ミャンマー版グラスノスチの再評価

Maitrii Aung-Thwin

ミャンマー版グラスノスチの再評価

 2011年にミャンマーのテイン・セイン大統領によって政治、経済の全面的な改革が導入された事は、2010年の総選挙後に、ミャンマー政府の公約した改革に疑念を抱いていた世界の多くの観測筋を驚かせた。当初、コメンテーターやアナリストたちの多くが懐疑的であったが、政権のイニシアティブの度合いや規模を無視する事は出来なかった。新たな国内法が社会生活や政治生活の特定分野で国家の存在を縮小させ始めていたからである。外交関係が新たな海外のパートナーとの間に結ばれ、投資関連の新たな法律によって海外の企業や資金提供機関がミャンマーに参入できるようになった。このミャンマー政府の全面的な変容は、しばしば、ミャンマーの開放と呼ばれ、多くの人々を仰天させる事となった。ほとんどの人が、このような変化が軍事当局によって構想、展開、施行された文民政権の内に生じる事を予期していなかったためである。中には、自分達がミャンマーで目の当たりにしているものが、冷戦末期のソビエト連邦のグラスノスチ(公開性)や、その変容を特徴づけたプロセスに類似しているのではないかと考える者たちもいた。 1

冷戦モデルとミャンマーの開放

 冷戦後のパラダイムとそのミャンマーへの適用は、通常認識されているよりも、はるか以前に始まっていた。1980年代後期と1990年代前期に起きた民衆の民主主義蜂起が、以前のネ・ウィンの軍事社会主義政権を挿げ替えるだろうという予想は、間違いなく東欧での人民運動や、フィリピンや韓国での「ピープル・パワー」の表出などから生じたものである。冷戦期のドミノ理論のように、自由民主主義が有機的に権威主義的体制を置き換えるであろうという新たな予想が有力な喩えとなった。 2 ミャンマー国内での出来事は、民主主義の理想や人権、選挙、そして自由民主主義的制度などのコンテキストの中で解釈されてきた。これらのもたらした言葉と視座の両方によって、変化や連続性が判断されてきたのである 3。その結果、ミャンマーの過去26年間の政治史は、冷戦後の物語の枠組みを通じて理解され、SLORC/SPDC政府と、2011年から2013年にネピドーが着手した改革との間に歴史的な分断を生じる事となった。

 テイン・セイン大統領の対内的、対外的な諸改革は、ミハイル・ゴルバチョフ政権下のソビエト連邦における「急激な」変革との比較を呼び起す。テイン・セインをゴルバチョフに結び付ける事は、彼の改革計画の成功が、大いに彼の人格や政治的意志に依るとの印象を生む事にもなった。この見方は我々の注意をテイン・セイン政権発足の素地となったより広範なプロセスよりも、特定個人の活動に止めるものである。特にマスコミは、ミャンマーの政変をアウンサンスーチーなど、政治的、社会的変革の思想そのものの象徴となった特定個人と結び付けてきた。テイン・セイン大統領を変革の大立者として印象付ける事で、観測筋はこの図式を少し複雑にしたかもしれないが、彼らはその他にもさまざまな利害関係者や勢力、派閥が国家をめぐって競合してきた事を見過ごしている。

 より広範なプロセスにおける軍部の役割が、公の場で弱まり始めたのは、政府の文民的アイデンティティがさらに顕著となったためである。事実、現政権が以前の軍事政権と距離を置くことで、西洋諸国がミャンマーとの関係を再構築できるようにした事は極めて重要であった。2011年末には、西洋諸国の何カ国かがASEANやその他の地域提携に加わり、ミャンマー政府の政治構造の自由化、民族分離主義勢力との和平交渉、政治的和解の促進、世界市場に向けた経済再統合などの努力を公然と評価した。アウンサンスーチーが自宅軟禁から解放され、ついに2012年4月には選出されて議員となった事、さらにはバラク・オバマ大統領の画期的な訪問などといった出来事を受け、かつての誹謗者たちの多くは、テイン・セイン政権の改革を公に支持するようになった。ミャンマー当局を長年批判し続けていた国際メディアもこれに倣い、かつての「ならず者」軍事国家をより肯定的な観点から報じ、その文民政権や改革主義の大統領の努力を強調するようになったのである。

The momentous visit to Myanmar by President Barack Obama
The momentous visit to Myanmar by President Barack Obama

 2013年初頭には、ミャンマーがその内部や上部から開かれる事は明らかであったが、忌まわしい制裁措置がこの変革の動機になったのではないかという事が、相変わらず囁かれ続けていた。ともあれ、1990年代初頭に西洋から課されていた経済制裁の大半が解除された事は、あらゆる異種分野の投資家たちが、次々とミャンマーの膨大な資源、熟練労働者や市場に進出して行く機会を生み出す事となった。「ミャンマー熱」を更に高めたものは、政府高官らの世界歴訪の旅であり、それにはテイン・セインやアウンサンスーチーの東アジアやヨーロッパ、アメリカへの訪問などがあった。アウンサンスーチーが(10年の自宅軟禁の後に)遂にノーベル平和賞を受賞し、また後にはワシントンD.C.で議会名誉勲章を受け取った映像は、彼女の経験を通じてのみ、ミャンマーを理解していた多くの者たちに、ミャンマー近代史の長い一章がようやく、ページをめくられた事を告げるのであった。

 閉ざされた爪弾き国家から、新興のより開かれた民主主義へ、ミャンマーに対するこの認識の変化は、批判なしに実現するものではなかった。積年の敵対者である軍事政権や亡命政府、支援団体などは、依然として、これらの変革に表面的であるとのレッテルを貼っている。民主主義の活動家たちは、憲法が軍部に国会で25パーセントの議席保有を保証している事が、体制に内在する欠陥を示すと指摘する。政府高官は公共、民間の両部門に見られる派閥争いや個人的な利害関係が、これらの改革を実施する上での脅威である事をすんなりと認めている。貧弱なインフラは財務不正と経済制裁が組み合わさって生じたものであるが、これは政府に重要な変革の多くを、特に人口の70パーセントを占める農村で遂行できるだけの力量が不足している事を際立たせている。民族対立やコミュニティの暴力(これらはどちらも、ミャンマーの社会政治史の長年の特徴である)は、ネピドーによって始められた改革プロセスの背後にあるダイナミクスを複雑にし続けている。

  海外の支援団体やマスコミ連中の中には、テイン・セインの全面的な改革計画や、政府の民主主義的な変革に対する公約全体の見通しを、ラカイン州における特定の移民問題、特に国内のムスリム・コミュニティや、いわゆるロヒンギャ族への暴力に関する問題への対応によって評価しようとする者達もいる。評論家たちは、政府の広範な改革案(これもまた、貧困緩和や経済投資、医療、教育やインフラ整備に重点的に取り組むためのものである)の実行可能性を、アイデンティティの政治に関する特殊で歴史的に複雑な問題に結びつけている(これを解決するには何世代もかかるだろう)。改革プロセスの成功を政府の民族/コミュニティの緊張関係の解決能力に結びつける事は、現地の複雑なダイナミクスをあまりに単純化しすぎるものであるが、活動家たちはラカイン州やカチン州、カレン州などの異なったコミュニティが、ミャンマーの行く末について、しばしば別の考えを持ち、それらがネピドーやヤンゴン、あるいはマンダレーの意向に一致するとは限らないという事実を浮き彫りにしている。世界企業が「新生ミャンマー」に大々的な投資を行う中、当局は慎重に物事を進め、これらの紛争地帯での秩序を回復する一方で、節度ある民主政治を維持する必要があった。

 2011年以降、ミャンマー政府に対する一般的な認識は変わったかもしれないが、その内政の国際化は未だに進んでいない。国内のダイナミクスについては世界中で議論が続くが、それらは大抵が地域の状況にとって有利でもなく、意味もないものである。冷戦後のパースペクティブが影響を及ぼし続けているが故に、発展は地域の状況から切り離されたままとなり、かえって様々な疑問が提議される事となった。ミャンマー版グラスノスチの特徴である「衝撃的な」「突然の」変革は、往々にして1987年よりも、むしろ2010年のコンテキストで評価されている。これはネ・ウィンが初めてこの国の社会主義政策の失敗と、国家経済の国際市場に向けた再統合の必要性を認めた年であった。 4 近年の改革の素地となったパースペクティブを拡大し、我々の判断に今なお影響を与える冷戦期のパラダイムと距離を置く事によって、時事に対するより複雑な見解がもたらされるであろう。

長期改革 1987-2013

 ミャンマーの現代史に対する標準的な理解は、しばしば次のような出来事やイメージを中心に構築されることが多い。すなわち、それらは1988年の学生暴動、1990年の選挙、アウンサンスーチーの役割、少数民族の強制移住、いわゆるサフラン革命、サイクロン「ナルギス」、そして2010年の「欠陥ある」選挙などである。主流メディアや活動家、政府や学者達の議論の大半が、このような談話的要素に基づき、過去数十年間を脆弱な民主主義運動と強大な軍事独裁政権の闘争として描いてきたのである。冷戦末期の状況や東欧その他のアジア地域での政治的変遷に当てはめると、ミャンマーの民主主義の経験は、できるだけ長く権力にしがみ付こうと努めた独裁政権のために行き詰ったかと思われていた。この過去数十年間の見解もあり、2011年に導入された諸改革が実に大変「衝撃的な」ものと見えたのは、国内の統合と再建のプロセスに対するなけなしの配慮が、改革主義政府の出現に向けられたためであった。

Cyclone Nargis
Cyclone Nargis

 しかし、これと同じ期間を「長期改革」期と捉える事もできる。これは政府が憲法起草のための憲法制定会議を召集したこと、憲法を批准する国民投票を行い、総選挙を行い、ついには政権を発足させ、またその他の法定機関を組織したことによって裏付けられる。七段階から成る「規律ある民主主義のためのロードマップ」は、2003年に公式に発表されたものであるが、そこにはこの各段階がより大きな青写真の一部である事、この青写真が直接、2011年に現れた政府を形作った事が述べられていた。だが、これらの下準備を真に受けた者はほとんどいなかったのである。制裁がミャンマーを西洋の経済や市場から孤立させていた時期(これはちょうどミャンマーが経済の方向転換を望んでいた時にあたる)、軍事当局はむしろ、ASEANや東アジア、中東内での地域提携に頼っていた。 5 最も重要な事は、国内の状況の中で、この20年期が1948年以来、多角的かつ敵対的な内戦を戦い続けてきた民族分離主義者達との間に、17の停戦合意を確立した時期でもあった事だ。後の2012年には、カレン民族同盟やその軍事組織のいくつかとの間に重要な合意を通じた和解の区切りが打たれ、アジアにおける最古の反政府運動の一つが終結する事となった。この点で、1987年から2013年の時代を、50年近く続いた長い内戦の末に、和解と再建、改革がついに実った困難で起伏ある時代と捉えることができる。

結論

 近年のミャンマーの改革に関する評価の多くは、直接間接を問わず、これを冷戦の終結を告げたグラスノスチに結び付けるものであった。このパースペクティブは、ミャンマーでの出来事を世界の別の地域のプロセスに結びつける上では有効であるが、そのために地域的なパターンや優先事項に対する理解が犠牲になっている。SLORC/SPDCのイニシアティブから概念的な断絶を図ってきたテイン・セイン政権の手法は、我々が現在目にしている喜ばしい改革が、かつての軍事政権の長期改革計画に端を発するという不愉快な事実を曖昧にしている。現に、しばしば批判された「民主主義へのロードマップ」がついに履行されたが、これが現在の変革を称賛している当の政権から疑問視されていた事はお構いなしであった。ミャンマーの開放に対する冷戦後のアプローチは、最近、中西嘉宏が論じたように、重要な連続性を見落としているのかもしれない。民と軍の混成政権の成立は、過去からの唐突な決別ではなく、軍部エリートの安定や地位確保のために講じられた体制の継続だったのではないか、と中西は語る。 6 強硬論者たちが改革プロセスを「覆す」恐れは、根拠のないものであろう‐‐‐軍部は最初からこの改革の一部であり、これに投資してきたのである。

准教授 Maitrii Aung-Thwin博士
シンガポール国立大学 史学科

翻訳 吉田千春
Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 14 (September 2013). Myanmar

 

Notes:

  1. Andrew Selth, “Thein Sein as Myanmar’s Gorbachev”, Asia Times, 19 October 2011; Joshua Hammer, “Myanmar’s Gorbachev?”, The New Yorker, 14 January 2012.
  2. See, Robert H. Taylor, The State in Myanmar, (Singapore: NUS Press, 2009).
  3. See, Bertil Litner, Aung San Suu Kyi and Burma’s Struggle for Democracy, (Chiang Mai: Silkworm Books, 2012).
  4. See, Taylor, The State in Myanmar.
  5. See, Jalal Alamgir, “Myanmar/Burma: International Trade and Domestic Power under an “Isolationist” Identity”, edited by Lowell Dittmer, in Burma or Myanmar: The Struggle for National Identity, (London: World Scientific Publishing, 2010).
  6. See, Yoshihiro Nakanishi, Strong Soldiers, Failed Revolution: The State and Military in Burma, 1962-88, (Singapore: NUS Press, 2013).

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