2016年9月22日から26日の間、ある展示会がバンコクの繁華街のパラゴン・デパートとディスカバリー・センターの間にある商業スペースの小区画で開催された。その展示の目玉はロイヤル・プロジェクトの商品で、この開発プロジェクトはプミポン国王によって、その70年間の御代を通じて推進されたものであった。大きな白いテントの中は可動式の空調で冷やされ、袋を抱えた買い物客らが、茸ソテーのグリルドチーズ、ラズベリーケチャップ添え等のごちそうを味わいつつ、豪勢な空間を見物できるようになっていた。再現された山荘は、みずみずしく植えられた花々や木製のテーブル、田舎の家屋を模した建物を完備し、世俗的快楽を求める買い物客を迎えていた。前国王の大きな4枚の写真が天井から吊られていたが、あまりにも至るところにあったため、これと言って目立つ様子もなかった。 それらは最も精悍な頃のプミポンを描いたものであった。それらの写真の中で、プミポンは簡素な平服、あるいは軍服をまとい、一人で、あるいは女王か娘と並び、周囲には常に大勢の群衆が平伏していた。これらが撮影された頃のロイヤル・プロジェクトは、王室に広まった小規模な開発計画であった。それらの主な拠点となったタイ山岳民族のコミュニティのある地域は、大抵が共産主義の反政府活動に取り囲まれた地域であった。またこれらの計画は、しばしば国王直々の訪問を伴うものであった。一つのレベルにおいて、このような王国の辺境訪問は、開発の約束と相まり、プミポンを国家の建設者、冷戦主義者として示すものであった。この対極にありながら、これに匹敵する存在として、彼と同時代に地球の裏側にいたフィデル・カストロの例が挙げられる。また別のレベルにおいては、これらは世界の、またひいては宇宙の刹那と自己とを呼応させる事ができた完璧な仏教王を連想させた。 では、これらのイメージが現代の都会の消費者たちと何の関係があるのだろう? 適時性 良いプロパガンダは、時宜を得たものでなくてはならない。かつてJacques Ellul (1973, 43)が明らかにしたように、プロパガンダは現在を形作る「基本潮流」との和(ラポール)を突くものでなければならず、また「移ろいやすい臨場性」と結び着く事によってのみ扇動的となる。基本的事実が速やかに歴史や中立、無関心の領域に移行するような世界の中で、プロパガンダが語るべきは「神話と、定められた時間と場所の前提」のみなのだ。 冷戦期を通じて、二つの極めて重要な要素がタイに歴史的臨場感を生んだ。それらは共産主義の脅威とアメリカ指向の開発主義である。当時のプミポンの地方訪問は、この両者に物申すものであった。それらは想定された反政府活動の脅威を浮き彫りにしただけでなく、当時進行しつつあった資本主義の急速な拡大に対する懸念も和らげたのである。 重要な事は、これが単独的な覇権主義のプロジェクトではなかった事だ。それは多角的なものであり、目覚ましい献身行為を王家の図像の様々なレベルでの利用権によって報いるという、一連の複雑な相互関係を通じて運営されていた。当面の間、この最大の恩恵はアメリカ人にあった。彼らのプロパガンダ作戦におけるタイ王政支持は、王家のイメージ保護に役立ち、これによって共産主義を打倒せんとするものであった。タイを訪問するアメリカ人の大多数にとって、彼らの戦争を行うために尽力した国王への忠誠は至極当然なものであった。さらに、西洋の白人に対する深い懐疑のわだかまっていた地域では、アメリカ人に特権的地位が与えられた事が、タイ的秩序を志向する義務感を植え付け、これが大いに文化統治の「伝統的」形式の尊重へと注がれたのである。このポストコロニアル的な道徳秩序は、タイのアメリカ主導の資本主義への急速な統合を支える上で役に立った。 冷戦主義者プミポンは、久しくその精彩を失っている。だが、新たに生じる動向を読み取る事に長けた王室は、その相互関係が新たな社会的、政治的現実を反映するよう、これを作り替えた。冷戦期のアメリカ人たちと同様に、タイの日常生活における王室の重要性を進んで主張してきた者達には、その報いに国王の道徳的権威と認められるものの一定の利用権が与えられてきた。代わりに、この事がタイ王権の拠り所となる既存の宇宙論に、変わり続ける世界の中で新たな効力を吹き込む事を助けてきたのである。 清新、清潔で健康的 今日の時代思潮は清潔さである。清潔な食事とスローフードは、バンコクの最もクールな場を席巻している。身体の毒素排出と現代生活の不安を和らげる事を約束した清潔な食事は、かつて、石鹸や衛生学によって規定された差異の、古い植民地時代の比喩(トロープ)を複製している。Anne Mcclintock (1995, 226)が、イギリスのインペリアルレザー(the British imperial lather)との関連で述べたように、「清めの儀式は、身体を意味の土壌として整え、自己と社会にまたがる価値の流れを秩序付け、一つの社会と別の社会との境界を定めるのである」。 「清潔な」(sa-ad)一皿の食事の値段が一般人の購買能力をはるかに超えているタイでは、世界的な流行である「スロー」、「オーガニック」、「クラフト」は、身体的な差異と純粋性を得る新たな手段を、数々の魅惑的な食料品によって提供している。またこれは新たな空間も生み出し、それらの清浄かつ清新な場は、一部の流行に敏感でコスモポリタンな顧客たちを楽しませんとするものである。アーリヤ・オーガニック・プレイス(Ariya Organic Place :Ariyaはパーリー語で純粋、貴重、あるいは高貴を意味する)などの名前がついたレストランは、したがって、海外の最新の手法を用いて都会人の身体に滋養を与える事を謳ってはいるが、国内のタイ仏教の世界観と結びついた、より長い歴史を踏まえたものでもあるのだ。 同じ事はパラゴン横の展示会についても言え、その宣伝用資材は「高原風にするべく木で飾られ」ながらも、「都市住民や新世代の需要と流行りのライフスタイルに応じる」「現代的なファーマーズマーケット」を基調としたものであった。すなわちそれは、世界的な通用性と文化的特性との融合であり、有名シェフの魅惑的な新レシピが、田舎風の小粋にタイ風のひねりを利かせ、高額な値札と共に供されたというわけだ。 ここで、前時代に撮影されたプミポン国王の不鮮明な肖像が、現代の新奇のスペクタクルの中で、極めて重要な要素を成していた。彼の肉体が今生の終わりに近づくにつれ、これらの肖像からは、冷戦の背景が取り去られる事となった。今、若かりし頃の国王の御霊が据えられているのは、清められた(borisut)文化的世界の中心であり、小規模ながらも活気に満ちた、贅沢な消費行為を通じた多様な参入の機会が横溢する場である。 ロイヤル・イメージの買収 九代目の御代を通じ、富と購買能力は、かつての外国人たちが王室との相互関係を築くための基本的手段となってきた。Christine Gray (1991)は、冷戦の真っただ中に、タイ華人の資本主義者たちが王家の慈善事業やイニシアティブに貢献する事で、いかに王家の威徳を「手にする」事ができたかを述べている。彼女はまた、タイ華人が所有するバンコク銀行が、1967年にロイヤル・ガルーダ紋章の使用権を認められ、その商標を王家と関連付ける手立とした手法も明らかにした。 一方、Kasian Tejapira (2003)は、1980年代後期からのタイにおける「急成長」時代に伴う急速な消費主義の拡大が、より均一な都会のアイデンティティ感覚を生み出す上で役立ったと主張した。増々、タイ人である事は、お金で手に入れられる事、あるいは、価値交換によって体験し得る事となっていった。一回の休暇、一着の服、一個の宝石、これらの全てをより魅力あるものとするには、それを「タイ的」な何かと関連付ければよいのであった。これとは別に、Somsak Jeamteerasakul (2013)は、この新たな消費文化の出現が、都会の消費者たちに王室勢力圏への進出を、より容易かつ魅力的なものとした事を主張する。単に王家お墨付きの、あるいはロイヤル・ブランドの商品を買う事は、より伝統的で儀礼化された献身の表明とは対照的であったが、国家への献身を示す明快な手段となったのである。 だが、時の経過と共に、これらの購入はまた、道徳的な複雑性から比較的自由であり続けるには、コスモポリタンな生活がプミポン国王の肖像を介したものである必要があるとの考えを裏付ける上で役に立った。1997年の危機で、タイの資本主義体制の根本的不平等が、かくも容赦無くさらけ出された後、王家の威徳はより一層貴重な商品となった。とりわけ2006年以降の時代、君主制への献身は、タクシン・チナワットに関連した様々な統治機関に反対であったタイの都会人たちを安堵させる事となった。すなわち、それは彼らに道徳的に高潔であり続けたという自信を与えたのである。 […]