KRSEA How Long is Now: Indonesia
Issue 26

เดี๋ยวนี้คืออีกนานแค่ไหน? ว่าด้วยยุค Reformasi ของอินโดนีเซียและการทวงคืนประวัติศาสตร์สมัยสงครามเย็นที่ช้าเกินการณ์

ชื่อบทความ “เดี๋ยวนี้คืออีกนานแค่ไหน?” มาจากภาพศิลปะฝาผนังบนถนนโอราเนียนบวร์ก (Oranienburger Strasse) ในเขตมิตเตของกรุงเบอร์ลิน  ภาพศิลปะนี้วาดไว้บนผนังอาคารที่เคยเป็นศูนย์บัญชาการของหน่วยชุทซ์ชตัฟเฟิล (Schutzstaffel—SS) และคุกของนาซี จากนั้นเปลี่ยนเป็นอาคารของรัฐบาลในสมัยเยอรมนีตะวันออก  จนกระทั่งหลังกำแพงเบอร์ลินพลังทลายจึงเปลี่ยนเป็นศูนย์กิจกรรมของศิลปิน  ในปัจจุบัน อาคารหลังนี้ถูกทิ้งร้าง  ศิลปะฝาผนังภาพนี้คือการมองย้อนกลับไปหาอดีตอันใกล้ของกรุงเบอร์ลินที่เต็มไปด้วยการสร้างสรรค์ระหว่างรอคอยอนาคตอันยืดเยื้อ  สำหรับผู้เขียน ศิลปะฝาผนังภาพนี้คือบทสรุปรวบยอดที่สะท้อนถึงพลวัตและชะตากรรมอันน่าเศร้าของนักศึกษาอินโดนีเซียในจาการ์ตาเมื่อสมัย 1998  ในฤดูใบไม้ร่วงปีนั้น พวกเขาชวนผู้เขียนบรรยายและถกเถียงจนดึกดื่นค่อนคืน  พวกเขาพยายามค้นหาวิถีทางทวงคืนประวัติศาสตร์ยุคหัวเลี้ยวหัวต่อที่ก่อรูปมาตั้งแต่ปลายทศวรรษ 1940 รวมทั้งค้นหาว่าทำไมขบวนการประชาชนเพื่อการปฏิรูปที่เคยยิ่งใหญ่ที่สุดในโลกในสมัยนั้นกลับถูกกวาดล้างจนสิ้นซาก  ประชาชนราว 500,000 คนถูกกองทัพและกองกำลังติดอาวุธ “พลเรือน” สังหารทิ้งในปี 1965-66  ชั่วขณะแห่งความโปร่งใสมองเห็นยาวไกลมลายหายไป  อนาคตยังไม่ปรากฏให้เห็น  ทำไมจึงเป็นเช่นนั้น? เมื่อนานาชาติพร้อมใจกันละทิ้งซูฮาร์โตและหันไปสนับสนุนเสรีภาพกับการเลือกตั้งแทน ทว่าเก็บชนชั้นนำเดิมเอาไว้ นั่นหมายความว่ายังมีโครงกระดูกซ่อนในตู้อีกเหลือเฟือสำหรับการวิเคราะห์วิจารณ์สังคม  ในตอนนี้ความหวังว่าประธานาธิบดีโจโก […]

KRSEA How Long is Now: Indonesia
Issue 26

現状はいつまで続くのか? インドネシアのレフォルマシと遅れた冷戦史の捉え直しについて

提題の「現状はいつまで続くのか?(How Long is Now?)」は、ベルリン・ミッテ(Berlin-Mitte)のオラニエンブルガー・シュトラーセ(Oranienburger Strasse)沿いの壁画をほのめかすものだが、これが描かれているのは、かつてのSSセンターでナチスの監獄だったものが、後に東ドイツの公共施設となり、ベルリンの壁崩壊後は活動的な芸術家たちのための施設となり、今では廃墟となった建物だ。この壁画は、ベルリンの近年の独創的な過去の出来事を、未来を待ち続ける時が長引く中で振り返るものだ。著者にとっては、この壁画は1998年の秋に深夜まで延々と自分に講義と議論を行わせたジャカルタのインドネシア人学生の力強さと悲運とを封じ込めたものでもある。彼らは当時、世界最大であった改革派の大衆運動をなぜ払しょくする事ができたのか、またなぜ約50万人もの人々が、1965年から66年の間に軍部や「民」兵たちによって殺されたのかなど、1940年代後半以降に出現した出来事の、極めて重要な歴史を捉え直す手段を模索していた。つかの間の透明性は立ち消えてしまった。先行きはまだ見えてこない。なぜなのか? 国際社会に支持された合意が、自由と選挙のためにスハルトを見捨てる一方で、エリートを保護していた事は、公的な場での議論に委ねるには秘密が多すぎた事を意味する。すでにジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領(Joko ‘Jokowi’ Widodo)が、彼の前任者たちよりも有力集団への依存が少ないとする望みは薄れてしまった。有力者、プラボウォ・スビアント(Prabowo Subianto)は保守的なムスリムのポピュリズムを喧伝しているにもかかわらず、全面的な後退が生じている。国際的にもてはやされているのは、自由民主化が確固たる国家建設によって進められるべきだという主張だ。民主的左派も、1950年代末と1960年代初頭の出来事を検討する事に熱心ではない。ネル―やスカルノのような指導者や非同盟運動(the non-aligned movement)は過去に属するものなのだ。さらに、毛沢東主義者たちは改革主義のインドネシア人共産党員やスカルノ派の人間が十分革命的でなかったとさえ主張した。後になって同調した事を悔やんだ者達は、それを思い起こさせられる事を望まず、それとは違う何か、アナキズムや市民社会、新しい運動や言説の分析などを試みる。民主主義を支持するインドネシア人たちが専念した汚職や人権、生活などの差し迫った問題は、過去に目を向けて対処する事がより困難なように思われた。 また、インドネシアの大虐殺に関する研究のほとんどが、1965年末に大虐殺の犠牲者となったエリートの苦しみに焦点を当てている。この事が人権を強調している点は称賛に値するが、徹底的な歴史分析の入門としては不十分だ(Törnquist 2019)。3つの謎が残る。1つ目は、どのような政治的経済と政治機関が、この共謀と弾圧を可能にしたのか。2つ目は、何が軍部の促進した暴力と民兵や自警団の参加を結び付ける事ができたのか。3つ目は、何が政治の新たな左派志向の運動の失敗と、これに代わる権威主義的特徴の政治の再来を説明するのかということだ。 幅のある歴史分析が必要な事を示すものの一つが、Geoffrey Robinson (2018)の研究だ。入手できる最も包括的な研究の中で、Robinsonが受け入れ難いと感じているのが、John Roosa (2006)の革新的な主張で、これは運動全般ではなくてインドネシア共産党(the Indonesian Communist Party:PKI)の一部の指導者たちが、虐殺に先行した9・30運動(the 30 September Movement)において、重要な秘密の役割を果たしたとしている。Robinsonが躊躇する理由は、主流研究の結論が、当時PKIが極めて順調で、確実に地歩を築きつつあったとしている点だ(Anderson and McVey 1971; Mortimer 1974; Crouch 1978)。そうだとすると、向こう見ずな秘密工作には何の理由もなかった事になる。だが、より批判的な分析は、1950年代末から1960年代初頭に共産主義者が直面していた課題について、これとは違った見方を示す。PKIは民主主義を望んでいたが、1959年にスカルノ大統領と陸軍の「指導される民主主義(“Guided Democracy”)」の導入と選挙の先送りを支持していた。つまり、PKIは、まず大衆政治を通過する必要があったという事だ。 大衆政治とは、スカルノの反帝国主義運動や外国企業の国有化に協力し、彼の基礎的農地改革や、ナショナリスト、宗教者および共産主義者の社会・政治的中心人物による共同公共統治(joint public governance)の手法を支持する活動に協力する事であり、これには軍部への協力も含まれた。これは共産主義者に組織化と圧力政治の余地をもたらしたが、この事が改革派の政敵を弱体化させる事はなかった。軍部は(戒厳令という手段によっても)国有化された企業や国家機構の大部分を掌握し、1960年から61年の共産主義者による労働争議(labour […]