Issue 20

ความทรงจำทวนกระแส: การฉายซ้ำความรุนแรงทางการเมืองในภาพยนตร์ยุคดิจิทัลของไทย

ในภาษาไทย คำว่า ความทรงจำ คำที่อยู่ตรงกลางคือคำว่า ทรง ซึ่งแปลตรงตัวหมายถึงรูปทรงหรือสื่อกลาง คำว่า ความทรงจำ ในตัวมันเองจึงหล่อหลอมความมีตัวตนของอดีต (ถึงแม้ผ่านการตีความเสมอก็ตาม) และเป็นสัญญาณบ่งบอกถึงศักยภาพที่จะแปรเปลี่ยนความทรงจำผ่านรูปทรงและสื่อกลางต่างๆ รวมทั้งการปฏิบัติในสังคมและวัฒนธรรมวัตถุด้วย คนเราทุ่มเทให้การสร้างตัวตนแก่ความทรงจำก็เพราะกลัวว่าจะลืม ประเทศไทยผ่านการรัฐประหารโดยกองทัพมาแล้ว 12 ครั้งนับตั้งแต่เปลี่ยนผ่านจากระบอบสมบูรณาญาสิทธิราชย์ใน พ.ศ. 2475 การที่กองทัพหวนกลับมาปกครองประเทศครั้งนี้ ทำให้เกิดประสบการณ์แบบย้อนอดีต (déjà-vu) ซึ่งน่าเสียดายที่ไม่จุดชนวนให้เกิดแรงต่อต้านในวงสังคมกระฎุมพีชาวกรุงเทพฯ เรากลับเห็นแต่การตอกย้ำเรื่องเล่าแม่บทที่ล้นเกินด้วยแนวคิดความมั่นคงของชาติและการรักษาความเป็นระเบียบของสังคม “กลิ่นอาย” ของเผด็จการอำนาจนิยมแบบกองทัพสร้างความรู้สึกคุ้นเคยถึงขนาดที่การรัฐประหารของกองทัพทำให้เกิดการเฉลิมฉลองในปี 2549 และยอมรับได้ในปี 2557 ในหมู่กระฎุมพีเสียงข้างน้อย—หรือมิใช่? ในขณะที่ข่าวพาดหัวของสื่อกระแสหลักอาจบอกเป็นนัยๆ ว่า คนไทยยอมรับการปกครองของกองทัพและการธำรงสถานภาพเดิมไว้ แต่เราขอแย้งว่า ภาพยนตร์อิสระทำหน้าที่สวนกระแสโดยนำเสนอเสียงคัดค้านผ่านความคลุมเครือทางการเมือง วัฒนธรรมของพื้นที่สาธารณะทางเลือกในภาพยนตร์ไทย […]

Issue 20

対抗的記憶:タイのデジタル映画における政治的暴力の再考

タイ語の記憶にあたる言葉、khwamsongcham = ความทรงจำの中心はsongであり、これは文字通り形式、あるいは媒体と訳される。khwamsongchamという語は、それ自体の中に具体的な(常に解釈されたものではあるが)過去を作り出し、社会的慣習や物質的文化などを含んだ様々な形式や媒体を通じた記憶の変容能力を示唆している。人が具体的な記憶に努めるのは、忘却への恐れがあるためだ。タイが12回連続で軍事クーデターを経験したのは、絶対君主制から移行した1932年以降の事である。今回の軍事政権の出現は既視体験を呼び起こしたものの、残念な事にバンコク中産階級の公共圏に抵抗運動を引き起こす事はなかった。そこに見られるものは、国家安全保障や社会的秩序の維持などに溢れたグランド・ナラティブの強化である。この軍事独裁主義の「感じと匂い」は、軍事クーデターが2006年に讃えられ、2014年には中産階級の少数派から許容可能なものとして容認され得るよう、親近感を作り出した(のであろうか?)。主流メディアの報道は、タイの人々が軍事政権と現状を受け入れているかのように仄めかすであろうが、我々が論じる自主映画は、対抗的公共圏として機能し、巧みな多義的表現を通じた抵抗を提供する。 タイ映画における対抗的公共圏の文化 現代のタイにおける独裁主義的状況の中、報道機関やオンラインのソーシャルネットワーク、ウェブ2.0の公共圏は縮小してしまった。ところが、ミクロの対抗的公共空間や反体制的社会運動は増えている。道徳的秩序が国家安全保障と混同されるようになり、この秩序を乱すと思しき思想や表現の罪には法廷での訴訟や罰金、パスポートの取り消し、国外追放、実刑判決などによる処罰が可能となった。国家検閲の強化は反対意見を抑圧するよりもむしろ、新たな政治色の強い自主製作のタイ映画を生み出すこととなった。製作やキュレーターシップにおける新技術、またソーシャルメディアを通じた新たな配給回路などがこれを可能にしたのである。 マイケル・ワーナー(Michael Warner)が示唆するように、「オルタナティブな公共圏が社会運動として位置づけられる場合、それらは国家に対する働きかけとなる。それらは政治の一時性に加わり、自身を合理的で批判的な言説の遂行文(performatives)に適応させる。多くの対抗的公共空間にとっては、そうすることは政策のみならず公共生活空間そのものをも変化させようとしたもともとの願いからの譲歩となっている。」タイの有識者や映画製作者たちが、彼らの反対意見を私圏に止めておくことを拒否することが、ミクロ・オルタナティブ・アート・スペース(カフェやギャラリー)の出現や、YouTubeやウェブ2.0などへのオープン・アクセスでのオンライン参加をもたらすことになった。これらの新たなミクロ対抗的公共空間は、多義的な風刺や両義的な語句を用いることで逮捕を回避している。 タイ(当時はシャム)映画の最初の国家検閲は1930年の映画法令であった。過去10年の間に新たな検閲法が出現し、刑法(1956, 2007)112条のコンピューター関連犯罪法(2007)と国内治安法(2008)の改正によって不敬罪法が拡大された。同じ10年間に、20作以上の自主映画が製作され、国内外の主要映画祭で公開上映されてきた。タイでインディーズ映画の拠り所となっているのは都市部のカフェや本屋、ギャラリー、領事館、それに大学などの場である。映画評論家のKong Rithdeeによると、タイ映画財団は「短編や自主映画を製作するタイの映画作家たちのための公共圏の創出にとりわけ重要な役割を果たし...映画およびデジタル映画の民主化」を、ワークショップや番組制作、映画祭などを通じて行っている。このような形で、インディーズ映画は政治的暴力の再考と記憶のための領域を切り開いてきたのである。 対抗的公共空間としての自主映画が細心の注意を払ってきたのは、記憶・歴史、そしてスローな映画美学であった。以下に論じる諸作品は、これら全ての特質を備えたものである。ここで取り上げる作品は、タイで繰り返される政治的暴力との対話、公開上映の機会が一回以上のものであること、また作品がオープンソースの中道左派のオンライン・ニュース・メディア、たとえばprachataiなどで再流通しているものであることを選択基準としている。 実験的ドキュメンタリーは記憶する:テロリスト(2011) タンスカ・パンジッティヴォラクル(Thunska Pansittivorakul)の映画「テロリスト(Terrorist)」は対照的なプラットフォームを備え、国家の政治的暴力の様々なシーンが親密な家族の記憶と並行して再現される。この映画は作品それ自体として見つけることが難しく、DVDやVCDの市場に流通もしていなければ、YouTubeなどのプラットフォームでその全編を入手できるものでもない。予告編は明らかに衝撃的で、男性のマターベーションのシーンが最近の2010年のバンコク路上の政治的暴力のシーンと並置される。この鑑賞体験は、同時に起こる性的、肉体的な暴力と喜びを直感的に具現化したものである。オンラインのニュースソースprachataiの抜粋では、ヌードシーンを避けて、政治的暴力のシーンのみが表示されている。 [youtube id=”bxwS3WN1NTA” align=”center” maxwidth=”800″] 映画の特別な見どころは、タンスカの母親がタイ共産党に加わった経緯についてのオーラル・ヒストリーを、母親と一緒にいる子供のタンスカの写真や、1976年10月6日の虐殺の写真と並置していることである。写真は我々の最も私的な記憶についてさえ、その証左として残す。写真はまた、1976年10月の虐殺の残虐性と衝撃的要素の紛うこと無き証言を提供する事もできるのだ。その残虐行為を暴力シーンの再現によって記録するにあたり、写真はまた、殺された者たちと暴力の関係者であった「国家主義的市民や国家当局」の両者を非人間化させる事も可能なのだ。 「空低く大地高し(バウンダリー タイの主要な劇場で商業上映され、Vimeoで18+の評価を受けた「空低く大地高し(2013)」は、南部の弾圧-2008年プレアヴィヒアにおけるタイ・カンボジア間の銃撃戦-に加わるよう召集され、その後、2010年5月に赤シャツ隊の鎮圧に送られた一人の若者の生涯を追う。この映画の原題“Fatum Paendin Soong”「空低く大地高し」が物議をかもしたのは、これがタイの社会的不公正や社会的階層化に異議を唱えるものと思われたためであった。タイ語での境界は“khet daen”として周知されている。ノンタワット・ナムベンジャポン(Nontawat Numbenchapol)監督によると、「境界の一つ目の意味は、貧しい農村の人々と搾取的なバンコクの中産階級とを分けるものである。二つ目の境界は、カンボジアの人々を国境によってタイから隔てるものである...私はプレアヴィヒアの山の国境に立っていた事を思い出した。その場所で、空と大地がつながり、共に存在していると感じていたのです。そのメタファーは、タイがいつの日か和睦する事を願ったものでありました。」要するに、この映画が具現化しているものは、国家がつくり出す領土や境界を通じた、現在にとっての過去、あるいは過去にとっての現在である。 [youtube id=”ONvbctIqjso” align=”center” maxwidth=”800″] ディレクターズ・カットでは、バンコクのラチャプラソン交差点での王の83歳の誕生日祝いのシーンが、ほんの数か月前に同じ場所で起きた赤シャツ隊の虐殺のシーンに入れ替わり、王族の賛辞や歓声、祝祭と共に映し出される。この並置は、場所が持つ複数の意味あいについて内省を促し、祝祭がどのように虐殺という汚点を置き換え得るかという設問を提起する。この多義的な表現ゆえに、タイの検閲委員会はこのシーンの削除を要求し、監督はこれに応じることとなった。2007年の112条の導入以来、国家当局は君主制に関するあらゆる発言の監視を余念なく集中的に行うようになり、不敬罪の違反者たちを政府の脅威である危険人物として標的にしている。 同様に、複雑な過去から構築されたタイ・カンボジア国境は、国内の政治問題を通じた敵の国家的記憶を具現化したものである。Pavin Chachavalpongpun、Charnvit Kasetsiri、Pou Suthirakの研究が示唆するように、タイ・カンボジアの国境は、歴史、記憶、政治や経済関係によって構築されている。境界はここでは字義通りの意味では用いられず、むしろ過激な国家主義や国内の政治問題の温度によって決められる敵か味方かの要素の狭間の動きを示している。 「ブリーフ・ヒストリー・オブ・メモリー(A […]