東南アジアに類例が無いほどに、ブルネイ・ダルサラームにおける政治のイスラム化は国家の独擅場となっている。ブルネイの宗教官僚制度は、イスラム教関連の公共通信に対する絶対的な独占を保持している。かつて、世俗主義やイスラム主義の何らかの組織的な反対勢力が、独立後の政府の宗教的態勢に公然と挑んだ事は無かった。イスラム的な政策決定は、国家の当事者間だけで、しかも秘密裏に行われる。イスラム教の非国家組織や独立した立場の宗教学者(ウラマー/ulama)、あるいは「規制されない」イスラム教関連の出版物は、公には存在しない。ブルネイ人のウラマーは当然のことながら公務員である。 1984年の独立宣言で、スルタン・ハサナル・ボルキア(Sultan Hassanal Bolkiah)が、ブルネイは「永遠に(スンニ派)イスラム教の教えに基づいた、主権、民主・独立のマレー・ムスリム王国となろう」と宣言した。彼はブルネイを「非世俗」国家と見なしている。「民主的」という観念には議論の余地がある。なぜなら、これまでにブルネイで総選挙が行われた事は無く、国会も組織的な野党も存在せず、スルタンの任命した内閣によって国が治められているためだ。彼は完全な行政権を有し、憲法上「何をしても正しく」(第84B条)、首相で、防衛大臣、財政大臣、外務通商大臣であり、警察と軍の司令官で、「国教(イスラム教)の長」(第三条(2))であり、「地上におけるアッラーの代理人」(ハリーファ/khalifah)で「信徒の指導者」(ウリルアムリ/ulil amri)であると考えられている。 立法評議会(Legislative Council)は、その前身が1983年に解散された後、2004年に再開された。これを「見せかけ」とする見方もある。これは概ね任命制という評議会の性質と権力の欠如に鑑みた見解である。他の者たちは、これを国民参加型の新たな政治風土に向けた限定付きの一歩と見なしている。数十年に及ぶ非常事態宣言を招いた1962年の短命な反乱以降、そのような風土が存在した事はなかった。国民は今や、年一回召集される立法評議会の議員に懸念事項を持ちかける事ができる。この評議会は政府予算の「承認」も行う。 ブルネイの公式な国是、「マレー主義に立つ、イスラム的王政」(Melayu Islam Beraja, MIB)は、政治上、最も重要なものである。それは、マレー民族(M)、イスラム教(I)、そして王政(B)を国家のアイデンティティの中核として特権的に扱うものだ。MIBが「作られた伝統」であるとの批判に対し、ブルネイ人の(MIB推進の義務を負う)学者たちは、この頭字語が作られたものである事を認めつつも、これが数世紀に及ぶ「ブルネイ文化」の本質を反映していると主張する(Mohd Zain 1996:45; Müller 2015:315)。 MIBは益々制度化されつつある。MIB概念委員会(MIB Concept Committee)がその仕事に着手したのは1986年で、これは後にMIB最高議会(MIB Supreme Council)に形を変えた。1990年には政府がブルネイ研究アカデミー(the Academy of Brunei Studies/APB)を設立し、これはMIB最高議会の事務局を置くブルネイ・ダルサラーム大学を拠点とした。APBはMIBの知識生産の原動力である。APBはMIBを三つの段階で普及している。すなわち、学校、大学、そして国民である。学校や大学でMIBの授業は必須科目であり、いかなる国民もMIBの単位履修を経ずに卒業する事はできない。報道機関は絶えずMIBに言及しており、公共イベントは、通常、MIBに適うものとなるように考案される。例えば、芸術や詩のコンテストはMIBの愛国的表現を模範としており、留学生たちは「MIBの価値観を守る」よう指示される良き市民にとってのMIBの重要性と公的表現の諸規範が社会に深く定着し、何であれ、MIBに対する個々の意見は「隠された記録(“hidden transcripts”)」(Scott 1990)に隠れたままとなっている。ところが、MIBの幹部でさえ、この頭字語をもじった日常的な冗談を交わしている。この概念に対するより真摯な問いはサイバー空間に生じているが(Müller 2010:157)、これは極めて稀な事である。 MIB・イスラム行政の法的、制度的手段 ブルネイのイスラム化政策の歴史は、イスラム教の教義および習慣の内容や、越えてはならない一線を定める際の、国家の独占性を強化する歴史である。組織的な「イスラム主義者の動員」は(この特別号のテーマであるが)、少なくとも、反抗的あるいは非国家的なコンテキストにおいては滅多に存在しない。だが、過去に、海外の民兵組織(例えばジェマ・イスラミア/Jamaah Islamiyah)や非暴力だが違法なムスリム集団(例えばマレーシアのアル・アルカム/al-Arqam)のメンバーを支持する人が逮捕された事はあった。もし「イスラム主義」の意味が、教育努力と並んで社会をトップ・ダウン式にイスラム化するべく、国家とその諸機関を利用する事を志向した政治的イデオロギーや社会計画であるとすれば、ブルネイ国家そのものが1980年以降熱心に「イスラム主義者」の動員に携わって来た事になる。 歴史的に見れば、イスラム教の影響を受けた法典は、慣習的規範と共に、植民地時代以前のブルネイに存在した。英国総督府時代(1906–1959。1888年以降は保護領だった)、植民地の役人たちはスルタンに宗教行政の「近代化」を提言した。これは、英国の国家形成や法律尊重主義的思考の認識を踏まえ、体系的な制度化と成文化を目指すものであった。この結果が1912年のイスラム法制定に始まる一連の法典や新機関の設立だった。この多様化にもかかわらずイスラム教の法的領域は家族法や身分関係法に限定されたが、宗教によって規定された犯罪の幾つかも処罰の対象であった。スルタンの権力は宗教的、慣習的な事柄に縮小されたが、彼らはこれらの領域を利用する事で自らの地位と象徴的権力を確立させた。ブルネイは1959年に内政をほぼ自治によって行うようになった。1959年憲法は国家の「イスラム的」、「マレー的」性質を強調したものである。この憲法は、個人の諸権利については、宗教的「平和と調和の…実践」(第3条)以外は触れていない。 植民地時代の宗教行政の基盤は、幾分逆説的ではあるが、解放的な植民地独立後のイスラム化政策に「制度的言語」をもたらした。これらには、新たなイスラム法や宗教官僚の影響力のさらなる拡大、そしてその職能分化が含まれていた。1990年には作業部会が現行法の見直しを始め、これを「イスラム教に準拠したもの」とした(Müller 2015:321)。この対象となったのが、二重体制の中でシャリーア法と併存する英国由来の諸法である。1991年と1992年にはアルコール飲料と豚肉の販売が禁止された。官僚たちは増々(特に国家ムフティ(Mufti/イスラム法官)によって)「真のイスラム」からの「逸脱」と見なされる事柄を非合法化する事に心を砕くようになり、バハーイー教の禁止を皮切りに(Müller 2015:328)、「逸脱した教義」のリストは増え続けた。非国家的なイスラム教の言説空間が確実に存在できないようにする事と平行し、官僚たちはムスリム・マレー文化からの「迷信的」要素(Müller 2015:327ff.)の浄化を志したのである。そのような、何らかの「逸脱」を定義し、これに異議を唱える事が、役所の重要な活動として、社会慈善活動や布教、モスクの建設および維持管理、金曜礼拝の説教の執筆や巡礼諸務などと並んでいる。有力機関としては、国家ムフティ省(the […]