Issue 16 Sept. 2014

Studying Comics From Southeast Asia

Since the turn of the millennium, comics have seen an unexpected increase in critical and scholarly attention. Apparently, this can be explained by three larger currents: first, the almost unrestrained expansion of the market economy, […]

Bahasa Indonesia

Pendahuluan: Mempelajari komik dari Asia Tenggara

Semenjak pergantian milenium, komik telah menarik perhatian yang lebih besar baik secara kritis maupun secara ilmu pengetahuan secara tidak terduga. Sangat jelas, hal ini dilatarbelakangi oleh tiga pergerakan yang lebih besar: yang pertama, ekspansi dari […]

Issue 16 Sept. 2014

序:東南アジア発の漫画研究

2000年に入ってから、漫画について批判的な視点や学問的観点から注目が予想以上に集まっている。明らかに、より大きな三つの流れがこの背景には存在している。一つ目は、ほぼ無制限な市場経済の拡大であり、消費主義や新たな類の「ポップカルチャー」もこれに含まれる。二つ目は、グローバル化の過程であり、これは例えば白石さやによると (2013: 236-237)、日本のマンガやアニメが特定の作品としてよりも、他の社会に応用可能な文化産業のモデルとして、世界的な規模で普及している事に現れている。三つ目が、情報社会の出現により、参加型で流動的な文化の形態が脚光を浴びるようになった事であり、これについてはファンアートやコスプレ、ソーシャルネットワーキングサービスなどを挙げておけば十分であろう。全く驚くべきことに、漫画が一般に認められたのは、基本的に従来の活字メディアによって形成された漫画のアイデンティティに崩壊が生じた、ちょうどその時であった。 こうした流れが、メディア研究や文化人類学、社会学、さらにその他の分野における、マンガ関連の研究を推し進めてきた。この点について、ある東アジアと東南アジアのポップカルチャーの編著本の序章には、次の事が誇らしげに述べられている。「学会であるテーマが妥当かどうかを示す基準の一つは、経済学者や政治学者たちが、これをいつ重視するようになるかである」(Otmazgin & Ben-Ari 2013: 3)。大抵、このような権威付けが意味するのは、マクロ分析の方が入念な個々の事例のクローズアップよりも好まれるということである。せいぜい、漫画はこれといったメディア特有の属性を持たぬ、単なる一次資料の役割を果たせば良いということになる。しかし、このような傾向は、政治学の分野それ自体よりも、過去十年間の学術研究の変化に負うところが大きいようだ。上記の本より40年前、Benedict Andersonは、インドネシアのアニメと漫画を用いて、インドネシアの政治的コミュニケーションの研究を行っていたが、これは今日でも驚くほどに洗練された手法であった。「形式は内容と同じ程度にものを言う」(1990: 156)などの基礎前提や、娯楽的な続き漫画は、一コマの政治漫画とは違い、研究者が「形式に目を向け、しかる後に内容を見る」事を要するという見解は、決して時代遅れなどではない。むしろ、特に現代の地域研究で漫画を使う有効性を示している。日本研究は、近年のマンガと関連メディアの有効性を示している点で先を行く。ここでの主流は、漫画研究をポップカルチャーや社会科学の分野に割り当てる傾向で、テキスト分析やヴィジュアル吟味、その他の美学的考察は大抵が無視されたままである。アメリカやヨーロッパの漫画は、「グラフィック・ノベル」という名のもと、あちらの文学部で学術的に考察される一方、特に日本のマンガ、より一般的にはアジアのマンガは、このような学術的取り組みの価値が無いかのようにみなされている。 しかし、この特集号の諸論文は、必ずしも、ある地域研究の枠組みに依拠しているわけではない。ここに掲載された論文は、東南アジア研究を優先させるというより、漫画とその研究に関する論文である。これらが東南アジア研究に貢献できぬと言うのではなく、ただ、そのような貢献が漫画研究を介して行われるという事だ。その意味をここで手短に述べておいた方が良いであろう。 世界的な規模で、漫画研究は、英語、フランス語、日本語、あるいは、アメリカン・コミックス(アメコミ)、バンド・デシネ、マンガといった地政学的、言語学的に明確な文化に応じて枝分かれしており、興味の大半は英語、フランス語、日本語の漫画である。東南アジアの漫画に焦点をあてるという本号の試みは、まだ、かなり例外的なものである。通常、漫画文化の研究は、北アメリカ、西ヨーロッパと日本の比較が中心で、時折、特に日本のマンガについては、韓国や中国語の市場の比較もこれに含まれる。この偏重ぶりは、インドネシアと日本の漫画プロジェクトにもあらわれた。これは2008年に国際交流基金(ジャパン・ファウンデーション)が二カ国間の国交50周年を機に後援、実施したものである。この成果であるDarmawan とTakahashiの編集による短編集は、当初、両国の言語で出版される予定であったが、日本語版はついに実現せず、日本人のマンガ評論家や読者たちが、インドネシアと日本の両国に起源を持つ非マンガ形式の漫画について学ぶことができなかった。 本号では、東南アジアにおける「マンガ」の役割だけに着目しているわけでもない。焦点はむしろ、漫画の多様性にあり、その範囲は自伝的物語から、絵日記、エッセーのようなブログ上の書き込み、教育向けの作品(歴史教育や性教育に関するものも)、さらには娯楽的フィクションに及ぶ。興味深いことに、紹介された作品例の大半が、もはや「日本の」、「インドネシアの」、「ベトナムの」、といった文化によって分類できるような範疇には当てはまらぬものである。それどころか、さまざまな形でフュージョン・スタイルと呼ぶべきものに広がっていることが特徴的である。さらには、一方では商業的で、型通りで、ファン本位のものとしての「マンガ」があり、もう一方には個人的で、創造力に富んだグラフィック・ナラティブとしての「同人誌」があるという差別化が東南アジアの漫画には必ずしも当てはまらないということが示唆される。おおよその場合、西洋的、日本的観点からも相互に排他的であると見なされているこの二つの種類が、文化的、経済的状況に関する限り、多くの共通点をもつように見えるのである。マンガであれ同人誌であれ、作家達が、少なくとも、それだけで生計を立てることは不可能なのである。 近年では、東南アジアの若手研究者で、大抵が日本を拠点にマンガ研究に携わる者達が、自分達の地域の漫画に注目し、これらを日本語で批判的に紹介しようと懸命に努力している。すでに1990年代の後半には、アメリカで教育を受けた文化人類学者で、インドネシアの専門家である白石さやがこの分野に着目しており、初めは日本マンガの普及について、しかし程なくして、現地の漫画文化についても関心をもつようになった。2013年に彼女の論文集が日本語で出版されたことから、彼女の初期の取り組みを再発見し、今日の方法論的問題と関係付けて読みなおすことができるであろう。同様に、特筆しておくべきことは、ベテランの漫画歴史家John Lentが、1999年から、“The International Journal of Comic Art (IJOCA)”という雑誌を世界中のアニメやグラフィック・ナラティブに関する記事のために提供してきたことである。これらの筆者たちの中には、彼の最新巻“Southeast Asian Cartoon Art (2014)”に寄稿した者もいる。これらの評論的、学術的試みに加え、重要な漫画名作選についても、最後に触れておこう。“Liquid City”は、ちょうどその第3巻が出版されたところである(Liew 2008, Liew & Lim 2010, Liew & Sim […]

Issue 16 Sept. 2014

คำนำ: การศึกษาการ์ตูนช่องจากเอเชียตะวันออกเฉียงใต้

นับแต่เปลี่ยนสหัสวรรษใหม่ การ์ตูนช่องได้รับความสนใจในเชิงวิพากษ์และวิชาการเพิ่มขึ้นอย่างคาดไม่ถึง เห็นได้ชัดว่าปรากฏการณ์นี้มีภูมิหลังจากกระแสที่ใหญ่กว่าสามประการคือ ประการแรก การขยายตัวของระบบเศรษฐกิจตลาดอย่างแทบไร้การควบคุม รวมทั้งลัทธิบริโภคนิยมและ “วัฒนธรรมป๊อบ” ที่เกี่ยวเนื่องกัน ประการที่สอง กระบวนการโลกาภิวัตน์ทำให้ผลงานบางอย่าง อาทิเช่น มังงะและอนิเมะของญี่ปุ่นที่แพร่หลายไปทั่วโลกมีลักษณะเป็นผลงานเฉพาะกลุ่มน้อยลง แต่กลายเป็นแบบจำลองของวัฒนธรรมอุตสาหกรรมที่สังคมอื่นรับมาเป็นของตัวเองได้ ดังที่มีอธิบายไว้ในงานเขียนของ Shiraishi Saya (2013: 236-237) และประการที่สาม ความเฟื่องฟูของสังคมสารสนเทศ ซึ่งทำให้รูปแบบวัฒนธรรมแบบมีส่วนร่วมและปรับเปลี่ยนได้ก้าวขึ้นมาอยู่แถวหน้าสุด ยกตัวอย่างง่ายๆ เช่น แฟนอาร์ต คอสเพลย์ และบริการเครือข่ายสังคมเฉพาะกลุ่ม เป็นต้น เรื่องที่น่าสังเกตอย่างยิ่งอีกประการหนึ่งก็คือ การ์ตูนช่องได้รับการยอมรับจากสาธารณชนในช่วงเวลาเดียวกับที่อัตลักษณ์ของการ์ตูนช่องที่เคยถูกกำหนดรูปลักษณ์พื้นฐานจากความเป็นสื่อสิ่งพิมพ์กำลังจะสิ้นสุดลงพอดี กระแสทั้งสามข้างต้นช่วยเอื้ออำนวยให้เกิดงานวิจัยที่เกี่ยวข้องกับการ์ตูนช่องในภาควิชานิเทศศาสตร์ มานุษยวิทยาวัฒนธรรม สังคมวิทยา รวมถึงภาควิชาอื่นๆนอกเหนือจากนี้ คำนำของหนังสือรวมบทความเกี่ยวกับวัฒนธรรมป๊อบในเอเชียตะวันออกและเอเชียตะวันออกเฉียงใต้ตั้งข้อสังเกตอย่างภาคภูมิใจในประเด็นนี้ว่า “บรรทัดฐานหนึ่งที่บ่งบอกความชอบธรรมของหัวข้อศึกษาในโลกวิชาการก็คือเมื่อนักเศรษฐศาสตร์กับนักรัฐศาสตร์เริ่มสนใจหัวข้อนั้นอย่างจริงจัง” […]

Issue 8-9 Mar. 2007

タイ現代文学の潮流 ―セーニー・サオワポンよりチャート・コープチッティへの流れを中心として―

はじめに タイ現代文学においては、他の多くの分野においてと同様に、1973年のいわゆる「学生革命」前後が一つのturning pointとなるのであるが、本稿は、具体的な文学作品分析を通して1973年の前と後との傾向及び特徴の違いの一端を捉えることを、その狙いとしたものである。具体的には、1973以前の代表作としてセーニー・サオワポン『妖魔』を、以後の代表作としてはチャート・コープチッティ『裁き』を採り上げる。この二作品を採り上げる理由は、其々がいわゆるタイ文学の「純文学」系の評価としては、その頂点に立つものであると考えられるからである。 まず『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴を、「業からの解放」という視座から捉えてみた。管見によれば、セーニーは作品中で、文学にも長らく反映されてきたタイ社会に特有の通俗的仏教観念との対決・決別を示しているのである。即ち本来のものを離れ既に社会的に通俗化した運命の享受観や業への諦観(タイ語でいうプロム・リキット的側面)から離れ、運命或は業を改変できるものとして捉える「本来的な」業理解(カンマ・リキット的側面)へと我々を誘うものであると考えられるのである。 続いて『裁き(カム・ピパークサー)』の文学的特徴を「出家と実存のはざまで」といった視座から分析した。本作品はサルトル的な自己欺瞞の否定を謳っているといえよう。世界に寄る辺なく投げ出されている実存(人間存在)との対峙、およびその対極にある自己欺瞞(に生きる人々)の否定。あるいはタイ的自己欺瞞の一つである、苦は業に因るという観念或は苦は業の結果であるとする人々の批判(そうではなく苦は人間の実存の結果であるとしている)。さらには、タンブン(喜捨)をはじめとする一般の通俗仏教信仰への懐疑などである。しかし本作品に特徴的なのは、出家に「出口」を求めている点である。ここで出家という仏教的価値観については、文中の方丈の言葉がまさに暗示の如く通奏低音として作品中に流れている。そこでいう「仏法の世界」とは出家者としての仏法の世界であり、世俗と区別した出世間のことを指しているのはいうまでもない。それは他人との出会いにより自己の失墜を招く、実存と向き合わざるを得ない世間、即ち仏教的に云うならば、パーリ語で云うところのローキヤではなく、ロークッタラ、即ち出世間なのである。 それでは以下、具体的に両者の作品分析を行っていくこととする。 【1】セーニー・サオワポン『妖魔』-「業からの解放」  本論は、本邦に於いていまだ殆んど研究の手がつけられていないタイ文学をその素材としたものである。本論ではなかんずく、タイ現代文学においての、作家の社会に対する意識の位相を探っていきたい。我々とは文化的思想的背景を異にするかの地の文学は、自ずとその趣を別にするが、中でも顕著な特色の一つに、作家の社会に対する極めて鋭敏な意識・姿勢が挙げられよう。政治的社会的不安定は、その度重なる動揺を通し、近現代の文学者の社会意識をいやが上にも我々の考える以上に鮮明なものにしていった。その外からの眼としては、先づ、大きく東南アジア現代文学の特徴として、「東南アジア社会の文学は本質的にlittérature engagéeである」と指摘する者がある。東南アジアの作家たちは、いやが上にも政治や社会の現実と対峙し、そこから顔をそむけることが殆んど不可能であった過去があるであろう。その中には植民地化の問題に由来するものもあるだろうが、それを免れたとはいえ、タイにおいても社会の現実は非常に重く作家の肩にのしかかっており、逆に社会に対する作家の極めて鋭敏な意識・姿勢はタイ現代文学の色濃い特徴となっている。タイの文化文学にも造詣の深い文化人類学者のニールス・ムドラーは、インドネシア文学に比してタイ作家と社会の係わりを次の如く強調している。「タイの作家にとってその特徴をかたちづくる中心はsocial stage」であり、「ジャワ文学のself-centredな個に対してタイ文学の個はsocial settingの中に明瞭に規定されている」と。 加えて、内からの眼としては、長らくタイペンクラブ会長をも務めたニッタヤー・マーサウィスットは、タイ文学の特徴として、タイ作家の社会正義に対する意識は幾度の政治的動乱にも屈することなく、文学の責務として脈々と続いている旨の指摘を行っている。さらには、タイにはいまだトルストイやツルゲーネフや巴金、或はバルザックやゴーリキーや魯迅も生んではいないが、それでも良いところはある、それは政治に関して割と力強い思索をしてきた点である、といった面白い指摘をした者もいる。 それでは内外のタイ研究者が共通して認めるタイ現代文学に顕著な特徴である社会意識とは一体いかなる位相であるのか。ここではビルマ大使も務めたことのある現代有数の作家セーニー・サオワポン เสนีย์ เสาวพงษ์์(1918~)およびその代表作『妖魔』ปีศาจ を中心に見ていきたい。 その為の手順として、本論考では、先ず、セーニーのタイ現代文学における文学史的位置・役割を概観し、次に『妖魔』の作品分析を通して、その位相の具体的な例を抽出していきたい。 【1.1】セーニー・サオワポンの文学史的位置  セーニー・サオワポンは、タイ現代文学史上において「純文学系」の一つの到達点であると捉えられ得る。チュラーロンコーン大学のトリーシン・ブンカチョーン博士は、セーニーの干支七順目(84歳)を記念するマティチョン主催のシンポジウムにおいて、セーニーは文学によりタイを動かし、タイ小説の歴史を変えた。さらには、先見性に富んだ著作によって未来をも予見することのできる、タイ社会のみならず人類全体の作家である、との指摘を行なった。 ここでセーニーの文学史上の意義を考える場合は、先ずタイ現代文学史上での〈人生の為の芸術〉วรรณกรรมเพื่อชีวิต の動きを顧みなければなるまい。タイにおいては現代文学は常に政治との係わりにおいて、或はその圧迫を受けながら或はその抑圧から脱しながら、歴史が流れていくのであるが、その流れの中から〈人生の為の芸術〉と呼ばれる処の動きが生起する。この〈人生の為の芸術〉はまたタイ現代文学を俯瞰した場合には、そのメイン・ストリームを為すといっても過言ではないものでもあるのだが、その中でもとりわけセーニー・サオワポンの果たした役割は大きい。 セーニーは1952年のタマサート大学での講演の中で、この〈人生の為の芸術〉の立場を表明する。とりわけ「著作と社会」การประพันธ์กัปสังคมでは明瞭に作家の社会に対する責務を打ち出し、また同年の評論「ロマン主義とリアリズム」อัตถนิยมแลจินตนิยมにおいてはリアリズム文学の意義を唱えた。こうした立場は、同時代の高名な文芸評論家たるバンチョン・バンチュートシンの次の言葉に集約されるであろう。 人が飢餓のために死んでいっている時、月の美しさはなんの役に立とう。芸術家の責務は悲惨な光景を直視するところにある。 こうした立場が、その後に与えた影響は甚だ大きく、とりわけ1973年の学生革命前後の文学界の思潮に与えた影響は計り知れない。学生革命前後に台頭してくるいわゆる新世代(ルン・マイ)の作家・評論家たちの多くは、セーニーらの打ち出した作家の責務という立場を強烈に踏襲していく。例えば、ルン・マイの代表的な評論家たるウィッタヤーコーン・チェーンクーンは、「社会に対する責務を持たない作家」は、「読者に毒を盛る」のに「自己の商品に責任を取らぬ儲け家商人と同等である」と表現しているし、また文学者ではないが他の諸々の文化的活動で有名なスラック・シワラックは、「作家の社会に対する責任は、父親の家族に対する責任にも比される。作家は作品人物の生を繰るのにプロム(ブラフマー神)と同じくらい価値を有する」と述べている。その他1957年に『人生のための芸術 人民のための芸術』を残したチット・プミサックを忘れてはなるまい。 サティエン・チャンティマートーンは、こうしたタイ文学史上におけるセーニーの文学史的役割を次の如く表している。「旧社会の不正義、非民主的非科学的な考えと闘った、社会の弱き者の人生のための芸術の開拓者。」或は、「普通の人に視点の基礎を置く歴史の場を拓いた前衛であり、1973年学生革命前後の思想・社会に多大な影響をもたらした。」 このようにタイ現代文学史上、とりわけ〈人生の為の芸術〉を核とする流れにおいて、セーニーは、創作及び評論の双方にわたって中心になる役割を担ったのである。  【1.2】『妖魔(ピーサート)』の文学的特徴 本作の初出は『サヤームサマイ』สยามสมัย 誌(1953-4)であり、その後受け入れる出版社がすぐになく、初刊はクヴィエントーン เกวียนทอง 版(1957)である。物語は、農村出身の青年弁護士サーイ・シーマーと上流階級の娘ラッチャニーとの出逢いから始まり、ラッチャニーの両親をはじめとする旧社会の人々と彼ら新世代との価値観の対立などを軸に展開し、最後に彼ら二人がそれぞれに、農村に入り自らの未来を社会的に虐げられた人々の役に立てようと暁の空の下決意するところで幕を閉じる。 この作品は発表当初は殆んど反響は見られなかったが、後の民主主義運動の高揚とともに復刊され、絶大な支持を集め、タイ現代文学史上の最高峰の一つとしての定評を得るに至った。 先に述べた新世代(ルン・マイ)の代表的評論家たるウィッタヤコーン・チェーンクーンは復刊されたミットナラー版(1971年)の序文の中で次のようにこの作品を評している。  タイ国のような王子王女の恋愛物語(チャクチャク・ウォンウォン)やメロドラマ風のものしか生み出してこなかった小国にとって実に偉大な小説である。  またついで先鋭的文芸評論家たるサティエン・チャンティマートーンは、「真摯に仕事に取り組む新世代(ルン・マイ)のバイブルとなった」と述べ、トリーシン・ブンカチョーンは〈人生の為の文学〉を画期的に発展させ、内容と技法の両面に亘ってほぼ完成へと至らしたことを指摘し、強調している。 […]