儀礼を計画、運営、開催する際に生じる複雑な宗教の絡み合いの状態をよく示している。多面的な様相を示す祭りの期間中、ドゥルガー、ラクシュミー、ウマテウィー、サラスヴァティーといった女神像はその配偶者や従者らの像と共に、寺院の中に置かれ礼拝の対象となる。それぞれの日に以下のものを組み合わせる。すなわち①絶え間ない個々の一般参加者による伝統的な供犠と、②その寺のバラモンが行う朝、昼、晩の三度の特別な供犠である。最終日の夜に寺の外で行われる行列は、祭の儀礼とその実践のクライマックスである。行列の中心を成すのは、それぞれに異なる女神に憑依された三人のインド人霊媒師と、ガナパティ(ガネーシャ)、スブラマニアン、クリシュナ、カタラガマ(スカンダ)、ウマテウィーの神像を乗せた5台の山車である。大勢の楽師隊や踊り子、バラモンや信者の一行が、これらの霊媒師と山車を取り囲む中、行列は寺を抜け、一巡するのに7時間以上もかかる3㎞の環状の道路沿いを進んで行く。何万人ものタイ人仏教徒たちが、飾りを施した大きな祭壇を行列経路の両側に設置し、時には深夜の2時3時まで待ってようやく、彼らの脇を次々に通過してゆく霊媒師やバラモン、神々の全てから祝福を受けとるのだ。 この祭りの最初の9日間の一般参加者の90%以上は、タイ系の人々や中国系タイ人の仏教徒であるが、最終日の夜には、バンコク郊外や内陸部各県からの来訪があるため参加者数は天文学的な数字に膨れ上がり、インド系ヒンドゥー教徒の割合はより一層少なくなる。つまり、シュリー・マハーマリーアンマーン寺院のナヴラートリ祭は、本質的にはバンコクに居住するタミル系ヒンドゥー教徒コミュニティの重要な年中行事であり、祭祀を専門とするバラモンが主宰、運営するが、信徒や参加者、後援者の大部分はインド人でもなければ、ヒンドゥー教徒でもないのである。そして、この祭りの10日間を通して公衆に示される儀礼の供物、供犠、信仰は複雑に絡まり合い、模範的なヒンドゥー教行事でありながら、正統的仏教儀礼として共鳴している。さらに印象深いのは、ナヴラートリ祭が実際に、ヒンドゥー教徒と仏教徒の両コミュニティの内部から、参加者や信仰上の見解、儀礼の筋書の多元性を醸成し促進しているという事であり、それらが全て、祭りの期間中に満足のゆく形で表現され、実現されているという事だ。   儀礼参加者の多様性と儀礼の筋書の多元性 人口統計で見ると少数派でも、インド系ヒンドゥー教徒の多様な集団は、ナヴラートリ祭の開催に重要な役割を担っている。バラモン神官やインド人霊媒師、儀礼補佐役、それに古典音楽の奏者らは、この祭りの期間中祭祀を司る重要な人々である。これに加え、寺の管理者や出資者、ジャーナリストや映像監督も、シーロムに居住するローカルなインド人コミュニティの出身者であり、常連の、しばしば重要な参加者として、毎日早朝から深夜までかかる儀礼を計画し、運営する。ローカルなインド人コミュニティの信心深い個人や家族、商人たちが、ヒンドゥー教徒の参加者の大部分を占める一方で、インドから来るタミル州宗教省の官僚代表や、マレーシアとシンガポールから来る少数のヒンドゥー教徒たちも姿を見せる。プーケットで行われる華人のベジタリアン祭のような国境を越えた華人の巡礼と観光の対象には未だなっていないものの、現代のグローバル化したメディアと交通の時代の中、このナヴラートリ祭のヒンドゥー教徒の観衆たちは、明らかにバンコクだけでなくその外からも訪れるようになっている。 タイ人仏教徒をみても多様な集団がこの祭りに参加している。例えば、少数だかタイ人警官や軍人が警備をしていたり、露店商が儀礼用品を売ったり、メディアがこの行事を報道したりする。さらに重要なことは、大勢のローカルなタイ人と中国系タイ人の仏教徒たちが、シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院の日々の営みの中で重要な権限を持った地位を占めているという事だ。彼らは寺の管理人や出資者、儀礼補佐役を務めている。この寺の儀礼補佐役の多くはタイ人仏教徒であり、彼らは祭りの期間中に寺に押し寄せ、なだれ込む、大勢のタイ人仏教徒の一般参拝者たちをさばく上で不可欠なのである。寺に押し寄せるタイ人仏教徒の参拝者たちは、主にバンコク出身者であるが、明瞭に異なるいくつかの層に分けることができる。圧倒的多数は、この寺やヒンドゥーの神々には一過的にしか関わらず、祭りを神の加護と祝福を得るのに丁度よい、一度きりのチャンスと見ている個人や夫婦、家族などである。しかし、タイ人仏教徒の中には、祭りの期間中定期的にこの寺に戻り、日に三度行われる祭式に参加しようと居残るものたちが存在する。以前この寺に参拝したり供物を捧げたりして得た霊的加護に恩義を感じている者もいる。またヒンドゥーの神々全般に特別な信仰上の思い入れを募らせる者たちもあり、ナヴラートリ祭はこの信心を実践し、強める上でうってつけの機会となっている。また、中にはプロの霊媒師もおり、彼らは自分達に定期的に憑依するヒンドゥーの神々や女神たちとの深い一体感を感じ、業(カルマ)によって現世で神への奉仕者となったと恩義を感じている。 最終日の夜の行列では、これらタイ人仏教徒の多様な層は、数も増え、特徴もますます多様化する。大勢の警官やボランティア、露店商たちがやって来て大群衆をさばき、サービスを提供する。バンコク大都市圏に住み、日和見的に神の加護を求める事に興味を持つ何万人ものタイ人仏教徒が、この行列を目にしようとやって来るのだ。しかし、行列経路沿いに一時的な祭壇を設けている個人や集団の多くは、ヒンドゥーの神々を熱心に信奉する人々の小集団か、あるいは個人的な取り巻きに付き添われたプロの霊媒師たちのどちらかである。これらの信奉者や霊媒師たちのほぼ全員が、この祭りの期間以前にシュリ―・マハーマリーアンマーン寺院で行われたいかなる儀式にも参加した事がなく、また中にはピッサヌロークやコーンケーンなどの遠方からやって来る者もいる。一般のタイ人仏教徒市民にとっては、殺到する大群衆のために寺院へ近寄る事が困難となるために、これらの行列経路沿いの仮設祭壇が二次的で補助的な祭祀の供物や祭りの光景と共に、しばしば宗教的好奇心や関わりの主な対象となる。正規の行列の前後には、一般の人々が祭壇の前にたむろする様々な霊媒師たちに神の祝福や神との仲裁、神の助言を求める。この祭の行列経路は事実上、騒々しいタイ人仏教徒の帰依者にとって、補助的・自律的な舞台となる。ここでの信仰は、寺のバラモン権威の統制が直に及ばぬものとして、自然発生的に出来上がっていく。実際、正統派ヒンドゥー教から黙認された仏教徒の熱狂的信仰やトランス憑依、パフォーマンスの過剰、異教性といった大規模に展開する公衆の人々の光景は社会的可能性を切り開くものであり、多くの参拝者や参加者たちがこのナヴラートリ祭の劇的な山場に魅力を感じる所以ともなっている。   仏教徒の首都における多元主義、多様性の受容と寛容  シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院のナヴラートリ祭の開催において、バンコクのヒンドゥー教徒と仏教徒のコミュニティが密接に絡み合いながら役割を持っていることは、ある程度、近代タイの一連の大規模な社会発展に基づいたものである。インターネットや全国規模のマスコミ市場、そしてグローバルに行われる観光によって、インドとタイ両国におけるヒンドゥー教の信仰や実践は、タイ人仏教徒にとってさらに知られたものとなり、理解可能で近づきやすいものとなった。タイ人資本家や企業家は、ヒンドゥー教の芸術的、物質的、文学的文化の中で、隙間産業を生み出してきた。都市化と交通網の発達によって、増々多くのタイ人が仏教とヒンドゥー教の継続的接触を日常的に体験できるようになった。規制のない中で宗教という多様にまたがる領域で仕事をする企業家は、創造的・宗教的なブリコラージュを行い、二つの宗教コミュニティ間で文化を仲立ちする役割を果たしてきた。拡大を続ける宗派を超えたこの大衆的な宗教性は、奇跡や熱狂的信仰、秘教、恍惚状態を強調しながら、既存の秩序や正統派エリートの支配の及ばぬところで宗教の交流を促進してきた。こういった展開は、さらに新たな問題を提起している。 シュリ―・マハーマリーアンマーン寺院のナヴラートリ祭は、明らかにヒンドゥー教の儀礼であるが、これを仏教徒の祭りと呼ぶ事も、今では可能なのではないか?祭りの主な神話や儀礼の筋書がある一つの宗教コミュニティに根差したものでありながら、圧倒的な数の参加者が別の宗教コミュニティの出身である場合、どのように宗派のラベルを用いるのか?祭りの最初の九日間に寺の内部で生じる儀礼サイクルは、儀礼の精神や信仰論理、宗教的権威が多様化し細分化する最終日の行列とは、記述上でも分析上でも異なったものとして扱うべきではないのか?何らかの意味があるとすれば、どのような意味において、この祭りがシンクレティズムやハイブリッド性、ブリコラージュ、トランス・カルチャーの事例となりうるのか? さらには、現代の仏教国タイにおける宗教の多元主義や多様性の受容、寛容といった特異な社会的現実をいかに説明するのか?祭祀への共同参加やその相互作用の事例が、仏教徒とヒンドゥー教徒、華人の宗教コミュニティの間で豊富な一方、仏教徒とキリスト教徒、ムスリムのコミュニティの間でそのような事例が見られる事は少ない。これらの宗派を超えた共同関係に見られる違いは、一体どの程度、宗教人口統計や宗教の土着化に関する戦略、純化への要求、宗教的共存の歴史的記憶、そして改宗や紛争をもたらすとされる外国人への恐怖心などが対照をなしていることの結果であるのか?祭祀への共同参加やその相互作用が、仏教徒とタイ国内の全ての宗教的マイノリティたちとの間でも、同じ様に上手く宗派間分裂の橋渡しとなる事を望めるだろうか?それともむしろ、全てを受け入れ続ける寛容性を追い求める上では、多様な代替戦略の醸成が必要なのだろうか? Erick White(Cornell University) Issue 19, Kyoto Review of Southeast Asia, March 2016

Book Reviews

REVIEW: Kampong Boy

Kampong Boy is the journey of a freethinker and empathetic spirit who has made the choice to live by his own terms despite external hurdles. […]

Issue 19 Mar. 2016

Review: Corridor (12 short stories)

Corridor (12 short stories)Alfian Sa’atSingapore: Ethos Books, 2015 (second edition) “Behind these fantastic stories however, was the faint hope that somehow, I had found someone who shared something in common with me.” (“Duel” in Corridor 68) […]

Issue 19 Mar. 2016

Film Review: Kuala Lumpur SDN. BHD.

Kuala Lumpur Sdn. Bhd.Director: Andrew Ng Yew Han Kuala Lumpur Sdn. Bhd., a documentary film by indie filmmaker, Andrew Han, premiered in October 2015 as part of the annual KL Eco Film Festival, now in […]

Issue 18 Sept. 2015

“Family” making in Sino-Thai Relations

This article is to set a broad proposition about examining the Sino-Thai relations through cultural linguistic aspects. In this regard, today it is common to hear leaders from China and Thailand frequently express their close […]

Issue 18 Sept. 2015

Queer Southeast Asia: Recognition, Respect & Legitimacy

Over the past few decades, diverse new cultures and communities based on same-sex preference and transgender identity have become increasingly prominent in all the countries of Southeast Asia. Across the cultural, ethnic, and religious diversity […]

Issue 18 Sept. 2015

The Real Crisis of Philippine Democracy

The Philippines is one of the poster boys for democracy’s disintegration in Southeast Asia. Current President Noynoy Aquino’s successive blunders, from pork barrel scandals to the Mamasapano incident, are the latest episodes in the story […]

Issue 18 Sept. 2015

Familial Transphobia and Kinship of Opens in Myanmar

In Myanmar a range of vernacular Burmese terms and borrowed English expressions are used to denote gender and sexual minority subject positions. The main male subject positions are apwint (“open”), apôn (“hider”), homo and thu […]

Issue 18 Sept. 2015

ミャンマーにおける家族の同性愛嫌悪と「オープン」の同族関係

ミャンマーでは、様々なミャンマー語の俗語や英語の借用表現によって、ジェンダーやセクシュアル・マイノリティの主体ポジションが示されている。主な男性の主体ポジションはapwint (「オープン」) 、apôn (「ハイダー」:隠す者)、homo (「ホモ」:同性愛者)や、thu nge (「ガイ」:男)である。オープンとは男性で、その言動や見た目が女性的な者を言う。オープン達が中国から輸入した女性ホルモンを服用する事は、一般的ではないにしろ、彼らがジェンダーの規範的集団を出て男性から女性に転換したトランス・コミュニティの一員になるための通過儀礼として、日常的に行われている。性別適合手術は、まだミャンマーの医療市場では受けることができないが、資金力のある、ごく少数のオープンたちは、海外でそのような手術を受けることができる。ハイダーやホモというのは、規範的な男として通用するような男性である。ガイは時に「ストレート」とビルマ人英語話者たちから呼ばれる者達で、やはりジェンダー適応者であり、ハイダーたちにとってはそれ程でもないが、オープン達にとっては第一の性的関心の対象となっている。ハイダーたちが言語学上、己の内なる女性的自己を「隠す」と位置づけられている一方、ホモのレッテルを貼られた者たちは、「女性的な」男性が、規範的男性であるガイとの関係を求める、という現地のジェンダーやセクシュアリティの文化を、様々に拒絶している。ホモは女性性、あるいは男性性と同定され得る人々であって、彼らはそれぞれに他のホモやガイに惹かれるのである。本論で筆者が特に焦点を当てるのは、女性的な男性、ビルマ語でapwintすなわちオープンと呼ばれる人々である。 オープン達は抑圧、特に警察による法体制の範囲内の嫌がらせや虐待の対象となっているが、この状態が、彼らの日常生活では滅多に重大な問題とはならない。 多くの場合、オープン達にとって、より差し迫った暴力や恥辱、苦悩の原因は、家庭の中で生じている。私が最近のミャンマーでのフィールドワークの際にインタビューした、非男性的な情報提供者の男性たちは、概して家庭内の事、幼少期に生じた事から自分達の身の上話を語り始めるが、多くの場合が自分達の経験した家族からの暴力的な反応についてである。これはミャンマーの文化制度内におけるジェンダーのヒエラルキーに幾分関係がある。オープン達にとって、女性性との関連は、男性としての社会的地位の喪失をもたらすものであるが、男性は「権力(awza)」や「カリスマ(hpoun)」に関し、女性よりも構造的に優位であるとされている。 awzaは政治的権力と関連付けられるが、hpounは道徳的、宗教的権威に関連付けられている。ミャンマーの仏教文化では、ある者のhpounの蓄積はカルマによって決まり、過去生で積まれた徳によるとされている。男性がより偉大なhpounを持つと考えられる事から、この象徴的な権威の観念が、女性よりも男性を優位とする仏教的宇宙観を支えている。ある男性が、男性から女性に主体ポジションを換える事は、hpounを弱める事と見なされ、その結果、人間性がおとしめられ、敬意が払われなくなる。また主体ポジションの変化は、家族の社会的地位にも問題をもたらす。なぜならば、この地位がanadeの法則によって規定されているためである。 Anadeは規定的な枠組みとして、ミャンマーでの対人関係を左右するものである。Anadeは敬意を意味し、これには他者に不快感や苦痛を与えると思しき言動を避けることも含まれる。Anade、あるいはこの慇懃な敬意の文化は、トランスのミャンマー人達にとっては問題である。なぜなら、これは基本的にジェンダーの規範に基づくもので、これによってオープン達はヘテロノーマティブ(異性愛規範を是とする)なミャンマー社会の中で、劣った存在と位置付けられることになるからだ。重要な文化伝達の機構として、ミャンマー人の家族単位は、Anadeの規範にトランスの子供たちを同化させる上で重要な役割を担っているが、その結果、子供達は苦しむことになる。子供達は幼少期から、両親に従うこと、彼らを支えることを教えられる。トランスの子が居る家庭にありがちな話の筋で、男性規範に適応し損ねた息子に直面した父親の最大の関心は、面目を保つことである。この赤恥の原因は、トランスの子を持つことで、その家族が人々の嘲笑を買うはめになることだ。だが、ミャンマー人の父親に更なる追い打ちを与えるのは、彼の息子がトランスであるために、彼のawzaには、つまりは男性としての「権威」で家族単位を取り仕切り、いかなる逸脱も退け、これを矯正する力には、大した影響力がないと見られることである。このスキーマにおいて、awzaは同意上の支配、anadeは強制力と関わっている。 例えば、Chit Chitという情報提供者は、両親と共にヤンゴンのとある衛星都市に住んでいたが、十代の頃にオープンとなり始めた、あるいは女性らしさを呈するようになった。彼女の父親は当初、父親の威力を駆使し、Chit Chitをジェンダーの規範内に追い込もうとしていた。だが、これが望ましい結果をもたらさなかったため、Chit Chitの父親は体罰を行使したが、それでも思うような効果がなかった。その後、Chit Chitが一家を去ったために、父親の男らしさの概念に関わるawzaの権威に、さらなる打撃が加わった。息子が女性としてオープンになる時に、父親が被る赤恥は、去勢さながらの経験となり得るものであり、トランスの子供たちに対する父親の、時として暴力的な反応はこれによって説明される。 抑圧的な家庭力学の例は、ヤンゴンのオープンであるLayの話にも見られる。13歳の時、Layはもはや家族との同居に耐えられなくなっていた。それは彼女の父親が、彼女がトランスであり続けるのであれば、もう家族としては歓迎しないと告げたてからである。Layは路上に放り出されたが、これは非常につらいことであった。なぜなら、それは彼女がオープンの主体ポジションとなって程無い頃の出来事で、親類関係の代わりに構築されるオープンのソーシャル・ネットワーク内に居場所が無かったためである。トランスの同族関係に加わるために必要な一定の知識や技術は、大抵、トランスの母親の養子となれば得られる。Layは路上をさまよい、とうとうヤンゴンの風俗業の中心地の一つにあるチャイナタウンの近くに行きついた。Layは語った。「そこで多くのオープン達に会ったけど、私に話しかけたり、私を助けたりする人はいませんでした。彼らは私を知らなかったのですから。ひたすら歩き続けました。どこへでも、こころのおもむくままにね」。Layは帰宅を決意し、家に帰ろうと試みた。それは耐え難かったが、路上生活よりもましであると思われた。両親は彼女が家に戻ると、彼女を金属棒で殴りはしたものの、彼女を家に住まわせた。しかし、Layの両親たちの苛立ちは増々募った。それは、彼女が近所で普通の男性として振る舞いたがらず、そしてオープンとなる、女性らしく振る舞うことを、彼らがコントロールできないことへの苛立ちであった。ついに彼らはLayに、オープンで居続けるなら、もう家に居ることを歓迎しないと告げ、彼女は再び路上へ追放された。 トラウマ的ではあるが、この家族の家を出る行為、そして同族関係の再構築も含め、新たにクィア同士の結びつきの在り方と折り合いをつけることで、多くのミャンマー人オープン達は帰属意識を得られる。トランスの人々は、実の家族から拒絶されると、他のトランスの人々との友情関係や家族的な「母-娘」関係のモデルに基づく、新たな関係形態を模索、創造する。再構築された同族関係の力学は、ミャンマーのトランスの人々の日常生活における重大な関心事となる。トランスの人々は、概して家庭内で様々な形の暴力や苦悩、疎外感を経験する。その結果、家庭を離れることが、しばしば、多くのトランスの個人たちの選び得る唯一の選択肢となる。結果的に、その人は実の家族と別離するものの、トランスの社会性は、彼らがクィアの同族関係の単位に加わることで生じる。このようなクィアの同族関係の諸形態は、主として特別なワーク・ラインを通じて形成される。そこでは年若いトランスの「娘たち」が、年上のトランス達と「母‐娘」の関係を結ぶのであるが、これは親密な関係と経済的安定、職業訓練を兼ねたものである。 トランス達は支援ネットワークの中で、通常の親族同士のように関わり合うが、これは実の家族に代わるものである。この二つの同族関係の様式の大きな違いは、そのメンバーとなるための基準にある。実の家族は縦型式の同族関係であり、これに加わるには、遺伝や共通の根本的属性、たとえば血縁関係などが基となる。対照的に、トランスの同族関係は、水平的かつ拡散的であり、これに加わるための基準は、ジェンダーや希望などの文化的範疇である。ここでいう水平的とは、トランスの同族関係が均一な権力構造であるという意味ではない。ミャンマーにおける主要な同族関係の構造は家族単位で、その中では祖父母たちが最年長者と見なされる。年長者たちが亡くなると、次世代の者達がこれに代わって家長となる。トランスの同族関係の様式も、ヒエラルキー的には同様のパターンに従うもので、若年メンバーは目上の者達からの恩義を受けている。 1960年代以降、ミャンマー人apwintすなわちオープン達が次第に経済的なニッチを生み出しており、重要な生計手段の機会や、様々な社会組織の形成につながっている。現在、ミャンマーでは二つの職業が、広くオープンと関連付けられている。即ち、それらは霊媒業と美容業である。これらの職業は俗に、英語のラインという言葉で呼ばれている。美容業界は、ミャンマー人トランス達が就ける主要なワーク・ラインであり、しばしば霊媒業や風俗業とも絡んでいる。美容院はトランス達の家やコミュニティセンターとして機能しているが、出会いの場でもあり、国際的なHIV教育と予防のネットワークの中核でもある。トランスのワーク・ラインは、トランスの人々の重要なセーフティ―ネットであり、最近家を出た若者達にとっても、年配の退職者で家を出て久しく、実の子供達からの支えが受けられない者達にとっても、同様である。これらのワーク・ラインは、トランス同士の時空を超えた結びつきを促進するものである。今日、メーク・アップのsaya (美容師)になるのは、ミャンマー人トランスジェンダーの人々の最もありふれた夢であり、この業界は他の業界よりも、トランスジェンダーの人々を多く取り込んでいる。この業界のトップの者達は、華やかな公的生活を送っており、これがミャンマーの同性愛者やトランスジェンダーのプライドにとって、第一の目標となっている。実家での体験が、多くの場合、ネガティブなものであることを考慮すると、ワーク・ラインを通じて形成された同族関係は、トランスの帰属にとって重要な社会構造なのである。 トランスの文化では、「娘」は「母親」を敬い、これに仕え、時には崇めることが義務付けられているが、これに対して、母親にはその娘を支援し、養い、彼女たちが独立して成功に満ちた幸せな人生を送れるようにしてやる義務がある。中でも、支援は若いトランス達にとって不可欠なものである。彼らは自分達が経済的に独立したトランスの母親となり、今度は自分達が養女を取れるようになるまでは、非常に不安定である。「母親」や「娘」のカテゴリーは、様々に分類できる。母親達の中には、その娘の人生にとって不可欠なまでに重要で、永続的で生涯にわたる関係を持つ者達もある。また別のトランスの母娘関係は一時的であって、中には一生のうちに二人以上のトランスの母親を持つ娘もある。トランス達の日々の会話の中で、ミャンマー語の「母親」と「娘」という言葉は、日常的な代名詞でもあり、年配のトランスが年若いトランスを呼ぶ際に、これを用いることもあれば、その逆もある。「養子をとる」という動詞は、「母親」と「娘」という言葉を、より正式な同族集団を形成するものとして区別する上で、また、これらの言葉の代名詞的用法を区別する上で重要である。 だが、ミャンマー社会における家族やジェンダー、ヘテロノーマティブなanadeの規範の重要性を思うと、なお、非常に多くのオープン達が両親に逆らって家を出る道を選んでいることは、注目に値する。anadeは、極めて重要な序列化の原理であり、個々がオープンのアイデンティティへ移行する上で、大きな障壁を作り出している。なぜなら、この文化制度の中で、家族というコンテキストにおいては、両親に対する義務の方が、己に忠実であるよりも優先されるためである。これは家庭的安定を個別化よりも名誉とする、ミャンマーの民族心理学を反映している。家を出ることで、オープン達は、単にジェンダーやセクシュアリティに関するだけではなく、anadeについても、基本的社会規範に背くことになるのだ。 しかし、ここ数十年の間に、若いオープン達が活気あるトランス支援ネットワークに加わる機会が増々増加している。これらのネットワークは、大抵、家族単位をモデルに組織されたものである。オープン達のワーク・ラインの発展は、オープンとなるための場を作り出し、経済的に独立する上で極めて重要なものである。トランス達はワーク・ラインを通じて、現代ミャンマーでオープンとなり、オープンとして生活するために必要な経済力を、実家に頼らずとも得られるのだ。これらトランスの同族ネットワークは、トランスの人間性に有利な社会的集団の形成を伴うが、ミャンマー文化の主流である年齢に関する序列をいくらか再現しており、ここではトランス流anadeがこれを律する。ミャンマーにおける近年の政治の自由化は、ミャンマーのトランス達に、国家的弾圧に挑む重要な機会を与えた。しかし、オープン達が家庭内で経験するような、日常的な形の社会的、文化的抑圧への対処は、おそらく今後も、ミャンマーのトランスの人々にとって、最も困難で長引く闘いとなるであろう。 オーストラリア国立大学 David GilbertAustralian National University Issue 18, Kyoto Review of Southeast Asia, September 2015

Issue 18 Sept. 2015

ความเกลียดกลัวคนข้ามเพศในครอบครัว และความเป็นเครือญาติของ “คนเปิดตัว” ในเมียนมาร์

ในเมียนมาร์ มีศัพท์ภาษาท้องถิ่นและคำศัพท์ที่ยืมจากภาษาอังกฤษหลายคำสำหรับใช้บ่งชี้เพศสภาพและการกำหนดตำแหน่งแห่งที่ของอัตบุคคล (subject position) ของชนกลุ่มน้อยทางเพศวิถี การกำหนดตำแหน่งแห่งที่ของอัตบุคคลของเพศชายโดยหลัก ๆ แล้วประกอบด้วย apwint (“คนเปิดตัว”) apôn (“คนซ่อนตัว”) homo (โฮโม) และ thu nge (“ชายแท้”) คนเปิดตัวคือชายที่วางตัวและปรากฏตัวในฐานะหญิง สำหรับ คนเปิดตัว การกินฮอร์โมนเพศหญิงที่นำเข้าจากประเทศจีนเป็นพิธีกรรมของการเปลี่ยนผ่านที่พบได้ทั่วไปแต่ไม่ใช่ทุกคน พร้อม ๆ กับที่พวกเขามักย้ายออกจากครอบครัวตามเพศดั้งเดิมไปเป็นสมาชิกของชุมชนคนข้ามเพศที่แปลงเพศจากชายเป็นหญิง ตลาดการแพทย์ของเมียนมาร์ยังไม่มีศัลยกรรมแปลงเพศ แต่คนเปิดตัวจำนวนหยิบมือหนึ่งที่มีเงินทุนสามารถเข้าถึงศัลยกรรมแปลงเพศได้ในต่างประเทศ คนซ่อนตัวและโฮโมคือชายที่ดูภายนอกเหมือนผู้ชายทั่วไป ชายแท้หรือบางครั้งเรียกกันว่า “straight” ในหมู่ชาวพม่าที่พูดภาษาอังกฤษ คือชายที่มีเพศวิถีตามเพศสภาพและเป็นวัตถุดึงดูดด้านกามารมณ์อันดับแรกสุดในหมู่คนเปิดตัว และในระดับที่น้อยลงมาสำหรับคนซ่อนตัว ในขณะที่คนซ่อนตัวมีตำแหน่งแห่งที่เชิงภาษาศาสตร์จากการที่ “ซ่อน” […]