Issue 8-9 Mar. 2007

エスニシティ表象としてのミュージアム -ポスト・スハルト期インドネシアにおける華人アイデンティティの創成―

本稿の目的   本稿は,インドネシアにおける華人社会団体のひとつ,印華百家姓協会 (Paguyuban Sosial Marga Tionghoa Indonesia : PSMTI,以下PSMTIとする)による印華文化公園(Taman Budaya Tionghoa Indonesia)建設計画の検討を通して,エスニシティが可視化されるプロセスと手法を明らかにすることを目的とする。印華文化公園は,インドネシアにおける華人の文化・歴史の展示を主な目的とするミュージアムとして,ジャカルタ郊外にある「ミニチュア版『うるわしのインドネシア』公園」(Taman Mini “Indonesia Indah”,以下タマン・ミニとする)に建設が予定され,準備が進められている施設である。   印華文化公園建設計画の検討に際しては,クリフォードによる「『接触コンタクト・領域ゾーン』としてのミュージアム」の概念が有効である。クリフォードは,『ルーツ-20世紀後期の旅と翻訳-』において,北米の北西沿岸のマイノリティであるインディアンに関する展示を行う4つのミュージアムの検討を通し,ミュージアムはもともと支配集団による下位集団の文化の目録化の現場であったが,現在はマイノリティによるアイデンティティ形成の場としても利用され,両集団の「接触領域」として機能していることを指摘している。 本稿は,インドネシアにおいてマイノリティ集団に数えられる華人のミュージアム建設計画の計画概要,立案者,立地,現状と課題,を取り上げ,国家と民族の「接触領域」としてのミュージアムと,ミュージアムに表象されるエスニシティの創成と可視化のプロセスを描く。   他民族国家インドネシアにおいて,エスニシティの可視化は,ショッピング・モールの装飾に始まり,街頭の像や,選挙活動の際に配られる選挙グッズまでありとあらゆる場において行われている。商業や政治など,目的に応じてエスニシティの可視化は多様な形態をとり,メッセージとして使用される。その中で,本稿が取り上げる印華文化公園は,インドネシアの華人が国家に対して語りかける場であるといえる。   なお,本稿では中国系インドネシア人,すなわち印華もしくは「中華」の福建語読みティオンフォアに相当する語として「華人」を使用する。また,民族またはインドネシア語のスクおよびスク・バンサに相当する語は,エスニシティを使用する。各種の中国語の名称に関しては,中国語の簡体字に相当する日本語の漢字を使用する 背景   インドネシアの華人にとって,1998年5月は,解放と恐怖という明暗双方の意味を持つ。1998年5月に繰り広げられた全国的な暴動をきっかけに,32年間続いたスハルト体制の崩壊によって,同体制が行ってきた華人に対する法律上の規制からの解放へと続いた。同時に,自らが直接的な暴力の対象となったことによって,華人として存在することへの恐怖感が再び共有される契機となった。   1997年後半から通貨・経済危機に陥ったスハルト体制を批判する学生運動が各地で広がる中,1998年5月12日,西ジャカルタのトリサクティ大学で行われた政府批判集会に向けて何者かが発砲し,4人の学生が死亡した。この事件を引き金に,ジャカルタをはじめ,メダン,ソロ,パレンバンなど全国各地で大規模な暴動に起こり,1100人以上の死者を出した。スハルト体制批判として始まった暴動は,スハルト体制下で経済的利益を享受してきたとされる反華人暴動に転化し,特にジャカルタでは,グロドック(Glodok)と呼ばれる華人の多い商業地区を中心に,放火や華人女性に対する暴行が多数あった。   結果的にスハルトは,5月21日に退陣し,その後ハビビ,アブドゥルラフマン・ワヒド,メガワティ政権を経て現在のユドヨノ政権まで,目まぐるしく政権が変わった。このような体制の変化の中で,華人に関する法的規制の改正は,非常に早いスピードですすみつつある。華人に関する法律の歴史的変遷に関しては,スルヤディナタ[Suryadinata 2003]やリンジー[Lindsey 2005]が詳しく経緯を述べている。ここでは,特に1999年10月から2001年7月まで政権を担ったアブドゥルラフマン・ワヒド大統領期に改正が進められ,文化,宗教,言語に関する制約がなくなったことを指摘しておく。さより最近に行われた画期的な改正としては,2006年8月1日に成立した「2006年第12号法律:新国籍法」が挙げられる。   このように,インドネシア国家における一国民として法的平等化がすすみ,表現の制約から解放されることで,華人としてのエスニック・アイデンティティを自由に表現することのできる環境が整いつつある。本来であれば,表現の自由化は個人の活動に還元されればよく,集団としてのエスニック・アイデンティティ,すなわちエスニシティを形成する必然性はない。しかし,インドネシアの華人の場合は,多民族国家インドネシアに内包される一集団として「華人」エスニシティを確立する必要性が生じた。   1998年5月の経験により,それまで出身地や職業,家族的背景や,国籍変更の時期の違いなどに応じて,地域レベルや個人レベルで確立されていたアイデンティティが,他者から見ればとりもなおさず「華人」カテゴリー内のバリエーションでしかないことが判明した。そして,他者からみた「華人」は,極端な表現を用いれば,「インドネシア土着」のエスニック・グループでないにも関わらず,国内経済を牛耳る排他的な集団であり,攻撃の対象と見なされる。 […]

Issue 6 Mar. 2005

農民反乱」という眼鏡を通してみた南部の状況  ニティ・イアウスィーウォン

         主役はごく一般の多数を占める人々   今年になって起こった南部の諸状況が社会的な広がりをもった運動であることは否定のしようがない。事件に関わった人物は100人を数え、実行を支えた層も含めば、1000人、いやそれ以上になるかもしれない。   これほどまでに広範な社会的な運動の指導者は誰なのか、背後で糸を引いているのは何者か、どんな人物からの援助があるのかといったことは、私の興味の範囲にはない。「親玉」が誰なのかと探したところで、そんなことは何の理解の助けにもならないのだから。南部において進行中の動きは、軍からの銃の強奪、公務員の殺害、学校への放火、警察組織に対する集団的な襲撃等々のそれぞれ個別の事件ではなく、多くの人間が関わりを持つ運動なのである。これほど多くの人間を操り欺いてこれらの凶悪な行為に駆り立てることなど(麻薬に頼ったとしても)、誰にもできるものではない。それぞれ異なった目的を持った、ごく普通の多数を占める人々―小さき人々が集まって運動を起こすのを後押しする何か他の要素があるはずである。南部の状況を理解するためには、これらの人々の生活を取り囲む環境を知る必要がある。   権力主義国家は、社会運動に参加する一般の人々には関心がない。普通の国民が政治、社会を直接に動かす力を持つとは考えもせず、何らかの人物、報酬によって動かされているに違いないと理解している。   運動に誘い込むような人物、報酬がたとえあったとしても、運動に加わっている小さきの行動を説明しきることはできない。なぜなら、参加しないことに決めたその他大勢の一般の人々と参加を決意した人々の二つの存在があるからだ。いかなる理由によって、あるグループが一つの選択を行い、別のグループはそれとは違った選択を行なったのか。  誰が主役なのか   多くの死者を出した4月28日の事件は、これらの小さき人々は何者なのか、ということについて、偶然ながら我々にいくらかを知らしめることとなった。   マスコミによる情報からわかる限りでは、4月28日に実行犯として送り込まれてきた人力は、ことごとく地方の人間であったといえる。このことは、第四軍司令官が、「これらの人物はソンクラー県サバーヨーイ郡または、ヤラー県カーバン郡、ヤハー郡、ターントー郡、アイユーウェーン郡、ベートン郡において武器の取り扱いに関する訓練を受けていた。」と語る言葉と一致している。彼の言葉によれば、これらの地域は一面の森林、山岳地帯であり、関係者が調査に入ることはできない。(マティチョン誌、5月3日)   第四軍司令官の言は、軍の消息筋からの情報とも一致している。「二十歳以下の青少年(実際この言葉をなんと訳してよいのか戸惑う。後になって発表されたところによれば、死亡者の多くは25-30才であり、二十歳以下の青少年と訳すにはふさわしくない。)に対して森林、山岳地帯、人里離れた村近くで、秘密裡に武器取り扱いの訓練が行なわれていた。この訓練を受けた者たちは、公務員を襲撃することによって集団内での地位を急速に上げていた。」   筆者は死亡者の家族の経歴に関する詳細を調べてみようとした。しかし、マスコミはこの点に関して関心がなく、ほんの僅かな情報しか得ることができなかった。   負傷者の一人にアブドゥルローニン・チェロ氏がいる。パタニー県コークポー郡の住民である。彼の妻はインタビューに対し、職業はゴムの樹液採取の日雇いだと答えている(5月2日付マティチョン誌)。家族の暮らし向きは、自らの資本を持たない地方の日雇い労働者というかなり貧しいものであったことがわかる。   サバーヨーイ郡刑務所を襲撃し、19人の死者を出した実行犯の居住地であるサアン村は、ターンキーリー区に属している。区長は以下のように語っている。「最大の問題は教育です。若い者の多くは仕事にあぶれ働き口がない。というのも小学校6年しか終えておらず、最高でも中学3年と学問がない。両親を手伝ってゴムの樹液を採取する他には何もすることがないんです。」(5月2日付マティチョン誌)教育程度、職業からみても、地方の崩壊という現象の犠牲者であることがわかる。   確かに、共に射殺されたサーラプー・ヨンマケ氏、マローニン・ヨンマケ氏のような例外もある。彼等の父は、失ったもの、とりわけ、イスラムウィタヤー校中学6年級を終了し、警察学校に今年入学するはずであった息子(どちらを指しているか不明)に対する無念の思いを吐露している。しかしながら、次の情報は、襲撃の実行犯、或いは運動全体も、伝統的なエリート層、とりわけ宗教的指導者とつながりはないのではないかと我々に思わせる。4月27日付けのバンコクポスト誌は、ヤラー県ラーマン郡ダーローハーロー-ラーマン通り、パタニ-県コークポー郡、ナラーティワート県ルーソの南部三県の諸地域においてビラがばら撒かれていたと報じている。このビラにはある宗教指導者が制服の警察官に対し何かを手渡している絵が描かれ、イスラム教の指導者は南部の騒乱に関する情報を警察に提供すことを止めるように、という要求がタイ語で書かれている。   この要求から見て、宗教指導者の大部分は運動と関係がなく、活動家や運動との心のつながりもない、と言える点に注目したい。筆者は、活動家や運動が宗教界以外の伝統的エリート層ともしっかりとしたつながりを持ってはいないのではないかと、かなりはっきり感じている。実際、政府筋が今日に到るまで行っている「親玉」の逮捕拘留、起訴などは、彼らが訴えているほどの真実味があると証明しきれているものは一件もない。筆者は(軍事熟練、国内治安維持委員会第四本部)によって編集された「ケーススタディー報告」中の二例を読む機会があった。この報告書によれば、事件のすべては、地方レベル、国家レベルでの伝統的エリートにかかわりがある、と述べている。しかし、その内容はあやふやで勝手な思いつき、根拠のない疑惑で成り立っており、自分自身の関わっている問題に都合よく証拠を解釈しようという意図があるようだ。(にもかかわらず多くの政府指導者の信ずるところとなっている。)筆者は、小さき人々によるこの運動は、実行メンバーは地方の宗教エリート層とかかわりのない運動者であると主張したいのである。   PULO、BRN、 Bersatuといったタイ政府に対する抵抗運動は、今回の動きと自らのかかわりを誇示しようとはしている。が、それほどの関わりはないのではなかろうか。これらの抵抗運動組織が小さき人々の諸行動を支え、称賛しているということは確かにありそうなことではある。直接の後押しはしないまでも、政治的目的にかなった効果はあるだろう。実際のところ、PULOやBRNの組織はそれほど堅固なものではなく、これらの組織が、今回の運動のように広範、長期にわたる運動を実施できた例はない。   4月28日の事件後のPULOの声明を注意深く読めば、彼らが事件を自らの仕業とは言明していないことがわかる。PULOは、「英雄」の犠牲の精神と勇敢さを褒め称えていながら、実際はその英雄達と面識がないのではないかと思わせるところがある。タイの当局が死亡者の姓名と家族構成について造作なく把握していることは、PULO側も知っているはずである。にもかかわらず彼等らの声明においては、「英雄」は無名氏のままの扱いになっている。  主役の理想 マスコミが政府、また政府高官から受け取った歯切れの悪い情報によれば、実行犯らはタイから独立したパタニーの国家を建国したいという分離独立の意図を持っており、過激な民衆蜂起をよしとするイスラム教徒の一派からの影響を受けていたということが示されている。   […]

Issue 6 Mar. 2005

ジョクジャを歩く

         旅行警告-インドネシア、合衆国国務省、2003年4月10日。当旅行警告は合衆国市民に対し、インドネシアにおいて進行中の治安悪化を知らしめることを目的に発されたものである。… 合衆国公的機関の防衛対策を受けて、テロリストは民間の標的を探索中である。特にホテル、クラブ、レストラン、宗教施設、屋外で行なわれる娯楽イベント等の、アメリカ人が居住、集合、訪問を行なうような施設がそれらに含まれているといってよいだろう。… この旅行警告を知ってなおインドネシアに旅行または、居住するアメリカ人は低姿勢を保つこと。必要な旅行の時間と路線に変化を持たせ、自らが置かれている周囲の環境に厳しく注意を払うこと。… ほぼ何の前触れもなく暴力と不穏な情勢が巻き起こる可能性がある。テロ行為を含む脅威は、ジャカルタ、ジョクジャカルタ、スラバヤ、カリマンタン、スラウェシなどの広範な地域に存在している。   国務省によるこの旅行警告にもかかわらず、夫と私はジャワへと飛んだ。それは、バリのクタビーチにおける二〇〇二年十月の爆破事件の二,三ヵ月後であり、アメリカ軍のイラク侵攻の二、三ヵ月前のことであった。ジョクジャカルタにおいて、彼は教鞭をとり、私は編集作業を行なう予定であった。前述の勧告は情勢の不穏、背後に控える脅威、また何らかの事件の勃発にまで言及していた。しかし、「アメリカ人が居住、集合、訪問を行なうような」場所を探すテロリストは、ジョクジャでは困難を味わうだろうということがすぐにわかった。というのも、お目当てのアメリカ人は、ごく僅かしかみつからないのである。土産物、銀製品、バティックの店、ペーパーバック古書店、旅行代理店、欧米の旅行者向けのレストランは殆ど空の状態だった。プラウィロタマンやソスロウィジャヤンの近郊にある旅行者向けの店には活気がなかった。しかし旅行産業が活気を失っている一方で、インドネシア人の輸入品に対する嗜好に応える欧米系の店舗は賑わいをみせていた。カリウラン通りの豪華でガラス張りのケンタッキーフライドチキンやその向かいのダンキンドーナツ、記念碑脇にあるピザハット、喧騒に包まれたマリオボロモールのウェンディーズ、マクドナルド、テキサスチキンに爆弾を仕掛けたとしても、犠牲者は十代二十代のジャワ人中産階級であるのに違いない。   ジョクジャカルタの私たちは、丸い地球の上で出来得る限り故郷を遠く離れていた。ニューヨークの午前八時はジャワの午後八時だ。私たちにとってここはエキゾチックな場所であり、果物や自然環境は一見したところ学部時代に読んだ海洋小説の中に見覚えがあった。ジョクジャ北部には活火山のグヌンムラピがそびえ立っていた。標高は約三〇〇〇メートルの孤高の山は、常に白い雲を頂上にたなびかせていた。その輪郭は、子供の描く山の絵のように簡略で、周りに従える者もなく、山陰は空の青より濃かった。ムラピは殆どいつも全く姿を隠しているのだが、これは火山の習いとして雲に包まれているのに過ぎない。ジャワを越えてバリやロンボクへ飛ぶ旅行者は、雲間から、また晴れていれば大地からそびえる火山をそこここに見つけることが出来る。   私たちは青い火山に魅せられたが、押さえ込まれた脅威の象徴としてではなく、まるでその山がおとぎ話そのもののように見えたからである。そこである日私たちはバイクを北に走らせ、ムラピの裾野にあたるカリウランに向かった。カリウランは緑が濃く、標高の高い比較的気候の涼しい場所であった。その街は貧しく、週末旅行者(ウィスマス)用の柱がむき出しの住居が点在していた。そのうちのいくつかは、アイルルパナス(温水)使用可の部屋があることを宣伝していた。私たちは国立公園の入り口を見つけ、森の中にある展望台に向かって登っていったが、そこでもまだ雲しか眺めることができなかった。火山はまだ私達の眼前に現れず、頭上高くにあるようだった。   展望台で、私たちは三人の人間に出会った。上着を着ていない二人の男性と、もう一人の女性はインドネシア人で、英語を話す者はいなかった。私たちが姿を現すと、二人の男性のうち背の高い方が、何事か叫びながらやって来て、ダリマナ?と訊ねた。私達がカミ ダリアメリカ、私たちはアメリカ人だと答えると、彼は何かペラン、「戦争」に関することを大声で語った。この単語については、私は週の初めに辞書の中から既に拾い出してあった。この日は三月二十六日、アメリカ合衆国がイラクへの爆撃を開始した六日後であった。   たどたどしい言葉での会話が続いたが、夫も私も「戦争は良くない」ペランティダクバグスという私たちにとっての決まり文句を申し出た。そしてアール・ゴアがどんな人物か説明しようと試み、私たちは彼に投票したのだと語った。しかしこれらの言葉は、あるいはアルゴアという単語は、私達の耳にすら薄っぺらなものに響いた。私達はニューヨーク州にある小さな街からやって来て、そこはニューヨーク市とは違う場所であることを説明するため、ここがカリフォルニア、ここがテキサスと、そう役に立つとは思えない地図を地面に描いた。男性は、自分は貧しい人間(ミスキン)で三十八歳だが家は無い、アメリカに行きたいので連れて行ってくれないか、と言って笑った。   私達は女性から二本のソフトドリンクを買った。彼女は売り子で、細い筋肉質の脚をしてゴムサンダルを履いていた。ソーダ水と水の壜を並べた箱を布製の紐で背中に吊り下げて、険しい山道を運んできていた。男たちが笑ったので、私達は彼女が高値を吹っかけたことに気づいた。が、私達は喜んで高値を吹っかけられるという基本方針を立てていた。もちろん限度はあるが、これは国際交易に対するささやかな私達の良心だった。   山上の三人に別れを告げると、私達はカリウランの街を散策した。百日草に似た花、間違いなくバラだと言える花、彩色された家々、雄鶏、不思議なほど性質の良い犬、有刺鉄線に囲まれ、夢の中で見かけるような古びた地元の運動場、しっかりした門扉の背後に建っている、見るからに宿泊客のいなそうなタイル張りの屋根をした公共宿泊施設などが目に入った。宿泊するホテルの裏手近くで、子供たちが私達のピンク色の顔、黒くない髪を見ながら「ハロー、ハロー!」と英語で叫んだ。車に乗った一人の母親がクラクションを鳴らしたので、私達は彼女の子供に向かって手を振り、「ハロー!」と叫んだが、自分達がいかにもアメリカ人らしい行動をとっているように感じていた。翌朝になっても、まだムラピを見ることはできなかった。   合衆国国防長官のポール・ウォルフォヴィッツは、レーガン政権下においてインドネシア大使を三年間務めた。彼はムラピ山にガイド付で登山し、下山後、この山に関する気の効いたスピーチを行なった。ウォルフォヴィッツが大使だった時、インドネシア人は彼を大変に好いていたが、国防長官となってからは、彼とその同僚たちがインドネシアをテロリストの横行する国と決め付けているため、裏切られたように感じているとパク・ドゥジョコというインドネシア人の教授が語ってくれた。そこで旅行警告の登場である。また、一方では、観光産業と海外投資の著しい低落ぶりが起った。このことは一九九七年のアジア経済危機で既に打撃を蒙っていたインドネシアの経済に追い討ちをかけた。  インドネシアを理解しようとする私達の試みは、今や私たちが遠く離れ、ポール・ウォルフォヴィッツとその同僚たちが影響力の頂点の上に立っているアメリカ合衆国を理解しようとする努力と絡み合っていた。群島のインドネシアと巨大なアメリカ、この巨大な国家という存在は、ある時ははっきりと、またある時はぼんやりと見え隠れしながら聳え立っていた。    初めてジョクジャカルタに上陸した時、私達はプリアルサホテルを訪れ、通りを南に進んだ場所にあるプリバハサでインドネシア語を習う申し込みをした。ホテルは殆どがら空きだったので、朝食の時私達を取り囲んでいたのは、赤色でどぎつく飾り立てた薄暗がりの中、籠に入ったさえずる鳥、小さな水槽の中で果ても無く泳いでいる大きな魚だった。朝食を済ませると私達は部屋に戻り、エディー・バウアーのバッグに本、筆記用具、持ち運び可能な貴重品を詰めてインドネシア語の授業に向かった。   本通と平行したジャランセンドゥラワシは長い道ではないのだが、私には長く感じられた。騒がしく、暑く狭いこの道にはバイクの音が響き、露天がひしめき合っていた。私達はこれらに押しやられたような感じで一列になって歩いた。路上で行なわれている生業が何事であるのか私にはまだわからず、看板を読むこともできなかった。ジョクジャの最も一般的な食堂は、柱に防水シートの屋根をかぶせたワルンという売店であることも知らなかったし、街角のテントの下に腰掛けた男達が、バイクの修理やパンクしたタイヤの継ぎ合わせを手がけていることも目に付かなかった。ある店の前に水の壜が毎朝ピラミッド型に積み上げられていることに私達は気づいており、それを一つの目印にしていた。だが、そのワロンステーキアンドシェイクの暖簾をくぐり、メニューを見ながら夕食を注文する勇気が出るまでには、しばらくの時間がかかった。殆ど気づいていなかったのだが、幸いなことに英語はジャワの都会においてかなりの権威を得ていた。近隣の看板に書かれていることの多くは、私たちにとって自明で理解可能な印刷文字だった。例えば、ドライクリーン、レディースアンドジェント、サウンドシステム、フェイシャル、インターネットなど。またステーキアンドシェイクのメニューの中には、フレンチフライ、サーロイン、ブラックペッパーステーキ等の語があった。  毎朝、徒歩旅行を済ませると、私達はプリバハサの門に到着し、語学教師の下に投降した。プリの狭くて屋外にある教室は、それぞれにインドネシアの島の名前がつけられており、それぞれの島の写真と物産で飾られていた。がたがた音を立てている扇風機と白板が取り付けてあり、屋根の張り出しと粘土製タイルのひさしが灼熱を遮っていた。私達はここにバハサ、この国の公用語を学習しに来ていた。この言語は、もともとマレー半島とスマトラ島から発し、広く交易に用いられた国際語に由来している。  バハサは分類的には混生語である。容易に学べて、港とそこを訪れる舟の間で使用することを目的に作られた言語である。名詞、動詞には格、性、語形変化、活用が無いため、学習者は早い段階から簡単な文章を組み立てられるようになる。バハサのうちの単語の一部は、様々な意味範囲を持っている。例えば、パカイという語は、使う、着る、・・・と、などの意味で使うことができる。ハンマーをパカイすることもできるし、ブラウスをパカイすることもできるし、お茶を「パカイ砂糖」で飲むこともできる。バハサはまた、他の言語から単語をすぐに取り入れていく言語でもある。そこで、パスポル, スタトゥス, フレクスィベル,エフェクティヴ,エクスルスィブ,ノルマル,デモクラスィ,コンフィルマスィ,レヴォルスィ,トラディスィ, コルスィ,コルプスィ,ネポティスメなどの言葉がある。 (二〇〇三年三-四月の新聞にはレコンストラクスィ, トランスィスィ, アグレスィの語も見られた。)  私は迅速に言葉が上達するさまを思い描いて、授業を受けることを心待ちにしていた。もちろん幻滅を感じるではあろうことも予測はしていたが。新しい単語を覚えようとして長い時間を費やした。友達を空港に迎えに行く時は、メンジャムプトだっけ、メンジェムプトだったっけ、それともメンジェムパト……. ジャムがあってそれからパトかプト?それにどうして皆飛行機をペサワットと言うの? 授業を受けてみて再び私が気づいたのは、単語は物体ではないということであった。林檎という語を齧ったり投げたりすることはできない。何度も繰り返して使ってみるうちに、林檎という単語は次第に架空の香りと形を持つようになっていくのだ。   プリでは、ふとしたことから教えられることがあった。世界中のかなり多くの人々が複数の言語を話し、我々アメリカ人は鈍感な単一言語主義で知られることを思い知らされた。教師たちはジャワ語(あるいはバリ語)とバハサの両方を話し、英語もかなりうまかった。私達の出合ったヨーロッパ人は英語を流暢に話した。オランダ人は私達と話す時だけでなく、ドイツ人の少女と話す時、また教師に質問する時にも英語を使っていた。この点に関して一番お粗末なのは私達だった。イラクの非武装化に期限を設けるか否かという点に関し、イギリスとアメリカ合衆国側、フランス、ドイツ、ロシア側の国連安全保障理事会での対立が激しくなってきた時、ヒューと私は休み時間には教室にとどまって、旅行警告の勧める「低姿勢」を保ちながら 他の人々と低い声でおしゃべりをした。   個人的、また国家的な様々な意味において、謙遜と誇りが思いもかけずどっと襲ってくるのを私は感じた。私が注目したのは、表面下に湿った暑い空気を、背後に骨折りを隠して語られている言葉だった。明らかな嘘を録音放送に撒き散らすイラクの情報相ムハンマド・サイード・アル-サハフをテレビで見るのが私は嫌だった。カメラの前でスローガンを叫ぶジョージ・W・ブッシュやドナルド・ラムズフェルドを見るのは多分それ以上に不愉快だった。ブッシュは大衆の前で喋るために大した努力をしていたが、その努力とは、練習済みのフレーズに頼り切ることであった。これらの丸暗記の言葉は、呼び出しがかかるともつれながらから飛び出してくるようで、外国語で自分について語ろうとする生徒のような印象を与えた。「国連の役割は重要だ。」大統領、重要な役割とは、具体的には何を意味しますか?「だから言ったとおりだよ。重要な役割さ。」こういった発言がどのように感じられるか、私はまざまざと知った。彼を眺めることは実に堪らなかった。   が、大学に在学中か、既に卒業した息子を持つような年齢のアメリカ人旅行者がいつも謙虚でばかりいられるわけはない。授業に出、二十代でありながら母親じみたやさしさを持つ二人の教師に向かって子供のように(あるいは子供より下手くそに)話すことを思うと、時折ふと、私達のどちらか一人は気が重くなるのだった。実際、四月の初めに「抵抗地域」ウム・カスルとバスラにおける醜悪な驚きと、自軍への悲惨な誤爆事故が「昨日のイラク関連ニュース」となった後、プリバハサの教室で、私は疑い深く、暗く、弁解がましくなっていた。ジョクジャの通りを歩いている誰もが「ハロー、メエースター!」と挨拶するので訂正しながら「私はアメリカから来たんじゃない。フランスから来たんだ!」サヤティダクダリアメリカ、サヤダリプランシス!と叫び返すのだとフランス人が(早口のバハサで)説明するのに再び耳を傾けることができなかった。  「この間抜け!」と私は考えていたが、その言葉をバハサでなんと言おうかとは考えてみなかった。この時の私は、自分が反イラク戦争派のフランスとその個人的体現者を支持していることを忘れていた。  私がこの反駁の言葉を口にすることはなく、心中に飲み込んだ。そこで胡椒と煙の味がする自国語の味はなかなか消えることはなかった。     ジョクジャカルタは、ハムンク・ブウォノ十世という名のスルタンを戴くにふさわしく壮麗で、また大学街でもある人口四十五万人の都市である。周囲は水田で囲まれ、雄牛や水牛と働いている者もまだいる。路上では馬が簡単なつくりの乗り物を引いていたり、人がベチャ(輪タク)をこぐ姿を目にすることができる。こういった乗り物は、スピードを上げてとばすバイクの中を静かに進んでいく。バイクの運転はジョクジャでは特に荒っぽい。これは、皆大学生が運転しているからなのだと説明された。  気候があまり変化しないため、多くのインドネシア人は一年を通じ、車よりバイクに乗っていることが多い。それは、住居やレストランが、しっかりと壁で覆われていなくとも構わないのと同じである。私たちが結局借りることになった大学関係者用住宅は、広々としていて、もともとノルウェーの交換留学生のために建てられたものだった。この建物には壁がないのだが、それと気づくのに何日かかかった。主室には重たげな勉強机と、七人のノルウェー人がついたとしても充分に大きい丸い木製の食卓が置かれていた。この部屋は、背の高い窓の広々とした空間から明かりを採り入れており、窓は白くて蜂の巣状の格子と蚊避けのネットで覆われていた。が、家の背面の窓にはガラスが入っていなかった。  このような様子なので、ジョクジャを訪れたアメリカ人らは、室内にいても何だか屋外にいるように感じ、屋外にいれば、さらにもっと外にいるのだという印象を受けている。仕事をするにせよ、食事をするにせよ、あるいは人との交流を持つにせよ、人目に、またアスファルトに晒されているような感じが強い。路上では、曲芸並みの運転は何も珍しいものではない。すんでのところで事故を起こさない様子にははらはらさせられた。コンピューターを膝の上に載せた者、長い巻いた絨毯を腕に抱えた者、沢山の鳩を入れた木箱を背中にしっかり括りつけた者、細い手足でまるで騎手のようにしっかりと捉まっている天真爛漫な子供を運ぶ者などがいる。幼子の母親は夫に身を寄せてバイクに乗り、首から肩へと吊るしたスルダンと言われる布製の紐で子供を支えている。合流地点にたどり着くまでに止まろうとする者はいない。合流は多分大丈夫だろうと信じることによって成り立っている円滑な動きである。事故は起っている。東南アジア地域のバイク関連の事故は、この地域の経済発展に対する障害物の一つであるとジャカルタポストは報じている。  私は人類学の教授にこう訊ねたことがある。儀礼におけるマナーの素晴らしさで知られるジャワ人が、向こう見ずなバイク運転者で溢れた都市を作り出してしまうことがどうして可能なんでしょう?彼は答えた。「ああ、それは簡単ですよ。道というのは国境地域ですからね。」  中産階級のアメリカ人を危害から守るために作られた、物理的な防御のための法的、規制的なネットワークは、インドネシアには再現されなかった。通常は費用が嵩みすぎ、輸入した場合、あまりにも奇妙なものになってしまうからである。ジョクジャから見る限り、アメリカ人は国内外からの脅威に危険な状態で晒されているようには思えない。それどころか、シートベルトをし、チャイルドシートを設け、安全なヘルメットをかぶり、塩素で消毒され、保険を掛け、厳重に武装し、海上を防衛し、恐ろしく安全だ。  私達がインドネシアを訪れることで蒙る危険は、インドネシア人たちがうまく出し抜いている日常的な危険に比べれば小さなものである。私たち自身は、インドネシアの論理、熱気、活気、実情に自らを充分晒すことができるということだ。毎朝、ジョクジャの街並みがいつもの賑わいをみせる中で外出すると、合衆国国務省の撮ったインドネシア群島のスナップ写真は国務省特製のレンズでかなりの高所から撮ったものだということがわかる。テロリストの脅威、地獄、それでは十番バスは?  このように感じていたので、路上を歩く時、私はほんの小さなことでも観察することを喜んだ。これは多分、一時的な滞在者としての適応能力が向上し、その結果安全性も高まっていると感じさせてくれるからだったのかもしれない。ジャランコロンボの路上では、ベンジン(ガソリン)の蓋付壜が売られていた。キャンパス内で手押し車の上で売られているそれと同じような形の壜は琥珀色の液体で満たされ、バナナの葉の小片で栓をされていた。この違いを見分けられるようになったが、このことが私は妙に嬉しかった。そこで私はキャンパスに出向くと顔に傷のある男からこの濃い色の液体を買い、ビニール袋にあけてストローで飲んだ。いったい何を飲み干しているのか見当がつかなかったが(砂糖味のタマリンドジュースかココナツの花のシロップから作ったグラジャワだろう)、「これはガソリンじゃないわ!」と言うことはできた。  夫と私は、ジョクジャにおいていつも安心ばかり求めているわけではなかった。時折、非常に慎重にではあるが、私達はトラブルを求めた。四月十日の旅行警告は、インドネシアのアメリカ人に「暴力行為に発展する恐れのある政治的なデモを避けよ。」と命じていた。私達の家からは、ガジャマダ大学のキャンパスの音が耳に入った。同大学内のロータリーは抗議行動を起こす人々の恰好の舞台だと聞かされていたため、私達は耳を澄ましていた。ある朝早く、私達は拡声器から流れる怒った声を聞いたが、その意味はわからなかった。ヒューは警告を重んじて大学内のオフィスまで迂回した道を通っていった。後になって、この時の群集は、北部における茶農園に対する大学の所有権に抗議するためにバスで訪れたスマランの住民であることを知った。彼らは土地の返還を要求していた。これは国内の紛争であり、アメリカの対外政策とは関わりがなかった。それからまた二、三週間の後、私達は再び拡声器の声を聞いた。その日は三月二十三日、日曜日の朝で、アメリカのイラク爆撃が開始されてからわずか後であった。私達は見に行くことに決めた。ドアから一歩を踏み出した時、その日は特に長くて白く見える自分の脚を見て動揺を感じた。前方に進んで行くと、キャンパスの芝生の傍に人と駐車された乗り物の一群があった。空には風船が漂っていた。   私達は人ごみに向かってジャランカリウランを横切った。歩を進めていくと、ロータリーに向かう大通りにワルンやCD、木製パズル、ヘラとフォーク、棘の立った果物の売り子が列をなしているのが見えた。子供が沢山おり、芝生の上では曲芸が演じられていた。シャボン玉売りは、私達に二組のセットを売ったが、それは、1)液状石鹸を入れた使用済み三十五ミリフィルム入れ、2)端の部分を糸で巻いてカーブさせ、ループ状にしたストローで成り立っていた。これは、ガジャマダ大学の日曜早朝蚤の市だったのである。拡声器は、ブーム!という口中清涼ミントを売る会社をスポンサーとしているロックバンドのものだった。お揃いのTシャツを着たインドネシア人の若い女性がただのミントを差し出した。私はミントを差し出した二人目の少女からそれを受け取った。一人目の少女は私に手を差し出すと目を見開いたので、私は脇に飛び跳ねてしまった。これは「(私が)置かれている周囲の環境に厳しく注意を払うこと。」という警告を意識した結果なのである。  次の週になると、インドネシア人たちは、イラク人死傷者のぞっとするような写真をテレビ放送で眼にするようになった。こういった写真は、バグダッドへのミサイル攻撃が終了した後も、四月、五月を通じて放映されていた。メトロTVは、スハルト政権の崩壊後に認可を受けた民間の二十四時間ジャカルタニュース放送局である。この局が繰り返し放映していたフィルムモンタージュは、負傷したイラク市民の映像に、インドネシア人の少女がインドネシア語で、四肢を失ってどうやって生きていくのかと、手足を失った若いイラク人に向かって歌いかける映像が重ね合わされたものであった。  こういったメッセージには聞き手がついた。空港の雑誌販売店で、イスラム教徒の女性(頭にかぶっていたジルバブでわかる)は私を見つけると、どこからきたのかと訪ねた。私が「アメリカ」と答えると、彼女はジェスチャーを交えながら、アメリカの爆弾で腕を吹き飛ばされた小さなイラク人の少年を見た時、自分は泣いてしまったのだと、バハサで強く訴えた。涙が止まらなかったのよ、と彼女は指で涙が頬を伝う様を示し、私をじっと見つめた。私の国に対するこういった批判者に対して、対峙し、評価し、その存在を認めようとするつもりでいた。が、この正々堂々たる出会いに出くわすや、私は弁解的な反駁をバハサで創り出していた。イブ、アンダセディジュハウントゥクオランーオランマティディアチェ、ティモール、ダンパプアダリTNI? メンガパ?オランーオランイトゥティダクディTVクマリン?「イブ、あなたはインドネシア軍に攻撃されたアチェー、東ティモール、パプアニューギニアの死者についても悲しんでいるの?どうして?この人たちは昨日のテレビには出てこなかったから?」  インドネシア人の抱いていた(そしてもちろん抱き続けていくであろう)一般的な感情は、アメリカのイラク侵攻に対して強く反対するというものであった。ジャワ人の礼儀正しい語学教師の一人は、彼女もまたジルバブをかぶっていたが、当時広まっていたジョークで、ヒトラーの魂がジョージ・W・ブッシュに入ったのではないか、と言ったような類のものを説明しようとしてくれた。ジョクジャカルタのイスラム原理主義者にインタビューを行なったガジャマダ大学の宗教学専攻の大学院生は、以下のように語った。原理主義者たちは、イラクにおける行動を、彼等の宗教的同胞に対する世界的な陰謀の一つに数えられる侵略行為のリストに付け加えようとしている。そこで、パキスタン、チェチェン、アフガニスタン、ボスニア、パレスティナ、また近い所ではインドネシア人同士のキリスト教徒とイスラム教徒の衝突が致命的に激しいスラウェシ島中央部、モルッカ諸島(特にアンボン島)に関する記録と共に、イラクにおけるイスラム教徒の犠牲者についての記録が残され、インターネット上に記事として掲載される。 […]

Issue 6 Mar. 2005

ジャワあるいは他のどこかにおける友情、メディアに伝達された想像力、熱狂的信仰

         またお会いしましょう  この20年というもの、私はインドネシアをたびたび訪れてきた。そのうちの12年は、ジャワのジョクジャカルタにおいて、文化人類学者としての調査活動に携わってきた。2002年の夏、私は再びこの地を訪れ、ジョクジャの南区域にある家族と私の家には、仕事の上でも個人的にも付き合いのある、一人の旧友がやって来た。マス・ヤルトは、地元の大学のリサーチプロジェクトの給与支払い名簿を管理していたが、12年前に私が出会った時は、同じようなプロジェクトのデータ処理者をしていた。当時の私は、この非常にジャワ的な都市において文化人類学の博士論文のための調査を、やはり同じ身分であった私のパートナーと共に行なう大学院生であった。   彼が到着すると、私たちは握手と互いの頬をかぐことによって熱情を込めて挨拶を交わした。靴を脱ぐと、彼は狭い玄関の間に足を踏み入れた。この部屋の奥に続いているのは、ありがたいことに天井に扇風機が取り付けられ、ジャワのアンティーク、織物、インドネシアの現代美術によって念入りに飾りつけられた客間である。床が大理石でできたこの部屋の片隅には、その人物にふさわしい精巧な筆で描かれた、少なくともインドネシア人の目には非常に美しい人物画が飾られている。袖の短い服に見慣れた黒い帽子を被ったその絵は、インドネシアの初代大統領スカルノのパステル画である。扇風機は心地よく低いうなり声をたてて回り、現代の様々な瞬間の遺物に囲まれて、私たちはタバコに火をつけた。香りのよい一服は、私たちの友情と、男性同士の仲間意識をしっかりと強めてくれた。  話題が9月11日のことに移ってゆくまでに、それほどの時間はかからなかった。熟した丁子の香りのする煙のベールの向こうに、この悲劇的な出来事についての理論と疑問の両方を提起しようとするかのようなマス・ヤルトの鋭い眼差しが伺えた。私の瞳を覗き込みながら彼は尋ねたが、その語調にはかなりの確信が感じられた「ワールドトレードセンターで働いていた何千人ものヤフディ(ユダヤ人)が、前もって一日休みを取ろうと知っていたというのは本当かい?」そこで彼らは死と破壊行為と負傷を逃れた。表現を誇張した彼の質問は続いたが、もし知っていたとすれば、引き出される唯一の結論は「9.11の飛行機を飛ばしていたのはユダヤ人だ。」しかない。    ちょうどその時、夕方の祈りへの呼びかけが町中にこだました。マス・ヤルトは、礼儀正しく断りを入れると、手、足、顔を洗い、私がタバコを吸いながら静かに待っている間、部屋の片隅で祈りを捧げた。この行動は、彼の攻撃的な発言にエクスクラメーションマークを置くために意図されたジェスチャーのように思えた。1997年に、ジョクジャの東に位置する、宮廷が維持されているもう一方の街であるソロを再訪したマーク・パールマンと同じように、私はこの「各個人の熱狂的信仰の深まり」に衝撃を受けていた(Perlman 1999,11)。今までの付き合いの中で、マス・ヤルトが私の前で祈ったのは、オフィス内にしつらえられた日々の祈り用の小部屋で、他のスタッフと共に行なった一回きりであった。私は彼の家に何度か泊まったことがあるし、仕事が終わった後の午後の時間を、彼のバイクでゆっくり回ったり、映画を見たり、彼が訪れるべきだと考えているジョクジャ市内の遺跡、ワルン(飲食のための売店)などの場所を訪れたりして過ごしたものだ。  その頃の私達の主な話題は、政治、文化、ジャワ文化などであり、当時の私の興味の対象であったペンゴバタントラディスョナル(伝統医学)についてももちろん話し合った。ソロとジョクジャの宮廷の支配者とその家族が葬られている、ジョクジャの南にある小さな町に彼は住んでいる。この墓地は超自然的な意味で強い影響力があり(angker)神聖(keramat)だが、様々なジャワの宗教については、私達はほとんど話をしなかった。例外といえば、多分ジャワの神秘主義(kebathinan)の医学における役割の話くらいだった。イスラム教、また確かにキリスト教については、ディスカッションをした覚えがない。  我々の友情の初期のころ、マス・ヤルトは現代的な人間として印象付けられている。彼はスカルノ主義者であり、スハルトの新秩序には懐疑的であった。科学に携わり、ブルシーダタ(純正なデータ)のために雇われたあたかもオフィスの手先のようであった。当時の彼は、テクノロジーからフリーセックスまで、現代的なものを全て体現していた。ある日の午後、私達はいく人かの友達と映画を見に出かけた。それはオリバー・ストーンのJFKだった。主演スターのケヴィン・コスナーが、彼の考えによる陰謀の概略を述べ始めると、政変の中でのジョン・F・ケネディの暗殺のシーンが重なった。私はマス・ヤルトが涙するところを目にした。映画を見終わった後、彼と仲間たちはJFKとスカルノには沢山の共通点があるということで意見が一致していた。そしてケネディに起ったこと- 少なくとも映画の中で -がスカルノにも起ったというのである。陰謀のセオリーに対する一般的な関心はさておき、我々に共有の立脚点、つまり近代性に対する性急な意識を与えるのは近代的国民国家とその政府の意図に対する批判なのである。  さて2002年となり、我々は陰謀のセオリーについて再び討論を行なっていた。夕べの祈りへの誘いが空に響いたため中断された彼の議論が根拠としていたのは、歴史のあらゆる曲がり角と、変化や予測不可能な出来事への推進力の背後に、陰謀者と回し者がいると感じる伝統であった。1997年に端を発した政治、経済危機の後に以下のような動きが続いた。スハルトの失脚、インドネシア群島のいくつかの地域で起った暴動、学生デモと改革運動(reformasi)、銀行スキャンダル、信仰治療を行なう黒魔術師の殺害、華人、また華人―インドネシア人混血女性に対するレイプ、いわゆる奥地における人肉食と最近の首狩り、そしてもちろん議会における些細な、あるいはそれほど些細ではない政治問題。新聞、雑誌は、これら全ての裏側に、個人にせよ集団にせよ誰かがいるのだという一般の認識を刺激したり、うわさを裏書してみせようとした。  私たちの友情は長く続いていたものだったし、彼は近代的なものを理解する人間だと考えていたので、私はマス・ヤルトに向かって、そんな思いつきは不合理だとかなり決然と説明した。オサマ・ビン・ラディンのアルカイダの組織が計画の背後におり、攻撃を行なった証拠は明らかじゃないか、と私はためらいもなく(あるいは考えもせず)言った。  夏が過ぎていくにつれ、マス・ヤルトとの友情が、世界的に現れつつある感情のパターンから影響を受けていると次第に感じるようになっていた。私が到着してからというもの、私の学問的関心をジャワのイスラム教の固有の歴史と性格に導こうとすることに、彼は非常な関心を見せていた。自分とまた彼の小さな街の人々が博学なイスラム学者であると認めている人々とのインタビューを、彼は積極的にアレンジしてくれた。イスラム教の学識と実践を独学し、地域では著名な人物と会見することになった。その人物は、ジョクジャカルタから三十分ほど南に行った所にある、マス・ヤルトの住んでいる街に居を構えていた。彼は、この「インタビュー」に参加するようにと、ジョクジャに住む他の友人も招いていた。会談の予定は夕方に入っていたため、この友人たちが私を車で連れて行ってくれるのは、理にかなったことであった。彼らが到着するのを待っている間、処刑されたレポーター、ダニエル・パールの新聞に載った写真が突然頭に浮かんだ。彼は、縛られ椅子に座り、頭をたれていた。舞台裏で動いている捕獲者に髪を摑まれており、頭に銃とナイフを突きつけられていた。待っている間に自分でも困惑するほど恐怖に襲われてしまい、もし私が帰ってこなかったら気をもむだろうかとパートナーに告げるために家の中にいったん戻ったほどだった。マス・ヤルト - そしてメディアに伝達されたアイデンティティーの政治における私たちの存在は極度に暴力的になった。「現実解釈の可能性の複数性」は私の想像力の働きと一緒になって、驚くべき恐れを私にもたらした。   インドネシアで過ごした日々を通じて、私はこんな風に恐怖を感じたことはなかった。その上、私がこのように考え込んでしまったのは、友人や親族と呼べるような存在に対してであったのである。私達は共に働き、食事をし、遊んだ。私は彼の子供たちの勉強をみてやったこともあるし、彼は私のパートナーの仕事を助けてくれた。私たちの関係は、私がインドネシアで作り上げてきた他の様々な関係と同じく、いやそれ以上に相当なものがあったと思う。ミニバンに乗り込む時に私が感じた恐怖は、世界的な出来事と構造的なつながりを持っていた。この感情は、長く続いてきた、または常に進行形で作られつつある私たちの関係にとっての感情的責任に違背した。その晩、帰宅する前にこの恐怖についてマス・ヤルトに語るべきだったのだろうか。2年後(2004年)に私達はたった一度、ほんの短い時間再会した。私達は互いに語ることが少ないことに気付いた。それでも彼は私に贈り物を持ってきていた。モート とルザフォードがパプアに関して観察した「マスメディアによって表現された暴力(とその他の事件)は、出来事を説明する際に決定的な要因となる。」という言葉のように、最近のインドネシアを象徴的に示すような贈り物だった。彼は私に一冊の本を送ってくれた。その本は暴力を体現してはいなかったが、最近のインドネシアにおいて、想像力に課せられた複数の言い換え、(再)命名、虚構の現実を捉えているように思えた。その本は、英語を話す西欧の学者によるコーランのスーラの章に関する解釈のインドネシア語訳であった。  メディアによる伝達    政治、経済危機、パレスティナにおける第2次インティファーダ、9.11の事件、アフガニスタンとイラクにおける戦争、これらの事件以後、世界最大のイスラム教徒人口を持つインドネシアにおいて、その国際コミュニティーが抱いた希望は、インドネシアの国民と政治が「中庸」を保つことであった。専門家であろうとなかろうと、インドネシアに対する観察者は、一般的に以下のように認めている。政治上のアイデンティティーが極端に走らない原因は、歴史を通じて一貫した寛容性と、そこに住む人々の個性と社会生活のあり方に柔軟性が保たれていることに見出される。この寛容性と、方針決定と経験の柔軟性は、島嶼部東南アジア、とりわけインドネシアの文化的特色であるとされている。O. W. ウォルタースは、この地域の「文化基盤」を分析しながら、社会的、文化的境界を越えて広く評価されていた人間の特質について、19世紀のジャワ語文献においては、洗練された人物(wong praja)が、柔軟性のある人物(lemesena)と表現されていることを引用している(1991,161)。ベン・アンダーソンは、特にジャワ人にとっては「もしジャワ的な生き方の中に適応させ、説明付けることができるなら、ほとんど全てのことが容認される。」と語っている。しかしながら、近年において、アンダーソンは過ぎ去った時を回顧しながら、この「ジャワ人の寛容性」が薄れつつあること、また比喩的にも、あるいは多くの場合現実的にも、「異なる社会的グループの間に近寄りがたい高い壁」という社会的建造物が登場しつつあることを指摘している(2002,3)。   9.11以前、以後のインドネシアにおける社会的事件は、この文化的に複合的な国家の持つ寛容性と「環境を変える」というジャワ人の能力が挑戦を受けていることを物語っているといってよいだろう(Beatty 2002)。特に、個人とその宗教的な所属に関して、長く続いてきたいわゆる「柔軟な市民性」が、世の中一般に見られるような非寛容な方向性に近づきつつあるように思われる。アンダーソンが40年ほど前、また近年嘆いたように、国家主義の世界的な重圧と振興は、ジャワ人の「旧来の道徳的な多様性を明らかに脅かし」、「構造的に条件付けられていた寛容を徐々に衰えさせている」といえよう。(1996,42)。インドネシアに新たに課せられてきたアイデンティティー、とりわけ宗教的なそれについて、私は身近な、あるいは遠方からの観察と会話からここに分析してみたいと考える。モルッカ、カリマンタン、スラウェシにおける地域紛争は、民族的、宗教的、政治的、経済的、あるいはそれらの組み合わせによって、多分様々に論じられており、非寛容で柔軟性を欠くアイデンティティーの形成を説明する説得的な例となることだろう。が、以下において私は、2002年にジョクジャカルタとその近郊におけるフィールドワーク中に、長年の友とその仲間たちと交わした会話について考えを進めてみたい。   注目すべきことに、慣れ親しんだジョクジャカルタの他の環境において、私は初めて「ユダヤ人」、あるいは「ヤフディ」に出会った。注意深くこのことを考えてみるにつれ、この世界的な兆候は、9.11や、インドネシアの内外で起っている事件を解釈するためのみに人目を惹いているわけではないことに気付いた。その他の記号的な重みが加えられているのであり、これらの重みは、インドネシアにおける社会的形態と習慣の変容、アイデンティティー形成の両極性を反映している。インドネシアにおけるユダヤ人コミュニティーの数は僅かなものなので、インドネシア人にとって自らの経験に根ざしたユダヤ人に関する知識は殆どないといってよいだろう。またその上、スラバヤのコミュニティーに僅かばかり残っているユダヤ人が、近年差別の対象とされたり攻撃を受けた例はない。イスラム教徒達は彼らに「シャローム」と挨拶を投げかけ、コウシャー(ユダヤ教徒にとっての基準を満たした食料を売る店)は、イスラム教徒のハラール(イスラム教の戒律に従ってさばいた食べ物)を売る肉屋から仕入れた肉を扱っている。また10年以上も、あるイスラム教徒の家族が小さなシナゴーグの管理人を務めている(Graham 2004を見よ)。このことから考えて、インドネシアにおける、ユダヤ人を表す符合として世界的に認識されているイメージはインドネシア人にとっての社会的事件や懸念事項と共鳴しあっているといえよう。  例を挙げて言えば、インドネシアの第4代大統領、アブラハム・ワヒドの議会制に基づく選挙の後、イスラエル人とパレスティナ解放主義者間の暴力行為は国内の「どこか他の場所でメディアに伝達された」と受け止められるようになった。この時、政治的な符号としてのヤフディが、現在のような受けとめられ方をするようになったのである。メディアの中で目にすることのできる彼等の姿は、生々しい現実として目撃され、人間の行なう事件の真実に対する平等な洞察を自称する、その他の様々な符号の可視的な背景の中でより深い意味づけを獲得していくのである。フェルドマン(2000)は、この政治化された可視性を「観察統治様式」と呼び、いわゆる「現実解釈の可能性の複数性」が事件に対する人々の理解を形作るようになると述べている(Feldman 2000参照)。シーゲルは、「インドネシアにおいて『ユダヤ人』という語は、脅威を示している」が、この脅威には形状がない。」という点に注目している(2001,302)。シーゲルによれば、ユダヤ人の宗教的なアイデンティティーは、「キリスト教徒のそれに吸収されている」例もいくらか見られる(同、272)。ハッサンは、「シオニスト兼キリスト教徒の陰謀のセオリー」への、同じような同化の例を観察している(2002,163)。このことをバリにおける爆破犯が念頭に置いていたことは明らかである。有罪を宣告された爆破犯のうちの一人、アムゾーリは、彼らを爆破に駆り立てたのは、ユダヤ人、アメリカ合衆国とその同盟者達に端を発し、世界中を覆っている道徳的退廃であった、と語っている。彼の考えによれば、この悪の枢軸による世俗の「けっこうな」暮らしぶりは、道徳的退廃を生むために宗教と競っているのである。そこで彼は、「白人を殺したことには誇りを感じるが、インドネシア人の犠牲者を出したことには悲しみを感じている。」   シーゲルは、「メディアの上のユダヤ人」と結び付けられている反ユダヤ人主義は、インドネシア国内でおこっているイスラム教徒とキリスト教徒のコミュニティー間の暴力行為に関するメディアの叙述を通じ、インドネシアの多様性を持った宗教に関わってくるような日常の中での政治に入り込んできていると主張している(2001,303)。リードは、東南アジアの歴史において、華人が「東洋のユダヤ人」として知られるようになるにつれおこった、ユダヤ人と華人の結びつけに関する史料を引用している(1997,55)。シロは、「ユダヤ人に譬えられることは、東南アジアの華人知識人からは歓迎されず」、ただ「イスラム教徒に敵意を抱かせる」事にのみ役立っていることに注目している(1997,5)。実際、既に人種主義的な符号として重い意味づけをなされているユダヤ人の世界的な符号は、インドネシア社会において華人の社会的アイデンティティーが既に「人種的カテゴリー」となっていることについて伝えている。その結果、インドネシアの華人の、華人として、インドネシア人として、あるいは他の標識を持ったアイデンティティーに関する社会的な理論は、予言を叶える役割を果たしている。これは、民族主義がどのように働くかの例であり、社会生活と差異に対する理解に何故有益かという理由である。   インドネシアのメディアによって伝えられている「ユダヤ人」の世界的な符号は、インドネシアのイスラム教徒の間に、イスラム教に混ぜ物が混入されつつあるのではないかという恐怖をたきつけている。こういった恐れの感情は、「血」に関する言説の中にしばしば見られる。2000年10月に、マレーシアにおいて、イスラエルのクリケットチームがマレーシアの土を踏むことに対する抗議運動が行なわれたが、このことはジャカルタにおけるデモに刺激を与えた。インドネシアの抗議者らは、イスラエルの国旗に血を浴びせかけ、「ユダヤ人の血が欲しい。」と要求した。ワヒド大統領の外相アルウィ・シハブは、議会において以下のように論じた。インドネシア軍の人員が占領の最終期に犯したとされる人権侵害と戦争犯罪の証言を聴取するため開かれようとしている東ティモール国際法廷の設立を妨げようと努力するつもりなら、インドネシアには「ユダヤ人のロビイスト」が必要である。何故「ユダヤ人のロビイスト」なのか?それは、アメリカ議会がユダヤ人にコントロールされており、合衆国国務長官のマデリーン・オルブライトは、ユダヤ人の血を引いているからである。  リードは、今日のインドネシアとマレーシアにおいては、「近代化の犯人リストに関する最も粗野な人種的公式化は、理論的な構成概念としてのみ知られている『ユダヤ人』マイノリティに対して行なわれている。」と嘆息している(1997,63)。「近代化の犯人リスト」についてさらに詳しく述べる中でリードは、インドネシア人のモデルニサスィ、ウェストゥニサスィ、グロバリサスィに対する魅了のされ方と嫌悪 - をインドネシア人がしばしば一つのものに合体する歴史的な過程と条件に注目している。スハルトの新秩序下においては、そのような合成が奨励された。プンバグナン(発展)は、土着の民主主義、階級的社会秩序、公正で豊かな社会の土台としての物品とサービスの流通、またインドネシア国家の礎と一括して扱われた。レフォルマスィは、スハルトの夢が馴れ合い、腐敗、縁者びいき(Kolusi, Korupsi, Nepotisme, KKN)に基づいていたことを暴露した。   しかし、夢とはそこから覚めることが困難なものである。そしてここに皮肉な成り行きが見られる。もう一人のバリの爆破犯、アリ・イムロンは、「インドネシア国家の息子としての我々の能力は誇るに値する。」と語っている。この発言は、1928年において、インドネシアの民族主義者の「覚醒」を布告した青年の誓いを仄めかしている。この国家的なアイデンティティーの覚醒は、その大志という意味では国民国家と同種の近代性の段階に入っている。スカルノの旧秩序と「指導される民主主義」の下で、国民国家であることは、成熟、発展(maju)した社会になるための記号的な進歩であった。が、しかし、スハルトの新秩序統治体制においては、ただ単に国民国家になるだけでは不十分であった。近代性の記号は、技術主義社会にふさわしく設計されており、プンバグナンの条件を技術的に発展させるものであるべきだった。30年間のプンバグナンスタイルの心的傾向は、インドネシア人に対して、深い心理的、社会的、文化的影響を与えた。その中でも著しいのは、自分たちの社会におけるものにせよ、他者の世界と比較してみたものにせよ、自己に対する見方に対する影響であった。それ故、イムロンの誇りの源泉が爆弾を作り他者に示す能力と、途上国の貧しい村の若者が、アメリカやオーストラリアなどの先進国に打撃を加える能力であったことは驚くに足りない。2002年10月にクタビーチにおいて使用した技術を彼は記者会見の中で見せびらかし、自分がアフガニスタンで爆弾製造を学んだと主張した。そして「我々のインドネシア人としての能力は誇るべきものだ。が、その能力は間違った目的に使用されている。」と語った。インドネシアの国家を技術面における刷新と結びつける考え方は、スハルトの新秩序下における開発主義、プンバグナンのイデオロギーの主要な推進力であった。   バリの爆破犯の声明の中を勢いよく流れる開発主義は、新秩序体制政治の経済、文化的成り行きを反映している。スハルトの統治期においては、トルイヨが「構造の変化と資本の空間化」(2001,128)と定義したグローバライゼーションが明らかにインドネシアにおいても起り、社会の殆どあらゆる階級によってなんらかの形で感じ取られていた、と語るのが正しいように思う。トルイヨは、グローバライゼーションをそれぞれがばらばらの過程であると述べたが、また以下のようにも表現している。人々と空間(例えばインドネシア)を「その中においては、諸国家の理想がさらに似かより、増えつつある過半数の人々が、理解したり認識したりすることができないようにする手段ですらあるような消費の網」に結びつける「消費品市場の世界的統一」(同書、同ページ)。市場とそのメディアティックス - 人間生活における市場に対するメディアのパフォーマンス -は、バリの爆破犯が憎みかつ愛した「けっこうな暮らし」への欲望を体現、また誇示している(同書、同ページ)。テレビ、ラジオ、印刷物などの一般的なメディアは、未だにアメリカ、日本、香港、インドなどの他者に大きく影響を受けている。消費品の消費によって達成される「けっこうな」暮らしの社会的架空性は、インドネシアを新しく訪れた者の目にも、以前そこで時を過ごしたことがある者の目にも明らかである。このことは、反アメリカ主義以前に、私が会ったり新たに知り合ったりした多くのインドネシア人によって映し出された、非常に目につく圧倒的なイメージであった。   マス・ヤルトがその日の夕方早くにとった姿勢は、ある意味で同種の感情を反映しているとも言えよう。私は彼の前に座り、台頭しつつある「観察統治様式」の中で異議を唱えたり、彼の説に従ったりした。この「観察統治様式」の中においては、多彩な真実が近年において歴史的に固定的な解釈をされているが、友人、同僚としての生命を持った我々の歴史を侵略している。お互いを眺めながら、私達は共にたくさんの「どこか」-「伝達されメディア化されたどこか」について考え込んでいたに違いない。スピアーは、特定の場所に住む人々の実際の歴史を説得力を持って伝達するような「イメージ、語彙、サウンドバイツ(ほんの短いメッセージ)、スローガンそして軌道の混乱」とその特性を描写している(2000,28)。このことはマス・ヤルトにとってもその通りなのだろうとは思う。おそらくは尋ねてみるべきだったのだろう。が、ある夕べに私の感じた恐怖には、私の平静を乱す効果があった。 熱狂的信仰  同じように、これらの「同時代的メディア風景」は、コミュニティーのイメージ形成、いやもっと正確には、今日のインドネシアにおけるコミュニティーのイメージ形成にもまた影響を与えている。それは、今日の大変に重要な時期を迎えたインドネシアにおける、あまりにも多くの出来事、イメージ、活動、連想の一点への収束である。内部の人間も外部の人間も、インドネシア人が、おびただしい数の言い方でアイデンティティーや意見について表現しなければならない、レフォルマスィの能力と自由の表裏に注目している。アイデンティティーに関して言えば、ゲリー・ヴァン・クリンケンは、現在では「インドネシアでは、以前には公然と聞かれることのなかったエスニシティーに関する排他的な言説が」登場している、と述べている(2002、68)。ユダヤ人の血を求めたり、血というものは宗教的所属に生来的に結び付けられているという解釈を行なうことは、時勢の憂慮すべき兆候だろう。シーゲルは、「華人」というカテゴリーは、一部のインドネシア人にとっては「人種的カテゴリー」(「肉体的な特徴の遺伝」を意味する)に属すると認めている。彼はまた、インドネシア人は一風変わった人種差別主義の感覚を持っているとも述べている(1998,83,85)。彼によれば、「ヨーロッパの人種差別主義者」と「インドネシアの人種差別主義者」は、体現と同化の捉え方に関して差異がある。前者にとっては、脅威を感じさせるような何かを体現する他者の持つ要素に「耐え難い」。それに対しインドネシア人にとっての華人は、彼らが「よりよいインドネシア人」になろうとしない場合に脅威となる(同書、85)。   が、最近では、一人の人間が体現する耐え難い要素という概念は、民族的、宗教的紛争において顕著に根をはり出している。この小論の学会発表版において、私と同じ都市化したカンプン(村)でフィールドワークを行なった人類学者である私のパートナージャニス・ニューベリーは、何年かにわたって時折居を共にした家族の息子との会話について詳述している。 彼女の記憶するのは以下の通りである。  私は一家の長男と話しをしていた。彼は物静かで、家族を支えるため薬局で父親と共に長時間勤勉に働いていた。彼はとうとう結婚し、妻の家族の家に引っ越したが、最も長い時間を過ごしているのは、母の家だった。彼は口数が少ないのだが、彼が語る言葉は、結果的にはいつも言葉以上の重みがある。物事がどのように変わってしまったかを彼は語った。「ムバック(ジャワ語で年上の女性に対する呼称)、今じゃ子供ですら僕の手から金を受け取ろうとしない。僕はカフィールだから。」カフィールという語のこんな使い方は非常に印象的である。私はそれまでにこの言葉が使われるのを聞いたことがなかった。今では一人のカトリックが、小さな子供ですら自分に触れたがらない事実に接し、考え込んでしまっているのだ。これは非常に困惑的な瞬間であった。(Newberry and […]

Issue 6 Mar. 2005

選挙は水のようなもの

         選挙は水のようなもの。なくなって初めて恋しがられる。 戒厳令以前の暮らしの記憶のない圧倒的大多数のフィリピン人にとって、選挙は水のようなものだ。人間の身体にとっての水と同様、選挙は国家にとって不可欠であり、政治生活の必需品である。年配の世代にしてみても、選挙は水のようなものだ。しかし彼らの場合は、現在の政治文化を不毛の砂漠のようにとらえ、選挙のたびに国民が引き裂かれるおぞましい風景とは無縁だった、指導者と民衆の美徳によって彩られ理想主義がみずみずしく開花していた時代を懐かしむ。 選挙は水のようなものだ。川のように、票の激流があっという間に国を浄化し、どの政権にもみられる「アウゲイアス王の牛舎」(注:不潔あるいは腐敗した場所の意)を洗い流す。 1935年に行われた初の大統領選では、有権者の3分の1が投票しなかった。当時は読み書きのできる全男性に選挙権が認められており、選挙人登録をした人の数は150万人に上った。我々は完全な独立に向けた独立準備政府の発足を心待ちにしていたのだから、有権者たちが将来の国民国家の基礎作りへの参加に興味を示すにちがいないと思うのは当然のことだろう。ところが、実際にはかなりの数が興味を示さなかった。だが、その理由は驚くものではない。選択肢を見ると、大統領ポストに3候補者しかおらず、それもこの少ない人数の中で1人は圧倒的な人気を誇っていた。結果は目に見えていたし、万事順調に進んでいると思える時代だったから、有権者の3分の1は特に気にかける理由を見出さなかった。マヌエル・L・ケソンは68%の得票率で圧勝し、エミリオ・アギナルドとグレゴリオ・アグリパイはともに18%以下で終わった。1941年になると女性にも選挙権が認められたが、投票率はほぼ横ばいだった。つまり、前回と同様、3分の1は投票に意義を感じなかったということだが、この選挙では現職のケソンが81%もの票を得ている。 我々フィリピン人が羨ましいと思いがちな民主主義国家では、選挙人登録をした人びとの間で投票率が66%に上ることはめったにない。アメリカ合衆国の選挙は同国だけならず世界の情勢に影響を及ぼすにもかかわらず、投票する人はずっと少ない。フィリピンでは、平穏な民主主義の時代とされる戦前から、一票を投じるという過程に対しフィリピン人は大きな評価をし、今でもそう評価し続けるという我々の民主主義の特徴が明らかになっている。ただし、戦前は予想可能だった我々の政治的かつ国家的発展の姿は、第二次世界大戦という国民的トラウマの中における一連の衝撃と失望によって消えてしまう。 1941から1946年までの間、フィリピンにはマヌエル・L・ケソン、ホルヘ・バルガス、ホセ・P・ラウレル、セルヒオ・オスメニャ、マヌエル・ロハスという計6人の国家元首がいた。この5年間に、正当な大統領の座を巡って2人の指導者(日本に支持され本国に残ったラウレルと、米国の支持を受け亡命したケソン、その後にはオスメニャ)の間で争いが繰り広げられた。この時代、どちらの味方につくかはもはや政治的ビジネスではなく、血生臭いビジネスだった。「協力者」(注:collaborator、日本占領軍に協力したフィリピン人の意)ゲリラ、亡命中の役人に山にこもった役人、隠れたゲリラだというマニラ在住の役人に親日派を明言する役人といった具合に様々な人びとがいた。 今日知られているように、終戦と戦争のトラウマの後に初めて実施された国政選挙が、それ以降の選挙の舞台を設置した。投票が生きるか死ぬかの問題となってしまってからというもの、戦前に注意深く育成された政治的な美徳の見せかけの維持は、もはや困難だった。大戦前、選挙は人々が自分たちの指導者を指名するという神聖な面を持っていたという意味で、水のようなものだった。一方、大戦後には、選挙は汚れを流し落とす手段だけではなく、生き残るために必要不可欠なものとなったという意味で、水のようなものだった。引き裂かれて分裂してしまった有権者、ゲリラ、偽のゲリラ、本物の「協力者」で不当に告発された者、日本の銃剣を後ろ盾に不動産を避難させた者(自分の身の可愛さから今は米国にしがみついているが)、不満の募った農民―置かれた状況は異なるが、みな生き残った者たち―が選挙の結果に多大な関心を寄せる事態となったのだった。 1946年の選挙では、本物のゲリラ、過激派、そしてケソンが国政を支配していた20年間に遣り込められていた指導者らが、ついに自分たちの時代が到来したとして必死に戦った。ロハスの後ろで陣を張ったのは、孤児のようになっていたケソン派の政党員だった●。ゲリラと「協力者」の両方がいたが、なかでも特に重要だったのは「協力者」だとして告発されていた者たちであり、彼らにとっては政治的生き残りが名誉回復と復権への唯一の道だった。選挙では両陣営とも、極貧状態に陥っていた国民の人気取りに必死になった。国民はというと、独立に興奮と恐れを同時に感じながらも、戦前に注意深く組み立てられてきた発展がついに実を結ぶのが1946年だと信じ込まされてきたが、実際には独立とは死と腐敗が悪臭を放つ廃墟の上でたなびく旗のことだと知らされたのだった。 戦争により人びとは殺され、インフラは廃墟と化し、理想は痛ましくも空洞化し、文字通り「乾きあがった」国民は選挙を水のようなもの、そして水を求める喉がカラカラに乾いた人々の戦い、それも必死の戦いだと考えた。1946年に圧勝した候補者はおらず、単独過半数を得ただけだった。また、票の買収、不正操作、選挙がらみの暴力は以前では考えられないレベルに達した。1949年になると、こうした状況はさらに悪化し、エルピディオ・キリノが死人を眠りから起こし、植物や動物まで動員させて投票させ勝利したという悪名高き話は世界中に衝撃を与えた。しかし1953年、カリスマ性を持ったラモン・マグサイサイが、ケソンが1935年に記録した得票率68.9%を破って当選するという、待望の大洪水が起った。 ところが、マグサイサイは1957年にこの世を去った。彼の後継者であるカルロス・P・ガルシアは7人の候補者の中で、わずか41.3%の票を取得することで選ばれた。相対多数を得た者が選挙を制したことで、ここに今日のフィリピンの政治制度が生まれた。この国は、勤勉さと巧みな策略を駆使したケソン、また天賦の才能とカリスマ性を兼ね備えたマグサイサイのような指導者たちがいつも支配するわけではない。ほとんどの政治家は平凡でひねくれ者だが、かといって非常にずるがしこくはない人たちであり、必ずいつも輝く人がいるというのは不可能である。 加えて、政治家は控えめで大衆の気を引くような行動をとることは好ましくないと有権者が考える時代は終わった。さらに、政治家の間では、疲れきった、ある意味、道徳的に破綻した戦前派の世代から、戦争に実際に加わり、その後成長した若く生意気な世代へと、嗜好や期待するものの変化がみられた。さらに加えて、政党ごとの組織票などの、ケソンが注意深く設置しマグサイサイがその人格の力で動かした大統領の権限や組織マシーンは着実に衰退した。その結果が次のようであった。 ガルシアは、彼の先任者たちが当たり前のものとしてきた基本的な支配のレバーをもぎ取られた大統領だった。政党マシーンによって生み出され育て上げられた大統領だったが、その党員は政党志向の投票の防波堤だった組織票を既に無くしていた。キリノの横暴な性格と、その裏腹の微々たる政治的ギフトへの反応として始まった潮流の一つ、大統領の特権から地方自治体の任命が徐々に剥奪されるという過去の遺産を背負った大統領でもあった。また、彼は古いスタイルの政治家だったが、それ以前にマグサイサイが手下をとおして投票者に指示を与えて選挙に勝利するという古い政治家のスタイルを崩してしまっていた。スペイン語を話し、古い形式にのっとって就任した人だったが、有権者はマグサイサイ式のバロンタガログを着て登場する素朴なタイプを好んだ。この有権者はまた、芸能アイドルという資格しか持たないロヘリオ・デラロサを上院まで送りこんでいる。その一方で、投票した人たちはガルシアに大統領としてケソンやマグサイサイのような自信に満ちた態度と風格を期待した。 問題は、ガルシアはこれら2人のようではなかったことである。自らが言っていたように、彼は「馬鹿ではなく」、じっさい彼や彼の後任はしばらくのあいだ、残された権力のレバーを握って大統領職まで上り詰めるという賢さを披露した。 したがって、投票者と大統領を志す政治家の双方の間でみられた、大統領という地位に対する一般的な見方は、過去の大統領の実物大以上の人物像と比べて、現職の大統領たちが(試みはしたものの)それと同等の権威と有効性を用いて行政力を行使できない苦しみを経験した。法のもと、制度のもとに、そのための手段がなかったのである。にもかかわらず、投票者の間の期待は変らず、政治家の間の野望も変らず、さらに選挙に対する人びとの関心は1946年以来高いレベルにとどまり、特に流星のごとく登場したマグサイサイの後は熱狂状態だった。ガルシアは、キリノがマグサイサイに負けたときとほぼ同じ理由によって、ディオスダード・マカパガルにその座を奪われた。しかし、悲しくもマカパガルには行政力を執行するだけの実力が身についておらず、1965年、しかるべく彼はフェルディナンド・E・マルコスによって押しやられた。マルコスは、渇望していた権力にたどり着き、手にした地位を放さないためには、制度をすべて壊すしかないと心に決めた。 1969年、マルコスは大統領選では歴代4位の61%という高い得票率を掲げて、史上初の再選を果たした。ちょうどケソンが行政支配をやり易くするために制度を変革したように、マルコスも変革に着手したが、彼の場合はもっと大胆だった。このインフラ重視の大統領は選挙をダムととらえた。つまり、政治支配を集中させる手段であり、自分のクローニーの畑は灌漑で潤し、敵の土地には何もせずに干し上がらせ、自然の流れさえ変えられるという圧倒的かつ不屈の意志を持つ、まるでファラオのようなイメージを人びとに与えるものだった。 「新社会」というマルコスが構築した湖の水は、ドロドロしていて、浅く、汚染されていて、臭いことが判明した。1986年、ダムは決壊し、もっと自然な水の流れが戻ってきた。コラソン・アキノは公式選挙結果では敗れたが、きちんと集計されたところでは勝ち、それは彼女の支持者や世界の目にはモラルの勝利として映った。選挙を取り戻す、言うなれば、選挙を渇望する国民に水を持ち帰ることについて―たとえそれが自分の夫が成し遂げようとしたものであっても―アキノは最初から、恥かしがり屋の未亡人として、政治的激動期における国家再建の中心的役目を果たすことについては乗り気でない様相を見せていた。 コリー・アキノは選挙、実のところは国民投票によって権力の座に着き、彼女は選挙/国民投票を正当性の維持の要に用いた。 ところが、ガルシアの選挙のときに姿を現した、政治制度の発展―または未発展―の段階が、復讐をするかのようにフィデル・ラモスの時代になって戻ってきた。ラモスは、我々の選挙史上で最低の得票率(28%)で当選するという記録を作った。彼の成功は、選挙を大統領統治のための正当性だとする考えに悪い影響を及ぼした。エドサ(注:ピープルパワー革命)後の策略で重要になったことは、人気でもマシーンでもなく(彼の対抗馬らはこれらを兼ね備えていた)、少ないものから最大の効果を発揮させるという戦略的優位性である。ラモスは、他の候補者よりも不人気の度合いが低かったという理由で、国民の多くに拒否されながらも、大統領の地位にたどり着いた。ラモスの任期後、ジョセフ・エストラダが圧勝のような形で大統領になったことは驚きに値しないが、その圧勝とされる状況はじっさい、ガルシアと他の候補者との間の得票差よりも健全だったとは言えない。ラモスとエストラダは少数派の大統領だったのであり、様々な期待に応じるには制度的に無理があった。それと同時に、有権者の方はますます分裂し、失望し、絶望した。人びとの好みとマスコミの変化によって、ジョセフ・エストラダはロヘリオ・デラロサの後継者になった。 ラモスの巧妙なずるさと部下を操る長い経験をなくして、エストラダは権力を維持するには不適当であることが明らかになった。一方、彼の副大統領となったグロリア・マカパガル=アロヨは、エドサ後に初めて過半数に近い票を獲得した(注:フィリピンでは大統領と副大統領を別々に選ぶ)。これによって、彼女は自分がエストラダの後継者だと十分認められ動き出す権限を手にしたのである。エストラダがマラカニアン宮殿から逃げ出したとき、(長い話を簡単に言えば)アロヨはすばやくそこに乗り込んだ。とはいえ、この一連の過程は、正当な継承者、つまり炎を受け渡される明らかな後継者として次期大統領が歴史的に味わうことができた自然な特権を否定されるという特異な状況下で行われたのだった。 2004年大統領選のキャンペーンは正当性の追求だった。正当性はエストラダが指名した候補者によって失われ、また現職もまだ獲得していない。不信任をつきつけられ拘置所にいる指導者に依存した候補者や、自分自身も拘置所へ行くべきだとの申し立てでひどく傷ついた現職のほかにも候補者がいたが、彼らも正当性を追求した。ところが、熟成中の一つの政治文化が2人の最有力候補と選挙戦の影を薄くしてしまった。この政治文化は、1960年代に生まれ、1970年代に暴力的になり、1990年代に道徳的に破綻したのだが、指導者も指導される人たちも1980年代の信頼できる選挙を復活させようとバラ色の眼鏡をかけて見ている。水があるように、選挙はある。しかし、国の合理的な、熟考した計画の一端としてではない。乞食の民衆に感謝の念を植え付けるための施しのように、投票を水のように見なす指導者の考えにぴったり合うから存在するのである。 少なくとも3分の1の有権者が投票しなくなる日が来るにちがいない。選挙の結果がどうであれ、重要なことは問題になっていないのだから。1946年以降、この問題は重要であり続け、それゆえ、選挙のたびに汚職が国の重要懸案に挙げられている。大多数にとって何が問題なのかというと、文字通りに水そのものが彼らの物として飲め、水浴びに使える生活、バランガイ(注:近所の地域)ごとに一つの蛇口とかゴミの溜まった水路とかいった具合には計れない生活、そういう生活を望むということなのだ。 選挙は水のようなもの―喉の乾いた人たちにとっては必需品であり、それを支配したり所有する人たちにとっては権力の根源である。選挙は水のようなもの―それぞれの人にそれぞれの意味がある。選挙は水のようなもの―少なくとも我国のように、どのバランガイの人たちも飲み水のために何時間も待ったあげく、濁って悪臭のするものしか得られない現実のなかで、上流階級の家々にあるプールの存在が恥を象徴している。 マヌエル・ケソン三世 Manuel L. Quezon III is a columnist and contributing editor at […]

Issue 5 Mar. 2004

地形をマッピングする: マレーシアにおける知識のイスラム化政策と文化

         Georg StauthPolitics and Cultures of Islamization in Southeast Asia: Indonesia and Malaysia in the Nineteen-nineties『東南アジアにおけるイスラム化政策と文化: 1990年代のインドネシアとマレーシア』Bielefeld / Transcript Verlag / 2002  Mona AbazaDebates on Islam and Knowledge in Malaysia and Egypt: Shifting Worlds『マレーシアとエジプトにおけるイスラム教と知識に関する議論: 移りゆく世界』London […]

Issue 5 Mar. 2004

女性とイスラム教と法律

         Hjh. Nik Noriani Nik Badlishah, editorIslamic Family Law and Justice for Muslim Women『イスラムの家族法およびイスラム女性のための正義』Malaysia / Sisters in Islam / 2003 Gender, Muslim Laws and Reproductive Rights『性、イスラム法および生殖に関する権利』Davao City / Pilipina Legal Resources Center, Inc. / 2001 […]

Issue 4 Oct. 2003

フィリピン経済に対する評価

         この報告で論ずるのは、フィリピン経済が持続的に成長するのではなく、周期的に成長と停滞を繰り返すのはなぜなのか、そして停滞を招く要因は何なのか、また多様な経済部門とあまり考え抜かれてはいない成長戦略が経済成長にどのような効果を与えているのか、雇用におけるジェンダーの影響、そしてフィリピンの天然資源と環境の状態である。経済成長に周期性がみられることと、収入が上下することは、マクロ経済レベルでの支出傾向や、選挙政治の性質、地方の発展にだけ関係があるのではなく、1980年代以前の大して考え抜かれていない成長戦略が長続きしないことや、現在の自由化戦略に限界があること、そして国の天然資源と環境の状態にも影響をうけているのである。 経済成長の周期性 一人当たりのGDP成長率で測ってみると、60年代以降、経済は75年から82年までの7年間をのぞいて、4年から5年ほどの短い成長サイクルを6回繰り返してきた。経済が停滞することで、財政面では負債が増大し、収支バランスと国際通貨準備上の地位が悪化し、民間投資の低下を招いた。投資が落ち込むことについては、前年度のGNPと通貨価値、国内の信用が低下していること、利子率が高いことなどが密接に関係している。投資は大統領選の前年にも落ち込んだが、これはGDPがより低くなることが予想されたからである。政府の支出が増大することと民間の投資が低下することは、経済の停滞を解決するとも考えられてきたし、引き起こす原因であるとも考えられてきた。 83年から85年にかけての政治経済上の危機は、それ以前と以降の経済成長を分ける分水嶺となっている。成長率がマイナスであった時期を除けば、82年までは一人当たりの実質所得が絶えず上昇してきた。しかし、86年以降は成長率が頻繁にマイナスになるため、所得の上昇は遅々として進まなかった。結果として一人当たりの実質的なGDPが、82年のピーク時の状態に戻るのに20年もかかってしまった。85年以降の経済回復が遅々として進まず、経済状態自体もよりいっそう不安定になったのは、政治体制が変わるごとに経済成長戦略が政治上の争いを伴って変更されたことと、自然環境と天然資源に限界が訪れたことを反映している。 80年代以前、経済成長に刺激を与えてきたのは、通貨価値を過剰に高く維持し、関税保護をかけ、政府の援助を与えることで輸入代替産業を補助してきたことと、天然資源と農産物の輸出であった。しかしながら、80年代までにこの成長戦略は機能停止に陥った。鉱業を除く天然資源部門と農業部門が産業発展の源を提供することを困難にしたのは、森林と漁業資源が枯渇し、比較的低開発であった農業部門が安い食料と新しい輸出品を提供できなかったためである。さらには、政府がインフラ投資と成長を維持するために海外から借り入れと赤字の財政支出をおこなったことが、通貨価値が過大に評価されていたこととあいまって、徐々にインフレを引き起こし、社会コストがかさむ状況を生み出した。このような中で80年代初期までには、新しい成長戦略が絶対的に必要となっていた。 83年から85年の政治経済危機と国内の天然資源の枯渇は、経済政策のフレームワークとして世界的に自由化が重要性をましてきていたことと一致した。外資を導入して輸出志向型産業の設立促進のためにフィリピン政府が自由化を採用したことが、80年代以前の保護主義的な経済政策からの主要な転換であった。しかしながら、これは上手く機能するために必要な制度的な調整を欠いた危険な転換であった。  環境悪化の中でのサービス業部門主導の経済成長そしてさえない農業 近隣諸国と異なり、フィリピンは70年代以来安定した高度成長期を持ったことがない。成長が周期的で不安定であったのは、先に述べたようにマクロ経済と政治が不安定であったことに加えて、特定部門の成長パターンが低く不規則であったこと、80年代までの戦後の成長戦略が無思慮かつ不安定であったこと、そして現在の輸出志向型の産業化戦略に限界があることなどに起因する。 サービス業部門はもっとも安定した成長の源泉であった。しかし、穀物部門の成長率が低かったことと、林業、漁業、工業部門の成長が不安定で凋落傾向を示していたことが、経済の潜在的な成長を妨げてきた。農業がふるわないのは、不効率であるというばかりではなく、森林を非生産的な森や薮、農地に転換してきたことも原因である。移住が急速かつ無制限に行われ、それに付随して道路建設や採鉱、高地栽培が進み、そして木が伐採されて裸になった川の流域を修復し損ねたことにより森林は荒れていった。そして森林の荒廃により、気候状態や降水量、川の流量が変化し、森林が持つ水を蓄え、土が流れ出さないようにする力と、堆積作用が減退し、結果として灌漑や水力発電機能が低下し、収穫と収入も減少することとなった。 環境破壊は貧困と移住に密接な関係がある。森林面積が急激に減少し、農地が占める割合が増加したにもかかわらず、灌漑された農地が少ない地方は、貧困状態にある家庭の割合が非常に大きい。こういった地方では、貧困や農業部門・林業部門以外に雇用機会がないことが外への移住を引き起こしてきた。地方からの移住者は好んで高地や海岸地方、都市の中心部へと移っていった。しかしながら、こういった場所への急速でむやみな移住は環境に破滅的な効果を及ぼした。 典型的な例として、魚に対する需要が急激に伸びたので漁師や町で漁業を営む人の数が増え、魚が乱獲された結果、70年代後半から80年代の初めにかけて漁業資源が枯渇してしまったことがある。そして漁業資源の枯渇は、一回の漁での漁獲高が減少し、儀装を転換できなかった漁師の貧困化を導くこととなった。養殖は90年代に新たな成長の源泉を提供したが、マングローブの減少や沿岸部に土砂が沈殿したこと、湖や川が汚染されたことにより、その持続的な成長は脅かされている。漁業資源が枯渇し、漁師の貧困化が加速しているだけでなく、移住してきた人がスラムを形成するために、沿岸地域はいまや貧しい地方からの移民に対するセーフティーネットとしての機能を低下させている。  90年代、農業、産業部門に対してサービス業部門は比較的安定した成長を続け、比較的大きな雇用機会を生み出した。しかしながら、そのような機会を活かせるのは主に首都圏やコルディレラ自治区、南部タガログ、ヴィサヤ中央部に限られたものであった。また雇用機会は男性に比べて女性のほうがより高いように思われる。女性はコミュニティーや社会、そして個人に対するサービス、卸売りや小売に主要な役割を果たしており、女性労働力の約50パーセントはこういった業種で占められている。以前は地方の非賃金家族労働者であった女性が、いまや移民として都市サービス産業の余剰労働力のとりわけ重要な源泉となっているのである。 サービス業部門の成長は銀行や金融機関への外資の流入、海外からの送金、そして都市の人口とマーケットが拡大した結果である。地方の農業と製造業がふるわないために、下層中流階級に属する人と貧しい地方からの移民が都市の中心部で増加した。その数はあまりに膨大であり、とても公的なサービス業部門で吸収することが出来なかった。その結果、インフォーマル部門市場が拡大し、スラム人口が増大することになった。 サービス業部門への雇用の増加は、小数従業員にごくわずかな給料を支払って運営される企業が増えていることに対応している。これは規模が小さいほどサービス業部門に比較的参入しやすいこと、インフォーマル部門が成長していること、そして労働者が90年から92年にかけて失業と不完全雇用を経験したことを反映している。活動の幅を広げ規模を小さくすることで、インフォーマル部門が失業者と不完全雇用者を吸収し、他の部門や地方での限られた雇用機会を補完するという姿は、ギアツが述べたインボリューション・プロセスが進行しているように見える。 サービス業部門が先導する成長にはいくつかの限界がある。ひとつには他の経済部門を成長させることができないということである。また都市に集中するサービス業部門の孤立性は都市環境の悪化を促進した。都市が経済的に繁栄し、より多くの人を惹きつけるため、莫大なエネルギーと水資源が消費され、ごみが発生し蓄積されることとなった。このような事態を予想し適切な保護を打ち出すことが全くなかったため、都心はいまや地下水が枯渇し、沿岸部では地盤が沈下し、ごみが散乱して、大気汚染と水質汚染が進み、人々の健康が蝕まれていくという問題に直面している。 製造業と外資、自由化の限界 外資導入と同時進行した、産業保護から自由化政策への転換は残念なことに期待されたような恩恵を製造業部門にもたらさなかった。外資の大部分が90年代前半は化学や化学製品、食品に、96年には機械、器具、電化製品、生活必需品、非金属鉱物製品に流入したにもかかわらず、雇用機会や輸出能力はたいして増大しなかった。 82年から98年にかけて、特定の産業では雇用が純増した。これは、これまで大規模産業であった繊維、ゴム、ガラス、木材製品、製陶業の規模が縮小したために雇用が減少したのに対して、電子工学や科学的・専門的な器具製造産業の規模が拡大し、雇用が増大したためである。また皮革、プラスティック、非金、合金、機械といったいくつかの小規模産業でも雇用は増大した。食品加工やアパレル産業でも比較的雇用機会は大きくなった。こういった増加にもかかわらず、過去16年間の雇用の純増量は大したものではなかった。平均して、毎年新しく生まれる就職口はたかだか30,511であった。これは98年の新規労働人口1,013,000人のたかだか3パーセントに過ぎない数である。それゆえ、部門毎の雇用割り当てを改善し損ねたといえる。 外資は食品加工産業の輸出向け製品にもたいした貢献をしなかった。むしろ外資は国内都市市場向け製品により集中した。輸出向け製品への投資は主に電子光学産業に集中した。機械部品といった関連商品の生産と共に、電子工学製品は90年代の商品貿易全体の拡張に貢献した。実際、商品輸出のほぼ70パーセントを電子工学製品が占めていたのである。残念なことに、製造や貿易のなかで電子工学製品の輸出が主要な役割を果たしたことのよってもたらされた経済効果は限られたものであった。重要な部品を輸入する必要があるので、電子工学製品は付加価値産業や純貿易余剰に対して実質的な貢献をなさなかった。また、他の産業から孤立した生産形態をとっているために、フィリピン経済全体にほとんど結びつくことがなく、成長にも微々たる貢献しかなさなかった。さらには、仕入れという名目で部品を輸出入することにより、資本の逃避が生じていた可能性もある。 貿易自由化による恩恵は農業部門でも限られた物であった。農作物輸入の増加はGNPに対する輸入の割合が高くなるということと、価格の低下を招いた。消費者には恩恵があったわけだが、安い農作物の輸入は国内の農業生産者に有害であった。安い外米も国内のコメ生産の比較優位をなくしてしまった。 失業を別として、貿易自由化は農業部門の不公平を際立たせてしまったかもしれない。大規模生産者のように規模の経済を達成することも出来ず、公的な資金貸付にも市場にも接触機会が限られている小規模生産者は、金融業者に依存せざるを得ず、作物を廉価で売らざるを得なかった。そのほか、所有権を確実に主張できるのかどうか、灌漑、肥料にたいする助成金やインフラ投資、そして近年はMAV (the Minimum Access Volume) 輸入から生み出された基金などにアクセスできるのかどうかについての差が不平等を生み出している。小規模生産者に対するセーフティーネットという意味があるにもかかわらず、MAV輸入から集められた歳入にアクセスしやすいのは大商人の方で小規模生産者の要求に対しては厳しすぎるという批判がある。 貧困と貧困緩和対策の限界 経済部門や産業に歴史的に栄枯盛衰があるため、解雇されたりはじき出されたりして有給雇用につくことが出来ない家族や集団があり、その中から国の貧困層の中枢をなす集団が生まれてきた。それは次のように分類することが出来る。  木こりや抗夫、低地からの移住者によって内陸へと押しやられた、高地にもともと住んでいた人々のコミュニティー。 食糧生産者として高地に再入植したもとの伐木搬出労働者。 漁獲高が減少した、もしくは昔からの漁場を商業漁業によって荒らされ、よりよい漁場を見つけ出したり移住していくことが出来ない町の漁師。 砂糖や材木といった経済的に凋落した部門や産業から解職され高地や沿岸部に移住した農業や非農業労働者。 カガヤン峡谷やビコル(Bicol)、ヴィサヤ東部、ミンダナオといった農業が立ち遅れ、干ばつや自然の大災害、気候状態の変化などにさらされている地域の農家。 十分な水がないか適切な灌漑システムがない、もしくは農業生産そのものが凋落している地方の農民や農業労働者。 […]

Issue 4 Oct. 2003

マレーシアの華人企業: 危機を生きのびたのは誰だ?

         1997年のアジア通貨危機がマレーシアの華人企業にどのような影響を与えたのか? 生き残れたかどうかを決定する重要な要因は規模や業種、負債をかかえているのか、そして多角化の形態であった。建設業、不動産業、製造業部門に主に携わっていた大企業は莫大な負債を抱え、その多角化プログラムは投機的でローンによって賄われており、そのほとんどは危機によって深刻な打撃をうけた。上場株を手に入れたり、金融部門に進出したりした企業も深刻な影響を受けた。このなかには株価を上昇させ、売却する際に莫大な利益を得る目的で狙いをつけた企業の株を大量に買うことで知られていた「荒らしや集団」も含まれている。 危機を乗り越えることが出来たのは慎重で、運営と拡張の際は入念に選択して決めるような企業であった。このような「弾力のある」企業は4つの特徴を持っている。1つめは製品を製造したりサービスを提供したりする「実際の」業務に携わっていること。2つめは通貨危機にあまり左右されない経済分野に関わっていたこと。3つめは大半が手を広げすぎず自分の主要なビジネスに集中していたこと。そして最後に多くの企業が、十分な資産の後ろ盾と貸付にまわせるほどの収入を持ち、利益を蓄えとして保持することで、手足を縛るような負債を避けていたことである。弾力ある企業の中にはマレーシアの外に重要な投資先を持つものもあり、通貨の切り下げから守られていた。しかし香港やヴェトナム、カンボジアに保有していた重要な資産を失ったものもいた。 華人の小・中規模企業(SMEs)はかなり生き残った。彼らが負債問題を回避できたのは皮肉なことに、かなり早い段階で銀行の融資を受けにくくなっていたからである。ある種の小規模企業は通貨危機によって生じた2つの要因によって実際に恩恵を受けた。1つめの要因は、原料や機械、部品を輸入に依存している企業の中には辛酸をなめたものもいたが、マレーシアのリンギットの切り下げにより国際市場の中でマレーシア製品が競争力を得たことである。2つめは、インドネシアの政治経済が不安定であり続けたことにより、多くの多国籍企業が運営先をマレーシアに振り替えたことである。SMEsが重要なのは、製造業がいまだマレーシア経済の最も重要な部門であり、多くのSMEsが地元の華人企業を含む大規模産業と製造面でつながりを持っているからである。 アジア危機は東南アジアの華人企業の強さだけではなく、その失敗も分析すべきであることを認識させた。失敗の多くは経営のミスや製品の質の低さ、技術の低さ、技術革新の欠如、過度の借り入れ、そして様々なビジネスに手を広げすぎたことに起因している。通貨危機は華人が自らの企業を発展させる上で利用するビジネス形態の多様さを明らかにし、東南アジアの華人企業の強さと弱さは本質的に構造的なものであることを示したのである。  Lee Kam Hing and Lee Poh Ping Translated by Onimaru Takeshi.Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 4 (October 2003). Regional Economic Integration

Issue 4 Oct. 2003

フィリピン人移民労働者、東南アジア域内の労働循環、そして海外移民プログラムの運営(とその失敗)

          ここ数十年、海外で働くフィリピン人労働者 (overseas Filipino workers:以下OFWs) はフィリピン社会と経済の中で重要な部門となった。彼らからの送金が歳入の重要な源泉となっているため、政府は以前はOCWs (overseas contract workers) と呼んでいたOFWsを国の新しいヒーロー (mga bagong bayani) と認定した。OFWという言葉には海外で働いているフィリピン人の様々な集団が含まれている。移民や、文書で契約を結んだ労働者もいればそうでない者もいる。統計上、彼らは移民でOFWsであると分類される。1999年の統計によれば移民は280万人でOFWsは420万人いることになっている。そして420万人の内、240万人が文書で契約されており、180万人がそうではない。そして、大半が男性である海で働く労働者と、女性の比率がますます高まっている陸で働く労働者というように、OFWsは統計上さらに細かく分類されている。進行しつつあるフィリピン人労働力の拡散の中で女性の比率がますます高まっていることと、政府が積極的に海外への労働力移動を促進していることに本稿は焦点を当てる。 海外に移住した労働者の運命はフィリピン人の国際移動の性質が変化しつつあることを示しているとメディアは報じている。統計から確実にいえるのは、ますます女性が移動の主流となり、志向する業種もサービス業が増加してきているということだ。フィリピン人の労働力移動も、ASEANというより大きな文脈の中で起きている労働循環の枠の中で生じている事象である。ASEANの中で職を求める人々は、ますます国境を越えて移民を受け入れかつ送り出している特定の国々へと渡っていく。注目すべきことは比較的発展が遅れている国から来たアジアの女性が、地域の中でより発展が進んでいる国のなかでみじめな家事活動をますます引き受けつつあるという傾向である。例えばフィリピン人やインドネシア人の女性労働者はより繁栄しているマレーシアの中で家事労働部門に携わっているのである。サービス産業の中での彼女たちの「価値」は平等でないにもかかわらず、搾取の経験は似たようなものである。中東諸国で働くフィリピン人とインドネシア人の女性家事労働者に、広範に見られるような虐待経験は同じように比較することが出来る。労働力輸出プログラムの様々な時点で、どちらの政府も虐待癖のある雇用者から彼女たちを守るべく、労働者の配置にモラトリアムを設定しようとしてきた。 移民虐待問題の衝撃と女性の移動が増加し続けているということが国際社会の注意をひきつけることとなった。女性移民問題に対する国際的な関心は次の二つの形態をとった。1つは国際的な保護を促進することであり、もう1つは西洋諸国で女性移民の様々な側面についての研究がなされたことである。 国連加盟国の中で関係のある国は、国際レベルで移民の権利を保護する保証を作り出すべく抜け目なくロビー活動を行ってきた。国際労働移民に関する数少ない法的に拘束力を持つ文書の1つに、全移住労働者とその家族の権利保護に関する国際条約があるが、この条約が国連で1990年に採択されるまでに10年以上におよぶロビー活動が必要であった。学問の世界では、西洋に拠点をおく学者たちがフィリピン人移民がいかにして異境の生活で生じる感情的な負担を克服するのか、またどのような仕組みで彼らが毎日の「抵抗」を実践しているのかを研究している。たとえ散漫なものであろうとも、この研究はグローバル化が実生活に及ぼしている影響を分析するのに貢献するものである。  Odine de Guzman Translated by Onimaru Takeshi.Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 4 (October 2003). Regional Economic Integration

Issue 4 Oct. 2003

東南アジアの人身取引に関する最近の研究

           The Migration of Thai Women to Germany: Causes, Living Conditions and Impacts for Thailand and Germany (タイ女性のドイツ移住:理由、生活条件、タイとドイツへの影響)Supang Chantavanich, Suteera Nittayananta, Prapairat Ratanaolan-Mix, Pataya Ruenkaew and Anchalee KhemkrutBangkok / Asian Research Center for Migration, Chulalongkorn […]

Issue 3: Nations and Stories Mar. 2003

国民主義者によるインドネシア史「改革」

         政治的操作からの相対的自由は多くの学問上のプロジェクトが健全に発展するための必要条件である。それはとりわけ、操作されることで多大の影響をうける歴史の記述に当てはまる。スハルト体制が崩壊しその下で行われていた多くの政治的制約が過去のものとなった今、インドネシアで現に行われているようなインドネシア史記述の発展に、スハルト体制の崩壊がどのような意義をもつのか、問うべき時だろう。 かつて植民地であった多くのところで発展した歴史記述と同様、インドネシアの歴史記述もきわめてはっきりと、かつ強烈に国民主義的なものであった。インドネシア中心主義(Indonesiasentris)として知られている、ナショナリストによる歴史編纂が主張するのは次のようなことである。それは、歴史を書くという行為全体の主要な目的と(もしくは)その最終的な成果は、意図したものであれそうでないものであれ、国民国家としてインドネシアが合法的に存在することを承認し、正当化するものであるということだ。このプロジェクトの中心にあるのは、そのような実在(インドネシア)に一致すると思われる国民的アイデンティティを創出し、維持し、促進しようとすることである。 この論文はインドネシアの国民主義者による歴史編纂の中で見られる明白な改革への兆候を確認し、そこに焦点を絞って記述しようとする。ポスト・スハルト時代のより自由な雰囲気のなかで、昔からのインドネシア史記述をみなおし、長い間、そういうものとして受け入れられてきた枠組み、そしてその中で歴史の書き直しが行われるであろう枠組みを再検証することができるようになっている。私のみるところ、そこでの要点は、改革の中でこれまで新秩序と密接な関係をもっていた歴史記述がパージされつつあることにある。改革主義者は従来の政治中心の叙述的歴史を捨て、サルトノ(Sartono)によって切り開かれた社会科学の手法の妥当性を支持し、いくぶんためらいながらも、歴史記述全般においてインドネシア中心主義が必要かどうかを問う段階へと移りつつある。改革主義者はインドネシア中心主義を、「国民的」なものを促進し定義するという従来の役割から解放し、そしてこのようにして歴史記述を、国家・国民のプロジェクトの重荷から解放しようとしている。改革は未だ初期段階にある。そのため、最近出版された論文、あるいはいまから出版される論文、ガジャマダ大学(UGM)で開かれた一連のワークショップ、そして改革主義を奉ずるインドネシアの歴史家数人へのインタビューをもとに、私はいまおこりつある改革の特徴を理解し、それが向かうであろう方向を推測しようとした。 Rommel Curaming (Translated by Onimaru Takeshi.) Read the full article (in English) HERE Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 3:  Nations and Other Stories. March 2003

Issue 3: Nations and Stories Mar. 2003

「マレーシア」とは何か

         Cheah Boon KhengMalaysia: The Making of a Nation[マレーシア: 国民の形成]Singapore / ISEAS / 2002 Farish A. NoorThe Other Malaysia: Writings on Malaysia’s Subaltern History[もうひとつのマレーシア:マレーシア・サバルタンの歴史]Kuala Lumpur / Silverfishbooks / 2002  改革運動(reformasi movement)とアンワル・イブラヒム裁判、政権政党UMNOの正統性喪失、イスラム主義者の世俗的開発主義国家に対する異議申し立ての拡大など、近年、マレーシアで起こっている事件が国民の物語に重要な「配置転換」をもたらし、国民国家の基礎と定義に再考を促している。ここでとりあげる2冊は、そのスタイル、目的、対象とする読者においては非常に異なるとしても、上に述べたことを主題とするものとして、これまで国家、あるいは学問上の実践を通じて作り上げられてきた強力な政治・社会上の言説に大いに関わりを持つものとなっている。 Cheah Boon Khengは選挙の政治、首相、国家政策に焦点を絞ることによって、実のところどのようにして国民が進化してきたのかを明らかにする。Cheahはマレーシアを「ギブ・アンド・テイク」のプリズムを通して分析し、マレー・ナショナリズムとより広い意味でのマレーシア・ナショナリズムとの間に存在する緊張について考察する。彼の議論の要点は、マレーシアの4人の首相はそれぞれ「最初は排他的なマレー・ナショナリストとして出発したものの、結局は包括的なマレーシア・ナショナリストとなった」というものである。(マレーシア)国民の歴史の中でこのことが4回おきたということ、これは国民国家がそれ自身の論理を発達させてきたことを示している。Ketuanan Melayu (マレー人の政治的優位)は定着しているが、この論理によって抑制されている。Cheahの本は、多文化的で寛容なマレーシア、という一つの現実を主張するものである。 […]

Issue 3: Nations and Stories Mar. 2003

Pantayong Pananawとは ~解説、批判、新傾向~

         Pantayong Pananaw(「我々から我々のために」というパースペクティブ、以下PP)についてのこの小論は、フィリピン社会科学の歴史に大きな影響を及ぼし、論争を呼んだ知的傾向を、予備的に俯瞰することを目的としている。PPは1970年代後半、フィリピン大学においてZeus A. Salazarを中心とするフィリピン人歴史家の「国粋化」運動として始まった。この運動は本来の1950年代から70年代にかけてフィリピン史記述における主要なパラダイムであった初期の親米的伝統と、それに反対する国民主権的伝統、その双方か決別するかたちで形成された。それ以来、PPはしだいに社会科学と人文科学の他の分野においても哲学的、方法論的に影響を及ぼした。PPの実践者は、その文化中心的国粋化運動には当り前のこととして、国語であるフィリピン語をその言語として使用する この小論はPPを分かりやすく説明することを目的とするものではない。この小論はその代わりPPに関わるいくつかの主要な方法論上の論争を概説し、同時にフィリピンの社会科学における他の「国粋化」傾向に対するその理論的、実践的優位について示したいと思う。その主要な論点の一つは、PPの代表的作品の特徴である圧倒的に文化的(もしくは内向きの)解釈学的方法と他の社会科学方法との位置関係に関わる。「土着主義者」、「本質還元主義者」といったPPへの批判もまた簡潔に考察される。この小論の主要な目的の一つは、いまフィリピンの社会科学の中でおこっている最も重要な「国粋化」傾向のひとつについて、近年どのような議論が行われているか、そしてその水準と複雑さについて、たとえ不完全にではあっても読者に伝えようとすることにある。フィリピンの社会科学とフィリピン「人民」の間にあるラディカルな断絶を国語を使用することによって克服し、対話による相互作用が出来るような別の場を創り出そうとするPPの試みもまた特筆すべきであろう。最後にこの小論は、筆者がフィリピンの文脈の中での社会科学上の実践として、PPのより生き生きとしたより広範な定義を作り出すための提言を示すものである。 Ramon Guillermo(Translated by Onimaru Takeshi.) Ramon Guillermo is assistant professor in the Department of Filipino and Philippine Literature, University of the Philippines, Diliman. Read the full unabridged article in […]

Issue 3: Nations and Stories Mar. 2003

現代タイ国民主権的歴史記述の諸問題

           歴史の言論とそれをめぐる政治―――誰がそれを支配するのか、いかにしてそれは広められるのか、それと競合する歴史はいかにして抑圧されるのか―――そうしたことが知的、公的な論争において中心的テーマとなる時期がある。タイで歴史がそういった関心を引き起こしてすでにかなりの時間が経過した。そしてこの間、タイでは国民主権的歴史記述がヘゲモニーを手に入れたように見える。これはそれに対する反対がみたところほとんどなかったという事実がなかったとすれば、大いに注目に値するものだったであろう。さてそれではこの政治的、学問的事業は、それがはじまって100年、どれぐらい安定したものとなっているのか?  この論文において、私は現代のタイの国民主権的歴史記述が抱えるいくつかの問題を考えたい。その第一は語りの主体、つまりタイ国民の問題である。タイ国民の歴史記述は、アンダーソンの『想像の共同体』、あるいはホブズボームとレンジャーによる『創られた伝統』といった作品にみるように、1980年代、「国民」という概念が批判されるようになって以来、どうなってきたのか? 第2はこの語りの中で王制がどのような役割を果たしているかである。王制は現在、政治、文化的にタイ史記述の可能性をどのように制約しているのか? 第3の問題は民族的、地域的少数派、統一され文化的に均質な国民というかつては何の問題もなかった理解に挑戦する少数派をどう表象するのかというものである。 1990年代の地域化以来生じてきた新しい問題は、学校の教科書の中で、あるいはまたテレビドラマ、映画の中で、タイの国民主権的歴史記述が、隣国との関係に及ぼす影響である。これは時として外交的緊張を生じさせるものである。次の問題は主に学会の専門的歴史家に係わるものである。それは1990年代の「ポストモダン」理論と、それが歴史の真実を掘り崩していることを主張していることの影響である。かりにタイの歴史が数え切れないほど多くの物語の中の一つに過ぎず、過去に対するなんの権威を主張できないとすれば、それは今のような特権的な地位を享受するに値するのだろうか? さらにまたもう一つの問題として、今日では専門家の歴史が一般の人々のもつ歴史とほとんどなんの関連も持たなくなっていることである。大学をはじめとする教育機関で「専門」としての歴史学が衰退していること、これはその100年来の成果、国民の物語にどのような影響を及ぼすだろうか? Patrick Jory(Translated by Onimaru Takeshi.) Read the full unabridged version of this article in English HERE Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 3:  Nations and Other Stories. March 2003

Issue 2: Disaster and Rehabilitation Oct. 2002

アジアの熱帯雨林におけるコミュニティ林業と管理者

         Mark Poffenberger, 編rKeepers of the Forest: Land Management Alternatives in Southeast Asia森林の保有者:東南アジアの土地管理方法West Hartford, Connecticut, U.S.A. / Kumarian Press / 1990 M. Victor, C. Lang, and Jeff Bornemeier, 編 Community Forestry at a Crossroads: Reflections […]

Issue 2: Disaster and Rehabilitation Oct. 2002

共同体林とタイの地方社会

         Anan GanjanapanLocal Control of Land and Forest: Cultural Dimensions of Resource Management in Northern Thailand土地と森林の地方管理:北部タイにおける文化的資源管理Chiang Mai / Regional Center for Social Science and Sustainable Development, Faculty of Social Sciences, Chiang Mai University / 2000 […]

Issue 2: Disaster and Rehabilitation Oct. 2002

西マレシア熱帯雨林の生態研究の動向

        西マレシアの熱帯雨林は東南アジアの陸上生態系において生物多様性の中心にあたる。アメリカ大陸における生物多様性の中心に比べ、西マレシアの熱帯雨林はアクセスがしやすいため、多様性の創出、維持機構や、その生態系機能とのかかわりについて興味を持つ研究者にとって、好適な研究対象である。熱帯雨林の生態研究は、時代とともに移り変わってきた生態学の枠組みと深い関係をもっている。そのような枠組みとしては次のようなものがあげられる。環境と植生タイプおよび遷移過程の関係、種構成が維持される機構、生態系生態学(物質とエネルギーの流れ)、個体群生態学(各種の個体数の変動を決める要因)、進化生態学(生物がある行動様式や形態のセットをもっている歴史的理由)がそれらである。近年ではこれらを総合して生物多様性の創出、維持機構、および生物多様性と生態系機能とのかかわりについての研究が行われている。生物学の一分野としての生態学は、以上のような枠組みのもとで、理論の構築とその検証を繰り返してきた。同時にフィールド科学である生態学は、研究の対象となる地域を理解し、さらに可能なら地域を豊かに創造することにも貢献しなければならない。その貢献のあり方としては、例えば生態系生態学や、生物多様性と生態系機能の関係についての最近の研究のように、環境がどのような仕組みで維持されているかを理解するというものがまず考えられる。一方、我々の多くは伝統的社会が持つ生物との深い関係に基づいた豊かな文化を失ってしまったが、例えば進化生態学が与えてくれる興味深い生物に関する洞察は、新たな文化を創造する原動力でもある。このように文化を創造しながら生物との豊かな関係を再構築することも、生態学が地域に対して行うべき貢献のひとつである。 百瀬邦泰Momose Kuniyasu Read the full unabridged article (in English) HERE Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 2 (October 2002). Disaster and Rehabilitation

Issue 2: Disaster and Rehabilitation Oct. 2002

違法伐採-インドネシアからの歴史と教訓

          本稿は、インドネシアにおける近年の違法伐採に関する歴史を概観することで、いくつかの教訓を提示する。1999年から2000年にかけ、さまざまな報告の中で、インドネシアにおける違法伐採の重要性と、そういった活動による自然環境や天然資源管理、社会、経済への甚大な影響力が指摘されてきた。EIA-TELAPAKの報告とビデオ、「最後の伐採」とその補足報告は、2002年のインドネシア政府による木材輸出禁止の再履行や、絶滅危惧野生動植物・国際売買協定にある熱帯樹木のリスト化といった重要な諸成果を引き起こしつつ、インドネシアにおける違法伐採に対する国際的なキャンペーンを促した。スコットランドら(1999)は、1999年の違法伐採量を5700万平方メートルだと見積もり、前年度と比べ1600万平方メートル増加しているとした。ウォルトン(2000)は、森林伐採率(270万ヘクタール/年)を見積もり、10年以内にスラウェシ、スマトラ、カリマンタンの低地林が消失すると予測した。社会・経済への影響では、政府が違法伐採量を引き下げようとすると、木材産業の多額の負債、外国援助と同等の機会費用の喪失(約60億ドル)、失業問題(2千万人に直接・間接的な影響を与えた)などが浮上し、その結果として社会不安が生じるだろう。 インドネシア林業省での著者の経験から得られた教訓は以下のようなものである。違法伐採は民主化や地方分権化への急激な変化の間に増加してきており、現在の法整備や、人的資源、中央と地方との交信などについても疑問が残る。インドネシアの問題は、特殊なものではない。そうした教訓は中国、ブラジル、ロシア、アフリカ諸国でも共有している。違法伐採は単純な問題ではない。これは森林の統合と木材産業政策から生じた利益をめぐる問題なのである。最後に、対案としては、利益受給者間の協力や政策立案の中で科学的知見を効果的に用いて、すばやく現地から中央や国際レベルにまで展開することである。 佐藤雄一 Read the full unabridged article by Yuichi Sato (in English) HERE Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 2 (October 2002). Disaster and Rehabilitation

Issue 2: Disaster and Rehabilitation Oct. 2002

ベトナムの自然保護区における管理とジェンダー

         ベトナム政府は、自然保護区の設置や地域住民の利益を配慮することで、環境劣化や地方の貧困問題に取り組んでいる。しかし、こうした政策はしばし紛争を引き起こし、性差による不平等を生み出してきた。ビン・チャウ・フック・ブー保護区のキン族部落と、コン・カー・キン保護区のバナー族部落という、二つの自然保護区に位置する地方自治体の事例から、土地や技術訓練、借入金、天然資源への男女間のアクセスの差異、性差が地域や家族内の意思決定に及ぼす役割などを紹介したい。 1993年土地法は、土地配分において差別が生じないよう規定している。しかし、先のキン族部落では、土地所有者名義の80%が男性であった。バナー族部落では、土地証書自体がなく、自発的な国内移住の増加にともない、違法な土地売買が生じている。両部落では、夫が妻の同意なく家族の土地を売りにだしてしまっていた。 伝統的な自給作物から商品作物栽培への移行や、水稲耕作の導入により、訓練や資本を必要とする新しい栽培技術が必要となった。技術指導プログラムは、男性に対して行われており、女性は情報や制度的なネットワークの欠如、低識字率、男性優位の意識によって脇へと追いやられてきた。バナー族の事例では、言葉の障壁が大きな問題であった。女性が借入金を得ることも難しかった。銀行による小規模借入金プログラムは、縁者がいることや、ある程度の教育を受けていることが前提となっている。また、女性同盟の小規模借入金プログラムは硬直状態にある。 米の生産性は貧弱な土地のため低く、男性はわずかな賃金を求めて出稼ぎに出ることになる。労働機会のない女性は、環境劣化や保護政策の推進により減少してしまった森林資源の採集に労働を集中させることになる。家計維持の分野で周辺化されてしまった貧しい女性は、天然資源の減少に対して有効な対応策をもっていない。こうしたさまざまな要因が、家族や地域での意思決定における女性の立場に制限を与えてしまっている。 政策決定者は、自然保護区の保護には性差に対する認識が不可避であることを自認し、土地や資源に対する男女間の不平等を是正しなければならない。土地法は、共同所有者としての女性を登記するよう改正されねばならない。また、女性に対する借入金や、技術訓練プログラムも必要となる。さらに地方行政は、女性住民の知識や能力を生かした組織改革を行う必要がある。 Tuong Vi Pham Read the full unabridged article (in English) HERE Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 2 (October 2002). Disaster and Rehabilitation  

Issue 2: Disaster and Rehabilitation Oct. 2002

持続可能なマングローブ林管理は可能なのか?

         本論は、ベトナムのマングローブ林を対象に実施されている地域主導型資源管理の制度的潜在性に関する論考である。地域主導型資源管理は、国際的な注目を集め盛んに議論が行われているが、ベトナムで広範に実施されているわけではない。このシステムの目的は、国家組織や合作社、1980年以降は世帯レベルの集中的資源管理にある。本論では、国有化や私有化という観点からではなく、資源枯渇や乱獲という面から議論を進めたい。 ここでは事例として、ナムディン省ザオトゥイ県ザオラック村でのマングローブ林管理をとりあげる。植民地期を通じて、地域住民による資源利用は公的な規制がなかったにも関わらず持続性をもっていた。集団化が進んだ時代(1956-1975年)、県の行政府は堤防の保護という目的でマングローブ林を管理していた。地域住民はマングローブ林の使用を禁止されたため、資源へのアクセスは不正利用になってしまった。1980年代のドイモイ政策は経済機会を広げ、それがマングローブの破壊を引き起こした。資本や管理技術、政治力をもつ者は、マングローブ林から生み出される資源(特に養殖によるエビやカニ)から利益を得るようになった。貧困層の人々は、稲作以外の副業として重要な様々な資源を失い、ほとんど利益を得ることができなかった。ドイモイ政策の結果として、低収入層や寡婦世帯は特に村の中で取り残されることになった。 環境保護や生活向上に向けた外国のNGOによるプロジェクトですら、上述のような状況を生み出した。このプロジェクトは、村を囲むマングローブ林の再生を目的としていた。村では2005年のプロジェクト終了を控え、社会的平等や生産性、持続性を考慮した管理システムを考えねばならない状態にある。こうした問題への対案の一つとしては、資金不足にある既存の社会組織や貯蓄組合への資金供出を募ることである。もう少し大きな全体案としては、国家と個人、共同体がそれぞれ協調すること、すなわちザオラック村の場合だと、国家機関が堤防を、各世帯がエビ池を、共同体がエビ池の内側や周辺にあるマングローブ林を管理することである。 Le Thi Van Hue Read the full unabridged article (in English) HERE  Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 2 (October 2002). Disaster and Rehabilitation  

Issue 2: Disaster and Rehabilitation Oct. 2002

ベトナムのエコツーリズム:その潜在性と現実

         ベトナムは、世界第16位の生物多様性をほこる国であり、植物種は13000種、動物種は15000種を数え、これは全世界に分布する生物種の6.3%に及んでいる。生態系の広がりや、市場経済の導入などによって、ベトナムがエコツーリズムに最適な場所であることは間違いない。政府はエコツーリズムを経済発展の先鋒だと位置づけており、実際にここ10年でベトナムに訪れた観光客は7倍に増加している。エコツアーの参加者は、外国観光客の30%、国内観光客の50%にまで達している。エコツーリズムは環境への負荷やインフラへの投資も低くすみ、自然環境や文化に対する教育的役割ももっている。 エコツーリズムの潜在的な対象地域としては海岸生態系、石灰岩質の山々、国立公園、自然保護区や果樹園などがある。そうした地域のほとんどが、景観のみならず、ベトナムの多様な文化をみせてくれる場所である。少数民族は潜在的なエコツーリズム対象地に居住しており、そこは伝統的祝祭、土地利用慣習、食慣行、伝統的生活様式、手工業、史跡の宝庫である。 こうした潜在性にも関わらず、本論では、ベトナムにおけるエコツーリズムの理念性の欠如をいくつかの事例から明らかにする。国家による自然保護区への投資と外国投資家によるホテルやレストランへの投資は順調に進んでいるにも関わらず、環境についての専門的知識をもつツアーガイドやスタッフの育成、つまり人的資源の開発は遅れている。観光はいまだ自由・無規制に行われ環境の悪化を招いている。地域住民やかれらの文化的アイデンティティ、伝統的慣習はエコツーリズムから排除され、経済的な利益も地域には還元されていない。結局、観光マネイジメントや政策は、国家的な戦略の欠如によって政府諸機関の中で分散化されてしまっている。 壊れやすい環境や固有文化の保護、環境アセスメント、運送能力の調査、エコツーリズムの知識をもったスタッフの育成、地域住民の雇用をかんがみながら、地域住民の収入につながる活動と保護活動の双方を視野にいれた関係諸機関の協調がエコツーリズムの発展につながるのである。 Phan Nguyen Hong, Quan Thi Quynh Dao, Le Kim Thoa Phan Nguyen Hong, Quan Thi Quynh Dao and Le Kim Thoa work at the Mangrove Ecosystem Research Division, Centre for […]

Issue 2: Disaster and Rehabilitation Oct. 2002

タイにおける自然保護の政治学

         本論は「自然保護」というものがタイにおいて自然景観に対する国家介在の産物であること、森林が国家の近代化にとって重要であることについて議論したものである。タイは近代化の渦中で、北アメリカの自然に対する概念を受け入れたが、結果として「自然保護」と「経済発展」という背反する概念が存在することになった。人間介在のない自然という意味での「保護区」は、「発展」パラダイムの中で資本化が可能な天然資源として組み込まれてゆくようになる。 ビルマから19世紀の英国植民地式の木材伐採が導入され、神秘的で無秩序な領域であり、都市(ムアン)という文明化された領域から隔離されたものとしてあった前近代の森林(パー)に対する認識の組み換えが生じた。すなわち、森林は林業地となり、「自然」は商品価値をもつ「天然資源」へと変わったのである。外国人技師によって導入された森林科学は、無秩序な森林を合理的に整理・配置された木々へと変えた。こうして、タイ国家、特に王立森林局は新しい管理テクノロジー(国家管理によるチーク伐採や空間管理)や鉄道路線の発達を通した中央集権化を推し進めた。 植民地木材伐採がタイの自然を資本として見る視点を形作ったように、植民地後の国際的な諸機関は、先進国から途上国へ発展モデルや国立公園モデルを移転させようとした。民間産業や観光客の求める国立公園は、近代的市民国家・タイのシンボルともなった。行政官や森林専門家、環境保護グループは、国立公園や自然保護区を設立してこれらを保護しようとしてきた。しかしそれは都市に住み、教育を受けた中産階級の人々が求めた美しさや教育、娯楽といったニーズを満たすためであった。 自然を正当に評価するのに必要な公教育は、地方住民や高地部族を国立公園の管理によって排除したり、地域住民の生活と森林の関係を侵害するのに用いられた。「手つかずの自然」という関心の中で、地域住民は保護区から締め出され、共同体としての権利を失った人々は周辺の森林に追い立てられた。こうした地域では、住民が自然林に対する「脅威」であると述べられがちであるが、実は国家と民間産業が自らの関心に従って自由に利用したため生じたのであり、国家自体がその破壊者であったのだ。 Pinkaew Laungaramsri Read the full unabridged article (in English) HERE Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 2 (October 2002). Disaster and Rehabilitation

Issue 2: Disaster and Rehabilitation Oct. 2002

混迷するタイでの住民参加型森林管理

         森林は地域社会が生活の糧として長く管理・利用してきた。しかし、中央政府が人々から森林管理を引き取ったことで、地域社会は住民参加の欠如によって苦難をしいられ、森林管理も成功することはなかった。本論では、森林管理への住民参加をめぐる混迷について分析する。 国家政策によって、長く木材コンセッション制と換金可能作物の大規模モノカルチャーが奨励されてきた。上から下への森林管理は国中で深刻な経済・環境荒廃を促した。1990年代まで、東北地域は過剰伐採やゴム、コーヒー、果樹プランテーションへの森林の改変を通して最もひどい荒廃にさらされた。これらのプログラムはまた、地方の少数民族の強制移住や他地域からの不法移住を引き起こした。 1997年に住民参加の重要性が認識されたが、森林政策は政府や私企業だけのものであり、住民参加の広がりはわずかでしかなかった。こうした失敗にはいくつかの理由がある。国家機構は森林管理を、影響力のあるビジネスマン向けの政策(厳格なルールとその履行)、および外交だとみなし、地域の現実を省みることなく中央集権的な政策決定を行った。さらに行政官たちは森林に依存する人々に否定的な態度をとってきた。すなわち、地域住民による森林利用が森林破壊の原因で、彼らは森林の運営方法を理解できないと考えた。政府の理解や委託者の信任が増したことでようやく、行政官たちは共同社会活動に参加したり参加型の政策やプログラム、住民への委託を検討し始めた。 森林経営者たちもまた、森林管理に関する枠組みや戦略、住民参加による方法論に対して無知であった。政府役人や地域住民が共に働く参加型学習が奨励されなければならない。最後に、住民が森林運営に参加する誘因が殆どなく、彼らがそれを行っても、適切な利益がないことを指摘しておきたい。実際、上院採択前のコミュニティ林法案ですら、貧しい高地住民を森林の敵だとみなしている。 コミュニティ林業は、森林管理だけではなく広範な変化や地方活性化の手段であり、収入の増加と地方の天然資源管理能力を強化するものである。さらに、意識改革や権利の促進、知識、技術を活用した人的資源の開発に寄与する。そうすることで、中央政府と地域社会との間で意思決定のバランスをはかることができるだろう。 Pearmsak Makarabhirom Read the full unabridged version of the article (in English) HERE Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 2 (October 2002). Disaster and Rehabilitation

Issue 1 Mar. 2002

タイ政治の地方化

Pasuk Pongpaichi and Sungsidh Piriyarangsan Corruption and Democracy in Thailand (タイにおける腐敗と民主主義) Chiang Mai / Silkworm Books / 1994 Ruth McVey, editor Money and Power in Provincial Thailand (タイの地方における金と権力) Honolulu / University of Hawaii Press / […]

Issue 1 Mar. 2002

「改革」を書く

Amir Muhammad “Perforated Sheets,” (穴あけ式投票用紙) 新聞コラム  Kuala Lumpur / New Straits Times / 2 September 1998 – 3 February 1999 Sabri Zain Face Off: A Malaysian Reformasi Diary (1998–99) (対決―あるマレーシア人の改革日記―) Singapore / Options Publications / 2000 Shahnon Ahmad […]

Issue 1 Mar. 2002

実力者と国家について

John T. Sidel Capital, Coercion and Crime: Bossism in the Philippines (資本・強制・犯罪―フィリピンのボッシズム) Stanford, U.S.A. / Stanford University Press/ 1999 Patricio N. Abinales Making Mindanao: Cotabato and Davao in the Formation of the Philippine Nation-State (ミンダナオ創出―フィリピン国民国家形成におけるコタバトとダバオ)  […]

Issue 1 Mar. 2002

スハルト新秩序体制下のインドネシアに関する政治経済学研究

Farchan Bulkin  “State and Society: Indonesian Politics Under the New Order, 1966-1978”  (国家と社会:新秩序体制下のインドネシア政治1966-1978) PhD dissertation / University of Washington / 1983  Mochtar Mas’Oed  Ekonomi dan Struktur Politik Orde Baru 1966-71  (新秩序体制の経済と政治構造1966‐71)  Jakarta / LP3ES / […]