記憶、哀悼、そしてメランコリーは、ベトナムの国民的映画監督で脚本家でもあるダン・ニャット・ミン(Dang Nhat Minh)の映画の中で、一際重要な位置を占めている。1938年にフエに生まれたダンは、ソビエト共和国で学び、そこで映画製作に出会った(Cohen, 2001)。国が出資した彼の作品群、『十月になれば(When the Tenth Month Comes (1984)』、『ニャム(Nostalgia for the Countryside (1995)』、『河の女(The Girl of the River (1987)』そして『きのう、平和の夢を見た(Don’t Burn (2009)』などは、概して国家の共産主義的イデオロギーを宣伝し、戦争の英雄たちを称え、国民の福祉のための集団的な社会闘争を謳ったものである。本稿の焦点となるダンの1999年の作品『グァバの季節』は、この作品群(とその出資者たち)とは相容れぬもので、党路線から外れている(Bradley, 2001: 201-216)。『Mùa ỏ̂i(文字通り、「グァバの季節」)』と題された本作は、ダン自身の短編小説『昔の家』を映画化したものである(Lam 2013: 155)。この作品は、二年がかりのお役所仕事を片付けた後にようやく撮影開始が可能となり、1999年の封切以来、ベトナム国内では上映された事がない(Cohen, 2000)。 『グァバの季節』はフランスで教育を受けたベトナム人弁護士と、彼の親仏的な中流家庭の物語で、背景は1954年から1980年代後期の歴史的大断絶の時代である。弁護士は自ら設計した現代的な屋敷をハノイに建てさせる。物語の中心はこの弁護士の三人の子供たちである。真ん中の子、ホアは、家族が庭に植えたグァバの木の実を採る最中に木から落ちて頭に怪我をする。物語はホアが50歳のところから始まる。彼の一番上の兄のハンはドイツへ移民し、ホアの妹のトゥイが彼の面倒を見ている。現在と過去が静止したままぶつかり合う。頭に怪我をした事によって、ホアの記憶と知能は時間の中に凍結され、1959年から1960年に北部を席巻した土地改革で一家が追い出され、家財を没収された後も没落を拒む(Cohen, 2000)。 筆者の主張は共産主義の神話、共同所有権に対するダンの大胆不敵なカウンター・ナラティブと、個人の記憶の映画的表現が相まって、国家と個人の記憶の間に数多く存在する亀裂を浮彫にしている事である。もう一つの記憶の舞台を設ける事で、『グァバの季節』は個人の記憶の大規模な消去に光を当て、国家の集合的な歴史と記憶の二段階での正当化や、さらにはその「記憶」の背後にある新旧の政治体制にも疑問を投じる。さらには『グァバの季節』が共産主義体制の非情さを拡大してみせるため、中流家庭の家財没収だけでなく、記憶の諒奪の試みによって、等しく腐敗し、矛盾した社会的平等と集団性という共産主義のイデオロギーに余地を作ろうとした事に焦点を合わせる手法も示す。記憶にまつわる政治体制の変化という複雑な物語に対するダンの語り口と視覚表現の想像力に富んだ映画的言語を、三つの主要な局面を通じて分析する。それらは忘却、消去、そして隔絶である。最後に、ダン映画の中で記憶がどのように経験として具現化されるかを示す。 『グァバの季節』は、サンダルを履いた一組の足が、ハノイの現代的な屋敷のフェンスに沿って忍び歩きをする35ミリのクローズアップから始まる(図 1)。このシーンに続くのは屋敷の中から見たフェンスのロングショットである。ホアの顔と目がフェンスの穴から覗き、彼の父親がかつての自宅に植えた一本の背の高いグァバの木を見ようとしている。現在の住人は政府高官と彼の甘やかされた大学生の娘のロアン、そして彼らのために料理や掃除をする年配の女中である。残りの家族は皆、ホーチミン市(サイゴン)にいる。50歳のホアはフェンスをよじ登り、再び自分のグァバの木を訪れようとするのだが、不法侵入で捕まり、警察署へ行くはめとなる。彼の妹のトゥイは、彼を助け出すためにホアが精神障害者であるという確認書に署名をする。 心の痛むようなシーンが繰り広げられ、我々は程なく、ホアが自分の思い出の中に生きている理由を理解する事になる。トゥイは警察署からホアを自転車の後ろに乗せて自宅に連れ帰る。彼女はまるで彼が小さな子供であるかのように服を脱がせるのを手伝い、シャワーを浴びるように言いきかせる。彼の汚れたズボンのポケットの中身を出している時、彼女は彼が父親の植えた木からもいできた一つの緑色のグァバの実を見つける。彼女がそれを手の平に乗せていると、グァバの重みと手触りがトゥイの記憶を呼び覚ます。彼女の家族に何が起きたのか、とりわけ、何がホアの精神を危機的状態に追いやったのか(図2と3)。トゥイはそこで、自分たちの家族の歴史とホアの人生の物語をナレーションで語り、背後には家具がある、彼らの暮らしていた30年前の家の回想シーンの映像が流れる。 『グァバの季節』は、サンダルを履いた一組の足が、ハノイの現代的な屋敷のフェンスに沿って忍び歩きをする35ミリのクローズアップから始まる(図 1)。このシーンに続くのは屋敷の中から見たフェンスのロングショットである。ホアの顔と目がフェンスの穴から覗き、彼の父親がかつての自宅に植えた一本の背の高いグァバの木を見ようとしている。現在の住人は政府高官と彼の甘やかされた大学生の娘のロアン、そして彼らのために料理や掃除をする年配の女中である。残りの家族は皆、ホーチミン市(サイゴン)にいる。50歳のホアはフェンスをよじ登り、再び自分のグァバの木を訪れようとするのだが、不法侵入で捕まり、警察署へ行くはめとなる。彼の妹のトゥイは、彼を助け出すためにホアが精神障害者であるという確認書に署名をする。 心の痛むようなシーンが繰り広げられ、我々は程なく、ホアが自分の思い出の中に生きている理由を理解する事になる。トゥイは警察署からホアを自転車の後ろに乗せて自宅に連れ帰る。彼女はまるで彼が小さな子供であるかのように服を脱がせるのを手伝い、シャワーを浴びるように言いきかせる。彼の汚れたズボンのポケットの中身を出している時、彼女は彼が父親の植えた木からもいできた一つの緑色のグァバの実を見つける。彼女がそれを手の平に乗せていると、グァバの重みと手触りがトゥイの記憶を呼び覚ます。彼女の家族に何が起きたのか、とりわけ、何がホアの精神を危機的状態に追いやったのか(図2と3)。トゥイはそこで、自分たちの家族の歴史とホアの人生の物語をナレーションで語り、背後には家具がある、彼らの暮らしていた30年前の家の回想シーンの映像が流れる。 […]