「仏教的政治論」(Buddhist Political Theory/以後はBPT)とは、新たに出現した研究領域で、英語で政治理論を研究する北米の大学の研究者が関心を寄せる領域だ。この記事では、ティック・チ・クアン(Thich Tri Quang /1923-2019)の政治思想に対する欧米人の誤解を解く上で、BPTがいかに役立つかを示したい。ティック・チ・クアンという人物は、「ベトナム戦争」中に米国の主要メディアの注目を集めたベトナム仏教の僧侶だ。 ニューヨーク・タイムズのデジタル・アーカイブで、ティック・チ・クアンの名前を検索すると、1960年代初頭以降の記事が少なくとも300件は表示される。また、1966年には、ティック・チ・クアンがタイム誌の表紙を飾り、彼の特集記事も掲載された。タイム誌は、彼が「仏教徒の抗議活動の首謀者」で、「戦争で荒廃した1960年代に、米国に支援された南ベトナム政府の転覆を助け、宗教の自由を持つ民主国家を推進したカリスマ的仏教僧」と説明した。このため、読者は彼をそのように理解し、南ベトナムでの自国政府の取組みを挫いたこの実力者について、より深く知りたいと望んだ。 また、チ・クアンの政治思想をめぐる議論も、彼が注目されるきっかけとなった。一見すると、チ・クアンは捉えどころがなく、謎めいた、奇妙な政治思想家と思われる。当時のベトナムとアメリカの評論家や、後の欧米の学者たちは、彼に「共産主義者」、「反共産主義者」、「平和愛好家」、「タカ派」など、正反対のレッテルを貼り、彼の政治的立場を特定しようとした。 また、タイム誌は、チ・クアンが「権力を熱望」していたと主張し、彼を「ベトナムのマキャベリ」と呼んだ。 だが、ジェームス・マカリスター(James McAllister)は、チ・クアンが、左派の言うような「民主主義と戦争の早期終結に尽力する平和的宗教指導者」でもなければ、右派の言う「共産主義の手先」でもないと論じた。 むしろ、クアンは、米軍の北ベトナムに対する軍事力の行使に理解を示す反共産主義者だと、マカリスターは言う。さらに、ニューヨーク・タイムズは、チ・クアンを「エゴイスト」と呼び、「印象的だが、謎めいた人物だ」と評した。だが、チ・クアンの政治的動機が何であったのかは、今も解明されていない。 Embed from Getty Imagesところが、チ・クアンの政治思想の解説を試みる上述の欧米メディアは、彼に関する最も明白な事実を見逃しているように思われる。つまり、チ・クアンが仏教徒であり、彼の仏教信仰が政治思想に影響を及ぼしている、あるいは、それが彼の政治思想を説明できるかも知れないという事実だ。チ・クアンに対する従来の欧米の解釈は、彼の政治思想が明らかに仏教的な点を考察できていないのだ。とはいえ、彼に影響を与えたと考えられる仏教思想が、具体的にどのようなものだったかを特定する事は困難だ。ただし、彼は最も一般的な意味での「仏教徒」であり、仏教思想の違いに注目が集まるのを望まなかった人物だと考えられる。チ・クアンは、ベトナム国内の多様な仏教宗派の統一を目指す、統一仏教徒教会(the Unified Buddhist Church)の政治部門、Viện Hóa Đạoの中心人物だったのだ。 したがって、チ・クアンの政治思想をBPTという観点から検討すれば、先に述べた解釈の矛盾も説明できるだろう。彼の政治はBPTに沿い、これをよく表している。BPTの基本理念は、政治が全ての人々に悟りをもたらす目的の手段となるなら、これを戦略的、実用的に行う必要があるというものだ。この基本理念を十分理解すれば、チ・クアンの政治思想も、より深く理解できるだろう。 仏教的政治論 政治理論という学術領域の新たなサブ・フィールド、「比較政治理論」の研究者は、近年、政治に対する「仏教的」アプローチの研究を行ってきた。ただし、「仏教」の伝統は広大で多様なものだ。だが、例えば、「キリスト教」が政治的リベラリズムの伝統を生んだ、と言えるように、仏教の政治へのアプローチに対する一般的な見解なら述べられるはずだ。政治理論学者のマシュー・ムーア(Matthew Moore)が言うには、仏教は、実質的には無政府主義の立場を取らないが、明らかに反政治的だ。 彼によると、仏教徒は、政治が自我を増長させる誘因であり、時間と労力の浪費であり、最終的には些細なものと見なす傾向にある。つまり、政治への関与は、仏教徒にとっては悟りに向かう道とは相容れない道なのだ(対照的に、西洋哲学の伝統では通常、政治への関与は有徳な生活の一環と捉えられている)。ティック・チ・クアンの弟子、カオ・フィ・トゥアン(Cao Huy Thuần)は、これについて簡潔に説明する。「寺院は政治を行わない。この仏教徒の態度は、壁に打たれた釘のように確かなものであり、…政治とは、我々(仏教徒)が嫌悪する「穢れた手」の領域だ」。 だが、ムーアによると、政治は、有徳な生活にとっては些細なものでも、避けて通れるものではなく、社会生活に必要な場合もある、仏教徒はそのように理解している。BPTの主張では、政治への関与が個人の精神性を深め、悟りをもたらす社会的・政治的条件を改善できる場合のみ、政治に関与するべきだとされる。また、仏教徒は、「ある種の政府が、他の政府より低いレベルの社会紛争や、個人の精神的廃退をもたらす」と考える。 西洋自由主義の伝統とは異なり、仏教徒にとって政治に正当性を与えるのは、「合理的な自己の自律性を十分尊重する事ではなく、人間を精神的に成長させられる条件を生み出す事」なのだ。 つまり、BPTにおいて、政治とは、全ての人間の精神的成長という目的の手段となるべき存在なのだ。ブッダ自身の平等主義的なものの見方や、ヒンドゥのカースト制度に対して仏教が示した課題が反映して、精神性向上の平等な機会が協調されている。また、この点を考慮すれば、ティック・チ・クアンが反共産主義だったことも分かるだろう。彼は、共産主義政権下では個人の精神性の涵養が妨げられると考え、共産主義に反対していた。実際、1963年に、チ・クアンは次のように語った。「私も、教育を受けた全ての仏教徒と同じく、共産主義を好まない。これは共産主義が無神論であるからだ。」 Embed from Getty Images […]