Issue 11 Mar. 2011

특집에 붙여

세계화와 지역화의 진전에 따라 동북아와 동남아의 관계가 급속하게 확대되고 심화되어 간다. 그러므로 유교문화의 전통적 위상을 기준으로 동아시아의 지리적 범위를 중국, 한국, 일본 등 동북아와 베트남으로 축소하는 ‘페어뱅크(Fairbank) 패러다임’의 문화중심적 접근은 역사적 계속성에 집착한다는 점에서 지극히 […]

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The Idea of Kingship in Buddhist Cambodia

Kyoto Review of Southeast Asia Issue 11 (March 2011): Southeast Asian Studies in Korea  “Sihanouk! Long live Sihanouk!” However unusual in the circumstances, this evocation of the prince was no surprise. Citing the destruction by […]

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캄보디아의 왕과 왕권

Kyoto Review of Southeast Asia Issue 11 (March 2011): Southeast Asian Studies in Korea “시하누크 왕 만세!” 그토록 급박한 상황에서 왕의 이름을 주문처럼 부르는 게 조금도 이상하지 않았다. 베트남군이 캄보디아 심장부로 들어오기까지 마치 ‘ 열려라 […]

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佛教國家柬埔寨的王權

“施亞努! 萬歲 施亞努!” 現場狀況儘管不尋常, 但施亞努王子對此種呼喚聲卻不感意外。由於美國人摧毀了柬埔寨邊界上多處聖地,河內的軍隊因而得以直搗高棉的心臟地區, 香煙是軍人的唯一差旅津貼,而施亞努的名字則是大家的口令(Bizot 2003年, 24)。 保皇派的崩薨 柬埔寨人鍾愛其國王。但2008年的大選則讓死忠的保皇黨派大敗。1993年大選的得勝者FUNCINPEC得到四成五以上的選票, 而對手只拿到百分之五的選票, 二個席位。另一保皇黨 諾羅敦·拉那烈親王黨, 亦僅取得二個席位。二個黨總共只拿到一成六七的選票, 二黨分裂前所獲大半選票均已流失。任何一黨均未在永珍取得席位,更令人震驚的是, 二黨僅在保皇派以往的鐵票區部落可汗省十八個席位中的一席。此次挫敗雖因保皇派自1993年以來持續勢微而非屬意外, 但仍係重大挫敗。 柬埔寨保皇派的崩潰原因眾說紛紜(Jeong 2009年)。書中提及的一個未定的說法是柬埔寨的保皇主義一直以來均係人民支持保皇派的基礎。一直以來的保皇派的說法是柬埔寨是具有印度傳統的佛教國家, 而國王亦在宗教上的權威受到完全的尊敬與支持。柬埔寨是否已“由保皇派轉變成非宗教式民主”? (Vickery 2007年, 195)此問題須進一步引發出許多其他問題。柬埔寨人民心中的王國究竟是甚麼樣子? 現今柬埔寨的佛教王國是否已經非宗教化或軟化了? 如果沒有, 那柬埔寨人民又該如何在圍繞著國王的政治現實與宗教認同之間取得平衡?  柬埔寨鄉間的宗教  柬埔寨是佛教國家。九成以上的柬埔寨人信奉佛教, 佛教無疑地是高棉的重心。即使赤棉也無法將柬埔寨的佛教消滅。赤棉潰敗後, 佛教迅速回溫(Harris 2007年; Hinton 2008年; Ledgerwood 2008年, 147-149)。一如Forest所言(2008年, 24),“佛教是分裂的柬埔寨國內唯一持久不衰且一致的元素”。  截至2005年為止, 柬埔寨全國有四千一百零四座佛教僧院與五萬八千八百二十八位佛僧與沙彌, 人數與戰前幾乎相同(Sovanratana 2008年, […]

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การวิเคราะห์ปรากฏการณ์แทรยู(กระแสไทย)ในเกาหลี

  Kyoto Review of Southeast Asia Issue 11 (March 2011): Southeast Asian Studies in Korea  I.คานา ปัจจุบันนี้คนไทยเข้ามามีบทบาทและมีรายการที่นาเสนอเกี่ยวกับอาหาร ทัศนียภาพเมืองไทยในวงการสื่อสารมวลชนเกาหลี อีกทั้งในชีวิตประจาวันเรายังมี การติดต่อกับคนไทยเสมอดังนั้น จึงเกิดประเด็นอภิปรายและคาดเดาถึงวัฒนธรรมไทยในสังคมเกาหลี และการสร้างเอกลักษณ์เฉพาะสื่อสารกันระหว่างในกลุ่มสังคม งานวิจัยนี้ศึกษาภายใต้กรอบความหมายสภาพการณ์เชิงวัฒนธรรมและสังคมที่เกี่ยวข้องกับประเทศไทยที่สามารถสัมผัสประสบการณ์ได้จากสังคมเกาหลีในรูปปรากฏการณ์ทางสังคมใหม่สังคมหนึ่งและเรียกขอบเขตความหมายของปรากฏการณ์นี้ว่า“แทรยู” ประเด็นหลักซึ่งอยู่ใต้กรอบความคิดที่เรียกว่า แทรยู คือ แรงงานต่างชาติไทย ผู้อพยพจากการแต่งงานระหว่างประเทศ วัฒนธรรมประชานิยม อาหารและการนวด การท่องเที่ยวและการศึกษาที่สามารถพบเห็นได้ในชีวิตประจาวันจากในสังคมเกาหลี งานวิจัยนี้มีจุดประสงค์เพื่อตระหนักถึงแนวโน้มชั่วคราวของแทรยู หลังจากศึกษาความเป็นมาของแทรยูในเกาหลี และสภาวการณ์และประสิทธิผลในแต่ละด้านของแทรยู II.ความเป็นมาของ “แทรยู” […]

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한국 속 태류(泰流)현상 분석

 Kyoto Review of Southeast Asia Issue 11 (March 2011): Southeast Asian Studies in Korea  Ⅰ. 머리말 최근 한국의 대중매체에서 태국 사람이 등장하거나 태국 음식과 풍물을 소개하는 프로그램이 흔해졌고, 일상생활에서도 태국 사람을 접촉하는 일이 빈번해지고 있다. […]

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동남아시아의 한류

Kyoto Review of Southeast Asia Issue 11 (March 2011): Southeast Asian Studies in Korea 1. 한류의 전개 1990년대 말 이래 한국 텔레비전 드라마, 영화, 대중가요 그리고 연예인들이 동북아시아와 동남아시아 전역에서 상당한 인기를 누리게 되었다. 세계적인 […]

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Korean Wave in Southeast Asia

Kyoto Review of Southeast Asia Issue 11 (March 2011): Southeast Asian Studies in Korea Development of the Korean Wave Since the late 1990s, an increasing amount of Korean popular cultural content including television dramas, movies, […]

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Historical Dynamics of Southeast Asian Studies in Korea

Historical Dynamics of Southeast Asian Studies in Korea* Introduction Southeast Asian studies is one of the emerging and swiftly developing fields of study in Korea. This subject, however, was considered academically ‘futile’ until the 1970s. […]

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The Faces of Islamic Politics

The popular imagination with regards to Islamic politics has lately been focussed on ‘radical’ Islamic groups that appear intent on establishing states run on the basis of Islamic law as well as being vehemently opposed […]

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Chinese-Indonesians in Local Politics: A Review Essay

 Despite various changes that happened after the tragic event of May 1998, including the latest revision of Citizenship Law (issued as No. 12/2006) which have given the Chinese-Indonesians social and political space to express their […]

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Catatan Tentang Orang Cina Indonesia dalam Politik Lokal

 Pendahuluan  Walaupun banyak perubahan yang telah terjadi setelah peristiwa tragis pada Mei 1998, termasuk revisi paling terbaru dalam Udang-Undang Kewarga-negaraan (terbit Nomor12/2006) yang telah memberikan kalangan Cina Indonesia ruang sosial and politk untuk mengekspresikan identitas […]

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地方政治におけるインドネシア華人:評論文

 序文  1998年5月の悲劇的な事件以来、様々な変化が生じた。それには(2006年に第12号として公布の)市民権法の最新の改正もあり、これはインドネシア華人達に自分達の文化的アイデンティティを示すための社会的、政治的な場を提供した。それにも関わらず一部の華人達は、事態が新秩序時代さながらの危険を孕むものであると見ている。中国の新年を祝う竜舞を禁じた市長命令127の発布前後である2008年初頭、ポンティアナックのマレー人達によって示された反中感情は、華人達の立場がいかに不安定であるかを示すものであるとされている。これに先立つ2004年10月12日、新たに選出されたジュスフ・カッラ副大統領の発言(シナール・ハラパン 2004年10月12日)にも、華人ビジネスマン達を中小企業及び大企業において異なる待遇で差別しようとする意図があり、華人達がいまだに平等な市民として扱われていない事を示すのであった。  明らかに、華人差別廃止に関する政府の諸政策のほとんどがレトリックである。たとえプリ(先住民) 及び、ノン‐プリ(移民)という言葉が、もはや公式な政府方針や事業で用いられるべきではないとする指令が、ハビビにより現に法制化(1998年大統領令第26号)されたとてもそれは同じである。同様に、アブドゥルラフマン・ワヒドが大統領職にあった2000年の大統領令第6号の発布により、中国の慣習や伝統の実践を個人的領域に制限する1967年の大統領決定第14号が無効となり、多くの中国人や現地インドネシア人達はこれを華僑差別の終わりであると見た。しかしこれらの政治的気配や法的改正が、華僑と現地インドネシア人達の間に長年培われてきた対立に与えた影響は、ごくわずかなもの過ぎない。ポンティアナック事件が正しく解釈されるなら、華人達は未だに差別を受け、深く恨まれている。  事件が起こったのは、ポンティアナックのある華人がダヤック人と共に西カリマンタンで知事、副知事の座を勝ち取った直後であった。ポンティアナックのマレー人達には、華人の地元政治関与への切望と要求は、明らかに受け入れられないものであった。  ジェマ・パーディ(2005:23)は、少数派華僑をめぐる状況の変わらぬ現実を、現地インドネシア人達の間にわだかまる華人の忠誠心に対する疑念と、彼らの認識を歪め続けている華人の経済的役割や、国家経済における支配力のレベルに関する神話のためであるとした。彼女は、我々が「反中暴力やその他多くの暴力を単に国家主導のものとする分析を再考するべきである」と論じる。なぜならば、彼女の研究した1998年5月以降の諸事件により、「大衆が暴力や反中感情と嫌悪の一連の記憶を持つに至る限度」が示されたためである。彼女は「華僑の経済的圧力、その周辺的地位への追い込みや不正との関係が、インドネシア人の心に深く刻み込まれている」と確信する。彼女の意見では、このために華人達の立場は「未だに深刻で一定の用心を必然とする」ものなのである。  ジェマ・パーディの見解は、「華人に向けられた人種的暴力には、明らかに経済的要因が作用している」1と結論付ける、その他の反中暴力に関する諸研究と大いに一致するものである。例えば、コロンビィンとリンドブラッドは次のように述べている。「1912年のサレカット・イスラームの設立以来、インドネシア華人達は、独断的なムスリム達が自分達のビジネス上の優位を華人に妨げられたと感じる度に、繰り返される大量虐殺の対象となったのであった。」  ゆえに、彼らにしてみれば、「暴動は、インドネシアでは偶然にも華人の顔をした資本家階級への抗議を表すもの」なのであった。この見解を支持したのはキース・ヴァン・ダイクである。 彼は「近代的な生産方式が人々を不公平な競争や、労働市場で他集団に太刀打ちできないという危惧にさらし、戦争(第一次世界大戦)初期の日々の食品の値上がりは、華人業者や小売商達のせいにされた」と論じた。それでも、彼の認めるように、数年後までは反中感情が暴力的噴出に至る事はなかった。 1946年にインドネシア革命を受けて起こった暴動は、極めて狂暴であった。これは、華人が現地人の経済的競合者として恨まれたに止まらず、オランダの協力者としても憎まれたためであった。当時、いわゆる「経済的国家主義」も、おそらくその一因となりつつあった。このため1960年代には、よそ者である華僑が地方で小売業に携わる事を禁じる1959年の大統領規則第10号を受け、更には1960年半ばに中国政府がその関与を疑われ、非難された「共産党関連の」失敗に終わった政変を受け、華人に対する攻撃は非常に大規模で全国的なものとなった。この事は、より政治的でイデオロギー的変動が、暴動をその最高点に導く力となった事を示す。つまり察するとおり、反中感情はインドネシア人の歴史に大変深く内在しており、それゆえに1998年の5月に、最後で最も残虐的な暴動が、ついに華人達の運命を変えるまでは、スハルトの権威主義的政権の30年間に反中暴動が「予期せぬ雷鳴」のごとく断続的に起ころうとも驚くには値しないのであった。たとえ、新秩序政府がある程度暴力の度合いをコントロールできたにせよ、暴力を永久に根絶する事は明らかに不可能であった。これはおそらく、そのような要望がなかったためであろう。 このような状況下、1998年5月の暴動以来設立されたインドネシア華人組織の、政治活動を避けんとする態度には、おそらく大いに根拠がある事だろう。例えば、PSMTI(Paguyuban Sosial Marga Tionghoa Indonesia-印華百家姓協会)は1998年8月28日に組織された。これは元陸軍准将(プーン)・テディ・ユスフ(ション・ディ)の指導のもと、5月の暴動後に設立された初のインドネシア華人非政党組織であったが、これは自身の立場を「非政治的」と位置付ける傾向にある。  「たとえPSMTIがインドネシアの法制度の範囲内で活動を行う事が許されていようと も、PMSTIは実質的な政治活動への参加せぬよう自制している。さらに、PSMTIは 政党に関連した政党や社会組織に属さない。」(2005年4月1日にアクセスした http://www.psmti.net/psmti_掲載の原文訳) これと同様に、INTI(Perhimpunan Indonesia Keturunan Tionghoa-インドネシア華人協会)は、スルヤディナタによると1999年4月10日、エディ・レンボン(ワン・ヨウシャン)の指導のもとに設立された。9彼らはその組織的任務に関する声明で「政治的」という言葉を避けているようである。  「Perhimpunan INTIとして知られるインドネシア華人協会は社会的組織であり、その特徴はその愛国心、自由、独立、非営利と平等性である。その設立の目的は、過 去の遺物である「インドネシアの中華問題」の解決にある。 INTIは全ての華人民が 一体となり、徹底的に総力を挙げて取り組む事が「中華問 題」解決の絶対条件であると確信する。」  この主なメンバーは中国系インドネシア人民であるが、INTIは排他的組織ではなく、その基本的原則や組織規則、またINTIの目標に賛同する全てのインドネシア人民に開放されているものである。  INTIがこのような「非政府的」、もしくは「曖昧な」政治的立場11を持つ理由は、2007年5月16日にインドネシア華人協会(INTI)前会長のエディ・レンボンが、ジャカルタ・ポスト紙に次のように語った時、明らかとなった。  「インドネシア華人は政治学を学ばなくてはならない。しかるべく知識に基づいた政 治家となるためである。しかし、私は民族を基盤とした政党の設立には賛成しない。ほとんどの華人達は、 未だ政治をタブー視している。政治に関わる事はおろか、彼らはそれについて語る […]

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マドゥラのブラテー(Blater/悪党)の社会的起源と政治権力

マドゥラ族の象徴的イメージは暴力と宗教性に結び付けられている。しかし実際のところ、理論的に言えばこれらの言葉は異なる、または矛盾した意味を表す事もある。宗教的な人々は禁欲的に暮らし、悪行や暴力行為を犯す事を避けようとする。これに対して暴力に慣れた人々は、禁欲的な生活から遠ざかる傾向にある。ところが、社会的現実が提示する複雑な諸問題が、常に規範的な理論を裏づけるとは限らない。文化という文脈上では、暴力と宗教性は空所に作用するものではなく、その存在は常に社会構造の力関係や利害的相互作用と相関したものである(Foucault: 2002)。  暴力と宗教性は人類文明の「子供」である。暴力はその背景や動機により、様々な種類に区別される。チャロックについて考えてみよう。これはマドゥラ族の内紛を解決する暴力的な伝統である。  それは彼らの自尊心や誇りに対する熱烈さ、その思い入れ如何では、その関係者達に深刻な傷害や、死さえをも招く顛末となり得るものである。マドゥラ族がチャロックを行うのは、彼らの誇りや自尊心が侮辱を受ける、もしくは害され、傷つけられたと彼らが感じる時である。彼らの憤りの感情が、恥辱の感情(マロー またはトドゥス)に発展した場合、マドゥラ族はチャロックを行って争いを調停する。  この事情はマドゥラの有名な諺に確言されている。“ango’an pote tolang etembang pote matah”、字義どおりには「白眼をよりも白骨を」という意味で、「人生は自尊心を持たねば無意味である」という隠喩である。  マローとなりチャロックという結末をもたらす、恥辱という強い感情は、しばしば人妻をめぐる修羅場と結びつけられる。マドゥラ人は、彼の妻が侵害されるような事があれば、立腹してチャロックを行う。同様に、彼はその妻の不貞の噂に嫉妬心をおこし、彼女の不義の相手がチャロックの標的となるのである。チャロックはまた、報復行為、とりわけ殺害された家族への仇討という形をとる事もある。  このように、チャロックは人の高潔さを守る行為であり、その血筋を維持するための闘いであると解されている (Wiyata, 2002: 89-159)。 チャロック における動機と標的は大変明確である。人々は自尊心が害された事から生じる暴力的な争議に巻き込まれるのである。  自尊心と誇りにかけてチャロックを行うマドゥラ人は勇敢(ブラテー)であったと認識される。ブラテーは、その人の自尊心への打撃を暴力で解決する事であり、恐れのない精神、誇り、そして勇敢さを示すものである。一方、自らの自尊心を守るために「寛容性」を選ぶ者達は、地域社会からブラテーの精神を持たぬ者と見なされる。以前はブラテーでないとされていたマドゥラ人達が、ひとたびチャロックを行った後に、中でも血みどろの格闘を勝ち取った者らがブラテーとして認められる事例が数多くある。  このように、チャロックは地域社会で紛争を解決するための勇気であると見なされており、チャロックを行う事はその人のブラテーとしての社会的地位を強化し、正当化する重要な社会的行為なのである。  チャロックを行う事のみがブラテーの地位を正当化する方法というわけではない。他にもマドゥラ人をブラテーに変え得る、それ以上の社会的手段が多数存在する。  クラピン・サピ(マドゥラ族の牛競べ)、鶏闘、犯罪行為やレモー、 ブラテーへの関与…こういった全てがブラテーの文化的再生産を成すものである。  偏在するダイナミズムがこの独特な文化と地域社会をマドゥラに創り出した。 従って、あるマドゥラ人が自らをブラテーであると認め、かつ彼が社会において特別な地位に就いていようとも、何ら不思議はないという事になる。ブラテーは文化的に高い評価を集め、社会的尊敬を受けるし、そうでないブラテーを見つける事は困難である。  ブラテーは全てのコミュニティー、及び社会階級から現れ得る。サントリ出身の者もいれば非サントリ出身者も存在する。手短に言えば、大いに宗教的である者をも含む、いかなる社会的集団、または階級の者であれ、万人がブラテーになり得るのである。  元サントリ(厳格なムスリム)がペサントレン(伝統的なイスラームの学校)を卒業した後にブラテーとなった事例も多い。元サントリのブラテーは、大概ガジ(コーランの詩を吟ずる事)に長け、キターブ・クニン (黄色い本、ペサントレンで用いられるアラビア語の原書)に通じている。  これもまた、マドゥラ社会にあっては一般的な事である。マドゥラ族の伝統上、宗教的な教えは日常生活の一部となっているのである。若きは全ての子供達が島中の集落や村々に散在するランガル、ムソラ、スラウ、モスクやペサントレンで宗教を教えられる事に始まる。  このような背景があればこそ、元サントリのブラテーが文化的ネットワークを築き、彼をキアイ(イスラーム教の聖職者)であるかのようにさえ扱う伝統を展開させて来られたのである (Mansoornoor 1990; Bruinessen 1995)。  イスラーム教はマドゥラ社会で中心的役割を果たしており、様々な社会儀礼は常にキアイを指導的立場に戴く宗教的精神と結びつけられている。  […]

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Social origin dan Politik Kuasa Blater di Madura

Kekerasan dan religiusitas selalu dekat dengan citra simbolik orang Madura. Padahal dua kosa kata itu secara teoritis memiliki kandungan makna yang berbeda bahkan saling berseberangan satu sama lain. Orang yang religius selalu membawa sikap hidup […]