前ジャカルタ知事のバスキ・チャハヤ・プルナマ(Basuki Tjahaja Purnama、あるいはアホック/‘Ahok’)に対するイスラム擁護運動の成功は、イスラム主義がポスト・レフォルマシのインドネシアで強まっている明白な証拠だ。だが残念な事に、近年のインドネシアのイスラム教研究ではこの事が適切に説明されていない。インドネシアでイスラム主義の高まりが20年間の民主主義への移行をよそに生じた事から察せられるのは、多くの学者や観測筋がポスト・レフォルマシのインドネシアにおける保守派・強硬派のイスラム主義運動の影響について意表を突かれる形となった事だ。本論ではこの原因がシビル・イスラム(Civil Islam/民間のイスラム教)論の普及にあると思われる事を論じる。これはロバート・ヘフナー(Robert Hefner)がその代表的文献で1998年にインドネシアでレフォルマシが始まって間もなく刊行されたCivil Islam (2000)に発表したものである。この論文は間もなくポスト・レフォルマシ時代のインドネシアにおけるイスラム教分析の主要な枠組みとして、学者からも政治家からも採用される事になった。 ヘフナーはシビル・イスラムを定義して「ムスリムの思想家や活動家、団体によってインドネシアやムスリムが多数派であるその他の国々で推進される様々な公共倫理で、イスラム教の価値観や実践を民主主義のそれに重ね合わせようとするもの」(Hefner 2017, p. 7)とした。これはインドネシア人のイスラム教有識者、ヌルホリス・マジッド(Nurcholish Madjid)やダワム・ラハルジョ(Dawam Rahardjo)、アブドゥルラフマン・ワヒド(Abdurrahman Wahid)らによって明確に示された。これらの思想家たちは伝統的イスラム教神学と西洋社会理論とを巧みに結び合わせて新秩序時代のインドネシア社会の解説を提示した。これらの解説はインドネシアのイスラム教を改革し、これを保守的な先人たちによって示されたイスラム国家インドネシアの概念から遠ざけ、伝統的イスラム思想を更新し、これが民主主義や多元主義、寛容などの現代的思想と両立可能である事を示そうとしたものであった。 ところがリフォルマシから20年後、シビル・イスラム論の提唱者が予見していた、インドネシアのイスラム教が概ね穏健で自由民主主義の価値観である人権や多元主義、宗教的寛容の尊重などと両立可能だとする見通しが一層心許ないものになってきた。研究者たちの指摘通り、インドネシアのイスラム教はより保守的なものとなり(van Bruinessen 2013)、主流派イスラムの信念に相容れぬ宗教的表現に対して増々不寛容となっている。(Menchik 2016)。さらに厄介な事に、そのような発言はイスラム防衛戦線(Islamic Defenders Front /FPI)やヒズブット・タフリール・インドネシア(Hizb-ut Tahrir Indonesia /HTI)などの新興イスラム団体だけでなく、NU(ナフダトゥル・ウラマー)やムハマディヤ(Muhammadiyah)内の多数の聖職者や活動家たちによっても表明されている。ここで詳しく述べておくべき事は、本論で「政治行動に身を投じる事で、自らがイスラム教の実践すべき義務と見なすものを実行するムスリム(Piscatori 2000, p. 2)と定義されたイスラム主義者が、過去20年の間に増々インドネシアの社会と政治を席巻してきた事だ。 著者はシビル・イスラム論の提唱者がポスト・レフォルマシのインドネシアにおけるイスラム教に関して、4つの事態を予期し損ねた事を主張する。第一に、シビル・イスラム論の提唱者はエリート・ムスリムのインドネシア人有識者で、西洋の社会理論にも精通していた。いかにイスラム教が自由主義の価値観である多元主義や寛容性に統合可能かという彼らの解釈は、西洋の学者や観測筋には理解しやすいものである。ヘフナー以外にも多くの学者たちがネオ・モダニスト的、あるいは穏健的なインドネシアのイスラム教の美徳をスハルト時代後期やリフォルマシ時代初期に称賛していた(例、Barton and Fealy 1996, Liddle 1996)。 だが、そのような解釈が主流派NUやムハマディヤの聖職者や活動家で、これらの組織の指導的地位を草の根レベルで占める者たちの間で共有される事は滅多に無い。大多数のイスラム教聖職者は今なお伝統的なイスラム学校(pesantren salaf/プサントレン・サラフ)を卒業しており、これらの学校のカリキュラムではイスラム教のより直解的な解釈が助長されている。さらにこれらの卒業生たちには、地元社会の中でイスラム教の聖職者(kyai […]