2014年9月の下旬、何千人もの人々が、香港の大通りの占拠を始め、これが2カ月以上に及んだ。抗議者たちは、オキュパイ・セントラル:愛と平和で中環を占領せよ(讓愛與和平佔領中環)運動の呼びかけに応じたものであるが、この運動は真の民主主義が否定されれば、市民的不服従も辞さぬと警告したものである。この運動が起きたのは、8月31日で、この時、全国人民代表大会(全人代)常務委員会は、行政長官の普通選挙実施を制限しようとする決断を発表した。 ついに学生達が道路封鎖を始めたのは、一週間に渡るストライキの後であった。平和的な抗議者達が催涙ガスで迎えられたため、何万人もの香港人たちが通りへ繰り出し、行き過ぎた暴力が、学生やその他の活動家たちに向けられた事に抗議する事となった。抗議者達が雨傘で身を守った事から、これが雨傘運動として知られるようになった。この熱心な抗議活動の噴出は、過去の抗議と同じく、経済問題の影響を受けたものであったが、それと同時に、これは主として物質主義に反対する運動でもあり、真の普通選挙のための自己犠牲を強調するものであった。 香港の所得不平等は先進諸国中で最も高く、困った事に、その格差は今も拡大を続けている。ジニ係数は不平等を測定する指標で、1996年にはその数字が既に憂慮すべき0.52であったが、2011年には0.54にまで増加している。これはかなりビジネス主導の非民主的な政治制度が、大物実業家たちに偏った力を与える一方で、大量の貧困層を顧みなかったためである。労働組合は極めて弱く、雇用者たちのために多くを得る事ができず、雇用者たちはストライキをすれば、激しい競争環境の中で失職するのではないかと怯えている。多くの人々が超過密環境で暮らしているが、その中には、あまりに狭いため、背筋を伸ばして座る事もできぬようなケージホームも含まれる。最近、この問題への対策として、最低賃金の導入や公式貧困線の設定などがあるが、これらは問題を阻止する上では、ほとんど役に立っていない。その訳は、これらの手段が極めて不十分であるという事実で、例えば最低賃金の30香港ドル(2014年12月現在)は、食費や家賃の支払いに足るものではない。 しかし、大変な不平等にもかかわらず、香港の民主化抗議は、最悪の影響を被る人々が先導するものでも、主に経済的不平等に関連するものでもない。むしろ、その第一の目的は、高度な市民的自由の維持と民主主義的機構の設置によって市民を保護する事である。この民主主義運動は、主に高度な教育を受けた中間所得層に根差すものである。そのため、この運動の起源を、専門的な職業に就く人たちが主な原動力となった1970年代の圧力団体政治に求める事ができよう。返還後、社会問題が増々目につくばかりとなったが、これは比例代表制の導入により、多数の新政党が出現するようになったためである。この目的は、かつて強大であった民主党の弱体化にあったが、これが目標や戦略をめぐり、汎民主陣営内に多くの深い分裂をもたらす事となった。汎民主派政党の中には、今日、さらなる富の再配分を呼びかけるものも存在するが、大企業主たちの間では、彼らの利益に対する民主化の悪影響への不安が高まっている。例えば2014年の10月20日には、元実業家の行政長官が、「ひと月の収入が1,800米ドル以下の香港の半数の人々」の代表とならねばならぬ事を不安だと述べている。 つまり、運動の原動力となっている根本的な要因は、不平等とは直接関係がなく、むしろ社会的流動性の低下や、生活の質の悪化に関する事柄であり、中産階級に最大の影響を及ぼすものである。2003年には、これら諸問題の対処における政府の無能ぶりと相まって、香港人の基本理念である公民権までもが失われるのではないかと恐れられた。この引き金は、政府が基本法第二十三条に基づく治安法を提案した事であり、これには言論と集会の自由を損ねる恐れがあった。その結果、およそ50万の人々が、香港島の中心地区のいたる所で行われた大規模集会に参加する事となった。政府は結局、この法案を見送り、さらには一年後の別の大規模抗議の後、董建華行政長官も辞任する事となった。 多くの人々にとって、路上での抗議運動が、政治的意思決定の過程に働きかける事のできる唯一の手段となった。毎年、大小多数の抗議運動が行われている。毎年恒例の7月1日の大規模集会の他にも、1月1日の集会や、6月4日のキャンドルライト・ビジルがある。後者は毎年行われ、1989年の天安門事件の犠牲者達を偲ぶものである。このような毎年のイベントの外にも、多くの抗議運動がより自発的に企画されている。例えば2009年の反高速鉄道路線デモや、2012年の反国民教育デモなどがある。これらの抗議運動はいずれも、ユース・アクティビズムの復活を示すもので、その原動力となっているのはソーシャル・メディアや、社会政治問題に対する意識の向上である。これらの抗議運動はまた、香港のアイデンティティの強化を反映するものでもある。深い文化的、経済的、政治的な違いから、多くの香港人たちは自分達が本土から疎外されていると考えており、また同時に、中国からの大量の移民や旅行者たちの流入による悪影響も受けている。彼らが生活費上昇の一因となっている事から、彼らを「イナゴ」と中傷するものがあっても驚くにはあたらないだろう。 最近の雨傘運動には、過去の民主化を求める抗議運動との共通点がいくつかある。真の民主主義に対する要求の背後で、主な推進力となった学生と学者の両者は、非常に遅い政治改革の進捗に苛立ち、この街の未来に深い懸念を抱いた者達であった事。参加者の大半が中間所得層の出身で、深刻な社会問題の最悪の影響を被る者達ではなかった事。事実、汎民主派の労働組合によって市の全域における労働者ストライキが提案されたが、これが実現する事はなかった。現実に、大半の労働者達は、なけなしの給料に頼って生存しており、進んで職を賭す気などないという事である。したがって、所得不平等はむしろ、学者たちの間での懸念となっている。活動家たちにとって、より気がかりな事は、昇進の機会が希薄になり、住宅費のせいで、前の世代よりも良い暮らしをする事が非常に困難になっている事実なのであった。 この運動はまた、一つの重要な側面において、過去の大半の抗議運動とは異なっていた。経済問題を強調する代わりに、この雨傘運動は、物質主義と金儲け文化に対する典型的な拒絶を示していたのだ。それは、より理想的な目標を志すもので、真に民主的な社会を発展させ、人々が互いを信頼できるような社会にするといった事である。多くの特筆すべき出来事が、運動のこの特質をひときわ目立たせている。例年7月1日に行われる民主化支持のデモは、多くの政党や非政府組織によって寄付金集めに利用されるものであるが、この2ヵ月に及ぶ占領は、これには相当せぬものであった。物売りは一人もおらず、ステッカーやポストカードも無料で配布されていた。Tシャツや雨傘でさえ、製造原価で売られていた。その上、無料で水や菓子、温かいスープを配給所からもらう事もできた。参加を思いきれなかった多くの香港人たちは、支えとなる巨額の資金を配給所に寄付したのであった。 もう一つの重要な違いは、この雨傘運動が芸術や手工芸品を重視する場であったという事実で、これらのものは通常、金権主義社会では軽視されている。政府は自分達が経済の四大支柱と考えるもの(金融業務、通商および物流、観光業、工商業支援と専門サービス)を第一に重視してきたため、製造業や文化産業が顧みられなかったためである。抗議デモの主会場で、雨傘広場と呼ばれる会場では、ボランティアたちが自作の学習コーナーを設けたり、来場しやすいよう、通路網が設けられたりした。革製の黄色いリボンが作られたり、Tシャツには傘モチーフのロゴがプリントされたりして、人々が長蛇の列を作った。ついには、印象的なインスタレーション作品や、あらゆる類の絵が展示される事となった。これらの芸術作品の題材は、基本的な論点となった社会問題や、より良い民主主義的な未来に対する信念を貫く必要性などであった。 この運動の大きな特徴はまた、その教育的な性質でもあった。教授や非常勤講師たちのグループが、無料講義を提供したが、これは学生たちによるボイコットが行われていた9月の後半にはすでに始められていた。占領の間、「民主主主義の教室」は通りへ移った。110以上の異なる講義は、主としてこの運動の関連主題である民主政治や、自由、市民的不服従、比較展望などに焦点を合わせたものであった。運動のこの側面によって明らかとなったのは、自分達の権利をより意識し、また、それらがなぜ街の未来の発展にとって重要であるかを意識した、より教養ある市民を生み出す試みであった。 この活動の大部分が、3か所の主要デモ会場に集中していた一方で、運動をさらに大きな社会へと拡大させる試みも存在した。最も顕著な試みは、巨大な黄色の垂れ幕の使用であり、これが香港のランドマークであるライオンロック(獅子山)にかけられたのだ。象徴的なこの山は、九龍のほとんどの場所から見る事ができるものだ。だが、これは単に認知度を高めるためだけの試みではなく、香港のアイデンティティの核心的意義を再定義しようとする試みでもあった。1970年代には、この山はどのような困難をも克服し、出世街道を進んで行く事のできる香港人の、「なせばなる精神」と同義だと考えられていた。この抗議団体はYoutubeのビデオで次のように発表した。「我々はライオンロックの精神を金銭にまつわる事だけではないと考えています…普通選挙を求めて戦う香港中の人々が、偉大な忍耐を不正との戦いにおいて、また困難に直面して示してきました。これこそ真のライオンロック精神であります」。言い足すなら、香港人は単なる経済的成功以上に、誰もが尊重されるような民主的社会の発展を目指しているという事だ。 最も明白にこの抗議運動の反物質主義的傾向を示す例が、最新の抗議運動の形態で、いわゆる「ショッピング革命(鳩鳴革命)」というものであった。これによって何百人もの人々が、組織立ってはいないが、平和的な抗議デモに、ほぼ毎晩参加することとなった。この運動は、旺角のデモ会場が片づいた後に起きたものである。ごちゃごちゃとしたショッピングエリアの中で、抗議者達は同じ映画館で毎晩8時ごろに待ち合わせ、その後「ショッピング」ツアーのため、西洋菜街という大変混雑したショッピング街に繰り出す。この際、頻繁にスローガンを唱え、民主主義を要求する黄色ののぼりを用い、のろのろと歩いては小銭を投げ、またそれを拾ったりするのだ。この抗議運動の形態は、梁振英が、デモ会場が片付いたら国民は再び買い物に戻るべきである、と言った事から生じたもので、この発言は、ある中国本土人が民主化に反対する抗議の最中に、マスコミのインタビューを受けたところ、香港に買い物に行っていたと答えた記憶をよみがえらせるものであった。そこで、抗議者たちはこれを一転させ、買い物と見まがうような抗議運動を行うようになった。結果、何百人もの警察官が毎晩この地域に配置される事になったのである。 結論として、香港での体制変化は、主として中間所得層の人々が牽引するものであり、彼らはこの街の未来に懸念を抱いている。高額な住宅費や生活費などの経済的問題が、重要な役割を果たしている事は明らかであるが、もっと重要な事は、より理想的な価値観、例えば個人の自由や民主的権利などである。雨傘運動が著しく反物質主義的で、草の根的な民主化運動であるのは、多くの参加者たちが、財産よりも値打ちのある何かのために奮闘した事による。同時に、大多数の香港人が、未だに低賃金の極度な長時間労働を抜け出せずにいる事が、より広範囲な支持を得る上での大きな障壁を生み出してきた。また、たとえ彼らが動員され得たとしても、民主化のプロセスは、やはり中国政府が必要な諸改革を許容する気があるかどうかにかかっている。現在のところ、残念ながら、その見込みはなさそうである。 香港城市大学 Stephan Ortmann助教 Issue 17, Kyoto Review of Southeast Asia, March 2015