KRSEA-Chen-Migrant-Workers
Issue 25

不可能から可能性を作り出す: ラオスにおける農村部の出稼ぎ労働者たちの裏口経済とその落とし穴

若者たちがラオス農村部の集落を離れ、賃金労働のために国内の都市空間や、タイのその他の場所に行くことは、現代ラオスではありふれた現象となった。国の過渡期にある経済において、この傾向はしばしば、構造的経済のレンズ(視点)を通じて理解される(Dwyer 2007など)。物質主義的解釈は、ラオス農村部の人々が農業を重視し、土地に固着するという神秘化されたステレオタイプとの相乗において、それなりに評価されるべきものだが、これは必然的に地方の出稼ぎ労働者を「発展の犠牲者」と見なす、ありがちな言説も生み出す(Barney 2012)。この言説では、政策から生じた貧困によって地方を出ることを余儀なくされ、非熟練の低賃金労働者にされて、職場での様々な搾取に苦しめられる人々の話が語られる。この全体論的な言説が、出稼ぎ労働者個々の主体性を十分に説明し得るものではないという点が、知識人たちの批判の的となっている。地方の故郷を出る、という若者たちの進路決定を支える「自発性」、特に現代的なものや自立に対する欲求について詳述する試みは、このような人々の受動的な「犠牲者イメージ」を崩す上で一定の効果を上げてきた(Riggs 2007; Portilla 2017)。だが、出稼ぎ労働者の実際の職場での経験になると、なおこのイメージが付きまとう。出稼ぎ労働者に関する国内外の様々な職場における考察は、強圧的な賃金体制やミクロ・レベルでの酷使、社会的差別の記述が中心である(Phouxay and Tollefsen 2011; Huijsmans and Bake 2012;)。このような記述が集まって「不可能」の条件を構成し、出稼ぎ労働者のあらゆる形をした社会的上昇志向に悪影響を及ぼす事となる。このような記述をラオス農村部での送金経済の題目に該当する文献と併読すると、一体、故郷を去る若者たちがどのようにして他所の土地で何とか生き残り、成功するのだろうかと考えさせられる(Riggs 2007; Barney 2012)。本論はラオス人出稼ぎ労働者が出先で直面している搾取的な状況の存在そのものを否定する事も、軽視する事も意図しない。むしろ本論は、彼らが不可能からいくらかの可能を作り出す手段に光を当てる事にささげる。これに際して、著者はこの社会集団に貼られた「犠牲者」という、それ自体が社会的疎外力を持つ唯一のレッテルに、さらに立ち向かって行く事を目指そう。 本論の焦点は生存戦略であり、これは今日、若いラオス人出稼ぎ労働者が職場の苦難を乗り切るために広く用いるものだ。それは日々の仕事からわずかな収入のための裏口手段を開拓する行為である。「仕事」に独自の意義を見い出そうとする出稼ぎ労働者の継続的で不従順な試みの根底には、彼らの搾取に対する秘かな抵抗がある。出稼ぎ労働者の裏口経済は、彼らが一息つくための空間をまかなう一方で、彼らを落とし穴へと導くものでもあり、そもそも、そのような行為自体が疎外された立場を彼らにもたらす経済論理を強化している。本論以下では、特定の戦略の内容とその両義的影響について、ラオス国内の地方からの出稼ぎ先として最も人気の高いビエンチャン市における二、三の個々の生活体験の断片から解説する(Phouxay 2010)。 ビエンチャンのように公共交通機関が不足した都市では、日々の通勤の多くがバイクや車などの自家用車によって行われている。車上生活の流れが絶えず寸断の危機にさらされるのは、地元のガソリンスタンドの営業時間の終了後、ナイトライフが活気を帯びてくる時間帯だ。最も慎重なドライバーであっても、時には帰宅途中の夜中にガス欠で立ち往生に見舞われる事がある。多くの者達にとって、このような状況は単に生活の中で避けるべき些細な問題でしかないが、起業家精神を持つ少数の者達はむしろ、これに金儲けのチャンスを嗅ぎつける。彼らは交通量の多いいくつかの道沿いに腰掛けを置き、その上に燃料瓶を置いて売っている。ビエンチャンで、このようなほとんど人目につかない商売をしている者達の中に、トゥ(Tu)という19歳のサワンナケート(Savannakhet)地方出身の男がいた。彼はドンパラン(Dongpalane)通り沿いの歩道上の定位置に時々姿を見せるのであった。彼の不定期と思しき商売計画を実際に左右していた一つの主な要因は、彼が職場から十分なガソリンをくすねて来られるかどうか、という事だった。ビエンチャンにある中国系旅行会社でミニバンのドライバーをしているトゥは、常に空っぽの飲料水の330mlボトルを職場に持参していた。チャンスが到来すれば、ミニバンのオイルタンクの底のドレンボルトを外し、このボトルを充填しようというのだ。ひとたび、職場からタイガーヘッド社の水の1.5ℓボトルを満たすだけの量を抜き取れば、彼のドンパラン通りでの裏口商売が開業する。 詳しく調べてみると、トゥのささやかなガソリン計画にまつわる、計算された策略作りと着実な実行には訳も無く感心させられてしまう。彼が日課として職場からガソリンを失敬するようになったのは、一年前に現在の会社でドライバーとして採用されて間もなくの事だった。上司に見つからないように、彼は毎回タンクから抜くガソリンの量を慎重に制限し、その量がその日の走行距離に見合うものとなるようにしていた。このため、上司は燃料費がわずかに増えた事を、新しいドライバーの無駄の多い運転癖のせいにするようになった。時々、トゥは上司を乗せて走る時、わざと彼の癖だと思われているような事をしてみせることもあった。たとえば、突然停車したり、発進したり、車内のエアコンを過剰に使ったりしてみせて、彼の上司が持論を確信できるようにしたのだ。また彼はわずかな収入のためにドンパラン通りで待つ、退屈な幾夜かを過ごすために外出する事をいとわなかった。ある晩、筆者が午後9時から午後11時までの彼の仮設商店に同行したところ、彼の儲けは合計45,000キープ(大体5米ドル)だった。それでも彼はこれをついてる日だ、と評価した。この現金にどういう価値があるのかは、トゥの月収が1,300,000キープ(大体150米ドル)である事と照らし合わせて理解する必要がある。 上記の話に描かれた抜け目がなくて計算高い人物は、ラオス人労働者が無能で怠慢だという従来のイメージとの著しい対照を示す。トゥの雇い主のヂョウ(Zhou)自身も、トゥに割り当てられた仕事に秘かな拡張業務がある事にはほとんど気が付かぬまま、そのようなステレオタイプで彼を見ていた。1990年代の初頭にラオスにやって来たこの広東人実業家は、トゥと彼の前にいた全てのラオス人従業員を一緒にして、著者に次のような愚痴をこぼし続けた。「彼は目の前のごみを拾おうともしない、ただその辺に座って何にもしないでいる時にですよ。怠け者のラオス人労働者ってやつでね、毎回むちで打たなきゃ、ちょっとも前に進みませんから」。彼はまたトゥの「極めて低い知能指数(IQ)」について、事務所の本棚事件によって確たる結論に至っていた。これはある時、彼がトゥに事務所内の家具の模様替えを言いつけた時に起きた事件だ。彼の極めて詳細で具体的な指示にも関わらず、トゥは本棚の正面を壁側に押して散らかすという事をやってのけたのだ。「明らかにこの田舎者の頭には脳みそなんか入ってませんね」とヂョウは言った。 上司ヂョウの面前で無能を装うトゥの複合戦術に通じるものは、ジェームズ・スコット(James Scott (1985))がいみじくも概念化した「弱者の武器(‘weapons of the weak’)」である。すなわち、階級闘争に対するサバルタンの非対立的な日々の抵抗である。ぐずぐずしたり、愚か者のふりをしたりする事で、彼はヂョウが自由裁量で彼に「ドライバー」以上の仕事をさせようとする搾取的な試みや、仕事を与える際に用いる暴言に対抗したのだ。さらに、トゥが自身を典型的なラオス人労働者として卑下した事は、ヂョウの監督上の警戒心を効果的に下げ、それによって彼は仕事の意義や業務を自分の利益となるように改める隙をより多く確保する事となった。ラオスのような発展途上のポスト・コロニアル的状況下では、先住民を怠慢などの前近代的特性と結びつける慣例がよくある。批判的な介入は、この現象をとりとめの無い植民地的遺産で、ポスト・コロニアル国家が新政権正当化のために時折用いる事もあるものと解釈する傾向がある(Li 2011など)。場所に限定的な歴史的条件も、頻繁にこの説明として用いられる。ラオスでの事例のように、ごく最近まで生計を自給自足・半自給自足の農業に圧倒的に依存していたため、資本主義の労働倫理にあまり触れた事がない住民などがその例だ(Evans 2002)。それでも、トゥの物語はミクロ・レベルの階級政治と東洋的な主体に再び焦点を当て、先住民である事と劣等性との根源的な結びつけを解読する努力が必要な事を指摘している。 トゥのような地方の若い出稼ぎ労働者にとって、日常業務内容の拡大による収入増加戦略は、生存のためということが明確率直に強調される。教育と訓練不足のために、この社会集団は高い技術を必要としない建設業やサービス業、家庭内労働、製造業などの部門に限定され、これらの部門は大抵、「どうにかやっていくだけ」の給料を保証する(Phouxay 2010)。出稼ぎ先で自らの厳しい生活を維持するというプレッシャーに加え、遠方の家族を養う義務と現代消費主義の誘惑もまた、消える事のない金欠感の一因である(Riggs 2007; Phouxay and Tollefsen […]

KRSEA-Issue-25-Lao-DPR
Issue 25

Land Governance in Laos

In recent years there has been considerable controversy in the Lao People’s Democratic Republic (Lao PDR or Laos) regarding decisions by the government to issue long-term land concessions to foreign companies for large-scale plantation development, […]

Issue 20

ร่างกายที่เคลื่อนย้าย/ไม่เคลื่อนย้าย: ย้อนรำลึกถึงการเติบโตในช่วงความเปลี่ยนแปลงครั้งใหญ่

รายงานและภาพที่ถ่ายทอดในสำนักข่าวต่างประเทศเกี่ยวกับ “วิกฤตการณ์ผู้ลี้ภัย” โดยเฉพาะการอพยพครั้งใหญ่ของชายหญิงกับเด็กชาวซีเรียที่หนีจากสงครามกลางเมืองในประเทศของตนตลอดช่วงหลายเดือนที่ผ่านมา ทำให้หวนนึกถึงความทรงจำเกี่ยวกับการหนีออกนอกประเทศครั้งใหญ่อีกครั้งหนึ่งเมื่อประมาณสี่สิบปีที่แล้ว เมื่อชาวกัมพูชา ลาวและเวียดนามหลายแสนคนละทิ้งประเทศของตนภายหลังคอมมิวนิสต์ได้รับชัยชนะใน ค.ศ. 1975 ลักษณะคู่ขนานระหว่างการอพยพสองครั้งนี้เห็นได้อย่างเด่นชัด โดยเฉพาะการเดินทางอันน่าหวาดหวั่นที่ต้องลอยเรือกลางทะเลเพื่อขึ้นฝั่งในยุโรปหรือเอเชีย การอพยพย้ายถิ่นด้วยความจำใจทุกครั้งย่อมมีพลวัต ต้นตอและผลกระทบที่เป็นลักษณะเฉพาะของมันเอง มันอาจมีลักษณะคู่ขนาน แต่ไม่มีทางเหมือนกันโดยสิ้นเชิง กระนั้นก็ตาม มีเรื่องเล่าทับซ้อนกันสองชั้นที่ครอบทับการอพยพหนีออกจากประเทศทั้งสองระลอกข้างต้น ในด้านหนึ่ง เรื่องเล่านำเสนอภาพเหยื่อ “โลกที่สาม” ที่ช่วยตัวเองไม่ได้ ส่วนอีกด้านหนึ่งคือ (ความพยายาม) ปฏิบัติการช่วยเหลือด้านมนุษยธรรมจากประเทศ “โลกที่หนึ่ง” Yen Le Espiritu ตำหนิงานเขียนเชิงวิชาการก่อนหน้านี้ที่มองว่าผู้ลี้ภัยชาวเวียดนาม “เป็นแค่วัตถุของการช่วยเหลือ วาดภาพว่าพวกเขาโศกเศร้าจนช่วยตัวเองไม่ได้ ดังนั้น พวกเขาจึงจำเป็นต้องได้รับการดูแล โดยอ้างว่าการดูแลที่ดีที่สุดทำได้ในและโดยสหรัฐอเมริกาเท่านั้น” (Espiritu 2006: […]

Issue 20

可動の身・不動の身:激動の時代に成長した記憶

国際報道機関の伝える「難民危機」に関する報道や映像、とりわけ、シリア人の男女、子供達が母国の過去数か月におよぶ内戦を避け、大移動する様は、もう一つの大規模な逃亡の記憶を呼び起こす。それは40年程前に何十万人ものカンボジアやラオス、ベトナムの人々が、1975年の共産主義の勝利の結果、国を後にした記憶である。この二つの大移動の類似点は見過ごし難く、最も顕著なものは、彼らがすさまじい海路の旅でヨーロッパやアジアの海岸へ辿り着こうとする点である。あらゆる強制移住には、それなりの原動力や発端、結果がある。すなわち、類似点を引き出す事は可能であっても、それらは同一ではない。だが、いずれの逃亡にも顕著な二重のナラティブの特徴は、一方に無力な「第三世界」の犠牲者たちがいて、もう一方には「第一世界」による人道救助活動(計画)があることだ。ベトナム人難民に関して言えば、Yen Le Espirituが酷評した先行学術論文は「(彼らを)救助の対象」と位置づけ、「彼らを悲嘆のために無能力状態に陥った保護が必要な者として描き、その保護はアメリカで、またアメリカによって最良のものが提供されるという事だ」(Espiritu 2006: 410)。このナラティブはおそらく、多くの新聞やテレビの「ボート難民」の苦難や難民キャンプでの人道問題の報道に影響されたもので、これが転じて「インドシナ難民」に関する集合的記憶を形成した。 事実、後者に付随する言説やイメージがあまりにも揺るぎないものであるために、彼らを「人工記憶」保有者と呼んでも見当違いにはならないだろう。Alison Landsbergの概念は、これらの出来事を生き抜いた経験を持たない人々の心を動かす「新たな形をした公的文化的記憶」に関連している。これらの記憶は「実体験の産物」ではなく、Landsbergが述べるように、「媒介表現に接する(映画を見る、博物館を訪れる、テレビの連続ドラマを見る)事から生じた」記憶なのである(Landsberg 2004: 20)。2015年に賞を獲得した双方向的なグラフィック・ノベル、『ボート(The Boat)』は、Nam Leのアンソロジーのタイトルとなった短編作を脚色したもので、このような記憶のテクノロジーと大衆文化の一例である。この作品はオンライン読者のみを対象に制作され、心を揺さぶるよう、本文と画像、音声と動きを融合させ、一人のベトナム人の少女が両親によって難民ボートに乗せられ、オーストラリアへ送り出された物語を伝える。 この「捨て身で救助される」というナラティブは、戦争と暴力の犠牲者としてのインドシナ人難民のイメージを具体化している。難民として、歴史の犠牲者としての立場が認識されているため、当然、難民達には何の術もなく、その亡命生活は彼らが救助されてホスト社会に入るその日に始まるかのように思われている。逆に、彼らが母国を発った時の状況や事情がつぶさに調べられる事は希である。だが彼らの人生の決定的瞬間は、彼らが桁外れに困難な状況を抜け出す事を決意した際の、彼ら自身のイニシアティブの結果なのである。筆者は2015年にシドニー郊外で、1975年以降にラオスを去ったラオス系オーストラリア人達にインタビューを行った。推測では、約40万人のラオス人が1975年から1980年代の後期までに(主に)フランスやカナダ、アメリカ合衆国、オーストラリアに逃げ込んで亡命した。ラオス国民の大移動は、ベトナム人やカンボジア人の大移動のようには知られていない。この理由はおそらく、これが前者の規模に相当するものでもなければ(約175万人のベトナム人が1975年から1990年代半ばまでの間に国から逃亡した)、カンボジア人生存者たちのような極度のトラウマを特徴とするわけでもなかったという事だ。 ラオス人難民の逃亡理由を述べる際、報道は通説を繰り返す。「一部のラオス人たちは再教育収容所に入れられる事を恐れて逃亡した。他の者達が出て行った理由は、政治的、経済的、宗教的な自由を喪失した事である」というものだ(UNHCR 2000: 99)。これらの要因や事情は、概ね正しいのであるが、これらの説明には亡命者達のプロフィールや体験を均質化する傾向があり、まるで彼らが年齢や性別、あるいはエスニシティに関わらず、同一の必要に迫られて一様な集団を形成したかのようなのだ。筆者がインタビューの対象としたのは、ラオス系オーストラリア人で、1960年代初頭から1970年代後期に生まれた人々である。筆者が調査を試みた集団が、歴史的な出来事、すなわち、政治体制の崩壊と社会主義者の支配の出現、そして大量脱出を、人生のほぼ同時期、子供時代から成人期にかけて生き抜いた人々であったからだ。若いラオス人難民たちは重要であるにもかかわらず、見過ごされた集団であったのだ。1975年以降にラオスから逃げ、1975年から1987年の間にタイのキャンプを通過した人々の約40%は13歳から29歳であった(Chantavanich and Reynolds 1988: 25)。 共産主義の勝利に続く時代の記憶は、ラオスにおける厳しい生活環境を描く。設立当初から、新政権は存続を懸けた戦いを行っていた。彼らはアメリカの空爆によって破壊された国家の再建という、途方もない課題に直面していたのである。1975年以降、西洋諸国の大半は支援をやめるか、その援助を大幅に削減した。隣接するタイが通商を禁じた事が、経済を苦境に陥れた。さらに、一連の自然災害(1976年の干ばつ、1977年と1978年の洪水)は、農業生産を著しく妨げた。日常生活は一層束縛され、国内の移動が制限されて、日常的な監視は強化された。SomchitとVilayvanhは当時、十代後半であった。二人共、ビエンチャンに住んでいた。Somchitは数年前に学校を卒業し、運転手として働いていた。Vilayvanhは大学生であった。Somchitは首都ビエンチャン近郊の村に育ち、1975年には19歳であった。彼はその頃結婚したてで、妻と共に彼の雇い主がビエンチャン郊外に用意した家に引っ越したばかりだった。Somchitは成人期を目前に、彼の周囲で世界が崩壊していく様を目にしたのである。彼が記憶していたのは、「物事が不安定(voun)になり」、「混沌(voun vai)としてきた」事であった。同じ時期、彼の妻は二人の赤ん坊を死産させている。「私の人生は行き詰ってしまった(bor mi sivit lort)」。彼が出て行ったのは1978年で、メコン川を泳いでタイに渡った。彼の妻は彼女の両親と共に留まる事を選んだ。Vilayvanhは南部のチャンパサック県の村で育ち、彼女がビエンチャンのロースクールの二年生であった1974年は、Somchitと同じ言葉を用いれば、「事態が混沌としてきた(voun vai)時代であった。彼女は学位を取得する事ができず、1975年以降は医学の道に転じた。彼女は1990年まで国を出なかった。 SomchitとVilayvanhの話は、両者が「混沌とした」、「不安定な」と表現したこの時代の記憶について、同様の圧倒的な不安感を伝えていた。彼らのナラティブは、特定の歴史的時期の中で、個人的な体験や彼らの周囲の人間、つまり家族や仲間たちの体験を介して形成されたものである。SomchitとVilayvanhは、歴史的出来事の主観的体験の共有によって定義される世代コホートに属している。これはカール・マンハイムが「連関世代(generation as actuality)」と名付けたもので、特定の生涯の一時期における「歴史的問題」の集団的体験が、解釈や内省によって結び付けられる方法である((Mannheim 1952: 303)。Thomas Burgessの社会変動の時代における青年期の定義も、これが安定した「伝統的」社会からの決裂の重要性を強調するために有用である。彼の言葉によると、「断絶がより決定的である場合、(…)青年期はライフサイクルの中の一時期としてよりもむしろ、歴史的コホートとして出現し」、それは「その世代を前後の別世代から隔て、一段と多くの交渉や変動、創作の余地がある特有の歴史的背景やナラティブ」によって定義されている(Burgess 2005: x)。言い変えると、破壊の時代(例えば戦争、自然災害、社会的危機など)における青年期は、より自律的な範疇になるという事だ。急激な社会的、政治的変化の過程を生きた若者として、SomchitとVilayvanhは、それぞれに違ったやり方でその状況に対処したのである。 成人期に入る寸前に、Somchitの人生は痛ましい個人的出来事に押しつぶされ、威圧的な政治・社会経済環境に捕らわれてしまった。相応の人生を送る可能性の欠如が、彼の移住の決心を支えていたのである。Somchitの境遇は、彼に全てを捨てさせる事を余儀なくした。メコン川を泳いで渡りながら、彼が「携えていたのは自分の身一つであった」(aw tae […]

Issue 2: Disaster and Rehabilitation

Mainstream Development— The Mekong

Plans to make the Mekong navigable to bigger boats by blasting rapids and shoals threaten to end a way of life for thousands of villagers. The sky rumbles in the distance and cold wind blasts […]

Issue 2: Disaster and Rehabilitation

Globalization from the Lao Hinterlands

“Globalization” is only the most recent buzzword to describe the spread of ideas and material goods worldwide. Whether one personally considers globalization to be boon or bane, it is nonetheless a reality that affects almost […]