Issue 21

ฆาตกรรมกับความถดถอยในสยาม: จากมือปืนรับจ้างถึงคนในเครื่องแบบ

การลอบสังหารทางการเมืองไม่ใช่เรื่องแปลกสำหรับประเทศไทย นับตั้งแต่มีการรื้อฟื้นระบบรัฐสภาและการเลือกตั้งในช่วงปลายทศวรรษ 1970 สังคมไทยพบว่าปรากฏการณ์ที่มือปืนอาชีพลอบสังหารสมาชิกรัฐสภา นักธุรกิจใหญ่ที่เพิ่งร่ำรวยขึ้นมา เจ้าพ่อผู้มีอิทธิพลตามต่างจังหวัดและหัวคะแนน กลายเป็นข่าวที่เกิดขึ้นถี่กว่าเดิม การลอบสังหารทางการเมืองเป็นธุรกิจฆาตกรรมเอกชนที่เกี่ยวโยงกับการแข่งขันในการเลือกตั้งระดับชาติและท้องถิ่น คู่แข่งทางการเมืองและธุรกิจมักว่าจ้างมือปืนไปเก็บฝ่ายตรงข้าม มือปืนส่วนใหญ่เป็นนักลอบสังหารอาชีพ อดีตยามรักษาความปลอดภัย นักเลงชั้นต่ำ เจ้าหน้าที่ตำรวจและทหารที่แอบรับงานพิเศษ ความรุนแรงมักเกิดขึ้นทั้งก่อนและหลังการเลือกตั้ง ผู้สมัครรับเลือกตั้งที่มีแนวโน้มจะชนะถูกคู่แข่งข่มขู่ว่าจะใช้ความรุนแรง ลักพาตัวหรือฆ่าทิ้งในระหว่างการรณรงค์หาเสียง หัวคะแนนแปรพักตร์ถูกเจ้านายตัวเองฆ่าทิ้ง และหัวคะแนนของฝ่ายชนะถูกปรปักษ์จากฝ่ายตรงข้ามกำจัด  เบเนดิกท์ แอนเดอร์สันให้เหตุผลว่า การที่ฆาตกรรมจากแรงจูงใจทางการเมืองเกิดขึ้นแพร่หลายมากกว่าเดิมในช่วงปลายทศวรรษ 1980 สะท้อนให้เห็นว่า สมาชิกรัฐสภามี “มูลค่าการตลาด” สูงขึ้นในประเทศไทย นี่เป็นสัญญาณบ่งบอกว่าการเลือกตั้งมีความสำคัญมากขึ้นในการกำหนดว่าใครจะได้อำนาจทางการเมือง การฆาตกรรมผู้สมัครรับเลือกตั้งและหัวคะแนนที่เกิดขึ้นถี่ๆ จึงเป็นดัชนีชี้วัด “ความก้าวหน้า” ของระบอบประชาธิปไตยรัฐสภาในประเทศไทย (Anderson 1990) มันเป็น “ความก้าวหน้า” […]

Issue 21

タイにおける進歩なき殺人:殺し屋から制服組の男たちまで

タイにとって、政治的暗殺は珍しい事ではない。議会制度と選挙が復活した1970年代後期以来、タイ社会は国会議員や新興成金、地方の有力者や選挙運動人達に対する、プロの暗殺者による殺害がますます頻発するさま目撃してきた。これらの政治的殺害はインフォーマルな企業によるものであり、国や地方の選挙競争にからんで政治上、ビジネス上の競争者が、競争相手を討つべく暗殺者を雇うのである。これらの暗殺者たちは主にプロであり、元警備員やチンピラ、副業をしている警官や軍人である。暴力行為は選挙前後のいずれにも起き、有力な候補達が選挙運動期間の最中に、競争者によって暴力で脅されたり、誘拐されたり、殺害されたりした。誠実でない選挙運動人も、自らの上役たちに殺害されるし、成果を出した選挙運動人の方はライバル陣営によって抹殺されもした。ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)は、1980年代後期に政治的動機に基づく殺人が増々横行したことについて、これがタイにおける国会議員の高い「市場価値」を反映したもので、誰が権力を獲得するかを決める選挙の重要さを示すものであると論じている。候補者やその選挙運動人たちの殺害が横行していることは、すなわち、タイにおける議会制民主主義の「進歩」を示していたのである(Anderson 1990)。当然、この「進歩」には代償が伴う。 著者が調査したところ、選挙がらみの暴力行為に、殺し屋の関与が初めて報告されたのは、1976年の選挙であった。1976年11月16日のサムットソンクラームの元国会議員殺害によって、私的暴力の発生が告げられた。警察によると、この元国会議員の死は、競争相手との選挙運動中の政治的対立に由来するものである。選挙から数か月後に、殺し屋の一団が、彼を至近距離で重火器を使って射殺した。警察は二週間後に、犯人の一人を逮捕し、かれらの自白によると、彼はこの仕事の請負で3万バーツを受け取り、仲間は3人、そのリーダーは不正行為のために部隊から追放された勤務外の兵士であった。警察の捜査によると、これらの「殺し屋連中」は、その他の政治家の殺害も請け負っていた。 タイではどんな殺し屋も、支払う金を十分に持つ者のために働く。彼らは便利で、非情で、有能で、起業家精神に溢れ…真の意味でプロの事業者である。殺し屋の仕事は、1950年代のバンコク市街地での組織犯罪や裏ビジネスの拡大と結びついている。殺し屋たちは、非合法の経済部門(ギャンブル、ドラッグ、売春)を保護するため、ライバルや厄介者、あるいは予想外の困難を抹消してきた(Suriyan 1989)。1970年代後期には、殺し屋を使った殺人が選挙競争に拡大し、これと結びつくようになった。増加する需要に伴い、この事業は途方もない利益をもたらすものとなり、多くの者達を引き寄せた。殺し屋市場が徐々に構築、確立され、競争力を持ち始めたのである。 殺し屋の仕事は、失業者や不良の若者、地域のチンピラ、農業従事者、未熟練労働者、タクシーやオートバイの運転手、便利屋、それにスポーツ選手など、幅広い層を引き寄せてきた。またこの仕事は、腐敗した警官や将校たちにも機会を提供している。国家のある部門は、殺し屋の仕事を容認して利益を得ている。たくさんのスタッフが殺し屋を副業とする中、そうした部門はその専門訓練を活用し、私利私欲のための強要を行う。顧客たちが「公式暴力の専門家」の仕事を好む理由は、彼らが最も穏当で、最も良く訓練されているだけでなく、刑事司法の手続きや機関についての内部情報を持っているためでもある。彼らの多くが保護を受ける、より高位の役人たちは、違法ビジネスに携わる、いわゆる「マフィア警官/将校」である。政府にしてみれば、この「制服姿の殺し屋たち」は、最も危険かつ、捉え難い存在である。最もスキャンダラスな事例は、「T」(あだ名)中佐で、彼は1980年代に残忍で腐敗した将校として有名になった。彼とその部下たちは、金をゆすり取り、借金を取り立て、禁制品を密輸した。1990年代に建設業が好況となると、彼は請負業者を保護し、悪徳土地開発業者による住民の強制退去に手を貸した。住民たちが抵抗すれば、暴力を行使して追い出し、その所有地を燃やしたのである。彼はついに、自ら殺し屋業を立ち上げ、業者と殺し屋の役割を同時に担った。彼の組は5、6人の下級政府職員から成り、請け負った事件は目立ったものばかりであった。彼の名を全国に広め、その残忍な長い経歴に終止符を打った仕事は、2001年のヤソートーン県知事暗殺であった。「T」中佐は、公務員から転身した数多くの(個人業の)殺し屋の一例に過ぎない。データによると、現役、非番の多くの政府の暴力専門家達が、今も暴力業に密接に携わっている。国家の治安部隊と暴力業との癒着には、非常に根深いものがある。 1980年代以降、選挙は権力を掌握、維持するための仕組みとして、あるいはタイにおける政治的変化に対処するための仕組みとして、ますます重要性を帯びてきた。1980年代と1990年代の数十年間には、「軍-官独裁体制」から議会制の政治制度へ、タイ政治の急激な構造変化が見られた。要するに、権力が官僚と軍部指導者の旧集団から、徐々に国家や地方のビジネス・エリートの新連合へと移行して行ったのだ。利益の調整と集約とが、官僚外勢力から発生し、政策決定の過程に一定の影響力を生み出したのである。同時に、この時期はいわゆる金権政治という、腐敗や無秩序な選挙運動につながる活動の起点でもあった。金権政治のマイナス面が広く認識されたことで、1990年代初頭の政治改革運動が形成され、これが金権政治の抑制と、親分肌の政治家の影響力低下を最終目標とする1997年憲法をもたらしたのである。新憲法発布以後は、観測筋は選挙がらみの暴力も含め、あらゆる種類の選挙上の不正行為が消滅、あるいは劇的に減少すると予測された。ところが、暴力や脅迫は依然として、候補者や政党が権力の獲得のために用いられたのである。 タイ政治の軌道と、政治的暗殺のパターンが劇的に変化したのは、2006年の軍事クーデター後の事であった。2006年以降、従来のエリートたちが、軍による干渉や司法積極主義、保守的社会運動を通じて議会や選挙制民主主義を弱めてしまった。選挙で選ばれなかったエリートの少数派が、政治制度に対する超憲法的権力を行使したのである。社会運動と軍部との間の暴力的な衝突が、タイ社会を袋小路へ、暴力の堂々めぐりへと導いたのだ。多くの評論家やクーデター支持者たちが、2006年のクーデターを、その無血性ゆえに称賛した。だが、政治的な出来事が展開して行くにつれ、このクーデターがその後にもたらした影響という点で、タイ史上、最も暴力的であった事が判明した。このクーデターが高い死傷者数をもたらした訳は、これが対立を激化させ、政治的な両極化を深め、治安部隊とデモ参加者、対立する抗議者グループ間の、広範囲にわたる対立を生み出したためである。クーデター以来、タイ社会が目撃した政治的現象に目を向ければ、様々な形の暴力が出現した事が分かるだろう。それは、好戦的な社会運動の増加(黄シャツ、赤シャツ両隊)、ギャングや殺し屋を利用した政治的対立、抗議における自警武装集団(運動と関連したもの、独自に活動するものの両者)の存在や関与、異なる運動に属する抗議者同士の暴力的衝突、政治化した軍部の復活と、その市民に対する暴力的弾圧、抗議者への対応での治安集団の選択的な武力行使、軍の狙撃者による抗議者の殺害、緊急命令の下での白昼堂々たる大衆運動指導者の暗殺、首都での政府庁舎やデモ現場を狙った爆撃、対立のあらゆる側面における広範囲な兵器の使用、などである。 2010年4-5月の軍事弾圧は、反独裁民主同盟(UDD)に率いられ、バンコク中心部の幾つかの地域を2010年の3月から5月にかけて占拠した赤シャツ隊デモを、政府が軍に命じて鎮圧させる際に起きたものであるが、これは政治的暴力の極致を示していた。デモ現場周辺における軍部と赤シャツ隊との対立は、2010年5月19日の暴力的弾圧によって、94人が殺害され、数千人が負傷する結果に終わった。2006年クーデター後の時代の暴力事件は、タイにおける新たな暴力のパターンを示している。軍は政治劇の主人公として復活を遂げ、この上なき暴力行為を犯し、死亡者数の相当な割合に対する責任を負う立場にある。2010年4-5月の弾圧は、タイ近代史上、最も暴力的な政治弾圧に相当し、その正式な死者数は、それより前の3度の政治危機、すなわち、1973年の学生主導の暴動、1976年の大虐殺と1992年の民主化要求デモの死者数を上回っている(People’s Information Center 2012)。2006年クーデター以降の国家的暴力の復活が、政治の前進に有害であるのは、これが民主主義の崩壊をもたらすものであるためだ。ベネディクト・アンダーソンの言葉を引用すれば、それは「進歩無き暴力」なのであった。 2006年クーデター後の暴力の根源は、1997年憲法以降に展開したポピュリスト・デモクラシーと大衆政治の時代における、従来のエリートたちの脆弱性とその権力の衰微にある。選挙で選ばれなかったエリートたちは、暴力に訴えることで、選挙で選ばれた政府を転覆させ、民主主義のプロセスを頓挫させ、再び自らの権力を確立させようとしたのだ。歴史は2014年に繰り返され、プラユット・チャンオチャ(Prayuth Chan-o-cha)司令官率いる軍事政府が、国家平和秩序評議会(NCPO: National Council for Peace and Order)の名の下、タクシン元首相の妹、インラック・シナワトラの選挙で選ばれた政府を転覆させるクーデターを仕掛けた後、2014年5月に政権に就いた。2014年のクーデターは、事実上、タイを圧政的な軍事独裁支配に引き戻し、その様子は官僚組織や軍部が王政の下で政治を牛耳った1950年代の独裁者、サリット・タナラット元帥(Marshall Sarit Thanarat)の政権さながらであった(Thak 1979)。圧政的な軍事支配の下で市民の自由は制限され、言論の自由は検閲を受け、批判は罰せられ、政治活動は禁止された。クーデター以降、軍司令官たちは自らを新たな支配層エリートとして確立させようと、自らの地位や権限、予算や人的資源の強化を行った。彼らはまた、自らの優位を維持するべく憲法を策定し、多数者優位の民主主義を弱め、政党や市民社会の力を損ねたのである(Prajak 2016)。またしても、クーデターや暴力のはびこる、この不安定な王国では、制服を着て銃を持った男たちが表舞台へと戻ってきた。それに、彼等が兵舎へ引っ込む見込みは、当面ところ無い。 Prajak Kongkirati タマサート大学 政治学科 REFERENCES Anderson, Benedict (1990), “Murder and Progress […]