国民主義者によるインドネシア史「改革」

Rommel Curaming

        

政治的操作からの相対的自由は多くの学問上のプロジェクトが健全に発展するための必要条件である。それはとりわけ、操作されることで多大の影響をうける歴史の記述に当てはまる。スハルト体制が崩壊しその下で行われていた多くの政治的制約が過去のものとなった今、インドネシアで現に行われているようなインドネシア史記述の発展に、スハルト体制の崩壊がどのような意義をもつのか、問うべき時だろう。

かつて植民地であった多くのところで発展した歴史記述と同様、インドネシアの歴史記述もきわめてはっきりと、かつ強烈に国民主義的なものであった。インドネシア中心主義(Indonesiasentris)として知られている、ナショナリストによる歴史編纂が主張するのは次のようなことである。それは、歴史を書くという行為全体の主要な目的と(もしくは)その最終的な成果は、意図したものであれそうでないものであれ、国民国家としてインドネシアが合法的に存在することを承認し、正当化するものであるということだ。このプロジェクトの中心にあるのは、そのような実在(インドネシア)に一致すると思われる国民的アイデンティティを創出し、維持し、促進しようとすることである。

この論文はインドネシアの国民主義者による歴史編纂の中で見られる明白な改革への兆候を確認し、そこに焦点を絞って記述しようとする。ポスト・スハルト時代のより自由な雰囲気のなかで、昔からのインドネシア史記述をみなおし、長い間、そういうものとして受け入れられてきた枠組み、そしてその中で歴史の書き直しが行われるであろう枠組みを再検証することができるようになっている。私のみるところ、そこでの要点は、改革の中でこれまで新秩序と密接な関係をもっていた歴史記述がパージされつつあることにある。改革主義者は従来の政治中心の叙述的歴史を捨て、サルトノ(Sartono)によって切り開かれた社会科学の手法の妥当性を支持し、いくぶんためらいながらも、歴史記述全般においてインドネシア中心主義が必要かどうかを問う段階へと移りつつある。改革主義者はインドネシア中心主義を、「国民的」なものを促進し定義するという従来の役割から解放し、そしてこのようにして歴史記述を、国家・国民のプロジェクトの重荷から解放しようとしている。改革は未だ初期段階にある。そのため、最近出版された論文、あるいはいまから出版される論文、ガジャマダ大学(UGM)で開かれた一連のワークショップ、そして改革主義を奉ずるインドネシアの歴史家数人へのインタビューをもとに、私はいまおこりつある改革の特徴を理解し、それが向かうであろう方向を推測しようとした。

Rommel Curaming
 (Translated by Onimaru Takeshi.)

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Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 3:  Nations and Other Stories. March 2003

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