フィリピン経済に対する評価

Germelino M. Bautista

        

この報告で論ずるのは、フィリピン経済が持続的に成長するのではなく、周期的に成長と停滞を繰り返すのはなぜなのか、そして停滞を招く要因は何なのか、また多様な経済部門とあまり考え抜かれてはいない成長戦略が経済成長にどのような効果を与えているのか、雇用におけるジェンダーの影響、そしてフィリピンの天然資源と環境の状態である。経済成長に周期性がみられることと、収入が上下することは、マクロ経済レベルでの支出傾向や、選挙政治の性質、地方の発展にだけ関係があるのではなく、1980年代以前の大して考え抜かれていない成長戦略が長続きしないことや、現在の自由化戦略に限界があること、そして国の天然資源と環境の状態にも影響をうけているのである。

経済成長の周期性

一人当たりのGDP成長率で測ってみると、60年代以降、経済は75年から82年までの7年間をのぞいて、4年から5年ほどの短い成長サイクルを6回繰り返してきた。経済が停滞することで、財政面では負債が増大し、収支バランスと国際通貨準備上の地位が悪化し、民間投資の低下を招いた。投資が落ち込むことについては、前年度のGNPと通貨価値、国内の信用が低下していること、利子率が高いことなどが密接に関係している。投資は大統領選の前年にも落ち込んだが、これはGDPがより低くなることが予想されたからである。政府の支出が増大することと民間の投資が低下することは、経済の停滞を解決するとも考えられてきたし、引き起こす原因であるとも考えられてきた。

83年から85年にかけての政治経済上の危機は、それ以前と以降の経済成長を分ける分水嶺となっている。成長率がマイナスであった時期を除けば、82年までは一人当たりの実質所得が絶えず上昇してきた。しかし、86年以降は成長率が頻繁にマイナスになるため、所得の上昇は遅々として進まなかった。結果として一人当たりの実質的なGDPが、82年のピーク時の状態に戻るのに20年もかかってしまった。85年以降の経済回復が遅々として進まず、経済状態自体もよりいっそう不安定になったのは、政治体制が変わるごとに経済成長戦略が政治上の争いを伴って変更されたことと、自然環境と天然資源に限界が訪れたことを反映している。

80年代以前、経済成長に刺激を与えてきたのは、通貨価値を過剰に高く維持し、関税保護をかけ、政府の援助を与えることで輸入代替産業を補助してきたことと、天然資源と農産物の輸出であった。しかしながら、80年代までにこの成長戦略は機能停止に陥った。鉱業を除く天然資源部門と農業部門が産業発展の源を提供することを困難にしたのは、森林と漁業資源が枯渇し、比較的低開発であった農業部門が安い食料と新しい輸出品を提供できなかったためである。さらには、政府がインフラ投資と成長を維持するために海外から借り入れと赤字の財政支出をおこなったことが、通貨価値が過大に評価されていたこととあいまって、徐々にインフレを引き起こし、社会コストがかさむ状況を生み出した。このような中で80年代初期までには、新しい成長戦略が絶対的に必要となっていた。

83年から85年の政治経済危機と国内の天然資源の枯渇は、経済政策のフレームワークとして世界的に自由化が重要性をましてきていたことと一致した。外資を導入して輸出志向型産業の設立促進のためにフィリピン政府が自由化を採用したことが、80年代以前の保護主義的な経済政策からの主要な転換であった。しかしながら、これは上手く機能するために必要な制度的な調整を欠いた危険な転換であった。

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 環境悪化の中でのサービス業部門主導の経済成長
そしてさえない農業

近隣諸国と異なり、フィリピンは70年代以来安定した高度成長期を持ったことがない。成長が周期的で不安定であったのは、先に述べたようにマクロ経済と政治が不安定であったことに加えて、特定部門の成長パターンが低く不規則であったこと、80年代までの戦後の成長戦略が無思慮かつ不安定であったこと、そして現在の輸出志向型の産業化戦略に限界があることなどに起因する。

サービス業部門はもっとも安定した成長の源泉であった。しかし、穀物部門の成長率が低かったことと、林業、漁業、工業部門の成長が不安定で凋落傾向を示していたことが、経済の潜在的な成長を妨げてきた。農業がふるわないのは、不効率であるというばかりではなく、森林を非生産的な森や薮、農地に転換してきたことも原因である。移住が急速かつ無制限に行われ、それに付随して道路建設や採鉱、高地栽培が進み、そして木が伐採されて裸になった川の流域を修復し損ねたことにより森林は荒れていった。そして森林の荒廃により、気候状態や降水量、川の流量が変化し、森林が持つ水を蓄え、土が流れ出さないようにする力と、堆積作用が減退し、結果として灌漑や水力発電機能が低下し、収穫と収入も減少することとなった。

環境破壊は貧困と移住に密接な関係がある。森林面積が急激に減少し、農地が占める割合が増加したにもかかわらず、灌漑された農地が少ない地方は、貧困状態にある家庭の割合が非常に大きい。こういった地方では、貧困や農業部門・林業部門以外に雇用機会がないことが外への移住を引き起こしてきた。地方からの移住者は好んで高地や海岸地方、都市の中心部へと移っていった。しかしながら、こういった場所への急速でむやみな移住は環境に破滅的な効果を及ぼした。

典型的な例として、魚に対する需要が急激に伸びたので漁師や町で漁業を営む人の数が増え、魚が乱獲された結果、70年代後半から80年代の初めにかけて漁業資源が枯渇してしまったことがある。そして漁業資源の枯渇は、一回の漁での漁獲高が減少し、儀装を転換できなかった漁師の貧困化を導くこととなった。養殖は90年代に新たな成長の源泉を提供したが、マングローブの減少や沿岸部に土砂が沈殿したこと、湖や川が汚染されたことにより、その持続的な成長は脅かされている。漁業資源が枯渇し、漁師の貧困化が加速しているだけでなく、移住してきた人がスラムを形成するために、沿岸地域はいまや貧しい地方からの移民に対するセーフティーネットとしての機能を低下させている。

 90年代、農業、産業部門に対してサービス業部門は比較的安定した成長を続け、比較的大きな雇用機会を生み出した。しかしながら、そのような機会を活かせるのは主に首都圏やコルディレラ自治区、南部タガログ、ヴィサヤ中央部に限られたものであった。また雇用機会は男性に比べて女性のほうがより高いように思われる。女性はコミュニティーや社会、そして個人に対するサービス、卸売りや小売に主要な役割を果たしており、女性労働力の約50パーセントはこういった業種で占められている。以前は地方の非賃金家族労働者であった女性が、いまや移民として都市サービス産業の余剰労働力のとりわけ重要な源泉となっているのである。

サービス業部門の成長は銀行や金融機関への外資の流入、海外からの送金、そして都市の人口とマーケットが拡大した結果である。地方の農業と製造業がふるわないために、下層中流階級に属する人と貧しい地方からの移民が都市の中心部で増加した。その数はあまりに膨大であり、とても公的なサービス業部門で吸収することが出来なかった。その結果、インフォーマル部門市場が拡大し、スラム人口が増大することになった。

サービス業部門への雇用の増加は、小数従業員にごくわずかな給料を支払って運営される企業が増えていることに対応している。これは規模が小さいほどサービス業部門に比較的参入しやすいこと、インフォーマル部門が成長していること、そして労働者が90年から92年にかけて失業と不完全雇用を経験したことを反映している。活動の幅を広げ規模を小さくすることで、インフォーマル部門が失業者と不完全雇用者を吸収し、他の部門や地方での限られた雇用機会を補完するという姿は、ギアツが述べたインボリューション・プロセスが進行しているように見える。

サービス業部門が先導する成長にはいくつかの限界がある。ひとつには他の経済部門を成長させることができないということである。また都市に集中するサービス業部門の孤立性は都市環境の悪化を促進した。都市が経済的に繁栄し、より多くの人を惹きつけるため、莫大なエネルギーと水資源が消費され、ごみが発生し蓄積されることとなった。このような事態を予想し適切な保護を打ち出すことが全くなかったため、都心はいまや地下水が枯渇し、沿岸部では地盤が沈下し、ごみが散乱して、大気汚染と水質汚染が進み、人々の健康が蝕まれていくという問題に直面している。

製造業と外資、自由化の限界

外資導入と同時進行した、産業保護から自由化政策への転換は残念なことに期待されたような恩恵を製造業部門にもたらさなかった。外資の大部分が90年代前半は化学や化学製品、食品に、96年には機械、器具、電化製品、生活必需品、非金属鉱物製品に流入したにもかかわらず、雇用機会や輸出能力はたいして増大しなかった。

82年から98年にかけて、特定の産業では雇用が純増した。これは、これまで大規模産業であった繊維、ゴム、ガラス、木材製品、製陶業の規模が縮小したために雇用が減少したのに対して、電子工学や科学的・専門的な器具製造産業の規模が拡大し、雇用が増大したためである。また皮革、プラスティック、非金、合金、機械といったいくつかの小規模産業でも雇用は増大した。食品加工やアパレル産業でも比較的雇用機会は大きくなった。こういった増加にもかかわらず、過去16年間の雇用の純増量は大したものではなかった。平均して、毎年新しく生まれる就職口はたかだか30,511であった。これは98年の新規労働人口1,013,000人のたかだか3パーセントに過ぎない数である。それゆえ、部門毎の雇用割り当てを改善し損ねたといえる。

外資は食品加工産業の輸出向け製品にもたいした貢献をしなかった。むしろ外資は国内都市市場向け製品により集中した。輸出向け製品への投資は主に電子光学産業に集中した。機械部品といった関連商品の生産と共に、電子工学製品は90年代の商品貿易全体の拡張に貢献した。実際、商品輸出のほぼ70パーセントを電子工学製品が占めていたのである。残念なことに、製造や貿易のなかで電子工学製品の輸出が主要な役割を果たしたことのよってもたらされた経済効果は限られたものであった。重要な部品を輸入する必要があるので、電子工学製品は付加価値産業や純貿易余剰に対して実質的な貢献をなさなかった。また、他の産業から孤立した生産形態をとっているために、フィリピン経済全体にほとんど結びつくことがなく、成長にも微々たる貢献しかなさなかった。さらには、仕入れという名目で部品を輸出入することにより、資本の逃避が生じていた可能性もある。

貿易自由化による恩恵は農業部門でも限られた物であった。農作物輸入の増加はGNPに対する輸入の割合が高くなるということと、価格の低下を招いた。消費者には恩恵があったわけだが、安い農作物の輸入は国内の農業生産者に有害であった。安い外米も国内のコメ生産の比較優位をなくしてしまった。

失業を別として、貿易自由化は農業部門の不公平を際立たせてしまったかもしれない。大規模生産者のように規模の経済を達成することも出来ず、公的な資金貸付にも市場にも接触機会が限られている小規模生産者は、金融業者に依存せざるを得ず、作物を廉価で売らざるを得なかった。そのほか、所有権を確実に主張できるのかどうか、灌漑、肥料にたいする助成金やインフラ投資、そして近年はMAV (the Minimum Access Volume) 輸入から生み出された基金などにアクセスできるのかどうかについての差が不平等を生み出している。小規模生産者に対するセーフティーネットという意味があるにもかかわらず、MAV輸入から集められた歳入にアクセスしやすいのは大商人の方で小規模生産者の要求に対しては厳しすぎるという批判がある。

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貧困と貧困緩和対策の限界

経済部門や産業に歴史的に栄枯盛衰があるため、解雇されたりはじき出されたりして有給雇用につくことが出来ない家族や集団があり、その中から国の貧困層の中枢をなす集団が生まれてきた。それは次のように分類することが出来る。 

  1. 木こりや抗夫、低地からの移住者によって内陸へと押しやられた、高地にもともと住んでいた人々のコミュニティー。
  2. 食糧生産者として高地に再入植したもとの伐木搬出労働者。
  3. 漁獲高が減少した、もしくは昔からの漁場を商業漁業によって荒らされ、よりよい漁場を見つけ出したり移住していくことが出来ない町の漁師。
  4. 砂糖や材木といった経済的に凋落した部門や産業から解職され高地や沿岸部に移住した農業や非農業労働者。
  5. カガヤン峡谷やビコル(Bicol)、ヴィサヤ東部、ミンダナオといった農業が立ち遅れ、干ばつや自然の大災害、気候状態の変化などにさらされている地域の農家。
  6. 十分な水がないか適切な灌漑システムがない、もしくは農業生産そのものが凋落している地方の農民や農業労働者。
  7. 沿岸地域や町、都市に移住してきた土地なし労働者で、失業しているかインフォーマル部門で不完全雇用されている者。
  8. 完全失業者。

この集団の規模(2670万人)と分布は、97年に所得が一定の値を下回った人々の数、その年の集団毎の人口推定と人口増加率を使って割り出したものである。地方の貧困者集団の割合は推定の61パーセントという数字よりももっと上になるかもしれない。それはこの数字には「計数不能」集団と分類されている、灌漑されておらず脆弱な地域にすむ小規模農民が含まれていないからである。この集団は推定では1パーセントから12パーセントになり、それは都市のスラム人口の数字(26か36パーセント)に依存している。貧困者集団のなかで、公的部門の成長の周期性によって被害をこうむったものが1.3パーセントに過ぎないということも注目に値する。

貧困問題に直面した中央政府は貧困減少アジェンダを策定し、それをアジア開発銀行との間のPRPA (Poverty Reduction Partnership Agreement) を通じて実行した。 しかしながら2002年のいくつかの目標は達成されなかった。目標を達成できなかったのは以下の分野である。中央政府の財政赤字削減、中央政府の社会サービスに対する支出増加、CARP (Comprehensive Agrarian Reform Program) のもとでの土地の分配、 初等教育卒業者に対する中等教育進学率の増加、BIR (Bureau of Internal Revenue) の徴収、BIR課税努力、税収一般である。

戦略的介入と経済管理

非持続的な成長、貧困、環境悪化という永続的な問題に焦点を当てたいくつかの戦略的介入について簡単に論ずることでこの報告を終わらせることにしたい。マクロ経済運営において、自由化の枠組みを国の経済計画や政策の指針として制度化することは86年以降の政府の政策立案者の主要な業績である。にもかかわらず、自由化の潜在力を増進するためには、経済構造と外資導入の傾向から生じるいくつかの問題を上手く処理しなければなならない。

調和したマクロ経済運営、政府支出の管理、赤字傾向にある政府運営企業の私有化、そして政治、司法制度改革が安定成長のための必要条件である。必要条件が含意するのは農業部門、天然資源部門が経済発展の足かせにはならないということだ。天然資源については枯渇状態にあるため、その補充と再建、そして完全な回復が経済成長のための必要条件となる。こうした努力は経済の上昇傾向を作り出し維持していくことを妨げていた、現在の限界を打ち破ることを可能にする。これに関連して、考慮すべき問題は以下の点である。

  1. 枯渇した資源の一覧表の欠如と枯渇の兆候を示す市場のシグナルが存在しないこと。
  2. 環境状態を評価することや、干ばつや洪水、地球の気候状態の変化が地方に与える影響を軽減するように環境を作り変えていくことに対する科学的関心の低さ。
  3. 天然資源の消費者と生産者の間の体系的な結びつきがなく、サービス供給の基準も存在せず、補償や調停に関して制度的な取り決めや資源管理につての合意がかけていること。

安定成長を保証するには少なくともあと二つ必要条件がある。1つは海外市場向けの小・中規模産業を発達させ、天然資源・農業と製造業との間に順向的な結びつきを作り出すことである。2つめは人的資本に投資することで貧困の連鎖を打ち破ること、言い換えるならば貧困層の若者を教育することで貧困の拡大再生産を妨げることである。

こういった戦略的介入には、腐敗と弱体な官僚制、参加型経済管理について制度的改革を主張し、実行するような強力で市場指向型の政府が必要である。制度変革を伴わない市場指向型政策が不十分であることが十分認識されているため、官僚制度、とりわけ腐敗とそれが経済にかけるコストの評価に関する研究が増え続けている。しかしながら、経済管理についてはほとんど何もなされていない。

共同運営や参加型意思決定の一形式としての経済管理が取り扱うのは、天然資源と環境資源、税収や官営事業収益、公債といった経済資源の共同運営やその利益の分配である。環境が悪化している中でいかに持続的な経済成長を達成するのか、貧困が蔓延し経済が短期間で成長と停滞を繰り返す中でいかにして現在のそして未来の人の福祉を改善するのか、そしていかにして具体的に的を絞って今なすべきことを実行していくのかという非常に大きな課題に、政府だけに限らず全ての関わりある人が共同して向き合わなければならない。短期的な資本流動に起因する金融の不安定性や債務、地方における企業家精神の欠如、そして競争力の低下といった緊急に解決しなければならない問題は非常に豊富にある。

経済管理は疑いなく確立するのが難しい。資源の性質と価値についてのコンセンサス、具体的には、実際にどのように資源を配分し使用するのかについての明快な経済的・社会的な目標が要求される。また同様に優先度と代替利用を決定するための基準や意思決定のメカニズムも必要である。具体的には、政府歳入や預金、外債、賃貸料、剰余金といった国家資産を使用する際、次のような一定の選好があっても良い。

  1. 国外の資本を消費よりも金融投資に、短期的な投資や消費の拡大よりも長期的な投資の拡大に使用する。
  2. 輸入の増加にまさるように着実に輸出の成長を促進する。
  3. 資金源として短期負債をさける。
  4. 対外債務を返済できるように国力を改善する。
  5. 少数ではなくより多くの人間が恩恵にあずかれるようにする。
  6. 慢性的で世代をまたがる貧困を解決するような、貧民に教育を施すといったようなプログラムを実行する。

社会目標を定めると共に、当座のそして戦略的な目標が達成可能かどうか確かめるシステムや、インセンティブを与えて実現に向けて活動していくよう導くメカニズムも必要である。さらには関係者の権利や義務を定め、争いを解決するような仕組みもまた必要である。

Germelino M. Bautista
Germelino Bautista is professor of economics and former director of the Institute of Philippine Culture at Ateneo de Manila University.

Translated by Onimaru Takeshi.
Kyoto Review of Southeast Asia
. Issue 4 (October 2003). Regional Economic Integration