現状はいつまで続くのか? インドネシアのレフォルマシと遅れた冷戦史の捉え直しについて

Olle Törnquist

KRSEA How Long is Now: Indonesia

提題の「現状はいつまで続くのか?(How Long is Now?)」は、ベルリン・ミッテ(Berlin-Mitte)のオラニエンブルガー・シュトラーセ(Oranienburger Strasse)沿いの壁画をほのめかすものだが、これが描かれているのは、かつてのSSセンターでナチスの監獄だったものが、後に東ドイツの公共施設となり、ベルリンの壁崩壊後は活動的な芸術家たちのための施設となり、今では廃墟となった建物だ。この壁画は、ベルリンの近年の独創的な過去の出来事を、未来を待ち続ける時が長引く中で振り返るものだ。著者にとっては、この壁画は1998年の秋に深夜まで延々と自分に講義と議論を行わせたジャカルタのインドネシア人学生の力強さと悲運とを封じ込めたものでもある。彼らは当時、世界最大であった改革派の大衆運動をなぜ払しょくする事ができたのか、またなぜ約50万人もの人々が、1965年から66年の間に軍部や「民」兵たちによって殺されたのかなど、1940年代後半以降に出現した出来事の、極めて重要な歴史を捉え直す手段を模索していた。つかの間の透明性は立ち消えてしまった。先行きはまだ見えてこない。なぜなのか?

国際社会に支持された合意が、自由と選挙のためにスハルトを見捨てる一方で、エリートを保護していた事は、公的な場での議論に委ねるには秘密が多すぎた事を意味する。すでにジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領(Joko ‘Jokowi’ Widodo)が、彼の前任者たちよりも有力集団への依存が少ないとする望みは薄れてしまった。有力者、プラボウォ・スビアント(Prabowo Subianto)は保守的なムスリムのポピュリズムを喧伝しているにもかかわらず、全面的な後退が生じている。国際的にもてはやされているのは、自由民主化が確固たる国家建設によって進められるべきだという主張だ。民主的左派も、1950年代末と1960年代初頭の出来事を検討する事に熱心ではない。ネル―やスカルノのような指導者や非同盟運動(the non-aligned movement)は過去に属するものなのだ。さらに、毛沢東主義者たちは改革主義のインドネシア人共産党員やスカルノ派の人間が十分革命的でなかったとさえ主張した。後になって同調した事を悔やんだ者達は、それを思い起こさせられる事を望まず、それとは違う何か、アナキズムや市民社会、新しい運動や言説の分析などを試みる。民主主義を支持するインドネシア人たちが専念した汚職や人権、生活などの差し迫った問題は、過去に目を向けて対処する事がより困難なように思われた。

“Hopes that President Joko ‘Jokowi’ Widodo would be less dependent on powerful groups than his predecessors have dwindled.” Image: Prospective President Joko Widodo campaigning in South Kalimantan, Indonesia, 27 March, 2019. Photo iman satria / Shutterstock.com

また、インドネシアの大虐殺に関する研究のほとんどが、1965年末に大虐殺の犠牲者となったエリートの苦しみに焦点を当てている。この事が人権を強調している点は称賛に値するが、徹底的な歴史分析の入門としては不十分だ(Törnquist 2019)。3つの謎が残る。1つ目は、どのような政治的経済と政治機関が、この共謀と弾圧を可能にしたのか。2つ目は、何が軍部の促進した暴力と民兵や自警団の参加を結び付ける事ができたのか。3つ目は、何が政治の新たな左派志向の運動の失敗と、これに代わる権威主義的特徴の政治の再来を説明するのかということだ。

幅のある歴史分析が必要な事を示すものの一つが、Geoffrey Robinson (2018)の研究だ。入手できる最も包括的な研究の中で、Robinsonが受け入れ難いと感じているのが、John Roosa (2006)の革新的な主張で、これは運動全般ではなくてインドネシア共産党(the Indonesian Communist Party:PKI)の一部の指導者たちが、虐殺に先行した9・30運動(the 30 September Movement)において、重要な秘密の役割を果たしたとしている。Robinsonが躊躇する理由は、主流研究の結論が、当時PKIが極めて順調で、確実に地歩を築きつつあったとしている点だ(Anderson and McVey 1971; Mortimer 1974; Crouch 1978)。そうだとすると、向こう見ずな秘密工作には何の理由もなかった事になる。だが、より批判的な分析は、1950年代末から1960年代初頭に共産主義者が直面していた課題について、これとは違った見方を示す。PKIは民主主義を望んでいたが、1959年にスカルノ大統領と陸軍の「指導される民主主義(“Guided Democracy”)」の導入と選挙の先送りを支持していた。つまり、PKIは、まず大衆政治を通過する必要があったという事だ。

大衆政治とは、スカルノの反帝国主義運動や外国企業の国有化に協力し、彼の基礎的農地改革や、ナショナリスト、宗教者および共産主義者の社会・政治的中心人物による共同公共統治(joint public governance)の手法を支持する活動に協力する事であり、これには軍部への協力も含まれた。これは共産主義者に組織化と圧力政治の余地をもたらしたが、この事が改革派の政敵を弱体化させる事はなかった。軍部は(戒厳令という手段によっても)国有化された企業や国家機構の大部分を掌握し、1960年から61年の共産主義者による労働争議(labour struggles)を強化する取り組みを事実上、阻止した。

全てが軍部の思い通りになったわけではない。軍部の形勢は、西パプアのインドネシア併合に成功した後、約1年の間不利となった。このおかげで、PKIはいわゆる、官僚資本家(bureaucratic capitalists)に対抗し、土地改革実施を支持するための賛否両論の毛沢東主義志向の運動に着手する事ができた。だが、反帝国主義の激化によって「官僚資本家」が徹底的に弱体化するというPKIの目論見は、マレーシアやイギリスの企業との対立によって挫かれる事となった。軍部もまた、スカルノが始めたこの運動の中で、ナショナリスト優位を主張し、国有化された企業を掌握して、事実上の戒厳令を成立させた。同様に、土地の占拠という闘志に満ちた活動が、1964年12月に中止されざるを得なかったのは、制御不可能な対立のためで、これには結束しているとされた小農間の対立も含まれていた。要は、議会制民主主義が行き詰まり、激化した大衆行動が期待通りの成果を生まず、PKIは政治的苦境に陥ったという事だ。つまりは9・30運動によって、軍部がいかに自己利益のためにナショナリズムを乱用していたかを暴露し、軍部の力を弱め、改革派を有利な立場に置くための別の手段を思案する理由があったという事だ(Törnquist1984; van Klinken 2019)。

もう一つの例は、虐殺における軍部の役割に対する民兵、自警団その他の役割という未解決の問題に関するものだ。軍部が虐殺と弾圧を指示していた事、そして9・30運動において抹殺されたよりも、すなわちPKIによって抹殺されたよりも多くの人々が抹殺された事に疑いの余地は無い。そのような事から、大虐殺という概念は十分に妥当であろう。だが、中央の権力と地方の民兵や自警団との協調と、政治的、宗教的、民族的なアイデンティティ政治(identity politics)の取り合わせは、典型的なトップダウン式のナチスのホロコーストとは明らかに異なっている。つまり、軍部の指揮と民間人の関与の取り合わせについては、今後の解明が待たれる。

Robinsonは、国家の政策立案および実施能力が限られ、軍部には支持基盤も政党もなく、民族的、宗教的、あるいはユートピア的なものでさえ、弾圧のための強硬派組織が存在しなかった中で、どのようにして広範な反左派運動や暴力への関与を展開する事ができたのか、という疑問をはばかろうとはしない。心理戦争を指摘する一方で、彼はもっぱら、広範囲にわたる暴力を1940年代の国家独立闘争に端を発する社会の軍事化として説明する。軍部そのものが民兵組織の産物であったし、1960年代には軍部、民兵、自警団の地域的統合(territorial organisation)という強力な遺産が存在した。独立戦争時代、これらの民兵の中には左派の者や政治的に独立した者もいたが、日本の支援と訓練を受けた者もおり、その残忍で非情な手法は、1965年から66年の暴力に顕著であった。だが、話はこれだけではない。

自由戦士達の間には違いがあり、民族的、宗教的コミュニティを介した世襲的な指導権と市民権に根差した独立の理念を持つ者達と、政党や利益団体を介した民主的な市民権に基づく世俗的で近代的な国民国家を志向する者達があった。前者は多くの軍事的な特殊部隊や地域組織を支持し、これらは1960年代半ばの虐殺と弾圧にとって重要であった。だが、基本的に左派である自由戦士達は、PKIやその大衆組織、左派ナショナリスト集団の中で一緒になった。1950年代を通じて、彼らは階級闘争を近代ナショナリストの理念である平等や民主的市民権、国民啓蒙などと関連付ける事に大いに成功した。ところが、「指導される民主主義」がこれらの努力を損ねる事となった。これが極めて決定的となったのが1965年だ。PKIに支持されたスカルノ大統領の左派ポピュリズムは、確かに市民と直接的に関わる近代的国民国家の理念を支持していたが、個々の政党や運動、選挙を通じた民主的な市民権の取り成しは頓挫してしまった。

一方、ナスティオン将軍(General Nasution)らのような軍事的指導者も、スカルノの「指導される民主主義」と連携して、近代的国民国家を支持し、CIAに資金提供を受けた反乱やスハルトのような腐敗した将軍たちに立ち向かった。だが、彼らは根っからの反共産主義者であり、大衆の支持者に事欠いていた。そこでナスティオンが仲間となったのが、スハルトをはじめとする、それ程高潔ではない将軍たちで、彼らは1940年代の保守的な自由戦士や、オランダの間接的な植民地支配に不可欠であった民族的、宗教的コミュニティを介した世襲的な指導権や市民権の原則に回帰した者達だった。

President Suharto with full military uniform in 1997.

この中央集権的な近代国民国家の立場と、間接支配という観念に基づく保守的な立場の間の揺らぎを分析するVan Klinken’s (2018)の歴史的枠組みの対象として、1920年代のオランダ人植民地官僚の間で行われた国家の特徴と統治方法に関する議論との類似性の検討がある。1920年代にオランダ人の近代化主義者が望んだ近代国家を通じた直接統治は、民主的ではなかったものの、個人的市民権の素地を作り得るものであったし、1960年代の「指導される民主主義」の支持者の提案に響き合うところがある。オランダ人近代化主義者と「指導される民主主義」の左派ポピュリスト支持者の両者の座を奪ったのは、地域の有力者や民族的、宗教的、地域的なコミュニティを被支配者の監督役、あるいは彼らと国家の仲介役と認める事で中央独裁を補完するという、一般的な意味における間接統治を選んだ者たちだった。植民地政府は、生じつつあった近代ナショナリスト運動を制御する上で、間接統治が最も効果的で経済的な統治形態である事に気が付いた。そしてインドネシア国軍は、同じ間接統治が近代の左派ナショナリストや共産主義者、そして彼らと志を同じくする仲間や縁者のせん滅に最良の手段である事に気が付いたのだ。いわば1960年代半ばの大虐殺は、中央独裁と間接統治に基づく植民地型統治を活用した集団虐殺なのであった。

残る3つ目の疑問は、インドネシア政治に新たな左派的局面が存在しない事をどう説明するかという点だ。Robinsonは人権の重要性に焦点を当て、これらの1960年代半ばの悲劇的な出来事に対する沈黙を破ろうとしている。実際、インドネシアのジレンマは、歴史を否定し続けている点にある。だが、人権問題に焦点を当てても、新たな左派的局面が生じて来ない理由を論じる助けにはならない。別の状況下では、このような局面が、過酷で延々と続いた弾圧をよそに生じさせている。そのような状況には、フランコ体制下のスペインや、ラテンアメリカ諸国の一部が含まれる。だが、インドネシアではこれが生じて来ない。なぜなのか?

ここでもう一度、思い起こす価値があると思われるのは、大衆の階級的利害を求める闘いを、民主主義の国民的市民権とうまく結び付けて間接統治に比した事を、「指導される民主主義」が過小評価した事だ。これが大惨事の背後にある極めて重要な要因であった。改革派は有効な市民権や民主主義を活用できず、支配的なアクターたちは、左派の抹殺と弾圧に臨んで間接的な植民地統治のパターンへと回帰したのだ。後に、スハルトは資本家階級の台頭を促進させ、彼の「新秩序(New Order)」を確立させるため、間接統治的な集団虐殺と弾圧から央集権的なモダニズムの要素への方向転換を、地域の有力者や宗教的、民族的コミュニティの犠牲の上に行った。一般庶民は「宙づり」となり、国家・社会(state-society)の介在者は、国家的コーポラティズム(state-corporatism)と従属した宗教的コミュニティ以外には一切存在しなかった。

この体制に立ち向かおうと、反対派は一層政治化し、スハルトの国家が促進した資本主義の民主化に専心した。だが、一般大衆は期待したほど積極的にはならなかった。1950年代の終わりには破綻していた、独立と活発な民主的市民権を求める、かつての解放論者的闘争を取り戻す必要があった事は明らかだ。昔から敵対していたグナワン・モハマド(Goenawan Mohamad)やユスフ・イサク(Joesoef Isak)、プラムディヤ・アナンタ・トゥール(Pramoedya Ananta Toer)までもが、一致団結してこの点を主張した。また、民主化や市民権、ポピュリズム、アイデンティティ政治にまつわる民主主義運動に関する、あるいはこれに伴う研究も、これと同様の目的を念頭に行われた。これらの取り組みは、まだ十分には進んでいない。今日の右派ポピュリズムによって、間接統治が復活するところにまで来てしまったのだ。

Olle Törnquist
オスロ大学政治学教授

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References

Anderson, B. and R. McVey. 1971. A Preliminary Analysis of the October 1, 1965 “Coup” in Indonesia. Ithaca: Cornell Modern Indonesia Project.
Crouch, H. 1978. The Army and Politics in Indonesia. Ithaca: Cornell University Press.
Mortimer, R. 1974. Indonesian Communism under Sukarno. Ideology and Politics 1959-1965. Ithaca: Cornell University Press.
Robinson, G. 2018. The Killing Season: A History of the Indonesian Massacres, 1965-66, Princeton: Princeton University Press.
Roosa, J. 2006. Pretext for Mass Murder: The September 30th Movement and Suharto’s Coup d’Etat in Indonesia. Madison: University of Wisconsin Press.
Törnquist, O. 1984. Dilemmas of Third World Communism. The Destruction of the PKI in Indonesia. London: Zed.
Törnquist, O. 2019. “The Legacies of the Indonesian Counter-Revolution: New Insights and Remaining Issues”, Journal of Contemporary Asia, forthcoming.
van Klinken G. 2018. “Citizenship and Local Practices of Rule.” Journal of Citizenship Studies 22 (2): 112-128.
van Klinken G. 2019. “Anti-communist Violence in Indonesia, 1965-66.” In The Cambridge World History of Violence, Volume 4 AD 1800-AD 2000, in press, edited by P. Dwyer. Cambridge: Cambridge University Press